璃葉

目を瞑り、微かに開くと
煙とホコリが髭のよう
秘密の記号 線 明日の足音

血は旅をする
どこまでも遠く

地図の中を歩き回った
 夏の星はどの海に沈む?
 脈はどこまで繋がっている?
疑問と夢は窓硝子を眺めている

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爪を切る。

植松眞人

 膝頭を見える程度のスカートをはいた女が目の前に座っている。背筋をすっと伸ばして、でも退屈そうに座っている。
 列車は空いていて、私の座っている六人掛けのシートにも、女が座っている向かいのシートにも他に乗客がいない。だから、私と女が同じようにシートの真ん中に座り、真正面で向き合っている構図はとても不自然だ。
 それでも、わざわざ席を移動するという気にもなれず、しかも、女が動じていないように見えるのがしゃくに障り、私も女の真正面から動かない。そもそも、私が女の前に座ったのか、女が私の前に座ったのかが判然としない。
 各駅停車の列車が二駅か三駅過ぎた頃、退屈そうに見えた女の顔が少し曇ったように見えた。その表情に誘われるように私は再び女をしっかりと見つめる。改めて眺めると、女の衣服はとても上質なもののように思われた。地味な色味なのだけれど、派手すぎず沈みすぎない光沢が品の良さを感じさせた。きっと安くはないものなのだろうということは、安い服ばかり着ている身だからこそよくわかる。
 まだ充分に若い女だけれど、もしかしたら、若いと言われることに戸惑いを感じるくらいの年齢にはなっているのかもしれない。
 そんな女に退屈そうな表情はとてもよく似合っていたのだが、曇った顔には小さな違和感があるのだった。その違和感は女の細かく動く指先を見つけると嫌悪にかわった。
 女は左手の中指か薬指あたりの爪の先を気にしていた。爪が伸び過ぎているのか、それともささくれでも出来ているのか、一度気付いてしまった爪の先の何かを無視することができなくなっているようだった。
 そんな女を眺めながら、私は身体の深い疲れに目を閉じた。そして、女を真ん中に置いた風景を閉じたまぶたの裏に思い浮かべた。女はパノラマのような車窓を背負っていて、木々の緑を映し、拓けた田畑を見せたあと、大きな海原へと色を変えた。
 刻々と変わっていく風景を背にした女は、やっぱり背筋を真っ直ぐに伸ばして、きれいな膝頭の出た細くて美しい足をぴたりとそろえて座っている。さっきまでの曇った顔はなくまるで背後の風景が見えているかのような晴れやかな面持ちでこちらを見ている。
 少しまどろんだのか、小さくしゃくりあげるように私は目を覚ました。そして、女の表情を確かめようとして、ゆっくりと女に目を向けてみると、女は爪を切っていた。女が爪切りを持ち歩いていたということがとても不思議だったのだが、現に目の前の女は爪切りを右手に持ち、左手の指先の爪を切っていた。
 私がまどろんでいる間に手にした小さなバッグの中から爪切りを出し、さっきまでしきりに気にしていた爪の先を切っているのだった。列車の中で注意深く、爪を切っているのだった。
 私はそれをじっと見つめている。女と同じように、ちゃんと切れるかどうかを心配しながら、じっと見ている。この女は列車の中で、人前で爪を切るのだ、と思いながら見つめている。自分で爪を切っているわけでもないのに、いくぶん緊張しながら爪を切っている女を見つめている。
 何度か注意深く爪切りを動かすと、上手く切れたかどうかを女は片方の手の親指の腹で撫でて確認する。一通り爪の先を親指の腹で撫でると、女はとても満足そうな表情を作り、そして、小さく長く息を吐いた。おそらく私もいま満足そうな表情をしているのだろうと思う。揺れる列車の中で、うまく爪が切れたことと、やっと女が爪を切り終えたことに、私は安堵し、満足しているのだった。
 女は私の表情に気付くと、素早く爪切りをバッグにしまい込んだ。
 すると、今度は私自身が自分の指の爪が気になってきてしまう。気になって気になって仕方がなくなってしまう。女に気付かれないように、私は女がやっていたように親指の腹で他の指先をさわってみる。(了)

アジアのごはん(61)タイのデモ

森下ヒバリ

タイのバンコクに来ている。バンコクの街はどんよりと霞んで、目もよく見えない。バンコクもpm2.5がひどいのである。日本の sprinterという予測システムがネットで一週間程度のpm2.5の大気予測を出していて、アジア全体の大気の流れ、pm2.5の流れがよく分かる。中国から日本へ濃いpm2.5が流れてくる情報を見て外出するかしないか決める毎日だが、いつもバンコクあたりの濃いpm2.5の雲が気になっていた。ラオスやタイ北部も濃い。こちらは山焼きや山火事の煙によるpm2.5。バンコクは、排気ガスや工場排気が多い地元産のpm2.5だろう。

確かに目がちょっと痛いし、目がかすむけれど、日本のpm2.5の濃い時のような激しい頭痛、呼吸困難のような胸の苦しさ、体全体の不調、といった激しい症状は起こらない。日本にやってくる中国由来のpm2.5がいかに化学物質や、汚染物質が満載なのか、体をもってして実感してしまうのであった。

それでも、今日はバンコクに来て初めてすっきりと晴れた。1月28日にやってきたのだが、バンコク在住の友人たちから「今バンコクは経験したことがないほど寒い」だの、「今夜は14度しかない」とかさんざん脅されて、長そでを多めに持って来たりしたのに、北極由来の寒気はちょうど去ってしまったらしく、連日きっちり暑い。どうしてくれる、この長そでの服たちを。

バンコクではpm2.5が多くて、かすんでよく先が見えない日が多い。タイに来るまでは今のタイの反タクシン運動についてもいまひとつもやもやとして、すっきり見えていなかったが、昨日ちょうどデモ行進に遭遇して、反タクシン・デモ隊の雰囲気を感じることができた。ちょっとだけ目の前の空気が晴れたような気がするので、今月はタイのデモのことを書こう。

昨日、友人が「今日はデモ隊がオンヌット方面をデモ行進中だから、出かけるときはBTS高架鉄道で行ったほうがいいですよ」と電話してきてくれた。今回はオンヌットのさらに西のウドムスックというBTSの駅に近いコンドミニアムが宿だ。「なにか特に騒ぎが起きそうな様子とかは?」「いやそれはないです。ただ、片側車線封鎖しながら行進するから渋滞するんで」

ちょうど、もっと先のプロムポン駅近くに買い物に行こうと思っていたので、じゃあ問題ないね、と連れと出かけた。プロムポン駅に着くと、高架の駅からみんな下を見ている。寄ってみると、下の道路は車が走っていない。「デモ隊が来るんじゃない?」迷彩服で武装した兵士が二、三人駅に立っているのは上から爆弾など投げたりするのを警戒しているのだろう。

待っていると、まず歓声が遠くから聞こえてきて、沿道にも市民が集まってきた。ちょうど昼休みで、会社の社員やデパートの職員や、工事現場の労働者も立って見ている。タイ国旗カラーの応援グッズを売り歩く人もいる。旗を振っている人もいる。まず、バイクの一団が旗を振りながらやって来て、続いて人々が三々五々歩いてきたと思ったら、すごい数の人が続々と歩いてきた。みんなニコニコしながら、旗を振ったり、手を振ったり。後ろから巨大なスピーカーを積んだ車が軽快な歌を流しながらやってくる。ラ〜ラ〜ラ〜なんとか〜〜オクパイ・タクシン〜! シュプレヒコールというにはあまりにも楽しい「タクシン出ていけ」ソングというか、コールである。

何千人もの人が歩いて行って、ちょうど人波が切れたので、駅から降りて買い物に行った。日用品や食料を買い込んで駅のあるスクムビット通りに戻るとまた新たなグループのデモ隊が道にあふれているではないか。さっきより多い。しかも先も後ろも見えないぐらい続いている。反対車線は車が通っているのだが、デモ隊の歩く車線に入ってこないよう自分たちで自主的に交通整理しながら移動していく。デモ行進には救急隊もついて動いている。ホイッスルがうるさいという話もあったが、まあ、歓声みたいなものだった。

歩いていると、「昼休みの間だけデモしてた」という会社員がぱらぱらとデモを抜けて会社に帰っていく。この人数、合わせると1万人以上いるだろう。リーダーは要所要所にいるのだが、参加する人が自主的にいろいろこなし、自分の出来る範囲でデモに参加していく。みんなゆるゆると、力まずに歩いていく。う〜んなかなかいいね、このデモ。

今回のデモは、タクシン派のインラック内閣が、かつて民主化運動によって政権から追われ、汚職で有罪判決を受けたタクシン元首相に恩赦を与え、帰国(亡命中)を実現しようとしたことに端を発する。さらに農民からのコメ買取政策が破たんしたうえ、取引先の中国企業がダミー会社だったり大規模な汚職がらみの疑惑も出てきた。

今回の反タクシン派のリーダーは元民主党幹部のステープ氏。連日集会で激しいスピーチで聴衆を盛り上げている。しかし、どうも違和感があるな、と思っていた。ステープはインラック政権が生まれる前の民主党政権時代にタクシン派の赤グループのデモ隊に向けて警察隊に排除命令を出した男なのだ。この武力行使の強制排除で何十人もの死者が出て日本人の記者もフランス人の記者も巻き添えで殺された。結果、民主党はこの責任を取って政権を辞任、その後、総選挙でタクシン派が圧勝してインラック政権が誕生した。民主党支持派の多いバンコクでも、そういう武力で抑え込もうとした民主党のやり方に失望した人は多かった。そのステープがなぜ今回多くの人に支持されているのか? だいたい、いままで、インラック政権にそんなに不満だったのか。いちおう、選挙で選ばれた政府で首相なわけだし、この秋まで、反タクシン運動は表面化していなかったので、ちょっと唐突な感じがしたのも確かである。いくらタクシン派がいやでも、選挙で勝てないからといって、駄々をこねるようにデモで国政を混乱させていいのか?

とまあ、民主主義は選挙の結果を尊重するのが絶対であると思っている日本人や欧米人はそう思ってしまうわけだが、いや、正直タイに来る直前までヒバリもそう思っていたのである。しかし、タイのデモのユーチューブでタイ人の寄せたたくさんのつぶやきコメントを読んで、あ〜そうなのか、と納得がいった。

デモに参加している人たちは、反タクシンであるが、けっしてすべてがステープ支持なわけではない、のだった。インラック政権が崩壊しても、ステープが政権を取ろうとしたら、またデモが起こるだろうともいわれている。とにかく、今の政権は顔がインラックにかわっただけで、閣僚はタクシン時代と同じ(ものすごい悪相ぞろい)利権と汚職まみれの古狸たちである。もう、うんざりなのだ、タクシンの影の内閣は。

今回の反タクシン・デモに集う人たちは、シンボルカラーを作らず、タイの国旗の色である青白赤のストライプ模様のグッズを身に着ける。中には黒を着る人も多いが、これは「抗議」を示す色らしい。前回の反タクシン、民主化運動が途中から王党派(王室利権派)に牛耳られ、ゆがめられていった反省に基づいて、王党派や政党の運動に取り込まれないようにしていく気持ちだろう。黄色は今のプミポン国王のシンボルカラーで、黄色い鉢巻をしている人もいるが、それが中心になることはない。

日本にいるときにマスコミの情報だけで見ていると今回の騒ぎは「タクシン派VS民主党支持派」とくくられていたが、人々は民主党のために集まっている、のではなかった。タクシン派以外の政党の選択肢として、民主党はありなのだが、民主党のために反タクシン・デモをやっているのではないのである。タクシン派以外の政党が選挙で勝てないのは、タイの選挙の内実が民主主義とはとうてい言えない状態でもあるからだ。大半の議員がさまざまな利権に深く結びついており、そして大半の地方の票が金で買われているのが現実なのである。(日本もよく似ていますが)

そういえば、原発反対・秘密保護法反対デモに対して自民党の石破幹事長が「デモはテロと同じ」と、文句は選挙で勝ってから言えみたいな発言をしたが、タイのデモも、選挙制度がきちんと機能していないゆえの意思表示とも言えるのだった。ちなみにタイの反タクシン・デモはいたって平和的であり、非暴力をモットーとしている。(攻撃を仕掛けてくるのはタクシン派)集会拠点に行けば、無料で飲み物や食べ物が供され「それがおいしいのよね〜」と毎日のように集会に顔を出しているプンちゃんは言っていた。「もちろん、カンパはするよ〜」。アジテーションの演説だけでなく、アーティストがステージで歌って踊る、まるでコンサート会場なタイのデモ。日本でも原発反対金曜デモの自由な雰囲気を思い出していただければ、けっしてタイ人がふざけたり、中途半端に反政府運動をしているわけではないというのが分かっていただける‥かな‥。

正月がふたつ

仲宗根浩

こんなにキツイ「赤の他人」の死は初めてです。
十二月に友人から届いたメールに書かれていた。はじめはドラマー青山純。次にムーンライダーズのかしぶち哲郎。最後に大瀧詠一。大晦日は久しぶりに仕事も休みだったので実家で過ごし、紅白で泉谷しげるのバックでドラムを叩いている上原ユカリ裕の姿を確認する。村八分、ごまのはえ、シュガーベイブのドラマーとして。また大瀧詠一、山下達郎、ジュリー、忌野清志郎のアルバムやライヴにも参加していた。青山純が山下達郎の「ペイパー・ドール」での上原ユカリ裕のノリ、それを自分が演奏する際に納得いくノリが出せるまでかなり時間がかかった、というようなことを掲示板に本人が書いていた。最近、ブログよりもそのひとの発言はツィッターやフェイスブックでしか確認できないことが多い。まして掲示板などセキュリティでブロックされる。つぶやくことも実名登録することもしていない自分あてに友人からのぞくことのできないネットワークからの情報が届く。

年が明けて若松恵子さんより「Raindrops」のきまぐれ飛行船特集号が届く。読み終わると「キツイ」のがかなり軽くなった。夜中に今年初めてCDを注文する。プレスリーの五〇年代から六〇年代初頭のアルバムを集めた四枚組をふたつ。最初に「ブルー・スエード・シューズ」から始まる。ジョン・レノンもカヴァーしていた。そのレコードのライナー・ノーツにプレスリーのヴァージョンよりオリジナルのカール・パーキンスのヴァージョンが好みであことが書かれていたような記憶がある。後にオリジナルのカール・パーキンスもエルビスのスタイルに変化することを大瀧詠一が一昨年のアメリカン・ポップス伝で紹介していた。

昔、成人の日だった日の明け方、右のこめかみの少し上あたり1センチくらいの裂傷、ニット帽に血を付け、指や足やらに擦り傷をつけて、これ以上公けにできないくらい醜態をさらして帰ってきたらしい。記憶がさだかでない。起きたら頭や指やらに絆創膏が貼られていた。ネット接続しかできないスマホも無くしたらしい。酒量を昨年から減らしていたけど調子こくとこういう目に遭う。怒られる。

旧の正月、年末に受けた健康診断の結果が届く。ガンマGTPの値は順調に正常に近かづき体脂肪率も順調に下がり18%台。だが悪いほうのコレステロールが上がっていたのでこのままだと投薬します、ときつい口調で言われたが。頭から血を流しても記憶が確かでないことからなおさねば、と思いながら実家からの旧正月のご馳走のおすそ分けをつまむ。

希望の足

さとうまき

ヨルダンの国境、ラムサに住むイマッドさんは、シリア難民だ。耳を澄ませばバシーン、バシーンと爆発音が聞こえてくる。国境は閉じられているが、けが人だけは、国境を越えてくるので、イマッドさんは、ポンコツのバンを借りて患者を病院やリハビリセンターなどに送り届けている。全くのボランティアだ。そこで僕たちは、毎月500ドルを支払ってガソリン代、車のメンテ代にしてもらっている。うち100ドルはイマッドさんの経費だ。もちろんそんなのでたりるはずはない。シリア難民に群がる援助ビジネスも盛んでNGOでやとってもらったら、1000ドル位は稼げるだろうに、イマッドさんはお金のことなど気にしない。

その日はわけがあってサファウィという町で待ち合わせをしたのだが、僕の方がいろいろ時間かかってしまってすっかり彼を待たしてしまった。彼の車は窓がちゃんと閉まらないのでともかく寒い。そして、止まるたびにエンジンがかからなくなる。ブースターの接触が悪いのかトンカチであちこち叩いているうちにエンジンがかかる。そういうのを3回繰り返してようやくイルビッドのリハビリセンターに到着した。

ここは、シリア人たちが自分らでお金を集めてやりくりしている。イマッドさんは張り切って、ミルクとジュースを買ってみんなに配るという。車椅子で何人かが集まってきた。ナガムさんという女性は、16歳。一年前に結婚した。夫のムハンマドさんは20歳でダラーで農業をやっていた。ミサイル弾が飛んできて彼女の右足は吹っ飛んでしまった。その時おなかの中に7か月の赤ちゃんがいたが、崩れ落ちた瓦礫がおなかにあたって、流産してしまったそうだ。そんな状況だとすっかりふさぎ込んでしまうのだが、夫婦そろって笑顔が絶えない。別にミルクをもらったから大喜びというわけでないのだろう。「どうして、そんなに前向きになれるの?」って聞いてみた。「ここでは、足がないからって特別なことではないんです。ごく当たり前のこと。みんなで助け合っている。神が決めたことだから」とムハンマッドさんが言う。

12歳のムスタファ君。2か月前に、クリーニング屋の前に座っていたらロケット弾が飛んできた。一発とんできたのでみんな逃げたが、2発目にあたってしまった。その場で、右手、右足がもげてしまった。徴兵されるのを恐れ、先に逃げてきた19歳のお兄さんが面倒を見ている。

兄は、ムスタファが怪我したときの動画を見るか? と聞いた。携帯電話の中に入っているというのだ。さすがに本人のいる前で見るわけにはいかないであろうと断るが、「ムスタファは何度も見ているから大丈夫だ」という。その映像は、血まみれのムスタファがベッドに横たわり、右足はぐちゃぐちゃにつぶれていた。右腕を誰かが持ち上げると、皮一枚でぶら下がっていて、それをねじり切ろうとしている。ムスタファは意識があり、起き上がろうとするが、周りから抑えられる。そして悶絶。

このおぞましい映像をムスタファ君は何度も見続けている。しかし、トラウマを抱えているようには見えなかった。名前を書いてもらうが、利き腕を失ったので、上手く字が書けない。それだけではない。「しばらく学校に行ってないから忘れちゃった」と笑っている。将来の夢ってあるのかなって聞いたら、ともかく早く勉強したいと言う。ムスタファは、とても強い子だ。文句ひとつ言わずにほほえんでくれた。

JIM-NETは、2014年、10周年を迎えます。ギャラリー日比谷で、10年を振り返る展示をおこないます。2月14日から19日、イラクの子どもたちの絵やシリア難民の写真などを展示します。
http://www.jim-net.net/event2/2013/12/-1021419at.php
また、バレンタインに向けたチョコ募金、在庫が少なくなってきました。是非早めにお申し込みを。
http://www.jim-net.net/choco/

掠れ書き37

高橋悠治

何の理由もなく一連の音が心に浮かび、聞こえる音を書きつけるという単純な作業を続けるのが作曲ならば、このとき「聞こえる」と「創る」とはおなじではないだろうか。ところが「聞こえた」音を書いてみると、どこかちがってしまっている。だからといって、修正を重ねていると、いつか耳は閉じて、構成する慣れた手がはたらいている。

音楽を聞くときは、すべてを受け入れるのではなく、ちがう道をさぐっている。この音楽でもいいかもしれないが、ある瞬間にこれでないものが一瞬見えるような気がする。長い年月に川は流れを変えるように、聞こえる音楽のなかに、聞こえない別な支流があり、どの流れも谷をめざして流れ下る。

規則的に区切られていないリズム、白い音符だけの音楽。17世紀フランスの鍵盤奏者たちの「拍のない前奏曲」のジャンルなかでも、未出版のメモだけが残されたルイ・クープランの場合は、不規則に崩された和音とその間を走る線、景観生態学でいう飛び石と回廊の空間で、ジョン・ケージのナンバーピースは、それらの飛び石が偶然に集まったような和音が点滅する空間だった。近代音楽は管理と統制の時代の音楽で、和声は調和(harmonia)の近代的概念で、調性は単純化した中央支配の道具とも言えるだろう。

前奏曲は書かれた即興だった。音楽史をさかのぼり、ルイ・クープラン以前、旅する音楽家フローベルガーのアルマンド、その師だったフェラーラのフレスコバルディのトッカータ、そしてモンテヴェルディの「第2作法(seconda pratica)」、論理より感覚を、多くの声を平等に操作する技術から、自由なメロディーの抑揚へ。でもポリフォニーからモノディーへの歩みはその代償のように和声を発展させる。

白い音符の音楽の別な使いかた。音高と順序だけを記すのは、それが音楽のなかでもっとも重要な要素だからではなく、書くことができる最小限の部分で、スプーンの柄のようにスープから突き出ていて、アルキメデスの梃子のように、動かしながら探っている先端は見えず、書けず、ことばにもならない。演奏は固定したリズムを離れて、わずかなうごきや強弱・緩急のちがいを捉え、アクセントを変えながら多彩なパターンをその場で創りだす。だがそれらは定着せず、その場に応じて毎回やり直して、演奏は完結することはないだろう。

最小限の楽譜は秘教的なものとみなされれば、それを解読し、分析し、和声構造やリズムの規則性を発見することで、既成の音楽的秩序に引き戻すのが音楽学の務めなのだろうか。そういう試みが無用とは言えないが、光を知りながら陰の側にいて、見えている構造は仮の足場以上のものとせず、風が吹きすぎ、さまざまな種子を呼び起こして入り乱れる軌道に舞わせるように、解釈のおよばない部分に触れながら、すぎていく一回の演奏で遠くまで逝き、また反ることができれば、手慣れた型が聞きなれない響きを立てる時がくるだろう。音楽は聞こえるものでありながら、聞こえないものの兆しともなって……

森から

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

高い山から小川が降る
蛇行しながら木々の縁を
通って行く
餌を求めて森の獣たちは
大も小も足跡を残す
雨よ、おまえは空のかなたから降ってきて
この土を湿らす
高い山、見渡す限り緑また緑
風がはためいてやってくる
その視界は夢を告げる
陽の光は絆の暖かさの湯気
命は永久につながっていく
それがこの地球

山の森から大都会へとずっと延びていく
力のみなぎる流れとなって
何百万というこころと関わっていく
ビルと道路には人があふれている
毎秒人が生まれ人が死ぬ
そしてたくさんの物語が生まれる
その道には人びとの吐息がある
たくさんの感情がある
ゆううつ、空虚、鎮痛
天国はいつ果てるともなく変貌しつづける
大地の値打ちは 山林を創る
わたしたちを創る 街を創る
高い山から小川が降る
蛇行しながら木々の縁を
通って街へと流れていく

製本かい摘みましては(94)

四釜裕子

小さなテーブルで小龍包とおいしいラーメンセットを食べながら、さっき買った文庫本を読んでいた。通路をすり抜ける店員さんに気づくのが遅れて右肘を胸に寄せた瞬間に、左手から本が床にすべり落ちた。あわてて拾うと、最初の数ページの端っこがしっとり濡れている。どんぶりをかすめたようだ。紙ナプキンを数枚はさんで上から押してスープの進出をいくらかでもくいとめようとしたものの、表紙カバーもまもなく波打ってきてしまう。スープを吸った紙の束はラーメン屋のテーブルの下に置かれた雑誌のにおいがする。ラーメン屋でなら気にせず読むが、間抜けに落としたこの状況ではただただ臭くて読む気にならない。とっとと食べて帰ることにした。その夜、すまないがこの本には寒空の下で過ごしてもらう。次の日の通勤電車の中で開くと、まだまだラーメン屋の雑誌のにおい。扉ページなんかスープの脂が半分くらいまでしみ込んで、光沢を放ち羊皮紙みたいだ。時間が経てばいつか臭いは抜けるのだろうか。以降、晴れた日はベランダの椅子の上で過ごしてもらっているのだが。

しかし、本がすべるって、どいうことだ。それほどあの時あわてたとは思えないし、それほど手の動きがおぼつかなくなっていたり指が乾いていたとは思えない。臭いの抜けないくだんの文庫本を左手に持って、ラーメンを食べながら読む体勢をとってみる。指を開いて親指と小指を手前に出す五点支え法でペラペラ……。なにかこう、違和感がある。ページがまとめてめくれたり、カバーと中身がずれてきたり。本文紙に比べて表紙カバーの張りが強過ぎるんじゃないか。たぶんあの時も、中身がカバーよりわずかに先に飛び出すかたちですべり落ちたように思われる。それに、表紙カバーってこんなにつるつるしていたかな。過剰なつるつるがカバー紙のしなやかさを封じ込めて、結果、中身の紙とのしなり具合の違いを大きくして、本を片手で持って読むには扱いくくさせているんじゃないか。

ちなみにこの本はPHP文庫。あの日いっしょに買った新刊のちくま文庫と新刊の新潮文庫と比べても、表紙カバーのつるつる度は高い。ラーメンを食べながら片手で読んでいたらすべって落ちてスープで濡れたことを版元に責めるつもりはないけれど、なにもこんなにつるつるにしなくてもいいんじゃないか、いやいや、これくらいつるつるでなくてはダメなんだという理由があったら是非とも教えていただきたい。やっぱり本は、帯もカバーもすっかりはずしてから読むのがいい。たいていいつもそうしているのに、帯もカバーもかけたまま、しかもしおりと広告もはさんだまま、いきなり片手で読み始めたことがこのたびの悲劇の最大かつ唯一の原因なのだろう。カバーは本の衣装ではなく包装紙だ。読む時は包みを開けて、読み終えたらまた包む。それがいいと思っている。

しもた屋之噺(144)

杉山洋一

今月は特に日本のニュースで、内政、外政ともに思うことが多かった気がします。でも、結局はもっと多くの国民が投票する必要があると思います。誰にも投票したくないから投票しない、という理由も分からないではないけれど、それでも敢えて誰かを自らが選ぶのも少なからず意味がある、と自らを省みて思っています。

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 12月某日 市立音楽院にて 
授業が終わると、学生たちが今歌ったばかりの旋律を嬉しそうに口ずさみながら教室をでてゆく。いつもこの授業の終わりに、シャランの和声課題のシャラン自身の模範解答を生徒たちに歌わせているが、学生のうちの何人かは、曲が気に入ったのでコピーをくださいと頼みにくる。
「シャランが、フォーレやデュパルクの歌曲をピアノで弾き、和声の『サワリ』の部分に来ると彼は指を上げて生徒たちを振り返る、そうすると生徒たちはみな恍惚の表情を浮かべてうなずく」
三善先生が書かれていた言葉を、毎週授業のたびに思い出す。先生はあまりシャランをお好きではなかったはずだけれど、シャランの課題を宿題に出された。余りにも和声ができなくて、「良質の解答をたくさん聴くのが一番よい」と、模範解答を自分でピアノでひくのを奨めてくださったが当時全くピアノは弾けなかったので、当然弾けたためしはなかった。そんなことを思い出しながら、ミラノの学生たちが、名前すらきいたことのない、シャランの和声課題を嬉々として歌う姿を、じっと眺めている。

 12月某日 
随分前に松本で撮った一枚の写真。オルガンの保田さんの演奏会の後で、イサジ君や新実先生と一緒に打上げ会をやった折の一枚で、すぐ傍らに微笑をたたえた上野晃さんも写っている。その上野さんが亡くなられたことを家人から知る。学生の頃から自分たちの演奏会にどれだけ通って下さったかわからない。どんな小さな演奏会でも足を運んでくださり、何某か好い所を見出しては誌上に発表していただいた。演奏会から数ヶ月遅れで上野先生が何を書いてくださったか知りたくて、音楽雑誌の発売日に本屋にかけつけた。このところ、訃報に接するたび「地獄八景亡者戯」が見たくなる。昔からの日本人の死生観が、笑いの裏側のどこかにそっと息づいているからか。

  12月某日 自宅にて
結果ありきの昨今、効率よく無駄のない勉強法が重宝される。必要最小限の知識を、最初からずばり核心をついて教わる。周辺から自分の興味にまかせて、のらりくらりと遠回りに学んでゆくのは、恐らく時代の潮流に乗っていないし、出世の妨げにもなるかもしれない。ただ、自分の興味の対象すら知らないまま勉強を終えたとすれば、自分自身とあらためて対峙させられるかもしれない。
それぞれの関連性には拘泥せず、好きなものを好きなようにメモしておき、後で読み返すと、互いに無関係だった事象間に、有機的な関わりが浮き上がる不思議を思う。一期一会というけれど、同じように人生を俯瞰してみれば、無数の点どうし何某かの有機的な関わりが生まれるのではないか。

 12月某日 サンマルコ教会にて
アルフォンソがジョルジョ・ガスリーニのピアノ曲のCDを出したので、プレゼンテーションに出かける。ガスリーニはジャズの大家で、映画音楽でもしられるが、ミラノ音楽院でカスティリオーニやベリオと同期だったとは知らなかった。カスティリオーニはピアノが上手だった話や、ベリオと交響曲の連弾をいつまでもやっていた話など、快活な老人の話は尽きない。
「自分にとってジャズは手段でしかなく」フォーレが好きだという。「イタリアはオペラばかりで、フォーレのような素晴らしい歌曲の伝統がなかった。だから自分は歌曲を書きたい」という。何の先入観も持たずにでかけた積もりだったが、彼に言われると虚を突かれた思いで会場を後にした。

 12月某日 自宅にて
この人を疎く思う人が世の中に存在するのかと思える人に今まで何人か出会ったが、ブルーノ・カニーノもその一人だ。先日久しぶりにお会いして本当に穏やかで心地よい時間を過ごしたが、あれは天性の才分としかよべない。つい最近彼の家に泥棒が入り、地下の金庫に少し残してあった日本円と宝飾品が盗まれた話を聞いたときですら、不謹慎にも微笑んでしまった。
カニーノがヴェニスのビエンナーレの音楽監督だったころ、忘れられたイタリアの近代作品の蘇演したが、特にそのなかでもエミリオが演奏したマリオ・ピラーティの「オーケストラのための協奏曲」が印象に残った。
来年家人がプロメテオSQとピラーティの五重奏を演奏しようかという話になり、行きがかり上、ピラーティの遺族とここ数日頻繁にメールのやり取りをしている。プロメテオのチェロのディロンも気立てのよさはカニーノに似ている。誰でも彼と仕事がしたくなるような絶妙な人格で素晴らしい音楽家だが、実際一緒に演奏してみると、人格と音楽は直結しているのを実感する。

 12月某日 自宅にて
大井くんのためのウェーベルン編作了。先日家人のためにアダージェットを編作したときと反対に、今回のパッサカリアは原曲の音符を忠実になぞるだけで充分。実演を聴くのと楽譜を読むのとで同じ作品から違う印象をうけることがある。作曲家が期待して書いた声部が、実演では殆ど聴き取れなかったり、その反対も当然あるが、それらの素材を全てひっくるめて、編曲とは自分で気がつかなかった曲に対する解釈を客体化させる面白みがある。ウェーベルンの点描的な音の原風景が、あれほど密度が濃く、激した音の羅列だったことに、改めて感慨を覚える。

 12月某日 自宅にて
昨日は息子の小学校でクリスマス会。体育館でひとしきり子供たちの歌をきいてから、各々教室に帰って親と子供どちらもクリスマスケーキとアルコール、ジュースなどで乾杯。小一時間でお開きになり、先生とお別れの挨拶をしたあと、ペルー人のクラスメート、フェルナンドがペルーに戻るので明日から学校には来ないと言っている、と息子が唐突にいう。驚いて本当かと先生に訪ねると、子供が3人もいてここでは到底養えないから、と寂しそうに頷いた。なぜお別れ会が出来なかったのか、事情は分からないが、フェルナンドと一緒に写真を撮り肩をおとして両親についてゆく彼の後姿をしばらく目で追った。
今日、学校の帰り道、息子と仲良しのグリエルモは、信号のところで空を仰ぐと、手を大きく振りかざしながら「フェルナンド、さようなら」といつまでも叫んでいた。

(12月30日ミラノにて)

産みたて卵につみはない

くぼたのぞみ

「鶏のえさ箱がどうしていつも落ちているのか、これでわかった!」母はそういって、真っ白な表面にまだざらりとした感触が残る温かい卵を受け取った。

 まるく、すり鉢状になった藁の上には、いつも一個か二個の卵がのっていた。それを採ってくるのが面白くて、たいくつ紛れに、ふと思いつくといつも、鶏小屋の窓から入り込んだ。本当の入口は小屋の横にある、蝶番のついた大きな板戸だ。
 その板戸を開けて鶏小屋まで行くには、山羊のいる場所を通らなければならない。屋外の草っ原とちがって、チェーンでつながれていない大きな山羊が、壁の近くの寝わらのなかに細い目をしてうずくまっている。その隣を歩いていくことになる。おまけに、山羊が逃げ出さないよう、板戸は開けたらすぐに閉めて、しっかりかんぬきをかけるのだ。もたもたしていると、起きあがってきた山羊に、どけろどけろ、といわんばかりに鼻面で背中を押される。山羊が外へ出てしまうかもしれない。そうなると手に負えない。しかられる、当然。
 
 だから山羊が小屋にいるときは、その「本当の入口」は避けて、もっぱら鶏小屋の小さな窓から入った。窓の下部は子供の胸下ほどある。窓を押し開け、ゴムの短靴をはいた片足を思いっきりあげて窓枠にかける。横の窓枠につかまって、よじのぼる。鶏小屋の床は外とほぼおなじ高さだが、入るときは手ぶらだから飛び降りればいい。
 窓を閉めて、ざわつく鶏たちのあいだを縫って奥へ進み、棚に寝わらが敷かれたすり鉢状の「巣」へ近づく。鶏が座っていないときは簡単だ。藁の上にほっこり浮かんだ卵をそのままいただく。鶏が座っているときでも両手で抱きあげると、その下に真っ白な温かい卵が見つかる。
 卵が二個あるときは一個をポケットに入れ、残りの一個を片手にもつ。それからが問題だ。手が半分ふさがった状態で外へ出なければならない。そこで窓の下側に引っ掛けてある、横長の餌箱に片足をのせて、あいている片手で窓枠につかまり、えいっとのぼる。あとは外の地面に飛び降りればいい。このとき必ずといっていいほど、ゴム短で踏んづけた餌箱が、背後でカタリと落ちる。
 というわけで卵集めのあとはいつも餌箱が落ちてしまうのだが、もちろん、そんなことまで母親に報告はしない。あるとき現場をおさえられた。それでばれた。

 痛い思いもした。いつものように窓から侵入して「巣」まで近づくと、鶏が藁の上にしっかり陣取っている。持ちあげると、これから卵を産むところだった。鶏をそのまま降ろして、下側から手で探るようにして卵のはしをつかみ、鶏のお尻からスポッと抜いた。卵は正真正銘の産みたてだ。次の瞬間、手の甲にツンと痛みが走った。鶏がくちばしで突いたのだ。鶏は赤いとさかを立て、目を剥いて、ご機嫌ななめ。無理もない。

 でもそれで卵集めのシゴトが終わりになることはなかった。卵採りは五歳の子供が存在を主張できる数少ないチャンスだった。一歳違いの兄はぴかぴかのランドセルを背負ってガッコウへ行ってしまい、話す相手がいない。遊ぶ相手もいない。幼稚園も保育園もない村の、隣家まで数十メートルもある家に暮らす子供にとって、日々は大きな時間の塊でふさがるばかり。テレビもない。電話もない。くる日もくる日も、ひとり遊びに飽きて、まだ終らない時間がつづく。

 田んぼのなかで泥をはねかしながらプラウを牽く脚の太い馬、植えられた稲株のまわりのぬるい水のなかを尻尾をふって泳ぎまわる黒いオタマジャクシ、ゴム短の靴裏で何匹も踏みつぶしたちいさなアオガエル(カエルさん、ごめんなさい)、もっこり脂っぽい毛のマントを着た羊、ちゃんと鼠を捕りぶっかけ飯を食べる三毛猫、おやつ代わりの四合びんの乳を出してくれる山羊、水路のへりからざるですくったドジョウを金網ごしに投げあたえると羽根を散らして争奪戦をくりひろげる鶏、煙突と屋根のすきまに巣をつくる雀、黄金色の稲の穂先に止まる矢車トンボ、勢いつけて草むらに踏み込むと四方八方に飛び交うバッタ、ホバリングしてアカツメクサの蜜を吸う蜂、こんもり盛りあがった小さなつぶつぶの土の小山を棒で掘り返すとおもしろいほど右往左往する蟻、釣り餌にするため排水溝わきの湿った土を掘り返すと出るわ出るわ大小のイトミミズ。

 生命をもって動くものたちのあいだに、遊び相手のいない人間の子供がひとり、陽も高く、観察時間だけはたっぷりとあった。

父のいたずら

植松眞人

 六月、母の誕生日がやってくるのを待っていたかのように父が亡くなった。八十一歳だった。そして、いろんなことがあった年をさらに印象づけようとするかのように、十二月になってすぐ母方の叔母が亡くなった。まだ六十八歳だった。父の死、住まいのごたごた、友人の困難など、矢継ぎ早にやってくるあれやこれやに身体を持って行かれそうになっていたので、叔母の死がとても日常的な出来事のようだった。
 葬儀は叔母の家からすぐ近くの地域の集会所で行われた。父の時とは宗派の違うお寺の僧侶が、ずいぶんと丁寧にお経を読んでくれた。それがとても嬉しくて、叔母の死が日常的な出来事から少しだけ特別な出来事になった気がした。
 読経が終わると葬儀屋が棺に花を入れるようにと指示をする。父の時と同じ葬儀屋だった。見慣れた顔がいたので、会釈しながら、続きますねと言うと、向こうも会釈しながら、続かんほうがええんですけどね、といかにも葬儀屋らしい困ったような笑顔を返してくる。
 葬儀屋のスタッフが祭壇に飾ってあった白い花を手際よく切り集めて、かごの中に入れていく。それを別のスタッフが参列者に配り、顔にかからないようにとか全体にバランスよく入れてくださいとかアドバイスをしてくれる。参列者がそれほど多くはなかったので、一度だけではなく、一人に何度か順番が回ってきた。みんなで花を棺に入れて、棺と叔母の亡骸のすき間をいっぱいの花で埋めてあげる。
 そろそろ棺の蓋を閉めようかと、葬儀屋のスタッフが動き始めたときに、母が棺の中に手を突っ込みながらなにやら言い始めた。隣にいた妻と顔を見合わせながら様子を見ていたのだが、母が棺から離れない。どうやら、花を入れるときに数珠を一緒に入れてしまったらしい。数珠がない数珠がないと言いながら、棺の中に入れられた花をかき回している。母の姉があわてて、他にも数珠はあるやろ、もうええがなと制するのだが、母は、あるのは安いほうで、棺桶に入れてしもたんは高いほうの数珠なんやと騒いでいる。葬儀屋が、私の横に立って、よくあるんです女性の参列の方はよく数珠を入れてしまわれるんですと苦笑する。そして、母のそばに行き、故人様が三途の川を渡れるように数珠を持たせてあげたと思っていただいて…、と取りなすのだが、それでも母は数珠を探し続けた。必死になってというのではなく、数珠をなくしたことに慌てているといった風情で。
 すると、私の妻がすたすたと母の隣に立ち、少しかがむと母の耳元で何かを囁いた。母はこれまでの慌てっぷりが嘘のように、すっと棺から離れ、私たちのそばに戻ってきたのだった。葬儀屋はここぞとばかりに棺の蓋を閉め、私たちを焼き場に向かうマイクロバスへと案内した。
 焼き場に向けて、バスに揺られている時に、私は妻に、母になんと言ったのかと訪ねた。妻は小さな声で笑いながら、お父さんが怒ってるよって言うてあげてんと答える。
「お母ちゃんの数珠がなくなったのはお父ちゃんのいたずらや。お父ちゃん、お母ちゃんの数珠をいたずらで棺桶に入れはったんや、そやけどいつまでも数珠探して慌ててるお母さん見て今度は癇癪おこしはってな、いつまで探しとるんじゃ! みんなが迷惑してるやろ! 言うてなあ」
「えっ、親父、来てんの」
「来てるよ」
 妻はニコニコと笑っている。
「そうか、来てるのか。それにしても、相変わらず身勝手なおっさんやなあ」
「けど、お母ちゃん、そう言うたらシュンってなりはったやろ。ええ夫婦や」
「それで、どこにおったんや親父は」
「せわしない人で、ずっといろんな人の周りをうろうろしてはった」
「それで、いまも集会所におるんか」
 私がそう聞くと、妻はマイクロバスの前の方を指さす。
「いちばん前の空いてる席に座ってはる。あそこで嬉しそうに笑ろてはるわ」
 私は驚いて一番前の席を見る。確かにその席だけが空いている。
「ほんまに見えるのか」
「どうやろ。でも、いてはると思えるのよ」
 妻が楽しそうに言う。
 焼き場は周囲に常緑樹が多く植えられているので、父を送ったときとまるで同じに見えた。青々と茂った木々の中に立っていると、父を送ってからの時間がなかったかのような錯覚に陥ってしまう。
 釜の中に棺を入れ、再び集会所に戻り仕出し屋から届けられた料理を食べると、ああ食べ過ぎたとげっぷをしながら叔母の骨を拾うためにもう一度焼き場へ行く。葬儀屋のスタッフがさっきとは別の部屋へ私たちを誘導する。しばらく待っていると、大きな扉が開き、焼かれた叔母が運び込まれる。骨らしきものと灰とが一緒に棺よりも一回り大きな箱の中に並んでいる。
 焼き場の係の人が、恭しく頭を下げると長い箸を持って流ちょうに骨の説明を始める。
「みなさま、本日は改めてのお悔やみ申し上げます。さて、それではただいまより、故人様のお骨を拾って参ります」
 ここで係の人はおもむろに長い箸を両手で掲げると、再び持ち直して、骨の上にあるすすのようなものを払いのける。
「たいへん綺麗に焼けておりますね。お骨もちゃんと残っておられるようです。まずは、大切なのど仏を見て参ります。ああ、ありました。綺麗にのど仏がありました。ご存じだと思いますが、のどの部分にあるお骨でございますね。これが仏様のように見えるということで、のど仏と言われております。いかがでしょうか」
 係の人は長い箸の先でのど仏をつまむと、目の高さ辺りに持ち上げて、焼き場に集まった人々に見せてくれる。係の人の滑舌がとても良く、声も通るので、葬儀と言うよりも何かのレクチャーを受けているような気分になってくる。みんなも口々に、綺麗に焼けているとか、白いなあとか、感想を言い合っている。
 係の人は、そののど仏を別の場所にわかるようにどけると、今度は頭から順番にお骨の説明をはじめる。
「これが頭蓋骨、上あご、下あご。歯は入れ歯だったのでしょうかね。あまり残っていらっしゃらないですね」
 そこまで説明すると、叔母の夫である母の弟が、半分ほど自分の歯やったはずですわ、と叫ぶ。それを聞いて、叔母の妹が、いや義兄さん知らんかったかもしれんけどお姉さん総入れ歯にしはったんよ一昨年くらいに、と大きな声で応える。
「そうですか。そうですね。はい。歯は残っていないようですね。これが肩胛骨、あばら骨、手の指の骨も綺麗に残ってますね。腰骨があって、太いのが大骸骨、ほら、これが足の指、親指ですねえ、中指ですねえ」
 途中からその空間が、陽気な乾いた空気に包まれていく。
「では、ご親族の方から順番にお骨を拾って、骨壺の中に入れてさしあげてください。足の方の骨から順番にお願いします」
 そう言われて、順番にみんなが骨を拾っていく。これも人数が少なく、私にも二度順番が回ってきた。一度目は腰骨の辺りの小さな骨を入れ、二度目には肩胛骨辺りの小さな骨を見つけて骨壺に入れた。そして、私の二度目の順番が終わった頃、母の姉が母の名前を呼んだ。
「あったわ。数珠があったわ」
 母が姉の元に駆け寄る。
「どこにぃな」
「ほれ、あそこやがな」
「見えへんがな」
「きれいに、数珠の玉が残ってるわ」
「どこや。見えへんがな」
「ほれ、あそこに」
 私は少し離れた場所から、まだたくさん残っている叔母の骨を間をのぞき込み、数珠の玉がほんとうに焼け残っているのかどうか目をこらしてみたのだが、どれが骨なのかどれが焼け残った数珠なのかよくわからなかった。(了)

アジアのごはん(60)ミラクル植物マルム(モリンガ)

森下ヒバリ

この夏に、タイで「視神経腫瘍」だと診断された。たしかに、春から目の調子が大変悪く、加齢による影響をはるかに超えて近くも遠くも視力が落ちていた。本を読んでいるとすぐに目が痛む。目の表面の痛みも、目の奥の痛みもあり、目の運動に目玉をぐるぐる回そうとしても重くてうまく回らない。何か病気だなとは思っていたが、こんな聞いたこともないような病気とは思わなかった。

で、その視神経腫瘍とは何なのか。調べてみると視神経を包んでいる鞘にできる腫瘍で、つまりはできものである。だが、場所が悪い。大きくなると視神経を圧迫して、視力低下、視野狭窄、ひどくなれば眼球が飛び出したり、視力を失ったりすることもあるという。悪性腫瘍ではなく、つまりがんではないので、転移はしない。

西洋医学での治療法は、外科手術による切除。ただし、繊細な場所なので術後はほぼ視野欠損が起こり、失明する場合も多い。え、それ手術する意味あるの。放射線治療も試みられ始めているが、症例が少ないのでまだ手探りの段階。え、それは実験台になれという意味ですか。

迷わずタイの薬草で治療することにして、バンコクの友人に、合う薬草をLET(オーリングテスト)でチェックしてもらう。「これはどうだろ。お、これはいいね。45日間でいいよ」と示された薬草は、タイ語で「マルム」(学名はワサビノキ属「モリンガ」)という木の、葉っぱを粉末にしたものである。マルムはタイでは、ごくふつうに生えているマメ科の高木で、葉っぱや若いさや豆を食べる。薬草というより食用の利用が多い。以前よく行っていたサメット島のアオキウビーチにこの木がたくさん生えていて、木からぶら下がっている若い緑色のさや豆をよく見かけたものだ。ドラムスティックという別名があるように、豆は細長い。直径は1.5〜2センチで長さは30センチぐらい。市場で売られている姿はあまり見ない。買うよりも庭先で取って食べる、もらって食べるというたぐいの野菜だろう。なので、一般的な料理屋にはメニューにのっていない。

その豆が食べられると知ったとき、どうしても食べてみたくて、タイ人の友達のスリンの家でマルムのゲーンソム(辛くて酸っぱいシチュー)を作ってもらったことがあった。煮込まれたさや豆はとろんとしてなかなかおいしい。豆は皮を剥いてさやごとぶつ切りにして煮込む。筋が残っていて、歯でしごくようにして食べる。

スリンの夫のソムサクが「ちょっと食べにくいね」と言うと「ソムサクのお母さんは子供に甘いから、食べやすいように筋をみんな取ってからゲーンソムにしてたんでしょ。でも、筋は深く食い込んでいるから、取ったら食べられる実が減っちゃうし、この筋にひっついている果肉がおいしんだから」とスリンにやり込められていた。

豆も葉っぱも大変栄養価が高く、タンパク質、亜鉛、鉄分、カルシウム、カリウム、ビタミンA・E・K・Cを豊富に含む。さらにポリフェノールもギャバも豊富なミラクル植物なのであった。成長も早いらしいので、庭があればぜひ植えたいところだが、日本では沖縄以外はむずかしそうだ。5℃以下では枯れてしまう。

これまでは野菜としか考えていなかったマルムだが、これから薬草としてお世話になるのだな。よろしく頼むよ、マルムちゃん。というわけで、薬草としてのマルムを調べてみると、栄養価同様、すばらしい薬効を持つ植物であることがわかった。

マルム(モリンガ)はインドの伝統医療アーユルヴェーダで何千年も前から腫瘍治療に重用されてきた薬草であり、東アフリカ、アラビア地域でも紀元前の時代から利用されていた。日本では「西洋ワサビノ木」と訳される。原産は北インド・パキスタン。

薬効はというと、民間薬としての評価だが、まずは強力な毒出し効果。腸の働きを高め、免疫力が上がる。抗腫瘍、抗がん効果。抗菌作用があり感染症にも有効。血糖値・血圧を安定させる。アレルギー体質の改善や自律神経の安定効果。冷えやむくみが解消されたり、更年期障害にいいという話もあるが、全体の免疫力が上がって体が活性化するためではないかと思われる。このほか肝機能を高める、リュウマチ・関節炎にもいい、とすごい薬効だ。お乳の出が良くなる一方、堕胎剤として使われることもあるので、妊婦は飲んではいけない。ビタミンKが多いので摂取制限のある人も注意すること。

わたしの「視神経腫瘍」には45日間、朝晩葉っぱの粉末2カプセルずつ飲めばいいとのこと。「え〜と、飲んでいる間は、薬の効果を高めるために、甘いものや肉類を食べないようにするといいよ」「え、菜食?」「う〜ん、セシウムの入っていない魚や発酵している卵は食べてもいい」

この助言はカンジタ菌の予防のためということだったが、その後キャンベル博士の「チャイナスタディ(邦訳は『葬られた第二のマクガバン報告』)」を読んで、動物性タンパク質ががんの主要な原因だ!と確信したので、9月に日本に戻って薬草治療に入るに当たり、乳製品と肉食をやめることにした。

視神経腫瘍はがんではないが、身体の異物であることに変りはないので、がんに有効な食生活にも有効だろう。そして放射能が降り続ける日本でがんを予防するためにも、いいんじゃないか、と。やはり失明、視野狭窄などという事態は出来うる限り避けたい。わたしは平静を装いつつ、内心ちょっと動揺しながら「視神経腫瘍」をなくすための養生生活を始めたのである。

養生の食生活の話は次回にすることにして、マルム(モリンガ)治療の経過を書こう。まあ、葉っぱの粉末のカプセルを毎日朝と晩2カプセルずつ飲むだけなので、何の苦労もない。飲んだ後、ちょっと胃が重い感じもするが、まあ問題なし。飲んですぐは取り立てて何の変化も感じられなかった。

2週間ほどたったある日、目を動かすときの重い感じが、半減しているのに気が付いた。むむ、これは効いている‥。45日が経過して、さらに目が軽くなったのを感じる。治ったのかもしれない。とにかく、かなり腫瘍は小さくなっているにちがいないぞ。目の奥の重い感じがない。少しカプセルが残っていたので、もう1週間ほど飲み続ける。

50日ほど飲んで、もらった薬がなくなったので、終了。目が軽い。本を長時間読んでも、あまり疲れない。やった!

1か月ほどるんるんと過ごしていたが、10日ほど前にライブで神戸三宮の町へ出かけたところ、目が痛くてたまらなくなった。鏡を見ると目がかなり赤い。神戸は京都よりもpm2.5が日常的にかなり高く、空気はどんよりかすんでいる。「かなり強烈に目に来たなあ‥」と思っていたら、その日からまた目が疲れやすくなってきた。

わたしはpm2.5の感受性が強く、まず目に来る。ぜんそくのように胸が苦しくなることも多い。この視神経腫瘍になったのもpm2.5(放射能入り)のせいではないかと疑っている。まだpm2.5が世間に認知されるかなり以前から、(黄砂はなんとか認知されていた頃)黄砂が飛んでくると、気分が重い、頭が重い、胸が苦しい、目が痛いという全身不調になるのだが、黄砂が観測されていない日でも同じような症状が起こることに気がついた。山の方を見ると白くかすんでいる。わたしは目に見えない黄砂と呼んでいたが、それがpm2.5だったのである。

強力なpm2.5のショックでまた腫瘍が活動開始したのかもしれない。マルムをもう少し飲んだほうがいいような気がする。今度は、日本でも入手可能なモリンガ製品をネットで探して、一番品質がよさそうなノニインターナショナルのセブ島産モリンガの粉末を買ってみた。粉末を細かくしてこれまでのものより3倍吸収率が高い、というエクセレント製品にしてみる。いままでカプセルで飲んでいたので、みどり色の粉末をお湯に溶かして飲むというのは初めての飲み方だ。う〜ん、もろに青汁の味。まあ、飲めないことはないな。それに、みどり色の粉末をかきまわして飲んでいると、モリンガの葉っぱを飲んでいる、というリアリティがあっていい。

朝方、猛烈におしっこにいきたくなって目が覚めた。あれ、昨日寝る前に水やお酒を沢山飲んだりしていないのに‥あ、エクセレント・モリンガのせいか。毒出し効果が高いものは、おしっこがよく出るようになるのであった。もちろんおっきい方もすこぶる快調だ。これはかなり効きそう‥。

夢での対話

冨岡三智

亡くなった人が夢に出てくるのは、今までだいたいお盆やお彼岸頃、あるいは何かの前ぶれだったのだが、昨年の冬至に続けて父と妹の夢を見た。父の夢を見るのは初めてで、妹の夢も5年ぶりくらいだが、冬至に亡き人の夢を見るのは初めてだ。冬至は陰極極まって陽に転じる日で、一陽来復とも言う。これらの夢は私に陽に転じよというメッセージなのかも知れない。

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父は昨年1月に亡くなったのだが、余り長患いもせず、また父の仲の良かった友達(悪ガキ3人組)も前後して亡くなったので、あの世で楽しくやって、私の夢にはきっと出てこないだろうと思っていた。夢の中で、私は父の蔵書を処分しようと家の表でまとめている。町内会の人が、近所で付け火が続いているから気をつけてと言いに来る。すると急に父が現れて、危ないから早くごみ処分場に運んだらどうや、と言う。父は鼠男と母に言われるくらい物をためこむ人だったのに、夢では正反対の性格なのが可笑しい。父が一足先に陽に転じたのかもしれない。

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妹は15年前に私が最初の留学から帰国後に亡くなっているが、ときどき夢に出てくる。長くなるけど全部紹介しておきたい。妹は8月に亡くなり、次の春のお彼岸に出てきたのが初めてだ。夢の中で、私は以前住んでいた家で母の鏡台に向かっている。幼い妹と私はよくこの鏡台の前で遊んだものだ。鏡に妹が映って、私は「帰ってきてくれたんやね」と声をかける。妹は無表情で無言。

14年前、初盆かその後のお彼岸頃に見た夢。妹は顔も全身も包帯でミイラみたいにぐるぐる巻きになって目だけが出ている状態で、病院の窓から外を無言で眺めている。私は妹を救い出そうと、そこに向かっているところで映像が切れる。

13年前、私は河合隼雄の『明恵 夢を生きる』1冊を手荷物に入れてインドネシアに再留学する。妹のことでいろいろと後悔することがあって、私は毎晩毎晩この本を読み返した。石化していたものが生きた姿に還るというテーマは、古来から多くの神話や昔話に生じてきたことだと言う。私もミイラの活性化に向き合わなくてはならないのだろう。そして、ミイラを救い出そうとしている私は、逆に、救いを求めていたのかもしれない。

11、2年前の夢。開店前のイタリアン・レストランで、妹が店内の掃除をしている。太陽光が入る明るい店内に、赤と白のギンガムチェックのテーブルクロス、中央に白いローマ風彫刻。奥から出てきた店のオーナーの顔は…、私のジャワ舞踊の師匠だ!オーナーと妹は楽しく会話しているが、私の存在には気づかない。急にオーナーは私の肩にスーッと指を滑らせ、「ホコリ払っとけよ」と指摘する。妹は「はい」と明るく返事して、私にハタキをかける。どうやら私はこの白い彫刻で、道理で2人とも私に気づいてくれないわけだ。妹が夢で声を出したのはこの時が初めてだ。笑顔だったことといい、未知の人ではなく私のよく知っている人と話していることといい、夢がカラ―だったことといい、私の中の妹が活性化してきている。もっともこの夢では私の方が石像になっていて、妹と対話できるのはもうちょっと先になりそうだ…。

10年前、留学を終えて帰国する(2月)直前の夢。私は大阪のツインビルにいる。その中は巨大な吹き抜けホールになっていて、地上からエスカレーターがはるか高くまで伸びている。それに乗ろうとする人の列が渦巻状に続いてホールを埋め尽くし、その末端に私もいる。ふと見上げると、エスカレーターに妹が乗り、笑顔で手を振りながら私に「先に行くね」というジェスチャーを送っている。妹は幸せに、ぶじ昇天したのだと私は感じた。私の順番はまだ当分来ない。私が行くまで待っていてねと手を振りつつ、妹はもう夢でこの世には現れないだろうなと思う。

帰国して私は大学院に入った。その夏にインドネシアに行き、お盆頃に見た夢。院生室のドアを開けた私は、中に妹が座って他の学生と談笑しているのを見つけて驚く。思わず名前を呼ぶと、妹はにっこり笑いつつ、無言で自分の胸元の名札を指差す。と、そこには違う名字が書かれていた。別の家に生まれ変わってきたのかもしれない。新たな家族と一緒なら、今度こそ妹は私の夢に現れてこないだろう…。

7年前の夢。私と妹は白いポロシャツを着て、新緑の山をダムを目指してサイクリングしていた。途中で自転車から降りて休憩していると、妹がだしぬけに「みっちゃん(妹は私のことをそう呼んでいた)、プロジェクトしようよ」と言う。妹が私に語りかけてきたのはこれが最初だが、私の背中を押してくれたのかも知れない。実はその夢を見た前後にAPIFellowship採用の内定通知が来ていた。プロジェクトとはAPIのことだったのかもしれない。その年の夏から1年、私は再度インドネシアに滞在する。

5年前、APIの事業も終わり、レポートも書き終えた。プロジェクトでは何だかんだあり、ふと気づけば、妹が亡くなってもう10年も経っていた。そんな頃に見た夢。私は、妹がまだ生きていて遠くの病院にいることを知る。待ってて!私が迎えに行くから!と私は慌てふためいて、車を運転する。けれど、病院に至る道は車幅よりも狭く、道路の端はペンペン草だらけの土手。さらには目の前に丸木を渡した橋が現れ、この橋も車幅より狭い。それでも私は必死で運転するのに、どうしても目的地に近づけない。病院の窓のそばには、この時も包帯で全身ぐるぐる巻になった妹が立っていて、眼下の病院の入口を眺めている…。14年前の夢に逆戻りした感があるが、それよりも状況がひどくて私は相当行き詰まっていたみたいだ。

たぶんその頃の、別の夢。妹は女優で、私は監督。時代劇で、ある民家で妹が病気あるいは死に瀕して1人で布団に寝ている場面を撮っている。私はいきなり天井の汚れが気になって撮影を中断、アシスタントか誰かに掃除を命じる。彼は、妹が寝ている布団の横に高い三脚を置いて上り、天井を拭きはじめる。その布団に寝たままスタンバイしている妹の上に、時々天井からホコリが落ちてくる。私と妹は全然しゃべらない。妹も布団を深くかぶっているので、姿が見えない。

以来、ずっと妹の夢を見ないままに時が過ぎた。5年前に生じた行き詰まりは、不良債権のように塩漬けになったまま、進展がなかったということだろうか。それが、先日の冬至の父の夢の後に妹の夢を見た、しかも2日続けて。初日の夢では、父が亡くなって私と妹が残されていると(現実には妹が先に逝っているのに。それに母がどうなったかも不明)、可哀想で可愛いい妹のために親戚知人がこぞって学校での仕事(事務職?)を斡旋しにやってくるという話。一方、皆からしっかり者と思われている私は全然構ってもらえず、むくれている。これは、小さい頃の私と妹の様子そのまんまで、夢から覚めた後も、大人気ない自分にがっくりくる。2日目の夢では、妹は私に「やっぱり、リンゴのお菓子の店を出したい」と言ってくる。妹はケーキを焼くのが得意だった。前日の夢の続きかどうかは不明。そのセリフの前後の文脈も不明。夢の中で妹が私に話しかけてくれるのは、「プロジェクトしようよ」以来2度目である。私は、誰かを助けてリンゴのお菓子の店(に象徴される何か)をやりなさいと言われている気がする。それで一陽来復に繋げなさいということなんだろうか。

音の記憶

大野晋

この原稿をテレビの第九の放送を聴きながら書いている。日本の師走に恒例のベートーヴェンの交響曲第九を聴くという(もしくは第九を演奏するという)風習は日本だけのものらしい。一説によると、オーケストラのボーナス稼ぎという話もあるし、派手やかに大編成のオーケストラに合唱を交えて終える演奏形態がなんとなく景気良かったとか。おそらく、マーラーの流行る前にできた風習だから、ベートーヴェンなんだろうけれども、マーラー以後ならおそらくマーラーの第八番が選ばれたのかもしれない。ただし、今の大ホールならいいが、昔の日比谷や紅葉坂のような小規模なホールだったら観客も入らずに大赤字だったろうから、風習として根付かなかったかもしれない。その前に、演奏者全員がホールにはいれたかどうかすらも怪しいし、両方のホールにはパイプオルガンもないときている。どう考えても、年末に千人の交響曲は根付かなかっただろう。

2013年はベルディとワグナーの生誕200年だったと放送で言っているが、私にはそれほど昨年は二人の音楽を聴いたという記憶はない。それよりも、都響がエリアフ・インバルとマーラーチクルスを昨年から始めた関係で、ずっとマーラーを聴いていたような気がしている。これほど、集中してマーラーを聴くことは今までなかったので、ようやく、マーラーの音楽が違和感なく聴けるようになってきた感じがする。そういえば、大学時代の仲間が学生オーケストラにトロンボーンで参加していて、よくマーラーを私の部屋や自分の部屋で聴いていたものだ。当時はあまり面白さがわからなかったが、今なら彼ともっと違う感想が交わせるような気がする。

面白いもので、音楽は知れば知るほどに面白く聴くことができるらしい。マーラーは得意でなかった私は、なぜか、学生時代からプロコフィエフは平気だった。ショスタコーヴィチは今一つだった(ただし、すべての交響曲をきちんと通しで聴いている)けれども、プロコフィエフはメロディアのレコードで、たくさん集めている。そういえば、洋盤レコード店も随分と少なくなった。ま、今はレコードではないのだろうけれども。

子供時代はエレキギターの音が苦手だった。それがいつ頃からか平気になった。

最初の強烈な音の記憶は、テレビの「ジャングル大帝」というアニメ番組の冒頭の音楽なのだろう。それが、富田勲の作曲だと知ったのは後年のことである。広大なジャングルの夜明けを暗示するトランペットの咆哮に、どきどきとしたものだ。

まあ、そう考えると、音楽は味覚とよく似ているのかもしれない。小さな頃は、苦いものや辛いものは苦手だけれど、年を経るにしたがってだんだんと感覚が変わり、平気になりうまいと思えるようになる。最初飲んだビールは苦いが、大人になって飲んだ暑い日のビールはとてつもなくおいしい。

とは言え、味わう機会がなければ、知ることもできない。なにか、ファンだけが一部の音楽を聴くような現代の風潮を考えると、もっと幅広い音楽を聴く機会があってよいように思う。

もうすぐ除夜の鐘が鳴る。
ここは横浜に外れの山の中だけれど、耳を澄ませば、港に停泊する船が年明けとともに発する汽笛を遠くに聴くこともできる。
ひとりひとりが音の記憶を持つためにも、静寂と機会はもっともっとあっても良いように思う年の瀬である。

小石の星の夢 覚書

璃葉

見知らぬ女性が丸椅子から立ち上がり、黒い布を広げ、何かをばらまいている。
金平糖をぶちまけたみたいに、赤と青の粒がざあざあ散らばる。

最近、頻繁にこの夢を見る。
夢と夢の繋ぎに見る時もあれば、破片のように、違う夢にくっついているときもあって、なかなかしつこい。
女性がばらまいているのは小さな石だった。
青い石は温度が高く、赤い石は極めて冷たいのだ、と、女性は手の動きを止めずに教えてくれた。
日によってわけのわからない言葉で話しかけてきたり、私の姉と並んで酒を飲み、無視される時もあったが、石の温度の説明だけは欠かせないようだった。
小石は星のように煌々と輝きだした。触ってみると、道端に落ちている石ころの感触で、その平凡さに少しがっかりする。
温度の違いも解らなくて、尚更がっかりする。
小石を一直線に並べてみたり、サソリの模様をつくって遊んだ。
女は私の横で、酒を飲みながら唄って踊り狂っている。後ろには山脈が浮き出てきた。

列車と風の音で目を覚ますと、まだ夜明け前。
部屋は黒に覆われたまま、石は無く。

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新しい年に希望の話を

若松恵子

新しい年なので、希望の話をしようと思う。

年の瀬に、1通のたよりが届いた。浦和商業高校定時制の3年間を追った映画「月明かりの下で」に登場していた平野先生からだった。

「月明かりの下で」は、定時制高校の、あるクラスの入学から卒業までの3年間を追いかけたドキュメンタリーだ。春、入学式の会場に入場してくる彼らの姿はあどけなく、まだ弱々しく、だいじょうぶかなと少し心配になる。さまざまな事情で夜間高校に通ってくる彼らが自分を立て直し、友達をつくり、しっかりと大人になって卒業していく姿と、彼らにとってかけがえのない場所である夜間高校が統廃合でなくなってしまう事が淡々と描かれていた。文化祭、太鼓クラブ、通学できなくなってしまうクラスメイト・・・・。

赤点で卒業できないかもしれない生徒たちにむかって、「とにかく、テストをがんばって、卒業しろ」と言って、泣いてしまった平野先生の姿が印象的だった。卒業することが大事なのかどうなのか、答えなど誰にもわからない。でも、卒業してみなければ、次に進めないということもある。「卒業できなかったこと」につまずかないために、そんなささやかな理由のためだけなのかもしれないけれど。人生のあらゆる場面で、明確な理由などわからないままに乗り越えなければならない問題はたくさんあって、とにかく歩いてみるしかなくて、何とか歩き始めた若者たちの姿と、それを見守る大人たちの姿に、私は胸を打たれたのだった。

浦和商業高校定時制が無くなってからも太鼓クラブは継続し、太鼓集団「響(ひびき)」となって沖縄までの旅公演を行う事になったお知らせが届いたりしていたが、今回のおたよりでは、「響」のメンバーがスタッフとなって、たくさんの人の居場所となるカフェを開いたといううれしいお知らせが載っていた。

ひとりでも多くの人が、このカフェでお茶を飲んでひと休みできるように、「保留珈琲」というしくみを取り入れると書いてあった。少し余裕がある時に1杯のコーヒーに対して2杯分の代金を払い、誰かのための1杯分にするというしくみだそうだ。発祥はイタリアということだ。平野先生は学校を退職し、この仕事に取り組み始めたということだ。平野先生の決心。夜間高校が廃校になってしまうことに、胸が塞がれるやりきれなさを感じていたが、カフェが誕生するお知らせを聞いて、希望を感じた。

ノートに書きつけておいた山田ズーニーの文章を想い出す。
「ほぼ日刊イトイ新聞」というホームページのなかの、「おとなの小論文教室」2012年1回目のコラムの中にみつけた言葉だ。

人生で、多くを失い、多くを手放し、
現実にやられ、受け入れ、明らめていった果てに、
「それでもこれだけは」
と湧き上がってくるもの、
それが「望み」だ。

望みは、
捨てても 捨てても、失わないもの、
手放しても 手放しても、自分のものである。
たいていは、じぶんが気づかず、
ずっとがんばってきたところにある。

望みを自覚したとき、
人や社会のほうからも、
「やあ、それはいいね」と光が射すような瞬間がある。
そこに希望がある。

「ひびきカフェ」の案内を見た時、「やあ、それはいいね」という光が、まさに私の心のなかにも射したのだった。私も、「これだけは手放したくないもの」をしっかり持ちながら、自分の仕事に取り組みたいなと思っている。

※HIBI Café(ひびきカフェ) 埼玉県桶川市南2-4-13 2014年4月オープン

「ライカの帰還」騒動記(その3)

船山理

昭和64年。すっかりクルマ業界にも慣れ、数年前にホリデーオート誌で副編集長になっていた私は、月に1度開かれる管理職会議で思わぬ展開に遭遇する。そのときの会議のテーマは、今後の新事業の展開についてだったのだけれど、林社長はいきなり「コミックの専門セクションをつくる」と切り出したのだ。え? である。この騒動記の最初に書いたように、ボクは過去に林社長の命を受けて「コミック編集部設立の可能性」についてレポートを提出し、ムリですよと言った経緯がある。何で今ごろ蒸し返すかな。

林社長は「ということで、コミックに詳しい船山クンに是非とも検討を願いたいと思うのだが」と、ボクに向かって言う。当然のことながら、一同の目がボクに集中する。あちゃちゃ。そういう話だったら、何で事前に話しといてくれないかなぁ。いきなり検討しろと言われても、メチャクチャ困る…。それでも何も言わないわけには行かないので、ちょびっとイヤ味を交えて、ボクなりの意見を述べさせてもらった。

「ホリデーオート誌は、皆さんのご協力も得て実売り部数は安定を保っております。が、予断は許さない状況に変わりありません。かつて10数年前…ですか、社長からウチの会社でコミック雑誌の設立は可能か? というリサーチを仰せつかり、様ざまな観点と諸事情から、次期尚早であると報告させていただきました」ここで、一同、そんなことがあったの? という目をボクと林社長に交互に向けた。そうなんだよ〜、聞いて下さいよ。

「正直申し上げて、あのときと現在の状況は、まったく変わるところはないように思えます」ここで林社長の眉毛が片っぽ、ピクンと上がった。「…ですが、検討せよというお話ならば、ひとつだけ可能性として、こういうカタチならあり得るのでは? という意見を述べさせていただきます。先年、ホリデーオート誌で『I CAN C!』という全12話のコミックを掲載し、まずまずの評価を得ることができたと思っています。このように当社で発行している出版物に、その雑誌に見合ったコミックを製作し、供給するという専門の部署をつくることです」

「これならコミック雑誌を新たに立ち上げる際の膨大なコスト、そして人員も大幅に削減できます。もちろん掲載する雑誌の編集部の同意を得ることが必要ですが、専門誌に掲載する以上、他のコミック誌では読めないオリジナルな作品が期待できること、また母体があることで読者の反応が読みやすいこと、それにより単行本化への判断が下しやすいといったメリットがあると考えます」前から考えていたわけじゃないけど、やるとしたらこんな方法しかないよ、と言ったまでだけれど、会議室はシ〜ンと静まり返ってしまった。

ややあって、林社長がポンと沈黙を破った。「皆んなはどう思ったかな? 私はいいんじゃないかと思う。そのカタチで来年の春に行けるかどうか、さっそく役員会議にかけてみよう」来年の春だぁ? 言い忘れたけど、この会議はその年の年末に近い。その後、役員会議とやらではトントン拍子に話が進んだらしく、しばらくしてボクは役員室に呼び出された。主旨は以下のとおりだ。来年、4月1日をもってコミック編集部を設立する。その際に編集長を務めること。ボクの後任を含めて人事に意見があるなら聞いておく。あとは会社に一任すること。ひぇ〜、である。

「と、いうわけなんだけどさぁ…」困ったときの相談相手は、小学館のいつもの友人だ。図らずもコミックという自分のフィールドにやってくることになったボクに、彼は鷹揚に言う。「だ〜いじょぶ。わかんないことはオレに訊け。ぐふふっ」ぐふふ、じゃないよ。でもヨソの会社のことなのに、親身になって話を聞いてくれるのは、すごく有難いし頼もしかった。「で、とりあえず、会ってほしいヤツがいるぞ」彼は、いきなり作家さんを紹介してくれると言うのだ。

てっきり小学館系の人なのだと思っていたけれど、紹介してもらうことになったのは、何と彼のライバル会社の講談社系だと言う。しかも小石クンというその作家さんは、講談社ではかなりハードルの高い「ちばてつや大賞」を受賞した新人だというではないか。え? なんでそんな人が? 講談社は何してるの? 事情を訊いてみると、けっこうフクザツだ。小石クンを大賞に押したのは、講談社のある雑誌の編集長なのだけれど、社内の派閥抗争に敗れて失脚し、現場を離れてしまったという。

その後、新体制となった編集部では、失脚した前編集長が選んだ新人を使おうというムーブメントが消え失せてしまい、普通ならば前途洋洋だったはずの小石クンを、宙に浮かせてしまったというのだ。作家さんが「描きたい」というパッションはナマモノだから、それが薄まらないうちに活動してもらわないと、実にもったいない。そこに小学館の友人が救いの手を差し伸べたというわけだ。ところがタイミングが悪すぎた。

当然ながら小学館でも新人賞受賞作家はいる。その受賞者にしたところで、すぐに連載ページが用意されるわけではない。人気雑誌は人気作家で埋め尽くされているのだから、新人作家が割って入るには、既存作品の連載が終了するといったチャンスがないと、うまく滑り込めないのだ。せっかく救いの手を差し伸べたものの、小石クンに待ってましたとページを与えられる雑誌は、小学館にもなかった。

そこで小学館の友人は、小石クンに「専門誌だけどさー、きっと自分の描きたいものが描けるよ。ウチに空きができるまで、悪いけどそこでやっててくんない?」と言った(らしい)。まー、いいんだけどね。こっちにしたって、講談社の新人賞作家に描いてもらえるチャンスなんて、クスリにしたくたってあるわけがないのだから。

紹介してもらった小石クンは、人なつっこい爽やか系の人で、絵柄を拝見させてもらった後、彼の好みも加えて「バイクもの」を月刊オートバイ誌に描いてもらうことになった。さっそくプロットを考えてもらい、それが出来上がったところで打ち合わせしてシェイクダウン。これをオートバイ編集部にプレゼンし、編集部の意向も反映させながら細部に修正を加えて行くというわけだ。もちろん編集会議にはボクもオブザーバーとして出席させてもらい、現在の月刊オートバイの読者傾向、ブームなどをこちらも学習する。うん、何となく仕事らしくなってきたぞ。

さて、しずしずと動き出したコミック編集部だけれど、会社は編集部員としてひとりだけ回してくれた。ところが回されたのは、どこの編集部でもダメを出されたという、いわくつきの男だったので、まったくアテにならない。スタッフは事実上ボクひとりである。だからと言って、編集部として機能するには連載1本だけではカッコがつかない。せめてあと1つ2つは連載を立ち上げないと、社内で存在を認めてもらえない。ちょっと焦る。

次のターゲットは、月刊カメラマン誌だ。ここの編集部には1年だけ在籍したことはあるけれど「カメラもの」のコミックは、ちょっと想像がつかなかった。「バイクもの」と違って、あまり前例がなかったこともある。あれやこれやと考えているうち、ふと親父のことを思い出した。親父は朝日新聞社で定年まで出版写真部長を務めた報道カメラマンだ。太平洋戦争では海軍で学徒出陣し、父親から大学の入学祝にもらったライカを首にかけたまま、沈没する空母から脱出したというエピソードを、子供のころ聞いたことがある。

これってコミックになるのでは? 退職後はブラブラしているはずの親父を訪ねて実家に出向き、ざっくばらんにお伺いを立ててみることにした。コミックは新聞連載の『クリちゃん』と『サザエさん』くらいしか知らない親父だったけれど「うん、お前が原作やるならいいぞ」と言ってくれたので、さっそく取材にかかる。親子と言っても、自分の仕事のことは語りたがらなかった親父だけれど、戦後、朝日新聞社に入社してからのエピソードには、ホントかよ? と思うようなものがいっぱい聞けた。

これは行ける! 直観的にそう思えたこともあり、3〜4話分をいっきに書き上げて、冒頭にシノプシス(粗筋)を加えたものを小学館の友人に見てもらうことにした。彼の第一声は「こんな話、どこで拾ってきたんだ?」であり、いつになく厳しい目でボクを見る。いや、これウチの親父の実体験なのよ、と言うと、しばし目をむいている。そして「誰の絵を想定して書いた?」と訊くので、石川サブロウさんだよと、正直に言った。石川さんは小学館の作家ではない。集英社「少年ジャンプ」の新人作家さんである。

石川さんは『北の土龍』という画学生が主人公のコミックを描いていて、この作品はボクのお気に入りだった。さすがに他誌の新人作家の連絡先までは知らないだろうと思ったけれど、彼は手帳をパラパラとめくり、紙切れに電話番号を記すと「すぐにアポを取れ。頑張れよ」と言ってくれた。彼も「これは行ける」と思ってくれたに違いない。ボクはその紙切れを丁寧に名刺の間に挟んで、小学館の本社を後にした。歯車が音を立てて回りだした気がしたのだけれど、世の中、そううまく話は進まないことは、後日、身を持って知ることになる。

オーネット・コールマン、ハーモロディックな夢(1)

三橋圭介

オーネット・コールマンが、自身の音楽理論ハーモロディックについてはじめて触れたのは、1972年に発表したアルバム「アメリカの空」のレコード解説だった。だが、この理論は1950年代初頭、すでに頭のなかにあった。かれによれば最初のハーモロディックは、「ジャズ来るべきもの」(1959)のなかの「ロンリー・ウーマン」(1954年作曲)だと述べている。当時は理論としてではなく、おそらく内的なロジックであり、漠然とした何かだったのだろう。ただ、そこには従来のジャズを超えるコードの多重化、変則的なテーマの小節数、タイミング、音色、ピッチ、空間に対する逸脱があった。

ハーモロディックとはharmony・motion・melody(ic)から取られた造語であり、コールマンはそれを一冊の本にまとめようとした。しかしうまくいかなかった。その後、何人かがかれと関わり、細切れになった断片を寄せ集め、理論として構築しようと試みた。しかしあまりにも多岐にわたるため、未完に終わった。

1972年以降、ハーモロディックは一部の人たちのなかで議論の的となり、さまざまな解明が試みられている。コールマン本人の言葉を中心に、双子と呼ばれた初期の仲間ドン・チェリー、そしてブラッド・ウルマーなど側近へのインタビュー、また学者、評論家などの研究など、さまざまなことばがハーモロディックを巡っている。しかし、この理論を不明確にしているのは、本人のあいまいな発言にある。

「ハーモロディックのソロ、あるいはアンサンブルをきくとき、メロディに耳を澄まし、1つのアイデアからさまざまな方向にメロディが変化していくのをきき取らなければならない」。また「人それぞれのロジックに基づく肉体的・精神的な行いが音の表現に、ひとりないしはグループによるユニゾンの感覚をもたらすこと」。さらに「ハーモロディックとは、モデュレーション(主調の転調)なしに、きき手の原理・原則をもたらすことを意図した音楽です」。より具体的なのは、フリー・ジャズ系のベーシスト、ペーター・ニクラス・ウィルソンの書いた「オーネット・コールマン 人生と音楽」だろう。かれはコールマン自身の書いた譜例なども用いながら、ハーモロディックを解説している。

たとえば、4つのパートあるとするなら、まずヴァイオリン記号のド・レ・ラ・シをテノール記号、バス記号、アルト記号のそれぞれで読み、水平のメロディ、垂直のハーモニーを作るというもの。さらにハーモロディック・モデュレーションによるユニゾンの多用によって多層化され、複雑な響きを作りだす原動力となる。このやり方は即興のないクラシカルな室内楽やオーケストラ作品、「フォームズ・アンド・サウンズ」「スペース・フライト」「アメリカの空」などで主に実践されている。

これらの作品は大雑把に無調に聞こえるが、シェーンベルクのような調性の限界を越えようとして生まれた無調性ではない。根底にはコード的なダイアトニクな感性が常に働いている。4パートの曲なら1小節のなかでAの楽器がCのコードに基づく旋律(主要メロディの細胞に基づく)、別のB、C、D楽器にはそれぞれ別のコードに基づく旋律(主要メロディの細胞に基づく)が割り振られ、それらが多層化され、結果として無調性にきこえる。現代音楽の世界でたとえるなら、アイヴスのポリトナリティ(多調性)と同じ効果だ。こうしたハーモロディックの動機的な展開とモデュレーションは、パントーナル(汎調性)を前提としたポリトーナルによって、各パートのメロディ、動き、ハーモニーの等価性を保証している。

ただしジャズの即興に基づくトリオやカルテットでこうした技術を実践しているわけではない。「ロンリー・ウーマン」はテーマのくり返しが終わり、コールマンのソロの部分、チェリーがカウンター・メロディ(ベース・ラインのユニゾン)を演奏するが、ここでコードの重複が起こっている。その距離はDm/Gm・E♭m/Gm#5・Em/Gm6(チェリー/コールマン)となる。また、基調はDだが、コールマンはハーモニック・マイナー・スケールやメロディック・マイナー・スケール、そしてDmのペンタトニック・スケール(♭5)なども使用している。これらが微妙にズレた音程、リズムの入りなどを含めて、コールマンを当時のジャズと大きく隔てていたもので、衝撃として受け取られた。

この「衝撃」はコールマンの感性だったのか、それとも戦略だったのか?おそらく、「内的なロジック」という感性を戦略に転化させたのだろう。というのもコールマンは、長い間アルト・サックス(E♭)が移調楽器であることを知らずに演奏していた。1960年のガンサー・シュラーのラジオ・インタビュー(BBC)で認めている(ここではまだハーモロディックという言葉はでてこない)。つまり正しいと思って弾いている音は、実際に出ている音とは違っていた。結果としてそうしたズレに慣れ親しみ、感性として鍛え、後に、戦略としてのハーモロディック理論へと導いたといっていいだろう。先に述べた音部記号の読み替えが、読み違いから生まれたということは容易に想像できるし、この発見はビ・バップ以降のジャズを乗り越える原動力であり、可能性ともなった。(つづく)

110あおみどり、オールー――新年

藤井貞和

あおみどり    疲れ
おばー  その舟の叫び
せんねんの松  枯れて
亀が歌する   こころ
みどりばは    灰に
鶴や どこに舞いおさめ
ゆくえ    しらすな
しらすなや  ながてを
しゅんかに しずむ歌者
うちすてられて さんし
んの火器 こえのなぎさ

(「おすれいぷって、おぼえちゃって、ははは、のーにいんぷっとしたらば、わらっちゃうよな」。「おすぷれいでしょ。おすのぷれい。おぷすれい、なんていうひともいたさあ。ははは、おぼえらんない」。「ひょうてきの、むらさきの、ちょうじょうに、つるがまいかたをつとめる。かめがうたすれば、オールーの松、さかるうれしゃ」。新年、ことしもよろしくおねがいします。)

オトメンと指を差されて(65)

大久保ゆう

あけましておめでとうございます。大久保ゆうです。旧年中はどうもありがとうございました。今年もよろしくお願い申し上げます。

  ……

うーん。……何かが、足りない。とりあえず書いてみたものの、なんだかこう、芸がないと言いましょうかね。水牛での新年のご挨拶は、これで6度目となるのですが、上記の文にはオトメン感もまったくございませんし、これまでの積み重ねが全然見られないじゃないですか。

いやいやそのその、わたくしが思うに、これはきっと、決め口上なり名乗り口上なり、そういう類のものがないからなんじゃないかと思ったり致すわけですよ。長く続くものには定番の文句があるってことで、そろそろいっそここでこしらえてみてもいいんではないかと。

さて青空文庫をひもといてみると、往年のヒーローは、このように名乗り出ているわけで。
「おらア言い飽きた科白だが、お前ッちにゃア初耳だろう。姓は丹下、名は左膳……」
おおお、ずば抜けてかっこいい。そうそう、こういうのですよ。ほかにも、三上於菟吉の雪之丞変化を開いてみれば、
「わからぬか、この顔が――かくいうこそ、雪太郎が後身、女形雪之丞――見えぬ目を更にみひらき、この顔を見るがよい」
こちらは人気の役者だからこそできる言い切り、ほれぼれしちゃいますねえ。

とはいえ、こういう決め台詞というものは、えてして原作では1回しか出てこず、映像化や何やらで取り上げられて繰り返されて、やがて定着するというのは、半沢直樹やケンシロウに例を待つまでもなく常なることで。

そういえば、半七って決め台詞ありましたっけ。作ったシリーズもあったけど浸透しなかった感が。黄門様の「この紋所が目に入らぬか」とか金さんの「この桜吹雪見忘れたとは言わせねえ」に近い台詞って、原作だと推理のあとの「さあ、ありがたい和尚様がこれほどの長い引導を渡してやったのだから、もういい加減に往生しろ。」かなあ。もっとつづめると、「これが和尚様の長い引導だ、いい加減に往生しろ」くらいになるんでしょうか。うーん外連味不足。

それだったら、法水麟太郎あたりを持ち出してですね、「謎を以って謎を制すのです、さあ閉幕《カーテン・フォール》だ」とか言わせておいた方がいいような。あるいは中里介山の机龍之介に「神も仏もないこの世、一人斬ったとて知れたこと」と毎回呟かせるとか。

ともあれ、自分に作ってみるとしたらどうなるか。昨年の年始にはオトメンいろはがるたなるものを用意しましたけれど、ああいう感じで作ればいいのかな。

――甘味の神様こんにちは 菓子好きかしづくことわりを 此度も奏したてまつる
――ゆるゆるオトメン 今年もよしなに。

うん、何だか原点回帰っぽい。あれ? 最近そういうお話をとんとしていなかったような。しよう! 今年は甘いものの話をもっとしよう! 初心! 抱負! 頑張ります!

掠れ書き36

高橋悠治

音楽は何かを主張するのには向かないようだ。音はことばのようにそのものが意味をもつよりは、使われる場や慣習から意味を帯びることがある。聞くとイメージが浮かぶような音楽なら、ある目的のために使うこともできるだろう。雰囲気をつくったり、リズムを整えるための音楽がある。そうではなくて、偶然に窓を開けると見えるできごとのように、どこからか聞こえてくる音楽、どこにもないそれをすこしずつ形にしていく作業。

音がもうそこにある。その音が次の音を呼び入れる。何だかわからないまま、その動きが自然で、よけいな意図なしにすすんでいるあいだはいい。その動きがいつか停まる。そこで止めて、音楽から離れる。断片以上ではない。でも無理強いはよそう。

中断の後でそこにもどって再開できることもある。それでも、途切れたところには小さな溝が残る、呼吸のように。

中断した個所にもどれず、ちがう断片がはじまってしまうかもしれない。そんな作業を重ねて、後には断片の堆積が残る。断片は何かの一部だから断片と言えるのか。断片があれば、それを含む全体があるのだろうか。それとも断片の集まりそのものが、何もつけたさなくても、全体と呼ばれるのだろうか。

断片が、かつて存在した全体の一部と仮定すれば、復元する努力が、過去の回想を再構成する。そこでは断片それぞれの輝きや暗さが均されて、不器用に繋ぎ合わされた壊れやすい模造品にならないか。

断片が断片のままでいられるような、隙間だらけの、音楽で言えば、意味のない沈黙で区切られた、未完成な感じが残るほうが、それぞれの断片の響きの余韻が表現のように思えるかもしれない。

ここしばらく拍のない音楽を書いていた。全音符を長い音、あるいは句点とし、4分音符を短い音、あるいは動線とし、16分音符を早い音、あるいは抑揚とする。これは17世紀フランスではダングルベールやジャケ・ドラ・ゲールの書きかたに近い。崩された和音と即興的な線を区別する。ルイ・クープランは全音符だけの白い楽譜で、生前出版されなかったから自分だけのメモだとも言われる。これらは名人芸の即興的なスタイルと言えるだろう。ケージの晩年ナンバー・ピースにはいろいろな書法があるが、全音符だけで書かれ、時間枠の幅のなかで、たまたま同時になった音の響きが和声とされる。ここでは時間のない空間に散らばる星のような音楽になる。

3種類の音符で書くかわりに、すべてを全音符で書いてみようか。書かれているのは音の高さと順序、それに弧線が各音の終わりを示すか、数個の音のグループを束ねる。崩された和音や偶然の同期ではなく、音が集まって停滞する場所と流れている区域で作られる音楽。構成や予定調和(harmonia)からではなく、聞き取られた想像の響きと流れにしたがいながら、それを紙に書くという間接性、あるいは遅延装置を通して実現する場合には、名人芸のような慣習を排除するほうがいいだろう。「こどもの無償の遊び」と形容されるような、あるいは凍った水面を歩くような、探りながらの一歩、先が見えない曲がった道がある。

と言っても、思うような楽譜はなかなかできない。コンピュータの楽譜制作ソフトは19世紀音楽の慣習に合わせて作られている。プログラムされてないことをさせると混乱するらしい。ソフトをだましながら書いていく。しかし定着しようとした瞬間に崩れて慣習にもどってしまうこともある。作業はもっと遅くなる。

思い通りにいかなければ発見があるというのは後付の理由だろうが、思い通りに進む作業を続けるうちに、理論で組み立てたように予想可能なプロセスに陥っているのではないか、と気がかりになる。

自分の手や喉を使って、どこからか聞こえてくる音についていくだけなら、たどたどしい途切れがちの即興にしか聞こえないかもしれないが、その中間に書きとめる作業をはさむと、速記のように速くできたとしても、やはりずれや遅れだけでなく、気づかない誤認や誤記があるだろう。それでも書くためには規則やスタイルがある。書いていくと、それらもいつの間にか踏み越えられ、あとで見なおすと、あいまいな書きかたや、説明できない個所がそのままになっている。

音の高さと順序が書かれていても、音の終わりは弧線だけではあいまいだし、グルーピングを示す弧線とおなじ記号だからまちがいやすい。ましな書きかたがあるかもしれないが、はっきり書かないでその場で決めたほうがいいこともある。

次の音までの時間は、演奏の場でその時にしか決められない。リズムや拍に乗ってどんどん進むのではなく、ロバのように立ち止まりがちの音を次の音へひきずっていく呼吸が、流れの緩急となるのだろう。それと同時に強弱もそこで決まる。

リズム・パターンや拍ではなく、進む力と抵抗が、綱引きのように緊張と遊びをくりかえし、やがて対称性が破れる。

109むらさき・みどり――夕暮駅・2

藤井貞和

群咲きの花園を荒らそう、
ぼくらが這入ってゆくみどりに変わる遊園。
天上の信号機気動車の笛、
ゆうべの使令幼年舎歩行者の足音、
そろそろそろそろ飛ぶ火野の鹿の園。
紫苑にゆき向かい帰らぬ兵士は、
きみらの足音聞かすすべのない帽を、
耳朶に傾けていま朽ち果てる。
みどりに変わる遊園の人々、
天上の信号機に乗って歌姫行かす。

(11月尽、12月へ、訃報つづきです。お国はヘイト・スピーチ〈嫌いね!言説〉が現代詩を覆いつくし、短歌も、それから俳句も被災することだろう。逆かな、どこへゆくのかな。きのうは辻井喬さんの追悼文〈普通の詩人の普通の声〉を書いていました。ブランド文化というのは一種の差別社会の創生です。辻井さん(堤清二)は西武百貨店のごちゃこちゃした棚をつくり、パルコを用意して私らのようやく這入れるお店を作り、ブランドに対抗しては無印良品、西友、一時は牛丼の吉野家、イベント空間、ちいさな詩の雑誌、若い詩人のしごとにまで目を配ってくれました。近況としては先週にはダライ・ラマの来る一週間前の京都精華大学でイベントや「うたの文化論」をやってきました。いろんな質問が出て、言いのこしたことをあとから受講生諸君に以下のように回答しました。〈感想シートをありがとう。物語と歌との関係は? 詩が現代に「よい子」向けになっているのでは? 最近の歌をどう思うか? ファンタジー紀のあとには何がくるのだろうか? ぜひ、いろいろ考えて下さい。蛙の文様を始め、土器に貼り付けてある動物や人間は、みな激しく舞踏の姿をしていますね。歌声、リズムや動きが伝わってくるようです。宮藤官九郎さん、大友良英さんが、「あまちゃん」のそこここで、80年代歌のしかけをいろいろ試みています。「もんじゅ君」のサイトと言うのがあり、ゆるキャラのもんじゅ君が大友さんにインタヴューしていて、その細かいしかけをつぎつぎに質問しています。私ですか? 少し古く、60年代、70年代ですね。童(わらべ)うたや子守歌は、永遠にうたの原点だと思います。古代歌謡で童謡と書くと「わざうた」です。90年代初頭の「踊るポンポコリン」を現代の「わざうた」ではないかと論証していた論文がありました。湾岸戦争の前後の世相とかかわる。20年に一度、とみると、現代ではフォーチュン・クッキー何とか(AKB48)あたりかも。「わざうた」が出てきそうな危うい現代ですね。「あきらめそうになった時、読む詩はないか」という質問がありました。中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』、同『括弧』(みすず書房)は元気になると思います。中井さんは精神科医です。「ファンタジー紀のつぎに何が来るか」という質問。どんな理想郷もデストピアも、たとい人類の破滅でも、ファンタジーの得意とするところだから、その限りでファンタジー紀の延長です。現実がほんとうに壊滅し始めたら、という予感のさきはまだ考えられなくてよいと思います。〉)

チョコで「絆ぐるぐる」

さとうまき

最近イラクと日本を行ったり来たりしている。あまり日本のニュースを追っかけていなかったのだが、特定秘密情報保護法の話を聞いてびっくりした。こういう法律がものすごく簡単に衆院を通過してしまったことも。

東日本大震災では、世界中から支援が集まった。イラクやヨルダンその他の途上国も支援してくれている。しかし、日本はそんなことはすっかり忘れ、経済成長、日米関係ばかりを気にしている。先日は、アメリカが、シリア政府が化学兵器を使用した確固たる証拠をつかんだので、攻撃すると言った。日本は、アメリカに情報を見せてもらい、アサド政権が使ったと判断するに足るとして、攻撃を支持したが、「証拠」は、国際社会どころか、アメリカの議員も説得できないお粗末なものだったのだ。一体、日本が何を見せられたのかは、「秘密」だという。

公明党の大口議員は、「(法律がないと)日本は、某国から情報が入ってこなくなる。どの国とは言いませんよ。大量破壊兵器の情報が入ってこなくなる。国際テロの情報が入ってこなくなる。これは日本の国民の生命 身体、財産を傷つける、しっかりとした的確な情報が入ってくるなら紛争を未然に防げる。正確な情報が入ってくると外交政策、防衛政策を誤らない。」と国会で説明したが、情報を分析するリテラシーすら持ちえない国に、秘密情報保護法が出来たら、イラクのような戦争に加担しても全部秘密にしてしまえば責任を取らされることはない。そういう魂胆なのかとも疑ってしまう。

日本は、そんな排他的で閉鎖的な国になってほしくない。そこで、今年のチョコレートは、「絆ぐるぐる」世界にまわして平和を創ろうともくろんだ。

【アカベコにかけた願い】
福島の復興のシンボルにもなっているのが赤ベコ。会津に伝わる伝統玩具だが、首が揺れてかわいらしい。赤い牛は神社建立に、最後まで重い荷物を運ぶことができたという伝説から、赤ちゃんが生まれたら無病息災を祈願して赤べこを送ったという。それで、僕たちは、イラクのがんの子どもたちが早く治るようにと赤ベコをお土産に配っている。

北イラクは、シリア難民が20万人くらい入り込んできて、路上には物乞いの子どもたちも増えている。私たちの事務所があるアルビルは、イラクで悪化する治安をよそに、クルド人たちががっちりと治安を守ってきたのだ。そのおかげもあり、経済成長も著しい。しかしアルビルから少し離れると、これといった産業もなく貧しい生活を送っている人たちも多い。

今回、チョコのパッケージの赤ベコの絵をかいてくれたイマーン(8歳)は、モスルに住んでいたが、治安が悪化して避難してきた国内避難民だ。アルビルからは100キロ離れたソーランというところの空き地に勝手に家を作って住んでいる。2009年1月(当時4歳)に急性リンパ性白血病で入院。1年半の化学療法がうまく行ったかと思われたが、2010年に頭痛と痙攣が続き、再発を確認、放射線治療をうけたが、2012年12月に頭痛と視力低下を訴え、骨髄を調べたら再発していることがわった。輸血が原因と思われるB型肝炎も発症しているとのこと。彼女が救われる可能性は骨髄移植しかない。同行した井下医師の説明だと、「今年の暮れが山かな」という。

イマーンちゃんの部屋に行くと、薬がきついのかぐったりと寝ていた。
ちょうどごはん時だったので、「ご飯食べないの?」と聞くと「いやだ」とそっけない返事。「おじさんといっしょに食べよう」とスタッフのイブラヒムがしつこく誘うと起きてきて、話し始めた。「もうすぐしたらわたしのおうちには雪が降るので、雪をまるめて友達にぶつけて遊びたいの。ひひひ」とお茶目に笑う。

「隣の人が、鳥をたくさんかっていてね。一羽もらったの。でもね、死んじゃったの。きっと熱が出たんだと思うの。それでね、もう一羽くれたの。そしたら、また死んじゃった。きっと熱が出たの」
イブラヒム「お医者さんに連れ行けばいいのに」
「お医者さんは、鳥なんか見てくれないでしょ。隣でね、猫飼っていてね。それが、鉄砲で撃たれて死んじゃったの」
イブラヒム「なんだか、死んじゃう話ばかりだね。動物は何が好きなの?」
「馬が好き」
イブラヒム「馬は高いからロバを買ってあげようか?」
「ロバはいうこと聞かないからいらない! 全然かっこよくないし。この間、近所の黒い牛が追っかけてきて、とっても怖かったの。だからひよこが好き」
イマーンの話を聞いているととても楽しくなってくる。生きてほしい。
チョコ募金でどれだけがんの子どもたちを救うことができるか、今年のチャレンジが始まった。

チョコ募金出だしが遅れています。是非皆様ご協力をお願いします。
12月2日から受付開始です。http://www.jim-net.net/choco/

やっと暑さから開放されて

仲宗根浩

いや〜、寒い。十一月は半ば過ぎまで普通に半袖で仕事をしていたけど、ここ最近は半袖の上から一枚羽織るようになった。最高気温も二十度を下回ると風が強いので余計に寒くなる。そりゃ内地と比べればまだ暖かいだろうけど。我が家は暖房を使用しないもので部屋も寒い。エアコンから暖かい空気が出るとなんか気持ち悪いので暖房機能は使わない。その上、乾燥してくると鼻の穴が乾いてむずむずし、鼻をつまんで動かしたりしていじることが多くなる。がまんできなくなり指を鼻の穴にいれて掻いたあと、指の先には血がついている。乾燥するとすぐ鼻にくる。

十一月のはじめごろはえびが値上がりして大変だ、というので事情通に聞いてみたら、今の多く流通している養殖のバナメイエビが病気で不足した分ブラックタイガーの注文が増えてきたのだが、養殖業界ではブラックタイガーから生産性の高いバナメイエビにシフトしてブラックタイガー自体も不足で高騰している。もう少しすれば天然と同じくらいの値段になるだろうと。その後すぐ表向きメニューの誤表示という偽装がニュースになって、安いえびの代名詞みたいになった可哀そうなバナメイエビ。バナメイエビは今高いんだぞ、手に入らないんだぞと思いながらそのニュースを見ていた。

夜、Youtubeで大瀧詠一と山下達郎の昔の新春放談を見つけて聴きそこからエヴァリー・ブラザースの「Let it be me」、次にジョージ・ハリソンのバージョンを見つけ、そこからバングラデッシュ・コンサートの「Something」の動画でジェシ・エド・デイヴィスがしっかりとへろへろのクラプトンに代わってきっちりとサポートしているのを発見。このDVDがリマスタリングされて出た時はジョージ・ハリソンのストラトの音がやたらいいのにびっくりしたことを思い出す。どんどん聴いていくと朝になっていたりする。
パソコンを交換して三年余り、取り込んでない音源がかなりある。ジェシ・エド・デイヴィスもライ・クーダーもタジ・マハールも。ベッシー・スミスやスタックスのシングル集他もろもろのボックス物。そろそろ整理しないと、と思っていたけどその前に段ボールに入ったままのCDがある。置く場所は確保しているけど、これがなかなか進まない。一気にやらないと来年になってしまう。それまでCD類は買うの禁止。最近は車の中ではNHKのFMを流している。同じ時間だけど曜日によってクラシックだったり昭和歌謡だったり。車も一月には車検なので余計な買い物はできないので禁止しなくても買えない。

アジアのごはん(59)波照間島のトゥナナマシ

森下ヒバリ

「あ〜、いい感じのアジア食堂だねえ、何にしようかな〜」メニューを眺めると、ラフテー定食、島豆腐チャンプル定食、島の干物定食、島野菜のカレー、そして一品ものがいくつか。よし、きのう売り切れで頼みそこねた島豆腐チャンプル定食を頼もう。

この店の島豆腐チャンプルには、豆腐のほかにキャベツ・ピーマン・もやし・にんじん・青パパイヤがたっぷり入っている。定食には島かぼちゃの千切りサラダ、にんじんしりしり、白菜浅漬け、四角豆のサラダが少しずつと、アオサのみそ汁とごはんが付く。野菜たっぷりですんごい好みの味なんですけど。赤米を混ぜて炊いたごはんもおいしい〜。

ここは波照間島の「あやふふぁみ 島のもの食堂」である。この食堂、何を食べてもおいしいのさ〜。オリオン生ビールを飲みながら、島豆腐チャンプルに夢中になっていると、「道に迷った〜」と言いながら今回一緒に旅している友達夫婦もやって来た。

食べたことのない一品料理をいろいろ頼んでみることにする。お店は昼しかやってないのだけれど、ビールも泡盛もあるので、すっかり宴会モード。「トゥナナマシ? これ、なんかふしぎ‥」メニューの説明によるとトゥナナマシとは、自家栽培のトゥナンパ(アキノノゲシ)を流水でもみ、サバの味噌煮と酢で和えたものだという。えっ、サバの味噌煮で和える? 何だそれは。

波照間の家庭料理ということなので、さっそく頼んでみる。アキノノゲシらしい葉っぱを千切りにしたものとサバの味噌煮を崩したものが酢で和えて出てきた。一口食べてみると、「ふーむ、経験したことのない味‥でもイケル」。ちょいちょいつまんで、ビールのお供にぴったり。

それにしても、野草をサバの味噌煮と酢で和える‥とは考えたこともなかった。サバの味噌煮を作ったら、すべて食べつくしてしまうしなあ。もしかしたら、台風や強風で航路が欠航することの多いこの島で、保存のきくサバ缶を使った工夫料理なのかも。庭に生えているアキノノゲシを摘んできて、あくが強いので流水にさらしてもみ、サバ缶と和えたのだろうか。それとも、ちゃんとこのためにサバ味噌煮を作って、トゥナナマシを作るのだろうか。まあ、ヒバリが波照間の住民だったら、もちろんサバ缶使いだな。

そう思って、京都に戻りしばらくして近所のコンビニでサバの味噌煮缶詰を見つけたので、トゥナナマシもどきに挑戦してみた。アキノノゲシのかわりに、ぴりっと苦みのあるワサビ菜を使ってみた。作っては見たが、おいしくできなかった。ワサビ菜は、あまり味が近くなかったし、何といってもニッ〇イのサバ味噌煮がまずい。これでは何かあった時のサバイバル料理にもならないぞ。もっとおいしいサバ味噌煮缶詰があったら、こんどはアキノノゲシを採取してきて、作ってみたいものだ。いや、あの、サバの味噌煮をちゃんと作ってもいいんですけどね。

アキノノゲシは、調べてみたら、二センチ位の黄色いタンポポに似た花をつけ、葉っぱがアザミのようにギザギザして尖っている植物である。なんだ、いつもアパートのまえの花壇に生えている、あの草ではないか。キク科のアキノノゲシは波照間島に限らず、ノゲシとともに昔から食べられてきた野草だ。苦みがあるが、やわらかい葉を採取し、茹でたりしてアクを取り、炒めもの、和え物、てんぷらにして食べる。稲作と同時に日本列島に伝わったと言われるほど古い起源の野の菜なのであった。葉っぱをちぎると白い乳液が出るので乳草とも呼ばれ、ウサギの大好物でもある。ちなみにレタスもキク科アキノノゲシ属で、近縁種である。それならさくさくしたロメインレタスなどがサバの味噌煮と合うかもしれない。

沖縄にやって来たのはかれこれ十年ぶりだ。今回は石垣島、西表島、波照間島と八重山地方だけを廻った。十年前との一番の違いは、なんといっても食事(外食事情)が格段においしくなっていること。以前何度か来た時には、「暖かくて、のんびりしていいんだけど、ごはんがな‥」と何度も思ったものだ。内地からの旅行者、移住者、情報の流入で外食が洗練されてきたのだろう。うれしいけど、ちょっとさびしい気もするような。

波照間から石垣に戻って、港の近くで八重山そばを食べたときに、昔ながらの味に出会った。「あ、このもったりした味‥」「だいたいこいう味の店ばっかりだったな」とちょっと懐かしい。店のおじいとおばあの感じはとてもよかった。でも、すんません、味の素てんこ盛りでまずかったです。

石垣の公設市場で青パパイヤを買い、京都に帰ってさっそく豆腐チャンプルを作ってみた。豆腐は堅豆腐という、水分の少ない豆腐があるのでそれを使う。そういう豆腐が手に入らない場合は、固めの木綿をしっかり水切りするか、厚揚げを使って下さい。青パパイヤは皮を剥き、しりしり器ですって千切りにする。にんじんもしりしり器で千切り。ピーマン細切りともやしも加えて、ごま油で豆腐と炒める。味付けは塩とコショウ。ピーナツがあれば潰して加えるとコクが出る。タイの生トウガラシの荒潰しを少々入れるとさらにおいしい。ほんの少〜し隠し味にナムプラー。味の基本はあくまで塩味です。

しりしり器は、沖縄地方の台所の必需品である。「しりしり」は、「すりすり」の意で、すりおろし器のこと。木の枠にはめ込まれた金属にあいている穴は斜めに向かっている。しりしり器を斜めに立てて、にんじんやパパイヤを当ててすりおろしていくと、千切りになって出てくる。千切りと言うにはちょっと太い。少しぎざぎざした千切りは火の通りも味の馴染みもよく、一度使うと、もう手放せなくなってしまった。にんじんをしりしりして、さっと炒める、生のままサラダにする、なますにするなど、にんじんの消費量がぐっと増えた。

ちなみに、沖縄で売っている、台湾製の金属部分が銅のものは、ちょっと千切りにぎざぎざ感が少ない。わたしが使っているのは、小柳産業の歯の部分がステンレススチール製のもので、かなりぎざぎざ千切りができる。こちらのほうが、切れ味は少し劣るが、味の染みが断然いい。

青パパイヤの残りで、タイの和え物ソムタムも作ってみた。小柳産業製は、千切りがけっこう柔らかめなので、搗いてなじませる工程は省いて、調味料と和えるだけにする。青パパイヤの千切り山盛り。プチトマト数個とインゲンは軽く潰す。ピーナツの荒潰し、調味料はナムプラー、柑橘のしぼり汁、さとう、トウガラシ、ニンニク、そして最後に塩辛の液体部分を小さじ半分入れれば、タイの味。

豆腐チャンプルとソムタムをつまみながら、泡盛を飲む。泡盛は石垣島や宮古島の宴会風に、水でかなり薄めてゴクゴク飲む。酔いが回ると波照間島や石垣島で眺めた青い青い海と、星降る夜空がよみがえってきた。明るすぎるくらいの満天の星たち。おおらかに流れる幾つもの星。ああ、あの南の島々はなんとうつくしい場所なのだろう。

そういえば、昔「美しい国へ」なんてスローガンを掲げた総理がいたなあ。改憲、戦争、秘密保護法、原発事故隠ぺい‥あの人の「美しい国」とは、まったく想像できない、とんでもない「美しさ」だ。美しいなんて言葉をあの人に使ってほしくない。嘘とごまかしと策略で出来ている政治が、ただ目先の欲のためにだけ動いていくこの国の有り様。闇はあまりに深く、波照間島のような星空は望むこともできないのか。

「ライカの帰還」騒動記 (その2)

船山理

昭和の57年ごろ、クルマ雑誌「ホリデーオート」に異動した私は、それまでのバイク雑誌とはまったく違う環境に四苦八苦していた。当時は月刊で60万部という、とっぴょうしもなく売れていた本でもあり、業界自体も読者層もケタ外れだった。会社は中閉じ週刊誌タイプの装丁では入り切れなくなった広告対策に、月2回刊へと踏み切るのだが、部数は落ちるどころか各60万部が実売りでサバケてしまう。えらいところへ来てしまった。

この雑誌の返本率は毎号20%を切ることが至上命令だったから、巻頭カラー、モノクロ合わせて32ページからなる第1特集を担当するのは、胃がどうにかなってしまうほどの重圧になる。2班体制で1班7人編成となる編集部でも、第1特集を任せられるのは2〜3人に絞られていて、企画立案、取材マネージメント、執筆やデザイン依頼とそれらの回収、入稿までを、ほぼひとりで行なう。この担当になると、残業は月150時間を軽く超えた。

月2回刊の実売り部数が、それぞれ42万部あたりで落ち着いたころ、編集長はどこから吹き込まれたのか「この本に連載コミックを入れよう」と言い出した。「売れてる雑誌にはコミックが連載されているもんだ」そうである。コミックは「折り」の都合上、16ページであることが望ましい。ということは、活版の16ページ分がコミックにとって代わるわけで、企画2〜3本が「お休み」になる。残業対策にはいいアイディアかも知れない。

ところが「ホリデーオート」という雑誌は情報量が勝負になる。活版16ページがコミックにとって代わってしまうと、その分だけ情報量は希薄になる。その懸念を編集長に告げると「んじゃ、情報のいっぱい詰まったコミックにしてくれ」と返ってきた。何じゃ、そりゃ? である。コミックは入れたいが、情報量でクオリティは下げたくないってことか。作家さんとの付き合いがあるという1点で、すでに担当は私に決まっているようだった。

さっそく小学館の友人のところに相談に行くと、彼は他人事だから、面白そうに「やれ、やれ!」というのだが、どこから手を付けていいものやら完全に五里霧中なのだ。逆に「お前はどういうものが望ましいと思う?」と訊かれ、クルマ雑誌に載せるものだから、クルマ関係の、他では読めない類のものだろうなぁ、と言うと「だったら、お前が原作書いてみろ。作家はオレが何とかしてやる」ときた。簡単に言うなぁ、もう。

仕方がないので粗筋を仕上げ、彼に見てもらうことにした。すると、どうしたわけか、えらくお気に入りである。「お前、これを誰の絵で考えた?」というから、正直に浦沢直樹さんだよ、と答えた。浦沢さんは今や大御所中の大御所だが、このときはまだ「パイナップルアーミー」を執筆していた新進作家さんだった。もちろん、面識などない。彼は紙切れにサラサラと何やら書くと「これ、電話番号。うまくやれよ」…はい? である。

粗筋から6〜7話分を起こし、電話でアポをとってから浦沢さん宅に向かう。作家さんの連絡先は出版社にとって社外秘であり、間違ってもライバル社の人間に知らせる類のものではない。友人はそういった意味では自社にとって裏切り行為を犯したわけだが、幸いなことにウチの会社はライバルどころか、歯牙にもかけられない存在なのは明白だ。できるものなら、やってみろということだったのだろう。やるしかない、のだが。

浦沢さんは初対面の私に、柔和な態度で接してくれた。そして目の前で私の原作を手に取り、入念に読み込んでいる風だった。正直、生きた心地はしなかったし、突っ返されることは充分覚悟していたのだが、出てきた言葉は意外だった。「まさにボクのために書かれたような話ですね。是非とも描かせて下さい!」目がテン、である。からかわれているんじゃないか? いや、この人の目は真剣だ。天にも昇るような心もちだった。

さっそく小学館の友人に報告すると、別段意外な様子も見せず「よかったじゃないか」とにこやかである。編集部に戻って編集長にことの次第を伝えると、そんなことは当然と言わんばかりの態度で「いつからの連載になる?」と訊くから、連絡待ちですが、早ければ来春からという感じですね、と答えた。季節は晩秋だったと思う。さあ、これから資料集めやら、話のウラをとるための取材やらで忙しくなるぞ、という矢先に電話が鳴った。

電話は浦沢さん本人からで「来年の春に小学館で新しい連載がスタートすることになってしまいました。だけどこれって1年で終了するはずなんです。どうしても、あの話は描きたいので、待っていただくわけにはいかないでしょうか?」という連絡でだった。個人としては、彼に描いてもらえるなら何年待ってもいいのだが、編集長の判断は冷酷だった。「そういうわけにはいかん。だったら他の作家に依頼しろ」ときた。絶体絶命である。

後日談になるが、浦沢さんの新連載とは「ヤワラ!」であり、ご存知のように空前の大ヒット作となった。連載は1年などで終わるわけもなく、この作品は彼を不動の売れっ子作家にのし上げてしまう。こちらは完全に振り出しに戻ったわけで、例の原作は彼が戻ってくれたときのために封印し、まったく新たに作戦を練り直さねばならない。今度はテーマを絞り、正攻法で臨む。スタイルは1話完結。テーマは「クルマでナンパ」にした。

あらゆるカテゴリーのクルマを1話ごとに登場させて、そのクルマでナンパするなら、どういったタイプの女のコが狙い目なのか。また、そんなコたちはどんなところに生息しているのか。デートコースはどうあるべきか。これらの情報を山ほど詰め込んだギャグストーリーを考えてみた。主人公は軟弱な予備校生として、友人に中古車屋の道楽息子を設定する。これなら毎回、クルマをとっかえひっかえできるというわけだ。

これらの煮詰め作業は、互いの家が近かったせいもあるが、小学館の友人宅で行なった。彼の奥さんが私の美大予備校の同窓生だったという奇遇なめぐりあわせもあり、学年こそ違えど子供たちも同じ小学校に通う。彼女の手料理をいただいた後、2人で庭をぐるぐる歩きながら、自然にブレインストーミングになって、パズルが次々に組み合わさっていった様子は、今でも懐かしい。とにかく「クルマ別ナンパ講座」はこうして出来上がった。
原作は私としても、女のコがらみのファッションを含んだ情報やデートコースの詳細は、さすがに一般誌の女性フリーライターにお願いすることにした。問題は作家さんだが、これは正直イメージがなかった。すると小学館の友人は「神部さくみという女流作家さんがいる。これ適任だぜ」と言う。今度は私が難色を示す。女性作家じゃクルマの描写はキツイだろ? すると「ファッションや魅力的な女の描き分けが男にできるか?」ときた。

言われてみれば、もっともである。半ば押し付けられた気もしないではないのだが、メインタイトルを「I CAN C!」とした全12話のこの作品は半年の間、ホリデーオートの誌面に載った。これがモーターマガジン社で私が手掛けたコミックの第1号である。評判はまずまずで、私が気にしてやまなかった実売り部数には微塵の変動もなかった。16ページ分の情報量は、どうやらカバーできたのだろう。これには正直、ホッとしたものだった。

「I CAN C!」は連載の終了後、総集編のカタチでB5サイズのまま1冊にまとめられたのだが、取次のコミックコードを持たないウチの会社では単行本として世に出せない。総集編は本誌の別冊という形式になるため、書店では2週間しか置いてもらえず、出版社としては旨味が乏しい。そんな理由でホリデーオートはこれ以降、連載コミック掲載に消極的になっていく。肩の荷が降ろせた気もしたのだが、難題は別の方角からやってきた。

しもた屋之噺(143)

杉山洋一

昨日は、酷いガス漏れで学校前の通りが警察と消防で封鎖されていて、行き付けの食堂も臨時休業させられていました。それから息子を迎えにゆくと、今後は息子が遊びに行った友人宅のアパートで火事があり、消防車と救急車が駆けつけ、住民は全員避難させられて大変だったと言います。そんな話をしながら家に着くと、庭に通じる勝手口が開け放たれたままになっています。どうやら庭に泥棒が入ったようですが、今回は防犯ベルに慌てて逃げたようです。庭に置いてあった芝刈り機など、既に前回全て泥棒にやられておりましたから、今回は特に盗まれるものもなく、有難いやら情けないやら。師走やらクリスマスの声を聞くと、どうも世間が世知辛く物騒に感じられるのは、まあ、考え過ぎということにしておきます。

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 11月某日 自宅にて
息子の日本の国語の教科書に「饅頭こわい」が載っていたので、枝雀の「饅頭こわい」を見せる。早すぎて何を言っているか分からないようなので、小さんを見せると笑った。少しは慣れたかしらと枝雀の「代書屋」を改めて見ると、今度は大いに笑っている。子供のころテレビで落語を見ていて、聴衆がどっと笑う直前に空気がすっと一瞬無音になるのが新鮮だった。

 11月某日 自宅にて
17絃のための新作の素材を探していて、当初「越天楽」と「富貴」から素材を得るつもりだったが、三善先生が亡くなられて、すっかり思いが失せてしまった。色々と音源を聴いて一番心に馴染んだのが「誄歌」だったのは、自分でも意外だった。
粗方を採譜してから、盤渉調を基本にした調絃を考える。17絃を8+1+8と分けて中心に盤渉が来るように並べると、最高音あたりで絃に余りが出て纏まらない。古代中国の雅楽の音律旋法などを参照しながら、最低音と最高音を盤渉とし、盤渉調を基本とする4音ずつで埋めてゆくと、少しバランスが取れたので、沢井さんに見ていただく。当初楽箏の盤渉調に等しい調絃をとも思ったが、倭建命が薨じて八尋の鳥になり、野をゆき海を飛び磯を伝ったように、さまざまな調をわたる曲が書きたい。

 11月某日 市立音楽院にて
マントヴァの音楽祭のため、赤色を絡ませた新作を何かとアルフォンソより頼まれる。黄鐘調は赤の意味だったと思い出し、舞楽のヴィデオを眺める。宮崎駿が好きな息子が盛んに雑面を見せろとせがむので「安摩」を探すと、早速白紙に書き写し頭から被り踊った。
階下では、家人がフィオレンティーノによるピアノ編曲のバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタをさらっていて、子供のころに練習していた記憶が蘇る。グライダーに乗って宙をなめらかに滑ってゆくような奇妙な感覚。

 11月某日 自宅にて
頼まれているフルートとトロンボーン新作の演奏会で、一緒にヴェラチーニも弾きますと村田さんよりご連絡を受ける。ふと、ダヴィンチの文字が頭に浮かぶ。鏡でヴェラチーニを写し、改めて歪んだ鏡でヴェラチーニを写し、斜めに立てた鏡でヴェラチーニを写す。魚眼レンズで映した奇妙なヴェラチーニの譜面が、薄ら見えるような気がした。幾つかのヴェラチーニ曲なら、小学校に上がる頃までに、ヴァイオリンの手ほどきを受けていた篠崎菅子先生から教わった筈だが、レッスンの度にピアノの前のソファーではしゃいで怒られた記憶以外、しっかりした当時の記憶が殆どない。レッスンは余程愉しかったようだ。

 11月某日 自宅にて
10月から指揮を始めたばかりのフランチェスカが「子供の情景」をレッスンに持ってくる。終曲の「詩人は語る」を硬く振るのを不思議に思ったが、最後まで聴いて一理あると膝を打つ。コルトーの神秘的な印象に囚われていたが、考えてみれば子供が語っていて、当の子供も前曲で眠込んでしまっている。だから夢のなかで滔々と語る子供の姿にも見えるし、話し始めて睡魔に襲われ最後には寝てしまうようにも見える。すると俄然途中のフェルマータが説得力を帯びて見える不思議。「雄弁に」という言葉が頭に浮かび、フランチェスカのカルロ・ゼッキ校訂版の譜面を覗き込むと、そっくりそのまま「雄弁に」と書いてある。

 11月某日 ローマからミラノにもどる車中にて
ローマで平山美智子さんと高橋アキさんによる湯浅先生の「おやすみなさい」を聴く。平山さんは湯浅先生が長田弘さんの詩につけたこの曲について「生きる希望を与えるため」と説明した。マウリツィオのコンフェレンスでは、ユージさんの「ニキテ」がローマで演奏されていたことを知る。時にアキさんの話す語尾が美恵さんを思い出させるのは、髪型のせいか、それともどことなく顔の輪郭が似ているからか、強かにローマの道を打つ雨を眺めながら思う。「あなたのことは、ずっと昔に功子さんから聞いていたわ」と言われて、悪いことは出来ないと反省。雨のローマは思いの外冷え込む。

 11月某日 市立音楽院にて
ゴルリのアンサンブルで、来年一年かけてドナトーニの独奏作品を全曲演奏するそうだ。会場の壁に弟子たちが手書きの思い出を書いた紙きれを貼るというので、キリスト教大でレッスンした後に清書し、サンタンブロージョ駅前のポストに投函する。ロンドンから録音する新作の演奏内容の確認が届き、アンドレアからはオルガン新作の仮録音が送られてきて、レジスターを何箇所か変更しなければと思いつつ、ずっとどこかでニューヨークで初演する作品に使うための歌詞を探している。アイメルトの「久保山愛吉のための墓碑銘」を聴く。

 11月某日 自宅にて
日本の食品誤表記のニュースを読む。有名オペラ劇場来日と銘打ちながら、劇場オーケストラの実際は、正団員より寧ろ大方エキストラだったと聞いたことがある。評論家が有名な録音の演奏解釈や音色について書いていても、本人からすれば出来の良い演奏を繋いだだけかもしれないし、録音監督の意向で演奏解釈すら変更しているかも知れない。それらは、人を陥れるための行為ではないし、寧ろ良心の賜物にちがいない。自分が好きならそれでよい。尤も、友人の写真家は毎日モデルの顔をフォトショップで直すのが嫌で、植物の写真ばかり撮るようになったが。

(ミラノにて 11月29日)

羽根のひと

璃葉

電車の中で、大きな羽根のピアスを付けた、
おじさんのようなおばさんを見つけた。
おばさんのようなおじさんかもしれない。
両耳朶に引っ掛けられた黄色と深緑色の羽根は大きく、
ふわふわ揺れていた。隣に座るサラリーマンよりも大きな身体だったが
極端に撫で肩。
文庫本を持つ手は大きく皺だらけで、爪はピンク色だった。
とにかく目立っていた。

決められた制服や目立たない服を着ている人達が多い平日の朝の箱の中で、
独特で鮮やかな格好をした人を見つけるのが少しだけ好きだ。
1秒程見つめると、彼(彼女)達は、私の頭のなかに三日間ぐらい居座っている。

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システム

大野晋

おおまかに分類するとシステムの構築とその理解に関するお仕事をしている。最近、特にシステムについて考えることが多くなり、自分のことをそう思うようになってきた。

システムは実際にはモノではなく、システムとはもののミカタなのだそうだ。だから、同じものでも見方によってはシステムに見え、見る人によってはシステムに見えることはない。

もともと、生物分野の人間なので、自然の姿を見てもその中にある食物連鎖のつながりに感じたり、植物の構造が見えてきたりするが、一般の人にはそういうものは見えていないのが普通のようだ。

システムの面白いところは見る人間の見方によって、違う面が見えるということだ。例えば、更地になった土地を見ても、見る人によっては土地で暮らした思い出に見えることもあるだろうし、人によってはその土地の経済価値からお金に見えることがある。そんな見方の違いを中学生の頃に思い知ったので、随分とませた子供になっていたことだろう。

見方の違いというと、最近では音楽も聴く人間の違いによって、聴こえ方が違うということに気づかされた。まだ、ジェームズ・デプリーストが存命の頃だから、結構前になるかもしれないが、ひとつのアニメ、コミックがきっかけになって、クラシックが注目を浴びた時期があった。そこで聴いたのだけれど、子供の頃からクラシック音楽を聴いたことのない子供にはオーケストラの響きは混雑した音の塊にしか聞こえないらしいというのだ。小さなころに、親が買った世界の音楽全集?などといった名称のレコード付の本の音楽を聴きながら育った私には思いもよらなかったが、音楽の認識もひとつひとつの音を認識して、それを識別するところからアンサンブルが聴こえるようになるらしい。

ところで、私はそのシステムの複雑さに心を奪われ、最初はコンピュータのプログラムに心魅かれたのだが、その後、関係した人間関係というシステムに鞍替えをして随分と経ったことになる。なぜ、プログラムよりも人間の方がよいかというと、複雑さがコンピュータとは比べ物にならないと感じられるからのように思う。

さて、写真、絵画、音楽など、様々に散らかした領域に共通するのは、私の興味がそこにあるシステムの構造に心魅かれるということなのかもしれない。かくして、一歩ひくか、頭上2メートルからモノを見る自分が出来上がることになる。

ジャワ舞踊とクロスジェンダー

冨岡三智

本当は先月の続きで「ジャワ舞踊作品のバージョン2」を書くつもりだったのだけど、11月末に来阪したジャワの舞踊家ディディ・ニニ・トウォ氏に絡めて、ジャワ舞踊のジェンダーについて先に書きとめておきたい。

まずはディディ氏の来日について。今回は大阪大学でセミナーとワークショップがあった。セミナーのタイトルは「性を超えるダンサー ディディ・ニニ・トウォ:芸術上演における身体とジェンダーを考える」。彼はその中で、ジョグジャカルタの伝統舞踊「ゴレ・ランバンサリ」、レンゲル・バニュマス、自作「ドゥイムカ・ジャリ」の3曲を上演した。彼はジョグジャカルタを拠点に、インドネシアでクロスジェンダー専門の舞踊家、つまり男性舞踊を全くせず、女形を専門とする舞踊家として活躍している。

インドネシアではクロスジェンダーに対する敷居がわりと低いというのが、留学していたときの私の実感だった。ディディ氏は純粋な女形だが、男性舞踊以外に女装して女性舞踊もやるという男性舞踊家は意外にいる。特に、若い舞踊家にはディディさんのスタイルを模倣している人も多い。また、伝統的にも、ジョグジャカルタ宮廷にはかつて男性のブドヨ(ブドヨは女性による儀礼舞踊)の踊り手がいたし、東ジャワの大衆芝居ルドルッは伝統的に男性ばかりで上演されていたので、女形がいた(現在では女性の役は女性が演じる)。留学していた時に、マカッサルにある男性が女装して暮らすコミュニティの芸能(名前は忘れた)を見たこともある。ディディ氏が今回上演したバニュマス地域のレンゲルという女性が踊る民俗舞踊にもまた、男性の踊り手が存在する。しかし、それでも女形に対する偏見などもあって、伝統的なクロスジェンダーの踊り手は減っているので、ディディさんはインドネシア各地の女形の伝統を伝える活動を続けている。

ジョグジャカルタとスラカルタは同じマタラム王朝から分かれたジャワの王家で、どちらの王宮にもブドヨという舞踊が存在し、ブドヨの踊り手は王の側室候補にもなる。けれど、男性のブドヨの踊り手はジョグジャカルタの方にしか存在しなかった。このことが不思議でディディ氏にも聞いてみたが、彼もなぜかは分からないと言う。これはまあ王の嗜好の違い、つまり、ジョグジャカルタの王はバイセクシュアル、スラカルタの王は女性オンリーを反映しているだけかなと、私は思っているのだが。

それはそうとしても、スラカルタ宮廷では男女の舞踊の区別はかつては厳しく、男性は男性舞踊だけを、女性は女性舞踊だけを踊った。私の舞踊の師であるジョコ女史の舅クスモケソウォ(1909〜1972)はスラカルタ宮廷の踊り手としてその教えをずっと守る人で、娘たちには男性舞踊を習わせなかった。また、彼がスリウェダリ(商業舞踊劇ワヤン・オランを上演する劇場)の指導に呼ばれたとき、女性が男性役を演じているのを見て立腹し、ずっとそっぽを向いたままだったこともあったらしい(同劇場元支配人トヒランの言葉)。

とはいえ、スラカルタ様式の舞踊では、女性が男性舞踊を踊るということはよくある。ワヤン・オランでは、見目麗しいアルジュノのような男性優形の役は女性が踊ることが多い。アルジュノはアルス(優美)の極致のような人物なので、それを女性的な外観によって表現していると一般的に言われるが、商業舞踊の世界では、女性が踊る方が観客には魅力的だという理由の方が大きいだろう。アルジュノどころか、チャキル(羅刹)などまで女性がやっていることもある。また、スラカルタ王家の分家であるマンクヌゴロ家では、ラングン・ドリヤンという宝塚歌劇のように女性ばかりで演じる舞踊歌劇が発展した。そこでのトップスターはメナ・ジンゴという王(荒型)役で、マンクヌゴロ侯はメナ・ジンゴの衣装をつけたままの踊り手を寝所に呼んで寵愛したらしい。

クスモケソウォがクロスジェンダーを嫌ったのは、舞踊を瞑想の実践だと考えていたからではないかと思う。サルドノはクスモケソウォが「ヴィパッサナ瞑想を、たえず毎日の生活でおこなっているように見えた」と語っている(水牛の本棚No.3に原文があります。この文では、クスモケソウォではなく、前名のアトモケソウォで出てきます)。性を越境しようとすると、どうしても自分の性的な魅力、他人からどのように見られるのかということを意識せずにはいられなくなる。踊り手が男にせよ女にせよ、そのような意識を滅却して瞑想である舞踊を実践し、悟りの境地を目指すことこそがクスモケソウォには重要に思えたのだろう。

ここで話はディディ氏に戻ってくるのだが、クロスジェンダーの舞踊に取り組む彼の代表作に「ドウィムカ(2つの顔)」がある。今回のセミナーで、1980年代末から彼がこの作品を何度も改訂してきたことを知った。思えば、私が1990年代初めに何度か見たディディ氏の「ドウィムカ」は、第1バージョンだったのだ。それはともかくとして、彼がそんなに2つの顔というテーマにこだわり続けることが、私には興味深かった。彼は自分のショーとしての舞踊や、プロとして最高に楽しんでもらえることに、とてもプライドを持っている人である。けれど、クロスジェンダー舞踊家には性倒錯の魅力という表面的な理由以外に、隠れた根源的な存在理由があるというプライドも持っている、と私には思える。その根源的な存在理由を探して、彼は様々な地域において伝統的に廃れつつあるクロスジェンダー舞踊を掘り起し、学び、記録するという活動を続けているのだろう。

レンゲル・バニュマスという舞踊は、昔は田植え前や稲の収穫後の儀礼で踊られたものらしい。セミナーの翌日、レンゲル・バニュマスのワークショップが大阪大学の授業の一環であったときに出た話題だが、かつては、インダンと呼ばれるものが降りた人だけがレンゲルの踊り手に選ばれていたとディディ氏は言う。インダンというのはビダダリ(天女)のようなものらしく、それが見えるのは霊的な力がある人だけのようだ。そのインダンが宿った人は、男性であれ女性であれレンゲルになるのだそうだ。レンゲルの踊り手には女性が多いが、男性もレンゲルに選ばれると、女性舞踊家として生きることになるらしい。そんな高齢男性のレンゲル舞踊家ダリア氏がまだバニュマスに健在だということで、ディディ氏はその記録映像を今年制作している。その話を聞いて、ディディ氏が考える本来のクロスジェンダー舞踊家のあり方はそういうものかも知れないと思った。何かが降りてきて選ばれてしまった、だからそれになるしかない、というもの。「ドウィムカ」の作品について、そのアイデアはどこから来たのかというような質問がセミナーであったような気がするが、彼は持って生まれたものというような言い方をしていたように思う。

ディディ氏には、やはり何かが降りているのだろう。彼は芸術アカデミー在学中、「ブドヨ・パンクル」(スラカルタ様式のブドヨ)の試験でバタッ(一番メインの踊り手)を踊っている。このブドヨにはバタッのソロのシーンもあり、普通なら女学生が選ばれそうなものだ。この抜擢にはディディ氏自身も驚いたらしい。実はその授業の担当は私の師のジョコ女史だったので、なぜディディ氏をバタッに選んだのかと生前ジョコ女史に質問したことがある。「ディディが一番上手かったのよ」というのが答えだった。たぶん、その頃にはすでにインダンだか何かが彼には降りていたのだろう。