万華鏡物語(4)流転

長谷部千彩

 七月後半、私はとある撮影に立ち会い、都内をロケバスで移動する日々を過ごした。そのうち一日は、千葉県外房までの遠出となった。コロナウィルス感染症発生以降、外出を控えるよう努めていた私にとって八ヶ月ぶりの東京脱出であった。
 機材を抱えたスタッフとともに切り立つ崖をのぼり、海を眺めると、その日は曇天。空と海を分かつはずの一線は、ぼんやりとかすんでいた。去年ブエノス・アイレスで見た海とも、一昨年に見たドブロブニクの海とも違う、水の色はノルマンディーの海を思い起こさせた。マスクをずらし、潮の香りを嗅ぐと、私は急にフランスが恋しくなり、旅立つことの叶わぬこの事態をひどく恨めしく思った。いつになれば私たちは、気まぐれに列車に乗ったり、飛行機に乗ったりできるのだろう。

 撮影の最終日、次の移動までの待ち時間、数名でテーブルを囲んで休憩していると、それまで寡黙だった撮影アシスタントが、思い切ったように口を開いた。アートディレクターと私の仕事について聞きたいと言う。彼女は美大の四年生。就職活動をしなくてはならないのにまだ何もしていない、気が重い、と伏し目でつぶやいた。

 アートディレクターの丁寧なアドヴァイスを彼女とともに聞きながら、私は彼の話が長引くことを願っていた。そうすれば時間切れになり、この質問から逃げられる。
 アートディレクターは、大きな事務所で働くこと、小さな事務所で働くこと、それぞれのメリットやデメリットを説明したあと、「基礎は大事だよ」と付け加えた。フォトグラファーも「うん、基礎は大事」と言った。私は思わず口走ってしまった。
「どうしよう、私、基礎の勉強していない、私の年だともう基礎の勉強は間に合わない・・・」
 冗談ではなかった。私は文章を書いてお金をもらっているけれど、文章の書き方を学んだことがない。アートディレクターとフォトグラファー、若くして活躍しているふたりは、学ぶべきときに学んだからこその信頼を得ているのだろう。私がいまだにぱっとしないのは、そこをスキップしているからかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。

 余計な発言をしたために、アートディレクターの話に区切りがつき、矛先は私に向かった。
「私は就職活動をしたことがないし、私の話はたぶん何の参考にもならないよ?」
 そう答えたけれど、彼女がそれでも聞きたいと言うので、どういう経緯でいまの仕事に至ったか、私はかいつまんで話し始めた。しかし、いくら、端折って、と心がけても、話がずるずると伸びていく。アートディレクターのようにすっきりと整った話にならないのだ。あのときこういうきっかけがあって。あのときこういうひとと出会って。あのときこういう誘いがあって。話しながら、再確認させられる。私には目指すものもなく、積み重ねたものもなく、選択はいつも行き当たりばったりだった、と。

 就職活動をしなかったのは、深い考えがあってのことではない。私が採用されるわけがないと思っていたのだ。採用されるわけがないのに応募するなんて無駄。惨めな思いをするだけ。恋愛にしても仕事にしても、誰かひとりの代えがたい存在にはなれるかもしれないけれど、自分が大勢のひとの中から選び取ってもらえるような人間だとは、どうしても思えなかった。

 だけど、それだけだっただろうか。これから社会に出て行こうとしている女の子(私には二十二歳の彼女が女の子に見えた)との会話は、私が二十代の頃に胸に描いていたもうひとつのことを思い出させた。
 私はあの頃、“流転する人生”を送りたい、そう考えていた。先のことなんて決めずに、川に浮かぶ一枚の葉のように、右に左に流れていく。時には岩にぶつかり方向を変え、時には小枝の溜まりに留まり、時にはくるくるとその場で回る。どこに向かうのかわからないって楽しいな、そんな風に生きて行けたら、と夢想していた。
「心の中に縦軸を持っているひとが苦手」と言っていた時期もある。名声を博するとか、力を持つとか、裕福になるとか、得ることを目指し、登っていくイメージを持って生きるひとに、私は魅力を感じることができなかった。
 もしかしたら、そんな生き方には、私の与り知らぬ充足感が用意されているのかもしれない。得ることで、より自由になれるのかもしれない。でも、私の目には、そういったものよりも、風に引きずれられアスファルトを転がり駆けるイチョウの黄葉のほうが美しく映ったのである。

 彼女の母親ほどの年齢になった私が、いま振り返るならば、概ね願った通りの暮らしが送れたと思う。その結果、いつもというわけではないにせよ、そこそこ楽しく過ごしてきたとも思う。それで乗り切れたのは、人生の前半、日本の経済がいまほど停滞していなかったからかもしれない。2020年を生きる若いひとたちにとって、現実はもっと厳しいものかもしれない。
 私の話はたぶん何の参考にもならない。私が彼女に示せることは、「就職活動をしなくても、なんとか生きている大人がここにひとりいる」ということだけだ。だから、就職活動の末、良い結果が得られれば、彼女にとって私は無関係な存在で終わるだろう。ただ、もしも良い結果が得られなかったときは、私のことを思い出してくれるといいな、と思う。

 就職活動をしなくても、なんとか生きている大人がここにひとりいるよ。
 就職活動をしなくても、なんとか楽しく生きてきた大人がここにひとりいるよ。

トーキョー・アラート

北村周一

吐く息も吸う息さえもつつぬけのマスク貰ってよろこべますか?

質問は受けず応えずはぐらかす逃げゆくさきの私邸富ヶ谷

一行に終わるいちにちみずからの言葉もたねば籠るほかなし

ものいわぬ報道あいてにボウよみによむに任せし国家の大事

私見なれど髪の毛なべてふさふさなりプーチン以外の独裁者たち

「Stay」あれば「Go」すらもあるこれの世の泣く泣くイヌの振りするわれら

イケイケの声に押されて自粛からめざめしのちの五分余りのユメ

「GoTo」の声が高まるそのかげで官民一体選挙がちかい

夏の旅 行くも招くもうたかたの金が金よぶ「GoTo」地獄

賑々しき声はどこから二階から利権まみれの「GoTo」は行く

なにもかもが蒙昧にして出口なき自粛暮らしに雨止まずなり

わすれやすき都民がたくす一票の重さ軽さも七十五日

フリップを手にしてとくとこのわたし見よとばかりに示す公約

なにごとも他人事のようアナウンス口調にかたる明日の都政は

プーチンとコイケユリコとわが夫婦おない年なりこの世は記録

七いろに揺れる「虹橋」背景に以心伝心自衛のススメ

橋ひとつ深紅のいろにそめ上げてライトアップに手抜かりはなし

二度はないトーキョー・アラートさめざめと目立つところに咲くマンジュシャゲ

赤赤と炎える「虹橋」ありしことも褪めるにはやきトーキョー・アラート

猩猩緋かかるおいろに灯さるる都庁すなわちトーキョー・アラート

看板と地盤とカバン 金銭の出どこは同じひとつの財布

(ワイロ)その恐怖にひとり口噤むのみにはたらく思考停止は

賄賂にもいろいろあると知りながら謝罪即ち不起訴ご赦免

ほんとうのことが知りたい証したいマスクしてても声が震える

「疼き」のようなもの

越川道夫

つい少し前までドクダミが白い花をいっぱいに咲かせていたかと思うと、7月の半ばにはその花も終わり、茶色の花芯を残したまま濃い緑と紫色になった葉が斑になって地表に這いつくばっている。薊の花も終わりかけ、褐色の実が破れたところから綿毛が溢れ出している。林の中でオニユリとヤマユリが咲き乱れるのを楽しみにしていた。葛の花が咲き始めたという知らせがあって、少しだけ足を伸ばして河原に見に行ったのだが、まだ花は咲いてはいなかった。
 
今月は、瞬く間に過ぎていった。
コロナウイルスの影響下で、自分の仕事に何一つ指針が見出せないまま、それでも毎日川沿いを歩いて仕事場に通い、それでも申し訳程度にはある仕事をして少しばかりの収入を得、考えあぐねているばかりなのに気づけばもう深夜になっている。自分の中で何かが大きく変わり、これまでのようにはできないことは分かっても、何が変わったのかは分からない。分かっているのは、読むことができる本と、これまでは読めていたのに、この事態を経験してどうにも読むことのできない本ができてしまった、ということぐらいだろうか。
9年前の大きな震災の後もそうだった。仕事は止まってしまい、部屋の中で、「この本は読める」「この本は読めない」と一冊一冊選り分けていたのを思い出す。しかし、「これはもう読めないな」と判断した本も「いつかは読むことができるだろうか」というさもしい思いがあって、なかなか処分することができなかった。今もそれは部屋の隅に埃をかぶって堆く積まれたままになっている。
 
それだけではない。あの時は、「海」に向き合うことができなくなった。
海沿いの町に育ち、嬉しいにつけ悲しいにつけ海を眺めにいくような人人の中で育った。東海大地震と、津波と、やはり近くの海辺にある原発の脅威に脅かされ続け、ちょっとでも気を許せば死人がでるほどの荒い海にも関わらず、海は自分にとっていつも近しい存在だった。それが、あの震災以降、「海」にどんな顔をして会えばいいのか分からない。震災から4年後に初めて映画を監督した作品でも、初めての設定は海だったのだ。しかし、台本にはそう書いたものの、どう「海」にカメラを向けたらいいのかが分からない、分からないまま、舞台を「海」から「山間の湖」に変えたのだった。
やがて、「海」とは和解した、と感じている。きっかけは何のことはない。震災の二ヶ月前に生まれた息子は、何を知っているわけでもないのに赤ん坊の頃からずっと海を恐れていた。それが5歳になったある日、急に「海で遊んでみようかな」と言い出した。半信半疑で連れていくと、波打ち際に恐る恐る近づき、やがて「海」と対話でもしたか波と打ち解けたように遊び始めた。それを見ていて、なぜか「ああ、もう海を撮っていいのだ」と安堵するように思ったのだった。あの頃は、「子どもたち」と、それから「避難区域に取り残された動物たち」のことばかり考えていた。自分には「子どもと動植物以外撮るものがあるだろうか」とも考えていた。そして、その考えは今も変わってはいない。おそらく、どんなに人間の男女のことを映画で描いたとしても、私はきっと人間ではなく別の動物たちのことを描いているのだと思う。例えば、よく散歩で行く公園で出会う野良猫たちのこととか…。「あの野良猫たちを愛するように人間たちのことも見つめたい」と思っているのかもしれない。
 
緊急事態宣言からしばらくして、深夜仕事場から帰る途中、自分の胸の奥底に「疼き」のようなものがあることに気が付いた。それは何と言えばいいだろう。自分を「分解してしまいたい」ような、何かに自分が「解体されていく」ような、そんな「衝動」というか「疼き」のようなものが鳩尾の奥の方にある。あの震災の原発事故の渦中では感じたことがなかった「疼き」。これが、ウイルスの影響下だということなのだろうか。
 
夏にさしかかり植物たちはいっそう存在が強くなっていく。花は強く匂い、緑は獰猛だと感じるほど爆発的に盛り上がっている。人の手によって植えられた木や草花でさえも人間にとっての存在であることを拒絶して、樹は樹でしかなく、草は草でしかなく、私もまたその中で、生まれやがては朽ちていく生命の一つでしかない。
 
1925年スペイン風邪に罹患したヴァージニア・ウルフが、こんなことを書いていた。
 「空がいくら無関心でも、花たちがいくら取り澄ましていても、直立人たちの軍勢は勇ましい蟻ないし蜂よろしく、いざ戦闘へと進軍していく。ミセス・ジョーンズは予定どおりの列車に乗る。ミスター・スミスは車を修理する。(…)横臥(おうが)する者たちだけが、自然は自分が最後に勝つということを隠そうともしない、と知っている。」(「病気になるということ」片山亜紀・訳)

蛍が光る場所

イリナ・グリゴレ

蛍のいる場所は綺麗な場所だ。人のいる場所から少し離れていて、山の向こうにあって、夜にはとても暗くなる場所だ。津軽には岩木山という山がある。この山は神秘的だ。町からでも、どこからでも見える。

ここに住んでしばらく経つ。海に行ったり、山に行ったりして、いろんな生き物と風景を見てきたが、蛍を見るのは今年が初めてだ。きっと今の瞬間が私の心が一番きれいになって、過去、未来のこと一切考えずに「今」を一生懸命に生きようとしているタイミングだからかもしれない。

蛍はイカと同じ。キラキラしたものに騙されて寄ってくる。道路向かいの温泉宿の人から聞いた。ハザードランプを点滅させると、たくさんの蛍が出てきて思わず手に取ってしまった。そういえば子供の時も蛍の光る場所にいた。夏休みにいとこたち家族と一緒に山の方のティスマナという村に泊まった。私が10歳の時だった。古い修道院があった。夜になると山に囲まれているホテルの近くの沢にはたくさんの蛍が飛んでいた。

日常のいろんなことで心と身体が痛んでいた私にとって、初めての蛍を見た瞬間、手に取った瞬間はマジックだった。小さな生き物が私の手の上で歩きながら光る。私の身体全体が光っているように感じた。そのあまりの美しさに、癒しのような、恵みのようなオーラを感じた。きっとこういう自然治療法もあるに違いない。一週間ぐらい、毎晩蛍に会った。古い修道院の近くだったこともあって、あの場所は全体的に綺麗で、思い起こすと今住んでいる青森県の風景と雰囲気がよく似ている。

毎日、近くの川でいとこたちと野生のイワナを釣って食べ、半分以上私たちも山の生き物になっていた。10歳の女の子があんなに次々とイワナを釣るのも、人生に一度きりだと思う。命をいただく大事さを田舎育ちの私は知っていたし、お魚釣り女の子にしても上手といわれたことがあったが、イワナの動きとは他の川魚とちがってすごく激しくて、パワフルな踊りみたいで、毎日感動した。

ティスマナから帰る途中、またすごい出来事が起きた。オルテニア地方のトゥルグ・ジウにあるブランクーシの「無限柱」、「沈黙のテーブル」、「キスの門」という三つの岩石でできた巨大な彫刻を間近に見た。このとき、私はイメージを形にするということを初めて知った。
その瞬間は、私の人生に大きな影響を与えた。私にとっては息苦しい団地生活から解放された初めてのアート表現との出会いだった。圧倒的に違う世界に導かれて、私がこれから歩む道が現れた。蛍のイメージから無限の新しい世界に志す私の心が生まれ変わった気がする。とにかくインパクトがすごかった。

20歳になって出会った知り合いの人から突然に、私の容姿がブランクーシの名作Cumintenia Pamantului(大地の英知)によく似ていると言われて驚いた。きっと私が見た10歳の時の作品のイメージが自分の心に残って、すこし表面に出ていたに違いない。こんなにいいことを言われたのは人生で初めてだった。これ以上の褒め言葉は一生ないだろう。その人は天才的な脳外科医だったので、人の脳を読むのは得意だったのだろう。ブランクーシの作品から、私の日常が遠ざかっていたことは確かだが、実際の像、裸で座っている女性と表情が人の心と身体の内面のイメージを形にするとしたら、それは素晴らしいプロセスだ。きっと、だれにもこういう島みたいな場所が心の中にある。一瞬だけ、内面のことは表情か身体の使い方によって現れる。

子供の頃、蛍を見たシーンが蘇る。この年になっても自分の娘たちと蛍を見ることができてなんだか安心した。あの時の純粋な自分に戻れた気がした。蛍をまだ見ることができたということが、私の心の内面も綺麗なままなのだと勝手に受け止めた。

20代は自分の心を汚し、汚される場所にいた。その傷跡は消えないが、だんだん薄くなっていると蛍をみながら気づかされた。20代で「ラストタンゴ・イン・パリ」という映画のヒロインのふりをした自分がいた。たくさんの不思議な人に出会ったりしたが、私の内面にはブランクーシの作品のようにおとなしく座っている女の子しかいなかった。蛍が車のライトに騙されるように、自分もキラキラしている演技に騙されていた。知らないうちに、相手役も映画のように日常のなかで苦しんでいた。

30代の今の私の身体は、縄文土器の女性のように、産後のお腹がでて垂れている肉に太い脚。こうして私自身もブランクーシの「沈黙のテーブル」に近づいてきた気がする。


 

夏の方丈記

福島亮

ものすごく暑い。7月31日、現在の気温は39度である。朝は7時くらいになると日が照ってきて、ぐんぐん暑くなってくる。それでもフランスは湿気がないから不快ではない。が、この上昇する暑さがずっと続き、午後になると、西日が照りつけるこの小さな部屋はさながらピザ窯である。夜は9時くらいまで明るいから、この酷熱の時間が最も長い。今の住まいは、ベッドを置けばいっぱいになってしまうような部屋である。当然クーラーなど設置されているはずもなく、窓を開けてどうにかやり過ごす。が、ここにきて新たな刺客が登場した。蜂である。なんと、窓のシャッター格納スペースの内側に蜂が巣を作ったようなのだ。朝8時頃から連中は起きだし、暗くなるまで活動を続ける。刺されたことはないから、どれほど危険な種類なのかわからない。くわえて、巣を直接見ることができないので、連中の規模もよくわからない。暑い。だんだん頭がぼんやりしてくる。

ジョルジュ・デュアメルの本を読んでいたら、蜂の巣の話が書いてあった。子どもが蜂の巣を見つけたので、それを庭師に頼んで駆除してもらったそうだ。燻され、崩れ落ちてゆく蜂の巣を見ていると、人間の文明もこの蜂の巣のごときものではなかろうか、と思った、と、まあこんな感じの話だった。どこかで読んだことがあるような考察である。僕はというと、巣がどこにあるのかも分からず、手も足も出ないから、じっと耐えるより仕方ない。さすがに窓を閉め切っておくのは辛すぎるので、観音開きになる窓のうち、蜂の出入りがない方を開けている。連中を刺激することなく、できることならこの狭いスペースを分けあおうじゃないか、と開き直り、ぼんやりと観察していると、蜂は自分の巣へ一直線に戻り、またすぐ出て行く。なかなか働き者だ、と思った矢先、フラフラ部屋の中に入ってきた奴がいつまでもカーテンにしがみついていたりする。これはどう考えてもサボっているとしか思えない。どうも蜂も人間もサボる奴はサボるのだな、と我が身に重ねてみる。巣があると思われる場所のすぐ下には、力尽きた蜂の死骸がいくつか落ちている。だが、しばらくすると風が吹いて、その軽い体はどこかへいってしまった。

その風に誘われたのか。唐突に、最近読んだ方丈記を思い出す。ある人に勧められて堀田善衛の『方丈記私記』を読んだところ、それがあまりに面白く、それから急いで原文を読んだのだ。方丈記で描かれるのは、それはそれは克明な災殃の映像である。とりわけ、地震で崩れた土塀の下敷きになった子どもの話などは、できることなら想像したくない。長明の詳細な筆致を受けて、堀田は大火や地震に見舞われる京の都を空襲で焼かれた東京に重ねる。堀田の文章を読んだ後では、長明の文章を現代に重ねずに読むのは難しい。長明の書いた文章をパリの一室で読んでいると、この鎌倉時代の文章が、ふといつの時代のものなのか分からなくなることがあるのだ。もしや、ついさっき書かれた文章なのではないか。もっとも、私たちは戦乱の只中にいるのだ、などという全体主義じみた言葉の動員をしたいわけではない。唐突に帰ってきた言葉がやけに真新しく感じられるのは、ひとえにこの10年ほどの間に長明の時代とさして変わらぬ出来事が立て続けに起こったからに他ならない。細々とした生活のレベルでは、たしかに変化はあった。郵便局では入場制限をおこなっているし、消毒アルコールは店舗の入り口だけでなくバス停にも設置されている。それでも、リュクサンブール公園に行けば、人々は顔をあらわにして日光浴を楽しんでいるし、知り合いは先日バーベキュー・パーティーを自宅の庭でしたそうだ。いつかの時間がひょっこり戻ってきたのだろうか。それともいつかの時間の化粧をした忘却がふと忍び込んでいるのか。長明の答えはこうである。「すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。」

ぼんやりとした頭で、方丈記を思い返しながら窓辺の蜂を眺めていると、少しずつ、奴らの動きが大人しくなってきた。時折吹く風が涼しい。この部屋で、僕はあと何回夏を迎えるのだろうか。いつか忘れてしまう涼しさならば、今ここでできる限り味わっておこう。——まあ、その前に夕飯か。

コロナと育児(2)

西荻なな

◯月×日(生後152日)
きょうで生後5ヶ月。体重は8kgが目前だ。体重は平均より少し上、身長はほぼ平均値で順調な成長を見せている。首もしっかりすわり、両親の食事風景を興味深そうに眺めてみたり、唾液の量が増えてきたならば、そろそろ離乳食のタイミングがやってきた、ということになるらしい。往々にしてそれが生後5ヶ月から6ヶ月の頃。5ヶ月の時点でその条件を満たしていればはじめてみてもいい、ということで、どうも食欲旺盛で物足りなさを覚えている感じの様子をみながら、ちょうどぴったり5ヶ月の今日、離乳食をはじめてみた。まずは水とお米の量を10対1の加減で炊いた10倍粥を小さじ一杯から。重湯よりはもう少しもったりするくらいの粘度。小さじにすくってとんとんと下唇にサジの先で触れてみると、口を動かして能動的な姿勢を見せてくれた。初めてなのに上手にサジを口に入れる。口に入れた後も吐き出すこともなく、ごくんと飲み込んでくれた。これは順調に進めそうだ。

ところでこの4、5日間悩まされているのは、夜中の頻回授乳。なぜだか新生児の時並みにお腹が空いたと夜中に泣いて起こされる。2時間に1度くらいのペースだからこちらも寝ていられない。一度はこちらが起こさない限り起きないほどに睡眠時間がのびていたのに、時計の針を巻き戻したかのよう。なぜなのかわからず困り果てネットで検索してみると、ちょうど生後5ヶ月頃に授乳間隔が再び短くなってくる子どもがいるらしく、「睡眠退行」というらしい。平均的には1日5〜6回くらいにまで授乳回数が減り、授乳タイミングも毎日スケジュールが定まってきていて、母親はだいぶ楽に育児をできるようになっている、と育児アプリなどには書き込まれているが、我が子はというと昼間も授乳間隔が2時間空けばまだいいほうで、夜などは30分おきだったりする。身体的なきつさは500メートルくらいの中距離走を何本か連続でこなしているようで、これはほんとにしんどい。

離乳食を始めると徐々に頻回授乳も睡眠退行も解消されていく問題らしいけれど、お粥小さじ1レベルの今では、まだまだ先のことに思われてしまう。頻回授乳をすぐに解消するのは難しくとも、お昼寝の少なさをなんとかできないか。寝てくれれば間隔も自ずとあいてくるだろう、とベビーカーに乗せて頻繁にお散歩に出かけるようにすることにした。この晴れ間のない梅雨の合間をぬって。それにしてもいつしか力も強くなっていて、パシパシパシと手で叩かれたり、二の腕をぎゅうとつねられたり、足でどどんと蹴られたりする。指先の動きも器用になり、つかむ力も着実に強くなっている。タオルもビニール袋もティッシュもなんでもつかんでしまう。顔は柔和で優しげなのに、力の加減しないパワフルさに男の子であるなあ、と思うこと度々だ。あと成長といえば、お風呂上がりに突然、スイッチが入ったかのように一人おしゃべりを始めることが増えた。今日もひとしきりおしゃべりして、そのうち泣き出して、大泣きになり、授乳をしたらコテンと寝た。なぜかモーツァルトのメヌエットを口ずさむと、曲が終わる頃にウトウトし始めて入眠への助走となることが多いのだけど、夜の泣きにはとうとうきかず、授乳に流れてしまった。早く眠るのが上手になってほしい。すべては睡眠の質にあり、という気がしてならない。

◯月×日(生後158日)
昨晩は大泣きで大変であった。お風呂上がりに授乳をしてベッドに寝かせたのが19時30分。この時点ではご機嫌だった。しかし、お風呂上がりの運動タイムを終え、いつものように一人おしゃべりを始めると、おしゃべりの様相がだんだんとカオスをきわめていつのまにか収まりのつかない強い泣きに変わった。耳をつんざくような、空気が張り裂けそうな泣き声になり、お手上げ状態。授乳をしても、扇子であおいでも、トントンしても抱っこをしてもダメ。お昼寝のぐずりの時は抱っこ紐に入れてストンと寝てくれることが多いので、抱っこ紐を持ち出してみるが、眠りにおちてくれない。しまいにはひとしきり泣いたところでミルクを足してみて解決したが、そこまで1時間以上泣きっぱなしだった。これが夜泣きというものだろうか。でも、夜泣きの定義は、寝ていたところから急に泣いて起きることらしいので、ちょっと違う。眠れなくてぐずぐず、の寝ぐずりなのだろうか、泣きのパワーが強烈すぎるけれども。

それにしても眠る前に突然、あーうー、あーうー、としゃべり出す様は、何度聞いてもまるで地球外生命体との交信のように思われてしまう。きっと月から「きょうの地球の様子はどうだ、報告してくれ」「そろそろこっちに帰って来たらどうだ、七夕も近いし」とか言われて、「やだやだ、そろそろ地球にも慣れてきたんだから絶対嫌だ」と板挟みの辛さゆえの泣きなのではないか、と妄想が膨らんでしまう。脳の急速な発達で、昼間に浴びたたくさんの情報を処理しきれずに泣く、というのが夜泣きのメカニズムの有力説らしいけど、そうはいってもはっきりと解明されていないのだから、妄想が現実に近いことだってあるかもしれない。でもミルクを足したおかげなのか、6時間くらいその後は連続で寝てくれて助かった。実に久しぶりによく眠れた気がする。

◯月×日(生後163日)
今朝は家から徒歩3分の保育園見学へ子どもを連れて行ってきた。コロナ対策で保育園見学をしたくてもできない時期が続いたが、ようやく7月になって各保育園がちらほらと再開してくれるようになった。1日1組、もしくは2組の限定対応。マスクはマストだし、入り口で検温もするという。案内してくださった園長先生は朗らかな雰囲気の方で、お庭から園の中を案内してくださる。「今はコロナ対応でお休みしているんですけれどもね、毎年園庭ではこの大きな滑り台を使ってスライダーのように夏のプールを楽しむんです」「コロナ対応で今日は入っていただけないけれども、こちらが0歳と1歳児の保育室です」などなど。

途中、もう一人の保育士さんが加わって、園の説明をしてくださるというので、もうひと組のお母さんとともに椅子に腰掛け、スライドの説明を聞くことに。保育士さんとの間には透明の幕を挟む格好で。説明が進むにつれ、膝の上でご機嫌にしていた子どもがぐずり始めた。保育士さんの説明に、ぐずりの合いの手を入れてゆく。泣き止んでくれるといいなあと膝の上であやしていると、脇で説明を聞いていた園長先生が「よかったらちょっと預かりますよ」と受け取ってくださった。はじめてなのに落ち着くのか、とてもいい子にしてる。グズグズが次第に落ち着いたかと思うと、園長先生の腕に自分の手を絡ませた。和やかな空気が流れる。説明ももう終盤という頃、園長先生の腕に手を絡ませたまま、スヤスヤと寝息を立て始めた! それは幸せそうな実にいいシーンで、別れ際、なんとなく別れがたい気持ちに。園長先生も「色白のハンサムボーイですねえ。預けていってくださっても大丈夫ですよ(笑)」と目尻が下がっていた。家族以外の人に抱っこしてもらったことが思えばなかったものなあ、人見知りもせずに嬉しい気持ちになった。

◯月×日(生後167日)
離乳食はあいかわらず順調。いつもこんなに食べて大丈夫かしら、と心配になるほどの食欲で、一昨日からお粥と野菜に、タンパク質も加わった。きょうのメニューはかぼちゃのマッシュ、10倍粥、そして火を通した豆腐。いつも準備を始めると嗅覚が刺激されるのか、お腹が空いたと泣き始めてしまうので、こちらも気持ちが焦る。品目数が3になると、なかなか用意も大変だ。お粥と豆腐は濾さなくても大丈夫かな?と濾すのを怠ったら、やはり粒子が大きいのか、いつもより食べるのがスローに。ここは面倒でも丁寧に濾すべきなのかも。来週からは冷凍の裏ごし済の野菜にも頼ろうと思う。      

夕方はぐずぐずぐずぐず、夕食前にも大きな声で泣いていた。外の風がそよそよ入ってくるのが好きなので、家の通り沿いの窓を開け放っていたところ、お散歩で家の前に差しかかった3歳くらいの男の子が「赤ちゃんが泣いてる!」と言って通り過ぎて行った。そう、そうだよ! と、それを聞いて新鮮な気持ちに。妊娠前の私が同じように赤ちゃんの泣き声に反応することはなかったんじゃないかな。どこかの家の中から赤ちゃんの泣き声がしたとしても、その泣き声に彼のように耳がとまることはなかったような気がする。彼にとっては、赤ちゃんの存在が年齢的にも、そして存在的にも近しいのだな、と感じ入ってしまった。保育園見学に行ったときに、そういえば我が子は0.1歳児のお部屋前で興味深そうに中を眺めていたけれど、同い年くらいの子どもを見て何か思うところはあるのかな。どんなふうに赤ちゃんの存在が目に映るのかな、と時々とても気になる。

◯月×日(生後171日)
一昨日あたりから発語のパターンに複雑さが加わり、「ぱっ、ぱっ」と破裂音を出して遊ぶようになった。これはパパというワードを口にする日も近いか、と思うけれど、その日の夜中3時くらいに突然起きて、一人で5分ほどしゃべり続けたのには驚いた。喃語とはいえ語彙数がいつもよりもずっと多く、うんぬ、うんま、という言葉も聞こえたような気がする。朝になると、そのおしゃべりの記憶がすっかり遠のくので、その驚きを記憶に鮮明にとどめることができないのが残念でならないが、確かにおしゃべりだ。寝返り返りも完璧に習得したので、寝返り→寝返り返り→寝返り、と連続技を決めることも度々。気づくと「ワープしてる!」と叫んでしまう大移動をしているので目が離せない。でもまだ前進するのは難しいみたいで、それゆえに悔し泣きをしている場面に遭遇する。どうすればハイハイができるのかな? 何か成功体験が必要なのかもしれない。

◯月×日(生後176日)
子どもの動きがダイナミックになってきたので、それまで大人のベッドの上にちょこんと乗せていたベッドインベッドを取り払って、同じベッドの上で寝かせてみることにした。ベッドインベッドのちょっとした高さを乗り越えて大人のベッドにダイブしてきてしまうので、そのタイミングがいつやってくるのかわからないとちょっと危ないだろう、と止むを得ずの判断だったのだが、広い荒野に放たれた途端、ハッスルして目は爛々、さらに活動の幅が広がってしまった。ベッドの端から端まで、面を最大限に活用して、ごろんごろんごろん、止まることなく転がり続ける。一方向に転がるばかりか、途中で時計の針のように方向転換をすることも覚えた。寝返り返りも簡単にできる今、ひとりでに転がり続けるので、部屋の端っこにある新たに「壁」や「カーテン」を発見してその質感を確かめるのにも余念がない。カーテンを両腕で抱えて戯れたり、壁に爪を立ててカリカリとその音を楽しんでいたりする。

◯月×日(生後178日)
梅雨の開けない空の重たい毎日。おそらく低気圧にやられたのかな、と具合が悪そうに目覚めた夫が言う。身体が気だるいようで、言葉も少なくなんだかしんどそうだ。いつも一緒に連れて行く散歩もちょっとしんどいと私ひとりで行くことに。もりもりと食べるご飯も控えめでさすがに心配になる。夕方になり、さらに倦怠感が強いというので熱をはかると37度5分の微熱。まったく身に覚えがないけれど、もしやコロナか? と、いざと言う時に備えて夫には別の部屋で寝てもらうことにした。夫婦でコロナに感染しては、乳児の子育てをどうしたらいいだろう。乳児に感染しないとも限らない。コロナの症状について慌てて検索すると同時に、家の窓という窓を開け、トイレや風呂の拭き掃除を夜中から開始し、とれる対策をすべてとった。翌日には平熱に下がったものの、その翌日、恐れていた事態が。朝になり微熱、夜になると38度7分まで熱が上がった。これはもう、コロナに間違いないだろうと判断。祝日ゆえ保健所の電話がつながらないが、明日になっても下がらなければ保健所経由でPCR検査を頼もうと心に誓う。別室で起き上がれない夫に、家庭内ソーシャルディスタンスで食事と飲み物だけを渡し、子どもと別室でご飯を食べ、寝る。家事と育児だけで1日が終わり、いつにも増して隙間がなく、心理的にも辛い。すでに感染していたらどうしよう、と頭を離れずよく眠れない。翌朝、微熱に下がり、だるさも抜けたという言葉にほっとして、軽症のコロナだった可能性も拭えないが、日常生活へと再び戻っていった。

◯月×日(生後182日)
きょうは生後6ヶ月、ハーフバースデー。もう生まれて半年も経ったのか、と驚いてしまう。まだ出産したのが昨日のことのようでもある。体重は8300g。ムチムチしているだけでなくて、相変わらず軽やかに動き回る。こちらの体めがけて頭をドリルのように突進してきたり、寝た姿勢で両足をばたんばたんと振り下ろしたり、腕をコアラのようにつかんできたりする。エアコンのリモコンとかスマホとかティッシュ箱など、サイズが大きい直方体のものもつかむようになった。エアコン操作ボタンを押して暖房機能に設定を変えてしまったり、電気の明るさ調整ボタンを押して部屋を暗くしたりしている。成長を感じるところは他にもいろいろあるけれど、中でも「笑い」に成長ぶりと独自のセンスを感じる。こちらがモノを床に落としてキャハハ、お菓子の袋が破けなくてキャハハ、私の体操ポーズを見てキャハハ。オノマトペの音にキャハハ。他にもたくさんあるのだが、すぐ忘れてしまう。でもセンスがいいな、とその都度思うのは確か。疲れていても笑いに癒されることが多いのは幸せだ。着実に新しいステージに入っている。

数日前、家庭内コロナ感染の危機があった時には、はじめて母娘ふたりの生活を寝室ですることになり、はじめて私も敏さんをお風呂に入れ、ワンオペ育児の大変さを体感したけれど、裏を返せばいつも3人の生活が基本にあるということ。ありがたいかぎりだ。私もコロナにかかって入院生活するかもと思ったときには、入院の連想で不思議と出産の日々のことを思い返していた。ひとりベッドに横たわり、硬膜外麻酔をしてからまだ今日は生まれない、そして心拍が落ちはじめて足にマッサージ機器をとりつけ、口には酸素マスクを当て、しだいに装備が増えてゆくのは怖かった。思えば酸素マスクもつけていた。酸素濃度を指先ではかるオシレーターをつけたのも初めてだった。いまやすっかりパワフル元気な子どもが隣にいるけれど、緊急帝王切開でお腹を開けてみるまでは、本当に元気かどうかもわからなかった。

たまたま昨晩、高校の同級生チャットで生殖医療と出産をめぐる技術の進歩と倫理について話が盛り上がっていて(そのうち、医師が3人いる)、代理母出産をはじめとする出産にも話が及んだのだが、数々の出産立会経験のある小児科医の友人が、「出産はやっぱり大なり小なりリスクがあって、残念ながら悲しい顛末の出産に立ち会うことも何度もあった。母子ともに健康というのは本当に奇跡」と書いていて、本当にそう、奇跡なのだ、と反芻していた。このチャットのメンバーの一人は、1週間前にコロナの中、3人目の子どもを産んだ。立ち会い出産ができないことを残念がっていたし、入院直前には夫の発熱があり、夫婦二人でPCR検査を受けるというストレスフルな状況を経験したようだったが、何事もなく無事に生まれて本当に良かった。コロナの心配と隣り合わせの中で子どもを産むストレスは想像に難くない。こんな時だからこそ、命が生まれることもいっそう奇跡に感じられる。生後半年、これから胎児の時に私から授かった免疫が切れて、風邪をひきやすくなったり病気になったりしやすくなるみたいだけれど、どうか健康に育ってくれますように。

189 花かずにしも もとな

藤井貞和

へぐり(平群)のいらつめの秀歌を、
書き出してみます。 「麻都能波奈 花可受尓之毛
和我勢故我 於母敝良奈久尓 母登奈佐吉都追」、
まつのはな、花かずにしも わがせこが、
おもへらなくに、もとな さきつつ――

あなたは万葉集から、この秀歌を、
書き出しました。 夕日があかあか。 もう、
なぜ、立ち止まるのだろう、
万葉は四五〇〇首をかかえている、
世界有数のアンソロジーなのですよ。

いちいち立ち止まってはいけません。 ざっと、
読み明かして、あるいは暮れゆけば、
ぱたっと閉じて、あなたの時間へ、
帰らなければなりません。 歌集から離れて――

いらつめの恋歌は、花かずでしかない、
むかしの少女の物語ですよ。 あなたは、
あなたの恋歌に、世界への恋に、
心を尽くさなければならない、もとな(わけもなく)


(巻十七、三九四二歌。折口は〈この松の花の譬喩は、当時の譬喩としては破天荒のものであったのだろう。佳作」〉とする(口訳万葉集)。新大系を引いておこう、〈松の花を詠むのは、万葉集ではこれのみ。晩春に咲く目立たない花ではあるが、前歌の「待つ」に続けて、「松の花咲く」とは待ち続けるばかりということの譬喩であろう。「花数」は、花として数え挙げられるほどの花の意。他に例のない表現。「思へらなくに」は、「思へり」から「なくに」に続く形。万葉集では唯一の例」〉とある。平群女郎の手になる、佳作を越える傑作である。)

梅雨プルトニー

璃葉

蒸し暑い日が思ったよりも長く続いている。もちろんだが、この季節は苦手だ。
空間がじっとりと重たく、体中に汗がにじむ。
風を通すために網戸にしてあるはずなのに、通り抜けずに停滞しているのはなぜだろう。横から横へと流れてはくれず、上からじんわりプレスされているような、降りかかって溜まって、この部屋全体を包み込んでしまっているのではないかと思うぐらい、重苦しい。
湿気のせいで、歩くたびに足の裏がぺたぺたと板間に張り付く。ふだんよりも倍遅い自分の動きの気配が部屋中に点々と残っているみたいだった。

この気候のおかげで食欲が失せている毎日だけれど、唯一食べたいと思えるのは酸っぱくて辛いものだ。
冷蔵庫に眠っている鶏ひき肉を生姜とニンニクで炒め、刻んだ玉ねぎ、ししとう、パクチーを加える。紹興酒、鶏ガラの素、ライムリーフやレモングラス、唐辛子なんかを適当に放り込み、ついでライムをたっぷり絞ればできあがり。これをレタスで包んで食べるのに最近はまっている。これを食べると大体元気がでるのだ。

食後のお酒をビールか焼酎ハイボールかで迷ったところ、この時期にぴったりのウイスキーがあることを思い出した。
オールド・プルトニー12年は、ストレートで飲むと塩っぽさとオイリーさが目立つけれど、ソーダで割ったとたんすっきりした味わいになって、とても飲みやすくなる。すっきりしているのに塩気も深みもちゃんとあって、ぱちぱち弾けるソーダも気持ちよく、こんなじとじとした日には最適なのだった。スコットランド最北端にあるプルトニー蒸留所の人たちにいつかお礼を言いたい。梅雨にぴったりのウイスキーなのです、と。

じゃわじゃわと鳴き続ける蝉の声と湿気に包まれながら、潮風のような味のプルトニーハイボールを楽しむ。こうして何とか低気圧とうだるような暑さをやり過ごしたい。

トラ・トラ・トラ

さとうまき

コロナ禍で、すっかり忘れてしまいそうだが、終戦75年の夏をまもなく迎えるのだ。なかなか、広島や、長崎に行くこともできないのだが、やっぱり戦争のことをしっかりと考えたいものだ。

僕は、清瀬に住んでいる。清瀬には、非核平和宣言都市という大きな看板があちこちにあるが、原爆ドームのような戦争に関する歴史的なものは見当たらない。結核療養所(現結核研究所)や、ハンセン氏病の療養所(正確には東村山市)や、その他大病院がいくつか連なっているために、病院の町として有名だ。清瀬で戦争を考えるのにはどうしたものか。

僕がなぜ清瀬に住んでいるかというと,オヤジが気象庁につとめていたので、気象衛星センターを設立する際に呼ばれたのである。当時中学3年生だった僕は、センター内の宿舎で暮らすことになった。

センターの前身は、気象通信所で米軍の大和田基地内にあったそうだ。もともとは日中戦争開戦時、アジア太平洋地域の無線受信および傍受目的の基地として建設された。第二次世界大戦中には、真珠湾攻撃の成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」を受信した。また、原爆投下に関する電信を傍受するのもこの通信所の役割であったという。

米軍基地となった通信所は、ベトナム戦争では重要な役割を果たしていた。僕が、清瀬に来たときはすでにベトナム戦争は終結して一年がたっていたけど。通信所の周りは不思議な空気が張り詰めていた。この地域は日本の中でも通信状態が極めていいらしいから、まさにいろいろな通信が飛び交っていたのだろう。

気象庁の土地があったので、私たち家族は、そこを借りて家庭菜園をやっていた。フェンスの向こう側には、米兵がいて不思議な感じがしたものだ。洋館風にこしらえた建物が廃墟になっていて僕はよく忍び込んで、いろいろな物語を想像してみるのが楽しかった。この建物は米兵相手の売春宿で、時には映画監督のように、「24時間の情事」のような作品に仕上げてみる。あるいは時には、つげ義春の漫画の世界のように。満月の夜になると、わくわくしてきてよく自転車で出かけて行った。

先日、92歳になる親父を車に乗せて久しぶりに出かけてみた。あれから40年以上も立っていた。米軍基地はまだあった。前は、道路が基地の入り口までつながっていたのだけど、今は通行止めになって、さびれている感じがしたが、地下には巨大な基地があるのかもしれない。もっと大きな宇宙戦争に絡むような計画がひそかに進められているのだろう。ここに来ると、本当にいろいろな妄想が湧き出てくる。

今から思えば、初めての国産の気象衛星を打ち上げるという国家の一大任務の傍らを担っていたオヤジは、大したものだと思う。その当時の僕は、国家のことなんか全然わからなかったからただのクソガキだった。

「畑耕したよね」オヤジと思い出話をした。オヤジは嬉しそうだった。なんだか、時空を超えて、宇宙にもつながったような気がした。そうそう、戦後75年の話をしようとしていたんだね。随分話がそれてしまったけど。また、大和田通信所に通信を傍受しに行ってくるよ。

アジアのごはん(103)インドの新型コロナとベチバー

森下ヒバリ

長い梅雨がやっと明けた。久しぶりの青い空だ。シーツを洗って、カバーも洗ってとウキウキだ。しかし、今日からもう8月である。梅雨が明けるように新型コロナ感染症の流行も終わってくれればいいのに。

外国はおろか、国内の移動さえままならないとは、だれがこんな事態を自分のこととして考えていただろうか。感染症のパンデミックはずっといつか起こる、起こると予測されていたのに、人間というのは本当におろかなんだな。もちろん自分も含めて。

ワタクシの場合は連れと1月末からマレーシアを経由して南インドを訪ねていた。クアラルンプールを発つとき武漢閉鎖を知ったが、サーズの時のように地域的なものだろうとタカをくくっていた。インド東海岸のチェンナイ空港も誰一人としてマスクをしていなかった。

マドゥライを経てインド西海岸のケララ州にたどり着いたとき、インドで初めて感染者が出た。しかもケララ州アレッピー。これから行くところである。聞くと、武漢で看護学校に留学していた学生が帰国し、3人が陽性となったとのこと。そのまま入院隔離されているとのことで、アレッピーに行っても問題はなさそうだった。

お気楽に南インドを堪能し、2月の後半になってから日本のダイアモンド・プリンセス号の感染が報道されるようになって、食堂などでテレビニュースが流れていると、ちょっと肩身が狭くなってきた。その頃南インドに来た友人は「コロナ、コロナ」とさかんに揶揄されたとのことだが、ヒバリはたった一度小学生に言われただけである。

インドは、西欧と同じく、マスクは病気の人がするものなので、砂ぼこりを避けるためにマスクをしようとする連れを「お願いだからやめて」と真剣に押しとどめるようになったのもこの頃である。フランス人などの観光客も多かった。アジア人を見る目つきがいやそうな白人旅行者も現れるようになった。

2月末に予定通りタイに移動するか、日本に戻るかインドで考えた。しかし、タイは日本より感染者数も格段に少なく、死者も2人ぐらいでむしろ日本より安全ではないか。バンコクに予定通り飛ぶことにして、コーチン空港に行くとさすがに検疫官や出入国管理官たちはマスクをしていた。街中でマスク姿を見たのは、明らかに風邪をひいていたリキシャのお兄ちゃんたった一人であったが。

そして、インドを出発した3日後、インド政府は3人の感染者が5人に増えた時点で、インドビザの無効を発表する。新規の外国からの入国をお断りするという措置である。さすが、強権国家やることが大胆な、と思っていたが、その後のインドの感染状況はすさまじく、現在は感染者累計163万8000人、死者3万5747人になっている。

2月末のタイは、中国からの観光客が日本よりもさらに多いお国柄のため、日本よりもはやく流行が始まったが、あまり感染は広がらなかった。しかし、外出にはマスクが必須となり、人混みにはあまり出て行かないように気をつけた。空港や飛行機、バスなどが危険と思われたので、どこにも行かず、バンコク引きこもり生活。

3月半ばを過ぎると、帰りの飛行機のキャンセルが何度も出て右往左往した。けっきょくエアアジアは16日で国際便をすべて止めた。なんとか別会社の便を取って3月21日に関西に戻ってきたが、成田行きは21日でもう終了、関西行も2日後に一便飛ぶだけで終了という、けっこうギリギリな帰国であった。そして、22日からバンコクはロックダウンされたのであった。

コロナ禍を縫うような旅であったが、まだインドに居るときはあまり気にせず旅を続けられたのは幸いだった。ケララ州のフォートコーチンにゆるゆると滞在していたが、最後の日の散歩ではじめてオーガニックショップを見つけることができた。同じときにフォートコーチンに滞在していた友達が、自分の宿の近所にそれらしきものがあった、と教えてくれたのである。

大きな道路から海の方に入った路地の奥に、ちょっと外国人旅行者向けのこじゃれた食堂と、オーガニック食品・雑貨の店があり、店にはケララの伝統発酵食の塩辛、カツオのふりかけもあった。味見したら、日本のカツオのふりかけそのもの。そして、精油のコーナーがあったので、そうだインドはベチバーの原産国ではないかと思い出し、訊ねると、あるよあるよとベチバーの精油を出してきてくれた。

ベチバーはVetiverとつづり、イネ科の多年草である。まだ実物は見たことはないけど、レモングラスやすすきに似た葉っぱを持つ。根っこが精油成分をもちインドでは古くから虫除けや香料として使われてきた。

そう、ベチバーは実はダニ除けに素晴らしく効果があるのである。昨年から京都の家にダニが出現し、かゆくてたまらなかったので、ダニ取りシートを盛んに使っていたが効果はあまり感じられない。悩みの種だったところ、ふとベチバーオイルがゴキ退治によいという話をネットで見つけ、読んでいるとダニ除けにも効くという。

なに!さっそくベチバーオイルをネットで購入し、アルコールで希釈液を作り、そのベチバースプレーを足にシュッ。すると、足のかゆみがするすると消えた。すばらしいぞ!そして、いつも使っている床掃除のアルカリ電解水シートにスプレーし、毎日床掃除をすることにした。

その効果のほどは、手足にスプレーすると即効で効くものの、家全体のダニを退治するにはなかなか時間がかかった。けれども、1年後のいま、確実に半減以下。そして、意図してなかったけど、ゴキちゃんもいなくなった〜。というわけで、わが家では今ベチバーオイルは欠かせないのである。

ベチバースプレーを作る場合、エタノールの濃度がコロナウイルスに効くほど高くなくてよい。むしろ、肌が荒れるので濃度は低くていい。濃いのは水で薄めて下さい。エタノールは、ベチバーオイルを薄めるために必須。消毒用の高濃度のエタノールは品薄で高いが、濃度の低いのは出回っているので、それを使えば水で薄めなくても。ただ、イソプロピルアルコールIPAは人体にめっちゃ悪いので、使わないでね。

 浄化した水またはミネラルウオーター100ml
 消毒用エタノール10〜20ml (濃度の低いアルコールは量を増やす)
 ベチバー精油10滴
 
これらをガラス瓶か、アルコール耐性のプラスチックスプレーボトルに入れ、よく振って混ぜる。白く濁っても問題なし。

気になる匂いですがじつはヒバリはこのベチバーの匂いが大好き。大地を感じさせる、ほのかに甘く、スモーキーな香り。多くの香水のベースメントに使われるというが、香水臭くはないのでだいじょうぶ。

虫除けとして、精油や煮出し汁を使うだけでなく、根っこをぶらさげておいたりもするらしい。ケララのフォートコーチンのミニスーパーで細い植物の茎みたいなもので編んだタワシ状のものを売っており、エコなタワシかと思っていたら、それがベチバーの根っこの虫除け&香りボールだった。次に行ったらそれを買おう、と楽しみにしていたのに、いったいいつ行けるのだろう‥。

カブト虫を捕りに行く。

植松眞人

 車の運転はおじさんで、助手席にはおじさんの息子で、僕よりもひとつ年下の従兄弟が乗っていた。「嫌というほどカブト虫が捕れるぞ」というおじさんの言葉を信じて二時間ほど獣道のような場所をうろうろと探したので、僕たちはすっかり疲れて黙り込んでいた。従兄弟は自分の父親の言葉が嘘だったことで、僕たちよりもさらにショックを受けていて、あからさまに不機嫌な顔をしていた。
 僕はいつも酒ばかり飲んで飲み過ぎると、まだ小学生の僕らにも絡んでくるおじさんがもともと嫌いだった。それなのにカブト虫につられてしまったことに、自分自身に腹が立っていた。従兄弟のこうちゃんは、たぶん僕がおじさんをあまり好きじゃないということを知っていた。だから余計に、カブト虫が捕れなかったことに、混乱していたのだろう。
「こうすけ、そんな顔するな。しゃあないやないか、カブト虫かていろいろあるんや」
 おじさんは照れくさそうな表情でそう言ったが、こうちゃんの気持ちは収まらない。
「うそつき」
 こうちゃんは小さな、でも強い口調でそう呟いた。おじさんは間髪入れずにこうちゃんのほっぺたを張った。パシッという高い音がして、こうちゃんが泣き出した。よほど悔しかったのだろう。こうちゃんの泣き声はいつまでも収まらなかった。僕と弟はこうちゃんがビンタされたことに驚き、泣き続けるこうちゃんを固唾を呑んで見守った。こうちゃんは泣き続けると決めたようで、泣き止んだかと思うと無理矢理のように鼻をすすり、また泣き始める。僕と弟も気持ちとしては、こうちゃんと同じようにおじさんを嘘つきだと思っていたのだが、正直すでにこの状況に疲れていた。そんな様子を察してか、おじさんが僕に話しかけてきた。
「カブト虫おらんかったなあ。帰りにアイスクリームでも買うたるからな。機嫌直しや」
「うん、わかった」
 僕はそう答えたが、こうちゃんはあからさまに僕をにらんでいる。すると、おじさんは自分の息子であるこうちゃんに笑いかけた。
「もう泣くな。お前にはわからんかもしれんけどな。人生にはこんな日があるんや。いつでもうまいこといくような人生、逆にろくな事ないぞ」
 おじさんはそう言うと、力なく笑って、その後、家に帰り着くまで一言も話さなかった。こうちゃんは泣き疲れて眠っていた。

ジャワ舞踊作品のバージョン(8)「クスモ・アジ」

冨岡三智

「クスモ・アジ」は現在は踊られていない曲だが、結婚式で男女のカップルで踊る舞踊として、私の舞踊の師のジョコ女史が振り付けた。実は、録音しようと思って作品を習ったのだが、結局録音は果たせないまま今に至っている。このステイホームの折柄、古い記録類を整理していたら、昔のコンパクトフラッシュからその舞踊に関するメモが見つかった。というわけで、今回は「クスモ・アジ」を紹介したい。

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その前にまず、男女の舞踊というジャンルについて。ジャワ舞踊(スラカルタ様式)には男女のカップルが愛を交わし合う様を描く舞踊作品がいくつもある。それらは初めから結婚披露宴で上演されるものとして作られた。その嚆矢は1970年にマリディ氏が振り付けた「カロンセ」で、スハルト元大統領夫人(故)が親族の結婚式のために依頼したものである。この舞踊ではパンジ物語(ジャワ発祥の大ロマン)用の衣装を身に着ける。つまり男女の踊り手はパンジ王子とスカルタジ姫(パンジ王子の許嫁)という設定なのだ。マリディ氏は他に、「エンダー」(1971年)や「ランバンセ」(1973年)も振り付けている。また、1980年にはスラカルタの芸大教員たちが「ドリアスモロ」という作品を振り付けている。「カロンセ」以外はキャラクターの衣装ではなく、婚礼衣装を模した姿で踊るのが普通である。

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さて、本題。「クスモ・アジ」は、スラカルタ王家のジョヨクスモ王子(パク・ブウォノX世の王子)が1978年に娘の結婚式のためにジョコ女史に委嘱した作品である。王子の希望で、天から降りてきたコモジョヨとコモラティの神(ワヤンに登場する、愛を司る夫婦の神)が花嫁・花婿に祝福を与えるという内容だ。そのため、他の舞踊作品は儀礼が終わって宴たけなわの時に上演されるが、「クスモ・アジ」は儀礼の初めに上演される。ちなみに、上の「ランバンセ」という作品でも踊り手はこの夫婦神という設定なのだが、他作品のように男女が愛を交わし合うという内容で、「クスモ・アジ」とは似て非なる。

「クスモ・アジ」の振付は上述したような作品とは違い、ずっと淡々としている。ガムラン曲はラドラン~ラドラン~クタワン~アヤ・アヤアン形式の曲をつなぐとはいえ、宮廷舞踊のスリンピやブドヨのように、ずっと一定のテンポで進行する。そして、他作品のように男女がくっついたり離れたり、気分が高揚したり悲しみを感じたりはしない。あくまでも神の舞いなのである。遠くに花嫁・花婿を認めて降臨した夫婦神は、女神が男神の周囲を衛星のように廻りながら一周する。ここの動きは「スリンピ・スカルセ」から取られている。その後、夫婦神は揃って花嫁・花婿の前に進み、髪に花を挿してやる。題名の「クスモ・アジ」は「祝福された花」を意味するが、この所作から名付けられたように感じる。そして、2人の周りを廻って祝福を授け、見守りつつ去ってゆく。こう書くだけでも動きやフォーメーションのシンプルさが分かると言うものだが、ドラマチックな盛り上がりに欠けるので、他作品のようにイベント上演には向かない。あくまでも結婚儀礼と一体化してこそ成り立つような舞踊である。

家族

笠井瑞丈

『世界の終りに四つの矢を放つ』

この企画は今年の一月頃
セッションハウスオーナー伊藤直子さんと
オリンピックの頃なにか企画をやろうと
打ち合わせしたのが始まりです
その頃はこのような状況になっているとは
想像もしてませんでした
そして今現在ははコロナ問題でとても
大変な世の中に変わってしまいました
多くの公演が中止になり
多くの劇場が閉鎖されました
しかし大きな困難にぶつかった時
それを克服するチカラを我々は持っています
そのチカラこそ踊りを作るチカラであり
作品を生み出すチカラです

今回の出演者は
全員『笠井』
父 


兄嫁

六人です

各自分担して各々のパートを作り
それをパズルのように並べ
作品を作り上げる形をとりました

その中で兄禮示氏には
ベートベンのテンペストを
オイリュトミー作品で作ってくれと
一つお願いしました
そしてその作品を二人で踊ろうと

5月頭から少しづつ
フォルムを覚え
音階を解析する

良く喧嘩もするが
やはり他人ではない

そこは大きい

そして今回は朗唱で母にも出演してもらうことにした
母が書いているブログから二つの文章を読んでもらう

母の言葉には
ユーモアがあり
ふっとした
優しさがある

小さいカラダから生まれる言葉
何よりも大きなチカラを感じた

そんな優しさに包まれて

今は困難な時だ
しかし
困難な時こそ
新しい
何かを生み出す
チャンスだと思っています

そんな「困難」に4本の矢を放つ

アキハバラ少年(晩年通信 その13)

室謙二

 少年は秋葉原が大好きだった。
 ラジオ少年、模型少年だったのである。
 家が「国電」飯田橋駅の近くだったので、三つ目の秋葉原にたびたび出かけていった。行き始めたのは小学校の高学年ぐらいだろうから一九五〇年代後半で(昭和三十年代のはじめ)で、いまのように電化製品を売る高いビルは建っていない。
 三種の神器と言われた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が売れ始めたころで、東京通信工業(後のソニー)が、トランジスタラジオを発売したのが、昭和三十年(一九五五年)であった。もっとも私は、そういう家電を見に秋葉原に行ったわけではなかった。

秋葉原は学校であった

 秋葉原のガード下に、小さな店がごちゃごちゃと集まっている。人がやっと通り過ぎることができる通りがそこに三本あって、その左右に、人が一人で店番をする部品屋がならんでいる。そこを歩きながら、部品を見たり手にとったりする。いろんな種類のコンデンサーと抵抗が、小さな仕切りにびっしり入っている店がある。大小のトランスが置かれていたり、電線だけを売っている店もある。シャシーだけを売っている店もあって、図面を持っていけばシャシー加工してくれる。フルレインジとか、高域専門、低域専門のスピーカーを売っている店もあった。
 お金をためて部品を買って、ラジオ雑誌の説明どおりに作った。再生検波の低周波一段増幅のラジオ(並四ラジオ)とか、これは発信ギリギリまで感度を上げて聞くので、ちょっとダイアルをずらすとピーピーという。そのあと、検波の前に増幅する高周波一段を、小さなシャーシーに部品を取り付け、回路図を見ながら配線をした。これで感度が高くなる。
 秋葉原は学校であった。歩き回ったり、立ち止まったりして学ぶのである。もっとも店の前をずっと占領したり、売っている部品にいろいろと触ると怒られる。たびたびくる大人は、店番をしている人間とながなが話している。みんな男だったね。女性の世界ではなかった。ガールフレンドを連れて行くと、退屈して、何が面白いのかと不思議がられた。買うわけではなく部品を見ながら歩き回るのだが、くるたびに置かれている部品が変わっていることもない。だけど何か発見がある。あれ、こんなものがあったのか。

ガード下の闇市

 ガード下の小さな店は今でもある。だけどあの当時とは違う。店の数は減っているし、あの頃はもっと雑多であり、いまはキレイキレイである。戦後の秋葉原は闇市であった。それを教えてくれたのは、本多商会の本多(弘男)さんだった。秋葉原の歴史を読めば、そんなことは書いてある。だけど本多さんは具体的に、ムロさん、あの大きなビルの店なんか、日本軍のとか占領軍(米軍)からの横流し品を闇市で売って大きくなったのだよ、つまり違法の取引だったのだね。
 闇市というのは、物価を統制する体制のときに、それに従わないで「非合法」に設けられた市場(マーケット)である。
 食べ物で言えば、敗戦直後の日本では、政府の配給制度によって食料品が配られるはずであった。しかし食料が極度に不足していたため配給は遅れて、都会の人々にはなかなか手に入らない。しかし配給以外で食料を手に入れるのは違法行為である。だがその違法行為をしないかぎり、人々は生きていけない。餓死者が出る。
 法律を守り配給のみで生活をした(多分抗議活動だが)ある裁判官は、餓死した。それで都会の人々は、戦前から持つ価値のあるものを売って、闇市で食べ物を買ったり、汽車に乗り農村に買い出しに行った。もちろんそれらは非合法である。だが合法では生きていけないのだ。
 そうやって私の両親は戦前からもっていた中産階級の宝石類とか着物を持って農村に出かけて、食べ物をと物々交換をしたのである。ところが農村に出かけて手に入れた食料品は食料管理制度違反なので、電車のなかで係官に没収されたりする。母親はそうことについて怒りをこめて、なんども話してくれた。
 生活必需品も圧倒的に不足で、日本軍とか米軍からの放出品、横流し品が闇市に出回る。その闇市が戦後秋葉原の出発だった。本多さんは、秋葉原をいっしょに歩きながら、ほらムロさん、あの大きなビルなんか非合法の闇市で大儲けをした口だよ、と笑いながら話してくれた。

アメリカと通信しているのだから静かにしてくれ

 本多さんはラジオデパートの地下に「本多通商」という店をやっていて、「マイコン」関連のものを売っていた。The SourceとかCompuServeというアメリカのパソコン通信サービスの代理店にもなっていた。私はそこでThe Sourceのアカウントを手に入れて、電話線経由の音響カプラー(これも本多商会で買った)でアメリカのパソコン通信にアクセスしていた。
 そのころ一緒に仕事を始めたMITメディアラボのニコラス・ネグロポンティに言ったら、それではとMITのアカウントをくれた。それで日本から電話線経由の音響カプラーでメディアラボにアクセスする。息子の大輔がまだ三歳とか四歳で、階段を音を立てて二階に登ってくる。「大輔、お父さんはアメリカと通信しているんだよ。静かにしてくれ」と言う。音響カプラーは、ピーヒョロヒョロと実際の音を普通の電話機に送り込んで通信するから、うるさいと外の雑音も拾ってエラーを出すのだ。
 もっともすぐあとに、電話線に直接につなぐモデムを、アメリカに行ったときに買った。あのときは電話線につなぐモデムは、電電公社の許可が必要だったのではないかな。私は無許可で使ったが。
 ネグロポンティとか、同じくMITのシーモア・パパート(人工知能と子供コンピュータ教育の専門家)をつれて本多商会にも行った。本多さんは、私たち三人に秋葉原のいろんなところを見せてくれた。あれは何だったか、どこかの屋上で人工衛星と交信するデモも見せてくれた。それでネグロポンティもパパートさんも、ケンジは秋葉原のいろんな人を知っている「専門家」であると誤解して、本多さんは、ムロさんはMITの偉い人たちと付き合いのある「偉い人」だと誤解した。

がっかりするなあ

 当時は、マイコンが始まったばかりの時代だった。
 それから日本は、高度成長の時代に入る。秋葉原も変わる。ガード下の店はあるものの、家電を売るビルが建ち、前に書いたけど三種の神器の時代である。中心はガード下から、高いビルに移ったのである。闇市から始まった秋葉原は、こうやって時代時代にその電気製品とともに変わっていく。こんな電気街は、世界に類を見ない。バンコックに、小さな規模の電気街があったが。
 アメリカに住むようになって、秋葉原を探したけど、バークレーには秋葉原的な電気部品を売っている店があったが潰れてしまった。みんなオンラインで部品を買うようになったから。それとFly’s があってクルマで四〇分でいける。これは家電から電子部品まで売る大きな店で、アメリカのアキハバラである。シリコンバレーにあって、コンピュータ関連で働く人間がよく来ていた。でも日本に帰ると、まずは神田の本屋街と秋葉原に行く。本屋街から秋葉原までは歩いていき、途中で「藪」とか「まつや」でそばを食べる。
 Fly’sと秋葉原はぜんぜん違う。かたや資本主義パソコン企業の店であり、かたや「戦後歴史的ニッポン文化」である。パパートさんとかネグロポンティを連れていくと、アメリカにはないこの街に感激していた。
 でもあの秋葉原は、どんどんなくなっていく。
 がっかりするなあ。
 本多さんも、亡くなってしまったし。

西瓜の日々 (My Watermelon Days)

管啓次郎

西瓜の建築の中に住めることがわかって
それは西瓜そのものなのだった。
装飾も家具もない。
むずかしいのはどうやって中に入るかで
表面に穴をあけると果汁がこぼれてしまう。
どうやって入ろうか、どうやって入ろうか
いろいろ考え、試みていると、それが起きる。
突然、中にいて、西瓜のジュースが
きみを世界から守っている。
生気にあふれ、甘く、赤く、力をくれる水だ。
西瓜の中ではハッピーバースデイを
歌うのが習慣になる。
Happy birthday, happy birthday
何度でも歌うたびごとにその歌は
亡くした誰かを悼む歌になる。
過ぎたものを。
西瓜の中ではいろいろなことを思い出す。
それは糖を加えられてもいないのに
甘いジュースのせいだ。
西瓜の果汁は動物と植物がひとつだった頃の
血液の名残。
西瓜の中ではきみの声はエコーし
自分が本当よりもずっと歌がうまいと思うのだが
誰も意地悪なことはいわない。
きみの歌のせいで西瓜が振動をはじめる。
すると他の西瓜たちも振動をはじめる。
これはすごくおもしろくてきみはZorbを
思い出すが、それはもしも軌道を逸れて
転がりはじめると非常に危険なのだった。
でも西瓜はきみをとことん
守ってくれるから心配しないで。
生涯の残りをずっと
西瓜の中で暮らすことになるかもしれないし。
「暗い山小屋に住むきみよ
きみにとって西瓜はいつも紫だ
きみの庭は風と月だ」
(ウォレス・スティーヴンズ)
「西瓜畑とそれを横切って流れる川が見える。
松の森にも西瓜畑にもたくさん橋がある」
(リチャード・ブローティガン)
こんなことをぼくは西瓜の中で
西瓜を使って、西瓜のために書いている。
これはなんと想像もできないくらい
さびしいことだろう。
それはトリエステ (Trieste)における
トリステッサ(Tristessa) くらい
さびしい (triste)
そんなぼくの西瓜の日々は
はじまったばかりです。
西瓜で乾杯しよう。
生命のために。

しもた屋之噺(223)

杉山洋一

7月に入って自主待機が終わったら、富山にいる家族に会いに出かけるつもりでしたが、東京の感染状況が突出しているので、相変わらず一人静かに東京で仕事に勤しんでいるうち、気が付けば一ケ月が過ぎてしまいました。落着いたら頃合いをみて、などと悠長に構えているうちに、愈々状況は悪化して、先ほどの都知事の臨時会見では、都独自の緊急事態宣言さえ視野に入っていると発表しています。


 
7月某日 三軒茶屋自宅
日本の新聞を読んでいると、学校内のcovid感染が思いの外多い。イタリアでは、未だに学校を再開させないのが大問題となっていて、第二波を鑑みれば適切な判断だったのかもしれないし、第二波前に全く授業を再開できなかったと、先々後悔するかもしれない。
9月半ばの試験もZoomを使用が通知され、指揮レッスンのみ教室で行うことが許された。生徒を集めたテクニックの集団レッスンも暫く出来ない。広い校庭のどこか木陰に集って、少し散らばりながらやるのは可能だろうか。東京の新感染者数67人。イタリア新感染者数182人、死者21人。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
水揚げされたばかりのメバルとカマス、メギス、アジ、カワハギなどの一夜干しセットが富山の家人より届く。さっそくカマスを焼くと、新鮮な上薄塩だったのですっかり気に入り、立て続けに二枚平らげる。干物と言えば、幼少より食べなれた、アジとカマスに勝るものなし。今夏は寿司屋を訪れる機会もないだろう。好物のサヨリは、もう何年も口にしていない。
 
来月東京で予定している演奏会を、粛々と準備する。今回関わる二つのオーケストラは、少しずつソーシャルディスタンスの内規も違うけれど、現在のCovid影響下で、安全策を講じながら理想の演奏会実現を目指す関係者の姿は変わらない。
オーケストラのみならず、マネージメントやホール、楽譜制作の関係者がそれぞれの立場から、演奏会実現という枠を超えて、今後の我々自身の将来を見据えて、誠実に意見を交わす。
もちろん、作曲者の希望や意見、作品の意図を作曲者から直接聞くのは、現在の極力制限された条件下に於いては、絶対的な意味をもつ。
 
 演奏会実現に向ける情熱はもちろんのこと、今後の展望を切り拓く使命を、それぞれ一身に引受けているのを感じる。医療従事者でも、エッセンシャルワーカーでもない我々に出来ることは、今まで無意識化にあった文化を、実体化させて共有し、再生に向け真摯に力を収斂させるのみ。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
自主待機終了。朝五時半、世田谷観音まで歩く。低い太鼓の音が通りまで漏れ聞こえ、読経が終わるところだった。石段を昇ったところの、楓の美しい深緑の葉は、なめらかな面を形作りながらせり出していて、クセナキスのスコアの美しい折れ線グラフを思う。密集した楓の葉は、薄い雨水をすっかり蓄え、重みで垂れかけているものもある。
楓の葉がポリトープに似ているのではなく、クセナキスが自然を手本に音楽を創造したのだろう。読経を終えたジャージ姿の僧侶と、通りすがり軽く会釈する。
すっかり身体が鈍っている。最低限の体力を回復しなければ、マスクをつけて指揮など出来ない。モリコーネが亡くなり、ミッシャ・マイスキーとベアトリーチェ・ラーナがスカラ座で追悼演奏。ドナトーニに限らず、周りの作曲の誰と話しても、エンニオ程素晴らしい音楽は書けないと絶賛していた。ずっと昔、彼の小さな新作をピエモンテの田舎で録音したことがあって、モリコーネも録音に立ち会うはずだったが、体調を崩して来られなくなった。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
高円寺まで自転車を漕いで、山本君作品の独奏者リハーサルに出かける。マスクをつけ指揮すると、すぐに苦しくなる。自主待機明けで体力が落ちているからだろうか。
自分で弾く拙いピアノの音以外、楽音そのものを長く聴いていなかったので、西岡さんと篠田さんのマリンバの音に、深く心を動かされる。そうしているうち、少しずつ指揮する感覚が蘇ってくる。以前に戻る感覚というより、新発見に嬉々とする新鮮さが勝ったのは、我乍ら不思議だった。常に、山本君の音楽には、揺ぎなく音楽を牽引する、強い求心性が宿る。
山本君の楽譜は、いつも正確に的確に、丁寧に記譜されていて、誰に習えばこう書けるのかと思いきや、作曲は独学だそうだ。
 
今朝、世田谷観音まで歩いた折、いつもの観音像の隣に特攻平和観音堂が、その奥には「神州不滅特別攻撃隊之碑」まで立っていて、おどろく。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
余程達観した人間でなければ、早晩ひたひたと抑制された毎日に疲弊する。戦いであれば罵る相手があり、原子力発電所であれば電力会社を批難もできた。
伝染病となると、これら負の動力の矛先をどこへ向ければよいのか。鬱憤ばかり澱のように溜まりつづけ、精神までしんしんと染みてくる。
感染者や政府を非難してやり過ごしても、長引くほど、熱に浮かれたように生きてきた春まで、我々自身が堆くためこんできた齟齬の屑が刃のようにすっかり鋭く磨き上げられ、自らの喉元に突き付けられているのに気づく。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
渋谷道玄坂地下の喫茶店にて、白石美雪さん、一柳先生と松平敬さんとウェブマガジン対談。久しぶりに再会した皆さんより、揃って、「まあよくぞご無事で」と声をかけられる。写真を撮るときのみ、マスクを外す。
一柳先生がお元気そうで嬉しい。卓球場の閉鎖が解け、休止していた卓球も再開されたそうだ。柔和ながら、精神は若々しく尖っていて、迎合せず泰然としていながら、新しい情報のアンテナの手入れは行き届いている。悠治さんの話をするときの表情は、二人で演奏会を開いていたころとまるで変っていない。横浜で一柳先生の自作ピアノ協奏曲でご一緒したとき、少年のように嬉々としてカデンツァを即興していらしたのが、鮮烈な印象を残した。
尖る、というのは、他人に迎合して丸くなったり諦観したり、ルーティンに甘んじることなく、常に自らを客観視し、律する能力ではないか。
現在の閉塞感と、大戦後の混乱は比較にならない、と話して下さる。怖い憲兵がそこら中で監視している生活が続いた戦争が終わって、アメリカが自由をもたらしてくれたからね。混乱していたとは言え、今とは全く違います。心なしか、そう話す一柳先生の声も弾んで聞こえた。
今の日本を見ていると、戦時中と似ている部分が気になります。
結局、日本人はあまり変わっていませんね。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
「オルフィカ(1969)」譜割り。「般若波羅蜜多(1968)」と「歌垣(1971)」の間に作曲されているから、「般若波羅蜜多」や「Kraanarg」で学んだ経験が、読み進む上で役に立つ。似ている部分より、むしろ差異がより明確に浮き彫りになる。昨年暮れ、武満徹さんの60年代作品を集めて演奏した時に実感した音の実体の深さについて、改めて感じ入る。当時の作品が持つ、血の通った音が持つ、説得力の強さ。
「オルフィカ」の楽譜に、不規則に撚られた彩鮮やかな糸を思う。一つの線の周りをさまざまな糸が縁取り、絡めとってゆく。点が生まれ、そこからまた新しい糸が尾を引いてゆく。一つの糸の向こうで、千手観音のように、少しずつずれた無数の影がゆらめく姿を、垣間見たりもする。
音が見えてくる程に、音から離れて楽譜を見つめられる。近くで見ればごつごつしていても、遠くから俯瞰すればなめらかな線に見える。指揮はその稜線をなぞる作業であるべきなのだろう。
明薬通り沿いに古く小さな木造りの祠があって、中には小さな六手観音が鎮座している。長い間撫でられてきたからか、石像の少し角ばった顔の表面は最早なめらかに崩れきっていて、もとの姿は想像できない。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
音楽学者のルチアーナ・ガッリアーノは、日本のそれぞれの町に、固有の「太鼓」があると言う。それは理想だよ、東京ではそんな光景は見られない、今度彼女にそう話そうと思っていたところ、授業の一環なのか、家の前の小学校では小学生が毎日盛んに和太鼓の稽古に励んでいて、これが目にも耳にも心地良い。
三軒茶屋独特の太鼓かは知らないが、少なくとも子供たちの身体にはこの時間、この景色、級友たちの姿とともに刻み込まれてゆくに違いない。
家の近所を歩くとき、何十年も前から持っている下駄を、多少音を抑えながらつっかけてゆく。その乾いたからんころんという、木の柔らかい音は耳にやさしく、足にも馴染む気がして、日本に戻った折の密かな愉しみだ。靴音を立てないヨーロッパで、下駄で闊歩するわけにもいかない。
 
二輪の純白の月下美人の写真が母より届く。
「12時を過ぎると萎んでしまうそうです。下さった方の話では、綺麗ね大きくなってねと話しかけると、どんどん大きくなるそうです。確かに、話しかけると花が動くのです。本当にすごい!生きてます」。
「太陽の塔」のような顔を懸命にもたげているように見える。ここ数日両親揃って咲くのを心待ちにしていたが、これだけ見事な大輪なら当然だろう。良い香りがします、とある。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
元来14型で書いた「自画像」だが、至急12型のソーシャルディスタンス版を作った。作品の性格上、今回は弦楽器を細分して書かざるを得ず、原版のまま12型では演奏不可能だった。ソーシャルディスタンス問題は、コンサート会場に留まらない。リハーサルにおいても、演奏者を感染の危険から可能な限り遠ざけなければならない。
Go To Travel より東京排除決定。帝劇は劇場関係者感染により4公演休演。新宿小劇場の集団感染者数77人との発表。
ソーシャルディスタンスにより、身体的接触は厳しく制限されながら、covid以前に比べ、社会生活に於ける相互の共同責任、依存度は極端に引き上げられた感がある。ともかく健康を死守しなければならない、生まれて初めての強迫的緊張。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
これだけ長く日本で過ごすのも久しぶりだが、これだけ誰にも会わず、どこにも出かけないのも、初めてではないか。友人の演奏会に出かけようと思っても、どのように行動するのが正しいのか、わからなくなった。この状況下、何とか演奏会を実現させようと懸命に尽力する人たちを見ていると、どうしても気軽に足は外に向けられない。一人でも外を歩く人数を減らすのは、感染拡大抑制のささやかな第一歩だし、万が一罹患すれば、演奏会の存続に関わる。
申し訳ない思いにかられつつ、演奏している音楽家たちを、心から応援することしかできない。音楽を愛でる態度とまるで対極にいるようで、何とも気持ちの整理がつかない。
ソーシャルディスタンスで、身体的距離をとりながら、以前よりずっと厳しく相互に関わり合う不思議を思う。困るのは、こうして互いに絡み合いつつ、温もりが培われるのではないところか。今朝早く、世田谷観音へ出掛けると、今年初めて蝉の声。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
山根さん新作のエレクトロニクスについて、有馬さんより電話あり。
一見単純な譜面だが、実は複雑に絡み合っていて、かつ山根さんらしい音の色を引き出すのは、決して簡単ではないと思っている。山根作品の経験が豊富な有馬さんが演奏に参加してくださるのは、非常に心強い。夕日に映えるサイケデリックな色彩の風景を、セピア色のフィルターを通して投影するような印象を持っているのだけれど、実際演奏してみたら、全く的外れかもしれない。他者から距離を置こうとしているようにも見えるけれども、そこに引寄せられる強靭さに目を見張る。
 
昔教えていたアリアンナよりメールが届く。コモ国立音楽院の合唱指揮を110点中110点満点で修了したという。彼女に最初に出会ったときアリアンナは18歳くらいだったが、生まれて一度も音楽教育を受けたことがないが、指揮者になりたい、指揮をやりたい、と言って聞かなかった。周りの誰も真面目に相手をしなかったので、教えることになった。
ピアノを弾いたこともなければ、ヘ音記号すらまともに読めなかった。歌など歌った経験もなく酷い音痴だった。合唱を指揮する姿など、当時は想像できなかったが、人一倍努力しながら、信じられないような成長を遂げ、この便りに至る。彼女は、ベルリン音大のポストディプロマの入学許可の返事を待っている。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
「あの演奏に痺れた」「稲妻が身体を突き抜けた」のように、神経に電流が流れる様子を直截に表現することは案外多い。
頸後ろ辺りの神経がじわりと温まったかと思うと、尾骶骨までその感覚が一瞬で到達し外へ抜けてゆくのが、実感する感動だが、文字にすると面白みも情緒もない。作曲中に感動した経験は未だないから、あくまでも聴いた音に対する生理的な反応に違いない。
作曲は頭に溜まっていた澱を整理するアウトプットの作業で、思い切って日記を書くと頭がすっきりするのに似ている。譜読みは当初混沌にしか見えなかった情報を、次第に紐解き整理して意味を形成させるインプットの作業で、小説を読むのにも、パズルを解く快感にも似ている。
身体から外へ排出されるアウトプットが生理的に反応しないのは当然なので、やはり感動とは音を体験する者の特権なのだろう。
今は身体がすっかり演奏者仕様に切替わっていて、作曲したことも忘れている。先日までどうやって作曲していたのか、何か考えていたのか、何も覚えていないし、熱に浮かされたように書いた記憶しか残っていない。これでは感動のしようもない。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
スピード感をもって対処する。緊張感をもって見守る。危機感をもって注視する。
がさつで直截な発言をていねいに避ける、日本語らしい表現。最近流行の構文なのか、全く知らなかった。含蓄があるので、今度リハーサルで使ってみたらどうかと思う。
そこの打楽器、少し遅れて聞こえますね。スピード感をもって演奏してくださらないと。
おや、あなたは入る場所を間違ってしまいました。緊張感をもって演奏してください。
この部分、弦のみなさんの音程がすっかりずれていますよ。危機感をもって演奏してください。
緊張感と危機感に続いて、絶望感が到来しませんように。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
イタリアは10月15日まで非常事態宣言延長を発表。欧州連合、復興基金の合意達成。
感染拡大阻止や、医療充実は当然だろうが、イタリアのように基本的に資金難の国にとって、covid禍を生き抜くにあたり、どれだけ潤沢な復興基金を落掌できるかにかかっていた。
日本はどうなるのだろう、と不安にもなる。多くの自然災害に巻き込まれながら、今後どこまで国や地方自治体が国民を支えてゆけるのだろう。
今日の新聞を開くと、ウクライナとロシアは停戦合意したが、アルメニアとアゼルバイジャン戦闘激化。ヒューストン中国領事館に閉鎖命令。
先日集団感染を起こした新宿の小劇場は、今後ワクチンが発表されるまで、公演はすべて無観客で行うと決定。パリのエミリオよりメールがあって、沢井さんの演奏する「鵠」に感銘を受けたたという。東京で一日366人の新感染者。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
子供の頃、FMエアチェック雑誌で目ぼしい作品を見つけては、クラシックに限らず、民族音楽やバロック、現代音楽の番組をカセットに録音していた。特に、エマ・カークビーとジュディス・ネルソンのフランソワ・クープラン「エレミアの哀歌」と、演奏者名不明のカバニレスの「皇帝の戦争」という正反対の二曲は大好きで、覚えるほど聴いた。
「エレミアの哀歌」は後年楽譜を見つけてすぐに買ったが、カバニレスは他のオルガン曲集しか見つけられなかった。それをカベソンのティエント集と一緒に、ピアノで遊び弾きしては愉しんでいた。
鈴木優人さんへのオマージュを兼ねて「自画像」冒頭に「皇帝の戦争」を引用したのは、当時への素朴な懐古からだったが、何十年も経った今頃になって、あの演奏は誰だったのか無性に興味が湧いた。
演奏の特徴はよく覚えていたし、典型的スペインオルガンの音だったから、インターネットで演奏を聴き比べて、すぐにパウリーノ・オルティスがトレドのオルガンで録音したものとわかったが、この曲が1525年2月24日ロンバルディア「パヴィアの戦い」の描写とは知らなかった。
「パヴィアの戦い」はミラノ公国を占領したフランスが、今度はスペインに敗北を喫する決定的戦闘で、曲尾の祝典部分は勝鬨の声をあげたスペイン王カルロス1世、つまり神聖ローマ帝国カール5世の姿だと言う。フランスに接収されて以降、直前までダヴィンチらが活躍していたヨーロッパ名だたる芸術都市ミラノは、長大な頽廃期に迷い込んでしまった。
そのほぼ500年後、covidの立ち籠めるミラノで、独り唸りながらこの旋律を弄っていた。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
小野さんより便りが届き、日本近代音楽館で保管していた「たまをぎ」合唱譜を、漸く手に入れたという。オーケストラパートは未だ消失したままだ。
その頃の悠治さんは、1968年アジアを題材に「般若波羅蜜多」をアメリカで初演し、翌69年5月にはギリシャを題材に「オルフィカ」を日本で初演。日本を題材に「歌垣」を71年にアメリカで初演。意識していらしたのか、そうでないのか、題材と初演地が逆転していて、73年日本を題材とした「たまをぎ」で、漸く初演も日本となった。こうしてみると、当時の悠治さんの音楽は、神や目に見えない世界に解き放たれていたようにも見える。ただ、譜面と付き合っていると、実際はそんな具体的な対象物としてではなく、もっとずっと普遍的な「音」や「世界」、「宇宙」や「真理」に繋がってゆく気がする。
悠治さん曰く、「オルフィカ」において指揮者は音を引き出さず、流れる音を眺めていて欲しいそうだ。オーケストラを相手に、それどのように実現すればよいのか、考えることは沢山ある。
80人の演奏者が、通常のオーケストラとは違う相手と並んで演奏し、既存のヒエラルキーから離れて演奏への参加が求められるのは、クセナキスの「Kraanarg」のように、68年5月パリ五月危機の影響だと聞いた。
「オルフィカ」は小沢征爾さんによって初演され、彼に献呈されているが、当初「Kraanarg」も小沢征爾さんが初演する予定で作曲が開始されている。
 
 7月某日 三軒茶屋自宅
コロナ担当大臣と経済再生担当大臣曰く、「少し昔の日常に戻ってしまった」。戻ってはいけない。不要不急の霞を糧に生き永らえてきた我々は、新しい日常で何をめざすべきか。若者たちに、何を伝えればよいか。
経済が疲弊し、下落が止まらなくなれば、誰もが政府の給付金、補助金にすがるしかなくなる。多額の負債を抱えながら、どこまで国が国民を支えられるのだろう。給付金、補助金が際限なく安定して持続されるようになると、感染の危険を冒してまで各人が懸命に働く意思は、消失してゆくかもしれない。
そうして社会主義社会が近づくと、社会に貢献しない不要不急の霞組にも、何某か社会に対して「汗をかく」よう圧力がかかるのが過去の常だった。
尤も、それ以前に、経済の下支えのため、税金引き上げも難しいのなら、最終的には紙幣を増刷して対処を余儀なくされるのかもしれない。その結果スーパーインフレが起これば、不要不急の霞組は、もはや食べる霞すらないだろう。
ワクチンか、さもなくば特効薬か、何が我々を救うことになるのか。幾多の諍いも伝染病もやり過ごしてきた文化という霞は、今回もしぶとく生き残るに違いない。アメリカでcovidによる死亡者15万人突破。東京の新感染者数367人。東京の新国立劇場バレエ公演中止。新宿の劇団で20人感染確認。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
「オルフィカ」再考。
クロマモルフやローザスのような一段譜のピアノの旋律が、無数に折り重なるイメージ。
一つの旋律が無数の影と足跡を残し、3次元的に増幅されることで、空間の奥行きに無数の影を映し出す。そう考えてゆけば、本質をより単純化して把握できそうだ。複雑なものを単純化して提示すべきか分からないが、一つのステップとしては有効だろう。但し、情報量は極端に多い。
悠治さんの作品は、クセナキスより演奏が難しい気がする。悠治さんも演奏者だからに違いない。音と演奏家の生理がせめぎ合う感じがして、そこが面白い。
 
昨日のイタリア新感染者数は386人。死亡者数3人。
本日東京の新感染者数は463人。日本全国の感染者数1563人。
 
(7月31日三軒茶屋にて)

コロナ後の社会は? そして音楽は?

高橋悠治

コロナ後の社会を予測する文章をいくつか読んだ パオロ・ジョルダーノ(How Contagion Works Nel contagio の英訳)とスラヴォイ・ジジェク( Pandemic!: COVID-19 Shakes the World)の本 ハン・ビョンチョル(韓炳鉄 Byung-Chul Han: COVID-19 has reduced us to a ‘society of survival’)のインタビュー ヘザー・マーシュ (Heather Marsh) の The catalyst effect of COVID-19(https://georgiebc.wordpress.com/2020/04/25/the-catalyst-effect-of-covid-19/) 最初の二つには日本語訳があるが(ジョルダーノ「コロナの時代の僕ら」 ジジェク「パンデミック-世界をゆるがした新型コロナウイルス」) 近所の図書館では予約が多くて借りられなかった

ペストの流行がヨーロッパ中世を終わらせ 近代をひらいたとすれば コロナ・パンデミックはその近代を終わらせるきっかけの一つであるかもしれない 岡本裕一朗:新型コロナ感染症は「近代の終わり」を促すか(https://synodos.jp/society/23663

近代は終わるのか 1968年パリの5月 1990年ソ連崩壊後の新冷戦 イスラエル・アメリカ・サウジアラビアに対して中国・ロシア・イラン・ベネズエラ さまざまな試みと失敗のなかで転換をかさねてきた時代 パンデミックのなかで見えるのは 方針を立てられない政治と大きく複雑になって管理できない社会 古びて現実に対応していないが だれも変えられない制度や規制 失業と経済崩壊を利用してファシズムに向かうエリート支配

民主主義は 選ばれた人間が ヒトラーのように トランプのように あるいはどこかの総理大臣のように irresponsible (呼びかけても応えない)になるのを あるいは大きな声の人間がその場を支配するのを どうやって防げるだろう  

その兆候を見ながら 日々の暮らしのなかでささやかに続けられる手仕事と観察

質のちがう断片を集めて組み合わせるとき エイゼンシュタインのモンタージュは対立のダイナミックにアクセントを置いて 全体の統合を鍛えようとした その試みは反対方向のスターリンのパターナリズムに包まれていく危険があったのではないだろうか

映画もそうだったように オーケストラや合唱 さらにそれらを含むオペラのような芸能が コロナ後に もとの力をとりもどすことができるだろうか

コラージュやアッサンブラージュは 異質の組み合わせの上に やはり作品という一つの全体を置く

それとは逆に 集めた異質な断片が 一つの全体を作れず(作らず) それぞれ別な方向に分散しようとする その崩壊の瞬間をとらえる霧箱や泡箱は 音の響きと遊びながら できるだろうか