199 小声の語法

藤井貞和

ぼくはある日、「拡声機」のかわりに小声にする機械を発明する。
病室のような文法書が、詩人の没後にだれにも知られずに遺される。
あなたのためにぼくは書きたい、小声の拡声機で聴く。
言葉なんか要らない。 言葉の奥に耳を傾けたいから。

廃坑にあなたはやってくる、「拡声機」が呼びかける。 でも、
聞こえないね、小声の拡声機だから。 ばらばらと、
ばらまかれる岩陰遺跡の句読点。 句点を採集し、
読点を採集する。 未完了の状態であなたを拾う。

古代日本人の洞窟を、砂が文意に換える。 きらりと、
副詞が消える声のざんがいに、それでも深まるあなたの疑問だ。
そのさきは輪や壺。 砂には混じる妄想の鍾乳洞や、
こぼたれた寝屋の屋根伝いに「言葉の奥」だけがぽとぽとと。

わかった? 滲む半意識。 終わりました、苦痛を越えて。
破片と破片とをひとつにするなんて、ぼくにはできないよ。
断片、詩片、切片、陶片。 語法の切れ切れに僕は捧げる。
しずくを求めての生涯、少し詩を書きました、すべなき言語学者。

(輪や壺は、メビウスの輪やクラインの壺。言葉は時間にさし込まれるから図示できないのです。さびしく悲しげに笑うのみ。)

1993年をアップサイクルする

さとうまき

パレスチナの授業が始まった。
「先生今日は何をやるんですか?」
「中東問題の本質といえば、パレスチナ問題ですね!」
「その前に、そもそも、帝国主義の時代を知っておく必要がありますね。第一世界大戦が始まろうとしていたころのヨーロッパ、大英帝国、ゲルマン帝国、とかロシア帝国とか、オスマン帝国。ともかく帝国がついています。帝国主義とは、一つの国家または民族が自国の利益・領土・勢力の拡大を目指して、政治的・経済的・軍事的に他国や他民族を侵略・支配・抑圧し、強大な国家をつくろうとする運動・思想・政策であると書いてあります。今の世の中からしたら考えられますか?弱肉強食。戦争を否定するなんてありえないわけですよ」
 僕は生徒たちに講義を始めた。
「みなさん、中東問題の本質、パレスチナ問題は、そもそもイギリスの3枚舌外交が生んだんですよ」
といってお決まりの話をする。

普段パレスチナで活動するのに、バルフォア宣言がどうのなんて話は一言も聞いたことがなかった。そんなイギリスの約束なんてどっちでもよくて、つまりは「神が約束した」わけだから。

「さあ、みなさん、1993年、イスラエルの首相ラビンは言いました。アラファト議長と握手して『今、私は声を大にして、明確に言いたい。流血や涙はたくさんだ。復讐したいとは思わない。あなたたち(アラブ人)に対する憎しみがないことを描いている。私たちは 皆同じ人間として、家を建て、木を植えて、そして愛する。あなたたちに寄り添って生きていく。威厳を持ち、共感し、人として、自由人として、今日、平和にチャンスを与え続ける。私たち皆が、武器よ、さらばという日が来るように、ともに祈りましょう。私たちが作ってきた悲しい本に新しい章を書き加えたい。お互い認め合うこと 良き隣人としてふるまうこと、相互に尊敬し、理解し合う章です』。TVで中継を見ていた私は、とっても興奮しました。さあ、それからどうなっていったか」
授業を進めた。

5月10日、ハマスは、テルアビブ方向にロケット弾を撃ち込み、イスラエルは激しい空爆を開始。21日に停戦合意したが、ガザの住民の死者は232名、一方でイスラエル側は12名の死者を出した。

メディアでは、連日空爆の映像が流れていたが、今回は特にハマスのロケット弾から逃げ惑うイスラエル市民を日本人のレポーターが中継していたのが目に付いた。結構見事にロケット弾をアイアンドームという迎撃システムが打ち落としている。
生徒たちにも、毎日ニュースを見るようにと言っておいた。

  分裂する人々

世の中は民主主義が平和をもたらすという。そして選挙に行こうと呼びかける。ところがこれが曲者である。2006年のパレスチナ議会選挙では、主流派のファタハを抑えてハマスが過半数を押さえたのだった(132議席中74議席を獲得)が、イスラム原理主義政党ということで、アメリカやEUはテロ組織と断定、選挙結果を受け入れようとはしなかった。パレスチナ自治政府は、ハマスを排除。結局ハマスはガザ地区からファタハを武力でおいだして実行支配する形になり、西岸とガザで分裂してしまった。イスラエルの中のパレスチナ自治区の、さらにガザ・ハマス自治区のような形になっている。以来イスラエルはガザの経済制裁を課すことになった。

先月の5月には、なんと16年ぶりにパレスチナ議会選挙が行われるはずだったが、ファタハのアッバース大統領は延期を表明。表向きは、イスラエルの支配下にある東エルサレムの住民が選挙に参加できないとのことであったが、選挙をすれば、再びハマスが大多数を取る可能性が高かった。

イスラエルも、かつてはリクードと労働党の2大政党だったのに、どんどん分裂して、僕の知らない間に青白党とか、いろんな政党ができている。リクードは120議席中30しか取れなく、連立政権を作れずに苦労している。特にネタニヤウは収賄罪で起訴され公判中で、政権を失うと逮捕されるそうだ。そんな時に、戦争して強いところを見せれば一気に人気が高まる。

そこで、パレスチナ人の土地の収奪とか、聖地エルサレムのムスクへの立ち入り制限とかで、ハマスを怒らせる作戦に出たのかもしれない。

聖地をけがされることには人一倍敏感なハマスは、4000発ものロケット弾をテルアビブ方向に向けて発射した。戦時中はネタニヤウの人気が高まったが、停戦してしまったら、求心力は無くなり、どうもネタニヤウは権力の座から滑り落ちそうで、6月2日には、新しい内閣が決まりそうな気配だ。挙国一致内閣というが、マニフェストはバラバラで反ネタニヤウということだけでいっつぃしているそうだ。

首相になりそうな、ヤミーナ党のベネット氏は、パレスチナ国家を認めない右派。パレスチナ人にとっては厳しい季節が始まりそうだ。

ハマスの政治トップのハニヤ氏は、「我々はガザについては何も要求してない。我々がこの戦いに身を投じたのは聖地エルサレムを守るためだ。我々のカッサーム部隊はテルアビブにロケットを撃ち込んだ。敵はF16戦闘機で、我々の子供たちと女性たちを殺戮している」と発言しており、ガザの人たちが最も苦しんでいる経済封鎖の問題に触れていないのも気になる。

結局、一番の犠牲者はガザの人々だった。停戦は合意したものの、生活の改善は見られないとなると国際社会の援助や、ハマスを介した援助に頼るしかないのだろう。

  アップサイクル

生徒たちに話すために家の中の資料を探しまくっている。すると、2000年ごろのパレスチナとイスラエルの新聞も少し出てきた。「オスロ合意は何を残したのか?」という見出し。平和のための教育をイスラエルはこれからどうやっていくのか。そういった記事が目立つ。なんやかんや言いながら、ラビンの遺言を実践しようと努力していた時代だったようだ。今は、停戦はしても和平なんて言う雰囲気はみじんもない。私利私欲で走り続ける人びと。

ちょうど友人の画廊が アップサイクル展をやるので何か作品を出してほしいという。アップサイクルっていうのは、単なるリサイクルとは違い、創造的再利用によって作られたモノということらしい。そこで僕は、そういった新聞を張り付けて、引っ剥がして水牛の張り子を作った。

1993年、平和に向かって一つになろうという時代感。何回もリサイクルしたい。新しい平和が訪れるのならアップサイクルと言えるのだろう。

「さあ、みなさん、1993年のラビンの演説。これ試験に出しますから、暗記しておくように。イギリスの3枚舌? まあ、忘れてもいいです。今日の授業はおしまい。」


Upcycling アップサイクル展
創造的再利用によって作られたモノたち
https://www.facebook.com/profile.php?id=100018686542877
2021.6.1(火)-6.7(月)13:00-18:00
Gallery すーじぐわー
埼玉県川越市元町1-12-14

万華鏡物語(11)五月

長谷部千彩

 東京の一番美しい季節は五月だと思う。そう考えた端から、もうひとりの自分が打ち消す。いやいや、東京の秋、十一月も綺麗でしょう?からりと晴れた日が続く一月だって良いでしょう?街が雨に煙る六月。陽の光が軽さを増していく早春。自然が少ない東京は、環境が悪いものと思われがち。けれど、実際は、酷暑を除けば、どの季節もそれぞれの魅力がある。
 とはいえ、やはりいまの時期は最高だ。部屋の窓を開け、空を見上げているだけでも幸せな気分を味わえる。それは、私がベランダ園芸を趣味としていることも関係しているだろう。
 二月の沈丁花の開花から、次々と寄せる波のように、さまざまな花が咲き出す。椿、桜、ツツジ、ジャスミン、薔薇、クチナシ・・・・・・春の祭が一息つく五月後半、今度は梅雨前に済ませなければならない夏への準備で園芸家たちは俄然忙しくなる。
 朝顔、ポーチュラカ、ナスタチウム、ひまわり、私のベランダを彩る定番の花。それに加え、今年は、野菜も少し増やそうと、ミニトマトの苗を取り寄せ、ピーマンの種を蒔いた。
 実を言うと、私自身、それほど家庭菜園に興味はない。楽しみは花を咲かせること。ゴーヤとシシトウを毎年育てているのも、それらの清楚な花が好きだからだ。よって収穫物は、ほとんどひとにあげてしまう。自分の口に入れるのは、ほんの少し。なのに、野菜の種類を増やすのは、小学生の姪が喜ぶだろうなあ――そう思うから。
 昨年は、夏休みの間、姪が私の部屋に泊まりに来ていて、毎朝、ベランダに出ては、成ったブルーベリーの実を数え、一喜一憂していた。少ない日には肥料を与え、明日は実が増えているかも、と眠る様子を見る限り、手脚が長く伸びた都会っ子の彼女も、まだまだ子ども。あどけない。
 そういえば、去年は、ベランダの植物が驚くほどよく育った。花という花が、いままでになくたくさんの蕾をつけたし、ハーブも繁った。そのことを園芸仲間に話すと、彼女の庭でも同様だという。「コロナウィルスに植物に有効な栄養成分が含まれていて、それが風に乗って流れてきたとか」などと不謹慎な冗談を言って笑い合ったが、外出自粛の呼びかけによって、街を走る自動車が減り、それによって大気汚染が改善されたという話は耳にしたことがある。何の因果もないかもしれないが、何か因果があるかもしれない。
 ともあれ、疫病禍の暮らしも一年を過ぎ、怯えることも随分と減った。慣れたとも言える。受け入れたとも言える。ワクチン接種は始まったものの、どうなるのかしらね、としか言えない、相変わらずの日々。ただ、まどろみの心で待っている。好きに歩ける、好きに会える、その日が来るのを。私は空白を埋めるように、花を眺め、花を育てる。それなりに慌ただしい、東京の美しい五月。

安っぽいレンズで。

越川道夫

鳥が見えなかったのである。
いつも歩くコンクリートに固められた川にも、その両端にわずかに草が生えているところがあって、そこにカワセミが止まっていたのだという。それがどうにも見つけることができなかったのだ。まごまごしているうちにその鳥は飛び去ってしまった。折角のカワセミの出現だったのに見逃して惜しいことをした、という思いと同時に、ずいぶん長くポンコツの眼を使ってきて、いずれは手術とは分かってはいても曲がりなりにも「見る」ことを商売にしている身にとっては肉眼を失うことはなんとも耐えがたいものがあった。
レンズを人工のものにしてしまえば、何かが大きく変わってくる。
何が変わるのか、予測できそうでできないその「恐れ」みたいなものが、手術をせずに騙し騙しやっていくということを選択させてもいたのだった。
月を見上げれば、煌々と夜空にあるそれは一つではなく輪になってもう幾つあるのか分からない。いつもとは言わないまでも、目の前で話す人の輪郭がブレている。眼鏡ではもうピントが矯正できないため、本を読む時は眼鏡を外し、紙面を眼から数センチのところまで近づけて読んでいた。暗さのある古本屋や美術館は、もっといけなかった。光がないため、棚の上の方にある背表紙に何と書かれているかは読めず、ガラスケースに隔てられた小さな絵は、どのように描かれているか見えないのだった。
それにしても悪くなったものだ、ポンコツだとしてもどのくらい悪くなっているのか検査をしておこうと久しぶりに病院を訪れ、あれこれと検査を受けると、左眼はまだマシだが右眼はすでに色も見えていなければ立体にも見えておらず、それどころか1年持たず手術が難しくなるだけでなく失明する危険性もある、という診断だった。
思いがけないことで、事態がよく飲み込めず、とりあえず冗談を言ってみたりしたのだが医者はニコリともしない。なるべく早期の手術を、とあれよあれよと言ううちに専門医への紹介状を持たされ診察をうけると、こりゃあ、ひどい、と言われ、あっというまに手術の日取りの相談となった。私の水晶体は、白く濁っているのではなく、赤黒く凝固しているので、濁りを吸い出すのではなくレーザーで砕いて取り除き、そこに人工のレンズを入れるのだと言う。
絶対に手術してくださいね、と周囲の何人かからそう言われた。自然に任せて、とか言い出しそうだから、と。「変わってしまう」ことは、やはり悲しかった。私がこの世界を愛しているとして、それはこの「見えない」眼によって培われていることだから。例えば棟方志功の眼がよかったら、あのように板に張り付いて板木を掘ることもないであろうし、あのような版画にはならないであろう。なぞらえることは無意味かもしれないが、私もまた眼からわずか数センチのところの距離感の中で世界に対する愛情を作っていたのではないか。見えなくなることは悲しいが、肉眼を失うこと、人工のレンズでしかもう愛しいものを見ることができない、と言うこともまた途方もなく悲しいことであった。世界は肉眼で愛おしむものだ、手術の前夜そう思った。
手術は通常片目5分で終わる手術が20分ぐらいずつかかったのではないだろうか。
麻酔の目薬を打ち続けた眼の中に、ずっと赤い光がゆらゆらと形を絶えず変えながら見えていた。鬼火というものを見たことはないが、あるとすればこのように見えるのではないか、と手術の間ずっと思っていた。耳からは、医師たちの話し声と音楽のような電子音が聞こえていた。しばらくして、眼の中がブラックアウトした。ああ、今レンズが失われた、と思った。そのうち目の中を植物文様のようなものが走り、やがてまた鬼火が眼の中をちらつき始める。人工水晶体が入ったわけである、おそらく。
手術が終わり、麻酔が切れて人工水晶体が入った眼がはっきりしてきて、見えてきた「像」に対する初めての感想は、安っぽいな、だった。肉眼のレンズに比べて、人工のレンズが見せる像は、どこか安っぽく感じたのである。肉眼というのは、よく出来ていると思った。「像」に深さが足りない。目から数センチのところで作っていた感覚も失われてしまった。眼の中に入れた単焦点レンズは目から40センチのところでしかピントが合わないのだ。その距離と胸の奥にある愛おしむ気持ちのバランスがまだとれない。今まで眼の中にあった赤黒いレンズは取り除かれて透明なレンズが入ったため、レンズ特性はあると思うのだが、光と共に「色」が眼の中に氾濫した。濁りのない緑が鮮やかに飛び込んでくる。そして何より、朝の光が、こんなにもほんのり紫がかっているとは思わなかった。それはそれで大手術だったのですよ、安静に、と言われたのをいいことに、一日中近くにある林の樹々を眺めて暮らしていた。初夏になって盛り上がってくる緑の様々な度合いと細部が見える。美しい。
そうなのだ。安っぽいレンズで見ても、なお世界は美しい。

仙台ネイティブのつぶやき(62)うごめく虫といっしょに

西大立目祥子

 コロナ禍でよく売れるようになったものと売れなくなったものがある。2割も売上げを伸ばしているのが殺虫剤です。そう、テレビのニュースが報じていた。取材マイクを向けられた女性が、ステイホームで長い時間家にいるようになったら、コバエなんかが気になって買いました、と答えている。そのようすを見ながら、コロナで大変なのは人間ばかりと思っていたけれど、虫たちにとっても受難の時間なんだなぁと同情したくなった。コバエか。台所の生ゴミにいつのまにか寄ってくる小さな虫が許しがたく思えてくるのか。

 昆虫の活動は気温20度を超えるくらいから活発になる。仙台だったら、5月の中頃。連休あたりからホームセンターには、多種多様な殺虫剤が派手な色のスプレー缶に詰められて、除草剤の大きなボトルと並ぶようになる。「ハエ・蚊」「コバエ」「ゴキブリ」「ムカデ」「アリ」「クモ」…。
虫ごとに殺傷能力を高めた薬がつぎつぎと開発され、もういつだって私たちの手に入るのだ。プランターに花や野菜を育てながら、小さなアリやクモにもキャーッと反応してスプレーしているのだろうか。つい虫の味方をしたくなって、このままいったら、おそらくかなりの種が絶滅に追い込まれるだろうと思ってしまう。

 もちろん私も、使ったことはある。たとえば、夏に涼しげなピンクや白の花をつけるムクゲ。ムクゲが枝先にやわらかな黄緑色の新芽を出すころになると、あっというまにアブラムシの餌食になる。真っ黒になるほどびっちりとアブラムシが枝先についているのでムクゲがかわいそうになり、殺虫剤をスプレーした。アブラムシは死に絶え、ムクゲは少し元気を取り戻す。でも、この春、スプレーのあと小さなハチがムクゲに近づいてフラフラして落下するのを見て、ため息が出た。そういえば、アブラムシを捕獲するテントウ虫もこない。殺虫剤を一吹き、二吹き、何度か使うだけで、アブラムシは根こそぎにできるけれど、虫から虫へとつながる循環の輪をばらばらに切断することになるのだな。なので、殺虫剤はやめ、予防用の食品由来のスプレーに変えた。

 虫が嫌いでないのは、子どものころの経験があるからかもしれない。小学3年か4年のとき、カブトムシの茶色いサナギをいくつかもらって土に埋め育てていたことがある。羽化して成虫になるのが待ちきれなくて、何度か弟とこっそり土を掘り起こしてみたことがあった。そんな乱暴なことをしていたからか、だめになったサナギが多かったけれど、確か1匹が羽化して木にとまっていたのを見たときは感激した。
 家の近くにはまだ田んぼがあって、夏休みにあぜ道に入り捕虫網を振り回すとシオカラトンボがたくさん捕れた。潮を吹いたような色味だから、こうよばれるのだろうか。白味がかった藍色の胴体は子ども心にも神秘的で美しかった。虫かごにいっぱいになると、全部放してやった。2階の明かりめがけて、夜にカミキリ虫が電灯に体をぶつけるようにして入り込んできたこともあった。実際に見るのは初めてだったからドキドキしながら白い模様の入った胴体に見入って、たしか子ども用の昆虫採集のキットの注射器で防腐剤を打ち、標本にした覚えがある。

 昭和40年代の中頃までは、仙台はまだ水洗トイレの整備も進んではいなかったし、田んぼに農薬を撒くこともそう多くはなかったのだろう。エアコンなんてもちろんないのだから、夏休みも網戸一枚で窓をひと晩中開け放し、蚊にあちこち刺されてぼりぼり掻きながら過ごしていたんだな。その衛生施設未整備の中のおおらかな暮らしぶりを思うと、なんだか愉快な気分になる。

 それがいまでは…。たとえば、養蜂をやって蜂蜜を採っている知人は、田んぼが近くにあるところに蜂箱は置けないという。稲に使う農薬で、ミツバチまでが死滅するからだ。生産農家が使うならまだしも、最近は近所でも除草剤を撒く家が増えてきた。草一本生えないように、ひんぱんに撒いて砂利を敷きつめ、プランターに土を盛って園芸品種の色とりどりの花を育てている。
 私は除草剤は使うまいと決めているので、5月から6月は草の勢いに圧倒されながら、ときどき草取りをする。しゃがみこんで雑草といわれている小さな花たちに向き合ってみれば、終わりかけたハルジオンの花の真ん中にカツオブシ虫がとまっている。シロツメ草にも小さな羽アリのような虫がとまって蜜を吸っている。草刈り鎌を使ってシロツメ草を地面からはがすと小さなアリが一目散に逃げ、ダンゴ虫が土の中に潜り込む。追われた茶色いバッタが姿を現す。日陰の湿った場所は、カナヘビの住処だ。

土があるだけで、植物が育ち、虫がうごめき、やがて鳥が集まって、そこに壮大な生態系の循環が沸き起こる。ふだんは足早に過ぎるだけの通り道だって、草むらの下の地面の中は虫たちが主役の別世界だ。みんなたまに這いつくばって、目を凝らせばいいのに。人の想像の及ばないようなところで虫たちもまた酸素と光を取り込んで生きていることに圧倒されればいいのに。
それが、除草剤を撒いたとたん緑の草は枯れて茶色に干からび、虫も姿を消す。除草剤は土に染み込みどこにいくんだろう。川へ、やがて海へ。そうしていつしかこちら側に戻ってくることはないのだろうか。

親しい従姉妹がいる。たまに帰省したときに話すのだけれど、血筋が近いと感覚も似ているというのか、何となく話が合う。この間は庭の草取りと虫の話になった。「庭って、変わっていくよね」「うん、生えてる草が変わってく」「勢力図が違っていくっていうか」そんな話をしてたら、いきなりこう聞いてきた。
「ねぇ、ゴキブリってどう思う?」「ゴキブリ?」従姉妹はいうのだ。「私はここまで嫌われなくたっていいと思うんだよ」
千葉の団地に住む従姉妹は、隣の家の台所にゴキブリが現れると、その始末に呼ばれるらしい。
「はいはいって行って、ごめんってたたいて殺すんだけどさ、そこの奥さん、死骸が家の中にあるだけでもうダメっていうの。だからティッシュに包んで持ってくるんだ」
私もごめんといって丸めた新聞でたたく。でも確かに、人類の敵みたいにいわれなくたってなぁ。

 つい2、3日前、玄関に大きなチャバネゴキブリが出た。あっ、と思ったらサササとたたきに姿を消した。この逃げる姿が嫌われるのかもなぁ。猫のごはんの皿が何カ所にも置いてあるから、彼らにとってはいい住処なのかもしれない。
 まぁ、ゴキブリを待つ気にはなれないけれど、私はこの夏もクロアゲハの飛来と、ヤンマの到来を待つ。シオカラトンボにも会えるといいな。
 と思っていたら、ぴったりの本が出た。『家は生態系』(ロブ・ダン著・白揚社)。何でも家の中には20万種の生物が棲んでいるのだとか。見えないあなたたちと、この夏も暮らしていくからね。

新・エリック・サティ作品集ができるまで(4)

服部玲治

多忙の悠治さんと対面による2回目の打合せが実現したのは、さらに時が経ち、すでに桜が咲くころだった。
1回目の対面打合せと同様、どのような場所でお会いするか、選定には細心の注意がマストだと身構えていたところ、悠治さんから逆提案が。意外にもそれは、渋谷の西武の中にある喫茶店だった。初手の際は、避けるよう指示があった渋谷、さらに百貨店内。加えて、店名が「珈琲貴族」ときたものだから、うろたえた。
悠治さんが、貴族。引き続きメールのやりとりがメインで、イメージばかりが増殖していたわたしにとっては、このシチュエーションと店名、死球一発退場となってもおかしくないと思われるチョイスだ。特権階級を匂わす名を冠した喫茶店を指定してきたその裏には、果たしてどんな意図が隠されているのだろうか。いちいち心が揺さぶられるままに、当日を迎える。
香水の匂いが充満する百貨店の1階を抜け、店に入り座して待つ。BGMの典雅なバロック音楽にどこか居心地の悪さを感じながら佇んでいると、悠治さんは飄々と現れた。そして、あのゆったりとした口調で「貴族ブレンド」とオーダー。わたしの悠治さんのイメージがまたもや、かく乱されていく。

貴族のコーヒーを待つことなく、話ははじまる。これまでのやりとりをふまえ編んだ、再提案の“企画案”にはこうある。「1913年に作曲された“子供のための作品”を中心に、そこにジムノペディとサラバンドを入れ込みたいです。さらに、ノクターンは、新発見の第6番があるので、再度録音いただくのもよいかもしれません」。
つまり、当初、悠治さんから提案のあった「子供のための作品集」に、人気のジムノペディなどを組み合わせたハイブリッド・バージョンだ。悠治さんの考える「いま、サティを録音する意義」を受け止めつつ、そこに、久々にDENONレーベルに戻ってきたことのインパクトを加えることができたなら。折衷案はそのギリギリのアイデアだったように思う。
すると、意外な答えがかえってきた。なんでも、先日、浜離宮で行われたコンサートで、まさにサティの子供のための作品を組み込んだプログラムを演奏し、そのライブ録音を別のレーベルから出すことになったとのこと。今回われわれの方で想定していた曲とも被りが発生するので、コンセプトを変更したいという悠治さんからの申し出であった。
すわ、これは困った、という顔を作りながらも、「で、あれば、いわゆる人気曲だけで構成できるチャンスかも」と邪念がよぎったのも正直なところ。すぐさま、「ジムノペディ」「グノシエンヌ」「サラバンド」「ノクターン」で、アルバム1枚分、充分な尺なので、これで構成するのはいかがでしょう、と提案してみた。しかし、あまりにもストレートな内容提案ゆえか、なかなか首を縦に振ってはくださらない。しばらく、ああでもない、こうでもないのやりとりが続いたところで、おもむろに、わたしはひとつのアイデアを提案した。
 
1年前、ドイツのレーベルWinter & Winterからリリースされた、ソプラノ兼指揮者のバーバラ・ハンニガンが、作曲家・ピアニストのラインベルト・デ・レーウと録音したサティの歌曲集のことを思い出していた。そこに収められた「3つのメロディ」は白眉で、ハンニガンの、情感と色彩感がきわめて抑制された歌声はまるで電子音に漸近するほどで、ボーカロイドの初音ミクに近いような印象すら感じたほどだった。この前年に亡くなった、担当していた冨田勲さんが晩年に作曲した、初音ミクをソリストに迎えたオーケストラ曲「イーハトーヴ交響曲」や「ドクター・コッペリウス」の初演にかかわり、それが縁で初音ミクそのものの仕事にも携わっていたのでなおのこと、ミクの現実と非現実、彼岸と此岸の中間をたゆとうような存在に興味を持っていたことも、ハンニガンの歌でそのような印象を抱いた遠因だと思う。
メロディ自体は匂いたつようなロマンティックさをたたえながらも、それを抑制的に、禁欲的に、演奏すればするほど、かえってそのあわいに、かけがえのない何かがにじみ出てくる。根拠も確信もないけれど、今回の悠治さんのサティは、この質感が出てくれば、成功に近づくのではないか。

「では、3つのメロディをピアノにアレンジして、ジムノペディなど4曲の間に挟む形で収録するのはいかがですか」。
面白いかもしれない、と悠治さん。アルバムの内容は固まった。
結果、この「新・エリック・サティ作品集」は、「3つのメロディ」の存在がいちばんの特色となったように思う。悠治さんには直接は関係のないことだけれど、いま振り返ってみると、わたしにとっては、初音ミクとハンニガンという存在が、企画を前進させてくれた一種の立役者と言えるかもしれない。 

Tosh Tosh Mary One

管啓次郎

思い出を話そうか
ともだちの家に遊びにゆくと
いちばん簡単なレコードプレーヤーがあって
45回転シングル盤が一枚そこに載っていた
見るからに古いレコード
妹がよく聴いてるんだ、とともだちがいう
その妹は3歳か4歳
ともだちは10歳くらい
ぼく自身の年齢はわからない
妹がレコードをかけてくれた
聞こえてきたのは「メアリさんの羊」のメロディー
でも歌詞がちがう

Tosh tosh, Mary One, Mary One, Mary One
Tosh tosh, Mary One, Mary in the snow

子羊がいかにかわいいかは知っている
子羊は元気でよくなつく
誰が相手でも頭をゴンゴンぶつけるのが好きで
かまってほしいときには前足で
チョンチョンとこっちを引っ掻いてくる
そんな生きた子羊は歌にはいないが
子羊の雪のような白さと
抱き上げたときの体温の高さが
歌のおかげで瞬時に甦ってくる
妹が歌詞カードを見ながら
歌に合わせて単語を指さしてゆく
ぼくらは一緒に歌った

Tosh tosh, Mary One, Mary One, Mary One
Tosh tosh, Mary One, Mary in the snow

楽しい歌
幼児がときどきそうなるように
妹はもう止まらなくなって
笑いころげながら何度でも
歌おう歌わせようとする
元気な子だ
それにつきあってぼくらも何度でも歌うのだが
たしかにそれはおもしろい
するとともだちがいうのだ
この歌、意味がわからないねー
だがぼくは突然自覚する
なぜならぼくはもう大人だったから
ともだちはまだ小学生だろうに
ぼくは歌の言葉を理解する
この toshはね、たぶんフランス語のtouche だよ
さわれ、ということさ
マリアさわり、か! とともだちが飛び上がった
それはぼくらの村の行事だよ、と彼がいうので
ぼくは身を乗り出すようにして真剣に聞く
森の中にマリア像があるんだよ
子供たちだけでその像まで歩いていって
彼女にふれてくる
足にさわるのが普通だけど
ふざけておっぱいにふれても叱られないし
口づけしてもいい
子供たちだけで行くんだ
これは村の昔からの年中行事
そう聞いてぼくはあっと思う
また啓示がやってきた
だったらそれは「最初のマリア」のことなんだ!
彼女はMary One
それはMary Two に先行するマリア
つまりキリスト教の聖母マリア以前のマリアだ
なぜこの歌がそんなに古いものにむすびつくのか
ぼくはほとんど青ざめる
妹がにこにこと笑っている
妹の名前を知っていたはずなのだが
思い出せない
アリシアかな
ベルフィオーレかな
いやナターシャだったかもしれない
森に行ってみよう、とともだちがいうので
ぼくらは家を出て歩きはじめる
森はみちたりて美しい
人はいない
ナターシャ(?)が先頭に立ち
ともだちとぼくは後をついてゆく
途中まで隣の家の犬がついてきた
鳥の歌が聞こえる
風に木の葉が音を立てる
小動物がやぶでかさこそと動く
なんというみちたりた小径だろう
道をさらにたどると
そこは冬だった
ぼくらがマリア像に着いたとき
すでに子供たちが集まっていた
ともだちが何人かに挨拶し
抱擁を交わし頬に口づけする
少し年上の(12、3歳?)少女たちが
蝋燭に火をともす
そろそろ行くよと
リーダーらしい少女が真面目な顔で告げる
見るとマリア像は木の台座に載っていて
台座には2本の棒が橇のようについていて
神輿のように肩に
かつげるようになっているのだ
片側に4人ずつ
計8人の子供たちが
マリア1をもちあげた
大きな蝋燭をささげもつ
年長の少女3人を先頭にして
マリアの神輿が出発する
針葉樹の林の
小径を歩いてゆくのだ
子供たちだけの集団が
冬の日はもう暮れて
どっぷりと濃密な闇だが
闇が濃い分、星空が明るく
蝋燭の炎が強く輝いて感じられる
マリアさまは私たちを守ってくれるから
とナターシャが優等生のようにいう
子供たちの肩に揺られながら
マリア1は森を無言で飛んでゆく
降誕祭が近いけれど
このマリアはイエスを生まない
このマリアに夫はいない
このマリアは森そのもの
土であり水であり
木であり金属であり
太陽であり月であり
雪の中で燃える火だ
蝋燭の灯りがマリア像の
表情を照らして神々しい
なんという精神世界に
ぼくらは来てしまったのか
やがて行列が歌いだす
みんなで歌いだす
Tosh tosh Mary One!
ナターシャが機嫌よく大きな声を出す
明るく楽しい気持ちになる
なんだか笑いがこみあげてくる
これから村の広場までゆき
そこには焚き火があって
熱いチョコレートが用意されている
それがマリア1のお祭り
冬のある夕方から夜にかけて展開する
子供たちのための祭りだ

アメリカン・ユートピア

若松恵子

映画『アメリカン・ユートピア』は、元トーキング・ヘッズのデイヴィット・バーンの最新のライブをスパイク・リーが映像に残した作品だ。“デイヴィット・バーンが出ている映画”程度の前情報で見に行ったのだけれど、たちまち引き込まれてしまった。映像によるライブにあれほどの力があるのだから、生で見た人はさぞ幸福な体験をしたことだろう。映像を通してだったけれど、久しぶりに日常から足を離して、心躍る時間を過ごす事ができた。

デイヴィット・バーンが2018年に発表したアルバム『アメリカン・ユートピア』のワールドツアーの後で、ブロードウエイのショーとして再構成したのが今回の舞台だ。冒頭、脳の模型を手に登場したデイヴィット・バーンは、「赤ちゃんの時に持っていた神経同士のつながりは、大人になるにつれて失われていく、人間はどんどん愚かになっていくのだろうか」と語る。

生活の必要にあわせて、神経どうしのつながりは刈り込まれていく、不要不急のものはカットされていく。移民を排除して単一民族だけのアメリカにしていこうとしていた当時のトランプの愚かさのイメージとも重なる。脳のこの部分はこんな機能を果たす、この部分はこんな役割を果たす、そして脳に聞こえていない音がある、というようなことを語る。(うろ覚えだが)その音を聞きたいと言っていたような・・・。

右脳と左脳が真ん中の溝で連携し合っている、という話のあとで、右脳役、左脳役と思われる男女のダンサーが舞台に表れる。デイヴィット・バーン相変わらず理屈っぽいなーなんて思っているうちに、踊りだした2人の姿を見て「おっ」と思った。何だか違うのだ。2人の踊りの素晴らしさが、ダンスがうまい人という感じではなくてとてもいい。デイヴィット・バーンと同じグレーのスーツに素足のダンサー。同じ格好のミュージシャンが少しずつ増えていって、総勢12名のメンバーが勢ぞろいして奏でる「イ・ジンブラ」あたりになると、かつてトーキング・ヘッズを聞いていたころに感じていた、憧れの気持が胸に蘇った。マーチングバンドのように、メンバーは演奏しながら、歌いながら、踊りながら舞台を動き回る。熟練の演奏技術で奏でながら、実に堂々と、晴れやかに。ダンサーも歌い、ベースマンも踊る。もちろんデイヴィット・バーンも踊る。「録音テープを流しているに違いないという人がいるが、生演奏です」とデイヴィット・バーンがメンバーを紹介しながら、一人ひとりの奏でる音を聞かせる場面が印象的だ。

メンバーの肩に赤外線センサーをつけて、どんなに動き回っても照明が追いかけられるようにしたということだ。また、ワイヤレスの進歩によって、舞台からアンプやケーブルを一切無くすことができた。人間だけが立っているという一見してアナログな舞台がハイテク技術によって可能になっているという事なのだ。デイヴィット・バーンの成熟と技術の進歩があって、「ストップ・メイキング・センス」からさらに進化したライブ映画を作ることができたということだ。

70歳を目前にして、今もなおデイヴィット・バーンは音楽をやり続けている。言う事がまだまだあるからだ。警官の暴力の犠牲になった人たちの名前を読み上げていくジャネール・モネイの「Hell You Tslmbout」のカバーがコンサートのハイライトだ。そして今の社会を変えていくために選挙に行こうとデイヴィット・バーンは語りかける。

最後はトーキング・ヘッズ時代の「Road to Nowhere」を奏でながら客席を1周する。未来は不確かだけれど、希望をもっていっしょに歩かないか、と歌う。「ね」という表情で客席をみつめるパーカッションのジャクリーンが美しい。「そうだよね」という表情で応える同世代の観客を見ていると泣きそうになる。

新聞の映画評で「アメリカン・ユートピア」を紹介して芝山幹郎氏はこんな風に書いている。「天才が成熟するとはこういうことなのか。ヘッズ時代のバーンには、ひたすら自身の影とダンスを踊っているような側面があった。それはそれで魅力的だったのだが、いまの彼は、知恵と技量をたゆまず磨きつつ、同じ空気を他者と分かち合う事に深い歓びを覚えている。見事だ。私は思わず襟を正した。」(日経新聞夕刊:2021年5月28日)
彼の意見に全く同感だ。

DJ-Kにはなれそうにない

三橋圭介

緊急事態宣言は5回目くらいだろうか。もう慣れっこになったという人もいるのかもしれない。ただ大学の状況は緊急事態宣言によってさまざまな対応がある。音楽系は緊急事態宣言下でもレッスンなど実技的なものは十分な配慮をした上で対面でやっていたりする。桜美林大学は座学だけなので、週3日間は自宅でオンラインをやり、玉川大学はひとつ実技科目があるので必ず大学に行かなければならない。まず対面(場合によってはオンラインと併用のときもある)からはじまるが、巨大な教室に12人くらいでソルフェージュをやっている。特に大きな問題はなく、終わると必ず使った机などの消毒を学生たちがやって終わる。次に完全オンラインの授業を小さな教室でひとり寂しくやり、そして2時間あいて15回の内5回対面という卒演ゼミがある(対面でないときは帰宅し、家でオンライン)。

オンラインの場合、自宅で参加する学生もいるし、そのあと対面レッスンなどがある学生は、そのために学校に来てオンライン授業を受けたりしている。このとき学生は決まった教室で受けているわけではなく、学校のいろいろなところからパソコンで参加しているようだ。その場所で話ができるのか、できないのかは聞いてみないとわからないし、多人数になるとそれさえ聞くことができない。ときどき別の学生の声が聞こえてくることもあるが、対面でやっていた教室に別の授業の学生がオンライン授業を受けていたりもする。

私はオンラインでもいわゆる「顔出し」は強要していない(これはある先生によると個人情報でもあるらしく、強要はできないらしい)。そうするとあえて顔出ししようとする学生はいない(多いものに巻かれろ的なやつだろう)。するとどうなるか。つまりラジオのように沈黙を恐れてしゃべり続け、音楽を流すときだけおしゃべりが止むことになる(流しながらしゃべることもあるが)。目の前に人がいれば多少の沈黙は許容されるが、ラジオなら話し続けなければという強制力が働く。また、対面なら「どう思う?」と聞くとすぐに答えてくれるが、オンラインだと沈黙する生徒もいる。これは特に多人数のクラスに言えるが、そうなるとしゃべり続けるしかない。まあ、オンラインにつないでいるだけでサボっている人もいるだろうけど(疑わしきは罰せずとか性善説とかが基本になるのだろう)。緊急事態宣言の延長によってこの状況はひとまず6月20日まで続くだろう。でもDJ-Kにはなれそうにない。

舞踊作品の撮影

冨岡三智

このコロナ禍で昨年からインドネシアからの公演ライブ配信やその録画映像が一気に増えた。舞踊の映像には昔から関心があって、自分が製作したスリンピとブドヨの公演(2006-2007年、youtubeにアップしている)では映像編集にもコミットした。というわけで、今回は一般的に伝統舞踊と呼ばれる作品の映像の撮影の仕方について、思うところを書いてみる。

少なからぬ映像を見ていて感じるのが、撮影計画がなさそうだということ。カメラが正面に1台しかなくても、作品全体の展開を俯瞰して、全体のフォーメーション(踊り手の配置)を撮るべきシーンと、動きがはっきりと分かるようにある程度特定の人物をアップにしても良いシーンなどに分類して、全体の流れを組み立てるのが重要だと思っている。目指すのは、その映像を見て上演の再現が可能であることだ。少なくともそのジャンルの舞踊の展開パターンを知っている人には読み取れるようにしておいたほうが良い。私自身がスリンピやブドヨの映像編集にコミットしたときは、カメラの人とどのシーンで全体/個人を撮るのかを打合せして進行表を作り、ざっと編集してもらった後で私自身がつなぎ部分を修正した。

全体のフォーメーションを入れるのは、スリシックなどで場所移動するときである。その動きの軌跡をきちんと追えるように、移動する前から全体を俯瞰できるようにカメラを引き、移動中はカメラを動かさない。カメラも一緒に動かしてしまうと、動きのスピードや向き、距離感が分かりづらくなる。伝統舞踊では複数の人が同じ動きを踊るから、場所移動がない場面では、複数のうちの1人あるいは2人に寄って撮影しても良い。その場合でも、動きの始めの部分では全体のフォーメーションを撮ってからアップにしていく方が良い。全員が一方向を向くのか、2人ずつ対面するのか、四方向それぞれに向くのかによって振付の印象は大きく変わるからだ。

その時も全身は画面に入れるようにする。舞踊の映像で顔のアップが入っているものも多いが、それは振付や舞踊の雰囲気を記録するやり方ではない。手のアップはなおさらだめである。なぜか、欧米の撮影者はアジアの舞踊でやたらと手のポーズをクローズアップしたがる傾向がある。上半身の撮影でも不十分で、足の向きや重心の位置、体全体のポーズは、全身が映っていないと分からないし推測できない。重心の置き方というのが動きを作る上で大事で、持論だが上半身の雰囲気を作っているのは下半身である。

ブドヨ(9人による宮廷女性舞踊)の場合、踊り手の人数が多く横長に配置されるため、右から左へ、またその逆へとカメラを横に振って撮影される場面が多くなる。これはそれぞれの踊り手を均等に映すには良い方法である。しかし、ブドヨでは特定の位置にいる踊り手が最初に少しずつ移動し始め、それにつれて、全員が同じステップを繰り返し踏んでいる間にフォーメーションが少しずつ徐々に変わっていくところに醍醐味がある。カメラマンにはそのフォーメーションの変化のし始めを捉え、追っていってほしいのだが、そういう変化に気づかず、何となくカメラを振っているだけのカメラマンも多い。変化が始まる最初からとらえるためには、カメラマンは舞踊の展開をあらかじめ知っておかなくてはならない。というわけで、最初に述べたように撮影計画が必要なのである。動きやフォーメーションの変化の兆しを把握して追うことが、少なくとも伝統舞踊の撮影には重要である。

続・パンとサーカス、または回想のTOKYO1964

北村周一

 旅に出でよ食べに出でよの号令の下 つりの駄賃で見る格闘技

トーチ片手に、東海道をひた走る、聖火ランナーの一群を、沿道に見送った興奮を、いまだわすれずにいる。
昭和39年、もう10月になっていただろうか。
当時小学6年生のわれわれは、授業の一環として、ヒノマルの小旗手に手にふりながら、若き聖火ランナーたちに声援を送った。
秋の日差しの中、走者たちの一群は、神々しいばかりにかがやいて見えた。
国道一号線を、清水駅方向からやって来て、興津駅方向へ走り去ってゆく光景は、一生の宝物のように思えた。
東京オリンピックは、すでに始まっていたのである。
待望の東海道新幹線も開通していたし、あとは10月10日の開会式を待つだけだった。
われわれは熱狂して、テレビの前に陣取った。
15日間毎日である。
オリンピック放映中は、通常の授業がないので、教室でテレビ観戦に明け暮れた。
記念切手も、全シリーズ2シートずつ手に入れた。
記念絵葉書も全シリーズ収集した。

とはいえ、2週間は短い。
あっという間に、オリンピックの季節は過ぎ去り、ほどなく教室も日常を取り戻した。
と思っていたら、学校の運動会の練習が始まると、様子ががらりと変わった。
目に焼き付いた、オリンピックの光景が、フラッシュバックするらしく、今までとは打って変わって、本格的になったのである。
国旗掲揚のあり方も、行進の仕方も、鼓笛隊の動作一般も、それらしく改められた。
それは、中学になってもつづいた。

東京オリンピックが終わってしばらくして、近所に私設の体育館が出来上がり、それを記念して、体操の五輪選手が招待された。
むろん日本選手だけだったが、あのオリンピックの名演技が見られると思って、そのお披露目会には、関係者やその家族がいっぱい集まった。
選手たちは、黙々と演技を披露していた。
男女を通じて、テレビの画面で見知っていた選手は、残念ながら遠藤選手だけだった。
その遠藤選手は健闘していたけれど、ほかの選手は、子どもの目にも、疲れているようにしか見えなかった。失敗が多かったのである。
間近で、五輪選手のほんものの演技をながめながら、だんだん切なくなってしまった。
こうやって、日本中を行脚しているのかもしれないと思ったからである。

最近になって、パンとサーカス、という言葉を知った。
パンはともかく、サーカスは一般に、曲芸とか、見世物とか訳されるけれど、この場合は少し違うらしい。むしろ、サーキットに近いらしい。
つまり円形の闘技場、そこで営まれるさまざまな競技、すなわちスポーツ観戦をいうらしい。

 日の出づるくにのまぼろし夢うつつ民を惑わすパンとサーカス
 理念なきその場しのぎのいましめに疲れ果てつつ梅雨入りを待つ

むもーままめ(7)愛しのバスボタンの巻

工藤あかね

 カドがころんとまあるくて黄色いボディ、下っ腹はオレンジ色。お顔は暗い紫がかった紺で、お腹を押すとぽっと赤い文字が浮かぶ。意外にも上下あるいは左右がネジ止めになっていて、それを隠そうともしない素朴さがまたいい。ああ、愛しのバスボタン!!どうして、あんなに人が押したくなる形状をしているのか。ああもう、罪、罪、罪すぎる。デザイナー出てこい!(お友達になってください…。)飽くことなく何度でも、降りる用事がなくても押すことができたなら、どんなに良いだろう。ピンポーン!!「次、とまります」ピンポーン!!「次、とまります」ピンポーン!!「次、とまります」…。

 路線バスの降車ボタンが好きだ。私が一番愛しているボタンは株式会社オージのメモリーチャイムの子ランプWS-260Sである。下っ腹のど真ん中がぷっくり膨らんでいるWS-280〜282も悪くはないのだが、いかにも押して欲しそうな空気を醸し出していているのがちょっとだけ気に食わない。WS-260Sの、何にも媚びず、かつ誤作動も恐れず張り出しているところにときめく。いちおう大人なので、バスのボタンを心ゆくまで押しまくるという夢はいまさら叶いそうにはない。だからWS260Sのバスボタンを模したおもちゃがあると知った時には、飛びついて買った。対象年齢3歳以上と書いてあって、多分その年頃の子どもをターゲットにした商品だろう。けれど私だって3歳以上であることは間違いないので、堂々とピンポンピンポン押しまくっている。気が滅入った時、気分を変えたい時、バスに乗った気分だけ味わいたい時などに最適である。運転士さんに迷惑をかけずに好きなだけ押し放題だし、とにかく商品としての満足度はかなり高かった。けれど、やはり本物のバスボタンの魅力には抗えない。
 夕暮れ時、窓ガラスに水滴が斜めに矢を描くとき、桜の時期に桃色の花びらが舞い散る中を進むとき、誰かがポチッとボタンを押すと、バスのそこかしこに設置されたボタンが一斉に朱く色づく。特に終バス。誰も何も言わないしんとした車内に、ピンポーン!!と鳴り響き、「とまります」と文字が浮かび上がる瞬間に、ちょっときゅんとしないだろうか。

 バスのボタンには、縦型もあれば横型もあれば、外側が張り出しボタン部分が少し凹んでいたり、真ん中に仕切りがあったりと色々なタイプがある。誤作動を避けたり、ユニバーサルデザインになっていたり、結構細かく工夫がされているものだ。それらが、設置されるべき場所にしっかりネジ止めされているのを見ると、おもわず記念に写真を撮りたくなってしまう。あるときなど、始発停留所で意気揚々とバスに乗り込み、発車前にバスのボタンの写真を夢中で撮りまくっていたら、運転士さんが「そろそろ出発してもよろしいでしょうか〜?」と。他に誰も乗客はいなかったけれど、あの時は申し訳ないことをした。
 私は絶対にバスのボタンを押したい方なので、降りるバス停の一つ前からボタンの中央に指を置き、誰がライバルかを見極めるために目を皿のようにして車内を見張っている。そもそもバスのボタンはさまざまなところに設置されている。車内が混雑している時でも押せるよう、天井から設置されたバーに隠しボタンのように設置されているタイプは、立ち上がった大人が手を伸ばさないと届かないし、よほどの混雑時でないとわざわざ押しに行く人がいないからライバルは少なめ。座席横の上窓と下窓の間に横型でついているものは、ボタン押しのライバルがいたとしても、手の動きに距離が出るから認識しやすい。座席周辺の手すりに設置されているボタンもライバルがいるかどうかは体の動きで察知できる。ところが座った人しか届かない場所にあるボタンは、小さな動きで押されてしまう場合がある。これは大いに問題で、座席利用者の腿のあたりに低く設置されているタイプは特にやっかいだ。降りるそぶりも見せなかった乗客がさりげなくボタンを押してしまって、先を越されてしまったことがある。私も時間に余裕があるときは次のバス停のバスボタンを狙って乗り過ごしピンポーン!!「次、とまります」を頂戴する場合もあるのだが、さほど暇ではない時に降りたいバス停のボタンをとられてしまった時は、悔しいのなんの。朝の情報番組で毎日「今日は何座が一位です!!」とか星座占いが流れているけれど、そんなのよりもバスのボタンが押せれば、私にとっては占いで太鼓判を押してもらうよりも、よほど幸先がいい。

 こんな話をすると、「コロナの時代だから、ちょうど降りたいところでかわりにボタンを押してくれる人が現れればラッキーなのでは」と言われたことがある。たしかに一理ある。けれど、私はアルコール消毒液を持って歩いているから、ボタンを押す前と押した後に除菌すれば良いだけだ。コロナ禍だからといってバスボタン押しのライバルが諦めてくれればその方がありがたいくらいなのだが、今のところあまりライバルが減った感じがしない。ひょっとして、みんな私に負けず劣らず、バスボタンを押すのが好きだったりして。

新しい古い家

植松眞人

 町の不動産屋が紹介してくれた一軒家は、築後五十年以上は経っていた。外壁の色はくすんでいたが、一歩屋内に入ると柱や床など家の基礎を固める部分が堅牢なのが気に入った。逆にこんなに丈夫そうでいい家なのに長く借り手が付かなかったということに違和感を覚えるほどだった。

 まだ地方にいる妻には体の良い一軒家を見つけたとしか伝えていない。妻は見栄えを気にする方なので、三歳の娘と一緒に上京してくるまでの間に少しずつリフォームをするつもりでいた。タイムリミットは半年。仕事も閑散期に入るのでちょうどいい。

 そう思って契約を交わし、仕事の都合で先に入居したが、リフォームはまったく進んでいなかった。あとひと月もすると妻と娘がやってくるというのに、まだ寝室以外はカーテンも吊していない。

 この家の間取りは4LDKで、三人家族には十分に広いリビングがあり、しばらくは娘と一緒に使うつもりの寝室があり、二階には私と妻が仕事部屋として使うつもりの二部屋がある。妻はゆくゆくそのどちらかを娘の部屋にするつもりだと言っていたが、おそらく私の部屋を娘の部屋にするつもりだ。私はリビングでもどこでも仕事ができるタイプなので自分の部屋はなくても問題はない。

 ただ、困っているのはいまだにその二階の自分の仕事部屋に入っていないことだ。私には子どもの頃から入れない部屋がある。生まれた実家の祖父の部屋がそうだったし、旅行先の宿でも部屋を変えてもらったことが何度かある。

 無理に入ってそこで幽霊を見るというような霊能力は私にはない。しかし、気持ちに抗って部屋に入ってしまうと、すぐに出たとしても数日は眠れなくなる。そして必ず小さな怪我をしたり熱が出たりするのである。(了)

新たな挑戦

笠井瑞丈

今新しい作品に取り組んでいます
バッハのシャコンヌ
この曲はバッハの中でも特に大好きな一曲

この曲は以前『海とクジラ』と言う作品を作った時に
高橋悠治さんの生演奏で踊らせて頂いた曲です

またこの難曲に挑戦しようと思っています

今回はオイリュトミーでこの曲に挑戦します
フォルムを父に作ってもらい

譜面とにらめっこしながら
どのようにこの曲ができているのか
どのような音使いをしているのかを
細かく分析して紙に書かれたフォルムを立体化させます

もう何度も繰り返し聞いた曲ですが
聞き直すとたびにまた新たな
発見がたくさんある曲です

そして今回作品作りと並行して
無謀にもこの難曲のピアノを練習を開始しました
私はほぼ独学でピアノを始めたので
もちろん弾けない箇所が多いですが

とにかく

ゆっくりゆっくりと
冒頭から262小節まで

毎日1小節 
左手 
毎日1小節 
右手
繰り返し
練習して

面白いもので
自分でピアノを練習すると
オイリュトミーで動いた時
今まで聞こえなかった音が聞こえてきます

高橋悠治さんが以前
何かのテレビ番組で
『Herma』を
弾くにはという質問に
「出来る限りゆっくりやって
それから早くやってみる
ただそれだけの事ですよ」
と仰ってました

この言葉は
ピアノを弾く時に
いつも心がけています

オイリュトミーの練習も
ゆっくりゆっくり繰り返し練習する
そして形が生まれてくる

262小節の旅は始まったばかり

五月雨が少し

仲宗根浩

やはりプロレスは見てしまう。地元のテレビでは何週遅れてだろうが見る。編集されているからカットされている。生とテレビでは違う。学生の頃、蔵前国技館で見た国際プロレスの三人とアントニオ猪木との三対一の試合を見たあとテレビ放映との違いに驚いたがそれでもテレビを見るしかない。マニアではないが好きだから見る。新日しかテレビではやっていない。

最近好きな調味料が店から消えた。粗挽きトウガラシ、関西だし味のうどんスープ。粗挽きトウガラシは以前置いてあった店からも消えている。関西だし味のうどんスープは置いてある店を見つけたからいいものの、粗挽きトウガラシは無い。うどんスープも九州のいりこ出汁があればいいのだが。やわらかい麺はあるが出汁は仕方ないか。一から作る根性もない。

かなり年数が経った洗濯機を新しいものにする。届いた日、来た業者さんは二人。その一人が三階まで洗濯機を背負って上がって来たのに驚く。設置をしテスト運転を済ませた作業工程書にサインをする。実際に洗濯機を動かすとあまりの静かさにまた驚く。

梅雨入りし、休日明けに母親のワクチン接種の予約をし車の税金を支払う。いろんな税金を納める月だ。翌週には一回目の接種に付き添い無事済ませる。雨が降らず蒸し暑くなるだけ。

世界遺産という言葉がテレビ、新聞で賑やかになる。大丈夫か?ほんとうに。観光業の臭いがぷんぷんする。非常事態宣言の中、かなり年数が経った車を二台とも替えることにする。七年のローンが納車された月から始まる。二十二年と十九年走った車だからそろそろいいだろう。必要な書類を揃えなくてはならない。印鑑登録証がやっと見つかる。

非常事態なので図書館は閉まるが大きな映画館は時短営業のまま。月の終わり雨が続き涼しくなる。

アジアのごはん(107)手作り豆乳

森下ヒバリ

「小さな豆乳工場」という名の、豆乳メーカーを入手してみた。台所にものを増やしたくなかったのだが、市販の豆乳に飲めるものが無くなってしまったので、いろいろ機能を調べてのネットショッピングである。

これまでは、マルサンアイの無農薬豆乳を、豆乳ヨーグルトや豆乳シチュー、お菓子作りに使ってきたが、どうも去年の秋ぐらいからあまり食べたくなくなってきたな~と思ったら、どうも最近のこれはグリホサートが残留しているようだ。無農薬と謳っているものでそうなのだから、ほかの大手メーカーの豆乳はもっとひどい。おまけに大豆はセシウムを集めやすいので、大豆の産地には本当に注意が必要だ。ただ国産と書かれても困るのよ。

市販のものや豆腐屋さんの豆乳などいろいろ検討してみた結果、信頼できそうな無農薬大豆を買って、自分で作るのが、一番早い・・となった。ヒバリは乳製品にアレルギーがあるので、豆乳がないと料理のバリエーションが減ってしまう。豆乳ヨーグルトや水切り豆乳ヨーグルトで作るシャーベットも食べたいし~。というわけで、さっそく豆乳を作ってみましょう。今回は熊本の無農薬大豆を使う。

届いた豆乳メーカーは、高さ26センチ、幅16センチぐらいで、ポットのような形をしている。乾燥大豆50グラムを一晩水に漬けておいたものの水を切ってポットに入れ、ポットの水(だいたい450cc~)を入れてスイッチを入れると、自動で粉砕して加熱してくれて20分で豆乳のできあがり。う~む、早いぞ。大豆は乾燥のままでも、30分でできるので、急に使いたくなってもだいじょうぶ、らしい。

で、ほわ~と湯気の立っている豆乳を網で漉して、おからと分けたら、完了である。もともと、豆乳をそのままでは飲まないのだが、これはおいしそう。出来上がった豆乳は400㏄。カップ2杯分だ。さっそくヨーグルトに仕込む。いい感じに豆乳ヨーグルトもできた。うんうん、体が喜ぶこの感じ。おいしい、です。大成功。

そして、残ったおから・・実は最初は、毎回おからがこんなにできたら、あまって邪魔くさいだろ・・と思ったのだが、それを使って料理してみたら、そんなふうに思ってゴメン! と謝りたくなるぐらいおいしいかった。

さあ、ごく基本の「おからの炊いたん」を作ってみますよ。
まずは家にある野菜を適当に、今回は玉ねぎ、にんじん、お揚げ、ピーマンを細かく切り、油で炒める。火が通ったら、おからを加え焦げ付かないように炒める。おからは豆乳3回分をまとめて。油はおいしいオリーブオイルやさっぱりしたゴマ油がいいです。
いい感じに水分が抜けてきたら、醤油、またはだし醤油、(薄口がいい)で味付け。市販のおからのように機械でぎゅうぎゅう絞ってないせいか、大豆の甘みがたっぷり残っているので調味料はこれだけで十分。器に盛ったら、ゴマを指でひねってパラパラとかけて出来上がり。

しっとりとして旨みが濃く、ミルキー。これは、下町のお惣菜というイメージを変えてしまう、極上の一品でございます。事前におからを炒る必要もないし、とっても簡単に作れます。残った「おからの炊いたん」は、冷蔵庫で3日位は十分日持ちする。焼いたパンに挟んで食べてもおいしい。

さて、次は豆乳ヨーグルトを使って、シャーベットアイスを作ろう。
豆乳ヨーグルトは軽く重石をして水分(ホエー)を分離させ、ホエーは次のヨーグルトを作るために取っておく。豆乳チーズを作るほどホエーを抜く必要はないので、加減してみて下さい。ハンドブレンダーがあれば、水分を減らした豆乳ヨーグルトをちょっとホイップしてもいい。
少し水分を抜いたヨーグルトにはちみつ(または砂糖)を加えて好みの甘さにして、さらに生のフルーツを入れる。いちごやぶどう、いちじく、さくらんぼやプラムなど。それを器に小分けして冷凍庫へ入れる。フルーツなしでもかまわない。凍らせている途中で一度かき混ぜるとさらにクリーミーになるが、かき混ぜなくてもだいじょうぶ。
ドライフルーツを入れる場合は、ヨーグルトからホエーを抜く必要がないので、さらに簡単。その場合は食べやすい大きさにちぎったドライフルーツとはちみつ(または砂糖)をヨーグルトに入れて、半日から一晩冷蔵庫に入れておく。水分を吸ってドライフルーツがぷるぷるになっていたら、小分けにして凍らす。ドライフルーツは、マンゴー、プルーンや、ヨーグルト用のミックスなどがいい。一晩置いたものは、とろんとしていて、凍らせずにそのまま食べてもとってもおいしい。

市販の豆乳の品質が最悪になっているのは、2011年の福島原発事故でまき散らされた放射性物質に加えて、規制緩和されて新たな使い方をされている除草剤のグリホサートの残留のせいだ。グリホサートはあぜ道や庭の除草だけでなく、農業の現場で大胆な使われ方をされ始めた。草取りのためではなく、収穫期の作物、主に小麦と大豆にドローンで撒いて振りかけて、立ち枯れさせ、収穫を容易にするという使い方である。グリホサートは収穫された小麦や大豆に染み込み、振りかけられた畑にも染み込み、残留する。

数年前には、九州のふくれんがこの収穫方法を推奨している、実際に農家が大豆の収穫時に使っているという話は聞いていた。そして、先日にはついに北海道のホクレンもこの使い方を推奨していることを聞き及んだ。ああ、北海道よ、お前もかい。いま米国や欧州で規制が強められ、さらにグリホサートががんの原因であるという訴訟で、原因と認められて次々とモンサント(現バイエル)が賠償を命じられているのを知らないのか。日本だけが規制をものすごく緩めて、使用推奨って正気ですか。
グリホサートを人間が摂取した場合、一番の問題は腸内細菌叢がめちゃめちゃになってしまうことである。ある種の抗生物質のような働きをしてしまい、有益な腸内細菌を根絶やしにしてしまう。いくら発酵食品を頑張って食べても、食物繊維をとっても、グリホサートまみれの小麦や大豆を食べていれば、あなたの腸内環境は救いようがない。
新型コロナウイルス感染症がまん延している今は、自分の免疫機能が最も必要とされているときだ。腸内細菌は免疫をつかさどる。免疫力を落としている場合ではないのである。大豆製品・小麦製品は原発事故で汚染されてない地域産で、かつ無農薬のものを食べましょう。

製本かい摘みましては(163)

四釜裕子

スーパー吉池が近くにあってうれしい。魚のまるごと陳列はいつも今の日本の近海の魚劇場の様相もあって、品定めのみならず見るだけの人たちで停滞する時間帯もあるのだけれど、この1年は店もしっかり感染対策をしているし、客だって誰も必要以上にしゃべったりしないのだ。公式ツイートがまたナチュラルにゆるくていい。あおらず媚びず、もちろん有益。それを拾って買いに行って調理して食べる人らのツイートもしかり。先週もそれにつられて生サクラエビで炊き込みごはん。次の日はそれを焼きおにぎりにしてうまかった。

吉池のある日のツイートに「千葉県鴨川 にべ」と「長崎県五島列島 くえ」と「静岡県焼津 おおめはた(白むつ)」が並んだことがある。ニベにチャレンジしたかったけれどいまひとつピンとこず、思い切ってクエにしたのだった。アラを鍋にするのに骨が硬くて難儀した。まぎれこんだウロコもなかなかだった。味は最高。しかし今思い返すと、難儀ばかりがよみがえる。ところでニベって、「にべもない」のニベだよね。それはこの見た目がぼよんとして愛想がないから? いや、たくさんいて珍しくもないはずのニベがいないってのはなんて愛想のないことよ、みたいなことじゃない? ん? 

ではなくて、ニベ科の魚の浮き袋から作る接着剤の粘着力は強くて、その粘り気が少しもないっていうのは、そっけない・愛想がないということだと、なんとこのとき初めて知った。「にべもない」ということばをいったいいつ誰に初めて教えてもらったのか、その人はいったいどう説明してくれたのか。語源を知らぬまま、というかそれを知ることなく、ことばじりだけでぼんやり意味を把握し続けてきたというのは驚きだ。まあ、「たでくうむしもすきずき」や「うさぎおいしかのやま」も結構長い間頭の中では「田で食う虫も好き好き」で「ウサギ美味し、かの山」だったわけだから、さして珍しいことでもないけどね。資料を読もう。

〈ニベの小型のものはグチとかイシモチと呼ばれる。ニベはよく発達した鰾(ふえ 浮き袋)をもち、その鰾から製する膠もニベという。愛想がない、思いやりがないことを「ニベもない」というが、これはニベ(鰾膠)のもつ粘着力のないことを指して言った言葉である〉谷川健一『甦る海上の道・日本と琉球』文春新書 2007 「ニベの話」

〈「にべもない」という慣用句は、ニベの鰾膠の接着力・粘着力の強さから、「ニベ」は他人との親密関係を意味するようになり、ひどく無愛想なことを言い表すようになった〉内田あかり監修『膠を旅する』国書刊行会 2021

数年前、魚の浮き袋が高額取引されているというニュースもあった。

〈「『海のコカイン』、絶滅危惧種の高級魚密輸で中国人逮捕 メキシコ」 メキシコ警察は、飛行機の預け入れ荷物に絶滅危惧種の高級魚トトアバの浮き袋を大量に詰めて運ぼうとしていた中国人の男1人を逮捕した。(略)強烈な異臭を放っていたスーツケース2個を調べたところ、トトアバの浮き袋(浮力を調整する器官)416個を発見した。(略)若返りの効果があるとされる伝統薬として珍重され、闇市場で2万ドル(約220万円)もの値が付くこともある〉AFP 2018.4.26

レオナルド・ディカプリオが製作総指揮した『シー・オブ・シャドウズ』(2019)はバキータ(コガシラネズミイルカ)の激減を追った映画だが、大きな原因としてこのニベ科のトトアバの密輸が描かれていた。トトアバもいかにも極悪に撮られていたけれど、トトアバの浮き袋は特に「良質」なんだろうか。吉池で売っているニベにだって浮き袋はあるだろうし、自分で釣った魚の浮き袋を食している人もいるだろう。と思ったら野食家・茸本朗さんがやっていた。さすがだ。

〈「クログチの浮き袋でも同じような味になるんじゃね?」 (略)先日捌いたクログチも、まさにそのような浮き袋を持っていて、魚体のサイズもあってかなり食べごたえのありそうなものが取れた。魚肚は買うと高いし、ブラックマネーに寄与するのも好ましくない。だから、この浮き袋がチャイナマフィアの手に渡ってしまう前に、我が家で消費してしまうことにした〉野食ハンマープライス 2017.4.1

先にひいた『膠を旅する』は、武蔵野美術大学美術館で5月12日から6月20日まで開催の「膠を旅する 表現をつなぐ文化の源流」に合わせて刊行された。今日現在も新型コロナ感染症対策のために一般公開はなされておらず、本だけ買って読んでいる。
第1章「膠の過去・現在・未来」は、ウエマツ画材店・絵具屋三吉社長(2020年退任)で膠の研究者の上田邦介さんと、画家・山本直彰さん、画家・内田あぐりさんの鼎談だ。

上田さんが言っている。〈江戸時代はニベを相当に使ったのではないかなと思いますよ。普通の皮膠っていうとないじゃないですか、牛を食べるわけではないし、あと鹿の皮。そうすると、ニベがいちばん手軽なわけです。ニベを採り尽くしたんですね、日本の近海で〉〈浮き袋のゼラチンがいちばんいいわけですよ、余計なもの入っていないから〉。昔はニベは近海にたくさんいたんだけど、とも言っている。やっぱりそれはいい膠を得るための、いわばトトアバ的な特別なやつをさしておられるのだろうか。とにかく今度吉池でニベを見かけたら試してみよう。

この鼎談の話題の中心は日本画の画材としての膠だ。明治以前は、膠もその特質を日本という気候風土でどう生かすか、苦心というか当然の工夫をしてきた。それが、膠も含めてなんでもかんでも、物がモノとして世界中を単独飛行できるようになると、行く先々の気候風土や独特な文化と合わない部分は雑味とされて、そういうものをそぎおとした無難な商品を作るのもかけがえのないことではあるけれども、それによって取り残されるものとか失われるものは多く、なによりも、それを取り返す・取り戻すことが困難になるのが致命的だ。膠もしかり。『画筌』(1721)など狩野派の技法書の中から上田さんがひいている。二月頃、棒状の膠を外に出して、その上に積もった雪が溶けるときに膠が水を吸ってアクが抜けていくから、それを干して使え、とあるそうだ。そうしたことへの関心は取り残され、現在の日本画界にも案外継承されていないようだ。

 山本:膠は単独の物質としては不安定であると。それで日本画家たちはやってきているんだよね。僕らは与えられたものになんにも疑いを持たなかった。それでいいのですかということを上田さんは言ってきたんだよね。
 上田:そう。言ってきたんだけど現実にそれがね、腐るとかカビが生えるとかそういった見かけの問題としてしか物証がなかった。(略)日本は、膠の物質性を理解しないまま現在に至っている。

狩野派の絵師による桜の絵の屏風を修理した表具屋さんから聞いたという話もおもしろかった。その表具には、楮紙と、炭酸カルシウムを漉き込んだ紙(三栖紙)と、白土を漉き込んだ紙の三種類が使われていた。三層構造にすることで、開いたり閉じたり巻いたりが滑らかにできるようになるという。上田さんは「私なりの考え」としてこう話す。〈例えば雨季に入ると、炭酸カルシウムの紙が湿気を吸い込んで、白土入りの紙がその水分を蓄えるんです。一方で、乾燥の気になる季節になると、今度はこの白土入りの紙から水が出るんです。こういうシステムによって、昔の屏風は安定した湿度を調整していたのではないかと思うんです〉。「三層構造」という言葉に、ふと300年後を思うのである。2321年の世界は、300年前の世界が三層構造などのマスクにあふれていたことをどんな感慨で振り返るのだろう。

実は昨年早々に銀座線の渋谷駅ホームが移動してから、宮益坂を下りきったところにあるウエマツの前をよく通るようになった。店頭のウィンドウも楽しんでいる。このお店を1932年に上松絵絹店として開業した上田さんは、日本画の絵の具を作っていこうとしていたが、作ったものが「きれいすぎて使えない」と画家たちにひんしゅくを買い、それで膠を作ることにしたのだそうだ。以来さまざまな研究開発を重ね失敗もあったというが、上田さんが作ったアートグルーを〈武器〉に新しい作品の境地を開いたという山本さんが、上田さんのことをこう言っている。〈ひるまないんだよ、人になにを言われても〉。

 山本:製造者の上田さんに「狂気」がないと、続かなかったよ。情熱の持続が狂ってるもん。
 上田:私が?
 山本:うん。だから言ったでしょ? あるとき、こうやって話しているときに、アートグルーの悪口さんざん言ってたら、「僕がアートグルーだ!」とか言い出したんだよ。なにそれっ? て思った。フェデリコ・フェリーニの「私は映画だ!」と重なったんだ。あの場末の喫茶店で。
 上田:そうだったねえ。

私自身はふだん膠になじみがない。ルリユール工房に通っていたときも、小さな電気コンロに適温で用意されたものにそのつど小筆を浸していたにすぎない。当時のノートには「ニカワ」としか記されておらず、何由来なのか、どう用意するのかなどに関心が向いていなかったことがわかる。日本では、妻屋膠研究所の二代目・妻屋弘さんという方が膠液の製造法で特許を取り、印刷・製本関係の接着剤と絵画用の膠の研究開発に専念されてきたそうだ。あのとき電気コンロに溶けていた膠も、そのあと製本工場で何度も見た大きな鍋に溶けていた膠も、妻屋膠研究所のものだったのだろうか。それぞれもとは、どこで、どんな姿で、いつごろ生きていたものたちだったのだろう。

しもた屋之噺(232)

杉山洋一

家人は、現在のミラノは羽目を外しすぎていて心配だといいます。長い規制に耐えながら、ワクチンも80歳代以上から年齢順に接種してきて、現在ロンバルディア州では30歳以上が接種対象となっています。その結果、漸く外食や劇場など規制全体が緩和され、誰もが文字通り喜びに湧き立っているというのです。

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5月某日 三軒茶屋自宅
昨晩19時からリッチャルダのラジオ番組を三軒茶屋で聴く。悠治さんの「歌垣」と「般若波羅蜜多」をかけてもらったが、今晩のように稲妻の閃光が煌めく嵐のなかで「般若波羅蜜多」を聴くと、思いがけない臨場感と異様な高揚感に包まれる。リッチャルダの伊語を聴くと、これが上流階級のイタリア語なのだろう。少しくぐもった母音に、巻舌ではなく仏語に似たRを発音する。スカラ座を創設したのが、リッチャルダのBelgiojoso家だ。
生まれた時から猫アレルギーだけれど、どうにも可愛くて猫を譲り受けてしまって、案の定暫く酷い喘息で大変だったの。でも馴れてきたのか、少し落着いてきたから、収録が再開できるようになったのよ、と笑った。
 
夜半0時からは、ヴィオラのマリアが優れた学生を集めて演奏した、ヴィオラ四重奏の「子供の情景」演奏会。練習を一切聴かなかったから、どんな風になるのか想像出来なかったが、素晴らしい仕上がりに大変感銘を受ける。マリアとその門下生たちだからか、和音の作り方も、演奏方法の処理にも一貫性があり、それは特に野平さんの「シャコンヌ」で実感した。「シャコンヌ」は譜面の読み方がとてもイタリア的なのにも興味をそそられたし、「子供の情景」では、長年マリアがゴルリの現代音楽アンサンブルで培った経験がそのまま反映されていた。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
大阪の医療環境が急激に悪化。訪問看護医療が強化されるという。戦後の高度成長期を経て迎えた日本の黄金期以来、我々日本国民は、国を我々自身が築く意識をすっかり消失してしまった。民主主義とアナーキズムが表裏一体なのは誰もが薄く予感していたけれど、最悪の時期に全てが露呈してしまった。政府を批判する以前に、批判されるべきは、我々自身ではないか。
国民一人一人が自らの権利を保障され、国はそれを守る役割があるならば、国民それぞれの国への帰属意識は必要不可欠な大前提であるはずだ。国への参加意識が希薄な儘、徒に権利ばかりを主張すれば、政府も国民も、深く泥濘む混沌に足をとられて次第に沈下してゆく。
細かい音符を正しく並べてゆけば、美しい音楽が仕上がるわけでも、音楽が正しく流れるようになるわけでもない。予め音楽全体の流れが理解された上で、それに最も適した方法を探しながら、中に置かれる音の精度を調整する。巨視的から微視的に視点を変化させることにより初めて音楽は成立するが、反対は不可能だ。
音楽は社会であり、社会は音楽だとおもう。故に、社会も巨視的なアプローチを欠けば、どれほど国民がそれぞれ精を出しても、ただ徒にエントロピーが拡大してゆく。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
日本の感染状況は変わらず。15日のニューシティフィルと悠治さんとの演奏会も開催できるかわからない。延期されれば演奏会実現は2年後だそうだが、その頃自分がどうしているか、見当もつかない。実現出来るか分からない演奏会の楽譜を開くのは、やはり切ない。熱川の義父母のところでも、陽性者が見つかったという。イタリアはもうすぐ50歳代のワクチン接種が始まる。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
マクロン大統領、ナポレオン没後200年を記念して演説。ミラノはナポレオンが作ったイタリア共和国やイタリア王国の首都だったから所縁は深く、ナポレオンは自らのためにと凱旋門まで作らせて、それは今でも「平和の門」として残る。
フランスの英雄は、イタリアから見れば無数の侵略者の一人に近い。ナポレオンはハプスブルグ支配から北イタリアを解放し、そこに傀儡国家を作った。その土地に住むものからすると、どちらも支配者に過ぎなかった。
現在も残る、イタリアのヨーロッパ列強各国へのどこか冷笑的姿勢の根底には、何百年と続いた不信が未だに巣食っている気もする。翻って言えば、かかる支配を甘受しつつ、イタリアであり続けた自らの文化への誇りは、絶えたことがない。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
首都圏知事が揃って、今月31日まで緊急事態宣言延長を国に要請。15日の演奏会は都が管理する東京芸術劇場の予定だから、演奏会はやはり難しいかもしれない。レスピーギの「鳥」は、昨年のクリスマスに家人と息子が連弾していた「Natale, Natale!」を思い起こさせる。マルトゥッチは、ヴェルディとプッチーニのちょうど中間の響きがする。当初、譜面を勉強するほど、アカデミックで堅苦しく感じるかと危惧していたが、全くの杞憂に過ぎなかった。寧ろ、一見とても生真面目で、くすんで見える譜面は、丹念に倚音を重ね、輪郭を敢えて曖昧にしているからだ。
直截に表現するのではなく、輪郭を点で縁取りしつつ本質を浮かび上がらせる手法は、丁度同年代のイタリア絵画、例えばエミリオ・ロンゴ―ニ(Emilio Longoni)やアンジェロ・モルベルリ(Angelo Morbelli)のような、分割主義の画家を思い起こさせる。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
昼前、水町さんより電話をいただき、東京芸術劇場は開館決定、15日の演奏会開催が決定したそうだ。慌てて、ライブラリアンの武居さんに、カスティリオーニ、マルトゥッチの訂正表を用意して送付。長年親しくお付き合いしているミラノのKさん一家も、Covid-19で両親も子供たちも揃ってCovid19に罹り、家中で大変な思いをされたそうだ。
毎日少しずつ時間を見つけては、ブルフィンチの「ギリシャ・ローマ神話」を読返すのが、ささやかな愉しみになっている。高校生のころ買って一回くらいは読んだはずだが全く記憶にない。今改めて読むと、水木しげるの妖怪辞典のようで面白くて仕方がない。ローマ神話は現在イタリアの日常にそのまま反映されていて、合点のゆくことも多い。多神教の逸話はどれも人間臭く心情が豊かで、ラテン的な楽観も諦観も等しく映し出される。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
朝7時半、イタリア時間の午前0時半、日付が変わり50歳代一般ワクチン接種受付が始まったので、インターネットで家人の予約を入れた。
日本で不思議に思うのは、救急車、消防車、パトカーなど、緊急車両がサイレンを鳴らして公道を緊急走行する際、なぜ、拡声器から指示を出し、謝礼を言わなければならないのか。少なくともイタリアでは、サイレンが聞こえたらどの車も路肩に寄り、両方向の車道とも緊急車両に道を譲るのが、住み始めた頃は新鮮だった。我々日本人は、各人の社会への参加意識が希薄なのか。
外国人技能実習生や入国管理局の問題など、将来日本が国ぐるみで搾取に加担し、自身が強制労働を強いられたと訴えられ、国際裁判などで賠償を請求されるかもしれない。
近隣諸国と戦後処理で軋轢が深まっているが、戦時中、一般の日本人は、在日外国人に対して我々と同程度の認識しかなかったかもしれない。つまり現在でも、外国人の視点に立てば、日本社会は全く違った側面を見せる可能性もある。
日本国民と外国人との感覚の齟齬に鈍感なままでは、我々日本人は国際社会から愈々取残されるばかりではないか。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
一昨日、昨日とニューシティーフィル定期の練習。自主待機が明けた日が最初のオーケストラ練習だった。マスクのせいか、自主待機で身体が呆けているのか、体力が思いの外落ちている。昨日まで届いていた入国者管理センターからの所在確認メールは、今日から届かない。
全てが非合理的、非効率的に書かれてあって、マルトゥッチは演奏がとてもむつかしい。ブラームスやドボルジャークも、より見通しよく合理的で演奏効果が上がるよう書いた。
そうした作品に慣れていれば、ここまで丹念に織り込まれた生地に、最初演奏者は戸惑うに違いないが、ニューシティフィルのみなさんは、献身的にそして丹念に音符について来て下さり、心から感激した。自分が作曲者だったら、とても嬉しかったに違いない。カトリックとプロテスタントの土壌の違いなのだろうか。
レスピーギとカスティリオーニに関して、特に音符を情報の実現、再現と捉えないようお願いし、かくありべし、たる予定調和を忘れてもらう。
レスピーギであれば、絵に描かれた「鳥」や、剥製の「鳥」を眺めるより、この瞬間に、どこかで啼いている「鳥」の声に耳を澄ますことができる。
カスティリオーニであれば、自在に変化する悠治さんのピアノの音と、直截に絡み合うことができる。
明日は一日休みなので練習後町田へ出掛け、久かたぶりに両親に会う。家には上がらず10分ほど玄関外で立ち話。ワクチン接種券が届いたそうだ。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
昨日のオーケストラ渾身の演奏に感動。カスティリオーニ3楽章で、悠治さんの独奏ピアノとオーケストラとの音量を吟味していて、敢えて悠治さんに凸凹に弾いていただくと、藤田さんが奏でるチェレスタと3次元的に美しく絡みあって、愕く。ホログラムのように、突然、音像が空間に浮かび上がる姿に、思わず息をのむ。
悠治さんのピアノは、最初の練習から信じられないような音を放っていたが、本番は、飛びぬけて耀いていた。豊かな倍音、という陳腐で均質な表現では伝えきれない何か。
物質の密度は異様に高く歪な鉱物状に圧縮されていながら、その断面を抵抗もなくすうっと空気が通抜けてゆく。自然界ではあり得ない現象で、手品のようだ。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
東海以西の梅雨入りは、例年より三週間早いそうだ。世田谷観音へ歩く道すがら、紫陽花が美しく咲き誇っていて、目を愉しませてくれる。
一日かけて町田の両親のワクチン接種をインターネットで予約する。どうすればデュサパンの譜読みを間に合わせられるのかと途方に暮れる。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
昼過ぎからHinterlandの弦楽四重奏練習。そのほんの数時間前に成田君に広島の病院にて女児誕生。写真を見せてくれる成田君の全身から喜びが伝わってきて、部屋の空気も華やぐ。こんな大切な時に、練習に時間を取るのは申し訳なかった。成田君初め、石上さん、田原さん、山澤くんは、弾けるように鮮烈な、時には峻烈な程の音楽を奏でる。
母より真赤な孔雀サボテン大輪の写真が届く。今年は去年より二週間程早かった。思わずマティスの絵が頭に浮かんだのは、数年前、母と息子とマティス美術館を訪ねたからだろうか。当時、息子は未だ充分回復していなくて、オントルヴォ―の山上の砦まで登り切った時には、三人とも言葉にならぬほど喜んだ。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
デュサパン演奏会、二日目リハーサル終了。コンサートマスターの山本さんに、マスクの中に入れる、マスクブラケットを頂く。これを付けるとマスクが顔に貼りつかないので、呼吸が随分楽に出来るようになった。深謝。
相変わらず軽い眩暈が続いているのは、寝不足だからか。デュサパンのオーケストラ作品は、クセナキスの「Jonchaies」のような旋法的響きが、フランス人らしい上品さと色彩感によって再構築された印象。
デュサパンを直接は知らないのだが、以前からイタリアのFabio Vacchiに似ている気がしていて、今回ファビオの弟子が最終選考に残っていると知り、我が意を得た思い。
揃ってドナトーニの下で研鑽を積み、複雑な作風から出発した後、オペラで成功し旋法的な作法に至る。風采もどことなく似ていて、大柄で知性的で上品な雰囲気が漂う。
初めて、渋谷の銀座線ホームに降り立つと、広く西日に輝く明るい駅舎に感動し、すぐに絶望した。子供の頃から通った渋谷の姿は、最早見る影もない。
二年ぶりに通いなれた「トップ」に足を向けると、全面にべニア板が貼られて閉店していて、外に掛かった橙色の古看板だけが残る。聞けば、井の頭線のガード下に移転したそうだが、子供の時分から存じあげていた、店長の宮原さんは辞められていた。
道玄坂を上って、三軒茶屋まで何の気なしに歩きたくなった。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
デュサパン演奏会終了。チェロの横坂さんの深い集中力に脱帽。彼が発した最初の一音から、この日の演奏会全体に霊感が吹き込まれるのが分かる。やはり音楽とは不思議なものだ。横坂さんの一音で、オーケストラ全体がめくるめく変化してゆく。彼ら若い独奏者たちから、我々は沢山よい刺激と生気を頂いたことに、改めて感謝している。
昨日も、初台の練習の後、やはり三軒茶屋まで歩いて帰った。道すがら、ずっと気になっていた下北沢辺りの幾つかの庚申尊に手を併せ、拝顔した。
東京の緊急事態宣言延長決定。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
湯河原、茅ヶ崎、横須賀と慌ただしく墓参。熱海駅構内にて、子供の頃から食べつけた「鯛めし」で慌ただしく朝食を摂り、茅ケ崎の西運寺から駅に戻るタクシー車内からは、雄大な富士山に見惚れた。尤も運転手曰く、彼は毎朝近景の大山を愛でるのが愉しみだという。富士山の姿はいつも同じだけれど、大山は山肌に霜が光ったり、毎日まるで違う表情を見せるそうだ。横須賀の信誠寺では、待っていたかのように、墓地に降りるなり澄んだ美しい声で春告げ鳥、ウグイスが啼いた。帰りしな、町田で母から小鯛の昆布漬け、野菜の糠漬けなど受取る。美味。
家人はガンバラのトリブルツィオ養老院にて、ファイザー一回目の接種終了。


(5月31日 三軒茶屋にて)


描き文字と貼り交ぜ

高橋悠治

貼り交ぜ屏風は さまざまな書や画を屏風に貼ったコラージュ 雑多な思いつきを一つの面に貼り合わせるのは 屏風以前に 扇子に使われていた 式次第をまちがえないように 扇子に書きつけて畳んでおく こんな扇の使いかたがあったのか と思うが 薄い木の板の片端に穴をあけて紐を通して縛る檜扇は もともとは控帳で そっとひらいて書きつけたメモを見るもの 扇ぐためではなかったらしい 12世紀に春日行幸次第を書きつけた檜扇がある 細い骨に紙を貼った扇子には 歌を書きつけたり 花を載せて贈るためのものでもあったようだ あおいで風を起こして涼むような下品なおこないは 自分の手でするのではなく 召使にさせるものだったのは どこの貴族社会でもおなじだったのか うちわだけでなく 傘もさしかけてもらうために 長い柄がついていた

風を送る扇ではなく 風を避ける屏風の内側に 字や絵を書いたり 貼ったりするのは かなり後のことらしい 貼り交ぜ屏風のなかにも 扇絵を散らした扇貼り交ぜ屏風は 俵屋宗達以後と言われる

この伝統から 平野甲賀の文字を見ると これは手書きの流れるスタイルではなく 一文字ずつがちがう描かれた文字 日本語の漢字・ひらがな・カタカナ それに準じる アルファベットが混ざって それだけでなく一画ずつが ちがう太さ ちがう長さ ちがう向きで 投げ出されている コウガグロテスクとしてフォント化されてもいるが 同じ字でも毎回ちがう現れをもつのが 描き文字のおもしろさだと思う そうなったら だれでも使えるフォントよりは タイトルや人の名前が その都度ちがう感触をもつほうが 思いがけないおどろきがある

一画ずつが 文字の意味やニュアンスをよそに かってに動き出すのを 文字枠がやっとのことで止めている 解体寸前の瞬間の痕跡 不器用さを装う反逆

平野甲賀の本をちらちら見ながら 考えて いや 予感している

普段着の楽器 毎日の音で ちがう思いのかけらをひとひらずつ 仮止めした響き 安定しないリズム はずれかける音程

線に線をあしらって 対位法でも ヘテロフォニーでもない ざわめきを孕んだ時間を どうしたら 作れるのかと思っていた

一画ずつの関係が 隙間だらけの枠のなかに吊られて 危なげに震えている 塊が 飛び飛びに 浮いている 時間