シナリオへの誘惑

三橋圭介

アントニオーニの映画を読む。もちろんシナリオのことだ。

1950年代終わりごろ、テレビの時代ははじまっていた。しかし映画こそが娯楽であり文化だった。さまざまな雑誌(「映画芸術」、「映画批評」)が生まれ、親しまれたのだろう(演劇や実験的パフォーマンスなども紹介されていた)。そこには必ず特集された映画のシナリオが含まれていた。それがどうやって作られたか容易に想像がつく。おそらく映画配給会社から提供された日本語字幕に編集者が状況説明を加えるのだろう。

シナリオとは「映画・テレビなどの脚本。場面の構成や人物の動き・せりふなどを書き込んだもの。台本。」とある(映画の場合、カメラの位置や角度、音楽の入りなども書かれていることも多い)。それを作るのは脚本家であり監督であるが、監督がその二つの役割を兼ねることも多く、最終的に監督が責任をもってシナリオを仕上げるだろう。最初に書かれたシナリオがそのまま映画になることは稀かもしれない。修正しながら映画は完成し、そしてシナリオは書き換えられていく。

最近の日本映画などはシナリオが販売されることはほとんどないようだが、過去の名作、話題作はシナリオが発売されている。最近では、たとえばカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した韓国のポン・ジュノの「パラサイト」もそのひとつだ。少しまえ授業で使おうと思い、amazonで映画音楽のCDとシナリオ(英語版)を購入した。このシナリオは本として存在しているわけではなく、受注に応じたオンデマンド・ブックで、amazonが独自でやっているようだ。表紙や紙はしっかりしているが、字幕が垂れ流し状態で記されている。登場人物の誰がどこでどんな状況で話しているかは、これだけではわからない。これは英語字幕であり、もはやシナリオとは呼べないだろう。

シナリオとは音楽でいうなら楽譜のようなものだ。厳密なシナリオもあれば即興的なシナリオもあるが、そこから読み取れるものは多い。アントニオーニのシナリオは有名な「不毛の愛」3部作を含む”antonioni four screenplays”(1963)と”Blow-up”(1971)の二冊を持っている。監督自身のインタビューなども含む「確定版(英語版)」といっていいだろう(後者はカメラアングル、カットの切り替えなども詳細に書かれており、オリジナル・スクリプトとの違いも注釈されている)。有名な「夜」の冒頭はこんな風にはじまる。

「ミラノ。正午。高層のピレリ・ビルで窓拭きが仕事をし、そこからかれらは混雑した街のパノラマ的な展望を眺めている。そこにはビルのオフィスから人々がランチに出かけようとしている姿、行き交う人で混み合う歩道で交通案内をする警察官、不機嫌で疲れ切った人々を乗せた車などが見える。」(”Antonioni Four Screenplays”)

一方、「映画芸術」(1962)はこうなっている。

「ミラノの街、車が行き交う。近代的なビルと対照的な古びた建物。カメラ、パンアップするとミラノの市街が一望に見渡せる。立ち並ぶ高層ビル。近代的なアパート。以降ビルの外壁に沿って上から下にエレベーターで下るような感じで、ミラノの街の俯瞰撮影が続き、クレジット・タイトルがダブる。」

このクレジットの場面は窓拭き用のクレーンが降りていくノイズに、背景音楽である電子音楽(ミュジック・コンクレート)が混在していくとても印象的なシーンである。「映画芸術」は画面を見たままのことが見ていない人のために書いてある。一方アントニオーニのシナリオは、見ればわかることを除いて見せたいものだけを説明する。大きな違いは無機質なカメラではなく、窓拭きという人(複数)の視点から見られていることだろう。それを知ったうえで映画を見ることは、状況説明以上の情報を与えてくれる。

シナリオには細部の意図が見え隠れするし、そうした細部が全体に大きな意味を投げかけることもあるだろう。書いてあるがそうは見られない、書かれているがそうはなっていないということも、もちろんある。映画ファンが映画を見るのとは違うが、シナリオの解読は楽譜を読むように映画を読むもうひとつの楽しみだろう。書いてあることをシーン毎に立ち止まりながら確認する。それは謎解きパズルのようで、全体を俯瞰してみたときに新たな発見がある。つまりシナリオへの誘惑は読むこと以上に、見ることへの誘惑であり、意味の糸を張り巡らせるアントニオーニの物語の迷宮に近づく道しるべとなるだろう。

しもた屋之噺(225)

杉山洋一

目の前は一面深い霧です。こんな乳白色の闇夜は、今年初めてかもしれません。街灯の周りだけがぼうっと白く浮き上がって見えます。何故か今夜は対岸のアパート群から全て灯りが消えていて、霧の向こうは漆黒です。
今日の政府発表では、新感染者数31758人でICUは97人。死亡者数は297人。陽性率は14.71%まで上昇しました。ロンバルディアとピエモンテの実効再生産数Rtは2を超え、都市封鎖はしないと言い続けてきたイタリア政府が、州を跨ぐ移動の制限、州単位での都市封鎖の具体的検討に入ったと報道されています。
イタリアの音楽院は11月から始まるので、来週からの新年度を前に、学校閉鎖に怯えながら学生たちを励ましています。ただ、素人目にはこれから本格的な冬に向け、状況好転を期待できる理由は見つかりません。
都市封鎖をすれば、指揮の対面レッスンは出来なくなるでしょうが、滑り台の傾斜を緩められるかもしれません。ともかく現状は、ブレーキが壊れたまま少しずつ加速して、どこまで続くか知れない下り坂を走り始めたところです。
 
 …
 
10月某日 ミラノ自宅
北イタリア、フランスに豪雨。ヴェニスの高潮対策に長年建設を続けてきた移動式防潮堤Moseが初めて作動し、見事に市街の浸水を回避。北部イタリアで橋梁3基流失。
来年春のプログラムを考えている。マルトゥッチの交響曲第二番は、レスピーギやカセルラの世代までは、イタリアの交響作品の金字塔と広く認識されていた。
パリも一部都市封鎖になるのか。ラツィオ州、カンパニア州、マルケ州でマスクが義務化され、陸軍も出動している。イタリアの非常事態宣言は1月末まで延期となった。新感染者数2578人。死亡者数18人。
 
10月某日 ミラノ自宅
2006年から16年ぶりに「最後の夜」の大きなスコアを眺める。
2006年この曲をロサンジェルスで演奏した。そのときイタリアでも演奏したかどうか、殆ど記憶がないが、当時楽譜を勉強した跡をみると、細部に拘り過ぎていて俯瞰が足りない。
40年前の1980年、シエナで作曲されたこの作品の経緯は興味深い。シエナで毎夏開いていた作曲の講習会のため、フランコとマリゼルラは夏の間空き家になるアパートを借りて住んでいた。この年、初めて借りたアパートの書架に、出版されたばかりの伊語訳ペッソア詩集をマリゼルラが見つけたのが切っ掛けだ。
当時ペッソアは未だイタリアで殆ど知られていなかったし、このアデルフィ刊のペッソア詩集が、まとまって出版された最初の伊語訳だったと聞いた。
マリゼルラは直感的に、死をうたい、死んだ子供をうたう、ドナトーニを体現するような深い闇を纏ったこれらの詩が、きっとフランコの興味を惹くと思い、わざと目の付くところに置いておいたのだという。
ドナトーニが、これらの詩で作曲していると知ったのは、作曲が進んで随分経ってからだったそうだ。「外で、風が…」など、「最後の夜」に使われた詩の断片は、その後、彼ら二人だけの符牒となり、しばしば会話に登場するようになった。
新感染者数4458人、死亡者22人。
 
10月某日 ミラノ自宅
1月の高橋悠治作品演奏会は、合唱を使わずにプログラムを組むこととなった。西川さん曰く、東京文化会館の小ホールは舞台が狭いので、現在の状況を鑑みると合唱演奏は厳しいのだそうだ。「たまをぎ」を補完させるために時間が出来て、正直すこしほっとしている。
随分前から、悠治さんの「橋」第2番に興味を持っていた。オーボエ2本、クラリネット2本、トランペット2本に、ヴィオラ3本で、演奏時間3分40秒。一体どんな曲かと想像を膨らませていた。この作品はその昔ペータースから出版されていたが、出版契約が切れて以降、所在不明になっていた。
悠治さん曰く、演奏された形跡はないし、聴いた記憶もないそうだ。「橋」第1番のように、一つの旋律を他の楽器がなぞるような試みだったから、楽譜が見つからないなら、自分で作れば良いのでは、というお話しだった。
全世界図書館検索をすると、オランダのセラミック図書館のカタログに、この作品が記載されていて、早速連絡を取った。カタログには、この妙な楽器編成も確かに書かれていたから、間違いないと思って複写をお願いすると、送られてきたのは「橋」第1番だった。聞けば、図書館にはこれしかないと言う。
それから何年も探し続けたが、途方に暮れ、もう諦めかけていたころだった。
暑い盛り、荻窪で「般若波羅蜜多」テープパートの録音が終わり、波多野さんや小野さん、エレクトロニクスの有馬さんと駅前の喫茶店に入ったとき、この曲の話になった。
有馬さんがふとコンピュータを取り出し検索を始め、程なくして「あったよ」と顔を上げたので、一同呆気にとられた。灯台もと暗し。何故か桐朋学園図書館に保管されていた。それどころか、「橋」第3番という、悠治さんの作品リストに載っていない弦楽四重奏曲まで、桐朋の図書館で保管されていた。
「たまをぎ」が延期されたので、従来から懸案だった「フォノジェーヌ」初演実現にむけ、有馬さんに、残されているフォノジェーヌ録音から、電子音のみ抽出する大役をお願いした。
新感染者数5372人。ロンバルディア州983人、カンパニア州769人が突出している。ICU29人で死亡者28人。
 
10月某日 ミラノ自宅 
マリゼルラと久しぶりに話す。ヴェニスのビエンナーレでドナトーニ特集があって出かけた折、階段で躓き、倒れてしまったと言う。それからは、まるでオデュッセイア物語さながらだった。彼女曰くヴェニスは非常に美しい街だけれど、救急病院に行くには実に厄介な街だそうだ。何とか救急船を呼び、救急病院でレントゲンを撮り、足を少し骨折していることが分かった。
その日は丁度、ソルビアティ夫妻とラガナ夫妻が車でドナトーニの演奏会を聴きにきていたので、彼らがマリゼッラを抱きかかえて、ローマ広場から一緒に車で連れて帰ったそうだ。ラガナはマリゼルラの席をあけるため、一緒に帰るのを諦めた。ドナトーニもよい弟子を沢山持ったものだと思う。
26日のミラノ・ムジカの日に漸くギプスが外せるはずだが、演奏会を訪れるのは難しそうだ。自分に捧げられた大好きな作品だから、本当に悲しいけれど、仕方がないわね。RAIで放送されるだろうから、それを待つわ。
新感染者数5456人、ICUは30人増。死亡者数26人。
 
10月某日 ミラノ自宅
午後久しぶりに地下鉄に乗り、コマジーナに出かけた。AARからニグアルダ病院小児病棟へ贈られた寄付金で、貧しい子供たちに遠隔授業のためのタブレットが給与される。そのため、コマジーナの教会の一室で、ちょっとした授与式をひらくという。
数年ぶりにお目にかかったベルガモ―ニ先生もファッシャ先生も元気そうだったが、病院の白衣姿しか知らなかった上に、二人とも大きなマスクをかけていたので、最初一瞬誰だかわからなかった。
感染が急速に広がっているので、授与式も簡略化し、子供たちにタブレットを直接手渡すだけになった。イタリア人に交じって、アラブ系だったり、東南アジア系南米系の幼いこどもたち20人ほどが、満面の笑顔を浮かべて受け取るさまに、心を打たれた。
「みなさん、本当に生活に困っていたんです。それぞれ自分の病気だけでも大変な苦労をしているのに、その上にこの毎日ですから。タブレットが手に入ると聞いたとき、どれだけみんなが喜んだことか」。
夏まで学校では遠隔授業が続けられていたから、その間タブレットのないこの子供たちはどうしていたのかと考えると、胸が痛んだ。ここ数日の感染拡大を鑑みれば、今更ながら、彼らがタブレットを手に入れられて本当に良かったと思う。
地下鉄では、皆律儀にマスクをしているが、案外に混んでいるので、普段から乗りつけていないと少し怖い。コモ、モンツァ、ヴァレーゼ、ミラノは第三段階に入った、とニュースで話している。
サッコ病院は、今後Covid患者のみ受入れることになった。新感染者数は8804人、検査での陽性率は5.4%で、83人死亡。
 
10月某日 ミラノ自宅 
夜、息子に「減三和音」を教える。国立音楽院の楽典の試験のためだそうだが、話を聞くと、単に何が分からないのか分からずに、混乱しているように見える。
茸のパスタを作る。陽気もすっかり秋めいて気温もずいぶん下がってきたから、少し濃い味が食べたくなり、最後にほんの少しバターを加える。北の、それも寒い時期の味わい。
今でも、学生たちと食事の話題になると、北イタリアはバターなんて使うから、と中部や南部の学生は揶揄う。味に深みが出る分、素材の個性が失せるのかもしれない。とは言え、新鮮な西洋パセリとレモン汁があって、美味。
新感染者数10010人、ICU52人、死亡者数55人。新感染者数は、水曜が7332人、木曜が8804人で、第一波のピーク3月21日の6557人を超えた。死亡者数は木曜の83人からは下がっている。
ロンバルディア州は、遠隔勤務はもとより、学校でも対面授業と遠隔授業の相互仕様が推奨され、屋外での食事は18時まで、店内での食事も24時までに制限され、アマチュアのスポーツ活動も禁止になった。
 
10月某日 ミラノ自宅
朝5時半に起床し、野菜のパスタを作り、7時前、家人と二人ナポリ広場まで歩く。
レプーブリカ紙に掲載された写真。閉鎖された南部サレルノの小学校校門前で、群青色のスモッグ姿の子供が、一人、学習机と椅子を並べて席につく。10月30日までの学校閉鎖を早々と決めたカンパニア州へのささやかな抗議運動。
自転車のブレーキが磨り減ったので、交換するため馴染の自転車屋に出かける。
Covid対策として自転車使用が推奨され、伊政府が12月末日まで自転車購入代金の半額支給を決定したのは春先だったが、早晩、国中の自転車店や工場から自転車や部品が姿を消し、以来売るものがなくなって、商売にならないとこぼす。6月に注文した20台のうちの1台が、昨日漸く工場から届いたそうだ。政府の給付金も未だ支給されない。
ミラノは、何時の間にか感染が最も深刻な地域となっていて、今後学校がどうなるか分からない。新感染者数10925人。ICU67人。死亡者数47人。
 
10月某日 市立音楽院にて
昨日のイタリア新感染者数は10874人。ICUは73人。死亡者数は89人。昨日は久しぶりに三善由紀子さんと電話でお話しした。マヌエルが、「オマージュ」をフルート、ヴィオラ、ハープに編作したらどうかと相談してきたので、面食らって思わず由紀子さんにご連絡した。
阿佐ヶ谷の先生宅に通い始めたころ、入試前に先生宅で和声を宿題を解いていて、流石にお腹が空いているでしょうと饂飩を作って下さったのが忘れられない。余程美味しかったのだろう。三善家のものだから、今にして思えば、手の込んだ饂飩だったに違いない。
あれ程丁寧に教えていただいたのに、和声はまるで身につかなかった。先生に申し訳ない思い。
 
10月某日 ミラノ自宅
朝から映画音楽作曲科の学生相手に、指揮の基礎を教えにでかける。
夜会うはずだった、「最後の夜」のピアニストも、生徒がCovid陽性と判明して自宅待機となり、リハーサルに参加できない。世界中でこうした不都合が頻発しているに違いない。
陽性率はほぼ9%で、新感染者数は15199人。127人死亡。
皆が乗る長大な列車が、ブレーキが壊れたまま、緩い下り坂へ差し掛かる。
車窓の風景が突然スローモーションになり、鮮明に見えるような、壊れかかった古いヴィデオデッキの画像が突然コマ送りになって、ずっと先までコマが飛んでしまうような、春先に知ったあの恐ろしい感覚。
誰もが止めたいと願っていても止まらないのが既に判っている、ぞっとする皮膚感覚と既視感。
授業の終わりに、生徒たちから、月曜のミラノムジカ演奏会楽しみにしています、と声をかけられるが、答えに窮して狼狽。
アンサンブルも音楽祭側も、演奏会は開催する意向のようだ。これが最後になるかも知れないと思いながら、ドナトーニの「最後の夜」のリハーサルをする。
皮肉なほど、この暗澹たる毎日と釣り合った内容だと思う。帰り道、自転車を漕ぎながら、すっかり人気の失せた夜の中華街に、肌寒かったこの春を回想していた。
 
10月某日 ミラノ自宅
夜間外出禁止発令一日目。夜の帳とともに、春を思い出す静寂。既にここ数日、今後外出が禁止される23時前から、運河の向こうのアパート群の灯も、すっかり疎らになった気がする。
新入生のマルティーナよりメール。「テレビで、ロンバルディア州の高等教育機関は、今後一律遠隔授業になると報道していましたが、レッスンはどうなるのでしょう」。
昨日の新感染者数16079人、ICU66人で陽性率は9.4%。死亡者数136人。三月以来の夜間外出禁止令に、やるせない、無気力な感覚に陥る。
三月は得体のしれないCovidと想像の付かない未来への不安だったが、今回は感染症もさることながら、誰しも今後の生活への不安は抑えられない。
学校のマルチェロに、今後の指針について何某か上から連絡はあったか尋ねると、「こちらも情報は皆無だ。助けてほしい」、と痛切が返事が届いた。
ノヴァラからの帰途、息子が地下鉄車内で小競り合いを見たそうだ。鼻を露出させてマスクをしていた男を、別の乗客が咎めたのが発端だった。
ジョを迎えて「最後の夜」リハーサル。彼女はおどろくほど楽譜を読み込んである。一度通してから、丁寧に返してゆく。今晩でリハーサルも終わりかも知れないと思いつつ、ていねいに返す。
フルートのソニア曰く、彼女が教えるベルガモの音楽院のホルンの同僚は、姉と母をCovidで失くしたそうだ。ベルガモはあれだけ大変な日々を送ったので、むしろ今は安全だという。
夜になって今日の保険省の発表を見る。陽性率は1日で11%に跳ね上がり、新感染者数19143人。死亡者数は91人。酷い雨。夜、濡れそぼった道は寂しくみえる。
 
10月某日 ミラノ自宅 
朝11時より、Fabbrica del Vaporeにて「最後の夜」リハーサル。メゾソプラノのジョも、すっかりこなれてきた。彼女は実に呑み込みが早い。
昨日やり残した8曲目から始め、丁寧に問題個所を返してから、全体を通したが、実に感慨深い響きがする。アンサンブルの音量を落とすより、寧ろ歌手を少しだけ前に立たせることで、遠近感をつくる。声のパートは全体を通じてアンサンブルより弱音で書かれているが、何か明確な理由があるのだろうか。初演者を念頭に定着されたのかもしれない。
声のパートの中だけでも、また別の遠近感を描き、アンサンブルは、それと弧が振れあう形で、また別の遠近感を浮かび上がらせる。今日の練習をボーノが聴きにやってきて、しきりに感嘆していた。
「炎に包まれる最後の夜」は、「ブルーノのための二重奏」や「階段の上の小川」に匹敵するドナトーニの傑作であり、魂が震える感動的な音楽だ。
昨日までは、リハーサルが終わると、これがきっと最後の練習になるね、良いクリスマスを!などと冗談めかして挨拶を交わしていたが、今日はその雰囲気すら消失してしまった。
街の賑わいは明らかに下火になり、時間に急き立てられているような気がする。まるで巨大な波乗りをやっていて、すぐ後ろに何十メートルという巨大な波が迫ってきているような錯覚。間に合うのかという焦燥感。
カジラーギの同僚も3回PCR検査を受けて、3回とも陽性となった。先週まで室内楽を一緒にやっていたから、このままではカジラーギにも自主待機命令が出るかもしれない。
これまで、コンテ首相は経済再生のため、厳しい制限措置は控えてきたが、今晩には何某か新しい首相令が発表になり、26日発効になるという。俄かに慌ただしくなってきた。
 
追記
未だ正確な首相令は発表されていないが、テレビのニュースが、10月26日から11月24日まで禁止になる事項に、劇場、演奏会も含まれると伝えている。それが正しければ、残念ながら演奏会の実現も不可能だろう。せめて明日のリハーサルは予定通りやり、ヴィデオだけでも撮れないか、とアンサンブルに打診する。
息子は、居間に居座り、夜遅くまでパワーポイントで学習発表製作の準備をしている。「抗議活動において、暴力を容認するか否か」について。BLMや黒人解放運動の歴史など。ナポリでは封鎖反対の暴動が起きた。
ローマでは病院から溢れた救急車が列を作り、8時間待機を余儀なくされていると言う。ミラノ・ニグアルダ病院の救急受付にも、救急車が列をなして待っている。トリアージが再開されたのだろうか。スロベニアがイタリアとの国境を閉鎖したとも聞くが、実際どうなのか。
今日の陽性率は11パーセントで、ICU79人。新感染者数は19644人。
 
10月某日 ミラノ自宅
10時49分にコンテが首相令にサインした、とフマガッリから電話がかかる。アンサンブルのメンバーは、一様に消沈しているという。明日の演奏会のみならず、これから一カ月間全て中止になったのだから、当然だろう。
誰も声には出さないけれど、春と同じように、一ケ月の予定が二カ月になり、三カ月になり半年になる不安が、頭を掠める。
感染状況を鑑みて、ヴィデオ録画も日を改めて行うことになり、手持ち無沙汰な思いで一日を過ごす。姉がベルガモで救急隊員をしている映画音楽作曲科の学生が、どれだけ家族も感染に慄いて暮らしていたことや、トリアージ「生命の選択」がどれだけ辛い経験だったかなど、弁当を食べながら訥々と話してくれた。
30日にベートーヴェンの「サリエリの主題による変奏曲」を弾くはずだった息子の演奏会もなくなるかもしれない。
閉鎖されていたミラノ見本市会場のCovid専用病院が再開された。新感染者数21273人でICU80人。死亡者128人。
 
10月某日 ミラノ自宅
週明けの新感染者数が少し落着くのは日本と一緒で、17012人。ICUは76人。死亡者は141人。演奏会中止を知って、慰めのメールやメッセージ。本日のレプーブリカ紙には、文化事業閉鎖に関する記事多し。
見事な紅葉と相俟って、雨に濡れる庭の美しさが、より際立つようだ。学校から、Covidに関して新しい連絡はなし。息子が階下でヘスの「主よ人の望みと喜びを」を弾いている。
トリノでは封鎖に反対するデモで、略奪行為が起きたが、ミラノでは、ブエノスアイレス通りで、火炎瓶や紙爆弾を投げる激しいデモが繰り広げられ、見馴れた街並みに起こる信じられな光景に言葉を失う。
何のためのデモなのだろうか。救急車のサイレンが、明らかに耳につくようになった。
夜、家の前を、春と同じように無人の列車が通り過ぎてゆくのを、虚しい心地で眺める。
 
10月某日 ミラノ自宅
「今日は壮観でした。鵜の大群白鷺、青鷺までも川下の方から群れなして飛んできました。空一面白鷺が舞い、次に鵜が大群をなして来て、ちょっとびっくり。歩いている人も皆立ち止まり見上げていました。群ごとに旋回しながら川上へ向かって行きました。素晴らしい光景でした」。
母から青空一杯に広がる、見事な鳥の写真がとどく。
新感染者数は21994人。ICUは127人。221人死亡。スカラ座では、合唱18人、オーケストラ管楽器奏者3人から陽性反応。昨日はムーティがコンテ首相に向けて書いた公開書簡がコッリエーレに掲載されたが、今日はコンテ首相からムーティへの返信が、コッリエーレに載った。
夜間の外出、外食が禁止になったので、朝5時にレストランで夕食を出す、ヴェニスのレストランが話題になっている。ミラノとナポリは都市封鎖が必要との声が一層高まっている。
学校でもレッスン中、距離を保つから、とマスクを外したがる学生や演奏者もいて、気持ちはわかるが、これからは容認は許されないだろう。
感染が拡大するのは、やはり時間の問題だったのではないか。コンテ首相を糾弾する前に、我々自身の行動を糾すべきではなかったのか、そう思うのは、日本人だからか。
キアラから、最早早晩ミラノとナポリの都市封鎖は避けられないとメッセージが届く。新年早々、漸く始まる指揮の対面レッスンは中断せざるを得ないのか。
30日の息子の演奏会、中止決定。
 
10月某日 ミラノ自宅
昨日、新感染者数24991人、ICU125人、死亡者数205人で陽性率が13%へ上がって愕いていたが、今日は、新感染者数26831人、ICU115人、死亡者数217人、陽性率は13.32%まで更に上昇してしまった。
漸く学校から正式に来週より対面レッスン再開との通達を受取り、その旨学生に連絡したところ、新入生のSから、自身がつい数日前に陽性であると判明し、自主待機で2週間レッスンに来られないと返事があった。文末は、「本当に残念です。ではまたすぐにお目にかかりましょう(それが実現しますように)」。と結ばれていた。
感染者は20日間でほぼ8倍にまで跳ね上がった、と保険省が発表。ニースでテロのニュース。二週間前にイタリアに入国したばかりのチュニジア人のテロに、イタリアでも大きなショックが広がる。
 
10月某日 ミラノ自宅
新感染者数31084人、ICU95人、死亡者数は199人。陽性率は14.45%に急激に悪化した。ICUでは、生存率の高い患者を優先的に扱う「生命の選択」が始まっている。
生徒Bよりメールあり。彼のパートナーが陽性となったので、自分も「死にかけた象のように」家に引き籠らなければならないと言う。SとBのレッスンを、何とか他のレッスンと入れ替えてレッスン回数が減らないようにしたいが、今日になって、別の新入生Gからもメールが届き、漸く来週から始まる国立音楽高校の仕事が決定したが、それがレッスン時間と重複してしまうので、全て変えなければならない、どうしたらよいでしょう、と言う。
フィレンツェで首相令に反対する暴力的デモ。毎日、国内のどこかでデモが散発している。ロンバルディアは、週明けに都市封鎖を実行するか決定との発表。
 
10月某日 ミラノ自宅
映画音楽作曲科の指揮入門、最後のレッスン。科の必修授業なので、指揮者になりたくて勉強しているのではないから、教えていて沢山の発見がある。指揮者らしさとは無縁かもしれないが、表現への欲求が、指揮科の生徒よりも強い気がする。
楽譜に書いてあるからこう演奏するというスタンダードを通り越し、自分はこう表現したい、どうやったらこんな風に表現できるのか、と奇天烈な質問を次々浴びせてくる姿に、むしろ親近感すら覚える。
指揮科の生徒のように基礎から積み上げるものではないが、それぞれ自分の表現に特化しているから、必要な表現に充分応じられる技術が実践的に身についてゆく。
当初、学校からこのセミナーを頼まれたときには、簡単な振り方を教えればよいのかと高を括っていたが、実際蓋を開けてみると、思いがけなく中身の詰まったものになった。
 
今日の指揮伴にはエレオノーラも参加していた。彼女は、音楽中学校でもピアノを教えている。彼女曰く、Covidにすっかり怯える同僚も多数いて、体育の教師が、何重にも手袋をして、マスクにフェースシールドをつけて授業をしている姿は滑稽だという。
Covid以降すっかり涙もろくなった同僚も多く、学校全体が精神的にすっかり不安定になった、と肩をすくめる。
普通であれば、中学生くらいの子供たちは速い曲が大好きだし、合奏すれば速く走ってしまうものだそうだが、Covid以後子供たちは、遅くなるようになった。
それどころか、皆の顔から笑いも表情も消え、気力そのものが希薄になったと嘆く。今までなら、生徒たちは集うとすぐに動物園のように大騒ぎではしゃぐから、大声を張り上げて静かにさせなければいけなかったのに、本当に見ていられない、と声を落とした。
 
来週月曜に、政府が新しい首相令を用意しているが、火曜からミラノも都市封鎖されるとの噂が飛び交っている。
2月から8月まで、イタリアの中学は全て遠隔授業だった。
音楽中学校も遠隔レッスンを余儀なくされたが、楽器を始めたばかりの生徒にとって、遠隔レッスンは無理を強いるものだった。
ヴァイオリンでもギターでも、調弦が狂ったとしても、全くの初心者では楽器を触るのは難しい。
中学生ならチューナーは使えるかもしれないが、最初の導入は本来教師が手解きすべきものだろう。弦が切れてしまっても、半年間、弦を張替えることすら、ままならなかった。
たとえスカイプで教師が教えたとしても、調弦すら覚束ない初心者の中学生や親に弦を張らせるのは酷だろう。
今年の2月終わりから、出し抜けに学校は軒並み閉鎖になり、教師も生徒も何も準備出来ないまま、出し抜けに見ず知らずのヴァーチャル空間に放り出された。
あの時の経験から、政府は今後学校は閉鎖しないと繰返してきたけれど、ここまで状況が悪化しても、そう言い続けられるだろうか。
エレオノーラの生徒には、直接の感染者は出ていないそうだが、勤めている中学の幾つかのクラスは、クラスの一人が感染したためそれぞれ学級閉鎖になった。
そうして漸く二週間待機が解ける直前、そのうちの何人かは、家族が別の経路で感染してしまい、再び二週間の自宅待機の対象となり、ずっと学校に来られないままだと言う。ここまで蔓延すれば、Covidと関わらずに生活するのは不可能だろう。
 
今日は朝の10時から授業を始め、17時に終わった。
「これで終わりなんですか、これでお別れなんですか、お話しとかないんですか」と、学生たちが寂しそうにしているのは、これで暫く学校にも来られなくなるし、今度何時会えるかも分からないからだ。これから、生徒通しも自宅から遠隔授業のモニター越しにしか会えなくなる。
暫く雑談くらいしたかったが、Covidの制限で、一刻も早く学校を出なければならない。
音楽院の受付にいたアレッサンドラと言葉を交わす。
「来週も会えるかね」、「そうね、それが問題よね」、「じゃあ取り敢えず、メリークリスマス!」、「やめてよ、縁起でもない」。
学生たちと、校門の外で立ち話。「とにかく、元気でいてね」、「先生もどうかお元気で」、そう言って学生たちは固まって地下鉄の方へ歩いていった。
首相令で喫茶店も閉まるし、アルコールも夕方以降禁止だから、喫茶店に寄ることも、ビールを呷ることもできず散会したに違いない。なんて可哀想な青春だろうと心が重くなる。
自転車のペダルを強く踏み込み、帰途に就く。
(10月31日ミラノにて)

トマトの汁が残した跡

イリナ・グリゴレ

町に引っ越してからは、金曜日の午後になると学校が終わった後に駅で切符を買って、家族で列車に乗って故郷に帰っていた。駅のイメージと匂いが私の身体に今でも残っている。音と声が響く大きな建物に、秋と冬の人の汗と熱で煙のようなものが見え、駅だけ薄い霧にかかっているようだった。国は革命で自由主義になったけれど、風景は何年経っても社会主義のままだった。今でも、あの雰囲気が私の身体にあって、古い雑巾の匂いのように消えない。あの雰囲気と背景を生きた人たちは一生身体から消えないだろう。服の雰囲気にも現れるだろう。

遠く離れていても、今でも普段着の時は子供のときに来ていた服の組み合わせを無意識に着ている。パジャマの上にワンピース、その上に長袖のセーターを着る。ちょうどこの季節、寒くなっとき家で着ていた組み合わせだ。色は三着ともちがっている。東ヨーロッパの田舎に行くとみる配色。なぜなのか、すこし考えてみると、東ヨーロッパの人々の身体の感覚につながった。

子供のとき、一度だけ自分で色鮮やかな布を縫ってスカートを作ってみたが、結局はバラバラな色の服ばかり着ていた。服もあまりなかった時代だった。春の復活際の前とお正月だけは新しい服と靴を買ってもらうけれど、基本的には近所と親戚からのお下がりを着る。様々なサイズと色の服をお下がりでもらうので、組み合わせがすごいことになる。髪はいつも短く切られていた。女の子なのに。いつも長い髪の毛に憧れていたが、あるときシラミを学校でうつされ、それからずっと髪の毛は短いままだった。そのころの写真はあまり残っていないが、見ると今の自分とは別人のようだ。あの時、自分という感覚がまったくなかった。鏡をみても私が誰かわからないぐらい自分というものが嫌になっていた。

自分はだれか、身体はどこまでなのかわからないまま大きくなった。暗闇の中で人間が自分の感覚を無くすのとおなじように、社会主義の国の人々では自分を無くす。暗い中、自分が動いているかどうかわからない。歴史に残らない人々の人生はあの駅の霧のようだ。そして人工的に作られた町から、田舎へ帰る列車はどれだけ私を助けたのか。

列車が停まる村の駅で、乗り降りする人を窓から観察していた。その路線は、首都ブカレストと私の家族が住んでいたブルガリア国境の町の間にできた初めての鉄道だった。村の駅で降りる人々は、私たちとおなじように町の工場などで働く若い家族だ。私たちは、金曜日に団地から広い農家に戻り、実家の畑仕事を手伝い、月曜日の朝にまた工場と学校に戻るのだった。

平日は、工場の仕事を終えるとテレビの前に座り何時間もアメリカの映画をVHSで繰り返しみる。革命後に激しいインフレになった時、父はタンス預金で車を買うのを諦めて、VHSのビデオデッキを買ってきた。レンタルショップも近くにできたので、ずっとアメリカの映画を見ていた。たまにビデオに録画していた民謡のコンサートとMTVのヒットソングをかけ、同じ工場で働く近所の団地に住んでいる夫婦とホームパーティーをした。田舎で作ったワインをポリタンクに詰めて団地の自宅に持ち帰り、ちょうど次の金曜日までに飲み切っていた。お風呂のお湯は切れていたし、冬場はヒーターが壊れていた。そこは社会主義のときとおなじだったけれども、VHSのおかげで「自由主義」を満喫していた。

でも、週末になってあの列車に乗ると、町を出た後に広がる畑と森の景色が安心を与えてくれた。人が本当に町に固まって住んでいいのかと疑うぐらい森は広く、季節ごとに色が変わって綺麗だった。人の身体というものは、無理矢理に大勢の人々が町というところに住むようにできていないのかもしれない。

だれでも孤独の暗みを感じていた。別々の村から人が集まっていて、文化のないところに閉じ込められていた。身体は小さくなって、大きくなって、バラバラになる。統合失調症になるような感覚だった。

暗闇のなかでは、身体の感覚は薄くなるが、味を感じる。苦味を感じることができる。私が一番苦しかった時、顔が暗くなって、口の中に苦い味が広がった。でも私は田舎に戻るととても明るい子なのに、あの場所にいた時はものすごく暗かった。

あのときの私は、統合失調症になる直前だったと思う。自分の身体を少しずつ失っていた。不思議な暗いベールに囲まれていた。週末が終わるとまた列車で町に戻る。もう二度と戻れないと毎回思っていたのに。あの町の工場は部品と機械ではなく今で言えば巨大資本主義ミルクの工房だった。私と周りの人の純粋さと生きる喜びを吸い取っていた。私は本来の純粋さに帰りたい。この身体で毎日新しい世界を観察できるチャンスがだれにでもあると思ったから、逃げる決断をしたのだ。

町の駅に列車が到着しても私の家族を含めて、何人かはすぐに降りない。夜間は引き込み線まで回送するために、列車は町の端っこまで移動していく。そこが私たちの住んでいる団地に近いのだ。ホームのない引き込み線を降りて放置されている太いパイプの間を通ると、団地がみえる。回送運転に時間がかかるので駅から歩くのと結局は変わらないが、田舎から持って帰ってきたワインや野菜などの荷物がものすごく重いので、少しでも負担を減らすためずっと列車が動くまで待つのだった。私にとって、あの列車が一回切り返すのを待つのは、厳粛な儀礼のようであって、私たちをあの暗闇に入るために準備させるように感じた。レールのきしむ音とゆっくり、ゆっくり戻る動き。さっきまで前向きの椅子に座っていたから、ゆっくりゆっくり、椅子ごと世界が戻る感覚。映画の一コマのように。ギリギリまで袋に入れられたピーマンが袋から落ち、トマトの潰れた汁も列車の床に跡を残しながら逆方向に動く。窓から夕焼けの光が入って、世界は逆戻り。そんな20分間だった。私はあの列車の茶色いビニールの座席に入った光とともに溶けてしまう。今になって、あの列車の床に逆戻りしていた潰れたトマトの汁のように何回も跡を残しながらフィルムを逆に戻すことができると思うようになった。

夢の中で、きらきら光るエメラルドグリーンの海が現れた。私と何人か岩を登って上から海を見通す。綺麗だ。海の中に光るイカがたくさん泳いでいる。私の身体はあの海まで届く気がした。あの海と同じように広く広がって、背景の一部になっているが、突然、私は一緒に来ていた人の背中にくっついて、おんぶされる。私という細胞の集合がちいさな子供になっていた。夢のなかでも、あの瞬間に私の身体の感覚がはっきりした。そうか、自分は他の人の身体に触れると自分の身体に戻れるのだと気づいた。

暗闇の中で、どこにあるのかわからない状態の時に、触られることによって、自分の身体の感覚が戻る。不思議にこの感覚が今の世界では一番欠けている。夜中に夢からさめて娘たちの小さな身体を触ると、温かいなと思った。この感覚があの暗やみの中に生きていた若い自分が何回も助けられたものだ。初恋の相手の手が私の手を触る瞬間、私が泣く時に親友の手が私の背中を触る瞬間、父が暴れる時私が気絶して母が私の顔をずっと触る手、朝まで飲みすぎで吐いている父の背中をなでる弟の手、祖母と手を繋いで村の修道院まで日曜日の礼拝に行った。人間ってお互いに触ることによって自分の身体の確認をする。細胞の交換が行われるに違いない。孤独を感じたとき、子供と手を繋いで歩く。この感覚にいつも戻れる自分がいる。

 

十三夜メモ

璃葉

10月29日、20時過ぎぐらい。仕事を終えて帰路につく。
駅からしばらく歩いて、静かな住宅街を抜けて川にかかる橋を渡る途中、ようやく視野が広がるところがある。
そこで空を見上げるのはもはや習慣で、1、2等星が目立つ星座なんかを見つけては、ああもうそんな季節か、なんて考えたりする。

この日は星座が目立たない代わりに、月が明るく青白く光っていた。
あとすこしで満月というところか。すぐ傍に赤く輝いているのは火星だ。
薄雲がまばらに流れていて、その明るさは時折隠されて出てきて、を繰り返す。
秋も深まり風も冷たいけれど、透き通った夜気は妙に良い気分になるからやっぱり好きだ。
暗くて黒い緑が重なり合う夜。どうにもこの暗い緑がずいぶん長い間気になっている。

この日が十三夜なのだと知ったのは、自宅に着いてからだった。月の傍にいた惑星は火星で合っているよな・・・?と
友人が執筆している「月のこよみ」をめくっていたら気がついたのだ。
お供えも何もない。酒しかない。
ひとまず窓を開けてもう一度月と火星を眺めながら、黒糖焼酎をいただくことにした。

「名前」の居心地の悪さについて

越川道夫

「しかし私は一度だってこんなものに似ていたためしがない!」(ロラン・バルト)
 
秋である。
ひどく暑い今年の夏には花を開かせることなく沈黙したようだったカラスウリ属が、少し気温が下がってくるとまた花を咲かせ、咲かせたと思うともう赤い実や黄色い実をつけていたりする。酷暑に植物もその生命の動きを停止させていたのだと思いながら、あいも変わらずコンクリートに固められた川沿いの道を、仕事場に向かって歩いている。
黄色い花がさいた。名前を知らないのである。
白い線香花火のような花が咲いていた。これも名前を知らないのである。
調べればいいのだが、よほどの必要に迫られない限り調べもしない。飽きもせず、毎日のように人間を目の端に入れることを拒み、上や下を向いては植物や虫たち、小さいものたちの姿を眺めているはずなのに、その名前を驚くほど知らない。
愛でることは、名前を知ることなのだろうか。そうかもしれないが、そうとばかりは言えないのだと言い訳のように考えている。その花が(いや「花」というのも「名前」の一つではあるのだけれど)「それ」が「そこ」でその生を営んでいればそれでいいのだ。そもそも名付け、分類したのは「人間」なのであって、「それ」は「人間」に名付けられなくとも、分類されなくとも関係なく「そこ」にあるのだし、「人間」が死滅してしまえば「名前」など何ほどものでもない。
 
仕事でスタジオを訪ねる。そのスタジオはオートロックのマンションの一室にあって、ロビーのインターホンで部屋番号を押し呼び出すと、スタジオの主の声がスピーカーから聞こえる。「あ、越川です」とその声に答えて、答える側から「越川」と名乗ったことに違和感を感じてしまう。書類に、この文章にも「越川道夫」と署名する。今も「越川道夫」と書いた。自分の名前を書いたはずなのに、書いた側から「越川道夫」とは一体誰のことか、といつも戸惑い、名乗ったことに居心地の悪さを感じて落ち着かない。思い返せば、幼い頃からずっとそうなのである。愛着を持てないどころか、自分で名乗り、署名しておきながら、居心地が悪く、もぞもぞとしてしまう。「越川」という名字には実は縁もゆかりもなく、自分の数代前の人が、とある「越川」という家が絶えてしまうので「貰ってくれ」と言われて「貰った」名字だと、幼い頃から聞かされていたせいだろうか。本当は「〇〇」という名字なんだよ、と言われても、その「〇〇」も自分とは無関係な他人の顔をしていて馴染めない。「道夫」という名前も、本当は「道介」にしようと思ったのだが、母が「道介」はあんまりだからやめてくれ、と懇願するので、せめて「道夫」にした、と聞かされていたからだろうか。では「道介」はどうかと言われても、やはり誰のことか分からない。どうやら、それが理由ととばかりは言えないようだ。名前を聞かれて、「越川道夫」と答えるたびに、「越川道夫とは一体誰のことだろうか」と考える。おそらく、その「名前」がなくても、私は、いる。
 
名付けるとは「所有」するということであるだろう。植物や虫たちを「名付ける」ことによって、彼らには関係なく「所有」している気になっているのだとしたら、自分の名前もまた自自分自身を所有している(気になっている)ということだろうか。自分の名前に居心地の悪さを抱え、まるで他人のような気がしてしまう私はさしずめ「私」を「所有」していない。
 
きのこは、これまで日本だけでも2000種程度が報告されているが、実際に日本に分布しているきのこは5、6000種にのぼると言われているそうで同定することが難しいらしい。人間が「所有」しきれない世界がある。私には、そんなことがひどく希望のように思えてならない。
 

仙台ネイティブのつぶやき(57) SAVE! 宮城県美術館─出前講座の先々で

西大立目祥子

 宮城県美術館の現地存続活動を続けてきて、もうそろそろ1年になる。やはり何度振り返ってもこれは問題が多すぎる案だ。そもそも宮城県は、現地で建物を修復しながら使い続ける案を2018年に基本構想として策定していたのに、これを撤回することなく昨年になって別の部局に新たな懇話会を立ち上げ、たった2回の会議で移転の方針を決めてしまった。しかも会議は非公開で、マスコミは報道できず、しかもそこには美術家も建築家もいないというのだから、県内外から疑問の声が沸き起こるのは当然だろう。

 昨年12月から、さまざまな団体が見直しを求める要望書を相次いで県に出したことは、今年1月のこの稿で書いた。7月に、いくつかの団体と個人が“現地存続”という1点でつながり「宮城県美術館の現地存続を求める県民ネットワーク」(略称:宮城県美ネット)という会を設立した。
 それから3ヶ月余り。一口1000円をいただきながら会員を募っているのだけれど、ここにきて会員数が1900人を超えてきた。お金を払って活動を支援してくださる方たちなのだから、この美術館への思いの深さがわかるというものだ。会員は宮城県内が約7割、県外が3割で、中には著名な建築家もいる。会員の証として、問題を解説した冊子と「SAVE! 宮城県美術館」と書かれた缶バッチをお渡ししている。今日、美術館とは無関係のとある集まりに行ったら、年配の男性がジャケットの襟元にこのバッチをつけていてうれしくなった。

 夏の終わりから集中的に行ってきたのが、県内各所での「出前講座」だ。力になってくれそうな人を頼りに会場を確保してもらい、私たち事務局メンバーがチームを組んで出かけて問題を解説し、地元の人たちの意見を聞く。8月末の、県北、大崎市古川での開催を皮切りに、16カ所で開催を重ねてきた。どんな方たちが集まってくれるものか、当初は手探り、こわごわだったのだけれど、行く先々に待っていてくれる人たちがいて美術館とのかかわりを熱心に話してくれるので、着実に運動が広がっているという手応えを感じる展開となってきた。10月は土日の予定のdほぼ全部が、この出前講座で埋まった。

 もちろん、地域によって温度差はあるし、反応は異なる。でも、美術館に行こうと思い立てばすぐに行ける距離に暮らす仙台市民とは違って、地方に暮らす人たちにとっての宮城県美術館は遠い存在なのではないかという私たちの心配は見事にくつがえされた。そうひんぱんには行けなくても、美術館は芸術、文化にふれるための特別の大切な場所であり、だからこそ美術館で過ごす時間はかけがえのないひとときになっているのだ。

「公民館の企画として、美術館の特別展のたびに、バスを仕立てて文化鑑賞会と称する会を主催してきたんです。個人ではなかなか行くのが難しいのでね。参加申し込みを開始すると1日でいっぱいになる人気講座なんですよ」と話してくれたのは、県北の町の公民館の館長さん。行きのバスの中は、みんなどこか緊張した面持ちなのに、帰りは誰もがにこやかで鑑賞した絵についての話でもちきりなのだそうだ。

 1年に一度、子どもたちを連れて美術館に行くという中学校の美術の先生もいた。「外にある彫刻見てごらん、楽しいよというんです。実際、みんな庭をまわるうち、楽しい楽しいっていい始めて」。宮城県美術館には、「アリスの庭」という野外彫刻が配された庭がある。大きな尻尾を持つふくよかな大猫、カエルに乗るロボット、飛び跳ねるようなウサギ…。子どもにも大人にも人気のスポットだ。動物の彫刻をめぐるうち、気持ちが開放されていくのだろう。「どうして、教育現場に何の相談もなく決まったんですか」と、現場の先生たちはとまどいを隠さない。

 最初の開催地、古川では発言が止まなかった。私が長々と説明を続けていたら、制されて自分たちに発言させてほしいといわれ、一人が話し終えると次々と手が挙がる。多くの人が「自然豊かで静かないまの場所が、絵を楽しむのには最適」と話した。宮城県美術館は、公園の思想も盛り込まれた美術館だ。門はなく、庭は閉館後も出入り自由。その魅力を、みんなが享受しているのが感じられた。「みんなで世論を高めていきましょう」「今日は問題がよくわかりました。開催してくれてありがとう」と話す人がいる一方で、「移転してどんなメリットがあるんですか?」「こんなに県民に親しまれている美術館を、一体なぜ、移転しなければならないの?」と鋭く根本を問いかける人もいた。

 港町では、美術館の地下にある県民のためのギャラリーを、もう40回以上も主宰するアトリエの展覧会に使ってきた絵描きさんがきてくれた。「あるお父さんが、ゴム長でやってきたんです。朝の仕事を終えて、そのまま子どもの絵を見に来たんですね。来れば絵を見て、美術館をめぐる。そうやって美術に親しむ機会がつくられてきたんですよ」。もう一つ披露してくれたエピソードも美術館がどういう存在かを教えてくれるものだった。「アトリエに通っている女の子が絵を見にきて泣いてるんです。私の絵がない、と。その絵の前に連れていって、ほらここにあるじゃないかといったら、こういった。私はこんなにうまくないって(笑)」。県の大きな美術館にじぶんの絵が飾られるというのは、非日常の晴れがましいことなのだ。森に囲まれた立派な美術館はあこがれの場所であり、小さな教室での子どもたちの努力を支える存在でもあるのだろう。その人は、「美術館は企画展でたくさんの入館者を集めるということだけではなく、教育的価値を持つものでもあるんです」と話をしめくくった。

 長年、工芸の仕事をしてきた知人の男性は、「年に3回ほど、佐藤忠良記念館(宮城県美術館に併設されている)を訪ね、彫刻を見てカフェでコーヒーを飲むのを楽しみしてきた」といい、帰りがけ私に一言、こう言葉を残して帰っていった。「文化がないと、こんなことが起きてしまうんだぞ」と。

誰にないのか。知事にないのか。県にないのか。私たち県民にないというのか。とにかく前川國男設計の木々に囲まれた美術館をここに残すことができるのかできないのか、宮城県民にとっては、まぎれもない正念場を迎えている。

◎「宮城県美術館の現地存続を求める県民ネットワーク」の活動はこちらから。
ぜひ会員になってください。
https://alicenoniwaclub.wixsite.com/website/kenbinet

松永くんをいじめていた日々のこと

植松眞人

 僕達はいつも松永くんをいじめていた。彼が少し知恵が遅れていたことと実は小狡い性格でみんなから嫌われていたので、ほとんどの同級生が少しずついじめていた。昭和四十年代には小学生たちは、全員で無視をするという高度な技は持っていなかったので、僕たちは個別に少しずついじめていたのだった。
 と言っても、消しゴムを貸してあげないとか、彼の話がいつも長くてしつこいので途中で聞かなくなるとか、そういう感じだった。つまり、いまのような徹底的ないじめではなかったのだけれど、僕たちのなかには確かにいじめているという実感はあった。そのくせ、よそのクラスの子どもたちが松永くんに罵声を投げかけたり、あからさまな意地悪をすると、「やめろ」と声をあげたりするのだから、いま思えば余計にタチが悪い。松永くんは小狡いからちょっとくらいいいんだ、と僕たちは僕たちでかなり小狡い小学五年生だったわけだ。
 ある日、松永くんがクラスの女の子にちょっかいを出した。六月になり衣替えでみんなが夏服を着出した頃だ。ある女の子が薄手のスカートをはいて着た。その子が窓際の席に座っていたのだが、窓から差し込む明るい日差しの中で女の子のスカートが透けて、スカートの中の足がはっきりと見えたのだった。はっきりと見えると言っても、さすがにそれはシルエットではあったのだが、それでも小学五年生の男子にとってはとても刺激的だった。松永くんは好奇心と性的な欲望のままにその女の子のほうへ近づくと、その足元にしゃがみ込んでじっと観察しはじめた。何が始まったのか理解できなかった女の子は松永くんを凝視したまま動けなくなってしまった。すると、松永くんは「すごい見えてるよ!すごい見えてるよ!」とまるで幼稚園児のように女の子のスカートを指さしたのだ。自分のスカートが透けているということを理解した女の子は恥ずかしさのあまり泣きだした。小学校の教室で女の子が泣き出すのはそれなりの事件で、教室が一瞬のうちに静まりかえった。
 松永くんはある意味純粋で、ある意味無垢で、同時にとてもずるい子だった。そのことを知っている父親や学校の先生からは正論で責められ叱られることが多かった。だから、目の前で自分のせいで誰かが泣き出せば、きっとまた叱られるに決まっている。そう思った松永くんは静まりかえった教室の中で、静寂に負けじと声を張り上げた。
「すけすけや!スカートがすけすけや!裸や!裸や!」
 そう叫ぶと、おそらく自分でも限度がわからなくなり、椅子に座っている女の子の足元に座り込むと、スカートをめくろうとした手を伸ばしたのだった。
 教室は騒然とし、まず女子たちから非難の声があがった。そして、その非難の声に背中を押されるように、僕たち男子たちが立ち上がり実力行使で松永くんを女の子から引き離した。それは誰かを助けるということよりも、日ごろ気にしている女子たちの前でいい格好としたいという一心だった気がする。
 その時、男子の一人が「しばいてまえ」と声をあげた。関西では殴ることをしばくと言う。殴ってしまえと誰かが叫んだのだ。すると、僕も含めて松永くんを取り巻いていた男子の数人が、松永くんを殴ったり蹴ったりし始めた。最初は「やめろや」と半笑いで抵抗していた松永くんだが、次第にみんなが本気で殴り始めたので、多勢に無勢だと悟り、ダッシュで逃げようとした。その時、松永くんは誰かの足に引っかかり、もしかしたら引っかけられて転んだのだ。転んだ拍子に松永くんは机の角で顔を打ったようだ。鼻血が床にぽたぽたと落ちた。小学生を黙らせるのに、流血ほど効果があるものはない。松永くんを取り囲んでいた人の輪が一気に広がった。女子の一人が「先生」と声に出しながら職員室に走った。
 数分後、担任の佐藤先生が教室に走ってきた。佐藤先生は算数が得意な女先生で、怒るととても怖かった。松永くんを殴ったり蹴ったりしてしまった男子たちの全員の顔から表情が無くなった。数名の男子は顔の真ん中に目や鼻や口がぎゅっと寄ったように緊張し、佐藤先生が教壇に立つのを待っていた。佐藤先生は教室には駆け込んできたのだけれど、その後、教室の中の様子をひとしきり見ると、今度はとてもゆっくりした足取りで教壇に立った。そして、松永くんを指さして、こっちへ来いと合図を送った。
 鼻血を流しながら松永くんはなぜか少し笑顔で先生の元へと小走りに向かった。おそらく、鼻血を流していることで自分が被害者として確実に認定されると思っていたのだろう。しかし、佐藤先生は自分の前に立った松永くんにニコリともせず、松永くんのあごに手を当てグイッと引き上げると鼻血の様子を確かめた。先生はクリーム色のスカートとジャケットを着ていたのだが、そのポケットからティッシュを取り出すと一枚抜き取り、それを適当な大きさにちぎり丸め、松永くんの鼻の穴に、鼻のかたちが変わるほど強く突っ込んだ。松永くんは「うぎゃ」と妙な声を出して鼻を押さえてうずくまった。
「なにがどうしたら、こんな鼻血を出すようなことになるのか、誰か説明して」
 先生はまるで男の先生みたいに低い声で言うとあとは黙ってなにも言わなくなった。こういうとき、いつもなら学級委員長をしている池田くんが率先して話し始めるのだが、その池田くんも一緒になって松永くんを蹴ったり殴ったりしていたので黙っていた。仕方なさそうに口を開いたのは副委員長の平松さんだった。平松さんはいつも松永くんに「汚い」とか「向こうへ行け」とか言っている女子で尖った三角の赤いメガネをかけた気のきつい子だった。
「先生、私が説明していいですか」
 平松さんが言った。先生はなにも答えなかったので、またしばらく沈黙が続いた。平松さんがおずおずと話し始めた。
「最初に、松永くんが清水さんのスカートが透けているって、エッチなことを言い出したんです」
 すると、松永くんが、
「エッチとちゃう。ほんまに透けてたから透けてたと言っただけです」
 先生は松永くんをにらんだ。松永くんは口を閉じた。
「いえ、透けてる透けてるって騒いで、近くに行ってスカートもめくろうとしました」
 松永くんがまた何かを言おうとしたとき、佐藤先生が大きな声で制した。
「そんなことで、なんで鼻血が出るねん」
 平松さんも松永くんも黙った。そして、その原因となった僕たち男子が下を向いた。
 やがて先生は平松さんと清水さんを呼んで、教室の隅で話し始めた。しばらく話を聞いていた先生は、もう一度教壇に立って、いま二人から聞いた話を整理してみんなに話した。話の中身は、さっき教室で繰り広げられたことと寸分たがわない内容だった。
「間違いない?」
 先生がみんなに聞いた。
「はい」
 とみんなが答えた。
 すると先生は、松永くんを呼んで、教壇にみんなのほうを向いて立たせた。次に殴ったり蹴ったりした男子に手を挙げさせて松永くんの隣に立たせた。ここまでで立たされた人数は八人だった。そして、最後に先生は手を出さなくても囃し立てた人は正直に言いなさいと挙手させた。クラスの半分の男女が前に呼ばれた。
 一列目に囃し立てた男女が九人。二列目に松永くんと手を出した男子が八人。先生はまず一列目の男女一人一人にこう言った。
「手を出さなくても、罪は同じや。殴ったのと同じだけのことをしてるのと同じ。手を出してないから自分は悪くないなんて思うのは言い訳やし、ずるいし、汚い。まず、みんな松永くんに謝りなさい」
 先生がそういうと一列目の端っこに並んでいた副委員長の平松さんが「ごめんなさい」と言いながら泣き出した。それをきっかけに一列目のほとんどが泣きだした。泣きながらみんなが「松永くん、ごめんなさい」と謝った。先生は泣いている男女に、うるさい、というと自分の席に座らせた。
 残された僕たち八人を先生はきれいに等間隔に整列させると、順番に松永くんに謝らせた。そして、その後、順番にビンタを食らわせた。三人目に並んでいた僕は先生の掌が飛んでくる瞬間に少し顔を振ってビンタをかわした。音は大きかったがそれほど痛くはなかった。助かったと思った瞬間、先生の掌は戻ってきて逆の頰を思いっきり張られた。こうして、佐藤先生は僕たちを一人一人、まったく手抜き無く横っ面を張っていったのである。松永くんはと言うと、僕たちがビンタされる度に手を叩いて喜んでいた。確かに手を出したのは僕たちなので、先生にビンタされるのは仕方がない。そんな時代だったし、それだけ悪い事をしたと反省もしていた。だから、松永くんが手を叩いていても、後で仕返しをしてやるとは思わなかった。
 一通り僕たちをビンタし終わると、先生は肩で息をしながら、こう言った。
「どんなに腹が立っても、どんなに調子に乗っても暴力は絶対にあかん。わかったね。それだけは約束してもらわんと、今日は帰されへん」
 僕たちは先生に謝り反省の言葉を伝え、もうしませんと約束した。先生はわかったと声に出してやっと笑ってくれた。その時、松永くんも一緒になってこう言ったのだった。
「わかったか。調子にのんなよ」
 すると、佐藤先生は松永くんの前に行き、思いっきりその横っ面を張った。思ってもみなかったビンタに松永くんは目を見開いて先生を見つめた。
「お前もいじめられるってわかってるのに、しょうもないことするなっ!」
 先生はそう吐き捨てると、教室を出て行った。
 それからも、松永くんは懲りずに日々面白くもないしょうもないことを繰り広げ、僕たちは決して手を出さないようにしながら、松永くんをいじり続けた。(了)

フリーインプロヴィゼーションを聴いていたころ

仲宗根浩

大学に入った頃に学校図書館下の柱や掲示板にICPオーケストラの公演のポスターが貼られていた。ミシャ・メンゲルベルク、ハン・ベニンク、近藤等則という名前があった。おもしろそうだなぁ、とおもいながらそのコンサートには行けなかったのか行かなかったのか。しばらくすると趣味がフリージャズで筝曲研究会にいるという先輩がいたのでフラフラと筝曲研究会に出入りするようになる。

その先輩はフリー・ジャズ、インプロヴィゼーションのレコードを色々持っていた。デレク・ベイリー、ハンス・ライヒェル、ペーター・ブロッツマン、スティーヴ・レイシー、フレッド・フリス、エヴァン・パーカー、グローブ・ユニティ・オーケストラ等々。

いなかものには見たこともないレコードばかり。こっちはFMラジオで山下洋輔や加古隆がピアノだった沖至のグループをスタジオライヴを聴くのがやっと、NHK教育テレビの「若い広場」という番組で生活向上委員会を見た高校生はびっくらこいた。地元のレコード屋さんにはその手のレコードは置いてなかった。ミシャ・メンゲルベルクとハン・ベニンクの名前と演奏はエリック・ドルフィーのレコードを持っていたので知っていた。斎藤徹とは「騒」というところで既に知り合った後。

その年のパンムジーク・フェスティバルに忠夫先生が出演し、レオ・スミス、ペーター・コーヴァルト、ハンス・ライヒェルと演奏会にも行った。近藤等則は山下洋輔のレコードに参加している、ということだけ知っていたが音は聴いたことがなかった。しばらくするとエヴァン・パーカーのコンサートが日本青年館の確か地下ホールで近藤等則、森山威男を加えて行われたのを聴きにいった。その時にサックスの循環呼吸の演奏を目の当たりにし、近藤等則の生の音を聴いた。ICPオーケストラの「ヤーパン、ヤーポン」というライヴ盤を会場で売っていたので買うとメンバーの来日時のスナップショットの写真をおまけでくれた。数々の引っ越しの時にLPは人にあげたし写真も処分したかもしれないのでもう無いだろう。前後の記憶は不確かだでごっちゃになっているが、近藤等則がプロデュースし全曲作曲の浅川マキの「CAT NAP」というレコードを買った。レコードプレイヤーが壊れていたので誰かに頼んだとおもうがカセットテープにダビングしてもらい、そればかりを聴いていときがあった。川端民生とつのだひろのベースとドラム、めんたんぴんのメンバーだった飛田一夫のエッジの効いたギター。ロッド・スチュアートの「ガソリン・アレイ」は中学頃に先にめんたんぴんの演奏をテレビで最初に見たんだ。

その後、テレビが無かったこの時期にFMで近藤等則のチベタン・ブルー・エアー・リキッド・バンド聴いた。法政大学の学祭のオールナイトコンサートで近藤等則IMAを目当てに行った。その前はサンデー&サンセッツで他は全然覚えていたない。カセットブックが盛んなころでムーン・ライダースや坂本龍一などともに「Tokyo Meeting 」というのも持っていたがカセット類は処分したのでブックだけあるかないか。整理しようとラックを二つ組み立てたら全身筋肉痛になり進んでいない。組み立てるラックはあと二つある。

ウクレレ少年、エレキ老人、プリンセス(晩年通信 その15)

室謙二

 私はかつてはウクレレ少年であったが、いまではエレキ老人である。
 それも、エレキベースである。
 エレキギターなんか、チャンチャラおかしいのである。
 エレキベースで低音リズムをがんがん弾けば、音は耳に響くのではなくて、胸に押し寄せる振動となる。だが家庭ではそうはいかない。大きな音でベースを弾き始めたら、妻がすぐに私の部屋に飛んでくるだろうし、一階の住人も天井が振動するのに呆れて、私たちに電話をしてくるだろう。
 だから、そーと、弾かざるを得ないのである。

 クチ三味線の名人である

 私が子供のときに、我が家に戦前の手回しのポータブル蓄音機があった。
 ゼンマイをぐるぐるとまく。それから金属パイプのピカピカ・ピックアップを、回り始めたSPレコードの上に乗せる。その前に、鉄針をつけないといけないね。低音がよく出る、あるいは高音がでる、クラシック用とかジャズ用とかがあったと思うけど、いずれにせよ電気を使わないので、音は小さい。
 金属ピックアップのパイプを通った振動音は、ポータブル蓄音機の小さなホーン(木箱の中)から出てくる。ジャズだとベースとかドラムなんて、分離して聞こえるはずもない。音がダンゴになって、リズムを作っている。クラシックのオーケストラねえ、絶望的だ。
 子供の頃、ショパンのピアノソナタの10インチSPレコードがあった。戦前のクラシックのSPは、それ以外にもあった。落とすと割れてしまうので注意しないといけない。SPは一分間に78回転でぐるぐると回る。LPは33回転だったから、それよりずっとはやい。ともかくクラッシク音楽が聞こえる。
 ところが13歳年上の兄が、高校に入るとジャズを聞き始めた。
 それもビーバップですよ。ポータブル蓄音機から、チャーリー・パーカーが流れてくる。音が小さいと兄貴は不満。それで近くの電気屋さんにたのんで、クリスタル・ピックアップを付けてもらた。その電気信号を、改良した並四ラジオで増幅してU型マグネットのスピーカーで聞く。これで音は少しはましになったが、いまの録音とは比べ物にならない。
 それでもビーバップといっしょに、兄貴はチャットする。幼稚園の私もチャットである。
 ビバビバ・ブー。これが私の最初の音楽体験であった。
 聞くだけではなくて、クチ三味線で「演奏」するのである。

 「シマッタ、チャンスを逸した」

 だから私はいまでも、音楽体験は聞く(受け身)だけではない。すぐ下手くそな演奏に走る。
 私が小学生の高学年だったころ、兄が友人からウクレレを借りてきた。誰からか3コードを教わった。CとFとG7かな。この3つさえあれば、ポロンポロンといろいろな歌を弾ける。でもすぐに飽きてしまった。そのあとリコーダーとかフルートを吹いた。
 フォーク・ギターを弾き始めたのは、二十歳をすぎたころ。
 ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の高校生・予備校生が、ギターをつかんで街頭に出たのは1978年(昭和四十三年)だった。ベ平連事務所にいた数年年上の私も、負けずにギターを手に入れた。メジャー・コードを三つ教わって、マイナーを一つ二つ、それにいろんなキーで弾くためにカポを買った。それでもう私は、フォーク・ギタリストであった。
 ベ平連ニュースの編集をしていた私は、反戦フォークを歌い始めていた高石ともやにインタビューして友人になった。そのあと東京に出てきた岡林信康とも、中川五郎とも友人になった。
 五郎ちゃんはまだ高校生で、鶴見俊輔に教わるのだと同志社大学の新聞学科に入ったが、大学に行かずに街頭で歌う。鶴見俊輔も大学で学ぶより、歌うジャーナリストのほうがヨロシイと、それを支持していた。
 五郎は京都から東京に出てくると私の部屋のベットでぐっすりと寝て、夜中に私の恋人が来て、服を脱いてベットに滑り込んでも分からなかった。恋人の方は、「よく見たら五郎ちゃんだったわ」と、服を着て出ていったらしい。それを聞いた五郎は、「シマッタ、チャンスを逸した」と悔しがっていた。

 ケンちゃんウクレレを弾いたわよね

 ウクレレをまた始めたのは、三、四年前で、ガンになった姉さんに電話したら、ケンちゃんウクレレを弾いたわよね(昔のことを覚えていた)、こんど一緒に弾こうと言われた。
 姉さんはハワイアン・ダンスをやっていて、いっしょにハワイに行ったことがあった。それが、踊りながら、ウクレレを弾くことを始めたらしい。ウクレレが手元になかった私は、すぐにハワイのカマカに注文した。ワクワクしてきた。
 ウクレレは断じて「オモチャ」ではない。表現力のある楽器だよ。いまのウクレレは、テナーウクレレが一般的だけど、何十年か前は小さなソプラノウクレレが普通だった。ソプラノとかテナーと言ってもキーの音の高さは同じ。音の大きさとか響きがちがう。
 手に持って構えたときに顔に近い弦が、一番音程が高いG。上から二番目の弦がCで、一番低い音程。それから二番目(E)、三番目(一番下の弦でA)と音程が上がっていく。面白いチューニングだね。ウクレレは一九世紀にポルトガル移民がハワイに持ち込んだものだが、チューニングの起源をさぐると、南米とかアフリカらしい。 
 演奏はしていなかったが、私はずっと「ハワイアン」を聞いていた。ハワイアンと言っても、日本の人が考えるハワイアンではありません。あれは1930年代から40年代の、ハワイをテーマにしたハリウッド映画の音楽らしい。そのころはハワイがアメリカの観光旅行先としてはやって、ロサンジェルスの映画関係音楽家がそれらしい音楽を作ったのが、いまの日本人の考えるハワイアンです。ハワイの人は、あれがハワイアンだとは思っていない。

 ギャビィー・パヒヌイに会う
 
 私はギャビィー・パヒヌイ(Gabby Pahinui)に会ったことがあるんだ。彼の家に行って、音楽家でもある息子たちとのセッションを聞いた。庭に座って、木に寄りかかって彼がうたう写真を撮ったよ。と言うと、ハワイ音楽を知っている若い人は、「本当?」と驚く。
 と言っても、ギャビィー・パヒヌイなんて、いまはみんな知らない。石原裕次郎とか加山雄三のウクレレ先生のオータサン(Ohta-San)だって、ピーター・ムーンだって、「演奏を聞くだけではなくて、会って話して、インタビューしたんだぞ」と威張っても意味ないか。
 気にいると受け身でいるだけではなくて、すぐに始めたくなる私は、Nancyとハワイ島で休暇をとっているときに、スラッキーギター(Slack-key guitar))をはじめた。スラッキー・ギターはいろんなオープン・チューニングがあって、波がやってきて戻るような感じで弾く、始めも終わりもない。

 ギャビィー・パヒヌイのファンだけではなくて、プリンセス・カイウラニ(Kaiulani,1875年生まれ)のファンでもある。追っかけのカンジだ。プリンセスはもう生きていないんだが。
 彼女のことは読んだことがあったが、ホノルルの街を歩いていたらプリンセス・カイウラニ・ホテルがあった。入ってみると彼女の写真があって、混血のすごい美女だ。
 結婚せずに若くして死んだが、ハワイ王室は一時期、彼女を日本の皇室に嫁がせようとしたらしい。アメリカとではなくて、アジアである日本と関係を持ちたいと思った。日本側がまったく興味なし。外国の血を日本の皇室に入れるのなんか、もってのほか。残念だね。ハワイでは、彼女はいまでも人気がある。

 ごちゃまぜダ

 ハワイ音楽は好きだが、わたしはいろんな音楽をごちゃまぜに聞くのが好きだ。もっとも最初の音楽は、小学生のころに兄貴に聞かされたジャズ(ビーバップ)なので、それはいまに至るまで聞き続けている。マイルス・デビスは65年以上聞いていることになる。
 それと中学生の高学年でバロック音楽を聞き始めた。カークパトリックのハープシコードは、どういうきっかけで聞き始めたのかなあ。そして高校に入って、グレン・グールドを発見した。バッハのピアノ曲をたくさん聞いて、レコードを聞きながら、いっしょに口で歌っていた。
 音楽は、ヨーロッパ(クラシックも民族音楽も)から、アメリカ(ジャズも山間部の音楽もモダンフォークも)、中国から、日本のもの、南米(ブラジル)、アフリカ、ハワイ・南太平洋(フィージーに行って発見)となんでも引き受けた。
 息子がフェラ・クティ(Fela Kuti)がいいぞ、と言えば、ひと夏ずっとそれを聞き続けたし、子供の頃に両親がタンゴを踊っていたのを思い出して、それを聞いた。バンドネオンのアストル・ピアソラ(Astor Piazzolla)を発見。Ono Risa(小野リサ)もいい。
 息子が、インドのドラム音楽を教えてくれた。彼は西アフリカに滞在してドラムを叩いていた。ハリー・ベラフォンテは、その音楽も政治的態度も支持する。トランペットのヒュー・マセケラ(Hugh Masekela)は、何も知らずにカナダのクラブで聞いて驚いた。ジャズとアフリカ音楽の融合だね。ジャズをやっていたマセケラに、マイルス・デビスが、「もっとアフリカ音楽をやれ」としゃがれ声で言ったそうだ。キース・ジャレットのトリオは、原稿を書くときの音楽にちょうどいい。
 キューバ音楽もよろしい。ギターと歌もいいが、ピアノ音楽もいい。
 あるとき妻のNancyが、八代亜紀の「舟歌」を発見した。日本語が分からないのだが、すごくいいと言う。「お酒はぬるめの燗がいい、サカナはあぶったイカでいい、女は無口なひとがいい、明かりはぼんやりともりゃいい」といっしょに歌い、ともかく英語に翻訳した。
 私の方はビートルズが好きで、
 つまり、ごちゃまぜなんだな。
 私の人生も、ごちゃまぜだからね。

デジタルコレクションで遊ぶ

福島亮

とうとうフランスでは二度目の外出禁止がはじまってしまった。一時は1日に5万人以上もの感染者が出てしまったのだから、仕方ないといえば仕方がない。なによりも、クリスマスまでにはどうにか感染者数を少なくしなければならない。外出禁止令下のクリスマスなど、どう考えたって悪夢だからである。

こういう時のために、とっておきの楽しみを用意しておいた。国立国会図書館デジタルコレクションで遊ぶのである。デジタルコレクションとは、国立国会図書館が提供しているアーカイブで、様々な資料を自由に読んだりダウンロードしたりできる、夢のようなサイトである。

「国立国会図書館小史」を参照すると、デジタルコレクションの前身、「国立国会図書館デジタル化資料」の提供が開始したのは平成23(2011)年4月4日からであり、それに先立ち資料提供のための周到な準備が重ねられていたことがわかる。和中幹雄によると、デジタル・アーカイブの構築は、「国立国会図書館ビジョン2004」からはじまったそうだ(『図書館界』という魅惑的なタイトルを付された非常に興味深いジャーナルの、70巻1号にこのことは報告されている)。実は2011年というのは、僕が大学に入学した年である。その頃はこのデジタルコレクションの存在を知らなかった。デジタルコレクションに頻繁にアクセスするようになったのはフランスに留学してからである。フランスにいると、日本語の作品にアクセスするのに手間がかかる。かなりの数の作品が青空文庫に入っているから、日本語の作品を探すときは、まずは青空文庫を参照する。運よく見つかったら、ダウンロードする。ダウンロードしてしまえば、検索機能を使って、言葉の使われ方などを容易に調べられるからである。最近は青空文庫のテクストを利用した無料の電子書籍もあり、縦書きで読めたり、文章にハイライトをつけたりできて便利だから、必要に応じて利用する。しかしどうしても参照できないものもある。例えば図像の多い書籍。それから、文学作品ではない資料。あるいは初版本の細部。そういう時に助けてくれるのがこのデジタルコレクションである。

デジタルコレクションには様々な「資料」が集められている。図書、雑誌、古典籍、博士論文、官報、憲政資料、日本占領関係資料、プランゲ文庫、録音・映像関係資料、電子書籍・電子雑誌、以上がまずはホームページ(https://dl.ndl.go.jp)の目立つところに配置されている。さらにその下には、歴史的音源、手稿譜、脚本、科学映像、地図、特殊デジタルコレクション、他機関デジタル化資料、そして内務省検閲発禁図書が配列されている。もっとも、このデジタルコレクションの資料すべてが公開されているわけではない。権利状況によっては、国会図書館の中でなければ参照できない資料もある(例えば、「手稿譜」は林光の手稿なのだが、インターネット上では公開されていない。「鬼婆」の手稿譜もあるそうだが、内容は自宅のPCからは確認できず、非常に気になっている)。さて、上にあげた資料の中で僕が気に入っているのは、歴史的音源、および内務省検閲発禁図書である。

歴史的音源のうち、自宅のPCからアクセスできるものは現時点で4886点(2020年10月31日)。この中には、例えば坪内逍遥が朗読する『ヴェニスの商人』の録音もある。教科書でしか知らなかった人の声を聞くこともできる(例えば、火野葦平が読む『麦と兵隊』など)。中でも驚いたのは、北原白秋の朗読である。「邪宗門秘曲」のじりじりするような原色ほとばしる詩を、きわめて淡々と、でも艶やかに朗読したかと思うと、今度は短歌に節をつけ、細く細く張りつめた声で詠む。このように、歴史的音源は聞いていて飽きることがなく、ふと気がつくとコレクションあさりに惑溺してしまうことがあるから危険である。

それに輪をかけて危険で面白いのが、「内務省検閲発禁図書」(以下、発禁図書と略す)である。発禁図書の項目を開いてみると、インターネット公開資料は現時点で301点である(2020年10月31日)。検閲に引っかかった本のうち、おそらくもっとも多いのは社会主義、共産主義関連の書物である。それからやはり、性風俗に関連するもの。そして、不敬にあたるとされるもの。だいたいこのあたりが発禁の対象になっているようである。それ以外にも、労働運動や、アナーキズムなど、発禁の理由はいくつもあるだろうが、まとめるなら、「安寧秩序妨害」と「風俗壊乱」となる。

デジタルコレクションの中で興味深かったのは、フローベル作、田山花袋編『マダム・ボヷリイ』、すなわち、フローベールの『ボヴァリー夫人』の翻訳である。『マダム・ボヷリイ』というのは誤植ではない。「ワ」に濁点で、「ヴ」の音を表記しているのである。「姦通小説」として名高いこの19世紀フランス文学が発禁になった理由は、いうまでもなく、「風俗壊乱」である。表紙には「風俗壊乱」を示す「風」の文字が書かれており、「禁止物 高等警察」と朱書きされ、なにやら物々しい。この翻訳は「世界大著物語叢書」の「第一編」として新潮社から出版されたものであり、大正3(1914)年6月6日に印刷完了、発行は同年6月10日となっている。「編」とついているのは、この訳が編訳だからである。巻頭に置かれた「『西洋大著物語叢書』発行の趣旨」によると、ヨーロッパ(泰西)の文学の中には、訳したいのだけれどもあまりに長大なので翻訳するのに躊躇してしまうものが少なくない。そこで、「抄訳を、簡潔なる物語風の筆によって連綴し、梗概を語ると共に原作の感味を髣髴せしめ」たい、とのことである。同じ「趣旨」の中には、「名教に害ありとして官憲に読まれ」市場に出せない作品も、うまいこと選んで加えることにした、とある。検閲を逃れるよう細心の注意をして刺激的な内容の作品も収録しています、という苦心とも、売り文句とも、あるいは検閲への挑発ともとれる文言である。

僕はこの本の存在をこれまでまったく知らなかった。仏文学者の山川篤によると、花袋編の『マダム・ボヷリイ』はごく少数の所蔵機関にしか収蔵されていなかったそうである。デジタルコレクションで公開されたことで、これまで容易に参照できなかった作品に自由にアクセスできるようになったことは本当に嬉しい。ひとつ残念なのは、この本のどこが問題になったのかいまいちわからなかった点である。この文脈で時々取り上げられるのは、人妻エンマが、不倫相手の青年レオンと馬車の中で何やらした後、馬車の窓から千切った紙を捨てる場面である。この紙はレオンに別れを告げるために所持していたエンマの手紙なので、要は、もうこれっきりと覚悟していた不倫に再び溺れていくエンマを表す記号だといえよう。ところが、渡辺一夫によると、『ボヴァリー夫人』の別の日本語訳が検閲にかけられた時、この紙を捨てる場面がよからぬ妄想を招いたという。花袋編『マダム・ボヷリイ』でもこの紙を捨てる場面はしっかり訳されている(188頁)。はたして検閲官たちはここで妄想をたくましくしたのか、それとも「なに、手紙じゃないか」と理解して読み飛ばしたのか、はたまた、やはり姦通はけしからん、と眉をひそめたのか。知れるものなら知りたいところである。

発禁書籍がデジタルコレクションで公開されたのは、平成29(2017)年3月のことだという。それ以前、発禁図書は米国議会図書館に所蔵されていた。なぜ日本の発禁図書が米国に、とも思うが、この辺りの事情については、『国立国会図書館月報』680号、2017年12月の特集が詳しい(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10991743/1)。かいつまんで述べるならば、内務省に保管されていた発禁本が戦後米軍によって接収され、合衆国へ渡っていたのである。接収されていたからこそ、いまこうして発禁図書を楽しむことができるのだとしたら、ちょっと皮肉な感じもする。余談ではあるが、この月報に掲載された眞子ゆかり「本に残された決裁文書」は、発禁図書に書き込まれた検閲決裁文書を細かく検討し、検閲の実際を追っている。読んでいて胸が熱くなるような文章だった。発禁図書公開の裏には、図書館構成メンバーたちの並々ならぬ努力があったはずである。また、発禁図書を読みながら、つくづくこれらの図書が処分されなくて良かった、と思った。先の「フローベル」の本の扉には、「風」と烙印が押されてはいるけれども、同じ箇所には「永久保存」という印も押されている。もちろん、コレクションに収めることができた資料は存在した資料のごく一部に違いない。でも、たとえ一部であるとしても、その一部の保存すらないがしろにされてしまったら、後世の人間はもう手も足も出ないのである。保存されていなければ、こうして自由にアクセスすることもできなかった。ウイルス蔓延につき外出禁止というような「もしもの時」の楽しみが減ってしまうのは、なんといっても惜しいことではないか。

一度も撃ってません!

若松恵子

阪本順治監督の最新作『一度も撃ってません』は、新型コロナの影響で春の公開予定が7月3日からに延期され、まだ映画に出かけるのがためらわれる様な社会状況のうちにロードショーが終わってしまった。

9月のはじめに新百合ヶ丘のアートフォーラムで上映されるのを追いかけて見に行った。見終わった後に、じわじわと面白さがしみてくるような味のある作品だった。

阪本監督が石橋蓮司を主演に映画を作りたいと話した際に、脚本家の丸山昇一が「伝説の殺し屋、実は一度も撃ったことが無い」というアイデアを思いついて、それが今回の企画になったということだ。

確かに石橋蓮司という俳優は、決して使用していないに違いないだろうけれど、覚せい剤を打っているような役がうまい役者だ。(どういうほめ言葉なんだよ)。私は子どもの頃、彼のことを本当に危ない人だと思っていた。実は本当には一度も撃ったことが無い伝説の殺し屋というのは、彼、石橋蓮司を象徴する役柄なのだと言える。さらに、石橋蓮司演じる小説家は、ハードボイルド小説が書きたいというだけで犯罪に手を染める。小説という虚構を生み出すためには(間接的にではあるが)人を殺しても構わないと思っている男なのだ。映画という虚構のためならどんなことだってやりかねない、石橋蓮司のそんなイメージともこの小説家は重なる。阪本順治と丸山昇一という良き理解者によって、このような主人公が、石橋蓮司のためにつくられたのだ。

岸部一徳、大楠道代、桃井かおり、佐藤浩市、豊川悦司、江口洋介、妻夫木聡、井上真央、柄本明という錚々たるメンバーが集まって共演している。かつて阪本作品に出演し、監督と映画づくりへの思いを共有する俳優も多い。ロードショー公開に先駆けて出演した番組の中で、妻夫木聡は「久しぶりに日本映画らしい映画に出演できてうれしい」と語っていた。こんなに年寄りばかりの群像劇をつくって、ヒットするの?と言われてしまいそうだけれど、実際に朝の情報番組に取り上げられることなんて無かったけれど、映画の魅力を感じさせる映画だと思った。

主人公が夜な夜な通う怪しげなバー「y」は、原田芳雄の「y」なのだという。原田芳雄の筆跡から看板の「y」の字が作られたということだ。石橋蓮司、岸部一徳、桃井かおり演じる3人は、新宿騒乱事件の最中に出会い、ずっと友人でいるという設定だ。石橋蓮司、岸部一徳、桃井かおりそれぞれの、日本映画界のなかでの独自の立ち位置と存在感にも重なる。そして、慎ましい日常を忘れて、自分が夢見た人を演じて語り合えるバー「y」も閉店の時を迎える。閉店の日のドタバタ、ラストワルツ。

公開前の宣伝で出演した番組で、コロナ禍において難しくなっているが劇場で映画を楽しむという事について質問されて阪本監督が答えた言葉が印象に残った。

作り手からすると、大きなスクリーンと劇場の音響を前提に作品を作っているので、そこで見てほしいということだ。家でDVDやスマホで見ることもあるだろうけれど、画面の背景に色々なものが見えてしまっていると、チラッ、チラッと別の物に目が行ってしまうので、家で見ていると映画の時間を短く感じてしまうかもしれない(逆の場合もあるかもしれないけれど)スクリーンの主人公だけを追いかけている時とは、時間の感じ方が違うと思うというのだ。また、音響の点でも、特別に設定している場合でない限り、細かい音やある周波数の音は家では聞こえないので、小さなため息を入れているところが、無音になってしまう場合もあるのだという。映画館の暗闇に座って、スクリーンに流れる時間を体験する、この古き良き映画の楽しみ方を失いたくないなと思った。そしてそれに耐えうる映画というものをこれからも作っていってほしいなと思った。

まぶた裏読み

管啓次郎

文字なき午後だった
電車に乗ってついウトウトしていた
閑散とした車内だ
みんな外出しなくなったので
ガラガラなのも当然
空いた席にはピンク色の恐竜や
黒装束の死神が二、三人
ゆったりすわっているばかり
昔とは違う時代になったけれど
昔もよい時代ではなかったので別に
気にもならない
明治のある時期なら
電車はなくて軌道上を馬が曳いていた
路上には馬糞がふくよかに匂い
人々に安心を与えていた
ブエノスアイレスの地下鉄なら
木製の製造後七十年は経過した車両が
電線の継ぎ目ごとに暗闇を吹きかけてきた
それはそれで情緒があるもの
記憶のフェティッシュだ
いま線路は空中を走り
完璧な水平をもって水もこぼさない
そんな車両に存在も時間もゆだねながら
いつものことでぼくは
内にこもっている
公共交通機関であればあるほど
交感を拒否している
ただ目をつぶって
周囲の乗客にも
窓の外の景色にも
気がつかないふりをしている
きみはよく「世界」というが
世界を見たことがあったら教えてください
よく見るためには目を閉じて
周囲を流れる音をよく聞き取るべきだ
鉄道や自動車の機械音も
風が木の葉を楽器として使って立てる自然音も
動物たちのやかましいほどの発声も
ごまかしようのない世界の断面
目をつぶる
耳をひらく
何かをつぶやく
何かが帰ってくる
ひとりでそんな遊びをしているうちに
車窓がどんどん暗くなって
昼下がりの街がまるで
無人のリスボンのように思えてくる
外壕線から甲武線へ
気がつくと街のどこにも文字がない
さっと血の気が引く
乗客はすべて消え
水の中のような光があたりをみたしている
いったいどういうことかと思ってまた目を閉じると
とたんに閃光のように文字が走った
「新しいギターが」
目を開けると目の前の座席にギターがある
その青いギターを鳴らしてみようか
また目を閉じるとまた文字が走った
「夕方のサロマ湖には」
目を開けると窓の外は灰色のみずうみだ
あの水に足を濡らしたい
また目を閉じるとまた文字が走った
「時事はただ天のみぞ知る」
目を開けると何かの通信がラジオのように
車内放送を通じて流れてくる
また目を閉じるとまた文字が走った
「インド亜大陸のベンヤミン」
カルカッタの場末のレストランで
白いゆったりとした服を着たヴァルターが
おいしそうにミールズを食べている
あいつにもあんな一面があったのか
「オルガン演奏とタイプ打ち」
一九五〇年代のようなアメリカ人タイピストが
ハンナ・アレントのように煙草を吸いながら
炸裂するマシンガンの速さでキーを叩きつづけると
それはそのままシンセサイザー音楽となって
空から降ってくるようだ
「一生分の唐辛子を背負って」
アンデスの民族衣装を着た小柄な中年女性が
大きな籠の荷物を背負って電車に乗ってきた
どうやらぼくが目を閉じるたび
まぶたの裏側に文字が浮かんで
目を開けるたびその文字が記すことが
目の前で実体化している
どんなメカニズムでこれが可能になるのだろう
電車はいつしか路面電車
軌道と店先と民家と歩道の区別なく
街が実現されてゆく
人のかたちをした実体のわからないモノたちが
踊るように歩いている
犬のかたちをした実体のわからないモノたちが
ふざけるように遊びまわっている
そうしているあいだも目を閉じるたび
文字が走り
目を開くたび
文字がしめしたことが現実し
あたりはどんどんにぎやかになる
電車を降りるときがきたようだ
だんだん目を閉じるのも開くのも
怖くなってきた
いや恐怖ではなく
億劫になってきた
世界がどんどん充満する
「めざまし時計のぜんまいが壊れた」
「不信感が悪霊のように漂って」
「夫はアルコール依存症」
「宝石くらいいやらしいものはない」
「原子ができたことで光が直進する」
「サウナにはロシア式とフィンランド式がある」
「ほら、ロシアの山が大好物」
「現金取引なんてやめてよ」
「見られたことのない蝶が見つかって」
「いま休憩中です」
それからぼくは意識を集中して
あの文字をなんとか呼び出そうとした
するとまぶたの裏側に現れたのは
もっとも必要としていた文字
天佑のように
「たそがれ」
「黄昏」
「誰そ彼」
歩くぼくの視界が仄暗くなり
足元も覚束ないが不安はない
歩いてゆくだけだ
かつて太陽がなく
夜と昼の区別がなかったころ
蛍たちが小さな太陽であり
光の存在証明だった
しずかな時空に蛍たちが散らばり
われわれの世界に明るみをしめしていた
人称なく所有なく
時間なく好悪のない世界で
われわれは我なく汝なく
薄明の意識としてさまようばかりだった
こんなときのためにぼくはいつも
音叉をひとつ携帯している
A=440 のこの音叉を叩き
耳に当てながら歩いてゆけばいい
音にみちびかれ
音にあざむかれ
音にさまよい
道にさまよう
恐ることなく
迷うことなく
こうして生きることの実験に
初めてたどりついたのだ
文字なき読みの世界へ

月の話をする先生

さとうまき

僕は、6か月間、秘密の職業訓練を受けている。残すところ一か月だが、正直甘く見ていた。WEBを自由自在に使いこなせるようになり、、、、というのが極秘の任務である。たとえば、検索で上位表示させるためには、グーグルのサーバーにもっていってもらって、彼らが気に入るようなものでなければならない。

改めて、日常がいわゆるGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)つまりはアメリカに完全に支配されていることを知り少し恐ろしくなったりする。せめてもの救いはというと、ジョブスがシリア人だということだろうか。

還暦が近い僕は、正直ついていくのが精いっぱいで、何とか毎月の試験は少しずるをしながら好成績を上げているものの自分がいかにポンコツかというのを思い知らされる。すごいなあと思うのは、講師の先生はさらに僕よりも年上であるのに衰えを知らない。

授業が始まる前に、「今日は何の日」というのを話す先生がいるのだが、宇宙の話が多い。ここにきているのは、明日食えるかどうかわからないという失業者ばかりで、宇宙で何が起ころうが、そんなものはどっちでもいい話だ。先生も生徒が聞いてようが、いまいがお構いなしに熱く語る。

「どうして、先生は、宇宙の話ばかりするんですが?」と生徒がたまらず聞いた。
「宇宙のことを考えていると、この世の中がちっぽけで、どうでもよくなるんですよ。」
言われてみればその通りである。明日の飯のことなど取るに足らない事なのだ。

「10月は、2回満月がある月です。ハロウィンと満月が重なるのは、46年ぶりですから、帰りに必ず見てください。」
といわれても、授業が終わって、同級生と就活の話をしているとコロナ禍の暗い未来しか見えてこない。池袋の町明かりに月のことなどすっかり忘れてしまっていたが、家に着けば、満月が真上に輝いていた。夜も更けてくると周りも暗くなって、月の存在感が際立つ。

不思議な静寂の中で、聞こえる音。それは月の音ではなくて、満月に覚醒された地上の生物や植物たちのざわめきの音楽がハーモニーを奏でている。”月並み”な話だが、GAFAがすごくても、有史以来、人間はとてもちっぽけな存在であり続けるのである。

製本かい摘みましては(158)

四釜裕子

セブン – イレブンのコピー機で、100ページの「ピーター・ドイグ展の記録」をプリントできるという。ネットに公開された10本のレビューを中心に、鷹野隆大さんの撮り下ろしもあるとのこと。でも所詮コピー機だよね……と思ったのだけれど、〈印刷の実費のみで入手することができ、おうちにある道具を使って簡単に冊子として綴じることができます。ぜひ、お手に取ってみてください〉〈製本にはホチキスと消しゴムが必要です。ハードモードとして糸で中綴じをする方法もご紹介しています。キリと刺繍糸+針をご用意ください〉と言われたら、試さざるを得ないわけで。

2月26日に開幕した東京国立近代美術館の「ピーター・ドイグ展」は、新型コロナウイルス感染拡大防止のためにまもなく休館となってしまった。再開したのは当初予定の最終日の2日前(6月12日)で、しかしその間に展示期間の延長が決まり(10月11日まで)、それで私も見に行くことができたのだった。このとき会場には図録の見本がなく、「見たいのですが」と申し出ても叶わなかった。残念だけどいたしかたなく、見もしないで買う気にはなれず、そのままになっていた。

「ピーター・ドイグ展の記録」は図録ではない。突然休館せざるを得なくなり、同館の主任研究員・枡田倫広さんは〈再開することなく展覧会が終わることも覚悟しないといけないなと思った〉(枡田さんの編集後記より。以下同)そうである。〈せめて言葉だけででもこの展覧会の記録を残したい〉と、まずはウェブで「現代の眼 特別版――ピーター・ドイグ展レビュー特集」を公開。しかしその可読性と記録性の低さが気になり、〈さりとて小冊子を印刷・製本頒布する予算はありません〉。〈いかにして高めようかと頭を抱えていたところ、研究補佐員の山田歩さんが(略)ネットプリントというシステムがあると教えてくれました〉。

冊子はA4判(一部A5判)100ページ。デザインは、neucitoraの刈谷悠三さんと角田奈央さん。表紙のみカラーであとはモノクロ。コンビニのプリンターで指定された番号を入力してデータを呼び出し、A3サイズとA4サイズを合わせて25枚、両面コピーする。代金は全部で1,080円。すべて2つ折りにして重ね、中綴じとする。留めるのは、ホチキスでも、穴を開けて糸でかがってもいい。同館のウェブサイトにあるプリントや綴じの説明も分かりやすく図解されている。コピー機でお札は使えないことまで示してある。まあ実際はそこまで読み込まなかった私は途中でレジで両替してもらったし、両面印刷の選択ボタンを確認しなかったので片面印刷になってしまったり、いろいろあったわけだけれども。

家に持ち帰りコピー機の墨ベタはすべるなあと思いながら2つに折って、折り山に3つずつ穴を開ける。麻糸を針に通し、「ハードモード」と称されていた方法で仕上げるのはあっという間だ。ページをめくって4ページ、1月からの美術と社会の出来事を記したタイムラインが始まる。WHOが新型コロナウイルスの名称をCOVID-19と発表した2月11日ころから、ドイグ展の展示作品が徐々に到着したようだ。修復士の田口かおりさんが寄せたレビューによると、田口さんはニューヨークで、展示するドイグ作品の点検と梱包に立ち会っており、それら作品とともに貨物便でこのころ日本に飛んだそうである。お立場ならではの作品を「裏」から見ての論考がおもしろい。
タイムラインに戻ると、2月17日にはドイグさんが来日、翌日から展示作業開始。そして2月26日、一般公開初日のこの日、総理が2週間のイベント自粛要請。なんというタイミング。27日、29日から3月15日までの休館を公表。「2月29日 ドイグ展休館」。冊子は次のページからサイズが倍になり、写真が始まる。まずは会場の天井、そして無人の場内が続く。

31ページ、元のサイズに戻って、タイムラインの続きが始まる。3月1日、無観客でドイグさんの講演収録。翌日ドイグさんは帰国。以降、展示再開の検討、断念、検討、断念。会期延長に向けた交渉、さまざまな配信、自宅待機……。特別レビューの依頼、到着、公開。ネットへの公開順に、10人のレビューも並ぶ。そして「6月12日 ドイグ展再開」。
71ページから再び大きな判型に。今や日常となった感染予防対策シーンの写真が並ぶ。タイムラインにあった7月30日の撮影がこれだとすれば、私が出かけた時期にも近い。写っている人のほとんどが白の不織布マスクで、今にしてみると異様だ。当時会場では絵そのものや作家のことよりも、トリニダード・トバコなど描かれた遠い場所のこと、スキーだのボートだののこと、作家がやっていた映画の自主上映会のことなどに思いが飛んでは立ちすくんでしまい、移動への渇望は結構大きく、でも悪くないなと感じたことも思い出した。そういう意味で実は多くのレビューにはピンとこず、椹木野衣さんが「画家ピーター・ドイグをめぐるエセー(企て)」の中で〈心踊る随想的な絵画〉と書いていたところに断片的に深くうなずいてしまう。

タイムラインの8月31日、ここに編集後記が続く。〈何年かあと、書棚の隅でほこりをかぶったこのネットプリント版を見つけたあなたは、ピーター・ドイグ展、あるいはこのレビュー集の記憶とともに、狂騒と虚無感が同時に訪れたかのような、2020年の奇妙な月日のことも合わせて思い出すことでしょう〉。それは、間違いない。ただ若干の問題は、表紙が本文より小さいので、このままでは棚に差したり抜いたりするたびにめくれるであろうことだ。なのでクリアファイルにはさんでおくことにした。中綴じだが背に大きく「Peter Doig」の文字があるので、書棚に並んでもそれなりに分かる。
タイムラインの最後は「9月10日 『ピーター・ドイグ展の記録』配布開始」。奥付に「印刷・製本 あなたと、富士ゼロックスカラー複合機」の文字。

山中剛史さんが『谷崎潤一郎と書物』(秀明大学出版会 2020)の中で、書物を文学の「生態系」と捉えると、書物は実態的な生き証人だと書いていた。〈書物とは、作者のみならず出版社、編集者そして装幀家、また印刷・製本所そして取次から小売書店といった流通サイクルや、また書物が商品として各々の時代にいかように宣伝、売買され読者に受容され版を重ねて浸透していったのか等々の問題について、それぞれの時代における文学のありようと、その中で作者や作品の位置はいかにあったかを示唆してくれる実態的な生き証人でもある〉(7ページ)。
せめて言葉でだけでも残したいという思いから始まった「ピーター・ドイグ展の記録」という冊子も、最後はたくさんの「あなた」に綴じられ、それぞれの「あなた」の棚におさめられて、ひとつの美術展の実態的な生き証人になったのかなと思った。こうしてひとまとまりのかたちを得るのに、この方法がぴったりだったのだと思えた。

『スリ・パモソ』作品と復曲の背景

冨岡三智

このエッセイを書いている今日(10/31)、 オンラインイベントで舞踊『スリ・パモソ』の再演を見た。正直なところ、作品調査や解釈が足りないと感じた。この作品は2003年に復曲されたものだが、実は私はその調査の最初の段階から知っていて、しかもその再演公演の後に出資して曲も録音している。さらに、私自身も数度、日本で生演奏で上演している。それなのに、この作品についてまとまった文を書いていなかったことに、今さらながら気がついた。というわけで、今回はこの作品を紹介したい。

舞踊作品『スリ・パモソ Sri Pamoso』が復曲上演されたのは、2003年2月1日(1月31日リハーサル)、ジョコ・トゥトゥコ氏(以下ジョコ氏)のインドネシア国立芸術大学スラカルタ校大学院修了制作公演においてである。彼自身は踊らず、古い作品の調査・復曲、新しい振付、それらを含む公演制作を手掛けた。このリハーサル映像を私はジョコ氏の許可を得てyoutubeに公開しているので、あわせて見てもらえると幸いである(https://www.youtube.com/watch?v=tYsC_yH88BA&t=2400s 17:10過ぎ~)。なお、『水牛』先月号に寄稿したように、ジョコ氏はこの9月28日に急逝した。

まず、この公演全体については『水牛』2003年3月号~4月号で書いている。以下は4月号の記事「ジャワでの舞踊公演(2)」の抜粋。なお、3がJ作となっているが、このJがジョコ氏のこと。私はこのジョコ氏の作品に出演していた。

 公演プログラム

1「ルトノ・パムディヨ」(Retna Pamudya)  クスモケソウォ作(完全版)
2「スリ・パモソ」 (Sri Pamoso)   クスモケソウォ作(復曲)
3「ダルマニン・シウィ」(Dharmaning Siwi) J作

1は女性戦士・スリカンディが敵のビスモを倒すまでを描いた女性単独舞踊である。1954年に中国への芸術使節(misi kesenian)の演目として作られ、J女史が初演した。その後はスラカルタ舞踊の基本的な演目として一般に定着している。…中略…

2は1969年頃の作品で、廃れていたものを今回復曲させた。クスモケソウォの弟子が海外で踊るため男性単独舞踊の作品を師に依頼してできたものである。今回は舞踊譜を保存していたクスモケソウォの弟子・S.T氏によって上演された。
1と2の演目は両者とも単独舞踊であり、海外公演のために作られたことが共通する。これは海外では1人で踊らざるを得ないことが多いが、本来の宮廷舞踊の演目では男女を問わず単独舞踊は存在しないためである。また両者ともコンドマニュロ(Ldr.Kandhamanyura)を伴奏曲としていることが興味深い。多分クスモケソウォが舞踊を通して表現したいものを一番表現できた曲だったのではなかろうかと思う。

『スリ・パモソ』は男性優形の単独舞踊で、宮廷舞踊の動きだけを使って作られた舞踊作品である。「コンドマニュロ」というスレンドロ音階マニュロ調の曲を使う。「コンドマニュロ」には普通の演奏方法以外に、ブダヤンという斉唱を伴う演奏方法がある。後者は宮廷女性舞踊用の演奏方法である。上の公演では『スリ・パモソ』はブダヤンで上演された。それはクスモケソウォの意図ではなく、同じ曲で伴奏する舞踊曲を2曲続けて上演するという大胆な公演構成の中で変化をつけるためである。

復曲の経緯だが、これはジョコ氏が公演のテーマとして祖父でスラカルタ宮廷舞踊家のクスモケソウォから自身に至る三代の系譜を表現する上で、祖父の作品を復曲したいという想いがあったからなのだ。スラカルタを代表する舞踊家といえばガリマンとマリディが双璧だが、この2人はクスモケソウォの下の世代で、活躍したのが1970年代以降だから、多くの作品がカセット化されている。一方、クスモケソウォは1972年没で、『ルトノ・パムディヨ』ともう1曲ぐらいしかカセット化されていない。ジョコ氏がクスモケソウォの弟子にインタビューしていく中、スリスティヨ氏(上の『水牛』記事ではS.T氏になっている)が同作品の振付をメモしていたノートを見つけたので、それを元に復曲することにしたのである。

実は、ジョコ氏がクスモケソウォの弟子であるスリスティヨ氏をインタビューするときに私も同行して、その時にその記譜を見せてもらった。しかし、昔の記譜というのは現在の芸大で使っているような動きやフォーメーションを緻密に書いたものではなくて、スカランと呼ばれる動きの名前を書いてあるだけである。それも、1ゴンガンごとに1つのメインのスカラン名しかない。ゴンガンというのはガムラン音楽の周期で、この曲の場合は32拍ある。伝統的な舞踊の場合は動きのつなげ方などに法則や習慣があるから、舞踊を相当知っている人はそこから作品を組み立てていけるのである。

振付記譜を持っていたのはスリスティヨ氏だが、実はこの作品はトゥンジュン・スハルソ氏のために作られた。スハルソ氏は1962年に始まった大型観光舞踊劇『ラーマーヤナ・バレエ』の初代ラーマ王子役の人で、スリスティヨ氏は2代目ラーマ王子役、どちらもクスモケソウォの弟子である。そして、クスモケソウォは初演以来『ラーマーヤナ・バレエ』の総合振付家を務めていた。スハルソ氏は1969年頃から留学のためラーマ役を辞することになり、海外でも踊れるような男性単独舞踊の作品を師匠に作ってもらったのだった。

『スリ・パモソ』の振付は、ガリマン作の『パムンカス』に雰囲気が似ている。どちらも男性優形の単独舞踊で、宮廷舞踊の動きしか使わず、使用する曲が1曲のみである。また、同じ作者による同じ曲を使った『ルトノ・パムディヨ』にも似ている。宮廷舞踊のテーマは究極的には自己との葛藤を経て三昧の境地に達する過程を描くため、振付の流れが似たようなものになるからだ。

戦い――それは内面の葛藤のメタファでもある――のあと座って瞑想するシーンで、合掌する手を徐々に上げながら空を仰ぎ、肘を付け、まるで蓮の花が開くように肘から先を開く動きがある。これは、元にした記譜にはない動きである。というか一連のシーンは単に「semedi(瞑想、三昧)」としか書かれていなかった。実はこの動きは『ラーマーヤナ・バレエ』にあったシーンである。(『ラーマーヤナ・バレエ』は現在でも続いているが、この動きがまだ残っているかどうかは知らない。)実は『ルトノ・パムディヨ』の完全版振付でも『ラーマーヤナ・バレエ』にあったクスモケソウォのオリジナルの祈りの型が使われており(そのことを私はジョコ女史=ジョコ氏の母から教えてもらっていた)、クスモケソウォの作品を考える上で非常に重要な要素だと私は思っている。

その後立ち上がり、マングルンという風に上体がそよぐような動きをする。これは記譜に書かれている。この動きは宮廷女性舞踊に使われる型で、普通は男性舞踊に取り入れられることはない。しかし、クスモケソウォは女性舞踊の方が男性舞踊よりも型が豊富で複雑なものが多いことから、女性舞踊の動きを男性風にして取り入れようとする傾向があったようである。戦いを経て立ち上がりマングルンに至る流れは、女性舞踊の『ルトノ・パムディヨ』とも共通する。

この舞踊作品の中で最も緊張感をはらむのが、戦いの場面(1人で剣を振る)の最後で突然無音になる場面で、その中で剣でしばらく虚空を突いた後、音楽が戻る。実は、舞踊曲が途中で止まって無音になるという演出は、クスモケソウォが活躍した1960年代以前の宮廷舞踊ではありえない。現在ではあまり違和感が感じられないかもしれないが…。あの変更は公演本番の数日前の練習で急に決まり、そのため議論沸騰したことを覚えている。当初はもっと普通の復曲だったのである。ただ、当時なかった演出だとしても、あの緊張感は宮廷舞踊が目指す本質を突き付けてくる…気がする。

ダンス現在

笠井瑞丈

去年から毎月
天使館でダンス現在と言う
スタジオパフォーマンスを企画してます
自分の作品や笠井叡の公演を中心に行ってきましたが

今年の7月に初めてゲストという形で
鈴木ユキオさんに出演した頂きました

それに続き

九月は岡本優さん

出演者は基本的には
今私が見たいと思っているダンサーに
オファーを出して出演してもらってます

わたしが今まで関わってきたダンサー
一方的にいいなと思っているダンサー

十月は四戸由香さん

『笑う女』を上演しました

彼女とは加藤みや子先生の
公演に出演させてもらった時
別のプログラムに彼女が出演しているのがきっかけで知り合いました
そして僕の企画の公演に出てもらったり
笠井叡の公演にも出演したりもしました
ツアーでイタリアとメキシコにも一緒に回ったりしました

メビウスの
輪のように
外と内
光と闇
生と死

明るさと暗さ
喜びと悲しみ

表裏一体の世界

彼女の作る作品

作品を見れば見るほど
世界観に引き込まれる

今コロナという問題を抱え
踊る場が減っていく中

少人数のお客様でも
踊れる場所を作れたら

そんな想いでこの企画を続けています

12月は高橋悠治さんのピアノと
笠井叡さんのダンスとなります

『透明迷宮』

192 思想の初版――敗北

藤井貞和

あ、「アニメ作家は、昔話の妹を鬼にする。
炭焼き小五郎がやってきても、ぼくらはやられっちゃうんだ。
世界があいてでは、やだな、
負けるのはもうずっと。 先生が青鉛筆のお尻で、
ぴりりと叩いた、あれ以来の錯乱だから、
耐えられない。 教室をお別れして、
沙漠も深海も眼前にひろがっているんだ、見ろ。」
い、「きみは蚊と虎とを助ける、
臼から落ちてくる、瓜から出てくる大洪水で、
思想家になろうと、そりや努力したさ。 おかあさんは、
ぼくらを落盤のしたから救い出してくるとき、
陀羅尼と心経とをすこし唱えて、
あちらでは歌人が笑ったさ、だっておかしいんだもん。
思想なんか、おまえに似合わないよ、せいぜい、
二刷りか三刷りか、または物語かねと。」
う、「言い返してやったんだ、先生はぼくらよりも、
おかあさんよりも、殉死するのが好きだったんだと。
B29さ、援助者が青空からやってきて、
かちかちかち、火を点けてまわる。 おかあさんは、
婆汁になっておいしくいただかれる、茶室で。
納戸では下関の作家の釣り糸に、凍える帝国がいっぴき。
あ、〈白老の古博物館轢死する〉。 役割を終えて、
俳句をならべる涙の抗議もあいつらには届かない。」
え、「仏教が南インドからやってくる、きのうのはなし。
きょうは人身犠牲を廃止する、東京拘置所のはなし。
首里城を再建する(それはどうでもよいけれど)、琉球大学を呼びもどす、
平和がこの国にやってくる、〈式典に妹は鬼呼びもどす〉(無季)、
いらっしゃいな、山姥。」
お、「ははは、あいつらは山姥、
旅人馬に揺られて、手なし娘の両手を切るために(おとうさん)、
あしたは天皇賞で、ぼくらの賭け馬も旅人で、
ちょっぴり劣るちからがかわいそう、いつも負け。
いつになったら思想の初版はひらかれるの、
夢、青空に暮れなずんで時代また暮れそこなって。」

(「白老の古博物館轢死する」〈575、無季〉は以前の白老博物館が懐かしいという、それだけのこと。笑えないことが今年はありすぎて、大和にさいごの服属儀礼か。屈服させられるアイヌ学を、アニメで一服。)

万華鏡物語(6)太陽はゆっくり昇る

長谷部千彩

 年に一度、区の無料健康診断を受ける。
人間ドックのほうが丁寧に診てもらえるのかとも思う。しかし、予約を取ろうと気にかけながら、十年以上ずるずると後回しにしてきた私には、受付期間がはっきり決まっている区のサービスのほうが適しているのかもしれない――届いた案内を手にそう考え、それから私にとって秋は健康診断の季節だ。

 健康診断には楽しみがひとつある。私が受診を申し込む大学病院には、院内のあちこちに絵が飾ってあり、診察を待つ間、そして診察が終わってから、それらを観てまわることができるのだ。コレクションの中には、私の好きな鈴木信太郎の作品も数点ある。特に気に入っているのは、びわの木を描いたもの。私は近づいたり離れたりしながら、じっくりと鑑賞する。そして、立ち去る前にその絵にカメラを向ける。私のスマートフォンの写真フォルダの中に、毎年一枚ずつ、びわの絵が増える。

 ささやかな贅沢を今年も味わった後、病院前の停留所からバスに乗り、駅に向かった。たまに駅ビルの本屋に立ち寄ってみようと思ったのだ。

 エスカレーターで五階まで上り、売り場に足を踏み入れる。最初に目につく棚に、おすすめの本が面陳列されている。コロナ、コロナ、コロナ。どの本も。私はたじろぎ、思わず身を引いた。まるでコロナ祭りだ。この数ヶ月を綴ったエッセイ、これからの経済について、感染対策、ニューノーマルの働き方、パンデミック、コロナ後の世界、あなたはどう生きる?どう生きる?どう生きる?並んだ表紙が一斉にこちらに詰め寄ってくるように感じた。あれ?まだ半年ちょっとだよね?そんなに大急ぎで考えなければ駄目ですか?そんなに大急ぎで書かなければ駄目ですか?だってまだ何もわかっていない。先行きだって全然見えない。誰にも見えてはいない。どうなってしまうのかなあ――そんな気持ちでとりあえず今日もマスクをして歩いている、少なくとも私は。
 編集者たちが商機を逃がすまいと企画書を書き飛ばしている姿が浮かぶ。緊急出版を目指し、キーボードを叩く作家たち。私が家に籠もっている間、みんな大忙しだったのか・・・。コロナ禍に関わる原稿を誰からも依頼されていない自分に一瞬不甲斐なさを感じたが、その後すぐに、三週間前、編集者Sさんと次の原稿について話し合ったことを思い出した。そうだ、私には私の仕事がある。それはコロナウィルスとは何の関係もないけれど。早く帰って書きかけのものを仕上げなければ。私は慌ててその場を離れた。

 その足で地下フロアに下り、スーパーマーケットでレタスを買った。外出自粛生活に入ってから、タコスをよく作るようになった。千切りのレタス、スパイスで味付けした挽肉、オニオンスライス、賽の目に切ったトマト、チーズ。それらをタコシェルに載せてサルサソースをかける。
 私のベランダでは今年の夏はシシトウがよく実をつけた。今年の秋は銀木犀がいままでになくたくさんの花を咲かせた。外出がめっきり減ったこの半年、毎日夕方になると淡く染まった西の空を眺めながら、ホースを片手に水を撒いた。でも、それは以前からもしていたこと。感染が収束した後も植物を育てている限り続く日課だ。

 変わったこともある。変わっていないこともある。コロナウィルスは私の暮らしに斑(まだら)に入り込み、その斑は水面に落としたインクのように刻々と動いている。
 いまはただ、その動きを見つめている。私の中に他人に語れる言葉はまだ生まれない。
 子どもの頃、走るのが苦手だった。徒競走ではいつも最後にゴールした。
私の太陽はゆっくり昇って、ゆっくり沈む。
 びわの絵の写真が増えるのは、一年に一枚だけ。
 まあ、いいか、こんなでも――それがコロナ禍の私を支えている言葉。そして、どう生きる?という問いに私が返せる唯一の答えだ。

空間の音楽

高橋悠治

見えないウィルスに脅かされて コンサートが中止になり 延期され ミュージシャンのしごとがなくなった今年も 録音や わずかに残った演奏のしごとや 作曲をしながら やりすごし 家にとじこもらないで できるだけ外を歩きまわり 残ったわずかな時間でできることだけをする

音の数を減らす まばらな音を 離れた場所に配置する ちがう音色(ねいろ)の楽器を近く 似た音色の楽器を遠くに置いて 音楽を時間の物語ではなく 瞬く空間のひろがりの 隙間だらけのあやうい繋がり 始まりも終わりもない組み換えのあそび 一つの意味にしぼりこめない あいまいさと複雑さの名残り

響きから響きに飛び移る 一つの線を辿るのではなく いくつもの表面の貼りまぜ 別々に書いた楽譜を 順序を乱して 継ぎ合わせるとどうなるか これは今年ピアノ曲『メッシーナの目箒』で試してみた デカメロンの物語を追って書いた楽譜を 音域で三つに分けて 順不同に繋ぎ変える

物語がなくても いったん書いた音楽をばらばらにして 繋がりが感じられないように断片を並べ替えるとどうなるか 流れがなくなっても残るのは 何だろう