編み狂う(9)

斎藤真理子

 世の中には「編み込み派」と「地模様派」というのがある。編み物の世の中のことです。編み込みは、さまざまな色の糸を使って複雑な模様を作っていくことで、地模様は、色は一色のままで、編み物の表面に縄だの溝だの格子だのでこぼこを作っていく技法だ。
 
 編み込み派はさらにフェアアイル閥、北欧閥、橋本治閥などの分派に分かれ、地模様派にもアラン閥、ガーンジー閥、各種レース支部などがある。私は元来、編み込み派のどこかに属したかったが、色彩感覚がだめなのであきらめ、結局、地模様派・アラン閥/ガーンジー閥のかけもちということに落ち着いた。
 
 大造りにいえば、編み込み派は世界を色で把握し、地模様派は立体感で世界を把握している。私の属する地模様派は、糸のループを互いにからませたり重ねたり、交差させたりしながら凸凹を操っていく。基本は一つのループ、つまり一目にすぎないが、それを何重にも組み合わせた結果、「ふるいつきたいような」模様編み、「そそってそそってたまらない」「狂おしいような」模様編み、というものがこの世に生まれる。

 例えば「枝先にボッブルをつけた生命の木」とか、「中を2目かのこで埋めたダイヤ」とか、「1目×2目の交差を左右対称に並べてウイングみたいにしたやつ」、「ホースシューの両サイドをモックケーブルあるいはハニカムの1列だけを配置」……などと、編み物をしない人には何のことかわからないと思いますが、書いていくだけで脳内にその手触りが再現されてアドレナリンが出るし、実際、こうしたふるいつきたい模様編みが上手に編まれ、着られているのを道で見かけ、その人の後をずっとつけたこともあった。

 あれは子供のころ、地表のいろんなものに思わず触れたかった衝動と何も変わらない。ぽこぽこした、ぷつぷつした、ざらざらした世界のテクスチャーの、問答無用の牽引力だ。こんもり、みっしりと地上に盛り上がってどこまでも続くシロツメクサの畑、枝先からあふれる百日紅、馬酔木の花や山葡萄の房の連なり方とばらけ具合。ナラの木の根元に散らばったどんぐりの笠の粒々、大木の根元で盛り上がって入り組んだ細い根っこたち。また、草の茎の途中でふくらんでいたカマキリの卵のあぶく、セミの羽根に透けて見える波模様。規則性と不規則性、世界の粒立ちと波打ちとうねり具合。毎年まっさらな顔をして現れては輝いていた、何でもないぽこぽこした、ぷつぷつした、ざらざらしたものたち。

 それらに近いものを手と糸と針で作り出せるというのは、ちょっとうっとりするようなことだ。

 たぶん最初に魅了されたのは、「かのこ編みと縄編みの組み合わせ」だったと思う。かのこ編みとは編み物の表面を一様に細かくざらっとさせる手法で、縄編みは「ケーブル」というやつ、量販店のセーターに最もよく出現するあれです。でも、手編みの縄編みと手編みのかのこ編みを組み合わせると、縄の盛り上がり方がぐぐっとアップするので、「これがほんものの……こんもり・くっきり・ふっくらというやつ!」と静かに興奮する感じになる。

 このたまらなさ、何かに似ていると思っていたが、最近になって気づいた。あれは、私が大学時代に一応専攻したことになっている考古学で扱う縄文土器、特に縄文中期の土器の表面ではないのかと。

 縄文土器の表面の模様は、自然界にあるさまざまなものを利用してつけられる。植物の繊維を縒ったもの(縄)を転がす。それを棒に巻いたものを転がす。または刻み目を入れた棒、貝殻のぎざぎざの縁、それから竹を半分に割ったもの。

 竹を半分に割ったものを粘土板の上でぐっと強く引くと粘土のひもができる。そもそも縄文土器自体が、粘土のひもを巻き上げたり、積み重ねたりして作ったものだ。そして、粘土ひもを渦巻きにしたりうねらせたりして、細かい網目模様で埋めた土器の表面に貼りつけると、私の好きな「かのこ編みと縄編みの組み合わせ」そっくりになる。写真が載せられないけど、「加曽利E式土器」などのワードを入れて検索してみてください、私の言ってることがわかるかもしれないから……。

 こうした装飾を土器の縁に積み上げたりして、縄文土器の立体感はどんどん開花暴走していく。その頂点が火炎土器だろう。一方、弥生土器ではごつごつした凹凸は消え、全体の美しい曲線的なフォルムが特徴だ。その上に彩色したり、部分的にあっさりした刻み目模様を施したりする。

 どうやら人類には、世界の表面を引っかいたり穴をあけたり何か貼りつけたりして凹凸を作りたくなる人たちと、世界の表面をすべすべにしてその上に模様を描きたくなる人たちとが、いるみたいだ。日本列島で作られた土器はこの順番で現れたが、どっちが進化してるというわけでもない。

 それと同じく、編み物における編み込み派と地模様派のどっちがえらいわけでもない。えらくはないが、テクスチャーを作り出す地模様派には、なかなか奥深いところがある。

 昔、一世を風靡した編み物デザイナーの戸川利恵子先生という方がいて、その方が「2目×2目の縄編みを、6号針でゆるめに編むのと7号針できつめに編んだのでは、同じ糸でも色が違う」といったことを本に書いていらした。これもまた編み物をしない方には何のことかわからないにきまっているが、これは真実だ(真似したのでわかる)。

 なぜ色が変わるかというと、実に微妙な手かげん一つで、編み目の盛り上がり方が変わり、結果として同じ光を浴びても影のできの方が変わるためだと思う。つまり大げさにいえば、編み物でテクスチャーを作り出すのは、光と影を支配することだ。

 地模様派の人は、そんなに広くないセーターの表面に何種類もの柄を並べようとして、その並べ方に苦心惨憺する。並べ方を変えるたびにそれぞれの模様への光の当たり方が変わり、全体の景色が変わるからだ。ほんとに、どの模様の隣に置くかによって、好きな模様のテクスチャーがぐっと引き立ったりまるでだめだったりするのだ。

 それは、縄文土器の模様の組み合わせを工夫していた何千年も前の人たちの仕事と多分、あんまり違っていない。縄文土器もアランセーターも、空間恐怖症みたいに「素」の面積が少なくて、複数の模様がびっしりと表面をおおっている。世界のテクスチャーを選びとり、配置して、光と影の塩梅を見る。箱庭を作って俯瞰している小さめの神みたいでもある。

 俯瞰できる面積は狭い。一枚のセーターとか一個のかわらけとか。セーターは破れる、土器は割れる。生きているうちに目の前で壊れるものの表面を、ぽこぽこした、ぷつぷつした、ざらざらしたもので埋め尽くしたいという欲求は、何か圧倒的にきりがなくて、個人の力量を超えている。

 なので私は、もう模様配置の開発はやめてしまった。ほぼ理想に近い箱庭が二種類できたので、今はそれを反復して編んでいる。でも、道で、ふるいつきたい模様編みが上手に編まれ、着られているのを見かけると(以下略)

 俯瞰できる面積はほんとに、圧倒的に狭い。自分が今歴史のどこにいるのかが、結局、すっきりと一望できないのと同じように。だから箱庭の中を歩いて、世界の疎と密を手で触って確かめるしかない。そしておりがあれば、自分の箱庭から出て歩いていくしか。

 視覚障害者は、晴眼者が見て気づかない編み間違いに、指で触ってすぐに気づくと聞いたことがあった。

201 焔喩

藤井貞和

わたくしは 「火焔瓶」という
焔をここに書きました

  ここ ここ

白いページにそれだけ書いてやめました
やめるのだな
わたくしは ひとつも完成することなく
こわしては 作り
作っては さらにこわす

わたくしは ふかみどりの焔のために
書きましたか

  書きました

売れましたか  見えない瓶が
ほんとうのことを言うと
行き暮れて
内ポケットにまだ投げられないままだし

にぎりしめる
その焔は
ほんとうのことを言うと
売れのこりです

空のどこかを飛びつづけて
あなたにとどかないふかみどりを
噴きあげていますよ

  ここ ここ

書くのは わたくし  ここに


(書かれるはずのことが終るとは。試掘の穴は埋没する。足場のない工事もまた終る。難解だな、通り越して字が水のように流れる。うつむくばかり。書くまえに消し、涸れるのを待つ。)

しもた屋之噺(234)

杉山洋一

ミラノから特急でフィレンツェまで行き、そこからピサを通って着いた港町、リヴォルノの場末のホテルでこれを書いています。夜半、カモメの啼き声が通りに響きます。息子の付添いで強制的に挟み込まれた3日間の夏休みを愉しんでいます。ほぼ書き上がっていた原稿をクラウドに保存したところ、ホテルのインターネットが不安定だったのか、見事に消失していて、これからすべて書き直すところです。

  —
 
7月某日 ミラノ自宅
サッカー欧州選手権準決勝に勝利して、夜半、外はクラクションの嵐。半時間は軽く続いただろう。元旦のカウントダウンどころの騒ぎではなく、今まで溜まっていた鬱憤を一気に発散しているようだ。非常に煩いのだが、嬉しさが伝わってくるので嫌な気分にはならない。花火も沢山打ちあがっている。これでもし優勝したら一体どうなるのか。
息子はミラノ・シティライフ集団接種会場Palazzo Sintilleにてファイザー1回目接種。
自動的に2回目接種の日程が8月16日と指定されたが、それではこちらが日本に戻れなくなるので、コールセンターに電話をして変更してもらう。息子は接種まで緊張していたが、これで安心したようだ。明日熱が出ないと良いが。
 
7月某日 ミラノ自宅
早朝ナポリ広場まで歩き新聞と朝食の甘食二つを買う。庭の芝生に水を撒きながら、オムレツを作り、昼食に二人前のクスクスを作って半分を弁当箱につめる。息子の分は冷蔵庫で冷やし、それぞれ昼にレモンの搾り汁をたっぷりかけて食べる。
2か月ぶりに溜まっていたレッスン補講がはじまる。うちの学校は17世紀のヴィッラを流用しているため、新消防法に則り屋内を改装することになり、7月から9月までは同じミラノ市立学校の通訳、翻訳専門学校の教室に小さなグランドピアノと縦型ピアノを搬入してレッスンすることになった。
とても短いカルキ―ディオ通りに面した専門学校は、音楽学校と等しく大学相当の組織でストラスブール大学と提携していて、拙宅に近いサンタゴスティ―ノ駅近く、街外れに佇むうちの学校と反対に、ミラノのファッションショーをやる界隈にあって、ピアノのマリアなど雰囲気が最高だと大喜びしている。とにかく学校の建物に惚れ惚れする。1930年代から40年代に建てられた見事なファシスト建築で、天井が高く荘厳だ。
内装にはふんだんに磨き上げられた大理石が使われ、窓枠など昔のままの木枠だが、全て最近塗り直されていて美しい。簡素でありつつ贅沢な味わいを醸し出す典型的なイタリアらしさが光る。
東京に非常事態宣言発令決定。
 
7月某日 ミラノ自宅
朝、カルキ―ディオ通りの学校に出かけると、学校が閉まっている。普段この学校は週末は閉まっているらしく、今日に限って我々のために開くはずだったのを忘れたらしい。エンツォ何某という男性がマジェンタで車のタイヤを交換してすぐに駆け付ける、と連絡が入る。仕方がないので、最初のレッスンは急遽自宅で行う。
見ず知らずの我らがエンツォ氏はなかなかやってこない。彼は絶対アロハシャツに短パンの出で立ちで、濃いサングラスをかけているに違いないと、と笑いながら門の前の日陰でコーヒーを飲みながら待つ。
マリアなど、この状況ですっかり陽気になってしまい、大胆に道端で胡坐をかいて、呑み終わった紙コップを自分の前に置きっぱなしにしていて、誰かが間違ってお金でも恵んでくれそうだったから、あわてて屑箱に片付けた。
歩道に座り込む我々の後ろで、自分のマセラッティを自慢しにきた身なりのよい紳士が、友人と思しき男性に、この間は何某を乗せてヴェローナまで走ってきた、などと話していて、なるほど、ミラノコレクションの界隈だと思う。
15分ほど、そうやって木陰で大笑いをしていると、エンツォ氏は、レゲエを大音量で鳴らしつつ、シャツの胸元を大胆に開け放ち、笑いを振りまきながらやってきた。余りにも我々の想像通りだったので、同僚と改めて顔を見合わせて大笑いした。いやあ、何だか今日は大変だねえ、とエンツォ氏も笑っている。イタリアらしくてよい。本来であれば、この時期はレッスンやら授業をするより、レゲエをかけながら、浜辺のビーチパラソルの下で寝ているべきなのだから。
つい身体に力が入って硬くなりがちなベネデットに、今までと全く違うアプローチを試してみる。掌を擦り合わせ、そっとそれを放す。その裡に目に見えない球体の存在が感じられるかと言うと、わかるらしい。「気」の初歩の初歩のような感じだが、彼に気功について話すつもりはない。ただ、そのふわふわと感じられる感覚を保ちながら振ってみるように話すと、肩から背中にかけて、今まですぐに硬くなりがちだった部分が解れた。強音を出したければ、その見えない球体を強くバウンドさせるつもりでやらせる。
頭がその球体に集中しているから音も耳に入りやすいようで、うまい具合に振れている。今までこの感覚に気付かなかったそうだ。
面白いので、その後来た生徒二人にも同じ練習をやらせてみると、やはりうまい具合に肩から背中の力が抜けて姿勢がよくなる。皆揃ってこんな感覚は初めてで興味深いと言う。
指揮というのは本当に面白いもので、指揮者の身体の状態が、ある程度奏者にそのまま反映される。指揮者が息苦しいと思いながら振れば、息苦しい音がでるし、身体を硬直させながら振れば、奏者も同じように硬直する。以心伝心というのか、無意識の共感から欠伸が伝染するようなものだろうか。だから、指揮者が身体が緩んで気持ちよく呼吸が出来る状態でいれば、オーケストラも同じように気持ちよい音がでる。簡単な理屈だが、実践するのはとても難しい。
 
この翻訳、通訳専門学校はもちろん既に夏休みに入っていて、だから教室を貸してもらえるのだが、補講などで、やはり学校に来る学生も多少はいて、開け放した窓から見える指揮のレッスンに興味津々だ。
自動販売機あたりに屯う若者たちが、指揮はこうだとか、仰々しく意見を言い合っていて微笑ましい。ミルコが「運命」を最後まで通し切ったところでは、外から「格好いい!」と妙齢たちから黄色い大歓声があがった。ミルコははにかみつつもとても嬉しそうだった。最後までミルコは渾身で集中していたから、揶揄っているのではなく素朴に感激したのだろう。彼女たちが入口の階段に座って、見物していたのもミルコは全く気が付いていなかった。
予めエンツォには18時半までレッスンと伝えてあったが、18時頃には開けっ放しのドアの外にやってきて、音楽はいいね、ブラボーなどとお世辞を言いつつ、何度も教室に顔を覗かせるので、出来るだけ早く切り上げるから向こうで待っていてくれというと、機嫌よく戻っていった。イタリアの喜劇映画そのままである。
 
7月某日 ミラノ自宅
サッカー・欧州選手権イタリア優勝決定。最後の一蹴をゴールキーパーがとめた瞬間、街中から、ウォーというどよめきとも歓声ともつかない声が沸き上がり、無数の花火と無数のクラクションが辺りを埋めつくした。今日は朝から街中ずっと浮足立っていた。レプーブリカ紙の表紙は、一面が緑色で「イタリア対イギリス」とだけ大きく書かれていた。午後になると、街のあちこちの喫茶店が歩道に机と椅子を並べ、大画面のテレビを立てて、即席の観戦席を拵えていて、両若男女がビールなど呷りつつ、試合を心待ちにしている光景は微笑ましかった。
息子は21時半過ぎには眠たいと言って寝てしまったが、素晴らしい試合だったから、こちらは一度見始めたら止まらなくなった。皆、イギリスは手強いから勝利は期待できない、と話していたが、今日は、昼間のレッスン中にも、生徒たちから自然にイギリス戦の話題が口をついてでてきた。スポーツが国を一つにするというのは、こういうことかと思う。文字通り国を挙げて沸き立っているのがわかる。本来、日本のオリンピックもこうなる筈だったのだろう。
 
7月某日 ミラノ自宅
今日のレッスンは、自分も含めて皆少し寝不足気味だ。コモに住んでいるアレッサンドロは、昨晩の試合後、暴徒に車のタイヤを切り付けられパンクさせられて、学校に来られなくなった。マッタレルラ大統領が「きみたちがイタリアを一つに結び付けてくれた」とサッカー選手たちを激励したとレプーブリカ紙に書いてある。早速EURO20で観客に感染が拡大しないか、と危惧する記事も掲載されていた。。
 
7月某日 ミラノ自宅
朝4時起床。稲森作品譜読みを続け、朝9時前、半時間ほど寝てから、「ジョルジア」まで歩く。週末なので、息子の希望に応えて、朝食にパスティチーニと呼ばれる小さな洋菓子を買う。暫く外食していないので、このくらいの贅沢を許してやりたい。最近、彼はリキュールに浸したババーを楽しみにしていて、食べるたびに酔っぱらって眠くなっている。
2週間弱、朝から晩までレッスン補講を続けて溜まった疲労は、正直なかなか抜けない。そんな中でも朝、40分ほどナポリ広場まで歩くのは続けていて、その間だけは頭を切り替え、作曲中の作品について思索を巡らせることができた。脳がマルチタスクをこなせないのと同じで、指揮と作曲、大学の仕事を同時には処理できない。
これだけ集中してレッスンをすると、生徒たちの顔つきも目の輝きも変わってくる。司祭を目指すアレッサンドロは、変わることなく我々の心を揺さぶる音楽を紡いでくれたし、映画音楽作曲科の指揮の手解きをしていて、なかなか素敵な「坂本龍一様式による課題」を書いてきたジョヴァンニには、自分の作品だからと言って、無理に身体から音を引き剥がす必要はないと伝えた。もし自分の音楽に感動したかったらそれは構わない、と伝えると、彼は音楽に浸りながらとても感動的に自作を振り、演奏後はその感動で茫然自失したまま、30秒ほど言葉が出なかった。あの経験は、一生彼の身体のなかに残ってゆくと信じている。
 
昼食後は芝刈りで困憊。本日のレプーブリカ紙は、2面、3面、4面の全面が東京オリンピック関連記事のみ。最初の一文「バブル方式に孔が空いた」に始まり、オリンピック開催準備の不備、この状況下で日本に出かける選手たちの精神状態、日本国民のワクチン接種率がイタリアほぼ半分の20%、連日東京の新感染者数は1000人を超え変異株の感染が拡大、など、かなり厳しい口調で糾している。
特に、オリンピックを機に漸く再開されたアリタリア便では、ローマから羽田に飛んだ選手たちが、機内に陽性者が発見されて、濃厚接触者となって行動が制限されている現状や、万が一陽性者が出た時点で出場ができなくなるため、極度の緊張を強いられる毎日だと伝えた。
イタリアは基本的に日本に対して好意的だ。日本を糾弾する記事も、こうした大手新聞で読んだ記憶はない。だから、このように厳しく書かれたのは意外だったし少なからずショックを覚えた。福島の原発事故や津波の際も、日本の悲劇を報道していても、やはりどこか当事者意識は低かったのか、可哀そうという論調が目立った。
今回は、突然落ちこぼれた優等生を目の前にして、「一体、どうしちゃったの」と困惑する声が、記事のまにまに見え隠れしている。
 
7月某日 ミラノ自宅
庭で「キュキュキュキュキュ」と鳥が啼いている。今まで旅行で家をあけることが多かったから、動物は飼えなかったが、毎日庭には黒ツグミの親子やら、もろもろ小鳥やらリスやら沢山やってくるので、寂しくはない。
レプーブリカ紙ミラノ版文化欄に、マリオ・シローニ(Mario Sironi 1885-1961)没後60年を記念して、彼の作品を集めた大規模な展覧会が20世紀美術館で開催とある。シローニというと、未来派のなかでは特に若くて、ボッチョーニらが亡くなっても最後まで活動した画家の印象を持っていたが、ちょうどレスピーギ、マリピエロ、カセルラと同じ、1880年代生まれで、等しくファシズムに傾倒、迎合したとの烙印を押されて、戦後長く顧みられなかったという。
暗い色調と、少し陰鬱な表現、全体的に肥大した構造も、前述の作曲家の作風にも一部共通していて興味深く、どうしても訪れたいと思っている。
自分が偏愛してきたイタリア文化は、「特別な一日」や「自転車どろぼう」のような映画のような、「武骨で暗澹としたイタリア」だった。「イタリアン・リアリズム」を音楽で具現化したからこそ、ドナトーニに興味を覚えたのだろう、と今となって改めて思う。自分にとってミラノが居心地がよいのは、ファシズム建築が数多く残る、少し陰を帯びた街並みだからかもしれない。
 
第二次世界大戦は起きるべくして起きたのかもしれないが、もしあの大戦がなければ、世界はどうなっていただろう。ファシズムの歴史に黒シャツ隊など現れず、せいぜい大規模農業政策の実験を発展させるだけで現在に至り、エチオピアあたり一帯は早晩平和的に解放されて、世界が友好的に現在まで発展を続けていたらどうだったか、と想像する。
未来派たちが唱えた建築など、ファシズムに飲み込まれず、そのまま未来派建築として現在まで輝かしい発展を遂げていたら、さぞ面白いものになっていただろう。
日本の戦前文化がそのまま隆盛を誇り、朝鮮半島や台湾も友好的に解放されて(そんなことが出来るのかわからないが)、太平洋戦争もアジアの侵略戦争もなく原爆もなかったら、日本はどうなっていただろうか。
暫く考えてみても、余りにも非現実的で結局想像がつかなかった。それでも、一つだけ確信を持っているのは、少なくとも現在のような「現代音楽」は生まれなかったであろうし、生まれる必要もなかったということだ。
 
イタリアでは、ワクチン義務化が急ピッチで進められ、大学生はグリーンパスと呼ばれるワクチンパスポートが登校の際必須になるとか、教員の接種は義務化とか、毎日のように新しい「法規」が提案され、各都市のワクチン反対派デモは激化している。
8月6日以降、レストランの食事にも「グリーンパス」携帯が義務化されてしまった。つい先日まで、こんな世界を誰が想像できただろうか。
100年前のスペイン風邪流行後に生まれた、あの「ファシズム」の機運をもしかしたら我々は今身をもって追体験しているのかもしれない。薄い恐怖が我々頭上に果てしない帳をひろげてゆく。
 
7月某日 リヴォルノ・ホテル
ほぼ1年半ぶりに、ミラノ中央駅から列車に乗ったが、それだけでもひどく感動を覚える。昨年の3月、ノヴァラからミラノに早朝の一番列車で戻った際、また列車で旅行できる機会が訪れるとは想像もできなかった。
あれから飛行機には既に何度か乗っていて、初めてフランクフルトを訪れたときは、同じように感動を覚えたが、列車は地上を走る分、実感や現実感が増すのかも知れないとおもう。
特急が何度となく通ったエミリア・ロマーニャやボローニャの駅に停車するたび、昔の記憶が甦ってきて感慨に耽る。乗り換えでフィレンツェ駅に降りたつと、Covid対策なのか、構内はいくつものパーティションで仕切られ動線が制限されていて、以前の広々とした駅の印象は消えていた。
息子と二人で泊りがけで旅行するのも、2年前に彼が同じようにコンテストを受けにリグーリアへ出掛けた時以来だ。あの頃息子は声変わりの途中だったが、今では電話をかけてきた家人ですら勘違いするほど父親そっくりの声色になった。今回、彼は自分の携帯電話に表示されるワクチン接種のグリーンパスを提示しなければコンテストに参加できない。
毎日、二人で外食するのも、本当に何時ぶりだろう。リヴォルノ生まれのモディリアーニの愛称、Modìという食堂がホテル近くにあって、そこで毎食新鮮な海の幸を使ったリヴォルノ料理を堪能した。
店内所狭しと飾られたモディリアーニのレプリカを眺めつつ、この画家に憧れていた父を思う。ゴルドーニ劇場で息子が弾いた革命のエチュードは、我が息子ながら実に立派だったと感心した。東京の新規感染者数4000人を超えた。
(7月31日 リヴォルノにて)


天道虫の赤ちゃんは天道を見ることができなかった(上)

イリナ・グリゴレ

 日曜日に生まれる子が神の子だ。あの子が何曜日に生まれたのか分からないが、会う前に夢で見た子だった。平地で何もないところで、世界が終わる直前に出会った。夢は白黒のサイレントムービーのようだ。ブカレストの中心部を一人で歩いていた私は、建物の壁に長い黒い影を見た。生身の人間というより、気配を感じただけだった。その影と共に歩き始めた。その時まで感じていた悲しみが消えた。愛のようなほかほかした温かみを感じた。ふんわりしたぬいぐるみを触るときの温もりのようだ。影でもいいからともに歩んでいる生き物がいるだけで救いのない世界から救われる。

 当時の私は大学を卒業する前に仕事をし始めた。生活費を稼ぐためだ。とりあえず会社に就職したが、自分探しの時間と少々のお金を稼ぐためだけだった。大学に進学しても生活費を自分で稼がなければいけないのは、私も同年齢の若者と同じだった。大学を卒業しても仕事を見つけられる確率が低いので、大学の専門分野と全く関係ない分野で働く。面接の心理テストでは芸術家の傾向があると言われ、ギリギリの採用だった。山猫をケージに入れてパソコン仕事をさせられるような感覚だった。毎日オフィスにこもっていたので、身体のストレスが厳しかった。仕事はすぐ覚えたし、トラブル解決が早いと評価されたが、このまま企業のために一生働くという意識はなかった。自分というものとやっている仕事の内容には、脳が整理できないぐらいに、大きなズレがあった。資本主義は完全に間違っていると思った。先進国の企業が安い労働力を探し、ルーマニアにたどり着く。ここには私の居場所がない。21世紀初期の矛盾を完全に受け入れることできない状態だった。

 仕事を終えると劇場かシネマテークに足を運んで、たくさんの演劇と映画を見た。自分の日常とのギャップが大きくて、喜びを感じるより恨みを感じることが多かった。上演後、一人で寂しくブカレストの中心部を歩いて、ホームレスの子供を遠くから観察していた。バスの中で歌を歌ってお金を集めた乞食の男の子は私のところにきて「かわいい」と言った。少し嬉しかった。ブカレストという街に馴染めない私にとって、ある類の優しさを見つけた気がする。ある日、バスに乗っていたとき、財布を盗まれて、盗んだ人に返してもらうまでお願いして泣いた。財布は返してもらった。バスの割引に使える学生証以外何もお金がなかったということもあるが、きっと私って本当にかわいそうに見えたのだろう。映画大学の受験で不合格だったモヤモヤが消えなかった。オアシスというイギリスのバンドの曲Don’t look back in angerを聞いて、希望のない毎日を送った。同じ映画大学の受験を失敗した人と偶然にコンサートで会ったとき驚いた。二人とも薬物で歯が黒くなって幽霊みたいになっていた。私は薬物に手を出すことも考えずに、ただ一人で苦しんでいたが、一歩間違えるとこうなるとわかったのだ。

 毎日、行くところもなくひたすら歩くことしかできなかったが、一人狼の私でも誰かに会いたい、誰かと喋りたいと思うときがあった。早くこの街から逃げないと。シネマテークからあまり離れていない古い建物の狭い道を通ったとき、別の空間に入った。ブカレストが小さいパリと呼ばれた時期からそのままの雰囲気の建物だった。窓から窓へ違う色の洗濯物を干している風景で、貧しい人々が住んでいる地区だった。トルコ、アジアとヨーロッパの出会う場はここだと思った。ジプシーの音楽家「ラウタリ」の音楽が一階のバーから流れていて、ウォッカを立ち飲みしている男性と目があった。一瞬だったが、空気が薄くなった。この場所には何回も来た。ただあのバーにいる人たちとすれ違うだけだったが、なぜか私の好きな場所になった。全てを失った人たちの集まりの場所に見えたからかもしれない。

 私も男性だったら一緒に酒を飲んでいただろう。彼らの絶望的な気分を受け継いだ気がする。一度でも人とすれ違うと、その人の細胞と交換する。私も死ぬまで強い酒を飲みたかった。いつも人が嫌いだと思っていた私は本当のところは人が好き。残りの人生を飲んでしまう選択をしたあの人が愛しかった。

 私はそのころから、自分の身体と形は内面と合ってないと気づいた。一瞬、人と目を合わせるとその人になる能力を持っていた。繋がるというのか、共感するというのか、永遠にその人のイメージが私の中に残っていて、自分というものはその人だと感じてしまう。デペッシュ・モードの曲、Only when I lose myselfと同じ、自分を失う時だけ自分を見つけることができるという状況だ。だから、私は薬物はいらなかった。ブカレストの雰囲気を生きることだけで十分に自分を失っていた。

 あの子と夢で出会った。壁に移った影とともに街を歩くあの夢を見た日はいつもと変わらなかった。朝に起きたら、本当に歩いたみたいに疲れていたが、いつものように街の外れにある遠いオフィス街まで、混んでいる地下鉄で通い、同じような服を着ているミドルクラスの若者と、窓のない建物に吸い込まれて、9時から5時までパソコンに向かって仕事をした。希望も夢も優しさもいらない、パソコン一つあればロボットの感覚になれる。

 昼休みに隣に座っていた同僚と散歩に出る。街を外れた場所なので、アスファルトのない道もあったが、大手企業はそこで安く土地を買えたのだろう。私たちをも安く買えたものね。同僚は3歳からピアノをならい、高校まではピアニストになる夢を見ていたが、食べていけないのでここに就職したという。5時になったらすぐ帰る私たちは白い目で見られたが、地下鉄の乗り場に着くとニヤニヤ笑う。5時までしか買われてないからな。いつもと同じ地下鉄から街の中心部で降りて、シネマテークに向かう。

 あの日はいつもの古い映画ではなく、現代日本映画の上映だった。友達と待ち合わせをしていたが、友達が来られなくなったので、私の隣の席が空いていた。日本の映画は人気だった。部屋は人でいっぱいになって、階段に座る人もたくさんいた。映画は始まったが私の隣の席が空いていたから、階段に座っている人に、座りませんかと声をかけた。暗かったしあまりよく見えない状態だったが空気が薄くなった。夜見ていた夢の影のような気配を感じた。階段から立つ瞬間に天井まで届いた気がして、隣に席に座った瞬間に空気は風に変わった。

 映画館から出て、街の空気に触れたとき、後ろから影のような人が私に近づいて、夢と同じように、しばらく共に歩いた。何も喋れないまま、夢の続きの予感がした。落ち着いた声でなにかを言ったあの瞬間に、すでに全てが起きていたと思った。2メートルぐらいの背の高い人で、ヒゲと髪を伸ばして黒い服を着て修道院から出たばかりのような雰囲気だった。話を聞くと私と同じ年だったが、そう思えないぐらい疲れていた。遠くから見ればストリートの子供、乞食しか見えなかったが、話し始めると落ち着いた雰囲気で、私と同じ若者だとわかった。不思議な丸っこい、悲しい恋の始まりだった。このブカレストの街でも恋ができるなんて思えなかった私が不思議な優しさに囲まれた。

 彼はブカレスト大学の建築科の大学生だった。私と同じ、複雑な家庭環境の中で大きくなったが、両親の離婚のその跡が深く彼の心を傷つけていた。父親は結婚後、大学に入り直して建築家になったあと、奥さんと二人の子供を残して独立し、再婚していた。建築大学に通っていたとき中学生の息子の彼を一緒に授業に連れていった。彼の才能は周りの学生と先生に気づかれて天才少年と呼ばれていた。父親といっしょに若いころから授業を受けていたせいなのか、大学生になった彼は全く学校に興味がなかった。建築関係の知識は父親を超えるレベルに至っていたが、私が会ったときの彼の心はひどく苦しんでいた。彼の静けさに驚いた。笑うところを見たことがなかった。父親の会社で建築の仕事をして、大学にほとんど行っていなかったが、天才的な才能があったので、試験は全てクリアしていた。

 二人が出会ったとき、もう彼は少しずつ壊れ始めていた。私たちは捨てられた子猫のように、寒さの中でお互いの傷を触れないように、短時間だけ身体をお互いの体温で温めるような感覚だった。二人とも愛に救いを認めない世界に生まれていたが、お互いの優しさにまだ敏感だった。ブカレストという街は私たちから全てを奪うカーニバルのような街だった。何度も分かれたり、また一緒になったりして、苦しかった。彼は薬物とアルコールに手を出していた。いろんな苦しみに耐えるためだろうが、私にはそれは理解できなかった。優しく触れる事しかできなかった。

 私の腫瘍が見つかったのは彼と出会って約数ヶ月後だった。突然、多量の出血を繰り返した。あのときの写真を見ると血が抜けていて、痩せていて、青白い顔をしている。死を覚悟した。この状態でも愛を感じること許されないだろう。闇の中で彼の痩せている手を触るだけで人間という状態に戻れた日々もあった。しかし、私が手術を受けた時に彼はそばに居なかった。手術後に病院に来た彼の目を見て、初めて愛とはある種の共感だとわかった。不思議な事に次は彼の脳腫瘍が見つかった。こうして二人はもっと深いところでつながっていた。彼の母親は私のせいだと言った。私から腫瘍が彼に移ったと酷く差別された。それがほんとうなら、私はそこまで彼に愛されたことになる。身体の細胞が交換されるぐらいの愛があるのか。でも違う。酷く痛んでいる二人の身体は、私たちはチェルノブイリの子供だったからだ。

仙台ネイティブのつぶやき(64)ホヤは夏の味

西大立目祥子

気温が30度近くになると、無性に食べたくなるものがある。「ホヤ」だ。
ジューシーで、ほんのり苦味があり、甘味と旨味も乗り、ぷりぷりした独特の食感。口に放り込むと、一瞬暑さが遠のいて涼しい風が吹いてくるようだ。口の中にこの味が残っているうちに、水を飲むと不思議。甘いのだ。

もちろん、丸ごと買ってきてじぶんでさばく。固いごわごわした殻を裂くと中からマンゴーみたいな鮮やかなオレンジ色の身があらわれて、ああ、夏の色だと思う。とはいっても、東北の太平洋側に暮らしているならともかく、丸ごとのホヤにはあまりお目にかかれないものなのかもしれない。以前、東京の人たちを数人、三陸の気仙沼に案内したとき、「さばいたのを食べたことはことがあるけど、丸のままというのは見たことがなかった」と聞かされた。鮮度が落ちるのは早いから、水揚げされたあと、さばいてすぐ冷凍したものが首都圏に運ばれているのかもしれない。

「海のパイナップル」といわれたりするあの形状を、見たことのない人に説明するにはどう表現したらいいのだろう。手のひらに乗るくらいの大きさで、たしかにパイナップルのような形で、表面はぼこぼこしていて、色は赤味の強いオレンジ色。まぁ、かなりグロテスク。
この得体の知れない見た目もあってか、ホヤくらい好き嫌いいがはっきりと分かれるものはない。「暑くなると、ホヤが食べたくなる」といったときの反応。好きな人なら間髪入れずに「私も!」と返ってきて、そのあとは目を輝かせてのホヤ談義。一方、嫌いな人は「ホヤはダメ〜」と顔をしかめたり、首を横に振ったり、身体表現で拒絶してくる。
先だって、しばらく疎遠になっていた高校時代の友人と久しぶりにゆっくりと話をする機会があって、ホヤの話で盛り上がり、空白の時間が埋まるような気がした。好き嫌いが鮮明なだけに、好きというだけで関係は縮まるというわけだ。

海辺に育ったからとか、子どもの頃から食べていたからとか。ホヤ好きに、育った環境が関与していると必ずしも言い切ることはできない。というのも、私にとって、ホヤは30代に三陸は気仙沼唐桑のまちづくりにかかわるようになって、地元の人に教えられた味だからだ。5年間手伝いに通った浜のお祭りでは、決まってどんぶり一杯のホヤがドンとテーブルに並んだ。「ほら、ホヤだ。夏はホヤなのっさ。ホヤ食べてすぐにビール飲むと、ビールがうまいんだよなぁ」とみんながいった。そして、私がホヤを口に入れ、ビールを飲んで「うまい!」というのを待ち構えているのだった。

そうか。振り返れば、子どもの頃、魚屋の店先で私の目を釘付けにしたのはホヤだったのだ、と思いあたった。子どもの目に、明らかに魚屋に似つかわしくないものとして写ったのが、バットにいっぱい盛られたホヤ。そして、四角い鯨肉のブロック。その形状からどう見ても、それが魚の仲間とは思えなかったわけである。ホヤは三陸の浜から、そして鯨は宮城の捕鯨基地、鮎川から水揚げされたものだったのだろう。鯨の方は給食に出てくる固い鯨の竜田揚げで味は知っていたものの、直方体の塊とは結びつけられなかった。そして、母が決して買うことのない丸っこいヘンな格好のものを、ときどき魚屋のおばさんと嬉々として話しながら買っていく人がいることも奇異に思えた。めぐりめぐって私の前に現れたホヤよ。

浜の人といっしょに台所に立ったわけではないのだけれど、いつしかみようみまねで、さばき方も覚え、どれがうまいか見立てもできるようになった。丸々として黄色っぽく透明感があるのがよい。鮮度が落ちるとしぼんで赤黒くなっていく。これは、気仙沼で1年間高校教員をしていた友人の、近所の人からおすそわけしてもらった透明なホヤを「腐っている」と思い込んで捨てたという失敗談に教えられた。
そして、さばき方。まずは頭に突き出た2つの角を観察する。なんとおもしろいことに角のてっぺんには「+」と「−」と刻みが入っているのだ。「+」は口で、「−」は排泄口。まずは「+」側を切り落として中の水を器に取る。次に「−」側を落とし、さらに根の部分を切り落とす。あとは殻と身を裂き、殻から本体を引き剥がしたあと、身を開いて親指の先ほどの黒い部分(肝臓)と、黒い筋のように見えるフンを洗い落として、食べやすい大きさに切っておしまい。でもここまでの間に、がまんがしきれず、半分くらいは食べてしまう。落とした根の部分にわずかに残る身をほじくって食べるのも、ホヤ好きの楽しみ。この話をすると、「あ、それ私もやってる、おいしいんだよねえ」と話す友人は少なくない。

というわけで、私のホヤは、料理とはいえない段階にとどまっている。さばいて、口に放りり込むだけだもの。それが先日、長年料理教室を開いてきた80代のH先生のお宅でごちそうになったホヤの一品には感服してしまった。金の縁どりの四角いガラスの鉢の底に盛られたオレンジ色のホヤ、その向こうには千切りの繊細なミョウガとキュウリが添えられ、ほんのりとした甘酢がかけられている。ああ、美しい。上等な衣装を身にまとったかのようなホヤよ。ひと夏に一度か二度は、こんなふうなよそ行きの姿で味わってあげないと、かわいそうだね。

私が三陸地方にかかわるようになった30年前は、まだ浜に天然のホヤを採る名人がいた。唐桑には、5メートルも6メートルもあるような竹竿の先に鈎をつけ、箱メガネで海底を見ながら見事な手さばきで岩場のホヤを釣り上げる三上さんというおじいさんがいた。
もういまでは名人もいなくなり、ほとんどが養殖で育つ。ホヤは、出荷されるまでに3年から4年を要する。筏に吊り下げられたロープに牡蠣殻などをつけ、そこに付着したホヤを水深、水温、海流に注意を払いながら育て上げる。台風、高潮、津波…そのたびの被害と復旧の苦労は、浜の友人たちからずいぶん聞かされてきた。東日本大震災の被害は復旧したかに見えていまも続いている。福島原発の事故が起こったために、韓国への輸出がストップしたままなのだ。韓国ではホヤはキムチの材料として重宝され、震災前は実に生産量の8割が輸出されていたという。宮城は国内最大の生産量というから打撃は大きい。浜にホヤがだぶつき、値が下がり、それは生産者の暮らしに跳ね返る。2016年から2018年までの3年間は、生産が過剰となり、水揚げされたホヤは焼却して大量に捨てられた。ホヤ好きを増やして、生産者を支えようと、宮城や岩手ではファンクラブをつくったり、首都圏に売り込んだり、いろいろな試みが行われている。
生産地のそばに暮らすということは、鮮度のいいおいしいものを味わえる一方で、こうした身近なつくり手の現実を知ることでもある。食べ物が捨てられるという現実はあまりにもつらい。食べることは支えることにつながる。この夏も暑い。食べよう。ホヤご飯もおいしいよ。

夏のきれはし

璃葉

気がついたら、夏になっていた。
陽射しは刺さるように強いし、蝉は全力で鳴いていて、夜になってもその勢いが消えることはない。

晴れの日がしばらく続いた後、突然に天気が崩れたときがあった。
その日は雨がざばっと降り、雷も鳴った。その次の日だったか。蝉の声はさらに増えた。一斉に羽化でもしたのだろうか。

茹だってしまいそうな昼の暑さは、夜になると少しだけマシになる。
家までの道をたらたらと歩くなか、通り抜けていく湿った風が生暖かくも気持ちいい。
きっと風自体は涼しいはずなのだろうが、日中、街中に存分に籠った熱気が一緒になって流れているのだろう。
風がなければその熱が漂うのみだから、苦しいのだろうな。

夏の夜の木々は湿ったような紺、黒、ふかみどり。
電灯の光が照らすその周辺の葉は蛍光緑に近い。
もし夏のイメージを聞かれたら、湿ったいろんな緑色の集まり、と答えるぐらい、わたしの中にはしっかりこの色彩が
染み付いている。
蛍光緑の葉の隙間から、ぽこりと少しいびつな月が見えた。ああ、昨夜は満月だったか。ちょっとだけ欠けている。

家に戻りブラインドを上げると、窓硝子の向こう、桜の木々の上に月はいた。
その光は眩しく、周りの薄雲も照らしている。

ラジオをかけて、ちょっと煙たいウイスキーのソーダ割りを飲んだ。
風があってもやはり蒸し暑いので、晩御飯を作る気にもならない。
友人にもらった惣菜パンをかじり、ハイボールで流し込んだ。
いつも静かな隣の部屋から、珍しく音楽が聴こえた。
ラジオ、壁の向こうからの籠ったドラムの音、極めつけに蝉。
賑やかな音や声と桜の緑、蒸し暑さがもわもわと立ち昇って、月をも包み込んでしまいそうだった。

アジアのごはん(108)加茂ナスマイラブ

森下ヒバリ

ねっとりと暑い日々が続いている。エアコンがあまり好きなほうではないのだが、午後になるとどうしても耐え難くなって、エアコンのスイッチを入れる日々。買い物に行くだけで、息が切れ、命の危険すら感じる。こんな時にスポーツ大会なんて、狂気の沙汰。

それでも、あの嵐電の踏切を越えて八百屋をのぞかなければ。くーっ、どうして電車が来ちゃうかなあ、じりじりと日が照り付ける。ふう、やっと行ったぞ。京野菜を中心においている小さな八百屋の前に立つ。水ナス、うんいいね、これは漬物だな。乱切りにして塩をふり軽くもんであとは冷やすだけでいい。あとは、九条ネギと・・万願寺トウガラシはちょっと飽きてきたから、今日は伏見トウガラシにしよう。焼いてカツオブシをかけ、醤油を回しかけ、細長いのを先から口に入れ、ガシガシと噛みながらヘタの所まで。まったくお上品ではない食べ方だが、同じ辛くないトウガラシでも似てるようで万願寺とは違うその食感がいい。

あれ、いないですよ・・丸いソフトボールみたいな加茂ナス君・・。すでに頭の中は、そのずっしりと重い丸い体を水平に切って、スキレットの上に乗せ、美味しい油で揚げ焼きにする情景でいっぱいだというのに。

はあ。仕方がない。本当は無農薬の加茂ナスを「よつば共同購入会」で注文したつもりが、一つ上の段の番号をあやまって記入してしまったらしく、今日届いた野菜は丸々とした加茂なす2個ではなく、わさわさと生い茂るトウガラシの葉の束が2つであったのだ。(どうする2束も・・)加茂ナスの田楽を食べる気まんまんだったのに。間違えたのが自分であるので、怒るわけにもいかず、近所の八百屋に走ったのである。

「今日は加茂ナスないの? まさかもうシーズン終了とか?」会計をしながら店主に話しかけると、「え? 出てませんでした?」横の倉庫スペースに走っていく。「出すの忘れてました~!」ごろごろと加茂ナスが揺れながら運ばれてきた。やったね!4つぐらい買い占めたいところだが、悪くなってもあれなので、2個にしておく。1個250円。去年は確か450円するときもあったぐらいだったが、今年は安い。豊作なのかな。

加茂ナスは京野菜の一つで、ようは丸ナスの一種なのだが、実がみっしりとしていて独特の風味があり、油との相性がとてもいい。実がつんでいて油を吸い過ぎないので、実にうまく油と絡んでしっとり、とろりと焼きあがる。

この加茂ナス、7月にならないと八百屋に顔を出さない。そしてその旬は短く、8月いっぱいまであれば御の字だ。大好きなのだが、ここ十数年の間ワタクシは7月後半から9月半ばはタイやミャンマーへの旅で日本にいなかった。加茂ナスの旬の時期にすっぽりと居なかったわけで、7月後半に旅立つまで数回食べられればラッキー、という不本意な加茂ナス事情だったわけである。

それが新型コロナ禍で、去年の3月末にタイから帰国して以来、十数年ぶりにず~っと京都で過ごしているものだから、去年の7~8月は「自分はこんなに加茂ナスが好きだったのか」とあきれるぐらい、加茂ナスばかり食べていたのである。

そして、今年の夏もまだ外国への旅はできない。それどころか国内旅行もはばかられる。さらにオリンピックでデルタ株の大爆発・・。やってきた加茂ナスのシーズンを楽しむしかない。

さて、ではまず加茂ナスに乗せる味噌を作りましょう。加茂ナスの食べ方だが、誰が何と言おうと味噌田楽です。よ~し、今日は白みそを使おう。小さなすり鉢で炒りゴマを摺って、そこに冷蔵庫にしまっておいた青山椒の実の塩漬けを15粒ほど。ゴリゴリと潰しつつ混ぜる。白みそを加え、みりんを少々、とっておきのニュージーランドハニーを入れて混ぜる。まったりした山椒味噌の出来上がり。ペロッと味見すると、このまま食べてもおいしいいい。山椒は粒のまま入れると、嚙んだ時に山椒の刺激が出過ぎるので、ここは適当にすりつぶして隠し味にするのがいい。実がない時は、葉っぱでもいけるかな。塩漬けでなくともみりんに漬けておいた山椒の実でも。

油は香りの薄いごま油、ココナツオイル、オリーブオイル、何でもいいが、おいしくて好きな油を使って焼きましょう。油は5ミリ~1センチ弱ぐらいでたっぷりとね。加茂ナスは、大きさによって2つから4つぐらいに水平に切る。焼きやすいようにそれをさらに半分に切っても。

じゅわじゅわと両面焼いて、出来上がり。山椒味噌をたっぷりのっけていただきます。

あ、熱っ! 分かっているけどハフハフしながら口に入れてしまいます。山椒の風味がすっと通り過ぎて、加茂ナスのうまみを引き立てて、消えた。

ちなみにこの加茂ナスの味噌に山椒を入れるのは、たまに行くおいしい料理屋さんの加茂ナス田楽の味からアレンジしてみた。店で食べたとき、「あ~、なんだこのおいしいのは・・」とうっとりしたのを覚えている。山椒は、入れ過ぎてもだめで、少なすぎても分からないので、加減してみて。

はあ、加茂ナス田楽おいしかったあ、と満足感に浸っていたら、ラジオのニュースで今日は京都も過去最高199人の陽性者、東京は4058人と。オリンピック、やってる場合ですか?

万華鏡物語(13)なし崩しオリンピック

長谷部千彩

 K君に会ったのは、連休前日のことだ。オリンピック騒ぎに嫌気がさして、明日から旅に出るという。数日前、打ち合わせで顔を合わせたIさんも言っていた。負のエネルギーが渦巻いている今の東京の雰囲気が嫌だから、九連休を取って沖縄へ行きます、と。
 オリンピック開催地が決まった八年前からずっと、開催期間は東京から離れる、と言い続けていたのに、日に日に増大していくコロナウィルス感染者数をぼんやりと眺めるばかりで、具体的な脱出案を考えずにいた私は、開会式の日を東京で迎えることになってしまった。

 K君と別れた後、書店へと足を運び、分厚い本を一冊買った。『パリ左岸:1940-50年』――いつも面白そうな本を読んでいるK君のお勧めなら、間違いないだろうと思った。
 私が知らずにいただけで、この連休、東京を離れる知人は、決して少なくはないのだろう。取り残されたような気分になり、急に寂しくなった。改めて考えると、私はその四日間、何も予定を入れていないのだ。
 片手にずしりと重いその本を開くと、最初のページには、ボーヴォワールが居室として使ったホテルの部屋の写真が載っていた。この本で週末の狂騒をやり過ごそう――そう思った。

 朝、起きると、窓の外には真っ青な空が広がっていた。今日も酷暑となりそうだ。洗濯機を回し、部屋に掃除機をかける。録画しておいた園芸番組を観ながら、ベッドのシーツを取り替える。
 インターフォンが鳴る。壁にかかった受話器を取り、配達員に伝える。荷物はそこに置いていってください、ご苦労様でした。届いたのは、花の植え替えに使う土。作業を始める前に日焼け止めクリームを塗らないと。そんなことを考えながら、アイス・カフェオレを作って飲んだ。
 ふと目にしたスマートフォンのディスプレイに、妹からのメッセージが表示されている。
「午後、プールの後にそっちに行くそうです」
 そうか、今日だったのか。夏休みに行われる水泳教室は私の部屋から通いたいと、小学生の姪が言っていたのを思い出した。返事をした記憶はないけれど、姪にとっては確定事項だったらしい。
 
 今日二度目のインターフォンが鳴ったのは、私がその本を十数ページ、読み進めた頃。玄関の扉を開けると、真っ黒に日焼けした姪が立っていた。勝手知ったる伯母の部屋。自宅に帰ったかのような顔で靴を脱ぎ、洗面所へと手を洗いに行く。
 私が後ろから声をかける。
「明日プールに行った後、またここに戻ってくるの?」
「うん、日曜日まで」
 さらりと返されたけど、私に予定が入っているかもしれない、とは考えないのかしら。まあ、予定がないからいいけどね。
 姪は、慣れた手つきで脱いだ制服をハンガーにかける。ブラウスとソックスを洗濯機の中に入れる。寝室の隅に置いてある彼女の荷物をまとめた箱から、Tシャツとレギンスを取り出して着替える。それから、くるりとこちらに顔を向け、眼を輝かせて私に尋ねた。
「かき氷、やっていい?」

 氷かきを購入したのは、去年のことだ。本体はオレンジ色の熊の形。頭の上についたハンドルを回して氷を削ると、黒い瞳がキョロキョロと左右に動く。
 それは、姪のためではなく、私自身のためのもの。運動が不足しがちなコロナ禍の暮らしの中で、せめて夏のデザートをカロリーの高いアイスクリームから、カロリーの低いかき氷に変えようと考えたのだ。
 ガリガリという音とともに、カップの中に白い雪のような氷が積もっていく。
「オリンピック、始まるね」と私がつぶやく。
「いつ?」
「土曜日が開会式かな。テレビで観られるけど・・・・・・観る?」
 ふたつのカップに雪山がひとつずつ。てっぺんからカルピスをかけると、かけたところだけ雪山は沈む。匙で掬い、口に含むとキーンと冷たく、そして甘い。
「観てみたい!私、オリンピック、観たことないから!」
 
 この数年、オリンピックといえば、ドロドロとした不愉快なニュースばかりが流れてきた。正直なところ、ほとほとうんざりしている。そもそも私は国を挙げてのオリンピック開催には反対だ。私は私の理屈を以て、招致されなければいいと願っていたし、いまだって中止になって当然だと思っている。スポーツ観戦に興味がないということもあって、開会式も一度もまともに観たことがない。今年も録画だけして、必要に迫られた時に必要な部分だけ観ればいいと思っていた。
 早々に食べ終えた姪は、二杯目の氷を削り始めている。
「じゃあ、土曜日、一緒にテレビで観ようか」
「うん!」
 大幅な予定変更になってしまったなあ。いや、私には予定自体、なかったのだけれども。
 退屈するはずの連休は、小学生との賑やかな時間に塗りつぶされることになるのだろう。
 すべてがなし崩しに進んでいく。まるで今年のオリンピックみたいに。
 私は長椅子の上に置かれた本に目をやった。ボーヴォワールよ、サルトルよ。それを開くのは、もう少し先になりそうだ。

新・エリック・サティ作品集ができるまで(5)

服部玲治

録音は2017年6月20日から3日間、東京・五反田文化センターで行われた。悠治さん推薦のホール、アクセスの利便性とリーズナブルなホール代、響きの良さから、いまやクラシックのレコーディングで引っ張りだことなっているが、まだこの頃は比較的おさえやすい状況だった。
準備は、万事メールでやりとりしながら進行していった。新たにピアノソロ用に編曲していただいた「3つの歌曲」の譜面も、録音4日前にメールで送られてきた。よもや準備は万全と確信していると、前日になり、あることに気づく。
食事のこと、全く考えていなかったではないか。
レコーディングのコーディネート業務の中でも、1、2を争う最重要事項、それは合間の食事の選択である。これまで数回、しかも喫茶店でしかお会いしたことがない悠治さん、はたして、どんなものならば口に運んでくれるのだろうか。
いまだ仙人のイメージを有していたものだから、無添加やオーガニックの食材でないと受け入れられない、はたまた、肉は召し上がらない、など勝手な想像を膨らまし、思い切ってご本人にメールで照会するも返事はなく、しまいには悠治さんと酒縁のある新聞記者の方に悠治さんの食の嗜好をおたずねすると、「うーん、嫌いなものとかあったかなあ。なんでも召し上がっていたと思うけど」と確信の持てぬ返事。
 
思い悩んだ末、気張って当日用意したのは、小鯛の笹寿司の折詰だった。これならば、壮大な空振りとなる確率もいくらか低いに違いない。そう思っていた。
 
録音初日、まずはマイクのセッティングに午前中を費やす。今回、わたしたちチームが至上命題としたのは、DENONレーベルの特色のひとつであるワンポイント録音を実施すること。悠治さんが70~80年代にDENONに残したサティの旧盤は、スタジオ録音だったが、今回はホールでのレコーディング。そのホールの響きの特性を生かし、よりナチュラルな音として仕上げるために、マイクを多く立てるのではなく、メイン・マイクロフォン2本のみを立てて収音するワンポイントにトライしたい。とはいえ実際のホールの鳴り方、楽器の鳴り方など複雑な掛け算で、理想のマイク位置が編み出せるかはやってみないとわからない。日本を代表するレコーディング・エンジニアのひとりである塩澤が試行錯誤を繰り返し、ここぞ、というポイントが時間内で設定できたのは、実に幸運なことだった。
 
セッティングの最中、悠治さんは悠然と、ホールの楽屋に登場。スタッフ間に凛とした緊張が走る中、試奏もそこそこに、昼食をはさんで、レコーディングがスタートすることになった。ロビーに長机をしつらえ、悠治さん用の鮨の折詰、そしてその横には、わたしたちスタッフ用に、ホールの近所にあったカレー屋さんの濃厚欧風カレーを積み上げて、いざ昼食と号令をかけた。
今日はお寿司を用意しました、と伝える間もなく、先に弁当の山の前にたたずんでいた悠治さん、「カレーですか」とつぶやきながら、こちらの意に反し、横の武骨な容器を手に取った。いくつかのトッピング・バリエーションの中でも最もカロリー高そうな、漆黒の牛すじカレーだった。
同じカレーをスタッフともども輪になって食べた。仙人に捧げる端正な寿司の折詰は、結果、皆で分け合った。いつのまにか会話が弾み、緊張や臆見はいつのまにか、霧消していった。

アレッポの小さなアスリート

さとうまき

アレッポの少年2人がひょんなことから、転がり込んできて、大学生たちがお金を集めてくれて毎月送金している。小児がんの治療費だ。そろそろお金が尽きるので、またクラウドファンディングをやる。お礼状に使う絵をアレッポの2人の少年に描いてもらって写メして送ってもらったが、サラーフ君が自転車に乗っている絵がなかなかかわいい。これをそのまま使いたいなあと思うのだけど、いつも解像度が悪いので苦労する。結構いじりまくって、できた絵を送ってあげると喜んでくれた。

自転車が欲しくてたまらないらしい。いつも事あるたびに自転車が欲しいって言っている。結構スポーツが好きみたいで、オリンピックのロードレースの写真を送って、「こんな風になりたいの?」って聞いてみたら、自転車に乗っている選手を僕だと思ったらしいとお母さんがメッセージ。お母さんはアラビア語でメッセージを送ってくるので、googleで翻訳して何とか対話しているからすごい時代だ。

いつも、お金を送ってくれるおじさんは、そんな風にかっこよく思われているのかなあと苦笑いする。水泳も好きだと言っていたので、オリンピックを見ているのかどうか今度聞いてみよう。でもお母さん曰く、彼のがんが背骨のところを侵していて、自転車には乗れないらしい。だから彼が自転車が欲しいというのは、病気を乗り越えて自転車に乗りたいということなのであって、ただおねだりしているのとは違うんだ!

シリアは経済制裁が続き、物価は20倍くらいに跳ね上がっている。内戦で難民になった人達はいまだに500万人。彼らがシリアに戻れないのは、治安の問題よりむしろ経済的な理由だ。シリアポンドもこの10年で20分の1くらいになってしまって、こういった難民が国内に送金するわずかなドルでも、残されたシリア人にはとってもありがたいというわけだ。しかし、ここ一週間でシリアの治安も悪くなってきている。オリンピック停戦とかは本当に口だけ。

 シリアは、6名の選手を送り出し、9名のシリア難民が難民選手団として参加している。こういう取り組みが、紛争解決につながるのかもどうか疑問だけど、彼らが活躍することで、シリアの子どもたちには勇気を与えるだろうなあ。

いろいろ言われているオリンピックだが、まさに、ダークな世界を露出して、この気持ち悪さの上でアスリートが純粋に戦っている姿がなんとも刺激的だったりする。世界はどこに向かうのだろう。

マグロの夢

三橋圭介

amazonやオークションで買い物をすることがけっこうある。
amazonはほとんど中古で買うことはないが、オークションは新品もあるが、基本は中古商品がメインだろう。
自分のオークションのやり方は決まっていて、買う金額を決めて入札し、最後まで見ない。
おおかた買えないだろうなと思っているし、買えないことが大半である。
そんなことなので、さほど必要がなくてもポチッとしてしまうこともある。
まあ、買えたらこんな値段で買えたのか、となるだが、そんなことがつい最近あった。
ローヴァーの折り畳み自転車(ギヤなし)を購入し、楽しく乗っていることは前に書いた。
いまもだいたい同じような道をくねくねとまがってさまよっている。
現時点では家を中心に4駅くらいの円を描きながらマグロの回遊をしている。
しかしこのマグロはこの周回から飛び出したいとも思っている。
だいたい一時間くらい乗っているわけだが、二時間くらい乗ってもいいかなと。
これには多少の冒険が必要になる。
「登り坂と下り坂は同じ道である」と賢人ヘラクレイトスは言ったが、この相対主義は私にはなかなかにして実践困難である。
なにせ登り坂から見える風景と下り坂から見える風景はまったく違って見えるのだから。
それはもはや同じようでまったく違う。
来た道はすでにはじめて見る道である。
一般化するなら方向音痴ということなのだろう。
いつもお店に入り、出る時は必ず左に曲がることが度々指摘されてきた。
それゆえ考えて右に行く(だめじゃん)。
こんな繰り返しで、いきてきた。
本題に入るなら、「海流を越えるマグロになるにはせめて6段ギヤのある自転車がいい」と感じていたわけだ。
そこですこし高級な自転車(ほぼ未使用)をポチッとしてみたのである。
もちろんマグロの意識ははかない夢を追うがごとく、ぼんやりとほぼ無意識にである。
しかし金額はきちんと安めに設定してあったようだ。
そこから最後まで入札に参加することは決してない。
せりは行わないのだ。
そして数日後メールが届く。
「あなたが落札しました」と。
嬉し悲しやとはこのことか。
まあ、距離は伸びることはマグロの夢でもある。
俺は夢を買ったんだな、と納得させるのである。

追伸:私は漫画というものをほとんど読んでこなかった。
ただ小学生のとき(滋賀県時代)、「サイクル野郎」という漫画に夢を感じたことを覚えている。
小学生二人が自転車で日本一周するはなしだった(そんなことが可能なのか?)。
ここから自転車に興味をもち、自分の新しい自転車にいろんなオプションをつけたりしていつのまにか自転車小僧になっていた。
先日ローヴァーがパンクして自転車店にいったが、当時は自分でなおしていた。
しかしである。
あるとき川沿いの道幅の狭い道路で大きなトラックとすれ違ったとき、私はところてんのごとく押し出された。
そして自転車もろとも7メートルくらいしたの川に落ちていった。
このとき最初の夢はゆるやかな川にさやさやと流されたのだ。

『アフリカ』を続けて(2)

下窪俊哉

「どうして『アフリカ』なんですか?」という質問には、慣れている。口ごもって、「あのアフリカとはあまり関係がないんですが…」と返すのも、いまではすっかりお家芸のようになった。
 というのも、自分のつくっているその雑誌が、どうして『アフリカ』という名前なのか、自分でもよくわかっていないのだ。

 当初は、ある漢字二文字の名前にする予定だった。その新しい雑誌をつくる計画を友人に話したら、「絶対に『アフリカ』の方がいい!」と強く言われたのだった。
 彼はその頃、『初日』という手づくりの雑誌をやっていて、私もそこに少しだけ書かせてもらっていたのだが、「執筆者紹介も自分で書いてほしい」と言われたので、冗談で「嘘が入っていてもいいですか?」と聞いたら、「OK」とのこと。それでは、と、ありもしない作品名と雑誌名が入った短い(自己)紹介文を書いた。その中に、なぜか『アフリカ』があった。彼はそれを覚えていて、「『アフリカ』がいいですよ!」と言ったのだ。
 それを聞いて、私は少し迷いつつ、どうしてアフリカなのかよくわからないけど、続けるつもりのない雑誌だし、まあいいか、と思った。
 いま思えば、それが運命の分かれ道だったような気もする。
 最初の号を出した後、知り合いの文学者から「この雑誌が、どうして『アフリカ』なんだ?」と怒ったように言われたことがあった。ふざけていると思われたのかもしれない。たしかに、ふざけていた。いや、大真面目だったよ、という気もする。よくわからない。
 新しい雑誌をつくった、と言っても、売っている場所はないし(推価=推定価格のついた雑誌で売る気もない)、その時はまだインターネットでの情報発信も全くやっておらず、知り合いに配るくらいしか読んでもらう手段はなかった。しかし意外なところで反応があった。私が当時、通っていた近所の立ち飲み屋で、親しくなったマスターに渡したら読んでくれて、「おもしろいね」という話になり、常連さんが買って読んでくれたりもした。中には、誌代のかわりに生ビールをおごってくれる方もいて、生ビールはたしか360円だった(当時の『アフリカ』は推価300円)。
 その店があったのは京都市の西院というところで、近くに京都外国語大学がある。買ってくれた方の中には、外大の先生もいたような気がする。でも、そこで会う常連さんたちのひとりひとりがどういう人なのかということは、ほとんど知らず、そこだけの関係だった。私は一番若い方なのになぜか「先輩」と呼ばれていて、「社長」さんはたくさんいるのに、「先輩」はたぶん自分だけだった。そんな中で、『アフリカ』はまず、少しだけ読まれた。
 そこで、「どうして『アフリカ』なんですか?」と聞かれたかどうかは、覚えていない。きっと聞かれたのだろう。でも、何と言えばいいか、その雑誌はその時すでに『アフリカ』になっていた。
 考えてみれば、その雑誌の名前が『アフリカ』であることにはたいした意味がないし、そうやって生まれた『アフリカ』というメディアには、大仰な意義のようなものがない。しかし、その『アフリカ』という名前の雑誌に惹かれて来て、読んだり、書いたりする人は相変わらずいるのである。

 アフリカといえば、アフリカの各地の音楽にはすごく興味があったが、文芸作品となるとほとんど知らなかった。思い出すのは当時、天神橋筋の古本屋で見つけて買った岩波新書の『現代アフリカの文学』だ。南アフリカの作家ナディン・ゴーディマが書いた『The Black Interpreters』という本の、土屋哲さんによる翻訳で、英語によって書かれたアフリカの(1970年代前半の時点での)現代文学と、「南アフリカの新しい黒人の詩」について書かれていた。
 その冒頭、「アフリカ文学とは何か?」と書き出される。一方で、当時それを読む私の中には「日本文学とは何か?」という問いが浮かんでいた。それまでの自分には、日本語で書かれた文学が「日本文学」だ、と思っているところがあった。しかし、「アフリカ文学とは何か?」という問いに、「アフリカ語で書かれたものだ」と簡単には答えられない。植民地時代にアフリカに入ってきた言語(英語、フランス語など)で書かれた文学がたくさんあり、しかもアフリカと言っても広い、文字のある・なしに限らず言語も無数にあるだろう、「アフリカ文学」と言っている時点で世界を見ている(あるいは、見ざるを得ない)のではないかと思った。ゴーディマは、こう書いている。

 こういった疑問に対する一つの解答としてまず私自身の定義を示しておきたい。私の考えでは、「アフリカの作品とは、アフリカ人自身が書いた作品と、それに精神面・心理面でアフリカ人と共通する経験を、他でもないアフリカで体得した人が書いた作品を言う。しかもその場合、皮ふの色とか言語による制約は一切受けない。」それにもう一点、アフリカの作家であるためには、世界からアフリカを見るのではなく、アフリカから世界を見ることが必要条件となる。したがって、〈アフリカが中心である〉という意識さえあれば、アフリカの作家は何を書いてもよいし、かりにほかの国のことを書いても彼の作品は、れっきとしたアフリカの文学作品といってよい。

 書いているあなたは、どこにいるか、どこに立っているか、と問われているような気がした。

『アフリカ』の2冊目をつくろう、ということになった時、雑誌名を『カナリア』に変えようというアイデアがあった。しりとりにしよう、というわけ(でも、その次はまた「ア」ですね)。雑誌名がしりとりになるというのは、我ながらおもしろいアイデアだなあと思ったのだが、思っているうちに面倒くさくなって『アフリカ』のまま、2007年3月号を出した。
 アイデアというのは、それだけでおもしろいと思ったら、それ以上育たないものなのかもしれない。このアイデアは何? よくわからない、と思うところのある方が、よく育つのだったりして。

 そんなふうにして『アフリカ』を何冊か出した後、「『アフリカ』って、いい名前ですね?」と言う方が現れてきたのだった。

すれ合う伝統

冨岡三智

先月末、タイトル名の曲に振り付けたデュエット作品を13年ぶりに再演したのだが、その初演時にも私はその上演のいきさつを『水牛』に書いていなかった。というわけで、今回は13年前と今年の両方の公演について書き残しておきたい。

———-

舞踊:冨岡三智、藤原理恵子
音楽:七ツ矢博資『すれ合う伝統 ~インドネシアにて思う~』(1999)

●初演
日時: 2008年8月7日
場所: Anjung Seni Idrus Tintin-Bandar Seni Raja Ali Haji(インドネシア・リアウ州プカンバル市)
演奏: 録音(2005年)
作品タイトル:「Water Stone」
公演名:第6回リアウ現代舞踊見本市(Pasar Tari Kontemporer VI / 6th Riau Contemporary Dance Mart)
主催: ラクスマナ財団(Yayasan Laksmana)、リアウ州文化芸術観光局

●再演
日時: 2021年7月31日
場所: 大阪市立大学・田中記念館ホール
演奏: 西村彰洋(ピアノ)、中川真(ガムラン)
公演名:『ピアノでできること/できないこと』
主催: 文科省科学研究費基盤B「アジアにおける社会包摂型アーツマネジメントモデル形成と応用」チーム

———-

(1) 制作のきっかけ

2008年にこの作品を作ったのは、インドネシアのスマトラ島で開催された第6回リアウ現代舞踊見本市に招待されたことがきっかけである。私はこの見本市に2005年の第4回にも招待され、単独作品(本来はデュエット作品)を上演していたのだが、今度は単独でないものを作りたいと思ったのだった。音楽については、インドネシアで上演するのだから、日本人の作品を使いたい。私がインドネシア留学するまで所属していた大阪のガムラン音楽団体(ダルマブダヤ、当時の代表は中川真)では、現代音楽家に委嘱した作品を積極的に演奏していた。そのレパートリーの1つであった七ツ矢博資氏の作品を使いたいと思って先生に連絡を取ったところ、意図していた作品には録音状態の良いものが
ないという。その代わりにと逆に提案されたのが、この『すれ合う伝統 ~インドネシアにて思う~』だった。インドネシアを意識した曲というのも提案理由だったのではないかと思う。

パートナーとなる藤原理恵子さんとは、2003年にダンス・ボックスの公演で知り合った。各ダンサーがそれぞれ自作を発表する場である。その時から気になっていたダンサーで、その後も彼女のワークショップに参加するなどして緩やかにつながりがあり、一度作品制作を一緒にやってみたいと思って声をかけたのが始まりだ。

ただ、リアウで上演した後この作品は再演しておらず、藤原さんとの共同制作もこの時だけだった。2020年1月、古い記録を整理していた時に、このリアウでのビデオが見つかった。それで久々に連絡を取って、まだ予定はないけれど再演してみたいと持ち掛けたのだった。そう言っている間にコロナで緊急事態宣言になって練習場所がなくなったり、私も五十肩になったりして中断もあったけれど、タイミングを見て練習を重ねている間に、生演奏で上演での上演という企画がもたらされたのだった。

(2) 初演版

2008年の上演では七ツ矢氏の曲の前後に虫の声の録音をつなげ、タイトルも”Water Stone”と変えている。別の音を足したのは、見本市の規定の上演時間がやや長めで、七ツ矢氏の曲(約15分)だけでは短いと感じたため。また、だだっ広い会場の中で七ツ矢氏の曲の雰囲気に入っていくための部分が欲しいと感じたのもある。一方、2021年は西村さんがピアノ・リサイタルの中で七ツ矢氏の作品を演奏するのが主目的なので、虫の声はカットした。

“Water Stone”のシノプシスやコンセプトについては、当時、現地の新聞に掲載されたので(私が見本市に出したシノプシスとインタビューが元になっている)、それを引用しよう。

● 2008年8月8日リアウ・ポス紙記事より
 …桜の国・日本から来た舞踊家・振付家の冨岡三智が「ウォーター・ストーン」という題で上演した。
 三智は単独での上演ではなく、もう一人の人と一緒に上演した。「風が吹き、石が呼吸し、水が流れる、太古の昔から」とある。
 三智が呈示した動きはゆっくりとしているが、内に秘めた強さがある。白い布を身体から垂らし、ピストルを手にしている。三智の動きともう一人の動きが入れ替わる。その女性が倒れこんだとき、もう一人が激しくすばやく動いたからだ。三智の作品は2人が入れ替わり、もう一人が白い布を巻いて、ピストルを手にしたところで終わる。

● 2008年8月9日コンパス紙全国版記事より

 冨岡と藤原は観客の想像力をさらって、2つの自我の強さを意識させた。それは混乱と調和であり、つのエネルギーが相補って人生を調和させる。調和は仏像の瞑想の舞いを通じて、一方混乱は激しいコンテンポラリ舞踊を通じて象徴される。
 ある時は、一人の踊り手がまるで彫像のように静かに、ゆっくりと移動する一方で、もう一人はあちこちに激しくのた打ち回って自爆する。しかし、ある時点で2人の踊り手は白い布を巻きつけて一体化する。剛柔は対立し得るものだが、しかし1つにもなり得る。それが人生なのだと冨岡は言う。

—–

2008年の上演だと、虫の声が響くなか舞台中央には私が野ざらしの仏像のごとく座っており、遠景を浴衣を着た藤原さんが横切り消えていく…という情景から始まり、その後七ツ矢氏の音楽が流れ、仏像が揺れ始める。私は1人で踊り始め、バーンという打撃音のところでピストルを撃って倒れ、それと入れ替わるように、強い音と共に藤原さんが客席から舞台に登場しその場を支配する。その後音楽が切り替わると、私は再びよみがえり、私の着ていた布にお互いが巻き付いて結合双生児(シャム双生児)のように一体化したかと思うと互いが入れ替わる。再び虫の声が響くなか、その布を巻き付けた藤原さんが仏像のごとくに舞台に残り、抜け殻になった私が舞台の端に消えていく。曲から静と動、仏陀とピストル、流水と石のような対立矛盾しながらそれらが入れ替わるような禅的なイメージが浮かび、それを2人で形にしていった。

今、これを書きながら気づいたのだが、この時は曲のタイトルの『すれ合う伝統』と向き合うことを私自身が避けていたような気がする。藤原さんに共同制作を持ちかけた時点で、曲名でなく”Water Stone”の構想しか伝えていなかったらしいのだ。曲から受けるイメージを元にして作品作りをしたけれど、曲のテーマを舞踊の形に置き換えようとは思っていなかった。

(3) 2021年版

●今回プログラムノートより

2人のダンサーが創り出す関係性の変化を表現しようと考えた。同じ空間に置かれた無関係な2人は、音楽に突き動かされ、空間の中で拡張収縮していくうちに互いに反応し始める。同調・反発・同化しようとする。ジャワ伝統舞踊がベースの冨岡と現代舞踊がベースの藤原は、それぞれ己の中にあるものに従って動きを生み出す。その己の中にあるものがおそらくは伝統なのであり、互いの反応の中に伝統のすれ合いが生成されるのだろう。

—–

今回も前の振付のイメージをたたき台にしているのは事実だが、シノプシスをそのままなぞってはいないので、できた作品は別ものと言える。前回は1人の中にあった相反する二面性が入れ替わるというのが(私の)基本イメージで、布にお互い巻き付いていく後半のシーン以外は舞台で絡まないのだが、今回は最初から2人がアイデンティティのあるものとして別個に存在していく形になった。そして、制作過程において『すれ合う伝統』の意味と格闘したのが今回だったと言える。音楽に振り付ける前の段階で、ガムランの音に合わせてジャワ舞踊の歩き方をやってみたり、また藤原さんがよくやっているように山や川など自然の中で2人で動いてみたりして、互いの身体が持っている伝統に近づこうとしたのだった。

私と藤原さんが1枚の布を巻き付けて結合双生児のようになる動きは前回も今回もある。しかし、前回はその布を私が体にサリーのように巻き付けていたが、今回は着用せずに舞台に川の字になるように細長くたたんで置いておくようにした。互いの間にある細胞膜のようなイメージである。横長の額縁舞台だとこんな風に空間を横切る線を置くのは難しいが、会場となったホールの舞台がちょうど客席に半六角形にせり出す形になっていたのは都合がよかった。私としては細胞の中にいるような感覚が保てた空間だった。

音楽はピアノとガムラン楽器(ボナンという旋律を引く打楽器、銅鑼、太鼓)を使い、ピアノは西村彰洋さんが、ガムラン楽器は中川真氏が演奏した。中川氏によれば、七ツ矢氏のこの曲は今までに5回演奏され、中川氏は全回ガムラン演奏に関わっていると言う。生演奏で踊るのは録音で踊るのとは全く違う体験で、楽器や演奏者によってここまで違うものなのかと改めて思い知る。録音ではピアノの音がもっと強くて衝動が溢れていたように私は感じたが、西村さんのピアノはそんなにガツンとこない。彼は、それよりも響きを大切にしているとのことだった。だから、録音を聞いて作っていたイメージが結構変化した。たとえば、ピアノの音の衝動に突き動かされていた箇所は、静かに抑圧されるイメージへ。引きの強い音に聞こえていた所は、星屑のようにキラキラと音が輝いているイメージへ…。リハーサルの時に話し合っていたら、私と藤原さん、西村さんと中川氏と、音に対して抱いているイメージは四者四様で、意外と違うものだと感じた。

まだアンケートを読んでいないので、どういう風に観客の目に映っていたのかは分からない。が、13年ぶりに旧作に向き合い藤原さんと共同制作したことで、様々なことを自分なりに振り返ることができた。そして現代的な作品を生演奏で踊れた経験は貴重だったと思っている。コロナ禍の状況下、上演できたことも幸せなことだった。

きみが死んだあとで

若松恵子

久しぶりに寄った神保町の岩波ブックセンターで『きみが死んだあとで』(代島治彦著 2021年6月晶文社)を見つけた。街の本屋さんでは見かけなかった新刊だ。今年の4月に公開された同名のドキュメンタリー映画の、3時間30分の中には収まり切れなかったインタビューを掲載した本だ。東京での上映を見逃していて、先に文章で出会うことになった。

「きみ」とは、1967年10月8日、ベトナム反戦のデモの中、羽田の弁天橋で命を落とした山崎博昭さんのことだ。彼は当時18歳、京都大学の1年生だった。山崎が通った大阪府立大手前高校の卒業アルバムのなか、社会科学研究部の集合写真に写っているメンバーのほとんどが、羽田のデモに参加していた。友人たちのその後の人生を描いたドキュメンタリー、「18歳のきみ=山崎博昭が死んだあとで、彼らはいかに生きたか。きみの存在は、彼らをいかに生きさせたか。ある時代に激しい青春を送った彼ら=団塊の世代の「記憶」の井戸を掘る旅」が『きみが死んだあとで』だ。

この作品について初めて知った時に、今なぜ学生運動なのかと思った。ヘルメットをかぶって闘っている人たちの映画、代島氏自身が経験してこだわってきたテーマによる私的な回想なのだろうかと思った。しかし、そういう映画(本)ではなかった。

1958年生まれの代島氏は、1967年から70年の学生運動に直接参加した世代ではない。しかし、子ども心ながらに闘う上の世代に共感を覚え(かっこいいと思ってしまい)生き方に影響を受けてしまったのだ。

「もしもぼくが団塊の世代に生まれたとしたら、どんな青春を送っただろうか。もしもぼくが1967年10月8日に羽田・弁天橋で死んだ18歳の若者の友だちだったとしたら、どんな人生を歩んだだろうか」

映画『きみが死んだあとで』の冒頭に掲げられている字幕だ。そして、本では「もしも10年早く生まれていたら、『きみが死んだあとで』に登場する14人のように「異常に発熱した時代」にぼくは絶対に巻き込まれていただろう。いや、巻き込まれていたという受動態ではなく、きっと「巻き込まれたい」気持ちを育てていた、少年時代から。」という記述が続く。代島氏のように思う者にとって、当時の経験者の記憶と今の思いを聞くことは、とても興味深い事だ。今の時代にこの映画が持つ魅力というものはここにあると思った。

インタビューを読むと、命を落とすことになった山崎氏も彼のように運動に参加した同級生たちも決して特殊な人たちではなかったという事がわかる。彼らは戦争に加担したくない、社会制度を変えたい(奨学金を受け取りに行った窓口で会った時に「やっぱり貧乏ってことかな」と闘いの動機を語った山崎博昭の思い出を岡龍二が語っているのが印象的だ)という素朴な思いから運動に参加して行った人たち、見過ごさずに何とかしようとした人たちなのだ。活動家ではなく、生活者として生きている今も、彼らの考え方が当時と変わってしまったという風にはあまり感じないところに希望を感じた。

14人にインタビューしながら代島氏も自身の事を見つめることになる。本ではインタビューの章の間に、代島氏自身の回想が綴られる。自分はなぜ、「団塊の世代」の運動する姿に憧れ、そういう価値観を自分の中につくっていったのか。本の最後に、秋田明大氏(元日本大学全共闘議長)を訪ねてインタビューする章が加えられている。そして、答えは出ない。絶対正しい答えなどない。みんなそれぞれの人生を生きているだけなのだ。

あとがきに「まだこんなルンペンみたいなことをやってるんかい!」と叱られるのを覚悟のうえでこの本を亡き母に捧げるという一文がある。代島氏にとってこの作品は、良かったのか、悪かったのか明確な答えが出ないとしても、これが自分ではないかと確かめる旅にもなったのではないかと思う。

この本で「10・8羽田救援会」の活動を知ったのは、私にとっての収穫だった。羽田のデモで逮捕された学生を支えるために、家族でも友人でもない一市民として差し入れをしたという。「18歳の未成年者が逮捕されていたので、こころにもない自白をさせられるのは目に見えるようで、自分の潔白を貫けるように支えなけゃいけない」と考えての事だったという。気持ちが明るくなるようにと白いセーターやショートケーキを差し入れたという。

本を読み終わった後で、映画化のきっかけになったという大手前高校の社会科学研究部の卒業写真を映画の公式サイトで見た。「シェー」のようなポーズをとっている無邪気な姿に胸を衝かれた。RCサクセションのスローバラードの「悪い予感のカケラもないさ」という一説を思い出したりした。近くで上映される機会をみつけて、彼らの肉声を聞いてみたいと思う。

むもーままめ(9)怠け者メガネの巻

工藤あかね

ここ数年で急激に視力が落ちたことを実感している。とはいえ、みすみす放置していたわけではない。コロナ禍で世界中が憂鬱になる前には、意を決してちゃんと眼科にも行った。

さまざまな検査を受けた後、医師が少し申し訳なさそうに言ったっけ。

「おそらく若い時から、とても視力が良かったと思うんですね。それで今は、文字がぼやけて見えることがあるということですが…。視力だけいうと、両目とも1.5ありますので全く問題がないんです。おそらく、見えにくいのは手元とか、近いところでしょうか。まずはこちらのメガネをお試しください」

サンプルでずらりと並んでいたのは、おしゃれな色合いの老眼鏡である。つまり私の視力悪化は、老眼だったことになる。観念しておしゃれ老眼鏡をかけてみたところ、たしかに文字は見えやすくなったので、購入して帰った。

ところが、おしゃれ老眼鏡をかけてみても、目の疲れは日に日に増すばかりなのである。コロナで外出を控え、楽譜を読んだり本を読んだり、ネットをさまよったり、視界の狭い生活をしているうちにとうとう、目の疲れが頭痛や肩こり、首の痛みにまで発展していった。そして、ある朝、薬指と小指がしびれて動かすのが難しくなり、料理中にフライパンを握っていられず落としてしまった。

その翌日は衣服の着脱も、バッグから交通系ICカードを取り出すのも時間がかかり、仕事に遅刻した。到着した先で事情を説明したところ、脳の病気だといけないから一刻も早く病院へ行くように勧められ帰宅させてもらった。家で待ち構えていた夫が青ざめた顔でタクシーを呼び、病院へ。

結論から言うと、2週にわたる精密検査を受けた結果、脳にも骨にも大きな問題はなかった。

となると、この痛みやしびれの原因は一体なんだ?もしかして本や楽譜を読んでいる時の首の角度が前傾していて、目も首も肩も必要以上に負担がかかっているのではないか?

これまでにストレートネック解消まくらはいくつも試したが。きわだった効果は得られなかった。
書見台も愛用しているがそれでも視線はまだ低く、首が正しい状態になっているとは言い難かった。

そんな時に、ネットの神様がおりてきて、わたしをアマゾン奥地へと誘ってくれたのである。そして出会ってしまった。

………怠け者メガネ!!!!

これは予想以上にすごい商品である。メガネ前方が大きく突き出した形で下方にレンズがついていて、メガネをかけると首の位置の90度下が見えるようになっている。つまり、首の位置と目の向きが正面の時に、足元が見える。

一般的な活用方法としては、メガネをかけて仰向けに正しく寝転がり、お腹の上に本や楽譜などを置く。姿勢が崩れない上に驚くほどちゃんと読める。テレビを足元に向けて寝れば、夕方の大相撲中継も、昼寝の体勢のまま余裕で見られるのがありがたい。お腹の上にスマートフォンを置いて操作することだってできるから、万が一、コロナやその他で自宅療養や入院生活になったら、すごく重宝するのではないか。

さらに、PCを操作する際にもこまめに怠け者メガネをかければ、首の位置は正しく保たれ、姿勢もくずれにくいときている。ここ数日、隙あらばこのメガネをかけてことに当たっているのだが、不思議なことに眼の調子まで良くなってきた気がする。こんなに素晴らしい商品だから、もっと知られても良いと思うのだけれど。

まあ、見た目がちょっとばかり奇異なことと、長時間かけるには重くて、鼻の上部にメガネの跡がついてしまうのが難点ではある。だがメリットとデメリットを天秤にかけると、私にとってはメリットの方が多い。しばらくは怠け者メガネの普及活動をしようかな。

懐かしい人

植松眞人

 ずいぶん前のことになるが、懐かしい人から電話があり驚きながら話したことがある。最初の数分はたがいの声の懐かしさを確かめ合うような具合だったが、やがて私の側はこの電話の真意を確認するような気持ちになり、相手は私に真意を伝える段階に入ったという声色を発するようになった。そのことは双方の同意事項であるはずなのに、それでも言い出しかねている間に、懐かしい話に連れ戻されたり飛ばされたりしている時間があった。そして、いざ聞いてみると以前のように仕事をしませんか、という申し出であり、こちらとしてもかまいませんよ、という気持ちだったのでそこで笑い合いながら電話を切ることになった。
 電話を切ってからが大変だった。懐かしい気持ちはあるのだが、なぜその懐かしい人と疎遠になったのかが思い出せないのだ。仕事をしませんか、と言われたら、はいわかりました、と言えるくらいに勝手知ったる仕事だし、同じような仕事は他を経由していまでも続けていたので、なぜ、その人とだけ疎遠になったのかが気になって仕方がない。
 疎遠になって数年。私は思い当たってメールを検索してみたのだった。その人の名前をノートパソコンのメールアプリの検索欄に入力すると、以前仕事をしていたときのメールが何度もスクロールしなければならないくらいに出てきた。五年近く使っているパソコンなのだが、買い替えた時にはすでに彼女と仕事をしていたので、このパソコンに残っている一番古いメールも彼女からのメールだった。こうして、古いメールを飛ばし飛ばし見ていると、いろんな仕事をしていたことが思い出された。時にはただ飲み会に行く行かないの他愛ないメールもあり、思わず微笑んだりしたのだが、ああ、そうか私はこの女性をわりと好きだったのだということを思い出した。気が合うのか合わないのかと言われれば気は合わないのだが、私はその女性の仕事への懸命さと顔かたちが割と好きだった。それで大きな下心もなくごくたまに飲んだりしていたのだが、大切なところで話が合わないし、気が合わないのでそれほど話が弾むというわけでもなく、飲み会の回数は年に一度か二度程度だった。それでも、メールを見返していると相手からはもっと頻繁に誘われていることに気がついた。相手が何度も誘いのメールをくれていて、ただ私の側が年に一度か二度応じているのだった。
 こうして十年ほど前から四年ほど前のメールを見返していると、私と彼女の関係を改めて辿っているようで懐かしさよりも好奇心のようなものが勝ってきた。彼女の名前は大久保由紀というのだが、取引先の広告代理店のディレクターをしていたころから私に仕事をふってくれていた。しかし、五年ほど前に退社し小さな制作会社へと移った。そこは、私と彼女の古巣である広告代理店を辞めた取締役が作った小さな会社だった。会社と言っても実際には私の上司でもあった取締役と大久保さんだけの二人の事務所で、この二人が男女の関係なのだろうな、と私は考えていた。そこに移ってからも大久保さんは私に仕事を振ってくれていたのだということは、メールをたどればすぐにわかった。なんとなく、転職して縁が切れていたと思っていたから少し意外だった。
 大久保さんからのメールが途切れたのは、彼女が転職してから約半年ほどしてから。私が書いた広告の文章へのフィードバックを彼女がくれて、私がその修正を加えて返したメールでやり取りが途絶えた。正確にはその後、二度、三度、大久保さんからのメールがあるのだが、私は一度も返していない。ということは、この最後の仕事に彼女と疎遠になった理由があるのだろう。私は私が最後に返したメールを読んでみた。ビジネスライクなただのメールだった。ひとつ前のメールも同様だったので、メールからでは理由がわからないのではないかと思いながら、もう一つ前のメール、彼女からの最初のフィードバックを読んでみた。そのメールは少し長かった。一度、先方がOKした文章に突然の変更が入った。制作側全員がこれはいい、と気に入っていた文章だったのだが先方がどうしても変えたい、というのだから仕方がない、という内容だった。いま読んでも、その申し出には異論はないし、ましてやそこで縁が切れるような内容でもない。それでも、私たちの仕事はここで途切れているのだから、なにかありそうなのだが、と思いながら私はそのメールを二度、三度と読んだ。そして、思い出したのだった。いや、正確には気づいたのだった。メールのCCに私たちの元上司のアドレスが突然記入されていたのだ。それまでずっと私と大久保さんの二人のやり取りだったのに、先方が無茶な変更を入れてきたというメールに限って、彼女は上司に同報していたのだった。それに気付いた私は、この変更が先方ではなく上司による変更だと直感した。それまでの経緯を考えると、そのクライアントがこのタイミングで変更を入れてくることなど考えられなかったのだ。しかし、私たちのかつての上司、そして、大久保さんの今の上司はそういうことが好きな人だった。入稿直前の原稿に些細なミスを見つけて変更を入れさせることで、自分の存在価値を見せつけるような人だった。そういえば、私はこの人が嫌いで早くにフリーランスになったことを思いだした。そして、同時にこの上司に入れられた変更をクライアントのせいにして、大久保さんは私を納得させようとしているのだ、ということを察知して、私は瞬間的に大久保さんとの仕事を最後にしようと決めたのだった。そのことをいま思い出してしまった。そうか、私が大久保さんと疎遠になったのはやきもちだったのだ。私は自分よりも上司との関係を優先させた大久保さんに腹を立てたのだった。
 いまも大久保さんはあの上司と一緒に働いているのだろうか。それとも別の男と一緒に別の制作会社にいて私に仕事をふろうと考えたのだろうか。そして、あの時、私が大久保さんになんの返信もせずに関係を切ってしまったのかを大久保さん自身は考えたことがあるのだろうか。いや、そんなことを深く考えない人だからこそ、私は大久保さんと飲みに行ってもさほど気が合わず話が合わなかったのだ。
 どちらにしても、一度仕事を請けると言ってしまった以上、また大久保さんとの仕事は始まってしまうのだろう。そして、彼女と仕事をしていればまた同じような腹立たしい場面が現れるに違いない。
 さて、どうしたものかと私はノートパソコンを閉じるのだった。(了)

七月

笠井瑞丈

気付けば
7月も終わり
8月が始まる
当たり前の事だけど
時間がどんどん進んでいく

変化すること
変化しないこと

7月なかば友人の父が亡くなった
僕もお付き合いのある方だったので
突然の知らせにびっくりした

以前からカラダの不調は聞いていたのですが
まさか亡くなるところまでとは思っていなかった

肺がんだった

仙台に住んでいる方だったので
決まってる予定をキャンセルしてなおかさんと
そしてチャボさん二人も置いていけないので
四人で仙台に車で向かうことにした

夕方東京を出発
行けるところまでは
高速を使わづず下道を走る

いつものことですが
チャボは最初は慣れない車移動のため
ずっとコッココッコと鳴いていますが
しばらくすると寝てしまいお饅頭に

郡山から高速に乗り
仙台の少し手前まで

道の駅で車中泊

車の後部座席を平らにして
窓ガラスを塞いで布団を敷き
缶ビール一本空ける

翌日仙台まで残りの道を走らせる
緑の綺麗な道をひたすらひたすら

12時 友人の実家に着く

丘の上のとても景色の良いところ
とにかく今日は天気が良くてよかった
仕事場に置かれた棺の中を覗き込む

これからは
空気となり光となり
ここに存在していく

ほんの少しの滞在時間
でも立ち会えてよかった

とんぼ返りで東京に戻る
帰りは仙台から高速に乗る
外の夕焼けがとても綺麗だ

家に着きカゴの中に卵が一個

生命はこの繰り返しだ

製本かい摘みましては(165)

四釜裕子

BBプラザ美術館で「ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』とビート・ジェネレーション 書物からみるカウンターカルチャーの系譜」展(2021.7.3ー.8.8)が開かれている。ネットで見ると、超優秀なタイピストでもあったケルアックがロール状のトレーシングペーパーにひたすら打ち込んだという最初の”オン・ザ・ロード”こと「スクロール版 オン・ザ・ロード」も展示されているようだ。巻いたトレペといえども何箇所かはテープでつないでいるはずで、それがいったいどうなっているのかを見たいと思った。ところが実はインディアナ州から借りる予定であった実物がコロナの影響で運べなくなくなり、それで会期が1年以上伸びてしまって、それならばとレプリカを作って展示しているそうである。

岡村印刷工業のウェブサイトにそのことが少し出ていた。国宝や重要文化財のレプリカ製作にも実績がある、細かいインクを霧のように吹き付けるデジタル版画チームが担当したそうだ。全36メートルになる今回の複製には和紙を用いたという。紙の継ぎはでんぷんのりで、ずれぬよう、苦労したようだ。借りるはずだった実物よろしくアクリル棒を芯にして巻いて、ぴったりサイズのアシッドフリー段ボール製収納函を作って納品したとある。私が気になったのは、そもそものトレペをつないだテープがどんなものでそれが今どうなっているのかだったけれど、それに対する記述はなかった。すでに「実物」が裏打ちされているようでもあったので、オリジナルの継ぎ目もきれいに修復して保存しているのかもしれない。

観に行けないので、カタログの『オン・ザ・ロード:書物から見るカウンターカルチャーの系譜 ビート・ジェネレーション・ブック・カタログ』(監修:山路和広 執筆:マシュー・セアドー トゥーヴァージンズ)を買った。「ジャック・ケルアック「オン・ザ・ロード」/ジャック・ケルアックの著作~ドゥルーズ伝/ビート・ジェネレーション ブック・カタログ/シティライツブックスとリトルマガジン/ゲーリー・スナイダーと日本のビート・ジェネレーション」に章立てされ、およそ1200の書影がカラーで掲載されている。「ケルアックとビート・ジェネレーション/アメリカと世界/日本のビートとカウンターカルチャー」の3つを並べた年表などもある。

「gui」の同人でもあった飯田隆昭訳のバロウズやトム・ウルフなどの本もたくさん載っていて、バロウズ著・飯田訳『爆発した切符』はサンリオSF文庫の中でも「特に入手困難」と但し書きがしてあった。北園克衛の作品が表紙になった『The Black Mountain Review』(1954ー)、今年亡くなったファーリンゲティの詩を原文で載せた海人舎の『Trap』 9(1988  表紙:北園克衛)、ヤリタミサコさんの『ギンズバーグが教えてくれたこと 詩で政治を考える』(トランジスタプレス 2016)、それから同じくヤリタさんの『ビートとアートとエトセトラ――ギンズバーグ、北園克衛、カミングスの詩を感覚する』(水声社 2006)はきちんと帯付きで載せてあってうれしかった。この本の帯は4種類あり、いずれも高橋昭八郎の『あ・いの国』(1972)という作品の中からその一部が印刷されている。売るための文言は一切帯にはないので、帯のかたちをした第二の表紙カバーと言っていい。ヤリタさんから「昭八郎さんの作品を表紙カバーにしたい」と言われ、私が装丁を担当した。こんなことを実現させてくれた版元はやっぱりすごい。

1200もの本が並ぶページをめくり続けるのはいつまでも楽しい。そして思うのは、やっぱり圧倒的に軽々しい装丁がいい。特にその軽々しい冊子たちがどういうわけかいつの時代もどこかの誰かに好まれて、巡り巡ってずっといつまでもこうして残ってしらっと現れるのがうれしい。中綴じもいいだろう。ホッチキス留めもいいだろう。ガリ版も活版も、コピーも手書きもいいだろう。本が破れたり汚れたらとてもいやだけど、破れたり汚れたからといって手放したくなるようであればもともと縁がないというものだ。

ボロくなって悲しいけれど手放すつもりも買い直すつもりもない本というのは実際あって、私にとってダントツ一番は『2角形の詩論 北園克衛エッセイズ』(1987 リブロポート)だ。造本装幀は戸田ツトム、造本協力に白石幸紀・松本早苗・木本圭子各氏の名前がある。装丁もすごく好きなんだけれど表紙カバーがだいぶ前に破けてしまい、そこからさらにめくれてしまって相当ボロくなっている。この紙はおそらく「筋入りターポリン紙」だろう。古賀弘幸さんの『文字と書の消息』(2017  工作舎 エディトリアル・デザイン:佐藤ちひろ)の表紙カバーも同じだが、こちらは今のところ、うちの棚では無傷である。

ターポリン紙(tarpaulin paper)というのは、クラフト紙にアスファルトをはさんで加工した紙だ。特に筋模様の入ったクラフト紙ではさんであるので、「筋入りターポリン紙」ということになるだろうか。筋になった薄い色の下から、時間がたつとアスファルトの黒っぽい色がわずかに濃く見えてくる。手元でボロくなってしまった『2角形の詩論』を見ると、この紙が三層構造であることがよくわかる。表面のクラフト紙がめくれると中は一面真っ黒だ。筋入りターポリン紙全体を見ても、たしかに少し濃くなっている。黒文字のタイトルは紙に埋もれてだいぶ読みにくくなっている。

いっぽう、『文字と書の消息』のタイトルと著者名は白箔で、時間がたつと全体の色が濃くなることを想定しての選択だろう。この白箔がかなりくっきり押してあり、紙の裏を見ると黒くはっきり鏡文字になって出ているのがおもしろい。ただ、時間がたつと見返しのきれいな黄色に筋入りターボリン紙の色がどうしてもうつってしまうから、新刊書店で手にした人がそれを「汚れ」と感じるのはしかたのないことだろう。

ターポリン紙というのは、1914(大正3年)に現在の品川にあった藤森工業(現ZACROS)という会社が特許をとっていたようだ。初代社長の藤森彌彦(本名環治)さんが、絹糸や絹製品を船便で海外に送るのに高温多湿下で品質が悪化するのを少しでも防ごうと、紙と紙の間にアスファルトをはさんだ防水・防湿紙「藤森式ターポリン紙」を生み出したそうだ。日露戦争のあとに沈んだ船を引き上げる仕事をしていたそうだから、そこでの体験もおおいに生かされたに違いない。最初に引き上げた船が彌彦丸で、そこから「彌彦」を名乗ったそうだ。

同社は「包んで守る先端技術」で100年超、いまや東証一部上場企業で、点滴や細胞培養のバッグや宇宙帆船、トンネル用防水シートなど扱う品目は多岐にわたる。「包む」ことから見続けたこの100年の始まりがターポリン紙だったとは! 拠り所となることばというのは、会社ひとつ、人ひとりにひとつずつで十分なんだろう。むしろだから思わぬところに深く広くつながっていく。その網に私もこうして引っかかり、1914年生まれのバロウズは藤森式ターポリン紙と同い年であることもわかった。

東京詩片

管啓次郎

【駿河台】
この坂はギターの森
音を鳴らそうと待ちかまえる
よく磨かれたボディたちは
どんな遠くから旅してここに集結したのか
きみは北米のメイプル
きみは中米のマホガニー
きみはハワイのコア
きみはアフリカのローズウッド
木々がとどめる記憶が
音の環となってはじけ飛ぶ
覚えていることを話してみてよ
獣や鳥はどんなふうだった
樹冠に住む昆虫たちは
星の光に反応したの
倒れて湖底にねむっているあいだ
きみはどんな夢を見ていたの


【渋谷】
黄色い地下鉄が空につきささると
忙しい谷間がひろがった
天体観測の練習とか
銀幕のゴーストたちのためによくここに来た
谷底を流れるのは虹を生む小川
右へ左へ何度でも流れをわたって
魂のような蛍を集めて遊んだ
片耳の折れたおとなしい秋田犬が
どこまでもついてくる
VIA PARCO というがここにイタリア人はいないね
香港人のチャーリーがぼくのともだち
一緒に坂をあがって区役所に行けば
巨大な魔物のようなボーイ・ジョージが
うたいながら踊っている
その先の草原では
見えない兵士たちが互いを敵として戦っている


【駒場】
「本を読むと決めたのだから」と友人がいって
彼は授業に来なくなった
ぼくは考えもなくぶらぶらと
スケートボードで通学していた
馬はどこにもいない
人間ばかりでどうもつまらない
仕方なくグラウンドをぐるぐると走ってみた
走るのは自由
立ち止まるのも自由
でも自由意志なんてそもそもないのかも
革のジャケットを着たギリシャ哲学者が
アメリカの黒人女性歌手の話をしていたのが
大教室で聴いた最後の講義
「モイラ」という単語が耳に残った
ひとりで校舎の屋上に出て
ギリシャの太陽を浴びながら昼寝した


【下北沢】
電柱に手書きの紙が貼ってあった
探し猫かと思ったら詩だったのでびっくりした
「ぼくの猫のナミなのだ」という最後の一行が
頭から離れなくなった
そのころは一日一冊本を読んで
読み終えると「幻游社」に売って別の本を買った
知識は心を流れてゆくだけ、何も残らない
それでもいろいろな考えが
少しずつ色合いを変えてゆく
「バンガロール」でカレーを食べながら
そこはどんな都会なんだろうと想像した
大柄なご主人と、若いころは
女優だったかもと思うような奥さん
老夫婦の小さな店だった
すべての店は必ず店じまいするのが商売の掟
ただ思い出の夕方のような光だけが残り


【青山通り】
路面電車が走っていた時代は知らないな
宮益坂を上がりつつ古本屋に寄り
文字にぶつかるたび心が千々に砕けて
難破船のように逃げ込むのはダンキンドーナツ
ここで何時間もフランス語を勉強した
ヘミングウェイがいう「清潔で明るい場所」とは
ぼくにとってはドーナツ屋の
フォーミカのカウンター
想像力の訓練にはもってこいの環境だ
外は雨、快晴、雪、くもり
青山通りは光のあらゆるグラデーションで
心を励ましたり翳らせたりする
まだこどもの城のできる前で
空き地は都営バスの駐車場だった
カセットテープの音楽を鳴らしながら
フライングディスクのネイルディレイを練習した


【吉祥寺】
金曜日には吉祥寺に集まって
ピンボールの勝負をする
ブラックナイトは画期的なデザイン
上下二面に分かれた構成で
四つのフリッパーで球を打つんだ
ゆらしてはいけない
It’s so sensitive, you know.
球を止め狙って打ち上げるのが
至上のテクニック
左上のポケットに球が三つたまると
特別なパーティーの始まりだ
乱舞する三つの球に
アドレナリンが全開
こうなるともう止まらない
どんどんクレジットが増えてゆく
ぼくのことはpinball wizardと呼んでくれ

水牛的読書日記 2021年7月

アサノタカオ

7月某日 東京の御茶ノ水へ。午後、用事の合間に湯島聖堂の散策路を歩く。ひさしぶりに「すだじい」に出会った。大好きなブナ科の広葉樹。かつて5年ほど暮らした香川の豊島にはスダジイの原生林があり、幼い娘を連れてよく散歩をしたのだ。木漏れ日を通す葉の茂みを見上げながらその「すだじい」の太い幹をさすっていると、たまらない懐かしさがこみあげてくる。
浅草方面に移動し、Readin’ Writin’ BOOKSTOREで『新編 激動の中を行く』(新泉社)と『シモーヌ Vol.4』(現代書館)の刊行記念トークイベント「フェミニズムと出版——「女性史」の可能性」に出席した。お客さんはオンライン参加が中心で、会場には関係者を含め数名。『新編 激動の中を行く』は、90歳を超えていまなお現役の女性史研究家であるもろさわようこさんが編者となり、与謝野晶子の女性論を一冊にまとめた本。『シモーヌ』は注目されるフェミニズムマガジンで、最新のVol.4では映画監督のアニエス・ヴァルダを特集している。今回のイベントでは、『新編 激動の中を行く』の編集協力者で信濃毎日新聞記者の河原千春さんと、『シモーヌ』編集長をつとめる現代書館の山田亜紀子さんが対談した。与謝野晶子、もろさわようこさん、アニエス・ヴァルダら、それぞれの時代と場所で女性解放の新しい道を切り開いた表現者の思想についていろいろな話を聞くことができて充実の時間だった。この三者に共通するのはつねに自分を新しくしようとするつよい意志、だろうか。社会を変えるためには、まず自分を変える。そして、表現者として決してひと所にとどまらない。トークでは、もろさわさんに対する河原さんの、アニエス・ヴァルダに対する山田さんのリスペクトと愛の気持ちがまっすぐ伝わってきて、それもよかった。帰りの夜道を歩きながら、もろさわさんの著作をもっと読みたいし、アニエス・ヴァルダの映画もみたいと思った。

7月某日 近所の書店で文芸誌『群像』2021年8月号を購入。おめあては小特集「ケア」。昼下がりの喫茶店に入り、丸尾宗一郎さんによる記事「ケアが語られる土壌を耕す 編集者・白石正明に聞く」を一気に読む。

《「看護師さんが何をやっているかを伝える本を作らなくちゃ」という意識があった。というのは、看護師さんって医療ヒエラルキー的には見下されやすいんですね》

白石正明さんのこの発言に、大きくうなずいた。白石さんがいまから約20年前に立ち上げ、編集を担当している医学書院の「シリーズ ケアをひらく」。およそ40冊の本のうちすでに何冊かは読んでいるが、求職中の時間のあるうちに読破しようと、まずは2001年刊行の武井麻子さん『感情と看護』(医学書院)を入手。このシリーズは出版の歴史に残る尊い仕事だと思う。自分も編集者としていつかこういう仕事をできるとよいのだけど、どうだろう……。

7月某日 引き続き医学書院の「シリーズ ケアをひらく」。小澤勲編『ケアってなんだろう』、向谷地生良さん『技法以前』、川口有美子さん『逝かない身体』、熊谷晋一郎さん『リハビリの夜』などの気になる未読本を次々と。読書が止まらない。シリーズのなかでは比較的新しい、昨年刊行された郡司ペギオ幸夫さん『やってくる』がおもしろい。というか、そこで語られる「何かがやってくる不思議な感じ」をめぐるさまざまなケーススタディが、どれも身に覚えがあって驚いた。夜な夜な魑魅魍魎の気配を感じ、知らない人に「よお、元気?」と声をかけてしまうことがあり、頻繁にデジャブを体験する。郡司先生、あなたもそうなのですか! 
日中は介護や福祉、ケアに関連する本を読んで勉強し、夜は韓国文学の時間。いま集中して読みつづけているのは、現代韓国文学を代表する作家のひとり、キム・ヨンスの小説。『夜は歌う』『ぼくは幽霊作家です』(橋本智保訳、新泉社)、『世界の果て、彼女』(呉永雅訳、クオン)、『ワンダーボーイ』(きむふな訳、クオン)。どれも翻訳がよい。僕は韓国語の読み書きはできないけれど、これらの本はまず日本語として読みやすいし、訳者がそれぞれの流儀で、原著の繊細な文学言語を慎重に日本語へと置き換えている配慮が随所から伝わってくる。自分は韓国文学のファンであり、韓国文学の翻訳者のファンでもあるのだと思う。最近はキム・ヨンスが聴いているという男性フォーク歌手、センガゲヨルム/Summer of Thoughtsの曲をネットで探してBGMとして流している。

7月某日 日曜日の朝、詩集が届いた。封を開けて手に取った瞬間、「本ってこういうものだよ」と思わずつぶやいていた。隣にいた妻も「うん、こういうもの」と応えていた。写真、装丁、印刷、すべてが最高に美しい本。もちろん詩のことばも。兵庫・西宮のameen’s ovenでパンを焼きながら詩を書くミシマショウジさんの詩集『パンの心臓』(トランジスタ・プレス)。

《パン屋に爆弾を落とすな/パン屋を攻撃するな/そこには旧式の大きなオーブンがあり/そこには1週間ぶりに届いた小麦粉の袋があり/そこにはガタガタ音をたてて回るミキサーがあり……》

本書に収録されたミシマさんの詩「シリアのなんとか大統領」より。版元のトランジスタ・プレスの佐藤由美子さん、そして詩人のミシマさんは、自分が妻と営むスモールプレス、サウダージ・ブックスの活動を最初期から応援してくれる二人。そして、「本は個人的な小さな声を守るもの」という出版者としての魂をいまなお教えてくれる二人。詩を愛する二人。微力ながら、尊敬する先達がつくった本を読み手に届けていくために協力したい。サウダージ・ブックスのウェブショップで佐藤さんとミシマさんの本の販売をはじめることにした。

7月某日 所用で大阪へ。小田原から新幹線各駅停車の「こだま」に乗車。「のぞみ」や「ひかり」に乗るほど、急ぐ必要はない。新大阪から地下鉄御堂筋線、南海、近鉄と電車を乗り継いで河内長野の汐ノ宮駅へ。小さな駅を降りるとずっと向こうの山の中腹に赤い塔が見える。大阪府唯一の木造の五重塔、とのこと。まだ明る夕方に、看護師で臨床哲学者の西川勝さんと会う。ご自宅にうかがい、西川さんがかかわる認知症の人と家族の会・大阪府支部でおこなう「認知症移動支援ボランティア養成講座」のことなどを詳しく聞く。

《障害者の移動支援をめぐる制度の歴史を紐解ければ、当事者たちが声を上げたことによって障害者の移動支援は少しずつ制度化されてきました。他方で、認知症の高齢者はこうした障害者の移動支援サービスをほとんど使うことができず、家族に頼ることしかできない状況です》

これは、同講座の講師で社会学者の天田城介さんが認知症の人と家族の会・大阪府支部のウェブサイトに記していることば。なるほど、世の中にはこういう課題があるのか、とはじめて知る。認知症ケアについて資料を集めて学びつつ、西川さんのすすめで、障害者の行動支援・移動支援をおこなうガイドヘルパー養成のためのテキストにも目を通している。
翌日の午後は京都へ。ある人の結婚パーティで「ハンガリーの伝統的なダンスを一緒に踊りましょう」という愉快なお誘いを某所から受けたのだ。道中では、立岩真也さんの『介助の仕事』(ちくま新書)と『人間の条件 そんなものはない』(ポプラ社)を。夜、無事にハンガリーのダンスを踊り終えて蹴上の常宿に落ち着き、西川さんから渡された本を読む。認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ発行の『ただ、そこにいる人たち——小松理虔さん 表現未満、の旅』。レッツは、「障害福祉サービス」とひと言でまとめられない、アートとケアを横断するさまざまな活動を静岡・浜松でおこなうユニークな団体。いつか訪ねたいな、と思っている。本書の編集は千十一編集室の影山裕樹さんが担当。これはレッツが発行する報告書なのだけど、現代書館から商業出版として書籍化もされているらしい。

7月某日 ウェブ版『とつとつマガジン』の「身体のエッセイ」コーナーに寄稿した「幕なしのダンス」が公開された(https://note.com/totsutotsu_dance/n/n86acac1913fc)。先月6月下旬、京都の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」にてオンラインで開催された砂連尾理さんのダンスワークショップについての文章。ダンサーの砂連尾さんと「グレイス」の高齢の入居者とのモニター越しのかかわりをみていて、ふと思いついたことを記した。書き出しは「関東では新型コロナウイルス禍に「東京五輪禍」がかさなり、身動きしにくい憂鬱なステイホームがつづく」。まったく、やれやれだぜ。

7月某日 東京西荻窪の書店・忘日舎にて、自分が主宰する読書会&トーク「やわらかくひろげる——山尾三省『アニミズムという希望』とともに」第2回を開催。詩人・山尾三省が、1999年に琉球大学で環境問題をテーマにおこなった集中講義の記録をまとめた本の読書会。僕の方から、詩人があくまで「個」の視点、「孤」の視点から自然と人間との関係を見つめていることなどを話し、出席者の感想を聞いた。ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。

7月某日 愛媛の松山へ。早朝の鎌倉方面からJRの特急「踊り子」や新幹線「こだま」を乗り継いでゆっくり西へ行くつもりが、東海道線の事故があり、あわただしくルート変更。新横浜から「のぞみ」で岡山へむかい、特急「しおかぜ」に乗り換えて瀬戸内海を渡って四国入り。鞄には、東松照明写真集『新編 太陽の鉛筆』(赤々舎)など写真集と写真論の本がぎっしりとつまっている。今回の松山行きは来年2022年2月、サウダージ・ブックスより刊行予定の宮脇慎太郎写真集の打合せをおこなうため。写真家の宮脇慎太郎、アートディレクションとデザインをお願いした大池翼さん、松山の松栄印刷所の桝田屋昭子さん、高松了吾さん、いずれも四国在住の本作りの仲間と一堂に会し、来るべき写真集の仕様や用紙について議論。夕方早めに解散。コロナ禍の中でも会わなければならない人と会わなければならない時であれば、可能な対策をとった上で会いに行く。人間はコロナ禍のみを生きているわけではなく、「人生」を生きているのだから。自分の人生から、「会わなければならない人」を抜きにすることはやはりできない。心配や不安は残るとしても。いまのところそんなふうに考えている。
翌朝は、松山駅前の宿からタクシーで松山観光港に向かい、クルーズフェリーで広島へ。瀬戸内海汽船の「シーパセオ号」に乗船。鉄人28号のようないかつい色合いと質感の船体は趣味じゃないが、座席も設備もきれいで快適だ。客は少ない。天気が良く、デッキに上がれば嘘のような青い空、青い海、青い影。ひさしぶりに、贅沢な瀬戸内旅の時間をあじわった。広島港から路面電車に乗り換えて、市内の本と器の店READAN DEATへ。買い物をしてレジへ商品を持っていくと、「去年も、Tシャツを買ってくださいましたよね」と店主の清政光博さんに言われた。そう年に1回、夏にこのお店で服を買うのが恒例になっている。購入したのは、HOLY’S 保里尚美さんの働くセーターTシャツ「a sweater」。かっこよくて一目惚れ。ほしかった植本一子さんの本『個人的な三ヶ月』も買うことができて満足。
READAN DEATでは、広島在住の画家のnakabanさんと待ち合わせをしていた。県内の福山にある本屋UNLEARNのギャラリーで「nakaban装画展」を開催しているので、一緒に訪ねることにしたのだ。これは、サウダージ・ブックスから刊行した拙著『読むことの風』の刊行記念として、装画・本文イラストに使用したnakabanさんの「コップの絵」のシリーズを展示するという企画。電車の車内でnakabanさんと近況を語り合う。コロナ禍の中で犠牲になっていることのひとつは、人間の多様なものの見方・認識ではないか、という話をした。世界を唯一のものとして世界化して押し付ける言論にはなんであっても抗いたい。本屋UNLEARNの店主の田中典晶さんが、JRの福山駅まで親切にも銀色の自動車で迎えに来てくれた。2キロをほど走って閑静な住宅地や学校の敷地を抜け、坂道を上がり眺めの良い丘の上へ。そこに立つ古い木造の洋館をリノベーションし、カフェやエステなども入る複合施設の一角にUNLEARNがある。本屋さんも展示スペースも想像以上にすてきな場所だった。自分は朝早くからの長旅のつかれもあり、やや休憩モード。木のぬくもりを感じる店内で心地よい静かな時間の流れをぼんやり感じながらおしゃべりしているうちに、あっというまに時間切れに。田中さんが本好きのお客さんと制作したというZine『本と暮らし』の創刊準備号をいただいた。

《もともと私が本屋をやろうと思ったことの理由の一つに、安心して孤独になれる場所をつくりたいということがあった。日々の身がすり減るような生活の中では、その人が「自分になる」うえで、安心して一人になれる時間というのが欠かせないはずである》

「本屋のレジに座りながら」と題したエッセイのなかで、田中さんが記す一節に深く共感した。本作りの仕事をするものとして、自分もまた、書物を通じて何よりもそうした「一人になれる時間」を届けたいと願っているからだ。帰りも、田中さんに車で福山駅まで送ってもらう。夕方の駅の構内であわただしくnakabanさんとも別れ、九州・山陽新幹線「さくら」に乗車。ゆったりとしたシートに腰を沈め、車内では植本一子さん『個人的な三ヶ月』を読み耽る。ジャンルとしては日記文学、というのだろうか。植本さんが家族とその周辺にいる人々との関わり合いの日々を記録することばは、主食のようにからだ全体にしみわたる滋味がある。ここのところ『かなわない』(タバブックス)をはじめとする植本さんの別の著作も読み返しているのだが、彼女のことばは、コロナの渦中にいるいまの自分にとって、ソウルフードならぬ「ソウルワード」となりつつある。主食が本来、うまい・まずいといった美食的な価値判断とは関係ないように、文章表現が巧みであるとかそうでないとかいうことを越えて、ことばが直接こころの糧となる。そう感じるのは、なぜだろう。新幹線が途中停車した岡山駅で、車窓越しに巨大な火の玉が燃え上がるような真っ赤な落日をみた。

連綿と散らし

高橋悠治

湿気と暑さのなかで無気力に過ごした7月も終わり、演奏はしばらくないが、作曲の予定は遅れるばかり。今までとちがうことをしようと思っても、やさしくはない。

1950年代の終わりにコンサートで、当時のゲンダイ音楽を弾くようになったのは偶然だった。武満徹や一柳慧を知ったのも、草月アートセンターで演奏しながらクセナキスやケージと会ったのも、その続きだった。今はもうおなじことはやらないし、時代も感覚も変わった。演奏技術は衰えていく。といって、当時の音楽をちがう眼(耳というべきか、それとも手の触りといったほうがよいのか)で作り直す時期はまだ来ていない気がする。いままでやってきたことの外側に新しい足場をさぐるのが先か。 

構成・構造・システム・方法ではなく、論理や精神ではなく、目標や方向でもなく、手で探りながら、すこしずつ移り、映し・写し、安定しない・止まらない・終わらない、うごき、変わり続けるには、中心を作らず、言うより聞き、言いさし・言い残し・言い直し、点でなく、線でなく、ひとひら、仮止め、ためらい、ゆらぎ、くずれ、そ れ、はぐれ、…

中途で止め、間をおいて続ける。中途だとわかるように、未完成で仮の姿と見せるのが、ひとたび置いてしまうと、むつかしい。

ひとたび同じであることなしに、どうして変わることができるのか。

虫の歩みとひらけていく空間。かすかなうごきに焦点をあわせることが、そのまわりにひろがる、何もない空間の大きさを感じるように、吊り橋を渡る次の一足を置くところを見定めるうごきが、足元の谷の深さを感じさせるのは、脈打つ時間の経過が、曇り空の深さとなるのは、どのような指先の振動か。

そうしてしばらく探りを入れたあとの、何も考えず、何にもこだわらず、何の意味づけもなく、遅すぎず速すぎず、むしろゆっくりでも速くもない、と言って一定とも言えないが、淀みも乱れも見えない、ただ過ぎてゆく流れ、いつか起こり、いつか消えて、かたちではなく、消えかける名残の響きを留める記憶の移ろいを。