『名井島の雛歌』から〜言語系アンドロイドのための〜

時里二郎

 《じょのうた》 序の歌

ねえさんも
にいさんも
どこへいった

ないしまの
ひとり わたしの
ひなのうた

 《ねえさんのあかいこのみ》

ねえさんの赤い木の実
小さな神さんの口許に見えた
ねんさんの声のみぎわに
キツネの尻尾 
風のねどこを探して
にいさんの声だ
金のやさしい光のなみ
兄沼(せぬま)からやってきたにいさん
いい匂いのする物語を播いて
島にないものを
おしえてくれた

ちいさな神さんが
聞き耳をたてている

 《いぬたにほうと》

いぬたにほうと あかりがひとつ
さるのあめふり やまふたつ
いかりのきとの あらいきみっつ
ねこのぬけみち よつのつじ
うまがれのいえ かぞえていつつ
むつになるこが うしひきはじめ
ななつざか きつねみたにじ つぎはぎのきぬ
ゆうやけかかし かぞえてやっつ 
ここのかうまし つきのとじ
とおをかぞえて ないしょ ないしま うそをふく

犬田にほうと 灯りがひとつ
猿の雨降り 山ふたつ
猪狩りの帰途の 荒息みっつ
猫の抜け道 四つの辻
馬枯れの家 数えて五つ
六つになる子は 牛曳きはじめ
七つ坂 狐見た虹 継ぎはぎの衣
夕焼け案山子 数えて八つ  
ここの香うまし 月の杜氏
十を数えて 内緒 名井島 鷽を吹く

海老名に行ったことなど

大野晋

人間ドックのあと、午後に時間ができたので最近話題になっている海老名市立中央図書館まで出かけた。なにかとお騒がせの、ツタヤを展開するCCCが指定管理者になった公立図書館の東日本一号店だ。

着いて驚くのは都会の大型書店のようなド派手なエントランスで、3階までの吹き抜けになっているらしい。その壁に本がディスプレイされており、その真ん中に雑誌や文具類が平積みされている。平積みされている雑誌類はツタヤ書店の売り物らしく、まず、入った途端にどこから図書館が始まるのかがわからない。また、1階の半分はコーヒー店になっており、館内の掲示ではどの階に持っていって飲んでも食べてもいいことになっているらしい。安いブックレットや雑誌ならまだしも、数千円、数万円もするような発行部数が数百部しかない書籍を濡らしたり、汚したりするのはまずいだろうと、まず最初に、おぼつかない足取りでコーヒーを運ぶ初老の女性の姿を見て、違和感を覚えた。

図書館を探しにほぼ全面を店舗に占領された1階から上の階に上がろうとすると、どこから上がればいいのか困ってしまう。階層移動のための手段の位置がわからないのだ。見回しているうちに吹き抜けの横に階段を見つけたのだが、ユニバーサルデザインが求められるパブリックスペースにはあり得ない状況になっているらしい。

2階、3階は図書館らしいのだけど、店舗デザインはなかなか秀逸になっていて、かっこいいと思えるようになっている。ただし、壁に沿って天井まで延びる書棚上部はどう見ても手が届く状況ではなく、そこに棚のテーマとは異なる文学全集や図鑑などの豪華本が並べられているのが、違和感を漂わせる。要は上部の本はお飾りの扱いらしい。どうしても、棚全体を見て、上部の珍しい本に興味を持つ私などにとっては、このわざとらしい演出が白々しく見える。ジャンルの異なる部屋に少年文学全集を見つけて、全部を降ろして目次を見せてくれと言おうかと思ったが今回は自重した。

ネットで有名になった不可思議な配架はずいぶんと修正されたとおぼしい感じだったけれど、図鑑が図鑑として分類されて並んでいないなど、本棚が依然としてカオス状態にあるように見えた。また、貴重書など、通常は禁貸出となるべき書籍にシールなどでマークされておらず、紛失が怖いなあと思ってみていたが、後でネット検索で禁貸出の表示が着いていたことからも、本へのマーキングなども遅れているらしい。地階の文学書のコーナーにも行ってみたけれど、以前は地下書庫として閉架式の書庫だったと思われる広い空間はここも天井までの本棚が据え付けられていた。ただし、最上段付近の棚には実物の本ではなく、背表紙だけのダミー本が置かれており、空間自体の偽物感を漂わせる。

結局のところ、海老名ツタヤ図書館は図書館の本と空間を使った書店と喫茶室であり、本は飾りものか、汚れてもいい使い捨ての消費物扱いを受けている図書館とは呼べないものらしいとの印象を受けた。

ライフスタイル分類と言い訳のように名付けられた分類にしても、おそらくは丸の内の丸善にあった松丸本舗の猿真似をしようとしたものだと感じた。ただし、松丸は松岡正剛氏の系統知に基づく推薦リストなのに対して、決して知識領域を代表するとは思えない書籍をまぜこぜにしてしまったことで、知のリンク感を演出するどころか、カオス感が充満する結果になってしっまったのだろうと推論する。まず、その前に、松丸は正当分類の棚を丸善が持っていることを前提としたインデックスであるのに対して、インデックスを持たずに書棚全体を混ぜてしまったことが間違っているのだと思う

まあ、海老名ツタヤ図書館は、結局、ハリボテなんだろうなという感慨だけが残った。海老名市民の共有資産のはずだけれど、あと5年もすればぼろぼろの書棚になっていそうな予感がする。

ところで話は変わるが、TPP基本合意のニュースは突然だった。直前の会議ではぎりぎりの時点で決裂していたので、ある意味では楽観的にみていた部分もあり、それで驚いたという面もある。

驚いたからと言うこともないのだが、先月の水牛の原稿は落としたという認識もないまま、私の中では忙しさの中に埋没していた。個人的なメール全体が見られることなく放置されていたので、TPPの青空文庫のメッセージとともに私へのメッセージは後にWebで見ることになる。

さて、基本合意を受けて、事前に伝えられていたように、著作権の保護期間は70年に延長されることが参加国の方針になった。これから、国内法制度の整備が行われることだろう。この点について、青空文庫の名前で出されたメッセージは単なる批判になることなく、非常にバランス感覚に優れたコメントだと感じた。

石川欽一の著作引き継ぎの依頼はいつものように快諾した。青空文庫の入力作業に関して、いろいろなタイプがあると思うが、私は入力できそうな作家が見つかると資料の収集と確認といった作業から始めることにしている。このため、入力の登録をする頃には、手元には多くの資料が集まることになる。だがしかし、決してこの作業はタダでも、即席でできる作業でもない。そこで、ある程度の資料が集まって、準備ができた段階で登録をすることにしている。そうは言っても、仕事が忙しいので、すぐに着手できるものではなく、リストに残しながらぽちぽちと作業を進めることにしている。まあ、世の中には私よりも作業が早い人も多いので、この時点で引継に手を挙げてくれる人がいれば喜んで引き継ぐようにしている。それもこれも、私にとって楽しい作業は、作家や著作を見つけて、それの入力を準備する段階だからかもしれない。普段、あまり目に触れることの少ない作家について、調べるのは入力するよりも知的好奇心が刺激される。

このところの報道ではいつの間にやら、TPPの基本合意を受けて青空文庫が潰れるらしい。少なくとも、20年著作権の保護期間が延びると、青空文庫には登録できる新規の著作がなくなると言われている。あまり、最近は熱心な工作員ではないが、少なくとも私にはそんなことがないことくらいは分かる。少なくとも、私の手元には入力しきれないくらいの著作権保護期限の切れた著作リストが存在するし、青空文庫のバックログだけ見ても、校正待ちのリストが長く続いている。これを片づけるだけでもかなりの時間が必要になるのだから、新しい作品が登録されなくなることはまずないだろうことが容易に想像できるだろう。すでに著作権の切れた著作物を対象に作業を進めるだけでも、最低20年は有に必要だと思う。

ここ数年、正月に新しく保護期限切れを迎える著作物の公開を行ってきているが、ある意味、活動のPRの目的が強いので新規の著者の追加がなくなったとしても本質的な問題はないだろう。常に新しい著者は追加されている。

一方、問題となるのはいわゆる孤児著作物と保護期間が20年延びることで忘れ去られる著者が増えることだと思っている。50年の現在でも、一部の有名作家以外の著者のプロフィールを調べるのは苦労することも多い。実を言うと、数年前に出版された著作物の著者でも行方不明になることがある。これが1世代は確実に超えてしまう死後70年ではどこの誰かもわからなくなり、生きているのか、死んでいるのかも不明になるケースがとても多くなることが想像できる。一部の有名著作権者の利益は守れるが、絶対的多数のそれ以外の著作権者の権利を損なうのが長期にわたる著作権保護なのである。しかも、一度連絡先の分からなくなった著者に関してはほとんどの場合、権利者の許諾が容易にとれないことから、その後、その著作権が活用されることがなくなってしまう。実は著作権法は著作権者にとっては両刃の剣となる。青空文庫の入力の調査の中で、たくさんの著者が分からなくなった著作を見るにつけ、死蔵される著作物の多さに驚いている。実は、20年延びる問題の前に、現状でも保護期間の切れる時期すら分からない著作物が多いのだ。

もちろん、映像などに利用する場合には、それ相応の経費をかけて著作権者を探すだろうが、まず、著作物の入手が難しくなっている状態では映像作家の目に留まるかどうかすら怪しいものだ。少なくとも、著作がすでに商業ベースに乗らなくなっている著者については、映像などの権利は留保した上で、著作の配信権などを解除することができないか?と考えている。

いま、多くの著者の著作物は人の目に触れる機会もない状態に置かれている。たとえ文学館で取り上げられたとしても、その文学館で紹介されている著作自体が流通どころか、通常の図書館でも入手できないケースも多く、文学館の目的が著者の本の出版だということもあるそうだ。一方で、インターネットの普及は管理されない多くの無償著作物を生み続けている。TPPの締結による著作権の見直しが新しい時代の著作権のあり方に生かされることを望んでいる。

さて、海老名のツタヤ図書館で、実は私は三島由紀夫もその師匠の川端康成も棚で見つけることができなかった。全国にツタヤ図書館が広がると、意外に早く、三島も川端も忘れ去られる日がやってくるのかもしれないな、と思いながら、その日の帰路についたのだった。

鉱石を買う

璃葉

鉱石というものに、漠然と興味があった。
河原で拾った石を持ち帰り、冷水で泥を落とすと、小さく細々した、白く濁った結晶が生えていることに気付く。
骨の塊のようなこの石が、石英という日本で一番多く取れる鉱物であることを知ったのはずいぶん前のこと。
石を眺めたりスケッチする日がしばらく続く。
街の書店へ行くときも 必ず地学のコーナーに寄る癖がついた。鉱物の図鑑や歴史の本を立ち読みしては、絵を描くときに印象に残った色を思い出す。それはとても楽しいひと時だ。
先日思い立って、鉱石の店舗兼研究所を見にいくことにした。
ほんのちょっと電車に揺られて、駅から大通りに出る。横断歩道を渡り、昼時の静かな住宅街に続く小道をしばらく歩いていると、予想以上に民家な雰囲気の研究所があらわれる。中の様子はまったく見えない。正直、ものすごく入りづらかった。
でもせっかくここまで来たのだから、入りなさいよ、と自分を納得させ、ドアを開ける。

狭い一室だった。独特なにおいが立ち込めている。宝石研磨機や、ガラス瓶、顕微鏡、ダンボールの山。作業スペース。
壁に沿って設置されているガラスケース。中には色とりどりの鉱石が並べられ、ケースの下には底の浅い木製の引き出しがいくつもあり、その中にも石たちはたくさんいた。
目の前に突然、世界中で採掘された石が並んでいる。世界の岩石の一部分。少し大げさだけれど、そういうことだ。
思考を整理できないまま端から端まで、じっくりと観察する。
その場にいたスタッフは1人だけ。わたしがいることを全く気にかけていないようで、少し挨拶をしたあと、作業に没頭しはじめる。
たまに奥の部屋から声がきこえた。もう1人いるのだろうか。出てくる気配はなかった。

引き出しを開けると、長方形の小箱ひとつひとつに鉱石が入っていて、石の名前・種類・採掘地・硬度・重度・屈折率・値段などが書かれたカードが石の下に敷いてある。
価格の振り幅は相当大きい。古本屋で働いていたことがあるので、その幅の大きさにはなんとなく親近感を覚えた。
反対の壁側には鉱物に関しての書籍や1つ500円の石たち、Freeと箱に書かれたタダの水晶のかけらなど。
500円以下の石はたいへん雑な扱い方をされていて、種類別にシューズボックスのふたのような浅い箱にごろごろと散らばっていた。
砂利も混じっている。きっと、全く珍しくないのだろう。
目を通していくと、蛍石/メキシコ/1P500円と書いてあるものが目に留まる。全体的に緑っぽく角張った石だ。
わたしはこの石が欲しくなった。
「どれでも500円だから、大きいものを選んだ方が良いかも」とスタッフの方は冗談交じりに言う。
知識がないわたしは、単純にかたちが気に入るものを探した。
触ったり、光に当ててみたり、自分の家に置くイメージをして、しっくりきた蛍石を買うことに決めた。
底に岩肌がくっついていて、白い層から少し紫がかっていき、上の方はエメラルドグリーンになっている。
手のひら中央の窪みにすっぽりと収まるぐらいの大きさ。
ミニチュアの氷山みたいだった。

山みたいなかたちの岩、とたとえていた小さな男の子の姿が浮かぶ。
そういえば、チビの頃のわたしはすでに岩石に惹かれていたのではないか。
わたしが住んでいた家の基礎の下、盛土を固めていたのは、岩のような大きさの砕石だった。
そこは絶好の遊び場だった。岩と岩のあいだは隙間だらけで、たまにトカゲやヘビがぬっと出てくる。
その場所で近所の子らと、数えきれないほどの遊びを生み出した。
よじ登って座れる場所がいくつもあり、わたしにとってのお気に入りの岩石があった。
兄姉だけでなく、友達にもそれがあったとおもう。よく場所の取り合いで喧嘩した。
近所の女の子と、この中だったらどの石が好きか、どの色が好きか、とよく話していた気がする。
それは子供の頃交わされた、ごく自然な会話だ。
懐かしい感覚がすぐそばにやってくる。
その頃から石に表情があることを無意識に知っていたのかもしれない。

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132 遺さない言葉(3)経蔵

藤井貞和

手の火をかざして、
読もう。 蔵にはいろう、
祈ろう。 どんなに、
ちいさな字で。 どんなに、
誤りで。 「不明、また、
明暗。 わたしの不明」と、
霊窟のおく。 しずくの墨して、
抵抗して。 「てのひを、
かざして。 発生の、
字づら」。 読もう、
終りを。 読もう、
苦悶の。 あとを……
てしまおう。 低音部、
接続助詞。 が燃え、
分詞に。 つらなり、
きみ。 ……てしまおう、
ていこうや。 かこぶんし、
ていおんぶ。 ……ているとき、
きみ乱れ。 きみ乱れて消す精神(こころ)、
筒よ。 出でよ、塚よ。 裂けて、
霜のそこ。 二列、
終り。 霜が割れる亀裂、
霊(たま)朽ち。 経箱のふち、
どうどう。 声のみのこる、
……てしまう。 あなたはだれ。

(「環境委員に寄付・報酬/移設影響監視4人 業者側から」〈朝日10月19日〉。「受注業者、チェック役の運営も受注」〈同、20日〉。ええと、「くされがくしゃ」という語を使っていたのは平賀源内さん。こんどはどんな語で怒る? 言葉を遺すな、源内さん。地震、ない。つなみ、ない。火山、ない。自然にうちがわから腐れ、崩壊することでしょう、きみたちのふるさと。)

製本かい摘みましては(114)

四釜裕子

チリ南部、西パタゴニアの海底で真珠貝のボタンが見つかった。錆びた鉄道のレールに、はりついている。1973年から17年間のピノチェト独裁政治のもと、「行方不明」とされた反体制の人たちの衣服に渡り文明化を試された先住民の若者がいた。一年後にチリに戻されると、すぐに衣服のすべてを脱いだという。映画『真珠のボタン』である。劇場から家に戻って、集めるでもなくたくさん集まったボタンを入れた小箱を出してみる。黙って母の裁縫箱から持ち出した小さな貝ボタンが最初の一個だった。綺麗だった。糸を通してブレスレット(腕輪と言ってたと思うけど)にした。あの日あの時なにか事件に巻き込まれてあのまま海に沈んでいたら、今頃ボタン一つきり浮かんだだろうか。

洋服のボタン穴というのは、ボタンの直径程度に布地に切れ目を入れ、ほつれないように糸でクルクルかがって作る。隙間がなくて針目が揃うほどきれいで丈夫。もうずいぶんやっていないけれども、かがり始めは調子が出なくて、慣れてきたなと思うころにはひと穴終わるという繰り返し。中学校の技術家庭で、綿のパジャマを課題に習ったのだと思う。学校でひとつかふたつ、あとは宿題。たいてい誰もが当たり前のように母親に頼んだ。今にして思えば、先生がいちばん助かっていたのではないだろうか。今はどうなんだろう。ボタン付きのパジャマなんて縫うんだろうか。二十歳前後の知人に聞いてみたら「ボタンホール」という言葉自体に「?」だったり、学校で習ったとか自分で作ったことのあるひとはなく、糸でかがってあるのがわかってもそれはミシンがやることで、ひと針ひと針自分で縫うなんて考えもしないようだ。おもしろかったのは、「穴あけポンチを使えばいいじゃないですか。念のため、縁にボンドを塗って」と言うひとがいたこと。なるほど。

ある製本講座で「ボタンホールステッチ製本」をするにあたって事前に聞いてみたのだった。ボタン穴かがりと似た針運びで本文紙と表紙カバーを合体するのだが、”ボタンホールステッチ”と聞くだけでおおよそかがり方の想像がつくというのは小数派かもしれないと思ったからだ。当日集まった参加者のうち、二十代の数人はボタンホールを知らなかった。それよりおとなのひとは「昔やったわね、でも忘れた」と言いつつも、手を動かすうちに思い出してくるようで、爪先を使って糸の並びを整えるひともいた。ほら、見てごらん、この手つき。若いひとに声をかける。「へぇ。すごい。ところでこれのどこがボタンホールなんですか?」。そうだよね、見当がつかないよね。布に小さく切れ目を入れて、この向きでかがっていきます。あなたのシャツのボタン穴と見比べながら、あとで自分でやってみてください。「えーっと……ボタン穴は……いいです」。隣りで年配の人が、「わざわざそんなことやらないわよねぇ」。向かいの人は、「お裁縫をやらなくなったけれども、こんな風に製本に役立つとはねぇ。手ってけっこう覚えているのね」。まったくだ。頭にはなにも残ってないのに体が動くことってある。いったい体の中の何が、誰が、どう覚えているというのだろう。

しもた屋之噺(166)

杉山洋一

庭のつる草は一気に紅葉し、日一日ごとに風景が変化してゆきます。今年は秋の訪れも、深い霧が立つのも例年より早く感じられます。息子が午後からリハーサルなので、正午ごろ小学校に迎えにゆき、厳めしい正面玄関を入ってだだ広いホールで息子を待っていると、壁に嵌め込まれた石碑に目が留まりました。

「ナザリオ・サウロ」海軍大尉 潜水艦プルリーノ搭乗
出生地 カポディストリア(現スロヴェニア領コペル)

オーストリア帝国への戦争布告より間も無く、自らの出生地を自らの手で勝取り、かの地のイタリア奪還の渇求に遵い、自身の熱意と勇気、能力を捧げるべく、我々の旗の下へ志願した。
身の危険は明白だったにも関わらず、数多くの困難なる海軍任務に果敢に参加し、実践的地理の知識と、常に弛まぬ剛毅、怯まぬ魂を見せ、危険を顧みず目覚しい活躍を為し遂げた。
後に投獄され、彼を待ち受ける運命が詳らかになっても、最期の瞬間まで驚くほど沈着な態度を崩さず、死刑執行人を前に繰返し力強く「イタリア万歳」の雄叫びを上げた。祖国への最も高邁な愛の無比の規範として、真に高貴なる魂を放った。

アルト・アドリアティコ
1915年5月23日から1916年8月10日

ファシスト時代のレスピーギやカセルラを敬遠するイタリア人は未だにいるのに比べ、彼らより余程ファシズムに浸かっていたダヌンツィオはそこまで煙たがられないのが不思議でした。

ムッソリーニ時代のファシズム建築も、イタリア人に愛され生活に溶け込んでいます。かく云う自分も、ファシズムは嫌悪しますが街頭で独特のファシズム建築を見かけると目を奪われます。ミラノの中央駅などその筆頭ですけれども、ファシズムの意向が反映されていても、別物だと考えています。息子が通う市立ナザリオ・サウロ小学校も、少し厳めしい造りの典型的ファシズム建築で、30年代に建てられました。

ナザリオ・サウロは民族統一運動に於いて、現スロヴァニア領イストリアをオーストリア・ハンガリー帝国軍から奪還すべく闘ったイタリア王国海軍の英雄で、1916年7月31日未明にヴェネチアからフィウーメに向かう途中、載っていたプルリーノ号が座礁し、夜明けに自力で船でイタリアを目指したものの、オーストリア・ハンガリー軍に捕まり、軍法会議で反逆罪により処刑されました。
彼は当時オーストリア領イストリア生まれで、本来オーストリア・ハンガリー帝国軍に加わりイタリアと闘うべき立場にありました。
碑文の最後の日付はそれぞれ、イタリアがロンドン条約後、連合国軍に加わりオーストリア・ハンガリーに宣戦布告した日と、サウロが絞首刑に処された日付けです。

ファシズム時代、イタリアは第二次民族統一運動と称し、エチオピアやアルバニア、クロアチア、ギリシャなどを次々と占領し併合したので、国威発揚として20年ほど前に斃れた第一次民族統一運動の英雄の名が小学校に冠されたのは、想像に難くありません。尤も、碑文に興味を持つ人など皆無で、石碑は磨かれるどころか、無神経に無数に貼紙でもしてあったらしく、日焼けしたテープの剥がした跡が散見されるのが印象的でした。
この100年前の碑文が妙に身近に感じられるような、えも言われぬ当惑をどう表現したものかと考え込んでしまいました。

 ・・・

 10月某日 自宅
悠治さん曰く、先月神戸できいたセイシャスの面白さは、ソレルやスカルラッティのように校訂されていないところだと云う。校訂は様々な矛盾を解決させて補完する作業だから、どんな善意を持って校訂をしても妙に整理されてしまうのは仕方がない。

先日録音したガスリーニの手稿にも、ほぼ間違いないと思われる書き損じも幾つかあったが、ツェルボーニのBは一切、手を加えてはいけないと繰返した。間違いとして認識した上で、楽譜を変更すべきかどうか。シューベルトの矛盾だらけのアーティキュレーションを思い出した。
インターネットで、悠治さんが昔弾いたショパンのバラード4番を聴く。声部が分離していて、こよりが生まれないので、和音が充分に空間を満たす。饒舌だが吶々とした印象。流れがあって流れない。バラードがマズルカのように響く。最後に拍手が入っていて、演奏会の実況録音と知る。

 10月某日 自宅
ドナトーニのCDが昨年度アマデウス誌のベストCDに選ばれたねと、ソルビアティからメールが届く。彼から頼まれた2月のミラノの国立音楽院オーケストラのプログラムは、「火の鳥」とドナトーニの「In Cauda IV “Fire”」になった。「火」というテーマで揃えると云う。「火の鳥」のどの版を使うか少し悩んで、結局19年版とする。11年版の方が好だが、学生も弾くし平板な方が良いだろう。

45年版は特にフィナーレ最後の金管群の音型が有名だが、11年版と19年版を比較すると、19年版の一等最初の冒頭の木管群からして、元来スタッカートだった部分を丁寧に休符に書き換え、自動的に輪郭が浮き上がるよう留意してある。
25年に録音された彼自身の指揮による演奏では、19年版を使用していながら、フィナーレの金管群は45年版のように切らせている。

作曲家の意識していた音楽を実現するのが正しい演奏法だとすれば、音は区切るべきだろうが、子供の頃から刷り込まれてきた印象が強すぎて、どうもしっくりこない。こういう場合、何を基準に演奏するのが誠実な演奏法なのだろう。
楽譜を読み込めば変ってくるに違いないが、作曲者だって長年生きていれば趣味は変る、とか余計な如何わしい思いが頭を擡げるのがいけない。
自分が責任を持てるだけの勉強をして、その責を全うすればよい、と言うは易し。

ドナトーニの「Fire」は、「Esa」の下敷きになった作品だから、楽譜のあちこちに「Esa」の断片が散見されて胸が苦しくなる。今読み返すと「Prom」で殴り書きされた判読不可能の和音の幾つかは、「Fire」の引用に見えなくもなくて、切なさが募る
彼自身が完成させた最後のオーケストラ作品が「Fire」で、ショパンの葬送行進曲の引用で終る。人生の最後を一切高揚させず、インベーダーゲームのGame Overの電子音のように、諧謔的に死を見つめる達観した人生観。

 10月某日 自宅
愚息が今月劇場の児童合唱で忙しいので、小学校の先生たちからきつく勉強のサポートをするように仰せつかる。先昨日、早朝五時から宿題をみる。星はガスが燃えていると説明しても、自分で説明させると、星は岩で出来ていて太陽の力で燃えていると繰返す。ドリル方式ではなく、全て質疑応答なので、自分の言葉で説明しなければならない。
家が電磁調理器なので、ガスで火がつくイメージが湧かないらしい。火を灯したろうそくをたずさえ暗がりの庭に出て、揺らぐ炎を家の中から眺めてもらい「これが星みたいなもの」と言うと、少し納得する。物質を燃やして光と熱を出す。真っ暗な中で光を発する様子は分かり易いし触れば熱い。

別の宿題。古代ギリシャの神殿にはご神体に加えて、街の有力人物の「灰」が金箱に詰められ置かれていた、という記述。イタリア語で「灰」は同時に「遺灰」を表す。
話していて、先ず物質を燃やすと灰になるという感覚が息子にないことに愕く。庭で落ち葉かきをしても焚き火はいけないので、それを燃やしたらどうなると思うか尋ねても、枝が残るくらいの想像しかできない。灰になるという発想自体が皆無なので、日本語でもイタリア語でも「灰」の言葉がわからない。

暖炉の火に薪をくべたらどうなるかと尋ねると、炭になると云う。それではその炭をもっと燃やしたらどうなるかと聞くと、火が弱くなるから新しい薪をくべるので、見えないから分からないと云う。尤もな意見ではある。子供の頃、落ち葉かきの後で、一斗缶で焚き火をした残灰で作る焼芋が楽しみだったので、炭状の木片など早く燃え尽きてと思いながら眺めていた。

人を燃やすと骨が残り、もっと燃やせばそれも粉状になる。それがこの場合の灰。
古代ギリシャは多神教で、永遠の魂も輪廻転生も我々の仏教などと同じように信じていた。遺体を物質的に変化させて灰に出来るのは、お前が生れ変わった時に別の生物か別の人間になるからさ。
一神教のキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、どれも同じ宗教から生まれた兄弟みたいなものだが、死んで暫く経つと元の身体に戻って生き返って最後の審判を受けなければいけない。亡骸を灰にしてしまうと生き返る先がなくなるから持っての外ということになる。
周りはキリスト教かイスラム教の友達ばかりだから、遺灰を金箱に詰める行為が、今の彼らにとって特殊な習慣だと理解しなければいけないよ。

 10月某日 自宅
昼にセレーナに会ったとき、彼女のヴァイオリンの生徒でルーマニアの男の子の話を聞く。父親はトラック運転手、母親は事務所の清掃婦という家庭で育ち、中学一年生。先日も新しく貸したヴァイオリンを、翌週にはすっかり壊してレッスンに持ってきたと云う。何でもソファーの上に置いていて、弟が間違って坐ってしまったらしい。今まで弓も何本折ったか数え切れない程で、一番安いカーボン弓しか買わないことになった。

ただ、音楽の才能は豊かで、夏になると親の帰郷で一緒にブカレストに戻り、向こうの流しの音楽家に長らく伝統音楽も習っている。耳にしたものはさらりと弾けるが、作品を掘下げるのは苦手で譜読みも遅い。
「なんかね、どうしようもないの」と彼女は笑う。
ルーマニア人には独特の音楽の才能があるとセレーナは力説した。彼女もずっとルーマニア人のヴァイオリンニストに習って居たので、良く分かるそうだ。

同じラテン民族だけれど、イタリア人とルーマニア人で文化的DNAの共通項はあるかと尋ねると、全くないと即答した。

 10月某日 自宅
洗面所で水を流すと、しばしば「Papà」と息子の声が聴こえる気がする。今は階下で寝ているのでどうもしないが、独りのときこの空耳が聴くと、どきりとする。

先日会ったとき、CがブルックナーはAutoglorificazione だから嫌いと云っていたのが妙に反芻される。西洋音楽、少なくともクラシック音楽はどれもAutoglorificazione ではないかと無意識に脳裏のどこかが反駁する。云ってしまえば西洋の宗教も、総じてautoglorificazione ではないか。

ミラノに住み始めて20年間、常に薄く感じ続けてきた、少し居心地の悪い感じを表す言葉は、正にこれだった、と日記に書こうとして、日本語の訳語が思いつかない。英語でも仏語でも伊語でも西語でも、居心地の悪さは等しく分かるけれど、日本語で言い換えられない。我々に欠けた皮膚感覚。欠如しているから居心地が悪いのだろう。今や理解は出来るのは、20年の生活で体内に蓄積された経験が理解させる後天的知識ゆえ。
Glorificazioneの訳語は「賛美」とか「至福」だから、直訳すれば「自己賛美」とか「自己賞賛」となる筈だが、居心地の悪さとは何かが違う。「燦燦と輝く自己高揚感」に近いが、もう少し「自己崇拝」に近い、官能的な響き。

昨晩、ネッティ作品を聴きに聖マウリツィオ教会に自転車を走らせる。
祭壇の少し上にアラベスク文様の透し窓があって、その少し上から天井までは壁はすっぽり抜けていて、あちら側の部屋の天井画が犇く姿が垣間見える。果たして祭壇の裏には極めて美しく装飾された空間が広がっていて、合唱席になっている。
その昔、透し窓の向うから聴こえる合唱に信者は何を思い、透し窓のこちらで歌う歌手や神父は何を思ったか。「告解」つまり懺悔と同じく、矛盾や虚を互いに見ない。かかる暗黙の了解がなければ、宗教は成立しようがない。
その一線を自ら踏み越えられるかどうかで、宗教心は測られるのか。

兎も角その天上のような空間で、内省的なネッティを聴く。街頭の騒音が影のように遠く、透かし窓の向こうから幽かに聞こえる。特殊奏法だけで書かれた禁欲的な音楽に、この空間でじっと耳を傾けていると何とも云えない気分になった。何故か立ち昇る怪しげな宗教的匂い。

 10月某日 自宅
アメリカ人留学生たちをキリスト教大で教えた後、机に向かって大石君の為サックス作品の素材を作っていると、どこか後ろめたいような心地がするのは、彼女たちが余りに素直だからか。

夜半の墓地のブルース。黒人霊歌が少しずつ奈落の底に落ち、宙に浮かんでいた無数の物質は少しずつ姿を顕わにする。

(10月30日 ミラノにて)

ジム子の受難とデモクラシー

さとうまき

我々の団体のゆるキャラがジム子ちゃんだ。ロゴマークにもなっている看護師さん。この看護師の絵は、2002年に私がイラクに行ったときに、バグダッドの子どもセンターにはってあったものから使わせてもらった。

ちょうどその時、サダム・フセイン大統領の信任投票があった。子どもたちは、選挙投票のキャンペーンなのか、偉大なる、リーダーにYES! といった絵を描かされていた。左からイラクのおばさんと看護師さん、兵隊さんが、YESと書かれた紙を持って投票しているという絵。

中東のデモクラシーは、独裁者の支持率ではかるそうだ。この時、サダム・フセインは100%の支持率だった。ちなみに、シリアのハーフェズ・アサド(現大統領の父)は、5期にわたり信任投票を経たが、いずれも99%台で、最高が99.98%を記録したものの、サダムには及ばない。息子のバッシャールに至っては、2度の信任投票で97%台。内戦が激化した2014年の選挙では、3人の候補者になったために89%の得票率になった。いかにサダム・フセインの独裁度が高いかである。

さて、2003年4月、アメリカの軍事作戦が開始され、サダム政権が崩壊した直後、バグダッドを再訪した。子どもセンターの壁に会った絵は、はがされ、燃やされていた。あれだけ一生けん命描いたのに。子どもの気持ちは複雑だろう。もう、サダムもいなくなった。看護師さんは、自らの意思で、YESといえるそんな時代が来ることを願って、写真にとっておいた絵をデザインしてロゴマークにしたのだ。

さて、この看護師さんはいつの間にかジム子ちゃんという名がつけられ、サポーターの方がわざわざ人形を作ってくださった。当時は、人形を見たスタッフ全員が、「すごい!」と歓喜の声をあげた。

一時は、守護神ともあがめたてられたジム子ちゃん人形だったが、イラク戦争から12年もたつとすっかり忘れ去られ、狭い事務所でまるで邪魔者扱い。ロゴマークの看護師さんだと気が付かない人も多い。この間は、売り物のネックレスを首に巻かれていたが、なんとなく、鎖で巻かれて拷問を受けているように見えてしまった。そして、こないだは、ジム子ちゃん、足を滑らせ棚から落ちてしまったのだが、運悪いことに、ごみ箱の中に落ちてしまったのだ。ごみ当番のスタッフは、古い人形を誰かが捨てたものだと思ってしまうところだった。

靴も丁寧に作ってもらっていたのだが、よく見ると片方はカビが生えている。ちょうど、家にクルド人が履く伝統的な網靴のミニチュア携帯ストラップがあったのでこれをはかせてみた。見違えるようによくなり、もっと大切にしなければと反省する。ジム子ちゃんは、デモクラシーのシンボルなのだ。今の日本には、最も必要なものなのだ。

十月、はしりがき

仲宗根浩

休みの日の夕方、訓練帰りのF-15だろうか、やたらうちの近辺の空を飛んでいる。ここ何年か、飛ぶところを分散させている気がする。こどもは平気でその音の下、家に帰ってくる。

うちの娘、先月やっと六回目の運動会が終わったと思ったら今度は修学旅行。見事に水筒を忘れて行った。へこんできっと不細工な顔になっているだろう、と家に帰るともう寝ていた。水筒忘れてどうしたかは起きてから聞くことにしよう。ふたりの子供、重ならずに十二回の運動会終了。

九月の半ば、齋藤徹さんから沖縄にライヴで来る、というメールが届く。齋藤徹さんとは三十三年前に初台の「騒 がや」というころで知り合った。沖縄に来る前メールのやりとりしていたら当時のいろいろなことを思い出す。大学を卒業するとき、それまで箏を習っていた栗林秀明さんから、おれは面倒みないから沢井先生のところへ行け、ということで最初は忠夫先生、しばらくして一恵先生のレッスンを受けるようになり、しばらくすると栗林さんから「齋藤徹」という名前が出て、あの徹ちゃん(年上だけど)となり、一恵先生をはじめお箏関係の方々との交流が始まり、セッションしたり曲を書いたりいろいろなことを徹ちゃんやりはじめる。わたしが徹ちゃんと一緒に演奏したのは一回だけ。コントラバス奏者のバール・フィリップスさんが主宰した神戸の震災のイヴェント、場所は法政大学の学館ホール。その時のメンバーのひとりが出演できないためのエキストラだった。二十年以上前の頃とはお互いいろいろあり、姿、体型は変わっていたが待ち合わせていた場所ではすぐわかった。昔話、近況、あれこれ話をして、うちの車が融通が利くのでコントラバスと人を車に乗せ会場へ。場所は那覇では奇跡的に戦争の被害を受けなかった戦前からある森の中の墓。そんな中、久々にガット弦の音を聴く。演奏が終わり、食事をして空港まで楽器とともに見送った。

徹ちゃんのサイトは「Travessia」という名がついている。ミルトン・ナシミントの最初アルバムのタイトル。最初にミルトン・ナシメントのメロディーを聴いたのは中学生の頃、FMで録音したウェザー・リポートのライヴだった。ウェイン・ショーターのサックスソロで「Ponta De Areia」のメロディーを吹いていた。そのメロディを覚えていて「騒」でかかったウェイン・ショーターの「Native Dancer」でよみがえった。あとあと入手したそのアルバムにはギターでジェイ・グレイドンが参加しているのを知る。スティーリー・ダンの「Aja」で注目される二年前。「Ponta De Areia」は「Native Dancer」と同じ年にミルトンの「Minas」に収録されている。聴き比べたら「Minas」のほうのヴァージョンがだんぜん良かった。CD屋で働いている頃にミルトンのアルバムを集めた。EMI-ODEON、A&Mの時代のを揃えてたらやめた。「Travessia」はODEON時代の最初のアルバムのボーナストラックに入っている。揃えたEMI-ODEON時代のアビー・ロード・リマスタリングも二十年前の盤。

その翌週、映画を見に行く。単館上映なので那覇まで行く。映画は「ラヴ&マーシー」。東京より二ヶ月遅れての上映。客は十人くらい。映画を見て、エンドロールの左下の小さい画面の中でブライアン・ウィルソンがタイトルの曲を歌うところで涙が出てきた。ジェイムス・ブラウンの映画では本編、二つのシーンで泣かされてしまったが、エンドロールでまさかの涙。声が持つ魔法のようなもの。

十月最後の日、職場で見た新聞には横田配備のオスプレイの訓練が伊江島、と一面見出しに出ている。配備先と訓練場所を分けただけの負担軽減が続く。仕事帰り、いつも通るゲート通りは基地関係のひとたちでハロウィン騒ぎ。信号待ちで向こう側の歩道をながめていると、男が酔っ払った仮装姿の女の子をお姫様だっこして歩いてる。おい、パンツ丸見えだぞ、と言いたかったけど距離あるし英語でなんて言えばわからないし。

アジアのごはん(71)ココナツオイルと朝ごはんの行方

森下ヒバリ

ココナツオイルを食べ始めてから、太りだした。とくにお腹まわり。おかしい。ココナツオイルは太らない脂肪じゃなかったのっ。タイにしばらく行っていると、お腹のまわりに着いた脂肪は消える。だが、日本に戻って自分で調理を始め、ココナツオイルを使い始めるとお腹のまわりがあっという間につまめるようになってしまう。

「ヨーグルトを朝食べると太る」というキャッチに惹かれて『最強の食事』(ダイヤモンド社刊、デイブ・アスプリー著)という本を読んでいたら、あっと思い当たることがあった。それはいくら身体によい食べ物であっても食べるタイミング、身体の都合というものがあるということだ。著者によると、まず朝は前日の夕食からの短い断食状態を維持するために、糖分、炭水化物を一切取らないことが重要という。飢えた状態の体は、糖質を吸収するとすぐさま脂肪として蓄えるように指令を出してしまうというのだ。

ココナツオイルをどうやって食べていたのかというと、まずは朝に紅茶を一杯飲み、それからパンを焼いてバージンココナツオイルを塗り、塩を振ってもう一杯の紅茶と頂く。これがまたおいしい〜。バターよりも、オリーブオイルよりもおいしい。あとは炒めものや焼き物など調理に使うメインの油として香りのない炭でろ過したタイプのココナツオイルを使う。だいたい1日大匙2杯〜ぐらいを食べている。推奨されるココナツオイルの摂取は大匙2〜3.5杯だから特に多くはない。

しかし、問題は朝のココナツオイルトーストにあった。じつは、ワタクシはこれまでほとんど朝食を食べない食生活を送ってきた。ときどき朝にパンを食べることもあったが、これほどまでに毎日きっちり、ノルマのように食べたのは、小学生以来ではないか。ココナツオイルをきっちり食べよう、しかもおいしいし。と毎朝お腹がへっていなくても食べていた。その結果がわき腹のお肉か。朝のパンのせいかと考えたこともあった。しかし、わずかのパンとオイルがここまで脂肪になるのか??と信じられなかった。

だが、タイにいる時はアパートにトースターがないし、おいしいパン屋も近くにないので、ほとんど朝は紅茶だけ。ココナツオイルは肌の保護に塗るのがもっぱらだった。タイで痩せるのは大量にトウガラシを食べるせいもあるだろうが。

朝ごはんを食べないというのは、一種の断食でありそれが非常に体に良い結果を生む、と『最強の食事』の著者は言う。夕食後15〜18時間の断食がからだの浄化になるのだが、朝起きてすぐに炭水化物や糖分を食べてしまうと、身体は一気に脂肪たくわえモードに入り、ますます空腹を募らせる。たった1枚のトーストがカロリー過多で脂肪に回されたのではなかった。トーストは身体が脂肪たくわえモードに入るスイッチだったのだ。

すると、わたしがこれまでずっと太ったことがなかったのは、朝ごはんを食べない生活習慣のためだったと考えられる。その朝食抜きに関しては、食べると余計に空腹が増す、起きる時間が遅いので朝食を食べると昼ごはんが食べられないからといろいろ理由はあるが、まあ、胃が動かないのでほしくなかったのである。旅行などで朝からしっかり食べさせられると、ものすごく疲れる。うちの連れ合いも同じく朝ごはんを食べないので、うちに朝ごはんはなかった。結果として、15〜16時間の短期断食が実行されて、身体は脂肪たくわえモードではなく燃焼モードになっていたのである。

その習慣を、ココナツオイルをちゃんと食べようとして、壊してしまったとは、なんということだ。かつて、さんざん親や友人に朝ごはんを食べろとうるさく言われてきて、わたしの体には合っていないと聞く耳持たなかったのに。

せっかくのココナツオイルも、朝に炭水化物や糖分と合わせて食べると意味がなかった、ということだ。ココナツオイル付きトーストは、昼以降に時々食べるぐらいにしよう‥。というわけで、数日前からふたたび、朝は紅茶だけの生活に戻している。エネルギーが昼まで持たない人は、ココナツオイルをコーヒーに混ぜたり、そのまま大匙2杯ぐらい食べるといいようだ。この脂肪はたくわえに回らず、エネルギーに回されるのでだいじょうぶ、らしい。またはタンパク質とココナツオイルを朝食にするとか。

ちなみにダイエット効果を狙って夜に炭水化物を抜く人が多いようだが、炭水化物は夜に取る方が、身体の負担も軽く、質の良い睡眠がとれる、と『最強の食事』の著者も言っている。まったくの炭水化物ダイエットは糖尿病の人か極度な肥満の人以外には体に害があって一利なしであるので、注意したい。短期的には痩せても、その後に待っているのはさまざまな成人病だ。

かつて、夕食はお酒とつまみだけ、の生活だった頃、朝はいつもひどい気分でふらふらだった。夜にご飯を必ず食べるようにしたら、翌日の状態が一気に改善し、身体の調子がとてもよくなった。お腹がいっぱいになって、お酒やつまみが入らないという人がいるが、ご飯は食べるものとして、のこりのお腹に合わせてお酒とつまみを入れるのがいい。つまり、つまみを減らせばいいのだ。ここで、つまみや酒を減らさずにご飯を追加すれば、それは太るでしょう。

気になるキャッチの「ヨーグルトを朝食べると太る」とはどういうことかというと、腸内細菌はでんぷんや糖質が大好物で、それが与えられると肝臓が作るのと同じ脂肪たくわえ因子を形成し、逆にそれが足りない時には脂肪を燃やすFIAFというたんぱく質を作り出す。朝に腸内細菌の豊富なヨーグルトを食べると、それが火に油を注ぐらしい。著者の身をもっての実験の結果、大変効率よく太ったとのこと。

『最強の食事』はすべて日本人に当てはまるとは思えないが、なかなか面白い本だ。いいとこどりで活用させてもらうとすれば、朝ごはんに炭水化物と糖分、そしてヨーグルトは食べない、というところだ。毒素を排する、という点も重要。著者は牧草で飼育された牛の乳から作るバターとココナツオイルをたくさん食べることを推奨しているが、(それを入れてよく混ぜた「バターコーヒー」が完全無欠な朝食という)牧草で飼育された汚染されていないバターが運よく手に入ったとしても、日本人の多くはこんなに多量のバターは食べられないだろうな。ココナツオイルならまあ、できそう。

いま、TPPへの締結に向けて政府はあたかもすでに「決まった」かのような発言を繰り返し、マスコミも誘導したニュースを流しているが、とんでもない。もしTPPが締結させられると、様々な分野で日本崩壊が起こることになるが、食べ物の分野で言えば、遺伝子組み換え作物のことが大変気になる。これまでJAの子会社が遺伝子組み換え作物の流入を食い止めていた。しかし農協法改正で組合が株式化されてしまうと、外資による買収が可能になるのだ。間違いなく遺伝子組み換え企業のモンサントがJAに入り込んでくる。そうなると、日本の農地は遺伝子組み換え作物に席巻され、それとセットの除草剤ラウンドアップによって汚染され尽くすことになる。

ISD条項によって訴えられる可能性があるために、食品に「遺伝子組み換えでない」という表示ができなくなるだけでなく、じっさいに遺伝子組み換え作物がものすごい勢いで日本の農業を変えていき、輸入作物だけでなく国内産でもほとんどが遺伝子組み換えの野菜や穀物になっていくだろう。

遺伝子組み換え食品の恐さはまだまだ未知数だが、ほぼ遺伝子レベルで害をなすことがわかってきている。さらに、遺伝子組み換え作物と必ずセットで使われるラウンドアップという除草剤は、ダイオキシンを含み、作物に残留する。このダイオキシンが体内に入ると、腸内細菌に大変なダメージを与えてしまうのだ。人の免疫は著しく低下し、さまざまな病気やがんがますます増えることになる。ダブルで始末に悪いのだ。

遺伝子組み換え産業のモンサント社について、日本人はあまりにも無関心すぎる。モンサントをはじめとするアメリカのグローバル資本の利益のために、日本をこれ以上差し出すわけにはいかない。身体によい、毒素を排した最強の食事を望んでも、食卓にあるのは毒ばかり、などという未来は願い下げである。

消しゴムと羅生門

植松眞人

 目の前にあるのは答案用紙だ。先週の抜き打ちテストで、問題を読んで答えを書き込んだ解答用紙だ。それがたったいま返ってきた。先生が一人ずつ名前を呼んで「頑張ったね」とか「もう少し頑張ろうね」と声をかけながら返している。
 先生は産休で休んでいる小木原先生の代わりの本堂先生で、まだ大学を卒業して三年目の女の先生だ。僕は小木原先生が嫌いだったので、本堂先生が代わりにやってきてほっとしている。
 テストの問題を先週配ったのは小木原先生で、採点して返却しているのは本堂先生だ。そう思いながら、返却された答案を眺めているととても不思議な気がした。
 問題は現代国語の教科書に掲載されている『羅生門』の抜粋で、そこから三つの問題が出されていた。
 第一問・本文中の擬音の使い方について、思うところを自由に書きなさい。
 第二問・髪の毛を抜く、という行為はなにを象徴していると思いますか。
 第三問・この作品を通じて、芥川龍之介が伝えたかったことはなにか、書きなさい。

 先週、大きなお腹を抱えながら小木原先生が問題を配ったあと、僕はじっとその問題を眺めていた。中学三年生になって初めて現代国語で勉強した内容だったので、『羅生門』についてはよく覚えていた。
 僕は芥川龍之介のこの小説をとても面白いと思った。でも、授業で小木原先生が少しずつ解説をするに従って、その面白さが失せていくような気がしていた。まるで、意味がわかるごとに、消しゴムで面白さを消していくように、僕の中から『羅生門』が色あせていくのだった。僕は教室の片隅で、小木原先生が時々フーッと大きく息をつきながら『羅生門』について説明するのを聞いていた。先生が大きな息をするたびに、先生のお腹が大きくなるような気がした。
 僕は先生のお腹に意識が集中してしまうのが嫌で教科書の『羅生門』を読みふけった。先生の声が聞こえなくなると、俄然面白くなり結局授業が終わるまで、何度も何度も繰り返し本文を読んでいたのだった。
 おそらく、問題用紙に書かれていた三つの問題は、あの日の授業で先生が僕たちに話したことばかりなのだと思うのだが、なにひとつ覚えていていなかった。
 仕方なく僕は適当に思うままに記述して早々に提出してしまったのだった。
 今週からやってきた本堂先生はとても陰のある先生だった。小木原先生よりも若いのに老成しているように見えた。こういう女は男運が悪いんだ、と祖母が言ったテレビドラマに良く出てくる女優に似ていた。きっと、本堂先生も男運が悪いんだろうと僕は思った。
 それでも僕が本堂先生に好感を持ったのは男運が悪くて、陰があって、少し暗い印象なのに務めて明るく振る舞い、元気に授業を進めようとしている姿勢だった。中学生ながら、そんな本堂先生を見ていると「そんなに無理をしなくて良いのに」と思ってしまうと同時に、その健気さに心打たれてしまうのだった。
「では、先週、小木原先生が出してくださった現国の小テストを返却します。出席番号の順番に取りに来てください。では、赤城君!」
 先生が順番に名前を呼び、僕たちが順番に取りに行く。僕は本堂先生のふくらんでいないくびれたお腹のあたりを見ている。やがて、男運の悪い本堂先生もお腹が大きくなっていくのだろうか、と思いながら、僕は順番を待っている。
 僕の名前が呼ばれる。まだ生徒の名前を覚えていない本堂先生が僕を目で探している。僕が小さく「はい」と答えて立ち上がる。先生と目が合う。その瞬間、先生はテストの点数に目をやると、受け取るために近づいてきた僕に「大人っぽい答えね」と言ったのだった。僕は先生の目の前で「え?」と声を出して立ち止まった。
「大人っぽいですか」
「あ、うん、そうだね。なんだか大人っぽい答えだなって」
 先生は僕の問いかけに、少し驚いた様子で答えてくれた。中学生の小テストの答えを見て、その感想に「大人っぽい」と答える教師は信用に足るのかどうか。そう考えた僕は、自分の席に戻り椅子に座った瞬間に「信用できないな」と小さくつぶやいたのだった。
 手元の解答用紙を見ると、見慣れない本堂先生の字で採点がしてあって点数が書き込んである。いま、手元に問題用紙がないので、答えだけが並んでいて、その答えに○とか×が書かれているという光景はなかなかにシュールだ。
『作者が伝えたかったのは、主人公の気持ちの移り変わりではなく、主人公を取り巻く状況の変化であり、その中での主人公の無力感なのだと思った。』
 僕の字がそう書いていて、本堂先生がそこに大きな△をつけて、『もう少し登場人物の人間関係に注意して読んでみましょう』と先生の赤字で書き添えられていた。
 問題は全部で三つあったので、答えも三つある。そのうちの一つが×で残りの二つが△だった。点数は六十三点で抜き打ちテストとしては悪くはないと思うが良くもない。しかし、それよりも△を付けられた答えにいったいそれぞれ何点が付けられて、全部で六十三点になっているのかがわからないことだった。
 点数があった答えは二つ。両方が△。同じ点数だとしたら、六十三点という奇数にはならない。ということは適当に数字が割り振られて、こうなったのだということだろう。おそらく小木原先生ではなく、本堂先生のさじ加減一つなのだろう、と僕は思いなんだか馬鹿らしくなってきた。
 本堂先生が目の前で解答の説明をしているのだが、声がだんだんと聞こえなくなって、僕は解答用紙に書かれた僕の黒い鉛筆の字と、先生の赤い色鉛筆の字が一緒にそこにあることが気持ち悪くなってきた。せめて、そこにあるべきなのは問題を作った小木原先生の字と僕の字であるべきだ。
 知らない間に手にしていた消しゴムで、僕は答案用紙をこすり始めた。答案用紙を破らないように、丁寧に丁寧に僕は消しゴムを上下させ、左右させ、文字を消す。
 気がつくと、僕の鉛筆の文字だけが消しゴムで消されて、本堂先生の赤い文字だけが答案用紙の上に残っていた。

六十三点


×
もう少し登場人物の人間関係に注意して読んでみましょう

 それだけの赤い文字が答案用紙の上で、妙なすき間を作りながら並んでいた。僕は△の答えを二つ消し、×の答えを一つ消し、都合六十三点の答えを消しゴムで消したのだった。
 答えのない解答用紙をじっと見ながら、さっきまで書いてあった自分の答えを思い出そうとしたが何も思い出せなかった。思い出すのは小木原先生の大きなお腹ばかりだ。
 僕は頑張って、もう一度鉛筆を握りしめて、△の答えを思い出して書こうと努力してみた。小木原先生に出された問題ではなく、いま目の前にいる本堂先生に出された問題のふりをして僕は答えを書こうとしている。○の正解ではなく、本堂先生が△をくれそうな答えを探している。
 探しても探しても答えは見つからない。答えだけではなく、問題さえもわからない。掌から汗が流れ、解答用紙が濡れる。僕は長生きを吐きながら顔をあげて教壇に立つ本堂先生を見る。本堂先生のお腹はいつのまにか大きくなっていて、あの中に答えはあるのか、と僕は考えている。

グロッソラリー ―ない ので ある―(13)

明智尚希

 1月1日:「じゃあ、ちょっと電話するわ。あもしもし。うん。はいはい。大丈夫だよ。うん。うん。うん。そうなんだ。うん。うん。はい。へえー。うん。あもしもし。なんか聞こえづらいよ。声が遠い。うん。まあいいや。だからいいって。うん。うん。はいはい。了解。じゃあまた連絡ちょうだい。できればメールで。はいはーい――」。

(o(>皿<)o)) キィィィ!! またかよ!!

 人生を見渡してみて、記憶に新しいのは失敗や悲しみである。しかしそれらの時制はずっと古い場合もある。なぜ記憶が前後するのか。喜びや楽しさは感情の瞬発的な発露加減や派手さは一流だが、所詮は消えもの、有象無象に同化する。対するに負の記憶は、半生において確実に里程標として、見たくない色をした道標として存するからである。

ヽ(oゝω・o)-☆であ〜る!!

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(。-_-。 )ノ☆了解☆

 じゃあ、伝説のおとぎ話をするぞ。えーと。むかーしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがいましたか? えーと。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは山へ芝刈りに行きました。あ……。えーと。「まねすんな」とおじいさんが言うと、「まねすんな」とおばあさんも言ったのです。手つかずの洗濯物に残暑見舞いを申し上げます。

(`∀’)ノお⊃かれちゃ〜ん

 世界中から人間や動植物が消え失せてはじめて、心の底からの深呼吸ができるだろう。人間の分泌する感情とも、動植物が放散する風情とも、まるで関係がなくなる。深呼吸できるのはいいが、これは喜ばしい事態なのだろうか。すべてから断絶し完全に孤立した自分という有機体を人間と呼べるのか。いっぺん世界中で一人きりになる必要がある。

(‐”‐;)

 1月1日:「やれやれ。松子も当てにならないな。ほんとやれやれだ。人の資質は判断力で決まるなんていうけど、俺は完全に駄目人間だな。わはは。駄目でいいよ駄目で。全然構わないよ。駄目の何が悪いんだってんだよ。誰だって欠点の一つや二つはあるだろうに。なんで判断力だけでその人全体を全否定するんだ。わけわからねえよ――」。

(`ヘ´) フンダ!!!

 憤怒、不快、苦痛、心労、困難は人生において高いシェアを占める。人間に執拗なまでに付きまとう辺りからすると、他の生命体には相手にされないと見た。ところが、その程度の事象に人間は四苦八苦させられている。生とは苦であるというショーペンハウアーの言の証左となるわけだが、人間優勢に思えるのは見当違いなのだろうか。

。・:*:・゜☆ ネ兄 月劵 禾り ? ,。・:*・・゜☆

  ちょん掛けでただちにまんぐり返しじゃ陰翳礼讃にもならんが、意外な進展も期待できると誰かが言ってた気がするのう。恥ずかし固めのことじゃなしに。一点突破全面展開ときた日にゃあ、きっかけなんざ待てば海路の地引網にやってくることに誰も気づいちゃいねえ。俯瞰長官のお出ましかーらーのー体育座りかーらーのーローザンヌ学派。

ヾ(@^▽^@)ノわはは

 自殺への強迫観念および誘惑は思いのほか軽いものだが、決して軽んじてはいけない。生を追求・希求する人はきっとそう告げて注意を促すに違いない。だが実際に自殺するのと自殺を軽く見るのとでは、生と死ほどの距離がある。意外なことに自殺者は、その瞬間に死など頭にない。脳裏に去来するのは、全自分を軽んじる一念だけである。

ε=(・д・`*)ハァ…

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

職業としての…

若松恵子

村上春樹著『職業としての小説家』(2015年9月/スイッチパブリッシング)をおもしろく読んだ。「職業としての」と但し書きが付いているように、小説を書くことを仕事にして生きていくという事は、どんなことなのか、村上自身が振り返って綴った文章だ。

あとがきによると、「自分が小説を書くことについて、こうして小説家として小説を書き続けている状況について、まとめて何かを語っておきたいという気持ちは前々からあり、仕事の合間に暇を見つけては、そういう文章を少しずつ断片的に、テーマ別に書き溜めていた。」ということで、「最初から自発的に、いわば自分自身のために書き始めた文章」ということだ。翻訳家の柴田元幸氏編集の雑誌『Monkey』に連載として発表され、今回の単行本にまとめられた。

勿論小説家になるための有効な方法が書かれているわけではないけれど、小説家になりたいと考えている人は、きっと励まされるだろうなと思った。ここに綴られているのは、ひとりの人が、自分自身が心から納得できる仕事をしたいと願って、1日1日こつこつと誠実に仕事をする話なのだ。そして、「小説家」という職業を続けるなかから(リングから降りずに続けていくという事自体がたいへんなことなのだが)村上氏が確信した様々なことは、小説家になりたいとは思っていない私にも大変おもしろく参考になる言葉だった。

例えば「オリジナリティ」について。彼は10代の頃に、ビートルズやビーチボーイズに出会った頃のことを振り返って、「その音楽は僕の魂の新しい窓を開き、その窓からこれまでにない新しい空気が吹き込ん」できて、「いろんな現実の制約から解き放たれ、自分の身体が地上から数センチだけ浮き上がっているような」幸福感がもたらされたと語る。そして、その幸福感をもたらした、今まで聴いたことがなかった響きがオリジナリティだと語る。自分も小説によってそんな幸福感を再現したいし、自分の小説によって「人々の心の壁に新しい窓を開け、そこに新鮮な空気を吹き込んでみたい」とも語っていて心に残った。

デビュー当時、村上の小説を「外国文学の焼き直し」と批判する発言もあった。じゃあ「オリジナリティー」とは何なのだ。無責任な批判に対して、村上自身が自分で指標を立てることが必用だったのだろう。

「職業として」やっていくには、世間と接点をもたないわけにはいかない。世間は小説家に勝手なイメージを抱いて、無責任に様々な言葉を投げかけてくる。文学賞について、作家としての日常生活について、外国での出版について…、常に向かい風のなかで、村上自身が納得できるあり方を考えぬいたすえの言葉はわかりやすく、心に響いた。

唐突だが、村上春樹と共通するものを、最近見たドキュメンタリー映画の中のボクサー、辰吉丈一郎に感じた。東京国際映画祭に出品された阪本順治監督のドキュメンタリー「ジョーのあした 辰吉丈一郎との20年間」(2016年公開予定)は、インタビューに答える辰吉のクローズアップを20年間にわたってつないだ異色のドキュメンタリーだ。網膜剥離によって国内の試合の道が断たれながらも、海外に対戦相手をみつけ、ボクサーを続ける辰吉。ついには年齢的にライセンスも剥奪されたが、今だ「引退」せずボクサーであることを続けている。多少の気分の浮き沈みはあるにしても、語る内容も、語る姿もブレることなく、静かな辰吉の姿に感動した。

ボクサーも小説家と同じように、世間が勝手なイメージを抱き、夢を託し、無責任に投げかけてくる言葉と対峙しなければならない職業だ。辰吉が貧しい父子家庭に育ったことについて、網膜剥離や年齢によっても引退しないことについて、次男がプロボクサーのテストに受かったことについて…、世間は勝手にイメージを抱き、さまざまな意見を押し付けてくる。自分が納得できるあり方を求める、その1点にブレない辰吉。彼の言葉は世間の期待を裏切ってかっこいい。ボクサーになった自分を父はどう思っていたのかという質問に対して、「自分の子どもが殴り合うのを見たいと思う親はいないでしょう」と答える言葉が心に残った。インタビューに答える「言葉」だけで試合の様子は一切出てこないけれど、飽きることが無い82分だった。

国籍と帰属先

冨岡三智

10/31の日経新聞に藤田嗣治の肉声テープが見つかったという記事が出ている。日本を捨てた藤田が民謡や浪花節を好きだと語り、「藤田先生は日本嫌いで縁を切ったなどと言われているが、本当は日本が大好き」だとある。いつも思うのだが、日本では、外国籍を取得する=日本を捨てると思われがちだ。青色LEDの発明開発でノーベル賞を取った中村修二が米国籍を取っていることが知れた時も、中村は日本を捨てたということがあちこちで書かれた。

けれど、国籍を選び得る状況に置かれたとき、それ以前の状況とその後の展開(その後に得られる権利)を考えて、より有利な国籍を取得したいと考えることは人間として普通なように思う。それは日本国籍を捨てるというより、別の国籍を選ぶという行為なのだ。もちろん、戦後「戦犯」扱いされた藤田には日本国籍を捨てたと言える部分はあっただろうけれど、それは日本に生まれて体得してきた日本の文化まで否定するということと同じではない。それなのに、藤田は日本人だったアイデンティティまで全部否定したように言われてしまう。

「国籍上の日本人である」ことと、「日本人としてのアイデンティティを持っている」ことは別問題なのだ。世界的に見れば、民族と国籍と在住国と本人のアイデンティティが違うという例も多い。島国日本ではこれらが全部一致するものだという感覚が今でも根強くあるように思う。インドネシア人にどちらの出身?と聞くと、「えーと、父は○○民族で母は××民族だけど、両親は共にジャカルタに生まれ育っていて、私は今は日本で仕事をしている」というような返答を聞くこともある。その人にとっては、結局どれが帰属先が分からないようだ。

仙台ネイティブのつぶやき(7)古老のことば

西大立目祥子

鬼首の高橋敏幸さんが亡くなられた。鬼首は宮城県の最北西部、秋田県の県境にある山間の地域で、敏幸さん(いつもこうお呼びしてきた)はこの地に生まれ90年の生涯のほとんどをここで過ごされた。もの静かで、誠実で、偉ぶったところがひとつもない方だった。(『水牛』の6月にもその暮らしぶりについて少し書いているので、お読みいただくとうれしい。)

仕事で1年に何人ものお年寄りとお会いするのだけれど、まれに自分とウマが合うというのか、相性がいい人があらわれる。何より、自分のことばを持っている方で、そのことばはその人の暮らしや人生の時間を表現するだけでなく、聞き手である私の足元を照らし返す力もあわせ持つ。そういう人が目の前にあらわれたときは、話の続きを聞きたいと率直に伝えて、時間の許す中で会いに出かけてきた。敏幸さんもそんなお一人だった。

教えられたこと、気づかされたことはいくつもある。

たとえば、この標高の高い山間地での暮らし方。ここでは、人が生涯にひとつの仕事だけをまっとうするということはありえない。ひとつで家族を養いきれるほど大きな生業はないのだ。敏幸さんも基本は米や野菜をつくる農家でありながら、馬や牛を育てて市に出荷し、春には山菜、秋にはキノコを採りにブナの森に入り、犬を連れてウサギやヤマドリを探し歩くマタギになった。雪に埋もれる冬はお膳づくりに精を出すクラフトマンでもあった。

頭の中には周辺の山々の膨大な情報が入った地図と、長年の経験知が埋め込まれた暦が入っていただろう。もちろん、その体は風景と移りゆく季節の先々をセンサーのように感じとる五感を備えていた。

「ガシガコイ」。

このことばが敏幸さんの口から発せられたとき、私はとっさに意味がわからなかった。数秒、頭の中をシャッフルさせて、それが「餓死囲い」であることに気づいたあとはどんなことばを返したらよいのか固まってしまった。

「餓死囲い」とは、囲炉裏の上など家の高いところに稲の種籾やソバの実などを俵に詰め備えることをいう。「囲い」とは封じ込めるという意味だろう。万が一の水害から守り、煙にいぶされて虫やネズミに狙われない場所として、囲炉裏の上が選ばれたのだと思う。農家が翌年撒く種籾にまで手をつけてしまったら、もうそれは餓死を意味することだったが、昭和初期の大冷害でも食べるものに不足し翌年の種籾まで食用にせざるを得ない農家が続出した。

鬼首に限らず東北は江戸時代から冷害に苦しんでいる。城下町仙台だってそうだった。天明年間に作成された絵図は、武士たちの名前が赤文字で記されている。餓死したり逃げ出したりして空き家になった家はそう描かれているのだ。

鬼首でも天明の飢饉のあとはずいぶん空き家が生まれたらしい。「うちは5代目だけど、鬼首は寺や旧家が10数代数えているほかは、5代、6代という家が多い。それは空き家に入り込んだからなんだ」と地元の人に聞かされたこともある。

「食べるものがない」。

敏幸さんは、戦後、国の食糧増産の政策のもと、近くの11軒の農家とともに近くの大森山の山裾に広がる標高500メートルの台地、大森平の開拓に乗り出した。秋田の不在地主が所有していたという台地は杉の巨木が茂る森だったという。その杉を伐採し根を掘り起こし、さらに水田にするために沢水を引く作業は、苦労ということばで簡単に説明できるようなものではなかった。しかも、土壌は強酸性の火山灰土。昭和28年、29年には冷害が打ち続いた。「一日開墾しても、せいぜいこの部屋くらい、6帖分くらいしかいかねえの」と敏幸さんは、静かな口ぶりで話す。

想像を絶する話に、何を質問したらよいのかわからなくなって、私はつい愚かなことを聞いてしまった。「何が一番大変だったですか?」自分でもしまった、と感じながら。少しの間をおいて敏幸さんが答える。「食べるものがないこと」。

目の前のこの人は餓死の恐怖と闘ってきたのだ。その気づきは、同時にすべて食糧を買いもとめて生活を立てる私自身の暮らしぶりをおのずと照らすものにもなっていく。

大森平の開拓は昭和30年代に入って完了するが、その後、国は米あまりの中で減反政策を打ち出した。1軒の離脱もなく進められた開拓だったが、2代目、3代目となるにつれてこの地を離れる家も出ていきている。

それでも、2万5千分の1の地形図を開くと、開拓された大森平は黒い罫線でくっきりと記されている。その広さは…どのぐらいだろう150ヘクタール、いや200ヘクタールにも及ぶだろうか。

「美しいものは美しい」。

自然は、人の息の根を止めかねないほどにきびしいものだったが、同時に恵みをもたらしてくれるものでもあった。敏幸さんは、つらかった日々を美しい風景と恵みでなぐさめてきたのだろうと思う。

春に訪ねれば「となりの桜が満開だ。あの桜が満開になったらそろそろ田植えだな」と話していたし、広葉樹の山々が燃えるような色彩に彩られる秋は、「栗駒の方まで、まあ見事だ」と目を細めていた。この地に住んで80数年。毎年毎年、変わらなく訪れる季節の変化を確かめながら、その中でその訪れは毎年少しずつ違っていることを感受していたろう。

紅葉の季節に訪ねたとき、紅葉のすばらしさを口に出されたので、「でも、毎年見ている風景ですよね」と聞き返したことがあった。そこに、敏幸さんは「毎年眺めて飽きないのですか」というニュアンスを感じとったのだろうか。いつもと同じようにしばしの沈黙のあと、こうことばを返してきた。
「何年眺めても美しいものは美しい」。
私の胸は、なんだか温かいもので満たされていった。

葬儀に参列できなかったので、今月半ばには奥さんと息子さんを訪ねる予定だ。敏幸さんが80年以上愛でた秋の山は、もう落葉してしまっただろうか。

かかしの神

管啓次郎

始まりはふかふかしていた
草が絡み合った地面を踏むと
踏んだ足がそのまま沈み
おなじだけの体積の水が浸み出してくる
存在と水
靴がぬれるのは仕方がないから
足をとられるのに気をつけながら
歩いて行こう
小さな蛙たちがおびただしく逃げてゆく
この野は元は潟
蛇行する川が平野を流れ海に出るそのあたりに
一面にひろがっていたのだ
海水と淡水が入り交じって汽水域となる
小動物を求めて渡り鳥が集い
水際では葦が隠れ家を提供する
いつか、二百年ほど前のことだろうか
人々は大変な努力をもって
川をまっすぐな水路に変え
寒冷地の湿原を水田に変えた
それからしばらく米の時代が続いた
ところがあるとき、数年前
大きな波が土地を洗ったとき
この一帯はしばらく海に戻り
水が引いたあと土地の本来の姿に戻ったのだ。
いまここは濡れた野
冬には白鳥たちが飛来する
南に少し下ったところにある川には
秋には鮭がたくさん遡上する
でももう誰も獲らない
鮭は鮭のためだけに生きる
いまは北の土地の夏で
ミズアオイの小さな花が咲いている
帰ってきた花たちだ
この原をこれから歩いてゆくのだが
どこをめざすのかも
何を探すべきかも
わからない
人を訪ねるのではない、人は住むことをやめたので
ただむせるほどの力がこの土地にみなぎって
何かを育てているらしい
その力を見たい
その現れを見たい。
巡歴は始まったばかりだ
山から猪が降りてきて
新鮮な泥で体を洗っている
存在と泥
猿たちの群れはこのあたりに見切りをつけ
どこか内陸部へと移住していったようだ
ずいぶん広い土地を
隈なく見ようとして
「見えない眼鏡」をかけたまま
ぼくは歩くのだろうか
以前ここに来たときには
コカコーラの自販機が
鮮やかな赤色で
澄んだ青空に聳えたっていた
傾いたまま巨大な自販機が
巨大なコカコーラを売りつづけていた
電源もないのに
清涼飲料を買いにくるのは姿のない人々
透明な缶をプシュっと開けるたび
ものすごい量の時間が渦潮のように流れ出す
自販機は心もないのに一所懸命お礼をいう
ありがとうございました
「さすけねえ」
そのやさしい言葉が胸に響いた
コーラを飲み干して
しばらくぐるぐると歩くうちに
方向も時間も見失ってしまった
この野は心を混乱させる
考えの糸口も見つからない
何を失ったのかさえ忘れてしまった者には
失ったという感覚も残らない
冬のモントークの雪が降る砂浜のように
記憶がどんどん書き換えられて
青空のようにはかない気持ちだけが残る
失われた町すら失われて
ここには初めから何もなかったのだと
みんなが考えるようになる。
だがそれをいうなら
何もなかった初めなどなく
いつもこの場所はみたされていたのだ
分割不可能な生命の
大きな心に
数え上げることのできない
あらゆる種が作る社会に。
歩くことがそれ自体としてわからなくなったので
ぼくはいろいろな動きを試してみる
爪先立ちでくるくると旋回したり
抜き足、差し足、猫の歩みをまねたり
少しでも乾いたところを探して寝そべったり
五体投地を試みたりもする、目的の聖地もないのに
するとその先に四、五頭の牛が出現して
壊れたコンクリートの橋桁を使って川を渡ろうとしている
声をかけると耳をぴくぴくさせるが
それ以上にこちらに興味をもつことはない。
ふと見上げると水平よりはかなり上のほうを
一艘の船が進んでいくのが見える
十人くらい乗れそうな船室のついた釣り船だ
周囲の野よりもかなり高い水路を行くので
ありえない角度になる
水着姿でサングラスをかけたオランダ人らしい
一家が船から手を振った
考えてみればいまいるこの野の標高は
たぶん海面よりも数メートル低い
われわれは海の底で生きてきたのだろうか
この土地をみたすすべての植物や動物とともに。
無理をしていたことはわかっているんだ
としゃがれ声が聞こえた
見ると一匹のひきがえるが見上げている
ちょうどいいところで出会った
図書館があったのはどこでしょうか、とぼくは訊ねた
図書館はもうないよ本はすべて流された、とひきがえるは答えた
何も残っていないのですか
残っているのは不動産管理士試験問題集とかそういうのだね
土地の昔のことを知りたいときにはどうすればいいでしょう
かかしに会いに行くんだね、とひきがえるがいった
あの人は動かないけどすべてを知ってるよ
すべてを覚えている人だ
かかしはどこにいるの、とぼくは訊ねた
それくらい自分で探しなよ、とひきがえるがいった
ひきがえるが五本足(小さな腕が余分)なのにいま気づいた
では行ってみますとぼくはいって
すでに草花が埋めつくしている線路を歩いて行くことにした。
野から町に入るが誰もいない
アスファルトの道路に寝転がりわんわん吠えてみる
一頭の牛を引き猿の面をかぶった男が
映像のように映画館の角を曲がるのが見えた
閉まった新聞店のガラス越しに
四年半前の新聞が大量にあるのが見える
犬たちの鳴き声がするが姿は見えず
鳥たちのさえずりも聞こえるが姿は見えず
青空がひろがるがその空が本物かどうかもわからず
潮騒が聞こえることすら壮大なトリックみたいに思えてきた。
また町を離れて野にむかう
「町」と「野」の文字に隠れている「田」を思う
もうここに区画はないのだから
かかしもいないのではありませんか
ぼくはかかしの役割を考えた
カラスやスズメを無言でおどかすのか
Boar や deer やbear にここは人間の耕作地だと語るのか
すべてを風の噂に聞きすべてを覚えているのか
自分自身はどこにも行かず、ただ立ちつくして
一年のめぐりを知り、そのサイクルを重ねて。
だがどんなに歩いてもかかしは見つからない
自分が住んだわけではないこの土地から
ぼくは無知というラッピングによって隔てられている
何でも知っているかかしはどこにいるのだろう
だんだん空が曇ってきた
季節はめまぐるしく回っていまはもう冬
心の中に降り始めた雪が流れ出し
空の端から端まで雪が降りしきっている
地面がうっすらと白く覆われて
そこを元気なバッファローたちの群れが走ってゆく
焦茶色の山のような体を
子犬のように弾ませながら
まるで遊ぶように行ったり来たりする
あふれるようなよろこびだ
太陽がこぼれてきたようなよろこびだ
かかしの神はまだどこにも見つからない

四十八茶百鼠

高橋悠治

種類のちがう種子を粘土に包んで蒔いておくと 種子にそなわる力と環境や季節が合うとき 種子が土を破って芽を出す 包む土がすくなく貧しければ たくさんの繊細な関係をあちこちに結ぶ そうなれば 根を張る強い草が育つだろう

足りないものを補って複雑にしなくても すくないもののあいだの関係を複雑にすることができる 「底至り」ということばがある 外から見えないところにくふうがあり 表面は単純に見えても 裏側に見えない網が張りめぐらされ 経路や流れを変えて さまざまな動きが行き交っている 表面が微かに揺れると 全体がおおきくかたちを変える 揺れて揺りもどっても 元にはもどらない 「底至り」と似たことばに 「裏勝り」がある じみな羽織の裏に きらびやかな色やあざやかな模様が一瞬見える また「四十八茶百鼠」(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)という染の色合い 茶や鼠という目立たない限定された色のなかで 江戸鼠 深川鼠 銀鼠 錆鼠 島松鼠 呉竹鼠など 色調を微妙に変え 遠くからはわからないが 触れ合う近さでの微妙なちがいに気づく どれも江戸時代の奢侈禁止令に抵抗する町人の意気

「裏勝り」は貧しさを装うゆたかさ 反抗の姿勢を一瞬見せる 「底至り」は貧しさに隠れたゆたかさ 近くで見る細部を洗練する技術 「四十八茶百鼠」は貧しさのなかのゆたかさ 近さと細かさが表面にも現れ 反省的に控えめに見せている批判の姿勢

音楽は響きあう記憶 時間はめぐりながら逸れる もどる場所も出入口もいつもちがう 響きの単位は音ではなく音程 音だけなら 高い音 低い音 比較し適当な尺度で計れる構成要素だが 音程は二つの音の関係 音から音への距離 というだけでなく それぞれがちがう色合いや佇まいをもっている 色合いは単純な尺度では計れないし 調子や強さの揺らぎ 些細な光と影の移りが 群れの動きの感触を変えていく 音は音程の結び目 音程は曲り角 曲り角の先はまた曲り角 どこにも続いていくうちに 行先が読めなくなり 音楽はさまよい 行きがかりに思いがけない小径に入り込む 九十九折に似て それぞれの曲り角が ちがう方角を指し 無心所着(むしんしょじゃく)の場になって 曲がるたびに 微かな動きがさまざまに現れ 淀むことがない

音という構成要素から 音程という関係を通らず 和音を一段上の構成単位として 音程はその部分的な現れとみなせば ちがいは2音のあいだの音程から3音以上を組み合わせた和音というだけではない 2は比較されても統合はされない 3が統制と中心や方向をもちこむ 和音に時間順序と階層序列をつけて和声構造とし それにしたがいながら 演奏したり聞くときは メロディーのように方向をもった線を手がかりに 全体のイメージを時間のなかですこしずつ新しくしていく そのなかでそれぞれの音は全体から割り当てられた位置におさまる 作曲するときは まず制御し操作する意志があり 全体構造を設計し そのなかに構成要素を配分する

そのような全体指向は 関係の網を束ねて構築しようとするが 構成よりプロセスを先にすれば ひとつひとつの響きや色合いに聞き入り 響きの瞬間がその前後の響きと触れ合う構えを聞きとるなかで いままでとはちがう音楽が生まれるだろう 瞬間は時間を感じられない時間 響きの群れがひとつのまとまりをつくる そのまとまりは 時間を感じないからといって はっきりした輪郭を見せて停まっているわけではない 瞬間と瞬間の境目もあいまいで 規則的な拍で刻まれる時間が直線のように耳の前を通りすぎるかわりに ひとつの瞬間のひろがりから次へと 飛石のように移る

各務支考は「七名八体」で分類できなかった俳諧の付けかたを空撓(そらだめ)と名づけた 芭蕉の「しほり(撓)」は まばらな影に心が萎れ 余韻を曳いている感じだが 空撓はさらに漂白して「ひたすら目をふさぎ吟じ返すに、ふと其姿の浮かびたる無心所着の体」(各務支考『俳諧十論』) 心はうつろ 山の尾根のように撓(たわ)む

百年と七十年

仲宗根浩

やっと夏が終わる、と思ったらなんだ、この暑さは。旧盆が終わり八月の末ごろから暑さもやわらぎ、吹く風も温風から本当に涼しく気持よくなったのだが、台風が接近すると湿度がこれでもか、と高くなり蒸し暑さぶりかえし、日差しも真夏に近い強さにもどる。やっとクーラーも使わず、扇風機だけで十分なところから、クーラー再稼動。本格的な夏に入る前に十九年使っていたクーラーを新しく取り替え、電気屋さんに引き取られたクーラー本体の底は錆びだらけでぼろぼろ崩れている。海の近くでなくても台風か近づけば風は潮の香り。クーラーの室外機もたまに水洗いしてあげないと。

郵便受けに国勢調査のお知らせの紙が一枚。九月半ば過ぎている。今年からインターネット回答ができる旨が書いてあるがそんな用紙は無く、調査員の訪問もなし。暫くしたらインターネットの利用案内の封筒がぶっこまれていた。封をされていない中身を見ると調査対象者ID、初期パスワードが記載された用紙が入っている。こういうIDやパスワードの記載がある書面を封をせず届けて大丈夫?それもぶっこまれたのはネット回答期限の二日前。こっちはカレンダー通りに動いていない。ましてや封も開いている。こんないいかげんなやりかたなのに、マイナンバー制度といってゆくゆくは情報管理の一元化までいって大丈夫なのか、心配になる。一番に情報セキュリティを見直さなくてはいけないのはお役所だろうし。情報セキュリティに関するISO認証をどこの役所がやっても通らないだろうなあ。

九月七日、南西諸島守備軍の降伏調印式が行われたのが七十年前。六月二十三日の慰霊の日は組織的抵抗が終わった日。小さい頃父親から北部に逃げるいきさつは聴かされた。その話の中に血なまぐさい、悲惨なものはなかった。それはあえて語らなかったのかもしれない。もう亡くなったおばさんが恩名岳を逃げて歩いている列で一人置きに機銃掃射でバタバタ倒れたこと、アメリカ軍の艦隊が海上を埋め尽くしているのを様子を伺いに見に行った知り合いのおじさんが機銃でおなかをやられて、飛び出した内臓を手に抱えながら戻ってきて、内臓を中に戻してくれ、と言いながら最後は水を欲しがり息絶えた話をしてくれた。今になってその時の詳細な事を健在な母親に聴こうとは思わない。思い出したくない話もあるだろうから、それをいまさらほじくりだして、記憶の底の底に置いてるものを詳らかにするのは気が引ける。その後収容所に入った父親は数字程度は英語が言えたので将校クラブか何かのボーイをやらせてもらうことになりその時始めてコーラを飲んだので日本で一番早くコーラを飲んだのは自分だ、と自慢していた。父親は大阪で生まれた。祖父が大工で出稼ぎのため大阪に行った。祖母は下宿屋を切り盛りしながら生活をしていたそうだ。祖父は甲子園球場建設現場も行った、と父親が言っていたが父親が生まれる前の話なので真偽はわからない。その後小学生の頃に沖縄に戻っている。父親のすぐ下のおばさんはまだまだ元気で沖縄に戻って学校に行くとランドセルを背負っていたのは自分だけだったので恥ずかしかった、と以前話してくれた。曽祖父の放蕩のおかげで田畑や家はほとんど借金で失い、父親の役目は家に借金取りが来ると畑仕事に出ている祖父母にそれを知らせることだったそうだ。今思い出せる戦後七十年、夏の高校野球百年に関わるわずかなうちの話。

仙台ネイテブのつぶやき(6)深夜の避難勧告

西大立目祥子

台風18号がもたらした9月10日の雨はすごかった。午前中から降り出していた雨は夜になるとさらに強くなり、8時過ぎから、よくいわれる「バケツをひっくり返したような」状態になって、一向に弱まる気配はない。すでに常総市の被害がテレビで報道され、「線状降水帯」なんて初めてきく言葉といっしょに雨雲が東北沿岸を縦に上ってくることはわかっていたので、これは夜更かしした方がいいな、と思っていた矢先、仙台市からエリアメールが入った。

9時50分。避難準備情報だった。私のいる区も入っている。でもその先の細かい地区まではわからない。市のHPにアクセスしようとすると、集中しているのかつながらない。10時のニュースをみようとテレビをつけると、話題は日中と同じ常総市の被害状況だ。

東日本大震災の直後もこうだった。電気はとまり、携帯はつながらず、災害が起きると渦中にいる人たちが情報から取り残されるんだな、と痛感したものだ。大変なことが起きている。それなのに、何が起きているのかわからない怖さが、押し寄せる。

1時間ほどするとまたエリアメール、さらにまたメールと、着信のチャイムは鳴り続け、避難準備は、避難勧告へと変わった。これはどうしたことか。ごーっとたたきつけるような雨音の中、近くを流れる広瀬川の上流にある大倉ダムの放流を知らせるサイレンがかすかに聞こえてきた。上流ではダムの貯水量を超えるような雨が振り続いているに違いない。

ツイッターで、避難勧告の対象地区が、山間地から下流へ広瀬川沿いに移ってきているのがようやくわかった。土砂崩れを引き起こすような激しい雨が、たちまち川に流れ込み、水かさを増やしながら下流域へと押し寄せているのだ。

家から広瀬川までは直線距離にして700~800メートルくらい。いったい川はどうなっているのだろう。そうだ、と思い出したのが、県内の一級河川に取り付けられているライブカメラが、リアルタイムで川のようすを伝える国土交通省の仙台河川国道事務所のHP。映しだされた画像は、にわかには信じがたかった。最も近い広瀬橋の下を流れる水が、橋桁の高さに迫っている。いつもはおだやかな川が、コンクリートの護岸いっぱいに、草をなぎ倒し木を揺らしてごうごう流れているのだ。想像しただけで恐ろしかった。避難勧告は、すぐ近くの慣れ親しんだ町々に及び、11日の午前3時20分にはついに大雨特別警報のエリアメールが届いた。もしや、川はオーバーフローするのじゃないか、と不安がよぎる。

こんなことが起きるんだ…。不意をつかれたような気持ちで思い出したのは、戦後、毎年のように宮城を襲った台風のことだった。

昭和22年9月のカスリン台風、23年9月のアイオン台風、25年8月の熱帯低気圧…。宮城は、戦後の数年間、度重なる台風に苦しんでいて、特に25年は仙台が40年ぶりという大水害に見舞われた。同年8月5日の地元紙、河北新報は被害を「昨日まで夕涼みの人々がそぞろ歩いていた場所が四日朝には一面のどろ海となってしまった。仙台市内だけで死者三名、行方不明七名、負傷者九〇名、流失家屋五七、全耕地の七〇%冠水」と伝えている。実際、年配の人からは、「目の前を助けてくれ〜と叫びながら屋根に乗ったまま流さていったのを見たよ」とか「あーっと叫ぶ間に、目の前で橋が落ちた」とか、「坂を下ったら目の前は海のようだった」とか、いまもいろいろな話を聞かされることが多い。戦時中、山の木は燃料不足から盛んに伐採されてハゲ山となり、大雨を受けとめることができなかった、というのがその理由のようだ。

私は、この10数年、年寄りの話を聞くことを仕事の中心にしてきた。歴史を時間軸にそって系統立てて頭に入れるというのとは違った、暮らしのリアルな細部を断片的に胸に刻むみたいなことをやっているわけなのだけれど、聞いているそのときは想像が及ばずどこかもどかしい思いでいるのに、じぶんがそれに近い切迫した状況に置かれたとき、突然話がリアルさを持ってよみがえってくる。これはなぜなんだろう。いま、目の前で起きていることが時間という射程を与えられて、その意味をおのずと明らかにしてくれるような感じだ。震災後、アーカイブということが盛んにいわれるようなってきたけれど、記憶をつなぐことの大切さはこんなところにあるのかもしれない。目の前の事態を、時間の幅をもって的確に深く理解するために。

つぎつぎと避難勧告されていく地区が、戦後すぐの台風で甚大な被害を受けた地区とぴったりと重なっているのを見ながら、私は頭の中で、万が一広瀬川がオーバーフローしたときの浸水状況をシュミレーションしていた。年寄りの話は聞いておくもんだなあ。そういえば、この夏、国会前に集まった若者たちは、出征したかつての兵士たちの話に耳を傾け気持ちを揺り動かされていたっけ。

話を広瀬川に戻す。その戦後の大水害を経て、中心部の堤防建設が昭和32年に完成した。水害の恐ろしさを身をもって知った人たちは、ほっと胸をなでおろしたろう。それからほぼ60年近く、その後も何度か危険は及んだけれど、中心部はそこまで大きな大雨の被害はまぬがれてきた。およそ2世代、水害は知らずにきたのだ。まさか清流広瀬川が牙をむくなんて、ありえない。私もどこかでそう思っていた。でも今回はあやうかった。

でももはや、何でも起こりえるな、といまは思う。大津波があったのだ。また大地震も大洪水も大噴火も、きっとくる。

10日ほど経って、川沿いをまち歩きする機会があった。川沿いの木の高いところまで、流れてきたゴミが引っかかっていた。いっしょに歩いた市の職員の方に聞いたら、水は堤防の下、わずか1メートルちょっとのところまで増水したという。

海を渡るパレスチナ人

さとうまき

難民が、海を越えてヨーロッパを目指している。
8月の終わりには、オーストリアで、ハンガリーとの国境につながる高速道路に止まっていた保冷車の中から、71名の遺体が発見された。密入国しようとしたシリア難民たちだそうだ。9月になると、3歳の男の子がトルコの海岸で溺死し打ち上げられていた。クルド系シリア難民でトルコからギリシャに渡る途中でボートが沈没した。この危険な脱出で、この一年で3000人近くの難民が命を落としている。

「ハロー、ハロー」9月9日、イラクのアルビルにつくとローカルスタッフのアブサイードがバグダッドからやってきて出迎えてくれた。相変わらず、甲高い声で豪快に笑っている。アブサイードは、60半ばで、顔はしわくちゃだ。生まれたときからパレスチナ難民だった。

イラクのパレスチナ難民は、バグダッドを中心にかつては3万人を超えていたが、サダム政権が崩壊すると迫害の対象となり、危険を逃れて各地へと去った。しかし、取り残された難民は、新たな紛争のたびに一番の犠牲者になっている。

今回は、息子をつれてアルビルにやってきた。娘婿が、先にアルビル入りしてトルコ行きのビザを手にしたという。トルコからヨーロッパに脱出するというのだ。息子のアハマドも同行する予定だったが、アハマッドは、まだ幼く頼りない。あまりにも危険な旅に思いとどまり、バグダッドに戻ることにしたという。

アブサイードによれば、パレスチナ難民への支援は、ほとんどなくなってしまったそうだ。
「パレスチナ難民には、未来がない。アハマッドにどんな未来があるっていうんだい? 出ていくなら今がチャンスだ。でも、こいつは、怖くなったんだ」

昨年、「イスラム国」の迫害から逃れてアルビルの郊外のバハルカにあった工場の敷地が難民キャンプになっており、約4000人が暮らすこのキャンプには22家族のパレスチナ人がいるという。アブサイードの知り合いもいるというので翌日見に行った。
9月だというのに、まだ太陽はぎらぎらと照り付ける。難民キャンプ内にも格差があるようだ。仮設住宅のようなキャラバンにすんでいる難民もいれば、粗野なテントにすむ難民もいる。

タハさん(47歳)は、モスルでくらしていた。昨年の6月3日に、モスルが陥落した。「イスラム国」の兵士たちがやってきて、彼らと一緒に戦うことを求めてきた。お金も払ってくれるという。二つ返事で時間を稼ぎ、脱出の機会をうかがっていたタハさんは、6月12日に、タクシー一台に9人家族が乗り込み、クルド自治区の手前のハーゼル難民キャンプまでたどり着いた。その後、ハーゼルキャンプの間近まで「イスラム国」が迫ってきたために、クルド軍の戦車が配備され、8月12日にバハルカキャンプに送られた。

彼の母と弟がまだモスルにいる。弟は、保健省の役人としてクリニックで働いている。こちらから連絡するのは危険なので、向こうからの連絡を待っている。2週間に一回ほど電話がかかってくるという。クリニックには、薬がなく、そこで働く人たちも給料が払われていない。逃げるのは危険だからとどまるしかない。
「泥棒をした人は、公衆の面前で手首を切られる。市場にいると、ISの兵士が、周辺を封鎖して広場に集まるように命令する。そこで処刑が行われる。それを見なければいけないんだ。2日前に電話で話した時は、イラク軍の空爆で変電所や給水施設が爆撃されたので、停電が続いているといっていた。」

その時少年がパレスチナの国旗のついたマフラーを巻いてやってきた。8歳のアワル君、ビデオの前で訴えたいという。

「僕はパレスチナ人です。ルトバでうまれました。ファルージャにいきました。ラマディにいきました。そしてスレイマニアに行きました。そのせいで僕は学校にいけません。僕は読み書きもできるし、すべてのことが理解できます。でも落第しなければならないのです。一年が無駄になりました。
国連の事務総長にお願いしたい。いつかきっと僕をイラクの外に出してください。僕は、みんなと同じように、自分の家の前にすわり、みんなと同じように、学校にいって、学校には子どもたちがたくさんいて、僕も一緒にその子たちと遊びたい。日本のみなさん。僕たちを助けてほしいのです。」

隣で通訳をしていたアブサイードは、少年のまっすぐな言葉に、泣き崩れてしまった。かつては、フェダィーン兵士としてパレスチナ解放のために銃を手にしたこともあったアブサイードであるが、いまだにパレスチナは、解放されるどころか、国際社会からのつまはじきに会っている。かつて自分たちを迎えてくれたイラクやシリア、ヨルダンには行き場がなく、WFPも食糧支援を削りだした。のたれ死ぬか、最後の賭けでヨーロッパに向かうかだ。あまりにもみじめなパレスチナ難民の運命、子どもたちの未来に責任を感じて涙したのだろうか?

数日後、アブサイードの娘婿は、無事に船でギリシャまでたどり着いたという。さらに数日後、電話すると、今はウクライナにいるという。え? ウクライナ? いや、ちがった、スロバキアだったかな。
本人もよくわからないらしい。まだ旅はつづく。

ガジュマル生き返る

璃葉

緑がまったく見当たらない場所に住んでいた頃に、
ひとつの救いとして買った観葉植物のガジュマルが、
最近になって死にかけていることに気付いた夏の終わり。

ガジュマルはクワ科の植物で、気根という地中から突き出た根が特徴的だ。
じゃがいもから足が生えたみたいなその奇妙な根っこがわたしは大好きなのだ。
そんなガジュマルが夏前から突然元気がなくなり、葉も落ちて枝も弱々しく細くなった。
唯一伸びてきていた粒みたいな芽は2日ほど家を空けているあいだに枯れてしまった。
あわてて水をたっぷりあげたり、ちょっと謝ってみたり昼間はなるべく外に出すようにしていたら、ほんの少しだけ葉が回復した気がした。
名古屋にある実家に1週間ほど滞在することが決まったのは、そんなときだった。
いま1週間放置したら確実に死ぬガジュマルを放ってはおけなかったので、
すこし悩んだ末、大きなエコバッグに入れて持っていくことにした。

実家の庭に生えているのは、ゆずの木と乙女椿、百日紅、金木犀、その他いろいろ。
その向こうには背の高いクヌギ、桜、ケヤキなどの雑木林が広がっている。
小さい頃から変わらない木深い一面がすぐそばにある窓際に、ガジュマルを置いた。
この環境に慣れるかしら、と少し様子を見ていたら、瞬く間に元気になったのだ。
買ったときからおとなしいやつだと思っていたわたしは勘違いをしていた。
3日後にはどんどん葉が増え、今までにないぐらい生き生きしはじめる。

第二次世界大戦中に執筆されたJ.R.Rトールキンの長編小説「指輪物語」に、
木の牧人と呼ばれる「エント族」や動く森が登場する。エントは歩く巨木だ。
急ぐことを好まず、ゆっくりと森をさまよい、木々に語りかけ、ケアをする。
世界が闇に覆われ戦争が始まるとき、「エントの寄合」がひらかれ、
多種多様の樹木同士が集まって悠々と静かに話し合うシーンを思い出す。

ガジュマルも、会合ではないにしろ、近くの木々となにかをゆっくり話したのだろうか。
東京に戻ってきてからも枝はぐんぐん伸び続けている。不思議だ。
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しもた屋之噺(165)

杉山洋一

今滞在しているボルツァーノは、イタリアですがドイツ語が話されている、アルトアディジェ最大の街として知られます。老若男女を問わず、当たり前のようにドイツ語とイタリア語が共存しているのは、例えばスイスなどでもありふれた風景ですが、違うのは、ドイツ系の住民はドイツ文化を、イタリア系の住民はイタリア文化を、互いに受け容れながら、交じり合わずに共存できていて、スイスのように出身文化の影が薄くならないところです。アルプスの麓で朝晩は冷え込みますが、盆地なので陽が差せば日中はミラノより暑くなります。
今月は家族に4日しか会えぬまま、瞬く間に過ぎました。そんな中で、アデスとガスリーニという、ジャズが鍵となる、全く性質の違う現代作品と向き合っていて、生粋の現代作曲家がリズムの面白さからジャズを使うことと、クラシック出身のジャズミュージシャンが、ジャズセッションを敢えて構造化させること、その視点の違いに興味を覚えています。

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9月某日 ミラノ自宅
ミラノに戻る機中、アデスの楽譜を開く。彼とは傾向が違うけれど、ベンジャミンやナッセンの質感を思い出し、これがイギリスの伝統かと漠然と思う。ブリテンはモーツァルトのような手触りを覚えるが、例えばアデスとエルガーには共通するものを感じるのは、音がつまった感じの楽器法のせいだろうか。アデスとリゲティは音楽的に重なる部分がある筈なのに、聴いた印象が大きく異なる理由は、この質感の違いではなかろうか。

9月某日 ミラノ自宅
国営放送ラジオFMで、昨年イタリア放送響とやったデル・コルノやペトラッシ、アミーチの演奏が放送された。スモーキーなウィスキーのようなオーケストラの響きに聴き惚れる。アナウンサーが指揮者紹介でスギヤマときちんと発音しているのに感心する。伊語読みして、スジヤマと呼ばれるのに慣れている。すぐ放送を聴いた音楽学の学生からメールが来て、放送を聴いていたが、楽譜を見せて欲しいとのこと。

9月某日 トリノからミラノへの急行車内
トリノでアデス・フランチェスコー二のダブル・ポートレイト演奏会。つい先日ルカの父親が亡くなって昨日が葬儀だった。疲れ切った顔をしていて、かける言葉もない。
プログラムに選ばれたどの作品も難しい。アデスのコンチェルト・コンチーゾは、アンサンブルの半分の奏者が、指揮者の基本テンポに対して3連符で叩く打楽器奏者のビートを聴きながら演奏する部分があって、打楽器が聴こえなければ演奏できないのだが、予め用意してあった舞台配置では打楽器の音が他の奏者に届かなくて、どう舞台に並ぶかだけで喧々諤々。

9月某日 ミラノ自宅
マリゼルラ宅へドナトーニの楽譜を借りに行きついでに話していて、90年代後半、ドナトーニは新しい作曲の方向を見出していた話になる。当時は、作曲中しばしばマリゼルラに電話をしてきて、ショパンの葬送ソナタのゼクエンツはどうだったかとか、鼻歌を歌ってこの旋律は何かと尋ねては、それらを作品に取り込んだという。「In Cauda IV 焔」には、お気に入りの007冒頭のジングルが使われていて、曲の引用は作品のコンテクストとは無関係だったと言う。とは言え、ショパンの葬送ソナタが「焔」に用いられているのは、「焔」が死を題材にしているからに違いない。

9月某日 ミラノ自宅
アデス、フランチェスコー二のダブル・ポートレイトのミラノ演奏会。アデスはともかく難しくて、ドレスリハーサルでも細かく指示を出す。少しでもよい仕上がりになるよう、祈るような心地で演奏を始める。会場はトリノよりずっと演奏しやすい。アデスがドレスリハーサルでアドヴァイスをくれて、よりメリハリのついた音像を欲しいとわかる。作曲者が聴いていると、演奏者も緊張感をもって演奏できるのが、良いところではある。演奏が終わってアデスはとても喜んでいた。これらの曲は難しすぎて今まで一つの演奏会で一度に演奏できなかった、と言っていたそうだが、プログラミングは彼からの希望だと聞いた。大変だと分かっているならもう少し考えてくれればよいのに、と恨めしい気持ちで自転車を漕いで帰途に着く。

9月某日 ミラノ自宅
国会前の人いきれをニュースで見て、何故今頃皆反対を叫ぶのかと不思議に思う。自民党を選んだのは我々自身で、それがたとえ低い投票率の結果であっても、投票に不正がなければ、民意の結果として受け入れざるを得ない。自民党が圧勝すれば、こうなるのは分かっていた筈ではなかったか。現首相は自らの信念を曲げずに進んできただけで、ぶれてはいない。
たとえ間接的であっても彼を首相に選んだのは、他でもない我々であることは忘れてはいけないだろう。
もし本当に我々が安保法案に反対なら、次の選挙で自民党が下野し、法案を改めて改正させるしかない。果たしてそれまで現在の情熱が保てるだろうか、と事態を静観できるのは、単に自分が海外に住んでいて、息子も無期限ビザを持っているから。

9月某日 三軒茶屋自宅
朝成田に着く。今日の午後だけ家人と息子と一緒にいて、彼らは入れ違いに明朝ミラノに発つので、家族で駒沢公園のサイクリングコースを走りたいという息子の希望を叶える。その後、同じく彼の希望で世田谷通りの蕎麦屋で蟹の天ぷらとカレーうどんを食べて帰宅し、疲れ果ててそのままベッドで眠りこける。

9月某日 東海道新幹線車内
ユウジさんの演奏会にゆく。演奏会が始まる前、ユウジさんと美恵さんと会場の入口で何となく立ち話をしていて、演奏会に集う人々が、それぞれこれほど個性的な立ち振る舞いと雰囲気とで会場へ到着することに感銘を受ける。「向田邦子のドラマみたい」と美恵さんに云うと、「悠治の演奏会だから」と笑っていらした。
ユウジさんは新作の「虎」を連句のように作曲したそうだが、個人的には池に放った石が水紋を八方に広げてゆく姿を思い浮かべる。一つの波紋がさまざまな地形に打ち返され、複雑に重なり合う。
セイシャスのトッカータ3曲。うねうね果てしなく続く右手は、スカルラッティやソレルに似た癖のある舞曲風で、最後に何時も小さなメヌエットがカップリングされている。原譜で左手が欠損している部分を、ユウジさんが音を足して弾いた。
神戸で催す「イワト」は、多国籍風で洒落た雰囲気。終わって中華に集うところは東京と一緒。ユウジさんは、波多野さんと栃尾さんに素敵な帽子を誕生日祝いに贈られたが、こちらはユウジさんから「虎」とセイシャスのトッカータの譜面を頂いて帰る。
皆美味しそうにお酒を呷っていらしたが、我慢して帰途も楽譜を広げて仕事をしている。

9月某日 三軒茶屋自宅
朝の8時半からHさんとTさんに、フォーレの1番のソナタを聴かせて貰う。調性感の聴き方と構造の簡略化、身体の脱力で音色をつくること、そんな話ばかりで我乍ら能が無い。もっと霊感溢れる音色のアドヴァイスなどをしたい。普段から自分が楽譜をそんな風に記号論的にしか読んでいない証し。

沢井さんの処で「マソカガミ」を聴かせていただく。こうしてリハーサルをしながら音楽を作ってゆける仕合わせ。練習何回で本番がいつ、という生活に慣れすぎてはいけないと自らを諌める。本来、作曲は自分が書きたいことを書きたいと思ったときに書き、演奏者が納得できるまでその作品に関わるのが正しい姿なのだろうけれど、実際なかなかそうはゆかない。自分が演奏に関わるときだけでも、沢井さんのような音楽への謙虚さの一部でも真似したいと思うけれど、出来ているのだろうか、とも思う。

「東京のカノン」の練習。絵具で色をつくるように、同じ音にさまざまな音色が重なり、綾を紡いでゆく。カノンだからどこまでも続けられる。ここでは作曲とは如何に音を減らしてゆくか、その引き算のプロセスとなる。演奏も如何に音を聴きあってぶつかり合いながらも耳を澄ましてゆけるか、やはり引き算のプロセスである。
中川さんに、決められた公式の音を耳で変えるかと尋ねられて、敢えて恣意的にならぬために変えないと応える。
仙川の練習のあと、自転車でつつじケ丘の雨田先生を訪ねた。先生は同じ寅年の同級生「ユウジ」がトラという新作を自作自演した話を、目を細めて楽しそうに聞いていらした。

9月某日 三軒茶屋自宅
ミラノの小学校に戻った息子からメッセージが届く。親友たちのこと、担任のヴィットリアのこと、歴史の口頭試問で褒められた話など、学校が楽しくて仕方がない様子で、少し複雑な気持ちでそれを読む。

9月某日 三軒茶屋自宅
笹塚で先月の指揮ワークショップの続き。シューマンを初めからやると、到底先に進めないので、一番簡単そうな二楽章冒頭から始めるが、それでも冒頭の主題だけで3時間ほど過ぎてしまい、自分の効率が悪さに流石に嫌気がさす。今回ピアノを弾いてもらった坂東くんは、指揮を見ているだけで、指揮者が楽譜をどれだけ読んでいるか詳らかになることに驚いていた。
自分自身は、最初にこうして教わったとき何も理解できなかったので、皆の理解力の早さには感嘆するばかり。

9月某日 三軒茶屋自宅
朝から水一滴も飲まず、昼過ぎ赤坂で人間ドッグを受ける。昨晩23時に予約したが、キャンセルされたところへ入れてもらい、直近割引。
エコー検査は先輩の看護師が若い看護師に説明しながら。「ほらこれが肝臓で、これが膵臓ここをこう下から見ると何某で、これも写真にとって、ここがよくポリープが隠れている何某で医者が見て診断できるように写真をこう撮って…」と云われると、何かあったのかと気を揉む。バリウム検査は胃カメラよりずっと楽なのだろうが、げっぷなどとても我慢できず、それじゃ検査になりませんと叱られる。何もしていないのにどっと疲れる。

9月某日 羽田空港
アールレスピラン本番が終わったところ。ヴィヴァルディが最初に演奏されたので、バッハが敬愛したヴィヴァルディの快楽性が、本番の演奏に聴こえた気がする。演奏会後、楽屋に松原さんを訪ねてきた中学生くらいの女の子から、「文字を七進法でどう作曲するのですか」と質問を受ける。すごく興味があるとかで、目が輝いていて羨ましい。
毎回同じようだが違う演奏というのは、聞いていて楽しい。局所的にあそこを間違えたここを間違えたと思って聴く心配がなく、どうなってもそれが音楽的に演奏されているのであれば、受け容れられる気楽さもあるのだろう。

出発点と帰結点が大凡決まっているとして、その中の音が5秒前後したとして、その誤差が全体の音楽の構造に与える影響はどれだけか。その誤差を埋めるのが作曲の作業なのか、出発点から帰結点への道程を示すことが作曲なのか。書けば書くほど、演奏者は縛られる。楽譜に忠実であることをモットーに音楽をしていると、寧ろ縛られなければ演奏できないのではないか。

問題は、縛られた演奏は縛られた音がすること。良いも悪いもなく、縛られた演奏は縛られていて、自由な演奏は自由な音がする。そのどちらが良いということもなく、最終的には均整の趣味に関わる。クセナキスなどは、音楽家の態度を強く条件づけしながら、見事に音楽を立ち昇られることに成功した最たる例かもしれない。

9月某日 ボルツァーノ ホテルラウリン
朝の6時前にフランクフルトに着き、そこからヴェローナに飛んで、列車でボルツァーノに着いた。街で見かける人の殆どが独語を話している。
オーケストラ・ハイドンとのリハーサルを終えて、作曲のマヌエラとアルフォンソとアルトアディジェの酒屋で地元の赤ブドウ酒を呷る。折角なので、何かつまめるものを頂戴というと、薫製肉シュペックをパンにのせて出してくれる。ミラノで売っている燻製はスペック、ここで食べる本物は「シュペック」なのだと、ブレッサノーネで暮らすマヌエラが笑う。
ボルツァーノの二ヶ国語政策が余りに徹底しているので、一体どうなっているのか尋ねる。彼女の母国語は独語なので、ドイツ人学校で学校教育を受け、そこでイタリア語をかなり厳しく学んだので、イタリア語は下手なイタリア人より美しい言葉使いをする。
「ここまで来るのは本当に大変だったのよ。祖母の世代まではイタリア人が大嫌いだった。私の母はラディン人だったから、母はラディン語を話していた。でもまだ私が幼いころに亡くなってしまったから、あまりラディン語は上手にならなかった。でも理解はできるわ」。

ボルツァーノは神聖ローマ帝国の後、ナポレオンのイタリア王国の一部となり、その後オーストリア帝国に移り、そして第一次世界大戦後にイタリアに併合された。当時住民の殆どがドイツ系住民だったところに、ムッソリーニは南部のイタリア人を多数移住させて、イタリア化を目指した。
ドイツ系の苗字はイタリア風に改名させられ、イタリア語が強要されたので、ドイツ語は隠れキリシタンのように、家や秘密学校で秘密裏に子供へ受け継がれた。
第二次世界大戦中、ヒットラーとムッソリーニはこれらドイツ系住民に、イタリアに残ってイタリア人となるか、ドイツに移住しドイツ人になるかの選択を迫り、8割のドイツ人系住民がドイツに移住し、残った2割は裏切者と呼ばれた。
戦後、ナチスに移住させられた住民が戻っても、イタリアはこの地方に自治を認めた上でイタリア支配を続けた。現在この地方の住民の3分の2はドイツ系で、残りの殆どがイタリア系にわずかのラディン系が残っている。

「二ヶ国語政策を私は信じているわ。違う文化が二つあるなんて、得るものが沢山あるでしょう。純血主義とか国粋主義は、間違っているわ。でも、それはグローバリズムの波に呑まれることではないの。互いの文化を尊重しあい理解しあうこと。ラディン語もぜひ残って欲しい。あなたから見れば、この街並みはイタリアに見えないかもも知れない。でも、この街並みはドイツでもオーストリアでもスイスでもなくて、やっぱりイタリアなの。山を越えたインスブルックで呑むコーヒーは、全然違ってそれは不味いものよ。ドイツからここに友達が来ると、ああ地中海文化そのものだって大真面目に感激するの。あなたが聞いたら笑ってしまうと思うけれど」。

酒屋の傍らにある劇場の入口にも、伊語、独語、ラディン語で看板がかけてある。
切立ったアルプスの山の上に、煌々と光る満月がぽっかり浮かんでいる。

9月某日 ボルツァーノ ホテルラウリン
朝起きて、カタルニアで独立賛成派が過半数の議席獲得とのニュースを読む。イタリアだって北部同盟がある。経済的に北が南を養っている意識も明確にある。税金ばかりを払わされている印象もある。どうなるのか。

ムラーレス・プロムナードを録音する朝、ホテルでガスリーニの名盤「ムラーレス」を聴く。クラシック演奏家でジャズに憧れる人は相当数いるはずだ。今回のレコーディングは、頓死したガスリーニの未亡人が、随分熱心に実現に向けて働きかけたと聴いた。
朝メールを開くと亡くなった恩師の奥さまからお便りが届いていた。10月にある内輪の演奏会についてのお誘いで、こちらは予め存じ上げていたが、こうして直接お誘いを頂いたことに感激しつつ、自分に身近な作品の多くの書き手が、既に旅立ってしまっている事実に唖然とする。でも作品は確かに残り、それが自分にとって大きな励みとなっている。

(9月30日 ボルツァーノからミラノに戻る車内にて)

グロッソラリー ―ない ので ある―(12)

明智尚希

 1月1日:「やっぱり買い換えたほうがいいかもな。みんなが持ってるってことはそれだけいいものなんだろうし。迷ったら買うなとか言う人もいるけど、今回ばかりは反対させてもらおうかな。迷ったから買う。なんか変だな。迷っても買う。まあどんな言い方でもいいんだけど、今は買うほうが八割、買わないほうが二割ってとこだな――」。

ハヤク o|`┏ω┓´|ノ_彡☆キメナサイ

 言葉は話し尽くされ書き尽くされた。先哲が言及した以上に。今更、記号論も意味論もない。ラングとパロールもない。シニフィアンとシニフィエもない。人類史上、言葉ほど使われたものを探すのは困難だ。変化こそすれ、進化するでもなく発達するわけでもなかった。「はじめに言葉ありき」以来、これほどのご長寿は他に例があろうか。

ナニユユュュュュュュュ(*`ロ´*ノ)ノ 

 文化立国、観光立国、技術立国、まあいいじゃろ。だが何がしたいんじゃ。「立国」のコンセプトのみ先走って、あとに残るものは何かあるのかね。かりそめにも○○立国という看板を掲げたからには最先端をひた走ってなきゃならん。ところがどうだ。どれ一つとっても頭打ちかカオスの極みじゃないか。最先端が袋小路じゃ思いやられるわい。

( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )

 信雄は三郎の息子である。命名の由来はというと、まず男の子だから「英雄の『雄』」が挙がったが、母親の幸恵が「オスみたいで嫌だ」とごねたものの、夜のアレがきっかけで決着した。信雄の「信」は、「信用できる人」という意味でつけられたのだが、今ではいっぱしの詐欺師になりおおせ、信用できない人の意味となった信雄なのであった。

ヽ(oゝω・o)-☆ だよっ

 人間は火、言葉、道具を使えるので生物の中で最も優れていると言われている。だがこれは人間が人間のために設定した基準だ。犬だったらどうだろう。人間の一千万倍から一億倍の嗅覚を持ち、五倍から七倍の聴覚を具えている。基準要素が異なるだけで、王座につくものは変わる。godとdog。少なくとも神に近いのは犬のほうであるらしい。

ふ━━( ´_ゝ`)━( ´_ゝ`)━( ´_ゝ`)━━ん

 「ボランティア」とは「自発的な」という意味である。ボランティア活動は、困難な仕事を自発的にやるなんて素晴らしいと一段上に思われがちだが、勘違いもはなはだしい。活動している人間は、活動自体から満足や充実感といった反対給付をまんまと獲得している。活動されている側は、果たしてどう感じているのか知りたいところではある。

ヾ(゚Д゚ )チョットオクサン

 金太郎の前掛けいっちょで卒業式に乱入した。これだけでもあばれはっちゃく。更にあばれはっちゃくなことに、鼻くそで校長先生を制作した。シミュラークルにしてブリコラージュ。もっとあばれはっちゃくなことに、校歌を作って演奏して歌い、全生徒の役も演じた。前掛けはどこかに消え去っていた。開脚前転の真っ只中で最後っ屁だよ。

(゚□゚*)ナニーッ!!

 1月1日:「そうだ。松子に聞いてみればいいんだ。なんで気づかなかったんだろう。なんか抜けてるんだよなあ俺は。こうやってずっと一人で考えても埒が明かないし、確かあいつはスマホを持っているはず。松子おばさん、知ってるだろ? 俺の妹だよ。会ったことあったっけ。ない。あそう。え。忘れた? まあそのうち会うだろう――」。

(0’∀^0) マツコデス

 世の中は厳しい。学校でそう教わった。厳しいのは確かだった。不条理に満ちた厳しさである。正しい言動が正しい結果を導くのは珍しい。子供あるいは学校の先生にはわかりかねる、権力構造があり利害得失がありコネとカネがある。妙な夢や希望をかき立てさせることなどせずに、早い段階で人間社会の表裏を洗いざらい暴露してはどうか。

( ゚д゚)ンマッ!!

 夏の猛暑日。バケツの底の残り水に大量のボウフラが湧いていた。なぜ自分はボウフラやウジ虫やダニやノミではなく、あろうことか人間様とやらに生まれついたのか。そんなことを反芻しながらバケツの底を覗く。くねって泳いでいるもの、早くも死んでいるがごときもの。この中で小賢しくて虚栄心の強いものが、いずれ転生して人間になる。

∠( ゚д゚)/ 「え」

 ほれ、あれ、なんつうんじゃったっけ。雨が降ったり降らなかったり、雪が降ったり降らなかったりするとこじゃ。雨や雪じゃなくてもいい。みぞれでもひょうでも何でもいい。え? 雲? 違う違う。雲はぷかぷか浮いとるだけじゃ。そうじゃなくて明るくなったり暗くなったり、そこの高いとこをこう飛行機がす〜っと横切って行って――空。

オーマーエーハー ((ミ ̄エ ̄ミ)) アーホーカー

 毎日のそこかしこに死ぬチャンスが転がっている。入線してくる列車、人気のない暗い裏道、数知れぬ交差点、身の回りの鈍器や刃物、枚挙にいとまがない。誰もが死ぬチャンスをぎりぎり回避しながら、生きるチャンスにありついている。もし一秒早く家を出ていたら、もし一旦足を止めていたら、もし携帯電話に目を落としていたら……。

(゜Д゜三⊂(゜Д゜)スカ。

佐野洋子のまなざし

若松恵子

神奈川近代文学館で7月25日から9月27日まで開催されていた「まるごと佐野洋子展」を見に行った。

絵本『100万回生きたねこ』の作者として佐野洋子の名前を知っている人も多いだろう。死ぬたびに生き返って100万回生きた猫が、愛する白猫と出逢って幸せに暮らした後には、とうとう生き返りませんでした。というストーリーだ。この作品だけスゴイスゴイと奉られるのもなんだかなーと感じていたので「まるごと」と言う題名に、時々辛辣な佐野洋子や、兄との思い出を幻想的な物語にした佐野洋子や、谷川俊太郎をメロメロにした佐野洋子がみんな見られるのだろうと期待して出かけた。

意外だったのだけれど、絵本の原画がおもしろかった。逡巡のあともなく、ひとふで書きのようにきっぱりとした線で、たしかな形が描かれている。うまいと思った。

会場には佐野の著作から抜粋したいくつかの言葉がパネルになっていて、そのなかに、絵本は印刷されて完成した絵本そのものが原画であり、何度も版を重ねることで絵がつぶれてしまってもそれはそれで仕方がないのだという内容の文章があって、その姿勢は潔いなとは思うけれど、佐野の手から直接生み出された原画が持つ魅力と言うのは確かにあるなと思った。

絵本「わたしのぼうし」のなかの1ページ、夏の帽子をかぶってしゃがむ幼い兄弟の後ろ姿の絵のそばには、この作品のモチーフとなった幼い頃の写真が並べて展示されていた。構図は同じだけれど、絵を眺めていると、佐野洋子は写真を絵にしたのではなくて、写真を見て思い出された心のなかの情景を絵にしたのだと思えてくる。思い出が、形をあたえられたのだ。「絵がうまいですね」なんて言ったら、「見えた通りに描いただけだ」という答えが返ってきそうだけれど。

とにかく見つめ続けてきた人、佐野洋子にそんな印象を持った。愛を、子育てを、母との確執を、死ぬことを見つめ続け、見えたことを書き留めたのが佐野洋子の絵本やエッセイであった。

時に彼女のまなざしは、キツイ。日常生活のなかで見て見ぬ振りをしているもの、ごまかしているものをあばき出してしまうまなざしだ。自分自身でさえわからなくなってしまった「本当の気持ち」を見抜かれてしまうことさえある。では、佐野洋子はいじわるなのか? 辛辣ではあるけれど、可愛げはないけれど、いじわるではない。

佐野洋子の妥協のないまなざし、それはどこから来ているのか…。その疑問を解くヒントとなる文章を母との物語を綴った『シズコさん』(新潮社/2008年)のなかに見つけた。

絵本「わたしのぼうし」のモチーフとなった写真にいっしょに写っている1歳上の兄、ひさしは、佐野に深い影響を与えているが、その兄は「とび抜けて絵がうまかった。」という。そして、佐野は兄が絵を描くときに、「べったりと兄の前に坐り、髪の下から絵を描くのをかたずをのんで見ているのが好きだった。兄は絵を下からかきぴたりと上におさめた。私はほれぼれと絵を見た。(中略)私は兄の絵を見る人だった。そして仕上がると私は本当に満足してとても幸せなのだった」のだ。兄の目を通して、佐野もまた世界を眺めていたのだろう。兄が11歳でこの世を去ることで、佐野のまなざしもまた11歳のまま凍結された。佐野の辛辣さは、11歳の男の子の、子どもの率直さだということなのだ。

佐野洋子は感の強い子どものまなざしで、母を、自分自身をみつめる。心の底では兄のかわりに自分が死ねばよかったのだと思っている母、「絵は兄ちゃんが描くものだった。(兄が死んで)絵の具は私のものになった。」絵本作家になった後に、自分自身についてもこんな厳しい回想をする。これは見えなかった方が良かった物語なのか。いや、時に佐野の物語に自分を発見して救われることもあるのではないかと思う。

「パンジ・トゥンガル」

冨岡三智

いつの間にか月末になってしまい、またもや泥縄で原稿を書いている。というわけで、今回は、来たる10月3日の「観月の夕べ」公演で踊る「パンジ・トゥンガル」という曲のよもやま話を書いてみる。

「パンジ・トゥンガル」はスラカルタ宮廷に伝わる男性宮廷舞踊で―1650年パク・ブウォノ2世(1726-49)の作という―、1970年代の宮廷舞踊の解禁を受けて舞踊家の故ガリマンにより復曲された。インドネシア国立芸術大学スラカルタ校のカリキュラムに入っていて、3年生で履修する。男性優形(アルス)の極みとも言われる曲で、『パンジ物語』の主人公のパンジとは関係なく、キャラクターのない舞踊である。

曲名は1人のパンジという意味で、本来は2人で戦うウィレンという形式の舞踊を1人バージョンにしたもの。1人版に直したのもガリマンで、私が勝手にアレンジしたわけではない。元の2人版の舞踊名は、通称「パンジ・クンバル」(2人のパンジ)、または「パンジ・スプー」(老いたパンジ)という。ただし、本当は「パンジ・アノム」(若いパンジ)だという意見もある。伝説として、スラカルタ宮廷には王位を継ぐ者が宮廷の宝物が納められた部屋で1人誰にも見られずに踊る舞踊があるといい、それが「パンジ・スプー」である。その舞踊を踊りながら、王たらんとする者は「人はどこから来てどこへ行くのか」というジャワ哲学の問いを自問するが、ガリマンの舞踊はその王の境地に至っていないという意味で「若いパンジ」ということらしい。

若い境地とはいえ、この舞踊はなかなか難解である。テーマとしては、他の宮廷舞踊と同様、内面の葛藤や克服に至る過程を描いているのだが、メタファとしての戦いのシーンがない。女性宮廷舞踊のスリンピやブドヨには戦いのシーンがあって、ピストルを発砲したり矢を射たりする。しかし、この舞踊では剣を抜きそうな感じになるが最後まで剣は抜かないのだ。2人版でもそうで、チャンバラやってカタルシス…というわけにはいかず、徐々に緊張感が積み重なっていくのだが、最後に何か感じるところが残る。

この曲は、宮廷女性舞踊のスリンピやブドヨのように、最初から最後まで息の長い節回しの女声斉唱(ブダヤン)がつくのだが、この舞踊のブダヤンが一番大変かもしれない。というのも、一番単調そうに見えるからだ。もっとも、ジャワ宮廷舞踊曲は現在人の感覚からすればどれも単調だが…。それでも、ブドヨの歌は音高がかなり上がり下がりするし、途中で転調するのもある。スリンピは大きい形式の曲から始まって複数の異なる形式のものをつないでいき、曲が変わるごとに雰囲気が変わる。ところが、「パンジ・トゥンガル/クンバル」の場合はラドランという小さい形式の曲がずっと続き、大きな速度変化がほとんどない。たぶん、歌手にすれば念仏を唱えているような境地だろうな…と想像する。それでも、私にとっては、その淡々とした流れの中に、緊張感が高まったり少しゆるんだり、焦ったり落ち着いたり、といった山や谷がいくつもあるのである。

この舞踊の振付について昔はよく理解できなかったが、最近はなんだか踊らされる曲だなあと感じている。自分の意志で動いているというより、舞台の四隅から目に見えない糸が伸びてきて、引っ張られていくような感じだ。そういう引っ張られていくような動きが多いのである。ジャワでは神にすべてをゆだね(パスラー)、神と合一する境地が理想とされる。大いなるものに身を委ねるように踊れたらよいのだろうが、そこまで悟っていない自分を自覚しつつ、10/3に臨んでいる…。

フェリー乗り場のラジカセ

植松眞人

 十一月になると瀬戸内の海に太刀魚が回遊してくる。神戸のフェリー乗り場の端から、停泊しているフェリーの船体ぎりぎりに投げ入れた仕掛けで、時には入れ食い状態になる。
 小回りのきく小さめの投げ竿に、生きたままのドジョウを巻き付けた仕掛けを取り付けて投げ入れるのだが、冷え込む夜でも次々に釣れると汗をかくほどに上気する。なにしろ、太刀魚は体長が一メートルを超えるものもあり、当たりも大きくとてもスポーティで楽しい釣りなのだった。
 洋一は毎年太刀魚の釣れる時期になると父親のスーパーカブの荷台にまたがって自宅から三十分ほどのフェリー乗り場にやってくるのだった。このフェリー乗り場から出るフェリーは淡路島や小豆島へと航行していて、夏には海水浴に出かけたりもしていたので、ここで釣りをしているときも、洋一は夏によく行く淡路島や小豆島がいまどんな様子なのかと思いを巡らすのが好きだった。
 洋一が父に連れられてフェリー乗り場に釣りに出かけていたのは小学校三年生から六年生あたりだったと思うが、確か最後の年かそのひとつ前の年に、不思議なことがあった。
 真っ暗な海に浮かんでいるフェリーの船体ぎりぎりに洋一が仕掛けを投げ込んでいた。父は少し離れた場所にいて、そこで釣っていたのは洋一ひとりだった。何匹か銀色に光る太刀魚を釣り上げ、青いビニール袋にそれをしまい込んだあと、ぴたりと釣れなくなっていた。さっきまで汗をかくほどに上気していた身体は、一端釣れなくなるとあっと言う間に冷えてしまった。
 釣れない釣りほど小学生に辛いものはない。しかし、だからといって「帰ろう」というわけにもいかない。そんな時のために、洋一はラジカセをリュックの中に忍ばせていた。タレントがDJを務めるラジオ番組で聞きながら退屈を紛らせようという魂胆だった。
 これまでに、何度か釣れないこともあったが持ってきたラジカセを実際に聞いたことはなかった。今日はちょうどいい。父も離れた場所にいるし周囲には誰もいない。
 洋一はラジカセを出して、あまり音が響かないように好きな番組をチューニングした。ちょうど、好きな曲が流れ始めたところだった。最近流行っているちょっとコミカルな曲は、退屈していた洋一の気持ちを明るくした。
 さて、もう一度仕掛けを投げ込むか、もう諦めてしまうか、迷っていたのだが、妙なことに気がついた。ただ、停泊しているだけのフェリーに乗り降りをするためのタラップが取り付けられた状態になったいるのである。普通は、この時間こんなものが装着されていることはなかったはずだと思うのだが、確かに付けられている。
 なんとなく妙だ、と洋一がそのタラップを眺めていると、学生服を着た中学生らしき集団が五人ほどフェリーから降りてきたのである。いったい、こんな時間に中学生だけが船を降りてくるなんてことがあるだろうか。洋一はなんとなくあまり目を合わせないように、海を眺めているふりをしながら、彼らの気配に全身の神経を向けていた。
 しかし、気配そのものがあまりしないのだった。ただ、音もなく五人ほどの中学生が黒い塊として、フェリーを降りてきて、洋一が釣りをしている堤防を歩いていく。ふと空気の流れを感じて、自分の背後に視線を向けるといつの間にそこに立っていたのか、坊主頭の中学生がいた。
「ねえ、ねえ」
 中学生は洋一に話しかけてきた。声変わりのしていない、ちょっと高い声がかわいかった。
「はい」
 緊張していた洋一はきちんと目上の人と接するように返事をした。
「これはなんね」
 坊主頭の中学生は、舫いをつなぎ止めるアンカーの上に洋一が置いたラジカセを指さしていた。
「ラジカセです」
「ラジカセってなんね」
「ラジオです。それと、カセットテープも録音したり聞けたりするんです」
 そう答えると、中学生はさらにラジカセに近づいてそこにしゃがむと、ラジオを聞きだした。
「ええ音やねえ」
「あ、はい」
「ええ音や。聞いたことのないような音楽やけど、これは不思議なもんやねえ」
 そう言うと、中学生は立ち上がり、
「ありがとね」
 と礼を言って立ち去った。
 洋一は、しばらくのあいだ中学生が聞いていたラジカセをじっと見つめていた。どのくらいラジカセを見ていたのだろう、あ、と声を上げて中学生が去って行ったほうを振り返った。もう、中学生はいなかった。いなかったけれど、なんとなくその方向に中学生たちの気配の塊のようなものを今度は感じるのだった。
 中学生がいなくなってから、急にあたりが暖かくなった気がした。洋一の額からは汗が噴き出した。なんだか、不思議な気持ちになって釣り竿を持ち、仕掛けを投げ入れると、さっきまでまったく釣れなかったのが嘘のように、一振り毎に太刀魚が釣れた。何匹も何匹も銀色に光る刀のような魚が容量の大きなビニール袋からあふれるほどに釣れた。
 最初は夢中になって釣っていた洋一だが、だんだんと怖くなってきた。洋一は釣りをやめて帰り支度をし始めた。ビニール袋から数匹の太刀魚が頭をのぞかせている。いつもなら、無造作にスニーカーで太刀魚の頭をビニールに押し込んで、ギュッと口を締めるのだが、その日はなぜかそれができなかった。
 どのくらいの時間だったのだろう。おそらく一時間か二時間、洋一はビニール袋からのぞく太刀魚の頭を呆然と眺めていた。太刀魚は歯が鋭く凶暴なので、釣り上げた瞬間に頭を靴で踏みつけて絶命させる。そのため、ビニール袋からはみ出した太刀魚の頭は血を流していた。それぞれに違う血の流れ方を眺めているうちに、隣り合った太刀魚の血と血が混ざり合っていることに気付いたのだった。洋一は、背後から父に「帰るぞ」と声をかけられるまでじっと太刀魚の頭を眺めていた。
 帰り際、父はぐるっとフェリー乗り場を見渡してちょっと不思議そうな顔をした。
 その後、フェリー乗り場から来るときと同じように、スーパーカブの荷台に乗せられて自宅へと帰った。その帰り道の信号待ちで、洋一は父に聞いた。
「なあ、さっき僕、中学生の兄ちゃんと話してん」
「ああ、そうやな。父ちゃんのとこからも見えてたわ。丸坊主の子やろ」
「うん」
 父がそう言ってくれたので、洋一はなんだかとても安心して、父の腰に回した手に力を入れたのだった。(了)

アジアのごはん(70)食べない選択

森下ヒバリ

戦争法案に気を取られているうちに、フクイチは大変なことになっている。フクイチ・ライブカメラという24時間の監視カメラが幾つもあるが、それを監視していて、動きがあった時にまとめて見せてくれる人たちがいるおかげで、蒸気が噴出したり、ぴかぴか閃光が走ったり、地面が揺れたりしているのをダイジェストで見ることができる。これらを見ていると、ちょっと絶望的な気持ちになってくる。なにがアンダーコントロールだ。

今年の4月後半からフクイチからは連日、蒸気がモクモクと出ていて、たいへんな量の核種が日本中にまき散らされているようだ。これを海霧と主張する人たちもいるが、映像を見ればフクイチの地面から噴出しているじゃあないの。

去年、京都のマンションの三階に引っ越してからSOEKSのガイガーカウンターで線量をはかってきたが、それまでだいたい0.08〜0.12マイクロシーベルトで0.1を越すことは少なかったのが4月の終わりから0.12~0.16マイクロシーベルト位になって、0.1を下回ることがなくなった。(この器械は他の日本製より高めに数値が出る)ときどき、高い数値がいきなり出たりするので、ドキドキするが、しばらく計りつづけていると、平均値が出て来る。

始めの頃は、カバーのビニール袋にセシウムでも着いているのか、と取り換えてみたり、場所を替えたりしてみたが、どうも全体に線量が上がっているとしか考えられない。ああ〜。家だけでなく、近所の友人宅や、大阪に出かけた時にも計ってみたが、だいたい同じぐらい、大阪は京都よりも少し高めだった。ちなみに、先日タイから一時帰国した友人がバンコクで計ってきた値は0.04。

先日、一週間ほど東の方に仕事に行っていた同居人が京都に帰って来たので、ちょうど遊びに来ていたOリングの達人の友人にチェックしてもらったら、身体からわずかだが放射性物質の反応が出た。ヒバリにはなかったし、気管や肺からは反応しなかったので、やはり東の方で食べたものからもらったようだ。実は同居人からは8月にチェックした時も反応が出ている。(それはモリンガで排出されていたのだが)3.11以来、何度となく東日本に仕事に出かけていても、これまで反応が出たことはなかっただけに、今年後半のうちに2回も出たのには、正直驚いた。

たかだか一週間外食が続いたら、どこかの時点でセシウムを取り込んでしまう可能性が高いという、外食状況はかなりまずい。家で食べるものにはかなり気を付けているが、原発事故から4年半が過ぎて、正直気持ちがゆるんでいた。今、核種がどんどん飛んでいるとなると、2011年事故当時ぐらいの慎重さが必要だと思う。で、おさらい。

セシウムなどを集めやすい食べ物は、山菜・きのこ・お茶の葉、果物、イノシシなどの野生動物、大型の魚類、海の底に住むヒラメなどの魚や貝である。個別に安全が確認できれば問題ないが、確認できない場合は避けるしかない。関西に住んでいるので、これら要注意の食べ物は、スーパーなどでは東日本以外のものをわりと簡単に選べるのが楽だ。産地偽装が無ければ、だけど‥。ただ、回転ずしやチェーン店の外食は、きっぱり避けている。これは日本中どこでも安価な汚染地域、または放射能が検出されて流通できないはずの食品が使われている可能性が高いためだ。

もう飲んじゃったという人も多いとは思うが、今年の新茶は2011年に汚染された地域以外の産地でも反応が出ているので、残念ながら今年の新茶はどこの地方のものも飲まないほうがいい。Oリングでのチェックなので、信用できないと思う人は仕方ないが。これまで反応の出なかった愛用していた茶葉から出たのには心底悲しくなった。わずかな反応とはいっても体に悪いレベルの反応なので、飲み続けるのは危険である。もったいないなどとはいってられない。

魚はとくに気を付けたい。福島近海産はもちろんのこと、北太平洋のマグロはもう危険だ。マグロは肉食で生物濃縮のかなり上位にいる。マグロがどうしても食べたいなら、インド洋産か南太平洋産のものを選ぶ。分からない場合は食べない。事故からすぐは、まだ生物濃縮されていなかったのだが、最近はかなり濃縮されている模様‥。もちろんマグロはセシウム以外の鉛やPCBなどの重金属・有害物質の蓄積も多い。

カツオは、南太平洋産のもので九州で陸揚げされたのものだけ食べる。南から上がってきた初鰹はまだしも、日本沿岸の戻りガツオは福島沖を通るので、食べない。江戸前の海産物も避ける。東京湾の汚染は福島と同程度と言われている。

さんまの内臓と骨は食べない。骨はストロンチウムが溜まっている可能性が高いので、さんまに限らず魚の骨は食べない。骨ごと食べる小魚は必ず西のもの。セシウムは筋肉に溜まりやすいが、内臓は鉛などほかの重金属などが溜まりやすいので、注意。

外食するときに海産物を食べるなら、なるべく信用できる店で産地がはっきりしているものを食べるしかない。東日本での海産物の外食はロシアンルーレットになってきたと思った方がいいかもね。

三陸の漁業関係のみなさんには申し訳ないが、うちでは海産物は太平洋岸のものは三重県以西、青森より北のものを食べるようにしている。海産物を食べる量をもっと減らしていくべきなんだろうな。魚好きの人間にとっては辛いが、まあ分かっていたとはいえ、そろそろ腹をくくるべき時期なのだろう。フクイチからの汚染水はだだ漏れで、トリチウムの危険性も分かってきた。海の汚染はじわじわと引き返せないところまで広がっている。

かつて、60歳以上の人間はセシウムなど食べてもあまり影響がないなどと言われていたが、それは影響を受けやすい若い人の細胞に比べれば、と言う程度の話である。セシウムの反応が出た同居人は、一度目の時のチェックでは甲状腺や内臓に反応が見られ、さらにその影響と思われる唾液腺ガン前駆症状(ほっとくとガン化)、声帯ポリープが見つかった。体内のセシウム排出にモリンガの粉末カプセル4錠×2回×21日が必要とされたが、それらの症状もこれでなくなると出た。つまり、わずかなセシウムであっても体内にあると、その近くの器官に影響を及ぼすのである。(ちなみに、これまで体内被曝している反応が出た知人たちに処方されたモリンガの量はこの10倍ぐらいだった)

以前の水牛通信にも書いたが、セシウムもわずかな量ならモリンガ、スピルリナ、ゼオライトで体内から排出が出来る。ゼオライト鉱石は飲みにくいが、汚染の心配のない産地の粉末のものを入手して、コップ一杯の水に小さじ一杯溶かし、しばらく置いといてその上澄みを飲む。野菜を洗う水に少し加えたりするといい。きちんと作られた汚染の心配のない発酵食品も重要。

まじめに、きちんとお茶や果物を作っている人たちのことや、海で生活している人のことを考えると、どうしようもない気持ちになるが、これが現実である。食べて応援などできないし、応援などにはならない。事故を起こした東京電力はもちろんのこと、原子力産業を日本に誘致した中曽根元首相はじめ原子力を推進してきた自民党の政治家・官僚、原子力産業の企業、そして電源全喪失はありえないと言って、事故に備えなかった安倍晋三、直ちに影響がないと繰り返した当時の民主党政権も含め、責任を取るべきは彼らであって、わたしたち個人のいのちや健康ではない。

製本かい摘みましては(113)

四釜裕子

東京ステーションギャラリーに『月映(つくはえ)』展を観る。「回覧雑誌めいたものを造ってはどうかな」。下宿に集まる美術学生のひとりが何気なく口にしたこのひとことで、詩などを書いた原稿用紙と、スケッチブックやカンヴァスに描いた絵を台紙に貼付けたものなどをリボンで綴じただけの、3、4人の仲間による雑誌『ホクト』がまもなくできたそうだ。田中恭吉と藤森静雄がそれぞれ編集した2冊(1911)で終わったが、2年後には田中が個人作品集として始めた『密室』がまたまた回覧雑誌となり、9号まで続くことになる。

冊子のいくつかは綴じ紐をとかれて、表紙をひらいて額装されていた。2つか4つ穴の平綴じで、両表紙にある美しい作品やタイトルをなるほどこのようにして見たくなるものだとは思ったが、折りじわをていねいに伸ばしたのだろう、やや白味を帯びた2本のラインに、からだのかたいひとが背中を押されて開脚前屈しているのを見ているような、なにかこう、こちらの脚の付け根がぴくぴくしてくるような、そんな気がしたことも確かだ。よもや100余年後に、こんな姿でたくさんのひとに額を寄せて見られることになろうとは。

『密室』には途中から恩地孝四郎が参加するようになり、田中、藤森、恩地の3人で自刻の木版画集を作ろうと盛り上がる。当時やりとりしたはがきも展示されていて、これがまたいい。田中が恩地にあてたものには、〈ねむれなかった〉、〈月映はどう? わたしは月映といふ字づらのすっきりしたのがこのもしい〉、〈刀がとどいたのできのふは半日とぎやさんを二人で、した、こんな仕事は一緒にやりたくおもふ、おもしろおかしく〉などなど。書名は『月映』と決まり、たとうに挟むかたちで最初は3部、そして1914年には200部の出版が叶う。

はじまりに手作業は良く似合う。高田敏子は最初の二冊の詩集を作るにあたって、子どもたちの助けを借りたそうだ。長女、久冨純江さんが『母の手 詩人・高田敏子との日々』(2000)に書いている。『雪花石膏』(1954 200冊)は表紙カバーを折るだけだったが、『人体聖堂』(1955 300冊)は、〈カバー用の厚紙に黄色いリボンをつけ、詩集を包んで結〉ぶのを妹の喜佐さんと手伝ったそうだ。リボンをどう結んだのだろう。ウェブで見ると、段ボール地のカバーに黄色のリボンをつけたようだ。みんなで蝶結びしたのだろうか。〈茶の間が黄色に染まった〉。母、二人の娘とも器用だったから造作ないことだったろう。にしても、300はうんざりだったのかもしれない。

131 遺さない言葉(2)ことし

藤井貞和

 葉裏のキーボードを、
 かぜがさわります。
 なんだか通信したそうにして、
 メールがやってくる。

 葉裏のパソコンが、
 かたかたと打っている、それが、
 ここから見える。 
 葉隠れの術という、ははは。

 せつじつなメールが、
 交わされている。 「基地」
 を「墓地」と打ち間違えている。

 返信したそうに、
 しばらく鳴って、
 動かなくなる、あなたはだれ。

(フリーズ、ことし。誕生日のうたがどこからか流れる、あした。だれかの書き損ないは、わたし。わたしの書き直しは、あいつ。あいつの書けなさったら、おいら。おいらを書き終えるえんぴつ。パソコンが内蔵されていて、書けなくなる日のプログラミング。火を継いで書きましょう、知らないなかま。おやすみのキス。)

作曲家・ピアニストの割り切れなさ

高橋悠治

子どもの頃から作曲したかったが なにも書けず 生活もできないので オペラの稽古ピアニストになり 数年後に偶然から前衛音楽のピアニストになった 1960年代ヨーロッパでもアメリカでもほかのピアニストが弾きたがらない曲を弾き それだけでは生活できなくなってしかたなく バッハを弾くことになった 作曲する時は ピアノを使わず ピアノ曲はあまり書かないようにしていた ピアニストの定番、19世紀音楽は弾く技術がなく 弾く気もなかった

 1990年代には 声のサンプリングを使ってコンピュータで即興していた頃があったが 電子音はどんなソフトウェアを使っても 設定した響きを越えられない 偶然もなく発見もないから飽きてしまった

その後は 年金では暮らせないし 作曲では生活できないから またピアノを弾いている 頼まれるコンサートにはできるだけ自分の作品を入れるようにする その結果ピアノ曲やピアノを使う曲ばかり書くことになる しかたのないことだ はたらきすぎれば 税金にとられ 国民保険の自己負担が増え 自由時間もなくなるから 人になじまず 人目につかないうごきがよい 

中心も行先もない 流れて消える音 構造や構成でもなく複雑さでもなく 楽譜に書けない僅かなリズムの崩れや翳りを行間ににじませる ピアノの演奏も ほんのちょっとの響きや間のとりかたで 流れが変わる その場では共感できても説明も分析もできない 可能性は自分のために できるだけ短く書きつけておく 

1990年代に三味線を習って楽器と手の接触を感じた時は 音はからだのうごきの結果のように思われた 音楽はリズムと音色(ねいろ) 音色は響きの空間で楽器だけでなく音律と音程 旋律と音形もすべて入る 岩波書店から『世界音楽の本』の編集の時はそういう論理だった いまはもっと細かくふるえる神経の束 三味線や経絡でいうツボとヒビキのように 論理で要約し分析して要素に還元するのではなく 区切るだけ 毎回の現れをちがうものとしてあつかう 現れの裏にはなにもない  偶然の瞬間がまばらに断続するだけ 毎日の生活のなかで食べて寝るのとおなじように とりたててなにごともなく起こる瞬間は 循環する時間 位置座標や方向のない空間 遠近だけがある 「方法や理論があっても使わない 人の先に立たない 遠くには行かない なにかが近く見えても そのままにしておく」(老子67章と80章を参考に) 

Red River Valley

管啓次郎

起きなさい、目を覚まして
心があの洞窟を思い出す前に
いま起きれば、ぼくの部屋を起点とする
風の旅にきみも乗ることができるよ
風は空気の切れ目を上手に使って
しじみくらいの大きさの小さな蝶をひらひら飛ばす
起きてごらん、水のように疲れた太陽が
葉叢ごしに三日月型の光をたくさん投げかけている
こんな時間は緑色の海流の中を
ゆったりと泳ぐ海亀のように貴重だ
それなのに sleepy head きみの心が
あの洞窟に引き寄せられているのがわかる
きみの瞼のぴくぴくする動きでわかるんだ
きみは掌をかざすようにして
あの水しぶきと光を避けているつもりだね
あの心細い洞窟の
むこうの端に見える光の点をめざして
あのときぼくらは水音の中を歩いた
あのころ世界は途方に暮れていた
あるところから先は全身にふりかかる
水しぶきを避けることができない
玄武岩の洞窟の天井から水のカーテンが落下して
洞窟の床がごつごつした川になる
すさまじい水音が心をおびやかす
降りしきる雨だ、空もないのに
流れる川だ、光もないのに
岩の壁に身を寄せながら
暗い川のほとりを歩いていった。
すると水音も気持ちもガムランのように高まって
心が蒸発するほど熱くなる
しぶきが飛んで人の頬も髪も濡れる
やがて水の皮膜のむこうに
小さく乾いた光の土地が見える
激しい岩に乱反射する小さな、でも何という眩しさ
でも今ここはまだ水の邦で
水音に音声をすっかり掻き消されながら
魂と心がざわざわと会話する
それを身体を代表して目が見ている
存在を代表して心が聴いている
どんなさびしい群衆がここで暮らすのだろう
体験したことのない造形に
すべての行方をまかせながら。
炎のように冷たい水が踝を濡らして
膝にも太腿にも水しぶきがかかり
ただ小さな光の点をめざして歩いてゆくのだ
轟音の中を
どんな通過儀礼を経ても
どんな加持祈祷を準備しても
すべての実効性と実定法が失われる
そんな場所だった
きみがそこに何を見たのかはわからないけれど
きみの心はそこをなつかしがっている
きみの呼吸が速くなり
両脚がゆっくりと水を掻くような動作をすることでもわかる
帰っていくの? 
どうしても?
それが世界に対する意地悪な否定だとしても?
起きなさい、目を覚まして
この紫色の空と鳥のように紅い花の配色をごらん
いまそれを見て記憶しなければ
次の千年もガラス玉のように生きるしかなくなる
空から火山灰が降るのを待望しつつ
生の意味を見失いつつ
ほら、犬たちが吠えた、起床の呼びかけだよ
夢に濡れた足を乾かして
まどろみから出ていく時間だ。
起きなさい、でもきみは起きないので
眠ったままのきみを無理やり立ち上がらせて
ぼくの部屋を起点とする風に一緒に乗ろうと思ったけれど
もう遅い、あの洞窟に引き戻されてしまった。
わかったよ、では歩いていこう
あのときとまったくおなじように
洞窟がはじまる
ここから先は足場も水の中
地中の川を歩いていかなくてはならない
おまけにきみは眠っているので
手を引きつつ四つの足下を確認しなくてはならないんだ
水音はいよいよ激しい
いったい何がそんなに大きな音を
水の分子が岩の分子にぶつかったところで
そんなに大きな音が出るものだろうか
水分子の塊がものすごい量なので
それが落下して岩面にぶつかるとき
水分子の塊と同量の空気がその場所を逃げ出してゆく
その際に空気があげる悲鳴なのか。
それにともない場所の霊たちが
脱出できない自分の悔しさを表そうとするのか。
きみの眠りが解けない分
ぼくは驚くほど覚醒している
足をとられないように細心の注意を払いつつ
何かにすがるように岸壁に右手をふれながら
左手できみの手を引きながら
暗い洞窟を歩いていく
その端の小さな光の点がだんだん大きくなって
出口近くの水のカーテン越しに
外の風景がうかがえる場所まで来た
いつか見た、あの水の皮膜だ
その先はすぐ外の世界
切れ目なく降り注ぐ水のカーテンを前に
覚悟を決めなくてはならない
さあ、走ろうか、きみとぼくは
目を覚ましてよ
でもきみは曖昧に頷くだけ
ぼくはきみを引く手に力をこめ
右手を額にかざして水を避けられるようにして
ともかく走り出す
光にむかって
外にむかって
走るといってもそれは極端なスローモーション
一瞬ごとに水の刃がぼくらを面的に切断するようだ
痛い、痛い、冷たい、冷たい、
でも外がぐんぐん迫って
水のむこうの映像が現実になる
抜けた!
もう大丈夫
速度をゆるめてずぶぬれの体のまま
ふらふらと洞窟の出口に到達した。
息が切れてどうしようもないが
なんという安心感、爽快感
そしてごらん、これが光の世界だ
洞窟の出口は崖の中ほどのテラスにあって
そこからは岩山の地帯を見わたすことができる
こんな景観は見たことがなかった
険しい岩の頂がいくつか
その合間の平地は濃い緑の森に覆われ
そこに細いけれど強烈な輝きのある川が流れている
ぼくらをスライスしようとしたさっきのあの水も
この川に流れこんでいることは明らかだ
人の気配はまったくない
ついにここまでやってきたのかと思うと
心から充実感がこみあげてくる
わかったよ、ここにやってくるために
いつかの旅をつづけるために
きみはずっと眠っていたんだね
風が吹いてきてTシャツとジーンズから気化熱を奪うので
たぶん気温はかなり高いが寒いほどだ
ケーン、ケーンと啼くのは雉子のような鳥だろうか
アイオーンと遠吠えで呼び交すのは山犬だろうか
それ以外には物音のしない
しずかで美しい邦だ
空の低いところで燕が群舞する
空の高いところで猛禽が滑空する
ぼくらの目の前にはしじみのような
小さな蝶がひらひらと舞っている
なんだ、ぼくの部屋を起点とする風に乗ったとしても
行き着く先はおなじこの場所だったんだ、とぼくは悟る
それで誰もうらむ気もなく、うらやむ気もなくなった
ただこの場所でこの光この風を楽しんでいる
これからどうするかは考えることもできない
おなじ地点にいるのにさっきより標高が上がった気がする
目に見える土地の範囲はいよいよ広がって
ここはもう成層圏かもしれない
ぼくは歌をうたった
Red River Valley
赤い川ではないけれど、この谷間のために
険しい岩山に囲まれた、この土地のために
すると眠っていたきみがいつしか声を合わせて
眠ったままおなじ歌をうたいはじめるのだ
おはよう、やっと目が覚めた?
ここは新しい土地、もっとも古い風景だ