シリツしてください

篠原恒木

二月二日、つまりは明日ですね、おれはシリツを受ける。

シリツ大学を受験する訳ではない。シリツ大学は四十三年前にめでたく首席卒業している。首席ではなかったかもしれない。卒業証書も紛失しているかもしれない。しかしながら求めがあれば19.2秒間のチラ見せなら可能かもしれない。ラブホテルにも十回以上同行したかもしれないが、男女の関係はなかったかもしれない。どうやらおれは二つの事例をゴッチャにしているかもしれない。

シリツとは言うまでもなく「手術」だ。つげ義春さん作『ねじ式』内の台詞、
「先生! シリツをして下さい」を若い時分に読んでから、おれにとっての「手術」は「シリツ」になったのだ。文句がなければ話を進める。

話は一昨年の夏に遡る。

左膝に突然激痛が走った。ジムで横になり、ストレッチをしていたときのことだった。あまりの痛さにおれは寝たまま尺取り虫のように移動し、両手で柱を掴み、ようやく立つことができた。一歩踏み出すたびに左膝が悲鳴を上げる。これは筋肉の痛みではない、骨の痛みだ、とおれは思った。脂汗をかきながら足を引きずり、なんとかジムから脱出した。

予兆らしきものはあった。一か月ほど前に左膝の裏の筋肉が異常に痛くなり、近所の整形外科で診断を受けたのだ。レントゲンでは骨に異常なしと言われ、痛み止めの錠剤と湿布を処方された。膝裏の痛みはある程度緩和され、おれはジムでウォーキングを再開した。ジョギングは時期尚早だと思ったからだ。

左膝の骨の激痛は、無事に筋トレとウォーキングを終えて、仕上げのストレッチをしていたときの惨事だった。いままでに経験したことがないような激しい痛みだったので、おれは再び整形外科を訪れた。医師はそれまでより強力な痛み止めの錠剤と湿布を処方してくれたが、この強い薬がまったく効かない。歩を進めるごとに左膝の骨は鋭く痛み、階段を見ると途方に暮れた。

そこからおれと左膝のタタカイが始まった。
痛みが引かないのでMRI検査を受けたら「膝関節突発性骨壊死」との診断が下った。「壊死」とはいかにも剣呑ではないか。詳しく訊くと、
「膝の内側、大腿骨内顆に発生する血流障害で、原因は不明だが微細骨折や半月板損傷が誘因となることもある」
とのことだった。治療方法としては、

・ 温存療法……痛み止めの薬を飲みながら、日常生活では膝への負担を減らす行動を心掛ける
・ 手術療法……骨切り術、あるいは人口膝関節置換術

しかしながら、いったん壊死した骨が元に戻る可能性はきわめて低く、シリツしても痛みは軽減するが、元どおりの運動機能は復活しないということだった。
この事実は悲しかった。ジョギングなどの有酸素運動を日課にしていたのに、もう走ることはできないのだ。今までは歩行者用信号の青ランプが点滅しても小走りして渡っていたのに、これからは心静かに立ち止まり、次の青信号を待たざるを得ないわけだ。

これからは各駅停車のジンセーなのか。追い越し車線で走ることはもうできないのか。ショックだったが、まあカイシャに勤めていた頃には同僚や後輩に追い越されてばかりだったので、仕方ない。これがおれのジンセーなのだ。

おれはセカンド・オピニオンを受けた。最初の診察は自宅の近所にある個人経営の整形外科、つまりは町整形だった。町中華は大好きだが、町整形は手術まではしてくれない。次に訪れたのは、町整形が紹介してくれた膝と股関節専門のクリニック。町中華から中華料理店に昇格だ。
だが、ここでは先生との相性が悪かった。治療方針が曖昧で、温存療法にするのかシリツにするのか、すべては患者であるおれが決めることだ、と言われてしまった。シリツするにしても人工関節置換術なら引き受けるが、骨切り術であれば他の病院に回す、と全体的に冷たい態度だったのだ。

シリツになった場合は、骨切り術なら入院二か月で地獄のリハビリが待ち受けているという。人工関節置換術なら二週間から三週間で退院後、リハビリに通うことになるらしい。その頃はまだカイシャに勤めていたので、二か月の入院は非現実的だった。二、三週間でその後のリハビリ通院だって、シゴト内容を考えると微妙に思えた。

すべてを曖昧にしつつ、おれは理学療法士のもとを訪れ、膝への負担を減らすストレッチも始めた。強い痛み止めの薬も飲み続けた。革靴をスニーカーに替え、左だけオーダー・メイドのインソールを装着した。杖も買った。杖を使わないと階段の昇り降りが難儀だったのだ。こういうヒトを市民ケーンという。わからないヒトは置いていきますよ。つまりやれることはすべてやったのだ。おかげで膝の状態は「激痛」から「痛み」へと徐々に改善していった。だが、痛いことに変わりはない。

そして二年の月日が流れ去り、街でベージュのコートを見かけると、指にルビーのリングを探すようになったおれは決意した。もう一度言いますが、わからないヒトは置いていきますからね。

シリツすることにしよう。そう決めたのだ。

サード・オピニオンとして大学病院に行った。街中華、中華料理店を経て、オークラ東京の桃花林へとたどり着いたわけだ。その大学病院で名医と呼ばれる先生の診察を受けた。その先生は言った。
「このまま痛み止めの薬を飲み続ければ、胃や腎臓に負担をかけることになりますし、骨切り術はかなりハードで、六十五歳という年齢を考えるとかなりギリギリのタイミングです。壊死部分の骨を削って人工関節に置き換えれば、完全に痛みから解放されることはありませんが、日常生活は現在よりスムーズに送れる可能性が高いでしょう」

おれも一生鎮痛剤を飲み続けるのには抵抗があった。
さりとて骨切り術で激痛に悶絶し、その後の地獄のリハビリに耐えられるかどうか自信がなかった。耐えたとしても「全治」しない、つまり些かの痛みもなく飛んだり跳ねたりできないのは割に合わないと思った。

ならば、あいだを取って人工関節置換のシリツだ。中道だ。中道改革連合だ。こう書くと「おいおい、大丈夫なのかよ」と不安になるが、仕方ない。
名医が目指すシリツは、前十字靭帯および後十字靭帯を切断せずに壊死部分の骨を処理するものだという。これが成功すれば早期退院も可能ではないのか。イヤだよ、十字靭帯断裂は。それだけで重傷ですよ。スポーツ新聞に「今季絶望」と書かれてしまうだろう。

そして最近の人工関節は、二十年くらい保つケースもあるという。その頃おれは八十五歳だ。もはや死んでいるか寝たきりかのどちらかだろう。もういい。人工関節の交換は考えないことにしよう。

「先生、シリツしてください」
おれの言葉に名医は、
「え、もう決めちゃうの?」という反応だったが、
「やりますか。でも二か月待ちですけど。僕の手術が立て込んでいるので」
いいではないか、予約二か月待ち。ザ・ノット東京新宿MORETHAN TAPAS LOUNGEのランチ・ビュッフェと同じですよ。

それに二か月という期間は、おれにとってちょうどいいモラトリアムのような気がした。左膝がロボットになる前にたくさん遊んでおこうと思い、予定を詰め込みすぎてすっかり疲れてしまった。

さて、明日全身麻酔で左の膝を十五センチほど切開してシリツするというが、術後の痛みはいかほどなのか。いつからリハビリできるのか。「入院は最低二週間」とは言われたが、実際にはどのくらいで退院できるのだろうか。人工関節にしたことによる膝の違和感はいつまで続くのだろうか。虫歯を削って銀歯を被せるのとはちょっと違うような気がする。膝に十五センチの傷跡が残るわけだから、グラビア・タレントとしての生命は絶たれてしまう。でも本当の命まで取られるわけじゃあるまいし、とは思うが不安は尽きない。

人工関節に「置換」するいちばんの不安は、おれの耳元で絶えず囁かれる警告だ。
「チカンはアカン」「チカンはアカン」「チカンはアカン」

待て次号。

013 三題 ―― シングル・LP・カセットテープ

藤井貞和

以前に池袋にいたころ、きくちというお店がありました。
ジュークボックスというのかな、コインをいれると、
SP盤がうごき出します。 「星の流れに」を、
選択しました。 聴きながらしばらくすると、
二階から寝ぼけまなこのお姉さまが降りてきて、
いそいそとコーヒーをいれてくれるのです。
本人だったと思います。

クラシックはLP盤で聴くしかなかったね。 むかしは、
LPで聴いたというと、学生が「知らない」というので、
すこしおどろいた。 沖縄歌謡LP二枚組み盤は、
黒田喜夫さんが聴きたいというので、年末の集まりに、
持っていった。 貸したまま、
返ってこない。 黒田さん、返せ。

うごかなくなったカセットレコーダーを二台、もう捨てようと、
廊下に出しておいたら、子どもが来て叩きました。 すると、
うごき始めたから、不思議。 しかもなかから、録音した、
NAkAJIMA MIYUkI、おなじくオールナイトニッポンが、
転がりでてきたので、びっくり。 しばらくみゆき漬けになりました。
もう死んでいるみたいなわたくしですが、だれかが叩いてくれたら、
うごき出すかもしれませんね。

(ノーコメント。)

人がいなくなった世界

越川道夫

厳しい冬だと思う。比較のしようもないが、アルバムを繰って昨年撮った写真を見れば、この時期にはもうオオイヌノフグリが花を咲かせていた。それだけでも、今年の寒さが厳しいのだと知ることができる。毎日写真を撮るということは備考録としての役割も果たしてくれるということなのだ。1月も終わりとなれば、あたりは冬枯れである。花が咲き誇っているのも好きではあるが、凍てつくような寒さの中、草花が立ち枯れている方が私は好きなのかもしれない。生花やドライフライワーが好きだという心象の底には死体愛好がある、というようなことを書いたのはいったい誰だったか。誰が書いたのかも、どの本で読んだ言葉だったかも思い出すことができないので、分からないままでいる。
 
年末、ある集まりで会った人から、「SNSにアップされているあなたの写真からは人間の姿が排除されていますね」と指摘され、「仕事以外で人間の姿など撮りたくない」と答えた。それはその通りなのであって、私のアルバムを占める写真の多くは植物や野良猫、鳥の姿ばかりである。人間の姿は、ない。日日の写真の中に人間の姿だけでなく人間の営為を写し込むことも耐え難い。例えば家であるとか、人間の手で作られたものはできるだけフレームの中に入れたくはないと思って撮っているのだ。そう言えば、どこかで養老孟司さんが、一日のうち15分は人の手が加わっていないものを見る方が精神によい、と言っていたような記憶がある。人間の手が加わっていないものというのだから、同じ植物でも庭木や街路樹、花壇などはその対象にならないということになる。手っ取り早い「人間の手が加わっていないもの」とは、空や雲ということになるだろうか。もちろん、この世界で人間の手つかずの自然などというものあるはずもなく、すべて何がしかの人間の影響を受けているのは分かっている。養老さん言いたかったのは、人間の脳や精神は「野生」に触れる必要がある、ということではなかったか。
 
毎日のように冬枯れを巡って歩き、日課のように写真を撮ることが「野生」に触れているのかどうかは分からないが、人間の姿や営為を写真から排除する私はどこかで「人間がいなくなった世界」を夢想している、と言うことはできるかもしれない。人の住まなくなった家屋が繁茂する植物に呑み込まれるようにして朽ちていく姿を、私はどこかで「希望」だと思っているのである。たとえ人間が壊滅したとしても、植物は花を咲かせて枯れ、鳥は空を飛ぶだろう。「犬や猫は人間に依存して生きているのだから…」というような物言いは、人間の傲慢というものだ。当初は困るかもしれないが、犬は犬で、猫は猫で、人間なしにどうにかしていくはずだ。むしろ清々して生きるのかもしれない。
 
「カルメンは息をひきとろうとしている。彼女が問いかける。一方の片隅ですべての罪ある者が、もう一方の片隅ですべての罪なき者がそれぞれ死の苦しみにあえいでいるとき、それは何と呼ばれるのか、と。ボーイは私にはわかりませんと答える。カルメンは最後の力をふりしぼり、ボーイを罵倒する。彼女が言う。あなたの仕事をするのよ、バカね、さがすのよ、さがさなきゃいけないのよ、それはなんと呼ばれるのかを、と。(中略)
美声の若いボーイの腕にかかえられたカルメンの頭が次第に重くなってゆく。ボーイはガラス張りの天井ごしに、夕暮れの淡い光を見つめている。ボーイが言う。お嬢さん、私が思うのに、それは夜明けと呼ばれているのです、と。」(ジャン=リュック・ゴダール『カルメンという名の女』—シナリオ 奥村昭夫・訳)
 
ジャン=リュック・ゴダール監督の『カルメンという名の女』のラストシーンは、ジロドゥの戯曲を引用した私の最も愛する映画のラストの一つだが、そのシナリオを読みながら思い出したことがある。『海辺の生と死』を撮った時だろうか、「あなたの作る映画は必ずラストに“いつもと変わらない朝”が来ますね」と言われたことがある。それを聞いた写真家の島尾伸三さんは、それはあなたの映画への最大級の賛辞ですね、と笑った。ゴダールの作品でも、笠智衆が「—今日も暑うなるぞ…」と呟く小津安二郎の映画でいいのだが、私が映画というものを見て学んだことのひとつは、たとえ人間が壊滅してしまっても、どのような悲惨の中にいても「いつもと変わらない朝がくる」という、そのような世界の在り方だったのではないだろうか。そこに人間がいるかどうかは問題ではない。「いつもと変わらない朝がくる」こと、それが私にとっての「希望」なのだ。ただそれだけが。
 
私は、自分を含めて人間という生き物をお世辞にも好きだとは言い難い。積極的に嫌いだと言ってもいい。そう思いながらも、自分よりも大切に思っている人はいるし、私が愛するものの姿を写真におさめることもある。我ながら得手勝手なものだと思うが。そう思いながら、ふと、目の前にいる「この猫」は好きだけれど、猫全般が好きなわけじゃない、と言った人のことを思い出す。
 
今日、道端のコンクリートの割れ目から、菫がひと株生えていて、この寒さの中で花を咲かせているのを写真におさめた。
見上げれば、白い冬の空に蝋梅が甘い香りを放ちながら咲き始めている。
襤褸菊が小さな黄色い花を咲かせている。
 

明るい石

笠間直穂子

 砂浜へ行けば貝殻を拾い、河原へ行けば小石を拾って飽きないのは、子供のころから変わらない。はじめは見えなかったものが、じっと見つめるうちにだんだん見えてきて、ひとつ目に留まると、似た色のものが急に浮きあがるようにあちこちから目に入り、視界が鮮やかになっていく。知識があるわけでも、テーマを決めているわけでもなく、ただ気に入ったものを選んで旅先から持ち帰ろうとしているだけで、ほんの少ししか手元には残せないから、自分はほんとうにこれがいいと思うのか、よくよく吟味する、その精神の集中も楽しいし、やめておこうと決めたものを思いきりよく捨てるのも楽しい。

 そうやって持ち帰ったものを、仕分けるでもなく、空き箱に雑然と溜めこんで、たまに取り出しては、これとこれはあの土地で拾ったもの、こちらは……と思い出しつつ眺める、ということを、たぶん五、六年前あたりまでは、自然にやっていた。できることが当たり前で、できるできないを意識すらしなかった。

 ところが、この数年で、できなくなった。見覚えはあっても、いつ、どこで拾ったのか、まったく思い出せない。よく考えれば記憶が戻ってくる、という感じではなく、いわば石や貝にくっつけてあった仮想の名札の、文字のあったところが、空欄になっている。

 全部を忘れたわけではない。たとえばニューカレドニアのマングローブ林で見つけて、現地在住のAさんにも驚かれた、ほぼ完全なオウムガイの殻などは、変わり種だから、もちろん覚えている。ルーアンの森をSさんと散歩したときに拾った、外側が白くて断面が半透明の尖った石も、河原からもってきたほかの石と大きく違うので、わかる。ごく最近拾った、根室のカシパンウニの殻や、秩父の荒川河岸の赤褐色の小石も、問題ない。

 けれども、そのほかに、色も模様も形も大きさもさまざまな、どこのものともしれない貝殻と小石がある。串間、多治見、神津島、などで拾ったもので、なかにはジロンド川で作家のMさんと拾ったものもあるはずなのに、どれがどこのものなのか、わからない。貝殻は、まだしも形態から種類を同定し、その名を示すことで、どういうものなのかをひとに伝えることができる。けれども、石のほうは、ひとつひとつの見た目があまりに違っていて、ごく大雑把な組成上の分類はできるとしても、形状や色味を正確に言語化することが難しい。それだけに、産地が不明となると、ぽつんと、孤絶したふうに見える。

 箱のなかの石は、まるかったり、角張っていたり、なめらかだったり、ざらついていたりして、光沢のある鉄色、艶消しの白、朱色がかったピンクと白の縞模様、薄い藤色のマーブル模様と、とりとめがない。あるとき、ある場所で、わたしが気に入った、ということだけがたしかな、よるべない集合として、そこにある。

 特定たんぱく質の量の測定を用いて人間の老化の進み方を調べる研究について、池内了が少し前に書いていたのを思い出す。一般に身体組織の老化は、徐々に、ではなく「階段的」に進行し、平均的には四十四歳ごろに一度目、六十歳ごろに二度目の「加速期」があるという。もちろん、時期に関しては個人差が大きく、ひとによって十歳ほど前後するのだが、いずれにせよ、階段的進行、という点については、池内も自身の体験として語るとおり、あるとき自分が急に「歳を取った」ことに気づいて愕然とするひとの多さからして、納得がいく。

 わたしにとって、その一度目の「加速期」は、異常な緊張を強いられたパンデミックの数年、さらに精神の不調と重なり、この疾患は思考力や記憶力の障害をともなうものだったから、忘れたり、見落としたり、時間がかかったり、混乱したり、という変化は、病気の症状として、劇的に現れた。ただ、どこまでが病気のせいで、どこからが老化のせいなのかは、結局のところわからない。精神疾患が加わったために、「加速期」の階段の段差が普通以上に大きくなったものの、現在の状態は、おおむね、いずれは到達することになっていた場所だったのかもしれない。

 それにしても、この階段は、おりているのだろうか、のぼっているのだろうか。人体の成分や機能を数値化し、衰えを数値の低下としてグラフに表す研究の視点では、もちろん、階段をおりる想定なのだろう。でも、石ひとつにも貼りついていた地名や風景や出来事の記憶が自分のなかから消えるのなら、その言葉や影像の重みから逃れた心身は、軽くなっていく、とも考えられるのではないか。

 貝も、石も、もともとは土産のつもりで拾ってきたものだから、出所がわからなくなったのは、寂しい。とはいえ、はじめから採取場所を記した札を付して、仕切りのついた標本箱にでも保管しておけばよかったかというと、そうとも思えない。収集品として整然と並べたいのではなく、ただ落ちているものを、なんとなくいいなと思って拾い、ポケットのようなところに入れて、たまに出して掌に載せてみたいだけなのだ。

 いま、箱のなかに散らばった石を眺めると、拾った時間や場所や状況にまつわる情報が剥ぎとられた分、心許ないと同時に、さっぱりとして、石そのものの色や形や大きさや質感が、まっすぐに目に届く。その石を見つけたときの気持ちに、むしろ近いようにも思う。

     *

 来歴の重みを洗い流され、ただの物体となった石を前にした、この軽やかな感じは、なにかに似ている。そう、柳宗悦『妙好人論集』に描かれた、妙好人の感じだ、と気づいた。求道のすえ、心身のすべてを仏にゆだねる他力道の核心をつかんだ浄土系仏教の篤信者たちの言行を語る柳の文章は、宗教的な観点というより、物語としての面白さから、わたしにとって忘れがたいもので、大学生のころから、何度か読み返している。

 主に幕末から昭和初期にかけて記録され、人口に膾炙した、多様な妙好人の行跡を、柳は伝える。多くは農村に住む無学な人びとで、知ではなく情によって信仰をきわめる。たとえば、因幡の源左という男は、刈り終えた重い草の束を牛の背に載せた瞬間に、信心とはなにかを悟り、自らの業を仏に背負ってもらうことのありようを教えてくれた牛に感謝する。あるいは、とある三河の夫婦が、嵐の夜に、五十里も離れた京都の本願寺を風雨から守らねばと思いたち、二人で丘にのぼって夜じゅう風呂敷を広げたりする。こうした逸話はいずれも、謎めいていたり、常軌を逸していたりするのだが、それは必然であって、この場合の帰依とは、論理を捨てること、筋道の通った言葉を超越すること、矛盾が矛盾でなくなることによってしかなされないのだ。

 権威も理屈も押しやり、自他の境界も無化して、安心を得た者は、「ほのぼのとした夜明けを仰ぐ」。生活上の苦難や、それによる悩みがなくなるわけではないが、たとえ辻褄が合わなくても、未解決の状態のままで救われると「わかる」ことによって、「暗さがそのまま光に浴(ゆあ)みてくる」、と柳は言う。なにもかもをありがたく受けとめる姿勢は、従順な国民でいることとの親和性をときに覗かせて、危うくもある。その点は胸に留めつつ、それでも、現世の条理を振り切った彼らの朗らかさが、わたしには慕わしい。

 かつてはたやすく記憶していたことを、完全に忘却してしまうのは、やはり悲しい。しかし同時に、かつて過去の記憶をまとっていた石は、その堆積を取り払われることで、明るくなる。目の前にある、ただのまっさらな石として見えてくる。この感覚が、わたしのなかで、妙好人の屈託のなさと結びついたのだった。

     *

 空気が乾燥する季節に、片方の目が乾いて、角膜に傷がつき、まばたきをすると痛いのは、以前からのことだが、この数年、だんだん悪化して、もはや季節を問わず、ときには目を開けていられないほど痛むようになった。あらためて診察を受けると、目を温めるようにと言われた。眼球に脂分を供給する腺の機能が弱っているのが一因で、温めれば改善が見込めるという。

 電子レンジで熱いおしぼりをつくって目に当て、冷めたら取り替える方法でもいいし、使い捨ての温感アイマスクを使ってもいい、とのことだったが、家に電子レンジはなく、それに皮膚が弱いたちなので、濡れた布を頻繁に当てたり外したりすれば、蒸発によって肌が乾き、痒くなるのは目に見えている。使い捨てのものも、人工香料や不織布の刺激に耐えられないだろう。電源につないで繰り返し使える製品もあるのだが、玩具めいたプラスチック製の電化製品を増やすのは、気が進まない。

 石を使えばいいのではないかと、思いついた。

 ハン・ガンの『別れを告げない』(斎藤真理子訳)に、済州四・三事件で捕らえられ、拷問の後遺症で心臓を患うひとが、鍋で煮て温めた石を、心臓の上に当てて休む、という記述があった。「黒い石で、ぼこぼこ穴が開いて」いる。溶岩石だろうか。七年前に済州島へ旅行した際、そういう石をよく見かけた。火山活動によって形成されたトンベクドンサン湿地を歩いたときの薄暗さがよみがえる。

 拾った石をしまってある箱を開けてみると、ちょうど眼窩くらいの大きさの、片側が少し狭まった楕円形の平たい石があった。全体にまるみがあり、すべすべしていて、透明感のある黄色がかった乳白色に、ところどころ、ひび割れのような黄褐色の模様が入る。分類上は、チャートに当たるのだと思う。いくら眺めても、どこで拾ったかわからないが、拾ったときの自分が気に入ったことはよくわかる、きれいで、手触りのいい石だ。

 仕事部屋の暖房は、上にやかんを置ける型のガスストーブなので、穴をふさがないようステンレスの網を載せて、そこへ石を置いた。しばらく経ってから、タオル地のハンカチにくるんで、まぶたに当てる。熱が目の奥へ沁みていく。少し温度が下がってきたら、四枚重ねていた布を二枚にする。それでも素手ではさわれないくらい熱い。医者に指定された十分間、冷めることはなかった。

 毎日、この石で十分のあいだ、目を温めて、終わると、反対側の目も温めたり、首筋に当てたり、握ったり、冷めるまでポケットに入れておいたりする。繰り返すうちに、わたしにとって、大切な石になってきた。家にいるとき、手元にあると、安心する。

 追憶のよすがでもなければ、観賞用の置物でもなく、わたしの役に立つ道具、それも痛みをやわらげる道具となることで、この黄色く平たい石には、新たな意味合いがこめられた。来し方を消されたものも、これから、こうして一緒に暮らしていけば、もう一度、かけがえのないものになっていく。

煙(上)

イリナ・グリゴレ

雪国に暮らしてきた長い年月の結果、雪の美しさに慣れてしまった。雪が真っ白で美しい。雪が冬になるまでの罪と痛みを消す。積もると全てがただただマシュマロのようなフワッとした感覚になる。あれ、私は昨年の秋に悪いことをしたんだっけ? 脳が寒さで麻痺するからあまり覚えられない。他方、夜は雪明かりで明るいので、もともとの不眠症がひどくなるだけ。カーテンを開くと、裏のクリの木が雪の中で真っ直ぐ立っている。フワフワの冷たい雪に埋もれているのに、春まで曲げる気はしない。だって、その木の下に去年生まれたばかりの猫たちが暮らしているから。猫とクリの木、永遠に降る雪と光。夜だと思えないほど明るいのに、とても冷える。窓から冷たい風が入って、手が冷たくなる。身体が全部冷たい。

今夜も寝られそうにない。こんなに静かなのに。近所の家で岩木山は見えないけれど、存在を感じている。いつも寒いのに平気な岩木山。火山だからかな、といつも思う。私が初めて見た火山が岩木山だったので、温泉があって中は暖かいと想像するけれど、火山についてはあまりよくわかっていない。私と火山が違うのかもしれない。岩木神社の女神と相性が今ひとつだし、私の中が暖かいかどうかもわからない。冷え性がずっと前からひどいのもあるけれど、昔から意外と冷めている部分がある。高校のとき、友達の彼氏に「冷たい」と言われたことがある。いつもこのように男性に勘違いされるけど、どうでもいい。触られるのが好きではないのかもしれない、犬と子供以外は。犬と子供は暖かい。そして嘘をつかない。

いただいたハン・ガンのエッセイ集を開く。詰まって、何も読めないときに彼女の言葉だけが、犬と子供と同じように、嘘をつかない気がする。温もりがある。
「生命は生きようとする。生命は温かい。
死ぬのは冷たくなること。顔に積もった雪が溶けないこと。
殺すのは、冷たくさせること。
歴史の中の人間と宇宙の中の人間。
風と海流。全世界をつなぐ水と風の循環。私たちはつながっている。つながっていますように、どうか。」『光と糸』

なぜか、どの論文よりもハン・ガンのこのような言葉が、私の終わりのない研究の参考になる。何年か前に作った民族誌映像『光と風と水と土』につながる。同じ光と風と水だよね。繋がっている。同じ土の上で。どうか繋がっていますように。次のページに出てくる言葉も「愛する人の骨を見つけて」とぽつん。ぽつんではないかもしれないけれど、私も似たような話を聞いている。骨を舐める女性の話を、いつになったら書けるのか? 骨は学術的でしょう…? だから書きづらい。骨について詩しか書けない、私。骨を返してくださいよ。

というより、同じ島国の日本とバヌアツ、同じ火山国の日本とバヌアツ、こんなに違っているのにこんなにつながっていた。日本とは「日が出る国」だと思われるけれど、青森にいると冬の間は全くおひさまに出会えない、長いあいだ。その代わり、違う光に出会う。雪の光、水の光、温泉の湯気の光、日本海の消えそうな光、氷柱の光。だから冬の間にバヌアツの海と川の青さを脳に刻んで生き残る。りんごは腐り始めた頃にはもう限界でも、りんごでジャムを作って、魚屋さんでイワシを探して、イワシの蝋燭みたいな光で心が温まる。きっと誰にもこの環境の厳しさが伝わらない。ハン・ガンのこの言葉を読んで、身体に電気が通る。「死ぬのは冷たくなること。顔に積もった雪が溶けないこと」。この通りと叫びたい。『別れを告げない』の済州島の環境の厳しさがよく似ていると思った。この本を青森出身の友達に薦めたら、こんな感想が返ってきた。

「おはよう
雪、すごいね・余っています。
ハンガンの別れを告げない、読んだよ! 歴史の惨状を基底として母子と親友と、ペットのか弱い鳥と壮大な自然描写、夢、現実、過去、未来、全部折り重なって書かれてるのに一本線を歩いてるような感じだった。哲学的な。。
済州島、青森ににてるのかなーとか思っちゃったよ、、残虐行為が近くであったなんて知らなかった…
話は戻るけど、最近心身が調子悪い・・いらいらと鬱に効く漢方飲んでるよ。
これはとりあえず雪のせいにします」

これは昨年の2月23日なのに、昨日届いたかのように、私たちが今年も冷たい雪の中に埋もれて、何も変わっていない。不思議だけど、ハン・ガンの文章のように、私たちの顔に雪が積もったら溶けるでしょう。どうか、溶けますように。それと、こんな寒いのに人が虐殺をするのね、するのね。あり得ない。でも友達の最後の言葉「とりあえず雪のせいにします」の中に救いがあると思う。こんな吹雪いているのに、よく生きている、私たちが。これでも「生命は生きようとする」。

私、って本当に冷たいのか。先日、人生で初めて経験したことがある。自分の身体から、特にお腹からものすごい煙が出るところを見た。とても火山っぽいと思った、いい背景だと思った。私が冷たいと言ってきた人たちに、ほら見てごらんと言いたかった。お腹が温かくなったら、確実に生きている。何回殺されても。もう二度とこのお腹を冷やさないようにするな。かなり、たくさんの煙が出た。横になっている激しい手術と様々な辛い経験をしたこの身体、お産2回したこの私のお腹からこんなにたくさんの煙が出て、こんな幸せな気分は味わったことがない。ぜひ、煙が出る私を想像してほしい。私を嫌った人も、私を愛した人も。人類は火を持つようになってから最高のイメージ(私にとって)。エゴン・シーレの絵のタイトルにぴったり、『罰せられたのではなく浄化されたような気分だ』(I Feel Not Punished but Purified)。絵を描きたい。

「生命は温かい」
これは私にとって東洋医学との初めての出会いだった。鍼灸院から外に出て、雪の中で車までしばらく歩いた。顔と髪の毛に積もった雪が煙と湯気になって、あっという間に溶けた。身体が何年ぶりにぽかぽかしていて、ほっぺが赤い。自分の身体から、スモークした魚のような、祖父が作っていたスモークドベーコンとソーセージのような、美味しそうな匂いがした。煙によく浸かっていると、この身体を誰かに美味しそうに食べられるかもしれないと思いながら車に乗った。シーンと雪が溶ける音がした。自分も溶けたくなる。歴史に残る人としてではなく、無名の残らない人として。骨を舐めた女とおなじ。あなたは私を思うと知っている。煙のような湯気のようなもので繋がっている。
「風と海流。全世界をつなぐ水と風の循環。私たちはつながっている。つながっていますように、どうか」。

ノープランな旅

さとうまき

ノープランの旅を続けるのには理由がある。イスラエルに入国できるかどうかがわからないからだ。最近またパレスチナを支援している人たちが入国拒否されていると聞く。僕もその昔、入国を拒否されたことがあるから、とりあえず隣のヨルダンへ行ってから陸路で入国を試みるわけだ。もし入国出来たら儲けもの。そこから、ホテルを決める。行き先も決める。2025年12月、その年の2回目の旅になった。
 
この歳になるといろいろへまをやらかす。忘れ物や落し物が多いのである。今回もヨルダン側でまず、X線による荷物検査があったが、バッグを一個取り忘れてしまい、出国検査が終わってバスに乗ろうとしたときになって荷物が足りないことに気が付いた。大慌てでとりに戻るが見つからない。陸路の検査は雑で、団体客の荷物が雑に積み上げられている。最近は、目が見えなくなっているのもあってできるだけ荷物は派手な色にしているが、この時は鼠色のバッグだったのだ。もうだめか?とあきらめかけた時に目の前に置いてあった。

ヨルダン川を渡りイスラエルにつく。入国審査は、前回同様あっけなかった。
目的は? 「観光です」
いつまで? 「一週間ほど」
何処に泊まりますか? 「ノープランです」
それだけだった。

昼過ぎには、東エルサレム、アラブ側のエルサレムに到着。小雨が降ってくる。商店街。まず、アラブ人の若者が3人いる。黒いパーカーを着て2人はフードかぶり、1人はスキンヘッドをさらけ出す。グレーの軍服を着て防弾チョッキに自動小銃を抱えた重装備のイスラエルの国境警察官3名。一人は女性。身分証明書を取り上げて尋問する。体格のいいアラブの若者は、おびえる様子もなく、素直に受け答えしている。もう一人、黒いパーカーの男が店の前にしゃがみ込んで、娘二人とサンドイッチをほうばっている。東エルサレムでよく見かける光景だ。

僕はトラムに乗ってイスラエル側のエルサレム、西エルサレムの宿にチェックインした。どうも風邪をひいたのかあまり体調は良くなかったが、運よくエルサレムでベイタルというサッカークラブの試合があるという。イスラエルのサッカーは、イギリス委任統治時代に設立されたクラブが多い。サポーターは、政治思想で支持政党、じゃなかった、支持クラブを決めるらしい。ベイタルといえば、サポーターはバリバリの修正主義シオニストたちで、アラブ嫌い。リクード党の政治家は大概ベイタルの熱烈なサポーターで、ネタニヤフ首相や、オルメルト(彼はのちにリクードを抜けて中道政党カディマへ移る)やリクードと連立を組む極右のベングビールも熱局的なサポーターである。ベイタルは、差別主義で、イスラム教徒もアラブ人も一緒くたにして、「アラブ人に死を!」と言ってほえまくる。今までアラブ人の選手を雇ったことのない充血なユダヤ人クラブを誇りにしている。外国のイスラム教徒が何人かプレイしたことがあるがサポーターは激怒して追い出してしまった。

それに対抗して、ハポエル=労働者という名前が付いたクラブがいくつかある。ハポエル・エルサレム。ハポエル・テルアビブ、、など。社会主義的な、労働シオニズム系の政治運動と密接に結びついていて労働組合総連合ヒスタドルートと直結、「肉体労働・集団・平等」を重視する左派がサポーター。アラブ人(イスラエル国籍のパレスチナ人)選手もいる。

マッカビーと名がつくのもいくつかある。マッカビー・ハイファ、マッカビー・テルアビブ、マッカビー・ネタニヤ…。
マッカビーの意味だが、古代ユダヤの英雄「マカバイ戦士」に由来して、強いというニュアンスで用いられる。中産階級・ブルジョワ系に支持層が多く、比較的リベラルで非社会主義ディアスポラ(海外ユダヤ人)との結びつきが強い。

選挙の際もサポーターの応援が少なからず影響するのだろう。日本ではあまり考えられない。そもそも、このベイタル、「アラブに死を」「純潔を守れ」とか、サッカーの国際基準からしても、「不適切にもほどがある」わけだ。浦和レッズが「JAPANESE ONLY」という垂れ幕を出して、大騒ぎになったことがあるが、そういうのをずーっと続けているクラブ。つまりは、イスラエルの現政府が国際的なルール違反を犯してへっちゃらだということつながっている。

今日の試合は、ベイタルマッカビー・ネタニヤ。つまり、バリバリのシオニストVSリベラルの対決。スタジアムまで行ってみた。しかし、なんとチケットが売り切れ。前回来た時に、アポエル・エルサレムの試合を見たがガラガラだったので油断した。結局、中には入れず、試合前にビールを飲んで騒ぐサポーターをみるにとどまった。不思議なことに、ほかにも入れない観客がいてガードマンともめあっている。「チケット持っているのに入れてくれないのよ」女の子たちは強引に入ろうとしたが警備員につまみ出されていた。
 
スタジアムでは試合前に、イスラエム戦線(ハマスではない)の人質になっていたロム・ブラスラフスキさんが挨拶したらしい。かれは、音楽祭のガードマンをしていたが、武装勢力に連れ去られた。2年近くたち、ガリガリに痩せていて、泣きながら「助けてください」と訴えたビデオが公開されて、ガザの飢餓とともに、ユダヤ人人質が餓えている姿はホロコーストを彷彿させて衝撃的だった。10月の停戦合意で解放された。ピッチに立った彼は、「皆さん、こんにちは。ロムです。1年前、皆さんは私の家族とともにここに立っていました。私の顔には、『誘拐された』というキャプションが付いていました。そして今日、私は2年間の地獄のような苦しみを経て、ここにいます。もう人質ではありません。自由で幸せです。ここに立って、背後にはベイタル軍全体が、そして強大なシオニスト都市エルサレムがいます。これからも、このままでいてください。」

ブラスラフスキ氏は「ベイタルはチームではなく、国家の象徴です」と断言し、集まった観客にこう訴えた。「私たちの英雄的な兵士たち、遺族、そして私の心の奥底に深く刻まれた戦死したイスラエル国防軍兵士たちを、今一度思い出してほしい。あなたたちは私の命を救ってくれました。愛する兄弟たちよ、イスラエルは私のものなのです」ロムさんは、別のインタビューで、イスラム聖戦から性的暴力を受けていたことを告白した。

僕は、トボトボと宿に帰り、ノープランな旅を続けることにした。

教育の名言(4)

増井淳

コンピュータは何らかのことを「すでにわかったこと」とみなした上で、さまざまな問題を解決する。その際、ひとたび「わかったこととみなした」ことについては、コンピュータ自身の中の情報をどうひねくりまわそうと、変換しようと、その前提自体を「疑う」ことはできない。システムがつくられたときに設定された前提自体を「問い直す」ということはできない。人間だけが、いつも、根本的な問いを投げかけ、本当にこれでいいのかと問い直せるのである。 佐伯胖 
(佐伯胖『コンピュータと教育』岩波新書)

佐伯胖は認知心理学者。認知心理学とは佐伯によると次のような学問だという。
「どんな動物でも、昆虫ですら、意味のあることしかつかんでいない。そうすると意味をわかろうとしているのが本来なんだ。意味がわからないものは受け付けないのが一番自然なんだ。人間は意味がなくても、練習さえすれば学習するのではないかというのは、ものすごく無理をしている。無理やりそういうことに適応できるような体につくればできますが、それは本来ではないとわかってきたのが認知心理学です」(佐伯胖ほか『学ぶ力』岩波書店)

  *

コンピュータ教育を考える際に、「コンピュータの導入で教育はどう変わるか」という議論が多いが、これはそもそもおかしい。これでは、教育というものがテクノロジーにあわせていろいろ変化するということが前提になっている。しかし筆者が提唱したいことは、そもそもテクノロジーに教育を適合させることを考えるべきではなく、教育にテクノロジーを合わせるべきだということである。つまり、「コンピュータやインターネットを教育にどう活用し、どう教えるか」という観点からコンピュータ教育を考えるのではなく、まず「現代社会において、教育はどうあるべきか」という観点から出発し、そこにコンピュータがどのような形で貢献できるかを考えるのである。 佐伯胖 
(佐伯胖『新・コンピュータと教育』岩波新書)

今やパソコンは「家電並み」といってもいい物となっている。だから、パソコンの基本操作についてわざわざ学校で何か特別の「教育」をすべきとは思えない。そういう状況でも文科省は学校にタブレットを導入し、さらなるICT教育をすすめようとしている。そこには「現代社会において、教育はどうあるべきか」という視点が欠けているのではないか。
佐伯胖は『コンピュータと教育』以来、一貫してコンピュータと教育の関係を説い続けている。「コンピュータもまた、人間にとって道具なのだ。愚かな使い方は不幸をもたらすし、賢明な使い方は幸せをもたらす」(『新・コンピュータと教育』)。

  *

生成AIは「人間のように文を理解し、発せられるようになった」わけではなく、なにか別のメカニズムによって、「文を理解し、発せられるように見えているだけ」ということでしょう。生成AIは、人間のような知性を獲得しているわけではありません。私たちが打ち込んだ文の意味を「理解」しているわけでもありません。ただ、「こういう文章に対しては、こう返すべし」という「確率情報に基づいた応答」が極めて上手だということです。 川原繁人 
(川原繁人『言語学者、生成AIを危ぶむ』朝日新書)

川原繁人は言語学者。川原の妻(桃生朋子)も言語学者で、小学校に通う二人の子どもを育てていて、スマホやタブレットをどこまで子育てに使ってよいのか悩んでいたという。そんな中、2022年11月、OpenAI社から公開されたChatGPTに代表される「生成AIブーム」が到来し、「生成AIを搭載した子ども向けのおしゃべりアプリが開発されている」というニュースも飛び込んできた。それ以降、「幼児が生成AIと会話することは、果たして、人間の健全な成長という観点から、「安全」なのか?」という問いに本気で向き合ってきたという。

  *

人間が自分の生存を、役にたつとかたたぬとか計ってはいけないことだと、わたしはつくづく考えました。そして、あくまでも生きていようと、ひとり心に決めました。「生きのびているだけで、それが手柄だよ」という窪田空穂先生の言葉が、いまも耳の底にひびいています。 戸井田道三 
(戸井田道三『生きることに◯✕はない』新泉社)

戸井田道三(1909〜1988)は、長い療養生活のかたわら能・狂言に関する著作を多く残した。また、「忘れる」ということに注目した『忘れの構造』という独自の随想も残していて、長く読み続けられている。学校は「覚える」ことを熱心にすすめるが、「忘れる」ことも重要ではないだろうか?
「夢はみる必要があって人間におこる現象だとすれば、眠りからさめた瞬間に忘れてしまうのもまた忘れる必要があるからにちがいない。コンピューターの記憶装置は忘れない。もちろん夢をみることはできない。だからコンピューターで未来を計測するのはあぶなっかしいことにちがいない。そう思うのである」(戸井田道三『忘れの構造』ちくま文庫)

製本かい摘みましては(197)

四釜裕子

年明けに銚子あたりに行くことになり、ネットで地図を見ていたら銚子電鉄の観音駅近くに飯沼観音圓福寺を見つけた。昨秋、慶應義塾ミュージアム・コモンズ(KeMCo)で見た「嵯峨本の誘惑:豪華活字本にみた夢」展がこの寺の所蔵品を中心にしていて、会場や図録に飯沼観音圓福寺の由緒やコレクションの由来が詳しく示されていたのだった。改めて圓福寺のサイトを見ると、なんということでしょう、出かける日は寺が所蔵する古典籍を公開する期間に重なっており、しかもそこには西行筆伝「源氏物語 幻」も含まれていた。大河ドラマ「光る君へ」(2024)で源氏物語の綴じ方をじろじろ見ていたときに関連番組でこの「源氏物語 幻」の存在を知り、その後、KeMCoで実物を見たのだった。この連載でもどこかで触れたかもしれない。

予定をやりくりして銚子ではまず圓福寺へ行くことにして、しおさい1号を予約した。東京の東のほうに暮らすので、東京駅からではなく次の錦糸町駅からのほうが乗り換えは楽だ。東京駅だと乗り場は地下4階だか5階の総武線ホームなのでなにしろ遠い。でもこれはいったいどういう心持ちなのか、しおさいの”1号”には”始発駅”から乗りたいわけです。なので朝飯にしらすおにぎりときなこおにぎりを小さく握り、距離も深さも遠回りしてしおさい1号で銚子駅へ。銚子電鉄に沿って仲ノ町駅や車庫、観音駅を見つつ圓福寺に着くと、近所の方がぽつりぽつり出入りしていた。正月飾りをお焚き上げに持って来られたり花を持って墓参される方もいるようだ。本堂脇の建物が展示会場で、こちらにもすでに人がいる。どうぞとうながされて靴を脱いで客殿に上がると、古活字本の「伊勢物語」が並んでいた。畳敷の部屋のガラスケースには、西行筆伝「源氏物語 幻」、泉鏡花「夜釣」「婦系図」の直筆原稿、古活字本「徒然草」、漢籍「昌黎先生集」、壁には光圀から寺宛てと思われる書状も掛けてあった。雑談も弾み、ゆっくり気持ちよく見ることができた。

この日は朝から曇りで寒く、寺を出てしばらくすると風が強くなった。成田線が風のために一時止まっていたほどで、私たちもあとの予定を変更せざるをえなかった。街をつらつら歩いていると大新旅館の前に出た。うわさに違わぬザ・昭和の風情が際立っていて、隣が更地になっていたので建物が奥のほうまでよく見えた。最前列のコンクリートの「にゅうさろん」に向かって建屋が奥から細切れに壁や屋根が違っており、それをねらったというよりは、時代と街の変化に翻弄されつつその都度最前線を担ったそれぞれの空間だったのだろうと思った。おりしも昨年末に、この大新旅館と犬吠埼のホテルニュー大新が連絡がつかなくなっていると報道されていた。確かに入り口は紅白のコーンで塞がれていて人の気配はなかった。その後どうなっているのだろう。

「銚子における紀州移民の定着と港町形成に果たした役割 特に興野地区の特徴形成と大新旅館を例として」(歴史地理学調査報告 第12号 133~153  2006)という、筑波大の清水克志先生の報告書を前に読んでいた。大新旅館は〈近世期に紀州移民の子孫が荒野村の利根川河畔(現在は銚子市中央町)に創業し、現在まで存在する銚子の老舗旅館であり、銚子における紀州移民の展開を跡づける上で、格好の事例といえる〉として、旅館の利用客も細かく調査されている。中に、国文学者で『大日本国語辞典』を編纂した松井簡治(1863-1945)も登場する。簡治は銚子の銚港神社の神官だった宮内家に生まれ、高崎藩の銚子陣屋に勤める松井家の養子になっていた。〈松井簡治もまた、友人や知人を大新旅館へ招き、宴会を催した思い出を手記に残している。松井簡治の父である宮内嘉確は、前出の宮内嘉長の養子で、赤松宗旦とも親交が深く、高崎藩士の子弟らが通う私塾を開いていた人物である。松井簡治が大新旅館に招いた人物とは、上田萬年・和田英松・芳賀矢一であり、いずれも著名な国語学者である〉。

宴会、そして上田、和田、芳賀の名前が出てきてしまってはこの話に触れなわけにはいかない。山口謠司さんの『日本語を作った男 上田万年とその時代』(2016 集英社インターナショナル)に、明治33年6月、箱根塔ノ沢の環翠楼で開かれた芳賀矢一のドイツ留学送別会のことが出てくる。簡治は矢一と同い年、上田万年よりは少し上だが上田の教え子という立場で、この会の幹事は簡治が務めている。簡治はのちに「故上田萬年博士に関する思出のことども」(「国語と国文学」第14巻第12号)でこの送別会にも触れ、芳賀がこのとき詠んだ漢詩も記した。訳も含めて『日本語を作った男』から引用してみる。

 塔沢名山麓
 無名萃群賢
 盛宴亘二日
 会費醵五円
 (中略)
 笑罵徹夜半
 喧嗷不能眠
 (中略)
 高津骨稜々
 上田腹便々
 (中略)
 簡治即幹事
 助之有和田

(訳)
塔ノ沢、箱根の名山の麓/無名の自分のために、先生方が集まって下さった/盛大な宴会が二日に及ぶ/会費はひとり五円//笑いと罵倒が夜中まで続き/うるさくて眠れない//高津鍬三郎は痩せて骨がゴツゴツ/上田万年は、腹がパンパンに腫れている//松井簡治は、すなわち幹事/これを助けるのが和田英松

簡治は明治25年には学習院の教授になっており、そのころには文献によった辞書作りを思い立っていたそうだ。古書店の浅倉屋から大量に資料となる本を購入すると、本業にさしさわりがないように午前3時から8時までを索引作りにあてていた。『大日本国語辞典』の刊行が決まってからは1日33語と決めて執筆(年に65日は休むとして算出)、それをひとりで20年間続け、合計およそ20万余語をもって『大日本国語辞典』を完成(大正4~8年 冨山房刊)させたという。ごく単純に映画『博士と狂人』(2018)で見た限りの『OED オックスフォード英語大辞典』の誕生と比べても、印象にすぎないけれどもとにかくひとりでこなしたというのはあまりに異様で偉業だ。そして『大日本国語辞典』は簡治亡きあと息子の驥と孫の栄一が資料を引き継ぎ、版元を変えて多くの人が編纂に加わった『日本国語大辞典』へとつながる。

辞典映画でもう1つ『マルモイ ことばあつめ』(2019)を改めて見て、簡治がひとりで辞書編纂に集中することを可能にした時代背景みたいなものも思った。この映画は日本統治下の韓国で中断させられた韓国語辞典作りを描いているが、前半で方言の収集に難儀しているのを知った主人公がムショ仲間の地方出身を集め、”七人の侍”よろしく14人が通りの向こうからずんずん現れるシーンがある。「コチュジャンをなんと言う?」など問われそれぞれが自分の体にしみついた言葉で当たり前に答えると、互いに微妙に違うのが怪訝でもありおかしくもあり誇らしくもあり、部屋は熱気を帯びていく。先生たちはそのかたわらで、微妙すぎる発音の違いを神妙に聞き分けて文字にしている。試しに私も映画を見ながら書き起こしてみたんです。コッチジャン、カンツゥダ、コチョダン、コーチャン、テンチジャン、コイジャン、コッチジャアン、エンガイジャン、コッチダン、コッチダン……0.6倍速で3度聞いてこの程度――。映画では、やがて差し入れのホットクが届いて歓声が上がった。このとき思わず「ありがとうございまーす」と声が出た青年がいた。京城の映画館で働く青年だった。

『アフリカ』を続けて(56)

下窪俊哉

 さて今月は何を書こう、と考えて、すぐには思いつかなかったので、アフリカキカクのウェブサイトにある年譜を眺めてみた。

『アフリカ』を始めた3年後の2009年に、「年末、編集人が会社勤めを諦め、無期限の失業者/自由人となる。」とある。その間がたったの3年であることに、現在の私は驚く。今とは時間の流れるスピードが違う。当時、私には27歳から30歳にかけての時期だった。

 その頃、私は本や雑誌をつくるのが苦痛になっていて、怖くもあり、『アフリカ』をつくるのはそんな自分のリハビリになったということは以前にも書いた。
 当時、会社員としても雑多な文章を書いたり本や冊子をつくっていたのだが、あまり乗り気のしない仕事が多かったので、自分の中でバランスをとろうとした部分もあったかもしれない。『アフリカ』を始めた直後に再就職した会社では割と上手くやっていたようだが(乗り気のする仕事もたくさんあった)、会社そのものが傾いてしまい、最後に再就職した会社では入社初日の朝礼で経営者が話すのを聞いて「あ、ここはダメだ」と思った。そんな自分の直感は間違っていなかったのだろう。お客さんからも「あなたのような人がいる会社じゃないよ」と言われるし、散々だった。とはいえ、せっかく入ったのにすぐ辞めたくはない。嫌々ながら仕事をしていたら何ヶ月もしてから突然、幼い頃から続いてきた吃音が主張し始めて、やがて思うようには殆ど声が出せなくなってしまった。自分の気持ちを裏切って、無理な負担をかけるような働き方をした結果だと自分には思えた。
 そのように私は働くということに困難を抱えていたし、今でもそれを綺麗には払拭できていない。精神的な引きこもり状態から抜け出せたとは思えていない。

 風雷社中との出合いは2012年の晩夏、そんな自分を『アフリカ』とは別の意味で、救ってくれた。大きいのは経済面だが、それだけではなかった。私はそれまでの職業経験を活かさず、全然違う、例えばからだを動かす仕事がしたかった。障害者福祉には関心があったが、専門的に勉強したことはないし、資格もない。でも風雷社中は、そんな人にこそ入ってきてほしい、と謳って求人を出していた。必要な資格は、法人からお金がおりてとらせてもらえるという。そもそも私が最初に彼らを知ったのはSNSで、理事長の中村和利さんからフォローされたからだった。彼がどうして私のアカウントを見つけたのかは不明だ。流れてきた求人を見たら、知的障害のある人たちの外出を支援する仕事とのことだが、ラーメンを食べに行くのが好きな人がよいとかふざけたようなことが書いてあり、仕事というよりは遊びのようだ。でも、副業程度にはなるのかもしれないと思って連絡して、事業所へ遊びに(面接に)行ってみた。その際、「ひと月に幾ら稼ぎたいですか?」と言われて初めて、本当に仕事の面接なんだとわかった。それで、試しにやってみますか? ということになった。その時、自己紹介を兼ねて『アフリカ』を持参したのだが、仕事の面接で『アフリカ』を見せたのは初めてだったかもしれない(仕事ではないかもしれないと思って行ったからか)。話していたら、地域のミニコミにかかわりの深いらしい人が、たまたま入ってきて、紹介されたりもした。最初の頃、中村さんにはこんなことを言われた。「この仕事はまず、その人を生きて無事に帰すこと。最低限それが出来たらよし。怪我もなく帰れたらもっとよい」。そう言われて私は楽になったのだった。それまでは、何か立派な(?)成果物を上げなければならない仕事をすることが多かった。この仕事に、それはない。何事も生み出さなくてよくて、穏やかな時間を過ごせることが求められる。それが成果ということになるのだろう。そのことを私は、とても人間らしい、自然なことだと感じた。それに、生きよう、というか、死ぬまい、とすることにかんして私には情熱があった。「無期限の失業者/自由人」になった時点で、とにかく何がどうあれ生き延びることを目標としたからだ。知的障害のある人たちからは、安心できるということの重要さを教わった。きっと私自身もそれを欲していたからだろう。私はいちおう支援者ということになったが、「どちらが支援されているのかわからない」と話して、他の支援者たちから「なるほど!」と感心するような反応を得たりもした。

 外出支援の仕事を始めて1年数ヶ月たった頃、「「外出」という仕事」というエッセイのような小説のような短篇を書いた。書く前に、ある人に相談した。後に『からすのチーズ』という絵本をアフリカキカクから出すことになる、知的障害、自閉症の当事者であるしむらまさとさんのお母さんだった。背中を押してもらった。
「「外出」という仕事」は、まず『アフリカ』vol.22(2014年1月号)に載り、2020年に出した私の作品集『音を聴くひと』にも収録した。少し引用してみよう。

 町のなかは、なんと、危険に充ちていることだろう。
 風が吹く、というだけで、町は揺れる。ほんとうに揺れているように感じられる。彼は、その揺れる町を全身で受け止めているように見える。
 空を見上げる。ぼくは「支援者」なので、空ではなく彼を見ているが、ときおり、一緒になって見上げる。建物や線路の高架に切り取られた空のなかには、葉っぱのような鳥たちがたくさん舞っている。
 町はうるさい。あちらこちらから、人の声や音楽や、声とも音楽ともいえない不思議な喧騒が、とめどもなくわき出しているようだ。
 町は静かだ。彼といれば、あまりお喋りがない。静かな気持ちで、淡々と町を歩ける。危険と隣り合わせではあるけれど。
 というのも、彼から目を離すと、一瞬のうちに走り出し、車道へ飛び出して行くかもしれない。ふわっと線路のうえへ飛び降りてしまうかもしれない。という、いわば不信感のなかに「支援者」はいる。
 が、彼と共謀して、何か、悪戯をするような気持ちでもある。

「「外出」という仕事」を書いた頃は、息子が生まれる直前で、その仕事を続けたい気持ちはあったものの、いかんせん収入が少ないので、このへんで辞めざるを得ないだろうと思っていた。ところが、仕事は次から次へとあるのだし、辞めたらその分の収入が途絶えるので、なかなか辞めるタイミングがつかめなかった。気づいたらそのまま延々と続けてしまっていた。低空飛行でも、墜落するよりは遥かにマシ、と、まあそういうことだった。家族がひとり増えるのだから、絶対に墜落するわけにはゆかなかった。

 並行して、美術予備校で国語を教えながら、いろいろと話したり、文章を書いたりするワークショップをやっていた。それを、ある場所でふと「ことばのワークショップ」と名づけて話したところ、「それをうちでもやりませんか?」と誘われた。書くこと、読むことはもちろん、話すことも苦手とするような若い人たちを相手にしたワークショップだった。私は自身が話すことを苦手としているし(「まさか!」と苦笑いする人もいるかもしれないが)、書くことも苦手で、本もスラスラとは読めない子供だったので、共鳴があるのだった。読めなくても書けなくても話せなくてもいい、「聴く」ことからやろう、と言って始めた。そのワークショップ自体は長続きしなかったのだが、自分には手応えがあって、その後に生きた。

 絵本『からすのチーズ』は、しむらまさとさんが絵画教室に通いながら、ある時にふと生まれてきたものだったらしい。彼の描いた鉛筆画を見せてもらった。それに、ワークショップノコノコを主宰している画家・荻野夕奈さんがパソコンで色をつけたものも、すでにあったような気がする。これを本にしたいのだが、としむらさんの母から相談された。イソップ童話で有名なからすときつねの話を元にしていることは明らかなのだが、何かちょっと、というか大きく違うのである。
 からすがチーズをくわえて飛んでくる。きつねは腹をすかしていて、チーズが食べたいと思いながら歩いている。そこに、からすのチーズが飛んでくるのである。木の枝にとまったからすは自ら「こんにちは」と言って口をあける。すると、チーズはきつね目がけて落ちてくる。落ちてきたら、きつねは当然、食べる。食べたかったのだからさ、美味しいに決まっている。両者ともニッコリである。というより、彼の描く動物たちは皆、ニッコリ以外ないのだ。からすはその後、「いいきぶん」で飛んでいくのである。読ませてもらって、これには敵わない、と思った。
 それを本にするノウハウは、アフリカキカクには当然あるので、では、やってみましょうか、という話になった。2014年の秋から年末にかけてのことだった。

 その出版を記念したトークイベントを2015年3月に開催した。絵本の作者はいつも鼻唄をうたったり何かブツブツ言ったりはしているが、人前で何か話せと言われても難しい。では、何を、どう問いかければ、話が聞けるだろう。なぜ? 何が? どんなふうに? などという概念は彼には通用しないようだ。必要なのは問いかけと、返ってくることば(にならない何か)を受け取るための力である。そこでも「ことばのワークショップ」の試行錯誤が生きた。話せないはずの人と話をすることが、自分の仕事になったのである。

うたと家族と、るう(2)

植松眞人

  二・音の出ないピアノを弾いて

 優作と付き合うようになった頃、美代は二十七歳になっていた。優作たちと演奏するのは楽しかった。ピアノを習い始めたのは小学校の終わり頃だった。地元の小さなピアノ教室だった。一緒に習っていた子どもたちはほとんどが幼稚園から小学校の低学年だった。美代と同じくらいの歳の子もいたが、その子たちは何年も通っていて、かなり上手に弾けるようになっていた。小学校の終わり頃にピアノを始めるのは少し遅い感じだったのかもしれない。それでも、美代はピアノが好きだった。弾くたびに体が揺れて楽しかった。
 先生よりも巧くピアノが弾けるようになったのは十七歳の誕生日を過ぎてすぐだった。初見の譜面で、先生が見本を弾いてみせてくれた。先生が弾いた見本はテンポがほんの僅かにズレていた。そのことに先生は気付いていなかった。続いて美代が弾くと、先生は楽譜の通りにちゃんと弾くのよ、と言った。美代は楽譜通りなら、先生よりも私の弾き方だと思っていたので、そのことを先生に言った。
 そう言った途端に先生の目つきが変わった。小学校の終わりから五年以上教えてもらっていた先生のそんな顔を見たのは初めてだった。驚いて、黙っていると、先生が元の優しい顔になって、
「さあ、もう一度最初から弾いてみましょうね」
 と、最初の部分を弾いてみせてくれた。美代はそれに続いて弾き始め、わざと先生と同じテンポで弾き終えた。
「ほら、やればできるじゃない」
 先生はいつもよりも少し大きな声で美代を褒めてくれて、その日のレッスンは終わった。
 家に帰ると、父が珍しく家にいて、お帰り、と迎えてくれた。美代は普段あまり家にいない父がいたことに驚いたが、それが嬉しくて何か話しかけたくて、今日のピアノ教室のことを話した。
「先生がね、楽譜通りに弾けなかったの」
 美代がそう言うと、父は笑って聞いていた。
「それでね、私がそう言ったら、先生がちょっと怒ったの」
「怒ったって、どういうふうに」
「ううん、別に叱られたわけじゃないの。でも、なんかいつもと違う顔になって」
 その時、美代が予想したよりも父の顔は深刻になった。
「その教室は辞めた方がいいな」
 父は深刻な顔のままでそう言った。そして、すぐに優しい顔になった。
「いいね、辞めるんだよ」
「だけど、私はピアノの先生好きだよ」
 父は返事をしてくれなかった。その日から美代は自分のピアノの音があまりよく聞こえなくなった。楽譜通りに指を動かしているので、ちゃんと音は鳴っている。誰の前でどんな曲を弾いてもちゃんと褒めてくれるし拍手もしてもらえる。でも、自分にはいつも通りの曲をいつも通りに弾いてるだけにしか思えなかった。
 幼稚園の頃に母に教えてもらってピアノを弾いていた時のように、ピアノを弾き終わった後にも音楽が体中から溢れているような感覚になることはもう二度となかった。美代の弾くピアノの音は美代にだけ響かなくなってしまった。ピアノ教室を辞めてからも、学校の音楽の時間に先生から指名されてピアノを弾いたり、学園祭でも合唱の伴奏をしたりした。演奏の後は、他の学校の先生からも褒められた。その中に音大出身の先生がいて、音楽大学に進みなさいと言ってくれた。指導してくれる教室を教えてもらうと、父親は入学に手続きを進めて費用を前払いしてくれた。
 美代は真面目に教室に通い、真っ直ぐなレールに乗ったように国立の音大に進んだ。そこでもピアノを専攻したが、すべての授業で美代は優秀な成績を収めた。それはまるで、最初から評価の定まっている有名な絵画があって、それがどのように描かれたのかをAIが分析して最初の一筆から再現しているかのようなサプライズのないつまらない学校生活だった。
 美代は首席で卒業して、乞われるままに学校で教え、プロのサポートミュージシャンとして仕事をした。自分のことをピアノを弾くマシンのように感じる時もあり、そんな時にはピアノから流れてくる音がただのささくれの塊のようになり、ちゃんと聞こえないだけではなく、身体や精神にダメージを与えているように感じられた。実際にある時期にはピアノを弾くだけで本当に肌が荒れたり、ニキビができたりしたこともあった。それでも、幼稚園の頃に母と弾いたピアノの音に身体が突き動かされるような楽しさがまだ美代のすべての細胞の中に少しずつ残っていて、それが自然と美代の指を動かし、ピアノを弾かせているような気がしていた。
 優作のバンドのサポートを頼まれたのは、音大を卒業して三年が過ぎた頃だった。同じ音大出身者が集まるオーケストラに所属して演奏したり、町の音楽教室で教えたり、スタジオミュージシャンとしてアルバイトをしていたが、自分自身の音楽をやりたいとか、何かを表現したいという気持ちはなかった。
 優作は高校時代からスリーピースバンドを組んでいて、ライブのたびに誰かにキーボードを頼んでいた。いつもサポートしているミュージシャンとたまたま仕事をしたことがあった縁で、美代が紹介されたらしい。まるで面識のない優作からいきなり携帯電話が鳴った。知らない番号だったのでいつもなら出ないのだが、なんとなく出てしまい、「高橋と申しますが」という緊張した声を聞いてしまったのだ。その声は、ミュージシャンの声というよりもなんだか寂しがりの猫のようで、内容もよく分からないまま優作のバンドのライブにキーボードで参加することになった。
 美代は指定されたライブハウスに約束よりも一時間近く前に到着した。池袋の駅から大きなビルを縫うように十五分ほど歩いたところにあるライブハウスは三階建てのビルの地下にあった。一階は受付を兼ねたバーがあり、二階は出演者の控室、三階はオーナーが住んでいた。
 分厚い鉄の扉には貼り紙がしてあり、消防法の関係でビル内は禁煙であることが書いてある。ふと、扉の脇を見ると、そこにはスタンド式の灰皿があり、その灰皿のそばにも貼り紙があった。外での喫煙はOKだが、近隣からのクレームが多いので、この灰皿を持って裏通りの公園の脇に移動して喫煙するようにとマジックで書いてあった。そして、その横に細いけれど赤字で、公園で子どもが遊んでいたら、煙草を我慢して帰ってくるように、とあった。
 貼り紙を見た美代は、これを書いたライブハウスのオーナーに早く会ってみたいという気持ちになって扉を開ける。入ってすぐのところにレジがあり、ライブのチケットもここで売っているようだ。その背後の壁にはこのライブハウスで演奏したバンドのチケットが貼られていて美代は、その数の多さに見入っていた。
 バーの奥から呼ぶ声がして、顔を向けると意外に若い男が出てきて、美代さんですかと聞き、美代がそうだと告げると、深々と頭を下げた。
 そのまま地下の会場に案内されることになった。
「お客さんにはバーの奥の階段から降りてもらうんだけど、外にスタッフ用に別の階段がありますから」
 オーナーはそう言うと、美代をバーの外に案内した。かすかにドラムが響き、人の歓声が聞こえてくる。三階建てのビルの裏手のドアを開けると、ドラムと歓声はさらに大きく美代を包んだ。鉄製の階段を一段ずつ降りると、遮音のための分厚い扉があり、オーナーが小さく「せーの」と声を出しながら扉を引く。こもった音で鳴り響いていたドラムがはっきりとした音になり、歓声に消されていたギターとボーカルが美代に届いた。十代の終わりから二十代初めのように見える若い女の子のバンドだった。ジャミジャミした音楽だなと美代は思った。楽しそうだけれど苦手な音楽だった。キャパの半分ほど入った客は二十人くらいだろうか。ほとんどがバンドのメンバーと同い年くらいの女の子たちだった。みんながタテノリで中には少しトランス状態に入り込んでいる子もいた。ステージの上には四人のメンバーが演奏しているのだが、ステージのすぐ脇で関係者らしき女の子が、曲に合わせ手を叩きながら演奏を見ている。マネージャー的な役割の子なのか、なにかの都合で演奏に参加していないメンバーの一人なのか。そして、美代はその女の子の隣で床に座り込んでギターを弾いている男を見つけた。最初はステージの女の子がエアギターで、この男が影武者的にギターを弾いているのかと思い驚いたのだが、じっと見ているとステージで演奏されている曲と、男がステージの脇で演奏している曲とは関係がない。
 この男はいったい何をしているのだろうと思ったころに、ガールズバンドの演奏が終わり、拍手とともにステージが終わった。観客たちは階段を上がって一回のバーへ移動し、出演者はさきほど美代が案内された外へと直接通じる階段で外に出た。そのまま二階の控室に移動するのだろう。
 出演者も観客も出て行ったあと、ギターの男がまだステージ脇の床に座り込んでギターを弾いているのが見えた。その時初めて、この男がただ自分のギターの練習をしているのだということがわかった。美代は、しばらくその男を見ていた。
 ひとしきりアンプにもつながず練習を続けていた男は、美代に気付いて話しかけてきた。
「美代さんですか?」
 そうですと答えると、男は嬉しそうに笑った。
「一緒にやらせてもらう優作です」
 そういって、深々と頭を下げると、優作ははにかんでまたギターをいじり始めた。
「どうして」
 美代が話しかける。
「え?」
「どうして、他のバンドが演奏している隣で練習を」
 美代が聞こうとすると、優作は嬉しそうに笑う。
「ねえ。おかしいよね。だけど、移動するのも邪魔くさいし、どうせ、あと二曲くらいで終わるだろうと思ったから。それにほら、あいつらPA回しすぎてるから、こっちがちょっとくらい演奏しようが歌おうが聞こえないし」
 そういうと、優作はさもおかしそうに笑って、いたずらっ子のように美代を見上げた。
 オーナーが他のメンバーと一緒にスタジオに入ってきた。優作は立ち上がると、オーナーに会釈する。
「優作、お前また勝手に他のバンドの横で練習してたろ。怒ってたぞ、リンダちゃん」
「リンダって。あいつ、セツコっていうんですよ」
「ここで本名バラすの禁止だって言っただろ」
 そう言いながらオーナーも笑っている。
 そのまま美代はメンバーたちに紹介され、優作のバンドのリハーサルが始まった。バンドにはちゃんとしたスコアがなかったので、美代は通しの演奏を一度やってもらってからキーボードで参加した。一回聞けばバッキングからアドリブまで、何を演奏すればいいのか美代にはわかった。わかったと言うよりも、頭の中の五線譜に音符がコピーされて、DTMのようにいくらでも演奏として再現できた。練習を重ねてブラッシュアップしていくのも、エモーションではなく頭の中の五線譜に、ただ記号を加えていくだけの作業だった。そして、今日も美代は自分の演奏がはっきりと耳に届かないままリハを重ねていた。
 優作はリハーサルからギターの弦を切っていた。そんな激しいカッティングでもないのに、なぜあんなに弦が切れてしまうのか、美代には分からなかったが、それでも、優作のカッティングは美代に響いた。キーボードを楽譜通りに弾き、数パターンのアドリブをうまく組み合わせてこなしていた美代の演奏を優作のギターが切り裂いてくる。その感覚が美代を緊張させた。実際に演奏中に優作のギターに集中してしまうと、ミスをしてしまうこともあった。
 いままで周囲がどんなに情感たっぷりに演奏しても、またはとんでもなく下手くそだったとしても、それに引っ張られることなんて美代には一度もなかった。それなのに、優作のカッティングにだけ美代は引きずられた。
「ねえ、どうして弦が切れるの?」
 本番のステージが始まる少し前に、美代は優作に聞いた。聞かれた優作はしばらく考え込んでいたのだが、自分でも答えがわからないという表情になった。
「だけど、弦が切れるくらいじゃないとダメなんだ」
 優作はそう言って、ギターの弦に触れた。
「だからといって、弦を切ろうと思っているわけじゃないんだ。僕はそんなにお金も持ってないから、ギターを弾く度に弦を買わなきゃいけないのは正直痛い。だけど、弦を切らないように演奏しようとすると、メンバーが腹を立てるくらいに僕の演奏はダメになるらしい』
「らしいって、どういうこと」
 今度は美代が優作にたずねてみる。
「自分では正直わからないんだ。弦を切らないようにと言っても、別にピックを当てる力をほんの少し抜いているだけなんだ。あとは、もしかしたら、ピックのあたる角度が悪いんじゃないかとピックを持つ角度をちょっとだけ変えたり。でも、それだけで、メンバーが怒るんだよ」
「じゃ、次の曲のリハで、一度弦を切らないように弾いてみてよ」
 美代が言うと、優作が笑った。
 優作が言ったとおりの結果になった。美代が聞いても驚くほどはっきりと優作の演奏は変わってしまった。わかりやすく言うと、魅力的ではなくなったのだ。でも、さらに驚いたのは演奏の仕方を変えたにも関わらず、やっぱり優作のギターの弦が切れてしまったということだった。いつもより時間はかかるのだが、やっぱり弦は切れた。
「やっぱり切れるのね」
「やっぱり切れるんだよ」
 二人は笑った。リハーサルが終わったあと、ベースの男は、二度とするんじゃねえぞ、と本気で怒った。

上空の林檎から林檎水がしたた、る

芦川和樹

箪笥が降る現象 落ちてくる
落ちてくる抽斗。小麦の箱に
小壜            → → →
小箱に、雲を
詰めています(いまやってます

どの喉にも雲のかよった痕跡があり

マーマレードとの約束はまだ生きている
とのこと、それは口約束だったけど

不死身であれば、こちらはへっちゃらで
裂けても。煮ても焼いても 凹んでも
平気さ さあ 戻る

光沢紙の放つ、これが
さいごの光だよお食べ
毛蟹を

豚汁を
マフラーを指に巻く(木洩れ日

そうやって、そのうちに鈍くなっちゃって
凝った。疑った、歯に挟まった わた
糸てきな

計画や、形状
内実
あらゆる如雨露に汲まれた水を
いま撒く てきな

芽をだして

歩道橋からうそを吐いて
見上げては降るものたちを串でつく
散らかさない、喉を貸さない
国旗などいくらでも燃やして
不幸にならない
雲をわたさない       → → →

しっぽの先が
レストランをつらぬく
屋根がくずれていて なにか見えるね
梯子を、盗まれた梯子をかけて
手が届く 壊れた部分は蛇口にしよ
ふやけてしまえ(爽やかな風 みどりのうつくしい泥濘、ぬかるみ。それからまどろみ ノートに沈む缶切りのうた、缶蹴りを 教わった

仙台ネイティブのつぶやき(113)田んぼでつながる

西大立目祥子

「鳴子の米プロジェクト」が20年を迎え、昨年12月、プロジェクトにかかわったり応援してきた関係者が鳴子に集ってお祝いをした。‥と書いても宮城から遠く離れ暮らす人にとっては何のことやらお分かりにならないと思う。当プロジェクトについては、「水牛」の95回目(2024年6月)に概要を紹介する文を書いたので、そちらをお読みいただきたいけれど、ひと言でいったら、米づくりを地域のみんなでゼロから考え直し、食べる人と手をつないで農地を維持していく活動、となるだろうか。

公民館のホールに、東京、仙台、山形、岩手、秋田、福岡など、全国からの参加者約80名が集まり、テーブルの上の地元の料理をいっしょに食べ飲み話すにぎやかな会となった。メインは地元の桶職人、金田さんがつくった杉の大桶に並べたゆきむすびのおむすび。梅干し海苔、鮭海苔、青菜刻み、麹なんばん、生姜混ぜ込み‥迷いながら一つを選びほおばっていると、あいさつが終わりステージの上で鬼首地区の御神楽が始まった。何度も見ている神楽なのに知らない演目も披露され、新しく加わったのか中学生らしき舞手もいる。豊作の祈願のたびに集落の人たちが集い楽しんできた御神楽だ。やがて神楽保存会の後藤さんの朗々とした歌が会場に響き渡った。なつかしい顔がそろい、何年ぶりかに会う人も多く、何だか同窓会みたい。でも学校の同窓会よりいいなぁ。地域も年齢もみんなばらばら。ただ、このプロジェクトに賛同して力になってくれた人たちだ。たしかに20年たって歳をとったのは間違いないんだけれども。でもまだ、誰が誰かはわかるからね。

ちょっと解説をしておくと、プロジェクトでは20年間、活動に参画する農家が「ゆきむすび」という一品種をつくり続け、この米を味わってもらい米づくりを考える場として「むすびや」というおむすび店も運営してきた。桶にぎっしりと詰め込まれたのは、このむすびやの人気メニュー。ゆきむすびはでんぷん成分が少ない低アミロース米で、もち米のような粘りがあり冷めてもおいしい。炊き立てよりむしろ冷めた方が、歯応えと米のコクが増すような気がする。「やっぱりおいしいよねぇ」といいながら、みんなでつぎつぎと手を伸ばす。大桶でふるまうと、きまって全種類食べたという人が現れる。それも大体は女性が。

もう何年も前から米はブランド化を図ることが重要とされ、自治体はこぞってブランド米の生産に力を入れてきた。いまもこのブランド化をめざす動きは変わっていない。令和の米騒動が起き米不足が起きたとたん価格のことばかりいわれるようになったけれど、数年前までは米は主食なのに消費者からはどこか嗜好品みたいに扱われ、一番うまいといわれるのは新潟の魚沼産コシヒカリとされてきた。ゆきむすびも鳴子のブランド米、と誤解されることがあるけれど、それは違う。行政の指導によって品種を地域が引き受けるのではなく、地域の農家と力になった役場職員が冷涼な気候に合う米を求め探し出した品種なのだ。

「鳴子の米プロジェクト」の舞台となったのは山深い地域で、雪は深く水は冷たく田んぼは小さい。お祝いの会のトークに登壇したプロジェクト理事長の上野健夫さんは「農家を継いだ昭和55年は大冷害。寒くてまったく米が実らず、火をつけて稲藁を燃やしたんです。俺の農家人生はどうなるんだろうかと思いました。鳴子の米は牛も食わねえ、といわれたこともあるし」と冷害に悩まされ続けた苦労とくやしさをにじませた。つくり手部会長の高橋宏幸さんは「とわだ、おいらせ、ふじみのり、あきたこまち‥青森や秋田の米をつくってもうまくいかないんだね」と栽培品種の変遷を話した。寒冷地の品種に期待と込めて育てても思うような収穫は得られなかった。その心配の尽きないう米づくりがゆきむすびによって劇的に変わったのだ。「うまいから食べてみろ、と誇りを持っていえるんです、いまは」と上野さん。この米が地域に力を与え米づくりをあきらめないという機運を生んだのだ。品種の大切を教えられるし、米こそ適種適所なのかもと思う。

5月の田植え交流会、9月の稲刈り交流会には、毎年30人くらいの人が集まり、泥だらけになったり藁まみれになったりしながら田んぼで農家といっしょに愉快な時間を過ごす。このプロジェクトを卒論にしたいと泊まり込みで手伝いながら記録をとり調査に入る学生も引きも切らずにやってきて、受け入れた学生はこれまで100名を超えている。お祝いの会には、そんな元学生くんたちもあちこちから駆けつけた。もうみんな40歳に近いのだが、地域づくりを考える研究者になったり、農水省のお役人になったり、秋田県大潟村で大規模な農家を継いだり、おむすびチェーンの幹部になったりと実に多彩。その誰もが「鳴子は帰りたくなる場所」と口にする。たぶん初めて出会った生産地であり、オープンに家も気持ちも開いてくれる人たちにもう一つの居場所を得た気持ちになったのかもしれない。地域のいい歳の大人たちが集まって本音をぶつけ、希望を絶やさず頑張る姿は、こちらが想像する以上に彼ら彼女らの中に大きなものを残しているみたいだ。いまもまた新たな学生がつぎつぎと現れていて、私まで声をかけられ、プロジェクトのスタート時のことをあれこれと質問された。

そんな姿を見ながら、ああ田んぼは学校だったんだと思う。そしてここに集う人たちはともにお米を食べ食と農でつながるコミュニティなんだ、とも。都会から山間の田んぼはひどく遠い。だからプロジェクトでは、田んぼと食卓を近づける問いかけをしてきた。

「1膳のごはんを炊くのに必要なお米は約60グラム。3食食べたら180グラム。ではそれを田んぼの稲の株にしたらいくつ?」
「答えは、1膳は4株、1日で12株です」
稲刈りでは12株の稲を刈り取らずに残してみんなで眺める。けっこう広い面積の田んぼがいるんだよ、と。

20周年を記念して、農文協が超特急で本をまとめてくれました。『つながるごはん』。私も文を寄せています。ぜひお手にとってご覧ください。

洗濯物

北村周一


トンビ高く
かぜに煽られ
天竜は
洗濯物よく
干せにけるかも




いわゆるBG論についての考察その【序】

以下は
日々携行しているミドリの測量野帳からの
移し書きであります。

**
雨がふっていることに
気づかなかった

~7:30(18.9℃)/メモ
せんたく物、妹、神社みたいな
玄関先、せんたく物、多い、 
長男、ステレオ、外に人、3人、
カメラ、写真撮られている、どなた?
(解読不明)・・・誰にことわって、 

外国の人?日本語?いとこ?
せんたくもの、片つけて、
いつもせんたく物がいっぱいで
もういちどききます、
マイク、録音、だれかにつながりましたか、
しつも んにこたえてください

BG 消化している、
BGを、ゆめにみている、
ゆめだと思ってみている、
データ を かなり激しく消化している
これみんなバック グラウンドだから
え?バックグラウンド?
ゆめだと
思ってみているけれど、
(そういえば天皇制は文化だと言っていたっけ)
歌人のOさん、   7:35@ 
          1/2(金)
BG、のぞいている
 ゆめの中に のぞかれてもいる、
しせんよせおり のぞきみんとて、
なにものか ひそみいるらし そのふきだまり
(最後の4行のみ赤ボールペン他はすべて青のFRIXION BALL0.5)

***
北西より
信長かぜは
吹き荒れて
センタクものみな
かたよりにけり

美濃方面あるいは若狭方面から吹いてくるのであろうか
強い風が北西から容赦なく襲ってくる
風速10メートルくらいのこともある
今冬も雨が少ない
乾燥甚だしい
こっちにもっと雨が降れば
雪国の雪はすこしは解消されるのであろうか

ベランダにきちんと並べた洗濯物は
ひと仕事終えたみたいで見るにたのしいのではあるが
ときに几帳面さが徒になることもあるらしい
****
まったくよ
噴飯モノだわ
垣根ごし
こえが聞こえる
物干し台は

取り敢えず選挙に行くことにしよう。

古屋日記 2026年1月

吉良幸子

1/1 月・元旦
起きたら年が明けておった。正月感が全くないままお昼過ぎにふらっと近くの八幡神社へ。ほしたら、おはやし保存会がいるわ、法被にひょっとこ姿のねぇちゃんが踊っとるわで紛れもなくお正月なところに辿り着いた。地元の神社いう感じ。初詣に行って良かった。
家に帰ってぜんざい食うて、明るいうちに銭湯へ行く。銭湯でしか会わんおばちゃんと裸でご挨拶。何とも滑稽や。
ちょうどお湯から上がって脱衣所のテレビに目をやると地震速報。番台のおばちゃんもきて、揺れてない?と聞きはるけど、みんな湯に浸かってたしわからんと言う。年明け早々えらいことになってしもた。

1/2 火
公子さんはソラちゃんの“真夜中 窓開けて攻撃”により、冷え切ってちょっと体調崩してはる。文字通りの寝正月。太呂さんと妃奈さんがお正月に作ったチャプチェや煮物を持ってきてくれた。
明日から近くの銭湯が三連休になるし今日も風呂へ。いつものおばちゃんたちとやっぱり今日も混んでるわね、あなたはいつも角で体洗うから隠れたってムダよ、なんて言われてたわいもない話をするのが楽しい。帰っておかあはんに年明け初めての電話をする。話している間に飛行機事故の速報がテレビで入ったと聞く。今年どないしたんやろか。

1/3 水
初夢は日暮里にある帝国湯の脱衣所におった。銭湯好きに磨きがかかってきたらしい。

1/4 木
時間の経つのはなんとはやい、今日はばあちゃんの一周忌やった。

1/5 金
出稼ぎの仕事始め。あっちゅう間に時間が過ぎ、仕事終わりに金春湯へ。43℃のお湯はどってことなく浸かれるようになった。お湯から上がって人生2回目のお釜ドライヤー。短髪やとやたらにあついし変なクセもついて気ぃ使う。ありがとうございました~と出て行こうとしたら、後ろ姿を見たお風呂屋のおばちゃんに、あっちょっとハネてる!と言われて笑いながら出た。帰りしな歩くとハネてるとこがぴょんぴょんするのを感じる。

1/6 土
雷門音助らくご会へ。会場が日暮里ということは帝国湯へ行ける口実がでけたということ。今日もきっかり48℃のお湯で、浸かるとビリビリする。あ~骨の髄まであったまる!とひとりで百面相しながら入る。何となしに壁タイルの鯉の絵へ目をやると、これは昨日行った銀座の金春湯と同じ鯉や!と発見して嬉しくなる。タイル絵の作家がおんなじで、風呂屋ができた時期も似てんのかなぁ。今日もぽかぽか、ええお湯でした。

1/10 水
太呂さん一家から新年のご挨拶のハガキがきた。小4のカイくんからのひとことは「人生一回、楽しく生きよう」。うちのおかあと言うてること一緒で笑う。

1/11 木
朝から隣町にある文具屋まで散歩してみる。途中で工事の交通整備のおっちゃんに、若いのに下駄珍しいですね!とむちゃくちゃええ笑顔で話しかけられた。こういうのは外に出な出くわさん会話でおもろい。うちから行くと必ず心臓破りの坂道を通らなあかんのやけど、下駄でぜぇぜぇ言いながら登ると、いかにも村から出てきたみたいで笑える。坂を登ると自分は一生住まんような豪邸が立ち並ぶ。古いおうちは感じええ。文具屋に着いたらお目当はなくて悔しい。帰りは公園も散策。まつぼっくりをひとつお土産にひろった。
夕方に一番のご贔屓、古今亭始さんから公子さんに電話が入った。真打昇進の名前が決まったらしい。おめでとう、ということで年明け一発目の割烹やまぐちへお祝いに行く。今日は大将ひとりで、お客さんもいつも端っこにいてはる常連のおじさんひとり。公子さん、2合目の八海山になると絵に描いた酔っ払いに変身して大将と常連さんに絡む絡む!いわと寄席の宣伝を散々かましてチラシを置かせてもらうことになった。タダでは絡まん、さすがや。家へ無事帰ってソラちゃんにも絡む。そん時のソラちゃんはすんごい冷たい目ぇしてておもろい。

1/14 日
今日は今年最初のいわと寄席の日。演目全部が講談で、神田紅純さんと神田松麻呂さんの会。俥読みは初めてやったけど面白かった。講談は長い話やと大体そのうちのひとつしか聴かれへんから、続けて違う演者でというのは嬉しい。
今回は公子さんち大集合で、娘のさくらさんと太呂さんち一家が来てくらはった。打ち上げはさくらさんと太呂さんと一緒に。さくらさんから烏口の使い方でアドバイスもらって悩んでたことも解決した。ええ日や!

1/19 金
チンドンもやってる浪曲師・小そめさんのつぶやきをたまたま見て、滑り込みで『羽織の大将』を観にいった。笑って泣けるとはこういう映画を言うんやろうなぁ、前半は声出して笑って、最後は涙が流れっぱなしやった。フランキーが落語家やるなんてそもそも最高な映画なんやけど。やっぱし行ってよかった。

1/20 土
ギタリストの前原さんの夢をみた。出稼ぎ先に毎月演奏しにきてた筋金入りの酒飲みで、とうとう酒の飲み過ぎで去年亡くなってしまった。ちょっとしか話したことなかったけど、笑うと優しい、大好きな演奏家。夢の中でもいつものように黙々とギターを弾いてはった。

1/24 水
久しぶりの整骨院。タイミングよく院長にやってもらって相当スッキリした。今日は院長の若かりし頃の黒歴史を永遠と聞けておもろかった。

1/25 木
今日は休みらしい休み。まず昼過ぎから展示をふたつ。大原大次郎さんの文字の展示には刺激を受けた。こんな筆記具で描いてんねんやとかそんなんばっかし見て、すぐ文具屋に行って筆記具を買った。そしておじいちゃん先生として有名な柴崎春道さんの展示にもお邪魔しに行った。動画で描く過程を見ていた絵を間近に見れて嬉しい。スタッフのにいちゃんが気を利かせてくれて、まさかのツーショットを撮った。そしたら柴崎先生、私の携帯の裏に入れてた若い片岡千恵蔵の写真に釘付けで笑った。こんなとこで片岡千恵蔵好きなんです!と叫ぶとは。
そして夜は落語会。江戸も上方も聴けて嬉しい会やった。演目は同じでも言葉が違うとこないに印象変わるんか、と感じる会で、やっぱし上方出身やから関西弁でやる落語は言葉が柔らこうて好きやなぁと思うた。

1/26 金
朝から、正楽師匠亡くなったの!?という公子さんの声に耳を疑った。林家正楽師匠の突然すぎる訃報が信じられなくて、とにかく寂しくて悲しい。寄席に行けばいつものように出てきてくださる気がしてならない。亡くなるほんの数日前まで寄席に出てはったらしい…かっこよすぎるやないですか!Xのタイムラインはお茶目な師匠の写真とこれまでに切られた紙切り一色になった。それを見てまた胸が詰まる。あぁ、やっぱり寄席っちゅうのは行けるときに行っとかなあかんと痛感した。

1/29 月
丹さんが着物をリメイクしてモンペにしたものを誕生日プレゼントに持ってきてくれた。履いてないみたいに軽くて、しゃがんでもどっこも突っ張らんで、柄が粋!むっちゃ嬉しい、おおきに、センキュー!!

1/30 火
出稼ぎの帰りに携帯を見ると、公子さんからものすごいごきげんメッセージがきておる…こりゃ、酔うとるな、と思いながら帰ると、お布団に包まれた上機嫌の公子さんがむくっと起き上がって喋る喋る!仕事の話をしに行って、ええことがあったんやて!太呂さんにも、丹さんにも、落語家の始さんにも電話して、帰りに割烹やまぐちで落語会の話までしてきたよ~と高らかに話してはる。聞くと日本酒は2合、あちゃちゃ、2合目は公子さんをおしゃべりな酔っ払いにするんやし!今日の出来事を2周ぐらい話して、静かになったなと思ったらぐっすり眠っておった。忙しいこっちゃで!

水牛的読書日記 2026年1月

アサノタカオ

1月某日 新しい年に、最初に読む一冊をどれにしよう。吉増剛造さん『火の刺繍』(響文社)を机の上にどしんと置いた。1200ページを超える辞典のような本。今年は吉増さんの詩のことばとじっくり向き合う一年にしたい、ふとそう思ったのだ。

1月某日 『月刊ホン・サンス』Vol.3が届いた。月永理絵さんが編集長を務める、韓国の映画監督ホン・サンスをテーマにした冊子。「全編ピンボケ映画」と言われるホン・サンスの『水の中で』をイメージしながら、青春をテーマに4冊の本を紹介するコラムを寄稿した。

1月某日 年に一回、M大学の「マイノリティ文化論」という授業でゲストスピーカーを務めている。例年、在日コリアンの作家・李良枝の文学を取り上げてきたのだが、今年は深沢潮さんの『緑と赤』(小学館文庫)を紹介することにした。在日コリアンの大学生・知英、K-POPファンのその友人・梓、韓国人留学生・ジェンミンらが、日本と韓国のあいだで揺れ動きながら懸命に生きる姿を描いた青春小説だ。

昨年は『週刊新潮』のコラムが韓国にルーツを持つ深沢さんを名指しで差別する事件が起こり、授業ではこの問題についても解説した。しかしそれ以上に、深沢さんの文学の魅力をしっかり伝えることを心がけた。若い学生にとって、『緑と赤』の登場人物の多くが同世代であるという点が共感を誘うのだろうか。熱心なまなざしが、一斉に教壇の自分の方に向けられる。かれらの心に、深沢さんの文学は届くはずだ。

1月某日 深沢潮さん『わたしのアグアをさがして』(角川書店)を読む。スペインへの旅を通じてフラメンコの魂に出会い、生きることを取り戻す女性の物語。これもよい小説。

1月某日 東京の神保町EXPRESSIONで詩人の林浩平さんのレクチャー〈吉増剛造ルネサンス―未来の詩として吉増剛造を読む―〉に参加した。林さんの解説とともに、吉増剛造さんの詩を第一詩集から精読していく試み。吉増さんの父方のルーツ、和歌山の永穂村をめぐる興味深い話を聞いた。永穂は「なんご」と読むそうだ。会場で、林さんの評論『裸形の言ノ葉 吉増剛造を読む』(書肆山田)を入手。

1月某日 出版の仕事で大阪へ出張した折、本町から駒川へ移転したtoi booksを訪問。益田ミリさん『中年に飽きた夜は』刊行記念原画展を開催中で、夕方の本屋さんはたくさんのお客さんでにぎわっている。その様子をみて、うれしくなった。店主の磯上竜也さんに挨拶し、山元伸子さん『ある日 読書と断片』(ヒロイヨミ社)を購入した。

1月某日 三重・津のコミュニティハウスひびうたで、「ともにいるための作文講座」の最終回を開催。チン・ウニョン&キム・ギョンヒ『文学カウンセリング入門』(吉川凪訳、黒鳥社)の内容を少しアレンジしたライティング・ワークショップを行った。講座の後は、ひびうたでここ数年続けている読書会を振り返る集いを。この読書会では、山尾三省、真木悠介、宮内勝典、石牟礼道子、竹内敏晴の著作を読み継いできた。今春からは心機一転、世界のトラベルライティングをテーマに本を読んでいくつもりだ。メンバーの反応もなかなかよい。さて、まず何から読もうか。

1月某日 昨年ひびうたで行われた文章講座の『受講生作品集』を読む。エッセイ、ショートストーリー、詩、朗読劇。自分はショートストーリーの講座を担当したのだった。受講生の作品がこうしてかたちになってうれしい。

1月某日 西への旅から戻ると、吉田亮人さんと矢萩多聞さんによるすばらしい写真絵本シリーズ、『はたらく農家』『はたらく洋菓子店』(創元社)が届いていた。金珍娥さんと野間秀樹さんの『ユアと韓国語 入門』(くろしお出版)も。今年は韓国に行く予定があるから「勉強しなさい」ということだな、きっと。

アタック日記 2026年1月

渋谷慶一郎

2026.01.01 正月は何もやっていないので強制的に休むことになって、結果的に前の年の疲れが一気に出る。今年もそうだった。

2026.01.02 前日に引き続いて疲れでダラダラ。正月は1年で一番嫌いな時期だということを思い出す。

2026.01.03 今年最初のヨガ。朝から110分。ヨガはスタジオに行ってグループレッスンが良い。僕はパーソナルトレーナーと個室のレストランに興味がない。そして仕事始め。夜はパリの副島さんがお茶をしに来て、深夜まで喋って楽しかった。

2026.01.04 オフの日。夜、川越君とZOOMでアンドロイドマリアの関西弁学習についてミーティング。彼は大阪芸大の僕の研究室の学生だったのだが、今や仕事を発注できるまで成長しててえらい。

2026.01.05 朝ヨガ90分。ジバムクティは良い。去年、眼内レンズを入れる手術をして近視0.01に老眼も加わって何も見えないみたいな状態から裸眼で生活できるまでになったのだが、コンピュータくらいの中距離が見えにくくなってきたので眼科で相談。先生が三船敏郎みたいな二枚目だった。

2026.01.06 夕方J-WAVEで打ち合わせ。普段、あまりこの手の打ち合わせに行かないのだが年始のウォーミングアップという感じで参加。社会勉強になった。終了後、小川さんに連れられて三田のアダンで食事。ここ何か見覚えのある店名と雰囲気だなとか思ってたら、奥渋にあった頃に様々なデートで行ったことを帰り道に思い出す。

2026.01.07 朝ヨガ90分。午後、蔦屋のAnjinでクロエちゃんと打ち合わせ。Tedに出て欲しいとのこと。途中パリの友達夫婦に遭遇したり、ここはいつも誰かに会うから東京で一番密会にそぐわないカフェだろう。

2026.01.08 昼間は仕事をして夜は乃木坂でバッファローの牧さんと石上純也と打ち合わせ兼の会食。後に表参道に移動。終わってから石上と表参道の裏手にあるワインバーで飲みながら色々議論、検討してたら2時くらいになってしまった。ここ、夜遅くまでやってて広いから時々来るんだけど店の名前を覚えられない。

2026.01.09 朝ヨガ90分。バッファローのTVCMが公開された。非常に評判が良くて色々なところから連絡が来る。確かにこれは一線越えた良い仕上がり。

2026.01.10 午前11時くらいに有明ビックサイトに行って東京都が主催するWeb3関連的なイベントで音楽とAIについてのパネルディスカッション。ジブラさん、m-flowタク君などなぜかヒップホップ、クラブ寄りのメンツで浮いてないか問題はあったものの、いつものように好き放題話したらみんな喜んでいてよかった。司会のWatusiさんが「役所や音楽権利関係のAIと音楽についての書類がいつの話?という感じ」と言う発言を受けて「まずそういう書類を作る人間をAIに取り替えた方がいい」と言ったところで爆笑のうちに幕。終わって、すごくお腹が空いてたので恵比寿のこづちでトンカツ定食を食べてから青山の新しいPOLAへ。ここも銀座に続いて妹島さんとプロデュースしてて、今日は最終音響調整。音量のバランスに時間を使って耳が疲れた。終わってから表参道のリックオウエンスに寄ったらセールをしててスニーカーをゲット。その後、ガランスで石上純也とフェリエさんと森美の椿さんと新年会。12時半くらいまで食べたり飲んだりして女性陣が帰ってから店のオーナー星野さんの「もう少し飲みましょう!」の一声で僕と石上は店に戻りガランスチームと3時まで。帰りのタクシーで運転手に起こされて何とか帰宅。

2026.01.11 午前中からオアシスの倉庫でアンドロイド・マリアをスタッフと囲んで今週大阪でやる記者会見の準備。途中、石上が猫を連れて観に来る。今週会うのは3回目。マリアは関西弁もマスターしてて良い感じ。しかしこのアンドロイドオペラのチームは本当に良いチームになりつつあると思う。何でも10年かかるな、とか思ったりする。

2026.01.12 朝ヨガ90分。午後から新幹線で大阪へ。明日、5月にやるアンドロイドオペラ大阪公演の記者会見があって前乗りして準備やリハーサルなど。アンドロイド・マリアの関西弁は完璧に近い仕上がり。20時過ぎくらいまでかかって終了。スタッフのみんなを連れてイタリアンで食事。本当はお好み焼きとか食べたかったんだけど休日でどこも閉まっていた。メニューの組み立ては僕は異常に上手いので、みんなに任せたと言われて全部チョイスした。


2026.01.13 大阪公演の記者会見当日。たくさんの記者が来てる。海原はるか・かなた師匠とアンドロイドマリアの掛け合いが面白かった。個別の取材やテレビの収録も終えて新幹線で東京に戻って品川から古市君の誕生会へ。茂木健一郎さんや中森明夫さん、速水健朗君など久々に会う人たちも多数。セカオワのさおりちゃんに初めて会う。会も終わり石上たちと抜け出して六本木のアラマキで飲んでから帰宅。

2026.01.14 朝ヨガ90分。昼間、ビーツのパスタを作ったら血だらけのように赤いパスタが出来た。今日は制作したり休んだり。

2026.01.15 朝ヨガ90分。午後は病院で定期検診。スタジオに戻って制作少し。夜は芦田多恵さん、僕の陰陽師の先生、映像監督の武藤眞志さんと六本木で会食。先月、京都でした神秘体験の話で盛り上がる。伊勢海老と鮑が美味しかった。

2026.01.16 朝ヨガ90分。制作の日。

2026.01.17 今月からヒルサイドで不定期に始めることになったATAK Academyの第一回目。文化庁とやっている若手育成のプロジェクトの一環で、哲学、芸術、建築、科学などなどから専門家を招いて講義してもらうというもの。初回はメディア論の石田英敬さんに「アンドロイド・オペラのグラマトロジー」というテーマで講義をして頂いて後半は対談も。この講座、僕自身がかなり楽しめそうな予感。続きが楽しみだ。

2026.01.18 オフの日。ひさびさに母親の見舞いに行ったら服が変だと言われる。

2026.01.19 朝ヨガ90分。いつも思うのだが週の始めにヨガがあるのは非常に良い。1日空いただけで身体が硬くなるのがわかるくらいだから、ずっと運動してなかったら・・・と思うと寒気が。

2026.01.20 午後、ウクライナとZoomミーティング。2030年にアンドロイドオペラをウクライナのリヴィウのオペラハウス、オーケストラでやりたいという連絡をもらったのが半年くらい前。ついに対面で話した。リヴィウのオペラハウスは今でも普通にワグナーのオペラとか上演してるらしく凄い。アンドロイドマリアはウクライナの血が半分入ってるし、これは絶対に実現させたいと誓い合う。

2026.01.21 朝ヨガ90分。午後、渋谷のイメージフォーラムでゴダールの新ドイツ零年を30年以上ぶりに映画館で観る。60分に凝縮された後期ゴダールの最大の傑作だと思う。あと4:3の画角のスクリーンはグールドの初期のようにモノラル録音された音楽を聴くのと似てる把握しやすさがある。夜は鮨よしいへ。

2026.01.22 午前は銀行とミーティング、午後は弁護士とミーティングという大人っぽい日。夜は建築家のアレックスと代々木上原でご飯。初めて行く青いドアの店だったんだけどクソ不味かった。男だけでやってるナチュールワインの店って大概イマイチ。なぜここが満員なのかわからないまま解散。話はいつもながら色々情報交換出来て楽しかった。

2026.01.23 午後、嶋浩一郎さんと9年続いている「ラジオ第二外国語 すぐに役には立たない知識」の収録。スヌーピーの作者について。その後、新しく出来た石上純也事務所に初めて行って打ち合わせ。森の中の空白のようなすごい場所だった。夜はNYから来た人がオーガナイズした会食で六本木へ。久々に細井美裕ちゃんと会う。その後、僕のアパートに泊まっているフランチェスコ・トリスターノと再会。自分の家に友人を訪ねるのって変な感じだ。ラーメンの話で盛り上がって恵比寿の人類みな麺類を教えてあげる。

2026.01.24 朝ヨガ90分。2日空いたから身体が硬くなっているのがわかる。朝日新聞にインタビューが載ったら色々な連絡が来た。

2026.01.25 今度はNHKで音楽をやった「臨界世界」というドキュメンタリーが放送されたら、また色んな連絡が来た。この番組を作った木村ディレクターは凄いと思う。誇張ナシに命懸けでロシアに占領されたウクライナに単身で取材に行き、誰も知らない現実をまとめている。こういう現実を目の当たりにするとXで文化人やタレントが政治をピーピー語っているのがおもちゃに見える。

2026.01.26 朝ヨガ90分。午後、照明の上田剛と5月の大阪公演の照明のミーティングを3時間。その後、南麻布の美巡俅で鍼。友達に紹介されて初めて行ったけど素晴らしく良かった。1年くらい左肩から腕に結構深刻な痛みがあって、何やっても効かなかったんだけど、ここで2時間くらい施術されたらかなり良くなった。明明後日のパリ出発の日にも予約を取った。

2026.01.27 18年前のこの日、ベルリンでATAK Nightというイベントをやって刀根康尚さん、Pan Sonic、evalaというメンツで演奏して1000人以上お客さんが来た。その日、ベルリン在住のTakeshi Furuyaさんという映像作家が収録をしてくれていて、ライブの映像は編集されてYoutubeに上がっている。で、去年刀根さんが亡くなった時にFuruyaさんから映像が送られてきて、そこにはあの日のリハーサルや準備を中心とした刀根さんと僕たちの映像が恐ろしい静けさで収まっていた。この映像を早く発表しなくちゃと思いつつ、タイミングを逃していたんだが、18年後の同じ日に発表出来て嬉しく思う。刀根さんは話す話題が哲学やアートにおけるメディア、コンセプトといったスーパーハイか下ネタのようなスーパーロウという本質的なノイジーさが共通するものを感じていて、尊敬しつつも身近に感じられる人だった。亡くなった日が僕の誕生日だったことも驚いたけど、不思議な繋がりを形に残せて嬉しい。

2026.01.28 夕方、Blocで髪をカット。その後、ドミューンで池上高志さん、宇川直宏さんとAI中原昌也プロジェクトについて2時間話す。AIの前で人間が出来ることはAIだけでは作れないコンセプトをつくることだろうし、それをみんな探してるのだろうと思う。終わってから渋谷のステーキ英二で池上さんと食事。渋谷のグルメスポットは英二、喜楽、ムルギーがある百軒店と鳥竹、うな鐡がある井の頭線改札界隈と渋谷出身の私が断言しよう。奥渋と松濤も良いけどね。

2026.01.29 パリへ出発の日。驚異的なことに一切の荷造りをしていないまま午後、再び鍼へ。大幅に延長してもらって腕や肩の痛みがかなり良くなった。帰国したら通うことを約束してスタジオに戻って悠治さんと電話。次のコンサートについて。その後、やっと荷造りを開始したのが16時。20時過ぎにスタジオを出て羽田へ。22:50から14時間の空の旅。

2026.01.30 パリに到着。機内で前にパリで買ったオーガニックの睡眠薬を飲んだせいで9時間寝たから元気。思ったより全然寒くない、というか東京の方が寒いんじゃ。タクシーで早朝6時のパリのアパートに到着。9時のスーパー開店を待って買い出しに。今回はなんと4ヶ月ぶり、というか日本に連続で4ヶ月もいたのは久々だった。

2026.01.31 時差ボケで早く寝て起きたのでシャーロットたちが作ってる映像のための音楽のアレンジ作業。完成させてメールで送信。パリは東京に比べると自分のスペースを持てるというか時間の流れも隔絶された感じがあるから、こういう細かい作業が捗る。午後、街に出て買い物してたら田根剛さんに遭遇して立ち話1時間くらい。再会を約束して帰宅。豚肉のクスクスという禁忌のような夕食を自炊して食べる。

しもた屋之噺(289)

杉山洋一

自分は相当忘れっぽいのだと思うのです。書いておかなければ全て忘れてしまう。さもなければ、忘れたいから書いていると言えるかもしれません。作曲も日記も、自分にとっては似通ったものではあります。

1月某日 ミラノ自宅
元旦早々、奇妙な出来事があった。書き込んだ名前の文字には目印に色を付けていくのだが、昨日ファイルを開くと、赤く反転させたはずの名前が黒インクになっている。気になって確認すると、確かに長い名前の最後の数文字が欠けていたことがわかって書き直す。数字と付き合っていると、しばしば不思議な現象に出会う。単なる偶然なのだろうが、時には考え込んでしまうこともある。

1月某日 ミラノ自宅
年始の挨拶の電話。「電話番号非通知」として表示されるからなのか、それとも海外からの電話は自動的に拒否されるのか、去年まで掛けられた相手も今年は通じない。米軍がベネズエラ・マドゥロ大統領と、妻、シリア・フローレスをカラカスで拘束、ニューヨークのブルックリン拘置所に収監。メローニ首相は米国が自国を保護するための正当な行動と認めたが、スターマー首相はマドゥーロにもトランプにもつかないと発表。ヨーロッパ各国で対応に温度差。コロンビアとブラジルがアメリカを批難するなか、アルゼンチンは拘束を肯定。

1月某日 ミラノ自宅
ひょんなことから曾祖父龜次郎さんは伊東の新井出身だと知る。新年だからと叔父の達也さんに電話したとき、そんな話になった。聞けば、父は子供の頃、伊東港から石畳とちょっとした山道を上って、新井の本家を訪ねたことがあるという。祖父が亡くなったころまでは、親戚付き合いが続いていたそうだ。事情は知らないが、湯河原に住んでいた祖父の定吉さんは、実家に帰ったきり一向に戻らない亀次郎さんを伊東まで迎えに行ったらしい。父曰く、龜次郎さんは優しかったが身体が弱く、背中に大きな瘤があって、父が子供のころ、よくさすっていたらしい。その昔は羽振りが良かったものの、龜次郎さんは与太だったから、お金を使い込んで大変だった、と祖母から聞いたこともある。子供の頃から「龜」の旧字体が、なんだかとても愉快で妙に親しみを覚えていたのは、曾祖父の印象が強いからか。

国連グテーレス総長はマドゥーロ拘束に関して否定的な発表。マドゥーロはニューヨークの裁判所で無実の申し立て。副大統領デルシー・ロドリゲスが大統領代行就任。「舌の根も乾かぬうち」、とは適当な表現でないかもしれないが、トランプ米大統領、グリーンランドを米国領にと発表。明らかに世界は変革の時代を迎え、従来とは全く違う型破りの規範が颯爽と躍り出てきた、とでも呼ぶしかないのか。国際秩序も勢力均衡も変わってしまった。

1月某日 ミラノ自宅
グリーンランド買収計画に抗議する声明には、他の欧州首脳と共にメローニ首相も署名。北大西洋条約機構の危機と新聞は書きたてている。
隣の部屋で息子が「白と黒で」を練習しているのを、何となしに聞きながら、「白と黒で」の2年前に作曲された「春の祭典」が大きく翳を落していることに、あらためておどろく。ストラヴィンスキーが音楽史に与えた影響を痛感。彼がいなければ、現代の音楽もきっとずいぶん違っていたにちがいない。マクロン大統領は「米国は同盟国から離れつつあり、新植民地主義と帝国主義へ向かっている」、トランプ大統領は、「国際法よりも自らの道徳的価値観が優先」、とそれぞれ発言。米軍によるナイジェリア再攻撃も示唆。EUは瓦解に向かっている気もする。ヴェネズエラに続き、イランで政府に抗議する暴動が激化しており、現在のところ70人死亡との報道。

べネズエラやイランのニュースをみていると、喜ぶ市民も憤る市民も映し出されていて、ちょうど、ベルリンの壁が崩れ、ソビエトが崩壊し、ユーゴ内戦のあとのバルカン半島の市民の姿を思い出す。何が正しいかなど、部外者には何もわからない。それぞれが正しいと信じることを声高に叫び、それぞれが間違っていると信じることを糾弾する。人工知能が我々の生活に浸透すればするほど、「正しさ」は均一化し、社会構造は分かりやすくなってゆくのかもしれない。人工知能が登場する前、コンピュータが我々の生活をよくも悪くも単純化してくれていたから、下地は既に出来上がっていたのだろう。

国が倒れるとき、国そのものが新しく入れ替わるわけではない。以前の均衡が揺らいで、コペルニクス的に常識が覆されるに過ぎない。憎しみは残り、或いは薄められていきながら、一人ひとりが現実を各々やり方で受容れて、執り成してゆくのみ。

1月某日 ミラノ自宅
朝、運河のほとりを歩くと、表面は氷が張っていてうつくしい。水鳥たちは、氷の上で佇む。母に電話すると、新年だからと父と二人で町田「流木」で鰻に舌鼓を打ったきたそうだ。「本当においしいから、あなたにもぜひ食べさせてあげたいわ」。

息子は、国立音楽院で、長年この音楽院で教鞭をとって、今は既に退官しているバルツァーニのショパン練習曲のワークショップに参加して25の4を弾いてきた。旋律はカンタービレにより豊かに歌うこと、左手はハンガリアン舞曲のように華やかで音楽的につくることで、音楽の線を太くしてもらったらしい。
イランでの抗議活動による死亡者は100人を超え、1000人以上負傷し、2600人以上が逮捕、とも報道されている。米軍はシリアへ報復攻撃、ミネアポリスでは移民税関捜査局ICEへの抗議行動が広がっている。
考えてみれば、世界は大国の覇権によって世界情勢が不安定化するだろうと、以前から盛んに云われてきたのだから、予想通りになったに過ぎない。しかしながらこんなにも早く、数年前まで信じていた常識が簡単に覆される心の準備ができていなかっただけだ。
そう考えてみれば、ウクライナ侵攻も起こるべくして起こったとも言える。以前から、既に国連が機能不全に陥っていたのは、世界が既に次のフェーズに明確に舵をきっていたからかもしれない。そうであれば、もうプーチン大統領やトランプ大統領がいなくなれば世界が安定するわけではないのだろうし、実は安定すら欲していないのかもしれない。アメリカ大統領を選んだのは、アメリカ国民なのだから、トランプ大統領が失脚したところで、彼のような存在を欲する国民が入れ替わるわけではない。
第二次世界大戦から80年、ベトナム戦争から50年も経って、血沸き肉躍るエキサイティングな日々を渇望するようになったのは、どうやらアメリカ国民だけではないようだ。

1月某日 ミラノ自宅
「 64 Leçons d’harmonie offertes en hommage à Jean Gallonジャン・ギャロンに捧ぐ64の和声課題集」は、1919年から48年の間に高等音楽院の和声科賞をとったギャロンの弟子たちの和声課題集で、デュティーユ、デュルフレ、ピエール・サンカン、といった作曲家の他、ロベール・カサドシュ、アンリエット・ロジェ、ポール・トルトゥリエ、ガロワ=モンブランといった演奏家=作曲家の作品も収録されていて、中学の終わりだったか高校生のころだったか、三善先生からこれを読んで勉強しなさいと貸していただき、そのままになっているもの。第二課程の聴覚訓練の授業では、しばしばこれらの課題を学生と一緒に歌うのだが、昨日はここからメシアンのコラールを選んだところ、意外にも学生たちに大好評であった。歌う前にピアノで音を拾っていると、ジャズみたいで恰好良い!誰の曲ですか、と学生たちが寄ってきた。メシアンだよと言うと、ええ、メシアンってあの訳が分からない曲書く人でしょう?ガーシュインかと思っちゃいました、などと揃って歓声を上げた。メシアンのコラールが若い人にはジャズ風に聴こえるとは、未だかつて想像したこともなかった。ディティーユを歌ったときには、特にこれといった反応がなくてがっかりしたが、流石メシアンだと感心する。
興に乗じた学生らから、先生は普段何の音楽を聞くのですかと尋ねられ、言葉に窮する。「あまり音楽を聞くことはない、聞く時間もないしね」と答えると、その答えが不満だったらしく「学校に来る途中とか、何か聞いたりするでしょう」、「自転車だからねえ」、「ああそうか。危ないですものね。じゃあ昔はどんなものを聞いていたのですか」、「色々かな」、「たとえば先生の世代だと、ビートルズとかローリングストーンズとか?」。

水道契約の名義変更に必要な水道メーターの写真を撮るため、エルノに出かける。カドルナ駅で偶然ベッツァに会った。半年ぶりくらいに会うベッツァはコモの国立音楽院へ授業にでかけるところであった。
ナディアの病気については、彼も詳細は知らなかった。余りに気の毒だから、周りの誰も事情を尋ねることができないという。ただ、突然言葉で話せなくなって、身体が強張ってきた、ということだけ。

コモ湖に着くと、人影もまばらで寒々としている。観光シーズンを外して平日となるとバスもがらがらで、運転手にエルノに行くと伝えると、数人いた他の乗客も驚いていたのも無理はない。店は一軒もなくて、日々5本くらいしかバスは通らず、休日にはそのバスも運休する。住民は数えるばかりで、大方はミラノなどに住んでいるイタリア人の別荘らしいが、最近ではドイツ人やらデンマーク人やらイギリス人のような外国人が、眼下にコモ湖が見える何もない生活が気に入り、家を購入するらしい。そこに、いみじくも日本人がひとり、水道メーターの写真を撮るためにバスに乗っていたわけだ。エルノはバスの本来の路線から外れた場所にあるので、降りる乗客がいなければ、バスは通ることすらない。だから、エルノからバスに乗るためには、村へ登っていく道がバス路線とぶつかるところまで歩いていかなければならない。
家に着いて、鍵を開けて外壁に埋め込まれた電源盤を入れ、ブレーカーを上げて、凍結を防ぐため閉めてあった水道を開き、ガスと暖房をいれた。帰りはネッソまで持参した折り畳み自転車で坂道を下る。遠く下の方にひろがる湖面が美しく、山の合間の晴れ間が心地よい。雲とも霞ともつかない、不思議な光線。エルノでは1軒、外に洗濯物が干してあった以外、人の気配がなかった。
グリーンランドに欧州各国が派兵。物事が進む時は、こんなにもめまぐるしく変化するものかと、空恐ろしい心地がする。

1月某日 ミラノ自宅
無心になって楽譜を書いているとき、ふと、掛け替えのない何かを自分は消費しているだけではないか、と疑心暗鬼にかられる。

家人の口元にソースがついていたので、「口の周りがくわんくわんだ」と指摘すると、「くわんくわん」は何かといわれる。和尚のぼた餅を盗み喰いした小僧が、餡を仏像の口元につけて仏様に罪を着せた。怒った和尚が仏像を「喰ったのか」と棒で殴ると、金でできた仏像は「喰わん喰わん」と声を上げた。家人は生まれこそ松山だが、育ちは大阪で、料理の味付けなども関西風で、家で関西弁を話すことはないが、イントネーションは関西風である。何でも「くわんくわん」は関東の方言だそうだから、彼女が知らないのは当然であった。
「和尚と小僧」の小咄によれば、可哀想な仏様はこのあと鍋でくたくたに煮られて「くったくった」と声を上げるわけだが、「くわんくわん」も「くったくった」も日本語の擬声語、擬態語の表現力とセンスの良さに感嘆する。

日本語といえば、今日の日経メールニュースのタイトルが奮っていて、「トランプ2.0、ジャングルと化す世界秩序、屈服する弱者と増長する強国」。ダボスでのG7首脳会議は調整難航。加・カーニー首相は世界秩序の断絶について、「弱者の可能性は、誠実であることから始まる」とスピーチをした。
トランプ大統領は「The Board of Peace」平和評議会を各国に提案。ガザ復興を名目にした国連安保理の代替機関だそうだ。グリーンランドではアメリカに抗議するデモ。イランの抗議活動での死者は数千人にのぼる可能性との報道。イスラエルは、東エルサレムの国連パレスチナ難民救済事業機関UNRWA拠点を重機で破壊。

1933年2月24日、松岡洋右が国際連盟脱退して帰国したところ、国を挙げての喝采を浴びた。「連盟よさらば。遂に協力の万策尽きる。総会勧告書を採択、我が代表、堂々と退場す」。凱旋帰国の新聞記事が躍った。
国の命運を握り、方向性を決定づけるのは、一世紀前であれ現在であれ、つまるところ国民自身であった。言い換えれば、どのような切っ掛けで生まれたものにせよ、国民がつくりだしたうねりのエネルギーは、政治の力で簡単に鎮圧できるものではなく、巨大な慣性の力でかかっているから、簡単に方向も変えられない。イランもアメリカも、一体これからどこへ向かうのか。

1月某日 ミラノ自宅
指揮のレッスンの合間に、ピアノのグレディスが、今度、武満さんの「小さな空」をやるんだけど、英語訳はあるけれど、原語の歌詞を知りたいからちょっと教えて、と言われて、その場で簡単に訳す。

小さな空    武満徹
青空みたら
綿のような雲が
悲しみをのせて
飛んでいった

いたずらが過ぎて
叱られて泣いた
こどもの頃を憶いだした

夕空みたら
教会の窓の
ステンドグラスが
眞赫に燃えてた

夜空をみたら
小さな星が
涙のように
光っていた

Quando vedo il cielo azzurro,
le nuvole come cotone,
portando la tristezza,
sono volate via.

Quando facevo troppi capricci
mi rimproveravano, poi piangevo.
Così com’era, mi ricorda la mia infanzia.

Quando guardo il cielo del tramonto,
dalle finestre della chiesa
i vetri colorati
si sono incendiati, di rosso…

Quando guardo il cielo della sera,
le piccole stelle,
come lacrime,
brillavano.

できるだけ武満さんの言葉がそのまま伝わるように訳していったのだが、訳していてどうしても「ステンドグラス」に相当する伊語が浮かばないので、グレディスや他の学生たちに尋ねてみたところ、あれ、なんて云うんだっけ、Il rosoneは薔薇窓のことだからちょっと違うよね、と考え込んでいる。Il rosoneを仏語にすると、悠治さんのRosaceになる。

そこでグレディスがインターネットで検索したところ、伊語にle vetrate istoriateという正式名称があることがわかった。ただ誰もその言葉をついぞ聞いたことがないという。反対に、英語のStaind glassと言われれば、教会のあれ、と誰でもすぐにわかるというのである。どういう経緯かわからないが、面白いものである。じゃあどうしようか、と居合わせた一同で相談して、皆に一番しっくりくる「色ガラス i vetri colorati」と訳した。グレディスは両親がアルバニア1997年騒乱で焼け出されたアルバニア難民だと聞いていたので、このところアルバニアで続いている反政府デモ激化が気にかかっていたが、たずねるタイミングがなかった。

息子はフィエーゾレのルッケジーニのレッスンを受けにいき、23時50分ミラノ着の列車で戻ってきた。
毎日ニュースはアメリア大統領の動向について話している。ダボス会議でゼレンスキー大統領が、1年前からEUは何も変わっていないとEU批判。トランプ大統領の平和評議会にイタリアは不参加を表明。日本がどうするのか、まだ発表がない。今までの常識が明日の常識とは限らない。

超大型暴風雨「ハリー」によるシチリア島ニシェーミの4キロにもわたる大規模地滑りは、じりじりと進行を続けていて、今日も3階建ての住居が崖に崩落したそうだ。文字通り世紀末的な様相を呈している。死亡者がでなかったことが不幸中の幸いだが、ラクイラの地震を思い起こせば、今後復興にどれだけ時間がかかるのか、まるで想像もできない。3億5千万立方メートルもの土砂の流失は、1963年、1917人もの死亡者、1300人の行方不明者を出したバイオントダム災害を既に越えているとの報道もある。

1月某日 ミラノ自宅
夜半、仕事をしていると、キュン、キュンと小動物の鳴き声とも電子音とも見分けがつかない、初めて聞く不思議な音が聞こえた。気のせいかとも思ったが、たしかに3回繰り返したから錯覚ではない。リスではないし、鳥の仲間だったのだろうか。

ピネローロでルーポからバラード4番を教わって帰宅した息子が、早速隣の部屋で復習しはじめた。一体何をどう教わってきたのか知らないが、無為に凸凹していた部分はすべてなだらかに、流れるように弾けるようになっているし、冒頭から、音がずっと繊細でありながら雄弁にひびく。それでいて、感情で音楽を押す部分がほとんどないから、音はつねに澄んだままで、聴くものの心にすっと染入るようである。有能な教師の業にかかれば、たった一回のレッスンでこうもブラッシュアップができることに、ただ驚嘆と畏敬の念をおぼえる。

スペイン・サンチェス政権が、12月31日までに既に5カ月以上居住し、犯罪を犯していなければ1年の居住許可を与え今後の更新も許可される、大規模な不法滞在者合法化案を発表した。スペインの3パーセント近い経済成長率は欧州連合の平均の倍近くに達し、2016年から25年の間の労働人口は、イタリアがマイナス0.3%なのに対しスペインは9%以上増加している。スペインは中南米からの移民を広く受け容れていて、これらの経済状況を下支えしている。もちろん、モロッコ、アルジェリアや東欧などからの移民も多いが、スペイン語話者である中南米からの移民に対して、スペイン人は歴史的に特に寛容であった。
今回合法化される不法滞在者は、のべ50万人に達する可能性がある。イタリアを初めとする、EU各国が外国人を排斥する傾向にある中で、総人口の14%を外国人が占めるスペインは特異な経済政策をとり、低い出生率にも関わらず、結果として総人口も順調に増加を続けている。外国人流入に対し厳格な措置を講じた米国に替わり、スペインをめざす中南米の労働者も増えている。

このニュースはかなり衝撃的であった。伊語でsanatoria stranieriと呼ばれる、違法滞在者の合法化はイタリアでも行われていて、学生ビザを就労ビザに変更するため、警察署に何度となく通っていたころ、隣の窓口に長い列が続いていた。
学生ビザを就労ビザに変更するのは、殆ど不可能に近い試みだったし、何故取得できたのか未だに不思議なくらいだから、いっそ不法滞在者になって合法化手続きを申請した方が容易ではないかしら、と隣の列を恨めしく眺めたものだが、合法化できる人数は厳しく制限されていて、先着順で瞬時に一杯になる。そのためなのか、合法化手続きの列はいつも殺気立っていた。
外国人移住者として暮らして、見えてくる風景もある。妙なプライドとか選民意識など、否が応でもかなぐり捨て、ただ一人の人間として生きてこられたのは、自分にとってとてもよい経験であった。どこで生まれたかを相手の判断材料にするのではなく、どこに生まれようと人は人であって、そのなかには品行の善いのも、悪いのもいる。
ロシアによる攻撃で広く停電の続くウクライナが、厳しい寒波に苛まれている。トランプ大統領によれば、1週間の停戦にロシアが同意したとの報道。

1月某日 ミラノ自宅
学長からの一斉メールが届き、ミラノ県の布告に基づき、2月6日はミラノの外環道内側にある学校は全て閉鎖されるそうだ。東京でいえば、規模はミラノの方がずっと小さいが、山手線圏内の学校がすべて閉鎖される感じか。オンライン授業は変更なし。ついては補講などの準備を進めたし、と書かれている。ちなみに、その前日5日も鉄道のストライキが予定されていて、学校も休校。東京でオリンピックが開催された際、同じような措置が取られたのだろうか。オリンピックに合わせ、米移民税関捜査局ICEがミラノに入ることに反対するデモ開催。メローニ首相曰く「有事の際はアメリカに頼っておきながら、今回に限りICEを拒否すると、整合性がないでしょう」。

日々の暮らしに忙殺されているからか、イタリアのニュースでは、ニシェミの崩落の方がよほど大きく取り上げられているからか、オリンピック開催の実感は殆どない。イスラエル、停戦後最も激しいガザへのミサイル攻撃実施。La Reppublicaによれば、少なくとも子供を含む32人が死亡した。停戦合意後の死者は500人を超えた。ロシアからの一週間停戦実施は現在のところ確認されていない。

(1月31日 ミラノにて)

立山が見える窓(7)

福島亮

 古典には、なんともいえない旨味がある。噛めば噛むほど……と、そんな乾物みたいなものではなく、季節とともに思い出すそれ、たとえば蕪や甘茶の甘味に似ているような気がする。中学生や高校生の頃、古典文法の授業は好きではなかった。でも、どういうわけだろう、先日道を歩いていて、ふと、「なくなく首をぞかいてんげる」という『平家物語』のなかの「敦盛の最後」の一文の音を思い出した。確かこの一文を習ったのは中学生の頃だ。泣く泣く首を掻き切ってしまった、という戦時の陰惨な出来事ではあるけれども、その惨たらしさよりも、むしろ「かいてんげる」という音が昔も今も私には衝撃的で、どうしても、切り落とした首が「回転」してゆく様子を思い浮かべてしまう。いや、そもそもどうしてそんな音を思い出したのか。よくわからない。道路に降り積もった雪を見ながら、そんな陰惨なことを考えていたとも思えないのだけれども……。やってきてしまった音は仕方がない。せっかくやってきてくれたのだから、少しは付き合ってみようと思い、岩波文庫版の『平家物語』をめくり、また薩摩琵琶奏者の西原鶴真が演奏する「壇の浦」を繰り返し聴くことにした。

 そんなふうに向こうからやってきてしまう古典が時々ある。たとえばある朝ふと、『建礼門院右京大夫集』の一節を思い出し、その芯の強さになぜか胸が痛くなることがあるのだが、だからといってそれを熟読していたというわけではない。通りすがりのひとのその強い眼が、微かな縁だと思っていたのに、時々思い出され、忘れられないというのと、似ているような気がする。

 ただ、古典の旨みはそれだけでなく、本当に必要になった時に、こちらに言葉を与えてくれる旨みでもある。つまり、こちらから求めてゆく味わいだ。ああ、今日はちょっと美味しいものを食べよう、良いお茶を飲もう、丁寧に作られたお菓子を食べよう、という、そんな豊かな欲求であればまだいいのだけれども、本当に必要になった時というのはもう少し切羽詰まっていたり、精神的に疲れていることの方が多いだろう。じっさい、そんな気持ちで先日手に取ったのは、やはり岩波文庫に入っているマックス・ウェーバーの『職業としての学問』だった。大学1年の頃、大人数教室で受けた社会学の入門授業で「薄い本だから読め」と言われて読んだ時には、まったくその内容がわからなかったが、かろうじて大学から給与をもらって生活するようになってみると、そこで書かれていることの生々しさがよくわかる。自分の就職のことについて大学教員は話したがらないものだ、という指摘には心情的によくわかるところがあるし、学問を職業にしたいという若者に、「あんた——とは翻訳されていないけれども、ここは私の脳内で行われた自己流の再翻訳——、自分よりバカだと思っているやつらにどんどん抜かされることがあると思うけど、耐えられる?」と質問したというウェーバー先生が、そのすぐ後で、「プロだから大丈夫です、と答える若者が大半だけど、そういう人たちが精神的なショックを受けるのを俺は嫌というほど見てきた」と——これもやはり私の中の脳内変換なのだが——話してくれる様子は、なんだか信頼できる先輩教員に「あの、最近モヤモヤすることがあって……」と相談を持ちかけた時の対応とよく似ている。

 よく、「古典を読みなさい」と熱く語る読書案内が書店に並んでいるのを目にすることがあるけれども、読みなさい、なんて言われれば、やはり反発したくなるものだ。そもそも、『職業としての学問』が私の場合そうだったように、ある本が必要にならないと耳を傾けられないことだってずいぶんある。ただ、そういった読書案内の効用を私は否定しない。生きている人間ならば、後になってから「ああ、あのひとの話をもっときいておけばよかった」となるけれども、本はそうではないから、「こんなこと言っているひともいるよ」という案内ならば、後で思い出すためにどんどん案内してほしい。まあ、案内されるがままになる必要もないし、いくら読んでもまったく響かないものもあれば、ほんの少しすれ違っただけのものが、ある朝うっすらとした悲しみをもたらすこともあるのだから、「効用」といってもいつ効果が出るのかよくわからない「健康茶」程度のものだとは思うけれども。

チャボ、渋谷陽一に歌う

若松恵子

2025年の年の瀬に、チャボ(仲井戸麗市)が渋谷陽一を思って、彼のために歌うのを聴いた。7月に亡くなった渋谷陽一を追悼して、12月13日にNHKラジオの特別番組「今日は1日渋谷陽一三昧」が放送された。チャボは生放送にゲスト出演して渋谷陽一との思い出を語り、スタジオでギターを弾きながらひとりで歌った。映画「アラモ」のテーマ曲に使われていた「The Green Leaves of Summer」にチャボの日本語詞をつけたものだ。君と出会った日々、それは若葉の頃、そのひとつひとつに感謝をと歌い、そして、嫌いさ2025年夏、君を連れ去った夏と続く。気取った言葉ではなく、凝った表現でもなく、素直な心情が歌われている、その思いの深さに胸を打たれた。

渋谷陽一の印象を「生意気なヤツでした」とコメントしていたチンピラみたいな語り口も相変わらずかっこよかったのだけれど、スタジオで歌うのを聞いて、ミュージシャンとして渋谷陽一のためにできる最上の事は、やはり音楽を奏でることではないかと考えたチャボに凄いと思った。何人かのミュージシャンがゲスト出演していたけれど、歌っちゃうなんて自由に振舞った人は彼ひとりだった。

渋谷陽一が作ってきた年末の音楽フェス、カウントダウンジャパンに久しぶりに出演した12月31日のステージでもこの曲は演奏された。「知ってるバンドがひとつもない、キンクスはどうした、ストーンズはどうしたんだ」と笑いながらステージで話していたけれど、エレキ1本で歌う彼を初めて見て、心動かされる若い人たちがたくさんいたら良いなと思った。公式ホームページに出たライブレポートのそばに、関連記事として渋谷陽一のブログ「社長はつらいよ」のリンクが貼ってあった。2009年、忌野清志郎が亡くなった年に渋谷陽一がチャボについて書いた記事だ。ブログはいつかどこかに消え去ってしまうから、書き留めておきたいと思う。どの1行も削れない文章なので全文引用する。

チャボ、RCを歌う (渋谷陽一「社長はつらいよ」2009年10月12日)
清志郎が亡くなった後に起きた追悼センチメンタリズムの洪水、それに誰より戸惑ったのはチャボではないだろうか。できればそうしたものから距離を置きたかっただろう。
若い頃の彼ならそうしていたかもしれない。しかしチャボはそうしなかった。清志郎の「せめてチャボがそこに居てくれなくては俺は浮かばれないぜ」という声が聞こえたからだ。
そして、その声を引き受けなければならないという覚悟を持てるくらい大人になったのである。毎年恒例のAXのライブ。その年の動きを映し出す企画でやっているライブだ。
今年、チャボはそれをRCを歌うという企画にした。3時間半近いライブだったが、そこでチャボはRCを歌い清志郎の思い出を語った。その会場に居た人間は誰もが、とてもかけがえない時間が流れている事を感じていたはずだ。
今年、チャボはとても厳しい時間を過ごした。冗談じゃないよ、と思うことも多かったはずだ。でも、その時間はチャボを強くした。昨日のライブを観て、そう思った。こんな事を書くとチャボから、そんなもんじゃないんだ、と怒られそうだが、本当にそう思った。とても難しいライブだったはずだ。観ていてつらかったらどうしよう、とも思った。しかし全くそんな心配はいらなかった。素晴らしいライブだった。
今年、チャボはカウントダウンに参加してくれる。誘った時、断られるかと思ったけど引き受けてくれた。その時も何か覚悟のようなものを感じた。
イノセントな思いを持ったたくさんの参加者に彼のステージを体験してもらいたい。

ナイトセッションライブ

笠井瑞丈

2025年『ナイトセッションライブ』という企画を立て、隔月奇数月に私と数名のゲストダンサーを呼んで、第九全楽章を踊るというイベントを開催しました。以前『ナイトセッション』という企画をやったことはあるのですが、その時はゲストダンサーとデュオという形式でやりましたが、今回は私含め4名から6名の編成で6回、毎回違う指揮者の音源で行いました。当初は毎回違う作品を作って行おうと思ったのですが、まずは第一回目の一月を終えて、セッションハウススタッフと話し合った結果、全部の回を第九でやるのが面白いのではとなり、6回第九をやることに決定しました。私は今まで第九は何度か踊っているので、なんとなく私にとっては身近な曲ではありますが、ほとんどの人は第四楽章の歓喜の歌は知ってはいても、第一楽章、第二楽章、第三楽章はそんなに親しみがないのではと思います。そんな中基本即興ではありますが、音楽構成だけはかなり細かく私が作り、進行表を毎回出演者に渡し、数回のリハサールで本番に臨みましたので、共演者の皆んなには大変苦労をかけてしまったかと思います。同じ音楽でも指揮者が違えば聞こえてくる音も違うし、もちろんテンポも変わって来ます、そしてダンサーも変われば、毎回同じ音楽でも、違った景色がそこに現れてくる。そしてダンサーの出演依頼も毎回、自分の中でのテーマに沿ってお願いしました。構成に関しては、やはり最初にやった1月が一つの指標になりました。それを軸に毎回すこし変化を加え6回行った感じになります。今回はまた一つテーマとして、気軽にダンスを観てもらいたいと言うところから、ワンドリンク付きにして、アルコールも含め、飲みながら観てもらうスタイルにしてみました。そして第三楽章では毎回必ずビール販売を行う構成にしたのは、うまくいったのではないかと思っています。これはずっとやりたかったbarとダンスを同時にやるみたいな発想。ある種それが恒例みたいにになったので、観に来るお客様にも、すこしリラクッスして観てもらえてなのではないかと思います。あと公演中の写真撮影、動画撮影もOKにして、それをSNSにアップすることもオッケーにしました。そうする事によりすこしでも宣伝効果に繋がればいいなと思いそのようにしました。同じ音楽でとにかく6回行うと言うのは、私にとっては新しい挑戦でもあったし、毎回少し構成を変え、ダンサーと数回のリハをするのはとても刺激的でした。やる毎に音楽をもっともっと深く聞けるようににもなり、第九は聞けば聴くほど新しい発見を与えてくれる曲だと本当に思いました。

音を消して動きを見る

冨岡三智

舞踊の映像を見る時に、私は音を消して見ることがよくある。こうすると、動きの質がよく見えてくる。伝統舞踊に音楽や歌はつきものだから、そのリズムやメロディにどうのっているのかが、舞踊では重要なポイントになる。けれど、その音楽があるために見えなくなるものもあって、それが身体の内の流れなのだ。

音楽を消してみると、見えてくるのは手足や頭の動きだけ…ということが意外に多い。振りの順番も覚えていて、舞踊のレッスンで教えられるような点もできている。けれど、胴が死んでいるみたいというか怠惰で、動いていないと感じられることがよくある。たとえて言えば、クラスの数人(手足)は掃除しているのに、その他大勢(胴)は知らんぷりしているような感じだ。ここで言う胴の動きとは、オケッogekやオヨッhojogのように胴を動かすことに焦点が当たっている動きのことではない。

舞踊を習うと、焦点が当たっているところを意識して動かすことはできるようになる。音楽に合わせて動くと焦点の動きはきまり、恰好良く見える。けれど、その音楽という支えを外して見ると、その焦点の動きが有機的に統合されているのか、個別にばらけているのかがわりと見えやすくなる。

音楽の流れとは別に、動きは動きとして自立した全体の流れがある。焦点が当たる前にそのパーツに動きをもたらすような動きが、また焦点が当たったパーツの動きをその後に身体の各部に波動させていくような動きの流れが、胴の中を行き交ってひとつながりの流れになっている…、そして、その流れが音楽の流れに自然と重なってくる…。おそらく、舞踊と呼ばれるに値する質の動きは、そんな有機的で自律的な動きを意識することによって生まれてくるのではないかな…と私は感じている。もちろん、私自身がまだまだ発展途上なのだけれど、そんなイメージを持つのがまずは大事かなと思っている。

うたの繁み

新井卓

 怖い夢がもっと怖い夢の入り口に続いて果てもない、みたいな世界で、できることはもう詩を読むか歌うか、しかない。

 内装工事のアルバイトで合計100キログラムくらいの漆喰を壁になすりつけているとき、いつもかけているラジオから、唐突に間宮貴子の『LOVETRIP』が流れてきた。手が止まり、湿った石灰の匂いを吸い込みながら少し聴く。ベルリンのはずれ、ノイケルンのコミュニティラジオを聴く視聴者たちに、このバブル期丸出しの(油ぎった、西洋かぶれの、うそみたいな極東の一時代)惚れた腫れたの歌詞とか演歌的ジェンダー感覚がわかる人がどれくらいあるだろう、と考える。その喪失と、いつまでも退場しようせず物欲しそうな時代の亡霊も。だれかが氷河期時代、と名付けたわたしたち世代は、べつに異邦にいなくともすでに時間のディアスポラなのかもしれない──他のすべての○○世代がそうであるように。それでふらっと懐古的気分に傾きかけて、あーヤダヤダ、と、爆音の友川カズキで前頭前野を上書きしながら垂れかかった漆喰をこそげとった(ブルートゥース・スピーカーってつくづく便利、と脚立の上で思う)。生きているって言ってみろ。

 小さいこどもと暮らしていると、忘れていた絵本やわらべ歌を再発見するのが楽しい。夜、ひととおり絵本の読み聞かせが終わると『うたえほん』(つちだよしはるさんのかわいいイラストに、五線譜に起こしたメロディーが載っていて助かる)を開き、こどもが眠りに落ちるまで、本人が指定した歌を歌うことになっている。布団のなかでやわらかく無防備になった意識でそうしていると、日本という国のアイデンティティの分裂を、煮え切らないジャガイモの芯みたいに、口の中に感じる瞬間がある。明治大正昭和、江戸中期以降の「童謡」だけでなくもっと昔の歌や、東北とか山陰の歌も歌ってみたいけれど、どうしたらいいのかわからない。いまのところはとりあえず、『五木の子守唄』を練習してみている。

 ドイツの童謡は、いくつか楽譜を仕入れて試して諦め、もっぱら連れに任せることにした。聴いたり歌ったり、わずか二、三小節で、脳が「もう無理です退屈すぎます」、と訴えてくる。こちらの童謡はほぼ例外なく長音階で、全部の音が五、六度以内、シャープもフラットもなし。だからぜんぶ同じ曲に聴こえる。だれかが「こどもが混乱しないように」そうなっている、と言っていた気がするが本当かどうかは知らない。

 歌、そして森には何か譲れない感覚があるのだろうか、その感覚とは「繁み感」ではなかろうか──ふとそう思う。宮沢賢治のすごい繁み感。津軽三味線の蔓草の先のように絡まる一音一音とか、リンディックのもつれ、ずれながら始まりも終わりもなく連綿と湧きだす音の泉に身を預けるとき、初秋、遠野早池峰の奥まったところで、稜線の樹々が風にそよぐ景色が浮かんでくる。ターコイズのように目の詰まった青空の下、ダケカンバの銀色の葉裏が何千何万、何億とひるがえってさざめいている。知覚を超越した、圧倒的な捉えきれなさに打たれながら深く安堵する感覚。うたのthicket/繁み。繁みに潜んで、眼を光らせる。

線と形

高橋悠治

動いている音を書き留める。位置が変わる度に記録すると、折れ線の図になる。一つの線に別の線を組み合わせる。長い音と短い音、息継ぎとためらい。

予想とは違う着地点を交えて、線は形を破る。曲がり。

一つの図に収まらない、気まぐれな動きが、たまに時々起こるならば、その曲がりが、図を破る動きになる。

図には全体がある。一目で全体が見渡せるならば、その一瞬に、図は動きを止め、静まった風景になる。

動く線は、図を破る。図の中にある線の始まりは、静止した点から始まってはいない。図の中の線の始まりは、静止した点が動きだじ、線になる瞬間を見せてはいない。線が見える時、それはもう動いている。

動く線には、終わりもない。始まりも終わりもない、いつも途中の線。それが音楽すると言うことか。声の語り、時々歌、物の音・・・