追いつけなさを、見送らずに見届けること

新井卓

十一月で三歳になったこどもが、よく走る。保育園に迎えにいくと庭の向こうから満面の笑顔で駆けてくるのはかわいいが、通りを車道に向かって疾走するのは少しだけはらはらする。彼が歩道の手前で立ち止まり待っていてくれるのを知っているから、あまり慌てずに、追いつける距離から眼だけで追いかける。その伸び縮みしながら切れることはない距離の快さについて考えている。

ベルリンに移住してちょうど二年が過ぎ、良くも悪くも、いろいろなことを手放したり、見送ることが多くなった。もうまる一年も仕事場が見つけられず、作品も売れずいよいよアルバイトでも、という状況で受け入れが決まったイヴァスキュラ(Jyväskylä)での滞在制作プログラムは、数週間の短い時間ではあったがここ三年の暮らしを振り返る静けさを与えてくれた。

十月下旬、朝夕の冷え込みが厳しくなり、しんと静まり返ったサイマーの湖水を渡り、9,000年もそこにあるという、アストゥヴァンサルミ(Astuvansalmi)の人の顔をした自然岩祭壇をたった一人で見つめていると、何かに見られているようなぼんやりとした感覚があった。高さ10mほどになる岩の、手の届く高さには、ベンガラに動物の脂肪と野鳥の卵を混ぜた顔料で、ヘラジカやカヌー、角の生えた不思議な人物像などが描かれている。それらの岩絵は花崗岩からゆっくりと染み出すケイ素にコーティングされ数千年の風雪を耐えてそこにあった。中でも手形はまるでつい先ほど岩肌に押し付けられたような生々しい気配があり、わずかな体温さえ残っていそうだった。

一万年前、氷河期の終わり、フィノスカンディア地方を覆う厚さ1kmの氷床が溶け出し、溶けながら氷河となって地表の全てを削り取り、やがて海中から、氷の重みから解放された二十億年の岩盤が浮かび上がった。その新しい無機質な地表にはじめて繁茂したのは地衣類だったが、はじめてこの地に辿り着いた地衣たちの一部は、北部フィンランドで、8,000歳を数えてなおまだ生きつづけている。

アストヴァンサルミの対岸にカヤックを引きあげ、踏み締める表土のやわらかさにはっとする。岩肌に数センチほどだけ堆積した土壌は地衣類と苔類がモザイク状に絡みあってできたもので、一群のクロサカズキシメジが、その小さな王国のあるじ然とした顔で咲き誇っていた。フィンランドには人や木々、虫や魚たちに、汀に佇む者の敬虔さがある、と思った。

花崗岩と長く暗い冬の新天地で、わたしたちはみな、たったいま辿りついたばかりだ。生きのびるための技法(アート)が決して強さだけでなく、折り合いをつけながらブリコラージュし、それなくては生きていけない元素を外界から、肌の限りない無防備さによって手にいれるわざであることを、地衣たちは知っている。

Life is easy here(ここで生きるのは簡単)──ラタモ版画写真センターのアンナレーナが、スモークサウナの暗がりで眼を細めながら、屈託ない笑顔を浮かべて言う。

世界への追いつけなさを見送らず、ときに凍てつく冬の眠りに守られながら生きのびること。一年でもっとも暗く、窓辺に飾るヤドリギの鶸(ひわ)色に隠された春の兆しを求める日が近づく。

パレスチナから愛を込めて

さとうまき

実は来月に手術をすることになった。その昔、バリウムを飲んで胃の検査をしたら突起物が胃にできていた。あ、これはがんかもしれない。死ぬ前にやりたいことをやった方がいいと大袈裟に考えた僕は会社を辞めてパレスチナで暮らすことにした。それが1996年のこと。

と言うのも当時の胃カメラは、ふっとくって、これを自力でごっくんと飲み込まねばならぬ。もう死ぬ。と言う思いをして、細胞検査は、悪性ではなかったのだが、経過観察のために毎年カメラ飲みましょうと言われ、もう死ぬ。と思ったのだ。それで2019年まで放置しておいて流石にそろそろやらねばと思い切って鼻から入れるやつをやって見たら意外と楽だった。「20年以上、放置してあなたは生きてるわけですから、結果的に悪性ではなかったということです。経過観察しましょう」ただ、鼻から入れるのも嫌なものである。気づくと6年経っていた。

この歳になると高血圧の薬を飲んで、最近では睡眠時無呼吸症候群の為の治療もしているのだが、最近吐き気がする。と相談したら 「それは、大変。すぐにカメラを飲みましょう。」と言うことになった。しかし「うちでは鼻はやってません。口からです。口がいやならよそでやってください。さあ、うちでやるか、やらないか」と言う。医者の圧には逆らえない。渋々検査を受けた。それが、嘘の様に楽だった。すっと入って、あれ?という間に終わってしまった。自分の弱みを克服し、何か突破した様な喜びに湧き立つ。僕は勝ったのだ、人生の勝ち組に仲間入りだ。しかし、腫瘍は思いの外、成長していた。医者は、切りましょうと、やるきまんまんだ。この圧には逆らえず、成り行きで切ることになった。

さらにレベルアップした突破感に僕は酔いしれる事ができる。自己啓発セミナーってこんな感じか? とはいえ大袈裟に考える僕は死ぬ前にやりたいことをやっておこうと旅に出ることにした。一箇所行きたいところを思い浮かべた。

そして選んだ地はパレスチナだった。ん?なんだかこれは原点に戻って来た感じがする。しかし、パレスチナとイスラエルは、ご存知の様にややこしい状況になっている。パレスチナに行くためにはイスラエルに入国しなければならない。占領地パレスチナにはまだ外交権がないのだ。ともかく僕のちっぽけなスーツケースには、睡眠時無呼吸症候群の治療の器具そして血圧計、常備薬が占めることになった。こんなもの持ち歩く旅も初めてだ。医者は手術前のデータを欲しがるのでこんなへんてこりんな荷物を持ち歩いての旅になってしまった。

とりあえず、無事にイスラエルに入国。さあこれからどうする? 成り行き任せの旅が始まった。

4日目。門に花が生けてない

イリナ・グリゴレ

東京で生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて青森に戻ってから、もうすぐ10年が経つ。この10年間の苦悩を、同じタイムラインで共に暮らした女性たち、植物、りんご、魚、山菜、キノコ、虫に救われたことは間違いない。でも、実はもうひとつ、とても大切なものがあった。外から「あの人、なんて豊かな環境で暮らしているんだろう」と思われても、本人は誰にも言えず、誰にも知られず、潰れそうな苦しみを抱えていることが多い。人間だから。どこに住んでいようと、みんなギリギリのところで潰されずに生きているに違いない。そして、潰されてもおかしくないその瞬間こそ、たいていごく小さな出来事からまた生きる力を拾う。道に落ちたぬいぐるみ、誰かがなくしたのか忘れたのか、可愛いものを踏みそうになった瞬間に、呪術のように力が湧いてくる。

昔から私は、道に落ちた忘れ物や誰かの大切そうだったものを見ると、なぜか幸せな気持ちになる。どんなに落ち込んでいても、それは聖霊たちが私にくれた贈り物だと信じて、ときには拾ってしまう。この前も、白いウサギの欠片と、透明な妖精のプラスチックの羽を見つけて大喜びした。大金でも当たったかのようにはしゃいで、大事にしまっておいたけれど、小さなものを失くすのが得意な私は、たいていどこにしまったか忘れてしまう。それでも「宝物はたくさん持っている」と胸を張って言える。

そんな小さな喜びが、この10年間、もうひとつあった。今住んでいるところが弘前城の近くということもあり、江戸時代からの日本家屋が少し残っている。毎日必ず通り過ぎる古い家の門に、生花が生けてある家がある。花が大好きな私は、また道で小さなオブジェを拾うときと同じように、あの花は自分のために生けてくれているのではないかと錯覚してしまう。特に辛いときは、そう思いたくなる。それはとても幸せなことだと思う。季節の花、庭の花、黒い門に光る。きっとあの花を見て喜んでいるのは私だけじゃない。10年間、毎日のように私はあの花に支えられてきた。車で通り過ぎる一瞬、目を向けるだけで、時間と世界が再構築されるような気がした。

ところが、ここ4日間、同じ道を通っても、花がない。道を間違えたのかと思うほどだ。これまでの反復が途切れた瞬間、『羅生門』の大きな黒い門から鮮やかな花が消えて、ブラックホールだけがぽっかり口を開けているような感覚になる。ピンク、赤、白、黄色の花があったからこそ、今まであの門の黒がどれほど深い黒だったか気づかなかった。花がないとき、あの黒は真っ黒で、目が痛くなるほどで、穴に見える。そこから星ひとつない宇宙に落ちていくのではないかと、思わず車の速度を落とし、口を開けたまま見つめてしまう。1日目に見たとき、思い出した。以前も、たまにそんなことがあった。花を入れ替えるタイミングに通りかかっただけで、朝はなかったのに昼過ぎには新しい花が飾られていた。でも、2日以上続いたことはなかった。

ところが今は4日目。毎日あったものがなくなって、感じていた喜びが消えたわけではないのに、どう反応していいかわからない。こういうときの私が危ない。あの花と一緒に、私も消えたくなる。あの花は祈りのような、繊細な贈り物だったのに、誰かに奪われたのだろうか。返してほしい。誰か、あの花を盗んだのだろうか。そうだ、わかる。盗んだ人が。嘘をつく人。暴力を振るう人。私の苦しみをわかっていても助けてくれない人。今の世の中、そんな人がたくさんいる気がする。花を見て、自分より美しいと嫉妬し、恨み、汚い手を伸ばしてぐちゃぐちゃに握り潰し、足で踏みつけて、川に捨てる。誰にもあの美しい花を見てほしくないから。突然、友人が高校生のときにビルから飛び降りた人の遺体を見た瞬間を思い出した。私が見たように。頭の中で、そのとき近くの川にたくさんの花が流れていく。誰が捨てたのだろう。花を見るのも嫌な世の中になってきたのか。

先日、10年以上ぶりに文楽を見た。人より生きているように見える小さな人形が、足がついているのにいつも浮いているのが私とあまり変わらないきがした。最初は『義経千本桜』の鮮やかな桜の場面に、酒でも飲んだかのように酔った。文楽の繊細な世界に再び呑み込まれて、狐が出たとき、私は完全に狐憑きになった。あの狐は、誰よりも生きているように見えた。

次の『新版歌祭文』――1710年に大阪の野村で起きた事件を元にした恋の話で、巻き込まれた二人が自殺する――は昼の部だったせいか、この日は自殺せずに済んだ。船のおじさんの笑いでおわった。私の心を、一本の本物の大根と、ちょうど咲き始めた梅が奪ってくれた。文楽のいいところは、一人の人間に負担が集中しないこと。人形を動かすには三人、声を出す人も別にいる。できれば、疲れている私の身体も、声を出す人を別に用意してほしい。人形と同じで、私を生かすのにあと三人いても大丈夫な気がする。せめて、私を生かしてくれた門の花を、もう一度だれか生けてほしい。このデリケートな世界がどこかに消えた?

野の装い

笠間直穂子

 暖かい季節に、庭に出て、草木や野菜の様子を見てまわるとき、たとえ暑くても、虫さされや直射日光を避けるため、素肌を晒さないようにする。これは田畑や野山に出入りするひとにとって、ごく当たり前のことだが、わたしのように、主に室内で仕事をしていて、少しの時間だけ外に出る生活だと、そのたびに長袖に着替えるのは億劫に感じてしまう。それで、Tシャツの上に長袖シャツなどを羽織るわけだけれど、そうすると腕まわりや裾がもたつく上、動いているうちに背中や首元の肌が露出し、かといって土をさわっている最中は直すこともできず、たちまち蚊に刺される。

 去年、ジャンプスーツを買おう、と決めた。一着で全身をおおう、綿帆布でできた、いわゆるツナギだ。決めたのはそのときだが、突然思いついたことではない。庭のある家に引っ越してくるよりもずっと前から、着てみたいと思っていた。

 数年前まで、十九世紀フランスの諷刺新聞を読む小さな研究会に出席するため、いまは亡くなったM先生の、東京西郊の私鉄沿線にある自宅へ、二か月に一度ほど通っていた。あるとき、早めに駅に着いたので、近くにある美術大学のキャンパスを覗いてみることにした。構内に売店を見つけて入ると、ツナギが並んでいる。黒や青に加えて、ピンクや紫といった目立つ色のものもあって、楽しい。そういえば、友人知人に連れられて、いくつかの美術大学を訪れたことがあるけれど、学内で思い思いの色のツナギを着て制作する学生たちを見かけた気がする。いいな、と思った。

 だから、夏の庭仕事に、ツナギを着ようと思ったとき、わたしは作業服の専門店ではなく、画材屋に行った。鮮やかな色のものは、ちょうど廃番になったらしく、あまり残っていなかったけれど、素材とデザインはあのときに見たのと変わらない。青と、灰色を買った。嬉しかった。

 着てみると、思った以上に快適だ。家のなかでは綿パンツのように穿いて両袖を腰のところで結んでおく。家事や事務作業がひと段落して、バラの花柄を摘まなくては、とか、ミニトマトを収穫しよう、などと思いたったら、袖を通す。上着を取りに行く手間もなく、すぐに出られる。上半身と下半身が一体になっているから、すっきりと動きやすく、いくら動いても、よれたりめくれたりしないし、生地に厚みがあるので、汗で肌に貼りつくこともない。それに、胴まわりが締めつけられず、腹部に空気が通るため、ベルトの位置で留める服よりも、涼しく感じる。作業服として優秀であることがよくわかった。

 美術作品制作の作業着としてのジャンプスーツが頭に残っていたのは、芸術専攻の学生たちが一翼を担ったニュー・ウェイヴ周辺の音楽文化を連想したせいでもあっただろう。ジャンプスーツが似合う、または、似合いそうな、ミュージシャンたち。そういえば、わたしが高校時代にはじめてトーキング・ヘッズを聴いたのは、美術部の先輩が貸してくれたデビューアルバムのカセットテープだった。

 つまり、わたしは、実用面での利点以前に、単純に、かっこいい、と思って、ジャンプスーツを着ることにした。これは、肝心なことだと思う。便利だからやむをえず、ではなく、装いの一種として、着たいから着ている。そう思えるものを身につければ、自然と体は動く。

     *

 働くことと装うことの関係、といえば、小野塚秋良の仕事が思い出される。一貫して労働着を活動の基本に置いてきた、稀有な服飾デザイナーだ。三宅一生に附いてパリコレクションに来ていたころから、現地の有名ブティックのショーウィンドウに飾られた服よりも、そのウィンドウを拭く清掃員の作業着に目が行く。こちらのほうがかっこいい、と感じる気持ちを軸に、自分のスタイルを練りあげていった。

 一九八八年に自身のブランド、ズッカをはじめた六年後には、当の作業着をつくるボルドーの工場に掛け合い、その工場で生産する日常着のシリーズ、ズッカ・トラバイユを立ちあげる。労賃の安い国外へ生産拠点が移されていった時代のフランス国内の縫製工場、それも恰好悪いと見なされて着られなくなりつつあった労働着のメーカーの経営状況を考えるなら、彼の提案は、そこで働く労働者の雇用維持にもつながったものと想像できる。

 他方、彼はズッカと平行して、飲食店などの従業員が着用するユニフォームのブランド、ハクイのデザインに携わり、前者を退いたいまも、後者の仕事はつづけている。毎年、十型ほどの新作を発表するが、ユニフォームは同じものをいつでも補充できることが肝要だから、過去の製品も在庫を残し、早く売り切ることはしない。毎シーズンのコレクションに追われ、その場かぎりの服を大量につくりつづける一般的なアパレル業界とは対照的なシステムだ。

 こうして彼は、単に労働着のデザインを形だけ採り入れる、というのではなく、労働の現場に直結する服づくりを実践してきた。その実践は、そのまま、ファッション業界に対する批判ともなる。

 二十年以上前になるだろうか、どこで読んだのか思い出せないのだけれど、ズッカを率いていた当時の彼が、中央アジアへの旅行について語っていた。きらびやかな世界になじまない自分がファッションの仕事をしていることに悩み、気分を変えようと広大な草原を訪れたとき、遊牧民の女性がたっぷりした衣装と重たげな装飾品を身にまとって、目いっぱい力仕事をするのを見て、そうだ、これでいいんだと思った、それで視界が開けた、というような話だった。

 これを読んだわたしは、身なりに気を遣うことと、汗水垂らして働くことは、どちらかというと相容れない、といった思いなしが、自分にもある、と気づいた。どうせ汚すなら、きれいにしても仕方がない、というような。でも考えてみれば、彼の言うとおり、世界各地の衣装には、色鮮やかだったり、たくさんの布地や飾りを重ねたりするものがいくらもあって、そういう装いで体を動かす人々の映像を、わたし自身、あちこちで見た記憶がある。そのような衣装が、習慣やしきたりにしたがっただけものであって、流行や個性は関係ない、と決めつけるのは、偏見にすぎないだろう。美しさの基準や、華美の程度に違いはあれど、ひとはおしゃれをして、力をふるう。

 なにも遠い地域のことにかぎらない。乗馬ズボン姿がびしりと決まった鳶職に出会うことがあるけれども、そのズボンは無論、機能性のみによってそういうデザインになっているわけではない。ニッカーボッカーが日本で土木工事の作業着となるにいたった服飾史と、装うことをめぐる着用者の個人史が、その「着こなし」に現れる。

 極限の力仕事である炭鉱での採炭労働に従事する女性たちもまた、着飾った。森崎和江が『まっくら』で話を聞く元女抗夫の一人は、戦前、若い娘は休日に髪結いに行って日本髪を結い、髪が汚れるのもかまわず鬢も前髪も出して「上だけちょこんとタオルをかむります。しゃれとったのです」と言う。別の一人も、若い女は後ろをちょっと長くした短い腰巻きを穿き、「坑内へ入るのにおしゃれして、紅化粧して手拭いかぶって」、赤や青の玉のついたかんざしに、絣の上からきりりと巻いた白い晒、近所の農婦たちに見世物みたいだと揶揄されるほど「いきな恰好して行きよった」と語る。とはいえ、坑内では暑いので脱ぎ、「まっくろになってかえりは着物かたげてすたすたかえる。腰巻きも暑いいうてタオルをくるっとまいたなりの女もいたりしてね」。

 読み返していて気づくのだが、本書では、語り手の一人ならずが、働かない今日の女性を批判するのに、着飾ってばかりいて、という言い方をする。先に引いた女性などは、「いまの女性」について「虚栄はることにばかり負けん気出して紅化粧しての」と評しておいて、その少しあとに、自分たちが「紅化粧して」坑内へおりたことを誇りをもって話す。化粧ばかりして仕事をしないこと、の反対は、化粧せずに仕事をすること、ではないのだ。

 装うことは、働かないことの象徴にもなり、働くための勢いづけにもなる。社会秩序への隷従にもなれば、ぎりぎりの自由の表現にもなる。階級間の断絶も示せば、連続性も示す……。労働との関係を通じて、装いというものの、容易には解き明かせない複雑な意味合いが、ぼんやりと浮かびあがってくるようだ。

     *

 秩父鉄道を皆野駅で降りて歩いていると、小さな書店があった。入ってみると、雑誌が中心で、店主はわたしとそう変わらない年ごろのようだが、棚を眺めるうちに、先代が八〇年代に仕入れたとおぼしい単行本の並ぶ一画に目が留まった。四十年前の秩父の本屋が、忽然と目の前に現れたかのようだ。埼玉の民話集、一揆に関する歴史の研究書、などに交ざって差してあった、井上光三郎『機織唄の女たち 聞き書き秩父銘仙史』を手に取る。すでにもっている『写真集 秩父機織唄』の著者だが、この本ははじめて見た。東書選書、一九八〇年刊。とうに絶版の本を、新刊として定価で買い、帰りの電車でひらく。じきに引きこまれて、家へ帰ってからも読みふけった。

 明治の終わりごろから戦前にかけて絹織物の一大産地であった秩父に一九二五年に生まれ、自らも機屋で働いたことのある著者が、かつて機織りにいそしんだ老女たちを訪ね歩き、彼女たちの語りに、作業中歌われた機織唄の数々、機屋の証文や出納帳のような史料、業界の盛衰を示すデータ、著者の撮影した写真などを織り交ぜて、当時の機織女たちの生活を陰影豊かに描き出す。

 秩父では江戸時代から、農家で機織りがおこなわれ、自家用の布を織ったり、機屋の委託を受けて売り物を織ったりしていた。高機(たかはた)の発明を機に近代的な織物生産がはじまると、機屋は農家への委託生産と平行して、工場に住みこむ年季奉公の機織女として農家の子女を雇うようになる。このころの秩父の銘仙は、主に縞模様の丈夫な普段着、「秩父鬼太織(おにぶとり)」で、今日知られる華やかな柄のほぐし銘仙が大流行するのは、昭和に入ってからだ。

 家で働いた女性と、工場に住みこんで働いた女性がいるわけだが、両者を截然と分けられるわけではない。元々実家で機織りをしていて、その後工場へ行った者もいるし、機を織る家に嫁いでからはじめて姑に習って覚えた者もいる。機織りよりも糸引きが盛んな村では、農家から近くの共同製糸場へ住みこむ。女性たちの多様な境涯を通して、秩父地方の織物産業の輪郭が見えてくると同時に、ひとくくりにはできない機織りの女たち一人ひとりの肖像が、読む者の胸に残る。

 秩父地域内はもちろん、群馬や、ときには新潟からも、娘たちはやってきた。貧しい農家が口減らしとして子供を年季奉公へ出すのは予想されるとおりだが、農家に残った娘たちが、町の暮らしに憧れ、親の反対も聞かずに家を飛び出して女工になる例も多かったという。「年季に出た娘が、たまにけえってくるときゃ銘仙の着物や羽織だしさぁ。頭はワッカに結って丈長(たけなが)なんどつけたり、銀出油(ぎんだし)の匂いはプンプンするし、うらやましくって見ねぇようにしたもんだったいねぇ」(浅見アイノ)。その恰好は、物日(祝い事や祭りなどのある日)ならではの盛装なのだが、いつでも木綿の着物に藁草履の百姓の子の目には眩しい。親に急きたてられて家事と農作業に日々を送るなか、「息がつまるような毎日なんで、手に職つけてひとりだちがしたくって、はあ我慢ができなくって親の止めるんをふりきって飛び出してきちまったつぅわけです」(柿境ミヤ)。

 無論、来てみれば労働は過酷をきわめる。場合によっては十歳に満たないうちから、寝る間もなく働かねばならない。要領が悪ければ旦那に叱られ、逆に引き立てられれば仲間に妬まれる。夜中に逃げ出し、工場側の追っ手につかまって、その後病欠を繰り返すさまが逐一記録された、ある年季女工の「職工契約金・貸附金其他台帳」が生々しい。他方、脱落を免れて、必死に仕事を身につければ、だんだんと一人前の織り手になっていく。

 農村でも町でも、娘たちはいずれ、周囲に世話されて嫁ぐ。夫が酒飲みで働かない、あるいは働いても家に金を入れない、という話が、実に多い。女たちは相変わらず仕事に忙殺されながら、義父母に仕え、子を産み育てる。十一人産んで「四人はだめだったが七人だけはにん(成人)にしましたねぇ」(島田クマ)というひともいれば、若くして死んだわが子のことを切々と語るひともいる。柿境ミヤの娘チエコは、十六歳のとき、機織りの失敗を旦那に咎められ、線路に飛びこんで死んだ。井上イセの娘タケ乃は、高等小学校まで出たいと望んだが叶えられず、代わりに通った裁縫教室で抜群の才能を示し、ぜひにと請われて町の商家へ嫁いだものの、「野育ちなんで町の水に合なかったんだんべぇ。間もなく子を残して死んでしまったんさぁ」。

 「尋常もろくろく出ず、糸ひきと機織りに明け暮れた明治生まれの秩父の女たちは、どこへいっても、いつも寒く心細かったに違いない」——自らの母の面影をも重ねつつ、多くの老女を訪ね歩いた著者は哀惜をこめてそう述べる。地元の人間で、かつ機屋の仕事を熟知しているからこそ書けた、この敬慕に満ちた一冊によって、著者は「名もなき」女性たちの幾人かに、個別の顔と、名前と、声を回復させた。

 彼女たちの語りのあちこちに、装いの話が顔を出す。工場で糸を引くときの衣装は、黒沢志げ乃によれば「頭はハイカラ(庇髪)、袂の着物、広い帯、赤い襷、前かけ」。物日には「桃割れにするんが楽しみでタケナガつけてしっくらばねした(おどりあがってよろこんだ)もんでした」。

 ただ、自分が糸を引き、織りあげる絹織物は、他人の手へ渡っていく。高級なものは、自分は一生、身につけない。そのことを、何人かの女性が口にする。

「まぁ、長いことハタを織ったけれど、これがそうだと、銭を見せられたこともなくって終っちゃったねぇ……。手前(てめえ)の自由になったんなぁ、織りじめぇの銘仙ぎれぐれぇのもんだったねぇ」(井上イセ)

 美しい布、質のよい衣を、だれよりもよく知る、職人の手。その手にわずかに残る、しっとりと艶やかな銘仙の端切れをたぐる彼女を思う。はぎ合わせて小物でもつくったのだろうか。大事にしまっておいたのだろうか。

むもーままめ(53)図書館のバラのひと、の巻

工藤あかね

 園芸や農業の心得がある作曲家の知人は数名いるが、その中にばらを育てる名人がいる。かつてわが家でもばらを育ててみようと思い立ったことがあったが、水をあげすぎたか、日当たりが悪かったか、とにかくうまくいかなかった。ばらの名人にそんな話をしたかどうか記憶が定かではないのだが、ある本番のあとその方が自宅で育てているばらを持ってきてくださった。それはザンクトフローリアン修道院の、それも作曲家アントン・ブルックナーのばらの苗だとおっしゃる。これはこれは大切にせねばと、力を入れて育てたつもりだったが、だんだん苗から力がなくなり、とうとう枯れてしまった。
 
 そんな苦い経験があったので、貴重なばらをくださった作曲家に申し訳なくて仕方がなかった。ある時ふと、「あのばらどうしましたか?」と尋ねられたので、正直に話した。するとそれから数ヶ月後、立派に育ったブルックナーのばらをお贈りくださった。「これなら大丈夫だと思います」とおっしゃるので、「今度こそ花を咲かせて~~~!!」と祈る気持ちでいたのだが、家のベランダの方向が悪いのか、水のあげかたがへただったのか、どんどん元気がなくなっていってしまった。大切なばらが日に日に弱ってゆくのを、オロオロと見守るばかりだった。

 ばらを助けるにはどうしたら良いのか。マンション共用スペースに鉢ごと置かせてもらうか。近所の公園の植え込みに勝手に挿すか。中央分離帯の土に挿すか。最後に閃いたのは、図書館の植え込みである。よく利用する図書館の植え込みには、さまざまな種類の花が咲いていて、なかでもばらが色とりどりに花をつけているのも思い出したのだ。「あそこなら、ブルックナーのばらが助かるかもしれない」そう思ったわたしは、図書館の職員さんに無理を承知で話をつけにいった。

 「突然すみません。本とは関係ない不躾なご相談なのですが…」と切りだした。「わが家に弱ったばらがあるのですが、こちらの花壇でしたら助かるのではと思いまして。もちろん私が自分で水をあげに参りますが、こちらにばらを植えるのをお許しいただけないでしょうか?」

 わたしが話しかけた方は、まさしく図書館のばらに水をあげている人だった。「いいですよ、こちらで水もあげますので。いつも適当に水をあげているだけなので、お持ちいただいたばらが元気になるかどうかお約束できませんがよろしいですか」とおっしゃる。親切なお言葉に感激して差し入れのお菓子を買い、いったん帰宅するとすぐさまばらを抱えて再度図書館へいった。お菓子は固辞されてお渡しできなかったが、ばらは預かってもらえた。その後図書館へは頻繁に様子を見にいったが、わたしの期待に反してばらは立ち直る気力がすでに失われた後だったようにみえた。しばらくすると枝切りをしてもらっていたが、その起死回生のチャンスでも蘇ることはできなかった。

 ばらをくださった作曲家に「その後ばらはどうですか?」と聞かれた時の恥ずかしさと情けなさといったらなかった。図書館の職員さんにもお手数をかけてしまったし。だがその後、図書館に行くたびに、ばらの職員さんがいらっしゃるか探す癖がついた。先日お会いした際には、私の知りたい情報をリファレンスサービスで調査しておいてくださることになった。図書館のばらのひとは、おだやかで人当たりもやわらかだが、じつはおそろしく有能な方なのではないだろうか…。あと数日経ったら結果を伺いにまた図書館に行かなくては。

煙について

芦川和樹

※煙突
を、掃除するひと(暗いひとでいつづける
穴を覗く、穴に種類があって、ストーブ

ストーブ

ストーヴ
は、芽をだした七面鳥に水をやるために
午前の日の、日のでるまえのダーク・
日のでるまえのダーク・タイムに相談し
                 て
  じ  汚  顔  汚  テ  い
  ゃ  れ  が  す  レ  る
  あ  で  顔  、  ビ
  回     で  よ  を
  覧     は  ご
  は     な  す
  、     く
  叶     て
  い
  ま     て、さすルイボスティー
  せ  冷めた紅茶を目薬といっ  目
  ん か。叶うばあいは、冷めた  に
            
インターヴァルを季節で数える  を薬目
煙突を烟突とかいて、もう少し燃  すさ
えているつもりでいれば玄関にス
リッパが、ふさふさ犬がいる。はごろもを
そだてる
あかるいと 目がつらい
すすす、すすす、すす、す
ドロップを買ってくるんだった
それは目とは関係のないことです


袋、ふくろ。屋根にのぼっていく
たましいみたいね
十二こで一生の
踏んだガムと嚙んだガムの結晶

※※煙突、烟突
(暗さがよくなってきて、さ
陽気でいつづけるひとでいつづける
毛糸の学校

いらち

篠原恒木

どうやらおれは「せっかち」、関西弁で言うと「いらち」らしい。「ふらち」と言われたことはないので、まだマシかとは思うが、ヒトから見ると、おれはとにかくせかせかして落ち着きがないとのことだ。そうかもしれない。その自覚もじゅうぶんにある。

仕事には締め切りがある。だが、おれはその締め切りの数日前には入稿を終えていた。締め切りギリギリ、あるいは締め切り日を過ぎて印刷所に原稿を送っている奴の気が知れなかった。
「印刷所もサバを読んでいるから大丈夫ですよ」
とみんなはホザくが、おれは嫌だ。早め早めに進行して、必ず入稿締め切りは守りたい。
ところが印刷所がグズグズしていて、ゲラがなかなか出てこない。あんなに早めに入稿したのに、この仕打ちは理不尽ではないか。おれは一人でイライラしていた。

ヒトと待ち合わせをするときも、大抵は十五分ほど早めに着いてしまう。相手はなかなか来ない。当たり前だが結局は十五分待つことになる。おれは一人でイライラしている。
しかしそんなおれでも、さまざまな事情で定刻を二、三分過ぎて到着することがある。つまりは遅刻だ。このようなときは待ち合わせ場所に向かっているときも気が気ではない。
「電車よ、もっとスピードを上げなさい」
と、車内で足踏みをしている。駅に着いたら猛ダッシュだ。そんな努力の甲斐もなく二、三分遅刻すると、犯罪者のような気分になる。おれは額に汗を浮かべながら、待ち合わせた相手に土下座級の謝罪を繰り返す。

「後日、結論を出します」
と言われると、イラッとしていた。なぜこんな簡単なことをいま決められないのだろう。どうせひと晩寝かせたところで、おまえは一歩カイシャを出れば結論を出すための検討などすっかり忘れて、家に帰っておじや食って、すかしっ屁して寝るだけだろう。いま決めろよ、いますぐこの場で決めろ、おとなしく言っているうちに決めろ、と思ってしまう。
外部のヒトと打ち合わせをしていて、相手が、
「いったんお預かりして、社に戻って検討させていただいてからお返事させていただきます」
などと言うと、おれはすかさず応える。
「あー、すみません。ウチはテイク・アウトやってないんで」
おれは一人でイライラしていた。

「たまにはのんびりと温泉に行きたい」
かつてはそう考えたこともあるのだが、温泉地へ行って風呂に浸かっても、入るや否や早口で一から百まで数えて、そそくさと湯船から出てしまうオノレに気付いた。つまらん。実につまらん。のんびりなんてとてもできない。おれは一人でイライラしている。

展覧会へ行っても、ひとつひとつの作品をじっくり鑑賞することはない。「お、これは」とピンときたものをところどころで数十秒観て、あとはヒョイヒョイとチラ見しながらすぐ出てきてしまう。「大回顧展」などと言われても、実際はそんなものではないだろうか。小一時間もあればじゅうぶんだ。
それで思い出した。かつて「春画展」というものに行ったときには参った。気になった絵の前で立ち止まり、しばし鑑賞していると、おれのすぐ後ろにおじいさんがピッタリとつき、
「おお、おお」
と言いながら、荒い鼻息をおれの首筋にかけてくるではないか。おじいさんよ、そのトシで安易にコーフンしてはいけない。心筋梗塞で倒れるぞ。おれは一目散に退散して、おじいさんの様子を遠くから窺ったが、ずっとその絵の前で立ち尽くしていた。おそらく閉館時刻まであのままの状態でいたのではないだろうか。

映画館も許せない。定刻通りに席についても、延々と「マナーのご注意」やら数本の「近日公開の予告」やら「映画泥棒」やらに付き合わされて、お目当ての本編がなかなか始まらないではないか。おれは一人でイライラしている。

好きな落語家の独演会に行ってもそうだ。開口一番を務めるかたには申し訳ないが、
「おれが代わりに演ってやろうか」
と思ってしまうような腕前の前座が延々と噺を続けると、おれは一人でイライラしている。『饅頭怖い』なんてその気になれば一分もあれば演れるはずだ。

朝のテレビのニュース・ワイド・ショーもよくない。番組が始まったらすぐにその日のトップ・ニュースを報じればいいのに、
「まずは動物園で先週産まれた虎の赤ちゃんをご紹介します」
などと言って、どうでもいい映像を見せられた挙句、メインの司会者がゲスト・コメンテーターに話を振る。
「可愛いですねぇ。どうですか」
「可愛いですねぇ」
アホか。もう出かけなければいけない時刻だ。おれは一人でイライラしている。

懐石料理も苦手だ。ゆっくりゆっくりと一品ずつ小出しにするのがどうにも馴染めない。「いっぺんに持ってこい」と叫びたくなる。「鱧の湯引き・梅肉ソースを添えて」などと言って、お猪口のような小さな器に二切れ、三切れで出されると、おれはパクリとひと口で食べてしまう。ふと正面を見ると、連れの酒呑みはただでさえ小さい鱧を箸で二つに分けて、もったいなさそうに口に入れ、酒をチビリチビリと飲んでいる。おれは一人でイライラしている。

ゴルフも嫌だねぇ。あんなものは地面にあるタマを打てばいいだけの話だと思うのだが、同伴競技者のプレーが遅いと最悪だ。おれは素振りもせずにすぐショットする。あっという間だ。ところが同伴者はボールのそばで何回も素振りをして、ボールの後ろに回って打つ方向を確認し、アドレスに入ってからもワッグルを繰り返す。ようやく打つかと思えば、風が吹いてきたらしく、いったんアドレスをほどいて、ちょっとむしった草を宙に飛ばしたりなんかして風向きを再確認し、また素振りをしている。おれは毒づく。
「おまえはプロか」
ところがそんなに時間をかけて打ったボールは「チョロ」だったりするのだ。ボールはゴロで数ヤード先にしか移動していない。むなしい。どうせミス・ショットするのなら、さっさと打てばいいのに。大抵の努力は報われないのだ。
やっとグリーンに辿り着けば、今度はパットをキメようとしゃがんで芝目を丹念に読んでいる。カップの向こう側にまで行って、グリーンの傾斜を観察する。念のために断わっておくが、一打一万円の賭けゴルフをしているわけではない。
「そんなことしたって入るわけないだろ」
またもやおれは毒づくが、案の定、奴がさんざん時間をかけて打ったパットはアサッテの方向に転がっている。おれは一人でイライラしている。

麻雀も然り。長考してなかなか牌を切らない奴が上家に座っているとイライラする。おれはたまらず口に出して言う。
「早く切れよ」
「ごめん、ちょっと待って」
「将棋じゃねぇんだぞ」
「悩みどころなんだ」
そう言って、テキはなかなか切らない。切らないことにはおれがツモれない。おれが次にツモる牌は伏せられているわけだが、奴が時間をかけている間におれのツモる牌が変わってしまうような気分になってくる。
「オマエさぁ、次に何を切るかくらい一巡している間に考えておけよ」
おれはたまらずそう言う。
「難しいところなんだ」
「アタマが悪いだけだろうが」
そして喧嘩になる。おれは至極真っ当なコトを言っているだけなのになぁ。

一時間も二時間も行列してラーメンを食う奴の了見を疑う。ラーメンは大好物だが、並ぶのはまっぴらごめんである。

それで思い出した。先日、西銀座を歩いていたら「宝くじチャンスセンター」に長蛇の列が出来ていた。年末ジャンボで当選金は最大十億円らしい。1番売場は二百メートル以上の行列だ。「億の細道」と呼ばれているらしい。うまいね、どうも。窓口に到達するまで三時間ほどはかかるのではないか。当たるかどうか分からないのに、いや、ほとんどのヒトはあえなくハズレるのに、よく三時間も並べるなぁと思う。おれには無理だ。
いや、「三時間並べば確実に十億円当たります」であれば話は別だ。丸三日でも並ぶぞ。ブレてるなぁ。情けないなぁ。

死ぬときもすぐ死にたい。さっさと死にたい。あっという間に死にたい。長患いはイヤだ。死んだあとも通夜だの葬式だのは勘弁してほしい。さっさと焼いてほしい。おれはツマに言った。
「延命治療は拒否してくれ。通夜も葬式もしなくていい」
「当たり前でしょ。アンタごときに延命治療は必要ないし、通夜、葬儀をしたって誰も来ないもん」

おれはイライラというよりはイラッとしたので、さっさとこの原稿を終わりにする。

レーベルをたちあげる、たちあげてしまった 序

仲宗根浩

レーベルをたちあげ、七月にCDをリリースした。ことの始まりは、2024年3月に一恵先生宅でレコーディングを行うという。曲は二十五絃と十七絃のデュオ。その前に何度かセッションが行われていることは作曲者の杉山さんからメールで知っていたがレコーディングまではなしが進んでいることにちょっとおどろく。前の年に先生とお話したとき「押手ができないの、弾けない」と仰っていたのに、おいおいと。で、レコーディングに関して一恵先生にメールし、当日誰か楽器をセットしたりする方はいらっしゃいますか、とお伺いするといないということなので、日程がちょうどわたしの休みだったので私がやります交通費など一切心配なさらなぬよう、わたしも今はそれなにりの蓄えはあります、当日杉山さん、録音の櫻井さんにもお会いしたいのでと返信し裏方道具を持ち伺うとその日は先生の体調がすぐれずお流れとなり、二十五絃奏者の佐藤さんと杉山さん、櫻井さん、録音助手のボンちゃんさんといろいろ食べながらおしゃべりし解散、で次回は5月にということになり、その時わたしは休みが取れてお手伝いできるかどうかまだ分からずそのまま島へと帰る。帰るとこちらはこちらで前々から決まっていた実家の引っ越しの準備をやりつつ、5月に向けて休みや日程の調整をしていると、引っ越しと録音の日程が微妙に重なっている状態をなんとかし、録音当日に向け連絡係をいつの間にかしつつ、東京便の確保、寝る場所を決めて当日にそなえるだけとなる。

教育の名言(2)

増井淳

教育は、生まれた子を、天分がそこなわれないように育て上げるのが限度であって、それ以上によくすることはできない。これに反して、悪くするほうならいくらでもできる。だから教育は恐ろしいのである。 岡潔
(岡潔『岡潔 数学を志す人に』平凡社)

岡潔は数学者。「馬を水辺につれて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ということわざを思い出した。これはもとイギリスのことわざで、”You can lead a horse to water but you can’t make him drink.” つまり、「自分でやる気のない人はどんなに指導しようとしてもだめだ」というような意味。もうひとつ同じようなことわざもある。”Well’ said she, ‘one man can take a horse to water but a thousand can’t make him drink.” 「そう」彼女は言った。「人が馬を水のところに連れていくことはできる。しかし千回試みても馬に水を飲ませることはできない」(ウイリアム・E. ダイン 工藤恵子『なるほど英語のことわざ事典』PHP)。

  *

人を殺さない想像力が、教育の中心におかれるようにしたい。そこから、つねにあたらしく考えはじめたい。 鶴見俊輔 
(鶴見俊輔・高橋幸子『教育で想像力を殺すな』明治図書)

鶴見俊輔は哲学者。上の文章をより短くいえば「教育で人を殺すな」ということだろう。社会のすみずみまで学校や塾がゆきわたった現在でも、いまだに学校で子どもが傷つけられたり、殺されたりという事件が頻発している。ほとんどの動物は同種のあいだでは殺し合うことは稀である。人間だけが殺し合う、それも無差別に多くの人を殺すこともある。人間はもっとただの生き物としての人生について考えなおす必要があるのではないか?

  *

心理学の本を読んでいたら、生後三〜四ヵ月のころには、どんな人を見ても、どんな人に抱かれてもニコニコする、そういう時期があるのだそうだ。その時期のことを「無差別微笑期」と呼ぶとあった。思わず線を引いた。「無差別微笑期」かあ、いい言葉だなあ。 徳永進
(徳永進『野の花診療所前』講談社)

徳永進は医師。大きな病院で勤務後、がんにかぎらず、死と向き合う人のためにちいさな診療所(野の花診療所)を開く。そこには「できる限りの、生の希望の可能性を追うことと、人生を振り返り懐かしむことの、両方を成り立たせたい」という願いがあった。患者が「ドギ(魚)が食べたい」と言えば、自らその魚を探し歩くような人。また、若いころからハンセン病の人たちから聞き書きを採るなど、たくさんの著作がある。

  *

孤独は、深い喜びに満ちあふれたものでありえますし、いのちと暖みにふれて躍動しうるものだからです。希望を失い、孤立しているときよりは、むしろ、求めてひとりでいるときにこそ、人間は生きとし生けるものとより深い一体感をもつことができるのです。 エリーズ・ボールディング 松岡享子訳 エリーズ・ボールディング
(エリーズ・ボールディング著 松岡享子訳『子どもが孤独でいる時間』こぐま社)

『子どもが孤独でいる時間』の原題は”Children and Solitude”。エリーズ・ボールディングは社会学者であり、5人の子の母であり、クェーカー教徒。クェーカーはキリスト教の一宗派。クェーカー(「震える人」の意)は、この宗派の人々が神の霊を感じて打ち震えたところからつけられた呼び名。正式の名はフレンズ(Friends)といい、日本でも活動している。
 松岡享子は元東京子ども図書館理事長。学生の頃にクェーカーが主催するワークキャンプに参加、その後、アメリカ留学時に一度だけエリーズ・ボールディングに会い、その後、”Children and Solitude”を手にした。この本は「子どもにとっても、生活のどこかに「孤独でいる時間」をもつことが必要だ」と繰り返し説いている。

三島由紀夫

笠井瑞丈

今年は三島由紀夫生誕100周年
今生きていれば100歳なんだと
偶然だが市谷で自決したのが11月25日
笠井叡の誕生日も奇しくも11月25日同日
僕が初めて三島由紀夫の本に出会ったのは18歳の時だ
初めてのドイツの一人旅に出る荷物に『春の雪』を持って行った
あまり僕は本を読む人間ではなかったのだが
旅に行くし飛行機の中や電車の中時間はいくらでもある
たまには本を読もうと決意しこの一冊を持って行ったのだ
この旅の最中はいつもポケットに入れてどこにでも持って歩いた
僕は本を読むのがとても遅い方なので
暇があったらページを開き続きを読み進めた
市電に差し込む日差しの中
雨の匂いが残るカフェーの中
酒臭いおじさん達が騒ぐBarの中
草の匂いが心地よい公園の中
主人公の松枝清顕と自分を重ねてみたりした
主人公の松枝清顕も僕と同じ年の18歳ではじまる
あの時吸った空気は文章と共にカラダの景色に変わった
その体験は今考えてもとても大きな意味を持っている
それから数年後ダンスというものに出会う
自分の初めてのソロリサイタルに決めたタイトルが『春の雪』
次の日に降った大雪の景色が熱をもったカラダ冷やしてくれた
僕のダンスは三島の小説で始まった
今もきっと僕は小説の中に入ったままなのだ
きっとここから抜け出すことはないのだと思う
もう僕も三島由紀夫が自決した45歳を越えてしまった
どのような思いでそのような行動をしたのか
きっと本当の事は本人にしか分からない
今生きていればどのようにこの世界を見ていたのだろう
自決から55年の2025年11月25日
僕は父笠井叡と妻の上村なおかの三人で
生前三島由紀夫とも交流のあった澁澤龍彦邸で
新しい作品を踊った『三島由紀夫を踊る』
そこには数名の関係者が立ち会ってくれました
その中に僕の古い友人でもある土方巽の娘のガラちゃんも
久しぶりに駆けつけてくれた
三島由紀夫と澁澤龍彦と土方巽
三人の昔話が色々交差する中
今日ここで踊った事で
僕の中の三島由紀夫の新しいページをめくる事ができた

そして3年後が澁澤龍彦と土方巽の生誕100周年

未来はきっと明るいと信じたい
新しい世界はどんどん広がっていく

三島由紀夫生誕100周年
きっと三島由紀夫が作ろうとした
新しい神話がここから生まれるだろう

製本かい摘みましては(196)

四釜裕子

武蔵野美術大学図書館で「生のコンステレーション 向井周太郎の具体詩」展を見た。向井周太郎さん(1932-2024)は、2003年に同学を定年退職する際に自作の中から28点を選んでシルクスクリーンで再制作して(制作:STUDIO UDONGE 渡部広明、用紙:別漉 楮 平漉襖判和紙、漉元:株式会社五十嵐製紙)同学美術館・図書館に寄贈していたそうで、「向井周太郎コンクリートポエトリーアーカイヴ研究」(2021年度-2025年度)の研究成果発表の機会として企画された展示とのことだった。図書館1階左奥の巨大な扉の奥の展示室が会場で、その手前で、まずは椅子の作品《開=閉[または正=負]の空間椅子》が迎えてくれた。会場に入ると、大きな作品が壁面に端正に並んでいる。刷られた和紙のサイズはほとんどが90cm×90cm。例外的に長いものでも180cm×90cmで、例えば《大気ーはひふへほ》(1970-74)の説明には、〈当初180×90cm大の写真に引き伸ばし、パネル化してASA展に出品したので、その大きさを再現した〉とあった。

1点ずつ間近に見ていく。向井周太郎著『かたちの詩学』(美術出版社 2003)などでも見ていた作品ではあるが、印象がだいぶ違ったのは大きさのせいではなく刷られた紙によるものだろう。四辺が断ち切りでない耳付き和紙、しかも厚くて質感にニュアンスがあるので、具体詩作品が、ただそれだけで目に入ってこない。美しい和紙がかけがえのない台紙として在り、極めて勝手な感想だけれども、”作品然”として、向井さんの作品に似合わないように感じてしまった。会場には他に、「向井周太郎 具体詩の文脈」と題した緻密な具体詩作家相関図と、作品制作の資料や直筆原稿、写植を切り貼りした版下なども並び見応えがあった。

ひととおり展示を見るも名残惜しく、壁面から離れてもう一度会場全体を見渡したとき、突然違う感慨に襲われた。これ、「ふすま」? 「ふすま」で囲まれてる? 

向井さんの父・向井一太郎さんは経師・表具師で、おふたりには『ふすま』(中公文庫 2007)という共著がある。前半で向井さんが一太郎さんの作業に見入っていた幼い頃の思い出にも触れながら「ふすまという現象」を深く広く論じ、後半ではおふたりが「ふすまの技と意匠」と題して対談している。向井さんの生まれ育った家の様子とからかみの文様について書かれたところを、ほんの一部引用してみる。

〈ぼくが生まれ育った生活空間は、外側のあかり障子のほかはすべて襖の間仕切りでしたし、壁面も多くが押入れか収納棚で、その表戸の多くは引き違いの小襖でした。つまり、そのほとんどが襖で構成された生活空間でした。間仕切りや押入れ襖の表は、鳥の子の白無地か、あるいはその白地に白きら(雲母)押しの唐草紋か縞ものでした。(略)小襖はたいてい縁なしの「たいこ張り」でした。こうした生活空間としての襖の経験によって、ぼくの「ふすま」のイメージとしては、「清浄さ」、「神聖さ」、「優しさ」、「細やかさ」、「温かさ」、「柔らかさ」、「静けさ」、「軽み」、「渋さ」、「いき」というような感覚がはぐくまれてきました〉(91p)

〈日本人にとっては、自然や世界を写す言語的表現も、図像的表現としての文様も、そこにはなんの区別もなく、二つはまったく一つのものであるということです。(略)こうして、「からかみ」の「文様」は日本人の自然や世界ないしは宇宙の心を表わし、それを伝えることばとして展開されてきたのです〉(144p)

向井さんが90cm×90cmの襖判和紙に作品を刷って遺したのは、作品を”版”として、”周太郎からかみ”を刷り上げたようなものではなかったかと思えてくる。とすれば、「生のコンステレーション 向井周太郎の具体詩」展とは、”周太郎からかみ”、つまり向井さんの具体詩作品柄で仕上げたふすまで間仕切りをした空間に迎え入れられる体験だったと言える。先に「”作品然”として向井さんの具体詩に似合わないように感じた」と書いたけれども、なるほどだから1点ずつを単体で鑑賞するために用意されたものではないのかもしれない。というか、そういう鑑賞を拒否する作戦だったのかもしれない。なにしろ向井さんの作品は、これまでどれだけ多くの展覧会やら雑誌やらネットやら論文やらに展示・掲載・引用されてきたことだろう。今後も続くに違いないけれども、それとは別に、作品たちの揺るぎない居場所というか休息所みたいなものを、向井さんは感謝を込めて用意したかったのではないかと想像している。いい展示だった。

再会・55年目の古井戸コンサート

若松恵子

11月最後の土曜日、札幌共済ホールに古井戸のコンサートを聴きに行った。まだ雪の北海道にはなっていなかったけれど、風は澄んで冷たかった。

古井戸は仲井戸麗市がプロとして音楽活動をスタートさせた最初のバンドだ。チャボ(仲井戸麗市)が加奈崎芳太郎と出会って1970年に結成し、忌野清志郎に誘われてRCサクセションのメンバーになることで1979年に解散した。古井戸の現役時代は子どもだったから全く知らない。RCサクセションからも離れ、ひとりで唄うようになってからの仲井戸麗市に魅かれ、古井戸の楽曲についても彼のセルフカバーで初めて知った。何といっても、私にとって古井戸の魅力は、20歳の頃に書いた仲井戸の楽曲の瑞々しさだった。最初は、チャボのセルフカバーを聴くことで充分だった。けれど、だんだん、加奈崎芳太郎という人の音楽に向き合う姿を知り、彼のボーカルの魅力というのもわかるようになった。

古井戸は、チャボのギターと加奈崎のボーカル。アコースティック・ギター2本の世界だけれどフォークではなくて、ブルースブルースしているわけでもなくて、日本的でもあり洋楽的でもあるという独特の魅力があると感じるようになった。古井戸というバンド名には、英語のfluid(流体)という意味も込められていると知って、かっこいいと思った。

今回の再会コンサートの主催は、「ありがとう古井戸実行委員会」だ。2019年に加奈崎芳太郎のデビュー50周年記念コンサートを出身地の札幌で企画した際にゲストに仲井戸麗市を招き、古井戸の楽曲を演奏するコーナーが実現した。その幸せな時間への感謝と、もう一度札幌で古井戸のコンサートを企画したいとの思いでメンバーが集まり、実行委員会が結成されたという。加奈崎さんの故郷で1回しか行われない再会コンサートなら札幌まで聴きにいかなければ、と出かけた。

舞台上で、加奈崎さんは「2人とも後期高齢者で~す!」と笑っていたけれど、サポートメンバーも入れず、休憩も入れずに2人で演奏した20曲、約2時間半は素晴らしかった。最初の「750円のブルース」から気合バッチリだった。「らびん・すぷーんふる」、「まちぼうけ」、「四季の詩」・・・楽曲が持っている若々しさが(それはその歌を作った20代の仲井戸麗市の瑞々しさともいえるのだけれど)そのまま、変わらずに演奏されたという印象だった。そのことに本当に心打たれた。古井戸が持っていた魅力が、歳月によって壊されたり色褪せたりすることなく再び2人によって演奏されていることが嬉しかった。チャボの、より繊細に唱の世界を引立たせるようになったギターと年を取っても変わらない加奈崎のボーカルの率直さによって、そんな風に感じたのかもしれない。

古井戸には「さなえちゃん」というヒットした1曲があって、そのあと出したシングルがちっとも売れなかった(そっちの曲の方がずっと良い自信作だったのにという思いが言外に滲んでいた)というエピソードを語りながら、加奈崎は「僕たち1発屋です。だけどずっと今でも、やってます」と言っていて、解散後もそれぞれの道でずっと音楽をやり続けている事の自負を感じた。

メイビス・ストライプスやボブ・ディラン、ニール・ヤングのことを考えればまだまだ隠居なんて言っていられないのだろうけれど、売れるとか売れないとかという所からとうに離れて、しかも仕事としてやり続けるという事がどんなに凄い事なのかと思うと、2人の姿に励まされる。満席の会場のアンコールを求める拍手は、嵐のようだった。再現なんかじゃない、今の2人の奏でる音楽の素晴らしさにみんな胸打たれたのだと思う。

万博インドネシア館とアジア競技大会(2018)開幕式が与えるイメージ

冨岡三智

前月に引き続き、万博(2025)インドネシア館の話。実はインドネシア館を訪れて最初に受けた印象が、2018年にジャカルタで行われたアジア競技大会開幕式のメイン・パフォーマンスのイメージに似ている…ということだった。私は2018年9月号『水牛』に「アジア大会開幕式」を書いているが、幕開けの1500人によるアチェ舞踊(8:13~)のことだけ書いていて、メイン・パフォーマンス(1:25:19~)には触れていない。実は、大学の秋学期の授業でこの部分を分析をしてもらうことにしていたので、学生に先入観を与えないように敢えて触れなかったのだった。というわけで、今回の万博を機に書きとめておきたい。なお、アジア競技大会開幕式は以下のリンクから見ることができる。

Opening Ceremony of 18th Asian Games Jakarta – Palembang 2018 (Complete Version)

メイン・パフォーマンス 1:25:19~

メイン・パフォーマンスの舞台は島に見立てられ、スタジアムの中央に森林に覆われた山と滝、右手の方に海を配置している。その中で18地域の民族舞踊がアレンジされて大規模人数で繰り広げられる中、要所要所の場面で舞踊を背景に人気歌手が歌ったり、ピアニストがピアノを弾いたりする。このパフォーマンス絵巻は陸にいる兵士が示威活動を見せる中、船に乗った戦士たちが登場するシーンから始まる。緊張感が高まるが、しかし、船は島に戻って来たのであり、女子供も出てきて女子供が戦士たちを出迎えに来たのだとわかる。船が島に着き、青い海(布をはためかせている)の波間にはカラフルな魚(歌舞伎で使う差金の巨大版か?)が泳ぐのが見える。

ピニシ船をイメージしたパビリオンの前に立った時、真っ先にこのアジア大会のパフォーマンスの始まりが思い出された。(もっとも、アジア大会の船は帆の形がピニシのものとは違って無国籍風だったが。)パビリオンでは船に入ることで、アジア大会では船が到着することで物語が始まる。パビリオンの中に入ると本物の植物を使った熱帯雨林がある。アジア大会の舞台でも背景は森で、本物の植物も多く配置されているようだった。パビリオンの熱帯雨林の中央に滝がこしらえてあったのも、このアジア大会の舞台に同じ。そして、次のコーナーの円形空間に投影される映像の中ではその滝や滝の中(海の中?)の映像が大迫力で映し出された。ちょうど、アジア大会ではここで海の波間をカメラが映し出す。この後、アジア大会のパフォーマンスはすべて陸上で展開し、中には山の上で展開する舞踊もある。パビリオンではその後緩やかなスロープを通って2階に上がるので、ちょうど船の中に島があり、山に登るような構造になっている。

アジア大会のマスコットは、生物の多様性を表現して、インドネシアに棲む希少動物の極楽鳥、バウェアン鹿、ジャワサイをモデルにしている。これもパビリオンで希少動物をモチーフにした造形物が熱帯雨林に置かれたことに対応している。さらにマスコット3体はインドネシアの3地域の特徴的なテキスタイルモチーフの衣装を身に着けているが、パビリオンでもインドネシアのテキスタイルコーナーがあった。

インドネシアが国として海外に打ち出したいイメージは2018年当時も今もあまり変わらないはずで、だからパビリオンに既視感を感じたのも当然だろう。1970年万博のパビリオンのことはまだ調べられていないのだが、海と山からなる自然の多様性―特に海や船の重視―や生物の多様性のイメージは、1970年にはIndonesiaはまだ打ち出していなかっただろうと思う。

火まつり

北村周一

あさなあさな蛇口ひねるとよき水の
流れながれて朝が始まる
とうとうと上下の水のながれゆく
ながれ見ておりわれをわすれて
ここもまた世界の一部とおもうまで
蛇口のみずにわれを潤す
魔法ビンの湯ほどよく冷めて眠剤は
のみどのおくに蕩けゆくべし

死火山にはあらざる富士のすそ野べに
盛れる夏の火まつりはみゆ
火のあらぬところにも煙り立つらんと
奇祭見ており富士の吉田に
念願の『サファリ』のバスは走り出し
肉の塊もたされている
エサの肉貢がんために乗り合わす
バスの中にはわが家族のみ
百獣の王のなで肩それよりも
ヒグマ怖ろしバス喰わんとするも
冨嶽三十六景中の江尻にて
かぜに煽られあゆみを止める

乗りものにその名をとどめしNOAHにして
齢九百五十まで生きて死にたり
オリーブの鳩はみたびは戻らざれば
すなわち方舟(ふね)を降りにたりけり
灰いろのマスクのかげに顔ひとつ
あるをわすれて虹見ておりぬ
大洪水は二度はあらずといいながら
風神雷神また来て四角

まるでみてきたように語らるる美術史の、
カントは言うも美の学はなけれ
前衛はある日一気にふるくさく
なるやもしれず昏れゆく秋は
ふるさとはそぞろに遠くあるべしと
思う間もなく鉄橋わたる

放課後のように静けき午後なれば長い廊下の奥に佇つひと

「疑いのなさ」について

越川道夫

10月の初め頃はまだかなり暑く、Tシャツを着ても汗ばむほどだったのに、それからみるみるうちに気温は下がり、下旬には身体を冷やさぬようにコートを着込んでいた。寒暖差の激しい日日を耐えながら11月になると、まだ早いのではと思わないではないのだが首が冷えるのを警戒してマフラーを巻いている。秋はあっという間に去ってしまい、辺りは冬の装いである。木木の葉はすっかり黄色になった。公孫樹の葉が一夜にして舞い落ちてしまうまでもうすぐというところである。夏の終わりに林の中で咲いていたテッポユリの種鞘が弾けて開き、やがて立ち枯れていくのを楽しみにしていたのだが、久しぶりに林を歩くと下草はすっかり刈り取られている。種鞘が開く前に刈ってしまったとみえて、今年はその姿を見ることは叶わないことになった。
 
寒くなって、また一つ二つと訃報が届くようになった。お別れの会が開かれることもあれば、その死のみが伝えられることもある。たとえ健康であっても急激な気候の変化は身体にこたえるのだから、病む人にとっては尚更だろう。思えば祖父が亡くなったのも、温暖な海辺の街には珍しく雪が舞う急に冷え込んだ日だった。祖父は、決して積もることはない雪片とともに逝ってしまった。
 
11月は18年ぐらい一緒に暮らした猫が死んだ月でもある。死んだのは2019年だから、もう6年も経つ。「18年ぐらい」と書いたのは、それが17年なのか、19年なのかはっきりと分からないからで、30代の終わり頃は仕事がひどく忙しく、「いつ、どこで、何を」の「いつ」の記憶がはっきりとしないのだ。彼と暮らし始めたのは確かだが振り返ると、それが何年何月何日なのか分からない。自動販売機で缶コーヒーを買おうとして、そのまま気を失ったりしていた頃だから精神的にも身体的にもひどくキツかったのだろう。脳がその頃のことを思い出すのを拒否しているのかもしれない。
 
それでも、彼を拾った時の様子はよく覚えている。駒場の路地奥のアパートに住んでいた頃のことである。その日仕事に出かけようとすると、路地の道の隅に何やら小さな白いネズミのような生き物が落ちている。見ると、それはまだ目も開いていない、生まれて間もない子猫なのだと分かる。路地には野良猫が多く棲んでいたので、おそらく母猫が落としていったものではないかと思われた。そのままにしておくやわけにはいかず、拾い上げるとちょうど手のひらぐらいの大きさで、近所の獣医に、どうしましょう、と相談すると、とりあえずあなたが育ててくれ、と言う。その頃は一人暮らしで、仕事で飛び回っていた時期だったので、どうしたものか、と思案したが、生まれて1週間ぐらいの子猫を部屋に放っておくこともできず、とにかくトートバックを買い、その中に彼を入れて打ち合わせに行き、打ち合わせが終わると公園を探し、そこで母猫がするように刺激を与えて排尿と排便をさせ、哺乳瓶でミルクを飲ませて、次の打ち合わせへ行き、それが終わるとまた公園で、と言うことを繰り返すこととなった。会社勤めでは、そんなわけにはいかないだろう。ひとりで仕事をしているからできたことなのだ。
 
しかし、生後すぐの子猫を育てるのは初めての経験である。手のひらにいるのは少し強く握っただけでも潰れてしまうであろう、ひどく小さくて柔らかな生命である。何度子猫が死んでいる姿を想像しただろう。私は怯え、どうしたら無事にこの世に送り出すことができるのかと必死であった。だから、おそらく生まれて2週間ぐらいが経ち、彼の目が開いた時は、ようやくここまでたどり着いたとひどく感慨深いものがあった。目が開かなかったら(そういうことがあるのかどうか分からないが)、どうしよう、とそんな訳のわからない不安も抱えていたのだから。
 
その夜、彼の右目が開きかけているのに気づいた。徐々に右目が完全に開き(その時点でまだ右目だけ開いて、左目が開かなかったらどうしようと不安だった)、それから程なくして左目が開き始める。完全に左目が開くまでにどのくらい時間がかかっただろう。見守る時間は、途轍もなく長く感じられたが、ほんの数分の出来事であったかもしれない。開いた子猫の目は、青い目をしているという。彼の目もそうだったのだろうが覚えていない。その時点で視覚は未発達であり、薄ぼんやりとしか見えていないだろうが、その彼が初めて見たものは、母猫でも、木漏れ日の眩い光でもなく、目が開いたことに安堵する中年男の貧相な顔であった。本当に申し訳ない。彼の視覚が初めて世界に開かれた瞬間である。それが美しさであったらよかったのに、と今でも思う。
 
彼はまだよくは見えない目で、真っ直ぐに私の目を見つめて離さなかった。私も目を逸らすことができず、二人はしばし見つめ合ったものだ。そして、その眼差しのあり方は18年余りの彼の生涯を通して変わることがなかった。私はそれから毎日、あの時と同じ眼差しに出会うことになったのだから。台所に立つ私を見上げる時も、撫でられようと膝の上によじ登ってくる時も、仕事をしていて振り返ると彼が少し離れたところから私を見つめている時も。
 
その眼差しに込められているものを何と呼べばいいだろう。「信頼」であるとか「愛」であるとか、そのような言葉で語ることもできるだろうが、今はそれを「疑いのなさ」と呼んでみたい。その「疑いのなさ」は終生変わることがなかったのだ、と。そして、その「疑いのなさ」が込められた眼差しが変わることがなかったことに、私は少し安堵を覚えている。正直に言えば、私自身が彼の「疑いのなさ」に応えることができたかどうかは自信がない。後悔することも多い。しかし、変わることがなかったのであれば、そのことが少しだけ私を安堵させる。
 
私を含め「人」という生き物は、彼らのような「疑いのなさを込めた眼差し」を持つことができるだろうか。そう聞かれれば、私の答えは否である。私には「人」がそのような眼差しを持てるとも、持ち続けるができるとも思えない。その意味で、「人」という生き物は、彼らよりも劣った生き物なのだろう。
「ただ生きていればいいんですよ」。
ある小説を読んで、そのような言葉に出会った時、「ただ生きること」の難しさについて考える。猫たちは「ただ生きている」がゆえに「疑いのなさ」もまた手にしているのではないか。「ただ生きること」が難しい「人」という生き物は、「疑いのなさ」の中で生きることはできない。きっと意味や目的という病に冒された生き物の宿痾なのだ。アシジの聖フランチェスコは、どんな眼差しを持っていただろうか? 小説家の小沼丹が死の直前に病室で「黙りこくって大学ノートに毎日描きつけたのは、かつて小屋の中で誕生した幼な子を見守った筈の短い足の馬たち」(阪田寛夫)であり、「その優しく和らいだ瞳の絵」だったのである。それは、どのような瞳なのか?
 
もしかすると、私たちはお互いの心臓と骨を交換するような、そのような愛し合い方でしか彼らのような眼差しを持ち得ないのかもしれない。「優しい」とかそんなことでは、まったくない。どちらが、どちらであっても構わないような。もはや与えられた名前すらどうでもよくなるような。
 

仙台ネイティブのつぶやき(112)みんないなくなったあとに

西大立目祥子

 あれやこれやが一気にくる、という年がある。いいことも悪いことも。いや、どちらかというと悪いことが固まりになって。でも、ここまで生きてくるとわかるけれど、悪いことの中にはいいことが混じっていて、その逆もあって、つまりは判別などつかないものがこれでもかと押し寄せる。今年がまさにそうだった。

 まず、めまい。3月にきて、5月にきて、6月にきた。3回の発作をくぐり抜け、3つ医院で検査と診察を受けるうちにわかってきた。ははん、これは自律神経がいかれたんだな、と。慣れないことに手を出して緊張が続くと、交感神経が優位になって副交換神経との切り替えがうまくいかず、ダウン。いまのところ発作はおさまっているけれど、めまいと書いてる先から、あのときのぐるんぐるんと体が振り回される感覚と吐き気が戻ってくるようだ。

 めまいの理由は明らかだった。母の家がいよいよダメになってきて、これはもうリフォームだと決心し荷物の整理を始めたのは昨年のいまごろ。家を直して転居しようと決め、大きな家具を処分し、設計士さんと何度か打ち合わせを重ねた。そうこうしているうちに私にとっては最高の相棒だった茶トラの大猫チビが急にやせてきて、はらはらしながら病院へと車を走らせる。親しかった叔母の作品展を企画し始めたのもこのころ。右手でハンドルを握りつつ、空いている左手では展覧会の内容を詰め作業を重ねるみたいな感じで、まわりの助けを借りつつ搬入にこぎつけ何とかオープンしたところで、一回目の発作。ぐわん。

 何とかおさまった4月初旬、家の工事が始まった。築66年の家の畳が上げられ、床板がはずされ、土壁が落とされてシロアリ被害の全貌が見え始めた。ずぶずぶになった敷居や床下の柱を見た大工さんと設計士さんが、「ここまでひどいのはミルフィーユ状っていうんだよ」なんていう。2人はどうってことはないという表情で着々と工事を進めてくれたのだが、一方で猫の調子は落ちていくばかり。どうしようと不安が募る中、さらに母の発熱、食事の減退という事態がやってきた。そこに気の進まない仕事を引き受けざるを得ず、終わったところで2回目発作。ぐわんぐわん。

 工事は5月末に完了。新しく貼った床や青畳の上をよろよろと、でもどこか楽しそうに歩いていた我が相棒は6月1日に旅立った。ペット斎場に連れて行き、骨になって戻ってきたところで、うわぁ、3回目発作。これには、すっかり落ち込んだ。バアサンじゃないか。ていねいに扱ってあげないと、ガタがきている自律神経はもはや持ちこたえられないと思い知る。

 こうして振り返っているだけで、なんかもう疲労感が再びひたひたやってくるようだ。でもまだまだ続きがあるのだ。もう一匹の猫、グーが先に逝った猫を探しに出たのかドアから脱走し、4ヶ月たったいまも戻ってこない。母の容態も低空飛行で、今日は食べました、今日はお水も飲めませんと聞かされ一喜一憂する日が続いたのだけれど、猛暑の中予定通り引っ越しを決行。片付けにくたびれ果てて眠る4日目の深夜、母が逝った。段ボールをどかして母が帰る場所をつくり、出棺、葬儀までこぎつける。大波におぼれそうになりながら。

 たった2ヶ月の間に、母も猫たちもみんないなくなった。最後の2年半は施設のお世話になったけれど、母の介護は約20年、ひょんなことから数匹の猫たちと暮らすようになって25年がたった。母が家にいたころは、締切に追われていても隣の部屋で何をしているか体をセンサーのようにして気配を感じ取り、外での打ち合わせから飛び帰ってごはんのしたくをし、ちゃんと食事をとれているか転ばないか母の調子に神経を研ぎ澄ませる毎日だった。施設に入ってからも、電話が入れば何かあったのかとぎゅっと心臓をつかまれるようで、届けものの必要があればその日のうちに持参し、庭に椿の花が咲けば見てほしくなってきれいな紙でブーケをつくった。

 猫たちだってほおってはおけない。どんなに疲れていても自分のごはんより猫のごはんが先。トイレが汚れていたら猫にとっては最大のストレスだから、すぐにきれいにしなければならない。いや、違う。「ならない」ではなくて、母のために猫のために反射的に「そうしてあげよう」と体が動いてしまうのだ。ケアする対象が身近にいるというのは、もう一つの別の場所に向かって体も気持ちもそちらに自然と傾いてしまう状態がつくられているということなのだと思う。

 それが急になくなって、いまはぽかんとしている。頑張ったんだから、ゆっくりしなよ。のんびり過ごしたらいいんだよ。まわりは気づかってくれるけれど、自分がどんどん薄くなっていくよう。色彩を持って存在していた自分がだんだんモノトーンになっていくよう。どんなに疲れていても、母のディサービスのしたくをする私。どんなに眠くても猫の水を交換する私。これまではもうひとりの私が私の中に棲んでいるというのか、2人の私がいっしょにいるようだった。2人の間には会話があり、疲れた方を励ましたりなぐさめたり、一方が鼓舞して頑張らせたりがあった。感情の行き来だってあったのだ。それがなくなって、私はしんと静まっている。波立たない水面がただあるだけ。この状態に慣れていくのか、物足りなくてもう一人を、もう一つの場所をつくろうとするのか、まだわからない。何とも宙ぶらりんの師走。

『アフリカ』を続けて(54)

下窪俊哉

 先日、スズキヒロミさんの案内で、さいたま市にある「藤橋」を訪ねた。『アフリカ』最新号(vol.37/2025年8月号)にスズキさんの書いた短い文章「「藤橋」覚え書き」が載っているが、それはこう始まる。

 昔々、あるところに、一本の橋がありました。その橋は藤の蔓を編んだ吊り橋で、村人から「藤橋」と呼ばれていました。
 藤橋は、村を流れる鴨川を渡り、そしてその先の道は中山道の宿場に通じておりました。そのため行き交う人は多く、荷を積んだ牛や馬も通りましたが、なにしろ藤蔓の吊り橋なので、渡るのに難渋する者が多かったといいます。

 ある時、そこに石橋を建設した人がいたそうで、小平次という六部行者だった。六部行者というのは「全国六十六カ所ある霊場の一つ一つにお教を納める旅」をしている巡礼者だそうだが、私は詳しくない。調べてみたところ、仏像を入れた厨子を背負って歩く人の絵を見ることが出来た。その周辺地域には旅をする行者が建てたとされる供養塔が散在しているそうで、小平次の話と何か関係があるのかもしれない。

 さて、その日はいい天気で、昼頃に大宮駅で待ち合わせた。とりあえず中華料理店に入りラーメンを食べ腹拵えをして、バスに乗った。バスの行き先には「藤橋」を経由すると書いてある。じつは私は「藤橋」という橋は現存しないと思っていたのだが、間違いだったようである。しばらく大通りを走り、二車線の、昔ながらの道に入る。スズキさんの書いているように「全くの平地」で、どこにいても空は広々としているようだ。「藤橋」バス停で降りる。バスはその先にある橋を渡り、走って行った。我々は歩いて渡る。橋の欄干には「ふじはし」と平仮名で書いてあるのが読めた。スズキさんによると「ふじばし」ではないかとのことだが、「鴨川」も「かもかわ」と書かれているので、濁るかどうかは、どちらでもよいことのような気がする。
 スズキさんは数十年前、車の運転を始めた頃によく藤橋を渡っていたと話していた。ただしその頃の藤橋は昭和初期にかけかえられた2代目の橋で、現在の橋は3代目ということになるようだ。何というか今風の橋で、伝承を知らなければどうということもない。川の両岸は土手で、桜並木が見られたり、お花畑があったりしてのどかだ。
 藤橋を渡った先に「藤橋の六部堂」という史跡がある。チェーンがかけてあって敷地内には入るなということのようだが、外から見ることが出来る。お堂の中には小平次の像があると聞いているが、それも見られない。見ることが出来るのはお堂の外側と、新旧様々な石碑と、裏に積まれた石材である。小平次が調達してきて橋に使われた石材を、そこに保存してあるということのようだ。石碑に書かれた文字に目を凝らす。古いものになればなるほど何が書いてあるかは読み取れないが、スズキさんが持参している資料と見比べながら少し解読を試みた。
 さいたま市指定史跡「藤橋の六部堂」の解説板は(それも少々色褪せてはいるが)読み取れる。そこには明治時代に近所の人が描いたらしい藤橋の絵も載っている。素朴な小さな橋のようで、橋の上にひとり、人が歩いている。

 川の水は透き通っていて、さらさらと流れていた。ふと思ったのだが、水量が少ないので、歩いて渡ろうとしても、それほど大変ではなさそうだ。雨が続くと、どのくらい増水するのだろうか(それを知るためには雨の日にも来てみなければならない)。住宅の建ち並んでいる方から見て対岸には、見渡す限りの畑が広がっている。その風景から想像出来ることはたくさんあった。川ではカルガモが遊んでいた(遊んでいるように見えるのはこちらの勝手だが)。歩くと、見えてくるものがたくさんある。再び川に目をやると、小鷺や川鵜(だろうか)が降りていた。
 舟が行き来出来るような川ではないのである。だから小平次は下流の、荒川と合流する地点まで石を運び、そこからは陸路で運ぶため(スズキさんが物語に書いたように)村に連絡したのだろう。ただし「「藤橋」覚え書き」では小平次は謎の人物として現れており、迎え入れる村の人びとの視点で書かれている。小平次が一体何者で、何処からどうやって石を運んだかなど詳細は、よくわからないままなのだ。
 わからないから、そこは書けなかったのだろうが、わからないことをわからないままにして、何を、どこまで書けるかということに私は興味がある。

 なぜ書くのか、ということを考えると、スズキさんは子供の頃から身近にあった橋の伝承にずっと興味があって、もっと調べたいという思いを抱いたまま長年、放置してきてしまったのだという。
 そのことがなぜ「なぜ書くのか」につながるのかというと、書こうとすることによって、調べることが出来るからだ。何もなくて、ただ調べる、そんなことが出来るだろうか。
 それはあるいは写真を撮るというのでも、絵を描くというのでも、映画を撮るというのでも、論文を書くというのでもよいのだが、スズキさんにとっては雑記のような文章を書くことから始まっている。その雑記は、いわゆるエッセイのようになるのかもしれないし、小説になるのかもしれないし、あるいはもっと違うものになるのかもしれない。それが何であれ、スズキさんが知りたい、調べたいと思っていることを実現させるためにあると私は考えるのである。
 ただ、「「藤橋」覚え書き」を読むだけでは、それが今後、どう展開していくのかということは、まだよくわからない。その土地を一緒に歩いてみればどうだろうと考えたのだが、予想していた以上に、感じられることがあったようである。スズキさんはそこに川鵜がいるということも想像していなかったと話していた。川をもっと書かなければならないし、江戸時代にそこがどのような土地で、どのような暮らしが営まれていたのかをもっと知る必要がありそうだ。
 そのようにして感じられることがあったとして、それでも、私は(私なら)まだまだ満足しない。例えば郷土史を研究している人、詳しい人はいるだろうから、その中に、きっと話を聞ける人がいるはずである。詳しい人でなくても、昔話の語り手でも何でもよい。小平次を書くのではなくその人を書くことになるかもしれないが、それならそれでもよいのである。
 何かを書くということの中には、誰かとの出合いがあるはずだと私は考える。出合いがあるということは、書き手が動いているということだからだ。動くために書くことを口実にしてもよくて、最終的に何か書いて発表することは止めてもよい。調べること、知ることが目的なのだから。
 あらゆる本はそうやって書き手が動いた痕跡を、記録したものだと私は捉えている、ということだろうと思う。だとしたら、その痕跡を受け取り、受け継いでゆく人がいることを奇跡のように感じる。

しもた屋之噺(287)

杉山洋一

東京に戻る直前のこと、高等課程を教えている打楽器もレオナルドから、「卒論に日本のタイコの研究を選んだので、ぜひ卒業試験見に来て下さい」と声をかけられました。
打楽器の練習室は普段レッスンや授業をしている109教室の下にあって、何となくレッスンしていても彼らの練習する音は聴こえるのですが、しばらく前から確かに和太鼓と思しき音が聴こえると思って訝しんでいたところでした。聞けば、レオナルドはコモにある和太鼓の会に参加しているのだそうです。
以前、うちの学校の打楽器科は、スカラ座の伝説的ティンパニ奏者デヴィッド・サーシーが随分長い事教えていて、ティンパニを習うために世界中から学生が集っていました。彼がいなくなってしばらく経ちますが、今は和太鼓までやるようになったのか、となんだかすっかり面白くなってしまいました。
そうして今回の東京滞在の最後、フェデーレのステージマネージャー、鈴木さんのアシスタントを務めていた梅津さんという可愛らしいお嬢さんは、長くミラノで活躍していらした素晴らしい打楽器奏者、梅津千恵子さんのお嬢さんだというではありませんか。梅津さんがデヴィッドのクラスで学んでいらした頃に、こちらはポマリコのクラスに潜り込んでいました。ちょうど、ドナトーニやマンゾーニを日本に連れて行って、作曲の講習会を開いていた頃の話です。
今回のフェデーレ招聘に際して、長くミラノで研鑽を積んだ浦部雪さんがワークショップを手伝ってくれたのですが、世代が一回りしたと実感とでも言えば良いのか、恰もめくるめく時間を駆け抜けて戻ってきた馬車を、感慨深く眺めているのです。

ーーー

11月某日 ミラノ自宅
母とTeamsでヴィデオ通話をしながら、むかし話。自分が生まれて3カ月のころまで、両親は目黒のアパートに住んでいたという。何でも義太夫の八代目竹本綱太夫氏の姉上のところに、父の知己を頼って随分長く住んでいたのだそうだ。権之助坂を降りて目黒川を渡ろうとすると、橋の手前で休んでいたおばあさんに、「川の向こうには昔はタヌキが出たものですよ」と懐かしそうに話しかけられたという。
昭和一桁から二桁初めに生まれた両親のそのまた親の世代になると、「田舎から出てきたお手伝いさんは、蕎麦を食べたことが‘ないから、食べ方を知らなかった」とか、電話を初めて見たひとは「柱に向かって話しているから驚いた」とか、「空に黒いものが飛んでいて、あれが皆騒いでいる飛行機か」と思いきや、翼を羽ばたき始めてよく見たら烏だった、というエピソードに事欠かなかった。出生率が落ちているそうだが、過去の記憶は、今後どのように伝えられてゆくのだろう。

11月某日 ミラノ自宅
Berceuse直し、頭にある部分だけでも直しておく。家人曰く、どこかで「何かを伝えるのは老人。表現するのが若さの証拠」と読んだそうで、なるほど言い得て妙と膝を打つが、わが身を振り返ると少々当惑する。
学校の聴覚訓練の授業は、学生たちにとってパズルのような感覚らしく、質問が解けると皆それぞれ大喜びしている。微笑ましい光景だが、何より、こうした「音を聴く喜び」とか「どんな音に耳を澄ます興味」といった愉悦、肯定的な姿勢を身に着けることが、音を聴く上で最も大切だろう。トリエステで勉強しているLが音楽院の教師と合わないので、うちのクラスに通いたいという。名指しされた教師も友人なので、少々困惑する。彼の許可を得て、彼のクラスを辞めないのなら教えてもよいと返事をする。

11月某日 ミラノ自宅
たとえば日本人が神社で柏手を打つとき、われわれが無意識に感じている拍感が浮彫りになる。この拍感は、他のさまざまな伝統芸能の拍節感と無関係ではないだろう。柏手を打つとき、手を打ったあとの沈黙に耳を澄まし、あたかも自分の打つ音が神々まで伝わったのか、耳で確認しているような不思議な時間がながれる。
まるであの瞬間、自分と神々との間に、さっと道が開けるような、あの独特な感覚は、少なくともカトリックのミサに参加していて感じることはない。確かに、神父が香炉を天をめざし高く掲げ、鐘が鳴らされる瞬間は神々しさに圧倒されるが、それは自分は護られている実感に満たされた絶対的安寧、超絶的安堵に近いもので、「神の国」という広大ながら絶対的な領域の境界線を、どこかで薄く感じ取っている気がする。柏手のあとの沈黙には、「神の国」の概念はなく、万の神々とつながる、という、言ってみればより素朴な関係で結ばれているようだ。
フェデーレの楽譜を読んでいると、構造は概して、外側から観察することでより明晰に可視化できると知る。自分の文化に関しては、生まれてこのかた、内側からしか眺めたことがなかった。それは丁度、赤子が胎内から世界を感じるようなもので、すばらしい体験に違いない。母親の躰の外から赤子を観察すれば、おそらく全く別の構造が浮かび上がるに違いない。
高市首相、衆院予算委員会の席で「戦艦を使って、武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になりうるケース」と発言。

11月某日 南馬込
東京に向かう機内でプログラム原稿を書き、馬込の家に着いてさっそく脱稿。朝食を摂りながら、耀子さんとはなす。プーランク「メランコリー」の楽譜の最後に「Talence Juin/ Brive Aout 1940(タロンスにて6月/ブリ―ヴにて8月 1940年)」と記されている意味について。ナチス・ドイツ軍がフランスに侵攻したのは1940年5月で、フィリップ・ペタンが独仏休戦協定に調印したのは6月22日である。タロンスはボルドー近郊にある街でここは6月22日以降はナチス占領地域になっていたはずで、ブリーヴ=ラ=ガイヤルドはナチスに占領されない所謂自由地域だったはずだ。6月から8月にかけて、プーランクがナチス占領を避けてタロンスからブリ―ヴに逃れたのは間違いない。
耀子さん曰く、「メランコリー」つまり「哀愁」という表題と、曲の中間部、それまで美しかった音楽が唐突にUn peu plus vite(すこし速く)で不穏な音楽に変化するのは、ナチス侵攻におびえるプーランクの心情、フランス国民の慄きに違いないという。実は、高校生の頃に自分でこの曲を弾いた時から、なぜこの奇妙な中間部が何の前触れもなく現れるのか不思議に思っていた。言われてみれば、Un peu plus vite左手の、怪しげでどことなく軍隊風な16分音符には、très égal et estompéつまり、「頑なに変化させず、少しくぐもって」と書いてあって、明らかに音楽に世情が反映しているようである。調べてみると、プーランクは1940年6月に招集され、ボルドーの防空部隊で従軍した後、ドイツへの降伏後7月に動員を解かれブリーヴへ移っていた。つまり不穏な中間部が象徴する当時のフランスの世情は、耀子さんの指摘通りだったわけである。「やっぱり、楽譜だけ読んでも、わからないことは沢山あるのよ」。当時のフランスの状況からは、否が応でも今日のウクライナを想い浮かべざるを得ない。
その昔、耀子さんがオネゲルの「前奏曲、アリオーソ、フゲッタ」(と思しき曲を)を弾くことになり、オネゲルのオーケストレーションを手伝っていた彼の妻の前で弾いて助言を求めたところ、「この曲を書いた時、うちのメトロノームは壊れていたから、このメトロノームの数字は気にしなくていいわよ」と言われたそうだ。「だから作曲家のメトロノームはあてにならないわね」と破顔一笑。耀子さんがパリ音楽院にいた当時の作曲の教授は、トニー・オーバンとミヨーだった。オネゲルには何度も会ったけれど、普段パリにいなかったプーランクには、ついぞ会う機会がなかったという。
トランプ大統領はウクライナに対し、ドンバス地方の割譲、北大西洋条約機構への加盟放棄、軍備縮小など、事実上の主権放棄を迫っている。今後世界の情勢がどうなったとしても、以前のような均衡がとれる可能性はほぼないだろう。バランスを壊したのはプーチンだ、ネタニヤフだ、トランプだ、と我々が叫ぶのは簡単だが、彼らを選択してきたのは、我々自身であることを忘れてはいけない。

11月某日 南馬込
コモのセルべッローニ宮での息子のリサイタルを聴きに行った家人より、少し興奮した感じで報告あり。彼女曰く、演奏が始まった途端、会場の雰囲気がとても良くなったという。「親の欲目」とはよく言ったものだが、実際聴いたわけではないので判然としない。それよりも驚いたのは、音楽祭を企画していたのが旧知のロッセッラだったことだ。昔から活動的な女性だったが、もう随分前からコモ・ベッラッジョの音楽祭を切り盛りしているそうだ。家人と二人、笑顔でおさまる写真が送られてきた。
フェデーレの「夏・俳句」の楽譜を読んでいるのだが、アルファベットで書かれた歌詞を平仮名で書き直さないと、頭のなかの歌手の発音もイントネーションも、すべてヨーロッパ語風になってしまうのは何故だろう。無意識に「a」と「あ」の発音が、自分にとっては、まるで違うのである。これはなかなか興味深い発見であった。とその時、ふと「マダガスカル島の土人の歌」の「Aoua! 」が脳裏に浮かんだ。実は全然違う発音だったら、どんな風に響くのかしら。「マダガスカル島…」を想いうかべるとき、少し速めのテンポでくっきりとした輪郭を描く、どことなく厳めしい、マドレーヌ・グレとラヴェル自身による演奏がどうにも耳から離れない。
大森まで自転車を使い、町田のプリンターを直しにでかける。たったそれだけのことながら、シジミのお吸い物、ハマグリの酒蒸し、鯛の煮付け、自家製のかますの干物で歓待を受ける。親が何歳になっても、子供であることには変わらない。

11月某日 南馬込
書いて呉れ、書き取ってくれ、と叫ぶ声ばかりが聞える。正しいかどうか分からないが、書かなければ一生後悔するに違いない。
朝、耀子さんの弾くピアノの音で目が覚める。昔、三善先生が同じようなことを日記に書いていらしたのをふと思い出した。耀子さんは、ラヴェル「ソナチネ」2楽章、最後の跳躍を、ゆっくりゆっくり、慈しみをこめて丹念に繰り返していて、その音の美しさに心を打たれた。大胆に奏される左手の低音は、とても活き活きとしていて、まるで独立して聞こえる。
「ソナチネ」1楽章冒頭の16分音符と32分音符は同じ長さで同じように弾くべきか、と質問を受けたが、音価も違うのだし、当然違う楽器が弾くはずだろうと答えたところ、じゃあなぜ皆同じように弾くのかと畳み込まれる。2楽章の最低音の声部が、4分音符に余韻が残るように指定されている音符と、2分音符に余韻が残るように指定されている音符の違いに関しては、4分音符の部分は、オーケストラであれば、低弦楽器が豊かにピッツィカートしているような響きで、2分音符であれば、弓で弾いて余韻を残しているようなイメージではなかろうか。

11月某日 南馬込
「考」リハーサル。西大井まで自転車を漕ぎ、渋谷まで湘南新宿ラインを使って、田園都市線に乗り換える。演奏者の皆さんに遠慮もなくなって、リハーサルの到達点をずっとこちらの演奏解釈に寄せてしまっている。その分、演奏はとても難しいはずだし、従来の演奏スタイルと違う箇所も多いはずで、ご苦労をかけているのは充分承知しているけれど、安全に弾けること、を第一条件にする発想をほぼ拭い去り、作品が本来望んでいたであろう姿に、どのようなアプローチで肉薄できるのか、その道程を丹念に探してゆく。
予定調和的な安定感がなくなってゆく代わり、常にその場で生まれる瑞々しさと、ほどよい緊張感を共有しながら、音を聞くというより、音楽を進ませる気の流れを共に感じ取ることで、フレーズが途切れることなく、たゆたうような音楽の息が浮かび上がってくる。

11月某日 南馬込
「考」演奏会。演奏者の皆さんは見事な演奏を披露された。転じて自分はどうだったかと言うと、クリーニングに出した本番衣装のなかに、あろうことか本番用のスラックスが入っていなかった。今まで揃いの上下は同じハンガーに纏められていたのが、新しいクリーニング店はどうやら別の袋にそれぞれを入れたのだろう。慌てて、琴光堂の中島さんから借りた黒ズボンで本番をこなした。
「何十年ぶりと言えば、今夜の指揮者、杉山洋一氏がまだ小学生の紅顔の美少年だったころに遡ります。夏の暑い日、杉山氏のヴァイオリンの先生篠﨑功子氏の提案で、私の大先輩で作曲家藤田正典氏と四人で、杉山氏の御祖父様が経営している湘南海岸にある海の家に遊びに行くことになりました。初めての訪問を快く出迎えて下さった杉山さんの隣で、少年洋一君がニコニコしながら「こんにちは」と元気な声で歓迎してくれました。泳いだり、ビールや海の幸をたらふくご馳走になったり、トランプで遊んだりした楽しい一時はあっという間に過ぎ、懐かしい夏と思い出となりました。…」。
このように田中賢さんはプログラムに書いてくださったが、自身が演奏していたガムランに着想を得た田中さんの曲は、実に闊達で新鮮な響きがした。年齢を重ねても、こんなに瑞々しい呼吸で音楽が書けるなんて、作曲家とはなんて素敵な生業なのか、とさえおもう。田中さんは演奏会後も、「洋一君は昔はとても利発そうで紅顔の美少年だったんですよ」、と繰り返していらしたから、当時は余程美少年だったのだろう、と思うことにする。そう言われてみれば当時、しばしば「まあ可愛らしいお嬢さんだこと」と言われることがあって、本当に嫌だった。円安が進行。1ユーロ181、52円。

11月某日 南馬込
ミラノを発ってチューリッヒ経由で日本に着くはずのフェデーレ夫妻のフライトが、出発1時間前にキャンセルになり、改めて預けた荷物を受け取りチェックインし直して、北京経由で成田に到着した。30時間近く殆ど寝ていないので、二人とも相当困憊していたようだ。昨年のシャリーノとは全く違い、選ぶ単語も直截なら、表現も単刀直入であった。音楽は言語であるから、音楽に本来備わっている、記憶に基づく文法をより洗練、鍛錬してゆくことで、音楽を通して自分の意図を他者に伝えられるようになる、というのが、基本になるフェデーレの主張である。頭の中で生まれた音楽を、少しそこから外側目の先50センチくらいまで引っ張り出し、そこでその生まれたアイデアを改めて直視し、丹念に観察しながら、どうすれば自分が望んでいる音がを自分の外で鳴らすことができるのか、客観的に考えることを勧めた。フェデーレはドナトーニの言葉を引用し、素材は生み出すものではなく、目の前にある素材を、頭の先から足の先まで何度となく観察することで、その素材が持っている可能性を十二分に引き出すことができる、と力説していた。
音の響きを豊かにするために、例えばアタックをほんの少しだけずらした、ディレイの観念を学生に説明していた。同じ音をずらすことが楽器法的に出来ない場合でも、オクターブを入れ換えるだけでなく、自然倍音列に則って長3度、完全5度、短7度上の音を付加することで、単音の動きに影や厚みを与え、より簡便に自然倍音列の近似値を実現すべく、6分音の使用を勧めてもいた。
彼が日常的に活用している、完全五度圏や6分音のチャートも学生たちに惜しみなく共有し、彼が素材を発展させる方法を学生たちに指南していたし、フィボナッチの数列や、或る点を境にトートロジーで繰り返されるジョン・コンウェイの読み上げ数列の面白さについて話し、それをどのように活用して作曲するかについて、あまりに包み隠さず話してくれるので、少し驚いたくらいである。
これらすべては、単なる作曲支援であることを強調し、今後どれだけ人工知能が発展して便利で有益な作曲支援が可能になっても、作曲するのは自分であることを忘れてはいけない、と念を押すことは忘れなかった。そうでなければ、人工知能に我々が作曲させられるようになってしまう。そうして、いつも一通り話してから最後に、「これが作曲の技、というものだからね」と満足気に云うのだった。
「これらすべては、自分のユーチューブ・チャンネルで、楽譜付きで聴けますから。ぜひ、チャンネル登録もお願いしますね」と言っては、学生たちの笑いを誘っていた。
今日は「秋吉台の夏」ですっかりお世話になった河添達也先生が、フェデーレに会いに来てくださって、何年かぶりにお目にかかることができたのも嬉しい。遥々松江から羽田の弾丸日帰り訪問だったが、ストラスブールでは、フェデーレの下で作曲の研鑽を積んだ、と伺っていた。「秋吉台の夏」のように、若い作曲家、演奏家が肩を並べて、目を輝かせながらレッスンに参加している姿を、目を細めて眺めていらしたのが印象的だった。
アムネスティ・インターナショナルが、ガザでの虐殺が継続していると発表。10月9日の停戦合意以降、現在まで少なくとも327人死亡。そのうち子供は136人。2023年10月以降、パレスチナの犠牲者は7万人を超えた。

11月某日 南馬込
自作演奏について、フェデーレは楽譜の表記にとても忠実だったように思う。自分は細かい性格だから、と笑っていたが、フェデーレは1993年頃までは、室内楽を得意とするピアニストとして活動も続けていた。そのためか、作曲のレッスンの間も、自作のリハーサル時も、しばしばピアノも前に座って実際に演奏をしてみせてくれた。彼の深いタッチは、いつもイタリア人らしい音を響かせていて、学生にも鍵盤の奥底で歌うことを要求した。書かれているアーティキュレーションには厳しく、テンポやリズムにも忠実であったけれど、音楽的なフレーズ、特に弱音の繊細さを繰り返し要求するのだった。自ら演奏に携わっていたから、本番に向けて演奏家にどこまで要求して、どこまでを本番の集中力に賭けるべきかさえ良く理解していたし、理知的な美学を高らかに讃えながら、その実、実演に於ける即興性や、用心深い反復の回避や音色の実現など、演奏家らしい引き出しは決して錆びついていなかった。だから、たとえ一見あまりに理性的に感じられる譜面から、驚くほどの情熱を引き出し、演奏する喜びを我々に還元する。演奏会を聴いた両親は、思いの外愉しかったようで、「研ぎ澄まされた響きっていうかね…」、最初から最後まですっかり聴き入ってしまった、と興奮していたのが印象に残った。

11月某日 南馬込
トロトロになった庭の渋柿を、ヨーグルトに入れて朝食にした。部屋の目の前には、ブーゲンビリアが赤紫色の美しい花をつけていて、さまざまな鳥たちが代わる代わる訪れるのを眺めている。我ながら、自分の優柔不断に呆れかえりながら、ああでもないこうでもない、と楽器を入れ換えている。
昼過ぎ、渋谷のブックカフェ「days」でMさんと再会。暫し話し込んだのち、せっかくの機会だから、神谷町の光明寺に連れて行っていただく。エレベータで2階に上がるとMさんの言葉通り、東京タワーがすぐ目の前にそびえている。サントリーホールまで、ここから歩いて10分ほど。こじんまりとした部屋全体が心地良い純白に包まれていて、大きな窓の採光と相俟って、時間の感覚も失いあたかも天上のよう。2枚の写真の間には誕生日が縫いこまれた、小さなクマの縫いぐるみが佇んでいて、隣で彼女は少し涙ぐんでいらした。連れてきていただいて申し訳なかった、と内心後悔しつつ、でもやはり訪れることができてよかった。子供の頃、事故で気を失っている間に垣間見た、闇の奥で燦然と輝く大きな窓とも扉ともつかぬ何かを思い出しつつ。

(11月30日 南馬込にて)

古屋日記 2025年11月

吉良幸子

11/1 土
劇場の初日。帰ってきて晩飯を食べてると号泣のおかぁはんから電話が。実家の愛猫、ロロが死んでしまった。ちょっと前からしんどそうやと相談を受けてたんやけど、こんなにもあっさり逝ってしまうとは…。私がドイツに行く前にうちにきた真っ黒な子猫。むちゃくちゃ大きく育って7キロくらい、たぬきみたいなフォルムしてるのに俊敏で、ネズミも野ウサギも狩ってきたりしておった。今年で14歳、調べると人間の72歳くらいに相当するらしい。うちのじぃちゃんが亡くなったんとおんなじ歳や。いつの間にかそんなおじぃになってたんやね。まんまるな顔やけど鼻筋が通っておっとこ前で、大好きやった。淋しくなるけど、おつかれさま、ロロ。

11/2 日
昨日の今日でやっぱり悲しい。私は今日も悲しくて元気がなく…と思いきや、同僚も数人体調を崩して劇場はスタッフぎりぎり、体が元気な私ががんばらねばと走り回る。猛暑やと思ったら急に寒くなったり、人間ですら体調おかしくなる天候やもの、動物はもっとこたえるよなぁ。若女将が猫大好きやから、休憩時間にロロのこと話してみた。ほだらほんまに親身になってくれはって、昔飼ってた猫の話してくれたりして、みんなこうやって別れを惜しんでいってんねやなぁとつくづく感じた。
夜、おかぁはんと色々と連絡取ってたら、ふと上方落語の大ネタ「地獄八景亡者戯」を思い出した。鯖にあたって死んだ喜ぃさんが、閻魔さんのとこへ向かう、あの世の旅噺。ああ、うちらはしんみりした慰め話でロロとお別れせんと、明るく笑って送り出したらええんやなぁと思った。

11/3 月・祝
今朝には太呂さんとこのおばあさん猫、サヴィちゃんが亡くなった。こちらは18歳、私が知っている限りでもちいさくちいさくなってきておった。家族のことが大好きな彼女はみんながいる日に、みんなが通る部屋の真ん中に寝てたらしい。サヴィちゃんらしいなぁ。ロロと同じ舟で三途の河渡りしてるかもしらん。ずうたいはでかいけどびびりの優しい子がおったらロロやし、よろしくねサヴィちゃん。

11/4 火
朝っぱらからギャー!フギャー!!という猫のケンカの声が近所に響きわたった。布団から飛び起きて見に行ってみたけども、人んちのガレージでやっとるみたいで姿は見えん。声的に珍しくソラちゃんが押されてるらしい。間もなく声も止んで家へ帰ってみると、しゅんとした負けっつらのソラちゃんがちょこんと公子さんとこの机の隅に座っておった。もうおっさんになってきてるんやもの、若いのに世代交代してもしゃぁないがな。目立った怪我はないものの気落ちしてるらしく元気がない。どちらかと言うとやさぐれてる感じで、ちょっとほっといてくれんか…という具合に、台所でひとり寝たりしていかにも孤独な猫みたい。ちょっと芝居がかっている気もするけども、とりあえず放っておこか。

11/6 木
米朝さん100回目のお誕生日。めでたい!最近のマイブームは風呂に浸かって落語をかけること。家の風呂は銭湯のようにあつうはならんし、とにかく長く浸かって芯からあったまる。ぼんやり長風呂するには落語聞くのが一番。今日も米朝さんの一席聞こうっと。

11/8 土
吉朝さんが亡くなって今日で20年。ほんまに?20年て、ほんまのほんまにはやすぎやで吉朝さん。もうちょっとおじぃになって落語してる吉朝さん、見てみたかったなぁ。
さて、数日前から寡黙な猫になっているソラおじさん。食欲旺盛、いつも通り食べて飲んで、痩せたり痛がったり寝られんてなこともなく、至極健康な生活をしてて、たまに甘えに布団に入りに来るんやけど、未だに台所のふわふわの敷物の上でひとりじっと寝てる時間が長い。外にも全然行きたがらんし、いよいよ家猫になったんか!?と公子さんと話しておる。

11/10 月
公子さんのみた夢シリーズ。まず、うちに日本酒いっぱいある?と唐突に聞かれる。まァ…二階に剣菱の一升瓶と、その他小さき酒たちを少々…と答えると、今日の夢はこんなんやったという。急に窓から知らん人が入ってきたから公子さんはびっくりして、何か用ですか?と聞いてみる。すると、ここにお酒がたくさんあると聞いて…と窓から来た人は答えたそう。泥棒かなんか知らんけど、家主がおっても慌てずに「酒を呑みに来た」と返すなんて、落語みたいな展開やないの!?

11/14 金
演芸場で一緒に働く同僚たちと女子4人でアジ釣りへ行った。集合は午前6時、久しぶりの早朝電車で葛西へ向かう。駅の近くに船着場までの送迎が来てくれる算段で、朝が早くてすでに疲れた4人と、装備バッチリの釣り人おっちゃん3人を乗せた車が海を目掛けて走る。手ぶらで行っても全部貸してくれるという名目のとこやけど、釣り人を見るとこんな素人でも大丈夫か…?とちょっとうろたえた。到着して車を降りると、おばあちゃんの「船が出るから早く!」と言う叫び声に急かされて、支払いとアレコレを借りて船に乗り込み、釣りのポイントまで船が出発した。海風が気持ち良く、何より空がむっちゃ綺麗!10分ちょいで着くやろうと思っていたら千葉の方へ出るべく30分くらい船は走り続け、途中でみんな座ったまま寝てしまった。途中で目が覚めたらとぉ~くに富士山が見えてちょっと感動したりして、そこからまだまだ走り続けてやっと船が止まった。船長と隣で釣ってたおっちゃんにコツを教えてもらいつつ釣ると、入れ食い状態で釣れる釣れる!釣りながら、これ持って帰るのどうしよ…と冷静になる程アジが釣れまくった。船のみんなが十分に釣ったと思われる数時間後、次のポイントへ行きますー!とまた船は走り出した。実は船に若干酔い気味やった私は風を受けながら遠山の金さんの歌を歌い、遠くを見渡しながら必死に酔いをごまかした。次のポイントへ着き、トイレへ行ったが最後、閉塞感の中船の揺れで視界がずれ、完全に船酔いしてしもた。船が止まっているのが辛い、早く船が走ってほしい…と思いながら、必死になんでもないつもりでぼんやり座っておったが、いよいよ撒き餌か…!?と思う程の船酔いの波がやってきて思わず手にビニール袋を握りしめる。隣でお嬢が大丈夫?と言っているがそれどころではない…が、なんとか峠は越したようで、やばかったわ…とようやくお嬢に返事をした。そうこうしてる内に念願の?帰りの時間になり、船はまたバタバタと風を受けて走り出した。お嬢と話しながらふと見ると、初めて夢の国ディズニーランドを目撃した。4人で100匹以上釣ってしまい、一旦演芸場へ持って帰ってるべく、魚くさい4人は電車で十条を目指す。お嬢は料理好きで、賄いに出してくれるらしく楽しみ。演芸場に着いたらちょうど若女将が出てきて、近くで飲みにいく軍資金までいただいた。ありがたすぎる。結局朝から何も食べずで夕方にようやくごはんにありつけたのやが、ひとり船酔いした私はまだ船の上にいる心持ちで地面がゆらゆらしておる。他のみんなは平気やったらしく、三半規管強いのってええなぁ~とつくづく思った。飲み屋を出て、アジを少し分けてもらって持って帰る。とりあえず冷凍さして、あとは公子さんに任せた。

11/15 土
第2回目の「まちの落語会と講談会」の日。今日はお昼下がりの公演やし、早めに下北沢へ向かう。ポータブルスピーカーを買ったからだいぶと荷物が減って前よりは移動が楽になった。着いたら大道具に山さんと冨田さんが既に待機してくれてはって、今回は平台も持ってきてもらって高座は完璧!椅子を並べてスピーカーチェックして、2回目はやっぱりちょっと慣れて設営はスムーズにいった。今日は2人の女性講談師が来てくださった。公子さんが贔屓にしてはる神田紅純さんと田辺いちかさん。私も久しぶりに講談を聞けて嬉しかった。お客さんも久しぶりに会う方から前回も来てくださった方まで、色んな方がたくさん来てくださって楽しい会になった。
と、無事に終わって緊張の糸が切れたのか、帰りの電車で熱っぽくなる。もう無理かもと思ったところでたまたま駅のアイス自動販売機でシャーベットを発見、ちゅーちゅー吸って熱を冷やすとちょっとマシになった。残念ながら明日は小屋番、しかもイベントがあって出勤が早い。枕元には水分と鼻紙を置き、ともかく湯たんぽであっためながら寝て回復を図る。

11/16 日
責任感だけで起床、体はまだ少しだるいけど、大丈夫!と言い聞かせて演芸場へ向かう。しかもよりにもよって今日は着物パレードの付き添いで外での勤務が多い。なんとかかんとか乗り切ったけど、公演が始まって事務作業に戻った途端にむっちゃしんどくなって夕方に早上がりさしてもろた。食欲はこんな時でもいっぱいあったからともかくいっぱい食べて寝る!明日は久しぶりの休みやし、1日寝てなんとか治すぞ。

11/22 土
知人の展示に行くために鳥越へ向かう。御徒町から歩いていくと、ギャラリーのあるのは「おかず横丁」という商店街の中にあるらしい。なんとおいしそうな名前の横丁…!と心躍らせて進むと、佃煮屋さんにお味噌屋さんなど、ごはんのおともがあちらこちらで売っているではないか!ギャラリーの主の方にもこの横丁で売ってるおかずの数々を聞き、展示を後にしておかずを求めて色々と歩いた。悩んだ結果、結局老舗らしき佃煮屋さんのふりかけと昆布を買って帰る。帰ってごはん炊いて一緒に食べてみたら、もちろん絶品!そんなにうちから遠くないし、おかず横丁とはええ場所見つけた!!

11/24 月・祝
前職でお友達になった86歳の友、おたかさんのおうちへ久方ぶりに遊びに行った。少し前に電話がきて、ようやく夏がさったので遊びにおいでとのこと。楽しみにしてるね~と昨晩も電話があり、久しぶりに着物を来て埼玉へ向かう。家が近くなって喜多見から行くより半分の時間になって嬉しい。行きしなに、ちっちゃい花束をお土産に買って団地へ向かうと、数ヶ月お会いしていなかっただけで随分と老け込んでしまった気がして心配になる。自分が賄いの食べ過ぎで大きくなったのか、それともおたかさんがちいさくなったのか、隣に立つと少し身長差が大きくなった気がした。最初は近況的にたわいもない話をしてたんやけど、途中から時代劇の話やら映画の話になり、そうなると顔色がぐんと良くなって元気になるのが手に取るように感じられた。おでんを作ってくれてはって、私と一緒に話しながらやとひとりで食べるよりたくさん食べられたみたい。よかった~。なんじゃかんじゃと日が落ちるまで話をして、今度は演芸場へ観に行くわねと約束した。帰る時も、リハビリだからね、と途中まで歩いて送ってくださったりして、帰り道こけませんようにと何度も振り返りながら団地を後にした。

11/27 木
色々してたらもう千穐楽!今月は光のように走り去った。初日には覚えるのに必死になっていた劇団のみなさんもお客さんも、千穐楽にはみんな知ってる人になっておった。1ヶ月間お疲れさまでしたのご挨拶をして、大掃除をする。大量の荷物と共に、劇団は今夜遅くに次の場所に移動しはる。そして数日の間に次の場所での公演がまた始まる。大変な仕事やでな。

11/28 金
自分の用事と用事の間に演芸場が入り、怒涛の仕事の日々がようやく昨日に区切りがついた。おかぁはんと全然連絡取れてなかったんやけども、電話してみたら向こうもお休みの日で、なんと2時間も電話してしもた。内容はたわいもないことばっかし、11月なにしとったとか、おかぁがやっとる運動に座禅の話など色々と。

11/30 日
12月公演の初日。またいちから劇団のみなさんとお客さんの顔と名前を学ぶ日々が始まった。初日に全く分からんでも、楽日にはなんで分からんかったんやろ?と思うくらい、はっきり誰が誰だか分かるようになるからすごい。今日が一番よく分かってないんやけど、とにかくなんとなく顔を覚えていく。12月は休演日が多い、がんばらな覚える前に公演が終わってまうわ。

011 難波江文法

藤井貞和

な なら なり    な なり
に に なり なる  に 人称をとろかし
は 反語にたどる   は 反実仮想の
え 婉曲の木にかける か 語りにむかう
の の格の文を    た 対象に敷いて
あ アオリストの遠投 み 未然 連用
し 心内は活用するか し 終止 連体
の の格の句の    か 格助辞なのに
か 活用するかな   き 危険な機能語
り 「り」は「あり」 あ 「あり」は「(あ)り」
ね 音に泣くのは   し 忍ぶ思いよ
の 脳内の眠りは   の のこり少なげに
ひ 表情は折口の   ふ 副詞表情
と 読者ふぜいに   し 主部で躱(かわ)す
よ 四人称から    の のぼりゆく累進
ゆ 「ゆ、らゆ」を  ま 万葉がなで記す
ゑ 笑みを尽くして  も モーダルな
み 未定の文法である あ 暗鬼、疑心
を を格をどこへ   は はかない手のように
つ 「つ/ぬ」の巣窟 て 「て」を生じ
く くちずさむすべて こ ことばの無力か
し 自立語の林    の 宣長の森
て 天尓波を手繰って よ 世のふることに
や やそしまをかけて を 少女(をとめ)のすがた
こ 漕ぎ出てみると  す 須磨、明石、淡路
ひ ひらがなを埋める く 訓点資料に
わ わびぬれば今は  し 時間の経過よ
た 玉藻、海人の子  て 程度の否定
る 流転、三界    よ 世のはてがたに
へ 変化のものが   と 読者を名のる
き 鬼没の      や 闇に
 

(皇嘉門院別当。伊勢。「わびぬれば」は、元良親王。『百人一首』より。)

待つ空間

高橋悠治

昔読んでいた本を読み返してみようと思って、花田清輝の古本を買ってみた。知らないタイトルばかり並んでいる。知っているものも、内容はほとんど覚えていなかった。

読んだと思った文章も、何か知らないものに変わっている。そんなものかもしれない。そこで何か発見があっても、それは書かれた文章なのか、それを読んでいる今、頭をかすめた無関係なことばなのか。

20年ほど前に書いた自分の曲を弾くコンサートがあった。書かれた音符や指示は、意味がわからなくなっている。時代が変わったのか、その時書いたことがもとから意味不明だったのか。多分その両方だろう。

音楽を作る即興と演奏と作曲が一つになった試みを、ピアノの鍵盤ですること。   

音を連ねて一本の線を編む。その線の周りに別な幾つかの音をあしらう。それが第二の線になって、二本の線が、対位法になったり、添えられた音が和声になったりしないように。線と響きと「間」以外の規則があるように見せないで済めば。

離れた場所から全体の形を見ることと、手触りを感じながら音から音へと移っていくことと、その両方を 意識しながら、と言っても、どちらかに重みをかけては、沈まないうちに重心を移していくだけなのか。

実際起こっているのは、言葉で言おうとするのとは違う感じがする。とすれば、こんなことを書いていると、現実と離れていくばかり。することと、したことを言葉にすることの間のずれ。こんなことになるなら、書くだけむだか。言葉になる前に言葉にしているのかもしれない。