2014年10月号 目次
グロッソラリー ―ない ので ある―(1)
週末の飲んだくれた帰り道、私は友人から突然やや厚めの封筒を受け取った。家で読んでみてくれと言う。友人も別の誰かから受け取ったらしい。アルコールが入っていたこともあり、ことの顛末や封筒の中身については何も聞かずにそのまま友人と別れた。
翌朝、その封筒を開けてみると、右上をゼムクリップでとめられたA4サイズの紙の束が出てきた。断章と顔文字がずらりと横書きに並んだワープロ原稿だった。表紙には「グロッソラリー ―ない ので ある―」とあり、下のほうに「忽滑谷源八郎(※ぬかりやげんぱちろうと読むのか?)」と記名してあった。
なぜ私にこのような原稿を託したのか判然しないまま、とりあえず少しずつ読み進めてみることにした。細かい内容には触れまい。ただ、断章はバラエティ豊かで、口語体もあれば文語体もあり、扱う分野も多岐に渡っていた。アフォリズムもあるし実験的な試みもしている。体裁の整合性が取れているとは言い難いが。
そうした奔放さや顔文字の多様から、若いかもしくは複数の書き手によるものかとも思ったが、「わし」と表現しているのを素直に受け止めれば、年配の人間による作品としておくのが穏当だろう。しかしよくここまで書いたものだと感心もした。
さて、タイトルにある「グロッソラリー」とは何のことか。外国語を含む辞書類には一切載っていない。インターネットでかろうじて一件だけ引っかかった。種村季弘氏の『ナンセンス詩人の肖像』である。早速購入し「グロッソラリー」について調べてみた。氏の定義では、「霊媒や意識不明者の発する言葉」とあり、また「グロッソラリーは『グロッソ』(舌の・言語の)と『ラリー』(エルlとrの音の区別がつかず、まさにラリること)の結合語である」としている。
その他のナンセンス関連の本を渉猟したが、「グロッソラリー」については上記の説明しか得られなかった。おそらく言葉としては存在していながらも、使われる機会が極端に少なく、決定的な意味はないのだろう。外国語スペルが見つからなかったのもその証拠と言えよう。忽滑谷氏は酒への言及も多いことから、酔って意識が混濁した状態で書いたと言いたかったのだと推測できる。
また「ない ので ある」のダブルミーニングについて、「ないからある(無という有)」と「ないのである(無)」という具合に作品内容を両方に位置づけたのだろう。こうした曖昧性、意味が複数取れる表現、更には意味の所在が明らかでないものも本文に散見される。また、断章と絵文字のバランスが必ずしも妥当でないこともある。著者の持ち味と解釈しておく。しかし断章の文字数をほぼ統一している点がある一方で、前掲のように不統一な箇所もある点は疑問に残る。何でもありという考えなのだろうか。
前置きはこれくらいにして、まずは読んでみることをお薦めする。忽滑谷氏が健在であることを祈りつつ。
しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人......。
運命は自分で切り拓くもの。努力は必ず報われる。継続は力なり。これらの決まり文句は概して成功者がのたまうので、凡人には今一つぴんとこない。成功の大半が運によるものだとしても同じことを言うのだろうか。人間はよくできたできそこないである。できそこないを束の間ながら勘違いさせるために、運の動きや正体が秘匿されている。
1月1日:深夜2時かないしはそれ以外の時間に、僕は産まれる。胎内にいる時点でへその緒が首に巻きついており、縊死か無念と医師たちを恨んだが、寛恕の心で許す運びと相なった。実は産まれるかどうか結構迷ったのである。いずれクレプトマニアになりはすまいかと嫌な予感がよぎった。僕の予感はよく当たることで有名である。
でもむなしいね。真理と真実を語るってのは。とうとうここまできたか。まあとにかくあれだ。星は輝きミミズはうねる。三文芝居でニンジンぶらさげちゃあ元も子もないのは、最初からわかりきっていた驚天動地だ。おこがましいったらありゃしない。なんたって足指の香りが夜逃げ前日であれば、わしだって一方ならぬ思い入れがある。
ずらんかどっかれ 男それし
びすんかどっかれ 花けしい
血さげもあんらに らもげしし
まきにしおつたら 夢けんじょ
精さつつべよせ ほはたるく
並外れた屈辱や挫折を我が物としてしまうと、人間の性質というものがわからなくなり、自分という人間もどう動いていいのか何を言えばいいのか硬直状態になる。しかし神経戦の多いちまたにあっては、不感症は有力な武器の一つになり、あらゆる局面で勝利をおさめるかもしれない。当人には勝利の実感もなく何の意味もなさないが。
感謝感謝。へそのゴマで感謝。どんどん食い込むおかちめんこ。フランスはいいねアメリカは。知らなくてもいいことがこの世にはある。宇宙の平泳ぎってのは物干し竿ですかい。そうきた日にゃあ四角四面な甘ったれを応援しながら、追いかけて追いかけて追い越すしか間に合わせの老人用おむつはないわい。風はだいたい左から吹いてくる。
企業で働くのは、単に生活と趣味のためである。社訓、愛社精神、ホウレンソウなど余分なものを作られたり求められたりするのは迷惑千万。心の最深部から同調する人は少なくないだろう。カネが欲しくて働いて眠るだけ。一生ラットレース。働くのを一段とつまらなくすることに無意識裡の力を注ぐのは、この国の企業の特徴である。
ぱぎゃがまはらのチルデンコンシャは、うったけほるしながら、ちょちょまるけさらで、やーかーさぎたしるめ。うんば。ダモスしゅうしゅうなかはりつて、いいきょるはんきょりじゃっぱ。しでかんおすみてぱぎゃがまはらのチルデンコンシャは、そってれやってれキゼラマしょうたる。けけけどんしゃんりきにき。ちんたる。
1月1日:「産まれる」という動詞は受動態である。この受動態、時には「迷惑の受動態」と呼ばれる。「見られる」「食べられる」「やられる」などがそれに該当する。僕は少々迷惑だった。それは僕の体の色と関係している。「赤ちゃん」というほど赤くはなく、元より暖色は好まない。そこで「青ちゃんです!」と大人げない反論を試みた。
まずは実験してみていただきたい。日本に暮らす架空の人物になろう。大切なのは食品選び、摂取する順番、咀嚼、女房の実家には気を遣うこと。大反響をいただいた一件のスナックに入ると、戦場ジャーナリストといえども、目の前で人が殺されるのを目撃することはない。その理由を、熟年夫婦の夜の生活をリサーチしたからとしている。
ダボシャツにももひきで白でまとめたってか? 世知辛い世の中、芸術家以外はそうはいかねえ。歩いてりゃ「どこへ行くんですか」、自転車乗ってりゃ「ご自分のですか」。そのくせ「手錠、きつくありませんか」て、気遣いの時が違うだろ。家にいりゃ「生きてますか」とくる。ああ生きてるよ。死ぬ前にせめてその制服を着させてくれや。
さほど親しくないのに、相手を強く抱きしめる人は、信じられない程度の独占欲はおろか破滅への願望を気づかない場所に持っている。裏切られるためにある期待とやらにまた裏切られたにもかかわらず、全幅の信頼を置き続けている人。期待は破滅の類縁関係にあることに、実際に破滅するまで気づかない哀れな人。彼らに花束を。
私は薄味のほうが好きです。
スフェリコンじみた鳴き声のカラスでさえ、消しゴムがけんか四つにうんざりした時なんざ、最後はやっぱり万引き、もとい、正式名称、万有引力のせいで、4時間もストーリーを捏造されて一本とられた。出し抜けの行動ってのは、最後が五里霧中だからどこへでも転がっていけて、畢竟、成功らしきありかを見つけられるのも知らんとはな。
少なくとも普請中ではもうないな。ませいぜい準備中ってところで手を打とうや。おっぱじまったら大逆転かもしれん。そう思いたいね。わしなんか温厚の中でも温厚ななしのつぶてじゃが、近頃の若いもんはそりゃあ寒がりで、そんな有様を目の当たりにした日にゃあ、この歳になってニイタカヤマに登っちまうかもしれん。
つんのめるようなエンプティネス
ポンプで地下深くから汲み上げる水は、夏は冷たく、冬は適度にぬるく、そして美味しかった。そのことを知ったのは'68年に東京に出てからだ。あこがれのメトロポリスで水道の蛇口から流れる水は、しかし、夏は生温く、冬は指がしびれるほど冷たかった。なんだか裏切られたような気分がした。最初はふっと気味の悪い、薬臭い味も感じたけれど、やがて慣れた。人はなんにでも慣れるものだ。
あのころ東京の標準的アパートには浴室はもちろん洗濯機さえなく、洗濯はすべて手洗い。コインランドリーが出現するのはそれから10年以上あとのことで、冬は手のひらも指も真っ赤になった。電気代、ガス代、水道代を計算した紙を手にした大家さんがドアを叩いたとき、水道代というものがこの世に存在することを初めて知った。東京では水にお金を払って暮らすのか、とちょっと驚いたのは、たかだか半世紀前のことだ。
人混みにも気持ちがくじけた。池袋、新宿などの地下道を歩くときは、どういうわけか決まって人とぶつかりそうになる。だから歩き方も学ばなければならなかった。向こうから歩いてくる人に視線を合わせてはいけない、少し横に焦点をずらして歩けばぶつからなくてすむ、と気づいたのは、半年くらいたってからだ。パンフォーカス歩きの習得である。
初めての夏休み、北海道へ帰省したときに感じた空間をめぐる身体レベルの体験は「劇的」ということばがふさわしい。このときの感覚は身体の奥にいまも眠っていて、いつでも取り出し可能だ。汽車(北海道では「電車」とは呼ばない)の車両から荷物をかかえて降り立った滝川駅のホームは、東京の山手線の駅にくらべるとほぼ無人といってもいいほどの人気のなさ。その「カラッポ」感に、ステップを降りたとたん身体が前につんのめりそうになった。この身体感覚が3年ほど前、南アフリカのカルーを訪ねたとき、思いがけずよみがえってきたときは驚いた。そこにはまさに、つんのめるようなエンプティネスが広がっていたのだ。
話しことばの最後に「だわ」とか「よね」とか「かしら」なんて女性特有の助詞をつけることも、その独特のイントネーションも、東京育ちの友人たちとの会話から日々、習得に余念がなかったものの、夏休みや冬休みに帰省するや、語尾の重たい北海道弁にすぐにもどってしまった。東京風のことば遣いをすると「なに、すかしてんの?」と言われて完全に周囲から浮いてしまうのだ。
これは高校一年のとき、逆の立場ですでに経験済み。東京から転校生のAさんがやってきた。髪が少し赤く、話し方が軽やかで、手を口にあてて微かに笑う。ただそれだけのことで、ひどくよそよそしく感じられた。いま思うと笑える。だが、それが人と人の関係の冷たさのようにも感じられたのは一考にあたいするか、どうか。おなじ日本語でも、分厚い膜がすっとかかるその感覚を初めて経験した瞬間だったのだから。遠い「東京」を辺境でちらりと垣間見る思いがしたのだろう。その落差を、今度は自分がかもしだすことになる、と不安になって、帰省のたびに咄嗟にカチリとモード切り替えが行われたのだろう。まさに、ディープな田舎と都会の行ったり来たりである。
しかし、そんな微妙な差異やモードの切り替えを意識していたのは、最初の一、二年のうちで、大都会の生活習慣になじむにつれて、やがてどんどん鈍感になっていった。都会生活に溶け込むことが最優先課題となり、ことば遣いも東京風に近づいて、やがて地下水のことも忘れてしまった。その感覚を呼びもどしたい、消えてしまう記憶を記録したい、と思うようになったのは、たぶん、あの事件のあとだった。
バスを待つ。
ある日、僕は見知らぬ峠でバスを待っていた。見晴らしのいい峠道で、少し肌寒いくらいの風が吹いている。どこからどうやってきたのか、僕は疲れ切ってもうそこから一歩も歩けない。普段バスに乗らないからか、バスに乗ることが怖い。電車なら乗る前に切符を買うので、切符さえ買えれば後は乗るだけでいい。ところがバスは料金を乗ってから払う。乗る前に払うのか、降りる時に払うのか。もし、バスに乗ったときに小銭がなかったらどうなるのか。
そんなことばかりを考えてバスを待っていると、とても息苦しくなる。息苦しくなると同時に、子どもの頃、同じようにバスを待っていたことを思い出す。近所のバス停で親戚の家までお使いを頼まれ、一人でバスに乗ろうとしていたのだった。いまと同じような不安な気持ちで待っていたバスは、大勢の人が乗っていて満員だった。子ども一人くらいは乗れるだろうと、ワンマンカーの運転手はバス停に停車してドアを開けてくれた。しかし、僕はあまりの人の多さに車内に入ることができなかった。圧倒されてただただ開いたドアいっぱいの人々を見ていた。すると、ドアのすぐ横に立っていた若い女の人が僕の手を取って、車内に引っ張り上げてくれた。
ドアが閉まりバスは発車した。車内は思った以上にぎゅうぎゅう詰めで、僕は大人たちに囲まれて息もできないくらいだった。車内は気温も高く僕はだらだらと汗をかきながら息を荒くして、ここままでは呼吸困難で死んでしまうと本気で思っていた。その時、僕をバスに引っ張り上げてくれた若い女が自分のはいていたスカートの中にすっぽりと僕を入れてくれたのだった。
スカートの中は明るかった。とても明るい光の中でスカートの内側には映画のようにバスの車内が映し出されていた。僕は息苦しさから解放されて楽しい気持ちで女のスカートの中でバスの揺れる感触を楽しんでいた。ときどき、スカートの外側から女の手が入ってきて、僕の頭や肩や足を撫でて安心させてくれた。ああ、子どもで良かった。大人だったらこの女の人も、こんなふうに良くはしてくれないだろう、と思ったのだった。
そんなことを思い出しながら、まだ来ないバスを待っていると、もう、バスがこなければいいのにと思えてきた。
しもた屋之噺(153)
夏前からの無理がたたり、昨日から毎度の眩暈で倒れていましたが、今日はこうして何とか少しずつ原稿が書けるまで快復しました。今日は曇り。暑いとも寒いともいえない気温です。これで晴れていれば一年中で一番過ごしやすい季節で、とも書けるのでしょうが、太陽が見えないだけで、どうとも表現できない、目の前の乳白色の空のような不思議な心地になるのですね。子供のころ家族で登った御嶽山のことを思い出しながら、日記をいくつか抜書きしてみます。
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9月某日
ミラノへの機中。昨日の芥川賞のあとで、家人と息子と沢井さん宅による。初めて目にする五絃琴と17絃箏に息子は大喜び。沢井さんが目の前で弾いてみせてくださる17絃に目を輝かせる。木戸さんからは、湖北省で発掘された当初の中国語で書かれた五絃琴の報告書のコピーをいただく。
今回の芥川作曲賞では、二つ大きな勉強をさせてもらった。睡眠不足がたたると、自分のテンポの感覚は狂ってしまうこと。それから、恣意的に楽譜を読まないように努めているつもりでも、それだけでは充分ではないということ。
コーネリウス・シュヴェアが書いた戦艦ポチョムキンのためのスコアを読む。まずタイミングを整理し、分数を細かく割り出し、譜割りする。気の遠くなる作業。譜読みは読書の代わりを果たすわけだが、曲をどう振るかというより、寧ろその曲がどのように作られているのか知りたくなることが多く、甚だ時間を無駄にしている気がする。
9月某日
ジュネーブへの車中。目の前でアメリカ人の中年旅行者グループが、互いに写真を撮り合ったりして楽しそうだが、声が大きく周りの乗客はうんざりしている。
8月に息子が「赤毛のアン」のアニメをずっと見ていたのをぼんやり思い出し、あの属9度で始まる三善先生の主題歌が頭に浮かび、サブドミナントの借用和音など、先生がサワリとカタカナで書かれた音が心に沁みる。
あの和音が書いてみたくて、学生時代にコマーシャルなど嬉々としてこなしていた。北陸銀行のコマーシャルを書いたとき、録音が終わってブースに戻ると、妙齢の担当者が感動して泣いてらしたのが、あのサワリの音の魔法だった。赤毛のアンの主人公は、まるで息子の性格にそっくりで、共感を覚えて見入っていた。
9月某日
洋楽器と邦楽器の演奏法のちがいについて、先日のリハーサルのあとの龍笛の岩亀さんの言葉がずっと反芻している。「同じ山に昇ろうとしているのだけれど、辿る道が違うというのかしら」。
西洋の定量記譜を、邦楽風に読むときの感じは、ほんの少しだけオラショを思い起こさせる。拍節感がまず変わる。アップビートがなくなり、ダウンビートのみで数える。アップビートがない分、テンポは束縛から解放され、かなり自由に浮遊できる。テンポが水平に延びてゆけば、そこにはメリスマ調の足跡が残される。
そう思ってから、バンショワの旋律を違う視点で眺めてみる。リズムがとけ、音高の点から無数の細い糸が横に延びる。イスラエル国歌とパレスチナ国歌をからめて、先月来ずっと引き曳っている思いにかえたい。
9月某日
ジュネーブ ピトエフ劇場でのリハーサル前日夜になって、コーネリウスの使った英語版ポチョムキンと、今回使う仏語版ポチョムキンの尺が7分も違うことを知る。
楽器のみのリハーサルの後、ふと気になったので、ミヒャエルに一応明日からのヴィデオを見せてくれと頼み、ホテルで眺めてみると全く長さが違う。見当もつかず途方に暮れ、勢い余っていつものインドカレーを食べに出かけると、いつしかエチオピア料理屋に変わっていた。
エチオピア料理がどんなものか知らなかったし、カレーを食べるつもりだったので、斜向かいのタイ料理屋でレッドカレーとトムヤムクンを食べ、帰りに駅構内のスーパーでバナナを一房買い、風呂に入って寝てしまった。
それでも気が弱いものだから、朝3時くらいにはしっかり起きて、一つ一つタイミング合わせの場所を調べ直し、その中に何とか収まるように秒数を計算し直してゆく。
10時からの練習に間に合わせるため、9時半まで必死に計算をして、バナナを齧りながら祈る思いでタクシーに飛び乗る。計算といっても、ひたすら引き算をしてゆく作業なので、息子が先日までやっていたドリルを思い出す。恐らく息子の方が計算間違えは少ない。
9月某日
1907年から9年にジョゼフ・マーシャルによって建てられたピトエフ劇場は、ラヴェルの実弟が描いた大きな壁画が残る、古典様式とアール・ヌーヴォーの折衷様式が美しい。ジュネーブの街はいつ来ても暮らしやすそうな印象を受ける。どことなく明るく輝いてみえるのは、湖があるせいか。
マチネの本番が終わり、隣のイタリア料理屋で簡単な昼食をとり、ボタンをつけるため近くのスーパーで針と糸、改めてバナナを購い控室でボタンつけ。トラムで駅前のホテルに戻って、ソワレまで休み、慌てて劇場に戻った。本番後、ブリスやコーネリアスとホテルまで歩く。
ブリスとは作曲中の室内オペラや、新しく購入したクラブサンのはなし。コーネリアスとは、フライブルグ音大での映画音楽作曲科のカリキュラムについて。
9月某日
生まれて初めてのミュンヘンで、初めてウルフ・ヴァインマンに会う。空港から中央駅までの近郊電車でも、みな表情が明るいのが印象に残る。奨められるまま白ワインを口にすると、美味しくて呑み過ぎそうになった。自分の名前もヴァインマンというくらいで、ワイン好きに悪いのはいないと笑う。
なぜ現代音楽のレーベルを作ったのかと質問すると、自分が知らないものを発見したいからだという。たとえ初め自分が好きではない音楽であっても、自分はそこから何かを学びたいから録音してきたのだそうだ。
夜、鴨肉とクヌーデルとビールで夕食。美味。疲労と心地よい酔いがまわって夜行寝台で熟睡し、夜半に目を覚ますとちょうどブレンネル峠を越え、ブレッサノーネをさしかかったところだった。
この辺りはまだBrixenと駅名も独語で併記されている。
9月某日
今朝6時にメールをチェックすると、成田を一人で出発する息子の写真が義妹より届いた。頼もしく誇らしい精悍な顔つきに見えるのは、少し緊張しているからか。大したものだと感心。
息子自身の希望もあって、子供の一人旅のサービスを頼んだが、この間まで誰がこんなサービスを使うのだろうと不思議に思っていたくらいで、まさか自分が頼むことになるとは想像もしなかった。
こちらが緊張して空港へ迎えにゆくと、思いの外寛いだ顔で出てきて拍子抜けする。
9月某日
仲宗根さんからのメール。何度か沖縄の「屋号」について教えていただく。頭では分かるけれど、実際にどう息づいているのか、メールを頂くたびに自分の目で見てみたい思いに駆られる。
「歴史をみると、たとえば日本書紀というものは、勝者が書いたものだと思うのです。その時勝者が本当に正しかったかはわかりません。沖縄でも同じです。琉球王朝に叛旗を翻した者は数々いるとおもいます」。
沖縄の歴史を教えていただきながら、マルタやキプロスのような小国が長く英国領だったことを思い出し、長くイタリア領でありながら、現在は仏領となっているコルシカの歴史などを読み返す。
コルシカやそのすぐ下にあるサルデーニャには独自の古い言語体系が残っていて、コルシカには古いイタリア語方言が、サルデーニャには古いロマンス語が息づいているのも似ている。
同じように現在に伝えられる沖縄の諸言語がユネスコの消滅危機言語に指定されているのを思い出し、幾つか録音をインターネットで探す。仲宗根さんも言われるとおり、いつの間に標準語の母音が五つになってしまったのか残念に思うほど、豊かな響きがする。
その折、大学時分文献を読んでずっと憧れていた八丈語もインターネットで初めて耳にして、興奮と驚きを禁じえなかったのは、想像以上に万葉に近い響きを実感したから。言葉の美しさに文字通り聞き惚れる。
9月某日
来年初めに書く、波多野さんのための歌のテキストを漸く決める。三浦さんからずっと早く題名を決めてほしいといわれていて、半年間どうにも決められなかった。
賑々しい詩を探し続けていたが、ここ暫くイスラム国の処刑のニュースが続いていたところに、昨日はアルジェリアでフランス人のガイドが殺害され、神戸で女児が殺害されて、衝動にかられ、改めてクロード・イーザリーがギュンター・アンデルスに書いた手紙を全て読み返してみたが、何か違う。
あの時イーザリーは、自分が伝えたいものを伝えられぬ忸怩たる思いにかられていたけれど、今自分が書かなければならないのは、それとは少し違う。
久保山愛吉の資料も改めて読み返してみたが、これをそのままテキストにするのはむつかしいだろうし、特定の国家や人物を糾弾したいのではない。
ジョー・オダネルの「焼き場に立つ少年」のような透徹とした視点で、何かいえるものはないか。
結局、「国破山河在」の「春望」と、「戦哭新鬼多」の「対雪」を使うことにする。杜甫の視点の鋭さに、あらためて心を打たれる。
自然について考えたこと
27日は御嶽山の噴火に非常に驚いた。
以前、何回か、噴火している火山なので噴火するという認識ではいたが急なできごとでびっくりしている。
遭難された方やその家族の方には何と言ったらよいかわからない。
学生時代に山で生活していた身としては、なんともならない人間の身にもどかしさを感じるが、それがやはり人類の弱点であり、人間がおごってはいけないという警鐘でもあるだろう。
異常気象でもなんでもない普通のできごととして、自然の中にいる私たちは常に肝に銘じておく必要がある。
私たちは自然の前では常に無力だ。
島便り(6)
家族に猫が加わりました。
老夫婦と小猫の組み合わせは、なんかヘンです。
40数年東京で猫のいないときがなかったほど猫キャリア高の平野家ですが、島に移住してからは、私たちより長生きするだろう動物と暮らすのはやめようとすっぱり決意していたのに、です。
ある日、車で連れてこられたのは、お寺に捨てられていた白に薄茶ブチの子猫のオスで、かた耳をカラスにやられたらしく負傷猫でした。慈空さんという坊さんからたのまれたので、名前を空(そら)として引き取りました。生後2ヶ月でした。
これがなかなかのヤンチャで甘えん坊暴れん坊の島猫でありました。
日に三度は行方不明になる。名前を呼びながら探すわたしに気がついて、結局は戻っては来る。屋根や大きな樹に登ってしまってから、助けを求めて泣く。しかたなくハシゴに乗って助ける。耳の治療に町に一軒しかない遠くの動物病院へバスに乗って通う。道中泣きっぱなし。わたしを親猫の代わりに、噛む蹴る跳びかかる。おかげで手足はキズだらけのDV状態。夜はわたしの敷きふとん内でゴソゴソ。
家中のそこここには捕まえて来た昆虫やムカデや蜘蛛の残骸だらけだ。
まだ来てから一月半なのに、すっかり俺ん家という態度でのさばっている。
この先、保育園も学校も行かない、したがって宿題もない。
しかも何の役にも立たないのが、猫である。
家の回りは四方を山で囲まれている。毎朝山にかかる霞や雲をみて、お天気状態がわかるようになった。遠くから響き渡るミキィーン、ミキィーンという雄シカのよび声は恋の季節の到来だ。めったに人前には姿を見せないがイノシシやシカ、タヌキ、カラス、トンビ、サル、リスなど鳥や野生動物がひそんでいる。
ノラというより野生猫や野犬もいるらしく、家猫といえどもいったん外に出れば危険いっぱいである。が、子猫が家の回りの畑で走り回っている様子やトンビが上空にくるとサッと身を隠すところを家のなかから観察していると、さすがに産まれた場所のDNAはあるようで危険を察知する能力が高い。
家からは出さないように、と動物病院の小柄な医者から言われたが、そうはいかない。この環境の中で、土砂崩れが起きようが地震がこようが私と生き別れしようが、一匹でも死ぬまで楽しく生きて行けるように育てるつもり。
何の役にも立たないけれど。
台湾とインドネシアのポテヒ(布袋戯)
9/17〜23まで、事業「アジアの人形芸能:ポテヒ(布袋戯)日本公演 ―台湾とインドネシアから―」の実行委員として関わってきた。というわけで、今回はそのお話。
まず、この企画は大正大学教員の伏木香織氏の発案によるもので、日本、台湾、インドネシア、マレーシア、シンガポールの研究者による国際プロジェクトである。中国福建省にルーツを持ち、台湾や東南アジア(インドネシア、マレーシア、シンガポールなど)にかけて広がったポテヒ(布袋戯)指人形劇に関する共同調査をして、まずは最初の成果をこの9月にシンポジウムとして発表すると同時に台湾とインドネシアのポテヒを日本で紹介し、来年以降に出版とDVD発売をし、さらに他の国々でも関連事業が始まる予定だ。
今回日本に招聘したポテヒ団体は、台湾は台北の台原偶戯団とインドネシアは東ジャワ州のFu He An(漢字表記では福和安)。台湾ではポテヒが国を代表する文化表象となっていて、ポテヒ専用のテレビチャンネルもあれば、ポテヒのコスプレをする若者もいるという。つまりそれだけポテヒが娯楽として浸透し、そのぶん新しい影響も受けている。台原偶戯団はその中にあって伝統的でクラシックな路線を維持しているが、オランダ人の芸術監督、ロビンのもと30か国以上で公演し、創作も多く手掛けていて、日本でも2009年に『SPAC春の芸術祭2009』(静岡芸術劇場)に招聘されている。一方、インドネシアでは2000年代初めまでの30数年間、華人文化が禁止されていて、専門家にもインドネシアにポテヒがあることはほとんど知られていない。今回、海外初公演となるFu He Anは、厳しい政治の下、ジャワの田舎の寺廟で細々とポテヒを継承してきたので、意外に古い要素を伝えている。けれど、言語はインドネシア語に置き替わってしまっているというのが他国でのポテヒ継承状況と異なる点だ。
台湾の上演メンバーは2人の人形遣いと演奏家兼歌手の3人で、うち2人は女性という構成。インドネシア組は2人の人形遣いと3人の演奏家で全員男性、メインの人形遣いが語りもする。2団体の特徴をざっくり比較すると、イケメン・ヤング台湾組と、メタボ・おっさんインドネシア組である。もっとも、インドネシア組には今回の滞日中に26歳になったというイケメン・ヤングが1人いて、彼が両者をつないでいた感がある。
上演内容で比較すると、台湾組は古典作品をオムニバス風にアレンジし、語りがなく音楽・歌と人形さばきで魅せる舞台。美しい歌声にのせて美男美女人形が繊細に動くシーン、人形が煙草の煙を吐くシーン、華麗な手さばきで演じる戦いのシーンと、短いながらも変化のある場面をテンポよく展開する。二胡代わりのバイオリンの音は甘美で、男性や女性の歌声は官能的で、そのメロディーがずっと耳に残る。美しいなあ〜、こんな世界もあったんだなあというのが正直な感想。
一方、インドネシア組は伝統的なポテヒのやり方で、1人の人形遣いが声色を変えて全人物を演じ分けながら、物語をずっと語り続ける。その点はワヤン(影絵)とも共通している。最初は王や大臣が出てくる重々しいシーンから始まって、最後は戦いのシーンというのもワヤン(影絵)の展開に似ている。1人の人形遣いによる語り芸というのは、ワヤンを知る人には珍しくないのだが、この種の芸を初めて見た人にとっては驚きだったようで、とにかく語りの迫力に圧倒されたという感想をいくつも聞いた。音楽は二胡も使うけれど、打楽器やチャルメラの音が目立ったかもしれない。台湾の洒落た演出と比較すれば素朴な展開だが、インドネシアの舞台は終わったあとに何か心に残るものがある。それは何だろうと思ったのだが、もしかしたら心象風景にあるお祭りのイメージをかきたてられたからかもしれないと思い至る。いつも春頃に廻ってきた神楽の笛や鉦の音、秋祭の雑踏...。そういうものを楽しみにしていた子供の頃の自分が蘇る。そういえば、神楽や秋祭を担っていたのも、こんなおっちゃんたちだったなあ...。
こんな対照的なグループだが、それぞれに事業から得るところがあったようだ。インドネシア組は長らく内内でポテヒを継承してきたため、自分たちが伝えてきたポテヒの福建語の部分(人形の登場シーンで使われる詩)の発音がどの程度正確なのか、不安があったようだ。(台湾の人たちは、自分たちと同じ語りだ、意味も分かると言っていたけれど。)その発音を台湾に行ってきちんと習いたいとか、台湾の人形遣いの技を習いに行きたいとか台湾グループにいろいろと相談していたので、それが実現すると嬉しい。一方、台湾組は台湾組で、インドネシアのポテヒの古さを発見したようだ。インドネシアでは、人形遣いは座って上演するけれど、台湾グループは立って上演する。けれど、台湾の人形遣いのLaiさんによれば、彼の師匠のお父さん(=李天禄氏)世代までは座って上演していたらしい。その世代のやり方がインドネシアにはまだ残っていて、人形舞台に照明をあてるやり方など、グドの舞台は台湾の古いポテヒのスタイルと同じだと言う。それから「ジャワのワヤン・ポテヒ」の本に採録されているFu He An団長のコレクションの古いポテヒ人形の中には、中国のものだけでなく明らかに台湾にしかないデザインの人形もあると指摘していた。またロビンは、インドネシア側が何のキャラクターか分からないと言いつつ展示していた人形頭部の1つを指して、これは台湾では劇神の人形だよと指摘していた。インドネシアでは劇場と関係の深い神への信仰も弾圧されたので、分からなくなっていたのだろう。
東京と横浜で合同で公演やワークショップをしてきた彼らも、最終日の23日は台湾組が東京で、インドネシア組は奈良県で別々に公演。私はインドネシア組についたのだが、22日の夜、奈良の宿泊施設で皆の部屋から聞こえてくるのは台湾組のポテヒの録音の麗しい声。まるで台湾の宿に泊まったみたいだった。皆も台湾組と離れてちょっと寂しくなったのかもしれない。翌日の公演後は、主催をしてくれたNPO大和社中の人たちと一緒に懇親会をしたのだが、社中の人たちもおっさんばかりだったので、普通の酒盛りのノリになる。社中の人たちから、おそるおそる「1曲だけ自分たちのために二胡を弾いてもらえないかな...」と乞われると、待ってましたとばかりに演奏が延々と始まり、社中側からも手拍子が始まってやんやの騒ぎ。日本側が「二胡があると、お酒がすすむね〜」なんて言えば、インドネシア側も一升瓶を抱えてグビグビやっている。それまでも、毎日のイベントが終わると台湾組とインドネシア組の演奏家たちの間で即興演奏が始まっていたのだが、あくまでもセッションと言う感じでこういうノリではなかった。もっともお酒も入っていなかったが。都会派の台湾ヤング組がここにいたらどんなノリになったんだろう...。「おじさんは嫌ね...」とか思われたかも。
●事業の公式サイト
アジアの人形芸能:ポテヒ(布袋戯)日本公演 ―台湾とインドネシアから―
http://potehi2014japan.blog.fc2.com/
橙の影
橙色の帯 西の空へ伸び 沈んで 枯れてゆく
重く冷たい風が吹き 背中にのしかかった
地上の色を こっそりと土が抱え込むとき 秋は終わる
秋が終わる前に 橙の影が隠れている道を歩いた
ぼくの足音をきいて 鈴虫はしん、と黙った
"冗談"を真に受けて
東京の下北沢にある本屋さんB&Bで4月から毎月1回開催されてきたイベント、『片岡義男と週末の午後を』の9月13日のゲストは町山智浩さんだった。6回シリーズの最終回にふさわしく、愉快に盛り上がった2時間半だった。このシリーズは、作家の川崎大助氏が構成、司会を担当し、4月はブルータス編集長の西田善太さん、5月は作家の堀江敏幸さん、6月は写真家&作家の大竹昭子さん、7月は翻訳家の鴻巣友季子さん、8月は翻訳家の小鷹信光さんをゲストにむかえた。毎月1回の週末の午後は、あっという間にめぐって来たけれど、春が過ぎ、夏が来て、秋になり、季節は確かに過ぎた。お気に入りなのか、同じデザインのシャツで通した片岡さんとすごす特別な土曜日だった。
町山智浩氏は1962年生まれの映画評論家。B&Bのホームページに掲載された前口上によれば、―『宝島』編集部を経て『映画秘宝』を創刊、渡米後も大活躍の町山さんは、「テディ」時代から片岡義男作品を愛読していました。拳銃、アメリカ犯罪小説、ビートルズ、オートバイ......若き町山さんが「片岡義男というフィルター」を通して垣間見た、まばゆいばかりの「男の子文化」の世界とは何だったのか? 神保町古書店片隅のペーパーバックから現実のアメリカ大陸まで、ポピュラー・カルチャーを足がかりに駆け抜けた先達(片岡さん)と後輩(町山さん)が、熱く語りつくすもろもろ、たっぷりお届けします。―との事だ。
町山さんの片岡作品との出会いは、KKベストセラーで発行されていたジョーク本だったという話から対談はスタートした。1974、5年頃、小学校でジョーク本のブームがあって、片岡さんがしとうきねお氏と組んで作っていたジョークやいたずらの本が好きだったという。その後片岡訳の『ビートルズ詩集』のお世話になり(安い洋盤を買っていたので訳詩が付いていなかったのだ)パイオニアのCM「ロンサムカーボーイ」の影響を受けて、荒野で缶ビールを撃ってみたくてアメリカに渡ったというのが町山氏の物語だ。
さあ、色々と聞いていきますよという矢先に、片岡さんは、やわらかい声で「みんな冗談です」と静かに言ったのだった。あれを真に受けたの?と、やさしくなだめるように。いたずらが成功した時のようにうれしそうに。
真剣に聞き入っていた話を「冗談だよ」と言われたら、普通は「なーんだ」とがっかりして、ちょっと怒ってその話を手放してしまうものだけれど、片岡さんに「冗談だよ」と言われるならば「ええ、分かっていました」と、できれば共犯者的な笑顔でその言葉を受け止めたい。町山さんも「冗談」と聞いて、がっかりしているようにも、もちろん怒っているようにも見えなかった。
片岡さんが"冗談"に独特の意味を持たせているのは分かったので、注意深く耳を傾けていると、映画「激突」のおもしろさについて話している時に、冗談とは「抽象的な高みにあがること」という言葉がつぶやかれた。リアリズムの世界に張り付いて生きるより、"冗談"によって現実から浮き上がった方がおもしろいよという事らしい。笑い飛ばせる距離まで現実から離れること、それが抽象化ということなのだろうか。
片岡さんの"冗談"を真に受けて、拳銃やアメリカを体験した町山さんだが、片岡作品を追体験してみて、「なんだ、実際は違うじゃない」と思う事はなかったと話していたのも印象的だった。片岡さんによれば「"冗談"を成立させるためのリアリズムですから」ということだ。
イベントも終わりに近づき、鞄を持って退場という頃に話された、ロックンロールについての話も心に残った。町山氏は、片岡さんが「ロックとは嫌なんだ、嫌だと思う事だ」と書いていたのにとても影響を受けたと語り、映画を見たり、音楽を聴いたりして好きなもの、嫌いなものがあるけれど、「自分は現実を肯定しているものは嫌なんだと分かった。現実を肯定するなら、芸術は要らないじゃない?」と語った。それを受けて片岡さんは「町っ子がロックに行き、田舎にいた子はブルースマンになった。町っ子はティーンエイジャーとして守られた時代があるからロックンロールに行った」と話していた。「町っこがやってられなくて、西部に行ったのがビリーザキッドだった」という片岡さんの言葉に対して、町山さんは「ロックが出た時、反抗の手段が初めて銃でなくなった」と返していた。町っ子(シティボーイ)の片岡さんもティーンエイジャーとして守られていたから、冗談を言う余裕があった。片岡さんにとっては、銃ではなく、言葉だったのだろう。
風が吹く理由(6)プラットフォーム
「この子ができてから」と言って彼女は、また西瓜のように丸く突き出たお腹をさすった。きっと無意識のしぐさなのだろう。何度も何度も、彼女はまるで占い師が水晶玉にかざすかのように両手でお腹をさすっている。目のやり場に困り、私は彼女の肩の向こう、通り過ぎていく老女を眺めた。出産に話の矛先が向かないよう、注意深く言葉を選んでいるつもりなのだが、うまくいかない。臨月の妊婦にそれ以外の話題を強いるほうが無茶なことなのかもしれない。
彼女はここ数年、私の最も身近な友人だった。お互い仕事を持っているから、頻繁に、とまでは言えないけれど、それでも時間に都合がつけば、一緒にお茶を飲んだり、美術館で絵を観たり、時には小旅行へ出かけたりもした。女同士のたあいない、ありふれたつきあい。それは、女友達が少なく、音楽業界という男社会で働いてきた私にとって、新鮮な、そして楽しい経験だった。
妊娠したことを知らされた時、彼女が子供を欲しがっていることは知っていたので、素直に、良かったね、と思った。そして、そう彼女に言った。あの時、私は、おめでとうという言葉を使っただろうか。使わなかったような気がする。「もう子供がいなくてもいいかなと思い始めている」とこぼす横顔を見ていただけに、私には、「良かったね」が、何よりふさわしい言葉に思えた。
「これから生活が変わるだろうから、あまり会えなくなるね」と私が言うと、彼女は、私の言葉を打ち消すように、そんなことはない、むしろ身軽なうちに、行きたいところに行って楽しむつもりだ、と笑っていた。
彼女は私の家の近くに建つ総合病院を産院に選び、検診の後にはふたり落ち合って、午後の数時間、お喋りを楽しんだ。そこだけ切り取れば、それまでと変わらぬつきあいではある。しかし、最初は、しきりに、子供が生まれるという実感がない、と言っていたのが、数週間も経つと、彼女の話は、出産への不安や子育てへの緊張に内容が移っていった。
私の妹は二児の母だが、こちらが気を揉むほどあっけらかんとした様子で出産までの時間を過ごしていたこともあって、私は、彼女のナーヴァスな表情に驚き、内心戸惑っていた。力になってあげたいけれども、出産経験のない私には、リアリティのない話ばかりだし、体調のこととなれば尚更で、同じ女の体を持っていても、共有できる悩みとは言い難い。子宮、胎内、妊娠中毒症、バースプラン、帝王切開・・・馴染みのない言葉に、私は相槌を打ちながらも、ごめん、悪いけど全然わかんない、と心の中でつぶやいていた。そして、ぼんやり、早く生まれてくれないかなあ、と考えるのだった。
子供が生まれたら、数年の間は怒涛の勢いで日々は流れていくだろう。その流れの中には苦労も感動もあるだろう。そして、そのほとんどは私に無関係なことだろう。私たちは、私たちが互いの話し相手だったことをたぶん忘れる。それが一時的なことだとしても。そう思った。そして、ならば、そのことに、つまり、彼女の話し相手の、もはや私が適任者ではないことに早く気づいて欲しいと、私は祈るような気持ちで願っていた。
そう思うには私のほうにも事情があった。いままでこうして女友達と過ごしていた時間を、これを機会に仕事に振り替えようと考え、数年前から温めていた企画を形にすることにしたのだ。彼女のお腹の中で小さな命が目鼻をつけ、四肢を伸ばしている間、私は新しい人間関係を築き、その準備に取り掛かっていた。私の生活も、日々、何かしら変化があり、刺激に満ちている。しかし、その喜びを報告すべき相手は、彼女ではないような気がした。彼女の頭の中と私の頭の中には、違う景色が広がっているのだ。
まるでプラットフォームにいるみたいだと思った。友達を乗せた列車が発車するのを、私はプラットフォームで見送ろうとしている。出発時刻まであと数分。早く出発してくれないかな、そう思いながら、発車のベルが鳴るのを待っている。いま感じている気まずさは、あの気まずさによく似ている。そして、私には、列車を見送った後、向かう場所が―既に約束があるのだ。
車窓が遠く流れていくとき、ひとは別れの寂しさよりも、やっと行ってくれたという解放感を味わっている。私もそこに佇むことなく、踵を返し、階段を駆け下りるだろう。タクシーに飛び乗って、待ち合わせの喫茶店に向かう。素早く相手の姿を探し出し、「遅くなってごめんなさい」と謝ってアイスコーヒーを頼む。私はバッグからタブレットPCを取り出しながらこう言うだろう。
彼女にも。私にも。すべての人が持つ未知なる明日。
「この間、持ち帰った件だけど、いいアイディアが浮かんだの」
119 アカバナー4 ぴー
「師父よもしもやそのことが
口耳の学をわずかに修め
鳥のごとくに軽跳な
わたくしに関することでありますならば」......(野の師父)
と、宮澤賢治はここまで書いて
「軽跳」という語でよかったか
誤字のような気がするし、と
でも藤井さん、軽跳でゆきましょうや はは
と賢治はわらう、振り返りながら
「そのこと」とはなんでしょう、賢治さん
作物への影響
二千の施肥の設計
そうね、施肥と「風のことば」(のどにつぶやく)
わらうはずはないね、藤井さん
前月にはあけがたの奈良の鹿のぴー 尻から出すおならの音で眼を覚まし
今月は「かげぐち」とたたかいましょう、百の種類と言いました
わあ 百も数えるのです。 しかも「思いを尽くして
ついに知り得ぬものではありますが」と
賢治は言います。 ぴー、知り得ぬことと知りながら
でも一つ一つ、畝に沿って播種のように
施肥を続けましょう、この世への施肥
(富山妙子さんのイベント「海からの黙示」へ出かけました。シカゴ大学のノーマ・フィールドさんたちのサイトには富山さんの絵が使われています。ゲーテの「魔法使いの弟子」たちが集まりました。富山さんは言う、「3・11からあとの日本社会は、厳粛な祈りの時にあって、近代が犯した何かを、償おうとしていたし、私〈富山さん〉も絵をかき続けた。それが一年も経つと、どうだろう。近代が滅んでゆく。ぶちこわしてゆく日本。それでも次代への贈り物をかき続ける」と。制作を始めて二年目、異形の蝶の死が発見されたという。「死して成れ、蝶よ」と、苦境にあるときのゲーテからのメッセージだと言う。すみません、曖昧な聞き取りで。鎌田さんは大きなスクープ「吉田調書」を押しつぶす一斉の反朝日キャンペーンとは何だろう、と問いかけていた。私もここに書いておこう。いちえふ(という漫画がある)から第二原発へ逃げてどこがわるい。おれだってヒラだから逃げるよ(とあのときおれもシンクロしていた)。東電社員の名誉が傷つけられた? 吉田はあとからであろうと「2Fに行った方が正しい」(幹部は別だろうけど)と、それを朝日が報道する理由はあるし、近代百年、新聞が「ごめんなさい」をさせられてきた数ある歴史のなかで、このスクープから調書が出てきた意味はもの凄く大きいね。三十年後に公文書館から出てきたって意味ないんだ。というより、国立公文書館あたりに眠る「資料」類はいろんな隠蔽工作の結果どもなんだから。そうさせなかった、今回の歴史への関与は新聞の役割そのものであり、施肥(ではない、是非)高く評価しなければ。)
避難民の死
夜中のフライトで、アンマンからアルビルに飛ぶ。飛行機の中で夜が明ける。地平線から真っ赤な太陽が顔を出すとあっという間に、周りは明るくなる。9月も終わるというのにまだまだ日差しが腕に刺さってくる痛さ。
クルディスタンについて真っ先にキリスト教地区の避難民テントに行ってみる。「イスラム国」に追われて逃げてきた脳腫瘍の男の子アーサー君は生きているだろうか。仮設テントのベッドの上でほとんど意識もなかった彼が元気になっていたらそれは奇跡だろう。
「アーサー君は?」「10日前に亡くなったよ」
やっぱり奇跡は起こらない。
数日後、僕たちが支援している小児がんの病院に行き、担当のペイマン先生と話す。ベイジというところから避難してきているアハマド君のことを思い出した。ベイジは石油の製油所がありイスラム国が支配している。
「アハマッド君は?」「20日ほど前に亡くなりましたよ」
アハマッド君のお父さんは、精製所の中で、園芸の仕事をしていたけども、アハマド君を連れてアルビルまで逃げてきた。アハマド君は再生不良性貧血で化学療法を受けていたが、薬の効き目がなく海外で骨髄移植するしか生きる望みはないとのこと。僕はペイマン先生に呼ばれて、「お父さんがお金は何とかかき集めると言ってる。問題は、海外に行くためのパスポートをイラク政府が発給してくれないのよ。何とかならないかしら」と相談されたのだ。
イスラム国が勝手に国を宣言してパスポートを発給するというから、バグダッドのパスポートセンターは、ベイジにいる人間はイスラム国のパスポートを使えと突き返したのか? それで僕は怒りに震え、パスポートを持つのは当然の権利。人道的な理由から即座にパスポートを出すべきである趣旨を書いてあげた。ぼくのレターがどれだけ効き目があったのかわからないが、9月頭に会った時は、お父さんはうれしそうに、「パスポートは発給してもらえることなったんだ」といっていた。「私がインドの病院と話をつけてあげたの。骨髄のマッチングも彼の弟で90%でしたので、お父さんも車を売ってお金の準備を始めました。」後はパスポートだけ。しかし、その前に、アハマッド君は体調が急激に悪化し、亡くなってしまった。翌日、イラク政府からパスポートが届いたという。
他にも「あの子はどうしてますか?」と聞きたい子どもがたくさんいるが、聞けなくなってしまった。
JIM-NETでは、10月25日から11月8日まで活動10周年を記念したイベントを開催します。
詳しくはhttp://jim-net.org/blog/event/2014/09/2.php
加齢か
九月、まだ蝉はうわんうわん鳴いている。とても久しぶりに日曜日、仕事休みになったので子供の自転車を乗る練習のため運動公園に行く。まだ灼熱の太陽の下、一時間ふたりで自転車で遊んだら汗だらだらになる。運動公園の沖合い、開発のための埋め立てはすでに人工ビーチが完成したと、ニュースでやっていた。見晴らしがわるくなっている。
そんな九月に運動会、なんでこんな時に。それも最低気温は二十七度、最高気温三十二、三度の日に。日差しは容赦なく、二十分くらい太陽を浴びると顔と腕は真っ赤か。日焼け姿がまた間抜けでめがねをかけている目の周り以外赤く、コントの酔っ払いメイクみたいな状態が四、五日続く。太陽の下は疲れる。
今年からか、病院に行くことが多くなった。子供がちょこっと入院したり、身内の入院だだったり。七月あたりからはおのれ関係の通院。今年に入っていつごろだろうか、右肘に軽い痛みがあり適当にほっといていたのがだんだんと、「えっ!」ということになった。日常の動作が思うままにいかなくなった。まず歯を磨くときの右腕の動き、そしてお風呂で身体を洗うとき、肘の運動がつらくなる。こういうときに身体の日常の動きがどういう角度やひねりかたをしているかあらためて認識しはじめる。食事のとき、車の運転でもだんだんと痛みが出るようになり、病院に行く。骨には異常がないため腱が炎症を起こしてるという診断で痛み止めの飲み薬と湿布を処方される。飲み薬の注意書きに酒飲みはこの薬を服用すると肝臓が悪くなるので、薬を飲んでいる間は酒を飲むな、と書かれていた。我慢できない痛みではないので飲み薬は捨てる。まわりもだんだんといい齢になってきているので自分だけガタが来ないわけはない。今月で通院はなんとなく終わったのであとは適当にちょっと前とは違う肘とつきあうことにする。
青空の大人たち(4)
やはり物事は仙人から教わるのがよい。仙人というのは会えるんだか会えないんだか話が聞けるんだか聞けないんだかあやふやで山奥にでも棲まっているというのが相場であるけれどもこの場合は尖った山ではなく海の向こうでむしろ電子の彼方と言おうか、いわば電子の歌姫ならぬ電子の仙人といった趣である。
スティーヴという名のおじいさんはこちらからしてみれば文字しか見えないため本当におじいさんなのかすらわからないのだがおそらくはその含蓄ある物言いから相当の年齢であることは自ずと知られ、高校生の自分が何やら拙い英語でメールを書くやすぐさま理知的な教えをくださるたいへんありがたい存在であった。手元では調べのつかないこと、自分の考えの足りないところ、知識というものを、電子を介しながらろくに言葉もわからないような小童に平たく(あるいは簡潔に)伝えるそのさまは、受け取る生意気な小童にしても感銘を受けざるを得ない。
趣味の関係からこのおじいさんとはつながりができたのだが、国内で同じ趣味を持つ大人たちというのは、とかく押しつけがましく妄想をたくましゅうするため、当時の自分はまったく理性的な話ができないとすこぶる不満であった。その趣味の中心話題たる架空の人物は、その時代にあってかなりの論理的思考を持つというのに、その人物を好きだとかいう人々がどうしてそのように非論理的であるのかさっぱりわからないといった風情の自分にとって、その仙人はほとんど初めてと言っていいほどに〈その人物〉に近い思考を持つ人であった。
スティーヴ仙人が教えてくれたことはたくさんある。ソとスのこと、膝のこと、うら若き未亡人のこと、色彩と音楽のこと、研ぎ石のこと、友人と昔話をした日付のこと――ただ仙人はアドバイスというものを一度もしなかった。それまでに会ってきた同趣味の大人たちはみな一様にああした方がいいこうした方がいいと言い、自分も最初のうちはむしろそれを積極的に求めようとしていたふしさえあるのだが、やがてそれは忠告というよりも妄言といった類のものになっていき(あるいはそもそもからそうであったのかもしれない)、何かしら身勝手な理想へと近づいていくのだが、かたや仙人は指図めいたものを一切しなかった。指導すらなく、ひたすら問いに答えるといった風であった。
問えば応え、問わねば応えぬ。霞ではなく電気を食べて生きる仙人は、むしろこちらの問いの質こそ試しているようにも思えた。ただ仙人を紹介してくれた女性によれば、くだらない雑談でも喜んでくれるとのことだったから、こちらがただ仙人扱いをしていただけだったのかもしれないが。そのポール・スティーヴン・クラークソンJrが亡くなったのはそれから五年ほど後のことで、六五歳だったという。想像していたよりは、若かった。
ただその事実を知ったのは後年のことで、あわあわとした不安定な通信のなかで少年が育つにつれ仙人は電子の海に隠れたという印象しかない。ネットワークという霧に覆われた網の向こうにいる賢者だったが、実際には会えないという距離をしてやはり仙人然としたものに思わせたのだろう。少年とは勝手に学ぶ生き物であって、また少年もわきまえたものでうってつけの仙人を探しただけかもしれない。
仙人とまでは行かなくても電脳の網でほんの少しだけ近しく接した多くの人々というのは妖精のようなもので、少年の主観から見ればひらひらふわふわと何かの拍子に寄ってきては何か会話なりいたずらなりをして物陰に去って行くそれである。思い返してみればいずれの相手とも今や通信はない。渦のある街で働いていたという上司嫌いのエルフの女性は元気だろうか。北の大地で看護士を目指していたらしいピクシーの女の子はどうだろうか。そのとき語った言葉とともに空気のなかへと溶けてしまった。
しかしなかでもノーム種の男性については、いまだにひょっこり出てくるのではないかと思われるところがある。自分よりも一〇ほど年長で、かぶっている帽子のことを触覚だとして取ると死にますと言い張る人物であったが、その持ち前の知性と、大地の怒りとが、電子の潮の満ち引きのようにやってくるのが常だった。
彼もまた同じ趣味・関心を持ってはいたが、いつも局外者で、山奥というよりは孤島にひとり棲まっている風情があった(むろん実際に住んではいない)。世を儚み隠棲しつつも、時には吠え、無知と不正義を呪った。彼からしてみても、当初は私自身も呪詛の対象であったのかもしれないが、混沌の周辺、漢語の使い方、コメディアンの真価について等々――幾度とない対立を経て、共感のようなものが生まれるようになる。
やはり自分も彼にとっては何かしらの妖精であったのではないかと思われるふしがある。彼はやはり土らしく、ずんっ、ずんっ、といった振る舞いであったが、自分について考えてみると、どちらかと言えば風のように、そより、そよる、といった感じであったから、シルフのようなものだろうか。彼が私のことを、一種のそよ風や涼風のように楽しんでくれたということでもある。暑苦しく彼自身嫌う俗世間のなかを、あるいは荒れる怒りに熱っぽくなっている彼のそばを、私がたまにふわりと通りがかると、何やら彼は嬉しそうな反応をしたのである。
そこで私は私で、彼の性格を知っているから、いじわるっぽく微笑むのであるのだけれども、そうしてみると電子の世界で妖精であるというのは、あながち悪いことではないのかもしれない。何かしらの場所に、そよそよと立ち寄るというのはむろん現実でも好むことではあるけれども、どちらかといえば現実ではさしたる姿として見えないが、仮想空間ではどうやら妖精然と具象化されるようなのである。
孤島に立ち寄る風の精でこれからもありたいし、またゆくゆくは電子の仙人のような境地にも至ってみたい。物質的なものでないというのがやはり重要なのだろう。私たちの関係は、琥珀の力を通じて静かにつながっては切れるが、見えないからこそその道の始まりと終わりに互いにほのかな実存が観じられるというわけだ。
カラワン40周年ライブ
9月27日の東京公演に行った。札幌や山口から来た人たちもいて、こんな時でなければ会うこともない人たちに、何十年ぶりの挨拶をかわした。
タイもすっかり変わったのかもしれないが、1974年にバンドができてから、何回かのクーデターや政変を経ても、スラチャイとモンコンの2人は活動を続けているし、それぞれ別なバンドも作って公演してもいるようだ。今度もまだ学生のコンカモンとスラチャイの息子カントルムという、オリジナルの歌を聞いて育った世代といっしょに演奏している。豊田勇造ともすっかりなじんだ音楽のやりとりがあった。農民も水牛もあの頃とはちがうだろうが、日が沈み、セミが鳴き、風や空があって、平和や自由ということばも、まだいきいきと歌えるのだろう。
ギターや、ゆるいリズム、タイ東北の限られた音をことばの微妙な抑揚で使いまわすメロディーはあいかわらずで、歌で世界のなかに立っている姿勢は、草のようにしなやかに見える。ゆったりしているが、スラチャイの声は細く高く、弱くて勁い。色っぽく、おかしくもある。モンコンの粗さを含んだ低い温かい声とは対照的で、この2つの声の出会いが、年月を経て削ぎ落とされたカラワンの歌をいまだに織りつづけているのだろう。同時代に出発した他のバンドは、アメリカのフォークの影響からぬけられなかった。不器用で政治性だけで聞かせていたそれらのバンドはもう聞かれない。「カラワン」だけは、その田舎っぽさでここまで生き延びたのだから、柔軟な姿勢もあるが、ユニークな音楽のちからが大きいのだろう。 「浮かれ騒いだメイドイン・ジャパンとU.S.A.のプラスティック・バンドが消えたあとも、貧民の牛車のキャラバンはすすむ」、という「カラワン」のテーマソングそのままに。
水牛楽団は10年も続かなかった。80年代の日本のバブル経済のなかで労働運動も市民運動もなくなってしまい、20年後に起こってきた別な運動とのつながりもない状態という外部環境のせいだけでなく、内部組織や考えかた・感じかたの不自由さで崩れたとも言える面がある。残っているのは電子領域の「水牛のように」というこのことばの場になった。「水牛楽団」の録音を集めてCDにしてみたときに、「こんなにへたで、ばらばらだ」と言われ、何となくそう思っていた音楽が、ずれと多様さを生かす一つのモデルとしていまだに使えるという感じがした。しかし、グループもなく、それを支える人びとはない。音楽はちがう場所に隠れている。
日本では、自然とか平和主義というだけでウソに聞こえ、だれともしれないあぶらぎった顔まで浮かんでしまう。微笑みの裏に暴力をひそませているタイの権力と、偽善と絆という拘束で支配する日本では 音のかたちもちがう、とふだんは思っているが、こんなに単純で繊細な声を聞くと、ちがう状況でも、まったくあたらしいあらわれのなかに、この声を生かせないかと思うときがある。