オトメンと指を差されて(64)

大久保ゆう

さて12月がやってまいりました。みなさんもうすぐクリスマスですよっ!(わくわく)無類のクリスマス好きであるわたくしは、もうそれだけでテンションが上がってしまうばかりか、いそいそうきうきとクリスマス関係のものを観たりながめたり読んだりすることが生活の一部となります。

そういえばみなさん、赤鼻のトナカイのことはご存じですよね。有名な童謡。それではそのトナカイさんに原作の絵本があることは知ってますか? しかもなんと3冊も!

1939年にロバート・L・メイというコピーライターが著した『ルドルフ:赤鼻のトナカイ』という3色刷りの絵本がそもそもの始まりでした。そこからあのお歌に翻案されて世界中で知られるようになったのですが、絵本の方はもちろんお歌で知るあのストーリー通りでありながら、ちょっと違う(もっと詳しい!)ところもあります。

デンヴァー・ギレンという人の素朴な絵を添えながら、本文は詩の形で進んでいくのですが、サンタさんと赤鼻のトナカイはすぐに出会わずその年のクリスマスイヴがひどい天候でさんざんサンタさんが困ったあげくトナカイの村にプレゼントを配りにいったときに寝ているルドルフと偶然出会うとか、あるいは赤鼻には暗い夜道だけではなく真っ暗な部屋を照らしてサンタさんがプレゼントを子どもたちの枕元に置きやすくするという役割もあるのだとか、なるほどと思えることも描かれつつ、そのほかトナカイの勧誘シーンにはこんな記述も。

  (サンタのおじさんはここで、ルドルフをすごく
   気づかって「すばらしいおでこ」と言いました)
  「でかい赤鼻」なんて呼んだら人聞き悪いですし!

えええっ! と思ってしまいますが、このあと本文でもルドルフの赤鼻を参照しようとするときは毎回「ルドルフの……その……おでこが」と言いよどむあたり、配慮が徹底していたり。ただしこれは例の歌が流行ったあとの改訂版では、〈赤鼻〉が有名になったためか、すべて消えてしまうのですけれども。

さらに書かれた2つの続編については、もっと知る人の少ない絵本です。ただし1951年の『ルドルフの二度目のクリスマス』は、詩から散文になり、同じ人の書いたものとは思えないやや精彩を欠いたものになっていまして。

赤鼻のトナカイは、その主人公の持つ特徴から、差別をテーマにした作品とも受け取られているのですが、その観点からすると、二作目はその側面を捉え間違ってしまったのか、詳しいお話は省略しますが、いわゆる〈フリーク・ショー〉を無邪気に肯定してしまう結末になっておりまして、少々問題があります。とはいえ、元々絵本用・出版用に作られたものではないらしいので、各キャラの雰囲気が違うことも含めて、仕方ないことなのかもしれません。

しかし3作目、同じく詩によって書かれた正当な続編たる『ルドルフに光ふたたび』(1954)は、今でも〈赤鼻のトナカイ〉へたびたびなされる批判に対しても真摯に答えており、1作目と比べてもまったく遜色ない作品になっています。

ルドルフはその赤鼻という希有な特徴、言い換えれば〈一芸〉によって注目され、活躍し、周囲にもてはやされたわけなのですが、この作品で語られるのは、その〈一芸〉に対する嫉妬や不安、それにまつわる自己認識や挫折、そして再生です。

1作目の結末では、ルドルフが一転いじめられっこからトナカイたちの人気者となるのですが、3作目ではそれから時間も経ち、周りの目も変わり、次第に〈憧れ〉は〈ねたみ〉へと移っていきます。

  聞こえてくるひそひそ声。「なんであんなやつが」
  「オレたちの方が強くてでかいし」「年上なのに」
  「こっちは腰痛めてるのに、あいつだけ目立って」

そして始まる陰湿ないじめに、やがて消えるルドルフの鼻の光。唯一の〈一芸〉がなくなってしまった彼は、自分の存在価値そのものが失われたと感じて、クリスマスを前にサンタの元から家出してしまいます。夜の闇のなか、かつての自分のことを知らないような、できるだけ遠い場所へ行こうとするのですが、その先で出会ったウサギの群では、子どもたちが行方不明になっていて。このままでは野犬に食べられてしまうと嘆く両親、光る鼻があればすぐ見つけられるはずなのに……

そのあと描かれる、単なる幸運ではなく、自分の力によって自信を取り戻していくルドルフの姿には、とても強く心を打たれます。この3作目と1作目がひとつになった絵本も昔に出ているのですが、合わせて読むと、ただ個性を尊重しようという楽観的なものではなく、都市伝説的に流布しているルドルフのお話とはまた別の趣が、原作絵本にはあったことがわかります。

いずれも未訳。いつか全編を日本語でご紹介できるといいのですが。

アラスカ事件、その後

植松眞人

 真っ暗というよりも、深い青に見える夜。大きな満月の光が夜を青くしているんだろうな、と渡辺由布子は思った。そんな青い夜に五年ぶりに集まった五人の男女は、同じ映画学校の夜間部の卒業生だ。
 業界での仕事は終わる時間も不規則だということで、夜の八時に設定した集合時間に集まったのは由布子と平澤達也の二人だけだった。結局、五人が顔を揃えたのは学生時代によく通った居酒屋の閉店時間ぎりぎりの十一時前。ちょっと学校に行ってみいひんか、という平澤の声にみんなが従ったのは、まだ話したりないという気持ちがあったからに違いない。
 結局、学校の校舎の脇にある非常階段を上がり、屋上へと出た。周囲にはそれなりに高いビルもそびえてはいたが、さすがに屋上まであがると空が広く気持ちが解放されるような気がした。
 学校に行ってみいひんか、と平澤が言ったときには珍しく気持ちが高まるのを覚えた。由布子はもっと純粋に話したかったのだ。
 映画の学校を出て、映画の業界に飛び込むこともせず、いつかは自分の映画を撮るのだと思い続けることも難しく、最近では映画館に足を運ぶことさえ避けるようになっている。そんな自分自身のいまを誰かに聞いて欲しい思っていた。もしかしたら、映画学校の仲間と再会することで、また自分の映画が撮れるのではないかという期待も持っていた。でも居酒屋ではそんな話はこれっぽっちも出なかった。由布子も自分からそんな話をすることができなかった。

   ■

「五年ぶりに集まらへんか」
 と電話をしてきたのは岡崎恭平だった。恭平は映画学校の夜間部の五人の仲間の内、いちばんの年上で、入学時にすでに三十七歳だったから今は四十二になっているはずだ。
「なんかな。昨日久しぶりに深夜のテレビでナベちゃんが好きやったフランス映画やってたんや。それ見てたら、なんやみんなに会いたなってなあ」
 岡崎は大学を出てから役所勤めをしていて、妻も子どももいるのに映画が撮りたかったんや、と映画学校の夜間部にやってきた変わり種だった。その年の夜間部の最年少だった由布子とはひとまわり以上も歳が離れていたが、映画の好みはいちばん合う相手だった。
 由布子と岡崎は、自分たちがそのフランス映画を真似て撮った小さな映画の場面の話などをして電話を切った。
 夜間部に入学したとき、由布子はちょうど二十歳だった。中途半端な私立大学を一年で中退して、やっぱり好きな道で生きていこうとアルバイトでお金を貯めて、映画の専門学校へ入学したのだった。昼間働いて夜勉強がしたいと思ったわけではない。ただ、夜間部の学費が安かっただけのことだった。しかし、結果的に、年齢的にもばらばらな学生が集まる夜間部は、由布子にとってとても面白い二年間になった。
 卒業するまでに由布子は四本の映画を撮った。十六ミリのフィルム作品が一本、ビデオ作品が三本。どれも、二十分に満たない作品だが、ひとつ一つに想い入れがある。
 五人が忍び込んだ学校の屋上も、かつて由布子が監督した作品のうち二本に登場する場所だ。夜の撮影はしたことはなかったが、こんな青い夜空を背景に、男と女が別れ話でもしているシーンが撮れたら面白いだろうな、と由布子は思っていた。
「けど、ほとんどの同期が業界を離れてるとは思わへんかったわ」
 岡崎が本当に驚いたように言う。
「ほんまやなあ」
 そうのんきな声を出したのは、由布子より二つ年上の桑原ゆかりだった。ゆかりは、撮影が押して緊張感が走る現場でも、のんびりとした空気で場を和ました。
「結局、五人の中で、いまでも撮影所で撮影の仕事をしてるのは高橋くんだけね」
 ムードメーカーだったからこそ、ゆかりは卒業後もみんなから仕事や恋愛の相談に乗っていたらしい。
「岡崎さんは最初からちゃんと仕事してたからええけど、それ以外で業界に残ってるのは高橋君だけって、不思議な感じがするわ」
 由布子がそう言うと、平澤が大きくうなずいた。
「そやろ。高橋なんて撮影中いっつも文句ばっかり言うてたからなあ」
 平澤が大げさに言って笑う。
「そやけど、それは高橋君が、学校におる間も真剣に撮影に取り組んでたからかもしれへんなあ」
 岡崎がそう言って、みんなが少し静かになる。そうやんな、という顔で岡崎は由布子に同意を求める。
「そやで。高橋君、なんやかんや言うても、現場が好きやったからな」
 卒業以来、アルバイトで食いつないでいる由布子は、そのアルバイトが先週で契約切れになったのだった。
 最近の由布子は何をしてもうまくいかない。卒業してから二年間続けたCDショップはネットの通販サイトに押されて閉店してしまったし、心機一転、映画に近いところで働きたいと勤めた映画館は、シネコンになってしまい人件費削減でリストラされてしまった。みんなも似たような状況ではあったが、由布子にはその中でも自分が一番ついていない気がして、居酒屋で飲んでいる間、ずっと自分の近況を言い出せずにいた。おそらく、仕事だけではなく、付き合っていた男との別れや、父親の死や、同い年の従姉妹の結婚など、ここ数年、心をざわつかせるような出来事ばかりがあったせいだ。そう由布子は思っていた。
「そやけど、俺は自分が卒業する時に思ってたこと、なんにも出来てないわ」
 ふいに平澤が言う。
「思ってたことって?」
 岡崎が聞き返す。
「年に一本は短編でもええから映画を撮ろうって思ってたこととか」
 平澤がそう言うと、みんなが少しずつそれぞれに遠慮がちに視線を送る。
「そういうたらそうやなあ。みんなで集まって映画撮ろうって、言うてたなあ」
 岡崎がそう答えると、
「ま、なんとなくこんな感じになるかなあとは思ってたけどね」
 と平澤が苦笑する。
「あんたは、いっつもそうや」
 由布子は平澤に低く声を荒げる。
「なにが?」
「なにがって。あんたはいっつも、そういう嫌なことをいうやろ」
「嫌なことって、ほんまのこと言うてるだけやん」
「ほんまのことなら、何を言うてもええんか」
 由布子の剣幕に、達也は黙ってしまう。
「ナベちゃん、そんな怒りなや」
 年長の岡崎が取りなそうとする。由布子は平澤の隣から、いちばん離れた岡崎の隣に移動する。
「ナベちゃんらしいなあ」
 ゆかりが、そんな由布子を見て微笑む。岡崎も由布子を見て笑っている。
「そうやねん。ナベちゃん、撮ったカットが気にいらんかったらすぐ怒るしなあ」
「けど、ええカットが撮れたらニコニコしてなあ」
 自分を話題にされて、居心地の悪そうな由布子。
「あんたら、私の話はやめてえな」
「いやいや、相変わらずナベちゃんは可愛らしいわ」
 岡崎が少しからかうように言うと、由布子が、「しばくぞ」と本気ではなく毒づく。
 そんな由布子を岡崎は愛おしそうに眺めて笑う。
「そしたら、俺はそろそろ帰るわ」
 岡崎がそう言うと、由布子が慌てる。
「なんで、もうちょっとおれるんとちゃうの」
「俺、明日仕事、朝早いねん」
 岡崎がすまなさそうに言うと、ゆかりが
「そしたら、私も一緒に帰るわ」
 と同調する。
「私もアルバイトがあるから」
 と言うゆかりを岡崎が笑う。
「アルバイトって、歳いくつやねん」
「ほっといてください〜」
 岡崎の質問に、おどけて答えるゆかりも、なんとなくいまだにアルバイト勤めであることの羞恥のようなものがあり、ただ可愛いだけの女の子ではなくなって、人の暮らしの中のよどみのようなものが見えるようになったなあと由布子は思ったのだった。しかし、由布子はそれがむしろゆかりの味のようなものになっているのではないかと思えて、微笑みながらぼんやりとゆかりを眺めていた。
 みんなが帰ってしまうと、由布子と平澤だけが屋上に残った。相変わらず、空は濃い青色をしていて、手すりにもたれて眺める空のど真ん中に大きな満月が黄色く浮かんでいる。
「さっきはごめんな」
「ごめん言いながら笑ってるやん」
「笑ってないよ」
「いや、笑ってる。だいたい平澤は、ほんまに人の心に遠慮なしに、土足で踏み込んで、それに気付かへんねん、昔から」
「そうかなあ」
「そうやねん。そやから、みんな映画とか撮ってへんなあ、なんて平気で言えるねん」
「平気やないよ」
「そうかなあ」
「俺はナベちゃんが映画を撮るなら、手伝うつもりやし。な、また一緒に撮ろうや」
「撮ろうやって、サラリーマンが手伝えるわけないやろ」
「いや、手伝う。仕事を辞めてでも手伝う」
「うわっ。何いうてんの、それ。頭悪いわあ。嫌やわあ」
「頭、悪いって」
 平澤は笑い出してしまう。
「なに笑てんねん」
「いや、なんかもう渡辺らしいなあと思ってな」
「笑うな」
「笑うわ」
 二人、顔を見合わせて笑っている。
「だいぶ、平澤らしい感じになってきたな」
「そうか。なんか五年ぶりに会うって、緊張してたんかもしれんなあ。やっとリラックスしてきたんかもしれん」
「遅っ。リラックスまで、どんだけ時間かかってんねん。あんたはずっとそんなふうに、人の気持ちも考えんと笑てたらええんや」
「はいはい。そうさせてもらいます」
 由布子、平澤を眺めながら居住まいをただしてみる。
「なんか平澤くんも調子出てきたことやし、学校の中に忍び込んでみよか」
「よっしゃ、忍びこんだれ!」
 二人、芝居がかった声を上げて、屋上から外付けの非常階段を降りはじめる。なるべく足音を立てないように階段を降りながら、平澤が小さく鼻歌を歌う。
「それ、私の卒業制作で使ってた、ドビュッシーの曲やん」
 由布子は、前を行く平澤に声をかけてみたのだが、平澤には聞き取れなかった様子で、問いかけには答えず、そのまま階段を降りていく。由布子はその後ろ姿を眺めながら同じように階段を降りて、校舎の裏側にある地下へと潜る階段から、夜の学校へと忍び込んだ。

         ■

 由布子と平澤は、学生時代によく一緒にこもっていた編集室の扉を開ける。
「相変わらず不用心やなあ」
「ま、私らにとったら編集機はお宝やけど、一般の人はこんなもんもらってもどうしようもないからね」
「そらそうや」
 そう言いながら、二人はフィルムの編集機を懐かしそうに眺めている。
「ビデオ機材増えたね」
「そらそうやろ。今どきフィルムやる奴も少ないと思うよ」
 平澤はフィルム編集機の前に座ると、電源を入れてみる。薄く赤い光がともる。由布子もそこに座り、じっと光を眺めている。赤かった光がゆっくりと橙色になる。
 編集機の上に、十六ミリフィルムの小さなリールが出しっ放しにしてあり、由布子がそれを引っ張り出す。
 編集機を照らすうっすらとした光の中に、フィルムを掲げて、そこに定着された映像を見つめる由布子は、フィルムを上下に送りながら、映像の動きを眺めている。
「私はフィルムの質感が好きやけどなあ」
「そやけど、卒業制作、ビデオで撮ったやん」
「それは、カメラの高橋くんが『フィルムの質感よりもビデオの機動性が今度のお前の作品にはあってるんちゃうか』って。そういうたんやもん」
「出た。すぐ人のせいにする」
「人のせいにしてないよ。最後は自分で判断したんやから。そのくらいのことはわかってます」
 そう言いながら、由布子は笑う。笑いながら、目の前の十六ミリフィルムをまた眺めている。学生がテスト撮影でもしたのだろう。フィルムには学校の近くのビル群がただ延々と映し出されている。じっと目をこらして眺めていても、露出が暗く、ピントも中途半端で、何より構図がずれていて、何を写したいのかわからないカットが続く。そんな、ただフィルムを回したのだ、という結果が目の前に定着されている。由布子にはそれがとてもうらやましいことのように思え、同時に、とてもくだらないことのようにも思えた。
 最近になって、由布子は考えるようになった。いくらフィルムを長く回しても意味はない、と。長い間、フィルムを回しても、ビデオを回しても何の意味もない。問題は、きちんとラストまで撮れるかどうかだ。どんなに短くても、きちんとラストまで撮られた作品はきっと自分自身の明日につながる。それは、映画だけに限らない。小説でも絵画でもスポーツでも同じだろう。テニスの素振りだけを繰り返しても意味はない。うまくはなるだろうが、コートに出て勝負をしなければわからないことがたくさんある。
 数週間前、同窓会の誘いの電話をくれた岡崎と昔話をしながら、由布子はそんなことを考えたのだった。岡崎が、由布子の映画の趣味を誉めてくれるのを心地よく聞きながら、その心地よさが由布子から映画を引き離してく感覚を刻みつけられたのだった。
 その点、いま目の前にいてぼんやりと編集機材を触っている平澤には、昔からいらつかされたことはあっても、癒されたことはなかった。追い詰められた「もう、これでいい」と絵コンテを決定した後に、「こんなカットより、こっちの方がよくない?」などと言い出して、よくケンカになった。「あんた、どっちの味方やねん」と由布子が声荒げて聞くと、「どっちの味方って…。俺はおもしろいもんが出来たら、それでええねん」と言い放ち、その通りに平澤は誰の味方にもならずに、常に中立の立場で映画と接し続けた。だからこそ、いまから思えば、平澤の意見には真っ当なものが多かった。だからこそ何か迷うことがあれば、よく平澤に意見を聞いたものだ。由布子はそんなことを思い出しながら、平澤に聞いてみた。
「なあ、アラスカ事件、覚えてる?」
 由布子が言うと、平澤が少し驚いて苦笑いをする。
「もう、やめてくれよ。アラスカ事件言うの」
「けど、アラスカ事件って聞こえたんやろ」
「はいはい。そうですよ。誰かがこの話をしたときに『あ、ラストカット事件やろ!』って言いよったんや。それが俺にはアラスカ事件に聞こえたの」
 散々からかわれたことを思い出したのか、平澤が吐き捨てるように言う。その様子を見て、由布子が笑う。
「怒らんでもええやんか」
「怒ってません」
「怒ってると思うけどなあ」
 そう言われて、今度は平澤が笑う。
「けど、誰がラストカットを勝手に変更したんやろ」
 由布子が目の前のフィルムを触りながら、怪訝な面持ちで言う。
「だってな。夜間部の同級生はみんな知らんいうし、卒業制作の発表会の時にラストが変更されたあの映画を見たときもみんなびっくりしてたもんなあ」
「そやねん。おかしな事件や。もしかしたら、監督が誰かに恨まれてたんとちゃうか?」
「なんで、私が恨まれるねん」
「誰かとラストシーンについて、議論してたわけでもないしなあ」
「犯人はあんたか」
 そう言われて、平澤の動きが一瞬止まる。
「びっくりした。なにを急に言うねん。唐突に言われたから、びっくりして一瞬動きが止まったわ」
「あんたはどっちが好き?」
「なにが?」
「そやから、私が最初に編集してたオリジナルと、上映会の時に見た変更されてたラストと」
「どうやろ。どっちもありかなあって。どっちも味があるし」
「なんか、怪しいなあ」
「怪しないって。そやけど、正直、あの映画のラスト、ちゃんと覚えてないねん」
「私はもう絶対自分が編集したやつが好きやねん。だって、変更されたラストやったら、女がめっちゃ冷たい女のままやねんもん」
 言いながら由布子は、手に持っていたフィルムをクルクルとフィルムリールに巻き取り、平澤に笑いかける。
「なあ。あの卒業制作、もう一回見てみよか」

    ■

 学内の試写室で由布子と平澤がスクリーンを見つめている。その顔がプロジェクターの光に照らされて、暗闇から浮かんだり、また暗闇に消えたりしている。
 由布子が監督した作品がだだっ広い試写室で上映されている。ポツンと座る由布子と平澤。平澤は由布子の一つ後ろの席で、由布子の肩越しにスクリーンを見ている。ラストシーンが近づいてくると、由布子の肩が少し緊張したような気がして、平澤は思わず「もうすぐやなあ」と声をかけた。声をかけることで緊張が解ければと思ったのだが、由布子は小さな声で「うるさい」と返して、振り向きもせずにスクリーンに見入っている。
 主人公の女が男と別れ話をして、部屋を飛び出すシーンだ。女が階段をどんどん降りていく。男が女を追いかける。カメラは男の見た目の一人称で、女を追いかけていく。付かず離れず、女の後ろ姿が近づいたり遠くなったりしながら、風景が少しずつ変化していく。
 由布子が監督し編集したオリジナルは、ラストで追いかけてきた男を振り返り、愁いを含んだ笑顔を向けて手を振る。そして、再び背を向けるともう二度と振り返ることなく雨の中に消えていく。
 しかし、五年前の卒業制作の発表会の日に由布子たちが目にしたのは、男を振り返る直前でカットされたラストだった。最初は上映設備の故障かと思った、とその場にいた夜間部の同級生たちは話し合ったものだ。だが、その途切れたカットの後、スタッフやキャストを伝えるエンドロールがきちんとつながっていたところを見ると、それが意図的に編集し直されたものであることは明白だった。
「もうすぐやなあ」
 平澤が声をかけたその瞬間に「もうすぐや」と固唾をのんでいた由布子は、その絶妙なタイミングに思わず「うるさい」と平澤に返してしまったのだった。
 スクリーンでは淡いピンクのニットを着た女の後ろ姿が画面いっぱいに映っている。長い黒髪がピンクのニットの上で前後左右に踊り、女の足取りの軽さを伝えている。由布子はどんなタイミングでカットが変わるのか、五年ぶりなのにも関わらず逐一覚えていた。女が階段から降りて、右に曲がり、小さな鉢植えの赤い花をチラッと見る。次のカットは女の右肩に黒髪が乗ったままになっていて、それを女が自分の手で払い、また歩き出す。
 そんな細かなことまですべて覚えていることに、由布子は自分で驚いた。自分はどれほどこの小さな映画を懸命に撮っていたのだろうと、あの頃の自分を振り返ると胸が締め付けられた。そして、あの頃を自分自身がまだ微笑ましく思えないほどに、生々しく思い出していることに情けなくなってしまう。映画を撮りたいんだなあ私は、と由布子は思う。いま、自分の映画を見ながら、すぐ後ろの席いる平澤が驚くほどに大きな声で「映画が撮りたい」と叫びたい衝動に駆られる。そして、そんな衝動を持ち続けていることに由布子は呆然としてしまうのだった。ピンクのニットが画面を覆ってしまうたびに、女の黒髪が左右に揺れるたびに、由布子は自分の気持ちがはっきりとしてくることに気持ちを高ぶらせた。
 女が男の主観であるカメラから少し距離を置くところまで早足で歩いていく。「ここや」とまた背後から平澤の呻くよう声が聞こえる。すると、女が立ち止まったのだった。立ち止まった女は見ている観客の方を振り返り、許しているような怒っているような、そんな微妙な笑顔を見せて、手を振るのだった。
「渡辺のオリジナル通りや」
 平澤が独り言のようにつぶやく。
 スクリーンに映った女は一度振り返ったあと、二度と振り返ることなくどんどんと歩いていく。その小さくなっていく後ろ姿を見ながら、由布子は「ああ、私の映画や」と思っていた。
「俺、こっちのラストのほうが好きや」
 平澤が言う。
「ほんまにそう思う?」
 由布子が平澤に聞く。
「うん、ほんまにこっちのほうが好き」
 平澤が間の抜けたような声で答える。平澤の緊張感のない声が、由布子には胸に染みいるように入ってくる。そして、いま一緒に映画を見ている平澤が「こっちの方が好き」だと言ってくれただけで、なぜか、涙が溢れてきた。
「どうした?」
 と聞く平澤に「そやから、学生時代からあんたは妙にタイミングがよくて気持ち悪いねん」と心で思いながら、由布子は無言でエンドタイトルを見ている。
 あと数十秒でエンドタイトルが終わる。それまでに、この涙を止めることができるだろうか。後ろの席に平澤の気配を感じながら、由布子は泣き、そして、同時に微笑んでいた。(了)

掠れ書き35

高橋悠治

リズムには緩急(agogique)があり、メロディーには強弱(dyanmique)があり、ハーモニーには転調(modulation)がある。これはヴァンサン・ダンディの演奏についての教えらしい。その愛弟子だったブランシュ・セルヴァの『ソナタについてひとこと』(1914)という長い本のなかのことば。要素ではなく、それらの微妙な変化から考えはじめるというのは、この場合は作曲ではなく、すでに作曲されたものの演奏が問題だからかもしれない。ジャン=ジョエル・バルビエは『サティとピアノで』のなかで、この教えがダンディの学校スコラ・カントルムで再教育を受けたサティに影響して1910年代の小曲、特に『スポーツと気晴らし』(1914)のなかで、民謡の一節からとられたメロディーをわずかに変化させながらミニマルなバランスとはっきりした輪郭を作り出している、と書いている。全体を要素という最小の構成単位に分解し、そこから逆行して全体にたどりつくという合理主義と検証の考えかたは啓蒙主義的に見える。変化からはじめると、要素のように厳密なシステムを作れるかどうかわからない。

スコラでは対位法をまなんだようだが、サティの対位法は、もともとの意味での点対点の場合がある。『ノクターン』(1919)の2番から4番までは、2度と4度、裏側の5度と7度の響きだけを選ぶような、伝統とは逆の規則、また5番では逆に3度と6度を選ぶが、逆の逆なのに伝統的な響きにはならない。

音が響きを作り、それが変化していくのか。それとも、動きが先で、響きは後から追いつくのか。あるいは、動きは線で響きは点なのか、線は点から点への飛び石で、響きは内部変化を含んだ層なのか。逆から見れば、線は回廊で、響きはそのなかの斑点なのか。どのように考えても、対象となる音はすでに消えていて、記憶のなかにしかないから、響きも線も実在する物体とはいえない、残響と軌跡にすぎない。

音符は紙の上の黒い点で表される。それを使って楽譜を書きながら、直接表せないもの、緩急・強弱・転位にもとづいた音像を思い描くのが作曲作業で、それも19世紀的に記号やことばによる指示を細かく付け足していくのとは反対に、できるだけそれらを取り除いていくと、どうなるか。ユダヤ教聖歌とビザンティン聖歌の楽譜は動きのパターンを記す動機譜(ekphonetic)で、グレゴリオ聖歌は動きの単位によるネウマ譜、それ以後の音楽史では各音の表記へと変化した。タブラチュアのように指譜や文字譜ではなく、5線譜は図形と記号の綜合で、それ以上の改革の試みは、慣習の力に勝てなかった。

バッハの原典版のような強弱や速度指定がない楽譜か。さらに、拍子記号も調子記号も小節線もなく、音の位置と出現と消滅の順序だけを記した楽譜になれば、17世紀フランスのクラヴサン奏者たちの、特にルイ・クープランの白い楽譜プレリュード・ノン・ムジュレにたどりつく。演奏慣習や時代様式を知らないと読めないような楽譜だが、かえってすべての緩急・強弱・転位は固定されることなくそこに現れてくることも、たしかにありうることだ。ジョン・ケージの最晩年のナンバー・ピースも音の出現と消滅のおおまかな時間枠を記すだけの楽譜だった。

変化の音楽を作るには、変化を直接指示するのではなく、書かれていない余白の空間として残しておくほうがいいらしい。

「ライカの帰還」騒動記 その1・プロローグ

船山理

カメラ雑誌の連載から生まれたコミック「ライカの帰還」は、後に新潮社、幻冬舎から単行本化され、台湾、香港を含めると5つの出版社から発行された。父の形見となったライカDⅢaはすっかり有名になり、この10月末から来年の3月まで半蔵門の日本カメラ博物館で行なわれる「The LEICA 〜ライカの100年〜」にコミックもろとも展示される。このレポートは「ライカの帰還」が誕生するまでのすったもんだ、そのものである。

  * * *

昭和49年から平成20年までの34年間、私は編集スタッフとしてオートバイ、カメラ、クルマの専門雑誌を発行する(株)モーターマガジン社に在籍していた。各業界を通じてナンバーワンの実売り部数を発行する出版社だったが、この会社の当時の社長である林さんの夢は、この会社からいつか一般誌を創刊することなのだと言う。しかし、そうすることのハードルの高さは、彼自身よくわかっていたようだ。

というのも、仮に自社の編集スタッフがすべての編集部署を経験し、知識やタイムリーな業界事情に精通していたとしても、それが一般誌で役に立つとは思えない。専門雑誌の編集者は、あるコンテンツに無条件でシンパシーを感じる読者が相手だが、一般誌ともなれば世の中のあらゆる事象と向き合うことになる。そうした場合、いわゆるコモンセンスという面で太刀打ちできるとは考えにくい。

そこで林社長が目を付けたのがコミック雑誌である。70年後半から80年代にかけてコミックは黄金期を迎え、大手の出版社は天文学的な売り上げを誇っていると聞く。これならば専門雑誌の編集スタッフのスキルでも、何とかなるんじゃなかろうか。一般誌を立ち上げるより手間も人数もかからずに済みそうだ。彼はそう考えたに違いない。後にわかることだが、これはとんでもない誤解である。

「当社でコミック雑誌を創刊する可能性をレポートせよ」林社長は、こともあろうに私に命令を下した。上司の編集長を飛び越して、だ。理由はと言えば、所属していたオートバイ雑誌で、私がバイクを扱った人気漫画の特集を担当したことによる、らしい。私は調査という名目で、まったく未知の世界そのものであるコミック業界の現場をウロつくことになってしまった。憂鬱である。

わからないことは山ほどあった。まずは作家さんはどうやって確保するのだろうか。ほしいと思う人気作家さんはたいてい連載を抱えているから、これが終了するまで待つことになる。1年2年は当たり前のことで、3年越しも珍しくないらしい。待っているのは他の出版社も同じで「次はウチに連載を」と、手ぐすねを引いている。実績ゼロの専門誌出版社が、実績山積みの大手出版社を相手にどう闘えるのだろう。

念願の作家さんを確保できたとしても、その作家さんがこちらの期待したものを描いてくれるとは限らない。作品は作家さんのものだとはいえ、とんでもないものを始めてしまったらどうするのだろう。よほど入念に事前の打ち合わせをするにしても、その進行に目を光らせているのがコミック編集者の仕事なのだろうか。そういうこともあるかも知れないが、何だか違うような気がする。わからない。

週刊のコミック雑誌を見ると掲載作品は20ほどある。その数だけ作家さんを擁しているわけだが、これらの作家さんは、好き勝手に自分の描きたいものを描いているのだろうか。どうもそうとは思えない。そこにはメインの読者層が読みたがる、何らかの共通するベクトルがあるのではないか。そのベクトルは、いったいどうやって見つけるのだろう。わからないことだらけだった。

やがて、その答えと思しきものが見えてくる。小学館のコミック雑誌編集者から聞き出したことで、それは「キーワードを見つけること」なのだと言う。たとえばサラリーマンを読者対象とした場合、大きく分ければ「仕事人間」と「家庭人間」の2つになる。前者は仕事を通じて自己実現したいと願う人たちであり、後者は仕事は生活のためと割り切り、己を支え、成立させるものは家族であり家庭である、とする人たちだ。

小学館の出版物で言うと前者はビッグコミック誌であり、後者はビッグコミックオリジナル誌になる。なるほどビッグコミックの「ゴルゴ13」「カムイ外伝」などの主人公は、自分の技術を磨き上げ、任務遂行に文字どおり命をかける。オリジナルの「釣りバカ日誌」「はぐれ雲」などでは作品中にそれぞれの家族が登場し、主人公は自分の生き方は仕事に左右されないというスタンスでいる。

キーワードは前者が「プロフェッショナル」で、後者は「ファミリー」。それぞれがターゲットとする読者層は、雑誌側でその志向に合わせてキチンと区分けしていたというわけだ。それぞれの読者は、自分の意図する生き方の理想を掲載された作品の中に見出し、カタルシスを味わうことができる。これならば同じ出版社から発行されたものでも、読者を食い合う怖れも少ない。専門誌とは考え方のスケールがまるで違うのだった。

さらに興味深いのは、コミック雑誌はそれでも単体として採算が取れないということだ。コミック雑誌の広告収入は乏しく、膨大な部数を支える紙代、印刷代をカバーするにはとても至らない。週刊誌なら40名、月刊誌でも20名規模を抱える編集スタッフの人件費と、高額な原稿料で収支は赤になるのが普通だという。専門誌は月刊誌でも7〜8名の時代だし、広告収益に頼り切るウチの会社には、とても馴染みそうにない。

それではコミック雑誌は、いったいどうやって採算をとっているのだろう。これは単行本の売り上げがすべてだという。小説の単行本なら数10万の部数でベストセラーと呼ばれるが、コミックはケタが違う。1冊あたりの単価が安いとはいえ、メガヒット作品は1巻で100万部を軽く超えるものが珍しくないのだ。しかもそれが何10巻も続くのだから、輪転機は札束を刷っているようなものになるという。う〜ん…である。

コミック編集者は誰でも、メガヒットを生み出すことが夢なのだという。それが生まれる確率はと訊ねてみると、100本手がけて2〜3本がそこそこのヒット。つまり2〜3%でしかないという。さらにメガヒットとなると「時代のニーズ」が生み出すものだから、作家さんにも編集者にも時代の流れを的確に読み取り、その先を予測する術と能力がないと生まれるものではない、らしい。

コミック編集者の素養とは、あらゆる分野に切り込んで行ける情熱と知識欲だという。仮に編集者が時代の流れを把握したつもりでも、それを作家さんとコミュニケートし、意気投合できるかどうかがカギになる。作家さんが「ともに作品を手掛ける相棒」と認めなければ、担当編集者にはなれないのだそうだ。これはダメだ。とても専門誌の編集者風情が入り込めるスキなどないではないか。

私は林社長に「当社でのコミック雑誌創刊は以上の理由から困難と言わざるを得ません」と正直にレポートした。返事はなしのつぶてだったが、社業の方は順風満帆のようで、それ以降コミックの話で呼び出されることはなかった。ホッとした私は、親しくなったコミック雑誌の編集者や作家さんと、その後もお付き合いさせてもらっていたのだが、これが後々えらいことの引き金になるとは思いもしなかった。

ジャワ舞踊作品のバージョン 1「ガン ビョン・パレアノム」

冨岡三智

ここではジャワ舞踊といっても私がやっているスラカルタ(ソロ)様式に話を限定するのだが、同じ作品名なのに異なるバージョンが存在したり、作品名は違うのにほぼ似たような内容の作品が存在したりする。おそらく他の舞踊作品でも同じことが言えると思うが…。自分がまだ舞踊を学び始めた頃には、そのことがよく理解できなかった。「レパートリーは○曲あります」と言えたらいいのだが、何を以て1曲と言うんだろうと考えたら、よく分からなくなる…という感じだった。というわけで、今回は初心者には紛らわしい舞踊作品のバージョンを紹介する。まずは、たぶんスラカルタ様式の舞踊で一番ポピュラーで目にすることも多い、「ガンビョン・パレアノム」から。

ガンビョンという舞踊ジャンルだが、これには物語的な背景が何もなく、太鼓のリズム・パターンに合わせて踊る曲である。「ガンビョン・パレアノム」の伴奏曲は、「ガンビルサウィット・パンチョロノ」という曲をメインで使うが、その前に「スメダン」という曲をくっつけて、独特のケバルという演出(速いテンポにのって、女性が身を装う身振りをする)を繰り返すのが決まりになっている。この演出が考案されたのは1950年、マンクヌガラン王宮においてである。ガンビョンは、そもそも民間では商業舞踊の人だけが踊るもので、一般子女は踊らなかったのだが、それを宮廷づきの踊り手に命じて宮廷舞踊風にアレンジしたのがこの作品だ。「パレアノム」は実はマンクヌガラン王家の旗印のことで、同王家のオリジナルの舞踊であることが強調されている。王家の最初のバージョンは宮廷舞踊にふさわしく長いので(確か40〜50分かかる)、1970年代始めに同王家で15分程度の長さに短縮された(*)。

このマンクヌガラン短縮版「パレアノム」のケバルの演出を見て、その生き生きとした感じを気に入ったガリマンが、「パレアノム」をアレンジしたのは1972年(*)のことである。ガリマン版の特徴は、曲のメイン部は2ゴンガン(ゴンガン:曲の単位)の長さとし、その中に通常とは異なる順序でリズム・パターン(スカラン)を配置し、かつ、あまり使われないものや自分が新しく作ったスカランを入れた点にある。

ガンビョンというのは、太鼓の演奏するスカランに合わせて踊る舞踊で、即興的な要素もあるのだが、最初4つと最後に使うスカランは決まっているので、短時間の上演なら決まりきった踊りになってしまう。ガリマンは舞踊家だけでなく音楽家でもあり、民間では踊り手が必ずしも規則通りに上演していないことを知っていて、あえて変則的なアレンジを試みたのだという(**)。だから、最初の4つのスカランをI→II→III→IVと順に上演すべきところをIだけやって、II、III、IVは使っていない。そのため、ケバルという演出だけでも新感覚なのに、さらに斬新な雰囲気が生まれた。この定型から大きく外れたやり方は、当初は批判されたらしいのだが(**)、今では批判する人は誰もいない。

私の師のジョコ女史も、ガリマン版のあと1974年(*)にアレンジを手掛けている。ジョコ女史版の特徴は、3ゴンガンとガリマン版より長く、1ゴンガン目には定型のスカランをIから順に入れているものの、2ゴンガン目と3ゴンガン目はガリマン版をそのまま踏襲していること。芸術高校の教員だったジョコ女史は、教育的見地からガンビョンの定型を踏まえ、かつ沢山のスカランの踊り方を勉強できるようにと、こういうアレンジにしたらしい。

そのジョコ女史版の、入退場の曲だけを変えたのがPKJT・3ゴンガン版で、両者の太鼓パターンは全く同じである。ガリマンもジョコ女史も、「パレアノム」の上演ではマンクヌガラン王家版と同じ入退場の曲(上では書かなかったが)を使っている。ジョコ女史版のカセットは市販されていないが、PKJT・3ゴンガン版は市販されている。

PKJT・3ゴンガン版が生まれたきっかけは次の通り。ジョコ女史はPMSという舞踊団体でも指導していたことがあり、そこで自分版の「パレアノム」を教えていた。その団体に参加していた芸大教員のノラ女史がそれを覚えて持ち帰り、芸大で教えるようになったという。これは、ノラ女史本人が私に語ったことなので、間違いないだろう。PKJTは当時あった芸術プロジェクトの名前で、PKJTの成果は芸大のカリキュラムに導入されている。というわけで、私が芸大の舞踊科に留学して履修したガンビョンの授業で習ったのは、このPKJT・3ゴンガン版ことジョコ女史版であった。そして、一般的にPKJT版として知られているのは、1979年(*)にノラ女史がこのPKJT・3ゴンガン版の3ゴンガン目をカットして2ゴンガンにしたものである。3ゴンガンでは、結婚式やイベントなどで上演するには長すぎるというわけで短縮されたのだ。

さらには、ガリマンと並ぶ巨匠マリディも「パレアノム」を手掛けている。これも基本的にはジョコ女史版と同じだが、入退場の曲をPKJTとはまた別の曲に変え、かつ、1つだけスカランを別のものに差し替えている。マリディの場合は、ガリマンやジョコ女史が手掛けたのを見て、自分もやってみたかったというのが真相のようだ。マリディ版「パレアノム」は市販されているので、あるいはカセット会社から「マリディ先生も1つ『パレアノム』をお願いしますよ…(その方が売れるし…)」などと言われたのかもしれない。

一般的にスラカルタで行われる結婚式では、「パレアノム」といえばPKJT版(2ゴンガン)かガリマン版のどちらかで、太鼓奏者も踊り手に「どっちでやるの?」と聞くのが常だが、今ではPKJT版が圧倒的に多くなっている。芸大が教育のトップ機関としてあるため、その影響は大きいのだろう。しかし、ジョグジャカルタやジャカルタといったスラカルタ市外では、「パレアノム」と言えば今なおガリマン版で、ガリマン版のカセットも市販されている。ガリマンはジョグジャカルタの芸術高校や芸術大学でスラカルタ様式の舞踊を教えていたし、ジャカルタにもよく指導に呼ばれていたから、その影響が大きいのだろう。

こうやって、「ガンビョン・パレアノム」は1970年代に一気にブームとなって定着した。それまでガンビョンといえば、「ガンビョン・パンクル」が一般的だったのが、「パレアノム」に取って代わられた。たぶん、マンクヌガランで考案された特有のケバルとガリマンの斬新なスカランの組み合わせが、同時代の舞踊家たちを刺激し、かつインドネシアの1970年代という開発の時代の雰囲気にマッチして大衆に歓迎されたのだろう。さらに、音楽カセットという新しく登場したメディアがその普及に一役買ったのだろうと思われる。

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(*) 制作年はSri Rochana Widyastutieningrum著 “Sejarah Tari Gambyong”、Citra Etnika Surakarta社、2004年を参照。ちなみに著者は現在の芸大学長で、同書は彼女の修士論文を出版したもの。同書ではガリマン版が1972年にできたあと、1973年にマンクヌガランの短縮版が作られたように書かれている。また、ジョコ女史は、ガリマン版が1971年頃に作られ、自分の版は翌1972年頃に作って親族の結婚式で初演したと言っている。おそらく、結婚式などで初めて上演した年と、公式に学校や王家などの公式レパートリーに導入した年との間に多少のずれがあるのだろう。またマリディ版「パレアノム」については、同書には言及がない。

(**) ガリマンに師事した飯島かほるさんの談

菊水町の四角い家

くぼたのぞみ

 壁は黒っぽい灰色、いまならチャコール・グレーと呼べそうな色だった。もちろん、そんな洒落たカタカナことばを少女はそのとき知るはずもなく、壁はコンクリのような、モルタルのような、触ると指先にざらっとした感触を残した。細長い板を横に何枚も重ねて貼る、見慣れた壁ではなかった。
 その二階建ての洋館は、いつごろ、なんのために建てられたのか。壁面に等間隔にならぶ窓枠は、縦に細長く、上下2枚のガラス窓がおさまり、それぞれ四角い板ガラスが数枚はまっていた。
 建物の入口はドアで(引き戸ではなく、ドアだ!)、開けるとトンネルのように仄暗い廊下がまっすぐ続き、左右にドアがいくつもならんでいた。廊下も部屋もすべて板敷き。部屋に入るには床より高い敷居をまたがねばならなかった。
 屋根が思い出せないのだ。建物全体が真四角だったような気がする。雪の多い北海道に見られた、急勾配の、赤や緑のペンキを塗ったトタン屋根ではなかった。おぼろげな記憶のなかの建物がサイコロのように真四角だったとすれば、屋根に積もった雪はどう処理したのだろう。「町」へ格上げされたばかりの村のなかで、その建物は「引揚者の家」と呼ばれていた。

 隣町から走ってきたバスが、木造二階建て小学校の正門前を、土埃をあげながら通りすぎて、菊水町のT字路で右折する直前、左手の青々と茂る樹木のなかにその建物は立っていた。この村を開拓するときの拠点だったのだろうか。最初の村役場だったのだろうか。近くには神社もあった。
 小学校の広い敷地のはずれにあるその建物のなかに初めて入ったのは、1957年の春か初夏、洋物好きの父親が、隣町からヴァイオリンの弾ける写真屋さんを呼んできて、この建物のなかの空き部屋で、ヴァイオリン教室が開かれることになったときだ。いや、そうではない。それ以前にも、少女はそこに住んでいる同級生のところへ遊びにいったことがあった。驚いた。その同級生の家族はたった一部屋に住んでいたのだ。廊下の突き当たりにある炊事場は共同、もちろんトイレも共同だった。

 少女の家はそこから2kmほど離れた、山二線の田畑のまんなかにあった。四畳半の板敷きの部屋に、六畳の畳敷き、それに台所、風呂、トイレのついた小さな家だ。お前はこの家の奥の六畳で生まれた、と何度も聞かされた狭い家は、しかし、とにもかくにも一軒の独立した家屋で、窓も冬の豪雪にそなえて二重だった。仏壇も神棚もないその家に小学生の2人の子供と両親が住み、別棟の小屋には山羊や鶏が飼われていた。だからその同級生の、赤ん坊も含めて5人、いや6人にもなる家族のための空間が、家具らしい家具もない、たった一つの真四角な洋間で、高い天井からぽつんと電球がぶらさがり、魚を焼くときは七輪を建物の外に出すと聞いて、少女はことばが出なかった。

 その建物が「引揚者の家」だと知ったのは、建物に初めて足を踏み入れたその日だったかもしれない。夕飯どきに今日はどこへ行ったかおしゃべりしていて、耳にしたことばだったかもしれない。「引き揚げ」にまつわる大人たちから聞いたことば、マンシュウ、カラフト、チシマ、ハボマイ、シコタン、ホンド、ガイチ、ナイチ、ニホンが、少女の語彙のなかに脈略をもって、満州、樺太、千島、歯舞、色丹、本土、外地、内地、日本、として記憶されるようになったのは、それからずっとあとのことだった。

しもた屋之噺(142)

杉山洋一

美恵さんから頂いたうつくしい鶯色の詩集と、ブルーノから借りた緋色のピアノの本をカバンにしのばせながら、毎日をせわしくやり過ごしています。路面電車に揺られつつ、この2冊をかわるがわる読みながら、時代に拮抗して生きた芸術家と迎合して生きた芸術家についておもいます。それから、かくいう自分はどうなのだろうともおもいます。

——
 10月某日
9月の新作初演のヴィデオをみてくれたパリの友人よりメール。「面白いと簡単に言ってしまうのが憚られるような強い音楽ですね。アフリカで女性兵士による拷問にあった男性は復帰がとても難しいということを、缶を叩く打楽器奏者を見ながら思い出さざるを得ませんでした」。彼はよく知られた音楽家だけれど、彼がアフリカから逃れてきた人々をふくめ、さまざまな人権運動に関わっていることは、あまり知られていない。

 10月某日
朝、ヘンツェのリハーサルをしている最中に携帯電話が鳴った。練習中だったので放っていて、休憩になって見ると家人からだった。家に電話をすると、三善先生が亡くなったという。足だけが鉛のように重くなり、そのほかの身体中が、干乾びてカラカラと通り抜ける風に不気味な音をたてる。覚悟だけではどうにも歯止めのきかぬ思い。自分が最後まで一人のどうしようもなく出来の悪い弟子でしかないことへの忸怩たる思い。

 10月某日
「三善先生は作曲家です。ですから当然のことながら、作品は生きています」。I先生よりお便りをいただき、すこし感情が戻ってきた。ちょうど家人も息子も数日留守にしていたので、独りで女々しく過ごせたのはせめてもの倖せだった。おかげで翌朝は随分すっきりと目覚めることができた。一番最後にお目にかかりたいとの願いが叶わなかったのは、先生のお加減のせいだけではなかった。先生に何をやっているのと尋ねられても、応えられなかった。

 10月某日
どの作品も丁寧に仕上げるのは大変なわけだが、ヘンツェがこれほど厄介だとは思わなかった。作品中の情報量が多いほど面倒なのではなく、演奏者が実現可能な範囲を超えれば、全体的に収斂してゆき、結果的に把握もし易い。ヘンツェは、限界を超えない境界線上に鎮座ましましていて、もう少しやればこれは聴こえてくるのかしら、やはり聴こえないのかしら、という戸惑いを演奏者に強いるのである。

 10月某日
ボローニャ駅前の喫茶店でアラッラに会う。彼曰く、ピアノの登場によって、それ以前の鍵盤音楽はすぐに廃れ、忘却の彼方へ葬り去られてしまったが、コンピュータとインターネットの登場による現在の革新的状況は、それに匹敵するのではないか。現在生まれつつある音楽は、明らかに現在までの音楽のあり方と、根本的に一線を画すという。理解できる気もするけれど、認めたくない思いが頭をもたげる。
ボローニャ大学のマデルナ資料館にいるバローニ氏が、ドナトーニから贈られた「ブルーノのための二重性」の草稿とメモを保管していると聞いて、CDの解説に写真を附すためにボローニャを訪ねることにした。ドナトーニは、作品が出来上がると草稿を破り捨てていたので、現存する草稿は、作曲当時バローニ宅に寓居したお礼替わりのこれだけだと聞いていたが、実際に足を運ぶとバローニ氏はメモを紛失してしまっていた。よほどドナトーニは詳かにしたくなかったらしい。

 10月某日
ビエンナーレ本番直前Iが楽屋を訪れ、今年のビエンナーレは前年比で聴衆が85パーセント増だと誇らしげ。自分の出演以外は客席にいると、社会見学なのだろう。引率の先生二人に連れられた20人ほどの小学生の団体もいて、明らかに詰まらなそう。少しでも騒ぐと先生に怒られていて、気の毒。それでも、最後の豪快なカーター作品には盛んに拍手を送っていたそうだが。演奏会後、聖ステファノ広場裏の「工房通り亭」で、揚げた小蛸をつまんで、安い赤ワインをショットグラスで呷りつつ、出演者たちは「85パーセント増ねえ」と笑った。

 10月某日
マーラー「アダージェット」ピアノ編曲終了。様々な編曲の一つに、カミーロ・トーニが施したものがあって、途中から思いもかけぬ展開になる。その昔カセルラが著した「ピアノ」という本があり、楽器の成立から、鍵盤音楽史、最後にバッハからリスト、ブゾーニに至るピアノの編作史つき。ズガンバーティとブゾーニの編曲スタイルなど、今から見ればどちらも古臭さに大差はないが、カセルラは譜例つきで紹介。「没後すぐに廃れたズガンバーティの前世紀的な編曲」などと、辛辣極まりない。月曜日の授業後、入替わりで同じ教室にて教鞭を取るフランチェスコと話していて、来年没後100年になるズガンバーティの交響曲第二番を蘇演すべく、楽譜を制作中と知る。カセルラは、フォン・ビューローのワーグナー編曲を譜例つきて賞賛していて、微妙な世相を薄く反映する1936年刊。

 10月某日
マントヴァから来たレオナルドと、ヴェネチア広場のマルツェルラ亭で話し込む。学生時分ピアノでモスクワ音楽院に留学していたレオナルドは、チェンバロ科の生徒らが、バッハの平均律をムジェルリーニ校訂版で勉強していたのが印象に残ったという。ムジェルリーニはマルトゥッチに学んだピアノ教師で作曲家もよくし、門下からアゴスティのような優れたピアノ教師も輩出している。彼は革新的なピアノ技法を目指したため、ロンゴのような当時のナポリピアノ楽派から激しく非難された。今から100年ほど前、時のサンペテルスブルグ音楽院のルービンシュタインから招聘されたのが、他でもないナポリピアノ楽派創始者のチェージだったことを鑑みれば、当時イタリアで相対していたムジェルリーニの教本を現在も使っているのは、当時のイタリア式ピアノ教育法とは関係なさそうだ。
スターリン以後、イタリアとロシアはつい最近まで、共産党を介して政治的に緊密な関係を保ち続け、リヒテルなどソビエトの演奏家は常に歓迎されたが、現代音楽の分野では全く交流がなかった。スカラ座で初めてショスタコーヴィチの交響曲14番が演奏されたとき、ノーノを初め当時の共産党お抱えのイタリア人作曲家は、誰ひとりショスタコーヴィチを評価しなかったという。

 10月某日
オルガンの新作リハーサルのため、ブスト・アルシーツィオのフランシス修道会の教会へおもむくと、受付口には「サンドウィッチ」と書いてある。前に並んでいたペルー人とおぼしき妙齢は、うつむき気味に紙袋を受け取り小さく礼をつぶやくと、すぐにどこかへ言ってしまった。続いて、「あなた方もサンドウィッチですか」と受付口の痩せた妙齢に尋ねられ、隣にいたアンドレアが「いいえ、オルガンのリハーサルの約束があって参りました」というのをききながら、少しだけ心が痛む気がしたのはなぜか。

 10月某日
満員の特急車内。時速283キロで走っているとの表示。
子供のころから何度となく聴いた水牛楽団の中屋幸吉の「最後のノート」。
誰もいない、何の音もない、真っ暗の宇宙にうかんでいる。目の前に、こちらを凝視する自分の顔も、ぼんやり浮かんでいる。

(10月30日 ボローニャに向かう車内にて)

オトメンと指を差されて(63)

大久保ゆう

たぶん彼と僕は似ていたのだと思う。

出会いは最悪だった。それはたいへん険悪な始まりで、売り言葉に買い言葉、およそ初対面の人間同士とは思えないものだった。

以来、互いに気に入らないといったふうに牽制し合い、それとなくなじり合っては、ふとしたきっかけで口喧嘩をするような案配だった。

そもそも、ふたりとも口が悪かった。言い方は、10ほど下の僕の方が皮肉で慇懃で、年上の彼の方がかなり直截。ただ何かを批判するとなれば正直で、どちらも真剣だった。

それに、好きなものや持つ知識が近かったのもあった。もちろん、同好の士が多い分野について重なっていたのは、複数合ったにしても、偶然と言えるほどのものですらないだろう。

ただ、お互い「詳しい人物がそういるとは思えない」自分たちの職能の歴史について、興味を持ち、深く調べていたというのは、何事にも代え難い共通点だった。

良からぬ仲であるうちに、知らず知らず、信頼のようなものを抱いていったのだろう。最終的に、ふたりはそれぞれの発言に常に共感のようなものを持つに至った。

それに、職業としてのデビューは、同期といってもいいだろう。僕が駆け出しであると同時に、彼も前途有望だった。ただ年の差からか、彼は僕以上に世に埋もれていた時間が長く、その分、少し斜に構えるところがあった。

しかし、それでも僕は、彼がこれからその分野の実作と批評について、傑出した技を見せてくれるものと期待していたし、またそれを信じていた。そしてお互いにその仕事を目にしつつ、様々言い合えるものと思っていた。

僕は、彼の死をその四十九日のあとに、人づてに知った。

結局彼は、公の仕事としては、ひとつしか世に残さなかった。

これから何をどうしたい、老後にはあれがしたい、と先のことは折々語っていたし、またささやかな詩集を編みたい、とも口にしていた。

もちろん、それは叶わぬこととなったし、僕は君と見ることも見せることもできなくなった。僕は彼以上に見せるべき人を知らないし、また彼ほどに読んでしっかりと理解できる人など、いるはずもない。

彼が無念であったどうかはわからない。ただ、彼は生きながらもいつも無念さをにじませる人ではあった。人にバカにされ、軽んじられることに、人一倍繊細だった。世を呪うところさえあったように思える。

そして今、僕は僕のためにだけに君の詩集をこしらえて、ただ自分を慰めることしかできない。

化け物屋敷

植松眞人

 病室を見舞うと、父が周りのナースたちを一瞥したあと、談話室へ行こうと目配せをした。
 まだ、夕方までに時間のある午後。談話室には誰もいない。点滴のパックがぶら下げられた背の高い器具を引きずりながらソファの脇に立った父は、まだ入院して三日目だと言うのに、すっかり手慣れた動きで、ソファの前に回り込んで、座ると言うよりは落ちるようにソファに身体を沈めた。
「調子はどうなの?」
 私がそう聞くと父は、
「調子は悪いやろ。調子がよかったらこんなとこにはおらんやろ」
 と、怒るでもなく笑うでもなく、当たり前のことを当たり前に説明するかのように話す。その醒めた表情は、昨日の夜、ナースを相手に騒ぎを起こした患者には見えない。
 昨日の深夜というよりも今日の明け方、父は巡回に来たナースを相手に騒ぎを起こした。痛み止めの薬のせいで幻覚を見た父が、その幻覚についてナースに説明しようとしたらしい。しかし、ナースは聞く耳を持たなかった。
「あいつらは、僕を子ども扱いしとるんや」
 と憤る父だが、多くの患者を相手にするナースにとっては、父も数多い患者のひとりに過ぎないということはよく理解できる。ただ、この病院のナースは、父でなくても思わず首をひねってしまうような言動を患者やその家族に投げかけたりしてしまう。それが病院の方針なのかナース個人の資質なのか、まだ入院して日が浅いので計れないところがある。
 例えば、夜に病室を訪れると、あるナースが私に、
「今日は泊まっていかれますか」
 と聞いて来たりする。
「いえ、泊まりません。というか、完全看護の病院ですよね」
 と私が問いかけると、そうですか、と私の問いには答えずに立ち去ってしまったりする。そんなやり取りが日に幾度かあり、私自身はなんとなくではあるが、この病院に対して、不信感のようなものを抱きはじめていた。そこへ来て、昨日の夕方の主治医からの話だ。
 話がある、というので主治医と一緒にナースステーションの脇にある小さな部屋へ出向いた。主治医はいかにも時間がない、というようにチラリと時計に目をやってから、「どうぞ」と私に着席を促した。まだ三十代の真ん中くらいだろうか。どうしても、この若造がと思ってしまう。
 その若造が、ポケットからメモ用紙を取り出して、真ん中に画を描き始める。それが父の病気を説明するための画であることはすぐに理解できた。それにしても、下手な画を描くものだ。胃から大腸への流れを描いているのだが、どう見てもすき焼きの鍋の中で豆腐とシラタキが絡み合っているようにしか見えない。
 主治医はその画を描くと、なんども話を行きつ戻りつさえながら、つまりは、余命半年だと思っていた病状だが、どうも今日明日もわからないほど切迫したものだった、ということを私に伝えたのだった。
「年齢が年齢なので、誤診とかなんとか言うつもりはありませんが、最初にわからなかったものなんでしょうか」
 私がそう聞くと、主治医はメモ紙の端っこを折ったり伸ばしたりしながら、胃カメラを飲んで初めてわかるものなので、決して誤診ではない、という部分だけを強調した。
「放射線治療をするにしても、痛みを抑えてからでないと無理だと思われます。そのために、痛み止めをもう少し増やしてもいいかと思うのですが」
「その判断は素人の私にはできないので、お任せします」
 私がそう言うと、主治医は深くうなずいて、では最善を尽くします、と返事をして立ち上がった。その時、私は父には放射線治療の道も残されていないのだと察したのだった。
 いま目の前にいる父は、まだ今飲んでいる痛み止めさえ効けば、治療が始まると思っている。しかし、そのことはもう話さなくてもいいだろうと私は考えていた。後は父の体力次第だろうと私は妙に開き直った気持ちだった。
「なあ、言うとくけどな」
 父は話し始めた。
「ここは化け物屋敷やぞ」
 少し声を落としてそう言った父は、辺りを見回した。
「とにかく、ここはまともやない。夜中になると三つ目の女が現れる」
「三つ目の女?」
「そう。三つ目の女や」
 父はソファから身を乗り出すと、なるべく私に身体を近づけて、声を落とした。
「夜中に病室のドアが開いて、髪の毛の長い女が入ってくるんや。そんでな、こっちをじっと見ながら笑うとるんや。じっと見られてたら目そらされへんがな。ちゃうか」
「そうやな」
「そうやろ。じっと見とるんやからな。目そらされへんがな。そやから、こっちもじっと見てるとな、おでこのところに、タテに切れ目が出来て、三つ目の目玉が出てくるんや」
「怖いなあ」
「怖いやろ。そやから、このことを看護婦に話ししたったんや。そやのに、はあ、そうですか、でしまいや。あいつら、僕を子ども扱いしとるんや」
「いやまあ、そういうわけやないやろけど」
「いや、そうに違いない。あ、それか…」
「それか、なんや」
「ほんまは、みんな知っとるんや。知っとるけど、病院の評判が悪なったら困ると思て、知らん顔してるんとちゃうか」
「そうかも知れへんなあ」
「よっしゃ、そしたら、お前な。お父ちゃんがいろいろ見といて記録しとくから、後で市の広報誌かなにかに投書してくれ」
 その考えが、よほどの解決策に思えたのか、父はこれ以上ないというくらいに笑みを浮かべて、ナースステーションのほうをうかがうのであった。そして、ここまで話すと、父は急に無口になり、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 普段から父とはほとんど会話のなかった私は、それが三つ目の女の話でも、少し嬉しかった。そして、こんなことでしか話せない父と私との関係をとても不思議に思ってしまうのであった。
 父に何か声をかけたほうがいいのかもしれない。そう思って私は父のほうを見た。すると、父は私の背後をじっと凝視しているのであった。いったい何がいるというのか。私も自分の背後を振り返った。すると、父は人差し指を唇に当て、シーッと言う。
「来てるの?」
 私がそう聞くと、父は満足そうな表情で、何度も小さくうなずく。
「大丈夫やって。僕が怒っておくから」
 私はそう言うと、後ろを振り返ると、言った。
「親父がゆっくりできへんから、もう来んとってくれるか」
 すると、父の視界から三つ目の女が姿を消したようだ。父は満足したようにしばらく三つ目の女が立っていた辺りをぼんやり見ていたが、やがて立ち上がった。私は慌てて父の脇に立つと、軽く父を支え病室へと付き添ったのだった。
 後から来た母に、父の様子を伝えると、痛み止めを使い始めてすぐに幻覚が出たという。しかし、いくら痛みが治まっても、ナースに食ってかかるほどの幻覚が出るのでは本末転倒ではないか。そう思った私はナースステーションへ行き、父を担当してくれている年かさのナースに声をかけた。
「痛み止めが強すぎるということはないでしょうか」
 私が聞くと、ナースは少し戸惑ったように答える。
「いえ、他のみなさんと同じ量なので、おひとりだけ強い幻覚が出るとは思えないんですけどねえ」
「でも、幻覚がかなり強いですよね」
 私がそう言うと、ナースは小さくため息をつきながら続ける。
「あれは、痴呆が始まっているんじゃないかなあと思うんです」
「痴呆ですか?」
 意外な言葉に私が少し大きな声で答えると、ナースはその声を抑えるかのように、今度は間を開けずに話し始める。
「ええ、お父様、もっと穏やかな方だったんじゃないかと思うんですよ。それが、昨日辺りから私たちにも食ってかかるようになって」
「なるほど…」
 そう返事をしながらも私は、痴呆ではない、という核心があった。もともと父は穏やかな性格ではない。神経質で、何かあるとすぐに母に当たってしまう気の弱い人だった。そんな父を見るのが嫌で実家を出たのだから間違いはない。この看護婦は父の何も見てないのだと私は思った。もちろん、そこまで期待していたわけでもないのだが、痴呆のせいにする姿勢には、はっきりと怒りを感じた。それに痴呆による幻覚なら、もっと漠然とした部分があるのではないかと思う。あんなにハッキリと自分が見たものについて、切々と訴えているのは、ただ見てしまった幻覚をきちんと伝えようとしているだけだと私には思えたのだった。

 その日からちょうど十日で父は逝った。途中で緩和ケアを主とする病院へ転院してから一週間目のことだった。この病院の主治医も、父の余命を一ヵ月から二ヵ月と見積もっていのだが、終わりは思いの外早かった。
 結局、最後までうまく話せない親子だったが、仕事の合間にわずかな時間だが父と一緒の時間を持つことも出来た。死に目には会えなかったが、亡くなってすぐに駆けつけることは出来た。
 もっと話せばよかったという気持ちはあるが心残りと言うほどでもない。
 それよりも、最後に聞いてみたかったことがある。何度も聞こうとして、聞けなかったことがある。
「もう、三つ目の女は出てけえへんか」
 そう素直に聞けばよかった。

108翠答──夕暮駅

藤井貞和

夕暮駅で、
亡霊を待とう。 どうせ、
金で買ったことばだ、
使いたい。 松虫の息をしている、
9月9日。 犯罪と、
平安文学研究会。
40年まえの、
ちいさなノートがちんちろりん。
休らうかげにかげろう日記、
なんちゃって。 さよならね

(そして11月へ。)

あきがきた

大野晋

ようやく涼しくなってきたと思ったら、もう11月だという。
気づかないうちに一年が過ぎ去ろうとしている。

先日、「手のひらを太陽に」やアンパンマンで有名なやなせたかしさんが亡くなられた。故人を惜しむ声の中で、噂雀たちは身寄りがないといわれる故人の遺産の行方に興味津々らしい。
著作権法では、遺言がない場合には、全く法定相続人がいなくなった著作権は消滅すると考えるのが妥当なのだそうだ。今後、誰がそれを証明するのかはわからないが、証明されれば、50年を待たずしてやなせ氏の著作の一部でも青空文庫に納められるのかもしれない。
そんなことを考えて、ふと、来年の正月に著作権の切れる作家は誰なのか?が気になった。「死せる作家の会」と題された一覧を見ると来年は野村胡堂と長谷川伸が対象になるらしい。今年に続いて時代劇の巨人たちの著作権が開放される。昔に比べると元気がないといわれる時代劇がこれで元気を取り戻せれば、それはそれで望ましいことなのではないか?と思う。ぜひ、銭形平次を下敷きにコミックやライトノベルを創作して、世界に日本の偉大なる先人たちの面白い物語を広めてもらいたいものだ。それができるからこそ、二次創作の価値というものがある。

最近、本屋に立ち寄ると面白いことに気づいた。
数年前までは大きなコーナーを占めていたコミックの書棚が年々小さくなっているが、その中でも女性向けのコミックが年齢層に関わらず縮小されている。この傾向は新刊だけかと思ったら、近所の新古書店(一般にはブックオフという)でも、女性向けコミックの棚が非常に小さくなっている。もしかすると、女性は無駄なものを買わないか、気に入って買ったものを捨てないからかとも思ったが、全体的な傾向らしいので女性の女性誌ばなれが進行しているらしい。
私の若かりし頃は、コミック、マーガレット、LaLa、りぼん、花とゆめと少女を対象にしたコミック誌が花盛りだったようにも感じる。その昔は、男性の漫画家が少女コミックを書いていたものだが、その頃の作家は引退したか、男性誌に移っている。その分、今は女性作家が男性誌と言われる雑誌で連載を持っているのだが。

読書の秋。
昔は漫画の本ばかり読んでいると、それは読書ではないと怒られたものだ。多くの先人たちがコミックの地位を向上させた現在、さて、コミックを読んでいる子供は親に昔のように怒られているのだろうか?
その前に、親たちが読んでいるか?

足りない活字の物語

若松恵子

台風が連れてきた雨がやんで、青い空が美しい。この時期は毎年何だか淋しい。夕方の西日の角度のせいなのか、今年ももうすぐ終わるという反省の念からなのか。無為に過ごしてきた日々への後悔を滲ませながら、ハロウィンの街を歩く。

友人の溝上幾久子さんが送ってくれた案内状を持って、「足りない活字のためのことば」展にでかける。この展覧会は、東日本大震災で被災した釜石市の印刷会社、藤澤印刷所の、廃棄されようとしていた活字を、瓦礫処理のボランティアに入った坂井聖美さんが掬い上げたところから始まる。

津波は印刷所の2階まで達し、そこにあった印刷機と紙はダメになった。部屋いっぱいに活字棚が設置されていた3階は、坂井さんがボランティアに訪れた時には、ほとんどの活字が床にばら撒かれた状態だったという。近年ほとんど使用されていなかったということもあり、配列を失った活字を拾い上げて実用できるように再生することは難しいと、廃棄する事が決まっていたのだった。しかし、金属の活字だけではなく、木や樹脂でできたスタンプや木箱などを見て、これらの活字は文化的に価値のあるものだと感じた坂井さんは、印刷所の了解を得て、持てるだけの活字を土嚢袋に詰めて運び出してきたのだった。

展覧会のために作られた「KAMAISHI LETTERPRESS PRESS」のインタビュー記事で、坂井さんは「古くていとおしいようなものが沢山ありました。」と語っている。展覧会ではこの活字たちにも会えるのだが、ひらがなたちは、まろやかで美しい。

坂井さんが釜石から持ってきた活字は、縁に運ばれて、銅版画家の溝上さんに託される。溝上さんも震災後、それまでにはない、さまざまな思いが自分のなかにうまれ、少部数でいいから、なるべく手作業で本をつくろうと手動の活版印刷機を手にいれていた。最初は釜石のレトロなイラストや屋号の活字でポストカードなどを作っていたが、「この量のひらがなの活字があって、もし、ことばがあれば、なにかできるのではないか」と思い至る。釜石の、足りない活字で印字できる詩をつくってもらう、使える文字が限られるという制約の中で詩や短歌をつくるという試みに、12人の作家たちが応えて今回の展覧会になった。釜石の活字で印刷された短歌や、詩に4人の版画作家の絵が添えられている。

静かな午後に、活字によってかたちを与えられた心をゆっくり眺める。

バラバラに床にこぼれてしまった活字は、こぼれてしまった心のようだ。そして、ひろいあげた人の手から手へ渡って、再生した活字は、再生した心のようにも思える。たとえ足りない数のままでも。

馬喰町の「ART+EAT」での展覧会は11月2日までということだが、坂井さん、溝上さんによる活字ユニット「KAMAISHI LETTERPRESS」は藤澤印刷所より譲り受けた活字をつかって、作品&ペーパープロダクトの制作、各地での展示企画をこれからも続けていくそうだ。私も会場で溝上さんがつくった「うみとそらを分け合うノート」を買った。これからの活動も楽しみにしている。

音の記憶

璃葉

ひとつの音から匂い立つ化物は
記憶の衣装を纏い
月を塗りつぶし
舞台幕の色を変えてしまう

あの道の香りが心臓に燻る
微かな息は 去った夜に隠れ
寝台に捧げた歌は灰になる

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写真論

管啓次郎

  5 
詩にvouloir-direはない、と誰か哲学者がいっていた。詩は別に何もいいたいことがないのだ、詩それ自身以外には。詩がいいたいのはまさにその詩が詩としてあるそのことだけ、それで「マウイ島ラハイナの海岸で砂に埋もれたまま立ちつくす墓標のかたわらにぼくも佇みラナイ島越しに沈んでゆく夕陽を見ていたことがあった」と私が書くとき、それはまさにそういうことなのだ、背後はない、寓意も、教訓も。詩のdictionに要約はいらない。詩が実現した並びはそれ以上の置き換えを求めない、なぜなら詩人がその流動を止めたから。詩人がその獣を殺してしまったから。それは写真家がシャッターを押すのとおなじこと、スナップ(噛み付き)が世界の動脈を食い破り、「一瞬」の名のもとに複数の時を整列させたのだ。詩と同様に写真は要約できない。詩と同様に写真はあまりによく死んでいる。

  6 
「失敗した写真なんか、ない」(Ben,1956-2000)。そうだよ、何も映っていなくても写真は「存在する」だけで成功だ。その先にどんな判断や評価をもちこもうともちこむまいと、写真は人が生きる時間をたしかにarrestする、攪乱する。だからといって詩と写真が似ているといえるだろうか。私にとって詩はむしろ絵画に似ている。「アヴィニョンの娘たち」が視点の不自然な背反を含むように、ひとつの視点、時点からはけっして見えないものを描くように、詩も時間をわたり場所をさまよいつつみずからを書こうとする。それはパンクローヌをめざすパントープの作業。絵画の画面は時間の廃棄の反対だ。絵画は時間を表面として造形する。見る者には絵画において初めて経験する時間がある。写真はどうか。写真が構成する時間の奥行きは映された事物のさまざまな時間の奥行き、写真がめざすのは多数の集結によりひとつの絵画的な表面にいたること。

  7 
音楽について若い友人と話した、「音楽は時間の芸術だというよね。音楽の時間は要約できない、短縮しても延ばしても曲は台無しになる。一瞬ごとの音はそれをリアルタイムで耳にしているとき、まだ音楽ではない。ただ音が消えて次の音にその場を丸ごとゆずりその連なりが瞬間ごとにもやもやした回想として組み上げられたなら、消えた音の印象のことをわれわれは音楽と呼び、良いとか悪いとかすべてが無音の回想の中で言葉に語られる」。それからひとりになり詩のことを考えた。詩は紙の上の言葉として目に見えるものであっていい、だが見えなくてもおなじこと。心が言葉のつらなりを瞬時に回想し、思い出したそのときのもやもやした印象が心を動揺させる(そのとき言葉は姿を消している)。それから写真を考えた。目の前にあるとき写真は見たいだけ見ていられる、だが写真の感動だって本当は回想の中にあるのではないか。くりかえし回想される写真、目の前にない写真、思い出の中で、しだいにぼやけ薄れてゆく写真、忘れてゆく輪郭、色彩。薄れながらなお、人にいつまでも呼びかける、何かの痕跡、存在の名残。

オスプレイ見る

仲宗根浩

十月はじめ、仕事で浦添の方へ行き、用件すべて終わり駐車場へ向かう途中、見ましたよ、初めてオスプレイを。プロペラを上に向けて普天間飛行場へと向かっている。オスプレイ配備されて一年経ってやっと。一機だけど低空ではっきりと。かなりの迫力。

かなりぐうたら過ごしていたある日の深夜四時過ぎにふらっと外に出る。こんな時間はいつも行く店は開いていない。閑散としたゲート通りまで出ると天ぷら屋さんが開いていた。ちらっと入り何か食べられるものはあるか物色していると、フィリピンバーのおねぇさんとバンドマンらしきひとたちに天ぷら屋さんまでにエスコートされた酔い客二組。食べ物を調達してどこやらへ行った。こっちは小腹がすいたので買ったタコスお握りを天ぷら屋の前のベンチで食べる。隣は泥酔して眠っているおじさんひとり。ふらふら歩き、かえる。

ある日、仕事から戻るとガキが使っているパソコンの画面がハードディスクをチェックしている状態で延々と続いていて画面が変わらないみたい。聞くとずっとこの画面だという。ハードディスクが飛んだかな。パソコン本体のハードディスクのアクセスランプを見ても点灯していないし。OSのディスクを入れるとちゃんと認識する。ガキにはハードディスクだめだからディスク交換してリカバリが必要なことを伝える。バックアップは取っているか確認すると一切なしとのことではい残念。1テラバイトのハードディスクはおしゃかとなった。外付けの500ギガのハードディスクがあったのでそれと交換する。ガキにはハードディスクのマスターブートレコード部分が損傷した可能性が高いこと、パソコンが起動するための仕組みを説明しながらハードディスクの交換をさせる。BIOSとかブートディスクの順番とか一通り説明したけどちゃんと理解しているかはあやしい。ソフトの操作は覚えるのははやいが、どのような順番でパソコンが起動しているかわかっているのか。

十月は台風がたくさん来たおかげでやっとこちらも涼しくなる。よって十一月からネクタイ出勤になった。ネクタイするだけで涼しさなくなる。

製本かい摘みましては(93)

四釜裕子

「茅葺きの壁」なるものがあるという。壁が茅葺きって、どういうことだ。骨格を組んだ建物の周りにヨシズやヨシの束を巻きつける海の家のようなものだろうか。でもそれでは「葺いて」ない。大きな茅葺き屋根が地面すれすれまで垂れ下がる竪穴式住居のようなもの? ならば最初からそういうだろう。現場は北上川河口近く。車を乗り継いで行くと、角刈りしたガリバーがむこうを向いて寝そべっていて、その頭だけが人の目にうつるかのごとき物体が現れた。笑う。奇妙。だがきれい。なでなでしたくなる。秋の陽射しを浴びたやわらかな陰影ゆえか。茅が垂直に整っていて、たしかに壁だった。

茅葺き屋根の施工・修復を手がける熊谷産業の倉庫である。社長の熊谷秋雄さんが、おそらく日本で初めて茅を葺いた壁で作った建物だ。オランダのキンデルダイク地区の水車は壁が茅葺きで、その技術を応用した茅葺き壁の近代建築がオランダにはいくつもあるそうである。それを見た熊谷さんは日本でもと思ったが、需要がなかったそうである。東日本大震災は北上川河口域にも甚大な被害をもたらした。熊谷さんのその後の新しいスタートのひとつは、やりたいと思いながらやらずにいた茅葺き壁を、失った自社の倉庫に試すことだった。壁に板を貼るルーバータイプや壁面緑化をとりいれた建物が増えている。茅葺きの壁というアイディアと、なにより建物としてのこの愛くるしい魅力は、多くの人を惹き付けることになるだろう。

改めて思うと、壁が茅葺きというのは格別奇抜な発想ではない。でもどうしたわけか茅葺きと聞けば屋根に限る印象を持っている。実家の近く、寒河江川をはさんだ対岸に茅葺き屋根がみごとな慈恩寺という寺がある。隣りに三重塔もあるので授業で何度もスケッチに行ったし、お祭りや初詣でにも行っていた。本堂の屋根の葺き替えは平成に入ってからもやっていたはず。熊谷さんに「慈恩寺という小さなお寺がありまして……」と話し始めたらもちろんご存じで、さらに、「『さらや』って知ってます?」。地元で人気の焼き鳥屋のことだ。さすがよく働きよく食べる方。余談だが「皿谷食堂」という人気のラーメン屋も市内にある。

実家の隣りも茅葺き屋根だった。二階の西側の窓から月山が見え、目を落とすとその家の縁側が丸見えだった。おばあちゃん(うらばあちゃん)がよくそこに腰掛けて編み物をしていた。うらばあちゃんが作るのはマフラー(首巻き)やベスト(チョッキ)で、デザインはどってことないが編み柄と編み目が抜群だった。いくつももらったし、編み方を教えてもらい、真似もした。近隣で唯一残る茅葺き屋根の家である。子どものころ一度だけ葺き替えしているのを見たことがある。近所の爺さん父さんたちが総出で屋根にのぼり、婆さん母さんたちは黒ゴマと黄粉をまぶしたおにぎりなどを作っていた。材料の茅(ススキだろう)がないからもうこれが最後と聞いたが、本当のところはどうだったのだろう。

茅葺きの壁を見た一週間後、新潟の角田山妙光寺に行った。巻駅から車で15分くらい、モダンな建物だ。左側に見える本堂の屋根に目玉状の窓がひとつ、こちらを見ている。回廊をくぐると全面板張りの中庭のようになっていて、右手にある客殿からも眺められるようになっている。客殿に入って驚いた。茅葺きの屋根をはずした古い建物が、周囲を土間として鉄骨で覆われた鞘堂として保存されていた。天井は白い木肌そのままに格子状に組まれており、角度によって立体的に浮き上がって見えてくる。美しい。

その数日前の製本ワークショップで作った小さなノートを思い出していた。太い麻糸を背綴じ紐としてかがり、表紙に豚革を貼り、麻糸をくっきり目立たせた小さなノートだ。簡単で古くからあるこの方法では綴じ紐が目立つしかなくて目立つのだが、時代がくだると、綴じ紐がないのに見た目だけまねた背バンド装幀が流行したのだった。茅葺きの壁と茅葺き屋根をはずした建物の関係と背綴じ紐がある製本とない製本の関係になんら共通するものはないが、重なったのだった。

掠れ書き34 演奏のための作曲

高橋悠治

演奏の場、プログラムと演奏者を、楽器というよりは、思い浮かべなら、そこにまだない音楽を作る。作曲は演奏台本以上のものではなく、音楽は手のとどくところにある。そんなありかたが自然で、その場の音楽は、音楽とは何か、なぜ作るのか、のような普遍的な意味をもたないし、論理でも倫理でも美学でもない。一つの音を置く、次の音を置く、それを続けるだけ。音に順序があるか、重なって層を作るかのちがいはあるだろう。

音を重ねることはいままでにたくさんの試みがあった。和声・対位法から塊としてのノイズまで足し算で。それを演奏するのに多くの人間を必要とし、組織・構成・統制・管理の方向に発展して、経済問題に行き着く音楽がある。蓄積するレパートリーで、もう別な音楽はいらないが、時々はまだ余力があることをみせるために新作初演、であり終演をおこなうオーケストラがある。

室内楽は小さいグループの楽しみではなく、小さいオーケストラと似た組織をもち、レパートリーをもつか、その場限りの集りのために作られ忘れられる音楽を作りだしてきた。

音を順序に並べること、メロディーには、次の音との距離、音程と間の2次元の操作がある。小さなグループの間でなら、音を受け渡すこともある。そこに線の濃淡、音程や楽器のもつ色が自然にあれば、演奏空間のなかでの音の配置と変化が、会話のように音楽を続けていく。音の身体配列が物語を織る。こういうやりかたのほうが好ましい。

ひとりでピアノを弾いていても、左手と右手のちがい、それぞれの指のちがいがあり、和音は同時でなく、すこし崩して、それぞれの音の姿を見せる。くりかえされるリズムも毎回わずかにアクセントをずらして、別な波が生まれる。

音頭取りと全員の呼びかけと応答という古い合唱のかたちがある。リーダーはいらない。フレーズに応答はいらない。答えのない問だけでいい。断片が中断され、別な断片が介入する。中断された断片の続きは、逸れてちがう方向へ曲がる。

多くのものはいらない。意味や理解を押しつける音楽ではなく、問いの歩みに引き込む音楽。

ギターが消えた(その3)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

「あるときはですね、水瓶を積んでラチャブリから来たトラックが水瓶ごと消えたんです。夜遅くにその水瓶を積んだトラックが検問所を通りかかったんですよ。静かに通ってれば何も起こらなかったんでしょうがね。『トゥム(水瓶の方言)だよ、トゥム。ラチャブリのトゥムだよ』と宣伝している声が警官の耳に入ってなかったらね。怪しいのは、トゥムというのが、パッタルン地方だけの方言だからなんだ。それで水瓶トラックの泥棒だとわかって逮捕されたんですよ」

このようなはなしを次々聞かされれば聞かされるほど、わたしの期待は薄れて行く。脳裏に浮かんでくるのは、友人の淡い緑のギターがどこかの家の壁に記念品になってかかっている光景ばかりになってしまった。もしも本気で探したらどこかしらの家の中で見つかるかもしれない。が、それは頭の中ではできても現実にはできないはなしだ。パッタルンの人間がかれらのはなしに出てきたような人間ばかりではないし、悪人ではない人たちも少なからずいるに違いない、とわたしはまだ信じてはいたが。。。

パッタルンとパッタルンの人たちについての知識が頭をかけめぐっていた。パッタルンの人間がいろいろと語って聞かせてくれたからだ。それもこれも2台のギターが跡形もなく消えてしまったことから起きている。かれらのはなしを聞いてしまうと、ギターがもどってくることはないだろうという気になった。でも、まだ希望は捨てていなかった。

「もしも見つけたら、咎めないし、買い戻すからと言って持ってきてくれ」
わたしは本気でそれだけ投資するつもりでいた。

グループの中でも静かにとはいえ解決への動きが始まった。ギターの持ち主は新しいギターを手に入れるため、お金を稼いだり、貯めたり、借りたりしていた。消えたギターのうち練習用に使っていた小さいほうは、日本製だった。なくなったものと観念した彼は財布をはたいて新しいのを買ってきた。3000バーツもしないものを。すごく嬉しそうに満面の笑みで、以前どおり酒でも飲める気分になっている。

それから1週間余りが経った。
ある午後のこと。電話が大きな音をたてた。わたしの携帯だ。ギターについてのいい知らせだった。

「もしもし、1台みつかりましたよ。買い戻しました。もうひとつの高いほうのは、盗んだ奴がわかって、付けて回りましたよ。それで買い戻したいと言ってあります。売らないなら警察にお前をしょっぴかせるぞと脅してあるし。必ず取り戻しますよ。パッタルン人の誇りにかけても取り戻すと保証します。そうそう、買い戻すために払うお金ですが、払わなくていいですよ。ぼくが払います。責任取ります。心配しないでください」

これを聞いてわたしは、パッタルンとパッタルンの人びとが好きになったのだった。
(完)

初出誌:『ラフーオムジャン』第1号 2006年4月

しもた屋之噺(141)

杉山洋一

息子がどうしても行きたいと言うので、遅めの夕食に、散歩がてら「カジキマグロ亭」まで出かけ、二人で人気のないサヴォナ通りを歩いていると、雨が少し降ってきました。夏季休業前日に顔を出して以来ですから、古ぼけた「カジキマグロ亭」のドアを引くのは2か月ぶりでしょうか。色とりどりの珍しく「お誕生日おめでとう」のカードが天井から垂れていて、壁のあちこちには風船が飾られて、何十年も老夫婦が二人で営んできた場末の食堂にそぐわない、賑々しい雰囲気です。店は既にほぼ満席でしたが、こちらに気づいたコックのジョゼッピーナが厨房からでてきて、南の人らしい慇懃な抱擁で迎えてくれるのは、何時もと同じです。
「息子はトマトのパスタで、こちらはあの鰯の」と何時ものように応えると、だしぬけに「これは最後の晩餐よ」と言いました。
ジョゼッピーナは自作の宗教詩で何度も受賞し、油絵も描く才女。ましてや敬虔なカソリック信者ですから、イエスの最後の晩餐がどうしたのだろうと、二の句を待っていると、
「今日でお店を閉めるの。8月末に或る中国人が訪ねてきて、この店を売ってくれって。とても好い人なのよ。ペッピーノと二人で少し考えて、多少の交渉もしてね。売り払うことにしたの。お寿司屋さんにするそうで、家具をすべて中国から持ってくるとかで、明後日この鍵を彼に渡すのよ。今日は奮発して活きのいい鰯をたくさん前菜に入れたから、食べて行って頂戴ね」。目は涙ですっかり潤んでいて、もう一度抱擁してから、厨房へ消えました。

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 9月某日
都響とのリハーサルの合間、野平さんに「何時どのようにこれだけの量の作曲をこなすのですか」と尋ねる。家で時間の許す限りいつも机に向かっていて、演奏と作曲の切替えだけは、長年の訓練で出来るようになった、とのこと。

 9月某日
今日の本番中、実は西村作品の一本締めの掛け声をどうするかずっと悩んでいて、後半西村作品が始まっても未だ決めかねていたが、途中寺本さんが実に好い感じに独奏を吹いて下さって、漸く踏ん切りがついた。

 9月某日
7月に続いて指揮のワークショップ。日本人はやはり吞み込みが早い。棒を振って音を出させるのではなく、棒に思いを籠めるのも違うと説明する。「啼かぬなら、啼かせてやろうほととぎす」。力技ではなく、時鳥が思わず啼きたくなるよう、前以てそっと仕掛けを忍び込ませる。

 9月某日
神楽坂でKさんとトンカツを食す。美味。今後日本のクラシック人口は減り続けるという話。今現在音楽会に足繁く通う世代が、20年後未だ演奏会に来ることが出来るか。彼らより若い世代に、クラシック音楽は果たして浸透しているか。必要とされているか。Kさんは、自分は醒めているからと謙遜していらしたが、客観的に現実を見つめる勇気と重みを痛感。

 9月某日
現音計画演奏会。生まれて初めて4分の曲を振るべく本番の洋服を用意。大袈裟だと内心笑っていたら、間違えて茶色の革靴を持ってきてしまった。有馬さんから黒靴を4分間お借りした。
ドレスリハーサルに一柳先生がいらして下さった。「6、70年代、我々の時代は所謂ローテクでね。ハイテクではなくて…」とのお言葉に、内心「我が意を得たり」と膝を打つ。ハイテクよりも寧ろローテクの方が、ずっと各人の個性を反映させ易いのではないか。ハイテクのように個性までブレンドする能力は、ローテクは持ち合わせていない。

 9月某日
演奏会に足を運んで下さった音楽大学の作曲科の学生さんらにメッセージを、とのリクエストに応えて。
「…作品について細かく説明すると、気持ちがわるくなってしまうかもしれません。「耳なし芳一」という怪談がありますね。作品は言ってしまえば、あんな感じです。楽譜は最初から最後まで全部書いてあります。即興の部分は、オスティナート上の打楽器くらいでしょう。音列はサロウィワのお墓の周りで歌われていた、キリスト教の賛美歌から取られていて、音列の変化、リズム構造は、彼が処刑される直前に書いた声明を一字ずつ転写したもので、声明の内容は相当きついものです。何しろ弁護士もつけられないで、一方的に死刑を宣告され、殺される直前に書いたものですから。
ラジオは、ナイジェリアの現在のFMを幾つか選び、それぞれ8時間くらいずつ録音して、500箇所くらいずつ頭だし出来るようにし、それらが互いに同期しないようにしながら、ランダムに鳴る仕掛けになっていて、リズムは細かく決まっています。これは言ってみれば、ナイジェリアの空気のようなもので、一方的に美化する気もない。ナイジェリアは、いくつか大きな部族があって、オゴニのような少数部族をしめつけていると言われます。これらのFMは、オゴニ側のFMではありません。その他、大多数です。ノイズは単純にサロウィワの最後のインタビュー全部を、200回重ねたものです。
最初から最後まで、それだけです。スコアは存在しなくて、進行表によって演奏が進められます。敢えて通俗的に聴こえるよう、最初からずっと書いてあって、最後に、芳一の耳だけが見えるように、本人の声が少しだけ聞こえる。ところが、実は最初から演奏された全ての音が彼の言葉そのもので、その上に本人の無数の声がかき消すように挟み込まれて、それが最後に一つの声として認識される。まあそんなところです。
あなた方が作曲を学んでいるので、ここまで詳しいことを申し上げたけれど、別にそんなことはどうでもいいんです。ぼくが、あなた方にいえることがあるとすれば、これから先できるだけ、「なぜだろう」、と自らを問いかけるようにしていってほしい、ということです。自分は「なぜ」作曲をしているのだろう。「なぜ」生きているのだろう。「どうして」死んだのだろう。「なぜ」それは起きたのだろう。「なぜ」それは起きなかったのだろう。
こうすれば、こうなる。現象論とでもいうものかもしれないが、それですべて生きてゆこうとすれば、あなたの人生は、とても薄っぺらいもので終わってしまうのではないでしょうか。こうやれば、よい学校に行ける。こうやれば、コンクールに通る。こうやれば、人生で勝利をつかめる。ぼくは、結果よりも、そこに至るプロセスと、そのきっかけとなる、「なぜ」が大切だとおもいます。
最近は啓発本とか、僕も読みましたが、ああいうのが流行っていますが、あなたの人生は、やはりあなたのやり方でしか切り開いてゆけないとおもう。いや、絶対的に切り開かなければいけないのかも、もしかしたら分らないです。みなが同じように物を考え、同じようなものをたべ、同じように平べったい意見をいいあって、それってどうなのでしょうか。
サロウィワの告発は、もちろん僕にとっては311以降の思いそのものです。「なぜ」それは起きて、「なぜ」人が沢山死んで、「なぜ」現在の状況はこうで、「なぜ」みな生温かい言葉でオブラートに包んで、刹那的に生きなければならないのか。それで本当に幸せなのか。
最初からずっと通俗的、世俗的な音楽に見えるでしょうが、それは全て彼の骨の関節一つ一つのようなものです。聴き手は気がつかないまま、最後まで聞いてゆく。別に、どうやって書いたからよいとか、わるいとか、気にすることはないと思います。「どうして」自分はこれを書きたいのか、「なぜ」書くのか。「なぜ」書かないのか。「なぜ」、そんなことを思って、音楽と向き合えば、それがたとえ現代作品であろうと、クラシックであろうと、自らの意思が少しずつ研ぎ澄まされてゆく気がします。
別に政治的である必要もないし、メッセージを伝えなくてもいい。でも、そこに「なぜ」という確固たる必然が、やはり常に必要だとおもうんです。僕があなた方にいえることは、たぶんそんなことくらいかな。歪であっても、そこにそれたらん意味があるものと、どんなに見かけがよくても、何の存在理由もないもの、どちらを選びたいか、という問題です。それはそのまま、あなたの人生観につながるかもしれません。聴いてくださって本当にありがとう…」。

 9月某日
現音計画の新作を書いてみて、自分の作曲においては、全ての事象がパラメータ化出来ることを確信する。聴く側にとっては、作風が違って聞えるかもしれないが、作曲の本質は全く変わらない。音を自分の皮膚から引き剥がして、音そのもので存在してほしい。
ところで、今もし本当に戦争が起きたら、オーケストラ作品を書きたいと生まれて初めて切望するかもしれない。今まで純粋にオーケストラ作品を書きたい欲求は皆無だったが、少しずつ戦争に対する恐怖が、実感されるようになっているからだろう。夏休み、日本で過ごす8歳の息子が、夏休みでエジプトに戻っているクラスメートの安否を心配して、ニュースに熱心に耳を傾け、9月にミラノの学校から戻ると、真っ先にクラスメートの無事を話してくれたこと、エミリオの息子が大学で国際司法を勉強し、今はコンゴで国連の難民登録に従事していることなどに端を発して、さまざまな思いが頭を巡る。
例えば大オーケストラに指揮者が二人おいて、それぞれが指揮官のようにコマンドを出す。こう書くとクセナキスのようだが、実際に使われる素材を、進行中の戦争に関わっている国々の国歌や軍歌、召集ラッパ、葬送行進曲などから選ぶとなると、ずいぶん印象は違うだろう。作品として成立させるよりも、半日ほどかかるイヴェントとして、死者の数をリアルタイムに音楽に反映させる方法もあるかもしれない。
現実的にオーケストラをそんな風に使うことはできないだろうが、それ位強い意志がなければ、伝えられないものもあるのではないか。兵士が死ぬサイン、市民が死ぬサイン、女が死ぬサイン、子供が死ぬサインと予め決めておき、死者の数を速度に反映させることもできる。ただそこには、どうしても自分の主観を介在させたくない。敵味方という括りも、多分できない。100パーセント正義の戦争など、存在し得るのだろうか。
この場合、オーケストラという特殊な集合体は、象徴的な意味合いを帯びるに違いない。無数の響きは、一人ひとりそれぞれ意志や個性をもった人格が、うずたかく重なり合いながら造りだされるものだから。戦争を起こしては、絶対いけない。非国民と言われようが自分の家族はどんな形でも生きていてほしい。敵と呼ばれる兵士の一人一人にも、家族はかならずいる。人を一人殺すことが殺人で、大多数殺すことが正義など、どうしても納得できない。

 9月某日
沢井一恵さん宅にお邪魔して、17絃で「六段」を聴かせて頂き、涙がこぼれそうになった。子供のころから、功子先生との演奏で数えきれないほど聴いた筝の音は、身体が覚えているのか、皮膚にすっと馴染むようだった。
夜はユージさん、美恵さんと味とめ。ワサビ漬けとヌカ漬けという二種類の秋刀魚を頂く。美味。三宅一生の日本での最初のファッションショーを、ユージさんと一柳先生が4手ピアノで伴奏した話。演奏曲目はドリー組曲やケージなど。

 9月某日
ミラノに18年も住んで、プロメテオやらオペラやら何度となく一緒に仕事をしているのに、アゴンのスタジオに今まで一度も行く機会がなかった不思議。セスト・マレルリ駅から歩いてカーターのリハーサルに出かけると、実際は駅から6、7分の距離なのだが、すっかり道に迷って40分ほど彷徨った。ピレルリの工場跡地なのか、荒んだ巨大な建物が立ち並ぶ一角にあり、これから再開発も始まるようだが、道すがらネズミが叢を走り回るような、捨て置かれたような風情が漂っていて、国鉄の陸橋を越えて錆びた鉄門を入れといわれても、どこの鉄門も錆びていて、どれだかわからなかった。
カーターのトリプルデュオは実に難しいけれど、三日間演奏家と丁寧に音を読んで分かったのは、指定の速度を目指して音楽を過呼吸状態に陥れるより寧ろ、三つ重なり合う二重奏のタクトゥスが見えるよう、音のあいだに空気を通す大切さだろう。思いもかけない美しさに、目が覚める思いがした。

(9月30日ミラノにて)

蓮の花

三橋圭介

2年前に蓮を購入した。すでに花のつぼみがついているものだった。睡蓮鉢に入れ、数日たのしんだ。色は白。その後、次の年を楽しみにまっていた。しかし葉もでてこない。もうだめかと思い、睡蓮鉢からだして放置していた。ただ、もしかして、まだ生きているかもと思い、少量の水は常にいれていた。3ヶ月くらい前だが、蓮からちいさな葉がでているのを確認した。めだか専用だった睡蓮鉢にふたたび入れた。葉は小さいが数週間で葉を増やし、ぐんぐん成長した。時期が遅いので、花は期待できないが、水面に浮かぶ睡蓮の葉は、めだかの日傘にもなって心地よい。

4日前、水草のなかに花芽を見つける。葉の速度と同じく、すぐに水面を越した。そして昨日、花が咲いた。2年前、白色だった花は、なぜか濃い紫に変っていた。水面に顔を出したその花は、息を呑むような美しさだ。花が咲くときに音がするとよくいわれるが、音はしなかった。きっと人間の耳では聞こえないくらいの音はするだろう。ただ、かたく結ばれていたものが開くとき、「ぽん」とはじけた音がしたような気がするのかもしれない。あるいは日本の情緒的な心がそういう音を求めている。わたしは現実には聞かなかったが、聞こえそうな気がしたし、心のなかで聞いたのかもしれない。2時間くらい花が開いていくのを見ながら、時々、写真を撮ったりした。

月を見ていると動いているのを実感することができる。どこかに視点を合わせ、そこからすこしずつ月が動いているのがわかる。花は、その生の変化を実感するには、微細すぎてとらえどころがない。しかし30分前とは明らかにちがう姿を発見することができる。蓮の花は3日ほど起きたり睡ったりを繰り返す。今日は2日目、もうすでに午後なので花は咲ききった。あともう1日楽しみがある。

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107翠問──以下の問いに答えなさい

藤井貞和

以下のa〜hは新聞記事の見だしを集めた箇条です。いつごろの記事でしょう。

① 2013年8月〜9月
② 2005年7月〜8月
③ 2011年3月〜4月
④ 2020年11月〜12月

a・海水から放射性物質―ヨウ素131法定限度の126倍、「過度の心配は不要」専門家―現場海産物 流通なし   b・海水から1250倍 放射性物質―放水口付近 建屋地下で漏出か   c・2号機 放射線1000ミリシーベルト超、たまり水―抑制室損傷か   d・2号機高汚染水 溶融燃料と接触 安全委―炉心損傷認める、「格納容器から直接流出」   e・圧力容器 破損の疑い、「高熱で底が貫通か」 大量の汚染水 処分困難   f・プルトニウム、燃料棒溶融裏付け―敷地外も測定検討 プルトニウム「微粒子、水と流出か」   g・2号機 亀裂から海に汚染水 流水箇所、初の確認   h・低汚染水 海に放出―1万トン、最大で基準の500倍 高濃度水の保管先確保   i・「水棺」冷却を検討―政府東電 圧力容器ごと浸す   j・冷温停止6〜9カ月―東電が工程表発表 2段階目標、1〜3号 水棺に

(答え③。なお云えば、a 2011年3月22日夕刊、b 3月26日夕刊、c 3月28日朝刊、d 同・夕刊、e 3月29日朝刊、f 同・夕刊、g 4月3日朝刊、h 4月5日朝刊、i 4月8日朝刊、j 4月18日朝刊 〈いずれも東京新聞〉)

アジアのごはん(58)タイピンの砂煲飯

森下ヒバリ

宿の向かいの年季の入った茶室で、連れと朝のお茶をする。カスタード入りの中華まんもひとつ。紅茶やコーヒーのカップがレトロで渋い。緑色の絵が付いたこのカップ、マラッカの骨董屋で売っているのを見た。マラッカの古いショップハウスを改造したヘリテージホテル、ホテル・プリでもこのカップを使っていた。この店のは、一体いつからどれだけ使っているのか。店の主は華人の白髪じいさん。

マレーシアをマラッカから北上してクアラルンプール→イポー→パンコール島を経て、ここタイピンへと旅して来た。店の一角には、幾つかの七輪と積み重ねられた小さな土鍋、漢字で「砂煲飯」と書いてある段ボールの張り紙。「SAPHOHAN 5RM(リンギット)」とも書いてある。「‥あれはたぶん広東系の釜飯やと思うわ」「え、食べたい!」夕ごはんはこの店で決まりだ。店を出ると、正面にわれらが宿の北京ホテルが見える。

北京ホテルは1927年築のまさに「天然」ヘリテージホテルである。実態は古い年季の入った旅社(中華系の簡易宿)なのだが、単なるボロな安宿ではなく、ほとんど改築せずに建築当時の様子がほぼ保たれているのだ。もともとはタイピン(太平)華人のサロンであったが、のちに旅社となった。ファサードのりっぱな二階建ての一軒家で、白く塗られた壁、すり減った木の床、チークの黒光りする階段、幾何学模様のタイル、ところどころに埋め込まれた装飾タイルが美しい。通りの向かいから眺めると、あれ、右の奥の屋根の瓦がちょっと崩れかけている‥。まあ、うちの部屋の上じゃないから、いっか。

二階の、ちょうどファサードの真上に当たる部分は共用の広間になっていて、テーブルやイスが置いてあり、三方に向いた窓がついている。古びた木枠の窓に嵌っているのは黄色と緑と青の古い模様ガラス。あ〜、この窓ごと持って帰りたい。なんという愛らしさだ。「お、気持ちいい〜」連れが乱暴にガタガタと窓を開け放つ。「て、ていねいに開けないと! 窓枠ごと落ちたらどうするの〜」窓の向こうにタイピンの街並みが広がった。ちょっと南洋を愛した金子光晴の気分だ。

あんまり古い宿は、好ましくない雰囲気が漂っていることも多いのだが、ここは大丈夫。宿のスタッフもあっさりと感じが良い。もっとも水回りの設備の老朽化や窓のがたつきなど、人に宿泊を自信持っておすすめできるレベルでは到底ない。でも骨董好きとか古い建築好きな人には見学してみてほしい宿である。

朝のお茶のあとは、街の散歩だ。あちこちに現代風の建物はあるものの、旧市内は基本的に古い南洋華人式ショップハウスで出来ていた。もう、歩きながら建物に気を取られて、キョロキョロしっぱなしである。あ〜楽しい。今風に改装したり、ピントはずれにオシャレにしたりしていない。昔のままの建物を普通に使って、生活しているところがいいんだな。

南洋華人(海峡華人とも呼ぶ)というのは、14世紀ごろから広東や福建、潮州などの華南地方から東南アジアに移住してきた中国人のことである。財を成した彼らが建てたのは中国風と西欧建築のミックスしたレンガ造りの丈夫な建築物で、マレーシアのマラッカ、イポー、タイピン、ペナン、などではその建築物がいまもたくさん残り、使われている。

ショップハウスは一階の間口が狭く、ウナギの寝床のように奥の深い建物で、何軒もつながって建っている。一階は商店や事務所として使い、二階が住居。通りに面した面積で課税したためにこういう造りになったというのも、京都の町屋とそっくり同じである。

ペナン島のジョージタウン旧市街が世界遺産になったのは、家賃統制が長く続き、店子が何世代も動かずに居住しつづけ、取り壊しを免れた歴史的建築物がほぼ町ごと残ったためである。こういうシックな海峡華人建築はタイにもあったのだが、ほとんどが取り壊され、わずかに痕跡を残すのみとなっている。同じく、色つきガラスの窓を持つ、和平飯店・ピースホテルという旅社もあった。壁にはかわいい装飾タイル。1930の文字。ここの一階は大きな茶室である。あんまりおいしそうな気配はなかったので、次のブロックまで歩いていくと賑わっている茶室があった。

店は「太平豆水茶餐室」という名前で、文字通り豆乳ドリンクが名物のよう。白い液体に黒い豆などが入った甘そうな飲み物が運ばれていく。茶室というのは食堂ではあるが、店自体は飲みものだけを扱う。店の表や一角に食べ物屋台が場所を借りて店を出し、茶室のテーブルで客が食べる、というのがマレーシア中華食堂方式だ。この茶室には、マレー系のおかずかけ飯屋、中華系の鶏飯屋、そして経済飯という中華系のおかず屋が軒を借りている。連れは鶏飯、わたしは経済飯にしよう。経済飯もおかずかけごはんで、皿にまず白いご飯を盛ってもらい、トレーに入れられた何種類ものおかずの中から自分で好きなおかずを取ってごはんの上にかける。おかずをかけたら、その皿を会計係に見せると、量を見て値段を紙に書いて渡してくれるので、その金額をあとで払う。タイでは、一種類いくら、二種類のせていくらと値段が決まっていて店の人がごはんにおかず載せるのがふつう。タイよりもこの経済飯システムの方が、肉を入れないとか、ナスたくさんとかいろいろ自由度が高くていいな。ナスとひき肉あんかけ、キャベツ炒め、卵焼きをのせて4.5RM。タイよりちょっと高めだ。ふむふむ、おいしい。飲み物は砂糖もミルクも入ってない紅茶のテ・オ・コソンを頼む。ちょっと豆水にも心ひかれたが、汗をかいてへとへとの機会にとっておこう。

タイピンの街を歩き回って、いよいよ夕食。やってるやってる、七輪の上に片方だけ持ち手のついた土鍋がのって、湯気を立てている。メインの具は鶏肉だが、塩魚とシイタケもオプションであるので、鶏肉は入れず塩魚とシイタケにしてもらう。店では先客のじいさんが、ひとりで黒ビールを飲んでいた。お、この店ギネスがあるんだね。南洋華人はギネスがお好きである。東南アジアで売っているギネスはマレーシアに工場がある。茶室のじいちゃんにギネスを頼み釜飯が出来るのを待つことにしよう。

釜飯の他にも何か食べたいな。釜飯屋さんの張り紙に「豆芽」「青菜」と書いてあった。あとは何もない。見ていると、鍋にもやしを入れて茹でて皿に盛っている。そういえば、どこかでイポーはもやしが名物、という話を聞いていた。イポーから1時間半のここタイピンでも同じかもしれない。注文すると、すぐに茹でもやしが出てきた。茹でもやしに醤油味のタレがかかり、カリカリ玉ねぎの揚げたのがのっている。あつあつのもやしに箸をのばす。もやしがおいしいので有名、というのも何だかピンとこなかったが、ここに至って納得。タレもいいが、もやしがウマイ!

そうこうするうちに、釜飯が運ばれて来た。ふたを取ると、う〜ん、いい匂い。中国醤油で茶色く染まったご飯の上に卵が一個ぽんとのっている。まさに炊き立て中華釜飯。おこげが大好きな連れは、幸せそうにちりれんげを口に運んでいる。昼間、古い建築やそこに使われているガラスやタイルを飽きずに眺めているわたしもこんな顔をしていたのかな。おこげの付いた香ばしいご飯を噛みしめながら、一日が終わっていくことも噛みしめているよう。

じいちゃん、ギネスもう一本! 明日はペナンに行く。旅は続くよ、どこまでも。

体調を崩したら…

冨岡三智

今月、体も胃腸も疲れてしまって、なかなか元気になれない。ふと、昨年の国際学会で知り合ったフィリピン人研究者のことを思い出す。彼は伝統医療について研究しているとかで、しんどくなったら西洋医学の薬を飲む以外にどういう行動をとるかと、インタビューされたのだ。そこで、「寝る、食事を抜く、鍼やマッサージに行く」と答えたら、珍しい答えだと驚かれた。標準的な回答がどういうものかよく分からないのだが、インドネシアにいた時にどうしていたのか、唐突に思い出してみたくなった。

●湯たんぽ
以前、インドネシアで過労により腎炎になったことがあり、それ以来、疲れると腎臓が疲れる。そういう時はゆでたコンニャクを腎臓の裏(背中)に当てると良いというアドバイスをもらったことがあるのだが、コンニャクを調達するのがめんどくさい。まして、インドネシアならすぐには手に入らない。というわけで、湯たんぽに代える。といっても、湯たんぽはペットボトルにお湯を詰めたもの。東北大震災のときに、そういう風にして被災者に湯たんぽ支援をしている団体のニュースを見て、これならインドネシアでもできるなと思ったのだ。熱帯の国だと思って油断しがちだが、インドネシアでは意外にも夜は涼しく、それに床も石やタイルが主で体が冷える。湯たんぽを使うと体の芯が温まって、汗をかく。そうすると疲れが抜けるのだ。風邪をひいているときにも有効。ちなみに、湯たんぽの前に私は足湯もする。バケツにお湯を入れて、膝下までしっかり足を温めて、靴下を履く。その後に湯たんぽをして寝ると、より体が温まる。

●塩
食べたくないくらい疲れた時は、無理に食べない。日本でもインドネシアでも、食べないとだめと言って無理に食べさせようとするけれど、体力が回復してくれば自然にお腹がすく。無理に食べると、私はすぐに吐いてしまう。食べられるようになるまでは、薄く塩分を足した白湯やお茶(日本なら番茶、インドネシアならジャワティー)を飲む。体が自然と塩を欲する気がする。そのことを、インドネシアである人に言ったら、その人はコーヒーに少し塩を足して飲むのだと言った。それも試してみたけれど、なかなかいける。もっとも、何も食べられない状態でカフェインはきつすぎるので、ある程度食事ができるようになり、薄いコーヒーが飲めるようになってからだけど。別の人からは、炭酸水に塩を足して飲むという話も聞いた。きっと、皆、疲れると体が自然と塩を欲するのだろうな。

●炭酸水
炭酸水はインドネシアではソーダ・プティ(白いソーダ)と呼ばれていて、ファンタと同じ瓶に入っている。胃腸が悪い時には炭酸水もよく飲んでいたのだが、最初は無自覚だった。炭酸水を買いに行って、お店の人に「今日は胃腸が悪いの?」とよく聞かれ、ジャワでは炭酸水は胃腸に効くと言われていることを知った。最近は日本でもよく目にするようになったので、嬉しい。胃酸過多の人にはだめらしいが、私には効果がある。

●おかゆ
少し食べられるようになったら、薄いお粥を食べる。私は奈良の生まれなので、しんどい時には、番茶で炊いて塩を仕上げに入れた茶粥でないと食べる気がしない。ジャワでは、サラーム(コブミカン)の葉とバワン・メラ(エシャロット)の実を刻んだものを入れて炊いて、最後に塩を少し入れるお粥の作り方を教えてもらった。お腹をこわした時に良いという。試してみたところ、爽やかな香りがあり、胃もすっとする。ジャワの料理には珍しいあっさり加減だ。

●サンタンNG
サンタン(ココナツミルク)入りの食事は、しんどい時には私の胃は受け付けない。けれど、サンタンで野菜類を煮込むサユール・ロデはインドネシアでは代表的なおふくろの味で、どこの食堂にでもあるだけではなくて、病院に入院した時ですら、毎食出てきたのには閉口した。これ、インドネシア人にとっては胃にやさしい料理の内に入るんだろうか…?

●ニンニクNG
あと、私にとっては、にんにくもNGである。体調を崩してジャワの一般的な料理が食べられなくなっても、変わらずに食べられるほとんど唯一の料理がタフ・クパットだった。これは、タフ(油揚げ)、クパット(粽のようなもの)、モヤシやバワン・ゴレン(掻き揚げ)などを切って混ぜて、ソースをかけたものだが、ソースにはニンニクや唐辛子も擂って入れる。体調が悪い時には唐辛子を入れないでと注文するのだが、つい、ニンニクのことは言い忘れてしまう。ニンニクは精力剤だから、体力がない時に口にするとかなり体にこたえる。のだが、ジャワ人にはそれが分からないようなのだ。唐辛子を控えることには同意してくれるのに、にんにくを入れないでと言うと驚かれる。ソップと呼ばれる、鶏肉や野菜が入った清ましスープも、さっぱりしている点は合格なのだが、意外にニンニクがどっさり入っているので、食べられないことが多い。

●ジャムー(ジャワの漢方)
留学生にはジャムーを愛飲していた人もいたが、私はあまり飲まなかった。ジャワでは、流しのジャムー売りの女性がいて、呼び止めるとその場で調合して飲ませてくれる。生薬を売っている店でも調合してくれる。何度か飲んだけれど、私にはピンとくるものがなかった。第一、私が住んでいた地区には売りに来なかったので、いざという時に間に合わなかったという次第。

●クロック
マッサージや鍼灸はプロにやってもらうものなので割愛するとして、自分や友達同士でできるのがクロック。クロックについては、「水牛」2011年7月号でも書いたことがある。バルサム(タイガーバームのような塗り薬)などをつけて、背中の皮膚を筋に沿ってコインで擦ると、マスック・アンギン(風邪が入る)した箇所が赤くなり、そうなると風邪が抜けるというもの。乾布摩擦などのように肌を刺激するやり方で、疲労が重いと、擦ったところが真っ赤になる。これで急に高熱が下がったこともある。普通は背中くらいしかしないけれど、私は首、頭皮、髪の生え際(額とか)もする。クロックは、今ではジャワでも田舎の年寄りしかしないみたいだ。

時間は流れる

大野晋

富田さんのお別れ会に出かけた。
残念ながら恐怖のトリプルブッキングのせいで第一部のみの参加。久しぶりに見た大久保さんが無闇に大人になっていたのにびっくりした。会の中で流された富田さんのビデオを見ながら、いろいろなことを思い出した。

山形浩生さんのしょぼいを聞いたときの青空文庫は、たしか、他のホームページと同じようにリンクや転載に関する注記が書かれていたんじゃなかったか? そこをフリーミアムを日本に紹介した山形さんから指摘されての話だったように記憶している。私が青空文庫に関わった当初は、インターネットの発展が社会に対してどのような変化を与えるのかと言う目で、未来が見たいと気持ちが強かったように感じる。まあ、その頃の予想を遥かに超えて、インターネットは早くなり、EBK形式などのリッチコンテンツは廃れていき、早いインターネットとは正反対のテキストが青空文庫のフォーマットで生き残ったというのはなんという皮肉だろうか。
とにかく、最初の頃は利用をどのように収録作品からつなげるかに興味を持ち、童話を入れたり、童謡を入れたり、探偵小説を入れたり、チャンバラを入れたり、SFを入れたりとジャンルの拡張に走っていた。面白いことにひとつ入れると、読者が入力者につながり、作品が増えていくサイクルに繋がった(かもしれない)。そこに残るためには、とにかく、結果を残す必要がある。そんな時代が青空文庫にもあった。

著作権の切れた小説を探していると面白いことに気づいた。今は書店の店頭で手にはいらない書籍でも、面白くない書籍では必ずしもないのである。いや、むしろ面白い作品が著者の死後50年以上も埋もれていることにショックを受けた。これはのちの私の著作権に関する立場にも直結している。要は、出版社にとって利益のある作家の書籍が店頭に残っている。売れ行きが悪く、または何かの問題を抱えると途端に出版社は絶版にしていく。長期販売による文化の担い手という再販ルールの趣旨はとっくの昔に市場から抜け落ちていた。
日本語改革の動きも整合性に欠けたものだった。ゆるやかな指針のみを述べ、運用を出版社に委ねたために、文章表記が揺れ動いていた。「ヶ」とか「ヵ」とかの問題は、実は国語改革の中で忍び込まされていた。なんと、否定はされているのに書き換えのルールは規定されていないのだ。結局、そういった状態が表現の揺れを誘発させた。
コンピュータ化に伴う漢字の字形の問題もあった。国内でOSを作っていた頃はJISにない漢字は外字として、表外に定義していたが、もはや外国製のOSが100%となった現在、自国の文字を自国の判断でコンピュータシステムに定義し、使用することはできなくなった。そのことに気づかない作家や学者は、珍しい漢字が使いたいと駄々をこねた。
私の事前の目論見は無残にも外れて、さまざまな矛盾が青空文庫から見えてきた。そう、事実は小説よりも奇である。そういう状態を見ながら、私は少しお休みを頂いている。青空文庫はいつのまにか、あることが前提になり、出版社から、テレビドラマの台本、ラジオ放送の朗読に至るまで普通に使われるようになった。私があせる必要はもうない。

大久保さんは自らのことを勝手にいろいろとやる担当と称したが、考えてみれば私もかなり好き勝手にやったものだ。タナに上げた戦前の著作権の10年条項で公開自由になっている海外小説(クリスティやクイーンの初期のものが該当する)や県歌、市歌なども入力中の一覧に登録させてもらっている。また、校歌も収録したいと虎視眈々と狙って収集している。
そう言えば、以前、富田さんとカストリ本は収録可能か? 検討したこともあった。すでに、田山花袋作と伝えられる「四畳半襖の下張り」は花袋全集版と私家本を資料として収集済みだ。純文学よりも大衆文学の方が散逸する危険性は高い。そういう観点でカストリ本を確認したが、なにぶんにも迷子著作権の宝庫だった。などと考えながらも、純文学の作家だって、豊田三郎や久米正雄などを考えても分かるように、現役本が残っている作家は少ないんだよね。

さて、どこまで実現できるか分からないが、9月の末に華々しく終了した「あまちゃん」ではないけれど、未来を切り開くために動くことにしよう。沈んではいられないのだ。

イメージとしての戒名

植松眞人

 母の誕生日を待っていたかのように、父が亡くなった。入院してから一ヵ月も経たない六月の終わりの夜明け頃のことだ。
 父と私は、あまりうまく話せない親子だった。父は生まれて半世紀も経つ息子を、まるで小学生を相手にするかのようにしか接することができなかった。私は私で、利かん坊の子供のように、いつまで経っても父をなりたくない大人の代表に見立てることしか出来なかったように思う。
 緩和ケアを主体とする病院へ移ったのは入院してからわずか二週間目。その時の主治医との面談で、ご長男はどんな方なんですか、と母は聞かれたらしい。
「嫁さん子供と一緒には帰ってきても、一人では絶対に寄り付かん子ォやったんです。もう何十年もずっと。それがようやっと、この二年三年は一人でも帰ってくるようになって……。ようやっと、一人でも帰ってくるようになったのに……もうお父さんが生きられへんようになってしまうなんて……」
 と、私のことを初対面の主治医に涙ながらに話したらしい。そして、実際、その通りの息子だったと思う。
 しかも、この二年ほど実家に帰るようになったきっかけも、自分で興した広告制作事務所の経営が思わしくなく、借金を無心したことだった。
 もともと大学進学を控えた時期に、いまでは思い出せない何かで、父と言い争ったことが原因で、私は父と話をしなくなった。親離れしたい盛りだった私は、渡りに舟とばかりに、実家を離れ、出来る限り父と接触しないで生きてきたつもりだった。
 もちろん、自分も結婚し、子供たちが生まれてからは、年に一度は父母と孫を会わせるために帰省はしていたのだが、やがて小学生にあがった娘から「お父さんとおじいちゃんはなんで話をしないの?」と気づかれてしまうほど、私は殺伐とした雰囲気を漂わせながら実家で過ごしていたのである。
 なのに、父に無心をする。それは自分の弱さを吐露する相手が父しかいないという事実を思い知らされることであり、同時に最後のよりどころなのだと突きつけられることでもあった。もちろん、そうすることは辛かったが、それはおそらく父にとっても同じくらいに辛いことだったのだろうと思う。
 最終的に銀行とのやり取りをする母と私との間で、父はおろおろと落ち着きのない様子だった。しっかりやっていると思っていた息子が、右往左往している様を見て、動揺してしまったのだと思う。
 そんな父が亡くなって、通夜、葬儀、初七日、四十九日が過ぎ、百か日を迎えた。ずっと長男として喪主を務めてきたが、ここで一段落だという思いがあった。
 焼香の順番が違うだの、納骨が早すぎただの、四十九日は近所のショッピングセンターの駐車場が空いている時にしてくれだの、好き放題な親戚一同を目の当たりにして、父が亡くなったことを実感するよりも、こんな親戚一同のなかで育ってきたのだと改めて噛み締める数ヵ月だったような気がする。しかし、もうすぐそんな気忙しさからも解放される。私はそんなことばかりを考えていた。
 父が亡くなってからの様々な手続きや段取りを私は嫁さんと母に任せっきりにしていた。自分では何一つやっていないのに、こんなに疲れるのはなぜだろう。私はそんなふうに思いながら、百か日の朝を迎えた。そして、一足先に目を覚ましていた嫁さんに声をかけた。
「おつかれさま」
 嫁さんはきょとんとした顔を私を見る。
「なに、それ?」
 そう言って笑うと、
「さあ、朝ご飯朝ご飯。もうお腹空いてたまらんわあ」
 と階段を下りていく。
 子供たちを東京に置いてきたことで、少し気持ちが軽いのかもしれない。
 大学受験を迎えた娘と、高校受験を控えた息子は、私たちがいないほうが気楽に時間を過ごせるだけには成長していて、「家のことはちゃんとしてるから任せといて」とその場限りの気の効いたセリフを吐いて、嫁さんをその場限り安心させるのだ。
 階段を下りていくと、すでに母がトーストを焼いている。いい香りがして、腹が鳴る。
「コーヒー、淹れよか」
 母がそう聞いて、私が答えるよりも早く、嫁さんが
「お母ちゃん、ええから、ええから。私が淹れるから」
 と、答えて動き始める。
 私は二十歳前に家を出てから、自分の父母をお父ちゃんお母ちゃんとは呼べなくなった。面と向かっては「なあ」と呼びかけるばかりだ。そこへいくと、嫁さんは何の屈託もなく「お父ちゃん、お母ちゃん」と私の父母に呼びかける。
 父が亡くなって、名義変更などの手続きをするために、銀行員が来た時にも、母と嫁さんを本当の母娘と間違えていたらしい。
「今日の百か日の法要は、ちゃんとお父さんのほうが来てくれるんやろか」
 コーヒーを飲みながら母が言う。
 実家では私が子供の頃からずっと月命日には近くのお寺さんから住職がお経をあげに来てくれていたのだった。私が高校生の頃だったか、先代の住職が亡くなり、息子さんが後を継いで、月命日の法要も引き継がれた。今では、そのまた息子さんも住職になっている。
 父が亡くなったとき、檀家である寺に電話をかけると、お父さんのほうの住職が出た。丁寧にお悔やみを言ってくれて、実際、お通夜の席では涙ぐみながらお経を上げてくれたのだった。
 しかし、翌日の葬儀は、どうしても都合があわずに、息子のほうの住職が努めてくれた。私としてはお父さんでも息子さんでもどちらでも良かったのだが、これがどうにもうまくない。読経が極端に短く、何よりも私の父との思い出が何もないので、読経の後、天気の話しかできないのだった。葬儀、初七日、四十九日と、毎回「暑い気候が続きますが、みなさんお体大丈夫でしょうか」という話を聞いていた親戚からは「前に聞いた」と露骨に返すものがいたくらいだ。
 さらに、納骨式で、自ら墓石を抱え、墓石の一部を欠けさせるという失態があってからは、さすがに親戚一同の不満がたまってしまい、ついに母がお寺に直接出向いて、「百か日法要は、お父さんのほうでお願いできますでしょうか」と頼み込んだのだという。
「私もさすがにあんまりやと思うから、後で電話したんよ。息子さんが悪い訳ではないけど、亡くなったお父さんを知ってるのは、お父さんのほうのご住職だけですって。そない言うて、百か日はお父さんのほうでお願いしますって、言うといた」
 嫁さんはそういうと、淹れたてのコーヒーを飲み、トーストを頬張った。
「そうやなあ。あの息子ではありがたみもないしなあ」
 私がそう言うと、嫁さんは笑いながらため息をつく。
「そうやろ。お父ちゃんの戒名の説明もしてくれへんしな」
 母もそれを聞きつけて口を挟む。
「そうやねん。もうな、うちのお父ちゃんもな、お父さんに法要してもらわな浮かばれへんわ」
 母はそれだけ言うとなぜか笑う。
「ほんまやなあ、お母ちゃん」
 と、今度は嫁さんが笑う。
 ちょうどその時、インターホンが鳴り、仕出し屋から弁当が届いた。
 仕出しについても一悶着あった。葬式の仕出しのほうが、四十九日の仕出しよりも美味しかったとか、来れなかった親戚の分を持って帰ってやりたいので折り詰めにしてくれとか……。
「お母ちゃん、今度はもうお弁当にしたから、持って帰りたい言われても、はいどうぞ! 言えるわ」
 嫁は嬉しそうに母にそう言う。まさに準備万端である。後は、十一時までに親戚が揃い、十一時にお父さんのほうの住職がやってきてくれればそれでいい。おそらく端折った短いお経なのだろうが、それでもかまわない。お経を読んだ後は、戒名の意味をつらつらと話してもらえれば、それでおしまいだ。そんなことを考えていると、すでに法要が始まる前から安堵のため息が出そうになる。

 最初にやってきたのは亡くなった父の妹夫婦だった。
「少し早く着いちゃったわよ」
 と十時半頃に到着した。
 その後も順調にみんながやってきて、十時四十五分には全員が仏壇の前で座っていた。亡き父の思い出話も、四十九日あたりで尽きてしまい、特にみんなで話すこともない。みんなが手持ち無沙汰で住職を待っている。
 しかし、そんな時に限って、こないのだ。十一時になっても住職は来なかった。それでも、集まった親戚一同はまだ黙っている。ただ、五分も我慢できない。十一時五分になると、さっそく文句が出た。
「うちが頼んでるお寺さんやったら、絶対遅れへんけどなあ」
 と母の弟が話しだす。
「ほんまやなあ。だいたい三十分くらい前には着いて、待ってはるもんなあ」
 と、母の弟の嫁が答える。
「そやねん。待っとるねん。そやから遅れへんねんなあ」
 同じことをちょっとだけ言い方を変えて、互いに話し続けている。
 たった五分遅れただけで、そんな話が出てくるくらいだ。以後、誰かがずっと住職の時間の遅れを指摘し続け、十分が過ぎ、二十分が過ぎるころには、弾劾に近い言葉まで飛び出してしまう。
「えらい待たせるなあ。坊さんは気楽な商売やのお。待たせても当たり前やとおもとるんとちゃうけ」
 と言葉が荒っぽくなった瞬間に、タイミングよくインターホンが鳴った。お父さんのほうの住職だった。ちょうど三十分遅れで到着した住職は、「三十分の遅刻やなあ」とか「割引やで割引」という小さな声を聞かぬふりで仏壇の前に座った。
「ほんまに遅くなって申し訳ありません」
「いいえ。ちょっと心配しましたけど」
 と、私の嫁がちくりと刺す。
「今日はお参りしていただくのと、あとご位牌を新しいものに変えていただきたいんです」
「はい。わかりました」
 住職はこれ以上曲げられないほど腰を折って、うなずいている。
「それから……」
 今度は私が声をかける。
「実はまだ、戒名の意味を聞かせてもろてないんです。できたら、その戒名の意味も教えていただけますでしょうか」
 そういうと、住職は強くうなずき、やっと住職らしい顔つきになって、私の嫁から新しい位牌を受け取って仏壇のほうを向いた。
 さすがにお父さんのほうのお経は、息子のそれよりも落ち着いていて渋さがあった。それでも、お経の長さは息子とそう変わりなく、十五分もすると終わりの気配を見せた。母の弟夫婦はきっと後で何か言うだろうが、私はかまわなかった。足もしびれている。一分でも短くしてくれていい。早く終わって、早く弁当を食べてお開きにして、シャツを脱いで寝転んでしまいたかった。後は一年後の一周忌だ。それまでは親戚一同になにを言われてもかまわない。そんな気分だった。
 読経が終わり、回されていた焼香盆が住職に戻された。住職はもう一度深々と仏壇に礼をすると、私たちのほうへと向き直った。
「本日は、バタバタと遅れてしまい申し訳ありませんでした」
 住職はもう一度遅れた詫びをいうと、深く頭を下げた。
「外次(そとじ)さんには古くからよくしていただきました」
 住職はそういうと、言葉に詰まった。見ると、住職は涙ぐんでいた。私はふいをつかれた思いだった。仕事として読経してもらい、仕事として戒名の意味を教えてくれればそれでいいと思った自分が少し恥ずかしくなった。目の前で住職が私の父を思い泣いている。私は正直期待していなかったのだ。いくら古くからの付き合いだと言っても、彼岸の季節に、心のこもった法要などしてもらえるはずがないと思っていた。だから、お経が短くても平気だったのだ。ところが、住職が泣いている。泣いて話が出来なくなっている。住職は懐からハンカチを出すと、涙を拭い言葉を続けた。
「それから、戒名の意味をということでしたので……」
 そういって住職は戒名が書かれた真新しい位牌を取り上げると両手で包むようにして、戒名をこちら側に見せてくれる。そこには『正隆逡外信士』と書かれている。
 父の名前は外次と書いて「そとじ」と読む。少し変わった名前だが、戒名の四つ目の文字「外」は、外次からとったものだろうと予測していた。あとは「正」とか「信」とかそれらしい漢字を使えば出来上がり。戒名というのは、なんといい加減なものだろうと私は思っていた。
 そんな私の考えを見透かすかのように、住職は話しだした。
「外次さんから『外』という字をひとついただきました。そして、全体の意味ですが、これはもう本当に私のイメージなんです」
 イメージ? 私は虚をつかれた。住職のイメージで戒名をつけるのかと、素直に驚いた。
「外次さんは大きなスクーターに奥様をお乗せになって、あちらこちらをいっつも走っておられました」
 そうだった。父は八十を過ぎても、亡くなる二ヵ月ほど前迄は大型のスクーターに乗っていたのだ。母を後ろに乗せて、職場に連れて行ったり、買い物に行ったりしていたのだった。
「そのような俊敏な様をイメージしまして、『俊』という字を使わせてもろたんです」
 俊敏の俊だったのかと私はうなずく。
「それから、私が若い頃から、外次さんとは時々お話させてもろてまして、曲がったことの嫌いなまっすぐなお方ということが伝わってきまして、俊敏に動き回られることで、正しいほうへと色んなものを導かれて、そして、正しいほうへとお行きになった……。いやほんまに、これは私の勝手なイメージなんですけども、そういうイメージが浮かびまして、『せいりゅうしゅんがいしんじ』と『正隆逡外信士』という戒名をつけさせてもろたんです」
 私と嫁は思わず、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「いやもう、ほんまにイメージなんですが」
 と、住職は少し困った顔で私に言う。
「充分です」
 本当に充分だと思えた。人の言うことをなかなか聞かず、かんしゃく持ちで、母を困らせ続けた父だが、そんな父が母をスクーターに乗せて走り回っていた姿を思い描いてありがたい戒名をつけてくれた人が目の前にいる。それだけで、私は素直に住職に手を合わせた。
 父が亡くなってから、百か日を迎えるまで、バタバタとするばかりで、心から父を思うことはあまりなかったような気がするのだが、たった今、住職から戒名の意味を聞いた瞬間にふっと父があの世に旅立ったのだという気がしたのだった。いろいろあったけれど、これで良かったのかもしれない。そう思えた瞬間だった。
 知らぬ間にまた涙があふれた。
 住職が帰った後も、口うるさい親族は住職のお経が短かっただの、位牌が小さいだの、一周忌はどうするだの口さがない。
 私は仏壇の中にそっと置かれた位牌を見て、『正隆逡外信士』という文字を一文字ずつ小さく声に出して読んでみた。すると、嫁さんが「ええ戒名やね」と笑った。「ええ戒名やな」と私が答えた。(了)

手に入れた恋愛小説

若松恵子

これひとつだけ持っていれば大丈夫と思える恋愛小説は、私にとっては片岡義男著『彼のオートバイ、彼女の島』(角川文庫/1980年)だ。
「MOTO NAVI(モトナビ)」というオートバイ雑誌の10月号は「片岡義男とオートバイの旅」という特集で、「彼のオートバイ、彼女の島 2013年、夏」と題したページでは、小説の舞台となった瀬戸内海の白石島を訪ねている。小説に登場するカワサキ650RS・W3というオートバイの写真も載っている。心から懐かしくなって、「彼のオートバイ、彼女の島」を再読した。

オートバイが大好きで、バイク便の仕事をしながらも、まだ人生のモラトリアムのなかにいるコオ。バイク便の会社では正規職員なのだが、音楽大学にも籍をおいているのでつい甘えて自分の事を「アルバイト」と言ってしまう彼。まだ人生の行く先を決めかねているコオが、バイクで信州を旅した時に偶然出逢うのがもうひとりの主人公「ミーヨ」だ。
ミーヨはコオと出会って、自分もオートバイに乗りたいと強く思い、免許を取る。彼女は信州からの旅から帰って、自分の住んでいる島で、コオと離れている時間にバイクに乗れるようになる。後ろに乗せて!という女の子、コオの元彼女の冬実がミーヨの対比として登場する。ミーヨがオートバイに乗れるようになったことを知り、コオの胸がいっぱいになってしまう場面で、ミーヨはこんな風にささやく。
「信州で、カワサキにまたがってるコオを見たとき、ものすごくうらやましかった。カワサキに嫉妬したの。自分でも乗りたいと思ったし、あのカワサキみたいに好かれてみたいとも思った」と。

この章に続いて、2人でツーリングに出かけるエピーソドが描かれるが、この物語のクライマックスだ。深まりゆく秋を2台のオートバイが走っていく。ミーヨの走りを見守りながら走るコオ。キャンプ場に到着して、ふたり同時にオートバイのエンジンを切る。「とたんに、秋の山の夕暮れが、ぼくたちふたりを、押しつつんだ。静けさは、圧倒的だ。心地よく肌寒い。いまぼくたちは、ここにふたりだけだ。ほかから完全に切りはなされている。自然のなかにほうり出された感じが、全身の感覚にせまってくる。」2人きりで充分だという、恋愛の幸福の頂点がここにはある。閉鎖的な意味ではなく、2人きりの幸せと心細さのようなものが、秋の高原の香りとともに描かれていて今読んでもみずみずしい。

「月刊カドカワ」の著者自身の解説によると『彼のオートバイ、彼女の島』については、「作者である僕からのメッセージとしては、彼と彼女が抽象的に完璧に対等である、ということを読んでほしい。この原稿を書くために、僕はW1を2台、そしてW3を1台買った。」という事だ。抽象的に完璧に対等な関係のなかで、相手を得たことによって、より世界がクリアになり、広がっていく、そのうれしさを恋愛と呼ぶなら、その状況は途上ではなく、行き着く先で、いつまでも変わらずにそうあり続けていてほしい状況だ。ぴったりの相手と出会った「うれしさ」は永遠に鳴り響いていてほしい。

『彼のオートバイ、彼女の島』のストーリーも、2人の恋愛が確かめられた後は、何かが起こるわけでもなく、「物語はこれからも続いていくよ」という感じで小説は終わる。「それから2人は永遠に幸せに暮らしましたとさ」と言って、私も本を閉じる。

近所のランチ及び北上58号線。

仲宗根浩

ある日、お昼を外で食べようということになり、奥さんとふたりで近所を歩く歩く。奥さんがまだ食べたことがないタイの屋台料理屋さんはお昼の営業はしていない。すぐ近くのペルー料理の店は定休日がこっちの休みと重なっている。何もない、というかもう既に入った事があり、味がわかっている店しかない。この前開店したばかりの沖縄そば屋さんはいつの間にかもう店じまい。残っているのは昔からのランチ営業をやっている喫茶店や食堂ばかり。しょうがないので、母親と近場で食事となるとよく行くお寿司屋さんのランチに行く。お寿司屋さんといっても沖縄の魚料理やイカの墨汁も置いている店。ランチタイムにマグロカツ定食とかやっているのを以前食べに行ったことがあるので、そこのランチ未経験の奥さんを連れていく。メニューを見ると種類が増えている。魚のバター焼きがあったので注文すると、揚げた魚の開きにバターソースともいえない代物がかけられたものが出てきた。バター焼きはオーブンでじっくり焼かれ、ほろほろとほぐれる身にガーリックが効いたバターが絡んでいるものなのに。前もバター焼きと称しこんなのを出した店があったことを思い出した。魚は揚げると身のほろほろ感がなくなってしまう。その夜、行きつけの居酒屋のマスターに話すと「しょうがないよぅ。ちゃんとバター焼きしたら手間がかかるからねえ。」とあっさり言われた。そんなもんなんだ。お手ごろ価格で魚のバター焼きは食べられないんだ、と自分を納得させる。

それからしばらくして、子供も学校が休みの土曜日のお昼、「ペルー料理を食べに行こう!」と家族四人ですぐランチタイムと縁がなかった近くのペルー料理のお店に行く。土曜日なのでランチメニューは無い。ここは開店当初から炭火のいい香りをうちのアパートの階段あたりまで漂わせていた店。日系ペルーの家族の方々がやっていることは知っていた。店に入るとおねぇさんから分厚い料理に関して詳細な説明が書かれた写真付のメニューを渡される。子供二人は無難なもの、それもよそでもでも食べられるだろうというものをそれぞれ頼んだ。冒険心のないやつらだ。こちらは未知のものをが欲しいわけで、わたしはロモサルタド、奥さんはアロスコンボヨという料理を注文。美味しいではないか。別のテーブルの三人のスペイン語(おそらく)で話しているアジア顔の女性はインカコーラのペットボトルを飲んでいる。インカコーラは黄色なんだ。こっちは紫トウモロコシで作られたチチャモラダ、というのを四人で回し飲み。その後子供が注文したデザートのフランも一口食べたら美味しい。しっかりと肉を食した。

こんなことをしているといつのまにか、下の子の運動会が終わり小学校が代休となった翌日、職場でもらったリゾートホテルのランチバイキング割引券があった。当然平日だとかなりの格安になるため、実家の母と姉を誘い、その日まじめに登校した高三男子を除き五人で久しぶりに国道58号線を北上しリゾートホテルへと向かう。奥さんから58号線は以前とは違い変な場所を通ると聞かされていたのでネットのマップで調べると新しいバイパスらしきものができている。実際車で走ってみると、十二年前の情報しかない愛車のカーナビは道が無いところを走っている。いつか元の国道58号線、それより以前の一号線といわれた頃、ひたすら海岸線沿いの道を車でたらたらと北上してみたいとおもったがいつになることか。

璃葉

言葉の火を盗んで
紙に灯す
黒線が皮膚の下に伝わり
種を蒔く
冷たい指先に
落葉色の夢が滲んでいった

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写真論

管啓次郎

  3 
昔これらの言葉を呪符のように持ち歩いていたことがあったが実際よくわかっているわけでもなかった(いまもそう)。Studiumとは注釈的理解、理解とは見えるものを知識に置き換えること。見ているものの秩序をふたたび言語にゆだねるのか? 映された時代を決め場所を決め、人物を特定しようとし、状況を想像で物語に還元する(anon.と記された写真でもおなじこと)。そんな勤勉な置き換えによってかえって痩せた無に近づいたものだけが「世界」を構成するのだ、恐るべき空洞化の果てに。Punctumそれは特異な細部、言葉にしてもまるで意味をもたない点。それが一枚の写真に、「言葉にならない、あの感じ」をもたらす。しかし、とそれから思うようになった、「点ではないな」。写真という表面は枠をもちながらそれ以上どうにも分節できない全体としてのみ現われる。一枚の写真が自分にもつ意味(それはその写真がそれであること)と価値について、その判断はつねに瞬時に行われる、点もなく細部もない、表面の全体なのだ。われわれと画像との関係はつねに言葉に対するよりも早い。

  4 
Pantopeの世界になった、すべての地点がおなじ権利とおなじ強度をもって併置されている。彼女はひとりの生身の人間ではない、それは集合的に見られた「写真家」の姿。チロエ島とマン島に、コンゴ川流域とマルパイスに同時にいる。トポスが空間の一区域ならきみはそれを超越し、知らない土地をどこまでも進むだろう、前にも後ろにも。だがそこできみが出会う相手はあの途方もない老人、出生直後の乳児。あらゆる時を見通す昆虫のような複眼の持ち主なのだ。Panchroneはこの表面にすべての時間を見抜く。「今」とはさまざまな時間の先端の束、ここでは起きたばかりの事件のかたわらで太古や創世が続いている。不動のこの表面をしずかに見つめているつもりで、われわれはすべての時間にさらされている。紋様のずれゆきとともに露出するすべての時間の先端が、私の砂の体をいま崩落させる。

製本かい摘みましては(92)

四釜裕子

「夕方から雨になるでしょう」。天気予報はそこで終っていただきたい。傘をお持ちになったほうがいいなんて続けずに。予報通り小雨になった今夜、傘を持たない人を傘に入れて駅までいっしょに歩きながらこの話をしていた。傘を持つかどうかは自分で判断するからよけいなお世話、というのがその主旨だ。「よけいなお世話と言えば」、とその人がエンディングノートの話をはじめた。おやじがなくなったときの面倒を思い出してなにかしら自分は用意しておこうと思うのだが書店にならんだエンディングノートの用意周到気遣い万全、押しつけがましさにほとほといらだつ。無地の大学ノートでいい。書くべき時期も内容も自分で決める。探していながらなんだけど、よけいなお世話なんだ。なにしろ鍵付きや革製まであるんだよ。自分で買うならまだいいが「はい、おとうさん」なんてプレゼントされたらたまらない、鍵付きや革製なんてそういう使い方を想定しているんじゃないかしら、と。

自分自身が書くつもりで手にしたことがないからかおしつけがましさはわからないが、商品としてのエンディングノートには私も似た不快を持つといいながら、鍵付きという言葉にむかしむかしの日記帳を思い出していた。いわゆる交換日記というやつで、2人、あるいはもっと多くでお金を出しあい、サンリオショップで何冊も買った。たいてい数ページで終わったし、手元に残ったものはない。自分用の日記帳といえばサンリオやキャラクターのものではなく、ごく普通の大学ノートや無地のノートが多かった。どういう基準で選んでいたのか、今思えば子どもなりの背伸びだったのかもしれない。最初のページに「この日記帳を見たひとは死ぬ。」と書いていた時期もある。特別隠し置くことはなかったから、死ななかったけれど家族は読んでいただろう。

ある詩人が生前書きためた創作ノートを見る機会に居合わせた。書きなぐっているように見えていて、その実、ページを大切に埋めている。常に持ち歩いて思いついたら書き留めていたたぐいのものではないだろう。そのうちの一冊に、周囲から声があがった。このノート、私も使っていた。あ、僕も。A5版のなんてことのない無地のノートで、白のビニール製テーブルクロスのようなものが表紙カバーになっている。背幅が1センチほどあり、詩人はこのノートをよく開いて書き込んでいたと想像できるから、糸綴じではなかろうか。この場で資料をおし開くことはできないので確認はせず。無地のノートといえばこれしかなかったよね、とその2人は言う。中学卒業のときにサイン帳にしたんだ、170円くらいじゃなかったかなと、猛烈な記憶力を持つひとりが言う。背に「SHAK-UNAGE No.WN-B.R.」とあるばかりで、メーカー名は記されていない。

コクヨのウェブサイトを見てみた。1905(明治38)年、富山県出身の黒田善太郎が大阪に開業した和式帳簿の表紙店が最初だそうである。ノートの製造は後発で、最初に手がけたのは戦時中とある。グレーの表紙にクリーム色の本文用紙といういわゆる大学ノートは、1885(明治18)年ころには日本で発売されていたそうだ。コクヨが昭和34年に発売した無線綴じのノートは当時にしては珍しく、ページを破ると片方のページも抜け落ちる糸綴じノートの不便を解消しようとしたようだ。以後、ミシン目付き、スパイラル綴じ、キャンパスノートと続き、「SHAK-UNAGE No.WN-B.R.」らしきものはない。文具メーカーのものではないかもしれない。いずれにしても、文房具店で子どもでも買える無地でシンプルなノートが珍しい時期があって、それを好んで使っていた人がけっこういたようである。

今ではノート売り場はたいへんな賑わいだ。ノートというより雑貨の態か。本屋も雑貨屋と見紛う場所がある。タイトルにひかれて手にした本が、箱入りで派手で豪華すぎる装丁というか完全にパッケージになっていたのに気がひけて、というか、余計だと思ったので棚に戻した。パッケージをはずした特装本か電子本として出たときに、買おうと思う。