しもた屋之噺(122)

杉山洋一

いま、中部イタリア、アンコーナから30キロほどのところにあるイェージのホテルで書いています。神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世、ペルゴレージとスポンティー二が生まれた小さな街で、ホテルのすぐ右脇の40段ほどの階段を昇り左に折れると、高い丘の上には共和国広場があって、そこにペルゴレージ・スポンティー二劇場が建っています。昨日はじめて訪れましたが、小さいけれども、実にうつくしい劇場でした。ホテルの窓から外をながめると、道路脇には雪が所々残っていて、10日前には1メートル近い大雪で街中が麻痺状態だったと聞きました。

  * * *

2月X日04:00 ミラノ自宅
昨晩からの粉雪が少しずつ降り続いている。庭のローズマリーに純白の雪が積もるさまはうつくしい。イタリアは寒気が凄まじく、今日は氷点下5度だったが明日は氷点下12度まで下がるそうだ。
ラヴェル和声分析終える。意外に苦労したのが、旋法をどう捉えるかヴィジョンが明確でなかったから。旋法に基本的に機能はないが、機能和声に旋法を取り込んで、機能をぼやかせていることを踏まえて、落とし処を自分なりに見つけなければならない。ラヴェルの音楽に開放感はなく、禁欲的で箱に寸分違わずきっちりと収まっている美しさ。自虐的ですらある快感。モランジュが書いた本だったか、ラヴェルのヴァイオリン・ソナタ冒頭、単旋律ピアノパートのむつかしさについて書かれている一節を思い出した。

2月X日09:00 自宅
息子を小学校へ送って帰ってきた。目の前は相変わらず雪景色一色で氷点下が続いている。昨晩は家人の練習のため、息子をこちらの寝室で寝かしつけていると、壁側では寝たくないので場所を替わってほしいという。壁に映る影が怖いのだそうだ。自分も幼い頃は子ども用たんすに書かれていた絵柄と、今も両親が使っているたんすの木目が人の顔にみえて仕方なかった。影は死んだら出来なくなるんだから、ある方がいいじゃないかと息子に話すと、椅子もピアノも机も生きていないのに、どうして陰があるのか尋ねられるが、暫く考えてから、彼は分ったというように手を打ち、「椅子もピアノも机も存在しているからか」と声を弾ませた。
最近彼は学校の宗教の授業で習った、神さまが太陽をつくった話に心を躍らせている。

2月X日17:00 Jesiへの車中
車窓から眺める限り、ボローニャからリミニ辺りまでかなりの雪が残っていたけれども、アンコーナに近づくにつれ雪は消えた。
ノーノを読んでいると、昔やった「プロメテオ」に出てくる、シューマン「マンフレッド」引用に似たフレーズが散見される。「Canti」冒頭には、「ブーレーズの人間性に」と手書きで献呈が記されているが、当時は彼らはどんな協力関係にあったのだろう。
ノーノの音楽には「挑み続けるフレーズ」があって、何度否定されても果敢に挑んでゆく。彼が意図していたか不明だが、そんな風に読めなくもない。後年の作品にも通じる、フレーズなしに単音だけで音楽を描いてゆく手法は、少し暗めの色使いと太い筆で、大胆に描いてゆく抽象画のようでもあるし、木を太いノミで荒削りしてゆく彫刻に見えたりもする。旋律と伴奏というヒエラルキーを破壊した共産主義的な発想ともいえなくはないが、恣意的すぎる解釈だろう。

同日20:00 Jesi レストランにて
イェージはアンコーナより少し内陸に入るので、雪も大分残っていて寒いのだが、街はカーニバルで浮き足立っている。ミラノよりも地方都市のほうが、カーニバルは大切な行事に見える。イェージが「Jesi」と「J」で表記されるのは、古代ローマ時代に「Aesi」と呼ばれていたから。ラテン語からイタリア語へ変化するなかで、「AE」は「JE」になった。

最初のリハーサルをしたアンコーナの劇場は、歴史的中心街の脇、港のすぐ目の前にあった。どっしりしているのに、一見すると劇場に見えなかったのは、ひしめくような街並みの中に建っているからか。昼食は劇場裏のレオパルディ通りでみつけたカフェテリアで、バカラの煮つけ。やはりこの辺りの魚は美味だった。
自分の思っていること、感じていることを、丁寧に相手に伝える作業の大切さを、指揮をするたびに思う。分ってくれるに違いないという思い込みは傲慢であって、頭から否定しなければいけない。

2月X日09:25 ホテルにて
ペルゴレージ劇場までホテルから歩いて5分ほど。小さな馬蹄形劇場で、天上や壁面はとても美しい。
久しぶりにチェロのフランチェスコに会う。リゲティの協奏曲を軽く合わせて、エマニュエル・バッハの協奏曲のリハーサルが始まると、実におもしろい。ルバートを随所に挿入しつつ、シャープな音感で大胆に踏み込む、今まで聞いたどの演奏とも違う解釈。ピリオド奏法的な雰囲気も皆無ではないが、古楽と感じはなく、カデンツァはハーモニクスを多用するほど。
彼が好きなロックのようなアグレッシブさと、極限の繊細さを瞬間的に掛け合わせつつ、出来るだけ決めないで合わせたい。寧ろ合わなくてもいい、ずれてもいいから、自発的な音を出してほしいと言われて戸惑っていたオーケストラも、少しずつ楽しみ始めている。彼はいつもやっているカルテットの丁々発止を求めていて面白すぎるほどだが、リハーサル時間が足りない。

近くの食堂「第7天国」でフランチェスコと遅い夕食。
「今まで自分はとても充実した人生を生きてきて、思い残すことは何もない。何もできず植物人間になってまで生き続けたいとは全く思わない」。
スコダニッビオが1年ほど前、落着いた様子でフランチェスコにそう言ったそうだ。メキシコについて間もなく彼がこの世を去ったのは、単なる偶然とは言い切れないかもしれない。「クープランの墓」は、ラヴェルが戦死した友人らに捧げた曲集だけれども、一体なぜスコダニッビオは「クープラン」を選んだのだろう。明日の演奏会には、未亡人もマチェラータから駆けつけてくれる。

同日17:30 イェージの劇場控室
古く煤けた感じの細いへろへろの廊下の一番奥が、おそらくいつも指揮者のために使っていると思しき年季の入った控室で、目の前に石畳の共和国広場がみえる。広場では子どもたちがサッカーをしたり、老人が一列に並んで話している。誰かが廊下でタイスの瞑想曲を弾いている。

このプログラムの最後の練習が終わる。オーケストラは殊の外協力的で、もう1回、もう1回とオーケストラの方からパッセージ練習をこれだけ積極的に頼まれた記憶はない。如何せん練習時間は限定されていて、どうしても先にいかないと、ご免ねと言うたびに、髭を蓄えた厳つい初老のヴィオラのトップが、それは悲しそうな顔をする。ところで、イタリアのオーケストラのコンサートマスターは、概して似たような印象があって、爽やかでスポーティーな出で立ちをしている。洒落た皮のスニーカーを履きこなし、スタイリッシュなジャージを羽織って颯爽と現われるコンサートマスターを5、6人は知っているが、概して家庭の匂いがしないのは、地元でなく外から雇われてやってきているからだろう。

練習が終わって、劇場下の食堂「いかれ猫」で、フランチェスコと彼のお母さんと食事。彼女がここに来たのは、フランチェスコの本番もさることながら、フリードリヒ2世の出生地をどうしても見たかったから、と興奮さめやらぬ様子。
「あんな均整のとれた文化人は後にも先にも彼だけだわ」。
フランチェスコと同じ、裏返るような抑揚が心地よい。

2月X 日10:30 ホテルにて
いま、こうして書いていると、ホテルのどこかから、フランチェスコがエマニュエル・バッハを練習している音が聞こえる。
朝、イェージの街を散策する。劇場脇から伸びる古い石畳がペルゴレージ通りで、コスタンツェが公衆の面前でフリードリヒ2世を産み落とした広場に繋がっている。広場には土曜の朝市が立っていて、イスラム教に寛容で、ローマ教皇から追い出されることになったフリードリヒ2世らしく、イタリア語とアラビア語で出生についての説明が彫り込まれていた。

2月X日 08:15 ホテルにて
昨日の演奏会は思いのほか聴衆が多くて驚く。フランチェスコのエマニュエル・バッハは、とても心に響いた。特に2楽章は触れると崩れそうなほど繊細で、3楽章で快活さを取戻すため、楽章間でいつもより間を取らなければならなかった。

ラヴェルの美しさが引合いに出されるとき、しばしば「精巧な時計のよう」と喩えられる。その通りだけれども、ラヴェルはそこに思いもかけぬあどけなさが同居していて、魅力が増す気がする。昨日の「クープラン」はオーボエが冴えていて、彼を聞きたくて皆が耳をそばだてて弾いた。フォルテでこっそり一小節ファゴットが増やされたり、ピアノでラッパが1小節増やされるオーケストレーションで、音を塗りたくるのは逆効果に違いない。一緒くたに食材を入れて最後にミキサーにかけてスープにしてしまうのは、さすがに勿体ない。
演奏会後、楽屋に記者の婦人が訪ねてきた。
「ラヴェルのこの作品はエキゾティックな感じがしますが、あなたは親近感を感じますか」。

今日は来週から練習の始まるノーノを読み返し、レオパルディの最後の詩による作曲のつづき。明日はスコダニッビオが招いてくれた演奏会を振るため、40キロほど離れたマチェラータの劇場へ出掛ける。レオパルディは、マチェラータ県のレカナーティに生まれ、このマルケの丘や緑を眺めて育った。
日曜朝の礼拝なのだろう。街中の教会の鐘が、一斉に鳴り出した。

(2月26日イェージのホテルにて)

閏年の閏月

仲宗根浩

一月に新と旧の二回の正月が終わったあとの二月はあの世の正月、旧の十六日。今年はお線香あげるところは、母親は三箇所、こちらはひとつ。ちょうど仕事も休みだったので、ふたりで車でまわる。そういえば今年は閏年で旧暦では三月が二回ある閏月。

最近は夜な夜な季節はずれのコーレーグースーの出来具合を見ている。しこんだ島とうがらしが去年は台風のため手に入らず、一月にスーパーの野菜売り場に出ていたもの見つけ即買う。コーレーグースー、漢字で書くと高麗薬、という説。季節はずれの島とうがらしはぷくっとしたふくらみはあまりないが、愛飲している菊の露三十度の三合瓶にへたを取り、水洗いしたあと水気をかるくとばし、瓶にぶち込む。三ヶ月くらいすると沖縄そば用の香辛料ができる。できたものを買うと150gで五百円以上するが、これだと六百円くらいで収まる。でもこれ、泡盛のアルコール分はそのままなので辛味欲しさに大量に沖縄そばに入れたあと、車を運転すると酒気帯びで引っかかる可能性高い。とうがらしの赤味が消えるまでは、減った分泡盛を足してやればいい。

去年、いつも五、六通来ていたスパムメール、エロもの、偽ブランドもの、金儲けものが十二月にぴたりと来なくなると、電話で光回線にしませんかの勧誘がいろんな業者から入る。ドメインサーバーがあるとか、あることないことを言うと相手は専門用語に弱いためか引き下がってくれたが一月に入っても勧誘電話。もうネタが尽き、工事費無料、値段も安く、大家さんとの交渉もやってくれるということなので手続きすることにした。手続きしたものの約束した日に電話は来ない、こちらが頼みもしない契約が入っているし、いざ工事となると前日になり、午後の予定を朝一番に変更してほしいとか色々あり工事完了し、電話回線までの設定は完了となった。こんなんで大丈夫か? 旧電電公社とおもいながらネットの設定、IP電話の設定となると説明書通りにいかない。仕方なくサポートセンターのお姉さんのご指導のおかげですべて問題なく使える状態になった。ADSL8Mで基地局も近いから全然問題なかったけど、速度計測サイトで20Mbpsの数値が出るとダウンロードの時間が速い。速いがちょっと時間が経つとこの速度にも慣れてきてじれったくなるのがコンピューターの世界。そうするとまたSPAMメールが来るようになる。ついでに携帯電話のメールにも。これは何かの策略か?

今日、テレビでは雪の東京。こちらではTシャツ姿で見ている。だんだんとあの蒸し蒸しした長い長い夏が日に日に近づいているかとおもうと滅入る。

目的なしの連想的歩行 (3)

三橋圭介

前に表現クラブがやがやと港大尋とのコラボCDを制作しました。「がやがやのうた」(水牛レーベル)です。あれから随分立ちますが、少しの中断の後、ずっとメンバーとしてみんなと月に1度くらい遊んでいました。最近、新しい友だちもできました(けんちゃんと接着兄弟の一人やましん)。みんなで芝居をつくったり、歌を作ったり踊ったり、絵を書いたり、いろいろです。障害をもつ人だけでなく、ダンサー山田珠美(たまちゃん)、作曲家の鶴見幸代(つるみん)や飯田宏さん、即興からめ〜る団などいろいろな人たちが出入り自由な広場としてあります。

そんながやがやですが、がやがやとはなんだろうかと最近考える機会がありました。簡単にいうなら、小島希里(きり)という人間性そのものだと気が付きました。きりさんはいつだってがやがやあわてふためき、てんやわんやです。でもいろんなものを拾い上げてくれる人です。メンバーのなんでもないことばや動作を、「それおもしろいね」と拾い上げて別のものと結びつけます。人は人を呼ぶのでしょう。ダンサーのたまちゃんも同じタイプの人です。からめ〜る団も名前の通り何にでも絡め〜る人たちなのです。ガラクタみたいな動きやことばをいくつも拾い上げて、身体に移したり、音に移したり…。変なものが二つ三つと飛び跳ねて結びついて出来上がったものは、やっぱり変なものですが、なんだかおもしろい。その中心には必ずきりさんがいるのです。妙に形を整えて辻褄を合わせたものではなく、不定形なへんてこはおもしろい。これは「不変の真理」、ではありません。でも、へんてこならではの整合性があるのです。それがきっときりさんなのでしょうね。そう思うのです。

実はきり=がやがやのライヴがあります。たまちゃん、飯田さん、からめ〜る団、私(がやがやメンバーによるへんてこバンド不毛地帯:ぱつ、あさみ、やましん、みけ)も参加します。つるみんは不明ですが、不毛地帯作曲・つるみん編曲・作詞のゆる〜い新曲もやります。しかし全体の内容はよくわかりません。芝居、ダンス、音楽によるへんてこな何かとしかいえません。通常、3つが合わさるとオペラと呼ばれます。作品の複数形がオペラですから、いろいろな作品が合わさっているという意味でオペラでしょうか…。ただ観ていただいた後で「あれはいったい何だったの?」といわれても答えようがありません。全体はぐにゅぐにゅ流動的です。筋書きはありますが、「きちんと決めなくてもね」と総監督のきりさん。だから決まった時間にはじまり、終わるとも明言できません(約1時間です)。きっとがやがやするはずです。なにせへんてこなのですから。ライヴは3月4日、3時から光が丘区民センター六階和室、入場料300円。おこしやす。

伝統ファッションの潮流

冨岡三智

私がガムランを始め、初めてインドネシアに来てから早や20数年…。その間だけでもジャワの伝統衣装ファッションはずいぶん変わったなあと思う。というわけで、今回はそれをちょっと振り返ってみたい。私のことなので、ジャワの伝統衣装と言っても特にソロの町の様式である。

●バティック(ジャワ更紗、腰に巻く)
バティックというのはろうけつ染めのことで、木綿生地のものが正式。そのバティックの端に襞をプリーツのように畳んで着るのが本格的な着方。けれど、こういう正式の着方は、王宮や伝統芸術関係者以外では少なくなってきているようだ。まず、ろうけつ染めのバティックではなく、バティック柄だがシルク(風)の軽くてしわにならない生地の布を巻く人が増えた。この方が楽だからだろう。さらに、布を単に巻いて着るより、スカートに加工する人が増えた。今から20数年前でも、ダナルハディ(大手バティックメーカー)にはバティック生地で作ったスカートが置いてあることもあったが、実際に履いている人はほとんど見たことがない。どうも、外人が買うことを想定していたような気がする。それが、最近ではスカートに加工されたものをよく目にする。また、ジャカルタの踊り手たちの話では、ジャカルタで結婚式に出席するのに、伝統衣装を正式に着ることはもうほとんどないとのこと。バティック・スカートにクバヤ風ブラウス、髪はアップというのが、すでに伝統的装いらしい。1月に乗ったクルーズ船の出演者紹介の日、みな伝統衣装にしようということになったのだが、バティックの襞を折って着ていたのは私のみ。他は皆、スカートに仕立てていた。外人の私が一番オーソドックスな(時代遅れの?)衣装だった…。

●クバヤ(ブラウス、上着)
いわゆるカルティニと呼ばれる、襟を折り返して突き合わせる衣装が一番クラシックで、ソロやジョグジャでも王宮関係者が着るのは皆このデザイン。このカルティニスタイルの襟元を少し開けて胸当てをつけたデザイン――年配のプシンデン(ガムラン女性歌手)がよく着ている――のは、1950年代頃に出てきたスタイルらしい。しかし、これももはやクラシックなデザインと言えるだろう。現在は、スンダ風に襟を折り返さないデザインが、一般的には圧倒的に流行っている。特にスケスケのレース素材で、刺繍やらスパンコールやらを散りばめ、インナーのビスチェ(インドネシアではコルセットと言う)と一体でコーディネートして(だからビスチェも一緒に仕立てる)、デコルテ部分や背中を強調したデザインが多い。ほとんど洋風のイブニングドレスと変わらない感覚だ。特に大都会ではオーソドックスなクバヤを見ることは少ない。以前、ジャカルタの若い人に私が持っているカルティニのクバヤを見せたところ、「お祖母さんがこういうのを着てました…」と言われて、がっくりしたことがある。

そうそう、クバヤにはレース生地を使うことが圧倒的に多いのだが、レースだと下着が透けて見える。それで、ジャワでは黒のビスチェ(現地ではコルセットという)を下に着るのだが、1990年代後半でも、おばちゃんたちのクバヤの下に、ビスチェでなくブラジャーが透けて見えることはよくあった。それが、ブラジャーが見えないよう、レース生地のクバヤの胴の部分に裏地をつけたり、あるいは、ビスチェを隠すために別布(サテンとか)でキャミソールを作ってクバヤの下に着るようになったのは、いつ頃からだろう。よく見かけるようになったのは2000年代になってからだった気がする。

私が1996年まで所属していた日本のガムラングループでは、スタゲンという帯(半巾帯と同じ巾)を胸まで巻きあげて、その上からクバヤを着ていたのだが、1996年に留学してみたら、こういう着方はジャワでは見なかった。皆、ビスチェを着ていたのだ。踊り手がドドッ(ブドヨの衣装)とかクムベン(ガンビョンの衣装)とかの布を巻きつけて着るときは、スタゲンを2本使って胸まで巻きあげるが、一般的には、スタゲンは胸の下まで巻いて終わりである。

というわけで、クバヤの下着史を整理すると次のような感じだろうか。最初はブラジャーの上にクバヤを着ていた(スタゲンは胸の下まで)のが、下着のブラジャーが透けるのは恥ずかしいという意識が生まれてきて、それよりは胸から腰まで覆う黒ビスチェの方が良いとなった。しかし、ビスチェも下着だという認識が生まれてきて、それが直接見えないように胴に裏地を当てたり、キャミソールを仕立てたりするようになった。ところが今の若い人のファッションでは、ビスチェはアウターと同じで、レースの生地とコーディネートして着るもの。だから同系色だけでなく、わざとコントラストのある色で仕立てたりすることもある。

●髪型
伝統的な髪型は年々巨大化し、遠くから見ると大顔に見える。これはプシンデンの影響だ。現在のワヤン(影絵)上映では、ずらりと並んだプシンデンがスクリーンの方を向かず、観客の方を向いて座る。しかもテレビに映ることも多いから、おそらくお互いのライバル心がエスカレートした結果、より目立つようにと髪型が大きくなってきたと推測されるのだ。もっとも、プシンデン以外にも昔から、お金持ちで社会的地位の高い女性の髪型は大きく派手であることが多い。

巨大化の背景には、左右の鬢(びん)を作る土台が大きくなったことがある。本当に伝統的な――蘭印時代の写真なんかで見るような――髪型では、いくつかの髷をブロッキングして、びんつけ油を髪に塗って梳かしているだけなので、鬢は小さく自然である。また、逆毛を立てて鬢を作ることもまだあるが、ソロの芸大や王宮ではこれはやらなくなっている。逆毛を立てずに、スバル(意味不明)とかチョントン(コーン:円錐という意味)という台を耳から頭頂部にかけて左右に付けて、そこに髪をなでつけていく。ただし、2003年にジャカルタの踊り手の人たちと踊ったとき、彼らはこのチョントンの存在を知らなかった。ジャカルタのジャワ舞踊界では今でも逆毛派で、チョントンは伝統的でないと、抵抗があるみたいだ。

このチョントン、登場したのは1990年代初めだと思う。1992年頃からジャワに留学していた友達が教えてくれたのだ。それはまだ小指の先くらいの大きさの毛タボだった。1996年に私が留学してすぐに買ったチョントンは、もうアイスクリームのコーンくらいの大きさになっていて、コーンの内側は空洞だった。その2年後くらいに買い足したら、また一段とサイズが大きくなっていて、私の頭からはみ出るくらいになっていたので、自分で小さく作り直していた。ただし、この頃まではチョントンは左右で1セットだったのだが、その後、いつしか、コーンを2つつなげた形のもの(左右の端がラッパのように開いている)が出てきた。たぶん2000年代半ば頃のような気がするが、踊り手はさすがにこのデザインはまだ使っていなかった気がする(今は知らない…)。プシンデンが使っていたのではないだろうか。これも、最初は小さかったのに、最近留学していた人達が持っているチョントン(ともはや言えない形状だが)は、腕でも通るのではないかと思うくらいの大きな円筒形をしている。これを頭頂部にそのまま載せて、その上に自分の髪の毛をなでつけるから、額から上の頭部がやたらと大きくなってしまう…。

だいたい、チョントンを使っていても、以前は、頭頂部は盛り上げないものだったのだ。王宮の王女さまの写真なんかを見ると分かりやすいが、頭頂部は平らである。未婚の王女さまやガンビョンの踊り手は櫛を頭頂部に水平に挿すが、それも平らだから可能なことで、昨今の隆起した頭頂部に櫛を指すと、断崖に櫛を刺しこんでいるみたいに見える。

さらに鬢が大きくなると、後ろの髷(まげ)も必然的に大きくなる。というわけで、いま一番小さいサイズだという髷を見せてもらっても、私の頭を多い包むほどの大きさになって、試着してみると非常に重い…。髷が大きくなったからだろう、髷に指すかんざしがまた巨大で派手なデザインになってきていて、20年くらい前に見たようなシンプルで小さなかんざしが欲しくても、もう売っていない。一体この髪型の巨大化はどこまで進むんだろうか…。

というわけで、昨今の伝統衣装は、洋風化、ド派手化に拍車がかかっている。ソロの町の伝統関係者の間ではまだまだオーソドックスなスタイルも見られるものの、それは都会の感覚では、もはや「おばあちゃんの時代」の装束に見えるらしい…。

Francisco Pulgar Vidal追悼文/想い出

笹久保伸

彼はペルーの作曲家だった Pulgar Vidalの一家は社会的に有名な人が多いのでペルー人なら誰でも知っているくらい有名な一族だ この一族は政治家〜作家〜詩人〜音楽家まで かなり幅広い

彼を直接知ったのは故・Edgar Valcarcelからの紹介で EdgarとFrancisco(通称Paco)と一緒に食事をした (もしくはEdgarの愛人の家で会ったのが最初だったか)

EdgarとPacoは古い友人で、いつも会って酒を飲んでいた レストランでPacoは一番安いコーラを注文するのだが、ポケットからラムを出してコーラに入れて飲んでいた アレキーパ料理の店に行った時は、服の内ポケットからワインの瓶を出して 酒を持ってレストランで食事していた (これがまた、店に気まずかった) 病気で大変な時も「ロン(ラム)が飲みたい」と言っていた

彼らの会話は時に知的で時にくだらないジョークを言い合って悪ふざけをしていた  彼らの昔話し(Edgarが国立音楽院の院長だった時に、仲良くなった生徒に適当に卒業証書やディプロマをあげてしまい問題になり、学校を追放された話や、ペルー友人の作曲家Armando Guevara Ochoaの家の玄関の隙間から譜面がパラパラとこぼれ落ちて来る話や、ルイジ・ノーノと会ったときの話など)をコミカルに聞かせてくれた

70歳を過ぎてもあれだけのボヘミオで、ルーズで、いつも飲んだくれて、まるで子供がふざけているかのように・・・ あんな人はいない もし70歳まで生きれるなら ああなりたい

いつも家に一緒にいるからこの人が奥さんだ と思っていた人が 愛人だったと言うのはEdgarとも共通していて ペルー的でいい 彼のミサに行った人の話では ミサでは法律上の奥さんが喋っていたらしいが、その人には会った事がない Edgarの時も同じだ

Edgarは現代音楽祭で表彰されたとたんに死んでしまった
Pacoは表彰されて1年で死んでしまった

Pacoは若い頃 前衛的な作品を書いていたが わりとすぐに調性音楽に戻ったようだ 若い頃の作品についてはよく知らない ギター曲も1曲だけ書いてもらったので それがある ペルーの音楽祭でその曲を初演したが その時彼は脳卒中で倒れていて聴きに来る事ができなかった でも本番前には彼の家に行って 打ち合わせやリハーサルをした 彼はベットで寝ながら聴いてくれて、アドバイスしてくれた そして たまに本当に寝ていた

コンサートでの演奏後にはDVDを持って彼の家に行き、一緒に見た だいぶ回復したから、一安心かな、と思っていたのだが それが2010年の事だ

PacoとEdgarと会話をしたい あんな大人になりたい

ケンタック(その3)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

わたしから6メートルくらい先に小鳥がいるのが目に入った。グレイがかったベージュというか何かそのような色調で色鮮やかな点々がある小さな鳥だ。わたしが話している相手の背後に見える。翼が小さいため絶え間なく羽ばたいている。つたかずらの薮や乾いた枝の上の空中の一ケ所に留まっていてどこへも行かないのだ。まるでそこに留まっているために羽ばたいているように。

わたしの知る限りではふつう鳥にはたくさんの種類や種がある。天空を我がもの顔で高くそしてはるか遠くまで飛ぶことができるものもいる。かれらは大きくて強靭な翼と、鷲とか神話上のガルーダのような爪を持っている。この神話上の鳥は鳥類の王で偉大ということだが、小さくふくらんだこの鳥は翼に幅がなく、爪も生きていくために枝や草に停まることができる程度だ。姿かたちは愛らしいが、高く遠くまで飛べる鳥ではなくて、低いところで餌をさがすしかない。

「これはこの辺りにずっと前からいるんだ」と彼は嬉しそうに歯を見せて笑った。
「ここの人たちに慣れていてね、わたしらもこの鳥を可愛がっている。いじめたことはないね」

彼はわたしが訊こうとしていることを察したかのごとくはなしてくれた。ほら、やっぱりだ、まだ同じところで羽ばたいているのが見える。まるで自分はここにいるぞ、と誇っているかのように。それから程なくしてもう一羽が飛んできて仲間になった。二羽は飛びながら次第に近づいている。。

わたしの視線はこの二羽の鳥に集中していたとはいえ、若い女性が二人こちらに向かってやってくるのにも気付いていた。丘のはずれの古ぼけた小屋から歩いてくるようだ。ゆったりと煙がたなびいている。白黒というか、グレイがまざったというか、そんな色調に見える。枝や木の葉か何かが日の光に当たって白く光っているのかもしれない。

若い女性は親しげに微笑みながらわたしの隣に腰をおろした。かすかにいい香りがしてきて、わたしは彼らが気に入った。何も話してはいないけれど、気持ち的に相反するようなところはなかった。想像するところ都会から来た人だろう。騒々しい煩雑な社会を避けて、田舎に隠れ住んでいるとか。自由な生活を求めてとか。愁いをおびた瞳がさまざまなことを語っている。彼らはシンプルで派手なところがない。化粧もしていない。痩せぎすできゃしゃな人形のようで、きつい労働などしたことがないように見える。
(続く)

ねえ、私に話しかけないで。

植松眞人

 いまどき、こんなアパートがあるのか。訪ねてくる知り合いが口裏を合わせたかのようにそう言うのが面白い。確かに、柴多が住んでいるアパートは普通ではない。築五十年は越えている料亭をそのままアパートに仕立てている。引き戸の玄関があり、廊下がまっすぐに続いていて、その両側に部屋がある。一階に四室、二階に八室。部屋はどれも六畳一間で、全部の部屋に床の間があり、窓は丸く、凝った飾りのある障子がはめてある。料亭だった頃のまま、看板だけをアパートに掛け替えたようだ。そのせいで、便所も台所も共同なのだがやたらと広い。ただ、全体的な印象はアパートというより下宿や寮に近い。
 とはいうものの、さすがに大学に入学したばかりの学生でさえ、ワンルームマンションで一人暮らしを謳歌している時代に、このアパートで暮らそうという物好きはあまりいない。五年前に柴多がここに住みだした時には若いのがやってきたと、わざわざ二階のいちばん奥の部屋まで、当時住んでいた住人たちが代わる代わる様子を見に来た。それもすぐに落ち着いて、声高に騒ぐでもなく、誰かが部屋に上がり込んでくるわけでもなく、時々すれ違う住人たちとはそれとなく挨拶する程度で、みんながそれなりに気を遣いながら静かに生きている。
 柴多は今年三十になる。五年前、ここに来たときには勤めた会社を辞めたばかりで、次の仕事も決まっていなかった。とにかく家賃の安い部屋を、と不動産屋に頼み込んでここを紹介してもらったのだった。最初の二年、生活はかなり困窮を極めた。仕事もなかなか決まらず、付き合っていた女とも別れた。場当たり的なバイトをしながら食いつなぎ、柴多はなんとか暮らしていた。
 その頃から考えると、明日の食い扶持に思いを巡らすことのない今の暮らしは夢のようだ。夢も希望もなかった、なんて陳腐な言葉は使いたくないが、夢とか希望とかいう言葉が目の前をちらつくときほど、その言葉から遠のいているのだということは毎日感じていた。そんな柴多の暮らし向きが変化してきたのは三年前だった。
 いま勤めている小さな貿易会社の社長と偶然知り合って仕事を得たのが三年前。おかげで柴多の暮らしはすっかり安定した。仕事で収入が安定しただけではなく、何かといいことが続く。長い間患っていた父親の病気が完治とはいかないまでも、少しずつ良くなった。妹の結婚が決まった。同じ時期に柴多自身にも恋人ができた。拾ってくれた貿易会社の社長からも信頼され役職を任されるようになった。
 それもこれも、と柴多は思う。毎日のように部屋にやってくる猫のおかげだと。もちろん、最初からそんなふうに思っていたわけではない。ただ、そう思わざるを得ないほど、柴多の運気と猫の登場のタイミングが合致しているのだった。
 社長と知り合った日、柴多は駅前の居酒屋で皿洗いのバイトをしていた。休憩時間に店の裏手の路地で煙草を吸っていたのだが、そこにその猫はいた。柴多が煙草を吸う様子をじっと見ながら、腰を落ち着け、毛繕いをしていたのだった。その場所では何匹かの猫を見ていたのだが、新顔だった。それまで見たことのない猫だったのだが、向こうの方がこっちを品定めするかのような雰囲気を醸し出していた。柴多は小憎たらしい気持ちになり、猫に煙草の煙を吹きかける真似をした。すると、猫は笑ったのである。いや、本当のところはわからないのだが、柴多にはそう見えたのである。その余裕のある笑いは柴多を嫌な気にさせるものではなかった。むしろ、なんとかなるから安心しろと言われているような気持ちにさせた。
 不思議な猫だなあ。と思った瞬間に、裏通りに迷い込んできた男に道を聞かれ、「そこで働いている者ですが」と名乗り、入り口まで案内しただけなのだが、なぜか気に入られた。それが今の会社の社長だ。どこが気に入られたのかわからないまま、翌日には入社が決まっていた。
 バイト先の居酒屋をやめる話も、社長の席に注文を聞きに行った店長との間で勝手に決まっていた。席から戻った店長が「お座敷のお客さま!お通し四つ!生ビール三つ!ウーロンハイ一つ!」と大きな声で厨房に発注した後、柴田に向かって小さな声で言った。
「バイトの柴多くん、お一つお持ち帰り!」
 これで円満に退職と転職が決まったのだ。

 貿易会社といっても、見ただけでは何に使うのかも分からないような部品を、毎日アジアのどこかの国へ輸出し、同じように何に使うのか分からないような部品を同じようにアジアの国から輸入している会社だった。何から何までが地味で、仕事の流れの中の、どこにもとがった部分がなく、その穏やかさが柴多にとっては好ましく、毎日が落ち着いた空気に包まれいていた。安心して仕事に取り組めるようになると、ただ寝泊まりするだけの場所だった自分の部屋も、なんとなく暮らす場所として見えはじめてきて、一日に一度は窓を開け、時には簡単な料理を作ってみたりもした。
 ある日曜日に部屋でぼんやりしていると、隣の住人が田舎から送ってきた里芋をお裾分けしてくれた。柴多はその里芋をさっそく煮物にした。出来合いのだし汁で煮込んだだけなのだが、いい香りがアパート中に立ちこめた。隣人にも少しお返しして、自分の部屋で味見をする。うまい、と小さく声に出した時に、窓の向こうで猫がこちらを見ていることに気付いた。あの日、居酒屋の裏手で柴多を見て笑った猫だった。猫はアパートの隣の家の屋根の上から、柴多の部屋を見下ろしていた。目があった途端にスタスタと屋根の上を歩いて、身軽に柴多の部屋の窓に向かって跳んだ。里芋をくわえたまま柴多が見ていると、猫は部屋の中に入り込み、里芋の皿の匂いをかいで、そのまま小さな床の間に座った。
 そして、猫は三年間、ずっと柴多の部屋に居着いたのだった。ときどき、ふらりと何処かへ行き、またふらりと戻ってきた。二三日いないことがあるかと思うと、何日も床の間で寝ているということもあった。猫は床の間をねぐらに決め込んだのだった。
 柴多は柴多で、この猫がなぜ自分のところへやってきたのか最初の数日こそ不思議に思っていたのだが、やがて慣れてしまい、そんなことも考えなくなった。柴多が何かを食べていれば、近づいてきて食べている何かを少しだけ分け与えた。どんな食べ物でも猫は、とりあえずひとくちは食べた。そのあたりは礼儀をわきまえた猫だ、と柴多は思った。食わず嫌いということをしない。もちろん、ひとくち食べて、露骨に顔をしかめることはあった。また、もうひとくちとねだることもあった。しかし、柴多と猫との関係はその程度のもので、互いにそれほど干渉することなく、距離を置いて暮らしてきた。
 しかし、猫が来てからの三年間で確実に柴多の暮らしは変化した。最初の出会いはいまの仕事に結びつき、猫が床の間に座ってからは父親の持病が快方に向かった。そういえば、あの時にも猫はにやりと笑ったのだった。
 携帯電話に妹からの電話があり、父親の容態が思わしくないと連絡が入った。しばらく妹と話し込んで、実家の様子などを詳しく聞き出していた。そうしながら、何気なく床の間を見ると、猫がこっちを見て笑ったのだ。にやりと訳知り顔で。その笑い方は路地裏で初めてあったときと同じものだった。そう気付いたとき、もしかしたらこの猫の笑いは、何かを自分に伝えているのかも知れないと柴多は考えた。今の仕事に就いたことを考えると、いいことを伝える笑いなのかもしれない。いや、もしかするといいことも悪いことも、どちらもあって、今回もいいことだとは限らないのかもしれない。猫の笑い顔を見てしまったことで、柴多は不安になった。もしかしたら、父親が亡くなるかもしれないとさえ考えた。
 結果は翌日に妹から知らされた。柴多の父親は翌日に退院したのだった。心配された数値がことごとく夕べのうちに標準の値になり、父親はベッドに座れるようになり、自分で立ち上がるようになり、翌日には自分で歩いて帰ったというのだ。電話で妹からそんな話を聞きながら、床の間を見ると、猫はふらりと立ち上がり、窓から隣の屋根へと飛び移っていくのだった。
 数日が経った。猫が戻ってきたとき、柴多は思いきって、いつもより猫との距離を詰めてみた。いつもは一メートル以上は近づかない距離感なのだが、ごろりと寝転がりながらその間合いを半分程度に詰めてみた。すると、猫は怪訝な顔をする。しかし、露骨にそんな顔を向けるのではなく、窓のほうを見ながらすべての神経は柴多に向けられているという感じだった。
「きみはあれか。なにか、わかってるのか?」
 柴多は猫にたずねてみた。
「いや」
 と猫が答えた。
 そうか、やはり偶然なのか、と柴多は思った。それはそうだ。猫が笑う度に何かが起こるとしたら、その猫は予言者か、見事な占い師か、下手をすると神様かということになる。なるほど、そうではないのか。単なる偶然なのか。柴多はこれまでの出来事が偶然なのだということに気を取られ、なぜか安堵していて、猫が「いや」と答えたことに愕然としたのは、それから数日してからのことだった。
 数日後の朝。柴多がいつものように会社に出かけるために、身なりを整えていた。時計代わりにつけているテレビの情報番組が終わりに近づいて、今日の占いのコーナーが始まった。このコーナーが終わったタイミングで部屋を出れば、ちょうどいい時間に会社に到着する。
 占いコーナーは星座によるもので、なぜか毎回ランクが決められている。占いなんて信じない柴多だが、いいことを言われても悪いことを言われても気になることには違いない。上着を羽織りながら、目の端でぼんやりと画面を見ている。今日の柴多の星座はちょうど真ん中ぐらい。占いによると、どうやら異性の友人ができるらしい。そして、その異性の友人が生涯付き合いの続く運命の人になる可能性があるらしい。
「そんなに簡単に運命の人に出会えるもんじゃないって」
 柴多がテレビの画面に向かって思わずつぶやくと、「いやあ、どうかな」と相づちが返ってきた。テレビの中からの声ではない。部屋の中には柴多しかいない。反射的に床の間を見る。猫が寝そべりながらこっちを見ていて、とっさに視線を外す。柴多はしばらく猫をじっと見ているが、猫は動かない。柴多は猫を見つめながら、さっきの声を思い出そうとした。その時、数日前の声を思い出したのだ。あの時、猫は「いや」と返事をしたのだ。ということは今の相づちもきっとこの猫の声に違いない。しかし、不思議なことに柴多は猫が話したということよりも、数日前の猫の返事に今頃気付いたことの方に驚いていた。おそらく、猫が話すことには違和感がなかったのだ。どんな生き物にだって、それなりにちゃんと感情はあるのだろう。柴多にもそれくらいの人道主義的なヒューマニズムはあり、すべての世界にそれを当てはめてみるくらいのユーモアだって持ち合わせていた。
 もちろん、予想通り柴多はその日の内に取引先の事務員をしている若くてかわいい女性と、ハンカチを落としましたよ的な展開でお茶を飲み、話が弾み、次の休日に一緒に映画を見に行くことが決まった。
 それからも、何かの節目に猫は話した。ただの相づちのこともあれば、それなりに文章を話すこともあった。しかし、いつもそれは見事な不意打ちで、柴多が身構えている時には決して話さなかった。列車の窓からいつも気になる造りの家があるのに、いつもその家が通り過ぎてから「あ、見ておけば良かった」と思う、あの感じだ。半年に一度のこともあれば、二日連続で話すこともあった。いずれにしても、柴多がうかっとしてる時にしか、猫は話さないのだ。
 初めてあった日から猫は何度話しただろうかと柴多は思い返していた。五回か。いや、もう少し多かったと思う。それでも十回には達していないはずだ。その数少ない猫の声が確実に柴多の人生の重要なポイントになんらかの影響を与えている。「結婚したら駅前の新しいマンションを買って、そこに住みましょうよ」という彼女の言葉にどうしようか迷っているときに、「それもいいね」と決断をうながしたのも猫の声だった。
 柴多は悩んでいた。来月からその新しいマンションに柴多が先に移り住み、三ヵ月後の結婚に備えておくことになったのだ。そこに、この猫を連れて行くかどうか。彼女は猫と顔を合わせたことがない。何度かこの部屋に彼女を連れてきたことはあるのだが、そのたびに猫はいなかった。気を利かせているのか、それとも女が嫌いなのか。決して、彼女がいる間は部屋に戻ることもなかった。
 かわいらしい猫ではない。野良猫そのものの顔をしているし、そこが柴多は気に入っているのだが、絶対に懐こうとはしない。エサだってどこかで勝手に食べてきている様子で食べ物をねだったこともない。そんな猫を彼女が好きなることはないだろうと、柴多は思った。
 そう思いながら、改めて猫を眺めていると、珍しく猫は柴多をじっと見つめている。そして、おそらく出会ってからの三年間で初めてだと思うのだが、自分の方から柴多に近づいてきたのだ。
 柴多は何気ない表情で言ってみる。
「今日は何か話してくれるのかな」
 猫は小さく鼻で笑う。鼻で笑われたことに柴多は同じように笑ってしまうのだが、猫は動揺することもなく、柴多の真正面ですっと座る。
「ねえ、私に話しかけないで」
 猫は確かにそう言ったのだ。しかも、それは今まで聞いてきた猫の声とは違う声だった。
「私はこの部屋のこの床の間が好きだっただけで、あなたのことは何とも思っていないのよ。だからね。あなたがここを出ていっても、私はここにいるし、次にやってくる人とだって、それなりにやっていくんだから」
 猫に言われて返す言葉がなかった。唯一疑問として頭に浮かんだことを聞いてみた。
「ということは、きみは僕が引っ越してくる前からこの部屋に居着いていたってこと?」
「そう」
「じゃ、居酒屋の裏口で初めてあったのは偶然?」
「あなたが危ないヤツかどうか、どんな仕事をしているのか。そのくらいは調べるものなのよ。野良猫は疑り深いの」
「ところで、きみは女の子なの?」
 柴多が聞くと、猫はくるりときびすを返して床の間に戻っていく。そして、再び床の間に座ると、小さくニャンと鳴く。
「そんなこともわからないで、気安く話しかけるんじゃないわよ」
 猫はそういうと、だんまりを決め込んだ。柴多は彼女と暮らす駅前のマンションのことを思った。

暗緑所から89--廃炉(はいろ)

藤井貞和

「歓声や春夜を破る無事の声」(若木ふじを)

「なぜ生きるこれだけ神に叱られて」(照井翠)

「満点の星凍りても生きており」(森村誠一)

「遠雷や大音響の貨物船」(清水昶)

「生きて疲れて遺伝子狂ひゆく万緑」(関悦史)

書き写しつつ轟音のふるさとで眠る廃炉



(「本気かよ」と高良勉さん〈『KANA』20号、2011/12〉「本気か」〉。吉本ばななさんのツイッターが、〈父は廃炉対策を込めて、引き返せない科学技術を言おうとしたのに〉と弁護している。週刊誌が「意訳」する吉本隆明さんのインタビュー記事なのだと。和合さんの「廃炉詩稿」を聴く。私は電子新聞でそれを聴きながら、福島県人の「反原発」から「廃原発」へという提案を聴き取る。原発難民というのも福島から生まれた悲しい語である。「放射能って、言わないんです。線量とだけ言うの」と福島の人が教えてくれた。放射能をくちに出して言う人が少数者にさせられ、大きなタブーとなりつつある、いがみあいがはじまっていると、あるサイトのニュースにちらりと見える。2月になって、心ない記事が新聞に踊る(切り抜きを見せて貰う)。四歳児の作に、「さわ先生カニに変身あいに来た」せとひろし〈東松島市〉。)

森の防波堤

若松恵子

大震災からもうすぐ1年。震災からの日々を振り返る番組も増えてきたある日、希望の光を感じるニュースを見た。「森の防波堤プロジェクト」。植物生態学者の宮脇昭氏が進めているプロジェクトだ。その土地に最も合った主木を中心にいくつかの木を植えて多層群落の森をつくり、その森によって大津波や台風、季節風などから市民のいのちと暮らしを守ろうという取り組みだ。

現在、私たちが暮らしのなかで触れる自然は、ほとんど人間の手が掛ったものだという。今では土地本来の森は0.06%しか残っていない。私たちの身近にあるのは、人間が手を入れて、二次林や人工的で単一樹種の画一樹林にしてしまった森だというのだ。杉ばかりを植林した結果、花粉症の問題が起こってしまったという話を私も聞いたことがある。

砂浜に植えられた松林は風光明媚な眺めではあるが、針葉樹である松は根が浅く、津波を受けてすぐに根こそぎ倒れてしまったという。波にもまれながら流された松は、人に襲いかかる凶器となってしまった。いっぽう、その土地にあった照葉樹林であるタブノキは深く根を張っていて、津波によっても倒れずに、そばにあった神社を守ったという。阪神・淡路大震災においても、同様に鎮守の森が火災から社を守ったということだった。

人間の都合で勝手に変えてしまう前の、その土地本来の森の姿を知るには、鎮守の森を見てみればよいと宮脇氏は言う。様々な自然災害から生き残ってきた鎮守の森に、その土地にあった木を植えて神様を守ろうとした昔の人の知恵が見える。神様が森を守ったのではなく、森が神様を守ってきたというのだ。

しかも、森づくりには、震災のガレキを活用していくという。海岸線沿いにガレキを活用した高い盛土を築き、その上に深く根を張るタブノキやカシ類からなる多様な森をつくって緑の防潮堤にしていこうという計画だ。根を深く張った森は津波のエネルギーを減殺すると共に、盛土斜面を崩壊から守る。もともと住宅や家財道具であり、人々の深い想いがこもっているガレキを莫大な費用と労力を使って焼却するのではなく、森の防潮堤の貴重な材料として活用するのだという。

すでに昨年の4月末には提案されていたこのプロジェクトを遅ればせながら知って、うれしかった。困難にあってもそれを乗り越えていこうとする人間の姿に、希望を見る思いがした。今度はもっと巨大な波に備えようと、コンクリートの防潮堤を高く高く築こうとするような閉塞感に満ちた知恵ではなく、そんな切り捨てて(切断していく)いく知恵ではなくて、出会ったものを(震災やガレキさえも)活かして、前に進もうとする知恵。春が近づいて明るさを増す日の光のような希望に満ちた知恵だ。こういう人間の知恵は、もう”魔法”だな、と思った。

中東のお酒事情

さとうまき

毎年2月には、日本の医療関係者とイラク医師らが、イラクのアルビルに集まり会議をする。この一年は、震災の影響でイラク支援が滞ったことも事実で、引き続き12年度も資金集めなど厳しい状況が続きそうだ。日本の医療チームの働きに期待したいところだが、みんな、ボランティアで関わってくれているので、モチベーションを維持するのが大変だ。

そこで、「酒」。わが日本チームはのんべぃが多いので、酒の調達は必須だ。アルビルのアンカワという地域はキリスト教徒が多く住んでいるので、酒が買えるし、バーもある。最終日に残った医者と看護師をつれて、接待することになった。(といっても、割勘)しかし、今まで滞在していたスタッフや知り合いの日本人もいなくなって、僕もあまりアルビルには詳しくないので、彼らをどこに連れて行っていいものやらわからない。

タクシーでアンカワにいくも、電気事情があまりよくなく、街が暗くて、どっちの方向に行けば酒場があるのかわからない。小さなスーパーがあったので、客に「この辺に飲めるレストランはないですかね」と聞くと、「5分待ったら、車で送ってあげる」という。それはありがたいので甘えることにした。彼らは、お酒を買うと、スーパーの隣の屋台で、何か注文している。スパムのような肉を角切りにして、油でいためだした。そして、煮たソラマメをさらにくわえた。この地域の定番のおつまみのようだ。うまそうだなあと見ていたら、屋台の親父は、僕らには、ソラマメだけをプラのトレイによそってくれた。僕たちは、ソラマメを持って、車に乗せてもらって、レストラン街で降ろしてもらった。

通りに面したところに生簀があり、鯉のような魚が泳いでいる。隣では、その魚を開いて炭火で焼いている。これがイラク料理で有名なマズグーフである。レバノンレストランと書いた看板が立っていた。狭い階段を上がっていくと、ピンクの薄暗い照明。アラブ(クルド?)のむさくるしい親父たちが酒を飲んでいる。そんな中で、きれいなお姉さんが2人うろうろしているが、ホステスというわけでもなく、客と二言三言はなすと、トイレの前の部屋で、坐って客を待っているようだった。多分売春婦なんだろう。

僕たちは、なんとなくぼったくられるのではないかとびくびくしながら、ビールを頼み、魚を頼んだ。魚はキロ売りで、2キロからじゃないと売ってくれないという。まあ、あまったら、ホテルに持って帰ろうと思い、思い切って注文したが、ウェイターは、なんだかんだといって、「今日は魚はない」という。じゃあ、一体何があるの? と聞くのだが、食べるものは何もないというのだ。
「レバノンレストランじゃないの?」「あれは、看板だけだ」

まあ、ありがちな話。周りを見ると、ザクロの実をみんなつまんでいるので同じものを頼んだ。屋台でもらったソラマメとザクロの実に塩をかけてつまむ。夜が更けていった。ビールを一人3本はのんだけど、全部で3000円行かなかったから、予想に反して、健全なお店だった。

一足先に帰国した看護師からは、「怪しいバーに行けてよかったです。また行きたいですねー」とメールをいただいた。また来てくれる? ということで、接待は大成功だった。

さて、その後、僕はヨルダンに移動した。震災から一年、3月9日から始まる展示に出品する写真をヨルダンで印刷しようとしたが、なかなかテーマが絞りきれず、写真を選ぶのに苦労した。イラク戦争後と震災後の福島で生きる人びとのポートレートが中心だが、それらが、違和感なく混ざり合うところで、未来が見えてくるようなものを作りたいと思った。そんなんで、悶々として、酒でも飲んでいないとやりきれない。

ホテルから、歩いて5分のところに、酒の専門店がある。ヨルダンはキリスト教徒の数がぐっと減るがそれでも酒が買えるお店がある。以前は、スーパーマーケットでもお酒を売っていたが、最近ヨルダンは、外国人といえば、湾岸からのイスラム教徒の金持ちが遊びにくるので、彼らの目に付く所には、お酒を置かなくなってしまった。

専門店は、あやしく、お店の親父は、ひるまから酒臭い。こちらでは、大豆を二周り大きくしたような豆を茹でたものに塩をかけて、つまみにしている。ロング缶は、3.5JD、日本円で400円、イラクでは、100円くらいだったので随分高い。こちらでは17%の消費税がかかるというのもある。

2日後、アルコールが切れたので、同じ店にビールを買いに行くと、今度は、2.5JD(280円くらい)だという。「このあいだと違うじゃないか、ぼったくりだ!」とせめると、親父は、気まずそうに、「今日はディスカウントしてやってるんだよ」といった。

震災から一年、3月9日〜3月14日
「イラクと福島の子どもたち展」を日比谷で開催します。
http://www.jim-net.net/event/120309picture/

旅途中

璃葉

画用紙の中で、ぐるぐると旅をしている

大陸から大陸、島から島、森から海、街から村へ
空は濃紺の時もあれば、黄色にも橙にもなる
虫は酔っぱらったように飛んでいる
雲は笹舟のように急いで流れていってしまう

過去に見た景色、未知の景色が
ごちゃごちゃと混ざって出来た、自分だけの景色

帰り道は分からない
道筋も決まってない
その奥は何も見えない、見えるはずもないが。
それでも飛び出して、影の中を手探りで散歩する

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犬狼詩集

管啓次郎

  51

パスクア(復活の島)とスペイン語は呼んだ
ラパ・ヌイ(大きなラパ)とぼくらは呼ぶ(ラパは別の島の名)
だがいつからここにいるのか、私たちの社会は
伝説が語るのはこの土地のひどい惨劇
すべての樹木を失った後、闘争と食人をくりかえし
島民は焦燥し脅えた目付きで互いの顔色をうかがった
けれどもそれから幾度か太陽が替わり
人々の体格も顔つきもずいぶん変わったように思える
遺伝的にいって自分が何者なのか、ぼくは知らない
言語学的にいって自分の言葉がどの語群に属するのか知らない
ただこの光が明るくみたす土地に生き
ここで公明正大に死んでゆくことを願うのみ
馬が殖えている、かれらも外来種だ
この島に暮らすわれわれのすべては外来種だ
跳躍と静止、夜と昼の連続的交替に
太陽が青く染まる瞬間と未知の故郷を思うだけ

  52

展望はダイアモンドヘッドの頂上にはじまる
まだあまり人が来ない三十年前のこと
シャンタルとそこに上がって太平洋を見わたした
ザトウクジラが噴く潮を目撃したかったからだ
そのころ彼女の名の由来をそれ以上気にすることはなかったが
やがてShandelというのがイディッシュ語で「美しい」
だということを何かの本で知って
シャンタルとシャンデルの関係を考えるようになった
展望は名前を介して遠い平野にひろがる
(ポーランドの緑の草原にバイソンが群れている
動物たちが野生であるとは人が手をふれえないということ
その移動、食事、生殖、生死に、人は関与してはいけない)
いまふたたびぼくはダイアモンドヘッドの頂上に立って
自分が生涯の食事と生殖のほとんどを終えたことを感じる
シャンタル、シャンデル、名前だけを残して野生に帰った彼女
きみの生涯をここで遠く展望しよう、別れを告げるため

だれ、どこ6

高橋悠治

●林光(つづき)

1973年9月11日に起こったチリのクーデター以後のプロテスト・ソングの流れのなかで、ジェフスキーの『不屈の民変奏曲』(1975)を演奏していた時、林光はそのたびにつきあって、演奏に1時間かかる変奏曲の前に、そのテーマとなったチリの作曲家セルヒオ・オルテガが作った『不屈の民』(原題:団結した人民は打ち負かされることはない)と、変奏のなかで引用されるブレヒト=アイスラーの「連帯の歌』、イタリア・パルチザンの歌『赤旗』(Bandiera rossa)を歌い、司会もしてくれた。1978年にはじまった水牛楽団の活動は、1976年のタイのクーデターの後、日本に届けられたタイのカラワン楽団(キャラバン)の歌を日本語にして歌うところからはじまったが、そこでも林光はポーランドの「連帯」運動の歌(禁じられた歌といわれる)を歌ったり、コンサートの司会をして数年間つきあってくれた。

林光の歌は、ソルフェージュの模範のような、聞いていると音符が浮かんでくるような歌いかただった。革命歌をうたうと、柴田南雄が批評文に書いたように、音程正しく、「民衆的」エネルギーとは縁遠い抽象的でエリート的に感じられたかもしれない。だが、「民衆」のイメージも時代ごとに作られるから、土俗性を強調するのは、1970年代の特徴だったかもしれない、と書きながら、松永伍一の子守唄論や、訳されはじめたキム・ジハの風刺詩を思い出す。

林光の歌、自分ではソングと言ういいかたを好んでいたが、「たたかいのなかに 嵐のなかに 若者の魂は鍛えられる」からはじまって、「忘れまい6・15 若者の血の上に雨は降る」、「やりてえことをやりてえな、てんでかっこよく死にてえな」など、時々頭のなかで聞こえてくるあの歌声は、1950年代から60年にかけての歌だったから、その時の「民衆」というよりは「人民」のイメージはまったくちがっていた。若々しく、折り目正しく、「かっこよい」ことをめざして、急ぎ足ですぎていく。だが、軽やかな歌も、時代をすり抜けては行かれない。1956年のフルシチョフ秘密報告から、1964年中ソ論争、1965年ゲバラのキューバ出国、そして1968年ベトナム・テト攻勢、パリの5月、プラハへの軍事介入の8月まで、崩壊する秩序と、それでもまだ理念や方向を捨てきれない運動のなかで、両側から批判されていた年月が、『死滅への出発』(1965)という本に集められた文章から、おぼろげに見えてくる。

ゆれうごく社会と歴史のなかで、音楽をつづける根拠はどこにあるのか。よく言われるように内部に、あるいは外部に、根拠をもとめる必要があるのだろうか。はじまりもなく、起源もなく、終りもなく、目標もなく、すでにうごいていて、うごきつづける音楽の場にいつか入り込んでいるのに気づく。

1974年から76年までの『季刊トランソニック』では、音楽の環境とのかかわりに目を向けていた。そのなかで柴田南雄は啓蒙主義的セリエリズムから、社寺芸能に目を向けて、合唱のための「シアターピース」を作りはじめた。林光はオペラシアター「こんにゃく座」探訪記を書いたのがきっかけで、その座付き作曲家・芸術監督になり、ずっと望んでいた「非国立」歌芝居であるオペラの作曲家になって、1960年以来のさまざまな実験の時期が終わったようだ。作曲家の一時的グループだった「トランソニック」は、1950年代の時代標識であった民族主義/セリエリズムか、60年代のミニマリズムに収斂されない、それぞれの生きかたを見つける前の休息と観察の日々だったのだろうか。

「こんにゃく座」のオペラは、いくつか見に行った。林光と会う機会はすくなくなった。自分の音楽の場をもって、創りつづける人は、安定した音の身振りをみせるようになる。武満もそうだった。「対位法を勉強して、次からはちがう音楽を書く」と言っていた日は来なかった。サティのように、じっさいに対位法をまなんだ後で、若い時のように新鮮な音はもう書けないと嘆くよりはよかったのか。安定は危ない。休息と環境の観察は、身を退いて創りつづけるためにはいいが、観察は活動の残像だから、見えたことは拠り所にはならないだろう。見えない隙間を手探りしながら、思いがけない道がひらけたと思う瞬間が来る。だが、そこでうごきは止まる。「おそらく鍵はある、住む家は準備が整っている、でも鍵が回らない、<天使の扉>はまったくひらかない、半分もあかない、それは準備がほんとうにできているからなのだろう。」(エルンスト・ブロッホ)

遠い朝、声にならない声。「一ばんさむい 冬の夜/一ばんひどい 雪のとき/声にはせずにうたってた/忘れぬために 花のうた」(佐藤信 1967年)

映画の小物集めてます。

高橋美礼

<グッバイ、レーニン!>の<東ドイツ製ピクルス>

「ポーランドではいまバル・ムレチュニィ(ミルクバー)が若者に人気」と伝えるテレビに映っていた、食器やテーブルクロスの模様が気になる。共産主義時代につくられたミルクバーは低所得層のための食堂で、どこでも同じメニューを格安で食べられる場所だったけれど、今はもう機能していない。番組は、そのミルクバーが最近のレトロブームで復活し、ファストフード感覚で若い子たちが集まるようになった、という短い内容だった。

で、人気のワケは食べ物だけじゃなく、店の雰囲気にもあるらしい。ペタっとした鮮やかな色使いと幾何学模様を組み合わせた、あまり高級とは思えない模様が、お皿にもカップにもテーブルクロスにも壁紙にも使われている。柄×柄なんてあり得ない組み合わせっぽいけど、むしろそれが懐かしくて新鮮。1960年代〜70年代の日本にも、たくさんあった柄物じゃないかな。ポーランドに限らず、旧共産圏では暮らしのすべてが配給で成り立っていたようなものだ。種類だって多くはないから、デザインで勝負するなんてあり得なかったよね。

 <グッバイ、レーニン!>はベルリンの壁が崩壊する当時の物語。主人公のアレックスは、心臓発作で倒れた母親にショックを与えないように、と東西ドイツ統一の事実を隠し続ける。西側の資本主義がなだれ込むように生活を変えていく勢いに逆らいながら、旧東ドイツの製品を探しまわる主人公の姿は、全体が重いテーマにもかかわらず、コミカルだ。

無人のアパートに忍び込んで食料を探し出すのも、中身が問題じゃなくて、パッケージが必要だから。競争社会で生き残るためにアピール度の高いパッケージに切り替えていたり、統一ドイツの名称をつけていたりする食品ラベルはすべて却下。そして母親の前に出すために、コーヒーやジャムをわざわざ詰め替える。なかなか見つけられなかった<東ドイツ製ピクルス>はペンキまみれになっていたにもかかわらず、洗って再利用だ!立派なピクルスを瓶から直接、手づかみでおいしそうに食べる母親には、このラベルこそが安心の素なのだ。

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店頭でどれだけ購買欲をかき立てるか、という度合いをパッケージから取り去ったら、何が残るのかな。わかりやすくなるのなら、競争相手が少ないのも悪くはない。ラベルにあるシュプレーヴァルトは、原料になるキュウリの産地のことで、シュプレーヴァルト・グルケンはいまも瓶詰めが買えるようです。

翠の校庭――88 無関係者

藤井貞和

天城さんの「うた」に、「子孫に残す何あるというか」と。
「どうぞ ハグしてください」と、きょうの後藤さん。
県民の子どもを避難させて、
ウツル、と仲間はずれにされているから、
詩友は世界へハグを求める。
メモよ、骨つぼの霊に、
故郷捨てるおれたちを恨んでくれるな、
と小林さん。
「うしろで子どもの声がした気がする」と、若松さん。

(「三月十一日、浪江町は四つの集落が大津波に呑まれ家並みが消えました。行方不明者九百八十余名の安否確認、倒壊家屋から住人の救出、道路の補修工事等の作業に町職員はとりかかり、一般住民は地震で散乱した家の中を片づけながら、隣町の原発への不安は誰もがあったようです。/東電からは何の連絡もないので、町では少しは安堵していたようです。しかしその頃、東電は立地町の双葉、大熊、富岡の住民達を隣県の茨城交通などからバス百二十台をチャーターして、その日十一日の夜までに県内や隣県の観光地のホテルや宿泊施設に避難させていたのです。許せません。/浪江町長は、東電からは何の連絡もないまま、パソコンのメールで菅首相から避難命令を受け、十二日早朝、各地区の区長を通して、ただちに避難せよとの通達を発したのです。……その日午後三時、原発一号機の水素爆発がありました」〈みうらひろこさん〉。浪江町を置き去りにした東電への告発である。東電は地震で通信回線が切断されたため、浪江町へ連絡できなかったと釈明する。10キロはなれていない町なのだから、自転車でもバイクでも、何なら人が走って知らせる方法もあったろう、とみうらさん。「バスで運ばれた立地町の避難者達は、暖房のきいたホテルで、シャンデリアの光輝やくテーブルでデザートつきの温かい食事を提供されていた。わが浪江町民の避難者の多くは、廃校になった小学校に入れられ、壊れたガラス窓からの冷たい風、床にダンボールを敷き、支給された薄い毛布にくるまり、冷たくなった小さなお握り一個、ある日はメロンパン四分の一切れという食事。「避難」とはこういうことなのかと思いながら、寒さと空腹に耐えていたのです。このあと県内の学校の体育館をはじめ、あらゆる集会所や施設に移り、町によるとその数三百五十ケ所に分散しての避難生活となったのです。各地で受け入れて下さり、支援していただきありがとうございました」と、みうらさん。東電から受けた仕打ち、差別を、県内の詩人各位に知って欲しい、という寄稿である。「現代詩人会会報」102号より。22日に、この会報を〈校正刷のままで〉引用したほか、A3で25枚分、おもに福島県内からの心の声を集めて勉強会で発表させていただいた。孤立させ、心ない差別をいま強いているのは福島県外からであり、みうらさんの悲痛な叫びである「差別、しうち」と混同できない。村民のあいだでいがみあいがはじまっていると、きょうのニュースで村長さんの訴えである。恐れていたことが起きつつあるとも言えるし、それらを「見たことか」と冷ややかに切り捨てる、無関係者の表情も暗闇に浮かんでくる。……「無関係者」と言う語はあるのかなあ。)

炭焼き職人を訪ねて。

さとうまき

今日は炭の話。友人が火鉢に凝っている。不定気に火鉢カフェなるものを、東京の下町古民家などを借りて開催している。一日中火鉢をおいておいて、お客さんと駄弁るという。

あんまりイメージがわかないのだが、楽しそうだ。先日、福島の二本松の「道の駅」で桑の炭が売っていたのを思い出した。火鉢カフェに福島の炭を使ってもらおうと、わざわざ買いに行った。ここの所、福島は雪が続いている。芯から冷え込む。二本松の炭、桑を使っている。もともとこのあたりは蚕の養殖が盛んだったらしい。今では、桑の実のジャムや、桑の木を炭にしているという。どういう風に炭にするのか見たいと言ったらお店の人が、わざわざ農家さんの家まで案内してくれるという。

車で結構山中に入っていく。雪がだんだん深くなってきて、タイヤがすべり運転が大変だ。農家につくと、山男のような親父さんが出てくる。ちょうど釜で焼いているというので、さらに山を少し登ったところに釜があった。

最近、福島に行くようになって農家さんとのつながりが出来てき思うのは、農家のじいさん、ばあさんが実に絵になるということ。先日も柿を食っている柿畑のおじいさんの写真を展示してたら、涙を流しながら見てくれたお客さんもいた。

炭は、セシウムの汚染が心配だ。震災後は、今まで焼いていなかったが、売る、売らないは別に家庭で使うということもあり、とりあえず、昨日から炭焼きを再開したという。「どうせ、俺たちは先行き長くないからね」そういうと豪快に笑う。しかし、百姓、自分達の作った農製品、食べてもらわないと、むなしいし、哀しいのだ。そんな複雑な表情を写真にとらえようとシャッターをきる。帰りに、クヌギの炭を持っていけと下さった。立派な菊炭で結構大きい。それをわたしてくれたばあさんがまた、立派なもんぺをはいているから絵になる。

2月1日からはじまる「イラクと福島のバレンタインデー」の展示には、百姓のじいさんばあさんの写真も展示する。詳しくはHPで。JIM-NET 火鉢クラブ

オトメンと指を差されて(44)

大久保ゆう

2月といえば豆です。誰が何と言おうと豆なのです。

豆に生き、豆に死ぬ、そういう豆主義者として生まれたからには、いつかは触れなければならないことだと覚悟しておりました。そう、わたくし何を隠そう豆の使徒。お肉よりも豆を好み、〈まめ〉という言葉に似合うよう人生までまめにしたる者。そんなまめまめしきお話を今回はひとつ。

えんどう、いんげん、だいず、うぐいす、うずら、ひよこ、グリーンピースにあずき、ピーナッツ、豆といえばたくさんありますが、わたくし豆によって育ってきたといっても過言ではございません。元よりお肉もお魚も苦手、今でこそ生のお魚や薄いか柔らかいお肉なら何とか大丈夫ですが、ほとんどのタンパク質はこれまでずっとお豆頼みで来ておりまして。わたくしの身体はお豆でできているというわけなのです。

思い出せば子どもの頃、給食でいちばん楽しみだったものといえば〈大豆のしゃりしゃり揚げ〉、何だそれはといぶかしがるお方もおられましょうが、この大豆をからりと揚げただけのよくわからない食べ物がわたくしは好きで、今でも夢に出てくるくらいなのに、今まで誰も再現できた人もされたものも見たことがなく、まさに夢のなかのもの。
カレーも自分で作るときはビーフでもポークでもチキンでもシーフードでもなく豆カレー、多種多様な豆の入ったカレーであるわけで、あらゆる料理の肉は豆に置換され、麻婆豆腐の挽き肉だってグリーンピースに変わり、豆丼に豆じゃが・豆うどん、ピーマンの豆詰め、青椒肉絲の肉だってもはや枝豆になってしまうのです。ハンバーグだって豆腐バーグよりもお豆バーグにしてくれた方がうれしいくらいで、できれば豆ご飯の流れから豆寿司的な創作料理ができあがればいいと思う始末。

あるいはわたくしにとって〈あんこ〉なる豆スイーツはお豆レシピのクイーン、日本の至宝、というかおはぎにおかれましては、炊かれた白米とお豆が組み合わさってるのですから、お菓子というよりはむしろごはんですよ、あれです、赤飯がごはんであるのと同様にごはんであるわけです。(めでたいときに夕食として食べればよいのです、わたくしはそうしておりますし、うちの家族からもそういうものとして長年認められておりまする。)

そこで2月。そうでございます、まず節分がありますから堂々と行事としてお豆がたらふく食べられるのです。煎った大豆がそりゃもう大量に。年の数なんか気に致しませんもぐもぐもぐもぐ。今では全国化しましたが関西では太巻きを食べるのですよね、でその太巻きの具も自作するなら好きに選べるってことでお豆にしちゃうのです。あははは。豆太巻き。

そして中旬にはバレンタインデイがあるわけですが、あれだって元々はお豆です、カカオ豆(実だというつっこみはなしで)。ですから街じゅうにこれでもかとお豆があふれるのです2月はっ! わあい、お豆祭りの月ばんざい! 本当、お豆の国に生まれついてよかったです。お醤油もお豆腐もお味噌も、しっかりお豆の味がするものが大好きなわたくし、もうお豆がなくては生きていけません。もし無人島に漂着なんかしたらまず食べられる豆を探しに出ちゃうくらい。お豆大使とかあるならなりたいくらい。豆のためだけにスペイン行きたいくらい。

そんなわけなのでわたくしはピタゴラスの教団には絶対入れないわけで残念なのですけれども、どっちかというとわたくし豆を信仰していると申しましょうか、ちょっとくらい元気がなくても、ただ豆のことを考えるだけで妄想するだけで、にやにやにや、身体の内側から力がみなぎってきますから、何と言いましょうかもうお豆のご加護のたまものであります。ちなみにお豆へのお祈りは、豆をお箸で器から器に移し替えること。百粒でも千粒でも、多ければ多いほど功徳がある……なあんてことはございませんが、わたくし、たぶんいくらやってももくもくもくもく、飽きないとは思います。

マヘリアは歌う

くぼたのぞみ

ゆきは
気配をはこんでくる
音もなく
物語をはじめる
濃密で 無情な
灰色のゆきは
ひとも こころも
ひっそり包む
包んでさらう
しんしんと
ゆきが消しさる
あわいを
マヘリアは歌う

we shall over-come
one day
マヘリアは歌う
we are not afraid
no more
マヘリアは歌う
everything gonna be all right
deep in our heart

道はひろがり
空と地がひとつになって
聖堂が揺れ
ダンジョンがぱっくり割れて
蜜がしたたる
岩のようなハート

まだいる わたしは
ここに いる
あらがい生きる
きみのそばに

上映時間を間違えて

若松恵子

上映時間を間違えて、予定と違う映画を見ることになった。窓口で間違いに気づいた時には上映5分前で、これも何かの縁と見ることにした。

「ツレがうつになりまして。」(佐々部清監督/2011年)、人気コミックエッセイを映画化した作品だ。NHKの大河ドラマ「篤姫」で夫婦役を演じた宮崎あおいと堺雅人が再びコンビを組み、原作も評判になったこともあって、月曜日午後1番の上映は意外と多くのお客さんを迎えていた。少々難解でも心を遠くに連れて行ってくれることを期待して名画座に行く。そういう映画ではなかったけれど、ちいさくキラリと光る、温かな後味が残った。客席はたびたび笑いの渦に包まれ、そしてたくさんの人が涙をこぼしているようだった。もちろん私も、主人公にもらい泣きした。

夫のことを「ツレ」と呼んでいることからも分かるように、主人公達は少し風変わりな夫婦だ。ハルさん(原作者の細川さん自身)は世間一般の「奥さん像」というものから少し自由で、その分、夫の病気に対しても独特の反応をして、それが時には笑いを呼び起こす。ツレのうつ病という深刻な問題に対してもハルさんは子どものようにあどけない反応をして、それは時に常識やぶりであり、見るものは驚きとともに思わず笑ってしまうということなのだろう。2人の世間からのほんの少しの自由さ、そのずれが引き起こすユーモアがうつ病という深刻なテーマに明るさをもたらしていると思った。そして偏見にとらわれずに「ツレガうつになりまして。」と自然体で言えること、そのことがまず多くの人の共感を得たのだろうと思う。この原作の良さをそのまま活かすことに、映画は成功していると思った。

大事なことは本当に少ない。大事なこと、それは例えば「病気になったツレを見捨てずに、いっしょに居続けられるのか」ということだ。仕事ができなくなったら去らなければならない会社の世界、割れずに残って骨董品になった薄荷水のビン、じっと動かないように見えるイグアナ、それらの姿を描きながら、この問いが静かに差し出される。「ツレがうつになりまして。」は複雑でも難解でもないけれど、シンプルに大事なものを描いていて温かな印象を残した。

春はいずこ?

大野晋

今年は例年になく寒いらしく、梅の花が咲いたという便りもまだ耳にしない。まあ、身近なところで季節が感じられた庭の木々が、昨年の家の建て替えでなくなったままだから、早春の紅梅も、そろそろ咲き始める白梅も、居ながらにして眺めることはできなくなっている。そうした意味では、春を感じにくくなっているだけなのかもしれない。信越の雪も今年は例年になく多いということなので、五月の連休には2年ぶりにカメラの機材を抱えて撮影三昧の旅に出かけてみるのもいいなあと思っている。

1月は都響こと東京都交響楽団は定期公演で日本と海外の現代音楽を取り上げる時期である。夏にサントリーホールなどが演奏機会を作っているとはいえ、なかなか、現代音楽を実演で聴く機会は少ない。そして、前例に漏れず、現代音楽を取り上げたコンサートの人の入りもとても少ない。しかし、観客の数と演奏の質が比例するはずもなく、少ない人数の演奏会は余裕のある会場で、ゆったりと音に浸れる滅多にない機会のように思えてならない。今年も北爪作品の音に浸り、杉山さんの指揮をした演奏で、ブーレーズをなんと数十年ぶりにきちんと聞くといった経験をした。ブーレーズの指揮した音源に触れる機会は多いが、ブーレーズの書いた作品を聞くという経験は滅多にない。

殺風景な庭に植えたパンジーは年末あれほど元気良かった葉を、このところの寒気で縮こんでしまっている。まだまだ、春の気配を感じることは難しいが、やってこない春もない。やがて春が来て、生命に満ちた姿を見せてくれるだろう。

ところで、年末に一本植えたエゴノキは果たしてこの春無事に芽吹くのか? おかしなところに興味のある今日この頃です。

鼻水たらしながら

仲宗根浩

旧正月寒かった。旧正月前は部屋の中では半袖でも過ごせるくらい暑くなり、それで寒くなり、そのあとまた暑くなり、風邪をひく。プロレスラーが怪我しても試合をしながら怪我と付き合いつつ治すがごとく、薬を飲み、仕事に行き、夜にはいつも通りに酒を呑み、という生活をしてもプロレスラー並みの体力があるわけなく、全然よくならずに咲き始めた近所の桜に気づき、少し見ていると鼻水が垂れてきた。治らないのはとりあえず加齢のせいにしよう。

去年、うちの奥さんの軽自動車がぶつけられたのを機会に、修理から戻ってすぐにずっと壊れたままでラジオしか聴けなかったカセットカーステレオを今どきのCD、MP3再生、USB、AUX入力端子付、iPod、iPhoneからの操作も可能でお値段も一万円以下のものに交換。メーカーはケンウッド、昔で言うトリオ。中学生の頃、アマチュア無線をやっている奴はみんなトリオの無線機だったな。それなのでトリオのステレオコンポはチューナーのバリコンは他のメーカーに比べて大きさが全然違った、というアナログな昔話。で、交換したはいいがボタンの機能が多すぎて設定が面倒。普通のCD再生やMP3再生はなんとなくできるが、大きな液晶画面設定などないのでラジオのFM、AM切り替えがどのボタンを押せばいいのか迷う。数年前であればあれこれいじり倒して覚えたけど、最近それも面倒になってきた。加齢のせいにしよう。すると今度は私の車のカーナビ、タッチパネルの一部が反応しなくなった。中古車なので、ナビの情報は十年前のもの。その頃には無い新しい道を走ると進行方向を示す矢印が変な動きをして面白かったけど、これはこれでナビ以外はCD再生、ラジオも問題ないのでそのままにしておく。もう二年以上ひとりで車に乗っているときに聴くのは「Bestof Muddy Waters」だけだし、今は車に金かける余裕ない。余裕ないのは無駄な買い物をするから。去年は、要らなくなったクレジットカードをギターのピックにしてくれる「PICKMASTER」という本当に無駄なものを買ってしまった。期待に胸膨らませ、開封し一分後に使い物にならないことをさとり泣いた。出てすぐだったので値段も今より高かった。これだったら普通にギターのピックを買ったほうがいい。ネット上で簡単にクリックしてはいけない、ということをちゃんと学習していない。

今年、こっちは復帰四十年。ドルを使い、左ハンドルの車が走っていた記憶を持つ若いのもかなりのおっさん、おばさんになっている。そんな感慨とは関係なく家の中ではついにK-Popの波がきた。奥さんは少女時代のCDをレンタルし歌い、スマホでYoutubeにアップされた動画を見て振り付けをチェックしている。で、音をちゃんと聴いてみると完成度が高い。今のシングルCDはほとんどカラオケ・ヴァージョンが入っているのでインスト聴けばよくわかる。昔、CD屋で働いていた頃扱っていた韓国のポップミュージックとは全然違う。制作するツールが標準化されたからかなあ。これも、巷に転がっているグローバル化というもので括られてね。

今年になって、去年以上に、これさえ入れときゃみたいな感じで使われ、読むたび、目にするたび、耳に入るたび、絆というやつには、うっ、やめよう。それよりはやく鼻水止めよ。

犬狼詩集

管啓次郎

  49

くろぐろと濡れた大きな折れ枝に
貼りついた白い花びら
そんな風にエズラのように人々の顔を見て
いつも怯えた気持ちでいた日々があった
そのころは街がなんだか薄暗かった
いま、白く発光する路面に下から照明されて
無表情な人々の顔はどれも眩く明るい
見つめようとしても果たせない
ぼくには能動的な視線がなく
受光器にすぎない眼球のまなざしなんか
洪水のような光に絶えず弾かれる
かぶと虫のあのつぶらな目はいったい何を見ているのか
それでも心は翻訳された光のように明朗で
魂のように飛び交う光の顔たちを避けながら
この都市を森の道をゆくように歩くのだ
ここは際立った暗さの巨大な森林

  50

いくつもの扉がつづく長い通路で
扉を通るたびにボブとイネスが入れ替わる
ボブは兄、イネスは妹
ぼくはその交替を陶然と眺めている
ふたりはふたごのようによく似ている
それどころかふたりはおなじ顔をしている
ぼくとボブは銀玉の拳銃で
ロシアン・ルーレットをやって遊んだ
ぼくとイネスはヴィーニャ・デル・マールの海岸で
海亀の卵を探して遊んだ
その日々が終わり、ぼくらは遠く離ればなれになって
ただイメージの長い通路を歩いてゆく互いの姿を見るだけ
その床はしずかな水面、映る太陽はまだらの光
熱を失ってそのように弱々しく
でも扉を開くたび過去の光が訪れる
その音さえ聞こえる気がすることもある

製本かい摘みましては(77)

四釜裕子

最寄りのスーパーは狭い。界隈で暮らす人は多いのにいったいどういうことかと思っていた。生活していると、最寄りだからやっぱりよく寄るようになる。日々の食材はここで買うことが増え、メニューも変わる。まもなく充分間に合うようになり、そのうち狭さも感じなくなる。探す目も動く体も、慣れてくるのだろう。レジは3台。混雑する時間はそれぞれに8人くらい並び、それはすなわちフロアにある3本の通路の5分の2くらいを占領する。通路の左右の棚を物色する人がそこに分け入る隙はなく、アルコールやチーズ、パンを買いたいひとは右、お菓子やカップ麺は真ん中、総菜やジュースならば左のレジ列に並びながら物色する。

レジを待つ時間がけっこうあるので買物かごを眺めながら合計金額を概算する癖がついた。けっこう当たる。これがうれしい。500円以上違ってたことがある。レジの打ち間違いじゃないかと確かめたらいつも買うチーズの隣りにある500円以上高いチーズを取っていた。買い直すこともできたけど振り返れば長い列、たまにはいっか、と贅沢買い。おとといは、前の人の合計金額が507円だった。その人は500円玉と5円玉と1円玉で507円をすでに手に握っており、ぱっとトレーに置いて颯爽とレジを通過した。私の概算は何千何百の位まで。まだまだだ。この店のレジでいらついている人を見たことがない。

真ん中の列にはちょっとした台所用品も置いている。ラップとかゴミ袋とか。細長い2段重ねの弁当箱もある。幼稚園のころ持たされていた楕円形のアルマイトのお弁当は時々汁がもれていて、でもどういうわけか不快ではなかったな、父親の保温弁当箱は巨大だったな、「これっくらいの、おべんとばっこに……」と歌うときは両人差し指で長方形を描いていたけれど今の子どもたちも同じように長方形を描いているのかな……など考えてたらレジの順番がきた。清算をして袋に詰めながら、昨秋出たお弁当箱みたいな2冊の本について考えていた。

ひとつは渡辺一史さんの『北の無人駅から』で、定規で計ると127×188mm、792ページで厚さは38mmある。もうひとつは北沢夏音さんの『Get back,SUB! あるリトル・マガジンの魂』で、同じく127×188mm、542ページで厚さは38mm。寸法は同じ2冊だがページ数はだいぶ違う。『北の無人駅から』は柔らかい本文紙を糸で綴じてあり、重いけれど読みにくくはない。比べると『Get back,SUB!』の本文紙はやや厚く、糸綴じではないけれども今どきの接着剤は柔軟性があるのでグッと開いてもページがはずれることはまずないが、読んでいて手は疲れた。判型に対して厚みがあるとき「お弁当箱みたいな」と言ってしまうが、こんな弁当箱、実際は見たことがない。細長い2段のお弁当を持つひとと、お弁当箱みたいな本について話してみようと思った。

船上に揺れるスリンピ公演

冨岡三智

1月の10日間、ジャカルタの踊り手3人と一緒にクルーズ船に乗り込んでの仕事というのを初めて経験した。というわけで、今回はその船上での公演で発見したことを書いてみたい。

この船は旅客定員644名、日本船籍としては二番目の大きさであるらしい。常連のお客様の話では、今回の旅は揺れが穏やからしいのだが、私たちのスリンピ(4人の女性で踊るジャワ宮廷舞踊)公演の日には比較的揺れが大きかったような気もする。もっとも、公演ステージは船の先頭部分にあって、一番揺れる場所ではある。

まず、船の揺れは、椅子に座っているとあまり感じなくても、床に座るとよく感じるものだということを発見。私たちが上演した「スリンピ・スカルセ」は短縮版ではなくて43分(入退場を除く)の完全版なので、合掌するため、最初の3分半くらいは床にジャワ式正坐で座る。さらに途中でシルップという静かな部分があり、踊り手が2人ずつ交互に立膝で座るのだが、これが「スリンピ・スカルセ」の場合は特に長くて、それぞれ8分半ずつもある。座ると、床との接触面積が大きいせいなのか、また床と心臓が近いせいなのか、まさに揺れが床から上半身へと波動してくる感じがする。

しかも床に視線を落としているとなおさらそう感じる。宮廷舞踊では王様と目が合わぬように伏目がちに踊るのだが、床を見てしまうと揺れを余計に感じて酔ってしまうので、視線は5mくらい先をまっすぐ見るようにしよう、と練習のときに皆で言い合うも、いつもの癖でそんなに視線を上げることができなかった。視線を落とすと言う宮廷マナーは、海では通用しないなあとしみじみ思う。

意外に大変だったのが、セレッと言って、足を少しずつずらして重心を移動させる動きだった。船のスタッフの人から、ジャンプが多い舞踊は大変だとは聞いていた。けれど、両足が地面についていても、重心を移動させるその瞬間に、少しでも揺れがあると、バランスを取るのが難しくなると痛感。さらに、そういう危機的(?)な状況で、とっさに取る行動というのは4人とも違っていて、そこにけっこう性格が出る。ぐらっときたときに、その勢いで一気に体重を移動してしまって、あとは手の動きで間をつなぐ者あり、いつもより足をずらせる幅を小さくして、揺れでずれる分と合わせて調整しようとする者あり…。ここでふと、伝説的なプロ野球の稲尾投手が、幼い頃から海で櫓を仕込まれたおかげで、足腰やバランス感覚が鍛えられたというエピソードを思い出す。船上公演の達人になれば、足腰が相当鍛えられるのだろうか?

揺れと一口に言っても、身体の左右に(ということは、船の進行方向を向くか、その逆を向いている場合)、寄せては返す波のように穏やかに反復する小さな揺れだけなら、とても心地が良い。「スリンピ・スカルセ」はスラカルタ宮廷の舞踊なのだが、この宮廷の舞踊には波打つような動きがたくさんあって、椰子の木が風にそよぐさまにも喩えられる。穏やかな揺れなら、振付と船の揺れが渾然一体となって、自分の体が揺れているのか、船が揺れているのかどうかも区別しがたい、恍惚とした境地に陥る。こういう感覚を陸上でも再現できたら、きっと見る人の身体も揺れに同調して、陶酔してくれるに違いない。

この船上での恍惚の境地も、長くは続かないのが残念なところ。波はいつまでも規則的に揺れてくれるとは限らず、さらに、スリンピでは踊り手はしょっちゅう向きを変える。進行方向に対して右側や左側を向いた瞬間に船が揺れると、前後に身体がひっぱられた感じになる上に、重い頭部が振り子のように揺れるせいか、さきほどまでの恍惚感が一気にめまいに変わってしまう。思えば、スポーツジムによく置いてある身体を揺らす器械は、左右には揺れるけれど前後には揺れない。人間の身体というのは、前後の揺れには対応しづらい作りになっているのかも知れない。バランサーとしての手も身体の左右についているし…。

余談だが、この揺れる器械に載って速いスピードに設定すると、足のふくらはぎなどの筋肉が部分的にプルプルするだけだが、非常に遅いテンポに設定すると、胴から腰、足の全体が揺れるようになる。つまり、ゆっくりとした動きの方が全身運動になる。

と、こんな風に揺れに対していろいろと思うところがあるのは、長年習っているうちに、自分が海にいて、視線の先に水平線を見ているような、あるいは自分自身が波に同化したような感覚が、踊っている最中に生まれてくるようになったからなのだ。ジャワ宮廷舞踊にはスリンピ以外にブドヨという9人の女性で踊る種類の舞踊もあるのだが、特にこのブドヨを踊っていると、その感を強くする。たぶんそれは9人という人間が生み出す波動が4人よりも大きいからではないかと思う。別に、ジャワ王家を守護するという南海の女神、ラトゥ・キドゥルの伝説を知っているからそう思うようになった、というわけではない。ふと、そういうリアリティが感じられるようになったという感じである。なので、ほとんど船に乗ったことのない私としては、水平線がどんな風に見えるのか(もちろん線に見えるのだが…)、波がどんな感じに揺れるのか、非常に興味があったのだ。実際に船の窓から海を見ていると、亡き師匠や芸大の先生たち、留学生の人たちと一緒にスリンピやブドヨのレッスンをしていた頃の記憶がよみがえってくる。確かに、あのレッスンの中で見た幻の海をいま見ているのだなと、感慨深いことだった。

静かな日溜まり

璃葉

散歩の途中、薄暗い道に僅かな光が差しているのを見て、
なぜか真っ先に実家の台所が頭に浮かんだ。

あの台所は、窓があるくせに暗い印象が強い。
ただ春になると、朝の淡い光が
お邪魔しますよ、と言うような感じで
台所にひっそり入り込んできていて、
ほんのり暖かい雰囲気になる。

子供の頃、朝早く起きて
台所の床に出来ている小さな日溜まりに
光の縞模様ができているのを見つけると、
それをぼうっと眺めたり、足で踏んでみたり。光と遊んだのを覚えている。

光が溜まっている場所になんとなく惹かれるのも、
その遊びの思い出があるからかもしれない。

自分がいつか住む家の台所には
もっと明るい光を招こう、とふわふわ考えながら
また今日も窓が少ない自宅へと戻る。

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水玉模様のビニール傘

植松眞人

 雨の翌日、必ずアパートの踊り場の手すりにビニール傘が干してある。コンビニで売っている傘よりしっかりとしたつくりで、女性が好みそうな小さな水玉模様がついている。
 駅から歩いて十五分はかかるアパートだが、だからこそ静かで、ゆっくりとできる。そう思って住み始めてもう七年。いつまでも住んでいるつもりはなかったのだが、なんとも住み心地がよく、最近ではずっとここでひとり暮らしが続くのではないか、と思うことがある。
 アパートの向かいにある煙草屋のばあさんは「若いくせになにくすぶってるんだ」と僕の顔を見る度に説教するが、三十六歳が若いかどうかは僕にはわからない。このアパートから出て、一緒に暮らし始めるはずだった同い年の女は「もう若くないから」と僕の元を去っていった。それが二年前のことだから、僕はもう年寄りなのかもしれないと思う。正直、煙草屋のばあさんのほうが僕よりも確実に若い。
 昨日は一日雨が降り続けていたが、煙草屋のばあさんはいつものように、店を開け、いつものように一日中ガラス戸の向こう側に座っていた。ずっと見ていたわけではないが、朝も夜も同じ姿勢で座っていたから、きっと一日中そこにいたのだろうと思う。僕にはその根気はない。客に笑いかける社交性だってない。
 僕は毎日一箱の煙草を吸う。幸い、僕はフリーランスのライターなので、自分の部屋で仕事をするときには誰も嫌煙権を発動することはない。仕事をくれている出版社や制作会社のほとんどが全フロア禁煙になってしまったが、まだまだ喫煙者が多いので、打ち合わせはたいがい煙草の吸える古びた喫茶店だったりする。
 雨の日に煙草屋に立ち寄ると、ばあさんは必ず「雨の日に煙草を吸うとうまいね」と言う。
「そうかな」と僕が答えると、
「そうだよ」とばあさんは笑う。
「あのな。煙草っちゅうもんはな。湿度で味が変わるもんなんだ。あたしゃ若い頃にパリに行ったことがあるんだけどな。日本でなんぼ吸ってもうまいと思ったことがなかったジタンっちゅう煙草がパリで吸ったらほんとにうまかった」
「ジタン」
「そう。その国その国の気候にあわせた煙草が出来るんだろうな。それからあたしゃ、タバコ吸うときはジタンを吸う」
「でも、日本じゃうまくないんでしょ」
「そう。日本のように湿度の高い国はあんたが吸ってるような日本の煙草がうまいな。特にいまのような梅雨時はな」
「それじゃあ、どうしてジタンを吸ってるんですか」
「じいさんだよ」
「え?」
「じいさんが大好きだったんだ、ジタン。だから、じいさんが死んでからずっとジタンを吸ってるんだ」
 このばあさんはそう言うとニッと笑う。そう言えば、ばあさんが店先で煙草を吸っているのは見たことがない。
「いつもの煙草かい?」
「じゃ、今日は僕もジタンをもらおうかな」
「いつものより少し高いぞ」
「大丈夫ですよ」
「吸ったことはあるのか?」
「ありますよ」
「くせが強いな」
「そうですね。かなり」
 そう言うと、ばあさんはまたニッと笑って、くすんだ水色のようなパッケージのジタンを裸のままで差し出した。
 僕が「ありがとう」と言うと、ばあさんは「そろそろ店じまいだな」とつぶやいた。
 アパートの階段は住人たちが傘や靴や服に付けて運んできた雨水で濡れていた。すべらないように気をつけて三階まであがる。すると、いつものように階段を上がったところの手すりに傘が広げたまま干してある。この傘を干しているのは、僕の部屋から二つ目の部屋の住人だ、おそらく。顔を見たことはないが、その部屋の真ん前に干してあるし、僕の真横の部屋はやけに背筋の伸びたまるで兵隊さんのようなサラリーマンで、水玉のビニール傘を持ったりはしない。
 そんなことを思いながら、僕はジーンズのポケットを探って部屋の鍵を取り出そうとする。洗濯したばかりのジーンズは少し縮んでいて、うまく鍵が取り出せない。ガチャガチャやっていると、ちょうど二つ隣の部屋のドアが開いた。なんとなく顔を向けるのがはばかられて、目の端で顔を確かめようとする。僕は心臓が飛び上がるほど驚いた。心臓が飛び上がるという比喩はよく聞くが、本当に心臓が飛び上がるほど驚くというのは、とても静かな状況だと言うことを初めて知った。周囲は物音ひとつたてないほど静かなのに、僕の身体の中だけがパニックを起こしている。
 だって、二つ隣の住人が僕にそっくりなのだ。目の端に止めたくらいで、わかるのか、と言われそうだけれど間違いない。逆に、よくよく見るとどこまで似ているか分からないほどに似ているはずだという確信まである。
 しばらく呆然としていた僕だが、階段を楽しげなリズムで降りていく僕にそっくりな二つ隣の住人の足音に我に返る。そして、慌てて階段の上からのぞき込む。ふらふら歩く様子までよく似ている。後ろ姿で見るラフな服装や頭に被ったハンティングも僕の選ぶものに似ているのだった。唯一、傘だけが僕の絶対に選ばない水玉模様というだけ。後はどこをとっても僕にうり二つだった。
 部屋に戻ると僕は迷うことなく、二年前に僕の元を去っていった彼女に電話をした。彼女はとても驚いて、本当に僕かどうかをしばらく疑っていた。
「ねえ、本当にあなたなの」
「本当に僕だよ」
「だって、別れた女のところに電話をするなんて、本当にあなたらしくないから」
「うん、わかってる」
「で、どうしたの」
「感情的に君に電話をしてるんじゃなくて、これはもう具体的に君がいちばん適任だと思って電話をしてるんだ」
 僕は出来る限り事務的に話をしようと決めていた。
「わかったわ」
 彼女も同じように実務として受け取ろうとしてくれているようだった。
「実はアパートの二つ隣の部屋に、僕にそっくりな男が住んでいるんだよ」
「そう。だけど、そういうことならよくあるんじゃないの」
「よくある、というレベルじゃないんだよ」
「どのくらい似ているの」
「僕そのものなんだ」
「そうなの。年齢も?」
「年齢も背格好も顔つきもちょっと色白なところも、服装のセンスも外出するときにハンティングを被るところも」
 そこまで言うと電話の向こうで彼女もしばらく言葉を失っている。
「でも、事実なのね?」
「うん。びっくりするけど」
「びっくりしてるのね」
「びっくりしてる。こんなにびっくりしているのは生まれて初めてかもしれない。いや違うな。もっとびっくりしたこともあるかもしれないけど、こういう種類のびっくりは初めてだ」
「で、どうするの?」
「どうしよう」
「話はしたの?」
「してない。向こうは僕には気付いていないかもしれない」
「本当に?」
「いや、わからないけど」
「どうしたい?」
 彼女にそう聞かれて、僕は答えられなかった。どうしたいんだろう。二つ隣の部屋に自分にそっくりな人間がいる。そのことに驚くのに一生懸命で、それをどうしたいか、というところに考えが進んでいかない。仮に進んでいったとして、どんな選択肢があるんだろう。僕はそこで堂々巡りに入っていく。
「ちょっと考えたら、また連絡してもいいかな」僕がそう聞くと「いいわよ」と彼女は笑って電話を切った。
 僕は部屋のドアを開けて、二つ隣の部屋の方を見る。僕にそっくりな住人はもう戻ってきたのだろう、水玉のビニール傘がまた干してある。
 僕は考える。僕は僕にそっくりな住人をどうしたいのだろう。僕にそっくりな、僕にそっくりな、と僕がつぶやいている。そして、ふと思いが「そっくりな」という言葉に引っかかる。本当にそっくりなんだろうか、という気持ちが強くなる。背格好や顔が似ていてもそれは見た目だけの問題だ。もしかしたら、中身はまったく似ていないかも知れない。
 僕はまた二年前に僕の元を去っていった彼女に電話をする。
「早かったわね」
 彼女は電話の向こうで笑っている。
「あのさ。顔が似てても中身が全然似ていないと、怖くないよね」
「あら、怖かったのね」
 そう言われて、ああ僕は怖がっていたのかと改めて思う。
「たぶん、怖かったんだ」
「そうね、中身が全然違っていれば怖くないかもしれないわ」
「そうだね。それを確かめればいいと思うんだ」
「だけど、実害はあるかも知れないけど」
「実害?」
「そう。だって、あなたにとても似ていて、あなたと同じ性格だったら、だいたいどういう行動をするのかもわかると思うの。だけど、顔は似てるけど、中身が違っていたら何をしでかすか、わからないじゃない」
「なにをしでかすか……」
「いい人かもしれないけどね」
 彼女は慰めるように言う。
「あなたよりもすごくいい人で、あなたを見守って助けるために存在してるとか」
「どっちにしても確かめたいな」
「なにを?」
「中身まで似てるのかどうか」
「そうね、ここまで来たら知りたいわね」
「どうしたら確かめられると思う?」
 僕がそう質問すると、しばらく彼女は黙り込む。部屋のなかがしんとする。電話の向こうの彼女の部屋もしんとしている。やがて彼女が話し始める。
「例えば、お金を借りに行ったらどう?」
「お金を借りる?」
「そう。あなた、隣の人にお金貸してっていわれたら貸せる?」
「どうだろう?」
「貸せないわよ」
「そうかな」
「そうよ」
「貸さないかな」
「絶対に貸さない」
 ぜったいに、という部分をこれでもかと強調した彼女の顔が目に見えるようで少し笑ってしまう。
「何を笑ってるのよ。真剣に言ってるのよ」
「悪かったよ」
「もし、二つ隣の部屋の人が、中身まであなたにそっくりなら、絶対にお金なんて貸してくれないから。そう思わない?」
「きっと貸さないだろうな」
「そうよ。あなたなら貸さない。だから、今から二つ隣の部屋に行って『すみませんが、一万円貸してくれませんか』って聞いてみればいいじゃない」
「一万円か」
「千円だったら、なんかの弾みってこともあるでしょ、あなただって」
「うん、そうだな」
「だけど、一万円なら絶対に貸さないと思うわけよ」
「そうだな。貸さないだろうな、一万円」
 だんだんと僕の元気が無くなってくる。
「あのね、あなたがケチだとかそういう話をしているわけじゃないのよ。一万円を貸す貸さないって言うのはケチかどうかって問題じゃなくて、生き方の問題だと思うの。人には二種類あるのよ」
「一万円貸してくれる人間と、貸さない人間」
「その通り」
「で、僕は貸さない人間だと」
「そうね、事実として」
「君はどうだろう」
「そうね、いまは私のことを考えている場合じゃないと思うんだけど」
 彼女の言うことはもっともだった。
 僕は電話を切ると、迷うことなく部屋を出て、二つ隣の部屋のドアをノックした。僕とそっくりの声が返事をしてドアが開き、僕とそっくりな顔が出てきた。
「こんにちは」
 僕がぎこちなく挨拶をする。
「こんにちは」
 僕よりもいくぶん爽やかに相手が返事をする。
「僕は二部屋隣に住んでいる者なんですが、実はちょっと困ったことがあってね」
 そう言うと、僕にそっくりな住人は少し親身な顔になって、身を乗り出す。
「はい、どうしたんですか?」
「えっと、実は手持ちが今まったくなくて、いや銀行に行けばいいんだけど、その、なんというか……」
「どうしました? なんでも言ってください。大丈夫ですから」
「そうですか。実はお金を貸して欲しいんだ」
「いくらくらいですか?」
「一万円ほど」
「わかりました。ちょっと待ってください」
 僕にそっくりな住人は、まったく躊躇することなく一万円札を財布から引っ張り出すと、僕に差し出す。
「いいんですか?」
「はい。返してくれるんでしょ?」
「もちろん」
「だったらいいですよ」
「何に使うとか聞かなくても平気なの?」
「返してくれるんだったら、使い道聞かなくても平気です。あげちゃうんなら、気になるけど」
 僕は丁寧に礼を言うと自分の部屋に帰る。そして、目の前に二つ隣の住人から借りた一万円札を置いて、彼女に電話をかける。
「貸してくれたよ」
「すぐに?」
「すぐに」
「迷わずに?」
「迷わずに」
「すごいわね」
「全然似てないよ」
「似てないわね。でも、良かったじゃない」
「なにが?」
「だって、中身まで同じだったら怖いって言ってたじゃない」
「そうだね」
「相手はあなたが自分にそっくりなことには気付いてるの?」
「それが気付いていないようなんだ」
「それは残念ね」
 彼女は本当に残念そうにそういうと電話を切った。
 僕は一万円札を眺めながら、ジタンに火を付けた。そして、しばらくぼんやりと考えている。すると、ふいに「似てないかもしれない」と思ってしまう。中身がこんなに似ていないんだったら、顔も背格好も本当は似てないんじゃないか、と考え込んでしまう。似ていると思ったのは僕の勘違いかもしれない。ハンティングを被っていると思ったのだって、ただの野球帽を見間違えただけのことかもしれない。
 僕はジタンをくわえたままドアを細く開け、アパートの廊下を見る。まだ、二つ隣の住人の水玉模様のビニール傘が干したままになっている。
 僕はしばらくそのビニール傘を眺めて、ドアを閉める。そして、改めてあいつとは似ていない、と確信する。違っていて当然だと思う。
 だって、僕にはあんな水玉模様の傘はさせないから。

アジアのごはん(43)納豆

森下ヒバリ

タイのバンコクに来ている。乾季だというのに、毎日のように雨が降っているのは、いったいどうしたことだろう。去年も、乾季が終わらないうち から雨がたくさん降り始め、雨季の雨の全体量が増えて、川の水が増え近年にない洪水が起きた。この調子では、今年の秋も、いやそれ以前にまた タイ中部は洪水になってしまうかもしれない。杞憂で終わればいいのだが。

今回の旅には初めて、たくさんの納豆を持参してみた。いつも、インスタント味噌汁は持ってくるが、さらに梅干一袋、納豆6パック、しょうゆの 小瓶、出しの素、アオサと乾燥わかめ、さらに秋刀魚の蒲焼き缶詰6個、ニシンの甘煮2袋、マヨネーズにインスタントラーメンまでリュックに入 れて来た。ここ1年ぐらい、旅先で外食ばかりの食生活に苦痛を覚えるようになってきているので、がまんはせずに時々日本食を食べようと思って いる。ときどきおいしい日本食を食べると身体も心も落ち着くのだ。

というわけで、タイに来て3日目にして、すでに納豆ライスを食してしまった。納豆はたくさんあるし、と軽い気持ちでご飯に乗せて梅干と食べた が、これがまたおいしいのなんのって。日本人でよかったな、などと呟いてはみるものの、実は納豆をちゃんと食べたのは、二十歳になってからで ある。ヒバリが育った岡山の家では、納豆を食べる習慣はなかった。一度だけ「これが納豆というものらしいよ」とおそるおそる食卓に乗せられた ことがあるが、食べ方もよくわからないからかき混ぜもせず、そのまま上から醤油をかけただけ。「なんじゃこりゃ」というのがそのときの家族全 員の感想で、それ以降、納豆が食卓にのることは二度となかった。今でも両親はまったく納豆を食べない。

関西もあまり納豆を食べない地域だが、当時でもスーパーなどで売られてはいた。大学で京都に来て、大阪の友人宅に遊びに行ったときに初めてき ちんとかき混ぜられ、ねぎとからしを混ぜた納豆をごちそうになったのである。出されたものの、どうも気が進まない。「おいしいから!」という 料理上手な友人の言葉に意を決して口に入れてみると、なんとも美味。「これが納豆!?」それから、ちゃんと丁寧にかき混ぜ、ねぎとからしを添 えて食べております。

納豆は、日本に固有の食べ物と思われがちだが、じつはタイにもラオスにもビルマ、インドにもある。もちろん、日系スーパーにある日本製の納豆の話ではない。

タイ北部の納豆は、トゥアナオといい、大きく分けて二種類ある。一番ポピュラーなのは納豆菌で発酵させた大豆をすりつぶしてペーストにし、薄いせんべい上にして乾燥させたもの。乾物屋で積み重ねて売っていて、スープの味付けに味噌のように使う。知っていなければ、納豆とは分からない。

もう一種類は納豆菌で発酵させた大豆に塩やナンプラー、唐辛子で味をつけ、浜納豆のようにしっとりした状態でまとめたものである。こちらは、そのままご飯のおかずや酒のつまみに食べることもできるが、かなりしょっぱい。やはり、煮物や野菜炒めの調味料として使うことが多い。

どちらも、タイ族の食べ物であるが、中華系タイ人の多い中部やマレー系の多い南部では食べない。ラオスでも北部でほぼ同じものを食べる。

ビルマ、インド東北部の納豆は、日本の納豆に近いタイプだ。インドの東北部ヒマラヤを仰ぐダージリンにはじめて行ったときのこと。市場で、おばちゃんが木の葉っぱに包んだ納豆のようなものを売っているのをみつけた。ただの煮豆ではなさそうだった。さっそく買ってみた。かすかに納豆の匂いがする。しょうゆはなかったので、塩をかけて食べてみた。かき混ぜてもあまりねばらないが、味は日本の納豆によく似ている。
「あ、納豆だよ、これ。けっこういける!ねえねえ食べてみて」
「え、いや、これ腐ってんちゃうの?」
日本では大の納豆好きな同居人は及び腰である。
「発酵だよ!」

ダージリンで入手した「HIMAYALAN RECIPES」というブックレットによると、このダージリン納豆はキナマと呼ばれ、このあたりの山岳民族やネパール系住民が食べるという。

キナマの作り方はこうだ。1キロの大豆をよく洗い一晩水につける。圧力鍋で軟らかくなるまで煮る。ここで、つぶしてもつぶさなくてもいい。それをきれいな葉っぱに包み、かごに入れ布をかけて5日間放置し、ねばりが出れば出来上がり。カレーに入れたり、揚げて食べたりする。市場で買った納豆も、2日ほどおいておいたら納豆のいい匂いがしてきたので、発酵が浅かったのかもしれない。ねばりはあまりない。

このあたりの山岳民族は、タイ族系やチベットビルマ語族系の人々で、雲南あたりからタイ、ラオス北部、ビルマにかけて居住する人々とほぼ同じ系列の民族である。雲南を中心とする照葉樹林文化の民族だ。日本も海を隔てているとはいえ、気候風土はこの照葉樹林文化に属する。納豆文化圏なのだった。

納豆が発酵するには、納豆菌が必要だが、納豆菌は日本の場合どこにでもいる。稲わらには特に多いので稲わらで包んで納豆を作っていた。ダージリンの納豆はきれいな葉っぱに包む、とあるのでここにも納豆菌はたくさんいるようだ。

ちなみにインドネシアには、大豆を煮てクモノスカビで発酵させたテンペという食べ物があるが、風味は納豆とはかなり違う。まったくねばりはない。これは揚げて食べたり、煮込みに入れたりする。あっさりした味だ。納豆とはいえないだろう。

お正月に、タイ北部のチェンマイに住んでいるタイ人の友人トクが京都にやってきた。日本に帰っている妻と4歳の娘に会いに来たのだ。一緒に飲んでいると「ココロちゃん(娘)は毎日納豆を食べてるよ。すごく好きみたいで」と、何か複雑そうな顔。
「チェンマイでも納豆あるでしょ?」
「いや、あの、日本のは匂いがきついし、あのねばりが気持ち悪くて」と、トクさん。
「ええ、日本の納豆おいしいよ!」

さっそく居酒屋のメニューを探して納豆を注文する。ただし、匂いがあまり気にならない「納豆包み揚げ」にしておいた。お揚げに入って出てくるかと思ったら、出てきたのは餃子の皮に包んで揚げたものであった。
「うん、おいしいね。これなら大丈夫」とトクさんパクパク。

納豆は大豆の何倍も消化がよく、栄養も豊富。また血液をさらさらにするナットウキナーゼという成分も豊富だ。腸内環境を整える力も強く、食べ過ぎやおなかの調子の悪いとき、またちょっと危ないかな、というものを食べた後にも納豆を食べておくといいという。旅の道連れに納豆、というのはこれからクセになるかも。

Daniel Kirwayo追悼/または想い出

笹久保伸

2012年1月24日にDaniel Kirwayoが死んだ 彼はペルーのアヤクーチョギターの名手であったが 新しいアヤクーチョギター音楽を独自に模索し始めたパイオニアだったためペルーのギター界ではほとんど支持されていない上 名前も忘れられている

彼は不思議な人だった アンデス音楽の世界をギターで描く人が多いなか 彼は彼の世界をギターで描いた結果 アンデス音楽になった と言うような演奏をしていた 「人魚との契約」や「ハチュア」「パイルージャ・パイルン」などは彼の代表作だろうか ああいう演奏家は他に見た事がない

彼の活動はアンデス音楽の巨匠として知られ数回来日もしている名手 Raul Garcia Zarateの華やかな活動の影となり 一生Raul Garcia Zarateのように一般的に認知される事はなかった 演奏スタイルや音楽も独自に身につけた独特な音だった スピリチュアルな日もあり 会話していると どこかに飛んでいる時もあった

ヨーロッパに長年住み ペルーの仲間とは全くの音信不通だった彼が ペルーに帰国した頃のペルーでは 「キルワヨはフランスで死んだ」 と言う事にされており 有名なギタリストManuelcha Pradoが「キルワヨの想い出に」 と言う曲を録音して販売したりしていた 帰国したキルワヨはジョークのように笑っていたが アンデス音楽の業界からは一切身を引き 演奏もしないで 演奏家ともわざと距離をおいていた と言うか 過去の「仲間」の誰の事をまったく信用していないかった

こちらがDaniel Kirwayoの存在を知ったのは 小学生の頃 アンデス音楽好きの父の友人が持って来てくれた1本のカセットテープだった Raul Garcia Zarateしか聴いていなかった自分が初めて聴いた他のアヤクーチョ音楽だった その不思議な演奏にびっくりしたが まさかその後彼の生徒になるとは夢にも思わなかったし まさか生きているとも思っていなかった

リマへ渡ってすぐの頃に彼と知り会った その後 2年間生徒として一緒にギターを弾き 遊んでいた その2年間はレッスン以外に週に3回は彼と会って話していたし スペイン語の先生でもあった 彼の家に行くと レッスンと言うか ほぼ1日中彼の家でギターを一緒に弾いて遊んでいた 昼には彼の元・奥さんが作るスープを飲んだ 奥さんが家にいない時にはインスタントラーメンを作って食べた事を思い出す 今思えば 料理は上手だったし 包丁も使えて 人参の皮のむき方が上手だった

一緒にコンサートをした事もあったが そういう事より 彼の誕生日会で一緒に弾いた事や 私の誕生日の日に当時住んでいたアパートまで突然来てくれて 一緒にギターを弾いてくれた事をよく覚えている

あの日日は二度と戻らない とはわかっていた

ほぼ誰にも認められず 理解されず もがいていた いつも不安そうで 寂しそうだった 「楽譜を出版したいので文化庁の助成金を待っているんだ」 「若者にギターを教えて応援したい」 と言っていた彼の事を思い出す 自分以外の生徒に会った事はなく どうやらあと1人しか生徒はいないらしい

そう言えば一曲委嘱した事もあった 難し過ぎて初演して以来演奏していない気がする あの譜面は一体どこにあるのだろうか

2007年以降はこちらも日本に戻り 彼とゆっくり会う事もなかった 最後に会ったのは確か2009年にリマで行われた ICPNA国際ギターフェスティバルだった 来るとは知らなかったので驚いた 彼のPayrulla payrunを演奏し 演奏後にちょっと話そうと思ったら 終演後サッと消えていた

今となって振り返れば あの頃は彼の状況も変化している時期だったが 当時は知るよしもなかった

そのうち彼を訪ねる日が来るので その時に話そう

皮肉と怒りをこめて挑戦する/忘れられない/あの目

しもた屋之噺(121)

杉山洋一

久しく休んでいた学校の授業も今日から再開。外はまだ暗闇ですが、拙宅の傍らを一番電車が走り抜けてゆきました。ジャンベッリーノの通りをナポリ広場まで歩いて、帰りに出来立てのパンと朝食用の菓子パンを購うのが日課で、そろそろパンも焼き上がる頃かと思います。上着を羽織って出かけてこようと思います。

2012年1月X日 02:25
元旦。丸一日ノーノのCantiの譜読み。昔使った楽譜が突然本棚から姿を顕す。自分の古い書込みに、余りに雑な当時の勉強の様子が浮上る。ドナトーニはノーノの音列作法を最後まで嫌っていたが、ノーノの無骨でプリミティブな音の並びこそ、ノーノの魅力ではないか。
同日10:00
今朝早く散歩をすると、爆竹だらけの昨日の歩道が綺麗に片付けられている。パン屋の親父が、カーニバルのとき食べる「キャッケレ」という揚げ菓子を店頭に並べた。「クリスマスが終わったとおもったら、もうカーニバル気分かい」と客に言わせたいがためだという。いみじくも、後から入ってきたご婦人が一字一句違わず文句を垂れて、一同声をあげてわらった。昨日の夜明け前、道ですれちがった男に「新年おめでとう」と思いがけず声をかけられる。

1月X日 08:30
夢に三善先生やI先生、N君が出てきた。夢で、大学入学当時、同期の作曲仲間でずば抜けていた別のN君の話をしている。彼はしばらくして学校を出て自分の活動を始めた。大学の頃、作曲仲間の間では商業音楽の憧れがとても強かった。当時はまだ社会は潤っていて、ちょっとしたコマーシャルでもフルオーケストラで録らせてもらったりした。2分ほどのスコアをかき、パート譜も徹夜で書いてスタジオに通った。N君は当時既にNHKドラマの主題歌など書き、和音もアレンジも垢抜けていた。作曲仲間通しでいかに平易な旋律にテンションの高いコードをつけられるかを競い合い、武満さんの映画音楽やポップソングは、我々の憧れだった。「どですかでん」や「波の盆」、「はなれ瞽女おりん」など我先にと真似を試み、同時に中川さんはコマーシャル音楽に新しいジャンルを確立しつつあった。そんな話を夢で恩師と語り合い、若い頃胸を躍らせ音楽と付き合った感覚が甦ってくる。

池谷裕二、糸井重里共著の「海馬」に出てくる、脳はパターン化して理解し記憶する話を、ノーノの「Incontri」を譜読みしながら思い出す。この作品は、全体が彼がよく使う鏡像形で、臍から前後に読みひろげ構造を把握する。便宜的にフレーズを決めると、今度は音楽がそのようにしか眺められなくなるのが不思議だ。観念の固定化、音楽のロールシャハテスト。古典であっても、フレーズを一度決めツボに填まれば、そのようにしか感じられなくなるし、調性も決めてしまうと、その色でしか感じられなくなる。

ノーノのように、強弱や長い音符のクレッシェンドで音楽のドラマを形作るのは、ドナトーニにとっては姑息な手段だった。音符を書く「手」そのものが満足できるかどうかの問題だろう。改めて眺めると、ノーノの初期作と「プロメテオ」の音の質感や和音の手触りは存外に近しいことに驚く。古いノーノの楽譜を拡大し顕微鏡で内部に走る神経を切り出してフェルマータをつけると、それはちょうど時代をくぐるトンネルになって、プロメテオの胎内へつながっている。ドナトーニもノーノも、まったく違う音の真実を信じていたが、恐らくどちらも正しかったと演奏してみて思うのは、どちらも発された音に魂が宿る瞬間があるから。魂の種類は明らかに違ったけれど。義父が写生した熱川の風景を額にいれ、古い燕尾を直す端切れを買いにゆく。

1月X日 0:40
満月がうつくしい。漸くブーレーズのフレーズが音楽的に感じられるようになってくる。音の知覚が、表面的なデジタルなものから、身体の奥でアナログ変換される感じに変化は、せいぜいそうなってほしい、という希望に近いもの。元来自分の身体になかった細胞が、少しずつ身体へ染みこんでくる。ブーレーズの解釈について、何ヶ月も悩むとは思わなかった。自分が作曲者の演奏スタイルと違って構わないか、自分なりの納得する落とし所を見つけるのに、時間がかかった。ユニヴァーサルの出版譜の最後に付録されている、作曲中の自筆譜のタクトゥスと浄書譜との相違が、自分の解釈を推し進める決めてになった。ドビュッシーと同じ。

作曲時の均質化された一定のタクトゥスを正当化できるよう全体を眺めなおし、現実に即した配分をかんがえる。指揮者がさまざまなオプションから選び、演奏してゆかなければならないから、当然作曲者と演奏内容が変わることが作曲者の希望に違いない、と自分に言い聞かせて、楽譜を読み進む。際限なく書き込まれているルバート記号の実現は、リハーサル時間も制限とのせめぎ合いになるだろう。

楽譜をよみ練習していると、作曲者としてのブーレーズと演奏者としてのブーレーズが、くっきりと別の次元として浮上ってくるようになった。こんな風にして読むフランス音楽は、相当フランスのエスプリからかけ離れ、イタリアの田舎臭さが充満しているだろう。それがいいとも思わないが、ここで習った楽譜の勉強は、クラシックであろうと現代作品であろうと、こんな不恰好なものだった。

1月X日 02:00
ブーレーズの勉強を終え、寝る前にメールをチェックすると、コントラバスのスコダニッビオの訃報がとどいた。正確には何のコメントもなく、新聞記事が転送されてきただけ。「さようなら、ステファノ」とだけ書いてあり写真が張ってある。いつもお茶目な冗談を飛ばす彼のことで、最初はずいぶん質の悪い冗談だとおもったのだが、記事を読むと、冗談でもなんでもなく、訃報だった。
同日15:35
朝、小学校を遅刻させ、保険局で息子の予防接種。今日の接種内容のカルテに納得できない女医さん二人が、わざわざ自ら二年前のカルテを探してきて疑問点を解決してくれる。15分ほど治療はストップするが、誰も文句を言わない。隣の部屋で家人が「焔に向かって」を練習していて、ペダルを外し速度を落とし内声を浮立たせる。まるでミヨーのブラジル音楽のような響きがして、改めてスクリャービンはリズムのないジャズコードだったとを思い出す。ブーレーズの共通音と中心音をマークし直す。これで少しは楽譜から音が浮ぶようになるか。

1月X日 01:00
機内は驚くほど空いている。グラーツ辺りを通過中酷く乱高下してジェットコースターさながら。そんな中でブーレーズの楽譜を開くと、無意識に「頭の歓び」という言葉を反芻している。作曲とは純粋に「頭が歓ぶ」行為で、楽譜を読み下す行為も等しく「頭の歓び」だと思う。頭が歓んでくれているお陰で、ジェットコースターも気にならない。

1月X日 01:00
お濠端のスタジオでラジオの収録を終えて、癌で片肺を全摘出したA先生に会いにでかけた。目の前にずいぶん痩せた恩師がいて、笑顔で話していても心で涙がながれ、時々それが目からこぼれそうになるのを堪える。久しぶりにT駅を降りて通い馴れた道を探すうち、路頭に迷う。親同然に可愛がって頂いた恩師を何年も訪れない間に家が建ち並び、風景はすっかり変わり果てていた。言葉をうしない、暗闇で自責の念に押しつぶされる。

1月X日 09:20
東京に初雪が降った。
両手を使って指揮するのは、不器用な人間には残酷な仕打ちだ。譜めくりすら馴れるまでは苦労するし、現に今でも失敗する。毎朝歩きながら左手の練習をするのだが、生まれつき左利きの癖に、右手と独立した動きが出来ない。生徒の苦労を、こんな風に実感させられるとは思わなかった。ブーレーズはアウフタクトの細かい指示をたくさん書き付けているが、こんな曲でも強拍と弱拍、フレーズが古典的であることにヨーロッパの伝統を感じる。イワトに悠治さんたちのリハーサルを覗きにでかけ、平野さんが出してくださったニッキ入り暖かいリンゴジュースが、身体の芯に染みる。

1月X日 23:00
リハーサルを終え町田に両親を訪ねる。夕食を終え三軒茶屋に戻ろうと外に出ると、大雪。昨日は「膀胱切開手術図」の演奏会へイワトに出掛け、そのまま流れで神保町の「源来酒家」へ。新節を控えた大晦日で、8年寝かせた紹興酒の樽を割って振舞ってくださる。嬌声につられ見物にでかけた平野さんの戦利品。実のところ、昨日の練習が終わり九段下へ向かおうとすると財布に1銭もなく、海外のカードでキャッシングできるATMを探して、上野の街を小一時間放浪した。

1月X日13:55
機内では、無心でエマニュエル・バッハの譜読み。和声を分析し書込みをしていると、ローマに着く2時間ほど前に赤ペンのインクが切れて、仕方なく眠る。読込むほどに、大学時代エマニュエル・バッハばかり読んでいた頃の喜びを思い出す。目まぐるしい和音の連結は、人間の豊かな表情に似ている。一句一句、顔の表情に抑揚をつけて話すさまが目に浮び、話しながら目尻に皺が寄ったかと思えば表情がくぐもり、目の奥が輝く。気がつくと、無意識にスコダニッビオの少年のような表情を思い出していた。最後に彼に会ったとき、まだ彼は元気で、ボローニャの楽器博物館の2階の広間で、恥ずかしそうに頭を掻きながら自作を指揮していて、「指揮をするのが子どもの頃からの夢でさ。下手なのはよくわかっているんだけど」と話す表情は、純粋であどけなかった。

あれから暫くして、筋萎縮性側索硬化症で動けなくなり、寝たきりの彼の部屋とテレビ電話で繋いでリハーサルをしていると人づてに聞いた。連絡を取ろうと思ったが、言葉が見つからなくてそのままになってしまった。初めて彼と演奏したのは、随分前のことでルクセンブルグだった。ドナトーニの複雑なピッチカートを、ジャズでもやるように嬉々として弾き、夜はバーに繰り出しビール片手に怪しげなテレビを一緒に眺めた。あれから何度か一緒に演奏したし彼の曲も演奏したけれど、ベッドから動けなくなった彼と会う機会もなかった。彼から誘われ来月マチェラータに演奏に出掛けることになり、最後に来たメールには「grazie caro yoichi」とだけ書きつけてあり、すべて小文字でやっと書いた感じが伝わって胸が痛む。おそらく奥さんが代筆したのではないだろう。どんな思いでこのエマニュエル・バッハをマチェラータで演奏することになるのか。

サントリー本番の朝、息子に届ける三軒茶屋の小学校の宿題を受取りに、朝早く担任のT先生を訪ねると道路は一面氷ついていた。校門前の床屋二階のベランダが道路に崩落していて、驚く。教室の廊下に児童の書初めが貼られていて、それぞれ字が個性を主張していていずれも力作だった。本番前に舞台裏でいただいた大福餅の旨かったこと。久しぶりに会う旧友の笑顔。Sと抱擁しようとして、互いに強か顔をぶつけて大笑いする。ミラノに戻ると、庭の樹には蕾がたくさん膨らんでいた。

(1月28日ミラノにて)

ケンタック(その2)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

「ケンタック」
これといって強める口調でもなく先ほどと同じ答えが帰ってきた。再びこのように答えるのを聞くと、これ以上訊いたら何か咎められそうな気がして、黙るしかない。黙るといってもまだ頭の中は訊きたいことがやまほど飛び交っているのだが。

わたしが沈黙したことで二人のあいだの空気がふつうに戻った。関係が良好なあいだにわたしたちはことばを交わす。

わたしがここまでやって来たのは、なぜか名前を聞き出せなかったある中年の男のことばからだった。彼は指さしながらはなした。どこか田舎訛りのはなし方なのだが、それがどこの訛りなのかどうしてもわからないのだった。

そこは家が何戸もないような新しい集落でにぎわいがない。お寺も学校も電信柱さえもが見あたらない。人里離れた山林の村落で、何もない広いところにある。村人がすでに使わなくなった畑のようにも見える。広い丘陵があるがたいして高くも険しくもない。谷にはすっかり乾いた渓流がある。さまざまな昆虫がいる。木々はあちこちにまばらだ。もしもたまたま通りがかって休憩のつもりで景色を眺めるとしたら、そんなに悪くはない。かといって大変美しいとか、住みたくなるとか、何かそんなようなレベルだとはいえない。

一体どこなのか、何郡なのか、何県なのか、わたしは知りたいとは思わない。わたしの対話相手との間だけで内密にしておけばいい。村の名前、場所、ですら奇妙だし、それがどういう過去をもってきたのか知らなくてもかまわない。そう、わたしはまた夢の世界に足を踏み入れたようなのだ。わたしは見たままあるがままでよくて、それ以上に詳しく知りたいという願望はない。その後に続く不可思議な物語、それが興味深いのは別として。(つづく)