ジャワ舞踊家(ソロ様式)列伝(2)

冨岡三智

今回は、ガリマン氏とマリディ氏という2人の舞踊家を紹介したい。ロカナンタ社から出ているスラカルタ様式のジャワ舞踊のカセットを見ると、たいていの舞踊作品の作者はガリマンか、マリディか、またはPKJT/ASKI(ペーカージェーテー・アスキーと読む)、すなわち現在の芸大になっている。ロカナンタ社から舞踊カセットが発売されるようになるのは1972年からで、それ以前に活躍した人の作品はほとんど残ってないのだが(前回紹介したクスモケソウォの作品はマリディ監修のカセットに収録されている)、ジャワ舞踊が本当に発展したのは1970年から始まる宮廷舞踊の解禁後なのである。ガリマンとマリディが解禁された古典舞踊に学んで、さまざまな新しい古典を生み出し、それが芸術高校や芸大の教育にも大きな影響を与え、現在のジャワ舞踊のレパートリーが形成されたと言っていい。

この2人の特徴は、男性荒型、男性優形、女性舞踊のすべての型で作品を作っている上に、その作風も幅広いこと。さらに新しい舞踊ジャンルも切り開いていることだ。こういうタイプの巨匠は今後もう出ないだろうなと思われる。

1.ガリマン (S.Ngaliman Condropangrawit,1919〜1999)

ガリマンは一般的には舞踊家として有名だが、スラカルタ宮廷では太鼓とクプラ(舞踊の合図を出す楽器)を担当する音楽家で、宮廷から下賜された名前、チョンドロパングラウィットのパングラウィットが音楽家であることを表している。また、宮廷音楽家が住むクムラヤンという地域に住んでいた。

1950年に設立されたインドネシア初の音楽コンセルバトリ(後のSMKI)の第1期生として卒業、その後スタッフになっている。音楽と舞踊の両方に通じた舞踊教育者として、ソロはもとよりジョグジャやジャカルタでも大きな影響を与える。

ガリマンは、宮廷舞踊スリンピ、ブドヨ、ウィレンといった舞踊の掘り起こしに参加し、古い舞踊の復曲にも取り組んでいる。それらの演目の伴奏曲のカセットは市販されていないが、芸大には自主録音が残されていて、授業で習うことができる。それらの古い宮廷舞踊のエッセンスを継承した「レトノ・ティナンディン(女性2人の戦いの舞踊)」、「モンゴロ・ルトノ(女性4人の戦いの舞踊)」、「パムンカス(男性1人の舞踊)」などが、ガリマン作品の真骨頂だと言える。

その一方で、1970年代当時としては大胆に太鼓の手組をアレンジした「ガンビョン・パレアノム」が有名。この演目はもともとマンクヌガラン王宮で作られたものだが、ガリマンのアレンジで一躍有名になり、結婚式の定番舞踊となった。ガリマンの後、何人もの舞踊家がアレンジしている。ソロでは芸術高校がガリマン版、芸大が芸大版で教えるが、今やソロでは芸大版の方が有名。しかし、ジョグジャやジャカルタでは、「パレアノム」といえばガリマン版である。

2.マリディ (S.Maridi Tondokusumo,1932〜2005)

マリディはスラカルタ宮廷舞踊家で、宮廷から下賜された名前がトンドクスモである。彼は教育者でなく純粋な舞踊家として生きた人で、1961年に初めてスカルノ大統領の前で踊って(本人の記憶による)以来、大統領のお気に入りの舞踊家となった。2007年、スカルノお気に入りの芸術家5人がソロ市庁舎でメガワティ元大統領(スカルノの長女)から顕彰されたときも、その5人のうちの1人に入っている。

小柄なので、若い頃(1950年代頃まで)はチャキル(羅刹)やブギスなどを主に踊っていたが、晩年のマリディの踊りと言えば何と言っても男性荒型の伝統舞踊「クロノ・トペン」が代表だろう。煩悩を捨てきれず、スカルタジ姫に執着するクロノの心情の複雑な表現は、マリディが白眉と言える。とはいえ、数少ない男性優形舞踊家としても、マリディは定評があった。

マリディ氏の作品は、ガリマン作品の禁欲的な作風に比べると、ロマンチックでドラマチックである。ありふれた設定の舞踊が、マリディ氏が作品化すると、やけに感動的なドラマになる。たとえば「メナッ・コンチャル」というマンクヌガラン王宮で作られた舞踊。元々はラングン・ドリアン(女性だけによる舞踊歌劇、踊り手が歌いながら踊る)のスタイルで作られた舞踊だったのだが、マリディはこの作者の許可を得て再振付している。この作品は、出陣する男性武将の、恋する女性に対する心情を切々と描いたものだが、曲中にある女性舞踊家の独唱部分が男性歌手の歌に代えられ、最後にサンパ(ワヤンで場面転換や入退場などに使われる曲)を新たにつけて、男性が出陣していく様を暗示している(物語ではこの後戦死する)。その結果、ともすれば「王が男装した女性を鑑賞して楽しむ」舞踊になりがちな作品が、男性の心情を描いたドラマになった。

また、今や結婚式の定番となった男女による舞踊「カロンセ」もマリディの作。科白なしで、男女のドゥエットの振付だけで愛の物語を踊るというのは、それまでのジャワ舞踊にはなかったジャンルだ。たおやかな女性の表現はスリンピ風、最後の2人の愛の交歓といったシーンではゴレック風と、ソロ様式の舞踊のいろんな要素が折り込まれている。芸大では同様の作品が多く作られて一つのジャンルとなり、舞踊科学生の重要なアルバイト演目となった。

ケンタック(その5)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

ザワザワと翼が風に当たる音がしてくる。渓流のある谷底は広かった。風は次第、次第に強くなってくる。何千何百という鳥の群れが風と戯れながら飛び回っているのが目に入った。君は信じるだろうか、大きな鳥、小さな鳥、黒、白、茶、紺、緑、尾の長いの、丸いの、短いの、が騒がしい音で飛び回っているのを。このように多種多様な鳥たちはいったいどこから来たのだろう。。。想像だにしなかったこの場所が何故また彼らの集まってくるところになったのか。。。生きているうちにこんなものに出くわすと誰が思っただろう。かれらは騒々しく、楽しそうに、つつきあって、競い合う。枯草の根も枯葉も入り混じって風に舞っている。わたしはといえば、何千の翼とくちばしの混沌と粉塵と自分自身の呼吸のただ中に深く沈んでいた。

一時間ほども過ぎただろうか、わたしはそれまで起きたことに疲れていたようだ。風と何千もの鳥たち、名も知らない3人の人たち、尾根にある住む人のない小屋。混沌と騒ぎが過ぎた後では時間があたかもいっとき止まったかのようだった。

静けさが訪れてきた。昆虫の羽音が歌のリズムのように聞こえてくる。やもりが今にも朽ち落ちそうな古い竹の壁で小声で挨拶している。自分が身動きする音がごそごそいう。蟻に噛まれた腕の内側が赤くなっていてひりひりとかゆい。

目が覚めたときはすっかり夕方だった。目を開けると金色の美しい夕陽が柔らかくわたしを包んでいた。

意識がもどるや否やわたしは何かに怯えるように身の毛がよだった。

わたしがまどろんでいたのは荒れた畑の端にある廃屋で、遠くから木の葉の音がしてわたしを起こしてくれた。二本の腕で這い上がるようにしてようやく白昼夢から身を動かすことができるようになった。

わたしが実際に泊まるところはここから2、3キロ離れていた。そこは森林局の人がいて寝るところもちゃんとしている。たぶんわたしを気遣って待っている人たちもいるはずだ。

でもここ、わたしが不覚にも長い時間眠ってしまったところ、は実に何もない。ただ乾燥と草の切り株、そして世にも不思議なわたしの夢があるのみだ。(完)

(初出誌:週刊『マティチョン』2004年11月21日号)

アジアのごはん(46)ヒンドゥー教とベジタリアン

森下ヒバリ

インドのプシュカルという小さな町に行って来た。デリーからジャイプルへ行って、型押し染めのいい布なんかがほしいな、とインド西部への旅に出たのだが、首都デリーの喧騒と砂ぼこりにほとほと疲れ果てた。そんなときに小耳に挟んだのが「プシュカルは静かな神さまの町」という話だった。デリーからジャイプルまでの列車のチケットはもう買ってあったが、ぱらぱらとガイドブックをめくっていると、ジャイプルからもう2時間そのまま同じ列車に乗っていればプシュカルの近くのアジメールという町に行けると分かった。
「列車の中でアジメールまでキップの延長が出来たら行ってみいひん?」
「プシュカルっていいとこなの?」
なんとなくインドに来てから連れが疑い深い。
「ヒンドゥー教の聖地らしいよ。湖があって、そこのまわりに沐浴場があって町があって、中心街には車が入れないらしいから、静かなんちゃう」「そこ行こう!」

満員だったシャダプディ・エクスプレスはジャイプルでほとんどの客が降りた。列車がジャイプルを出ると、窓の景色は茫漠とした荒地や果樹の畑に変わり、畑の中をラクダが歩いているのも見える。砂漠地帯に入ったのである。アジメールからオートリキシャに乗り、プシュカルを目指す。ここからは入れないからと、幹線道路から町に入るところでオートリキシャを降ろされた。荷物を持って湖方向に下るように歩いていくと、たしかに車が走っていない。静かだ。空気もいい。インド人はどうしてああもクラクションとエンジンふかしが好きなのか・・。ただし、ここも空気は乾燥し砂ぼこりが多くのどが苦しい。

「プシュカルはヒンドゥー教の聖地で、インドで唯一、ブラフマンを祀っているお寺があるんだって・・え、しまった!」「どうしたの?」
安いが快適な宿を見つけ、荷物を開いてガイドブックを開いて読んでいると、大変なことが書いてあった。「プシュカルは聖地なので、お酒は売っていない・・。しかも菜食料理店しかない・・んやって!」「ビール飲めへんの? 店の奥で売ってるとかないやろか」

いろいろ調べてみたが、町の住人はみな信心深いヒンドゥー教徒らしく、お酒というと苦々しい顔をされ、やっと、町中に一軒だけ4階建てのビルの屋上にあるレストランでビールが飲めると教えてくれた。そこは巨大なテレビスクリーンがあり、ピザやパスタが売り物のレゲエバーであるらしい。地上から遠いので許されるのかしらん。そこにたむろする旅行者をこころよく思っていないことが、ありありと顔に出ている。

かなりデリーで疲れていたので、まあここらでお酒を抜いて養生するのもいいかもしれない。しかし、問題はベジタリアンしかないという食生活だ。野菜はいいのだが、インドのベジタリアン料理とは、じつは乳製品を大量に使う。

インド人は、80%がヒンドゥー教徒(13%がイスラム教徒)である。ヒンドゥー教には生物の命を奪わない不殺生戒(アヒンサー)という教えがあり、ヒンドゥー教徒の多くが菜食主義である。もちろん、なかには鶏肉や卵(無精卵)を食べる人もいるが、高級食材でもあり少数派。牛は聖なる神様のお使いなので、決して肉は食べない。豚も、バリ島のヒンドゥー教徒はごちそうとしているが、インドのヒンドゥー教徒が食べているのを見たことがない。豚肉は中華料理屋にしかない。魚は海岸地方の人たちだけが食べる。そして、数の上で最も多いのが、野菜と豆と穀物と果実と乳製品のみという人たち。牛や山羊のミルクは、命を奪わずに採取できるおいしくて栄養豊かな神様のおくりものなのである。

メニューにベジタリアンとしてあっても細かく内容を聞かないと、カテージチーズの天ぷらだったり、煮込みだったり、仕上げにチーズがまぶされていたり。しかも日常的な飲み物はミルク煮出し紅茶のチャイである。お菓子もチーズやミルクの加工品だ。ヨーグルトもよく使われる。カレー料理以外の旅行向けの店のメニューもチーズたっぷりのピザにパスタ、が主流。

わたしには乳製品にアレルギーがあるので、このベジタリアン事情はかなり面倒だ。しかも乳製品がきらいなわけでも、口が拒否するわけでもないので、乳製品を取らないようにする強い自制心が必要なのである。少しぐらいはいいかと、調子に乗って食べたり飲んだりすると、苦しくなって寝込んだり、吐いたりしてしまう。
アレルギーがない人でも、アジア人、日本人の大人ならばほぼ乳糖分解酵素を持っていないので、インド人のペースでチャイを飲み、チーズを食べていればそのうちおなかを壊す運命にある。ちなみに栄養吸収に充分な乳糖分解酵素を持っている人は日本人ではわずか5%、いっぽうインド人は60%。おそらく、インド人でもあまり酵素を持っていない人たちは、牧畜民族のアーリア系がインドに侵入してくる以前から住んでいた先住民族の血を引く南部のドラヴィタ語族の人たちや、最北部のアジア系山岳民族の人たちであろう。

しかし、わたしはプシュカルで乳製品でなく、焼きそばに打ちのめされることになった。ちょっとしたレストランでは、カレー料理のほかにわりと一般的にインド中華と呼ばれる料理がある。中華に近いチベット料理屋もある。プシュカルについた夜、チベットレストランに出かけ、蒸し餃子のベジタブル・モモと焼きそばを頼んだ。連れは、毎食カレーというのがたいへん苦痛らしく、なるべくカレー以外のものがあればそれを注文する。

出てきた料理は、オイリーにしないでと頼んだのにたいへん脂っこかった。しかし、お腹が空いていたので、がまんして焼きそばをかなり食べた。蒸しモモはまずかったので、ひとつしか食べられなかった。その夜、わたしは胃もたれに苦しみ、夜中に吐き、翌日から熱を出して寝込んでしまった。そう、インドの料理は乳製品をたくさん使うだけでなく、油もたっぷり使うのである。とくにインド中華は油が多い。寝込んでいたので、2日間はほぼ絶食。しばらくはお酒など見たくもない状態だったので、聖地プシュカルでのアルコール抜きはまったく苦痛なく遂行された。やっと回復してジャイプルの町へ移動したが、ジャイプルの宿の浄水器でろ過したドリンクウォーターが硬水すぎて、今度はお腹を壊した。やれやれ。

タイで入手していたドイツ製のメディカル・チャコール(医療用活性炭)を飲んで、翌日には収まったが、そのとき宿の朝食に出た野菜のカレースープのおいしかったこと。しみじみとした野菜の滋味。そしてターメリックや生姜などのおだやかなスパイス。このスパイスを身体が必要としているのがよく分かる。
「ねえ、インド中華ばっかり食べてるから調子わるいんちゃうやろか」
「え、でもカレーばっかりは・・」
「ターメリックとかのカレーのスパイスがここでは身体に必要やわ」

その土地の食文化には、やはりその土地にあったスパイスや調理法が息づいている。そのままでは体質が違うので無理があるが、油を少な目とオーダーし、乳製品のないベジタリアンで、シンプルなインド式食生活にするのが、インドを旅する秘訣かもしれない。カレーのスパイスはやはり、インドで暮らすのに必要なものなのだ。

わたしが倒れている間に、揚げ餃子のフライド・モモばかり食べ、硬水も平気とゴクゴク飲んでいた連れは、タイのバンコクに戻ったとたん高熱を出して倒れたのであった。

セレクト・アプリ

大野晋

会議を終えた帰り、通り道の丸の内の丸善にふらりと立ち寄った。

お目当はいつものように、4階の松丸本舗。本のセレクトショップよろしく様々な書籍が興味のリンクに沿って棚に陳列されている。ある意味、雑然と並ぶ書棚を物色していると一般的な書店にはない宝探し感を味わうことができる。本来、書店の棚はそのような店員や店主の匂いがしていたものだが、データ化と計画配本が書店の個性を無くしたのだなあなどと、つい最近、わくわくしない書店について考察していて気付いた。

まあ、面白味のない書棚といえば、青空文庫の書棚も似たようなものだ。著者名や書籍名によった索引が並ぶだけだから、新しい知に出会うために探検する楽しみはない。だから、ランキングを見ていても似たような名前が毎月並ぶことになる。

ところがときどき、そんなアクセスランキングに異変が起きることがある。それはドラマや映画などで原作として取り上げられた時だ。ふと、ここまで考えて面白いことを考えた。お勧めの青空文庫の書籍を提示するリーダーを作ったらどうだろう? 探検する楽しみや新しい著者と出会う機会を作ってくれるアプリだ。なかなか、面白いと思うのだがいかがでしょうか。

ちなみに、松丸本舗で、エンデのモモの特装版とモモとはてしない物語の文庫版、エリック&ジマーマンの「ルールズ・オブ・プレイ上」を購入。その他に3階で、多様性の植物学(全3巻)と大量の買い物をして帰ったのでした。

ジョージ・ラッセルのFar-out Jazz

三橋圭介

ジョージ・ラッセル(1923-2009)を最初にきいたのはずいぶん昔、エリック・ドルフィーを集中してきいていたころ、アルバム”Ezz-Thetics”(1961)だった。室内楽を思わせる構成的なアレンジのなかで空間を押し広げるように舞うドルフィーのサックスに圧倒された。ただ、マイルス・デイヴィスのアルバム”Kind of Blue”(1959)のモード・ジャズとはずいぶん違う。一般的にモード・ジャズの特徴とされる「劇的ドラマのない浮遊感・宙吊り感」は利点であり弱点でもあるが、その弱点が克服されているとも感じた。その後、いろいろなジャズをきいてきたが、ラッセルが提唱したモード・ジャズがビル・エヴァンスやマイルスを通してモダン・ジャズに吸収されていくプロセスは、その後の歴史(ジョン・コルトレーン、ドルフィー、エヴァンス、マッコイ・タイナー、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーターなど)を見ても明らかだろう。しかしその中心にラッセルはいなかった。

ラッセルはシンシナティでデキシーランド・ジャズに目覚め、16歳で学校をやめ、夜の世界に足を染める。その後、ウェーベルン弟子シュテファン・ヴォルペに数カ月作曲を学び、ドラマーとしてプロの道へ。しかしマックス・ローチにプロになるのは無理だといわれ、作曲、ピアニスト、バンド・リーダーとして本格的な活動をはじめた。その最初がディジー・ガレスピーのビック・バンドでの仕事、Cubano-be Cubano-Bop(1947年)の作・編曲だった。キューバ音楽を取り込んだ最初の作品であるだけでなく、モードを使った最初の作品でもある。そして、仲間のマイルスとの交流のなかで「あらゆるコード変化を学びたい」という問にたいして、1953年、ラッセルは”Lydian Chromatic Concept”という理論書で答えた。

マイルスの有名なSo What、これはラッセルから聞いたモードのアイディアを拝借しているが、使っているのは教会旋法に由来する2つのドリアン・モードで、ラッセルのモード理論ではない(録音時に譜面台においてあったモードを書いた楽譜の写真からも判断できる)。ラッセルの理論はいわゆる教会旋法とは別もので、最も基本的なCのコード(ド・ミ・ソ)をよりよく表すものは、Cのメジャー・スケール(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ)の音ではなく、Gのメジャー・スケール(ド・レ・ミ・#ファ・ソ・ラ・シ[=ラッセルのいうCリディアン:5度の積み重ね])の音という発見にはじまっている。それはコード・モードといえるもので、コードから導き出されるリディアンの7つのモード(リディアン・アーギュメント、リディアン♭7など)[+2つのメジャー・スケールとブルース・スケール]に、すべてを内包するリディアン・クロマティック(Cからはじまる12音によるスケール)よって調性(協和=in-going)の引力圏から無調(不協和=out-going)世界へと開かれている。

この理論をもってラッセルは1956年にはじめて自分名義のアルバム”The Jazz Workshop”を録音する。エヴァンス、ポール・モチアン、アート・ファーマーなどが参加し、Ezz-Theticsなどの曲でコード・モードによる音楽をくり広げているが、そこにはすでにその後のラッセルの発展の基本となるほとんどすべてがある。ビック・バンドを思わせるアンサンブルの骨格(楽譜に書かれている部分)とソリストの即興の自由であり、全体をバランスすることで揺れ動くフォームを作りだしている。骨格にはコード、音色とリズムが周到に計算され、即興はコードから導かれるリディアンの可能性を自由に探求できる。out-goingのときもあれば、in-goingのときもある。編成が大きくなることもあるが、基本的な考え方は同じで、最も小さくてセクステットが基本に考えられている。セクステットの場合、ラッセルは通常ピアノを弾いているが、しかしいわゆるジャズ・ピアニストの即興とは違う。けっして派手で技巧的なメロディーを弾かない。波立つような和音(音色)、楔のリズムなどが主で、ソロの即興に付けたり、離れたりしながら色彩とリズムをリディアン・クロマティック・コンセプトで誘導している。”The Jazz Workshop”ではエヴァンスはその役割も行なっており、即興部分以外はおそらく周到に楽譜に書かれて作曲されている。

こうした意味でも、ラッセルは他の人より作曲家の側面が強いが、1957年、ガンサー・シュラーが提唱したジャズとクラシックの融合を試みた「サードストリーム(第3の流れ)」運動への参加は必然だった。ブランダイス大学からの委嘱で作曲されたAll About Rosieは、黒人の子どもの歌を変奏風に仕立てたモードによる3楽章作品で、ヴォルペの影響が感じられる。その後、サードストリーム自体は下火になっていくが、ラッセルは独自にその道を進む。1959年のアルバム”Jazz in the Space Age”、このジャズの未来を模索した作品は、エヴァンスとポール・ブレイによるダブル・コンチェルトを思わせる組曲で、”Lydian Chromatic Concept”を全面に打ち出した実験作となった。Chromatic Universe Part 1~3は左・右のピアノが調性の引力から自由に振る舞いながら、パンクロマティックな対話を交わしていく。しかしジャズの伝統的な輝かしいブラスの響き、そして強烈にスウィングするリズムがジャズであることを保証している。それはちょうどマイルスが”Kind of Blue”を、そしてオーネット・コールマンがフリーの先駆けとなる”The Shape of Jazz to Come”を出した年であり、これらはジャズの「来るべき」の転換点となった。

転換をなす3つのアルバムのなかで最も前衛色が強いのがラッセルだろう。そこにはスウィング、ハード・バップ、フリー・ジャズ、民俗音楽、クラシック(現代音楽)などの要素がミックスされているが、それを可能にしたのが”Lydian Chromatic Concept”だ。ラッセルはこのあとリヴァーサイドで”Ezz-Thetics”などを発表するが、1964年以降、北欧を拠点に活動し、シュトックハウゼンのモメント形式など影響を感じさせる実験的な作品、”Othello Ballet Suite”(1967)”Listen to Silence”(1971)などを発表。1969年のアメリカ帰国後はニューイングランド音楽院などで教えながら、セクステットやリヴィング・タイム・オーケストラで活動した。

武満徹は20世紀に発明された二大音楽理論として、メシアンの「わが音楽語法」とラッセルの”Lydian Chromatic Concept”をあげた。ラッセルはコードからモードを探求することで、パンクロマティックをトーナル・カラーのひとつの要素と捉え、out-goingに音の世界を切り開いた。武満は無調からパンモーダルな響きの波によって「調性の海」へとたどり着いた。方向は逆向きとはいえ、結果として二人は同じパントーナルな音楽を実践した。ラッセルのコンセプトは純粋な理論であるが、プラクティカルな思考を重視している。”Lydian Chromatic Concept”は第1巻のみ出版されている。第2巻も存在するが、ラッセルの教えを受けなければ手に入れることはできない(かれはもういないが、弟子たちがやっているだろう)。そのこと自体が理論を秘教的な一子相伝のようにしてしまったともいえる。それはともかく、自ら作りあげた理論とその実践こそが、時代の新しいジャズへとラッセルを駆り立てた。

ラッセルはモダン・ジャズ創造の真っ只なかにいながら、20世紀の作曲家のように音楽は発展しなければならないと考えた。だが、昔ながらのスウィングするリズムやきらびやかな楽器の音色を捨てることはできない。フリー・ジャズではなく、調性の引力を利用しながら、ジャズでありながらジャズを超えようとする何か。それがラッセルのFar-out Jazzだ。前にコルトレーンについてこんな風に書いた。「コルトレーンはコードのステップからモードを経てシーツ・オブ・サウンドを駆け抜けた。休息を知らないトレーン号は高みだけを見つめ、そこへ登りつめようとした。だが駆け登ろうと速度を速めれば速めるほど、硬直して沈殿していった(出口がないだけにそのひたむきな熱狂は感動的だ)」。ジョージ・ラッセルのFar-out Jazzに、羽ばたきの瞬間が感じられないだろうか…。最近、”Lydian Chromatic Concept”を読みはじめた。

梅雨です

仲宗根浩

試験ではちゃんと聞こえたJ-ALERTというもの、いざというとき聞こえないじゃないか! やる気のないことがわかったので、四月はひきこもることにした。

仕事以外、外出はしないでひたすら要らないものを捨てる。出てきたのがアップルのメッセージパッド130。あのニュートンOS。周辺機器も含めて捨て! これで我が家のアップル製品はガキのiPodのみ。それからまだ出てくる、必要のないフロッピーやCD-ROM類も多数捨て! これでパソコンまわりは少しすっきりした。部屋が少し広くなる。

そんなことをやっていたらザ・バンドのレヴォン・ヘルムの訃報をネットで見る。ついにザ・バンドのヴォーカル三人がいなくなった。中学生の頃、音楽誌でザ・バンドの解散コンサート「ラスト・ワルツ」のグラビアがかなりのページで掲載されていた。それを見たあとしばらくして発売された「ラスト・ワルツ」の三枚組LPを購入する。手っ取り早くいろんなミュージシャンを聴ける絶好のアルバムだった。ザ・バンドに関しては「ラスト・ワルツ」が最初で、それ以前のアルバムはかなりたってから聴いた。リチャード・マニュエル、リック・ダンコ、レヴォン・ヘルムという声質、スタイルも全然違う稀有のシンガーがいた奇跡的なグールプ。iTuneのなかに取り込んだロックバンドのプレイリストで、「The」をつけているのはザ・バンドだけ。The Band だけは別格。

久しぶりに中学の頃の友人からメールが来る。商社に勤めるやつがモスクワ赴任になり、集まるから熊本に来い、という。「ばかたれが〜、そぎゃん急に行けるわけなかろうが」と返信する。ロンドン、ニューヨークときて齢五十前にしてモスクワ。会社組織に属しながらも適当に距離を置きながらふらふら生きてきた人間にとっては別世界の話。

四月の沖縄はしーみー(清明)。うちは二十九日。その前日入梅の発表。前日にお墓の掃除に行き、当日は土砂降り。墓へ行き、お茶、水、花、お線香を供え、母親が雨のため墓前ではできないことを報告し、実家の仏壇で行う。初めての仏壇前での清明祭。

蒸し蒸しの季節がやってきた。

筍の味

植松眞人

ドーナツショップで声高に話す年輩の女性。「おばあちゃん」と声をかけても、決して間違いではなさそうな女性たちだが、きっとそう声をかけると無視されそうな若々しさではある。そんな女性たちが実に軽やかに話題を転がしながら楽しそうに笑っている。

ドーナツを頬張り、カフェオレを飲みながら、洋服の縞模様の話が顔に刻まれたシワの話になり、「目尻の横ジワがなぁ」と嘆く声に「横ジワならええがな。わたしら、縦にシワが出来はじめたがな」と、さほど嫌そうでもなく、むしろ自慢げな声が重なっていく。

どこからどんな道筋をたどったのか、気がつくと話題は筍。
「うちは、筍買うたことがないねん」
「なんでやのん、お金がないわけやなし」
「そくらいはあんねんけど」
 と、ここでひとしきり大笑い。
「京都のな、亀岡に住んでる友だちがいっつも送ってくれるねん」
「そら、買わんでもええわ」
「そやろ、そやからご近所にもわけてあげてな」
「うらやましいわあ。うちも筍大好きやねん。けど、友だちがおらへんもんやから、いっつも自分で買うんやわあ」
「ほな、送ったげるがな」
「いややわあ。催促したみたいな」
「してるがな」
「してるかしら」
と、またここで大笑い。

横で聞いていた私も、この展開にホッと一息ついて「よかったなあ。みんな筍が食べられて」と声をかけそうになってしまう。

「筍って、味せえへんことない?」
と、いままであまり口を開いていなかった女性が別の角度から大きめの爆弾を投下する。
せっかく筍はおいしいという大前提に盛り上がっていた話が、ぎくりと立ち止まる。しかし、そこはそれ、大阪のおばちゃんたちはなんとか話の進路を探っていく。

「筍、おいしいがな」
「おいしいねんけどもやな。なんやほな、筍って、どんな味? 言われたら、うまいこと言われへんことない?」
「いやあ、よう言わんわあ。うまいこと言うよ、私」
「どない言うの」
「さっぱりした中に、春の香りと、ちょっとした苦みがあるいうのかなあ」
 これには、そこにいた一同が大笑いする。
「そらあんた、テレビの見過ぎやわ」
「そやろか」
「そやそや、うまいこと言い過ぎて気色わるいわ」
 言われた本人も涙が出るほど笑っている。
「けど、確かにトマトとか、かぼちゃみたいに、はっきりした味とちゃうわなあ」
「そやな。カツオの出汁をきちんととって、この味が出ました、いう感じやもんな」
「うんうん、そやな」
「そやそや、ということは、おいしい出汁をとっといたら、筍いらんの?」
「そらあかんわ。それやったら、ただの出汁やがな」
「ほんまや、それが筍に染みこんで春らしい味になるんやがな」
と、もう一度笑って、またみんなが笑いながら筍の味を思い出そうとしているようだ。

私は私で、数日前に食べた筍の味を思い出していた。それは居酒屋の突き出しに供されたもので、くたくたになった海藻にからまった状態で表れた。いったい何度温め直したのかと聞きたくなるくらいに濃くなった味付けは、出汁の味も筍の味もせず、ただただ醤油辛いだけの代物だった。

あれを筍の味として思い出すことを私は思いとどまっているのだが、戸惑いながら、あのどうしようもない味を思い出そうともしている。何度も煮炊きされてどうしようもなくなった味の中には、本当に筍の味はなかったのだろうか。もしかしたら、しばらくまともな筍料理を食べていなかったせいで、筍の味そのものを忘れてしまっているだけなのかもしれない、などとも思えてきた。

ここで私は「筍って味せえへん」と言った先ほどの女性に目を向ける。もしかしたら、それが真実なのかもしれない、などと筍を巡って私の思考はぐるぐると回り始める。もしかしたら、隣のテーブルの女性たちの会話の中に、その答の片鱗でも浮かんでいるのではないかと、もう一度、彼女たちの会話に耳を傾けてみる。すると、彼女たちの話題はすでに、牛乳を温めた時に出来るあの膜は、湯葉と同じようなものなのか、ということに移ってしまっていた。

カーレースのサーキットのスタートラインで、エンストしてしまったレーサーのように、私は会話のカーチェイスを続ける彼女たちをぼんやりと見つめるのだった。

2012/04/30

言葉と音楽を聴きに札幌に出かける

若松恵子

4月10日に、言葉と音楽を聴くために札幌に出かけた。北海道新聞の夕刊に連載している天辰保文(あまたつ やすふみ)氏のコラム「音楽アラカルト」の連載600回を記念して、札幌市時計台ホールでトークライブが開かれたのだ。天辰保文氏はロックを中心に評論活動を行っていて、ニール・ヤングのライナーノートでその名前を覚えた。今回ゲストで呼ばれた仲井戸麗市の4枚組ボックスセットにも、とても心温かな文章を寄せている。

札幌は意外な暖かさで、地元の人たちはもうコートを脱いでいたけれど、公園にはたくさんの雪が残っていたし、開場前の列に並んでいた夕暮れの頃には風もずいぶん冷たかった。夜が近づくにつれて、大きな文字盤を照らす電燈が灯って、その灯りが空気の冷たさのせいか透き通ったように見えて、そんな小さな事も心に残ったのは、トークライブの全体に流れていた静かで確かな時間のせいだったかもしれない。

会場は、あの有名な時計台の2階。集まった皆は、日曜のミサに出席するみたいに4人掛けの木のベンチに座って、天辰保文と仲井戸麗市が選んだ曲をいっしょに聴いた。

ロックとの出会いとなったビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」。聴く前と聞いた後で人生が変わってしまったように感じたという1曲。アムネスティ・インターナショナル50周年記念として制作されたボブ・ディランのカバーアルバムから、92歳になったピート・シガーが子ども達と歌う「フォーエバー・ヤング」。自分の後輩として世に出たディランの曲を、敬意を持って歌うピート。その「ヤング」という言葉に込められている意志。歳月を経て再びいっしょに音楽を奏でるスティーヴン・スティルスとニール・ヤングの「ロング・メイ・ユー・ラン」。今もなお鋭く社会と向き合って歌い続けるブルース・スプリングスティーンの最新アルバムから「ランド・オブ・ホープ・アンド・ドリームス」。

司会の山本智志氏(音楽評論家で今回の企画の発起人)も言っていたけれど、ただ好きな音楽を大きな音でかけて、皆でいっしょに聴いて、その曲について話すというだけで、どうしてこんなに楽しいのだろうという2時間だった。

トークライブには「ビートルズから50年。いつもロックがあった」というタイトルが付けられていた。
天辰氏が1949年生まれ、仲井戸氏が1950年生まれ、司会の山本氏が1951年生まれ。ロックの青春期をいっしょに生きてきた世代だ。曲が掛っている間、3人ともうれしそうに、全身で音楽を聴いていた。何度でも新鮮に曲に向き合える心を持っているようだった。

そして、曲について語る言葉は静かで、確かだった。「ロック」への敬意に満ちていた。ロックに出会うと乱暴者になるなんて事は全くの誤解だ。ロックがいつも傍にあったことで、嫌な大人にならなかった人たち。月並みな表現だけれど、今もなお少年のような3人を見てうれしい気持ちになった。

帰ってきてから天辰さんのコラムを集めた『ゴールド・ラッシュのあとで』(2008年/(株)音楽出版社)を読み返す。ジャクソン・ブラウンについて彼は次のように書く。
「ジャクソン・ブラウンのように、深い痛みや大きな悲しみを前にして、湧き上がってくる感情たちを、それこそ丹念に言葉やメロディに完結させていった結果としての歌は、簡単に言葉で説明できるはずのないものだ。だからこそ、彼の歌に耳を傾けずにはおれない。適度な誤解と勝手な解釈を交えながらも、ぼくは、彼の歌を身近に引き寄せ、胸の奥深くに受け止めずにはおれない。そうすることで、ときには僕自身の中に潜む卑しさを怒り、臆病さを嘆き、見せかけの優しさを呪い、ときに勇気を奮い起こしていく喜びを感じながら、ぼく自身の歌を奏でなければと思えてくる。」

彼のこんな文章を、私も「胸の奥深くに」受けとめる。音楽に揺れた心に形が与えられる。歌について書くことは意味の無いことではないと思える。音楽と肩を並べている言葉というものもあるのだと思う。

しもた屋之噺(124)

杉山洋一

今朝、息子が目を覚ますと、開口一番父さんがイエスの処へ行った夢を見たと言うので、愕いてしまいました。イエスが天から降りて来て、父さんを連れ一緒に天に昇って行き、天国でイエスやマリアと暫く話をした後、父さんが一人で降りてきてほっとしたそうで、天国に行けない人もいるから、その分恵まれているそうです。親の死ぬ夢は縁起が良いよいとかで何度か見たこともありますが、自分が神さまから呼ばれて天に昇り降りてきた夢を見たと7歳の息子から聞かされるのは、何とも言えない気分です。

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3月某日14:30 プーリア定食屋「まあいい屋」にて
何とかMちゃんの録音を終えたところ。息子やY君が録音中に来訪。自宅から運河を隔てた向いのスタジオでの録音。10年前家人のCDをこのスタジオで録音したが、そのすぐ前に住むことになるとは想像もしなかった。現代音楽の録音風景なんぞ子供には詰まらないと思いきや、ホースを吹いたり、プラスティックボードを撓ませたる光景に目を輝かせている。お蔭でギロだと言って凹凸を手当たり次第に擦り親を困らせている。
チューナー片手に、壜の蓋で水を減らしたりしてワイングラスを調律すると、ワイングラスにも鳴り易かったり、鳴り難かったりと様々あって、擦る人によって音が変わったりする。足りない音を探して、楽譜とチューナー片手に近所の喫茶店を周って、グラスを貸してもらう。スタジオの数件隣の惣菜屋の小さなショットグラスは素晴らしかった。

Mちゃんは運河沿いのこの定食屋の特製パスタ「ミンキアータ」を厭きずに毎日食べた。これは手打ちのオレッキエッテをトマトとセロリとペコリーノチーズ、それに唐辛子の油を手早くボールで和えたもの。菜食主義者のディレクターのC氏も、食べられるものが見つかって喜ぶ。駱駝の風貌のパリジャンT氏は、「まあいい屋」の馬肉ステーキを駱駝のような口でムシャムシャ2人前平らげた。この辺りは、古き良きミラノの運河風情が残る貴重な界隈だが、最近水は抜かれて、運河の底をブルドーザーが闊歩して清掃している。水が無くなって川藻が腐ったのか臭いが鼻をつく。

4月某日
一週間近く朝から晩までスタジオに篭っていたので、コモ湖へ出かける。普段ならコモから汽船に乗るのだが、今日はバスでアルジェーニョまで出かけ「エミリオ亭」で昼食にする。コモでよい食事にありつけた例がなくて、アルジェーニョ育ちのCの忠告を有難く受け入れる。確かに食事も風景もずっと質が高く、湖上から眺める風景と違って、湖面よりずっと高いところを走るバスの車窓には、雄大な眺望が広がった。
息子はトマトソースのニョッキと家人は牛肉煮込みとポレンタ。当方は田舎風のチーズとキャベツのリガトーニ。主菜はコモ湖で獲れたペッシェ・ペルシコとラヴァレッロという湖水魚のグリル盛合わせをタルタルソースで頂く。ラヴァレッロはサケ科で、学名コレゴヌス・ラヴァレヌス。サケ科だから美味な筈だと素人らしい合点がゆく。ペッシェ・ペルシコは、スズキ目に属する魚で、スズキ目の学名ペルチフォルメスそのものが「ペッシェ・ペルシコのような魚」を意味する。スズキの仲間なら美味いに違いないとこちらも素人らしい納得をする。日本の鱸も川を遡上するそうだから、何時しかコモ湖に住みついたとて不思議ではない。

ところで、イタリアでは鱸を北部ではブランズィーノ、南部ではスピーゴラと呼ぶ。いつも食べていて勝手に似て非なるものかと思っていたが、全く同じ魚だった。北部で食べると鱸はリグリア辺りのオリーブ油で食べる落ち着いた味わいで、南部で食べれば、軽くさっぱりしたオリーブ油に熟れた甘いトマトやオリーブと一緒にソテーされて開放的で味わいが楽しめる。地方によっては鱸をペッシェ・ルーポと呼ぶのだそうで、直訳すれば「狼魚」になる。日本でもオオカミウオと呼ばれる魚がいるけれど、あれと同じで、イタリアでも一般的にはペッシェ・ルーポはオオカミウオを指す。確かにオオカミウオもスズキ目に属しているので、少し話がややこしい。

息子は学校の地理の授業で、「青ずきんちゃん」を読んできたと大得意だ。青ずきんは、燈台に両親と住んでいて、ある日海の向こうのおばあさんに贈り物を届けるため一人ボートで大海原へ漕ぎ出す。すると海から「オオカミウオ」が姿を現し、何とか言い包めて青ずきんを食べようとするが、うまくゆかない。じゃあ向こう岸まで競争しようというオオカミウオの提案を、最後には青ずきんも受容れるが、どうしても青ずきんよりオオカミウオが早く先に岸に着いてしまうので青ずきんを食べられない。この下りが子供たちには一番面白いらしい。最後にはオオカミウオはおばあさんにおびき寄せられ、岩の隙間にはめられて出られなくなってしまう。同じ地理の授業で、先日は「黄ずきんちゃん」を読んできた。

アルジェーニョには小さな船着場の前に修復されたばかりの教会もあって、オルガンが見事だった。水中翼船でコリコまでいきレッコ経由の電車に乗りミラノに戻る。息子は発着時に水中翼船の翼が思い切り飛沫を吹き上げるたび大喜びしている。リストが滞在していたベッラッジョやヴァレンナを過ぎると、乗客は対岸に渡る地元住民のみ。

4月某日
拙作の演奏会と息子の社会見学を兼ね、朝8時の特急でローマへ出掛けた。特急の喫茶室で朝食をとる。朝の特急は使われていない食堂車を開放していて、広々として心地よい。ローマでは20年以上前に、何週間か一人で滞在したアウレリア街道沿いの宗教施設に泊まる。当時は多くの尼僧がせっせと切り盛りしていたが、今はエマヌエル会の経営に変わって昔と全く同じ受付に座っているのが若い男性だったのが少し不思議に映った。
ヴェネチア広場から歩いていった日本文化会館で、平山美智子先生と東北の写真展を眺めながら立ち話。東京大空襲で永福町のご実家に焼夷弾が5発落ち、火の付いた爆弾を手袋をはめた手で直接掴み、コンチクショウと叫んで庭に放り出した話や、空襲が終わると周りは全て焼け落ちていたという話。戦後進駐軍の演奏会で、シューベルトのアヴェマリアをドイツ語で歌って気風を買われた話や、ブーレーズのプリ・スロン・プリの途中で図形楽譜になることを作曲者に批判した話。シュトックハウゼン父子の音楽観の違いについてなど話は尽きない。

リハーサルが終わり路面電車で息子をヴァチカンに連れてゆく。この街に法王が住んでいるというと息子は興奮していた。一方家人は、ヴァッリ教会の正面の聖アンドレアのX字の十字架図と、イエズス教会の天井画に心を打たれている。ザビエルの手の剥製を見てから、ここに保存されている長崎のイエズス会修道士殉教図を見たいと門番に言うと、ずっと日本にあって、何時戻ってくるかさえ分からないねと大笑いされる。聖マリア・デル・マッジョーレ教会で、息子は横臥するキリスト像に寄り添い熱心に祈る一団の礼拝堂につかつか入り、黙って祈っているので家人と流石に顔を見合す。こちらに戻ってくると真面目な顔で「イエスと話してきた」などと言う。先日拙宅に滞在していた家人の生徒さんが「小学校低学年の頃まで、死んだ人が目の前に座っているのが見えていたんです、今から考えると不思議なんですが」と言っていたのを思い出した。礼拝堂の前で、通りがかりの女性に話しかけられる。「ああ、何と美しいお子さんなのでしょう。神のご加護がありますように」。

ミラノに戻る直前、テルミニから105番でアレッシまで行き、雑然とした下町の一角にある「牧歌亭」で、チョコレートと一緒に練り上げたイノシシのパテ、玉ねぎのスープ、生ハムと見まがうカルパッチョなど、丹精なご馳走にありつく。玉ねぎのスープを口に運ぶと、余りの美味しさに涙がこぼれた。冬しか採れない平たい玉葱を使うのだそう。ラツィアーレのナロー電車でテルミニに戻ると、車内は外人ばかりでイタリア人は一人もいない。

息子は思いがけずローマ小旅行を満喫したようで、ミラノに戻った翌日、早速自分でコロッセオの模型を作った。窓の形も正確で8階建ての作りも、円形が少し欠けC型になっているところまで丁寧に再現してあって、その観察力に愕く。キリストを殺した人の名前は誰かとか、ロンギヌスが刺した脇腹の傷はどうだとか嬉々として話す息子は、何だか自分から偉く遠い不思議なものに見えてくる。小旅行中、家人は、どうしてローマは古ぼけたものばかり残しているのか、これではこの先発展のしようがないと不平を繰り返していた。

4月某日朝 雨 キャヴェンナよりコリコへ向かう列車内にて。
朝ホテルから切立った山々を見上げると、美しい朝靄に幻想的に包み込まれている。モーツァルトの「レクイエム」の和声分析を終えた。途中のピカルディ終止で、和声学的な分析と実践的な音楽解釈との間で、どう方向付けをしようか戸惑う。「レクイエム」は初めてだが、「大ミサ」の経験が役立っているのかもしれない。

昨日バスでスイス国境を越えると、マローヤ峠の手前までドイツ語とロマンシュ語でアナウンスしていたのが、突然ドイツ語とイタリア語のアナウンスに変わる瞬間が新鮮だった。ロマンシュ語は、モンツァやブルゲーリオに住んでいた頃よく聞いたロンバルディア方言に似た、「プロシム・フェマーダ(proxim fermada)」と暗く濁った響きが、峠を越えて「プロッシマ・フェルマータ(prossima fermata)」と明るい響きにかわる。バスの運転手は、きついロンバルディア訛りで、隣に座ったおばちゃんとずっと話込んでいた。通ってきた道を振り返ると、つい先程まで居た街が、山の遥か彼方に見えていて、気がつけば周りを降りしきるばかりだった雪は、何時しか強かに芝生を打つ驟雨に変わっていた。

(4月28日ミラノにて)

ヨルダンには原発は要らないと思う

さとうまき

ヨルダンで展覧会を開くことになった。画家の川口ゆうこさんからお誘いがあって、個展をしたいんだけど、日本の震災のことを紹介する写真も展示したいという。気仙沼に在住の画家、相澤一夫さんも津波の絵を提供してくださることになり、それで結局グループ展をすることになった。

ヨルダン人から「何を伝えたいですか」と聞かれてちょっと戸惑ってしまう。ヨルダンには隣のシリアから着の身着のままで逃げてくる人が毎日1000人近くいる。一説によると10万人を超えたというのだ。今回の展覧会は売り上げを、日本の被災地に寄付しようとうたっている。もちろん、在留邦人からの寄付は歓迎だがヨルダン人に寄付を求めるのは忍びない。

僕は福島で写した写真を展示した。ヨルダンは、昨年日本と原子力協定を結んだ。2035年までに4基の原子炉を立ち上げるという。日本は、三菱がフランスのアレパと合弁会社を設立して入札に参加しており、7月には、落札されるという。

今回の展覧会の目的は、反原発や脱原発を訴えるものではないのだが、僕としては、原発を持つ、持たないは、ヨルダン人が決めるのであって、僕たちがとやかく言う事ではないが、福島で起こったことをきちんと知って欲しいし、伝えていくことは僕たちの責務だと考えている。野田首相は、「ヨルダンは既に話をしてきた。しかし、新たな国と締結する場合は、福島の事故を考慮して慎重に対処する」という。

さすがの野田政権も長期的には脱原発を決めており、ヨルダン用の原発は在庫一掃セールとでもいえようか。そんなものを買わされた国はたまったものじゃない。しかも、ヨルダンは、砂漠の真中につくるという。生活廃水をためてその水を冷却に使うのだそうだ。今の衰退した日本にそんな技術はあるのだろうかと疑ってしまう。

ヨルダンでは、地元の反原発の動きもある。哲学者のアイユーブさんもその一人。展覧会を見に来てくれた。最近は福島原発に関してアラビア語で本もだしている。「ヨルダンには、世界の2%のウランが埋蔵していると思われていたが、アレパの調査結果では、ヨルダンのウランはほとんど使い物にならないという。結局ヨルダンは、どこかからウランを買うわけだが、ロシアが優位に交渉を進めている。日本? 厳しいかもしれないね。」と分析してくれた。原発の候補地に挙がっているマフラクを視察してくれば良いと、ターレクと言う人物を紹介してくれた。

4月20日、ヨルダンの首都アンマンを北東に50キロ、シリア国境近くの町マフラクに向かう。最近はシリア情勢の悪化により避難してくるシリア難民があふれているという。金曜日の朝にもかかわらずターリク氏が会ってくれた。ターリクさんたちは、原発が誘致されることを聞いて、2011年2月に「アリハムーナ」という団体を立ち上げ、反対運動を始めた。最初は6人だったが、今では3600人の仲間達がヨルダンにいるという。
「マフラクの住民は全員が原発誘致に反対しました。最終的には国王がやってきて、話を聞いてくれた。そして、マフラクの住民が厭なのなら原発はここには作らないといってくれた。そして、一ヶ月半くらい前に政府は正式にマフラクに原発を作ることを断念したのです。」住民運動の勝利だ。

反原発を掲げて、ヨルダン政府の圧力はないのか?
「内務省も、警察も、国会議員も味方してくれた。120人のうち63人が、原発には反対だという。しかし、原子力省のハリッド・トゥッカーン代表は、フランスのアレパとの結びつきが強く、もうけようとしている。国王は、この問題に関しては、中立を保とうとしていて、国会などの民主的なプロセスをあえて重んじている。公式には、原発に、賛成、反対は表明していない。」

ヨルダンでは原発を受け入れると、地域にお金が落ちるというような話はないのか?

「そんな話は聞いていない。日本ではそんな事があるのか?」


なぜ住民運動が勝利したのか?

「1.すべての議員に意見書をだして、関心を持ってもらった。2.マフラクの人たちと勉強会、説明会を根気よくやってきた。そしてポスターを作って町のあちこちに張った。3.警察に行って、私たちが原発に反対していることを訴えた。4.すべての環境団体、人権団体などにも協力、連帯を求めた。5.メディアに取り上げてもらった。6.政府の説明会や勉強会には、必ず顔をだして、反対を訴えた。
日本大使が現場を視察しに来た事があった。25人のマフラクの人たちが集まってきて、日本語で、原発反対と書いた紙を持って訴えた。大使は、どうして、自分達の視察をマフラクの人々が知っていて、しかも日本語で訴えてきたのかとびっくりしていた。やはりこのように私たちの運動が盛り上がったのは、福島の事故が大きかったと思う。Facebookに記事を書くと、多くの人たちがコメントをくれたことも勇気づけられました。」


マフラクには原発を作らないことが決まった。アリハムーナとして次の計画は?

「政府は原発そのものを諦めたわけではない。カラックの近くのコトラーネという場所が次の候補になっている。我々は、コトラーネの住民の反対運動を手伝う。」


日本に向けたメッセージを
。
「福島で起こったことに私たちも深い悲しみを感じています。日本の皆さんは、落ちこまないで欲しい。あなたたちは、経験が多く、みんなで協力することでこの困難を乗り越える事ができる。ヨルダンと日本は、今まで強く結びついてました。マフラクという小さな町にも、日本からボランティア(協力隊)が30年間も来てくれています。私たちに出来ることがあれば協力したい。そして、原発が、私たちの自然や、生活を壊していくことを、ぜひとも阻止しなくてはいけないし、日本とヨルダンの人々の関係を壊して欲しくないのです。」


今回出会ったヨルダンのメディアの人たちにも「この国では、反原発を唱えると、怖い目にあわないのか? あなたたちは自由に記事がかけるのか」と聞いてみた。「昔はそんなことになったかもしれないけど、私たちはアラブの春以降はそういう規制はなくなった。別にもともと規制があったわけではないけどなんとなく言いにくい雰囲気はあったと思うわ」ヨルダンが元気だ。一方でダメになっていく日本を感じることも最近は多い。

今は、僕はヨルダンからイラクのアルビルというところに移動したが、先日タクシーに乗ると、運転手が、「日本人か」と聞いてくる。そうだと答えると、「この車は日本車だ」という。トヨタのカローラだ。ほめてくれるのかなと思って聞いていたが、「日本車はすぐ壊れる。2年も乗ればがたが来て、ほらハンドル回すと変な音するだろう」原発も含め、日本は、いいものを作って、喜んで使ってもらおうという気位がなくなってしまったのかもしれない。

オトメンと指を差されて (47)

大久保ゆう

……くしゅんっ! すすす……ごしごし。

がぶんじょうでございます。じばじおまぢを。――――(処置中)――――

花粉症でございます。つい数年前より発症致しまして、春先はご覧の有様なのです。なってみなければわからないとは言いますが、ここまで鼻と目をやられてしまうとは思ってもみませんでした。さすがに最近は手軽なよいお薬もあるというわけで(私は普段よりその形状からそのお薬をハイパーフリスクと呼び習わしております)、人前に立つときはしっかりと抑えておくのですが、四六時中使うのも何ですので、仕事場で文章を書くときなどは花粉も外から入ってこないからとあえて油断してみれば、それでもなるときはなるのですね。

定期的なおくしゃみと、隙を突いてくるお鼻水と、裏を掻いてくるお目々のおむずむず。鼻はかめばよろしゅうございますし、お目々は多少も我慢もできましょう。しかしながらお口から放たれるおくしゃみ様におかれましては、何ともしようがないのもまた難しいところ。とはいえどうしようもないものなら、ないものなりに愉しんでしまえばいいと思いついてしまったのはいつのことだったでしょうか。

くしゃみの音はお国や言葉や文化によって違うと言います。ということは逆に言えば、くしゃみの音色はひとつには決まっていないわけでもあり、とすればくしゃみが出る瞬間に意識してこちらから操作してやれば多様に変幻万化自由自在、色々と遊べるのではないか――ぁっ――くしゅん。

これはシンプルなくしゃみですね。しかしお行儀よく「くしゅん」と小さくするのは意外と技術がいります。くしゃみの力を制限せずにやつの勝手に任せると「へくしっぶるるっ」みたいなおっさん系くしゃみになってしまうので、くしゃみをするときに内側へ閉じ込めるような、口を小さくしてほんの少しだけとどめるように「く」と息を出し、あとは鼻と口に預けて風を抜くことが必要となって参ります。小さな「くしゅん」はお上品にも聞こえますので、お淑やかさや雅さを保ちたい方は練習なさるとよいでしょう。

あるいはピーターラビット的なおくしゃみを操ってみせるのも、なかなか絵本的でしゃれているのではないでしょうか。イギリス的にはくしゃみは”kerchoo”や”atishoo”といった表記がありますが、The Tale of Peter Rabbit に出てくるピーターくんのくしゃみは”kertyschoo!”つまり無理矢理カタカナ表記すると「カーティシュー」、これをあなたのおくしゃみの瞬間にばっちり決めてみせるのです! ――ふぁ――かーてぃしゅーっ!

この場合は、おそらくくしゃみを留めるタイミングが大事なのだと思います。「くしゅん」の場合はかなり早い段階で抑えなければなりませんが、この場合は「かー」と続いているので、しばらく口の開いた状態で息を吐いているのだと思われます。そこから舌と歯を合わせて留め(たぶんここが「てぃ」)、あとは歯の隙間から息を吐き出す(「しゅー」)、といった感じでしょうか。このコツをつかむには何度かの訓練が必要なので、習得したい人は、今書いたようなわたくしの要領を得ないアドバイスを参考に頑張ってくださいねっ!

しかしですよ、こんなものはすでに存在しているくしゃみなのです。そう、独創性がないのであります! いったんくしゃみで遊ぶ愉しむと決めたからには、何かしらのクリエイティビティを発揮してですね、創作くしゃみにはげみたいではありませんか! そこでわたくしは考えました、自分に合うくしゃみとは何なのか……品を崩さなずになおかつ自己主張もひそかにこめた、そんなおくしゃみは、果たしてありえるのかと……!

そこでわたくしが考案したのが……ふぅっ…………「かふん」……このくしゃみです、いかがでしょうか、読者の皆様――!

くしゃみの拡散を抑えるという上品さを残しつつ、このくしゃみが花粉症によるものであることを周囲に伝える……これぞエレガンスなおくしゃみの極み。ふっふっふ、しかもこれはすっごくむつかしいのでありますぞ(何だか偉そう)。

これは「くしゅん」のくしゃみの形がある程度役に立つのですが、そのままやると「くふんっ」にしかなりません。まず覚えておくべきは、くしゃみの出る前に口の中で留めると「く」の音になり、歯を下ろした口からは「しゅ」の音、口を閉じて鼻を使うと「ふ」の音になるということです。それさえわかれば、後ろの方の音は作りやすいです。

ですが、問題なのは前の「か」なのです。「く」はいったん留めれば出るのですが、「か」はある程度その口で息を吐いていないと出ません。しかし息が出ているということはもうくしゃみは高速度で外へ向かっているということ、口を閉めるのが間に合わなければそのまま「しゅー」か「ちゅー」となってしまいます。ということは、出かかっているくしゃみとちょっと出したところで留めて、そこから息を鼻に移さなければならないということ!

こいつはなかなかの大事《おおごと》ですよ。「かふん」に挑むあなたは、何度も口から「かはぁあん」になってしまい、あるいは盛大に失敗して「かはふっしゅーぅぅふ」と無様な醜態をさらしてしまうかもしれません。たとえ留められたとしても、そこからはどうしても最初の「か」がシンプルな”ka”ではなく”kha”になってしまうという先走るhの混入に悩まされることになるでしょう。〈ちょっと出して〉とは文字通り息を吐くのではないのです、「く」が内側で留めるのであれば、「か」は外に近いところで留める、そのような感覚なのです。

適度なお口でお留め差し上げる「か」と鼻にお風をお通し申し上げる「ふん」、この組み合わせがあってこそ「かふん」というおくしゃみがようやくお出ましになる、この隠れた努力と技術にこそ、きっと何かしらの品格なるものがあるのだと思います。

さしものわたくしも、かなり集中していないとこの「かふん」はできません。まだ習熟にはほど遠いのですが、いつか「かふん」というくしゃみにいつでも応じれる、そんな大人になりたいものです。

ある部屋の鍵

璃葉

夜の小道 沈丁花の匂いが埃だらけのわたしの時間のなかに
10代の記憶と一緒に運ばれてきた
こころは突然鮮やかな煙で充満する

記憶はいつも季節に喚び起こされるような気がしてならない
ときには蜘蛛の巣のように枝を張り、葉がざわざわ生えて 丸い空を隠す
やがて色褪せて  冷たい灰色の土に散ってしまうけれど
決して消えてなくならない
からだの奥の奥の 微かに光る場所に降り積もって溶け込んでゆく

その場所は 到底わたしには見つけられない

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掠れ書き18

高橋悠治

理論もなく。そう言うがかつてはそんなことはなかった、まず理論それから方法だった。いまはまず始めて行けるところまで行く。システムがないとモデルもなく。それでも手に触れるものを読み通しながら、目に留まるなにかを書き留める。書き留めたことのうごきを追い、聞こえない音を聞いて弾き、弾きながら聞こえるイメージのなかの音を聞いて書き、書きながら聞き、どこへ行くとも決めずに続け、手のうごきとかすかな声が呼び起こす何を。

一つの音は1つではなく、内側にそれでないものを併せた一瞬の残像、森の奥にはだれもいない、木の実が落葉に向かって降る前にその余韻が飛び散る綿毛。重さがなく見えない音さわれない音の長さや高さや強さで決められたうごかない点ではなく数字に変えられ測れる量をもった物体ではなくもう過ぎてしまった記憶あいまいな記憶のなかで方向と関係でしかなくそれもこの方向や定義できる関係でなくてうごいたあとで推測される。それも誤解かもしれない。動詞のない副詞の束、名詞のない接続詞の鎖、崩れ裂ける寸前の揺らぎの陽炎に。

クセナキスの本を訳しながら浮かぶ40年以上いっしょに、そう思っていたが。勉強したのか。したつもり。確率論、唯名論、ベルリンの本屋からソクラテス以前の断片、パリでアルチュセール、クワイン、フーコー、迷宮。ディオニュソスが山から降りてくる。古代ギリシャ音楽理論、交代する色のテトラコルド、ビザンチン聖歌の記譜法。ピッチでなく音程だ。コンピュータ・プログラミング、電子音響の60年間も変わらない新しさの古さ、ピアノ演奏技術。ありもしないのに。速い大きいたくさんの音ではなく。指揮。操作と管理の悦びにひきずられないように。ヨーロッパから離れアメリカから離れ忘れていたことを偶然の出会いを、安定した足場がどこにもない生活。

ことばにならないものをことばに、音にならないものを音に。手にした貧しい音のこだわりに音にならないものを映し、ことばをのせ、ことばにならないなにかがあるようにほのめかし。

音を微粒子の集まりに分解してからつなぎあわせても元に戻らない。アキレスと亀の溝を限りなく細くしても隙間を埋められないそれが。構造主義や認知主義への信仰がまだ。

もどる場所がない。ストックホルムのはずれキタキツネの佇む白夜かデルフィの山頂の茂みから遙かに海を見下ろす。もう時間もなく、数学や論理はうごき続けるものに向きあえず、伝統は今の時にあわせて作り変えられ作り上げられそれらしく振舞い。

聞こえる音は聞こえない音の皮膚、聞こえない音は聞き分けられない関係の束か。こだわりの移り変わるアクセントの。
 
いる場所がなく、音楽の話のできる仲間もいないところ。そうだろうか、知らないところでだれかが。そんな可能性も40年同じところに暮らしていれば気づかないうちに消えて、いつか状況に妥協していたのか。すぎてしまったことをあらためて求められてももう感覚はよみがえらない。だが現れてないものは外から見えない評価もできないなかで、ためらいと躓きをかさねて、だが確信には何の根拠もないからこんなものかもしれないと思いつつ。それが妥協でなく限界を認めるかたちですでにその外側を歩いていると言えるのはなぜか。

離れて生きる。それができるか。離れてもそれほど遠くには行かない、声が聞こえるところにいてもたがいに行き来することもない、人はすくなく場所は小さい。隠れて生きる。そのための庭は。エピクロスの仲間たちは。

耳は微細なちがいを聞き分けるが、微細なちがいを含んだかたちと、いつもちがう現われがあり、この両方がなければ続けられない。

三月十一日、カッチンに行く

仲宗根浩

イレギュラー出勤のため、お雛様の土曜日休みになった。東村つつじ祭りに行く。高速の終点、許田インターでおりて国道58号から世冨慶(よふけ、読めるかいっ!この地名。地図のルビで初めて知る)から右折、329号線に入り東海岸に横断。大浦湾に出でさらに北上。母親が戦争のときこのあたりまで逃げて来た、とぽつりと言う。山の中を歩いていたら機銃掃射で一人おきに撃たれて倒れていった話はブラジルのおばさんから聞いた。

久しぶりのヤンバルは、こっちが住んでいるところと違い空気が気持ちいい。つつじは一分咲きだったが、高台から見えるのは辺野古のキャンプシュワブの建物、岬の先には長島、平島。きれいに見えた。帰りは慶佐次のマングローブ林に寄り、シオマネキを子供と見る。

マングースが素早く横断する道、途中にはねられ道の真ん中にほったらかされている死骸も車輪でつぶさないよう通り過ぎ、キャンプシュワブ前過ぎ、宜野座インターから高速で乗って、往復160キロ。おもっていたより道が整備されていたので時間がかからなかった。辺野古移設にともなう北部振興とかのおかげか、護岸工事、工事中のところもたくさんある中、移設反対の立て看もちらほら。

啓蟄の三月五日、最高気温二十七度。かんべんしてくれ〜とぐだぐだしていると「東歌篇ー異なる声 独吟千句」が届く。沖縄から「異なる声」にひとりで勝手に参加することにした。一時間ほどかけて読んでみる。

なるほど、植松眞人さんがブログで「漢字が読めなかったらどうしよう」というのがよくわかる。「うまご」という言葉を見つける。孫は沖縄の言葉と同じだ。発音は「んまぐゎ」と表記すれば近いか。

参加する、といっても家の中でランダムに音読しても、端から間抜けに見られかもしれない。新さくら丸では沖縄、奄美のことが歌われるているので、どうせなら歌われているところに行ってやれい、と仕事に行くまでの空いた時間でどこまで行けるか地名と歌の内容でここらへんならいいだろうというのを選んで以下の四つ。

  勝連の海のぐしくを〜
  コザの村〜
  黒人の兵〜
  ベトナムを〜

午後二時到着を目指し、カッチン(勝連)へと車を飛ばす。ちょうど二時ごろに勝連城向かいの駐車場へ車をとめる。自宅から片道だいたい12キロ。観光客他、島内から訪れた方々いるなか、勝連城址に入るとすぐ海が見えたのでここで音読。石垣を見ていたらてっぺんまで行ってみたくなる。けっこうな急勾配。一番高いところへ。この日は風が強く波の音は聞こえなかったが、うっすらと津堅島。左はヤンバル、右は具志川、中城湾、泡瀬、与那原まで見える。そこでも音読し次へ移動。

コザの村ときたら、昔の実家の斜め裏、幼いすけべな少年たちがよく覗き見していた宿の跡は今は駐車場。その少年たちは短命で今の生き残りは私を含めて二名。

次はゲート通り。白人、黒人も第二ゲートから出てこの通りを歩きそれぞれの盛り場へと行った。黒人は照屋、白人はセンター通り。

ベトナムの歌で出てくる「枯れ」、という言葉で勝手に枯葉剤を思い出し、去年、沖縄や台湾など他のところでも、枯葉剤を使用していたことが報道されたのでゲートに向かって音読し「ひとりで勝手に異なる声」終了。一時間半のほとんどは車の移動時間。一応、記録として携帯電話でそれぞれの現場を写真を撮影し、今回の関係者にお礼のメールを送る。

たくましい都市住民

さとうまき

先日福島で有機農業者らが企画したシンポジュームで明峯哲夫さんという方が話された。「逃げる場所はない。放射能と共存する覚悟が必要。それでも、種をまこうという人と、福島県産の農産物は、食べないという人に分かれたのは本質的な問題だ。頭の世界じゃない。感性の世界。汚れやリスクと共存していこうという能力は、土からうまれる。日ごろから土と付き合っていると、闘っていこうという根性が着く。都市の人間は、そういう根性がない。有機農業の運動は、たくましい農民を生み出したが、たくましい都市住民は生まなかった。既成の都市と農村の関係をそのままにして持続可能な社会は作れない。都市人間は、生活の中で土をいじれ。感性と肉体だ!」

イラクの難民キャンプに行くと、何もない土獏が地平線のかなたにまで広がっていて、そんな土の上に粗末なテントが建てられている。中東ではありきたりの風景なのだが、感性と肉体が研ぎ澄まされていくのを感じる事がある。難民は、すべてを放り出して、逃げてきた人びとだ。生きることの本質が視覚化されてもいる。僕は農業をやらないから、こういったキャンプで出会った人びとの汗と涙、そして砂漠の土は、都市生活者の僕を鍛え上げた。だから、なんだか、イラクと福島が僕の中で自然につながってしまった。

抽象化とシステム

大野晋

最初は「きけんなものはきけん」と題して、今回は少し工学的な話にしようと考えていました。題名のお話が少し誤解されているようなので工学的なバックボーンを簡単に話をするはずでした。

この話はざくっとこんな感じです。

工学的に「きけん」を考えるとき、危険性のあるものはあくまでも危険なものとして捉えます。これは炎もそうですし、毒物、ラジオアイソトープなどもそうです。忘れてはいけないのは、高速に移動する物体もあくまで危険物です。しかも、人間が作るソフトウェアなんてもっとも危険な存在です。では、私たちは危険なままなものを使っているのでしょうか?YES。あくまでも、危険なものは危険です。

ところで、こうした危険物を問題を起こさせないように使うのが工学です。危険なものでも危険な状態にせずに安定した状態で使っている限りは危害を被りません。そこで、危害が及ぶような状況を作り出さずに安定的に運用すること:これが工学の目的で、このために最大限の努力を払います。

こうした中で、ラジオアイソトープは比較的安定化の容易な扱いのやさしい物質です。なにせ、そこらへんにゴロゴロとしているわけではないので検出は容易ですし、一番危険の大きい爆発的なエネルギーを発生させるためには特殊な条件が必要です。その他は問題を引き起こすための閾値が管理値よりも桁違いに大きいので問題も起き難いでしょう。ただし、管理のための基準と実際の危険状態の閾値とが混同されやすく、政治問題化するために、おかしなふうに厳密な管理が要求されることが問題ではあります。そうしたなかで、安全神話ができたのなら、それは設計者、運用技術者にとってはある意味、誉められはしても、それをネタに貶される事は普通はないんですけどね。その点、皆さん騒ぎませんが、どんどん巨大化していくソフトウェアの方が大きな問題だったりします。でも、まあ、政治問題化していますから、Y2K騒ぎと一緒で、マスコミがバラエティ化させて追い回すのでしょうね。当時苦労した身としては、当分、しんどいだろうなあと思います。

ここまで考えて、少し考えを改めました。だから、ここからは少し別の話になります。

「システム」に関する考察を昨年末から今年の年初にかけてまとめました。昨年の夏あたりからやっていると思い込んでいましたが、過去の水牛の文章を読んでいたら、なんと2010年から足掛け3年やっていました。もともと、バックボーンはソフトウェアの開発なのですが、構築するシステムを追いかけているうちに社会学にぶつかってしまいました。システム論は現在は社会学に分類される分野ですが、科学の再構成という意味では現代科学の基礎に位置する考え方だと思っています。

さて、このシステムですが、実はその基礎として、「抽象化」という仕組みを内在しています。

一見、ごちゃごちゃに見える社会ですが、それをひとつひとつの因果関係に紐解くことで仕組みが見えてきます。この因果関係を紐解くことが現代の科学(広義の)なわけで、そういった意味では、フィロソフィーという枠組みの中でナチュラルもソーシャルもそれぞれで原理を明らかにしていっているわけです。まあ、ごちゃごちゃの最たるもののひとつが「社会」なわけで、そうした意味ではシステム論が社会学の分野に属していても別におかしくはない。まあ、我々がフィロソフィーという大きな枠組みで考えられずに、「学」の狭い枠にハマっているから理解しにくいだけだと言えるかもしれません。

理系、文系なんて小さな枠に囚われずに、共通する概念を概観することによって見えてくる世界があるということでシステムをめぐる長い長い思考の旅はまだ終着駅を迎えそうにもありません。

そういえば、音楽も、多くのリズムや旋律が複雑に絡まってできあがっています。ホフスタッターの著作に「ゲーゲル・エッシャー・バッハ」という数学者、画家、音楽家を巡る思考の旅を描いた本がありました。以外に、システムと抽象化をめぐる旅も、同じように音楽や画にたどり着くのかもしれません。

たしか、優れたコンピュータ・アーキテクトには左利きが多くいます。そして、子供時代に珠算をやった経験を持つ者も多いですね。抽象化されたシステムを認識するためには、頭の中で空間を認識する力が強い必要がありますが、それには芸術をつかさどるといわれる右脳の活動が必要なように見えます。

案外と無意味に見えるような領域でも強く繋がっている可能性はありますね。そういえば、優れたフルート奏者に、工学系の人間が多くいるのは何か関係があるのでしょうか?

宵の地図

璃葉

夕焼けは、ゆっくりと暗闇を引き寄せて、ひとつの世界に幕を下ろす
痩せ細った月はどこかへ身を隠してしまった

空想上の化物が今にも出てきそうな 黒に染まる森
蟲達の囁く声 見えない影の煙
静かな、長い夜 

聞こえない音に 耳を澄ます
大地は 不安定だ
奥底で、悲鳴をあげながら小刻みに震えている

旅人達は寂しさと恐怖を紛らわすために、詩を唄い
春の木々の匂いを吸い込みながら眠りについた

星は夢を見る旅人達を 東の空へ連れて行く

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しもた屋之噺(123)

杉山洋一

今年の冬が特に厳しかったせいか、庭の樹がようやく瑞々しい新芽をふきはじめました。冬枯れの高枝のあちらこちらに繁る鳥の巣が、萌え立つ緑に少しずつ隠れてゆくのを毎朝見上げながら、心なしか鳥のさえずりの声も春めいて聞こえます。いつもの朝食パンに、親父に勧められたをマフィンを2個ばかり加えてもらいました。

2月X日20:50 マチェラータ劇場の控室にて

朝からホテルの部屋で作曲。イェージからマチェラータまでの道は、女性的な優しさをもったなだらかな丘がどこまでも続く。レオパルディが謳った丘をこうして初めてみると、心に染み入るものがあるのは、丘をそめる赤紫の夕日のせいだけではないだろう。
マチェラータの劇場もうつくしい。マチェラータのあるマルケ州には、戦前には108もの劇場があったという。小さな街の一つ一つにまで劇場があるのはイタリアでもここだけだそうだ。すべてが大きな劇場なわけではなく、50席ほどの劇場まで美しく装飾されていて、平土間席やバルコニー席まで誂えられている。昔は平土間席を外して、街の舞踏会などにも使っていたそうだが、今は街の芝居やブラスバンドにも使っているだけだという。個人の屋敷のなかに拵えられた劇場もあるそうで、ぜひそんな小さな劇場めぐりをしてみたい。

2月X日0:40イェージのホテルにて

昨日のマチェラータの演奏会は忘れることができない。出番以外は客席で聴きたいとおもった。残席がなくて平土間席の壁に寄りかかって聴いた。劇場に着いたとき、入口階段をあがりきったところのフォワイエで、フリオ・エストラーダがコントラバスの一団とリハーサルをしていて、「チューリッヒで振ってくれた君のCanto Nascientoが今までの最高の演奏なんだ」と声をかけてくれる。彼らしい繊細な心遣いに痛み入りつつ、随分前に演奏した曲目まで覚えていてくれたことに感激した。元気なのかと声をかけると、優しそうなフリオの顔が少し歪んで、長年連れ添った妻を失くしたのがね、と噛み締めるように呟いた。

スコダニッビオの友人だったダニエレ・ロッカートが彼のコントラバスのための小品を、天を仰ぐように、一音ずつ愛しむように弾いた。ダニエレは空のステファノと舞台上で繋がろうとしているのか、少しでも雑音があると弾きかけた演奏をやめ、静寂を求めた。文字通り聴衆は固唾を呑んで聴き入り、弾き終わったダニエレは、コントラバスを労わるようにさすり、弾き終わったばかりの楽譜を高くに掲げ、聴衆の暖かい拍手はやむことなく続いていた。

演奏会後、奥さんのマレーザと少しだけ話す。彼女と会うのは本当に久しぶりだった。
「なにも言葉が見つからない」というと、「いいのよ」と力なく微笑んだ。「今日の演奏をステファノはとても楽しみにしていたの」とだけ言って、黙ってしばらく肩を抱き合った。
今朝はノーノの練習1日目。想像していた通りのむつかしさ。一度最初に通したときは、あまりに出鱈目のような曲に聞こえたのか、演奏者一同が爆笑したが、次第に曲のつくりが見えてくると、全員で喰らいつくように表情を附けてくれて、音に感情が芽生える。
劇的な瞬間。
練習が終わると舞台に初老の大柄な男が近づいてきて、誰かと思うと作曲のフェルナンド・シレオーニだった。92年にシエナで会って以来だったが、20年ぶりに彼の顔を見た瞬間に、フェルナンドがマチェラータ出まれだったことを思い出した。

2月X日13:40劇場近くのインド料理屋にて

ノーノの練習2日目終わる。
現代音楽に馴れていない人も多くて、落ちる人がなかなかなくならないけれど、「Canti」は魅力的な作品だとおもう。後半が4分の4拍子で書いてあれば、さぞ演奏も楽だろう。手書きのパート譜も読みにくい上に好い加減で、テンポ変化の指示を目印にしてキューを出しても、テンポの指示がないこと多し。
いやはや、この状況では、音程の調整などほぼ意味を成さないかと思いきや、少し聴きあうだけで音楽がずっと引締り、互いにすっと音楽のフレーズが頭に入る。駄目もとでも謂ってみるものだと痛感する。
この場末のインド料理屋はバングラディシュ人がやっているが、壁にはインド観光局の宣伝が貼ってある。

同日22:15レストランVincantoにて

フィレンツェのメディチ研究所でずっと長を務めていたFのお母さんから、「あなたの指揮している姿はジャンボローニャのマーキュリーそっくりだわ。特に、足の爪先がピンと撥ねるところなんかが」と、嬉しそうに何度もいわれる。どう贔屓目にみてもジャンボローニャとは天と地の違いだが、お世辞でも悪い気はしない。
夕方イェージの美術館にロレンツォ・ロットを見に行くと、「天文学と美術」というセミナーをやっていてずるずると見続ける。アラビア天文学とギリシャ天文学が、それぞれの宗教から離れてどのようにキリスト教文化に浸透していったかの顛末を話していて、「教会の龍のガーゴイルも、もとを正せば中国由来なわけです」と説明を受けて、一斉に頷くのを後ろから眺めているのはなかなか愉快。フェラーラ、スキファノイア宮殿のトゥーラとコッサによる「12ヶ月」の占星学は、ペルシャ由来だそうだ。

3月X日23:25イェージ第7天国にて

マルキジアーナとの最後の演奏会終了。苦労した割りに実によい仕上がりになったことに驚く。ノーノにある歌心は、演奏者から思わぬ可能性を弾き出す可能性を秘めていて、これが人々を魅了するのだろうと納得する。

朝、美術館にでかけると、ロレンツォ・ロットに魅入られて身動きすらできない。「裁判官の前の聖ルチア」のルチアの澄み切ったうつくしさと磨き上げられた焦点に言葉を失う。指揮をしていて、全くぶれることなく音楽と手が繋がっているときの感覚に似ている。聖ルチア以外には敢えてここまで焦点を合わせないため、巨大なキャンバスの中央のルチアの小さな目に、全ての動作が収斂されてゆく。動的なエネルギーの渦に沸き立つルチアの静謐なエネルギーから、彼女だけがまるで3次元絵画のように浮上って見える。押し付けがましい劇的な表現ではなく、純真さが溢れかえる表情に、魂が抜けるほどの感動をおぼえる。ロレンツォ・ロットは何度となく本で見たことはあったけれど、実は特に興味を覚えたことはなかった。

3月X日15:00自宅にて

ミラノに戻る折、イェージのタクシー運転手と話す。彼が40年前にタクシーを始めたとき、街には48台ものタクシーがいて、劇場前の広場にずらりと並ぶ様は圧巻だったが、誰もが自家用車を持つようになり、今はわずか4台しか残っていないそうだ。

帰りの列車で、レオパルディの最後の詩を何度も読み返す。が、作曲は遅々たる歩み。ペルゴレージが生まれた、イェージの街を歩きながら、いつもペルゴレージの「スターバト・マーテル」の一節「炎と火のなかで(Inflammatus et accensus)」を思い出していた。熾烈な歌詞に不釣合いなほどの明るい音楽が頭に鳴ると、無意識にイェージの蒼天を仰いでいる自分に気がついた。相手の心を穿つため、攻撃的である必要などどこにもない。ロットもペルゴレージも同じ。

3月X日16:20近所の喫茶店にて

漸く「夜」の作曲が終わる。冒頭の動機を説明するため、ナポリの桑の実売りの歌声を聞いてもらう。美しすぎて寂しいほどの呼び声。

3月X日20:00ミラノに戻る車中にて

ローマの平山先生のお宅をお借りして、太田さんとリハーサル。目の前の長椅子で平山先生が聴いていらして、最初は流石にすこし戸惑う。先生は先日行き付けの市場の八百屋で白菜と大根を買おうとして、中華料理屋の経営者に買い占められたそうだが、ミラノでは中国人だけで流通機構が出来上がっていて、こういうことは起らないので不思議な感じ。

不思議な空間で、まるで原宿あたりの雰囲気のよい昔からあるマンションの一室でリハーサルをしているような心地に襲われたのは、先生が淹れてくださったほうじ茶のせいだけではないだろう。「夜」は今まで書いたなかでは、とりわけ素材は限定的で、整理された作品になった。厭世的なレオパルディの言葉に敢えて無色透明の音をつけ、一縷の希望が差すところのみ音に色をつけた。

リハーサルの途中で、マリゼルラから涙声で電話がかかってきた。フランコの長男、ロベルトが心臓発作で急死したというが、にわかには信じられない。誰か友人がなくなると、残された電子メールや電子メールのアドレスが頭に浮ぶのはどうしてだろう。そこに電子メールを送れば、今でも彼に届くような錯覚に陥る。

ローマ、トラステーベレのアパートは各窓から電線が垂れていて、屋根のアンテナに通じていた。

(3月31日ミラノにて)

アジアのごはん(44) 旅行に醤油と納豆

森下ヒバリ

しばらくタイとインドを旅してきたのだが、その出発のすぐ前に瀬戸内海の小豆島に一泊だけ行ったのである。小豆島というと、風光明媚でオリーブの木が至るところに生え、オリーブ園があり、オリーブオイルや化粧品、オリーブ飴にオリーブアイス、オリーブゆるキャラ人形までが売られている、オリーブで有名な島なのであるが、じつは醤油醸造所が二十軒もあり、醤油やもろみ、さらには醤油ソフトクリームに醤油プリン、醤油ドーナツまで作られている醤油の町でもあった。

せっかくなので、いつでも予約不要で工場見学が出来るというヤマロク醤油を訪ねることにした。石垣塀に囲まれた細い道をくねくねと通ってたどり着いたその醸造所は、こぢんまりとした古い農家のような佇まい。案内を請うと、気さくに蔵を見せてくれる。蔵の中に入ると空気は一変し、濃厚な菌の気配。古い大きな杉たるの外側も、壁も、柱もびっしりと白い菌叢に覆われている。ここの醸造所は百五十年の歴史を持っているという。この濃密な蔵の空気を吸っただけで、「ここの醤油、ぜったいおいしいで・・」と確信する。見学の後、ここで作っている何種類かの醤油を味見させてもらう。「う、うまい!」思わず何度もぺろぺろ。一度仕込んだ醤油を塩水代わりにもう一度大豆と麹を加えて仕込む「再仕込み醤油」がしみじみとおいしい。一緒に行った友人たちと醤油を買い込み、ヤマロク醤油を後にした。

その後、宿に向かう途中に、もう一軒醤油工場があったので、醤油の味見だけさせてもらった。「お味どうですか〜?」「あ・・(ちっともおいしくない)」そこもわりと有名な醸造所だったのだが、ヤマロク醤油の後では、ただしょっぱく感じるのみ。

翌日、帰りのフェリーに乗るため坂手港へ向かって車で走っていると、それまで通っていなかった道沿いに、次々と醤油の醸造所や醤油倉が現れた。うわ、こんなにあったのか。「この蔵の醤油、ぜんぶ味見してみたい〜!」と騒いでみるも、「もう時間ないからね〜」と通過。ああ、日本の旅はいそがしい・・。

そして、すぐにタイに行ったのだが、今回のタイ旅行に納豆をたくさん持っていったワタクシは、さっそく三日目にして納豆をかき混ぜ、「そうだ、マーシャのお土産にと思って持ってきたヤマロク醤油の小瓶があったやないの!」「え、せっかく持ってきたんやからあげたら?」「いや、この納豆にかけたら、めっちゃうまいと思うで」「そうやなあ」と、急遽お土産にあげるのをやめて封を切り、たらりと納豆にたらした。タイで売っている日本の醤油はあまりおいしくない。いや、はっきり言ってまずいです。とくにタイやマレーシアで生産している醤油は豆かすの臭さが鼻につく。なので、安い醤油を使うタイの日本料理屋の味は独特の豆かす臭さがある。

ヤマロク醤油で食べた納豆のおいしかったこと。はあ。その後、インドの旅からよれよれになってバンコクに帰り着き、バンコクの伊勢丹デパートのスーパーで買った日本製の納豆にヤマロク醤油をかけて食べたときには、泣きそうになりました。納豆添付のたれもなめてみたけど、味の素臭くて甘くて気持ち悪いので捨てた。
「おいしい醤油を持ってくると、いろいろおいしく食べられるねえ」「ほんまやなあ、なんでいままでそのことに気づかへんかったんやろ」これまでは海外旅行中に醤油がなくても平気だったからなのか。一度気づいてしまうと、もう戻れない。こんなおいしい醤油を知ってしまうと、もう戻れない。どうしてくれるヤマロクさん。

ちなみに、胃がもたれているとき、元気がないときに納豆を食べるとよくききます。かの発酵食品の権威である小泉武夫センセイは世界中を飛び回ってたいへんな量の食べ物を毎日胃に入れておられるが、その元気さと脅威の胃袋の秘訣は「納豆」にあるという。外国旅行にも必ず納豆を何十パックも持参し、長い旅には乾燥納豆を持っていくとか。ちょっと危ないかな〜と思うものを食べたときにも二パックぐらいずるずると食べるとだいじょうぶ、とか。

小泉センセイの「納豆の快楽」を読んで、そうか納豆を旅に持っていけばいいんだ、とはたと気がついての今回の納豆持参旅、日本食スーパーでさらに追加に買ってしょっちゅう食べるということをしていたが、なかなかいいものでした。インドにも持っていけばよかった。さすがに中級ホテルでも冷蔵庫がないのがふつうのインドには、ちょっと持っていく勇気がなかったのでした。移動も多いし。そうだ、次は乾燥納豆を持って行けばいいじゃないか。でも、あのぬるぬるがウレシイんだけどね。

ケンタック(その4)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

二羽の小鳥たちも同様に女性たちの方へ向かって飛んで来た。まるで自然界のことばで挨拶しているように小さな翼をはばたかせている。呼びかけることばに代わって動作と声で。ふたりの女性たちも同様な反応をした。小鳥たちも人間もこころの奥に隠された生命のつながりがそうさせているかのように挨拶している。精一杯。

ふたつの掌が小鳥の頭、身体の羽毛をそっとやさしくなでている。小鳥たちは天から舞い降りてきた天女に手で触れられ、目を閉じてかすかに微笑んでいるかのようだ。彼女たちが小鳥を地面から抱き上げてそっと手を広げると、二羽は翼を羽ばたかせて飛び上がった。そして翼と身体を震わせて、おなじようにひらひら揺れている天女の手と戯れ始めた。

そして何が起こったのだかもわからないうちに二羽の小鳥はわたしの視野から飛び去り、あっという間に丘の斜面から谷の方へと消えてしまった。その方向には雑草や乾いた茨が密生した中を通る細い道があった。この道を二人の女性たちもそれぞれに小鳥を追って音もなくゆるやかに走って行った。

わたしは人生経験を経た中年の男。ひそかにここに入り込んできている。この男は実は農民ではない。自由気ままなアーティストで絵を描いたり、詩を書いたり、歌をつくっていろいろなことを物語る。農耕は得意ではなくて、食べていくのに必要な程度の小さな家庭菜園を作っているだけである。米は買ってくるし、唐辛子や塩、プララー[東北地方のナンプラー]などは持って歩く。

「ここを降りていくとあちらに谷川が流れています」と、彼はかなたの深い谷を指さした。
「魚も食料も豊富にあって食べていくのに不自由しませんよ。あなた、素手で魚をつかまえたことありますか? あの谷の渓流では素手で魚を捕まえる方法があるって、あなた信じますか? 何も道具がなくても捕って食べられます」

わたしは、はいともいいえとも答えずに頷いただけだ。見たところ彼はまだほかにもさまざまなことを語りたがっているかのようだった。けれどもわたしたちにはあまり時間がなかった。わたしが去る時間が近づいていたから。

やはり丘にそって細い道がうねうねと下っていく。誰が作ったのだか、何世代の人間が何年かかってどれだけたくさんの足が通って今ここに見ているような道になったのだか。陽が大分傾いてきたのでわたしはその道を降りて行った。あの女性たちと二羽の小鳥のほかにも、何かとても興味を引きそうなものがある気がして、降りて行かずにはいられなかったのだ。(続く)

歩行者、通ります。

植松眞人

京都でも町屋が残る場所は数が少なくなった。特に、ここは町屋が何軒もつらなり、石畳の路地になっているので、映画やテレビドラマ、CMの撮影で引っ張りだこらしい。今回の映画の撮影でも許可が出るまでに時間がかかった。相手が渋っているわけではなく、依頼が多く、調整に時間がかかってしまうのだ。もちろん、引っ張りだこになると、相手の対応も横柄になる。実際、今回のやりとりも途中から「いやならいいんですよ」と、妙な具合に威圧され、やりにくいことこの上なかった。しかし、そんな鬱陶しさも今日の撮影が終わればきれいに忘れられる。

しかし、若手アイドルが男を追って通り過ぎるというだけのカットを撮るのにすでに三時間。これだけ時間がかかってしまっている理由はただ一つだ。カメラマンのサエキがこだわりにこだわっているからだ。サエキはこの道二十年のベテランで、画作りへのこだわりと、腰の低さで知られている。

そのこだわりが画面に本当に反映されるのか、シンイチにはわからなかった。大学の在学中から、撮影現場のバイトにかり出されるようになって二年。卒業してからもずるずるとバイトはしているが、映画とかテレビの現場を格別面白いと思うこともない。今回も、撮影中に車を止めてくれればいい、という約束で雇われたのだから、当たり前だ。撮影の良し悪しなんて一切わからない。

ただ、車が通れば「車、通りまーす」と声を張り上げ、スタッフに知らせる。本番中は車を止め、自転車を止め、歩行者を止めて、「早くしろよ」と怒鳴られながら「すみません、すぐですから」と頭を下げる。

シンイチは最初、車を止めることが難しそうだと感じていた。しかし、慣れてくると、意外に車を止めることは難しくない。それよりも、車を止めずに現場を通すことの方が難しいことに気がつくのだ。

車や人は「撮影中です。しばらくお待ちください」と合図すると百パーセントとまってくれる。それよりも、撮影の段取りをしているスタッフの脇を車や自転車、歩行者を通す方が、万一のケガなどを考えて緊張するのだ。
それでも、シンイチは大きな声を張り上げて、「車、通りまーす」「歩行者、通りまーす」と安全第一で迅速に動いた。

ところが、だ。カメラマンのサエキはどうやらシンイチが気に入らないらしい。何度も、シンイチの前にやってきては「ほら、ここにゴミが落ちているだろう。こういうのは、一番下っ端が気をつけて拾うんだ」とまくし立てる。シンイチはその度に「どこまで画面に映るのかもわからないのに、そうじなんか出来るか。お前が自分で見て、拾えば良いだろう」と心の中で反論する。もちろん、本人には言えないのだが、そうつぶやきつつ溜飲を下げるのである。

サエキはその後も、シンイチのやることに難癖を付けてくる。思うに、撮影がうまく進まない苛立ちをシンイチにぶつけていたのだろう。それでも、シンイチはなんとか我慢していたのだが、ひとつだけ我慢できないことがあった。それは、シンイチが歩行者を通す度に発していた「歩行者、通りまーす」という言葉をサエキが訂正してきたことだ。
「歩行者、通りまーす」

シンイチは、撮影隊に注意を促すためにそう声を張り上げた。歩行者もシンイチに一礼して通り過ぎていく。しかし、サエキにはそのかけ声が気に入らなかったようなのである。シンイチが、
「歩行者、通りまーす」
 と、声を出す度に、これ見よがしに大きな声で、サエキが言い直すのだ。
「歩行者、通られまーす」

最初は気がつかなかったのだが、シンイチが「歩行者、通りまーす」と言う度に、必ず「歩行者、通られまーす」と言い直す。確かに、車と違い、歩行者にはシンイチの声が直接届くことが多い。となると、「通ります」という言い方よりも「通られます」という言い方のほうが丁寧だ。丁寧な言い方でいらぬトラブルを避けるという配慮があるのだろう。それはわからなくもない。

しかし、それなら「歩行者の場合は、『通られます』のほうがいいよ」と教えてくれればいいじゃないか、とシンイチは思う。普段は周囲に「腰が低い」とか「やさしい人だ」とか言われているサエキの、細かすぎる嫌味な行動がシンイチには気に入らない。逆にサエキの言い方だけはしないぞ、と心に誓う始末なのであった。

「歩行者、通りまーす」とシンイチ。
「歩行者、通られまーす」とサエキ。

サエキは、段取りをしながらも必ずシンイチの「歩行者、通りまーす」を「歩行者、通られまーす」と訂正するのであった。

「歩行者、通りまーす」
「歩行者、通られまーす」

正しいことをごり押しされているような気がして、シンイチは、サエキの声の後にあえてもう一度声を出した。

「歩行者、通りまーす」

それを聞いたサエキがまた声に出す。

「歩行者、通られまーす」
「歩行者、通りまーす」
「歩行者、通られまーす」

歩行者がすでに通り過ぎているのに、しばらくの間、シンイチとサエキが互いをにらみつけながら「通ります」「通られます」と掛け合いを続ける結果となった。

その妙に緊張した空気はすぐに周囲のスタッフにも気付かれてしまった。監督がシンイチを呼びつけた。
「なにしてるんだよ。バイトがカメラマンに逆らってどうする」

そう言って、諭した。シンイチもそう言われると急に冷静になる。すみません、と謝ってまた持ち場に戻った。

撮影の準備が再開される。シンイチが、車や歩行者をスムーズに通すために、声をかけ始める。その様子をサエキはカメラの横で見ている。シンイチが監督に注意されていたのを見ていたためか、心なしか表情がほころんでいる。それがシンイチの気に入らない。

「歩行者、」
シンイチが大きな声で言うと、サエキがシンイチの方を見る。シンイチはシンイチで、サエキに目を向けたまま、唇の端に笑みを浮かべた。それを見て、サエキは眉間にしわを寄せる。そして、シンイチがそのまま、
「通られまーす」
 と大きな声で言った直後、今度はサエキが、
「歩行者、通られまーす」

そう言い直したのだった。いや、サエキは言い直したつもりだったのだが、シンイチが「通られます」と言ったために、ただ二人が同じ言葉を大きな声で言っただけのことになった。周囲のスタッフたちが二人のやり取りに笑った。出演していたタレントも笑い、監督も笑い、数少ない野次馬も笑い、サエキも照れて笑い、シンイチも笑った。

オトメンと指を差されて (46)

大久保ゆう

わたくし、このたび大発見を致しました。

といっても、おそらくその発見によって恩恵を受けるのはわたくしひとりなのですが、それでも、いやそれだけに、主観的判断からこの発見に〈大〉を冠することができるというわけで。で、そいつは何かと申しますと――

「床についているとき、横向きになって、その上で背中にブーメラン形のクッションをぴっとり合わせると、気持ちいい」

ということなのであります! いやこれは、これはこれは、まったくの盲点でございました。ということは、いわゆるボディピローというもの、これを我々は重宝しておるのでございますが、なんと抱きしめるよりも背中にぴったり当てておく方が気持ちがよいということなのですよ!

なんと、いやはや。

確かにボディピローは抱くことでその者に安心感を与えるものでありますが、抱きしめすぎれば力が入るわけで、起きたとき微妙に肩が凝っておったり、腕が変な方に曲がってちょい痛かったりします。それがどうでしょう、背中に置けば無理な力など必要なく、そこはかとない落ち着きが得られるのですっ!

置くべき場所が、間違っていたと、いうわけなのです!

使い方を、ひとつに思い込んでいたという、このていたらく!

この素晴らしき創造によって、わたくしの最近は快眠も快眠、むろん毎日は致しませんが、ちょっと疲れているときのとっておきの技として繰り出されるに至りました。これが私以外の人間にも当てはまるかは保証致しかねますし存じ上げません。

人間が睡眠を快とし二度寝が気持ちいいのは神の思し召し、人をそのように造られたからにほかならぬ、という思想がございますが(学生時分に中東の方からその説を拝聴して感銘を受けたものです)、それはけっして言い訳などではなく、神がそうしたのならば人もそれに従い励むべきでして、何度も申しますようにわたくしその快を最大化するためには努力を惜しまないものでございます。

さて睡眠の際に重要なことと言えば、もちろん〈香り〉もそのひとつでございますよね! よね!(押しつけがましい)

眠りにつく際どのような香りがしているかは、リラックスにも直接関わってくる話ですから、何よりも気に掛けねばならぬ要素です。と言えば、おそらく人はアロマだとか何だとかをベッドのそばからどうこう、ということをお考えになられるかと思いますが――甘い! まだまだおぬし想像力がお足りになりませんぞ。

わたくしも一時はアロマキャンドルやアロマのお香であれやこれやしていたものですが、あるときふと気がついたのです。あれ? これって、確かに便利だけど、おのれの鼻からいささか離れてはいないか、と。

そして考えたのです、鼻に最も近きところ、それは――枕! いや枕カバー!――だとすれば、そもそもいい香りがしなければいけないのは、部屋の空気ではなく、枕、枕カバーそのものではないのか!

そうすれば、てくてく歩きながら、わたくしは思いを巡らせるわけで、枕カバーの香りにもっとも影響を与えるのはいかなるものか、じかに香水を振りかけるわけにもいかぬ、ではでは何だ……うむそうか、おのれのシャンプートリートメントであるか!

ということで、わたくしの髪を洗うものは、わたくし好みの香りがすることがいちばんの基準となりましてございます。

そして、さらにさらに、あえて香りを愉しむために思い切り顔を真っ正面から埋める頭を預けるところであるならば、枕カバーの感触もよいものでなくてはならない、ということで、となればやはり、まるでぬいぐるみのようにふかふかふわふわの、タオル地であるのがよいのでは、よいのでは、よいのではございませぬか!

そんなの面倒だとか、なかなかないとか、お高いとか、あるいは旅先ではどうするのかとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、答えは簡単、お手持ちのお好きなタオルをお巻きになれば、あるいは旅先にもふかふかのタオルを持ってゆけばよいのであって、それだけでほら! あなたの枕はすぐにふわふ〜わに変わるのですっ!

(※ですので、わたくしの例の持ち運び用小型マイ枕にはいつもタオルが一緒にありました!)

快眠ライフとは、お金なんかなくても、ほんの少しの知恵と手間でもたらせるもの、いつもいつも、わたくしそんなことを楽しみながら眠っているのでありました。

ジャワ舞踊家(ソロ様式)列伝(1)

冨岡三智

思えば、ジャワの芸術家の系譜をまとめたような資料は、現地でもない。昔は宮廷が芸術の中心だったが、宮廷芸術はみな王の作品とされたので、実際に制作に当たった人の名前が出てこないのだ。芸術家の個人名が出て来るようになったのは、1920年代末から宮廷の財政が逼迫して(世界恐慌で宗主国のオランダが経済的に逼迫したため)、宮廷お抱えの芸術家がそれだけでは食っていけなくなり、宮廷外で活躍し始めたからだろう。

インドネシア独立前後のジャワ舞踊ソロ(スラカルタ)様式の舞踊家、舞踊指導者を列挙した、たぶん唯一の本が、1997年にスマルジョがジャカルタのタマン・ミニから出版した「ブンガ・ランパイ・スニ・タリ・ソロ Bunga Rampai Seni Tari Solo」なのだが、これは著者の個人的な思い出話が多く、各人物のプロフィール全体については述べられておらず、あまり資料として参考にならない。

というわけで、今回からしばらく、現在ジャワ舞踊について調べたり実技を学んだりする上で重要な人物という基準で、ソロの有名な舞踊家、舞踊教師を紹介してみたい。

1.クスモケソウォ(KRT Kusumokesowo 1909-1972)

スラカルタ宮廷舞踊家。1938年には宮廷芸術の総責任者となる。1950年に設立されたインドネシア初の伝統芸術の学校である、コンセルバトリ・カラウィタン・インドネシア(後のSMKI、現SMKN8)の舞踊教師となり、舞踊教育法としてラントヨを考案。1961年からプランバナン寺院で始まった「ラーマーヤナ・バレエ」舞踊劇の総合振付を手掛ける。「ラーマーヤナ・バレエ」初演時にはまだアトモケソウォという名だったが、翌年に宮廷から新しい官位と名前クスモケソウォを下賜される。

1954年、舞踊作品「ルトノ・パムディヨ」を振り付ける。これは、後の芸大学長フマルダニが、新しい時代のジャワ舞踊として絶賛した。宮廷舞踊のスリンピやブドヨに似た作品を多く振り付けたが、それらは現存しない。振付作品のうち、「ルトノ・パムディヨ」、「ゴレッ・スコルノ」(1960年頃の作)、「クキロ」の3曲はロカナンタ社から出ているカセットに収録されている(ACD-143番)。マリディが改作した子供の舞踊「マニプリ」も、元はクスモケソウォの作。

インドネシアの現代舞踊家のサルドノ・クスモや舞踊評論家サル・ムルギヤント、舞踊家のレトノ・マルティ女子やスリスティヨ・ティルトクスモなど、現在のインドネシア舞踊の著名な人々がクスモケソウォの門下から出ている。

2.ウィグニョ・ハンブクソ(RM Wignyohambekso)

という項目を挙げたものの、実はあまり詳しくこの人について知らない。日本に置いてきた資料にも詳しいデータはなかった気がする。

クスモケソウォが特にジャワ舞踊の基礎を方向づけた人だとすれば、ハンブクソはその創造性で多くの舞踊家に影響を与えた人だと言える。上に挙げたスマルジョも、またサルドノ(後述)も、ハンブクソはいろんな舞踊の振り(スカラン)を作り出す名人であったと言う。

この2人については、「水牛の本棚 NO.3」に収録されているサルドノの文章にも出て来るので、ぜひ一読を。サルドノは上の2人に師事している。瞑想を実践して自己を厳しく律し、舞踊の基礎を重視したクスモケソウォに対し、ハンブクソはお酒を飲むようなさばけた人で、新しい動きを生み出し…と対照的な人物だったようだ。しかし、この2人のことをよく知る人々から話を聞くと、2人はお互いに尊敬し合い、相談し合ったりもしていたという。たぶん、お互いが自分にないものを持っていたからだろう。

みどろの国から90――ベオグラードへ

藤井貞和

ベオグラードの少女の言う、
「私の生まれてから、国ではもう、3回戦争があった。
戦争って、そんなにひどいものではないよ!
思われるより悪くない。 父が言うように、
人が死ぬのは、そんなに簡単なことではない。
怖がらないで!」(2001年)

「数日間、停電。 冷蔵庫のなかの食料は、ぜんぶ
腐ってしまった。 食事をあたためる、方法がなくて、
冷たい、いろいろを食べた。 高い、建物に住んでいる、老人は
降りられない!」

「私の住んでいる、15階まで、お皿を洗うための
水を10リットル、一人で運んでいった。」

「よかったのは、
この空爆のとき、季節が春だったことだ。
ボスニアの戦争のときは冬で、
経済封鎖でつらかった。
北風は壁を無視しているみたいで、
骨のなかへ直接、はいる。」(ディヴナ)

ディヴナは、古いセルビア語で、「素晴らしい、
神々しい」(形容詞)。 デュシャンDušanは「duša(魂)の
特徴を持つ」。 あの少女が、10年をへて、
男の子の出産です。(2012年1月29日〈夜9時5分〉)

おめでとう! デュシャンのために、
写真を見ながら、作品を書こう。 近く送ります。
今度こそ、平和が世界に訪れる日であるように、
デュシャンのために祈ろう。 去年も今年も、
日本では祈念と喪と、そして新しい誕生日のための、
10年に向かって、動き出せないでいるけれども。(3月3日)

(1999年6月、数十万人の難民が帰宅し、行方不明者の必死の捜査が続けられ、日本ではいま、2012年、帰るなき人々を日本国の大多数の人々が、切り捨てて忘れようとし、喪なきわれらの同胞は洋上に、石のしたに鬼哭している。〈3月15日、南相馬市を訪れ、桜井市長、若松丈太郎さん、総合病院長にお会いしたあと、「警戒区域」(避難地区、立ち入り禁止区域)の検問場所の手前まで、行って参りました。〉)

製本かい摘みましては (78)

四釜裕子

八年ぶりに引越して、前回越したときとあまりに異なる二つのことに驚いた。自分たちの体力、それと、地震への備えの気持ち。いつでもとにかく壁には棚を積み重ねてきたから、このたびもまずは天井いっぱいまで並べ始めたが、どちらからともなく「これ、ないね」

作り足してきた棚は奥行きや幅がまちまちで、そのせいかいつごろどの場所のために作ったのかけっこう覚えているものだ。模様替えや引越しのたびに入れ替えたり組み直したりしてきたが、今回は高く積み上げることはやめ、あふれた本は近所の新古書店にまとめて売ることにした。段ボールを開いてはあらため、処分するものを別の段ボールに入れ直す。どんどん増える。面白いほど作業が進む。躊躇がない。私にとっての「捨て時」らしい。

経営者が決断する事業の「捨て時」とはいったいどんなものだろう。無知と無責任と無邪気を全開して、それを「思いとどまってください」と言いに名古屋にでかけた。昭和三十三年創業、和文欧文の厖大な数の母型をはじめ五十台の活字鋳造機やベントン彫刻機から印刷機まで揃う活字鋳造所だ。手動鋳造機も現役だが、事業縮小、もしくは廃業をお考えという。社長自身がすべての機械のメンテナンスと操作をこなせるので、この工場で地金から活字を作り組版して印刷するすべてを見ることが可能だ。今の日本でそんな場所がほかにあるのだろうか。

聞けばすべて独学という。ひとができることは自分もできるはず、と、次々に技術を体得したそうである。ある時期には凝って千五百種の家紋の活字を彫り上げた。見せていただいたが繊細で均整がとれていてスックとしてなんとも美しい。四隅には通し番号も振ってある。会社を経営しながらのことだから、休日や終業後の作業で八年かかったと社長は笑う。「社長込みで工場まるごと活版産業技術遺産!」ふざけて言ったが、言葉通りのようにも思う。遺すべきものを見分ける目と遺していく知恵が欲しい。

犬狼詩集

管啓次郎

  53

夜の中からぼんやり犬の顔が浮かび出るんだ
吠え声が突然現実化する
獰猛な毛並みで何を守るのか
何を敵と思い何を信仰するのか
緑と赤のネオンサインが交替するとき
夜の親密さはエル・パソとシカゴをむすびつけ
感情と運命をきびしく判別する
ぼくは気にしない
犬1は小さな無尾犬、弱々しい抗議
犬2は痩せたブルテリア、そもそもあまりやる気がない
犬3は忠実な牧羊犬で死者の魂にも目を光らせる
さあ午前二時の太陽を探しにゆこう
道路を蹴ってかけてゆく羊たちの群れが
空っぽの都会では夜汽車のようにうるさい
ざわざわと路面から牧草が生えてくる
これもまた魔法昔話の起源

  54

詩は現実にとっての夜だから
詩は叫びにとっての無音だから
誰も知らないこの夜の風景をきみのために指さすことにしよう
月の光が湖のような効果をもって
10センチくらいの水深で世界をひたしている
ひとつの岩山から次の岩山へと
小舟を漕ぎ出してわたってゆけそうだ
この光景こそいわば世界に関するshorthandで
この圧倒的なしずけさに立つならばこの世の
あらゆるばかげた戦闘の背後にあるものも想像できる
ぼくらの都市の枯れ果てた根も理解できる
生きてゆくことのshorthand
跳ね出した野うさぎの気まぐれな進路を
三つのヴァージョンの音を欠いた動画で見せてくれ
しずかにふるえるゼラチンの風景群が
きみの深い思考をふるさとのように問いただす

掠れ書き17

高橋悠治

ホイジンハ『ホモ・ルーデンス』で、プラトンの『法律』の一節が引用されていた。「人間は、前に言ったように、神の遊び道具として作られ、一番良い部分はまさにそこだから、そのあるままに、男も女もみなこのうえなく美しくあそびながらすごすがよい、いま思っていることとは反対に。」(7巻803d)『法律』1巻644dでは人間は神々の操り人形で、内部の情動の紐が引くままに、わけもわからずぶつかったり離れたりする、とも書かれている。

クセナキスの論文集を訳しなおしている。1975年に『音楽・建築」として出したが、一語ずつ辞書を引きなおし、複文を解体し、長い修飾節を並べ替え、接続詞や代名詞のように外側から操作することば、形容詞や副詞のように判断しながら時をかせぐことばをできるだけ取り除いて、考えすすむプロセスを見ると、旧訳がまちがっていた箇所や、クセナキスと別れてから忘れていたことが浮かび上がって、なかなか作業がすすまない。

1月にマラン・マレの『膀胱結石手術図』を演奏してから、朗読と楽器の音楽に興味をもった。6月には辻まことの『すぎゆくアダモ』を朗読とピアノと原画の映写で上演する予定。その次はフランスの妖精物語『緑のヘビ』によるピアノ曲のために、17世紀末の原作と19世紀の英訳から、できるだけすくないことばを抜き出してテクストにする。朗読はあってもなくてもよいだろう。ラヴェル『マ・メール・ロワ』の第3曲にその一場面『パゴードの女王レドロネット」があるので思いついたが、原作は長く複雑なので、要約するのはとてもむずかしい。お決まりの幸せな結末まで行かないで、不幸のどん底で打ち切ることにする。

フローベルガーやマレのようなバロック描写音楽は、静止した瞬間の並列「活人画」(tableau vivant)で、フレーズごとに何かが起こる。サティの『星たちの息子』では何も起こらない。舞台の木が登場人物に共感してふるえたりしないように、音楽はドラマから距離をとって動かない。

Phewといっしょにベケットの『なんと言うか』をやってみた。クルターグの作曲があるが、それではなく、いくつかの響きやフレーズのスケッチを見ながら、即興でピアノを弾く。声も時々歌になったりする。どこへすすんでいくのか、どうなるかわからない。音をできるだけ削ろうと思うが、声が聞こえると反射的に弾いてしまうことがある。聞きながら次の響きを見つけるのは、ゆっくり慎重にすすめる声と楽器のあそび、小さな場所で、限られた聞き手の前でしかできないだろう。

モートン・フェルドマンが言っているように、フレーズをそのまま反復しないで、音を足したり引いたりし、ゆっくり変化していくことと、少しずつまとめて染めた糸を使う色斑(abrash)のある織物のように余韻のなかで次の響きに移ること、テリ・ジェニングスやモンポウのように、安定した響きに異質な音程を添えて、揺らぎをあたえ、対称性を破る。

スタジオイワトではじめた50人のためのコンサートシリーズは、作曲と演奏の実験室にしようと思う。店先の仕事場で職人がやっている作業のように、見通しよく、閉じていないが、じゃまもされない場がいい。

アニヴァーサリー・ブルースは歌えない

くぼたのぞみ

アニヴァーサリーは傷つける
身体を無感覚にする
気持ちをしたたか殴りつける
とエドウィージが歌うブルース
大災害から何周年
というのは とりわけ
とエドウィージが歌うブルース

大地震がハイチを襲った
2010年1月12日
東日本を襲った
2011年3月11日

さらわれたものたち
声をなくすものたち
立ち尽くすものたち
瓦礫のしたに
極寒の氷雪の重みに
暑熱の濁り水に
レイプの暴力に

耐えたものたち 
耐えられなかったものたち
近くへ駆けつけるものたち
遠くで思いをはせるものたち
思いはせれば
すこしずつ
あらわになっていく
おのれの醜悪さに
顔をそむけるものたち
そむけずに正視しようとするものたち
問題は11日ではなく12日からだと
正視して動く あたらしいものたち
ひとの砂嵐のなかを 嘆きを胸にたたんで
ひとり ひとり 前へ進もうとするものたち
目を開くと そこにいる 
あたらしいものたち

ろうそくの炎の揺れに
持続する動き
持続させることばに
震える
その ものたちに
ひとりの 
そのもの たちにも
もうすぐ春がくる
花咲き 鳥歌う春がくる
でも──思うのだ やっぱり
流すばかりのこの土地で
アニヴァーサリー・ブルースは歌えない

54の消せない火種があるかぎり
アニヴァーサリー・ブルースは歌えない
まだ 歌えない
歌えない よね
まだ

オトメンと指を差されて(45)

大久保ゆう

ただいま湖畔のカフェにてこれを書いております。そうなんです、湖のほとりの喫茶店にてものしておるのであります(とりたてて意味のない繰り返しアピール)。

窓の外では遊覧船が停泊し、強い風とともに雪が降っており、そしてわたくしのご友人の方々はみな忙しくなったりあるいは遠方へと散り散り(そこへ来ておのれは地元へ帰り)、ひとりお茶をしながらぼんやりしているところで、そういえばそういえばこの原稿を書かねば、と思い出して今に至るわけですが、たとえばそんなことをしていなければ何をしていたかというと、やはり翻訳なのでしょう。

そもそもどなたかとお茶をしても、基本的にはわたくし、相手のお話を聞くばかりでほとんど自分からしゃべらないものですから、カフェで翻訳をするとしても、それも同じく相手のお話を聞くということであって、そこには相手が生きているか死んでいるかといった違いしかございません。

いやむしろわたくしの場合、死んでいるお方との方が積極的に活発に、対話なるものを致している場合があり、そう考えてから思い起こしてみるに、生きている人とお話するときでさえ、その基本には死んでいるお人とおしゃべりをする技術が元にあるわけでして、言うなればそれは〈おうかがいの技〉みたいなものなのですが、生きている人を死んでいる人のごとく扱うという一見失礼なものでありながら、説明すればその人のしゃべる言葉の意味はご本人が口にした瞬間のその方の頭にしかないのだからわたくしの耳に言葉が届く頃にはそれはすでに死んでしまっているのだという至極まっとうな背景があり、ゆえにそれをわたくしの頭のなかで蘇生するということであるのです。

しかしながら世知辛いことに昨今は、死んだ人との対話よりも生きている人とのおしゃべりを大事にするという風潮がございまして。いわゆるコミュニカシオンであります、こいつがわたくし大の苦手でして、どうしようもないのでございますが、そうしてみるとわたくしは今の今までひとりとして生きた人としゃべったことがないのではないかという疑念も起こってきてしまうわけで。もちろんこれは比喩にすぎないわけですが、そういう見方をしてしまえば、わたくしにはこれまでただひとりも生きた友人や仲間や先生や恋人などがいなかったという想定すら成り立ちえて、そうすると我ながら非常に哀れな生き物としてもはや憐憫を禁じ得ません(いっそのこと禁じてしまってもいいかもしれません)。

つまりわたくしの友人・恋人・先生はずっと翻訳なる〈死んだ者との対話〉であったわけで、その奇妙さは某サッカー少年の〈ボールは友だち〉に追随してしまうかもしれないのですが、それでもなおわたくしにとって〈死んだもの〉とは常に愛おしくもつらく忘れがたいものとして、生きている者よりも上にあるのでしょう。

死んだ人のことを考えるということは、自らを開くということでもあり、無防備にならざるをえず、したがって保身とは無縁のところにあります。傷つき続けることを運命づけられるわけでありますが、むろん生き延びるということとは真逆の行為で、生き物としては拙劣としたものでありますから、普通に考えれば、始終やるわけにも参りますまい。

ただ、こうも思うのです。

一年のなかで一日だけでも、あるいは一分、一秒だけでも、そういった死んだ人とのおしゃべりができない人、なさらない人――そんな御仁がいるとしましたら。

やはりそういう方を信用することは、わたくしには致しかねます。

考えるのすすめ

大野晋

品質管理を専門にされていた東大の飯塚教授が定年退官される。研究者としては非常に脂がのりきる面白い年齢なのがもったいないのだが、先日、その退官を記念した会に参加してきた。ざっくばらんな会なので、いろいろな話ができて面白かったのだが、その中で、世の中で抽象化して考えられる人間とできない人間がいるらしいという話になった。私などは抽象化してしかわからない人間なので、ふむふむとは聞いていたが、抽象化技術が先天的なものだと言ってしまうとプログラマとしては、できない人間が切り捨てられてしまうので、「いやいや、最初はできなくてもある程度ならトレーニングでなんとかなるでしょう」と意見を述べておいた。まあ、それでも、絶対に向かない人というのはいるのだが。

そんな話をしながら、ここのところずっと考えてきたシステムについて考えてみた。システムは基本的には人間の形づくるありとあらゆる人工物の総称だと考えるとよい。社会学の一派では、一種の図式ができるとそれでできあがりみたいなシステム思考という分野があるのだが、これは図式が問題というよりも対象をいかに抽象化して考えられるかといった問題なのだと理解している。いわゆる飯塚教授式には先天的な才能なのだが、そういってしまうと終わってしまうので、ここではみんなができるものとして話を進めたい。

最近、おかしいと思ったもののひとつに、某国営放送局の放送料の契約というのがある。先日、家の呼び鈴が鳴るのででてみると、いきなり、「家の中を見せてください」とおかしなことを言ってくる。基本的に話の順番が違うので、誰かと問うと国営放送だという。衛星放送が見えるはずなので契約を変えて欲しいという。変えてもいいのだがまるで見ないのと、その前に訪問の応答がおかしいので、これはいわゆるなんとか詐欺の類ではないかと思い、けんもほろろにあしらってしまった。後で調べると、ずいぶんと契約変更に関するトラブルが多いらしい。

まあ、自分の名前と訪問理由を述べずに、いきなり家の中に入れろというとんでもない営業は置いとくとしても、基本的に衛星放送というもの、営業というものが理解できていないことに驚いた。営業は会社の顔であるはずで、それは顧客の直接の接点であるゆえに大切なのだ。私はまだ新入社員の頃、会社の外に出たら、会社の看板を背負っていると思って恥ずかしくない行動をしろと教え込まれたものだ。もし、契約だけとれればいいと思っているのなら、やがて、組織の存在意味を問われることになりかねないと思う。本来なら、営業活動に触れた人たち(訪問先や訪問で契約した先、もしくは新規に契約した受信契約者)にアンケートをとって営業品質の確保を図るべきだろう。これは、契約増強という問題について、単純にチャネル強化したからに違いなく、契約窓口というシステムを総合的にみられなかったからに違いない。そもそも、衛星放送というものについても一度意味を見つめなおすべきなのだと思う。当初は離島や山間部などにおける難視聴対策と意味があり、実験放送ということで高画質の放送を唯一行っていたので、一般契約者については高画質視聴のプレミアサービスとして考えればよかったかもしれないが、現在は地上波がデジタル化した関係で地上波でも高画質のテレビ放送を受信できるようになっているのだ。この状態で、プレミアサービスと言われて納得するユーザも少ないだろう。

ひとつ、システムを考え直してみてはどうだろうか? 衛星放送は実は海外で日本の放送が見られる手段だったりもする。実は海外では、放送契約なしで衛星放送が受信できる。そういうユーザがいる前提で、日本の基本的な放送手段として衛星放送を一番に据えて、むしろオプションのプレミアサービスとして地上波放送を考えたらどうだろうか?この方がむしろ切り替えに際して、スカッと行ったような気がするのだが?

まあ、とりあえず、きちんとしたシステム思考でものごとを考え直してみることを進めたい。そこには新しい世界が広がっているかもしれない。