2009年4月号 目次
ねんてんさんと、うふふふふ
三月の甘納豆のうふふふふ
この句をご存知の方は、どれくらいいるのでしょう。私がこの句に出会ったのは、たぶん、中学2年生の1学期。国語の教科書に、俳人・坪内稔典さんの文章と俳句が載っていました。稔典さんの代表作である甘納豆の句は、1月から12月まであり「甘納豆 十二句」といいます。俳句と短歌の区別がついていたかどうかもあやしい頃です、'古典'だと思い込んでいた俳句で、しかも教科書から「うふふふふ」って......!!
3月以外の句も、何の難しさもありません(もちろん、難しく解釈しようとすれば色々あるのでしょうけれど)。ポップかつキャッチーで、記憶にある「その月のある日」にぴたりとくる。ちなみに、私が最も好きなのは12月。
十二月どうするどうする甘納豆
数日後、スーパーで母に甘納豆をねだったのはいうまでもありません(笑)。
授業が次の単元に進んでも、私の稔典熱は冷めることをつゆほども知らず、ついには市立図書館で『現代俳句文庫―1 坪内稔典句集』を見つけ、迷わず手に取ったのです。前出の「甘納豆 十二句」はもちろん全て載っています。
その句集で、私はあれから10年以上たった今まで、一字一句忘れることのできない句(覚えていようなんて思わなくても、忘れられない)に遭遇しました。
いいですか、いきますよ?
49ページ、「この十年の春嵐 二十句」より......
陰毛も春もヤマキの花かつお
刹那、思い浮かんだ映像は、くるくると地面で渦巻く桜吹雪と、手のひらの中でふるえる花かつお、そして、お風呂の中でゆらゆらする、体中で一番不思議な毛・陰毛――!
くるくる、ふわふわ、たった17字が巻き起こす春風が、全身をさらっていく。
たった10年前じゃないのと、笑うなかれ! 当時住んでいたアパートの住所だって忘れてしまったけれど、稔典さんの「陰毛も春もヤマキの花かつお」は忘れられない。舞台でセリフがとんだって、この句は出てきたに違いない。世間が陰毛をワカメに例えようと、私は一生「いいや、ヤマキの花かつお」と、心の中でとなえるでしょう。ちなみに、この映像に合わせて私の脳内で流れたBGMは、ショパンの「子犬のワルツ」でした。
考えるな、感じろ! とはよく言ったもの。心も体もノーガードの自然体で、17字の世界にとびこむ......この楽しさを問答無用に教えてくれたのが、稔典さんの俳句でした。それ以降、稔典さん(の著書)に導かれ、漱石や子規の俳句にも、どぼーんと飛び込みました。自然体で、ぽろっと口からこぼれて生まれたような俳句の世界。その自然体の17字を生み出すための、さまざまなバックステージを読み解くのも興味深いだろうとは思うのですが、私はもっぱら「どぼーん!」派です。
それでは最後に、今月にぴったりの句を紹介します。河馬のシリーズも、とってもいいですよ。
桜散るあなたも河馬になりなさい
皆様、よいお花見を。
学校と伝統
この3月末までのほぼ1年間、私は中学校の常勤講師をしていた。学校の仕事は、今までは非常勤講師かごく短期間の常勤講師(代用教員)しか経験がないので、こんなにどっぷりと学校の空気に浸ったのは、自分が高校を卒業して以来かも知れない。
今回学校に入ってみて、学校は「伝統」を生み出す装置なのだなと、あらためて感じる。私はジャワ舞踊の継承や発展変容、創造などをテーマに研究もしている。伝統とは、一般的には、遠い昔から受け継がれてきたものだと思われているけれど、ホブズボウム編の「創られた伝統」では、伝統の多くは近代になってから人工的に創出されたものが多いと述べられている。簡単に言えば、その伝統を創出した主体が近代国家だとホブズボウムらは言っているのだが、学校は近代になってから作り出された制度なのだ。
学校行事では、農耕の年中行事よろしく、年々歳々同じことが繰り返される。入学式、遠足、中間テスト、球技大会、期末テスト、夏休み、体育大会、社会見学、中間テスト、合唱コンクール、期末テスト、冬休み、百人一首大会、期末テスト、入試、卒業式、春休み...と毎月のように行事が襲ってきて、その行事に振り回され、こなしている間に1年が巡ってしまう。
もちろん年々歳々同じことを繰り返すのは、たとえば私が最初に就職した流通業界でも同じだ。そこでは、お中元、夏のバーゲン、お歳暮、...と、やはりいろんなイベントが襲ってくる。けれど学校行事が農耕行事や流通業の年中行事と異なるのは、その行事の担い手が(教員は別として)短いサイクルで入れ替わること、そして目的(売上アップなど)のために行事を行っているのではなくて、行事を繰り返すこと自体に意義を見出していることだ。中学校では、1年生は新米として初めてその学校の行事を体験し、2年目になると新1年生に見本を見せる側になり、3年目には、もう思い出にすべく最後の行事を頑張る。3年で生徒が総入れ替えするだけに、前年度のやり方を引き継がせようという意識も強く働くから、「○○校の伝統」という言葉を教員たちは何度も口にする。
このことは、自分が中高生の時にはあまり気づかなかった。「伝統」をやらせる側になって気づいたことだ。インドネシアに長くいたのも「伝統」という語に過敏に反応する理由かもしれない。インドネシアという国は第2次大戦後に独立した新しい国で、国民文化の創生ということが独立後の大きなテーマだった。だから伝統舞踊と呼ばれるものが、意外に新しい歴史しか持っていないことや、伝統という語が示すスパンが日本人よりもはるかに短いことを知って驚くことがしばしばあった。日本の義務教育の現場で使われている「伝統」という語の響きや意味は、インドネシアで聞く「伝統」という語のそれに似ているという気がする。
卒業写真
イラク戦争から6年が経った。僕にとってはまるで昨日のことのように思えるのだが、当時、小学校に入学したこどもたちは、卒業式を迎える年齢になった。6年前戦争があったことなど、忘れてしまっている人も多いのもうなずける。僕はというと、未だにイラクにかかわっている。ふと鏡を見てみると白髪が増えている。浦島太郎の話を思い出す。子どものころは太郎が急におじいさんになるという話の展開が理解できなかった。いじめられている亀を助けたのに、最後はなんで太郎が泣かなければいけないんだと。親や、先生にはもっともらしい解説をしてもらったのだが、しっくりこないままこの年になると、おお!と。最近急に白髪になった人は、玉手箱を開けたのだなと。
僕はカメラを持って、シリアから国境を越えてイラクに入ることにした。いい加減、このような人生からは卒業したいと思う。
イラク戦争が少し落ち着いた2003年の夏、僕は、バグダッドのバラディアートという場所にある学校を訪ねた。ここは、1948年イスラエル建国時に、ハイファから難民として逃げてきたパレスチナ人が暮らしていた。イラクは、パレスチナ難民をゲストとして向かえ丁重に扱っていたけれど、サッダーム政権が崩壊した2003年4月9日以降は、家を提供していた大家に追い出されたり、新しく出来つつあったイラク政府からも冷たくあしらわれていた。
「ブッシュは、パレスチナ人が嫌いなんだ」と老年のパレスチナ難民がつぶやいていたのを思い出す。家を整理していると、そのとき、学校で子どもたちが描いてくれた絵が出てきた。将来の夢などが描いてある。そして、「美しい国パレスチナに帰りたい」と。あの子どもたちに会いたくなった。当時のビデオを探し出してみた。学校の校庭にテントが張られていて、家を追いやられた人たちが住んでいる。でも子どもたちは元気に振る舞い、歌って踊っていた。
宗派対立のあおりを受けて、パレスチナ人はイラクから出て行けみたいな風潮が強くなってきた。そして、2006年、バグダッドの宗派間の対立がさらに激しくなると、パレスチナ人は、ヨルダンやシリアを目指した。しかし、国境は閉ざされ、砂漠で一夜を明かすことになる。3年が経ち、いつしか、そこは、難民キャンプになっていた。もしかしたら、6年前にあった小学生たちが、いるかもしれない。
今回は、無理をお願いして、難民キャンプに泊まることにした。3月16日、この日は、1988年、化学兵器がイラク北部のハラブジャというところで使用された日。2003年、ブッシュ大統領は、高々と宣言した。「サダムが15年前、ハラブジャで毒ガス兵器を使い数千人をころした。彼の犯罪が世界に広がるのを許すわけには行かない」として、サダムに最後通達を与えた日。
僕は、複雑な思いで、シリアの国境で、イラク警察が迎えに来てくれるのを待っていた。パトカーは、ピックアップとよばれ、後ろに荷台がついている。カラシュニコフを持った警官が銃を構えてわれわれを警護してくれる。警察はちょっとガラが悪く、サイレンを鳴らし、「どけ、どけ、馬鹿ヤロー、この犬野郎。」と拡声器を使って、イラクへ向かうトラックの車列を通り過ぎる。
イラクの入国は、アメリカ軍の海兵隊が、網膜の情報を記録して、手の甲に、マジックでアルファベットを記していく。今日はHだった。ここのキャンプには1600人ほどの住民がいる。雑貨屋や、お菓子屋,散髪屋など一通りそろっている。テントを回って、パレスチナ人の迫害の話を聞く。誘拐されて、ドリルで足に穴を開けられた。身体の数箇所は切り刻まれた跡が残る。目の前で別の人質がのどをかっきられて殺された。スンナ派の聖職者だった。
キャンプの夜はとても厳しい。冷え込みと犬のとおぼえ。夜は、まったく電気がない。僕は外に出て、ちょっとしたお菓子を買いに行こうとしたが、9時には、真っ暗になっていて、犬が狂ったようにほえまくる。そんなキャンプにも朝がやってくる。バグダッドに向かう高速道路を横切ると、難民たちが通う学校がある。軽トラックの荷台に詰め込まれた子どもたちが運ばれてくる。学校は、もともとあった学校が廃校になっていたのだが、難民が詰め掛けたので、再び学校として使われるようになったのだ。
6年前に出会った女の子がいた。今は、怖がって学校にはこないという。そこで、再びキャンプに戻って、彼女が6年前に書いた絵を見せてテントを探し当てた。メルバットという少女は、15歳になっていた。バグダッドで、マハディ軍というシーア派武装勢力の若者に結婚を迫られた。ばかげた話だ。シーア派の宗教指導者たちが、宗派間の異なる結婚を禁止したというのに。断るとしつこく追い回された。銃で威嚇された。彼女は、3冊のノートを見せてくれた。ぎっしりと詩が書かれている。悲しい鳥というのは彼女のペンネームだという。
「わたしが残念に思うこと」 悲しい鳥 (訳:加藤丈典)
わたしが残念に思うこと それはこのような時代
わたしが残念に思うこと それはこのような呪われた生活
わたしに残念に思うこと それは希望とは裏腹に進んで行く人生
わたしが残念に思うこと それはこれまでに失ったたくさんのもの
わたしが残念に思うこと それはこれまでに見つけられなかったたくさんのもの
わたしが残念に思うこと それは私が生きることなく消えていってしまった人生
恥じらいながら、「悲しい鳥」は詩を読んでくれた。
「砂漠」「風」「砂嵐」「テント」「太陽」、、、
何もない難民キャンプのなかで、言葉だけが研ぎ澄まされていく。
卒業記念に「詩集をつくりたいね」僕は、カメラをかまえると卒業写真のシャッターを切った。アンマンに戻り、6年前、バグダッドで写した写真をコンピューターから拾い出してみた。みんなでとった集合写真。なんとなくメルバットらしい少女が写っていた。僕は、彼女の顔を赤鉛筆で丸く囲った。こんな6年後を彼女は予測していたのだろうか。
アオリスト―― 翠の石室54
足の冷たい、宇宙のひとが立つ。
泛いているのは鳥のすがた。
時間(とき)は終わる、
朱鷺(とき)も終える。
萍(うきくさ)を、青墓のひとがうたう。
ここにいられるうちに、ここに、
ただよっている。 はたしてそうか、
萍の種(しゅ)を救うために。 はたして、
水田はいつまであるか
(『種の起源』150年。時間にしろ、150年ぐらいかもしれないのだから。「池の萍となりねかし」と、1000年つづくうたを見逃すべきではない〈西郷信綱氏の『梁塵秘抄』に見える〉。古代ギリシャ語や諸言語に、アオリストという時制がある。アオリストは限定できないときをあらわすから、普通なら「過去」ということになるのが、「限定できない」という限りで、現在でもあれば、未来でもよいので、原始日本語はアオリストかもしれないと『言語学大辞典』にある。一千年まえに飛び立つ鳥が、いま羽ばたきをしていたってよかろうと思うと、われわれはアオリストにいるのかもしれない。)
オトメンと指を差されて(10)
そうそう、草食系男子に慕われる件です。
おさらいをしておくと、草食系男子というのは「表裏がなく内省的で繊細、争いや活動に消極的で、和を尊び、自分の趣味や世界を大事にする」男の子のことなんですが、あらためて振り返ってみると、私はそういう年下の男の子に慕われることが多いような気がします。定義的にも実際にもそういう子ってあまり人と群れないはずなんですよね。
確かに普段づきあいも普通に少ないような気もするんですが、それなのにそのちょっと出てきた稀な機会なんかでは、私についてきたりなんかして。ああ、これは慕われるというよりも「なつかれる」に近いのかもしれません。
考えてみるに、オトメンと草食系男子はちょっと趣味みたいなのが似ていることがあって。そういう点で「自分のことをわかってくれる」人と草食系男子から思われる上に、オトメンはそういう消極的な人間が相手だと(義務感もあって)かなりリードしたり引っ張ったりするので、そのあたりが原因なんじゃないかと。
つまりオトメンは草食系男子にとって兄貴的立場に当たるのだと。そのへんは他のオトメン連中を見ていても、たいていそんな感じだと思います。
そもそも草食系男子の人見知り率はとんでもなく高いんですよね。繊細だから、なかなか人に話しかけられないというか、関係を築けないというか。その代わりオトメンは社会的関係については割と普通というか、今までの男の子っぽいというか。
同年代か年下の人間だと初対面から積極的に話していって、一度会った人はもう友だちで、それからいくら間が空いても対応にさほど変化がないし。毎日会ってようが一年に一度会おうが違いがないとか思ってる人が多いです。
相手が年上だとかなり空気を読んでいこうとするかも。礼儀を重んじるというか、あまり出しゃばらないというか。それでいて、信頼されている相手だとか、認められている場だとかだと、かなり前へ出たり、はっちゃけたりする。基本的に相手の話をちゃんと聞くので、年上にも気に入られることが多いのかもしれません。
......と考えたところで、ふと気づいたのですが。私の知っているオトメン連中(もちろん私も含めて)って、みんな少年時代に武道だったりスポーツだったりをやっているな、と。空手だったり剣道だったりアメフトだったり。どれも礼儀とか上下関係に厳しそうなやつですね。
そんでもって草食系男子はだいたい文系で、部活動も文化系。それってどっちかというと趣味の延長みたいなものですよね。(というと語弊があるのかもしれませんが。)
そうするとあれなんでしょうか、つまりはオトメンも草食系男子も元々の根っこはあんまり変わらなくて、今風の、当世風の男の子なんだけれども、成長過程での経験の差がその後のあれに関係しているんでしょうか。
武道とかスポーツとかをやっていると、公共の場とか、上下関係とか、自分の役割とか、はたまた「試合」みたいなものを強く意識するようになりますよね。(そうだそうだ、よくよく考えれば目上の人との関係で「挨拶は自分から、話は相手から切り出されるのを待ち、よく聞く(そんでもってあまり質問しない)」って武道の師匠弟子関係そのものじゃないですか。)
思春期に自分の世界にどっぷりとつかるか、それとも武道やスポーツの世界に出て行ってるのか、そういう違いなんでしょうね、きっと。なるほど。いろいろと腑に落ちました。今では昔みたいに少年はみんなスポーツやる、みたいな感じじゃないですものね。中学高校でも文化系の部活は増えてきてますし、帰宅部もOKですからね。
とりあえず個人の性格的差異は別にして、今の男の子はファッションにも興味があるし、甘い物も好きだけれども、そういう子は何の部活をやってたかで、草食系男子になるかオトメンになるか変わってくる、というのが私の結論ということにしておきます。
あれ、だんだん男づきあいの話から離れちゃってますね。そうでした、他にもいますよ、いわゆる「昆虫系男子」と言われる人とか、「理系男子」と呼ばれる人が。
昆虫系男子というのは、草食系男子が「恋に消極的」と言われるところへの比較として出てきた言葉で、「恋には積極的」なのに、いろいろな理由があって「無視(むし)」ばっかりされるから「昆虫系」なんだそうです。うん、いますいます、そういうやつ。
そういう男とオトメンの関係はどうかと言うと、昆虫系男子から見て割とオトメンはおしゃれなので、こいつなら恋がわかるんじゃないかと思われて相談されるんですよね。草食系の人たちは消極的だけど、それにひきかえオトメンは社交的だし、お前だったらモテるんだろうからその秘訣を教えてくれ、みたいな。
でも、オトメンは恋愛の話は大好きなんだけど、そもそもが武道の人・スポーツの人だから、どこか無骨なところがあって恋愛にはかえって朴念仁。だから相談したところでアドバイスも的はずれで何ら参考になりゃしないっていう、まあ、そういうどうしようもないところに行きがち。てゆうかそもそも恋愛でモテることと、うまく行くことは別物だろうということを気づいた方がいいんだと思います。
理系男子は......ちょっと草食系男子に近いところがあります。いや、ほとんど同じか。でも、普通の草食系男子は、その趣味がいわゆる「文化」的なところへ行きがちで、音楽とかアジアンカルチャーとか、アートとかそういうのです。だから草食系男子ファッション、なんていうものがあるとしたら、私は割と容易に想像がつきます。ああ、だいたいああいうのね、という。
けれども理系男子の場合は、確かに草食系と同じで自分の世界を大事にするんですが、そういう「物」としてわかりやすいカルチャーに趣味が行くんじゃなくて、「数学」とか「物理」とか「生物」とか、そういう方向に飛んでいくんですよね。だから草食系とは違って身だしなみに気を遣わなかったりとかするんですが、これってたぶんどういう対象に興味があるかの違いになるんでしょうね。
いや、わかりやすい「レッテル」の話になってるんですが、まだもうちょっと続きます。いや、もしかすると続かないかもしれません(苦笑)。
アホウドリ
アホウドリを首にまいて
北へかえろう
吸いあげて肥大する
メトロポリス
の罪科を首にまきつけ
苦い土の新世界へかえろう
いや
地をはうように生きてきたので
おもえば
空を飛んだことは
はて?
大学の塔にのぼったことは
はて?
地をはうのだから
そのまま海底をゆくのだな
アホウドリのように飛べはしない
島にもなかなか
たどりつけない
いや、たどりつくもつかないも
人はそのまま
ひとつの島
この世に浮かんで沈む島
わたす舟
わたる舟
に渡し守、カロンはのっているかい
幾重にめぐる水流と
赤い実のなる泥炭の地をぬけ
疾駆する蝦夷鹿の──ピンネシリ
との逢瀬はやはり
しょっぱい川の
波にゆられて
しもた屋之噺(88)
今朝まで長雨が降り続き、緩んだ寒さが少し足を引きずったようにも見えます。現在、朝3時を回ったところ。小雨のなか、鳥たちが少しずつさえずりはじめました。イタリア語にも「さえずる」という言葉はありますが、より柔らかく、「鳥が歌う」と形容する方が多いかもしれません。何と美しい抑揚だろうと、思わず手を止めて聴き入ってしまいます。東京から届いたブソッティの録音を手にリコルディに出掛け、カスティリオーニの「冬・ふ・ゆ」と、バッハ/ドナトーニの「フーガの技法」の大きなスコア2冊を受取ってきました。
実は数ヶ月前から、前にカスティリオーニを演奏した際にスコアとパート譜が違っていて驚いた、どういうことか調べて欲しい、と長らく現場監督を務めるマルコに相談してありました。今では職人気質の出版社の雰囲気はすっかり影を潜めてしまいましたが、14年前に初めて知り合った頃、マルコはリコルディの抱える、何十人という写譜職人を一手にまとめていて、信頼される棟梁という印象を受けました。音楽学畑出身なので、「森は若々しく生命に満ちている」など、読み難い上、演奏も容易でないノーノ作品の校訂版を、リシャールと協力して実現させた立役者でもあります。
当時の現場を知る唯一の人物だからと「冬・ふ・ゆ」の話をしたわけですが、流石の彼ですら、そんな話は聞いたことがないねと首をひねりました。卓上のコンピュータからカスティリオーニのファイルを開くと、案の定、初稿のスコアのみ保存されていました。良いことを教えてもらった、きっとどこかに眠っている筈だから、探し出して連絡する、と約束してから数ヶ月経って、見つかった! と興奮ぎみにメールを貰ったのはつい最近のことです。
その昔リコルディは、販売譜のセクションとオーケストラ・パート譜などレンタル譜のセクションが、全く別に機能していました。それぞれ、出版された表紙の色も違えば、紙もインクも違いました。レンタル譜セクションは、青焼きの、雰囲気はあるけれども、読みにくい印刷譜だったのをよく覚えています。
経緯は不明ですが、その昔カスティリオーニは写譜職人がつめていたレンタル譜のセクションのオフィスに、直接自筆の改訂版を届けて、パート譜を用意させたようです。そうして現在に至るまで、レンタル譜セクションに、改訂版のパート譜が残って現在に至るのですが、自筆の改訂譜が作られたことすら、販売譜セクションには報告されてなかったようです。そのため、改訂版スコアは何十年間も行方知れずで、お節介な日本人が注文をつけなければ、何十年も眠ったままだったかも知れません。
つい最近の作品ですらこの按配ですから、古典作品など言わずもがな。原典版と一口に言っても、作曲者が書き直せば、どれも原典に違いないのですし、当時は今のように簡単にコピーすら出来なかったのですから正しさを問うのも見当外れかも知れません。音楽はかくも確実であって、不確実です。作曲家とて、いつも確固たるものがあって書いているわけでもなく、今日和食が食べたいと思っても、明日は中華を注文しているかも知れないのですし。
そうして受取った、真新しい楽譜の表紙には1978年改訂版と明記してあり、驚くべきことに作曲者は冒頭から曲尾まで、実にていねいに書き直していました。それだけ思い入れと自信があった証拠でしょう。可愛らしい中世の挿絵が挟み込まれていたのもご愛嬌です。見つけてあげてよかった、と思わず独りごちました。これを機に、今後流通するのは全て「改訂版」でしょうから、遠い将来、演奏不可能だった初版を、どこかの物好きが懐かしむかも知れません。
病気で倒れたドナトーニのため新作を補完してくれ、と電話してきたのもマルコでした。思えば来年でドナトーニ没後10年になります。当時ドナトーニは末期の糖尿病で発作を繰り返し、しまいに手も思うように使えなくなって、口述筆記を試したり、シベリウスのソフトを習ったり、書きやすいよう巨大な五線紙を用意させたり、試行錯誤を繰り返していました。そして、試みが失敗するごとに、ドナトーニはいよいよ欝が酷くなり、子供のように周りを困らせていました。補完した最後の2作も、契約履行のため浄書譜の全頁に作者が認めのサインをする筈でしたが、それも出来ず代行しました。あの時も傍らにマルコがいて、じっとサインの終わるのを待っていました。
当時ドナトーニが自作品とともに、気にかけていた仕事があって、それが、バッハの「フーガの技法」の大オーケストラのための篇作でした。バッハの作品も未完ですが、現在残っている作品のうち、未完のフーガを含む最後の3作を、ドナトーニも未完のままやり残しました。オリジナルの「フーガの技法」に、絡みつくような対位法の細い糸が張り巡らされ、2声のカノンは、2声のクラスターの動きに拡大されたりしています。当時ドナトーニは、「フーガの技法」だけは完成させなければ。バッハは実に偉大で、読むたびに感銘をうける。真の天才だ、と繰り返していました。
特にイタリアの作家にとって、大バッハが特別な存在なのは疑いのないところです。音楽学校の和声や対位法の教材は、フーガに至るまですべてバッハであって、コンセルヴァトーリオで10年近く続けなければいけない作曲の授業は、バッハを分析することから始まり、バッハをスタイルでフーガを書くことで完結させられるのですから。
長年各地で作曲の教師をしていたドナトーニにとって、バッハとは子供の頃から刷り込まれてきた、皮膚感覚に近いものだったに違いありません。ここでもバッハの対位法は、まるでドナトーニのモティーフのように、自在に、しかし厳格に、増幅され、襞状に重ねあわされ、ふるえ、絵画に翳を挿すように、遠近感をだしているようにも見えます。
ドナトーニが長く住んでいた、ランブラーテの、薄暗く、整頓の行き届いた縦長の小さな仕事部屋を思い出します。その窓際に、古臭い木製の仕事机が置いてあり、いつも几帳面に、五線紙から鉛筆、数種類の定規が、一寸違わず置かれていました。仕事机の右隅に、いつでも仕事が続けられるよう置かれていた、フーガの技法の原稿が今も目に浮かびます。
ボローニャのアラッラから、次回は是非、市立劇場オケでドナトーニの「フーガの技法」をやりたい、と電話をもらったのは2週間前でした。この「フーガの技法」は、実は全曲を通して演奏されたことがありません。92年にミラノで前半7曲、当時の出来上がったところまで演奏された後は、3年ほど前にトリノのRAIで後半7曲が演奏されたのみだそうです。ですから、どういうものか知るために楽譜を取寄せたのですけれども、大オーケストラのための作品ながら、各フーガがオーケストラのセクションの演奏で、一箇所たりとも総奏がないのです。最初のフーガは金管のみ、次のフーガは木管のみ、続くフーガは弦楽器による演奏で、打楽器、ハープ、チェンバロのフーガへ続きます。このコンビネーションがほぼ1時間、延々と続くのみです。
初日をあけたばかりの「どろぼうかささぎ」も、賃金交渉ストライキのため、5公演レプリカをキャンセルしたほど、色々大変な時期のボローニャ市立劇場です。1時間中、一曲も総奏がないとなると、今後は全オーケストラにソリスト追加料金を支払わなければならず、予算的に全曲演奏は難しそうです。
せめて半分は「フーガの技法」を演奏したいのだけれど、いいかなあ。残り半分は、ドナトーニがマデルナにささげた、「Duo per Bruno」を入れたいと思うんだ。あの、真ん中でフランコが発作を起こし、前半と後半が別の曲になってしまった名曲さ。ちょうどいいじゃないか。「フーガの技法」は、フランコの最も客観的な音の世界をあらわすとすれば、「Duo per Bruno」は、フランコの強烈な表現力、恐ろしいほどの感情表現を具現する代名詞だからね。彼の二面性をよく顕したプログラムになると思うのさ。長年ドナトーニの弟子だったアラッラにとって、没後10年という機会は、途轍もなく意味深いものに違いありません。電話の向こうの声はとても情熱的で、感動していました。
音楽は、鳴ったその瞬間に消えてしまい、目にも見えぬ儚いものですが、触れたものの体内に残ってゆく、何かがあります。鳴った瞬間に理解されなかった、知覚されなかった何かが、時を経て見えてくることもあって、そんなとき、現在まで連綿と、そして有機的につながってきた、人の鎖の尊さに、改めて驚かされたりするのです。
メキシコ便り(19)アウグスティン・ララ
ラテンアメリカはリズムの宝庫だといわれていますが、メキシコはそんななかでも音楽の多彩さにおいては群を抜いています。まずはマリアッチ(これは本来はメキシコ太平洋岸にあるハリスコ州で生まれたローカル音楽の楽団編成のことで、音楽ジャンルのことではないのですが、あのにぎやかな大衆音楽ランチェーラを多く演奏することで、マリアッチとランチェーラは同じだと思っている人は案外多いのです。厳密にいうと、このようにちょっと違うのですが、実際はメキシコ音楽というとマリアッチと定着してしまっています)。このマリアッチで演奏する軽快で伝統的なメキシコの演歌ランチェーラ、ダンス音楽のサルサ、クンビア、ダンソン、革命の中から生まれ歌い継がれているコリード、メキシコ北部で生まれ、国境地帯での麻薬密売や不法越境問題を多くとりあげるノルーテーニョ、低音部をブラスバンドの移動楽器スーザーフォンが担当するお祭り音楽のバンダ、ノルテーニョから発生したポップス音楽グルペーラ、ロマンチックな大衆音楽ボレロ、このほか各地のインディヘナ(先住民)の伝統音楽など、数えきれないほどの音楽がメキシコにはあふれています。
そんななかでもボレロは1948年に結成された男性3人組のトリオ・ロス・パンチョスが、センチメンタルなボレロを洗練されたコーラスで歌い、トリオ黄金時代を築きました。そしてボレロは日本をはじめ、世界に広がりました。彼らは何度も来日し、いまではラテンのスタンダードになっている「ベサメ・ムーチョ」や「ソラメンテ・ウナ・ベス」「キエンセラ」などを大流行させました。
そんなボレロは1886年キューバのサンチャゴ・デ・クーバで生まれました。ここで仕立て屋を営みながら歌手としても活躍していたホセ・サンチェスがスペイン舞踊のボレロをもとに作曲し、「トゥリステッサ(悲しみ)」と題して発表したのがアメリカ最初のボレロです。そしてそれがメキシコのユカタン半島に伝わり、メキシコ・シティーにやってきました。ここでボレロ・メヒカーナとしてさまざまに変化しながら定着し、現在に至っています。そしてこのボレロの作曲家でもっとも有名なのがメキシコ大衆音楽の先駆者アウグスティン・ララです。ララは1900年、メキシコ湾岸の港町ベラクルスから南に約90キロのトラコタルパンで生まれました。ここに彼の生家と博物館があるというので行ってみることにしました。
まずは、メキシコ・シティーからバスで5時間のベラクルスまで行き、バスを乗り換えて2時間。トラコタルパンに着きました。ここはババロア川の中洲にある小さな町で、淡い色調のピンクや緑、黄色、空色のコロニアル建築がかわいらしく並んでいます。そしてそこでは、さわやかな川風が吹き抜ける静かなたたずまいの中を、ゆったりとした時が流れていました。ララ博物館は町の中心部の小さな入り口のある建物の2階にありました。
ララは小さいころからピアノを習い、10代の前半には娼館でピアノを弾いたりしながら多くの女性と浮名を流しました。若いころ、そのなかのひとりの女性に割れたびんで顔を殴られ大怪我をしましたが、それでも懲りずに10回もの結婚、離婚を繰り返した恋多き男性でした。博物館にはその華麗な女性遍歴を示す多くの写真が、壁一面に飾られていました。彼の使っていたという家具やピアノも置いてあり、博物館の人に「弾いてもいいですよ」といわれ、一瞬びっくりしましたが、ちょっとだけ触らせてもらうことにしました。鍵盤はすっかり色が変わり古びていましたが、音はしっかり出ました。幼少のララが懸命にこのピアノに向かって練習していたんだなあ、などと思いめぐらせながら「ベサメ・ムーチョ」の一節を弾かせてもらいました。
彼は作詞も作曲も、また自ら歌いもし、「ソラメンテ・ウナ・ベス」「ノーチェ・デ・ロンダ」など、73歳で亡くなるまで、生涯500曲あまりの作品を残しましたが、その中で私が最も好きな曲が「グラナダ」です。今ではスペインのホセ・カレーラスなどクラシックの歌手もレパートリーにしている世界的に有名な彼の代表作です。この曲はスペイン南部アンダルシア地方の都市グラナダの街の魅力と、混血の女性の美しさを躍動感あふれるメロディーで表現したものですが、彼はそれまでスペインには行ったことがなく、イマジネーションだけでこの曲を作ったということです。
ララの作品はそのほとんどが酒と女性をテーマにしたロマンチックな曲が多いのですが、この「グラナダ」だけは少しおもむきが違っています。グラナダは13世紀から15世紀までアラブのグラナダ王国として栄えたにもかかわらず、スペインのレコンキスタ(失地回復運動)で滅ぼされました。スペイン人はアラブのメスキータ(寺院)を破壊し、教会をその上に造りました。そして一方、メキシコにおいてはスペイン人のコンキスタドール(征服者)がアステカの神殿をことごとく破壊し、その上に多くの教会を建てました。
私はこの「グラナダ」にはララのスペインに対する複雑な心境が投影されているのではないかと思っています。ここでいう複雑な心境というのは、ほとんどのメキシコ人が持っている思いなのですが、彼らはスペインが大嫌いでスペインが大好きです。スペインに征服され、多くの祖先が虐殺されたからスペインが憎い。しかし、今では自分たちの中にはスペイン人の血が滔々と流れているという動かしがたい現実がある。スペインはメキシコ人にとっては憎むべき征服者の国であると同時に、自分たちの愛すべき故郷でもあるわけです。ララの代表作ともいえる「グラナダ」には彼のスペインに対する愛と憧れと憎しみが、メキシコと同じ歴史を持つグラナダへの共感という形で表わされているのではないかと思うのです。
製本、かい摘みましては(49)
いつかここに書いたかな。オリガミ・ブック(正式呼称は知らない)といって、切れ目を入れない1枚の紙を折って形作る、本文5ページ+表紙の小さい本がある。折る紙の表裏の色違いを本文部分と表紙に使い分けられるので、いわゆる「折り紙」に向いている。特に海外の若い人たちが、折る手順と折りあがったものにイラストレーションや言葉を書き込んだものを「オリガミ・ブック」としてユーチューブで公開しているのをよく見る。このムービーを見ただけでは折り方がわかりにくいというのが「折りごころ」をくすぐり、またちょっとした加減で仕上がりのチリや背の具合が変わるので、私も何度か挑戦したことだ。折り紙上手の人に教えたら、「これ、倍のページが作れると思う」。まもなく彼女は本文が11ページあるオリガミ・ブックを持ってきて、「よみ通り、あるひとくくりの折り作業を繰り返したらできた」と言う。折りあがった本を天地側から見ると、真ん中のページを頂上に小口は山型になり、ノドのところはパイ生地を2つ折りしたような重なりが美しい。彼女が選んだ紙の効果も大きいけれど、歪みやたわみはさながら「古本」のようである。このみごとな「古本」折り紙、いつかみなさまにもお目にかけましょう。
さて製本には、もれなく折りの作業がついてくる。手製本でも機械製本でも、工程の中で誰かが折りの作業を担う。紙を手で折るときは、裁縫箱についていたヘラが重宝する。布に型紙をあててそのラインを記すときに使う白いプラスチック製のあのヘラだ。紙の折り目を上からなでて、U字型の折り目をV字型にきっちり折りきるという感じで使う。あまり力を入れると紙が光ってしまうから加減が必要だが、スキッとして気持ちのよい作業になる。栃折久美子ルリユール工房で製本を習っていたころ、自分専用のヘラを作ったことがある。水道橋の製本工房リーブルで、おしどりミルクケーキのようにカットされた水牛の骨を買い、やすりで使いやすい形に削って亜麻仁油に一週間ほどつけておく。あめ色の、なんだかいかにも「道具」然としたものを手にしてうれしかった。実際は、プロでもないかぎり市販のヘラで十分だ。でもこうした道具をあつらえることはくすぐったいような喜びがあるし、またそれを実際に作ってみることで、想像もつかなかったほうぼうへの興味が広がる。あの工房では、カリキュラム以外の愉しみもたくさんもらった。
機械製本の折り作業はもちろん機械がやるわけだが、面付けして刷り上がった印刷物が一瞬にして折り畳まれるスピードにまず圧倒される。そばで見ていただけではわからないその仕組みを知ると、またさらにおもしろい。正栄機械製作所の「オリスター」という折り機の商品説明から、ちょっと抜粋してみよう。
・8ページナイフ下に左右の羽がつけられ、直角巻・外折が
"簡単なセット"と"省スペース"で可能
・標準4枚羽だが6枚・8枚羽型が別註でき経本折巻折に有効
・ハイスピードでカンノン折ができる装置の取付可能
なんのことやら。でも機械の折りの仕組みはシンプル。速度をもって流れて(機械に入って)きた紙を追突によって向きを変えることで「折り」とする。折り山には、空気が抜けてよく折れるように穴も開ける。この追突を上下左右に繰り返すことで、大きな紙が判型ほどに折り畳まれて出てくるわけだ。使用する紙の大きさと判型によって面付けや折り方は変わるし、紙により量により機械の設定はそれぞれ違う。細かな設定やメンテナンスは、機械のオペレーターがそれぞれ担う。今後折り機の見学をすることがあるならば、稼動する前の準備段階こそがお勧めだ。
折り紙でも製本でも折り機械でも、こうして「折り」を考えることは大きな紙を思い描くことである。なんて広くのびやかな世界と思う。
いつもの・ 遅いの・きちっとしたの・そして考えたこと
今年のコンサートはチェコの重鎮エリシュカの「わが祖国」から始まった。NHK交響楽団を指揮した休日午後のコンサートは、聴き慣れたボヘミアの音がNHKホールを満たした。あまりのも聴き慣れた音だったので、つい流してしまうところだったがそのオーケストラがチェコフィルではなく、日本のNHK交響楽団だったことに驚きと感嘆を覚えた。後の放送で、演奏会に際していつもにも増して厳しい練習だったとのコメントが付いていたが、あまりにもすっと、ボヘミアの音がしたことに驚いた。普通であることはなかなかに難しいらしい。
今年は行く人来る人ではないが、初演奏会の人もいれば、退任公演の人もいた。神奈川のプロオケである神奈川フィルの音楽監督を務めたシュナイトが退任した。昨年来、崩した体調が本調子に戻らないらしい。川崎のミューザで開かれた演奏会は多くのファンが集まり、盛大に開かれた。その演奏は一言で言うと、非常に遅かった。特にブラームスの交響曲1番は頭の中のテンポよりも数歩遅い展開で、ぎくしゃくした印象はゆがめない。非常に調子の良かったときには遅いテンポながらもしっかりした演奏を残した老指揮者だっただけに非常に残念な思いがした。このときも、そして、その後の音楽監督としてのシュナイトの最後の定期演奏会のよれよれの演奏を聴きながら、演奏の受身の姿勢が気になった。
老指揮者と言えば指揮界でも長老の部類に入るスクロバチェスキの演奏会に行った。シュナイトの演奏を聴いた後だっただけに、同じ老指揮者でもその違いがはっきりとして、非常に奇妙な印象を受けた。作曲家でもある指揮者は非常にメリハリのあるしっかりとした演奏であおるところはしっかりとオーケストラをあおって、いくつものプログラムをこなしていった。
そして、きょう、横浜でインバルの指揮で東京都交響楽団を聴いた。
東京はオーケストラが多い。特に御三家と言われるオーケストラを筆頭に、集客力の大きい楽団がうじゃうじゃしている。そんな中、神奈川のオーケストラが生き延びるには、果たしてどうするべきなのだろうか?と、神奈川フィルの定期演奏会よりもいっぱいになった会場で考えてしまった。
きちんと横浜、神奈川の地に根を下ろし、固定客を作りながら独自の活動をすべきなのだろうが、オーケストラが自らの音・演奏を持っていないような印象がすることに不安を感じる。オーケストラも演奏家である。そこには指揮者によらない自分自身の音があった方がいい。いくつかの地方オケの元気な様子を耳にしながら、そんなことを思った。今シーズンから音楽監督が若手にバトンタッチされることを機会に、ぜひ、新しいオーケストラの音や演奏を作っていって欲しいと思う。
アジアのごはん(28)ダージリン紅茶と水
「ああ、おいしい〜」
思わず声が出た。タイとインドの旅から日本の我が家に戻り、まずはお茶を一杯と、インドのダージリン紅茶を入れて飲んだのである。
「これ、タイでも飲んでたやつ? おいしいね〜」
今回も旅の友のワイさんも言う。
ちなみにこの紅茶は、ダージリンの市場のラディカ&サンという店で買ったTHURBO農園のオータムナル(秋摘み)。香りはあまりないが、味はとてもいい。渋み苦味はほどよくしっかり。
「やっぱり、タイの水で入れたのとは全然味が違う・・」
我が家の水は琵琶湖が水源の京都市の水道水であるが、一応性能のよい浄水器ゼンケン・スリマーを導入してあるので、塩素臭くもカビ臭くもない。同じ紅茶をタイのチェンマイでもバンコクでも飲んでいたが、いやいや、三倍増しのおいしさである。紅茶の味がすーっと舌に口に入り込んでくる。タイで飲んだときの、もどかしい感じの味、ぼんやりとした味、とは大違い。タイと日本で、お茶の味がずいぶん変わるというのは、以前から気付いていた。タイのバンコクでウーロン茶を試飲して、まあこんなものかと買って帰ったお茶が、日本で飲めば香り高くおいしいのである。それはタイの水の質が悪いせいだと思っていた。
去年ダージリンに行って以来、大の紅茶党になった。旅先の宿でも自分でお湯を沸かして紅茶を入れて飲むことが多くなり、旅先での水による味の違いが気になり始めた。なんせ、まずいのである。インドのコルカタ(旧カルカッタ)の水で入れた紅茶も、タイのバンコクの水で入れた紅茶も。同じ葉っぱを、同じ携帯湯沸しで同じカップで沸かして入れるのだから、違うのは現地調達の水だけである。
ダージリンで泊まっていたホテルはデケリンという眺めの良い気持ちのいい宿だ。坂の町のダージリンのクラブサイドにあり、ビルの入り口から三階が受付で、私たちの部屋はさらに三階上の最上階ペントハウスである。エレベーターはない。一階から数えたら、部屋まで106段あった。朝、目が覚めると、窓から朝日に染まる桃色のカンチェンジェンガが見える、こともある。見えた日は、一日幸せな気分。今回ヒマラヤの姿を拝めたのは二日だけだった。山が姿を現さなくても、眺めは抜群にいい。
部屋の洗面所の水で顔を洗ったり歯を磨いたりしてみると、水道の水はずいぶんいい感じだ。飲むとおいしそうである。それまで、飲み水は外でボトルウォーターを買って来ていたが、部屋にも水のポットは置いてある。スタッフにポットを持って水をもらいに行って見ると、水道の水を沸かしている水だという。飲み水にはやはり一度沸かして使うというが、飲んでみると、すっとしたおいしい水であった。ダージリンは標高2000メートル余りの尾根に広がる町だが、水源は13キロ離れたヒマラヤの山並みのビューポイントとして名高いタイガーヒルにある湖とのこと。さっそく水道水を沸かした水で紅茶を入れてみると、ペットボトル入りの水で入れたものよりずっとおいしく入った。高地の湖の水なので、硬水ではないのかも。
コルカタでもバンコクでも、もちろん水道水をそのまま沸かして飲んだりはしない。このふたつの町の水道水は、沸かしてもとても飲む気になれない。水道水は、ホテルやビルでは一度貯水タンクにためられて各家や部屋に配水されるが、その貯水タンクの中の管理状態は想像するのも恐ろしい。
コルカタの水道水が水道管から供給されたてのときはもっとましだろうとは思うのだが、泊まっていたホテルの部屋から出る水は、歯磨きで口をゆすごうとしたとたんに、げぼげぼと体が拒否して吐いてしまったほどである。強烈なナフタリン臭。おそらくビルで独自に衛生管理に気を使って貯水タンクに薬を大量に投入してくれているに違いない。これを飲んでいたら、細菌で死ぬ前に消毒薬で死ぬな。コルカタで飲んでみたボトル入りの水はどれもけっこう渋い味がした。かなりアルカリ度も高い硬水のようだ。おいしいとはいえない。
バンコクの水道水はコルカタほどひどくはないが、やや増し、といった程度である。歯磨きで口をゆすいでも一応だいじょうぶだし、多少口に入ってもおなかを壊したりはしない。でもひどくまずいので、飲み水はやはり買ってくることになる。タイの市販の水には、天然の地下水や冷泉のそのままの水のナチュラル・ミネラルウォーターと、水源は同じようでも殺菌したり調整したミネラルウォーター、そして水道水や地下水を浄水、殺菌して一応安全な水にしたドリンキングウォーターというのがある。
旅行者は多少高くても毎日ペットボトル入りの水を買えばいいが、住人はどうしているのかというと、大きな18リットル入りの水のボトルを配達してくれるシステムを利用するか、アパートや街角に最近増えてきた1リットル1バーツの水の販売機に入れ物を持っていって買うのである。どちらもペットボトル入りの水よりはかなり割安である。水道水を沸かして飲んでいる人もたぶん多いだろう。
タイでお茶を飲むときにもっとおいしく入る水はないかと思い、いろいろな水で紅茶を入れて味見をしてみた。まず、バンコク在住の快医学の徒マーシャ(男)ご推奨のナチュラル・ミネラルウォーター「AURAオーラー」。水はおいしい。少し渋みがあり、いかにも冷泉水という感じ。ミネラル分の多い硬水である。タイ北部のメーリムの産。マーシャによるとこの水がタイではいちばん身体にいいらしい。「オーラー」「ナチュレ」以外のボトルウォーターには殺菌剤が残留しているという。しかし、残念ながら紅茶はあまりおいしく入らない。香りも立たない。味もぼんやりだ。渋みだけが少し出る。
やはり、硬水は紅茶の成分がうまく出ないのか。もっと硬度の高いアルプスの水「エビアン」でも試してみた。水はおいしい。クセもあまりなくさわやかな味だ。ちなみに輸入品なのでオーラーの五倍の値段。しかし、紅茶を入れると白いアクは出るし、水色は濁った感じになるし、紅茶の味もあまり出ない。やわらかい、へなちょこな味である。かすかな酸味も感じる。ぜんぜんおいしくない。つまり、まったく紅茶に向いていない水であった。そのまま飲めばよかった・・。
タイの水は基本的に硬水なので、ミネラルウォーターよりも水道水を浄化しただけの水販売機の水のほうが意外に紅茶がおいしく入ったりして・・と試してみたが、自動販売機の水はいろいろミネラルウォーターを飲み比べてから飲むと、大変まずいうえに、紅茶もかなりまずく入る。どろ〜んとした舌触りになり、ぼんやりとした味。だいたい、ちゃんと浄水できているのか疑問を感じる味だ。今まで、タイにいる時はペットボトルのゴミを出さないように、なるべくこれを飲料水にしていたのだが、不安を感じてきた。自動販売機水はもうやめようっと。
いろいろな水を試したが、けっきょくタイでいちばん紅茶がおいしく入ったのは、チェンマイで飲んだガラス瓶入りのドリンキングウォーター「ナムシン」であった。バンコクではガラス瓶入りはなく、プラスチックボトルの「ナムシン」で試したが、いまひとつ。チェンマイの「ナムシン」は、おそらくチェンマイ近郊の取水地の水でつくったものであろう。こちらは香りも立ったし、けっこうおいしい味が出た。
ダージリン水道水やチェンマイの「ナムシン」が、まあまあおいしく入ったとはいえ、日本に戻って日本の水で入れてみると、これが同じ紅茶かと思うほど、おいしく入る。日本の水は基本的に軟水だ。日本の水道水には蛇口から出る水の塩素濃度が0.1ppm以上という法律があり、現実にはもっと高い濃度の塩素が殺菌のために含まれている。塩素は身体に有害な上に、食べ物の味を悪くする。きちんとした浄水器を取り付けるか、塩素を飛ばす工夫をした水をつかわなければ、いくら日本の水でもおいしくは入らない。さてさて、ダージリンで手に入れた極上の香りの紅茶の封をそろそろ開けようかな・・。
(3)歌謡音楽祭と「A Banda」~階級を超えた歌
1960年代半ばのブラジルのポピュラー音楽(MPB)は、50年代のボサノヴァ・ブームが終息に向かい、同時に新しい音楽の波が押し寄せた時期にあたる。そのなかでテレビ・メディアが大きな役割を果たした。エリス・レジーナが司会を務めた「O fino da bossa(ボサの真実)」(ボサ・ノヴァの番組ではない。シコも1965年に参加。)やロベルト・カルロス司会の「ジェーヴェン・グアルダ」などが代表的なものだが、テレビ局は音楽番組の人気に乗じて、さらに視聴者参加型の音楽番組を企画した。それが歌謡音楽祭と呼ばれる番組で、各テレビ局がこぞっておなじような音楽祭を企画し、歌手や歌を世に送り出していった。
歌謡音楽祭のはじまりは1960年にTVヘコールの主催にはじまるが、それが本格化するのは5年後の65年TVエセシオールの音楽祭からで、66年にTVリオ、67年にTVグローボなどがこぞってブラジルの文化としての音楽を取り上げ、歌謡音楽祭は大きな注目と影響力をもっていく。どの音楽祭も形態はほとんど同じで、作曲・歌唱部門にエントリーしたアーティストたち(アマチュア、プロを含む)が観客を前に予選を勝ち抜き、最終選考で作品の質・歌唱力によって順位がつけられる。もちろんテレビでも放送される。ここからボサ・ノヴァ以降のブラジルのポピュラー音楽を担うアーティストが世に出ていったといっていい。そこにはシコ・ブアルキはもちろん、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、ミルトン・ナシメント、オス・ムスタンチス(リタ・リー)、トン・ゼー、ジョイスなど、現在のブラジル音楽界の大御所ともいえる人たちがいる。
シコ・ブアルキが歌謡音楽祭に参加したのは、65年のTVエセシオール主催の第1回音楽祭。リオやサンパウロなど3会場でエントリーし、そこで勝ち残った13曲がファイナルで競い、第1位から第5位までが決定された。作詞・作曲・歌でエントリーした人の名前を挙げるなら、フランシス・ハイミ、バーデン・パウエル、ヴィニシウス・モラエス、ゼ・ケチ、ロナルド・ボスコリ、ウィルソン・シモナール、エドゥ・ロボ、エリス・レジーナ、ロベルト・メネスカルなど、そうそうたる人たちで、シコは作曲家として「Sonho de Um Carnaval」をエントリーし、歌は友人のジェラルド・ヴァンドレがうたった。サンパウロでの第1ラウンドに登場し、4曲の入選曲のなかに入り、最終選考が4月6日リオで行われた。
「12人の競争相手がいた。ぼくはリオに来て、祖母の家に滞在した。ぼくの歌には問題があった。というのもアレンジは音が低く、ヴァンドレに都合が悪かった。オーケストラは彼の声を包み隠し、うたっている声をきくことができなかった。それは惨たんたるものだった」。第1位になったのはエドゥ・ロボとヴィニシウスの作詞・作曲でエリス・レジーナのうたった「Arrastão」。第2位はバーデン・パウエルとヴィニシウスの曲だった。
少し横道にそれるが、前回書いたようにシコはこの時期「ボサ・ノヴァの奴隷」から抜けだそうとしていた。「Tem Mais Samba」からはじまるシコの発展は、後にかれが語ったように、バーデン・パウエルとヴィニシウスの共作、エドゥ・ロボ、ジョルジュ・ベンが大きな影響を与えた。「Sonho de Um Carnaval」で、シコはまだ自分の音楽をつかみ取ってはいなかった。前回書いたように「Pedro pedreiro(石工のペドロ)」でそのきっかけをつかんだ。ボサ・ノヴァでも古いサンバでもない何か、それをつかむきっかけとなったのはジョルジュ・ベンの影響からだった。ベンは63年にボサ・ノヴァとは異なるアプローチでデビューし、パーカッシブな独自のギター奏法でポスト・ボサ・ノヴァの代表格となった。「Pedro pedreiro」はそのパーカシッヴな伴奏、歌い方など、ベンの影響が感じられるが、そのあと「Olê Olá」が続き、シコは自分の発見した音楽の道を発展させていく。そうしたなかで歌謡音楽祭への出場は、成功を手にするための大きな手段だった。シコは翌年1966年に行われたTVへコールの第2回歌謡音楽祭にエントリーする。
音楽祭には作曲家としてカエターノ・ヴェローゾ、ジルバルト・ジルがエントリーしたが、開催される前、シコはこの二人とトルクアット・ネト(トロピカリアの詩人)に曲をきいてもらっている。エントリーする曲を迷っていたシコは「Morena dos Olhos D'Agua」と未完の「A Banda」の2曲をきかせる。ジルとトルクアットは後者を押した。別の日にきいたカエターノだけは前者を好んだ(カエターノの「A Banda」への評価に関しては、次回「シコとカエターノ」で予定)。結局、「A Banda」でエントリーする。そしてそれがかれの人生を大きく変えることとなる。
歌をうたったのはナラ・レオン。シコとの出会いは、ナラがコパカバーナのボサ・ノヴァの聖地とされるマンションに招待したことにはじまる。そこでシコの歌をきき、彼女が次にレコーディングする3曲(「Olê Olá」「Madalena Foi pro Mar」「Pedro pedreiro」)を選んだ。そうした関わりからシコは音楽祭の参加をナラに打診した。彼女は一人でうたうことを希望したが、音楽祭のディレクターはデビューしたてのシコを売り出そうとしていたのか、まずシコがギターの弾き語りで全曲うたい、そのあとバンドが入ってナラが再び全曲をうたうという方法をとった(エントリー上では作詞・作曲になっている)。
この第2回目となる音楽祭は60年の第1回から大幅に規模を拡大し、3回3日に渡る37曲で予選が行われ、第1ラウンドにはカエターノ(作詞・作曲)、第2ラウンドにはシコ、ジル(作詞・作曲)、第3ラウンドにはエドゥ・ロボとルイ・グエッラ(作詞・作曲)などもいた。これらの人を含め、10月10日、12曲でファイナルを迎えた。第1位を獲得したのはシコとナラの「A Banda(楽隊)」とジェラルド・ヴァンドレとテオ・ヂ・バーホスの「Disparada」だった(第5位はジルとエリス・レジーナの歌による「Ensaino geral」)。
音楽祭でシコとナラがうたう「A Banda」の映像を見ることができる(http://www.youtube.com/watch?v=HEqkkSE3V2E)。当時の曲の人気と熱気が伝わってくるもので、タキシードと蝶ネクタイ姿のシコがまずギター弾き語りでうたい、その後でバンドをバックにナラがうたう。シコがうたいはじめると会場の聴衆が手拍子でうたいはじめ、バンドの演奏では総立ちで会場全体の大合唱となっていく。
音楽祭の2週間後、ナラが曲をレコーディングし、一週間で莫大な売り上げを記録した。レコード評には「『A Banda』はすばらしい。なぜならそれがブラジルだからだ。それはブラジルの人々の集団的無意識なのだ」とある。「MPB―A HISTÓRIA UM SÉCULO(MPBの100年史)」を書いたR.C.アルヴィンは、その著書のなかで書いている。「『A Band』はブラジル・ポピュラー音楽の歴史のなかで先例のない現象だった。ブラジル・ポップ・チャートでその年の最後まで残り続け、安っぽいバーから文学アカデミーにいたるまで、あらゆる社会階級でこの曲が話題になった」。
こんなエピソードもある。シコはミナスジェライスに招待されたとき、飛行機を降りると10のバンドが曲を演奏して到着を祝った。また、大統領のセレモニーでも曲が使われている。大スターとなったシコはまだ22歳、サンタクルス大学の建築学科に在籍していた。曲は楽隊の行進を見ているときに心に浮かんだものであり、伝統的なマルシャによって書かれている。
「A Banda (楽隊)」
でも魔法は解け
甘い夢も終わった
楽隊が通り過ぎたあとで
すべては元にもどった
それぞれはそれぞれの場所に
愛の歌をうたいながら行く
楽隊が通り過ぎた後で
(荒井めぐみ訳)
この曲は、1966年の記念すべきシコの最初のLP「CHICO BUARQUE DE HOLLANDA」の第1曲目を飾ることになる。陽気な旋律やリズムがふとした瞬間に影を引いていく。それこそが日本語で「郷愁」と訳される、サウダーヂというブラジル人独自の感覚なのだろう。詩の内容はシコ自身の個人的な感情を歌にしたものだが、庶民の希望をうたった「Pedro pedreiro」もそうだが、一般民衆からインテリ層まで幅広い対話を可能にするものだった。エリートの家庭に生まれたが、「集団的無意識」を揺さぶるブラジルの人たちの階級を超えたシコへの賛美は、それがゆえに、ほかの誰よりも政府の検閲という厚い壁が立ちはだかることとなる。
夜にやもりが本格的に啼きはじめる前
演奏会の手伝いにいった。沢井箏曲院三十周年記念コンサート、沖縄での公演。前日、空港へお迎えに行き、そのままリハ会場へ。糸締め道具、木槌、膝ゴム、各色そろった場見り用のビニールテープ、木槌は持参。十七絃の雲角が輸送のためずれていたので、手ぬぐいを当て、木槌で叩き元の位置になおす。当日リハーサルで使う椅子の高さ、立奏台を置く位置を決め、ビニールテープで場見って行く。楽器をセットし楽器のがたつきを膝ゴムで止め、転換、次々と曲は進められリハは終わる。本番になり、こちらもスーツに着替え、ポケットの中には膝ゴムしこたま入れ、演奏会は進行する。袖で三絃を使う曲を見ていると、十二年前の忠夫先生が亡くなったという電話を受けた日の午前中のながれを思い出し、思い出したことに自分で驚いていた。やがて曲は終わり、次の曲の準備にはいる。会は休憩をはさみ、何ごともなく進む。
昔と舞台袖で立奏台を組むこと、楽屋で楽器を出し、それぞれの楽器に柱をたてることは変わらないけれど、草履を出し、着物を襦袢と重ねていっしょにかけ、襟止めが着物にちゃんと付いているか確かめ、袴をひろげ、その上に帯を置き、演奏会が終われば着物をたたみ、しまう仕事が無くなった。
演奏会が終わり、懇親会に出る。比可流先生は中座し、最終便で帰京。タクシーを拾う通りまで送る。三絃を持っていると「大丈夫だよ、持つから」、「いいよ、ひかるちゃん」と昔の呼び方で返してしまう。
しばらくして、一恵先生を宿まで送る。送りながら近況を話しながら昔の仲間の話しをしながら。宿の玄関で挨拶し別れる。宿に行く途中、アイスクリーム屋さんがあったので家へのお土産に二種類、1パイントづつテイクアウトする。そういえばさっき、いっしょに前を通ったのに、そのとき寄ればよかった。しくじったな。先生、今度はアイスクリーム忘れないようにしますから。
寄りあい
西欧民主主義の起源とされている古代アテネでは、奴隷や女はもちろん広場での討論に参加することはできなかった。そこでは武器を持った男たちがことばをもち、そのなかでもいちばん暴力的な人間が指導者になり、全員がそれにしたがうのが「民主主義」だった。demos + kratia は文字通りデマゴーグの暴力で、民主主義と暴君政治はおなじことだった。いまアメリカが武力で世界にひろめようとしている民主主義もそれと変わらない。プラトンのような知識人はいつも民衆の自由な討議と自己決定には反対だった。世界がいまこのようである理由やその歴史を理解すると、現実はあるべくしてこうなっていることを知らない人間がそれを変えようとする、そんな試みは無知から生まれるもので、それが可能だと思うのは理性的でない、ということになる。知識人は、知識のないひとびとを軽蔑しながら、うごいていく現実は見ないために、ためこんだ知識を盾にする。かれらは権力にすりよったり、自己保身だけを考えている。アナキスト人類学者David Graeberはそう書いている。
ひとびとが自分たちの問題を対等な立場で話し合い、合意にいたる参加型の民主主義はMarshall Sahlinsが研究したポリネシアにも、Graeber自身の調査したマダガスカルの村にもあった。鶴見良行の東南アジア村落民主主義も、宮本常一が『忘れられた日本人』に書いている村の長老たちの寄り合いもそうだ。ロシア革命当時のソヴィエト(会議)やローザ・ルクセンブルグの評議会もそのような理想からはじまったかもしれないが、代議制は権力の母胎となって、会議は指導部の翼賛機関になった。議会制民主主義も、選挙の時だけは、できもしないし、やる気のない約束をし、選ばれれば権力争いと利権しかない職業政治家をつくるだけなのに、なぜひとびとは裏切られるために投票し続けるのか。
イギリス出身のマルクス主義哲学者John Hollowayは、メキシコのサパティスタ蜂起のあと、反権力ではなく非権力のまま日常の抵抗を続けながら世界を変える、という「Change the world without taking power」を書いた。革命で権力をとれば、反権力がこんどは権力に変質していった、それが20世紀の社会主義の教訓だった。こういう社会主義体制でなければ、資本主義体制内での反対党のささやかな利権のために、ひとびとの苦しみをなだめながら、革命を延期し続ける社会民主主義しかなかった20世紀に、1968年は一つの裂け目をつくったはずだった。
だがその後、1970年代からはじまる金融資本主義のゆっくりした崩壊のなかで、抑圧された反体制エネルギーはちりぢりになり、分裂し孤立して消えていった。指導ではなく、合意にもとづく民主主義は、フェミニズムや他の周辺の運動のなかで生き残っていて、1994年のサパティスタ蜂起でやっと表に出てきた。1999年のシアトルから2001年のジェノヴァへの反グローバリズム抗議行動の後、それはアフガニスタンとイラクの戦争のなかで、また見えにくくなっている。
民主主義はいつも、ここではない場所に見える蜃気楼のように見える。たとえその場で体験したとしても、記憶のなかの追体験しか残らない、幻想ではなかったか、それを永続的なものとする保証はどこにもなく、意識的に言語化し制度化することは、どこかそれを裏切るものではないかと疑ってしまう。それはしょせん前近代の伝統社会にさかのぼるか、辺境や周辺の小さなグループでだけ実現可能なやりかたで、グローバル都市や現代文明のなかでは、その規模から言っても全体会議など不可能だし、やはり代議制にゆずるよりないと言うのだろうか。日常の抵抗は、社会の表面に顕われると力を失う陰のはたらきで、はっきり定義もできないような非自覚的な次元にとどまるべき性質のエネルギーなのか。
寄りあいについて書いた宮本常一の文章を読むと、長老たちや女たちは、ふだんはお互いにかなりの距離に散らばって住んでいること、家長や村の公的な立場から引退した自由な身分であること、何時間も、時には何日もかけて、ある問題を話し合うというより、あらゆる生活の話題を雑談のようにつづけていて、主張をぶつけて討論するよりは、そのことについて思い出す例や知識を交換しているようで、それにしても、知っていることのほんの一部しか言わない配慮をしているらしい、論理をつきつめていくことや、結論を出すことは歓迎されず、合議を形成するというのではなく、自然に合意がはかられるまで待つ、その感覚が消えないうちに、共有する、そういう手続きのほうがだいじで、決定された事項は、いわば共生感覚を掛けておく釘のようなものに見えてくる。
だが、その記述自体も、忘れられたことがら、失われた生活を、外側から推測しているだけで、内側にいて体験する感じとはちがうものだろう。その感じをことばにしてみれば、ゆるやかな時間、ひろびろとした空間、自分のちょっとしたうごきをとおして現れてくるひとびとの、沈黙の思い、といったものかもしれない。