デモにいく。

さとうまき

安保法案に僕は反対している。だから、8月30日は国会前に行ってみた。小雨が降る中、12万人が国会議事堂前に集まった。警察は3万人だという。

僕は、仲間からはぐれ、一人「非戦」を掲げていた。そこいら辺から太鼓のリズムが聞こえ、コールが途切れない。僕は結構シュプレッヒコールというのが苦手だったりする。なんか、スポーツ選手が試合前に国家を歌うがそんなバラバラ感を感じてしまう。そういうバラバラなリズムについていけない自分がいたりする。

SEALDs の奥田君とこないだ鎌倉で一緒だった。沖縄から来た彫刻家の金城実さんと3人で同じ部屋に泊まる羽目になった。金城さんはもう77歳の爺さんだが、いつも酒臭い。講演会でも始まる前から少し飲んでいる。この爺さん、元気すぎる。奥田君からも、なんだか生気を吸い取ってしまうような怪物だ。しかし、その代わりに何かを置いていってくれる。ポケットから小銭を出してきて、「これで一杯やれや」みたいな。
生気を吸い取られながらも、そのちっぽけな一杯でなんとなく元気になっていく。

雨は時折激しく振った。
雨にぬれることが、心地よい。

若者たちのリズムは、ずれずにつづく。
毎日のようにデモに行く若者たちのリズム。
「民主主義って何だ?」「これだ!」

SEALDs に刺激され てOLDs とかもできて巣鴨にじいさん、ばあさんが集まっているらしい。ちょっと僕はまだ OLDs に入れてもらえないが、戦争反対を叫びながらデモ死するのもはじけていてクールだと思う。

今回は国会前のメインステージのスピーチは、あちこちから聞こえてくる太鼓の音でかき消されほとんど来こえなかった。
「民主主義って何だ?」「これだ!」というコールだけが耳に残っていた。

仙台ネイティブのつぶやき(5)我が心のカラクワ

西大立目祥子

豪快で、ユーモアがあり、賢くて、結束が強い。海の民ってこういう人たちのことをいうんだ。そう教えられたのは27年前、宮城県唐桑町でのことだ。唐桑は、ぎざぎざしたリアス式海岸に縁取られた宮城県の最北東端の小さな半島である。

1988年、建築家の石山修武さんが、小鯖(こさば)という浜にある古いカツオ節工場を竹の櫓と大漁旗でおおい劇場をつくってお祭りをやろうと、図面を引っ下げてやってきて、準備が始まった。劇場を造作するのは唐桑の若い衆で、ひょんなことから私もこの祭りを手伝うことになった。

見るもの、聞くこと、出会う人…すべてが初めてのことばかり。それまでの私の小さな世界は完全にぶっ飛んだ。中でも、準備を手伝いに毎日浜に姿を見せる漁師さんたちの潮風に吹かれ続けてきたような風貌とその話には、心が踊った。みんなマグロ船に乗り込み世界の7つの海を股にかけてきた人たちだ。確か当時、唐桑町の人口は8500人ぐらい、そこに1300人もの遠洋船の乗組員がいた。

ある人は「パプアニューギニアの小さな島で酋長をしていた」と話し、鳥の羽根をいっぱいつけた南の島の衣装を着込んだ写真まで見せてくれた。何でもマグロ船に乗って寄港したとき、酋長の娘さんの病気を直してやったら名誉酋長になったのだそうだ。ある人は「もと飼っていたオウムはスペイン語しか話せなかった」といい、またある人は「唐桑でいちばん高い早馬山では、漁船員がこっそり放したアルマジロが増えに増えて困って、山にアルマジロを釣りに行くのだ」といってカラカラと笑った。「南米に7人の子がいる」と噂される人もいた。もちろん、そこには漁師のホラ話が混じる。真偽のほどはわからないけれど、ホラ話には日常の風景を一気に飛び越えるような爽快感がある。ホラ話が披露されると、煮詰まっていく日々の暮らしに、一瞬、気持ちのいい風が吹き渡るのだ。祭りは「唐桑臨海劇場」という名で5年続いた。

津波”ということばを、しかも体験に裏打ちされた津波の怖さを教えられたのも唐桑でだった。そのころは、まだ浜に昭和8年3月に起きた三陸大津波を体験した大正生まれの人たちが健在だったのだ。「前の日に降り積もった雪を洗いながら電柱を超す波が浜に押し寄せてきた」「家も納屋も津波で持っていかれて、残ったのはタンス一つだった」「桑の木に着物が引掛かって命拾いした人がいた」「波がずっと沖合まで引いていって、すりばち状の海底に、魚が飛び跳ねてるのが見えた」…。浜の古老たちは、口々にその怖さを訴えた。中には明治29年に浜を襲った明治三陸大津波の被害を伝え聞く人もいた。

波が高く上がり浜を襲う。その恐ろしさを繰り返し聞かされても、何ともイメージはできなかった。でも、大津波が壊滅的な被害をもたらすものであり、特に三陸のように海岸深く切り立つV字型の岩場では波の勢いが何倍にもなることは、理解できた。「津波の怖さだけは、伝えなくてはわがんね」という人もいた。話を聞いてから唐桑を歩くと、あちこちの浜に、見上げるような大きな石碑が立っているのに気づいた。坂の途中や屋敷裏の山への登り口に。そこには、子どもでもわかるように簡略な一文が刻んである。「地震が来たら、津波の用心」。昭和8年の大津波のあとに、立てられたものだ。圧倒するような石の大きさに人々の思いがこもる。

その後、祭りの準備に奔走した若い衆は「まちづくりカンパニー」という会社を起こし、魚の配達を始め、地域資源を紹介する冊子づくりを行ない、町が進める山林の開発計画の反対運動まで展開した。つきあいは続いて、私はこの会社になけなしのお金を出資するはめになり、さらに仙台での魚の宅配まで手伝うことになった。若い衆は、「俺たち金がねえからっさ、悪いねえ」といいながら特段悪いとは思っているふうではなかったけれど、でも仙台にくるときは、カツオだの1メートルもあるようなカジキマグロだのを土産に持ってきてくれた。食べるために、私は出刃包丁を手に入れ、下ろし方を覚え、ガスレンジでカツオのたたきをつくるようになった。

そうやってつきあいは続き、広がり、何人ものいい友人を持つようになって、若い衆はみんな中高年になって、あの日がきた。2011年3月11日。激しく揺さぶられ、雪が降り出し、電気は止まり、携帯はつながらない。夜中ずっと続いた余震の中、ラジオをつけて「大津波」というアナウンスを聞いたとき、20年間眠っていた古老たちの津波の話がよみがえった。あの恐ろしい津波が仙台平野にまで上がったというのは衝撃だった。唐桑は?小さな入江や深い谷を持つ浜は?

ひと月半が過ぎ、ようやくガソリンが安定的に手に入るようになって、私はぼこぼこの東北自動車道を走り、みんなに会いにいった。

小鯖をはじめとして、浜はすべて壊滅し家々はがれきと化していた。いや、正確には、がれきが散乱する浜と、すべて流され空っぽになったような浜といろいろだった。その空っぽになった浜に、あの昭和8年の石碑が意地を見せるかのように倒れず立っている。浜の人は、その石のわきを駆け上がって命を拾ったのだ。

家を丸ごと流された友人もいたが、みんな無事だった。そしてもう働いていた。避難所を運営する地域のリーダーとして、物資を手渡すお世話役として。中には遺体の確認に奔走する友人もいた。そして、憔悴した表情を見せながらも、それでも笑っている。互いにツッコミを入れながらホラ話を繰り出しながら笑っている。いや、いま思えば、あれは笑おうとしていたのだろうか。どうしようもない目の前の風景に、違う風を吹かせるために。

何という人たち! 浜は強いなあ。私は逆に励まされたような気持ちで帰ってきた。

いま、浜では防潮堤の建設が進められようとしている。高さは約9メートル。もう海はまったく見えなくなる。これによって住民の命と財産を守るというのが、宮城県の主張だ。住宅や店舗が集積する街場でも小さな浜であっても、同じように巨大なコンクリートの壁がつくられていくのだ。たとえば唐桑の鮪立(しびたち)という浜の場合、人々の反対によって、ようやく県は高さを1メートル下げたのだが、建設計画自体は見直されない。防潮堤については、あちこちの浜でもめにもめ、ついには賛成派と反対派の対立で浜の人々が分断されるようなことまで起こっている。結局のところは、復興を進めるために反対派が譲歩し、建設をのむかたちで、計画は遂行されようとしているのだ。

この夏、一年ぶりで唐桑にいった。あちこちの浜に赤い三角のフラッグをつけたロープが張り巡らされている。あれは何? と聞いたら「あの高さまで防潮堤が立つの」と教えられた。もう海は見えない。いや、波の気配を感じることさえできないかもしれない。

海の民は、海を見ずに生活できるんだろうか?海の色、満ち引き、潮の匂い…庭先のように海を見てきた人たちのこれからが、気がかりだ。

130 玉纏(たまま)きの巻1 遺す言葉

藤井貞和

言葉があればよい、とそう思ったかもしれない。
もし言葉がありさえするならば。 
石は小さくなる、言葉の石。
のこるということ。 だれかがいなくなる。
置いてあるの? たぶん、祈っていたのは半分の真実で、
ぼくは殺意をえらぶ? 自分への。 ぼくら?
湖が光るのも、化石の試掘も、
峠でだんだんうすくなる葉脈のなかみも血。
退(の)くかげよ。 言ったとたんに、
どうしていなくなる? ぼくらの祭器。
祈ったあとの、欠けらはこなごなで、
それもたぶん複個の声のあとで、
書き言葉が遺る。 失血の数時間、そこが墓です。
きみの双つか三つの言葉。 湖よさよなら。
きっと遺される、きみの祈りの石。

(「のこる」と「のく」とは同語源だと辞書に書いてあったので。一人と独りとはおなじ語(それはだれでも分かる)。で、ひとり退き、またひとり退き、たった独り遺されても、ぼくは、わたしはどうする? そう思うひとりひとり、ひとりひとり。ちなみに無関係ながら、『万葉集』や『源氏物語』に出てくる〈夢〉は「夢魔」です。当時、「ゆめみちゃう」〈あこがれる〉みたいな用法はありませんでした。残像はすべて証しであり、たったひとりの体験なのです。行路に浮遊する亡霊のたぐい、恋する証し。)

家族という記号

大野晋

この夏は体調を崩しました。結局、この話は1か月遅れになりました。

「高杉さん家のおべんとう」というコミックが最終巻をむかえた。評判を知りたくて検索してみると、その独特の絵柄から入り込めないというコメントを見つけた。私自身は特に問題なく読めているがそうでもない人もいるらしい。という話は、実は私自身もそういう絵柄の作品をいくつも知っているのでわかる話ではある。

手塚治虫はコミックを記号と称した。記号とは、読者が作家の描いたキャラクターを通して、ある価値観を通した色眼鏡で物語を見ているという事だろう。だから、同じキャラクターを使っていても、異なる物語をそこに語ることができる。しかし、ヒロインはヒロイン、悪役は悪役の記号を見ることで芝居を感じることができるという趣向だ。だから、決して悪役がヒロインを演じることはない。

ここまで考えて、ウンベルト・エーコの記号論を思い出した。私たちは何かを見るとき、記憶や経験からある色眼鏡でものを見ることになる。私たちは記号でモノをみているのだ。

「高杉さん家」に話に戻すと、これは基本的にギャグ漫画の枠で語られるのだけれど、基本的に「家族とは何か?」を読者に問いかける。主人公は父母と妹を交通事故で一度に亡くしていた。そして、いっしょの家に住んでいた年の若い叔母さん(実は彼女は養子で血のつながりはない)に高校卒業まで育てられる。ところが、大学進学が決まった日、彼のもとを唯一の肉親であった叔母が何も残さずに去っていく。

孤独のまま大学でODをしていた彼のもとに、ある日、突然、弁護士が現れ、ひとりの中学生の女の子を連れてくる。失踪していた叔母が交通事故で亡くなり、シングルマザーだった彼女の遺志で、中学生の女の子の保護者に彼が指名されたというのだ。こんな冒頭から始まる作品は、それぞれ、肉親を亡くした面識のないふたりが家族として暮らし始める姿を描く。そのひとつの家族の象徴がお弁当という形をとっている。

ふたりを取り巻くキャラクターたちのいっしょに暮らさない肉親、全員の母が異なる家族(二男は血のつながりもない)などの家族の問題を抱えている。社会学という主人公の専門分野を絡めながら、家族とはなにか? を読者に問いかけた作品は、読者の持つ「家族」という記号に疑問を投げかける。一応の終演を迎えた作品の最後で、家族という実態の多様さを語りたかったのではないか? という思いが残った。人間は様々、同じ人はいない。たまには記号自体を疑ってみるのもいいだろう。

ソロのスリンピ、ジョグジャのスリンピ

冨岡三智

先月末に京都府宮津市(8/28)と大阪市立大学(8/30)で開催されたジョグジャカルタ王宮舞踊団の公演に私もゴング演奏者として参加した、ということで今回はそのお話。

まずは公演の概要から。公演内容は両方とも①宮廷舞踊「スリンピ・チャトゥル・マンゴロトモSrimpi Catur Manggalatama」、②仮面舞踊劇「スカルタジ・クンバル」、③創作舞踊「曼荼羅・盆踊り」で同じだが、宮津公演では京都府・インドネシア共和国ジョグジャカルタ(以下ジョグジャと略)特別区友好提携30周年記念事業ということで、ジョグジャ王家当主(スルタン)にして知事でもあるハメンクブオノX世の挨拶があった。来日したのはジョグジャ王宮舞踊の系譜をひくプジョクスマン舞踊団一行20余名で、舞踊監督は同舞踊団を主宰するシティ・スティア女史。うち演奏者は音楽監督スマリョノ氏以下6名で、関西のガムラン団体マルガサリのメンバーを中心とする日本人計11名も演奏に参加した。一行は8/26に来日し、その日から2日間京都市内で合同練習をしたのちに公演に臨んだ。ちなみに練習と宮津公演で使用したガムラン楽器は、20周年の時にジョグジャ特別区から京都府に送られたもの。

演目の①スリンピは女性4人による舞踊で、王宮舞踊の大家、故・サスミントディプロ(通称ロモ・サス)が1957年に振り付けた作品を再創造した、とプログラムにある。スティア女史―ロモ・サスの妻―に確認したところ、1957年の振付を踏襲しているが、今回の上演用に多少アレンジした部分があるので再創造という表現になっているということだった。このスリンピはスルタンの娘(王女)4人によって踊られた。今になって気づいたのだが、楽譜には曲名が「スリンピ・ラヌモンゴロSrimpi Ranumanggala」とある。たぶん王女4人が踊るということを強調するため(チャトゥルは4という意味)、一般人が踊るときの題名と変えたのだろう。

②仮面舞踊劇の振付と音楽は今回の音楽監督を務めるスマリョノ氏によるもので、11名の踊り手が出演した。舞踊劇の題材は、ジャワが発祥で東南アジア各地に伝播したパンジ物語で、パンジ王子と異国のクロノ王がスカルタジ姫を巡って争うというお話。その過程でパンジ王子をだますためにニセのスカルタジ姫(本当は怪物)が出てきたり、本物のスカルタジ姫が影絵人形遣いに変身したりするシーンがあるために、今回の題名は「スカルタジ・クンバル(2人のスカルタジ)」となっているのだろう。③創作はジョグジャ出身で日本在住の舞踊家、ウィヤンタリ佐久間氏の振付によるもので、彼女はジャワで曼荼羅の舞踊の振付や音楽を作りこんできた一方、最後に盆踊りも組み込んだシーンでは、日本人出演者も巻き込んで即興性の強いものになっている。私も浴衣に着替えて盆踊りを踊った。

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さて、前置きはこれくらいにして、今回初めてジョグジャ様式のスリンピを演奏してみて、私が今までやってきたソロ(=スラカルタ)様式のスリンピとの違いが興味深かった。スリンピはソロとジョグジャに分裂する以前のマタラム王家の舞踊に遡るので、どちらの様式も本元は同じはずだが、現在では違う種類の舞踊だと言えるくらいに違っている。ソロのスリンピと違って、ジョグジャのスリンピでは、戦いのシーンでチブロン太鼓を使う。今回のスリンピは1957年作の新しいものだが、スティア女史曰く、ジョグジャ様式の古典の定型通りに作ってある作品で、ジョグジャでは古い作品でも戦いのシーンではチブロン太鼓を使うという。これは、ソロ様式を勉強した者には衝撃的な内容だ。というのも、チブロン太鼓は民間で発達した楽器で、ソロ王家のスリンピ(やブドヨ)では使わないからである。結論を先に言うと、ジョグジャのスリンピの振付コンセプトは、ソロ様式のウィレン・プティラン舞踊(以下、ウィレンと略)によく似ている。ウィレン・プティランとはマハーバーラタなどの物語に題材を取った、男性2人(または4人)による戦いの舞踊のことで、「カルノ・タンディン」などが代表的な演目である。

ウィレンに似ている点は、まず、戦いのシーンへ移行する時にチブロン太鼓に替わり、最初にアヤ・アヤアンという曲で武器を取り出し、スレペッグという曲で戦いのシーンを描くこと。この2曲はワヤン(影絵)でもよく使われる。戦いのシーンの伴奏は、基本的に太鼓は踊り手の動きに合せるが、要所要所のつなぎの動きでは、踊り手は太鼓に合わせる。ソロのウィレンの場合、そのつなぎ目にくる太鼓の手のフレーズは ・・db ・dtb ・tbd(最後のdで、スウアンという銅鑼を鳴らす)なのだが、今回のジョグジャのスリンピでも、ほぼ同じフレーズだった。次に動きについてだが、ジョグジャのスリンピで2人ずつ組になって左右に行ったり来たり追いかけ合ったりするところ、さらに戦いの勝敗が決まった時点で曲はスレペッグからクタワンなどの形式の曲に変わり、静かなシルップ(鎮火の意)という演出になるところが、ソロのウィレンに同じである。どちらも場面の転換が曲の転換で分かりやすく示される。

一方、ソロのスリンピでは戦いのシーンに移る時に曲が変わることはない。むしろ、1回目の発砲・発射の瞬間に曲が変わる(例:ラドラン形式からクタワン形式へ)ことが多い。しかし、その後も使用する太鼓は変わらず、かつ歌も続いているので、曲が変わったと気付く人は少ないだろう。また、戦いの場面についても、ソロのスリンピではピストルを抜いて弾を込め、構えて発砲するという一連の所作が描かれる(中には弓合戦を描いたものもある)が、2人で追いかけあうような描写はない。テンポや音量が次第に上がっていき、緊張感がピークに達したところで発砲・発射があり、そこで音量が落ちてシルップになるという進行である。場面の転換は曲の変化よりも音量やテンポの変化で表現され、2人が戦っている情景の描写ではなく、戦いの緊張感を描写しようとしていると言える。ソロのスリンピのシルップの場面では、負けた方の2人が座って勝った方が負けた方の周囲を巡るという演出をする。これはジョグジャのスリンピやソロのウィレンにも共通するが、これらの場合、勝利者が勝利を喜ぶような場面にも見えがちだ。しかし、ソロのスリンピではこの時に勝った2人が複雑な軌跡を描いて舞台いっぱいに廻ることが多く、舞台全面に広がる内面の世界の旅を描くことに主眼があるように見える。

最後に入退場について。ジョグジャのスリンピの入退場は華やかだ。踊り手はまずラゴン(ソロのパテタンのようなもの)と共に舞台脇に整列する。そして、ガンガン叩くガムラン楽器とトランペットとスネアドラムの曲(ラドラン形式)にのって、舞台脇から中央までまるで軍隊のように進む。もちろん足を高く上げるわけではないが、踊り手は両腋を卵1個分くらい開け、両腕をまっすぐ伸ばし、胸を張って歩く。ここでは、入退場もまた1つの見せ場になっているが、ソロのウィレンでも(また舞踊劇一般でも)入退場は登場人物のキャラクターを紹介する見せ場なのだ。それに対してソロのスリンピでは、踊り手は男性斉唱つきのパテタンで入場する。パテタンは雅楽の音取のようなもので、柔らかい音色の楽器のみで演奏される。男声が加わるから通常のパテタンよりはしっかりした感じに聴こえるが、踊り手の腕は体側に沿って自然なポーズであり、入退場を舞踊の一部として見せるように構成されていない。そのため、観客の目にはいつの間にか踊り手が出てきた…という感じに見える。

ジョグジャの女性宮廷舞踊はマスキュリンだと言われるのも、ソロで言えば男性宮廷舞踊のジャンルであるウィレンと振付構成が似ていることもあるのかなという気がする。

グロッソラリー ―ない ので ある―(11)

明智尚希

 1月1日:「ケータイなあ。ああどうしようかなあ。結構悩むねこれ。俺が優柔不断なだけか。ははは。そこまで笑うことはないだろ。まあ確かに優柔不断ではある。これは認めるとして、さあどうするか。変えるべきか変えざるべきか。あ。なんかこんなのあったよな。何だっけ? 小学生にわかるはずないか。まあいいや。ははは――」。

(・x・ノ)ノ⌒ポイッ……デキナイ

 五感を意図的に動員して生きていると、エピファニーの沼に沈み込んでいく。感覚レベルにおける異種格闘技である。複数のものがぶつかり合い対立していても、そうしたこと自体で関係が生まれる。こうなると無関係と思われる物に思いをはせてみても徒労に終わる。アメーバのようにくっついて顕現顕現と物申す。プラスαの苦難そのもの。

(*´[]`)=3 はぁぁぁ

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

 鬱になると動けなくなる。心の深遠から不断の苦悶がせり上がってきて懊悩、呻吟する。目も開けていられない。まぶたを起こすのもひと仕事だからだ。見ていようがいまいが、皮膚の外はどんでもない世界に変貌する。丸まって動けず呼吸だけしている。そういう生き物になる。悩める人の友、死ですらこの時ばかりは死んでいる。

┌┤´д`├┐ダル〜

\(○^ω^○)/

 1月1日:「あやっぱりどうしようかなあ。今のままでもいいっちゃいいんだけど、みんな持ってるしなあ。俺も持ってたほうがいいのかなあ。どうしたもんかなあ。スマホに変えたとしても、すぐに新しいのが出るしなあ。買ったはいいけど、使うの結局メールと電話だけだったりしそうだもんなあ。いやー難問難問。まいったねこれは――」。

(σ´.ω.`)…。oо○ウーン・・・

 面白い人間には、ひと癖ある者が多い。その一人、Mはドイツ人の兄がおり、小さからぬ山を所有し株で儲けていた。もちろんすべて嘘である。こちらも嘘で応酬するものだから、そのうちお互いに話のつじつまが合わなくなり、苦笑する。数十年ぶりに偶然会ったのだが、Mは名前を変えMであることを必死に否定した。やはり面白い人間だ。

(;≧∇≦) =3 ホッ

 
 こんなようなぶんしょなどよむよもっとおもしろことがよのなにあるはずだ。でもこまでよみすめたあなたはただそれけだのりゆうでたぶんえらい。うっとうしとおもったひとはただちほんをとじたらいい。あらたしいふりすびーになるかもしれなしちょっとしふみだいにもなるだろから。まあそういひとはほんなかんよまないものだろけれど。

y(^ヮ^)y

 1月1日:「まあ今すぐ買い変えなきゃならないってわけじゃないんだけどさ、こういうのって結構長く使うものだから、ついつい慎重になっちゃうんだよな。みんなが変えたからって俺もまねしたら、前のほうがよかったなんてことにもなりかねないしな。後悔先に立たずっていうだろ。でもまあここまで悩む必要があるのかどうかだな――」。

ドウスルカ ( ̄へ ̄|||) ウーム

 病気や避けられぬ事情で青春を奪われた人間は、根強い悔恨と屈折に起因する恨みのかたまりだ。いや、恨みどころではない。熱い熱い殺人的激情が人間化したものである。だが、この世界内存在は、外貌からは判断がつかない。激烈な感情の対局に温厚で誠実な側面を持ち合わせているからだ。振り子の理論。生真面目さを全否定されたら……。

ー ̄)ニヤッ

 人が、いる 街が、ある――世界の終わりを感じた。

ゞ(´Д`q汗)+・.

 誰もが人間喜劇における類人猿ならぬ演人類。各々の役割は確定している。毎時いくつかに分類されたシットコムに参加している。使用される言語内容に大差はなく、時には即興のセリフが飛び出す。言語内容だけではない。動きもまた台本通り。奇妙なコメディの参加者が社会人と呼ばれ、我流を通す者は芸術家もしくは人でなしと呼ばれる。

(・-・*)ヌフフ

玄関の馬鹿が、

植松眞人

 よりによって月曜日の朝だ。
 玄関のドアを開けたら馬鹿がいた。馬鹿がじっとこっちを見ていて、ドアを開け放った瞬間に目と目が合った。
 ドアが開いて、何事かと思いながら状況を察知して、人がいるのか、どんな奴だ、と探り探り目が合ったわけではない。ドアを開けた瞬間に目と目が合ったのだ。ドアを開ける遙か前から馬鹿がこちらの目を見つめていた。そんな確信があった。そして、その確信が畏れへと繋がる。
 馬鹿は未だじっとこちらを見つめている。少しよだれを流して、意味不明な言葉を発しているのだが、その馬鹿は日本人だった。もしくは、日本語を話す地域で生まれ育った馬鹿だった。馬鹿の口から流れ出る声は日本語だった。日本語としての意味はわからないのだが、日本語の文法を入れ替え、日本語の単語をばらばらに置いて、いくつかの音を足して引いたあげく意味不明になっていることだけがわかる。
 この馬鹿は恐ろしい。馬鹿だということが恐ろしいのではない。さっきの話だ。この馬鹿が玄関のドアを開ける遙か前から、こちらの位置をしっかりと把握し、正確に目を見つめていたのはなぜなのだろう。こちらが知らない間に、こちらの目の位置をちゃんと知っていて、そこを見つめることができたのはなぜなのだろう。
 馬鹿だからこその能力なのか、それとも誰かに操られているのか。どちらにしても、空恐ろしい。
 けれども、もっと恐ろしいのは、相手が馬鹿ゆえに、聞いたところで答えられないということだ。

製本かい摘みましては(112)

四釜裕子

8月はじめの暑い暑い日だった。用事が済んでとにかく涼みたくて喫茶店を探していた。そういえば間もなくオープンするという製本カフェはこのあたりではなかったか。ダメもとで行ってみた。不忍通りとへび道をつなぐ小径のなかほど、「Coffee & Bindery Gigi」の看板が出ている。そして “プレ・オープン” の文字。ラッキー。クーラー、クーラー。昼前のはずだが1階のカウンターはすでににぎわっている。「よかったら2階へどうぞ」。腰掛けているひとたちの後ろを通って天守閣行きのような急な階段をのぼる。正面に窓、大きなテーブル。窓からは眼下に小径、通りをはさんで並ぶ家々は間近だ。部屋の反対側にはペンキや工具が山積みしてあり、作りかけの棚や台がそのままになっている。今日も閉店後、作業が続くのだろう。クラウドファンディングによる資金調達もしているので、そのためのプレ・オープンでもあるようだ。このあと「機械」を入れて製本工房にするという。アイスコーヒーを注文。

「製本」と聞いて、カッターや目打ちやボンドや糸を使う製本ばかりをイメージしていた。個人で持つには金銭的にも場所的にも負担が大きいシザイユやプレス機、かがり台などの「道具」が揃えられると思っていた。ところが「機械」を入れるという。このスペースに並べられる製本のための機械って?! オーナーの澤村祐介さんに聞いてみた。するとそれはデュプロ社などの小さな断裁機や綴じ機などで、セルフで操作して中綴じや無線綴じの本を作れるようにするという。もちろんそればかりでなく、ワークショップのかたちでハードカバー製本などもやっていきたい、と。なるほど! お店の名前に「製本」ではなく「bindery」を入れたのは、紙を綴じて本にすることをきっかけに人と人とがいろいろに綴じ合える場所でありたいという願いだろう。なにしろ、機械がやるなら断裁も綴じもほんの一瞬なんだから。

灼熱の小径に出て建物を振り返る。さっき見下ろしていた窓を見上げただけで汗が出た。渋谷ののんべい横丁にあったNON(今もかたちを変えてあるかも)を思い出した。オンライン古書店メトロノーム・ブックスの江口宏志さんが2000年頃に友人と始めた古本バーで、店は狭く階段は急、2階の書棚や店のあちこちに江口さんセレクトの古本が並んでいた。当時のオンライン古書店の中で品揃えも言葉や写真も見せ方もだんとつ目立っていたメトロノーム・ブックスはその時点でおおいに世間に出ていたわけだけれど、薄汚い横丁に開店したときはなにかこう、こっそりしかしずいぶん眩しく “世間” にあらわれた感じがしたものだ。あのときと同じ、始まりのいい匂いがすると思った。

70年代の風に吹かれて

若松恵子

「70’sバイブレーション!YOKOHAMA」というイベントが8月1日(土)から9月13日(日)まで、横浜の赤レンガ倉庫で開催されている。「70年代のニッポンの音楽とポップカルチャーが甦る」というタイトルで、ロックコンサートのポスターやチケット、レコードジャケットやミュージシャンの写真が展示されている。はっぴいえんどの「風街ろまん」が発表された1971年からYMOがワールドツアーを成功させる1980年まで。音楽を軸に振り返る70年代だ。企画に合わせて特別編集された「SWITCH」に今回の展示の一部が再録されている。ヒッピームーブメント、サイケデリックブーム、野外ロックフェスティバル、自分で歌をつくり歌う人たち、ライブハウス…。今も続く、あるスピリットの源流を訪ねる旅だ。

同誌に掲載されているインタビューで、佐野元春は「60年代は日本の少年期であり、それに続く70年代はまだ人々がイノセントな気持ちを抱えていて、青年に成長していく時期だったと言えるかもしれない。」と語っている。若者の時代、私も70年代に対してそんなイメージを抱く。戦争が終わって、アメリカやヨーロッパの文化がたくさん入ってきて、その影響を受けながら成長した子どもたちが青年になって自分でも、物真似でない、オリジナルの作品をつくり始めた時代、そんな印象だ。私自身、物心ついてから多感な10代を過ごした10年間という事もあり、少し贔屓目で時代を見ているのかもしれないが。

展示期間中のイベントに片岡義男さんが登場するので、夏休みの入口の日曜日に、横浜まで出かけた。

「アナログ盤を通して三人の証言者が70年代のカルチャーをひも解いていく」というコンセプトで第1回はピーター・バラカン&濱口祐自による「音楽の収穫時期」、第2回は佐野元春&室矢憲治による「新しい夜明け」そして第3回に片岡義男&左藤秀明&南佳孝による「ラジオのように」が開催された。港を行く船が大きな窓越しに見える赤レンガ倉庫1号館のホールで、片岡さんが選んだレコードを聴きながらゲストとのトークを聴いた。

デジタル再生での1曲目はフィービー・スノウの「サンフランシスコ・ベイブルース」。リリースは1965年ですよね、とつっこまれながらも、70年代のうちだと返していた片岡さん。デジタル再生だと針とレコード盤が接触する事が無いから、音の出発点がわからずに突然音が空中に漂い始める、その感じが良いと言っていた。会場に流れる、フィービー・スノウの洗練された深いブルース。片岡さんは、「この1曲とこれが流れていた当時の日本とのものすごい落差」とぽつんと言った。録音していないので確かめようがないけれど、多分そう言ったのだ。

夏の帳面

璃葉

呑み屋、カフェ、古本屋、画材屋。他は思い出せないが、
ずいぶん前から色んな場所を転々として、1日中働いていた。
思うところあって、そうゆう働き方をやめたのは、つい最近のことだ。
いまでも、過去の職場には必要があって訪ねることがある。
そしてそのまま飲み会になってしまうことがある度に、
楽しい人たちは周りにたくさんいると実感する。

突然働くことをやめると、たくさんある時間にうっとりして1日が過ぎてしまう。
全ての動作がゆるやかになり、何かをじっくり考える余白ができる。
ノートに創作の記録(という名のひとりごと)を綴る。
読んだ本のなかから、少し気になったものもたまに書き留めておく。 

国の風向きや、何かの拍子でどこに飛んでしまうかわからない現在、
ひとたび風が吹けば知らない間に方向を変えられている。
変化に気付かないまま、自ら砂漠に入っていく。当たり前のように。
その水、葉、土がどこへ流れてゆくか考えるゆとりもなく、ある一部分だけを見る生活。
  怒りの後ろには恐怖がある
  恐怖の奥には、
  悲しみを帯びた海が広がっている   
            (ある冊子からのメモ)

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島便り(15)

平野公子

昭和45年建立壺井栄文学碑は坂手向かいが丘にある。坂手の海が一望できる広い敷地には花や樹木の多い気持ちのよい場所だ。碑文は生前壺井栄が好んで色紙に書いたというもの。

 桃栗三年
 柿八年
 柚子の大馬鹿十八年

碑文としては、最初いささか面食らったのだが、栄の文章にたくさん触れ、島の柚子をいただき、前方180度に広がる海に接する日々が日常になったいまは、柚子の大馬鹿十八年 がなんとなくすっと無理なく身体にはいってくる。

島の柚子はとても酸味と香りが強く、緑の実は固い。東京のスーパーなどで買っていた柚子とはかけ離れていたものだった。柚子の樹は9年でやっと花が咲き、そのあとまたまた9年かかって実がなるそうだ。知らなかった。ほんと大馬鹿だ。

私の家の回り自生に近い樹々は柚子ほどではないが、それに準じる大馬鹿もいそうだ。長い時間がかかって実をつける山椒の樹は、実をつける、つけないの樹に別れる。実がついている樹でもよくよく味わうと、味が一様でない。辛みのほどよい味、紅葉しても使える樹は少ない。となりの畑のオリーブの樹々も一本ずつ実の色や大きさや育成速度がちがう、匂いまで違う気がしてきた。花も実もある樹は存外少ないということなのか。

壺井栄は1899年(明治32年)8月5日香川県小豆郡坂手村に醤油樽職人の岩井藤吉の五女として生まれ、なんと11人兄弟です。当時醤油屋は醤油を醗酵させる樽を作る職人を抱えていたようです。栄えの小さな頃はたくさんの職人を抱える樽の親方であった父親でしたが、働いていた醤油屋がつぶれ、そこから一家に貧乏な暮しが押し寄せてきたようです。

栄の小学校から十代にかけての生活や労働は小説に姿を替えてでてきますが、どれを読んでもまず家族へのとくに祖母、父母への信頼というか愛情の強さには清々しさを覚える。なかでも私が注目したのは祖母との関係です。祖母が暮らす隠居小屋で栄はいつも一緒に寝たようです。祖母の昔語りを聞きながら、世間の事も祖母の一生も祖母を通しておはなしとして栄の耳に心の奥深くに積もっていったのではないかと想像します。栄のあの語るような物語運びはここから生まれていたのだと言ってもいいかと思います。

小豆島に来てから、私がまず気がついたのはこの島は木、鉄、石、作物をあつかうにしろ、なんと腕のいい職人が残っている島なのか、ということでした。サラリーマンではありません。芸術家はひとりもいないかもです。が、どの分野でも、老いた職人がいます。栄の祖父は船大工でした、若くして海にのまれてなくなりましたが、その息子つまり栄の父親は樽職人として生計をたてます。いまの時代、さすがに木の船も樽も職人はいないのですが、どうもその気質が脈々と残されているのです。

しもた屋之噺(164)

杉山洋一

今月初め、もう日本の小学校には行かない、大きくなったらイタリア国籍を取る、日本人なんて嫌いと言っていた愚息に催促され、西友の文房具売り場で、明日から2週間ほど通う日本の小学校の備品を購ってきました。今彼は傍らで嬉々として名前を書いていて、安堵しつつほんの少し胸が痛むのは何故だろう、と自問しています。

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  8月某日 三軒茶屋自宅
時差ぼけで仕事らしい仕事をしていない。レスピランの新作のための音列12楽器分漸く仕上がる。ほぼ1ヶ月の遅延。

  8月某日 三軒茶屋自宅
沢井さん宅に伺い、復元七絃琴のため「マソカガミ」練習。文字通り音一つずつ、どの絃の音が良いか決め、且つどのように爪弾くか、人差し指で弾くか、中指で弾くか、親指で弾くか、音と音とのつなぎを、どう作るか、余韻を残すにはどの指でどう奏すか、気の遠くなるような作業を根気よく付き合っていただく。これは正倉院の七絃琴を木戸さんが復元したものだが、形は中国の古琴、グーチンに似ているが、大きさは一回り以上小さく、絃も中国のように金属ではないので、余韻も少なく、ずっと素朴で味わい深い音がする。

本来古琴のレパートリーも、これに近い音で奏されていたに違いない。戦前までは、中国でも金属の絃は使われていなかった。沢井さんが奏でる「マソカガミ」は、自分の想像通りの音がして、愕く。

8月某日 三軒茶屋自宅
清澄白河から両国までタクシーに乗ると、初老の運転手が見事な江戸弁で感激し、「今でもこんな風に話せる人がいるのですね」、と思わず興奮して話しかける。「しゃくえん、しゃくえんと息子にからかわれるのです」、と照れながら、彼もまんざらではない。

「門天ホール」で指揮のワークショップ。「ドゥンバートン・オークス」の少し厄介なパッセージを、メトロノームに合わせて、適宜口三味線で歌わせてみるのは、振っていると見えなくなる音の実体を正確に把握させるため。何となく振って合わないときは、ほぼ間違いなく指揮が正確に刻んでいない。自らの無数の失敗から痛感している。

ストラヴィンスキは振れればよいが、シューマンはどこから手をつけてよいかわからない。シューベルトが平行調3度領域から拡大してサブドミナント領域へ敷衍してゆくのに比べ、シューマンはII度調やナポリ調領域と平行調が薄紙一枚の背中合わせで、原調復帰の瞬間は唐突であったり、そもそもどれが原調かすら見失う。原調もしくは原調の平行調へ抜けるべくナポリ調で停留するさまは、ベルリオーズを思い起こす。それを理解せず、ただ旋律を追うと、演奏は近視眼的に終わる危険を孕む。天才の辿った道程であるから、凡人はそれを先ず巨視的に把握しなければ、全体の整合性を成立させられない。

一ヶ月ほど咳が止まらず、その上、最近は咳のたびに咽か肺かが、ひゅうひゅう云うようになり、家人に催促されて医者にゆくと、マイコプラズマ肺炎と診断をうける。

  8月某日 三軒茶屋自宅
東京現音計画演奏会、帰路。今日の演奏会での音や身振りについて反芻する。ラテン的な快楽主義から遠く離れた禁欲的な音楽。聴いている間は全くわからないが、後から染み出てくるように、興味が芽生える。神田さんが仮面をつけ、第三の手を使って演奏する作品。背景も黒だったので、最後に突然手の数が増して、神田さんが千手観音になったらどうしようとどきどきしながら見ていたが、手の数は3本以上には増えなかった。稲森くんの新作を聞いて、去年演奏した彼の作品で一点よくわからなかった、素材の反復性について発見があった。去年の作品は短いものだったが、あれがあの三倍か四倍くらいの長さを持つと、彼本来の別の側面が浮き上がった気がする。

  8月某日 三軒茶屋自宅
レスピランのための「東京のカノン」。バッハの精神性に触れるためには、形而上学的、観念的に音符に接することはできない。音符と音価のみを通して何かに触れたい。同じように、以前「シチリアのカノン」や「マントヴァのカノン」を、整列し折り重なる綾のように書いたが、今回は、無数の星屑がブラックホールの一点に向かって、まるで巨視的にみれば速度すら感じられないように吸い込まれるカノンにしたい。収斂点のみがみえていて、よく見ればそれも正確には一点ではない方が面白い。それぞれの放射線は、本来はほんのかすかにずれているのみだが、それをずっと手前から観察すると、別次元に属す。

縦をあわせる音楽を書くのをしばらく罷めたい。皆がやっているのだから、わざわざ自分がそれをやらなくてもよいと思う。指揮している反動には違いないが、指揮者に演奏家があわせるのではなく、演奏家に指揮者があわせる音楽があってもよい。本来、指揮者は演奏家のよい部分を引き出すためにあったはずだが、何時しか演奏者を規定する役割を担うようになった。

ところで、現代作品で急に情景が変わると妙にがっかりするのはなぜか。単に常套手段だからか、その前の情景を楽しみ足りなかったからなのか解らない。ただ作曲者が素材の持つ強さへの不信を顕にして変化を選択する場合、しばしば詰まらない結果に終わる。アルド・クレメンティの音楽はミニマルではなく、ただ素材をイタリア的な解釈であしらった結果もたらされる。そこには素材へのほぼ宗教心に近い、服従と絶対的信頼が成立しているので、曲として矛盾は感じない。

  8月某日 三軒茶屋自宅
世田谷通りのとんかつ屋で息子と話す。日本の小学校へ行きたくないと云う。年に二ヶ月くらいしか通わないから部外者として扱われるのに耐えられないし、授業で何をやっているのかもわからない、掃除の仕方もわからないし、教えてと欲しいと云うとそんなことも知らないのかと笑われるのだそうだ。おまけに仲良しの友達は別のクラスになってしまった。

自分も彼と同じで兄弟がいなくて、こんな風に世界を斜に眺めていたから、彼の気持ちは解るのだが、逆から見れば至極当然の日常ではないか。彼を部外者として扱わず、掃除の仕方がわからなくても一々真剣に教えてくれる友達ばかりだったら、少し気持ち悪くはないか。

尤も、これは彼の意見を全て鵜呑みにした場合であって、親としては話し半分で聞いているのだが、取り敢えず彼の前では、そうだね、大変だなあ、と相槌を打つ。

果ては、イタリアにいる友達はイタリア人であろうとなかろうとこれほど排他的ではない、と切々と訴え、大人になったら日本国籍は捨てるつもりだ、と主張する。

では何故今まで五年間喜んで学校へ行っていたのかと尋ねると、給食が美味しくて勉強が楽しいからだというので、恐らく来月までには全て忘れて給食目当てに学校に通っているだろうと確信した。

  8月某日 三軒茶屋自宅
湯浅先生85歳を祝うバースデーコンサートがどうしても聴きたくて、ぎりぎりまで家で仕事をして、自転車で渋谷へ走る。

24歳の時に書かれた子供のバレエ団のための「サーカスヴァリエーション」は、フランス風の軽妙洒脱な音楽の中にお好きだったコープランド、バーンスタイン、プロコフィエフが見え隠れする。先生はフランス風でしょうと笑っていらしたが、実に豊かな音楽だった。

湯浅先生が「おかあさんといっしょ」のために作曲された童謡、「美しいこどものうた」より9曲をきく。ピアノパートもていねいに書いています、と仰っていらしたけれど、その通りどの曲も実に丹精に作りこんであって、平松英子さんの日本語のうつくしさと相俟って、最後の「じゃあね」で鳥肌が立った。小学校の低学年のための「歌うためのうた」、中高学年のための「きくための歌」、そして中学生くらいのための、「感じる、考える、共感するためのうた」があるというはなし。

  8月某日 三軒茶屋自宅
秋吉台の音楽祭備忘録。

湯浅先生の作曲クラスのレッスンにきた大学院生。実に器用によく書けている曲を一通り聴かせてから、作曲していて虚しいと訴える。自分が何のために作曲をしているのか、よくわからないという。書く技術は優秀だから、先生や学校の望むように書けてしまう虚しさを覚えるのだろう。そこに疑問をもてるのだから、多分彼は自分で道を切り拓けると信じる。彼は他の学生たちに、技術は作曲ではない、という大切なテーマに触れるきっかけを作ってくれた。

リハーサルが終わり湯浅クラスの作曲のレッスンに顔を出すと、実に闊達な音楽を書く女の子がレッスンを受けている。明るい色調の音の絡みが、現代人のコミュニケーション問題と繋がっているようなのだが、聞いただけではそれが解らないとの意見。「素材」そのものに、観念性や恣意性を見出すのは日本人らしい。では逆に、素材に一定の人格を認めてみてはどうだろう。つまり自分には従属しない存在として受け容れること。音楽と自らの微妙な距離感について話す。

海外の音楽祭で勉強してきた若い作曲家。音楽はとても豊かだが、一見海外で師事した作曲家の影響を予感させる。元来の彼が持つ音楽が、その師事した作曲家の語法に偶然とても近かったのだと云う。確かにその通りだったけれど、その音響に誰か既に作曲家の登録商標がついてしまっている場合、素直に諦めて、他の方法で自らを表現する方がよいと諭す。周りに影響を受けた作家の語法から抜けられないまま自らの音楽も表現できずにいる作家を沢山知っているのでつい云ってしまう。

自作指揮のレッスンをした五人の作曲家。指揮を簡略化し、内容を複雑にする安直な参加は皆無で、指揮もむつかしく演奏もむつかしい、むつかしさを演奏者と共有したいという慮りが随所に見られる。

木下くんは去年と比べて、すっかりスマートな指揮になった。それなのに一見スマートに見えないのは風体のせいか。彼は頭に浮かんだ音の流れをそのまま楽譜に書くことに躊躇があって、書かれる音は思考のフィルターを通したものでありたいのだろう。佐々木さんも、自分の思っている音と、出てくる音を客観的に受け入れることが、初めはとても辛かったと話したが、最終的にはとても純度の高い演奏を実現した。竹藤くんは、自分が書いた音が本来持っている志向を自覚しながら、最初敢えてそれに甘えずに演奏を試みていた。自分の中にある音楽と、書かれた音符を区別しようと思ったのかも知れないけれど、実際は彼が感じていた音楽を、書かれた音符を通して表現した方が、音楽はずっと豊かになった。我々は音楽に対して無意味に禁欲的である必要はないのだろう。

増田くんは、菌類への偏愛を音に表したと云っていたが、結局それはとてもうまく表現されていた。今回の経験を通して、それをもっと単純な書法で書き換えられるようになれば、彼の音楽のパレットはずっと色彩豊かなものになるはずだ。大内くんは去年に比べて、自分の裡の音をずっと客観視できるようになっていた。彼の音楽を無理に既成のリズムに当てはめるのは勿体ない。これから様々な発展の可能性がある。

どの演奏会のどの演奏も素晴らしかったのだけれど、湯浅先生の内触覚的宇宙を弾いたチェロの山澤くんとピアノの中山さんの演奏は、どうしても忘れられない。心底、湯浅先生はメロディーメーカーだとつくづく思った。旋律をとても深い、長い息で繋げる。そしてフレーズは、思いがけない表現の異化を通して、当初とは違う人格の表現へと昇華する。ともすればチェロとピアノの音を聞いていることすら、忘れてしまいそうになる。

田中くんが書いてくれた新作は、彼が素材を客観視できる能力の高さを、羨ましく思うほどだった。絶妙なバランスで、常に歪でありながら、均整の取れた音楽を構築していて、それを不安定で限定された素材を通して表現していて、何より理にかなっていた。この曲は誰にとっても厭だと思う要素がないから、誰からも受け容れられるだろうね、と先ず彼に話した。

チューバの橋本くんと家人が「天の火」を演奏してくれた。実に心に沁みる演奏だったが、各々が先ず楽譜から音楽を読み取り、互いにそれを提示し、互いの音を理解し、そこで初めて反応し、音楽が初めてふわりと目の前に現れたときは驚いた。マッチを擦って、リンの焔がぼうっと現れるような感覚に感銘を覚える。

  8月某日 三軒茶屋自宅
芥川のリハーサルから学ぶことが多かった。若い豊かな才能が、オーケストラという媒体にどれだけ期待を寄せているかを知り、身が引き締まる思いがするし、歴年芥川作曲賞に関わっている新日本フィルが、どれだけ彼らに深い理解をもって真摯に演奏しているか、作曲家にどれだけ力を貸しているか、目の当たりして、自らの浅はかさを痛感するのも屡だった。演奏会後の公開討論を控え室で聞く。山根さんの意見が特に興味深い。同じビジョンを異化しつつ共有している。もしこれが性差と呼ぶのだとしたら、女性は同じ世界を生きながら男性とは全く違った世界を見ているに違いない。皮膚感覚の音楽性。山根さんの書く音で例えばカスティリオーニの質感を思い出すことがあったけれど、たぶん彼女はまったく別の世界であの音を感じているのだろう。山本くんは同世代だし、感じ方も話の組み立てかたも良くわかる。池辺先生は楽譜が初めからそのまま音になってみえているのがわかる。

  8月某日 三軒茶屋自宅
自分がレッスンしているヴィデオを生徒に送るために見直していて、執拗に繰り返させるのを見ていて我ながら辟易する。確かにエミリオはもっとずっと厳しかったが、これほど繰り返させもしなかった。ただ、自分が当初全くわからなかったトラウマが残っているから、解るまで何度でも繰返しさせる結果になる。ただ、それではなかなか先に進まないから、木を見て森を見ずとなるのではないか。どちらが良いのかわからない。

(8月31日 三軒茶屋にて)

長い道のり

小泉英政

和解を終えて

本日、「小泉よねの補償に関する合意書」に署名をいたしました。合意書3条においてこの補償が「よねの土地・家屋等の財産権のみならず、空港建設がなかった場合によねが生涯にわたって三里塚の地において農民として送ったであろう生活に配慮し、その生活を補償するとの考えに基づいたものであることを確認する」と記載されています。よねさんの生活権補償が明確に認められました。代執行から43年、緊急裁決取消訴訟を提訴してから35年、長い道のりでした。それで晴れ晴れとした心境かと言えば、違います。一言で言いますと、とても複雑な心境です。理由は二つあります。

一つ目は、本日合意したこの補償は、43年間も放置され続けたが故に、もたらされたものだからです。千葉県収用委員会が遅滞なく補償裁決をしていれば、起こり得なかったことです。

二つ目は、現地では今でも、市東さんの農地の問題、熱田派の建造物撤去の問題等で、強権的な手法がとられています。よねさんの問題では謝罪を重ねていますが、空港建設を進める側の体質が根本的に変わったわけではない、使い分けがなされている。そういう状況下での和解だからです。

しかし、私達は、和解を決めました。それは、長い年月をかけて争ってきた訴訟の延長線上にあり、その到達点だからです。こちらが、こういう問題があると投げかけ、それに対し、相手がそれに向き合い何とかしたいという態度を示した場合、断る訳にはいきません。政治的な取り引きを介在させず、小泉よね問題を解決させる、そのことに真摯に向き合ってきた結果だからです。問題は一つずつ解決するしかない、現実的な対処法も必要だと判断しました。評価する点は評価し、批判する点は批判する。何もかも一緒くたにすると、担当した人々の努力が報われません。

願わくば、今日の和解を踏まえて、現地での対応を考え直していただきたい。そして二度と、公共事業においてよねさんに襲いかかったような強権発動の手段を用いず、住民との話し合いに徹してほしいと思います。沖縄の辺野古においても、そうです。国の下に国民が従うのではなく、主権在民が基本です。

私達は、この問題の直接交渉を進めるにあたって、当初から考えていたことがあります。それは相手が非を認め、生活権補償が認められれば、それは受けとり、何らかの形で社会に還元するということでした。それが複雑な心境の中にあって唯一の救いです。

今日、そのことが実現し、この席に「よねさんからの寄金」を受けていただくことになった方々が、多忙な中、足を運んでくださり、一緒に会見にのぞんでいただけるとは、私達は、想像もしていませんでした。日々の活動が大変な中、時間をさいていただいて、本当に申し訳ない気持ちで一杯です。でも、こうして「よねさんからの寄金」を生かしていただける方々にお会いできて、そのことは、よねさんもきっと喜んでくれるのではないかと思います。

よねさんの魂は、東峰の墓地に宿っています。土葬のよねさん、もうその形はすっかり無いのではないかと、人は言います。しかし、よねさんはそこに生きている、今日という日を生んだのは、まさによねさんだからです。

私達は今後とも、よねさんの魂とともに、東峰の地に生き続けます。最後に、35年間という長い期間において、小泉よね問題に取り組んでいただいた前田裕司弁護士、大谷恭子弁護士、そして今回の交渉から新たに加わっていただいた木本茂樹弁護士にたいして厚く御礼を申し上げたいと思います。また、2001年の最高裁での和解に関わっていただいてから、一貫して、小泉よね問題の解決のために尽力して下さった行方正幸(成田空港株式会社地域共生部)氏に感謝申し上げたいと思います。

2015年5月21日

小泉英政

「よねさんからの寄金」送り届け先リスト

* 辺野古ヘリ基地反対協議会
* 辺野古寄金
* 被災地障がい者支援センターふくしま
* 未来の福島こども寄金
* 一般社団法人 ふくしま市民発電
* 難民支援協会
* 原子力資料情報室
* 社団法人 ラジオアクセスフォーラム
* 「三里塚に生きる」制作委員会
* (検討中)1件

付記
補償額については、空港会社との間で、お互いに公表しないことにしています。
補償額の約8割が、「よねさんからの寄金」として使用されます。各団体にいくらの寄金がよせられたかは、公表されません。
残り2割は、弁護士料、よねさんの碑建立費用、その他経費となります。

以上

断片から種子へ

高橋悠治

要素から全体を構成する あるいは全体を分析して構成要素にたどりつく このやりかたでは 全体は閉じている 範囲が限られ 細部までコントロールされた一つの構成は 予測をこえないし 発見の悦びがない

ひらかれた全体を異質な断片の組合せで構成するやりかたもある 1960年代にヨーロッパで「管理された偶然」と言っていた音楽のスタイル その時代には 図形楽譜のさまざまなくふうもあった でも 組み合わされた全体が 紙の上に見えているなら どんな順序で断片をひろいあげても 全体の枠の外には出られないだろう

「断片」はこわれた全体の一部を指すことばだから 創造のプロセスが停まらないようにしたければ 「断片」をつぎあわせるのは いいやりかたではないかもしれない 異質なものが出会うコラージュには衝撃力がある 絵なら 画面の上で自由に視線をさまよわせることができるが 音楽ではそうはいかない

音の流れには方向がある それまでのできごとの残した記憶は消えない できごとの時間順序を変えると 結果はおなじではない 後に起こったことが近く感じられて 先に起こったことの効果に影響する 音楽では コラージュは 絵のような効果はもちにくい 

すぎてゆく時間のなかを通りすぎる音は 響きの痕跡が記憶のなかで一つの瞬間と感じられる それをメロディーといってもよいだろう メロディーが完結することはない 音は呼吸で区切られるが その長さはさまざま 余韻でもあり 予感でもある 瞬間のなかの音は この区切りのなかで 作り変えることもできるが 音楽は立ち止まらない 練習するときは どこかで立ち止まって ちがうやりかたをためすが いつまでもこだわっていると 決まった手順のくりかえしになってしまう 作曲するときも 細部へのこだわりと先へすすむ流れとの両方を考えて作業をつづける そのバランスをとるのがむつかしい

ウィリアム・ブレイクの「虎」をきっかけにピアノ曲を書く 日本語に訳してみると 詩はこわれる リズムや響きは別のものに置き換わり ことばの意味もずれていく それでも音楽をはじめるきっかけにはなる その音楽は いったんはじまると ブレイクからも虎からもどんどん遠くなる

  虎  ウィリアム・ブレイク

 虎 虎 らんらんと
 夜の森に燃える
 なにが 不滅の手と眼で
 おそるべきつりあいをかたどったか?

 はてしない深み はるかな高みに
 眼は炎と燃えたか?
 はばたく翼はなに?
 炎をつかむのはだれ?

 力と技がどのように
 撚り合わせたか
 心臓が脈打つと 
 なんとすごい手 すごい足

 金槌は何 鎖は何
 頭脳をきたえたかまどは
 鉄床は何 きつくつかんで
 死ぬほどしめつける

 星たちが光の槍を投げ
 空を涙でぬらすとき
 結果にほほえむのはだれ?
 子羊の造り主か?

 虎 虎 らんらんと
 夜の森に燃える
 不滅の手と眼が
 あのおそるべきつりあいをかたどるとは

ゆったりと呼吸でき うごきまわれる空間があれば 先の読めない流れのなかでひらけた空間に いままで見えなかったものが現れ 見えていたものは隠れる メロディーが自然に移りかわり ただすぎていくばかりだった時間のなかにも めぐりながら変化する季節の風景が浮かぶ 作曲や作品の演奏だけでなく 即興でも ありきたりのパターンのくりかえしや組み換えだけでなく 流れのなかに移ろうかたちが見え隠れするのが感じられるかもしれない 音楽家はもともと音楽の三つのやりかた 即興と作曲と演奏のあいだを行き来するあそびができる人たちだった

種子を風がばらまくと そのうちに隠れていた花があらわれる 待つ時間は 何も起こらなくても たいくつはしない 音楽を運んでいくのは 音だけではない 沈黙もたえずうごいている 

時間順序のなかで 不ぞろいでそれぞれの顔を持った瞬間をどうやって折り合いをつけるのか

NGOって何だ

さとうまき

安保法制が衆議院で可決された。参議院で今議論されている最中だ。

「NGOの方々が海外で捕まったら、自衛隊が駆けつけて警護できるようになる。」これはまるでNGOの皆さんを救出するために必要な法律ですよ!といわんばかりだ。

僕がこの法案に反対するのは、日本が仮にも理想の平和憲法を掲げてきたおかげで、戦後海外での戦争に参加して敵を殺すことがなかったことを誇りに思う。武力による紛争解決を放棄した。だからこそ、NGOが現場で活動し、保健医療や、貧困撲滅、教育などの分野で、紛争を生み出さない社会を作ることが大切だった。

しかし、この10年、アフガン、イラク、シリアの紛争で多くの難民が発生し、日本のNGOも大規模な援助をせざるを得ない状況である。安倍総理が、「2億ドルをISILと戦う周辺国に拠出する」といえば、そういう仕事を国連と肩を並べて担わなければいけない。それは、一方で大きな援助ビジネスを生み出す。方や、武器輸出の緩和で、戦争は日本経済を支える大きな柱となりかねない。そんな中にNGOも入ってしまうのである。

これはやばい。NGOは非戦を目指すべきである。というわけで、NGO非戦ネットというものを立ち上げて、多くのNGOに、「うちは、戦争に反対し、戦争で金儲けしない」宣言をお願いしているわけだ。

昨日、イラクからイブラヒムがやってきた。イブラヒムは、JIM-NETのローカルスタッフで水牛にも何度か書いてきた。もう10年来の付き合いだ。来日も4回目。今回のツアーでは、ハウラという白血病を乗り越えた19歳の女子を連れてきた。そして14歳になる娘も一緒だ。

10年前の親子の映像はこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=O0YCpMj-PTw

ハウラのビデオはこちら
https://www.youtube.com/watch?v=ii4iWIYEBTw

これから始まる珍道中。そして、日本が大きく変わろうとしている。イブラヒムにもメディアを通していろいろ発言してもらうので、ぜひ皆さん注目してください。イベントのスケジュールはこちらです。
http://jim-net.org/blog/event/2015/07/post-19.php

静かに佇む

璃葉

7月15日 午後8時の国会議事堂前は、人で溢れかえっていた
電車を降りて階段を上っていくと、地下鉄の入り口までシュプレヒコールと太鼓の音が聞こえる
無言で歩いていく人、声を上げながら歩いていく人が、激しい怒りの渦に合流する
熱気で汗が流れる 
時折吹く風は冷たく感じた
目の前にある真っ暗で巨大な建物に、背後から 真横から 拡声器から 叫びが飛ぶ
胃の中が熱い

もうひとつの意識が重なり、にじみ出てくる映像
家の前に広がる森、香の匂いが漂う仏壇がある畳部屋、絵を描く小部屋
庭の南天の木、百日紅、ツバキの葉
激しい怒りのなかに、静かに佇む故郷が在る

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長い道のり(3)

小泉英政

県からの返答を待つ時間はとても長く感じられた。暮も押し迫って、官庁の仕事納めの日も近づいて来る。やはり空港会社の人が言うように無理なのかもしれない。ぼくは彼に、「いままで、いろいろ努力していただいたのに、申し訳ないですが、このままでは訴訟という形をとらざるを得ない」との手紙を送った。ここまで来て訴訟としうもの、とても気の重いものではあるが、こちら側が折れるわけにはいかないので、いたしかたがないと思い詰めていた。

ところが、その手紙とすれ違いで、県からの見解が届いたのだ。それは今までの素案とは質を異にして、とても人間味が感じられる内容だった。その文章を書く時間と、それを県内部で協議する時間とを考えると、ぼくが全面的な検討を求めてから、そう時間を置かないで判断したと考えられる。県内部でどのような議論があったのか、それは窺い知れない。ぎりぎりの状況で、よねさんからもらった力が、県にも波及していったものと思いたい。

その後、一箇所の変更を求め、年が明けて、仕事始めの一月五日、県からの最終的な見解が届いた。それは以下の通りだ。

2.千葉県の見解
昭和46年、起業者の特措法申請により、県は前面に立たざるを得ない事態となり、同年6月に緊急裁決、9月には小泉よねさんなどに代執行を行い、その過程で死亡者を出すに至りました。本来、県は、住民の気持をよりよく理解し、国・公団との間に入って問題の解決に当たるべき立場でありましたが、法で定める手続きを進める中で、小泉よねさんの気持ちを受け止めることができず、結果として県民の一人である小泉よねさんに対して非常につらい思いをさせることになったことについて、県としても残念であり、また、まことに申し訳ないと考えています。

補償額については、国の損失補填基準要綱に準じた方法で行わざるを得ませんでしたが、当時においても小泉よねさんが、これまでどおり地域に生きる一農民として穏やかな生活が送れるよう、心のこもった環境づくりができなかったかと忸怩たる思いがあります。

なお、代執行後、県では再びこのような混乱を生じさせないよう国・起業者へ話合いによる解決を図るよう申し入れ、国・起業者から話合いによる解決声明が出されました。

しかしながら、空港建設をめぐる対立は、その後も長く続きました。そのような中で、被収用者の権利を損なわないために遅滞なく行わなければならない補償裁決は、代執行を実施したにもかかわらず、心ならずも43年以上にもわたり行われていません。この間、解決に向けた起業者への働きかけなども併せ、小泉よねさん及び小泉さんご夫婦の納得できる解決の道筋を開くことがかなわず、大変なご心労をかけたことについて、県として、まことに遺憾でると考えています。

今後、県としても、国及び成田国際空港株式会社と連携し、話合い解決が図られるよう、鋭意努力をしたいと存じます。

県の謝罪が充分かどうか、意見が分かれるかもしれない。しかし、今までの「やむを得なかった」との主張に比較すれば、大きな違いがあり、それは充分評価に値するものだと考えた。ぼくたちは見解を受け入れることとした。

二月三日、千葉県庁での合意書への調印、そして記者会見と、緊張の時間が流れていった。よねさんの無念の思いを晴らしたいとの思いで、この問題に取り組んできて、やっとと思ったその先に、迷路が待っていた。

県庁での記者会見の数日後、空港会社の担当者の方が来られた。それは、こちらから要請していたことだった。よねさんの生活権補償の件で、ぼく達の考えを伝えるためだった。ぼくは、国、県、空港会社がよねさんの代執行に対して謝罪した、その言葉に沿って補償額を算出して下さいと伝えた。金額については、ぼく達は全くわからないので、弁護士の方と協議して下さいとお願いした。彼は了解し、一ヶ月ほど時間を下さいと言った。

生活権補償を認めるとは、国も空港会社も一度も言ったことがないのである。それを、内部でどう判断するのか、当然、時間がかかるだろうと思った。ところが、その判断が速かった。一週間ほど過ぎて、大谷弁護士から連絡が来た。空港会社が金額を提示してきたと言う。それは代執行当時の、農家の平均年収と、その当時の女性の平均寿命を考慮したもので、弁護士としても評価できるものだと言う。

長い道のりの中で、国、県、空港会社が非を認め、そして生活権補償も認められた。それは、直接交渉が始まる時には、なかなか予想も出来ないことだった。素直によろこぶべきことなのだが、どうも気持ちがそうならない。とたんに道が開けて、目の前にまとまったお金が出現して、とまどっているのだ。

そうこうしているうちに、反対同盟北原派の農民、市東孝雄さんの畑の裁判が、東京高裁で結審したと報道された。市東さん側は、さらなる証人申請をしていたが、それが認められず、結審したという。市東さんの畑はB滑走路の誘導路上にあり、そのため、誘導路はその場所でへの字に曲がっているのが現状で、それを何とかしたい空港会社は卑劣な手法で、その畑を取り上げようとしているのだ。その畑は市東さんにとって小作地なのだが、その所有者から空港会社がその畑を買収した。法律では、耕作者の同意をとってから、買収しなければならないとなっているが、市東さんには無断で手に入れ、市東さんに明け渡しを求めているのだ。それは明らかに農地法に違反している。

また数日して、今度は反対同盟熱田派の建造物が、空港会社によって取り壊されたということも起きた。国、空港会社は、変わらず強権的なのだ。

一方では強権を反省し、もう一方では強権をふりかざす。43年も前のことだから、謝罪するのか。何か、うまく使い分けされているようで、空しい気持ちが湧いてきた。自分で、小泉よね問題の解決を求めながら、最終局面で、そこに踏み出せない自分がいた。保証金を受けとりたくないと、思い余って、大谷弁護士に伝えた。

大谷さんから返ってきた言葉は、次のようなものだった。「小泉さんらしい決断だけれど、それは権利放棄ということで、私は反対だ。小泉さんが最初に言っていたように、それは受け取って、社会に還元するということがいいのではないか」。

そうなのか、それは「権利放棄」ということになるのかと、ぼくは少し目を覚まされた気がした。受け取らなければ「権利放棄」という形で、小泉よね問題は終了する。そもそも直接交渉をしなくても、何年、何十年後かには、小泉よね問題は終了するだろう。やはり、こちら側が主体的に関わって、養子を引き受けた人間として、責任を持って終わらせる、この方法しかなかったのだと思う。「迷い道にはまり込んでいました」と、ぼくは大谷さんに謝った。

補償金を受け取ることは、あのよねさんに襲いかかった代執行を認めることになるのか、それは何度も自問したことだった。それは違うだろう。代執行は43年前に終わり、空港施設の一部になっている。「成田市取香字馬洗70-2」の地番で検索しても、結果は出ず、その場所は成田国際空港としてしか表示されない。悔しいことに、もうその地番はない。しかし、ぼくはその地番を忘れないし、代執行を見ためたのかと問われれば、認める訳がないだろうと言う。

たとえば、交通事故の被害者の遺族が、補償金を受け取ったからといって、その事故を認めたことになるだろうか。また、戦後、米軍に銃を向けられ強制接収された沖縄の米軍基地の地主の人々が、基地の使用料を受け取っているからとして、その強制接収を認めている訳では決してない。

ぼくが納得したのは、よねさんの生活権補償が認められたという点にある。合意書において、「よねの土地、家屋等の財産権のみならず、空港建設がなかった場合によねが生涯にわたって三里塚の地において農民として送ったであろう生活に配慮し、その生活を補償するとの考えに基づいたものである」ということにある。

よねさんの養子になって41年、その間、取り組んできた二つの裁判、こちら側から提訴した「緊急裁決取消訴訟」、向こう側から提訴された「土地の明け渡し訴訟」と通して、何度か積み重ねてきた、和解や合意書への署名、そのどれもが、こちら側の主張を盛り込んだものとして存在している。それは、いろいろ失敗しながらも、迷いながらもよたよたと歩んできた長い道のりの、幸運な結果だった。

国、空港会社(旧・公団)は、よねさんを、話の通じない過激派の人間として、そしてその住居を団結小屋扱いとして処理した。空港建設が至上命令であり、そのためには手段を選ばなかった。生活権、人格権、生存権、在って無きがものだった。

法律を言葉で縛る。「緊急性」「遅滞なく」、縛ったつもりが、いくらでも、時の権力が恣意的(無理やり)に解釈し、運用できる。よねさんの問題は、それを如実に示した。

「国」を前面に立てて、「国民」を押さえ込む、このようなことは今後も充分、起こり得るし、むしろ、起こって当然のような、戦前に戻されているかのような覚えさえある。そんな時、おかしいと思ったことは、おかしいと声を上げる。諦めないで対話する。よねさんのように、沖縄の人々のように、不服従を貫く。今、こんな世相の中、よねさんの生きかたは、人々の関心を呼ぶのではないだろうか。

よねさんの生活権補償が認められたということは、よねさんの不服従の非暴力的抵抗が認められたということだと、ぼくは解釈する。よねさんの抵抗は、人間として当たり前の行いだと、より多くの人々に認識されるように、ぼくも微力を尽くしていきたい。

小泉よねを忘れない。そう、よねさんの養子になって、良かったよ。養子になっていなければ、糸の切れた凧のように、どこかに飛んで行っていただろう。

アジアのごはん(70)ゴーヤ

森下ヒバリ

4月あたりからパクチーがやたらに食べたくなり、パクチーを見つけては食べまくっていた。暑くなってくると、今度はゴーヤが食べたくなり、ゴーヤを毎食のように食べる日が続いた。パクチーもゴーヤも好物ではあるが、例年こんなに食べまくることはない。パクチーもゴーヤも、おそらく日本で手軽に入手できる食べ物のなかで最強の毒出し力を持つ野菜である。それがこんなに食べたくなるなんて、もしや、今年の春以降、日本の放射能汚染状況はかなり危なくなっているのじゃないか。

たしかに4月後半からフクイチの地下からの蒸気噴出が激しさを増しているし、6月あたりからガイガーカウンターの数値が上がってきているのも確かなのだ。京都の我が家の平均値がそれまで0.08〜0.12マイクロシーベルトだったのが、0.11〜0.16あたりになっている。

使っているガイガーカウンター(ロシア製SOEKS)は、日本製のエアカウンターなどのγ線種しか測らないのとはちがって、β線・γ線核種を測る仕様になっているので、数値はかなり高目に出るが、現実にはより近い値と思われる。もうひとつのα線核種というのは飛距離が短いので、空間線量をはかる計器でとらえるのはむずかしい。空間線量は人体への危険性のひとつの目安でしかない。いまは外部被ばくよりも内部被ばくの方がさしせまった危険だからだ。内部被ばくで最も危険なのがこのα線核種である。

α線核種は、プルトニウムやキュリウム、ラドンである。α線核種の特徴は放射線の飛距離が短いので外部被ばくの危険性は低いが、α線を出す放射性物質を体内に取り込むと、飛距離が短いがゆえに細胞の狭い範囲に放射線を与え続け、内臓や組織への損傷を起こす。特にプルトニウムを吸い込むと、長い間排出されない。肺、そこからリンパ節、血管へと移行して、肺がん、リンパ腫、白血病、骨がんの要因となる。ダメージを与え続けるのだから、がん以外の病気ももちろん起こる。プルトニウムは食べても取り込まれず排出されやすいので、呼吸からの取り込みが問題だ。とにかく放射性毒性は非常に高い。

毎日毎日大量に漏れて、害が少ないからと大量に放出されている汚染水や噴出する水蒸気に高濃度に含まれているトリチウムはどうなのか。トリチウムはβ核種なのに、α線核種のように飛距離が短い。トリチウムは三重水素とも呼ばれる放射性水素である。なので、水、または水蒸気として存在する。なので、除染するのが難しい。ALPSでは除去できない。最近は技術も開発されているようだが、コストがかかるので電力会社としては極力やりたくない。なので、原子力産業の手先のICRPはトリチウムを人体にほとんど影響しないと決めてしまい、それに基づいて日本の(世界中の)電力会社はトリチウムを含んだ冷却水や水蒸気を環境に放出している。

ところがICRPが無害に近いとしたトリチウム水はたしかに10日間で半分は体から出て行くのだが、トリチウム水が体の中で有機分子と結合し、有機結合型トリチウム、というものになってしまうとなかなか出ていかないに上に、トリチウムの多い環境にずっといるとどんどん溜まっていく。しかもそのトリチウムが結合する有機分子というのは神経細胞中のリン脂質、DNA、RNAであることが多く、細胞の中でも最も重要な組織に取り込まれてしまうのだ。それは長い期間、放射線がDNAや染色体タンパクを攻撃し続けるということである。

とくに妊婦や子供への影響は大きく、3.11前からアメリカやカナダでトリチウムによる赤ん坊の奇形や死亡が大きな問題となっていた。トリチウムは外部被ばくはほとんど問題にならないが、トリチウムは水なのでトリチウム濃度の高い環境にいると平衡性によって、人体も同じ濃度になってしまう。原発に近い所に住んでいると、近ければ近いほどトリチウム汚染されていることになる。人間の体だけでなく水分を持つ生物すべてがそうなるので、原発の近くの野菜や魚も汚染されている。

事故があろうとなかろうと、原発の周辺に人は住んではいけないのだった。幸い停止している原発からのトリチウムの放出はゼロではないが非常に低くなる。稼働しているまたはメルトスルーしている原発から放出されるトリチウム水蒸気にはほかの危険な核種もたくさん含まれていると思われ、その点からも再稼働はけっして認めてはいけない。

無害どころか極めて危険なトリチウムなのであったが、今、地下で溶解した燃料が再臨界つまり核爆発を起しているとすると、トリチウムだけでなくさまざまな核種が、そしてMOX燃料にふくまれるプルトニウムも噴出する水蒸気に含まれることになる。セシウムやストロンチウム、プルトニウムなどの核種は放射性pm2.5ともいうべきホットパーティクルという微粒子として水蒸気に乗って空に舞いあがり、福島から旅に出る。

呼吸にも気をつけなくちゃならない。どうやって? まずは事故った原発から出来るだけ離れる。外出にはN95レベルのマスクを着用する。外から帰ったらうがい、手洗い、シャワー。部屋の中ではpm2.5を除去できる高性能空気清浄器をまわす。除湿する。

これ以上体に放射性物質を取り込まないよう食べ物の産地には気をつける。海産物には特に気をつける。免疫力を上げ、乳酸菌のほうふな発酵食品を取る。豆乳ヨーグルトを作って食べる。つとめてパクチーやゴーヤなどの毒出し力の強い野菜を食べる‥などが思いつく。

今年の夏はパクチーとゴーヤを食べて、毒出しに励んでみてはどうだろう。おすすめのゴーヤ料理はゴーヤのポン酢漬けである。3〜4日保存も効くし、おいしいので酒のつまみにもなる。むりに大量に食べる必要はなく、食べたいだけ食べればいい。ゴーヤチャンプルは毎日は食べられないが、これはおいしくて毎日食べてしまう。ほかにもゴーヤ料理をいろいろ工夫してみてはいかが。

ゴーヤのポン酢漬け:ゴーヤ一本を二つに割りワタを取り、2〜3ミリの厚さにスライスする。好みで厚さは加減する。ガラスやほうろうの容器に詰め、飲めるぐらいの酸っぱさと塩辛さに調整したポン酢をかけてひたひたにする。半日〜1日おいて味をなじませる。市販のポン酢を使う場合は、水か乳酸菌液などでうすめて使う。冷蔵庫に保存。つけ汁も一緒に飲んでね。

ゴーヤと豚キムチ炒め:いつもの豚キムチ炒めにネギの代わりにゴーヤのスライスを入れて炒めてみたら、こってりだが、さっぱりのおいしい一品になった。これはいける。

ゴーヤはビタミンC、食物繊維、カルシウム、鉄分が豊富。コレステロール値を下げ、血糖値を下げ、糖尿病に顕著な効果あり。胃酸の分泌を促し食欲増進、体を冷やし、コラーゲンの生成を促し美肌に効果あり。そして共役リノール酸を多く含み、食べ物・花粉・ダニに由来するアレルギー症状を緩和・抑制する。さらに脂質代謝改善作用(太りにくくなる)、動脈硬化抑制作用、免疫増強作用、骨代謝増強作用、そしてきわめつけは抗発がん・抗がん作用である。すばらしい。

共役リノール酸は種に最も多いそうなので、種も綿も食べるのがいいというのだが、ためしにくりぬいた種入りのワタで卵液をまぶして焼いてピカタを作ってみたが、ふ〜んというお味。食べられなくはない。ワタも種も入ったゴーヤの輪切りの天ぷら。うん、まあふつう。種はわかいものは食べやすいが、植えたらすぐ芽が出そうな成熟した固い種は、食べるより、とっておいて来年植えたほうがよさそう。中身を取り出して食べてもいいが。

あれ、そういえばなんだかお肌がむっちりしているような‥。

グロッソラリー ―ない ので ある―(10)

明智尚希

 1月1日:「おっと。すまん。ちょっと電話。あもしもし。うん。はいはい。大丈夫だよ。うん。うん。うん。そうなんだ。うん。うん。はい。へえー。うん。あもしもし。なんか聞こえづらいよ。声が遠い。うん。まあいいや。だからいいって。うん。うん。はいはい。了解。じゃあまた連絡ちょうだい。できればメールで。はいはーい――」。

^_^)ロ———ロ(^_^ ) ℡♪ モシモシ

 何の因果か、この世にまぎれこむことになった。幼少時から今の今まで戸惑いと不安の連続だった。知らない人間におびえ、初めての現象に震え、平穏である時ですら恐れた。勝手知ったる人、物、ことにも、時の移り変わりという媒介者が、心理を激しく動揺させた。こんな人物は、あの世でも地獄でも戸惑いと不安を覚えて自滅するのだろう。

ガ━━(´・д・`|||●)━━ン

脂ギッシュな頭でつんのめってからおはようじゃ。咳をしたら一億三千万人とわかってからの生からの全面撤退。示されうるものは語りえないから一応黙っておくが、ここだけの話、黒板の突貫小僧は第二次性質からうんともすんとも言わない。でっかいほくろから毛の生えたあんちくしょうは、食べたら食べっぱなしで三回転して行方不明。

(ー`´ー)うーん (ーΩー )ウゥーン (*’へ’*) ンー

 社会が世界が複雑化した中で、生きていかざるを得ない人間。学問が細分化し、細分化したものも枝葉状に分かれる。学問に限らず、日常生活に関するどの分野でも当てはまる。そうした世にあって、静物の忠実なデッサンにどれほどの意味があるのか。一筋縄ではいかない以上、森羅万象が抽象的になる傾向は抽象自然主義と呼んでもいい。

(○´∀`○)ノァィ

 前に戻る↑↑。

(゜⊥゜)ナノダァ〜〜〜

 1月1日:「いや恥ずかしいとこ見られちゃったな。俺のケータイ。古いまま。いや買い換えようとは思ってるんだけど、俺はアプリとかたぶん使わないからさあ。通話とメールができればそれで十分。でもやっぱり人に見られるとなんか恥ずかしい。お父さんとお母さんはスマホに変えたの? ああそう。周りもみんなそうなんだよな――」。

モシモーシ♪ モシモーシ>(´ ▽`[]ゝ

 データによると、この国の年間総労働時間はかなり高い値を示している。サービス残業も含めると値は更に上がるだろう。仕事で忙しいというと多少なりとも上に見てしまいがちだが、生き方を決めるのは仕事と対蹠的な暇である。やっつけることで時間を費やす仕事、自由な思考空間の暇。仕事でも人でもなく、暇こそ我々の教師なのである。

(-_-)ノシ・・・ハァ・・・

 西洋人はどうやら勘違いをしておるな。何かにつけ禅だ涅槃だ仏教だと言いたがる。実際はそんなファッション的なものじゃないんじゃがのう。代表的なのがヘッセの『シッダールタ』。主人公を美しく苦しむ存在として描いとる。もっと地獄を近づけろっての。「悟りの境地」なるものがそんな極楽なら、わしなんざとっくに行っておるわい。

ンモォー!! o(*≧д≦)o″))

 国家の未来を担う政治家は、ステキなスマイルを待っており、発酵させるとズボンがぶかぶかでスゴい! 契約は申し込みと承諾で成立するが、業者の募集は申し込みの誘引であり、契約の申し込みではない。しかし、選んだのは笑顔でスタートができることであり、ロイヤルな味わいをそのままに、最高級のチーズケーキを作ったことである。

;:゙;`;・(゚ε゚ ) ブッ!!

ジャワ舞踊作品のバージョン(5)クロノ

冨岡三智

「クロノ」は仮面を被って踊る男性荒型の舞踊名で、2014年4月号で紹介した「グヌンサリ」同様、パンジ物語に題材を取っている。クロノはパンジ物語に登場する異国の王の名前で、物語の主人公であるパンジ王子の許嫁のスカルタジ姫に横恋慕している。クロノの仮面は天狗のように真っ赤な顔、突き出た鼻、ぎょろっとした目をしていて、荒々しい気性を表わしている。クロノはジャワで美徳とされるアルス(優美)さからは程遠い、煩悩まみれのキャラクターだが、それゆえに庶民に愛されてきたキャラクターだ。

さて、「ジャワ舞踊作品のバージョン」と銘打った一連のエッセイでは、同じ舞踊名で振付の違うものを取り上げたけれど、ここでは踊り手による表現の違いを取り上げてみたい。というのも、クロノのような舞踊では、踊り手の個性が振付以上に重要だからだ。パンジ物語に題材を取った仮面舞踊はスラカルタ(通称ソロ)とジョグジャカルタの間にあるクラテン村で発展したので、当然ジョグジャカルタにもクロノ作品はあるわけだが、ここでは割愛。

スラカルタでクロノの名手といえば、スラカルタ宮廷舞踊家の故マリディ氏だろう。マリディ氏はドラマチックな表現の名手だ。しかも私が目にしたときはもう60代だったので、年老いた男性が恋への執着心を捨てきれない様が表現されていた。クロノには、舞踊の途中でガンビョンガンという演出がある。性的な暗喩に満ちた女性舞踊ガンビョンのような振付になっている部分で、恋心がその部分で表現されているのだが、その場面で思わず胸がしめつけられそうになるくらいだ。今思えば、マリディ氏の円熟した表現の頂点を見ることができたのは幸運だったなと思う。

マリディ氏の弟子たちの中でも、次の世代の雄といえば故ナルノ氏だろう。ナルノ氏はPKJT(1970年代に実施された中部ジャワ州芸術発展プロジェクト)やスラカルタの芸大で活躍した。PKJTや芸大では、伝統舞踊の装飾的な要素を削ぎ落として身体表現を重視したので、ナルノ氏もクロノの伝統的な被り物を被らず、髪を振り乱して踊った。PKJTのクロノのカセットには、そんなナルノ氏の写真が使われている。ナルノ氏はジャワ人にしてはかなりの大柄で、彼が踊っている様は鬼みたいに見える。ナルノ氏の少し下の世代の芸大教員に言わせると、若かりし頃のナルノ氏の人気は絶大で、ナルノ氏のクロノに憧れて芸大に入学した男子も少なくなかったらしい。男が憧れる男だったのだろう。

私が芸大に留学していた頃は、そのナルノ氏の弟のジェンドロ氏がスラカルタ宮廷で踊っていた。ナルノ一家の例に漏れずかなりの大柄で、ナルノ氏とは違う野性味があるが、ガンビョンガンの部分ではどこか足腰に女性的(オカマ的)なニュアンスがあって、そこに味があった。けれど、子供が彼を見たら、きっとなまはげを見たときのように大泣きするだろうな・・・と思わせる舞踊だった。

ナルノ氏の少し下の世代で、マンクヌガラン家でクロノをよく踊っているのはダルヨノ氏だ。彼は芸大教員で、芸大でもクロノを踊ることもあるが、細身でアルス(優形)の名手である。ダルヨノ氏のクロノには猛々しさはなく、宮廷舞踊家らしい抑えた表現で、コンプレックスを抱えたクロノの屈折した心理が表現されている。アルスの舞踊でも非常に細かいところまで神経が行き届いた踊り方をするので、彼のクロノはとても神経質な感じがする。

私が留学していた頃から現在まで、芸大でクロノをよく踊っているのは、ダルヨノ氏よりも若いサムスリ氏である。サムスリ氏の兄弟も皆大柄な人ばかりだ。彼のクロノだが、荒型らしい雄々しさはあるのだが、猛々しい感じではない。人柄の良さがそのまま舞踊にもにじみ出ていて、クロノがものすごくお人よしに見える。スカルタジ姫が性悪だったら、クロノの方がもて遊ばれて捨てられそうだ。ダルヨノ氏とは対照的だが、こちらも愛すべきキャラだなあと思えてくる。

スラカルタから1970年代にジャカルタに出て、それ以降ジャカルタでスラカルタ舞踊を継承している人たちにとって、クロノと言えばセントット氏(レトノ・マルティ女史の夫)である。私も一度見たことがあって、マリディ氏やナルノ氏の系統のクロノとは全然雰囲気が違うことに驚いた。セントット氏はスリ・ウェダリ劇場の支配人、トヒラン氏の息子なので、スラカルタの芸術高校、芸術大学、PKJTなどとは系譜が異なる。マリディ氏やナルノ氏の表現は、セントット氏に比べてどこかドラマチックだ。そして、猛々しい男性の心の片隅にあるロマンチックな心情が表れている。だから、観客はどうしてもクロノに同情してしまうし、彼の人間的な弱さに共感する。それに比べてセントット氏のクロノはもっと非情だった。王としての孤独や強さが猛々しさ以上に勝っていたのかも知れないし、女々しさが少なかったのかも知れない。こういう解釈もあるのだ、と発見したことが一番の収穫だった。

最後に、2000年頃にクラテン村で見た伝統的なワヤン・トペン(仮面舞踊劇)の中のクロノについて。スラカルタで宮廷舞踊の影響を受けて洗練される以前のクロノの姿について。クロノを踊ったのは、クロノが十八番だったおじいさんの一族の人で、芸大のダラン(影絵人形遣い)科の教員。名前は失念した…。ここだけ振付の話になって恐縮だが、クロノにあるキプラハン(速いテンポでいろんな手振りを見せるシーン)には、スラカルタのクロノの一般的な振りにはない動きがいくつかあった。たとえば、凧揚げの振りやカードをきる(カード賭博をやっている)振りなど。ここで、クロノが煩悩の多いキャラクターであることを表現しているらしい。ちなみに、凧揚げは乾季の子供の遊びだが、大人もやるんだろうか…?クラテン村では、クロノはより人間臭くて素朴な人柄であるようだ。スラカルタみたいに、心理的な複雑さがあまり感じられない。そこが都会と田舎の違いかも知れない。

スクエアな女の子にも届いた石やんのブルース

若松恵子

ヒップかスクエアかと聞かれたら、残念ながら私はスクエアな人間だ。子どもの頃から「ここから出てはいけません」と言われた線を越えることがどうしてもできない。退屈だと思いながらも朝礼の整列やホームルームをうまく抜け出してサボるなんて芸当はできなかった。親のきまじめさが私の体にも染みついている。ルールなんて、安々とまたいでスタスタと歩いていけたらかっこいいのにと思うけれど、”ヒップ”になんて、努力してなれるものではないのだろう。

そんな四角い資質の私が、石田長生(石やん)のブルースになぜ魅かれるようになったのだろう。スクエアな女の子にも、なぜ石やんのブルースが届いたのか…その理由を考えることを通して、私にとっての石田長生の魅力を語りたいと思う。

まず気に入ったのは、彼の歌う声だった。声は人の意志だから、自慢げに歌えばそのように、媚びて歌えばそのように伝わる。石田長生は、関西のブルースマンだから、いわゆるコテコテに、大げさに歌う人のように勝手に思っていた。初めてかれの歌を聴いたとき、その偏見は、良い意味で裏切られた。むしろさわやかにまっすぐな歌い方だったのだ。自分がもらった声をいちばん活かす歌い方を探しているみたいだった。石やんが仲井戸麗市の「ティーンエイジャー」をカバーしているのを知って、探して聴いて、そして彼のことを好きになったのだった。

その仲井戸麗市を相手に語ったインタビュー記事を読んで、ますます彼のファンになった。そこで語られていたのは、小学校5年生の時にビートルズに出会って、「俺はもう大きくなったら絶対これになる」って決心してからの石やんの音楽の旅だ。ギター1本を頼りに様々な人と出会いながら自分の音楽をやってきた石やんが、「やっぱり小学5年の時に感じたことを貫きたい。っていうか、それやったら「ホームレスになってもええ」っていう覚悟で音楽やりたい」と語っている。

彼が子どもの頃に見つけた確信(ロック)に対する誠実な生き方、かれは堅気の職にはついていないけれど、その生き方を選んだことに対しては誠実さを貫いている。そこに私は共感したのだと思う。彼が「これに賭ける」と決めたものは、金儲けでも、名誉でもなく「ビートルズ!」だったというのもいい。

今年の2月から闘病中だった石田長生の訃報が届いたのは、7月8日のことだった。雨の1日だった。彼がギターを弾き、歌う姿を、もう2度と見ることができなくなってしまった。残念ながら彼の最後のCDとなってしまった、三宅伸治とのヘモグロビンデュオによる「try」を繰り返し聴いている。

ライブで何回も聴いた「That Lucky Old Sun」は日本語詞で歌われている。

 朝っぱらから 仕事にでかけ
 悪魔のように金儲け
 なのに1日中、ゴロンゴロンと
 お空じゃ おてんとうさん

 女と争い、子どもを育て
 俺は死ぬまで汗まみれ
 なのに1日中、ゴロンゴロンと
 お空じゃ おてんとうさん

 上の方からじゃ 見えないのかな
 俺の涙なんて
 連れてっとくれよ
 銀の雲に乗せ
 永遠の楽園へ

会社にむかう電車の中で「悪魔のように金儲け」と、心のなかで口ずさみながら苦笑する。おてんとうさまとくらべて、自分の境遇を嘆く。

石やんも私も、それぞれの暮らしを誠実に送り、ブルースを分けあった。日常を降りてしまったら、ブルースも生まれない。「ビートルズになる」と決心したと同時に「ホームレスになってもいい」と覚悟した少年は、音楽の人生を全うした。生真面目でもあり、自由でもある人生だったと思う。

しもた屋之噺(163)

杉山洋一

7月も半ばになり街を出る人が多いのでしょう。往来も減り空気も澄んで来たようです。今月はただ朝から晩まで机に向っただけで、瞬く間に終りました。階下の仕事机が壁に向っておいてあったのを、光をとれるように庭の窓に向けておきなおし、木々を眺めながら原稿を書いています。

今月、親しい方のご主人が亡くなり、恩人が心臓の緊急手術を受け、長年ジストニアを患ってきたピアノの友人からパーキンソンかも知れないと連絡を受けました。時間が一方方向にしか進まないという事実を、漸く受容れやり過ごせるようになった気がしますが、既に人生の半分は生きたとして、残された時間に何をしたいか考えさせられます。

この歳にして両親に感謝の念を新たにするのは、子供の頃から今までの出会いに、感謝することばかりだからで、自分が息子にそれを与えているか解りませんけれども、そうあるべく努めなければならないと戒めています。

人生半ばにして学んだのは、出会いは長い時間をかけてどこかで戻ってきて、まるで地球を一回りして目の前に現れるような出来事が、実際にあるということです。後で戻ってきたときに、自らを辱めることのないように、一期一会は大切にしなければ、時間は一方向にしか進まないけれど、メビウスの輪のような形をしているかもしれないと思うのです。

戦後70年が過ぎ、広島と長崎の日、終戦記念日が巡りくるのを考えながら、我々が生きるこの地球が、シナプスのような無数の出会いに覆われている姿をおもいます。

  —–

7月某日 自宅にて
朝から9月に録音するガスリーニの「Murales Promunades」を読む。「Murales」は、ガスリーニ・カルテットが1976年に発表した名盤で、ライブセッションをそのまま収録してある。Murales Promunadesは、その主題を取り出してピアノとオーケストラの作品に作り直したもの。和音を一つ一つ丁寧に拾ってゆくと、美しさに驚く。

意味もなく音が多くなるということは、意味のない音が多くなるのだから、一つ一つの音を拾う必要はなくなる。一つ一つ意味のある音だけしか残っていなければ、少ないながら一つ一つ音を拾わなければならない。結局、音の少ない楽譜を読むほうが時間がかかる。楽譜が雄弁になると、音のもつ魅力は減り、文字通り雄弁な譜面という音響になる。集合体としての音の魅力と魅力的な音の集合とでは、数量に明確な違いがあらわれる。

昼休みにユネスコ採決の中継をみる。日本のスピーチを随分太っ腹だと感心して聞いていたら、案の定後で問題になってしまった。

7月某日 自宅にて
熱帯夜。内容は詳しく思い出せないが、この処しばしば夢に巨大な円形建造物と、7という数字が現れる。ローマのアウグストゥス廟のような形をしていた気がするので、この処話題にのぼる新国立競技場かも知れない。7はよく解らない。

エミリオがイタリアに住んでいた頃、この時期は、いつも家族を実家に送り、一人家に残って仕事をしていた。当時は何故だか良く判らなかったが、気が付けば自分も同じことをしている。生徒というのは面白いもので、時に教えもされないことまでも教師に似るのは、親子の関係を思い出す。譜割りは途轍もなく気の遠くなる作業だけれども、これをする度に、自分がどれほど音を見落としているかが判って愕然とする。結局読んだ積もりにはなっているが、何も読んでいないのだ。音を出来るだけ跳ばさずに読むことで、拍を振ることから音を耳で追うべく頭の回路がリセットされる。才能がないのも一つの才能と自らを慰めることにも馴れた。人の十倍時間がかかっても疑念を抱いてはいけない。

7月某日 自宅にて
夜仕事をしながらラジオをかけていると、カナダのポップミュージシャンが一番影響を受けた曲だといって、ピチカートファイブの「Twiggy Twiggy」をかけた。20年前にイタリアに来て暫くは、日本のサブカルチャーの代名詞と言えば、「ハイジ」のようなアニメを除けば「ピチカートファイブ」だった。当時「It’s a Beautiful Day」はDelta Vがカヴァーしたモリコーネの「Se telefonando」と一緒に毎日テレビで流れていた。

「かわいい」が現代日本のサブカルチャーの一つの指針と読んで思い出したこと。前に同性愛者の友人が話してくれたのは、性癖の少なくとも半分は後天性で、大きく環境に左右されるという話だ。同性愛者として生きるのは大変だから、子育てには気をつけるようにという忠告だった。幼児性愛や同性愛も時代と場所によって今とは全く違う常識で扱われてきたのだから、彼の云う通りなのだろう。

まさか「かわいい」を連呼したからといって幼児性愛者が増えるとも思わないが、暫く前、家人が10歳の息子に使わなくなった古いアイフォンを渡したとき。息子は劇場の合唱練習のために、オペラのヴィデオなどを眺める程度で気にも留めていなかったが、或る時にふと履歴を見ると、水着姿の妙齢などが映っている。その時は年頃だし当然だとやり過ごし、改めて確認すると今度は履歴が夥しい数に跳ね上がっている。妙齢に雑じって同性愛者や両性愛者のページが出てきたものだから、流石に慌て息子に問い正すと、知らないという。

元来家人のアイフォンだったから、彼女のグーグル履歴を見て仰天した。繰返し検索にかけられていた言葉は「小学生」「陰茎」「切断」「裸」「性転換手術」で、接続場所は日本の自宅辺りを指していた。我々の目の前でみるみる履歴は増えてゆく。明らかに家人のグーグルアカウントを使って、変質者か幼児性愛者か、子供に性同一障害を抱える親が誰かが、そうとは知らずに東京の近所からアクセスしているのだった。

7月某日 自宅にて
学校の同僚で、しばしばレッスンの伴奏なども頼んでいるMは、昔からジストニアを患っていて、手を保護する手袋を嵌めている。彼から連絡があって8月は長期入院するという。ジストニアだけでなく、パーキンソンの疑いだという。

朝行き着けのパン屋で新聞に目を落とすと、安倍昭恵さんミラノ万博訪問の写真つき記事。「日本では首相の妻が政治に口を挟むのは好まれないが、積極的に発言してゆきたい」という趣旨の談話があって、センセーショナルだと云う。「我々の常識で判断できないが、日本の女性の地位はどうなっているのか。彼女は離婚こそしないだろうが、今回の発言はとても革新的ではないのか。突然の発言に通訳も当惑を隠せなかった」。万国博日本デーに関しては、殆ど触れられない。

内閣支持率が下がったというニュース。安全保障関連法案が国民を裏切ったから、こんな筈ではなかったという。どうして今になって騒がれているのかよく解らない。我々自身で現在の内閣を選んだのだし、こういう流れになるのは最初から解っていなかったか。

素朴に疑問に思うのは、何故わざわざ戦後70年の終戦記念日が近づくこの時期に、こんな厄介を抱え込もうとするのかと云うこと。70年のこの節目に、大変革を為し遂げたいということか。

7月某日 自宅にて
橋本くんから「かなしみにくれる女のように」は、歌と管楽器で演奏は可能かと質問が届く。素材はバンショワの歌曲とイスラエルとパレスチナの国歌だから、一部を除けば可能だろうが、古仏語はまだしも、ヘブライ語とアラビア語は全くわからない。そこまでコンセプトをはっきりさせる積りはなかったが、面白いかも知れない。

Cさんの楽譜を譜読みしていて何かに似ていると思い、暫く考えて漸く思い出す。子供の頃、銀座のヤマハで買ったシュトックハウゼンの「賛歌」、あの国歌が連綿と続く楽譜だ。カラフルな国旗の表紙が好きでよく眺めた。「賛歌」の録音を聴いたのは、確かずっと後だったが、衝撃を受けたし今も全く古めかしさは感じない。国歌を集めて作られた「賛歌」は66、67年作曲だから、当時はベトナム戦争、東西冷戦の真最中だった。第二次世界大戦が終って20年足らずだから、自分がミラノで暮らし始めて現在までの時間しか経っていない。

シュトックハウゼンが「賛歌」を初演した45年前、自分が生まれた1969年前後、ドナトーニが一番悩んでいた時期に、改めて立ち戻ってみる。

当時一番問題とされた事象の再考を通じて、自分が求める道筋が見えてきた気がする。あの時から現在までの現代音楽の歴史を、我々は既に知っているから、同じ道筋を辿る必要はない。トータルセリエルと偶然性からニューコンプリシティ出現までの、ほんの短い時間に特に興味を持つのは、作曲の作業も作曲家の手から離れず、演奏者は書かれた音符通りに演奏できる人間的限界へそろそろ到達しようとしていた重要な時期だからだ。

その先セリエルは思索作曲の高みへと到達し、楽譜通りに人間が演奏する事は不可能になった。結果、演奏家は複雑な楽譜を、演奏可能に四捨五入しながら把握するようになり、作曲者もそれを許容するようになった。四捨五入のアウトラインの演奏で満足するようになって、各音符の重要度は低くなったが、そこへ向いたくないのだ。演奏可能なものを書き、各音に演奏者が何らかの意志を反映させられるなら、自分を納得させられるだろう。

Rが指揮のレッスンにやって来て、自作ピアノ協奏曲の楽譜も見せてくれる。特に悪いとは思わなかったが、試験では頗る評判が悪くてと悲しそうな顔をする。試験官が、この作品は切り貼り、コピー&ペーストが多用されていると決め付けたらしい。R曰くコピペは一切ないと云うが、コピペは手抜きと認識されるのだという。解らなくもないが、古典派の時代から、西洋音楽にコピペは常套手段であり、形式を築き上げるために必須の技術だった。コンピュータの使用で、実際に使われているかすら判断できない中で、否定される矛盾。明らかに現代作曲の情報量は、我々の判断の限界を超えているのだ。ドナトーニの「Esa」など、コンピュータこそ使っていないアッサンブラージュだけれど、素晴らしい作品だと思う。我々がコンピュータに使われているのが悪であって、コピペが悪いわけではない。

7月某日 自宅にて
意味のない文章列や音列に一本の縦線を引く。そこに何らかの意味がうまれる。同時にそこに重力とも潮力ともつかない方向性が生まれる。その線と線の間にまた一本、線を引く。すると、その中の音や文字に何らかの意味が生まれるが、常に自分と音との間には少し距離がある。自分の中から音を生み出すのではなく、音符をただの音符として扱う、その作業はドナトーニから学んだ。

大井くんがドナトーニのピアノ曲をまとめて演奏会をするというので、文章を送る。彼の生前の生立ちは様々に読む手段があるから、ヴェローナで文化功労者として扱われるに至る没後15年の大まかな流れについて書き、音符と自分との間の距離感について書く。目の前で厚く垂れた巨大な雲が、途轍もなく多くの事象を巻込みながら静かに進んでゆく。

(7月25日ミラノにて)

仙台ネイティブのつぶやき(4) 夏草の始末

西大立目祥子

 いま住んでいるのは、藩政時代まで足軽屋敷だったところだ。城下町の東南部にあたり、周辺には「表柴田町」「裏柴田町」「成田町」「三百人町」「五十人町」「六十人町」と、興味深い名を持つ町が並んでいる。町名は、足軽たちの出身地や、居住した戸数を表している。いまも、町の配置や町名は当時のまま。四半世紀ほど前、仙台市が一帯の住居表示を実施して「◯町◯番◯号」と新しい町名にしようとしたとき、地元住民が断固反対して守りぬいた。
 藩政時代、仙台城下では足軽屋敷の大きさは決められていた。間口7間、奥行25間。約175坪ほどの奥に深い、俗にウナギの寝床といわれる細長い敷地が、道の両側に向かい合って短冊状に並んだ。おもしろいことに、この大きさと並びは、町割から400年たってもほとんど変わらない。もちろん、時代が下がるにつれて、敷地が分割されて、奥に向かって4、5軒の家が立ち並ぶようになったり、2つ分がまとめられマンションになったりしているところはあるのだけれど。

 引っ越してきたのは晩秋で、道路から奥の家まで通っている路地は、砂利が敷かれいかにも殺風景だった。だが、年が開けて春を迎え、ヒメオドリコソウやハコベなどのよく見かける雑草が生えてくると、やがてつぎつぎと細い竹が青い葉を茂らせるようになった。幹が1センチに満たないような細い竹で、東側の家との屋敷境に列をつくるように生えてくる。生え出した竹はみるみる伸びて、あっという間に2メートルほどの高さになる。その勢いをおもしろがって眺めていて、はっとした。
 ─これは、もしかして、足軽屋敷の屋敷境にあった竹やぶの名残ではないのだろうか?
 藩政時代の雰囲気がまだ色濃く残る明治時代中頃の測量図を見ると、隣り合う屋敷は生け垣で線引きされていて、中には竹垣と思われるところもある。400年、しぶとく生き延びてきたのかもしれない。
 心踊らせてお隣の奥さんに聞きにいった。何しろ藩政時代からこの町に暮らす足軽の末裔という方なのだ。期待を持ってたずねると「お宅の前の竹は、あとから植えたのよ」という答えで一件落着。生け垣はアオキを主体に、いろんな樹木が混じっていたという。鳥が木の実を食べて、ふんをして種が芽生えてという具合に、多彩な樹種が自然に増えていくのが城下町の屋敷林であったのだろう。竹が育っていたのは屋敷の奥、つまり背中合わせに隣接する町境だったという。「竹林になっていて、筍も採れたの」。藩政時代の記録には、屋敷の裏手に竹やぶがあり、筍を食べるほか、屋根の葺き替えや物干し竿、竹垣に役立てたと記されているから、その思い出の竹林は間違いなく足軽屋敷の名残だろう。

 竹が出始める季節は、ハルジオンがひょんひょん伸びた茎の頭に淡いピンクの花をつけて広がっていく。もともとは観賞用として北米から輸入されたらしく、注意深く見ると、花びらはきれいな円を描いてなかなかにかわいいので引き抜くかどうか迷う。
 雑草とよばれている草たちに、どういう態度でのぞむのかは、なかなかに悩ましいのである。除草剤をまくなんて絶対イヤだし、一本残らず駆逐するぞっていうのも避けたい。草が生えてくるのは、そこが適地だからなのだ。よくいわれるように、雑草なんていう草はなく必ず名前があるのだから、花をめでつつ、なだめつつ、うまくおつきあいできないものか、というあたりに私の態度は落ち着いてきた。でも、そういう視点でかかれた本には、いままで一度もお目にかかったことがない。雑草とうまくつきあう庭…というタイトルの本だって開くと、いかに効率よく侵入を防ぐかという内容だったりする。
 さて、ハルジオンは、これがあちこちに伸びてくるとどうしても荒れた感じがするので、かわいそうだけれど引き抜く。そのうち地面にはシロツメクサとヘビイチゴが勢力を増してくる。どちらもランナーを延ばし勢力拡大をねらっているが、私としては力で押しまくるシロツメクサよりは、黄色い花をつけイチゴのような赤い実を実らせるヘビイチゴを応援したいので、シロツメクサは踏みつけるけれどヘビイチゴの上は歩かないように気をつけ、2種がせめぎあっているところではシロツメクサをべりべりとはぎ取る。シロツメクサはオランダから日本にやってきた。ガラスが梱包される際に詰め物として使われたからこの名があるのだそうだ。

 やがて、6月に入り日が長くなるころに、我がもの顔であたりをおおいつくすのがドクダミだ。ドクダミは一般的にいって嫌われている印象が強い。引き抜いたときの匂いもあるけれど、圧倒的勢力もその理由にあるんじゃないだろうか。私もそうだった。一時期はドクダミを目の敵にして抜きまくり、ずるずるとつながる地下茎にため息をついていた。
 でも、あるとき気づいた。これってなかなかにすてきじゃないの。真っ白な花弁がパチっと十字に開いたところが美しいし、葉の色も少し黄緑がかってちょっと波打つハート型だ。それからというもの、引き抜くのはやめて群落にし花を楽しんでいる。梅雨に入り空模様がどんよりして気温が上がり、頭もからだもふやけていくような気がするときに、この花は清涼剤のように目に映る。一輪二輪をガラスにさしてテーブルに置くと、ああなんて涼やか。
 ドクダミの繁茂に始まる夏草の勢いは人を飲み込むようだ。私はほとんど負けている。でも、去年の秋から奥の家に中高生が3人もいる6人家族が超してきて、ひんぱんに出入りすようになったら雑草の中にくっきりと一筋の道ができた。おもしろいなあ、元気な人の動きが都市の中に獣道をつくる。上の女の子はサックスで音大を受験するとかで、毎日熱心に練習している。その音を楽しみながら、抜くかそのままにするか、迷いながらの草むしりだ。

青空の大人たち(13)

大久保ゆう

青空文庫10周年記念パーティである『青空文庫10歳』というイベントは2007年7月7日の土曜日に東京上野の水月ホテル鴎外荘で開催された。展示ブースやお土産では青空文庫とそこから広がった活用の輪をできるだけ伝えようということでさまざまに工夫されたのだが電子テクスト研究会が研究会らしいことを行ったのはあとにも先にもこのとき限りかもしれない。青空文庫が当時行っていた著作権保護期間の延長反対に関する署名運動を知らしめる意図ももちろんあっただろうが青空文庫の内側や外側を豊かに伝えるということで点検部屋や製本部などが活躍する一方お土産の『蔵書6000』の制作キュレーターが良い仕事をしてくださったおかげで電楠研もそれらしいことをできたのである。

参加した電楠研そのものは泊まり込みということでやはり大学生らしく合宿感を満喫しており翌日には秋葉原へ行ってメイド喫茶に寄ったり浅草からの直通ラインで豊洲へ足を伸ばして公開直後の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を鑑賞して盛り上がったり(したという記憶があるのだが封切日を確認してみると年号が合わないのでこれはまたブックフェアあたりの別の機会なのかもしれない)、当日も自分たちのグループワークを説明するだけでよかったかもしれない。

ところが『蔵書6300』というDVD-ROMは10周年ということでそれまでたびたび作られていた青空文庫の全作品収録ROMとは異なる特別なものにしようということになり、そこへ電楠研も協力してイベント会場でのデモンストレーションにも携わることとなった。受け持ったのは青空文庫を用いた二次創作のとりまとめで、具体的には文学作品をノベルゲーム風にしたものや朗読&音訳であり、ブースではそのゲームや朗読の体験をしてもらうという形である。

もちろん収録したもののなかには元々プロの方がフリーで公開されているものもあったが私同様まだ当時駆け出しでそののちプロとなった人もいた。電楠研の手がけた「イワンの馬鹿」や海外探偵小説そのほか小泉八雲の怪談などをノベルゲームに仕上げてくださった作家・ライターのアライコウさんもそのひとりで、現在はゲームのシナリオ等でご活躍だが、当時収録許可をお願いして快諾してくださったことそしてイベントにもお越しくださったことが昨日のように思い出される。ご本人が上梓された『XNovelでつくるiPhoneノベルゲーム』(秀和システム)でも6ページほどを割いて(著作権保護期間延長問題とともに)青空文庫のことにも触れてくださっていて、ありがたい限りである。

朗読として収録されたもののなかには声優・ナレーターの佐々木健さんの音声ファイルもあるが、氏の行っていたポッドキャスティングには拙訳のホームズ譚なども含まれており、複数回に分けて配信されたこの朗読を自主的に改訂してまとめたものがのちに商用配信・販売されるに至ってそのつながりからH・P・ラヴクラフトのオーディオブックなども私自身が翻訳を担当することになりデビューしたという背景がある。

してみるとこの『蔵書6300』は単に青空文庫を収めたというだけでなく将来の萌芽も含まれているということになる。2004年の『これ一枚蔵書3000』/2005年『蔵書4670』/2006年『蔵書5000』という一連のシリーズはボイジャーの制作協力もあって閲覧ソフトの宣伝も兼ねたものであったが、『蔵書6300』は青空文庫の一つのあり方を示すものでその姿勢が図書館の書架に青空文庫を寄贈しようという(イベント当日にその計画が発表された)『青空文庫 全』の形に直接つながってゆくあたり自覚の転機にもなっている。

当時の6300という数字も、またその2倍になった2015年の13000という数にしても、規模を考えるなら小さな図書室といったところだろう。だがたとえささやかな図書室だとしてもそこにあるだけで、通った子どもはその本で養われるものである。今の青空文庫もまたかつての自分たちのように誰かを育んでいるのかもしれない。久しぶりに『蔵書6300』を開いてみると朗読やノベルゲームのページには当時みなさんからいただいたコメントも合わせて掲載されており、その言葉は自分自身が集めたことを思い出した。そのなかで私に同じく若い参加者の方はこう述べていた。

[#ここから引用]
本屋には日々新刊が発行され、スペース的な問題からか、古典的な名作はどんどん姿を消しています。私が朗読している宮沢賢治も、比較的大きな本屋でも作品集が1冊もないことがありました。でも「本屋になくても、青空文庫にはある。」私は青空文庫で、今まで知らなかった賢治の作品に出会うことが出来ました。
[#ここで引用終わり]

古いメモをたぐってみると、みなさんから「素直な言葉」がもらえたと書かれてあった。その言葉のひとつは「出会い」を示しており、それは読者が作家や作品と出会うことでもあるが作品が次の作者に出会うことでもある。かつて2004年に文化庁の「「著作権法改正要望事項」に対する意見募集」のパブリックコメントがあった際、著作権の失効間際にある作家の作品が自分の近くの書店や図書館でどれくらい手に入るのか調べたことがあったがそもそも出会えないものも少なくなかった。パブリックドメインであれば誰でも「出会える」ようにできるのだから、青空文庫の真価はそうした「出会い」を作って可能性を再生産をすることにある、と、それもまた同じ2004年の雑記に記してあった。おそらくはその可能性とやらは自身の経験に立脚したものなのだろう。

そうした若者たちの「出会い」の可能性を開いてきたのは、まだインターネットの夜が明けるか明けない頃から青空を見つけようと試行錯誤してきた大人たちだったことは間違いなのだろうと思う。もちろんこの大人たちは同時代の人たちからは疎んじられたり危険視されたりしたこともあったが(むろん若者の方も不良な大人と付き合っていると見なされたりしたこともなくもなかったが)、冒険心のある大人というものは得てしてそうなのだから冒険家と山師が同じ語で表されたりするのもむべなるかなである。その意味では青空の大人たちとはいつまでも青空を求め続ける夢の大きな人たちということなのかもしれない。

129 アカバナー(14)人類のげつめいに踊る

藤井貞和

うちよせる、貝の国、嶋山の斜面に、かげが一つ消えて、
くまなく、白い砂のはまべはきのうを語る。 ありし岬、
みどり葉のありしあたりの、石油から、燃える腓骨の笛。
無念よ、と予言者の白骨もまた、人類のげつめいに踊る。

墓域のそのさきより、戸をひらき、しんでんに機織りの、
音を聴く。 幽鬼のむすめ、はたを織れ。 石炭紀から、
憑みのつなをかけわたして、それでもまだ帰れというか。
ない明かり、火灯しの婆が独り、人類のげつめいに踊る。

でたらめと、言うなかれ。 どんな野蛮も、予言の前に、
ひれふしてあれ。 潮干のなかを、いわふねがたゆたう。
何がのこる。 予言にんは去る。 嶋山の赭土に溶けて、
滅びしあとからなお焼く野深(ぶか)。 げつめいに踊る。

(滅ぶ時や光景を見ることはできるかもしれないが、滅んだあとを見ることはできない。おまえたちの底知れない退廃のなかに、あらかじめ、光景を望みみるばかりだ。たぶん、また当たるくじだよ。地震はこんご、ありません。火山、これからありません。ただひたすら、おまえがスイッチを消しわすれて帰宅時間を急いだというだけのはなしさ。『現代詩手帖』八月号に戦後70年論を書かせていただきました。それもあるのですが、この特集号がすごい、と思うので、紹介させてください。まず巻頭の一九四五年詩集。20数ページにわたり、平林敏彦さんら編集の50編。もう、わたしゃ神だーりです。それから引き揚げ体験のある詩人、財部さん、飯吉さん、少年兵の平岡さん、新藤さん、また水田さん。沖縄、アイヌでは、私はともかくもとして、高良勉の書評をはさんで、白井明大さんがものすごい。白井さんは3/11以後、沖縄へ移住しました。それから岡和田晃さん、小林坩堝さん。村上陽子さんの新刊『出来事の残響』も紹介します。感心していました、みんな。鶴見さんを送る夏であることをもつよく記憶します。)

許さないと思う鉛筆

植松眞人

 そこにあったのは、たった一本の鉛筆であった。堅くもなく柔らか過ぎることもない、ごく普通の濃さの鉛筆が一本だけ、木製の机の上に置かれていた。
 その鉛筆は書かれるためにあったのだけれど、結局は書かれなかった。書くべきことはたくさんあったのに、書くための術がなく、あらゆることが捨て置かれてしまったのだった。
 鉛筆はドイツ製で、日本製の見慣れた鉛筆と同じように六角形で、二センチ四方くらいの小さな箱形の鉛筆削りできれいに尖らされていて、いつでも書ける用意は万端だった。それなのに、富貴(ふき)がなにも書かずに三十台後半という短い人生を終えてしまったのは、まさにいつでも書ける用意が万端だったからだと、今になって武居(たけい)は思う。書ける用意ができているのに、書くべきことがない。それが富貴の人生なのだった。
 武居が以前、同じ会社で働いていたことがある富貴の個人事務所を手伝うようになって丸一年。最初は自分の後輩の事務所を手伝ってあげられればそれでいいという先輩としての母心のようなものがあった。といっても、武居はまだ四十を過ぎたばかりで、富貴とは五つほどしか歳は離れていない。それでも、人一倍母性が強い武居と、生まれた時から父を知らず母ひとり子ひとりで育ってきた富貴とは、出会った瞬間から精神の化学反応を引き起こした。
 正直なところ、富貴をよく知る者たちは「富貴くんが、年上のおばちゃんと仕事をうまくやれるとは思えない」と言い、武居をよく知る者たちは「タキちゃんは結局、自分のことで精一杯やから、年下の富貴くんの事務所のことを真剣には考えていないと思う」とつぶやくのだった。
 最初は順調に見えた富貴と武居の関係だが、やがて、富貴が仕事の愚痴を吐き出すようになった。三十半ばを過ぎているのに、富貴ほど子どもじみた男はいない。富貴は毎日のように愚痴を言い続け、武居はそれを聞き続けた。普通、愚痴を聞かされ続けると人は疲弊する。しかし、武居は違ったのだった。愚痴を聞かされても平気だった。なぜなら、武居は富貴のことなど真剣には考えていなかったからだ。自分が高所に立って生きられる場所かどうか、それが彼女のいちばんの気がかりであった。だからこそ、自分より低い位置から富貴がいくら愚痴を吐いても平気だった。
 むしろ、富貴に本音を吐き出させて、相手の弱みを握れるということに、武居は喜びを感じた。
 富貴は自分を甘やかしてくれる武居をまるで母のように思い始めた。自分の個人事務所であるのにも関わらず、次第に自分で決断することが出来なくなりつつあった。どんなことでも、武居に相談してから決定を下した。実際には相談して、武居が下した決断を富貴が誰かに伝えるだけになった。
 そんな富貴の態度にクライアントも「誰の事務所なんだ」「武居さんが来てからおかしいんじゃないか」と不快感を隠そうともしなくなり、やがて仕事は細り始めた。
 そんなクライアントへの愚痴にも武居は「富貴さんは悪くない。悪いのはあいつらです」と、どこまでも富貴を甘やかした。甘やかされていることはわかってはいたはずなのだが、富貴には抗うことができなかった。
 これこそ、武居の望んでいた状態なのであった。ただ富貴を意のままにして、自分が気持ちよくいられればそれでいい。そう思っていたからこそ、武居は友人にこう言い放ったのだ。
「富貴はがめつくケチな人間だからね。どうにも信用は出来ない。だから、もういいや、と思えばすぐにやめればいいのよ。お金の流れだって充分に把握してるんだから」
 武居はいつも、こんなふうに悪態をつくと、最後に「でもまあ、私はみんなが幸せになってくれれば、それでいいんだけどね」と付け加えるのが常であったという。
 富貴は次第に武居にとって好ましい人物を演じるようになった。ゆっくりとだが確実に、富貴は精神的に弱い人物を演じ始めた。仕事に追われたり、人とのやり取りに疲れると、武居の前でわざと大きくため息をついた。そうするだけで、武居はお茶の用意をして、甘いチョコレートのひとつも出してくれる。あとは、どんなにひどいことがあったのかを話して聞かせ、自分がどんなに精神的に弱い人間なのかを吐露すればいい。そうすれば、武居が「富貴さんは悪くない」と言ってくれる。
 富貴は武居の存在が自分にとってよくないということを充分に理解していた。武居が甘えさせてくれるたびに、富貴は自分が弱くなってることを感じていた。そして、これは今までとは逆のパターンだ、と思い始めた。
 それまで、富貴は年下のスタッフを採用しては潰してきた。いつも若いスタッフを入れて、中途半端な期待を掛け、少しでもその期待に答えないとわかると罵倒した。事務所を作ってたった数年ですでに五人のスタッフが彼の元を去った。結局残ったのは、年上の武居だけだった。もう一人、富貴よりも五つほど年下の男が出入りしているのだが、この男は正社員待遇でありながら「富貴と武居のやりとりは気持ちが悪い。自分のやりたい仕事が見つかったらすぐにでも辞めたい」と周囲に漏らすような男だった。これほど役に立たない信用できない男はいないのだが、富貴はこの男にも甘えていた。確実にこの男を自分よりは下の存在として見ていたのだが、好き勝手に振る舞える相手として考えていたのである。
 しかし、実際には富貴のほうが愚かだった。周囲から見ていると、武居から翻弄され、年下の男から馬鹿にされ、富貴は八方ふさがりだったのだが、彼ら三人が事務所で一緒になるといつも大きな笑い声が響いた。まるで希望しかないような笑い声が響き渡り、同時に、その笑い声の空虚さに富貴自身が恐怖していたのである。
 ある日、武居は富貴に心療内科へ行くように勧めた。
「私も行ってるんですよ。しんどいことがあったら迷うことなく行けば良いんです」
 まるで母親が息子を心配しているかのような慈愛に満ちた声だった。そんな言葉に、富貴は、自分が精神的な病に冒されているのだと思い始めた。もちろん、武居は心療内科へなど行っていない。
 富貴は翌日心療内科の門をくぐった。その瞬間に富貴は武居の共犯者になったのである。それは富貴にとって、ある意味とても喜ばしい選択であったのかもしれない。
 これまでにも富貴は、困難に立ち向かうくらいなら、つぶれたいと願う癖を持ち合わせてきた。若い頃に社会に出ることを拒み、学生時代のアルバイトをそのまま継続しようと試みてバイト先の飲食店のオーナーにこっぴどく叱られたり、学校を卒業後、初めて就いた職場の先輩にきつく注意されたときにも翌日から職場を放棄した。
 人当たりがよく、物怖じしない性格に見えることが余計に彼を追い詰めた。富貴ほど恐がりで、臆病で、卑怯な人間はいない。
 富貴は昨日、心療内科で軽い鬱病であると告げられたことで、より卑屈な人間として開き直った。すべてを人のせいにする準備が出来上がった。同時に、自分をそんな状況に追い込んだのは武居だということは充分に理解していた。憎むべきは武居であった。
 しかし、いま武居を敵にすることはできない。そんなことをしたら、自分の味方は一人もいなくなってしまう。本心からでなくても、自分の言葉に同調してくれる人間がいなくなってしまわないように、富貴は細心の注意を払った。
 いま、机の上に置かれている鉛筆は、自分の個人事務所を開いたときに、富貴自身が買い求めたものだ。明るく大きな未来を夢みて、新しいノートに新しい鉛筆で、これまで誰も考えたことのない企画を書き記そうと思っていたのだった。
 ところが、目の前のノートは真っ白で、鉛筆は文字を一文字も書いてはいない。
 どうしてこうなってしまったのか。富貴がそう思った瞬間に、目の前の鉛筆が転がった。富貴はその鉛筆を反射的にとめた。しかし、いまの富貴に目の前の机の上にある鉛筆は重すぎた。手に取ってみようとするのだが、持ち上がらない。それでも、無理やりにつかみ、持ち上げ、鉛の芯を真新しいノートに押しつける。
 武居にはいてもらわなければならない。武居がいなければ、愚痴を聞いてくれる人がいなくなる。そう思いながら、富貴は隣の机で会計処理をしている武居を盗み見る。
 いったん鉛筆を手にしてしまったのだからと、富貴は武居の身代わりに潰してしまわなければならない人物の名前を書き記そうと決める。そうすれば、いま富貴の胸に沸き起こっている不安は消え去るかも知れない。そう思い、富貴は考える。
 一時間考え、二時間考えても、目の前の武居の名前と、これまでに潰してきた社員たちの名前しか浮かんでこない。そして、三時間考えた頃、同じ事務所にいた武居が帰宅する時間になった。
「お疲れさまでした」
 たいした仕事もしていないのに、武居が、ああ疲れた、と呟きながら事務所から出て行く。
 武居がいなくなると、富貴はノートに武居と書きたい衝動に駆られる。『武居』とノートに書き記して、明日から来なくて良い、と武居に言い渡してやりたい気持ちに駆られる。しかし、書けるわけがない。いまの富貴は武居に生かされているのも同然だ。武居以外の武居の身代わりに消えればいい人物の名前を早く思いついて書かなければと富貴は焦るばかりだ。
 武居が帰ってからさらに数時間、いつものように真夜中の事務所に一人で机に向かっていた富貴は憑きものでも落ちたかのように立ち上がると、荷物も持たずに明かりも付けっぱなしで事務所から出て行った。
 残されたノートには、富貴自身の名前が色濃く、迷いなく書き記されていた。(了)

島だより(14)

平野公子

来年の瀬戸内海芸術祭の準備がスタートしたようだ。役場のみなさんはすでに忙しく、これが来年一年続くのかと思うと、本当にご苦労さまと言いたい。これから島のどこかで毎日のようにイベントが進行しているといっても過言ではない。が、普段より何倍?何十倍?の観光客が島に押し寄せるとなれば、これも行政としては大きな仕事なんでしょう。いまや広域の島で開催されている通称瀬戸芸の進行表をみると、めまいがしてくる。できたらじっとしていた。

瀬戸芸の総合デイレクターは北川フラム氏とアートフロント、小豆島は他に建築分野、演劇分野、プロダクツ分野、デザイン分野と実にさまざまな大学教授&実践チームと関わりがある。演劇にいたってはかの平田オリザ氏であるしな。しかも進取の気盛んな町長率いる行政チームはどこともおつきあいが長いようだ。あぁ私の出る幕はないような気がする。ということが四季一巡り半を経て、わたしにもようやく見えてきた。

「平野さんがやってみたいこと、地道に続けて欲しいんです」と町長とチームのみなさんの言葉に促されて、私に関心がもてる、持続できそうな島の過去のことを調べていく、というのはどうでしょう、と提案したのが「島に残されていた絵 島を描いた画家たち」と「小豆島が生んだ三人の文学者 壺井栄 黒島伝治 壺井繁治 再発見」でした。なにもかも私自身が対称をまっさらなところに置いて再発見してくという試みです。もちろん私の事ですから学術的というわけでではありません。展示会にしたり、朗読会、講演会、出版につなげていくというジグザク進行です。

これがだんだん広がりつつあります。嬉しい事に島のみなさんが楽しみにしてくれてる様子、島の若者が興味をもってくれている様子、いかにも私に望むところです。なので仕事という気がしない仕事なんだろうか、またしても。

いまは来年の壺井栄50年忌を島でどのようなことができるか相談中です。私はここ数ヶ月、本に向かって栄ちゃんと親しく声かけながら、壺井栄を読みまくりましたが、どうにも腑に落ちないことが数点浮かんできて、ここらをつっこんでいきたいと思いだしたところ。

またお便りします。

ことばを区切る

高橋悠治

ツイートというかたちは すくない字数で思いついたことを書きとめておくのによい と思っていた たとえばこんなことも 

どこにも属さず 組織に雇われてはたらかない できれば半分以上の時間をあけておく 瞬間の粒が希薄な時間に散らばる ひととおなじことをしない つよい絆をもたない 「糸ほどの縁を取りて付くべし」(芭蕉)

その後 もうすこし書くこともできる こんなふうに 

少数のともだちがいて 無視されるだけのまったくの無名とは言えないが 都会の片隅でひっそり暮し 食べていける程度の低い収入と 自由に使える時間があり 経験や技術にしばられず すこしずつあれこれのことをためしてみることができていれば 「雑草の生活」はたのしい と こうありたいものだが なかなかそうはいかない たまには世間に呼びだされ 求められた役を演じて でも 居着かないうちに帰ってくる どこでもないところ だれでもない影の家

でも 論理のことばはどこまでもすすみ 現実から離れて舞い上がる こんなふうに

組織に所属し 他人のためにはたらくのがあたりまえという感覚はいつからあるのだろう 上下の階層を細かく分け 競争相手を蹴落として這い登っていく 選ばれる一人がいれば 選ばれなかったその他大勢がいる そして頂上に立つと その上にまだ雇い主がいるのがわかる 国際社会と国際経済の両方からしめつけられ 朝から晩まではたらいて 役に立たなければ捨てられる 地位や役割をもつ人間には 代理や代役はどこにでもいる 

ことばにならない感情は ことばのなかで薄れ 論理は空を切る 

政治家だけでなく 音楽家でも生きかたはおなじ 審査で選ばれ賞をもらうのは いっときの餌付け 話題になり 飽きられるまでおなじ芸をくりかえし やがて忘れられる スターやタレントになってしまえば 周囲に人が集まって うごけなくなっていく 自信たっぷりに上から目線で物を言い 立ち去った後に笑われる

短く書こうとするとアフォリズムになりやすい 気のきいたことばは疑わしい あざやかなイメージやたとえをふり捨てる「かるみ」は 一瞬の幻か

夜のバスに乗る(9)修学旅行のスナップ写真のように

植松眞人

 小湊さんと渡辺先生と犬井さんと僕を乗せた路線バスは、湘南の海が見渡せる駐車場に停まっている。江ノ島が右手にあることが、道路の街灯でぼんやりとわかる。目の前に広がっている海は、夜の暗い空間の中で、ただうねっていて深さばかりで広さがわからない。
 僕たちはバスを降りて、薄暗い中を歩く。防波堤の上を注意深く歩く。僕たちのゆっくりとした歩幅に合わすかのように、少しずつ少しずつ真っ暗だった夜が、朝へと歩いていく。黒く深かった海が、青黒く広がりを持つ海へと変化していく。
 小湊さんが防波堤の上に腰を下ろす。それを合図にするかのように、渡辺先生も犬井さんも、そして僕も腰を下ろした。まだ春までは時間がある。そう思うと、今こそ修学旅行にふさわしい季節のように思えてくるのだった。みんながどんな気持ちでいまこの防波堤の上に座っているのかはわからない。だけど、きっと真面目な人たちばかりが集まって、時間通りにバスを車庫に返す計画に抜かりはないだろう。時計なんて見なくても、まだ時間はある。
「ねえ、先生」
 小湊さんが渡辺先生に声をかける。先生は海を眺めたまま、なんだ、と返事をする。
「もっと感動するかと思ってた」
 先生は海を眺めたまま笑う。
「こんなもんかあって、正直思った」
 小湊さんが言うと、犬井さんがこらえきれなかったように笑う。つられて渡辺先生も僕も笑い出す。
 僕は一人、防波堤を降りて、砂浜から渡辺先生と小湊さんと犬井さんを見上げる。小湊さんと犬井さんの間に、さっきまで僕が座っていた空間がぽっかり空いているけれど、そこには確かに僕が座っている。
 まだ、日の出までに時間があるので、辺りは暗い。
 そんな曖昧な輪郭の中で、防波堤に座る渡辺先生と小湊さんと犬井さんを見ていると、まるで修学旅行のスナップ写真が一枚、夜と朝の間に置かれているようだ、と僕には思えるのだった。(了)

断食月と王宮とガムラン

冨岡三智

今年は6月18日からイスラムの断食が始まっている。日出前から日没まで飲食を絶ち、厳しく戒律を守る人は唾さえ呑み込まずに、身を慎んで過ごすことになる。

ジャワの王宮では断食月の1ヶ月間は楽器を鳴らすことが許されず、ガムラン音楽や舞踊の練習は休みになる。その間に楽器を洗い清めるのだ。話は古くなるけれど、2006年の断食期間中の10月9日、マンクヌガラン王宮での「キヤイ・ウダン・アルム(香りの雨)」、「キヤイ・ウダン・アセ(慈しみの雨)」という銘の一対のガムラン楽器セットのお清めに居合わせた。キヤイというイスラム聖人にもつく尊称が銘につけられているのは、これらの楽器に魂が込められていることを示している。そのため、きちんとお供えを用意し、楽器を清めるのをお許しくださいというお祈りをして、そのお供えを皆で食べてからお清めに取りかかる。王宮にはガムランセットが数多くあるので、毎年少しずつ順番に洗っていく。この「香りの雨」と「慈しみの雨」の2セットも、当初は翌年の予定が、急遽その年になったということだった。この2セットは王宮らしい豪華なセットで、サロンと呼ばれる楽器の数が通常のセットより多い、ということは演奏するのにより多くの人手を必要とするため、なかなか演奏に使われることがない。これらのセットを私が目にしたのは、2000年、2001年のマンクヌゴロ王の即位記念日で「ブドヨ・スルヨスミラット」が上演された時が初めてだったのだが、それからこの時(2006年)まで使っていないと言っていた。この作業をするのに集まっていたのは、パカルティPAKARTIと呼ばれる同王宮の夜のガムラン練習に参加しているおじさんたちだった。私もパカルティに参加していたけれど、断食月に入って練習がなくなると王宮に行かないので、このおじさんたちが練習がないときも陰で王宮の活動を支えていることに、このとき初めて気がついた。

断食開始21日目の前夜には、スラカルタ王宮からスリウェダリ公園まで行列が出る。この行事をマラム・スリクランという。大量の供物、王族、王宮兵士、チョロバレン(王宮の儀礼ガムラン音楽)の後ろに様々な団体がイスラムのお祈りの歌などを歌いながら続いていく。1996、1997年に見たときには、列の最後尾にレオッグ(東ジャワの民間芸能、巨大な獅子の面を被る)が続いていたけれど、2000年以降に再留学したときには獅子はもういなかった。スリウェダリ公園に着くとイスラムのお祈りがあり、その後に参加者や見物客に供物が配られる。この行列は、コーランの最初の啓示が下った日を祝うために行われている。厳密に言えば、最初の啓示が下った夜(ライラトルカドル、みいつの夜と呼ばれる)はラマダーン月(断食の月)の最後の10日間の奇数日のどれかで、何日なのかは分かっていないらしいが…。この日を境に、あちこちでパサール・マラム(夜市)が立ち、断食明けに向けて浮き浮きとした気分が町に漂い、王宮以外の夜のガムラン練習も再開することが多い。

断食月の最中にマンクヌガラン王宮でカセットテープを使った観光客向けの舞踊上演を見たことがある。このことは2004年7月号の「水牛」にも書いている。このとき、観光客には、ジャワの王宮では断食月の1ヶ月間はガムランの音を出してはいけないことになっているという事情を説明した上で、舞踊上演があったのだが、ガムランの音を出してはいけないというなら、たぶんカセットでもだめなのではなかろうか?と、ふと思う。チャーター料金は生演奏の場合とで違っていたのだろうか、とか、断食月だからチャーターに応じられないという選択肢はなかったのだろうか、などと思いはいろいろあったのだが、それはともかく、断食中はガムランの生音を出さないということを厳密にやっているのは王宮しかないと言って良いだろう。芸大では当然断食期間中でも授業はあるので、普段と変わらずガムラン楽器は鳴り響いている。また、私は断食明けに2回大きな舞踊公演をしたことがあるが、実は断食期間中に公演の練習をすることは喜ばれる。というのも、断食期間中は結婚式演奏などの仕事が入らないためで、芸術家は暇になるからなのだ。私が踊り手として参加したある大きな公演では、練習がいつも夕方3時頃から始まり、6時日没に終わって、皆でブカ・プアサという流れだった。夕方に練習するのは体力的にきついように思うが、皆で断食明けを共にするという喜びの方が大きいようである。

とうわけで、この断食月、ジャワの王宮では静かな時間が流れている…。