だれ、どこ3

高橋悠治

●歴史的身体

2011年はクセナキス没後10年だった。2012年はケージ生誕100年で、ヨーロッパやアメリカでは多くの記念行事がある。最近の作曲家は自分の作品より長く生きて、晩年は忘れられ、有名なだけで作品は演奏されないこともある。ストラヴィンスキーは最晩年にニューヨークのホテルで暮らしていた。入院したが酸素テントの下でロシア語しか話さず、聞き取れるのはヴェラ夫人とバランシンだけだったと言われる。亡くなって1年間はすべての作品が演奏された。次の年には『春の祭典』と『兵士の物語』だけになった。武満の最後10年間は、日本では演奏されなくなり、委嘱はアメリカとヨーロッパだけだった。亡くなって1年間はあらゆる作品が演奏され、それ以後は他の現代作品を演奏しないで済むために、ポップソングばかりが演奏されるようになった。クセナキスの最晩年もフランスでは演奏されず、委嘱はドイツとイギリスから来た。音楽は商品で、作曲家の名前はブランドになったようだ。音楽への興味や発見のためではなく、業界のアリバイのために使われるのだろうか。

ケージやクセナキスはいまでは研究者たちに解剖される死んだ音楽標本になっていく。できあがった作品の細部まで分析しても、残された繭の構造のみごとさからは、飛び去った蝶の姿は見えないだろう。短い20世紀と言われる。1914年までは19世紀ヨーロッパの長い終わりだった。その後は戦争と革命の時代で、伝統は破壊され、新しさを求めた試行錯誤が続いたが、1920年代の終わりから、実験の行き詰まりから引き返し、機械文明への素朴な信仰をもったままで「バッハ」や「原典に帰る」新しい権威主義が支配し、1960年代の終わりには失速したが、まったく崩壊するまでには1990年を待たなければならなかった。その後の、先の見えない賭博経済と民族紛争しかないこんな時代の音楽の現実からは、固定したカテゴリーやシステムや方法を論じたり、すぎてしまった新しさに価値や展望を求める態度には、縁遠いものを感じる。過去は技術だけではないだろう。規則や定義や理論としてはっきり限定されないままに、世代を越えて受け継がれる文化伝統、音楽的身体や感情は、歴史の可能性とも言えるし、音楽的ふるまいの環境でもあり、呼吸する空気でもあるだろう。

●ジョン・ケージ

ニューヨーク州バッファロー、冬の朝。「ヴィクトル・ユーゴー」アパートの窓の外で口笛が聞こえる。ネジやゴムのたくさん入った箱をもって、ケージといっしょに『プリペアド・ピアノと室内オーケストラのためのコンチェルト』に使うピアノを準備しに行く。

ピアノの弦の決められた位置に箱のなかの大小のボルトを差し込み、共鳴する倍音を聞きながら位置を微調整する。イチゴジャムの瓶の蓋の裏に貼ってあるゴムの環をはがして切ったものを差し込むと、曇った余韻のない音になる。このようなゴムの環はもう見つからない。1940年代アメリカの日用雑貨だったのだろう。ケージの好みは「歌う」小さい音で、ボルトが大きすぎてノイズが増えたり、ピアノの響板に触れるほど深くねじ込まないように注意される。ピアノによって音色はちがう。コンサートグランドよりすこし小さいサイズのピアノに合わせて、材料をはさみ込む位置が決まっているようだ。倍音のバランスでどんな響きがするか、やってみないとわからないが、材料や位置は細かく決めてあっても、その結果の音色は決まっていないのが、プリペアド・ピアノに限らず、ケージがプロセスを重視する態度の表れと言えるかもしれない。「警官じゃないから、人のやることを監視するのはいやだ」と言うが、そう言ってもいられない時もあるだろう。「心(身)が躾けられれば、恐れはたちまち愛に変わる」というマイスター・エックハルトのことばを信じたいが、現実はそうはいかない。きびしく自分を律して、心をひらくように努めてはいても、時には抑え切れない時がある。寛容の仮面の下から恐ろしい怒りが顕れてくるのをたまたま見た人たちはおどろくが、それは新しさへの探究心の裏側にある本来のピューリタン文化かもしれない。

ケージはさまざまな教えをお互いに矛盾するものも取り入れて、元のものとはちがうかたちでやってみる姿勢がある。シェーンベルク、カウエル、サティ、ウェーベルン、マイスター・エックハルト、クマラスワミ、鈴木大拙、周易、ジョイス、ソロー、マーシャル・マクルーハン、バクミンスター・フラーと続く影響の長い列。意識的に読み替えたと言うよりは、アメリカ的な「文字通り」を信じる聖書原理主義と似た姿勢からの誤読でもあるように見える。

第2次世界大戦後の日本は外からの情報に飢えていた。楽譜もなく、だれかが持っていた戦前の楽譜を手で写すことで音楽をまなんだ。シェーンベルクの「ピエロ・リュネール」を團伊玖磨の家の押入を留守中にかき回して見つけ、借りて全曲を音楽ノートに写した。そこで見た小節線のない楽譜のページをずっと記憶していて、数十年後に再会したのがモンポウだったりした。ウェーベルンの楽譜もレボヴィッツの本の譜例からスコアに再現したし、ブーレーズの「主なき槌」の初版、手書きのほとんど読めない音符を解読して清書したこともあった。クルターグと話した時、戦後ハンガリーでもやはりウェーベルンの楽譜を手で写したことをなつかしく思い出していた。そこでは楽譜がないばかりか禁止されていたから、もっと切実だったはずだ。

ケージについてはヴァージル・トムソンが書いた雑誌記事を紹介した秋山邦晴の文章がてがかりだった。易で作曲すると書かれていたが、その楽譜が入手できないので、自分で考えて作ってみた。北園克衛の『記号説』による断片で、それを見た柴田南雄が作曲した「記号説」からしばらくのあいだ、セリエル技法と北園克衛のテクストによるいくつかの曲の初演がつづいた。詩人はそれらの音楽は認めず、サティやプーランクのほうが好きだったらしい。クセナキスが作曲に確率論を使うこともシェルヘンの雑誌で読んだが、具体的にどうするのかわからないので、自分のやりかたで電子音楽『フォノジェーヌ』を作った。19世紀末の作家ユイスマンスの『さかしま』のなかの人物デゼッサントが入手できない本は自分で書いてしまうのとおなじだ、と思っていた。だが実際に『さかしま』を読んだわけではなく、だれかがどこかに書いたことのおぼろげな記憶で言っているだけだし、遺産で暮らすデゼッサントの知的放蕩とは反対に、当時貧しかった辺境の国々の貧しい若者たちは、ケージやクセナキスのやったこととはちがう結果になっても、欠けているものを発明しながら切り抜ける必要は、いまカネさえ払えば手に入れられる情報や、アカデミーで技術として習えるような時代には失われたのかもしれない。

『Winter Music』(1957年)は、ページの上に和音が散らばっている。これを指定された音部記号とそれに属する音の数を示す数字にしたがって読むのだが、演奏のその場ではできないから、自分で解読譜を準備する。こうして20ページを左から右へ、上から下へと読み解いた楽譜を作ってそれを弾いていたが、最近気づいたのは、20ページに順番がないと同様、これらの和音にも順番の指定はどこにも書かれていないことだった。そうしていけないわけではないが、和音の順番やページ上の位置と出現時間は決められていないし、連続性もないようだ。しかし、指定されたことを読むだけで、何が指定されていないまでは読みとらず、そのまま何十年も弾いていた。最初は草月会館でのリサイタルでⅠページ5分で演奏し、全ページ弾くのには1時間40分かかった。聴衆はドアを開けたままのホールとロビーを往復して、結局ほとんどの人が最後までのこっていた。その次の年には、日本にやって来たケージとデイヴィッド・テュードアと、日本に帰ったばかりの一柳慧と4人で2ページづつ分担して4台のピアノで演奏した。ヨーロッパでも何回も弾いた。1960年代のヨーロッパでケージを演奏していたのはフレデリック・ジェフスキーだけだった。メシアンでさえ、ロリオ以外のピアニストはほとんど弾いていなかった。ブーレーズのソナタもだれも弾かなかった。いまは音楽学生たちでも弾いている。

ケージの1950年代までの作品では、構造・方法・形・材料を区別している。構造の定義は全体と部分の関係、方法は音から音への進行、形は表現形態、材料は音響と沈黙。構造は器で、形は内容。暦とその時起こったことのように、あるいは窓枠と風景のように、器と内容は無関係にあり、何が起ころうと、時は過ぎてゆく。それはヨーロッパにはない感じかたかもしれない。ミース・ファン・デル・ローエのような近代主義を連想することもある。枠はリズムで、材料は音色だとすると、そのリズムは、駆り立てたり揺れるアフリカ的リズムではなく、平静に時を刻むガムラン的リズムだが、ガムランがめざす最終拍への方向感や微細な加速をもたない、むしろ音色の組み換え遊びといった軽みが感じられる。(この項つづく)

翠ぬ宝85――水の泡祭文

藤井貞和

仏桑華(ぶっそうげ)咲く天のうてなから飛び降ります白い衣裳は能の舞台か
ら借ります八万四千字が祈る曼荼   羅の南麓で世界から真言を集める花
かごの徒歩の列が続いていま  す疲労  が怨嗟に変わり怨嗟が疲労に代
わり果て眼下にもう終わっ  た都市を見て  いると不意に涙が湧いてくる一
人の聖人です神通力  はもうありません苦行は  ヒマラヤ山脈に捨ててき
ました静かな心臓  の音が水流を   転読し清冽  な空気にふれると思い
出すことと言っ  たら修行の日  の奥の  院の失敗  や浅瀬での禊ぎの
手抜きです  洗うのですか  なだらいに手  をひらひら  泳がせて快楽
は無限の  向こうから  望遠鏡でこちらへ呼  び込むのです  明けない地
壇の  暗部が未明という  よりほの明るく  て朱塗りの地底がそ  っと覗く
基部の  火山の砂があえか  な肌の羽  に匂いを立てました  そこからは
冷気です南  無かんなづきをゆ  るや  かに竹取が元年  の半分で待った
街の幻影は旧い  古代から新しい   面へすこし動く計  画の高地の互いの
海峡の嵐山が大悲  を乗せる奪うかたちの芸能者に  もだえは破線の系図の
嫌疑を打つ桟橋崩壊賛  歌は比叡をいくつか下  り業務はひたすら恐竜のの
ど元で探すこと朽ち果てた  天使の骨草の  深い大文字の高度を斜面で受け
止める経文は華厳も法相もお  しなべて  包む三千の眼の祈りです災いを許
しません認めませんないのですない  災いが降り注ぐ読経に影がありませんま
れびとのあとから南無阿弥陀仏

(迷路を出られない自分を図示します。9月25日に『東歌篇――異なる声』〈反抗社出版、カマル社発売〉を出しました。5〜7月の期間、ずっと調べていたので、書いたのは8月の短い時でしたが、記録そして記憶としては正確さを押さえたと思っています。思いだけ大きくて、ちいさな「明日の神話」です。和合亮一のツイッターを、私は出来ませんが、紙媒体でも追いかけられるという感じはのこせたでしょう〈今回は宣伝です〉。「水の泡」かも。)

オトメンと指を差されて(41)

大久保ゆう

なんといっても心の鼻血なのです。どばどば。

こればかりはいかんともしがたいと言いますか、やむをえず生まれてしまうものでして、わたくしの日頃の言動を気にしていると、しばしば口にしたり筆にしたりしている事象なのですが、そういえば先日ふとこのことを誰にも説明していなかったのではないかと思い至り、今回の文章に及ぶわけでございます。

語釈致しますと〈心のなかで鼻血を出す〉ということでございますが、ここで申し開き・弁解・言い訳差し上げますと、これはあくまで世を欺く・しのぶためのものでありまして、ゆえあって表に出せないものであるから心のなかで出すのであります。

何というか、わたくしはもう大人になり30歳にも近づこうかと男性であるのですが(ときどきまだ20代半ばくらいには見られることもありますが)、そうするとなかなか子どものようにはしゃいだり感情を素直に表に出したりすることははばかれることもございまして、またそれが対象によっては年齢や性別の壁などがあって余計にそのまま出してしまってはただの怪しい人になりかねないということがあるのです。

しかしどんな立場にあろうと素晴らしいものに出会ってしまったら興奮してしまうというのが人というもの。そこで表だっては反応できないといいましょうか、人様から見えるところではぐっとこらえて、あくまでも平然と、(とりわけわたくしの普段の服装身だしなみにそぐうよう)お澄まし顔をしつつ、自分のうちに秘めたる興奮としてあえて心のなかだけで、ひっそりどばどばと鼻血を流すのであります。

たとえばわたくしが街を歩いていて、通りがかりに見かけたスイーツショップなり雑貨店なりのショーウィンドーに足を止めて、ながめているとしましょう。その様子は、知らない人から見ればなにやら真面目そうな男性が真面目そうにもしかして誰かにプレゼントするために考えているのかなといった風に見えるでしょうが、その実、おのれの欲望と興奮のために心のなかでは鼻血がどばどばと流れっぱなしでそれどころが心のよだれまでこぼれているという有様なのです。

あるいは、会話のなかでわたくしが冷静に何かモノをほめたとしましょう。小物や絵本のデザインや中身などをいたく評価して、説得的な言葉で話している相手にほしいと言わしめんばかりの口振りであるけれども、表面的には実に落ち着いていると。けれどもこれもまた、なかをのぞいてしまえば、好きなことをしゃべるとき特有のかなり高いテンションになっており常時鼻血が垂れているばかりかそもそも他人に話しているというよりそれをしゃべる自分にうっとりしているどうしようもない人であったりするのです。

ましてや絵本作家の展覧会などに行って、わたくしが掲げられた原画をすっくと直立していかめしく見ているとき、それは端から見るだけでは何か真剣なお勉強か研究のために来ている人に見えなくても、本当はただシンプルに〈かっこいいもの〉を見たくて内心どきどきそわそわしっぱなしの、鼻血をためらうことなく直下にこぼしっぱなしのアレなんでございますよ。

ですから何てことのない次の文章も。

「秋って言えば確かに読書の秋なんですが、読書は普段からするものですし、秋になったから旬の本が増えるというわけでもないんですよね。でもそれに引き替え食欲の秋は、その時期にだけ美味しさが倍増するもの、そのときにしか食べられないもの、があるわけじゃないですか。そうするとどうしても、秋はこちらに集中してしまうわけなんです。」

鼻血を出している箇所に括弧書きで擬音を入れてみるとこうなるわけです。

「秋って言えば確かに読書の秋なんですが、読書は普段からするものですし、秋になったから旬の本が増えるというわけでもないんですよね。でも(どばっ)それに引き替え食欲の秋(どばばばどばっ)は、その時期(どばーっどばーっ)にだけ美味しさが倍増するもの(どどどどどどどっ)、そのときにしか食べられないもの(ばばばばっばーっばばばーっ)、があるわけじゃないですか(どば)。そうするとどうしても(どっどっどっ)、秋はこちらに集中してしまうわけ(ばーばばばばばっばーっばーっ)なんです。」

まあこの連載では鼻血出しっぱなしなわけですけどね(どばばばー)。

何にせよ、ここでまともな話もしておくと、ただ表に出さないというか、我慢するというだけでは、人間おのれを保のも難しいということでして、〈鼻血を出している自分〉というイメージがひとつあるだけで、感情なりなんなりの行き場ができるというか、そういうのはとても大事なことですよね。また内心の自由を満喫するという意味でも。

というわけで、わたくしの周りは日々血の海だらけなのです。しかも秋ですからね。気分はもう紅葉。

製本かい摘みましては(74)

四釜裕子

製本講座をするときには、紙や筆記具のみならず糸でもビーズでもシールでもレースでも手持ちのもので使えそうなものがあったらなんでも持ってきてと言う。最近目立つのはマスキングテープの多用。具体的にはカモ井加工紙の「mt」で、ほとんどのひとが持っている。数人集まれば「とりかえっこ」がはじまって、自分では選ばない色柄と組み合わせることで生まれる効果でもりあがる。

mtの魅力はなんといっても和紙の質感、そして、安定感のある色合いだろう。さらに柄が加わって、今やいったいどれだけ種類があるのか。10月31日から11月8日まで東京・渋谷で「mt博」が開かれるというので行ってみた。駐車場の車も含めて会場全体がカラフルに彩られ、1階にはもりもりとmtが並んでいるようだがあまりの混雑で踏み込めない。レジには箱買いした人が長蛇の列、限定品かなにかあったのか……。人ごみを背にしたら奥の部屋に断裁機が見え、職人さんがテープ幅に断裁している。粘るから刃物に水をかけながら切るのだそうだ。見た目でしくみがわかる年季の入った小型の機械だ。2階の和室部屋には同社の商品パッケージや広告があり、ごく簡単に社史を眺められる。

カモ井加工紙は1923(大正12)年に倉敷で創業したハイトリ紙のメーカーである。天井から吊るすリボン状の蠅取り紙は子どものころに見ていたが、それとmtがルーツをひとつにしているとは『粘着の技術 カモ井加工紙の87年』(吉備人出版 2010)を読むまで知らなかった。岡山の方言で蠅をハイと呼ぶことから「ハイトリ紙」と名付けたそうで、最初は平らな紙だったが1930(昭和5)年になって上からぶら下がるものにとまる習性のあるヒメイエバエ対策に「カモ井のリボンハイトリ紙」を売り出したそうである。蠅がついていなくても茶色のベトベトがなんとなくコワイというかキタナイように感じていたのは気のせいだった。実際はハトロン紙に松ヤニを塗っただけ、くるくるとテープを巻くのは手作業だったと本にある。

粘着技術を活かして和紙の工業用テープを発売したのが1962年。日本では車塗装の養生用に大正の初めころからあった和紙の絆創膏テープを最初は代用したそうで、同社が専用テープを開発するにあたっても和紙を基材としたようだ。海外のマスキングテープの基材はクレープ紙(しわ加工してある)で和紙より厚い。和紙のほうが手で簡単に切ることができるしコーナーでも曲線を作りやすいので、同社は和紙にこだわってきた。和紙テープの構造を見ると外側から剥離剤、背面処理剤、和紙基材、アンカー剤、粘着剤の5層。比べてクレープ紙は剥離剤、クレープ紙、粘着剤の3層である。和紙の強度だけが同社の強みではなさそうだ。

1969年に6色のカラー・テープを発売したこともあるが、現在のような雑貨としてのブームを生むきっかけとなったのは、2006年に東京・経堂のROBAROBA cafe店主いのまたせいこさん、コラージュ作家オギハラナミさん、グラフィックデザイナー堀内歩さんが自主制作した「Masking Tape Guide Book」と、3人の申し出による工場見学にある。2007年11月、mt全国発売。たった4年前のことなのか。手製本の表紙に飾りとして貼られたmtはこれから時間が経てばはがれることもあるだろうが、古本に残されたセロハンテープのように両端が反り返ったりべとべとしたりぱりぱりになったりすることはないだろう。mtはいかにも丈夫で柔軟で、しかも跡形もなくはがれてくれるもの。いや、「テープ」つながりでセロハンテープをここに持ち出すのは反則か。透明のテープは当時いかにも万能だったろうし、なによりも、飾るのではなく修理や保護のためのものだったのだから。

秋のあしあと

璃葉

もみじはいつの間にか緑から紅に、

黄色いイチョウは空を隠すように覆い茂る

風が枯葉を落とす音と共に、
秋はどこかへ飛んでゆき、冬を連れてくる

秋は早足だ

ふと気付くと、もういない

aki.jpg

写真を撮られる。

植松眞人

駅前のバス乗り場でバスを待っていた。

初めてつくった遠近両用眼鏡に慣れないのか、目が疲れて仕方がない。だから本も読まずに、ただぼんやりと誰もいないバス停で僕はバスを待っていた。

体力にも仕事への集中力にも自信はあるのだが、近くが見えないという症状には参った。人はこういう小さなところから老いていくのだろうか、などと考えていると、小さく何かが光った。または光のようなものを目の端に感じた。

少し離れた木陰に一眼レフを構えた女が見えた。三十代に入ったばかりだろうか。ジーンズに薄手のジャケットを羽織っている。プロのカメラマンには見えない。最近、観光地でもない場所で一眼レフのカメラで写真を撮る女が増えた。そんな一人だろうと思った。

そして、そんな女が私のほうにじっとレンズを向けている。さっき光って見えたのは、きっとこのレンズだ。女は何を撮ろうとしているのだろう。他に誰もいないのだから、私を撮ろうとしているのだろうということはわかる。しかし、私には趣味であっても、この女からレンズを向けられるような特別なものがあるとは思えないのだ。

もしも、女が私を撮るとすれば、都会の喧噪の中で疲れた表情でバスを待つ疲れた男、というイメージにあてはまったというところだろうか。しかし、私は充分に疲れた顔をしているはずだし、シャッターチャンスを待っていても、何かが変化するような状況ではない。なのに女はシャッターを切らない。

もう少し疲れた男を演じてみたほうが女の意図に沿うのか。それとも、逆にもう少し背筋を伸ばしてみた方がいいのか。私は少しだけ考えた。そして、女が待っているのは私がもう少し背を伸ばす瞬間だと思い至り、そうしてやることに決めた。と、その瞬間、シャッターが切られる音が微かに私の耳に届いた。まだ、なにも動いていないのに。女がこちらにレンズを向けていることに気付いた数分前から、何も体勢を変えていないのに。女はシャッターを切った。

ふいにシャッターが切られたことに私は困惑する。周囲に犬か猫でも入ってきて、いい構図が出来上がったのかと辺りを見渡すがそんな気配はない。女は何をきっかけにシャッターを切ったのだろう。私は女のいたほうに視線を戻したのだが、すでに女はこちらに背を向けて人混みに消えていくところだった。

メランコリア一匹

くぼたのぞみ

詩が好き
はメランコリアの大好物だ
歌が好き
もちょっと美味しいさかなになる
この胸の細胞壁にも
ぬくぬくと大きなやつが一匹、巣食っている
今日もつやつやと元気なこと

つきあいは 
ものごころついてからだから
ずいぶんになる
したたかな大喰らいで
くる日もくる日も
胸の内壁をちくちくと噛みちぎり 
腹くちくしては でっかいいびきをかく 
寝相もわるい

空が垂れ込める曇天の秋の日は
このメランコリア
小躍りしながら這い出してきて
のどを圧迫し 声帯をゆさぶり 
宿主が発しようとすることばを
さみだれ式のかすれた泣き声に変える
それは昨夜、老母からかかってきた
電話のせいではない

今朝はあめ 
心にしみる冷たい雨が
あばれるメランコリアの急所を突く
ささくれも撫でつけられ なだめられ 
ポルトガル語の歌なんか聴かせてやれば
しょんぼり身をまるくしてうとうとする

世界中に仲間がいるメランコリアは 
友人にはことかかない
だってほら
きみも一匹、飼っているだろ
こんな詩を読んでいるんだもの
さあ 仕事にもどろうか

子連れ狼 改め 子連れ犬

笹久保伸

子連れ狼に憧れている子連れ犬
ワンワン!(犬)
遠吠えは そう遠くまではとどかない
うおおおー(狼)

自分の好きな事で生きて行くのは本当に難しい
好きな事だけで生きて行く と言うやり方を選ぶと長生きはできない
あまり好きでもない事と
好きな事をバランスよく両立すると 少し長生きできる
しかし 長生きと言うのも しょせん「少し」長いだけだ
どうせ生きるなら そしてどうせ死ぬなら
好きな事をするべきなのか
わからない 
ワンワン!(犬) 
うおおおー(狼)

演奏家を志して 諦めていく同世代の仲間を見る歳に突入したらしい
ワンワン!(犬)
うおおおー(狼)

道が開かない
いや そもそも道はなかった

自分にとっての生きるための音楽は経済的な意味での「生きる」を指していないが 世間では生きるための音楽と言うと 
生きる=生活=金銭的な意味合いでの「生きる」
と結びつけるように考えるのが主流な考えらしい
であるならば 自分が生きるための行いは「死ぬための音楽」
という事か
まあ どちらでもいい  か

耳をすます

若松恵子

明日から11月だというのに、夜は暖かで吹く風もやわらかい。そんなことが何かうれしくなってしまうような帰り道。9月の「水牛のように」でも触れた『ろうそくの炎がささやく言葉』(管啓次郎・野崎歓 編/勁草書房)の朗読会に出かけたのだ。10月31日、西麻布にあるRainy Day Bookstore &Café にて。管啓次郎さん、小沼純一さん、谷川俊太郎さんの朗読と谷川賢作さん、金子飛鳥さんの音楽。ろうそくの灯りが揺らぐなかで、ひとつの声に60人近い参加者がみんなで耳をすます。

はからずも谷川氏によって朗読された「耳をすます」
「みみをすます ひゃくねんまえのひゃくしょうの しゃっくりに みみをすます
 みみをすます せんねんまえの いざりのいのりに みみをすます・・・・」

今はもう失くしてしまったものに耳をすます。
めぐりあえなかった時代の者たちに耳をすます。
耳をすますとは、見えないものを見ようとする意志。
目の前に在るものだけが”在る”わけではないと考えようとする意志のことだ。目に浮かぶ遠い時代の侍のおもかげ。目を開いたまま、あたまの中ではっきりと像を結ぶまでじっと思い浮かべる。

管氏が自作を朗読する。「川が川に戻る最初の日」。
砂漠に雨季が訪れ、川が戻ってくる日。砂地を走ってくる水。川の先頭。
会場は川の水で満たされ始める。はしゃぐ子どもたち。確かに聞えた水音。
立ち現われる風景。
朗読に続く音楽が、言葉と等価に風景を描いてゆく。

読んで聞かせてもらうというのは、大人には貴重な体験だ。実際に朗読を聞かせてもらうと、管氏がなぜ肉声にこだわったのかがわかる。視覚を空にして、目をつぶって見るためには本当に最適な方法だと思う。失ってしまったばかりだと思わずに、目をこらして見るために。

ジャカルタ市内からタマン・ミニ見学ツアー

冨岡三智

いまさら何をお上りさんみたいなことを…と言われるのを承知で、今回はジャカルタのタマン・ミニ・インドネシア・インダー(麗しのミニ・インドネシア公園という意味、1970年代初めにスハルト大統領夫人が建設した)にツアーで行ったときのことを書く。

といっても、普通のツアーではない。10月5〜6日にインドネシア観光文化省が主催する国際セミナーで発表したときのエクスカーション・ツアーなのである。このセミナーには海外からの発表者の他、インドネシア国内の他地域から来た聴講者(なぜかスラウェシ島の人が多かった)も参加した。

昼食後、モナス塔の近くのホテルから貸切バスで出発。タマン・ミニの年配男性職員がガイドを勤めてくれたのだが、ベテランで人を飽きさせない。英語も流暢なだけでなくて分かりやすい。きっと、しょっちゅう国賓を案内しているのだろう。道路は渋滞気味だったが、そのおかげで、説明を聞きながらゆっくり写真が撮れた。タマン・ミニへの道中はジャカルタの幹線道路を通るので、タクシーでいつも通り慣れている。けれど、観光バスだとそれらより視点が高いので、ビルが林立する都市の風景を見渡すには、観光バスというのは非常にいい。それに町がとてもきれいに見えて、感動的だ。(実際に歩くと、地面の汚さやら、でこぼこ加減やらに腹が立つ…)

ジャカルタ市内ではどういう所を紹介するのだろうと興味津々だったのだが、意外だったのが(考えてみれば当たり前かも)、各省庁や各国大使館の建物の紹介が多かったこと。こういう建物は、たぶん普通の観光ツアーでは紹介されないのではないだろうか。私がよく行く教育省の建物は、他の省庁の建物と比べても古くてみすぼらしい。逆に立派だったのが、税務署。建物が3つも前後に並んでいて、後ろに行くにつれ、新しく背が高くなっている。人口が増えるたびに建て増していったのではないかと思われる。建物によってはいつ頃建てられたのかという説明もあって、ジャカルタの都市の成長が理解できる。違う意味で意外だったのが、ムスティカ・ラトゥという民間の化粧品会社のビルも紹介されたこと。インドネシアを代表する美容企業という位置づけなのかも知れない。それでふと、東京に来た国賓はどんな所に案内されるのだろう、と思う。

タマン・ミニの近くまで来たとき、「えー、今から46年前の9月30日夜にここから約2kmの所で政変が起こり、先日の10月1日(ツアーは6日)にそのルバン・ブアヤ(ワニの穴の意味、ここで6将軍が殺害された)で追悼式典が行われました…。」という案内があって、ぎょっとする。スハルト(この政変に関して限りなく黒い)時代なら、そんな案内は絶対なかったはずだ。しかし、虐殺の地の目と鼻の先に、国の顔であるタマン・ミニを建設していたとは。そうと知ると、タマン・ミニが一種不気味な贖罪の施設のようにも見えてくる。ここに来るたびスハルトの胸は痛まなかったのだろうか…。

タマン・ミニに到着。最初にバリ風の割れ門のある建物に来る。我々が到着するとすぐにその建物の前でバリ舞踊が披露され、終わると踊り子たちと一緒に記念写真、その後、中の博物館を見学。これが国賓案内の定番らしい。ただ、上演される舞踊はその時々により変わるらしく、バリ舞踊だけとは限らないそうだ。博物館には各州の民族衣装に民族楽器、農耕や漁労の道具、伝統家屋や舟のミニチュア、伝統儀礼のジオラマなどが展示されている。この展示品、特に民族衣装がかなり古びて照明焼けしてしまっているのが気になる。マネキンの顔も時代遅れなら、髪もバサバサで、触ると崩れてしまいそうだ。民族衣装というのは、他の展示品に比べれば、大体の外国人には興味が持てるものだと思うので、国賓をいつも連れて来るのなら、せめてこの衣装フロアくらい刷新できないものか…と思う。逆に良かったのが、ワヤン(影絵)人形の展示。ワヤン・グドク、ワヤン・マディヨ、ワヤン・ワハユ…などの種類ごとに小さなスクリーンがあって、代表的な人形がそれぞれ何体かずつ展示されている。ワヤン好きな人には物足りないかもしれないが、スクリーンの後ろには光源があって、人形の色や形がきれいに見える。

しかし、何度もタマン・ミニには来ているのに、私はこの建物に全然見覚えがない。ガイドの人は、普通の観光客は最初ここに来るはずだが、と言う。そこでハタと、ああ私は入場料を払ってここに来たことがなかったのだと気づく。このタマン・ミニには調査部門や伝統芸術イベントの企画部門などもあって、私はその事務所にしか来たことがなかったのだ。入口まで担当者に迎えに来てもらって事務所に直行していたので、こんな博物館があったとは知らなかったのである。

園内には各州の伝統家屋が再現されているのだが、全部を見て廻る余裕はないということで、スマトラ館だけに案内される。なぜスマトラかというと、ガイドの奥さんがスマトラ出身だから。道理で、この人は民族衣装コーナーでもスマトラ島各州の衣装の説明しかしてなかった…。普段はジャワ中心でしか物を見ていないけれど、こうやってスマトラだけに焦点を当ててインドネシアを見てみると、ジャワとは違う国を見ている気になる。実際、やっぱりスマトラはマレーシアに近いとつくづく思い、マレーシアに来たような気になった。インドネシアの人たちは、自分の出身地以外の所に行くと、やぱり違う国に来たような気になるのではなかろうか。日本と違って、地方ごとに言語も違うから、その違和感はなおさらだろう。そういうことが実感できただけでも、このツアーに参加して良かった。

ツアーを終えて、ガイドの人はタマン・ミニにそのまま残り、私たちはバスで一路ホテルへ。往復のバス移動も含めて3時間くらいの旅だが、意外に充実して楽しかった。たまにはお上りさんになってみるのもいいものだ。

さて、何から話を始めようか。

大野晋

先日、東京駅の駅前、昔、たしか国鉄の本社ビルが建っていたところの丸善で買い物をした帰り、食事をしにつばめグリルに立ち寄った。久しぶりにアイスバインとザワークラウスでビールを飲んだ。やはり、禁酒中のビールはあまり芳しくなく、ちびりちびりと舐めながら、柔らかな肉と酸っぱいキャベツをおいしく食べた。

なんで、こんなことを思い出したのかというと、後日、Amazonをいつものごとくごそごそ覗いていると、青池保子のZの新刊を見つけたからだ。Zというのは少女漫画誌にしては珍しい硬派なスパイミステリーで、もともとは1976年から連載の続いている「エロイカより愛をこめて」というコメディ漫画からのスピンアウトで、本筋もスピンアウトも少女マンガには見えないくらい武器がリアルに描かれている。もう32年も連載しており、今調べたところによると「ガラスの仮面」、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」とほぼ同期になる。ところで、この本編の方の主人公のひとりであるエーベルバッハ少佐の食事シーンで非常に気になった食べ物がザワークラウスとアイスバイン、そしてジャガイモのフライ(寄宿舎のシスターが作った?)なのだ。そんな感じで、食物つながりでなつかしの漫画にとんでしまい、Amazonをくりくりっとしていたら、最新刊のが出てきてしまった。これを久々に全刊読むべく、いつものように大人買いに走った。

ところで、36巻(連載中)もの大作を大人買いするとなかなか壮観な眺めになる。で、今のところ、そのコミックの山は置いといて、引越し荷物を解きながら、出てきた長編を番号順に並べながらついついそのまま読み進めてしまい、抜けた数冊がどこに消えたかをダンボールの島々を探し回る毎日である。

そういえば、手持ちのCDの方もとんでもないことになっていて、1500枚入ると豪語した棚を2本丸々いっぱいにした上で、500枚入るらしい棚も動員したが、まだ段ボール箱4箱が積みあがっている。しかも、困ったことにそれで終わりかと思ったら、つい、昨日、手を付けられていないひと箱を発見する始末。困ったことに、これらの何割かは封も切っていないので、いつ頃、全てを聴き終えるかは一向にわからないし、ましてやABC順に作曲者で並べようなどということなど夢のまた夢の状況。このような状況なのに、ぼやぼやしていると、二桁単位で新しいCDが増えていってしまう。結局のところ、荷物は散らばっているだけで、一向に底が見えない上に、新たに足しているという最悪の状態なのだなとこれを書きながらようやく理解した。

10月最後の土曜日は初台のオペラシティまで都響のコンサートを聴きに出かけた。(引越しの荷物も片付かないのに)そういえば、地下にあったパスタ屋が知らないうちに閉店していた。あそこのダブルハンバーグカレー?好きだったのに。話は戻して、本日の指揮者はロッセン・ゲルゴフという若手。若干、32歳。奥さん日本人。今年の場合には最後の奥さん日本人というのが効いていて、安心して来日する音楽家はなんらかの伝手か、情報か、または使命感を持っている。この人の場合には、予定されていた指揮者が放射能が怖いために出演をキャンセルしたことから急遽ブッキングされたもの。家族が日本にいるのでもってこいの若手だったのだろうが、事前に調べた情報では、日本のアマオケや地方のプロオケを指揮して回っているのだが、いまひとつ、プロオケを指揮した際の評判が芳しくない。

ということであまり期待しないでホールに入る。なにせ、会員券を無駄にしちゃいけない。ところが、演奏を始めて一変、ホールはフィラデルフィアサウンドに包まれた。都響にこの音を植え付けたのは前の音楽監督のジェイムズ・デプリースト。しかし、ここ数年、こうした音をきちんと出せる指揮者にはお目にかかれなかった。代打のゲルゴフ氏、うまいこと、壷にはまっている。しかも、協奏曲を含めて全ての曲を暗譜で指揮するなど、きちんと予行演習もできている様子で、少ない機会をきちんと生かせたのではないだろうか? ぜひとも、何かのポジションに付いてもらって、アウトリーチ活動などに帯同して、うまいオーケストラを演奏する機会をもっと持てば、おお化けする可能性があるように感じた。なにせ、奥さんが日本人で日本で活動をしている方ですので、そうした機会を日本で持つのも、また、音楽の国際化のために有効なのではなかろうか。

さてさて、ちなみに、丸善の上のつばめグリルでは芋だけは食べなかった。思い返すと芋も好物だけに少し残念。

アジアのごはん(42)さばの味噌煮

森下ヒバリ

二か月ほどのタイの旅から関西空港に戻り、乗り合いタクシーで京都まで戻ってきた。関西では、空港から京都や神戸などにある家の玄関先まで送ってくれる乗り合いのタクシーがある。電車より時間はかかるが、荷物の多い帰りは、身体が楽なので、毎回これにしている。乗り合いなので、いろいろな方面の客の自宅を回っていると、けっこう時間がかかる。そこで、最近は京都の南インターを降りたところで、もう一回客を振り分けるという細かいサービスになった。もちろん料金は同じで、荷物も全部乗務員が移してくれる。そこでミニバスから別のタクシーに乗り換えるため、外におりてちょっと待っていると、道路の向い側でひらひらとはためく幟が目に入った。

そこに大書してある文字は「さば味噌煮定食」。あ、食べたい。ファミレスのような食堂の幟から目がはなせない。さば味噌煮定食、さばみそにていしょく。頭の中でこの言葉がぐるぐる。思わず、「もうタクシーはここでいいです」と店に駆け込みたい(どうすんだ、この荷物・・)のをぐっとこらえタクシーに乗り込む。もう夜遅いので、家に着いても近所で食事できるところもスーパーも閉まっているし、さば味噌煮を食べられるような店まで遠出する元気もない。ああ、さばの味噌煮でほかほかごはんを、たっ、食べたい。

まるで二か月間、日本食を口にしていないかのような、狂おしい気持ちである。もちろん、この間バンコクで何回か日本料理屋には行ったし、バンコク伊勢丹のスーパーでお持ち帰りの巻き寿司とかも買って食べたりしている。しかし、どうも今回の旅では、インフルエンザで寝込んだせいか、日本食を食べたい気持ちがかなり大きかった。

というわけで、さっそく自家製「さば味噌煮定食」。鍋に水、酒、醤油、みりんを適宜入れて煮立て、さばの切り身を入れる。水分は少なめ。ショウガの千切りをたっぷり。味噌を大匙一杯。あまり煮込まないでいい。煮汁だけ煮込んでどろりとさせる。圧力鍋でつくると身がふんわりと作れる。この場合、圧力時間は4分ぐらいでいい。圧力が下がったら味噌をもう少し加えて少し煮つめる。20分も圧力鍋で煮ると、骨まで食べられるようになるが、味がまるで缶詰みたいになってしまうので注意。

家ではもっぱら酢で〆た〆さばを愛食していて、味噌煮はあんまり自分で作ったことがなかった。一度目はなかなかおいしくできた。でも、味の染みこみがいまひとつ。作ってちょっと置いておいたほうがいいか。二度目に作ったとき、みりんを入れたつもりが、よく見るとわたしの手が握っていたのはお酢のビンでした。あ〜失敗、と思ったが、イワシの梅干煮とかもあるので、たぶん大丈夫だろう。みりんとメキシコみやげにもらった竜舌蘭のシロップを加えて調理続行。煮るとお酢の酸味はほとんどなくなり、むしろ味のキレがよくなった。酢は使えます。ほどよく甘辛いさばの味噌煮、炊き立てのご飯、きゅうりと大根のぬか漬け。わかめのみそ汁。いただきま〜す。ああ、この味、香り、歯ごたえ。身体も心もよろこぶ料理。

ここ数年、旅行中に日本食を食べる回数が増えてきている。はじめはなんだか自分が軟弱になったような気がしたものだが、いやいや、やっぱりわたしの食の基本は日本食で出来ているわけだから・・ってやはりトシのせいか。外国にいてもおいしいおそばが食べたい、うどんが食べたい、サンマと白飯が食べたい。大根の炊いたんが食べたいぞ。

タイ料理はおいしいし、屋台も食堂もたくさんあり、外食でも野菜がたっぷり食べられるし、恵まれてはいる。でも、やはり化学調味料の多さはしんどい。入れないでといっても、最初から入っているものはどうしようもない。しかもバンコクでは味のレベルが落ちて来ているのも感じる。かなり探さないと、満足できるレベルの屋台や店がないのだ。

時々でいいから自分で料理したい、味付けしたいという気持ちも強まってきた。外国の日本食レストランというのは、たいがい満足できたことがない。日本から食材を輸入しているような高級店なら別かもしれないが、現地の野菜、肉、魚、水を使うと味が違ってくる。調味料も、タイやマレーシア製の日本醤油だと、味がちがう。材料だけでなく、テクニックも厨房に乱入したくなるほどのレベルの店もある。

もう、こうなったら、タイでは台所つきのアパートを借りるか、炊事道具や食材を持ち歩くかしかないのかも。台所が始めから付いているのは高級コンドミニアムで、これは高すぎて無理。タイのアパートには、台所がついていないのがふつうなので(!)、じぶんで流しやガス台から鍋釜までそろえる必要がある。これを二か月位の短期滞在ではいちいちやってられないので、通年借りておくとなるとまた費用がかさむ。炊事道具を持ち歩く・・のは重いしかさばる。せいぜい、携帯用の電熱器に小さい鍋がセットされたものぐらいが現実的。これを入手するか。

今まで旅行の時には、太いコイルが一本ぐるぐる巻いている携帯電気湯沸しを持っていくだけだった。ステンレスのコップに水を入れて、コイルを入れてお湯を沸かすのだ。この電気湯沸しはたいへん有用で、電気が通じてさえいれば、どこでも熱いお茶やコーヒー、インスタントみそ汁などが飲める。外国で、その国の食事に飽きたり、疲れたときには、醤油味とかナムプラー味とか、みそ汁など馴染みの深い味のものを飲んだり食べたりすると、精神的なつらさがふわ〜っと和らぐ。旅先で病気のときにインスタントみそ汁や、どこでも入手しやすいショウガとはちみつで、生姜湯など作ったら感涙もののおいしさだ。この湯沸しで作ったみそ汁や生姜湯で、これまで何人の旅の同行者たちが「みそ汁がこんなにおいしいものだったなんて」「こういう味がほしかった」と涙したことか。

バンコクで高知在住の友達夫婦にばったり会った。大人になった息子二人との、しばらくぶりの家族四人旅行でインドに行ってきたと楽しそう。わたしたちのいるアパートメントホテルに引っ越してくるというので、待っていたら、すごい荷物を持ってやってきた。
「こ、これで、ダラムサラに行ったの・・?」「いや、前のホテルに荷物預けてきたから、もっと多かった」「ぼくたちインドでは自炊が基本だから、携帯コンロとか、米とか味噌とか乾麺とかも」「米まで持って歩いてんのお!」「じつはこっそりコンロの灯油も」おいおい、大丈夫か・・。

親二人は自炊しないと、すぐおなかを壊してしまうらしい。息子たちは、「おれたち毎日カレーでもぜんぜん平気だよ〜」と現地食を食べていたようだ。子どもが小さかったころ、現地食が食べられない子どものために自炊を始めたのが、いつのまにか自分たちのために自炊するようになっているのだった。

たしかに、インドのお米はヒバリも苦手である。カレー三昧の食生活も大変苦しい。しかし、わたしは重たい荷物が、もっと苦手なのだ。彼らみたいな完全な自炊でなくても、カレーの合間に市場でトマトやきゅうりを買って塩をつけて食べるとかすれば、あ、マヨネーズとかさばの水煮缶詰とかちょっと持っていってもいいかも・・。醤油も持っていけば、かなりしのげそうだ。火を使わない、もしくは湯沸しで出来るちょっとした自炊なら荷物もあまり増えない。

インドでは大都市にしか日本食や洋食レストランはないし、中華料理屋も脂っこい料理が多い。あとはひたすらカレー味ばかりなので、だんだん食事が苦痛になってくる。その限界値が、ヒバリの場合、今のところ二週間。なので、インド滞在は二週間と決めている。

しかし、持って行くものをくふうすればもっと長くインドにいられるじゃないか。うんうん、もうトシだし、いいじゃないか日本食たくさん持って行っても。旅先ではその旅先の食べ物を食べる、というのは主義ではなく、食べてみたいという気持ちからしていることなのだから。さすがに生米や灯油までは持っていこうとは思わないけどね。

イブラヒムとししゃも

さとうまき

イブラヒムが、4年ぶりにやってきた。イラク人が日本に来ると大変なのが食べ物だ。イスラム教徒は、豚肉を食べてはダメだし、鳥や羊や牛でも、ハラールミートといわれるイスラム教にのっとった殺し方をした肉じゃないとだめなのだ。イブラヒムは、腹が減ると機嫌がわるくなり周りを困らせていた。

「大丈夫だ。魚と、野菜だけでなんとかなる。いざとなれば断食するさ」と今回は力強い。前回食わせたわかさぎのフライを結構気に行ったみたい。

いつものように、珍道中のツアーが始まった。確かに、今回のイブラヒムは、成長していた。南アフリカや、スリランカからもゲストが来て、石巻国際祭りに参加したが、「国境を越えて災害や貧困に取り組む人と人を結ぶ」という主旨も理解して、イブラヒムが一番、感動的なスピーチを各地で繰り広げてくれた。

石巻では、仮設住宅を訪問したが、そこでは、妻を津波で流されたショーゾーさんというじいさんと友達になったらしい。普段はふさぎこんで、昼間っから遺影を前にただ酒を飲むだけなのだが、イブラヒムと意気投合して、「明日がある」を歌ったという。

イブラヒムも、妻を白血病で亡くし、イラク戦争で仕事もなかったときは、ただ落ち込むだけだったのを思い出す。そんな時に、僕の友人が、イブラヒムに「明日がある」を教えていたのだ。イブラヒムはその歌を気に入って自分に言い聞かすように歌っていた。そして、今度は、イブラヒムが日本を元気にしようと頑張っている姿は泣けてくる。

イブラヒムを歓迎する宴が始まった。彼は、お酒も飲めないし、焼き鳥もダメなので、誰かが、ししゃもを買って来てくれたそうだ。しかし、イブラヒムに取材が入り、インタビューがなかなか終わらない。隣では、宴会が盛り上がり、いつのまにか、イブラヒムのししゃもは、誰かが酒のつまみに食ってしまったのだこれを見たイブラヒムは激怒し、通訳の加藤君にあたり散らしていたそうだ。イブラヒムの機嫌は、翌日になっても直らず、2日後東京に戻って、ハラールミートのチキンを食ってようやく、直った。

それは、ともかく、今回イブラヒムは、募金をイラクで集めて来てくれた。イブラヒムの子どもたちがおやつを買うお金をためて、募金してくれたり、再婚した妻は、結婚指輪を日本のために使って欲しいと寄付してくれたのだ。集まったお金は825ドル。郡山の幼稚園に寄付させていただいた。

ところで、イラク政府は、8億円ものお金を日本に寄付している。結構な金額だ。イラクだけではなく、他の国からも多くの寄付が集まっているという。しかし、残念なことに余り知られていない。頑張ろう日本とかよくいうが、日本だけで頑張っているのではなく、多くの国の人々に僕らが支えられているんだということにいい加減気がつくべきだろう。

イブラヒムの来日にあわせ、絵本「イブラヒムの物語」を作りなおしました。2000部刷りましたが、ほとんど売れていません。600円で売っていますので是非こちらにアクセスを
http://kuroyon.exblog.jp/16403807/

しもた屋之噺(118)

杉山洋一

毎年愉しみに待っている子供たちが可哀相だけれど、未曾有の経済不安で今年はクリスマスの演奏会どころではないかも知れない。夏にサンマリノのマルコが暗澹としたメールを送ってきたきりになっていて少し気になっていると、先日「屋根の上の牡牛」やら「キューバン序曲」やら「エル・サロン・メヒコ」で元気よくやろうと思う、資金もなんとか目処がつきそうだから宜しく頼む、と明るい調子で連絡があって溜飲をさげたところです。
ちょうど橋本くんのためのテューバ曲を書き終わり、小学校の宿題をする息子と一緒に食卓でオーケストラに送るブーレーズのビーティングリストを根気強く作っていたので、長く聴いていなかった「屋根の上…」を景気づけにかけてみました。目の前では、6歳の息子が神妙な顔でノートの升目にあわせ、イタリアらしいしっかりした筆記体で、アルファベットの練習をしています。階下では家人がスクリャービンの7番ソナタを練習に勤しんでいて、10年と離れず作曲された2作品の世界観の違いは感慨深いほどです。思えば机の上のブーレーズもミヨーと同じパリの音楽院で学び、「主のない槌」や「プリ・スロン・プリ」を書いたころ、ミヨーも存命していました。毎日同じようなものを食べ、同じ言葉を話し、同じ演奏会で会うことだってあったかも知れないと思うと、違う世界が一つの空間に同居していて不思議にも感じられます。

この所晩になると冷えこむようになって温かいスープに身体が喜ぶようになりました。昨日は晩御飯にラヴィオリのスープをすすりつつ、ふと思い出してルネ・クレールの「幕間」をサティの映画音楽つきで見てみると、チャップリンの短編無声映画など昔から好きだった息子は大はしゃぎです。この音楽の4手ピアノの編作もミヨーが手がけていますが、曲は「屋根の上…」から5年後1924年に作曲されたサティ最後の作品で、映画はピカビア脚本、弟子だったクレール監督が、サティやピカビア、デュシャンやマン・レイなど知合いを総動員して作った傑作で、ナンセンスなダダイズムの名作なのは、よく知られているところです。1924年と言えば、ブルトンがダダイズムを脱ぎ捨て「シュールレアリズム宣言」を書き、マリネッティは、ダダ的と共に歩んだ従来の未来派を捨て、ファシスト党に入党し「未来主義とファシズム」を出版しています。ヒットラーが「わが闘争」を書いたのも1924年でした。

色彩と軽さとそして香りをわきたたせながらダダ的な精神性、エッセンスを芸術的に追求していったフランスの一派と、当初の精神性を不器用に理論化を試みて肥大し、いつしか政治の泥濘に足を取られて埋没してゆくイタリア人たち。その姿にはいつの時代も近くて遠い存在だった二つの文化の違いが如実に感じられる気がしますし、1924年が正にそんな彼らの分岐点でした。「軽さをもって重きを断ち切れ」。1923年生まれのイタロ・カルヴィーノが自戒をこめて書いたのは、それから随分経った1985年のこと。

最後の子音は発音せず綴りを変えても同じ発音になる仏語と、最初から最後まで綴り通り発音する伊語。ルイ・クープランの全音符とスラーのみによる自由な「プレリュード・ノン・ムジュレ」と、フレスコバルディのいかめしいトッカータ。ソースの妙のフランス料理と素材の味を際立てるイタリア料理。香水好きのフランス人と風呂好きのイタリア人。個性的で斬新なフランスのファッションと、ワイシャツどころか下着や靴下にまでアイロンをかけなければ気が済まない因襲的なほどのイタリアのセンス。ベリオはコスモポリタンだし、ブソッティは名前までフランス化するほどのフランス好き。現代作曲家で比較するなら、ブーレーズとドナトーニあたりになるのかしらん。芸術的で香りも高く、ただ殆ど読取りに苦労するブーレーズの自筆譜と、馬鹿ていねいに定規で書かれウィットも愛想もない、殺風景な鉄骨工場のようなドナトーニの自筆譜。

ぼんやりそんなことを思いながら外に目をやると、窓際に猫が一匹こちらを覗き込んでいて、目が合った途端ニャアと声をあげて悠然と去ってゆきました。寒くなって餌が足りないのか、この所顔を出すようになった白地に黒の大きな斑点が背中に落ちている人懐こい猫で、40年近く前、まだ幼稚園に通っているころ、野良猫を拾ってきた「紋次郎」という白黒の猫がいたと聞いたことを思い出しました。

薄らとした記憶しか残っていない紋ちゃんがいなくなると、当時はまだ猫が得意でなかった母のためヨークシャテリアの雄を飼い始め、お気に入りだった音楽辞典巻頭の作曲家の写真から、ダンディという名前をつけました。当時は家にあったヤマハのピアノの下が遊び場で、そこにオモチャを持ち込んだり本を読んだりしていて、ヴァンサン・ダンディの写真の記憶も、ピアノの組み木の匂いと色と無意識に繋がっています。胃炎を煩っていたダンディのため、暫くして雌のヨークシャテリアを飼い始めると胃炎はたちまち治りましたが、こちらには雌だからと安易にレディと名前をつけたのは、思えば少し不公平な気もします。

中学に入る頃、座間の米軍キャンプに勤めていた近所の友人宅に生まれた茶トラ猫を貰ってきて、その猫に迷わずダダと名前をつけたので、その頃には何らかの形でダダイズムに親しんでいたのでしょう。まだ目も開かない生後間もない幼猫が家にくると、子供を産んだことすらなかったレディから盛んに乳が出るようになりダダは犬の乳でぐんぐん育ち、ダダは奇天烈なダダ人生を地で生きた感があります。

同じころ当時は阿佐ヶ谷に住んでいらした作曲の三善先生のお宅に通うようになり、駅から先生宅への道すがら「ブックイン」に立ち寄って時間を過ごすの愉しみになりました。背の高い立派な街路樹並木が四季折々に見せるさまざまな表情が、ガラス張りの「ブックイン」の立ち読みしている本の向こう一面に広がっていて、いつもきちんと重ねてある水牛通信の小冊子を横目に、いつも「水牛通信」はどなたが届けられるのですか、と店員さんに尋ねた遠い記憶が甦ります。それから暫くして、住んでいた東林間駅前に開店したばかりの、絶版だった澁澤全集やらサド全集の黒いハードカヴァーばかり目立つ怪しげな古本屋で、ブルトンやアラゴンの本も随分買込みました。ダダより寧ろアルトーやロートレアモンあたりが、いつも枕元においてありましたが、何れにせよ、今やすっかり何も覚えていませんから、むつかしすぎて何も理解できなかったに違いありません。

高校・大学時代、「ぽるとぱろうる」や「カンカンポア」で文芸書やら画集やらを立ち読みしつつ、シュヴィッタースの講義を受けにカルチャーセンターに通いつつ、今よりずっとヨーロッパが遠かった当時、周りに想像上のフランスの空気の色を感じようとしました。それはピカビアの色使いを思わせる明るいパステル色で、単に明るい青春の色だったのかも知れないし、実は日本中がそんな「前夜」を思わせる空気に満たされていたのかも知れません。よく聴いていた悠治さんのサティやドビュッシーのレコードの周りに、作曲の勉強を始めて好きになったプーランクやオネゲルの音楽があり、ケージや武満徹やクセナキスの音楽が息づいていました。

元来オペラ好きでもなかった自分がイタリアに住むことになった明確な経緯が思い出せずに困るのですが、恐らく高校の頃カンカンポアでダニエル・ロンバルディが演奏する未来派のレコードを買ったことと、当時の強烈なルッソロやボッチョーニら未来派の絵画への興味が、後にイタリアの現代音楽を勉強しようと考える下地を作った気がします。イタリア的思考の底辺を、長い時間をかけて別の文化が培ってくれていて、それはピカビアの色彩が自分にとって憧れだったと無意識に自覚し、何かが崩落した瞬間だったのかも知れないし、1924年「前夜」にイタリア人が頬を強ばらせながら感じていたものに、少しだけ近かったかも知れません。

今朝、夜明け前の道を歩いていると、拙宅のある辺りから目の前の陸橋の向こうまで、珍しく街灯の灯火が揃って落ちていて、歩こうにも目を凝らさなければ足元が覚束ないほど暗闇に覆われていました。暫くして戻ってくると、辺り一面の闇のなか、陸橋の向こうのガラス張りのビルにだけ、見たこともないほど真紅に燃立つ朝日が激しく映りこんでいて、バス停で背中を丸めてバスを待つ人たちに雑じり、しばし時間を忘れて魅入ってしまったのです。

(10月29日ミラノにて)

犬狼詩集

管啓次郎

  43
猫の尾がゆれ疾風を起こせば小石が飛んでゆく
犬の耳が寝るとき暗い嵐の雲が湧く
気象よ、気象よ
ぼくらはこうして動物たちのふるまいに教えられるんだ
馬の吐息が荒くなると寒冷前線がやってくる
むくどりが死ぬほど騒いで満月を出迎える
ねずみの活動が活発化するのは氷河期への準備
海月の全面的な浮上は洪水の確実な予兆だ
そしてザリガニの捕食行動は千年紀の祝福
動物たちのanimaが事物のanimaと重なり
世界を機械状のanimationとして上映する
ぼくらは目を丸くしてその展開と図柄に見とれる
動物主義! かれらなくしてヒトは
何も知ることができない
「今日雹が降るよ」と先生に聞かされた小学生の妹は
一面の水田に豹が降るサバンナを想像していた

  44

シトロネルの強い香りがして
何かを思い出すことが強いられる
でもその何かを言い当てることができない
追憶という野原にむかう小径を知らない
Zoeという名のシェパードを飼っていた
どこに行くにもついてきた、ぼくを守るように
あひると野鴨が入り混じる
製糖工場の湖には人造の堤があって
一方は湖、一方は海と
水を分割している
ぼくとZoeはよくその堤にゆき
打ち寄せる波と静止した水面を同時に眺めたものだ
風はいつも強く光は大きな幅をもって変化し
空はいつも広く光はいつも生命を超えていた
寝そべる犬の腹に頭を載せて
ぼくは空を見上げ回想を拒絶した

だれ、どこ2

高橋悠治

●クセナキスつづき

落葉と梢からかいま見る空のかけら。西ベルリンの家から郵便局に向かう森の小徑を歩きながら、クセナキスが強調する。古代ギリシャ哲学史から自分の音楽にかかわることば、パルメニデスの「存在するもの(eonta)」ピュタゴラスの「数」プラトンの「多面体」エピクロスの「偶然」。

ニューヨーク州バッファローの吹雪の道。クセナキスが小型車を運転してナイアガラの滝に向かう。袋小路に入ったら方向転換して通りすぎた道にもどりながら別な道をさがす。古代の記憶が想像力をひらく。ベルリンにいた頃、アリストクセノスの音程論からビザンティン聖歌の音程分割とモードの理論をエラトステネスの篩とガロア群の組み合わせで形式化した「篩の理論」を考え、『ノモス・アルファ』を作曲するプロセスとつきあって、おなじギリシャ語の本を読み、ビザンティン聖歌の記譜法を勉強したこともあった。

ナイアガラは凍っていた。飛び散る水のなかに小さな虹が見える。それがエピクロスのクリナメンのイメージだ、とミシェル・ビュトールが言っている。

イギリス軍の砲弾で顔を砕かれて病院に運ばれたとき、探しに来た女ともだちが手を見てだれだかわかったという話は聞いていた。アテネで会った、もしかしたらその人だったかもしれないと思ったひとの娘はイリーニ(平和)と名づけられ、クセナキスの娘はマヒ(戦い)と名づけられた。孫はユリス(オデュッセウス)だった。

60段の5線紙を製図ペンと定規で作り、ソロでもオーケストラでもそれに書く。

●スウェーデン

1965年の数ヶ月ストックホルムの郊外の海岸サルショバーデンで暮らした。小さな電車の終点はヨットの港、その松並木の蔭の坂を上り門から斜面の階段を上ってその上の家の二階。バルコニーは裏庭に面している。最高裁判事の家。白夜には2時間ほど薄暗くなり、キタキツネが庭を歩いている。それから太陽が裏山を回りこんで上ってくる。

西ベルリンを出たのは2月だった。東ベルリンからロストック、そこから船でマルメに行ったのだろうか。ストックホルム駅に着く。レオ・ニルソンが迎えに来ている。同年代の作曲家、いま調べてみると電子音楽のパイオニアということになっている。ベルリンの凍りついた雲の下より、雪の積もったストックホルムのほうがあたたかいような気がする。円錐の頭を切り落としたようなスピーカーをたくさんワゴンに積み込んで、Fylkingenの音響技術者といっしょに北に向かい、ラップランドからノルウェーに入り、オスロから夜中のフェリーでコペンハーゲン、対岸のマルメからストックホルム、そしてフェリーでヘルシンキ。プログラムはブーレーズの『ピアノ・ソナタ第2番』とスウェーデンの電子音楽。北の果ての町で刑事につきまとわれる。潜水艦基地を探りに来た中国のスパイだと思ったらしい。スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、それぞれのことばがお互いに通じ合っている。ヘルシンキでは雪解けで、バスの窓が泥塗りになっている。

ストックホルムのジャズ・スポットGyllene Cirkeln [Golden Circle]でスティーヴ・レイシーのソロ、モンクの曲を吹いている。ジョージ・ラッセルとミエコ・ヴィクストレーム(高島三枝子)もいたと思う。レイシーはグレイのスーツを着てソプラノサックスを持ち、象のように揺れている。その後ローマで練習を聞いた時は服装も音楽も激しく変わっていた。東京で小杉武久と3人で即興のレコードを出したこともある。その時はたくさんの曲を書き込んだノートを見せながら、作品のイメージを説明してくれた。最後に会ったのは深谷のスペース・フーで富樫雅彦と3人の即興だった。

スウェーデンの放送局のスタジオでケージの『プリペアド・ピアノのためのソナタとインタリュード』からの数曲を録音した。ジョージ・ラッセルのバンドもそこにいた。トランペットはドン・チェリーだった。チェリーはプリペアド・ピアノをおもしろがって、キーをリズミックに叩いてひとりで踊った。ラッセルはかなり後になって東京に来た。スウェーデンで会ったことは覚えていなかった。

ケージの曲はFylkingenで録音し、2枚組のLPになる。いまでもCDはあるらしい。録音に使ったのは可動式鋳鉄のフレームをもっためずらしいピアノだった。スウェーデンには四角い部屋の隅に置くための三角形のピアノもあるという話だった。フランスではすべてのキーに等距離でとどく半円形の鍵盤を発明した人に会ったことがある。

スウェーデンの現代音楽グループFylkingenの会長クヌート・ヴィッゲンはストックホルム放送局に世界最初のコンピュータによる電子音楽スタジオを建設中だった。作曲プログラムのテスト版をピアノで弾く。1分の曲だった。ヴィッゲンは音響オブジェを心理的に定義し操作しようとする。だんだん話が通じなくなり、そのうちグループからも遠くなる。

いま思い出しても、この変化がいつどのように起こったかわからない。Fylkingenグループに招かれて移住し、いくつかのしごとをしているうちに、それ以上いっしょにできることがなくなったばかりか、グループの目指している方向を理解しているようにも思えなくなった他所者がまだそこにいることも忘れられて、郊外に置き去りになっていることも、だれの記憶にも残らないらしい。自分たちのためのしごとの成果を残してどこかへ消えた人間のその後には関心もなかったのだろうか。それとも演奏はともかく、何を考えているのかよくわからないアジア人とは話もできないのだろうか。

おなじことは、こちらの関心の持ちかたにも言える。スウェーデンの当時の前衛、ピアノを電動ノコギリで挽き切り、自分の脚まで傷つけたことで有名になったカール・エリック・ヴェリンの話もナム・ジュン・パイクから聞いていたが会うこともなかった。ピアニストになったきっかけは、スウェーデンの作曲家、同年代のボー・ニルソンの曲『クヴァンティテーテン』だったが、どこか小さな町にいて会えなかった。注目されていたヤン・モルテンソンもウプサラにいて、会ったのは数十年後の東京だった。会いたいと言えばいいのか。そんなことも思いつかないほど、まだ時間があると思ったのか。

スウェーデンの当時の前衛はドイツ音楽、とくにシュトックハウゼンの影響がある。作曲した時20歳だったニルソンのピアノ曲にもその影があった。西ベルリンに3年もいたのに、ダルムシュタットに集まった前衛音楽の流れとはまったく接点がない。なぜ興味がもてないのか。おなじ活動の場にいても、見えているものはちがい、そのちがいをことばで表せるほどはっきりと気がついてはいないまま、外側の観察者にとどまっているのが、内側の人間にはなんとなく感じられるのだろう。

家の前の坂を海と反対の方向に上るとまばらな木のあいだに小さな池がある。鳥も鳴かず、静まり返っている。その風景はスウェーデンを離れてからも夢にくりかえし現れる。

西ベルリンから手紙が来た。後半年分の助成金が残っている。とりあえずストックホルムから出ることができるが、ベルリンにもどっても住むアパートはない。家族を日本に帰し、デ・コーヴァ夫人(田中路子)の家の地下室に居候する。隣の部屋にピアニスト荒憲一がいた。まだ知らなかったグレン・グールドのレコードを聞かせてくれる。(続く)

お守りの音

璃葉

しゃらしゃら しゃりり
柔らかく鳴るボラ・ミンピ。
ガムランボールとも呼ばれるお守りを
知り合いの妊婦さんが身につけていた。
ボラ・ミンピの優しい音は
お腹の中の赤ちゃんにも、ちゃんと聴こえている。

しゃらしゃら しゃりり

bora.jpg

いつの間にか九月が終わり

仲宗根浩

八月の旧盆過ぎて何やら、うちの上をいろんな飛行機が飛ぶようになった。ここらへんは長い二本の滑走路の延長線上じゃない。短い滑走路の上から少し外れたところだけど、演習空域を少し変えたのかなあ、と思いつつ九月になり朝夕は涼しい風が少し吹くようになったがお日さまが出ている限りは直射日光は暑い。

台風15号ぐるっと一周したあと、最低気温が最高気温30度、最低気温は25度以下。涼しくなったなあ、と思うも束の間、熱帯夜。日差しも夏に逆戻り。でも雲だけは秋の雲。首都圏直撃の台風の映像をテレビで見ながら、よくあんな風の中で傘さす勇気あるなあ、あの風じゃ外に出ちゃだめでしょ、と思いつつもこちらでは台風でも飲み屋街は営業している。台風になるとテンション上がり酒盛りする輩大勢。

九月はじめ、今年の四月からピアノを習い始めた娘、九月からツェルニーにすすむはこびとなったためお月謝が五百円増しとなります。えっ、そんなシステム聞いてないないよ〜。これから習う楽譜が変わるごとにお月謝値上げ? こちらのお給金はいっこうに上がらない。

八月にきたパソコンに苦戦しつつもいろいろ設定を変え、少しなれてきたが、キーボード、マウスの安っぽいこと。その上、家族共用の携帯電話、アンドロイドが増えた。これも少しいじってみたが、まあわかりにくいところいっぱい。少しお勉強必要、通信費は多くなる。この際、デジタル通信一切やめる、ということもすこし考えてみよう。

四月以来、段ボールの中に追いやられたCDを整理するため、久しぶりに電動丸鋸を出し、CDの棚を作るため合板を切る準備。作業着、ゴーグル、防塵マスクはないので普通の使い捨てマスクをまとい、上を飛ぶ飛行機に負けないくらいの騒音で板を切る。あとはやすりをかけて、オイルステンをシンナーで薄めて板にこすりつけるだけ。久々の丸鋸はかなりの音響、切れ味悪い。

まるで石を投げる涙の瞳のように

笹久保伸

冷たい月に輪をかけて引っ張る
その紐の影には
凍った太陽が沈んでいる白い湖の風景だけが
ぼんやりと映っていた
深い夜には
そう
小指の足音だけが
まるで石を投げる涙の瞳のように
絶え間なく鳴り響いていた
一度放たれたは矢は
どこかへ突き刺さるまで飛び彷徨い続ける

宇宙とサザエさんの狭間で

三橋圭介

授業でこんな実験をしてみた。各自それぞれ自由に色えんぴつで絵を書いてきてもらう。具象、抽象、どんな絵でもいい。あらかじめその絵を言葉で説明できるように言っておく。全員が集まり、ひとりひとりがその絵を言葉だけで説明し、他の人がそれをききながら色えんぴつで言われた通りの絵を書いていく。物体の名称はそのまま使ってよいが、その場所や大きさを表現するのは難しい。右上の雲は「上半分から2センチから紙下半分くらいまで8モク(雲のやまのこと)」など。同じ説明でもまったく違う絵ができあがる。言われたような物体がそこにあることはあるが、全体のバランスを計ることとはむずかしい。具象でも抽象でもそれはあまりちがいがない。

これはスペースシャルの飛行士と地球の基地との交信で大切なことらしい。テレビでやっていた。危機のときの状況説明に必須なのだろう。とても複雑な色つきの図形を正確に描画できるらしい(実際にやっているところはやらなかった)。どうやったらそんなことができるか考えてみたが、なかなか難しい。簡単な図形ならできる。しかし机といっても形や大きさ、角度などいろいろある。できるだけ正確に伝えても言葉の感じ方でも変わってくる。実際、生徒たちは原画に対して意味不明な説明をしたし、絵を書いた。二人ほど、非常によく似た絵を書いた人もいた。そのちがいは、言葉の正確で具体的な表現、ききとり能力、正確な描写、それと勘のようなものだろう。

机ではなく、サザエさんならどうだろうか。みんなに頭のなかのサザエさんを書いてもらう。みんな一応、サザエさんを知っている。確かにサザエさんを思い浮かべることはできる。サザエさんと思うものは紙に書こうとするとサザエさんからズレていく。比較的近い人もいるが、髪型の特徴だけが残されて、眼や口の細部は曖昧になる。机のような機能や概念に親しみのあるものは別として、われわれの生きているほとんどの世界はそのようにあいまいなものなのだろう。そして言葉で説明することも難しい。ひとつズレるとそのズレがより大きなズレを引き起こしていく。しかし、それがおもしろい。オリジナルはどんどん形を変えていく。

旧い国家――翠ぬ宝84

藤井貞和

荀子の訳に変調の詩とある
月明かりには旧い国歌
祖国の終わったあとから
まだ歌っている独立
終わる言語の西夏に
倒立する等身大の硝子玉
はいあがる遺跡
俑をならべるシルク・ロード
嬰 すこしあがり
変調の砂埃 沈む夕陽に
詠 いつまでも詠
恋しい馬の白骨 歌う骸骨
汚染するのか遺跡 

(「詠 いつまでも詠」、会える日、出番、きみが恋する世界、草葉の光り、すべてが待っているから。)

製本かい摘みましては(73)

四釜裕子

葉っぱの落ちた柿の木の奥に大きな藁葺き屋根の家。日差しを受けて、軒下に並ぶ真っ白な和紙の端が浮いている。

  乾き反る和本表紙や百舌猛る

東京葛飾の日枝神社近く、水本小合上町で和本表紙作りを生業とする家を訪ねた石田波郷の句だ。波郷は昭和32年3月から江東区、墨田区、江戸川区、葛飾区、足立区にカメラマンとともに足を運び、季節ごとの風物や景色を文章と句にして読売新聞に掲載した。昭和21年に疎開先から親戚の家をたよりに江東区に移り、病を抱えながら焦土に得た畑を耕し幼い子供二人を育てて10年、低い土地にむくむくとわきおこる戦後を記録した。連載は115回にわたり、昭和41年に『江東歳時記』(東京美術)として刊行。なるほどこの本と地図を片手に、界隈を歩きたくなる。

この地での和本表紙作りは、天明元年に地元の名主細谷秀蔵が始めた。蔦屋重三郎など複数の得意先を抱えたが、のちに謡本の表紙や官庁の綴込表紙、帙畳紙(ちつたとう)などをてがけるようになって、支那事変をきっかけに家と謡本表紙作りの権利を買い取った一色さんが引き継いだ。生麩糊をひいたりロールで型をつけたりする行程を見学した波郷は、「古い大きな藁葺屋根の下でするにふさわしい仕事である」と書いている。

波郷は最初の句集『石田波郷句集』(昭和11年 沙羅書店)の編集装丁を自らおこなっている。村山古郷『石田波郷伝』(昭和48年 角川書店)によると、「俳句の上下は揃えず、ノンブルは日本数字、製本はボール紙抜きのクルミ本略装、本文はアンカット、化粧裁ちせず、函は一枚ボールの折畳み」「表紙は鳥の子紙で装釘され、句集名も著者名も文字は一切印刷されていず、真白」、山口誓子は「馬酔木」昭和11年2月号に「どっから見ても白面(パイパン)なのでパイパン句集だ」と評したそうである。

今秋、山本義隆さんの『福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』(みすず書房)を手にして、なぜだかこの「パイパン句集」という言葉を思い出したのだった。表紙カバーと帯の地は白であるがタイトルも著者名ももちろんあって、際立ってシンプルでも気取ったものでもない。100ページの本文はゆったりと組まれ、1000円という値段が似合うように感じられた。「みすず」にと依頼されて書いたものが長くなってしまっておそるおそる渡したら、いっそのこと単行本にしましょうと言われたとあとがきにある。もしも「本」になれるなら、素っ気なく、なにげない装丁が似合うものでありたいと思う。今日は秋晴れのよい休日。工事の音に起こされた。ときおりの風に洗濯物がひるがえる。

犬狼詩集

管啓次郎

  41

「何を持っている、彼は?
彼は彼が持っているものを持っている。
でも何を?」(ウォレス・スティーヴンズ)
おれがおれである以前にはなくて
いつしか所有が始まったものとは何だったのか
本能的な哲学ではなく野蛮な言語でもないだろう
日焼けした椰子の実でもなく狼の毛皮の聖書でもないだろう
おれはただ歩いた一歩のその足跡において
そのつどの小さな面積に見合っただけの経験を得た
所有とは物ではなく、そんな足跡の累積だった
持つことと失なうことの区別もよくわからないな
狂ったような力で吹きつけてくる風に気まぐれな心を飛ばすとき
そのとき「持つこと」自体が失なわれて
「すべて」がきみを丸ごと捉えることがある
星から斜めの光がさしてくる
おれのすべての足跡が砂漠に還元される

  42

光の中への閉め出しという事態が想像できなかった
ここから、この光から
逃れるということができない
壁もなく、扉もなく、屋根もなく、風見鶏もいない
光が恩寵であっても音楽であっても
それをかわすことができない
不思議なことにそんな出口なしの状況でも眠りは訪れる
熱い砂浜で皮膚の表面がどんなに
焦げ、傷つき、悲鳴をあげるとしても
網膜をシャワーのようにつぶつぶとした光にさらしながら
暗闇がふと希望のように、あるいは夢として
思い出として訪れるのだ
光に対抗する決意をしておれは
瞼の裏側から赤、オレンジ色、紫を追放する
おれが求めるのはしずかな暗闇
眼球を星空のように落ち着かせる藍の先にあるもの

911から311

さとうまき

イラクの少女アヤは、6歳の時にがんになり片足を切断した。今は12歳になって、9月から中学校に行く年頃の少女になっている。その間彼女の成長に合わせて、義足の支援を続けてきたが、一方で、足を失った子どもたちはイラクにたくさんいて、彼女だけしか支援できない僕たちが情けなく、後ろめたくもあった。

震災が起きて、6ヶ月経ったが、震災直後に彼女からもらった手紙があり、ローカルスタッフにどんな事が書いてあるの? ときいても、「日本への感謝だ」ということであまりきちんと訳していなかった。改めて、アラビア語が堪能な加藤君というのに頼んだところ、ああ、あの小さな少女がこんなに成長しているんだと感動したので、全訳を皆さんにも読んで欲しい。この6ヶ月、イラクと、東北を歩いて感じたのは、戦争も、震災も、人びとが受ける苦しさは、全く同じだ。「地震や津波は必要だった」という人はいない。しかし、イラク戦争は、「必要だから支持した」というのが政府の見解だ。イラクの人たちの苦しみを、今始めて僕たちも実感できたのではないだろうか?日本の責任は大きい。期せずして911からも10年が経った今年、日本が復興して目指す国は、世界に平和をもたらす国になって欲しい。

   * * *

バグダード陥落
2003年3月20日、アメリカがイラクを占領するためにやってきた。国を壊すために、そして市民を制圧するために。イラク市民をアメリカの下にしばりつけておくために。陸も、海も、空も、イラクのすべてが取られてしまった。混乱の中でイラク市民は相争うようになってしまった。2003年4月29日、バグダードは攻め込まれた。バグダードは暗い墓場のようになってしまった。あの時から「アル・カーイダ」がイラクに入ってくるようになった。彼らのために爆発やテロ行為がたくさん起こるようになった。お年寄りや女性、そして子供がたくさん犠牲者になってしまった。放射能が原因で、爆発の煙が原因で、戦争のゴミが原因で多くの子供が犠牲になってしまった。

私もその中の一人。6歳の時、右足にガンを患った。放射能が原因だ。でも私の国には治療がなかった。薬や治療に必要な道具は盗まれてしまっていた。でも日本の支援のおかげで隣の国に治療を受けに行くことができたの。神様のおかげ、そして日本のみんなのおかげで治療を終える事ができた。ハムドリッラー。

地震と津波
日本で第二次世界大戦以来と言われる程とっても酷い悲劇が起こってしまった。これまで世界の国々に支援の手を差し伸べてきた日本が今、災害に見舞われている。神様にお願いするわ。日本のみんな頑張れるように。私はイラクの子供達の代表として、日本のみんながこの試練を乗り越えることができるようにお願いする。かつてイラクの子供達が辛い戦争や病気の時を乗り越えたように。

私達は日本のみんながこれまでイラクを、特にイラクの子供達を助けてくれたことに本当に感謝しているの。インシャーアッラー、悲劇が過ぎ去り、安寧がこの平和な国を包むでしょう。世界中の人々に優しさを届けてきたこの国を。だから世界中にお願いするわ。みんなですべての力でもって、そして手に手を取って素晴らしい友人である日本を助けてあげてって。彼らが困難を乗り越えられるように。

アヤ・ドリッド12歳

しもた屋之噺(117)

杉山洋一

気がつくといつも月末になっていて、それまでに書くことは沢山あったはずなのに、いざ机に向かうとなぜか決まって頭の中に深い霧が立ちこめてきます。毎朝早く、朝食のパンを買いついでに息子と散歩していると、日の出がみるみる遅くなって、朝日も秋らしい乾いた黄金色に変わってきた気がします。

拙宅はミラノのナヴィリオ運河近くにあって、時折ネズミの親子が連れ立ってベランダで遊びにくるのも仕方ないかと、さほど気にせず暮らしておりましたら、壁伝いにネズミがやってきて困ると苦情を言われてしまいました。家の半分ほど覆っていたつる草を一気に剥ぐと、見通しこそ良くなり広く感じられますが、いきなり髭を剃ったときの気恥ずかしさがあり、土壁のつる草には可愛らしいクロウタドリも巣を作っていて心配していたのですが、こちらはどうやら難を逃れたらしく安心しました。

ブーレーズの「エクラ・ミュルティプル」を勉強していて、今月は作曲者の素晴らしい自作自演を聴きに出かけてきました。「エクラ」だけでなく「プリ・スロン・プリ」の名演にも立ち会えて、両作品の美しさはもちろん音楽的な作曲者の指揮に深く感銘を受け、特にフレーズやアウフタクトも思いがけずクラシカルに感じられたりもして、本当に目から鱗が落ちる思いでした。自分がどこまで出来るかわかりませんが、何れにせよ現在も健在な”名演奏家で大作曲家”と向き合うのは簡単ではありません。

ブーレーズの真似をするわけにもいかないし、真似をしないわけにもいかない。真似をしたところで彼ほどの演奏ができるわけがありませんし、真似をしなければ、彼の演奏に触れた意味もなくなるどころか、作曲者の意図に近い演奏に接したいはずの聴衆を欺くことにもなりかねません。ただ、作曲者の演奏ばかりを追い求めても、演奏を重ねるなかで変化してきたものもあるだろうし、作曲者のみに許される解釈もあるはずです。

作曲時と現在とで演奏の理想が違うこともままあるかもしれませんし、何が正しいか一概に言えないにせよ、少しずつ自分のスタンスを見つけていかなければなりません。それには譜面を地道に読みこむことだろうし、たぶん普段より読みこまなければいけないのだろうと思います。あと半世紀もすれば、ブーレーズもマーラーのように扱われる日が来るかもしれませんが、マーラーの当時と今とでは環境もずいぶん違いますから、たかが半世紀後であれ、やはりまた違う環境で演奏されているのではないでしょうか。その頃どんな風にわれわれの現代作品が扱われているのか、ちょっと見てみたい気もします。

先日、補完したドナトーニの出版譜2冊を初めてリコルディから受取り、13年ぶりに楽譜を広げてみました。今ならこんな風には直さない、こう書いただろうと嫌なところばかりが目に付き、自分がこれほどロマンティックだったかと呆れもしましたが、自分の主観に基づいて、生きている作者の作品に公けに解釈を施したというところが今回のブーレーズに少し似ています。

ドナトーニが糖尿病の発作で倒れ、朦朧とする意識の中で書きなぐった音符をどう解釈し繋ぎ合わせるか、出版社から頼まれていた締切りぎりぎりまで、全く手がつけられなかったのを覚えています。初めて作曲者に書き直した楽譜を見せたとき、彼が目の前でぼろぼろと子供のように大粒の涙をこぼしているのを、やり切れない気持ちで見つめました。自らの身の上に起こったとは思えない目を背けたくなるような現実を目にして、無言で立ち尽くして自身をきりきりと苛む姿にかける言葉もなく、大きな老人が、まるで子供のように小さく見えました。

あれから出版まで作品と付き合ったけれど、なんとなくそのままになってしまい、出版社に楽譜をほしいと言ったことはなかったのです。今になってコンピュータで清書された楽譜を手に取っても、自分が携わった実感が沸きませんでしたが、ページを捲っていって無残に残された無音の小節を見たとき、途端に気持ちが塞ぐのがわかりました。どうにもこじつけようがなくて、結局手稿通り残した休符が暴力的に並ぶさまは、自分にとって荒涼とした光景以外の何でもありません。あちこち紫色に変色し、腐り始めた糖尿病末期の身体や、喉から飛び出していた数本の透明なチューブ、むっと鼻をつく病人の臭いと掠れた呼吸音。びっしりと記憶がはびこった小節たちは、息をひそめて、じっとこちらを見つめていました。

(9月29日ミラノにて)

言葉の手触り

若松恵子

片岡義男さんの短編集『木曜日を左に曲がる』の出版を記念して、詩人の小池昌代さんとの対談が千駄ヶ谷のブックカフェ「ビブリオテック」で開かれた。9月10日、まだ秋が始まったばかりの土曜日に片岡さんの話を聞くために出かけて行った。

イベントの案内には「ほんの一歩、それが小説。さらに一歩、それが詩。一歩から物語が生まれる。一歩とは希望。でも、自分は自分でしかないのに、どうしたら自分の外へ踏み出す一歩の言葉を作り出せるのか? 「一歩」の言葉が生まれる時間と場所を、こっそり教えます。」とある。小説の1歩と詩の2歩。小説も詩も両方書く二人の間にどんな会話が交わされるのか、期待を胸に出かけた。

以前小池さんが紀伊国屋書店の名物フリーペーパー「じんぶんや」で、片岡さんの『日本語の外へ』を大切な1冊として推薦しているのを見た時、意外なうれしさを感じた。詩人というものが言葉に対してもっているこだわりと、片岡さんが言葉に対してもっているこだわりは、違う世界の話のように感じていたからだ。

対談の中盤、小池さんの新しい詩集『コルカタ』に登場する少年の話になる。インドのコルカタに住む「純粋な光を放っているような少年」(と片岡さんは紹介していた)が詩を書いている。そして、その”ひみつ”をやすやすと姉によって明かされてしまった少年は、自分の部屋にまっしぐらに逃げ帰ってしまう。「見せたくなくて、逃げるという事は自分にはなかった。」と片岡さんが言って、そこから対話は核心に入っていったのだった。片岡さんは、その最初の作品から、人に読ませるための文章を書いてきたと言う。商品として成り立つ文章、読まれないと完成しない、共感があってはじめて完成する職業人としての文章を書いてきたというのだ。

安っぽい謙遜ではなくて、本気で、誰にも見せたくないという思いを持って文章を書く少年は、何のために書くのだろうか…。たぶん、自分のためにではないか。自分が世界を理解するために、世界をしっかり掴むために。書いて、世界を言葉で確かめているということではないだろうか。この世界にぴったりあてはまる言葉、時には、目に見えないものの存在を指し示す言葉。当然書かれたものは、納得できるまで充分に彼独特なものとなるはずだ。言葉は、時に通常の使い方とは違った使われ方をして、そのことによって役割を果たす。そのように書かれた言葉は、独特の手触りを持った言葉になっているような気がする。そして、その独自性、いびつさが、誇らしくもあり、とてつもなく恥ずかしいということではないかと思う。

小池さんは、「詩には、私のほんとうのほんとうの部分が残り続けている」と言い、「僕はそうなれない」と片岡さんは言う。一流の言葉遣いの二人が、言葉の持つ表裏一体の魅力について語っていて印象的だった。
「他者性と間接性が大切だ」と片岡さんは繰り返し語った。片岡さんは、言葉に固有の意味を付加するという事をしない。片岡さんにとって言葉は、「レゴの部品」のひとつひとつのようなものだと言う重要な発言も聞かれた。では、彼の書くものが無味乾燥なのかというと、そんなことはないと思える。

言葉は人と共有できるくらい、充分に洗練された道具として、既に充分魅力をもっているのではないか。手作りの、ごつごつとした手触りを持った言葉ではなく、人々を媒介する道具となりきった言葉の魅力について、片岡さんは承知しているような気がする。片岡さんの作品の持つ清潔感というか、空気の乾いた空間の気持ち良さのようなものは、この言葉の扱い方から来ているのではないかと思った。もう少しよく考えてみなければならないのだけれど。

片岡さんには、スーパーマーケットの棚の魅力について書いている文章があったけれど、ちょっと共通するイメージとしてそのことを思いだしたりもする。

ジャワの宗教、信仰、呪術

冨岡三智

9月16日にバンドンで行われたジャワ神秘主義実践者らの集まりで踊ってきた。というわけで、今回はインドネシア、中でもジャワの信仰について書きたい。

インドネシアでは宗教と信仰は別とされていて、前者は宗教省の、後者は観光文化省(認定された時点では教育文化省)の管轄下にある。普段は略して「信仰」と言っているけれど、正式には「唯一神への信仰」と言う。ちなみに宗教として公認されているのは、イスラム教、キリスト教・カトリック、キリスト教・プロテスタント、仏教、ヒンドゥー教、儒教の6つである。儒教はスハルト退陣後の華人文化の復権に伴って再公認された。

信仰は各地に土着的なものがたくさんある。以前は、信仰を表す語はクバティナン(内面的なるものの意)だったけれど、前・信仰局長の話によれば、信仰を表す語はクプルチャヤアンに統一されたので、クバティナンは今は使われていないとのこと。

私はジャワ以外のことはほとんど知らないので、ここではジャワのことだけ書く。ジャワで実践されている信仰は、特にクジャウェン(ジャワ的なるものの意)と呼ばれ、ジャワ神秘主義と訳される。彼らは占や暦を信じ、霊的な力の強いとされる日に、霊的な力を得られるような場所(聖人の墓、巨石のある場所、川など)で瞑想やみそぎなどの修行をしたり、断食をしたり、霊が宿るとされる石やクリス(剣)を大事にしたりして、霊的な力を得ようとする。また、一定以上の霊的な力を得た人は、そういう力で以って他人を施術することもある。

そういう信仰を実践している人たちは、自分たちのことをプングハヤット・クプルチャヤアン(信仰実践者)と称する。インドネシアには、似たようなカテゴリの人を指す言葉として、パラノルマル、ドゥクンという語があるが、信仰実践者を自称する人達は、彼らと一緒にされることを喜ばないので、注意が必要だ。

パラノルマル(英語のparanormal)とドゥクンはどちらも超常能力を見につけた人のことを指し、特に、失せ物・失せ人探し、事業の予言、病気治療などを得意とする。ただし、インドネシアでは、どちらもネガティブな響きを持つ単語だ。特に、少なくともジャワでは、ドゥクンという語を耳にすることはない。そこには、呪術師のようないかがわしい感じの響きがある。パラノルマルの方がまだしも耳にするし、王宮広場のイベントで「パラノルマル大集合!相談コーナー」という企画もあったので、ドゥクンほど否定的な響きはない。それでも、一般の人たちにはこういう人たちのことをオラン・ピンタール(賢人の意)と呼んで、パラノルマルやドゥクンという語を口にしないことが結構ある。

パラノルマルやドゥクンは信仰実践者と違って、その能力によって生計を立てている。信仰実践者が一緒にされたくないと考えるのも、それが一因だ。信仰実践者は何らかの職業で生計を立てながら信仰し、そこからお金を得るようなことはしない。信仰の実践として他人に施術することがあっても、お金を受け取らないのが普通なのである。

パラノルマルの人たちは、卓越した能力があるかどうかだけが問題なので、その能力の由来する宗教はまちまちだ。クリスチャンのパラノルマルだって大勢いる。そして、××教徒であることと、パラノルマルであることとは矛盾しない。

けれど、信仰実践者の場合は少し違う。ジャワではイスラム教は土着信仰と混交してきたので、イスラム教徒であることとクジャウェン信仰が矛盾しないと言う人も少なくないが、いずれの宗教の信徒であることも拒否する信仰実践者も少なくない。インドネシアでは2006年、前・信仰局長の時代になって初めて、信仰実践者はKTP(身分証明証)の宗教欄を空欄にしたままでよいということが法律上で認められた。それまでは、いずれかの宗教に属していなければならなかったのだ。

それでも、社会的には信仰実践者というのはマイナーな存在のようだ。私が出演した信仰実践者の集まりはバンドンにある国営ラジオ局で開催されたが、信仰実践者の集まりに場所を貸すことに反対する勢力が根強くあって、開催までスッタモンダがあったと聞いた。前・信仰局長の話でも、信仰実践者の集まりに招待されて出かけたら、その会場の周囲をイスラム教徒の反対デモが取り囲んでいるというようなこともあったらしい。

似たような存在だと思われているけれど、信仰実践者とパラノルマルは、法的には別の存在である。今まで述べてきたように、信仰実践者に関することは観光文化省信仰局の管轄だ。しかし、パラノルマルは、実は、最高検察庁(Kejaksaan Agung)の管轄下にある。また、信仰は観光文化省信仰局の管轄下にあるといっても、これは信仰実践者団体を管轄しているだけで、個人の信仰までは管轄していない。そして信仰団体とは、教義を持っている団体のことなのである。(そうなると、別に宗教と信仰を分けなくてもいいと思うのだが…。)パラノルマルは個人の活動なので教義は必要ないという点でも、信仰局の管轄から外れてしまう。

オトメンと指を差されて(40)

大久保ゆう

そういえば、私が毎週欠かさず見ているTV番組のあとに「THE IDOLM@STER(アイドルマスター)」という作品が放映されておりまして、流れでそのまま見ているのですが、どういう内容かと申しますと、いろいろな個性を持つ新米アイドルたちの日常(仕事・レッスン・交流)や、彼女たちを売り込んだりしてスターに育てていくプロデューサの奮闘を描いていく、アイドル事務所のお話なのです。

ぼーっと見ているときは、だいたいささいな妄想も伴っているのですが、このあいだふと思ったのは、こういうアイドル事務所的な〈翻訳家事務所〉は、ありえるんじゃないかな、ということで。つまり、所属する翻訳家のキャラと能力を前面に押し出して、そのための宣材を作って営業をかけて――というような。もちろんそれと同時にレッスンやら、事務所や控え室での翻訳家同士のわいわいがやがやとした交流なども含むわけですが。

もしかすると、足りなかったのはこういうものなのかな、という考えもありまして。というのも、ある意味では翻訳業界とアイドル業界は通じるところがあるのです。とりわけ1990年代、ご存じの方もおられるとは思いますが、一部の女性翻訳家がアイドル視されることがあったわけで、しかも成功したキャリアウーマンとして、女性たちの自己実現の対象として目されました。しかしもちろんそこには裏があるわけで、そこへの憧れや欲求をあおることで、語学業界はたくさんの教本を売り、翻訳学校におおぜいの生徒を集めた、という寸法。

こうして90年代以降、多くの翻訳家志望者を生んだのですが、ところが問題になるのは、そういった人々が抱いていたイメージと、翻訳業界の実体にギャップがあったことです。彼女たちは翻訳学校を卒業後、その運営母体である翻訳会社にフリーランスとして登録されたりするのですが、そこから回ってくる仕事は基本的には縁の下の力持ちのような、名前の出ないもので、くすぐられた自己実現とはほど遠いもの。翻訳会社にしても、喧伝するのは〈自社〉であって、いかに安く早く何でもできるかというようなこと、個々の翻訳家なんてどこにも見えず、生徒を集める際に説明したあれやこれやの形もありません。

また文芸翻訳家を目指すにしても、卒業後は自助努力で、もちろん地道に出版社でのリーディングを経て訳者の地位にたどり着く人もいますが、苦労して得ようとするそれも、何というか強いコネさえあればその過程は理不尽なほど簡単にすっとびますし、ましてや有名人・芸能人なら。(このあたりの事情から〈翻訳家を目指さないことが翻訳家への一番の近道〉という逆説に気づいた私があれやこれやし始めるのは別の話。)

と、いうようなことを踏まえたとき、下地としては90年代から00年代を席巻した〈アイドルを目指すブーム〉と下部構造がどことなく似通っているわけなのですが、向こうにあってこっちになかったものは、やはりアイドル事務所的なものなのではないだろうか、と妄想したりもするのです。つまり、せっかく育てたのに、その人をちゃんと売り出すようなところがなかったのではないか、少なくともエージェントでもあれば現状はいろいろと変わっていたのではないか、と。しかも、今や語学教育の若年化が進んでいるのですから、おそらく翻訳の教練もそれこそ中学校どころか小学校から低年齢から行える(私は中学からですが)、可能性として翻訳姫・翻訳王子のようなアイドルを誕生させることさえありえて、インターネットの普及した今であればそういった人たちを売り出していく事務所も割と現実的に作れるのではないか。

なーんてことを大した真剣味もなく考えていましたら、先日学会に出た折、そんな妄想も冷めてしまうようなことが耳に入りまして。なんと、今の子たちは翻訳に対してもっともっとドライに考えているというのです。もはやアイドルや自己実現としての翻訳家イメージは影も形もなく(というのは言い過ぎかもしれませんが少なくとも以前ほどではなく)、翻訳はあくまでもスキルのひとつ、社会へ自分を見せるための売りのひとつにすぎず、翻訳を学習する人も、翻訳家になりたいというよりは要領よく効率よく技術を身につけて利用したいと考えているのだとか。

ひょっとすると、承認欲求をあおるよりもそっちの方が健全かも。実際に、スキルとしての翻訳の技術や知識は、いろいろなところで必要とされているようですから、無理に目指して路頭に迷っちゃうよりも。言われてみれば、00年代で大きくプッシュされたアイドル翻訳家なんてあまり思い出せませんから、そもそも抱きようがないのかもしれませんね。正直、社会的には文芸翻訳よりもビジネスにおける翻訳の方が、支えるものとしての重要性は高いわけですし、そういうものを毛嫌いしたり下に見たりする風潮もどうかと思いますし(翻訳家の偶像視はそういう点でも悪影響だったかも)。

まあ、でも今の私は、翻訳業務だけでなく営業も経理も宣伝も編集も鍛錬もみんな自分でやっているわけなので、個人的に事務所はほしいかも、なんて。とはいえ自分がアイドルとして売り出されるとなると…………あははは、演技としてなら結構嬉々としてやりそうな気がする、私。

矛盾

大野晋

最近、いろいろといらっとすることが多い。別のタイトルでもっと刺激的な話を書こうかとも思ったが、全ての根源が「矛盾」なのだと気付いたのでこのタイトルにしてみた。先月も吐露したが、私の見方は万事が万事、斜め向きである。斜めで見たときにこんな見方もあったのねと温かい目で見てもらえれば幸いです。

例えば、自然エネルギーと言ってもなにを示しているのかよくわからないのだ。日本は恵まれているといわれる水力にしても、過去からの歴史は綿々たる自然破壊の歴史であった。多くの自然環境がダムの下に沈み、多くの遺伝子資源が失われてきている。以前から矛盾に思ってブツブツ文句を言っていた東京電力の「尾瀬で自然保護」キャンペーンだが、もともと東京電力は尾瀬にダムを建設するために付近の土地を買い占めた背景がある。幸いにしてというか、東電の思惑が外れたというべきか、尾瀬は自然保護運動などの結果残っただけの話で、別に自然保護のために東電がナショナルトラストよろしくCSR(企業の社会貢献)の一環で購入したものではない。逆に言えば、水力を再開発するといえばすぐに尾瀬で開発計画が進められる(すでに土地は購入済み)し、全国で尾瀬のような話が噴出するに違いない。

もともと自然科学の世界の人間だったので、そうでなくても、小規模な砂防ダムの建設で世界唯一の生息地をなくしたと見られる植物の話はいくつもできる。結局のところ、自然エネルギーなどといっても所詮は人工物を作る限り、どのようなものを作っても自然を破壊することには違いない。例えば、何回かの推進策で一時はブームのようににょきにょき建設された風力発電所だが、結局は作ったけれども回らない風車が続出し、環境問題や経済問題(投資資金が回収できない)、景観問題などを引き起こしたことを大都会の人たちは知らないのだろうか。都会の人工物の中なら風力発電の風車は気にならないのだろうが、自然景観の中でみる風車は異様の極みでさえある。

また、海上に建設するともいうが、海洋動物、特に音波を重要なコミュニケーションに使う海獣や鯨類に対する問題が生じないことを確かめているとも思えない。最悪こうした問題に関する研究を行い、環境アセスメントを行えば、建設までに数十年単位の時間が必要になるに違いない。ただし、「自然エネルギーがいい」と主張する人たちからそうした問題に対する対応策のひとつも聴いたことはない。まあ、だいたいにおいて、火力で代用などと、少しまで大騒ぎだったダイオキシンだの、CO2だの満載の手段を持ち出してくるのだから考えているはずもないのかもしれない。要は、大局的に見ていないその場しのぎの思いつきに過ぎないのだろうけれども。

「何とかムラ」なる言葉もよく一方的な呼び方だ。本来、発電所で作られる電力の恩恵など全く関係のないところに都会に作るのだから、その迷惑料も含めて利益還元するというのは妥当なのではないだろうか? そうでなければ、誰も直接利益の得られないモノを引き受ける引き受け手も現れないように思う。そうであれば、補助金漬けなどと批判せず、「どうもありがとう」「いつもお世話になっております」と頭を下げればいいように思う。少なくとも電気問題では、発電所を持たない、電気を多少なりとも使っている人たちは謙虚になるべきだろう。そういう関係がいやなら、エネルギー不要の生活をして見るか、自分で自分の分のエネルギーを作り出してみればいいのだ。

全体的に「なんとかムラ」「御用なんとか」と他人にレッテルを貼りたがる人間の話は信じないようにしている。しかし、そうして見直すとなんとも社会に出回っている情報の空虚なこと。

また、いたいけな少女に「正常な子供を生めますか?」なる質問をさせた下種な大人がいたらしいが、相手が学者であることを念頭においてこうした質問を発したとすれば相当な策士だと思う。「正常な」をどのように理解するかが問題だが、先天的な障害だと理解すれば、何もなくとも先天的な障害を持った子供が生まれる可能性があることはわかっている。専門家であれば、そうした可能性を考えて「絶対に大丈夫」とは言えないはずだ。そういったことまで考えて、回答に窮する質問を組み立てているのであれば、なかなかに策士だと思う。ただし、人間としては下種な部類だ。(主義貫徹のためには手段を選ばないという面で)

しかし、私は専門家ではないので、「はい。大丈夫です」と言ってしまおう。理由は、通常時に、妊娠に際してもともと先天的障害を持った子供ができる可能性がある程度あるにしても、それを問題にして妊娠を悩む親は滅多にいないからだ。そうでなくても、生まれた子供は親にとっても社会にとっても大切な子である。そこに「正常かどうか」などという概念を持ち込むこと自体が人道として許されないことだろう。だからこそ、悩むべき問題はないのである。

実際には、放射線の被曝が原因で遺伝上の問題が生じるという仮説は、長年の広島、長崎の被爆者に対する綿密な追跡調査の結果から否定されている。「ピカがつく」と称して、被爆者に対して婚姻などで差別する長年の風評被害があったと聞くが、それ は単なる思い込みであり、正されるべき悪癖である。それを本来、良識があるはずの人道的に原発被害を心配しているする人たちが主張しているということは実に矛盾に満ちている。今回、子供だけでそうした考えを持つとは思えないから、そうしたことを吹き込んだ大人は、福島のひとのほかに、全ての風評と戦った広島、長崎の被爆者に対して、己の不徳を恥じて懺悔をすべきではないだろうか?

それとも、長年の追跡調査の結果からヒバクシャを風評の呪縛から解き放した研究結果を否定し、御用なんとかと称して、無視を決め込むのだろうか? 結果として、信じてしまった妊婦がせっかく授かった命を中絶するような事態になったとしても平気でいられるのだろうか?

こんなことを考えていると、全国でなくならない「いじめ」の根っこが透けて見えるように感じられてならない。ストレスを感じるとなんとなく自分と異なるもの、弱い立場にあるものを攻撃したくなるのだろう。それがいじめを呼び、被爆者差別を呼び、いま新たな原発事故の二次被害を生んでいるのだろうと思うと非常に悲しい。

無責任に情報を垂れ流すマスコミを含めて、いま、大人は自分の行動を冷静に見直すべきではないか?

あの大震災から半年が過ぎた。

アジアのごはん(41)ドクダシ

森下ヒバリ

タイにしばらく行っていたのだが、今回、滞在中にインフルエンザにかかってしまった。暑い国ではインフルエンザはないのかと思うと、鳥インフルエンザを始め、各種ヒト・インフルエンザがあることはあるのである。しかも、今年はタイも春から異常気象で、乾季も終わらぬうちから雨が毎日毎日降っていたので、体の調子を崩す人も多かったらしい。

昨夜まで元気にしていたのに、明け方目覚めると、いきなり高熱が出ている。連れも高熱。連れも同時に一緒に倒れると、大変なこと極まりない。だれも面倒見てくれる人がいないじゃないか。誰かに来てもらうとインフルエンザが感染するし。宿はアパートメントホテルなので、飲料水は一階の自動販売機まで容器を持って買いに行かねばならない。

「み、水・・取って」「自分で取ってよ〜、あ、もうない・・」

こういうときに人間の本性が出る。「水を買いに行かなあかんで・・」「うう、なくてもだいじょうぶ・・(シーツをかぶる連れ)」「はああ?」

高熱で倒れているときに水がなかったら死ぬだろう・・。けっきょく、倒れてから三日間、わたしが水を買いにいくはめになった。熱は周期的に上がったり下がったりするので、下がったときをみはからってそろそろと買いに行く。一階までいくと、もうすこし歩けそうなので、通りに出ると向こうからバナナ売りの屋台を引いてくるおばちゃんが。天の助けとバナナを買い込む。二日目に、さすがにバンコク在住の友人に食糧を買ってきてもらったが、思ったより味のついたものは食べられない。

こうして、丸四日間、ほとんど水とバナナで過ごすことになった。食事の面から見れば、まるでバナナ断食である。そして、やっと治って、外にごはんを食べに行ってみると、これがまたいつものお店の料理なのに、ひと口食べると「しょっぱい! 味の素が気持ち悪い・・」苦行のように飲み込む。道を歩いても、空気がまるで毒のよう。住んでいるところは、もともと空気がかなり悪い地域なのだが、今までは慣れてしまっていたのだろう。もう道を歩きたくないほど苦しい。次からはもう少し空気のましなエリアに引っ越そうと真剣に考える。

インフルエンザや風邪で高熱が出ると、治ったあとにはいろいろ身体から悪いものがウイルスと一緒に排出されて毒出しされ、身体が軽く、すっきりしている。ちなみに日本では風邪やインフルエンザで熱が出ると、すぐに解熱剤や咳止めなど風邪薬を大量に飲んだり、病院に行ったりするが、わたしは風邪薬を飲まない。人間の身体は熱を出してウイルスを殺す、という免疫システムになっているからだ。

それにしても、今回の毒出し感はなにか強烈。なぜだろう? 思い当たることといえば、このとき水にゼオライト鉱石から作った「ゼトックス」という液体を加えて飲んでいたこと。放射能汚染が広がるなかで、身体に入れないよう防御するということも大事だが、身体に入ってしまった有害物質を排出することも大事である。免疫力をつけること以外に、もっとすぐに効果のあるものはないのかな? と、いろいろ調べているうちに鉱物のゼオライト(ZEOLITE)に辿り着いた。これまで日本では水の浄化、ペットの消臭材としてしかあまり利用されてこなかったが、福島第一原発で放射性物質吸着剤として使われ、その重金属吸着作用がやっと注目されている。

ゼオライト鉱石は、その分子構造とイオン交換作用から、重金属を吸着する。人体にゼオライト鉱石を取り込むと、有害な物質を吸着し、数時間後には人体からその有害物質をかかえたまま排出されるのである。しかも人間にとって必要なミネラルは吸着しないという、ものすごく人間に都合のいい性質を持っている。さらにゼオライト鉱石がいろいろな重金属の中から優先的に取り込むのはセシウムなのだ。

安全性については、日本ではすでに添加物としての認可があり、アメリカではFED(食品医薬品局)の認可があり、食品として安全とされている。というか、欧米ではゼオライト鉱石は福島原発事故よりずっと前から、人体における重金属や化学物質の毒出し効果が認められていて、パウダー状になったものが、薬局でデトックスのサプリメントとしてごくふつうに販売されている。

というわけで、アメリカ製のサプリメントや、出雲のゼオライト原石などいろいろ取り寄せて試してみた。

★アメリカ製サプリメント「ZEOFORCE」ゼオフォース。なんか効き目ありそうな名前だ。毎日の健康維持に一日二錠、集中デトックスには一日六錠から二十錠・・。カプセルはとても大きい。大きすぎて飲みこめないので、カプセルを解体してみると、中にはいっているのはゼオライト(クリノプティロライト)鉱石のパウダー。水に溶けば飲めるかと、コップ一杯の水に溶いて飲んでみた。う〜ん、石の粉の味ですね。三回飲んでいやになった。もう飲めない。

★出雲産ゼオライト(モデルナイト)鉱石の石粒。洗って、ひとつかみを水のポットに入れて一晩置いておくと、水がとてもおいしくなった。ゼオライト鉱石は水を浄化すると同時に、硬水を軟水に変える作用もある。過剰な重金属を吸着するわけだから、なるほど・・。硬水で、しかも安全性に疑問のあるタイのアパートの飲料水に使ってみると、水が格段においしくなったばかりか、お茶もかなりおいしく入れることができた。硬水ではお茶はおいしくはいらないので、悩みの種だったのだが、う〜ん、これはいい。

★出雲産モデルナイト鉱石のパウダー。これも直接飲むのはおいしくない。畑でもあればまけば土壌改良になるらしいが・・。タイで、旅行中に水にほんの少し粉を入れてみると、お茶がおいしく入った。石粒を旅で持って歩くのは重くてジャマくさいので、携帯用にいい。大匙一杯の粉を一リットルぐらいの水に溶き、しばらく置いておいて上澄みを使うことにしてみた。沈殿するのは粒子が大きいゼオライトで、粒子は小さいほうが吸収力は高く、ざらざらしないので使いやすい。お風呂に入れてみる。これはなかなか温泉みたいでいい感じ。汚染の可能性のある野菜などを洗ったりするのに、洗い桶に水を入れてこの上澄み液を少し入れ、ちょっと浸しておけば外側に付いた有害物質はかなり取れるのではないかと思う。

★アメリカ製でNCD(WAIORA)ワイオラという液体の飲料用のもの。飲みやすく、吸収力を高めるよう粒子をナノ加工した液体。一回三滴、一日三回。飲んでみた感じはいいとは思うが、日本国内では直接買えず、個人輸入しなくてはならない。購入はかなり面倒だ。販売方法もアムウエイくさい。

★日本製の「ゼトックス」という液体の飲料用のもの。これもナノ加工してある。無味無臭で、子どもでも違和感なく飲める。スプレーになっていて、一回三スプレーを一日三回が基本。いろいろ試した結果これが一番、飲みやすく、使いやすく、入手しやすい。二か月間試しているが、いい感じ。コップ一杯の水にスプレーして飲む。水分を必ず一緒に取ること。お茶やスープなど食事に入れてもいい。50ml.入りのボトルが3800円で二ヵ月近く持つ。飲む期間は二週間から四週間が目安。何か月おきにドクダシするといい。汚染地域の人は毎日飲んだほうがいいだろう。

放射性物質の排出に有効とうたうと薬事法に違反するので、ネットショップなどでは書いていないけど、セシウム以外にも水銀とか鉛とかいろいろ排出してくれるので、内部被曝だけでなく有害金属について不安のある人は試してほしい。汚染地域の子どもたちにはぜひ飲ませたい。

ちなみに、有害物質やセシウムを排出するといっても、自分で出たと分かるわけではないから、何がどう効いているのかよく分からない。しかし、ドクダシ作用が効いているかどうかは、排出系の変化で分かる。変化には個人差があるが、汗がよく出る、おしっこがよく出る、便がよく出る、というのが主な変化。中には鼻血が出たという人もいたが・・。

日本では、デトックスというと、美容やダイエットというイメージがあったが、いまや日本中で真剣なデトックス=毒出しが必要になっている。じぶんの身体はじぶんで守らなければ、だれも守ってくれない。
ゼトックス公式HP http://zetox.jp/