仙台ネイティブのつぶやき(84)夏至の光の下で

西大立目祥子

 6月は気忙しく過ぎた。ひとつには誕生月だったから。
ハンパに若いときは、誕生日なんてうれしくもなしと思っていたけれど、還暦を過ぎたあたりから、友人ががんと宣告されて闘病もむなしくあっけなく亡くなったり、久しぶりに連絡をとると足首骨折で全治4ヵ月と知らされたり、中には災害で命を落とす知人がいたり。明日はどうなるかわからないと実感することが増えてきて、1年を無事に過ごせるということは相当によろこばしいことだと思うようになった。遠方の友からのお祝いの品をありがたく受け取り、お茶しようと誘われればいそいそと出かけていく。

 思えば、いきあたりばったり無計画に生きてきて、なんとなくこんなところに立っている。生きていくということは、いつも後ろから押し出されるように否応なく前に行かされることなんだ、と感じてきた。つぎつぎ見たこともない風景が現れるので見飽きることはないが、やっていることはといえば、あいも変わらず仙台のまちでぼんやり空をながめ歩き回っているだけ。

 ふっと、じぶんの腕を見たりするときに、見たこともない小さなちりちりのシワがあるのに気づいてじっと見入る。若いときの腕はどんなだっけ。何もおぼえていない。変化が起こるから人は気づくものなのか。いつのまにか何をするにつけても「あと◯年の・・」と、頭に枕詞のようにくっつけてものを考えるじぶんがいる。

 あと何年の梅仕事、と思い立ち、一昨年から梅干しを漬け始めた。えーと、1キロ。そういうと梅干し何十年歴のツワモノばあちゃんたちに一蹴された。最も、効率がわるーい!と。去年は、塩漬けにしたところで思いもかけずにコロナに感染してしまい、赤シソを入れずに白梅漬けで終わってしまった。
 今年はがんばってみようかと、小梅を1.5キロほど梅干しに、青梅を1キロシロップ漬けにし、順調に梅酢が上がり、瓶の中の氷砂糖が溶け出したところで、友だちから連絡がきた。梅の実50キロぐらいもいできたから、取りに来てー。

 一瞬迷ったが、もらいに出かけ、デカい紙袋の底が抜けそうなくらい持たされ帰ってくる。体重計に乗せると5.5キロ。追加で梅干しを3キロ仕込み、シロップの瓶に1キロを投入、残りの傷んだのをジャムにした。
 作業をしながら、こういう梅の仕込みの一連を「梅仕事」とわざわざ「仕事」とつけている理由が、じわりとからだで理解できてくる。この大量の実を前に、段取りよろしく、根気よく手を抜かず、一気呵成に作業を進めるには、たしかに気構えというものが必要だ。ちょっと気がゆるんだりしたら、せっかくの塩漬け梅にカビが発生したりして苦労は水の泡。そもそも、梅の実がコロコロとまあるく育ってくるのをいまかいまかと見計らってもぐところから仕事は始まっているのだ。

 でも梅仕事にはごほうびがあって、それは梅の甘酸っぱい香り。塩漬けでも梅のつゆが上がってくればやわらかないい香りが立つ。瓶や瓶のふたをそっと開けると、ふわっと立ち上がった香りが鼻孔からからだ全体に満ちて、何ともしあわせな気持ちに包まれる。
 もちろん、まだ固いうちの青梅そのものも美しい。手に取るとしっとりとしてマットな肌合いが心地よい。2日、3日と追熟させていくと黄色に染まっていく、そのさまにも見とれる。

 梅が実を太らせていく6月中旬の庭には、植物の圧倒的なパワーが満ち満ちてくる。本格的な暑さはこのあとにやってくるけれど、生きものたちの勢いはピークを迎えて、雨が降り高温という日が何度か続くうち、草や樹木はこれでもか、とばかりに生い茂ってくる。梅雨に入り曇天の日があるとはいえども、夏至のころの日の光のすごさに圧倒される。5月は緑を楽しんでいられるけれど、6月は緑に気圧されそう。はい、ごめんなさい、負けました、許してください、人なんてちっぽけなもんですと、ひれ伏す気分だ。

 それでも、水道のメーター検針の人なんかがくるので、あまりの草ぼうぼうは気の毒だから、意を決して草刈りをしなければならない。帽子をかぶり、首にはてぬぐい、ゴム長をはいて近寄る蚊を振り払いつつ、鎌を片手に奮闘して汗だくになると、だんだん野蛮な心境となって、生い茂る草からエネルギーをもらうような気がしてくるから不思議だ。

 そういうときは、じぶんが人であることを半分忘れ夢みている。人類滅亡の日はそう遠くないうちにきっとくるから、大木を都合で伐り倒す馬鹿なヤツらは消え失せるから、そうすれば思い切り茂れるだけ茂って、地上をおおいつくしたらいいんだ。アスファルトの割れ目から、床板の下から、植物はぐんぐん育ち、夏至の太陽を浴びて天をめざしていくだろう。

娘と乗った観覧車

植松眞人

 その小さな遊園地はもうない。長い歴史を持つ野球場の傍らを抜けて十五分ほど歩くと、とても小さな観覧車が家々の合間に見えてくる風景がとても好きだったけれど、もうその遊園地はない。
 子どもたちがまだ幼かった頃、この遊園地の近くに住んでいて、年に何度か連れて行った記憶がある。私が小さな子どもの頃には休日になると家族連れでごった返していたが、自分の子どもを連れて行く頃には、もうその遊園地は寂れていて、ほとんど客はいなかった。敷地の半分は住宅公園になり、併設されていた動物園もなくなっていた。遊園地の真ん中に四階建てくらいのコンクリートの打ちっぱなしのような建物があり、その中にかつての賑やかだった園内の写真が展示してあった。子どもたちが目を輝かせて象を見ている写真やヒーローショーの写真もあった。少し奥に入っていくと、いまでは考えられないけれど、ライオンとヒョウを掛け合わせて産ませた合いの子動物の剥製がくたびれた毛並みで飾られている。
 その日は、なぜか私と娘だけの二人で、今はないその遊園地に出かけたのだった。娘は幼稚園の年中さんだった気がする。父親によく懐いてくれた娘だったので、二人で手をつないで笑いながら園内を歩き回り、パンダの形をした乗り物に乗ったり、片隅に置いてあるモグラ叩きをして遊んだ。
 そして、最後にあの小さな観覧車に乗ったのだった。観覧車の脇には小さな小屋があり、いかにも学生アルバイトらしき男の子が乗車切符を売っていた。料金は二周で二百円だったか三百円だったか。支払を済ませて、娘と二人で小さな観覧車の小さなカゴに向かい合わせに座る。定員は四人だが、四人も乗れるのだろうかと思うくらいカゴは狭かった。それでも、娘はワクワクした顔をしていて、そんな娘の顔を見るだけで私は幸せな気持ちになれた。カゴはゆっくりとあがっていく。いくつくらいカゴがあっただろうか。おそらく二十もなかったような気がする。高さもビルの十階分もなかったはずだ。てっぺんまで行っても、周囲のオフィスビルの部屋の中がよく見える程度の高さだったと思う。それでも、いつもと違う景色に娘は、あちこちを指さして話している。
「お父さん、おうちはあっちのほうかなあ」
「お父さん、幼稚園はあっちかなあ」
「お父さん、ママはお買い物してるのかなあ」
 そんなことを話して笑っている娘を見ながら、毎日の時間をこの娘を最優先に使っていないという罪悪感のようなものに私は苛まれた。
 やがて、規定の二周目が終わり、カゴが地上付近に着いた。しかし、カゴのドアが開けられることはなかった。あれ、と思っている間に、カゴは三周目をあがり始めた。上がり始めたかごの中から小屋が見えて、さっきのアルバイトがうたた寝をしていた。他に客もいないのだから、昼寝もしたくなるだろう。
「あいつ、寝てるな」
 私が言うと、娘も小屋をじっと見る。
「ほんとだ、寝てる」
「ま、いいか。もう一周だね」
「うん。お得だね」
 と、私たちは三周目の観覧車を楽しんだ。アルバイトは三周目が終わっても起きず、四周目が終わっても起きなかった。
「お父さん、このままお兄さんが起きなかったらどうしよう」
 と娘が言い出したので、五周目が降り始めたあたり、小屋に声が聞こえそうなあたりで、私はアルバイトに呼びかけた。
「おーい。到着するよー」
 アルバイトは起きる気配がなかった。娘も一緒になって叫びだした。
「おーい」
「おーい」
「おーい」
「おーい」
 それでも起きる気配がなかったので、私はカゴのドアを叩いた。甲高い音が周囲に響いた。観覧車の近くを歩いていた人たちが振り返るくらいの音が出て、やっとアルバイトが目を醒ました。しかし、その時にはすでに私たちが乗ったカゴは六周目の上昇を始めていた。アルバイトはカゴのすぐそばまで来ていたが、間に合わず、眠そうなすまなさそうな顔をして、私たちに頭を何回も下げ続けた。
「次で終点だね」
 娘が笑う。
「次が終点だね」
 私が笑う。
 観覧車は六回目のてっぺんにきた。空は薄曇りで遠くに海が見えていた。(了)

話の話 第4話:かくす

戸田昌子

ここにある男がいる。仮に青蛸と読んでおく。なぜ青蛸なのか。それは仮名を考えるときに連想が二転三転した結果である。あえて理由を探すなら、彼が決して青くもなければ蛸でもない、という理由でしかない。彼は見た目には親切そうなおじさんで、所帯持ちにも独身にも見える。人当たりの良い世間師のおしゃべりを心得ており、ペラリといい加減なことを言ってはすぐに梯子をはずす癖がある。たとえばこんなふうである。「7月のパリはいいよね、あれは最高だよ。行ったことはないけど」。「こんどミモザの種をあげるよ、オシャレな家にはミモザが咲いているものだから。持ってないけど」といった調子で、ペラっと何かを言っては自分でひっくり返していく。青蛸は含羞の男なのである。

青蛸は自分の本当の名前を明かさない。当然、住所も謎なのだが、いつも東京の西の方からやって来る。生まれたのは新宿区百人町だという。百人町と言えば、知り合いの能楽師の稽古場や、前衛いけばな作家の研究所があるのに加え、旧知の仏像研究者の家もあって、わたしには馴染みのある地名である。青蛸も芸能関係者ではあるようで、音楽一般への造詣は幅広いが、いささか芸能への雑食ぶりが過ぎ、清水イサムの出待ちしたことがある、と私にポロリと漏らしたことがある。

清水イサムといえば、森山大道の、あれである。『にっぽん劇場写真帖』(室町書房、1968)に出てくる、極端に背丈の低い喜劇俳優。写真集のなかで、明るい笑顔の奥さんにこどものように抱きしめられたり、華やかな紙吹雪のステージにまぶしく登場する一方で、閑散としたトイレの隅で憂鬱な表情を浮かべてみせている、彼である。その半ば伝説的な人物のステージを見に行って、そのまま出待ちをしてしまった青蛸であるが、「前にも後にも出待ちというのはその一回だけ」と主張している。

しかし青蛸は、森山大道が撮った「Actor・シミズイサム」の掲載された『カメラ毎日』が欲しいばっかりに、私が古本屋に売りに出した掲載号を即日、買いに行ってしまった。それは2年ほど前のことで、私がReadin’ Writin’ BOOKSTOREという台東区寿の本屋さんに自分の棚を持っていたことがあって、そこにこの号を売りに出しますと予告を出したら、青蛸はそれを買いに行ったのである。「店のドアを開けて、脇目も振らずに戸田さんの本棚へと突進していきましたよ」とは、店主の証言。いったい全体、何に食いつくのか、いま一つ分からないところがあるのが青蛸である。

名前を明かさないと言えば、高校生の時の数学の先生が、偽名を使っていたことがあった。その先生の本名を、ここでは仮に吉川武彦としておこう。しかし彼は「吉川コージ」というような感じの、ちょっと芸能人を連想させる名前を名乗って教壇に立っていた。見た目は初老のはげちょびん。いつも胸ポケットにウイスキーの入ったスキットルを入れており、授業中に引っ張り出してはちょびちょび飲む。ふわっといつも甘い匂いがしている。髪も背中もアル中の匂い。

彼はいつも幻覚が見えるなどとのたもうていた。ダメ教師の典型である。授業中、マリー・アントワネットが羽をつけて原っぱを飛んでいるのだと言い始める。黒板に正しいのか正しくないのか分からない数式を書きつけているが、どちらにせよ生徒たちはまともに聞いてない。幻覚の話が出るたびに「先生、やばい」と生徒たちは笑い転げている。そのうちに誰かが職員室から教員名簿を盗んできて、実名が吉川コージでないことをバラしてしまう。先生も先生なら生徒も生徒で、ともにダメダメである。平和な教室。

名前をかくす、と言えば、大学新聞の時の後輩。初めて部室に現れた時からかなり変わっていて、あらゆるものを批判し続けて誰とも話が通じず、懇親会では蟹味噌を入れるために供された蟹の甲羅に「カルシウム〜」と言って齧り付いてしまい、ドン引きされたりしていた。わたしとしては立場上とにかく耳を傾けていたら、そのうち尊敬されるようになってしまい、流れで取材に出すことになった。何をやらかすかわからないので同行したが、インタビュー相手もかなり「とんでいる」少女小説家で、なぜか話が合ってしまい、奇跡的にインタビューは大成功。小説家のポートレートを撮影しようとわたしがカメラを取り出したら、後輩が隣に無理やり入ってきたため記念撮影会になってしまった。苦肉の策でトリミングしてポートレートにせざるを得なかったが、文章はまあまあよく書けていて、小説家は大気にいり。写真まで気に入ってくださり、別の媒体でも使いたいのでプリントを下さいとまで言われてしまった。この成功体験が仇となって、その後、後輩は数々の問題行動を起こすことになる。

その名が偽名であったことがわかったのはその後のこと。事情は省くが、記名記事を基本としていた新聞部としては頭を抱えた。個人情報保護の観点から入部時に学生証を確認するわけにも、と悩み果てた末、結局は「ペンネーム可」ということにして無理やり皆を納得させたが、「あいつ流石にやるなぁ」という感嘆の声までが出現する始末。

ひとはいったい、なにを「かくす」のか。特に口に出さないことが、「嘘」と認知されておおごとになることもある。嘘をついたつもりもないのに、不義を疑われることもあるし、言うとなにか違ってしまうから「かくす」結果になることもある。ひとは、小さな嘘にも騙されるし、大きな嘘にも騙される。騙されるのではないかといつも疑心暗鬼になっていると、かえってなんでも嘘に見えるようにもなる。

「来年から、自転車にも免許が必要になるんだよ。だから自転車の免許を取りに行かなくちゃいけないよ」という適当な嘘をついている人がいた。それを聞かされていた女子はその話を真剣に聞き入っていたが、よもや信じはすまいとわたしは放置。しかしそれが嘘であると彼女が気づくまでは半年を要した。のちほど、なぜ教えてくれなかったのかと問い詰められたが、よもや信じるとは思わなかった、とのわたしの言い訳に、彼女はますますわたしへの不信感を募らせてしまった。嘘をついたのは、わたしではないのだが。

嘘と言えば、Rという友達がやはりペラペラと罪のない嘘をつく人で、彼女はわたしの知る中では最も雑学博識のAB型の典型で、文字ならなんでも読む、読むものがなければ菓子袋の裏まで念入りに読んでしまうような人である。彼女は自分の息子に、「メンマって何でできているの?」と尋ねられて、「ほら、あれ、竹の割り箸あるでしょ。あれをぐつぐつ煮て作るのよ」と教え込み、彼はしばらくの間、それを信じていたそうである。そんな気の利いたことを言ってみたいと一念発起したわたしは、小学生だった娘に「羊はグー蹄目だけど、馬はパー蹄目なんだよ」と教えてみた。とはいえ偶蹄目だの奇蹄目といった類のややこしい言葉など、どうせ覚えてはおらぬことだろうとたかをくくっていたら、その数年後、林間学校で牛の乳搾りを体験して帰ってきた娘「あのね……ママ、パー蹄目っていうのはないんだよ……」とそっと耳打ちしてきた。そんな話はすっかり忘却の彼方であったわたしが「あらまあそんなの信じていたの」と応答したら、少々傷ついた顔をして「ママが知らないんだと思って、教えてあげなくちゃと思って……恥をかいたらいけないから……先生のお仕事をしているのに、間違ったこと言ったらいけないと思って……」と、つぶやいた。子どもは確かに信じやすいのだから、いい加減なことばかり言ってはいけないと、反省することしきり。

世の中には不倫とか横領とか借りパクとか、いろんな嘘や隠し事があるものだが、「隠していた!」とか「嘘をついていた!」という言える類のものは、まだまだわかりやすくて良いのかもしれない。露見しない嘘というのはないものらしいから、追求しなくてもいずれ知れるようになるものなのかな。

青蛸はいいやつだ。近所のコーヒー屋でアイスコーヒーを飲んでいたとき、おしゃべりに没頭したわたしは間違って青蛸のコーヒーを飲んでしまった。あっと気づいてあわててストローを抜き、新しいストローに変えよう、と言ったら、青蛸はケラケラ笑いながら、いいよいいよとストローなしでコーヒーを飲みほした。変な仮名をつけてごめん、青蛸。

そして後日談。先日ふたたび会ったとき、青蛸は「これあげる」と手に持った(使いふるしの)ジップロックの袋をわたしに差し出した。なかに入っていたのは、さやえんどうのような、鞘に入った、カラカラに乾いた植物の種。「これ、ミモザの種」と、得意そうな顔をしている。くれると言われていたものの、どうせまた嘘だろうと思っていたのだから驚いていると、「あげるって言ったでしょ。ミモザの苗なんか、買うと高いよ?」と続けた。わたしが「てっきり嘘だと思った」と言うと、「嘘なんかつきませんよ〜」と嬉しそう。青蛸は決して嘘つきではないのかもしれない。本名も、当面のあいだ、知る必要もなさそうだ。

「図書館詩集」9(すぐそこにある山まで雲が下りてきて )

管啓次郎

すぐそこにある山まで雲が下りてきて
山頂の城が白くかすんで
見えたり見えなかったりして
しずかな昔がそこにやってきたようで
でも昔もじつはやかましくて
ここもかつては戦国時代で
その火種の中心のひとつだったってさ
山地から平野へ
川の流れが生む地形に
歴史が草のように生えてくる
ああ、いやだいやだ
「戦国時代」とは強欲の時代
殺人、略奪、強姦、火つけ
ここでは食えないから奪おう、という残忍な思想を
かれらを食えなくする当の領主どもから
植えつけられれば嬉々としてしたがい
かれらが浸りきったそんな考えが
やがて近代となれば国家の外に向けられたのか
岐阜という名前にひっかかっていた
何がそこで分岐し
どんな丘がなまなましくふくらんでいるのか
運命の分岐を語るのは簡単だが
実際のようすはモヤモヤしてわからない
なだらかな丘陵をつらぬいて
水の龍がうねるのか
でも現実にでかけてゆくと
そこにも地形のドラマがつづく
山地が終わる土地だ
平野がはじまる土地だ
水量のある流れが
おびただしい魚を生む
海から連れてこられた鵜が
かわいそうに人にいいように搾取されている
それも土地の風物らしい
迫る山の上にある城が
心を騒がすけれど
あの城だって城跡にすぎないのだ
城は城を継いでおなじ場所に降りつもる
城跡に城がまた建てられて
時間とか時代とかが圧縮されるわけ
それにしても恐ろしい高さだ
土地をよく睥睨し
世界の終わりを見るのにちょうどいい
信長はここで何を思ったのか
ある人間の生涯を
いくつかの時の断面において見ようとするなら
あるひとつの時刻に
うすいフィルムを挟みこみ
そこに映る存在しない写真において見ることになる
未来を知らないかれらの未来を
われわれは過去として把握しているのだから
残酷だね
意図せずして残酷
彼女や彼の本質的な転回の
あるいは改心の、改悛の、
決意の、決定の、
姿勢や表情もすべてフィルムにくっきりと映って
すべては透明な凧のように空中に浮かんで
びゅんびゅん唸っている
信長にこの城を奪われたのは斎藤なにがし
城を整備したのはその先々代の斎藤道三
自分の息子に殺された道三
いまでも岐阜市では毎年「道三まつり」があるそうだ
なぜ現代にまで武将崇拝がつづくのか
たたるとでも思っているのではないか
道三にしてもそれ以前にこの城の原型を築いた
誰かからその原=城を奪ったわけで
そのまえには砦があって
そのまえにはただ岩場があって
人がこのあたりに来ないころから
猿の群れが風に吹かれていたんだろう
この高みから下を見おろしながら
「ねえ、諸君、この高みからひといきに
長良川に跳びこむことはできるのかな」
「ああ、できるとも、やってみせようか」
猿たちはいさましい
息を呑みながら、あくびをしながら
ふりかえりながら、とんぼを切りながら
奈落にむかって、いや奈落のさらに底の
辺土にむかって
リンボーダンス
いっそ水に入ってしまえば
きみも私も鮎さ
占い好きな魚
運命はお天気と苔のパターンにまかせて
鵜に呑まれないよう
気をつけながら泳いでゆけ
左にゆけば平野なるべし
右にゆけば渓流なるべし
おなじ水でもずいぶん
心がちがう
音響が変わる、すると
時代が変わる
霊魂は不滅だというが
そのありかたとして
つねに滅しながらその場に
つねに湧いているとしか思えないこともある
水がつねに新しく流れながら
川としては同一でありつづけることの不思議
そう、思議にあらず
思議してはならない
思議することができない
不思議とは不可思議
不可能だ
(フシギなどという仏教用語を幼児でも
日常的に使うのだからニッポンは末恐ろしい)
流れるものと残るものの対立は
ずいぶん前からぼくの発想を規定していたようだ
こんな短い詩を以前に書いたことがあった

  「逆説」
  文字は残る
  声は消える

  残された文字はもうそれ以上
  姿を変えない

  消えた声は永遠にゆらめいて
  私を聞きとってと
  私たちに呼びかける

いやね、こう書きながらふと思ったのは
「ながら川」と呼ばれる水のその構造なんだ
川はひとつでありつつ
水は不可算で(まことにふかふか不可思議)
詩はひとつでありつつ
個々の詩は並行して存在することも
別個に継起的に書かれることもできる
詩は水の中を泳ぐ水の魚
一瞬ごとに消滅しながら
次の一瞬にはまた生まれている
(だが生まれるとは自動詞? 他動詞?)
そして「瞬」とは単位になりうるのかな
そんな風に時をあたかも羊羹や羊肉のように
切り分けることができるのかしら
時を時として測れないから
詩が生まれる
詩を詩として体験するためには
時が必要だ
時を時としてやりすごしながら
詩を発見する(予感する)
詩を掘りながらまた
時の水に足を浸す
岐阜は「ながら」の聖地
詩はそもそもそれ自体としては
予感することはできても突きとめることができない
詩はただ「ながら」とともにあり
残余すべて亡きがら、だから
詩に夢中になってはいけない
詩はただ一瞬の
一瞥のうちに
読まれ、その残像が
記憶されればそれでいい
料理しながら詩がある
歌いながら詩がある
運動しながら詩がある
慟哭しながら詩がある
授業中にも詩がある
商店にも詩がある
会社にも詩がある
路線バスにも詩がある
詩はすべてながら詩
詩ながら詩
我ながら詩
あらゆる人生のすぐ横を
二本のレールのような一定の間隔をもって
流れているだけだ
そのうち「みんなの森」にやってきた
この不思議な森は波打つ天井で
ヒトの群れを雨風陽光から守ってくれる
半透明のすかし模様の入った
モンゴルの遊牧民の住居のようなかたちの
ドームが発光して文字を守る
城や詩を考えることに疲れた心を
文字の森が休ませてくれることがわかった
Pick-me-upとして濃いコーヒーをもらって
砂糖黍の砂糖をたっぷり入れ
持参した肉桂と唐辛子を入れて
飲む
ニッケ、ニーケー、サモトラケのニケ
涙が滲むほど辛いコーヒー
さあ今日の読書をはじめようか
「一九八二年、七歳の時、
私は映画館で『龍の子太郎』を観た。
おそらく、ソ連の子どもがこうしたアニメを
観ることの意味を現代人が理解するのは
難しいだろう。私は本物の龍を見るより驚いた。
ショックだった。」
(エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』(河出書房新社、二〇二〇年より)
みごとな回想
よい驚きだ
たちまち図書館が水であふれ
川となり
透明な龍が強烈に体をうねらせ
本がしぶきのように飛び散って
もう収拾がつかない
ぼくはタツノコタロウを知らず
ことばはイメージにむすびつかず
本物の龍ももちろん見たことがなくて
だが「驚いた。ショックだった。」
かれらソ連のこどもたちが驚いたのが
ぼくには衝撃だった
それで頭がぐるぐる回りだした
図書館でありながらここは荒野
岐阜でありながらここはサハリン
姿を変えた森でありながら
すべてはアニメーション
Anima, animus の乱舞
龍の瞬間ごとの出現
翔んでいく
鱗も飛び散り
きみの目に次々と刺さるのだ

岐阜市立中央図書館(ぎふメディアコスモス)、二〇二三年三月二六日、雨

ぼくがおれに変わった日・続編

篠原恒木

おれは昔、ぼくだった。
先月と同じ書き出しだが、気にしないでもらいたい。
「ぼく」だった頃がこのおれにもあったのだ。生まれてこのかた、ずっと「おれ」だったわけではない。

四十年も前のことだ。ぼくは出版社に入社して、週刊誌の編集部に配属された。そう、この頃は「ぼく」だったのだ。右も左もわからず、ひっきりなしに編集部にかかってくる電話を取るのがひたすら怖かった。ぼくは間違いなく会社の中でいちばん仕事ができないニンゲンだった。

当時は「出張校正」というシゴトがあった。
週刊誌はニュース・ページをいちばん最後、つまりは発売日の直前に印刷所へ入稿する。ニュース・ページの入稿最終締め切りは金曜日の深夜、つまりは土曜日の朝だった。その土曜の朝イチに印刷所へ入稿されたニュース原稿のゲラをチェックして素早く校了するために、土曜日の昼前に印刷所へ「出張」して、その場で夕刻までに責了する。これなら印刷所とのやりとりの時間が大幅に省略できるというメリットがあった。以上が当時の出張校正の大雑把な内容だ。

初校ゲラを受け取り、出張校正室に待機している校閲者のヒトビトに配ったり、原稿の疑問点を記事の担当者に電話して解決したり、行数を整えたり、初校ゲラを戻したり、活版印刷の本文部分と写植部分の見出し・写真などの赤焼きを切り張りして校了紙を作るのは、すべて新入社員、つまりはぼくのシゴトだった。当時はすでに週休二日制が導入されていたが、ぼくは毎週土曜日にこの出張校正があったので、休みは日曜日のみだった。そして一年経って、新しい後輩部員が入ってきても、なぜかこの出張校正は相変わらずぼくが担当していた。

印刷所の出張校正室は古びていて、一日中陽の当たらない殺伐とした部屋だった。使い込まれた机を繋ぎ合わせた作業スペースと、その机の上に電話が一台あるだけだ。ぼくはあの灰色の部屋に行くのが憂鬱で仕方なかった。印刷所は国鉄の駅から勾配のある坂をダラダラと上ったところにあったが、急な坂道を毎週ヨロヨロと歩くたびに、気分が沈んできた。

昼前に出張校正室に入ると、やがて校閲者の方々がやって来る。初校ゲラが部屋に届けられる前に、弁当が支給された。この弁当があり得ないほど不味かった。大学を卒業したばかりで、それまでの二十二年間にロクなものを食べてこなかったぼくでも、この弁当は食えたものではなかった。平べったい弁当箱の蓋を開けると、白飯の真ん中に小梅が埋め込まれ、おかずは大きな厚揚げの煮物と少量のきんぴらごぼう、といった「全面的かつ徹底的に茶色」という塩梅だった。肉もなければ魚もない。さぞや味付けも濃いだろうと思われるだろうが、これが全面的かつ徹底的に薄味なのだ。つまりはめしのおかずとしてまったく機能しないという悲しいものだった。だが、文句をいう訳にもいかず、ぼくは毎週その弁当を黙々と食べていた。
「よく食べるなぁ。おれの分も食べていいよ」
校閲者の方にそう言われ、固辞できず二個目の弁当に箸をつけて、むりやり胃に押し込む日もあった。辛かった。
そうこうしているうちに朝イチで入稿された原稿が初校ゲラになって出張校正室に届けられる。ぼくはそのゲラを校閲者の方々へ配り、自分の分も確保して、本文に目を通す。そこでぼくは必ず愕然とする。
「今週もやっぱりそうか」
と、途方に暮れるのだ。初校ゲラの余白に、原稿が二十行もハミ出している。週刊誌の記事は短いものだと見開き二ページだが、その二ページの原稿で二十行も超過しているということはどういうことなのか。答えはひとつしかない。入稿がいいかげんなのだ。ちゃんと行数を確認して、原稿を整えておけばこんなバカなことは起こらない。ぼくは憂鬱な気分で、その記事の担当者の自宅へ電話をする。出ない。早朝に原稿を「あらよっ」と入稿して、今頃は布団にくるまっているのだろう。ぼくはしつこく電話を何回もかける。ようやく出た相手は不機嫌そうな声だ。
「なんだよ」
「あのですね、本文が二十行もオーヴァーしているのですが、どうしましょうか」
「そっちでなんとかしてくれよ。こっちは徹夜明けなんだよ」
実にあっけなく電話は切れる。徹夜明けだと言うが、ぼくだって昨夜は午前三時まで編集部で仕事していたのだ。そして約百六十行の本文が百八十行になっているのだ。「なんとかしろ」と言われても、二、三行のハミ出しならなんとかするが、二十行を削るには本文中のエピソードをひとつ、場合によってはふたつ、バッサリと落とさなければならない。だが、その記事を直接担当していないぼくが勝手に
「よおし、この証言とこの発言をカットしちゃえ」
と、削ることはできない。校閲はすでにチェックを終え、疑問点を鉛筆で指摘している。ここは初校ゲラを一刻も早く戻して、再校ゲラを出さなければならない。ぼくは仕方なく、また二十行ハミ出しの担当者に電話する。
「ああ、何度もうるさいな」
「本文中に疑問点がいくつかあります。そして二十行オーヴァーはどこを削ればいいでしょうか。で、写真のキャプションがすべて抜けているのですが」
「キャプション? ああ、そう言われれば書くのを忘れたかもな」

次の記事のゲラを見ると、こちらは本文が十行足りない。「ゲタ」と呼ばれる記号のようなものがむなしく本文の終わりに十行分並んでいる。これはどういうことなのか。繰り返しになるが、答えはひとつしかない。入稿がいいかげんなのだ。ちゃんと行数を確認して、原稿を整えておけばこんなバカなことは起こらない。ぼくはますます憂鬱になり、次の十行不足担当編集者の自宅に電話する。三回目でようやく繋がった。
「なんだよ」
「あのですね、本文が十行足りないのです」
「十行足りない? そんなはずないぞ。ちゃんと行数は揃えたからな」
「しかしですね、実際に十行分のアキが生じているのです」
「そっちでなんとかしろよ。なんか足せばいいだろう」
再びあっけなく電話は切れる。ぼくは仕方なく初校ゲラではなく、生原稿を校閲者から借りてチェックする。当時の生原稿は「ペラ」と呼ばれていた二百字詰めの原稿用紙に黒鉛筆で手書きされていた。正確に言えば二百字詰めではない。週刊誌の字詰めに合わせて、一行十三文字のマス目が十行縦に並び、その下には書き込み用の余白スペースが設けられていた。
その生原稿をパラパラめくっていくと、六行分の手書き文章が赤鉛筆で削られていた。よし、この六行を復活させればいい。六行のなかに危険な文言、あるいは記事になったときに問題になりそうな発言などが入っていないかを確認して、大丈夫だと判断したぼくは初校ゲラに手書きでその六行を赤鉛筆で加えていき、残りの四行はどうにかこうにかやりくりする。

また別の初校ゲラが届いた。こちらは二行ハミ出しなので、なんとかなるのだが、校閲者から疑問点がいくつか指摘された。これは担当編集者本人でないと解決できない。ぼくは三人目の編集者の自宅に電話する。夫人と思しき女性が出た。
「ご主人さまをお願いしたいのですが」
受話器の向こうで一瞬の沈黙が流れて、
「今日は締め切りで帰らないと申しておりましたが」
と、戸惑ったような声が聞こえる。
いや、締め切り日は昨夜で、今日は締め切り明けなのですが、とは口が裂けても言えない。二十二歳の坊やでもそのくらいの機転は利く。
「失礼いたしました」
受話器を置いて、ぼくは再び途方に暮れる。

そんなとき、出張校正室に置かれた壊れかけのTVからニュースが流れてきた。有名芸能人の急死を伝えている。ぼくは嫌な予感がする。数分後、出張校正室の電話が鳴った。編集長からだった。
「二ページ、記事を差し替えるぞ。何を落とす? ラインナップを読み上げろ」
ぼくは今日校了分の記事のタイトルをすべて電話で伝える。編集長の判断は、偶然にも二十行ハミ出しの二ページ記事だった。このことがこの日唯一の幸運な出来事だ。
「レイアウト・マンと記者、アンカーに連絡してくれ。芸能班のデスクにもな。あ、おまえはいまからすぐ編集部に行って、顔写真を何枚か選んでこい。頼むぞ」
腕時計を見ると午後一時を過ぎていた。校了のデッド・ラインまであと四時間しかない。ぼくは大急ぎで初校ゲラを戻して、各方面に電話をかけ、あたふたと印刷所を飛び出し、編集部へ向かい、写真がストックされているキャビネットから生前の芸能人の顔写真を十枚ほど選んで出張校正室に戻る。机の上には差し替えページを除いたすべての再校ゲラが置かれていた。めでたくすべて行数はピタリと合っていたが、これらも素早く捌かなければならない。そして差し替えページの進行作業も並行して進めないと間に合わなくなる。いまから一時間ほどで責了者である編集長が出張校正室にやって来る。あっ、そうだ。表紙のタイトルも差し替えなければならないはずだ。さっきの電話で編集長は何も言ってなかったけれど、九十九パーセントの確率で表紙タイトルも差し替えだろう。ああ、印刷所のヒトに表紙の校了紙を引き上げてもらうようにとお願いしないと。いや、表紙はもう印刷を始めているかもしれない。うおおおおおおおお!

こんなことを毎週、二年間も繰り返せば、「ぼく」は「おれ」になるに決まっている。ココロがすさんでいくのだ。あの日々以来、ぼくからおれになったおれはおれのままである。そんなおれを誰が責められようか。おれは今でも深夜に悪夢を見る。本文の行数を揃える夢だ。夢のなかのおれは必死に初校ゲラの本文を削ったり足したりして、行数を指定通りに整えるのだが、出てきた再校ゲラはきまって二行ハミ出していたり、一行足りていなかったりして、何度繰り返しても一向に行数が合わないのだ。四十年前のウマシカたちのおかげで、おれはいまだにトラウマを抱えている。

どうよう(2023.07)

小沼純一

ねこがほしをみるように
ねこがほし
ねこがほしい
ほしがって
とれるもてるわけじゃない
ねこはそこにいるだけで
かうのはできても
かうのはかり
どこからか
どこのだれかは
しらないが
かりている
だれのでもない

しめきりまでにはおわらせて
つづけるべきはそのあとで

まちあわせにはあのみせで
はれたらさんぽにまいりましょう

はなはしぼんでみちはじゅうたい
みせはしまっはしおれる

あしゆびはれてあるけない
まわりぐるぐるまわってる

からだじゅうにはあかいしっしん

いけない 
いかない
いきたくない

かたいやくそく
やくそくどれも
あなたとわたしかわらなければ

いけない
いかない
いきたくない
いえもない

よていはみてい
みえないみらい
みていたいのは
かってなみらい
よていはみんなかていのうえで
いきていたらとくちにはださず

ふー ふー
あついおちゃ
さますよう
どうして
こういうくちをする
じぶんのからだが
いとわしい
おもいどおりになりゃしない
どっかにふた

がかかってる
はい

それとも
しんぞう

つめたい
まなざし
わかってる
しょうがない
ふー ふー
そうそう
おじいちゃんも
おなじだった
やっぱり
ふー ふー
してたっけ
から

ってにてるんだ
しょうがない
って

むもーままめ(30)月を弄ぶ、の巻

工藤あかね

子供の頃から、身近なもので一人遊びするのが好きだった。
夕方、西日の入る場所を探して、軽くレースのカーテンを締めると目をぎゅっと瞑ってみる。しばらくすると薄オレンジ色に透けた目の奥に、何やら模様のようなものが見えてきてウニョウニョと動き出すのだ。この模様がどう動いてゆくのか観察して、よく遊んだ。ただしこれは、ずっとやっていると頭がくらくらしてくるので、自然と強制終了になってしまうのが玉に瑕なのだが。

鉛筆と紙を用意し、何も考えずに落書きし続けるのも好きだった。最初うさぎの絵を描き始めたとすると、手を適当に動かしているうちにいつのまにか足がムカデのように増えていたり、変な花が頭に咲いていたり、背中に翼が生えたり目は宇宙人のように大きなアーモンド状になってきたりして、これまでみたことがないような生き物になってくる。一つ描けるとそのそばから、無限にちょっとおかしな生き物や文字が湧き出してきて手がどんどん止まらなくなる。紙が落書きで埋まっても隙間や、すでに描いたところにも重ねて描いていったりして、すごい情報量のあるような、ないような様相になっていくのが面白かった。

大人になってからのある時のこと。合唱団の子供達がたくさんいる現場で歌ったことがある。終演後に子供たちの一人が、記念に「サインください」と言ってきたので、何となしに手を勝手に動かし、適当な絵を描いて渡してあげた。それを見た子供はなぜか大喜び。その子は子供たちの輪の中に戻っていったが、そこで私の絵を見せた途端に歓声があがった。すると来るわ来るわ、子供達が私の落書きつきサインを求めて列をなし始めたのだった。これはちょっと嬉しい思い出として、心に残っている。

そのほかにも、今でもときどきやるものがある。月をふたつに増やして衝突させる遊びだ。それは満月か、それに近いくらい月が太った時にやるのがいい。方法は簡単。月を見上げる時に目の焦点をぼかすだけ。よく新聞の片隅などに掲載されている、目をよくする3Dトレーニングみたいなものがあるが、つまり要領はそれと同じである。月を見る時に、目の焦点をぼんやりとずらしてゆくと、やがて月がふたつに見えてくる。気合いで三つまで増やしてもいいが、まずは二つがいい。焦点をずーっとずーっとずらしてゆくと、自分的にはこれ以上無理というくらいに、月と月の距離が離れてくる。その刹那から目の筋肉をゆるめると、二つの月が一つに収斂するようにしてぶつかりあう。目の筋肉をゆるめるスピードを変えると、ゆっくりぶつかったり、急速に衝突したりと調節も可能になる。自分で効果音をつけてヒューーーーーズドーンなどと、口走ってもいい。

大人になっても、満月の日にはついついこの遊びをしてしまう。夜、帰宅途中に満月を発見すると、歩きながらやってしまうこともあるのだが、よくよく考えると、歩きながらやるのは実はよくないのかもしれない。まず、月を眺めていると周囲に対する注意が散漫になるから、道端では事故に気をつける必要があること。もうひとつは…極端に怪しい人の目になるので、歩いてきた向かい側の人を怖がらせているかもしれないこと。

仲井戸麗市(チャボ)の洋楽カバー

若松恵子

古井戸、RCサクセションのギタリストであった仲井戸麗市(なかいどれいち)、通称チャボが有観客のライブを再開した。同じ時代を生きて、現在進行形の彼の音楽を直接聴けることを幸せなことだと思っていたので、有観客のライブ再開はとても嬉しい。

南青山のライブハウス「曼荼羅」で、5月26日の第1回めは、梅津和時、早川岳晴、RCサクセションのドラマーの新井田耕造をゲストに、久しぶりにチャボがエレキギターを弾きまくる、しびれるバンドナイトだった。(かっこよかったな~チャボ)

そして2回目の有観客ライブが、6月23、26、27日の3日間、全曲カバー曲を演奏するソロライブとして行われた。コロナ感染に注意しつつ観客数を抑えなければならないので、聴きたいファンがみんな来られるように3日間のライブとなった。

洋楽のカバー曲は、著作権の問題で配信では演奏できないようで、今回は有観客のみで、そんな制限は気にせずに、チャボのカバーをたっぷりと聴くことができた。優れたミュージシャンは、みんなカバーの名手だけれど、チャボもそんなミュージシャンのひとりだ。愛してきた曲を、自分を通過させて、今度は自分の表現として演奏するのがカバーだから、原曲の素晴らしさにチャボの魅力が加わって、本当にしみじみ味わい深いのである。埋もれた名曲を発掘して磨いてみんなに届ける、そんな役割もカバーにはある。

洋楽のカバーに彼は日本語詞を付けるのだけれど、ほとんど直訳ではなくて、彼オリジナルの歌詞が歌われる。原曲通りでないと言っても、決して替え歌ではなくて、原曲の持つスピリットが、日本のロック少年にはこんな風に共感されたよという意訳で、そこも彼のカバーの魅力となっている。演奏の合間に彼が語ることが、歌にさらなる陰影を加える。

ビートルズのイエスタディは、「昨日という夏、夏という人生」と歌われる。ボブ・ディランのアイ・ウォント・ユーは、「アイ・ウォント・ユー、会いたいぜ」と歌われる。昔から知っている歌が、チャボのカバーによって、今再び新たに胸に届く。知ってる曲をみんなで大合唱とはいかない、とてもとても個人的な、音楽空間なのである。大勢に聴いてもらいたい、もったいないと思うけれど、曼荼羅に出かけて行って、直接聴くのが一番良いのだ。

有観客ライブが再開されて嬉しい。今後も貴重な機会をとらえて出かけていきたいと思っている。

『アフリカ』を続けて(25)

下窪俊哉

 先月、急に思い立って、アフリカキカクの年譜をつくってみた。ある人に話したら、「ネンプ? 年表ですか?」と驚いたような顔をされた。
 私は年譜を読むのが好きなのである。例えば講談社文芸文庫を買うと、必ず巻末についているあれだ。
 自分のやってきたことにかんしては、若い頃には全て頭の中に入っていて、いつでも取り出すことができた。それが最近は全くそういうわけにゆかなくなり、けっこういろんなことを忘れているということがわかってきた。
 3年前に『音を聴くひと』という自分の作品集をつくった後、それを読んだ旧知の人から連絡があって、「10年ちょっと前にも下窪さんの本をつくる計画がありましたよね?」と言われて驚いた。全く覚えてないのである。指摘されても思い出せないとは、どうしたことだろう。
 最近、そんなことが徐々に増えてきたので、アフリカキカクにかんすることだけでも、まとめておいて、いつでも眺めることができるようにしよう、と考えた。「水牛」で「『アフリカ』を続けて」を書き続けるのにも役立ちそうだし、と。せっかくならウェブサイトで公開してしまおうということになった。

 2005年10月に『寄港』第4号を出して、休刊したところから始まる。『寄港』を『アフリカ』の前身とは言えないような気がするが、『寄港』を続けていたら『アフリカ』はなかったはずなので、大きな転機となる出来事だったと言っていい。
 じつは止めるのは嫌いじゃない。止めると、必ず新しい流れが生まれるからだ。何かを止めたいとか、あるいは止めたくないと考える時というのには何かありそうだと思う。
 そこから2023年3月の『アフリカ』vol.34まで、ざーっと眺めてみる。
 最初の数年は、編集人である私の失業、再就職から、ついには会社勤め自体を止める決断をして「無期限の失業者/自由人」となる流れを背景に、続かないはずだった『アフリカ』を年2冊のペースでつくり続けてしまっている。
 その後は、項目の多い年と、少ない年があるのがわかる。
『アフリカ』を隔月で出していた2012年〜13年は際立っているかもしれない。どうしてそんなことができたんだろう? いまとなってはうまく思い出せない。そのことだけをやっていたのなら、わからないでもないが(それでも大変そうだ)、そんなはずはない。幾つかの仕事を始めたばかりだったし、逆に余裕はなかったはずである。そんな中、初めてのトーク・イベントまでやってしまっている。当時はしかし、そんなに大変だという意識はなかったような気がする。
 逆に、もっともっとできるはずだと感じていた。いわゆる”ランナーズ・ハイ”というのに近い状態だったのかもしれない。
 似たようなことが、本を何冊も立て続けにつくった2021年前後にもあった。文章教室を毎週やっていた2018年にも近いことが言えそうだ。
 それらの時期を思い返してみると、いずれも(年譜には書いていないが)印象深い対人トラブルが起こっていた。いつもは上手く対処できていることも、ハイになっている時期には、できなくなるということかもしれない。あるいは、トラブルも起こるべくして起こっているのだろうから、現状に風穴を開けようと躍起になっているのかもしれない(しかしトラブルはない方が楽なので、このことは今後、頭の隅に置いておきたい)。
 一方、例えば2017年などは、アフリカキカク以外の仕事で忙しかったので、記述が極端に少ない。それでも『アフリカ』は1冊、ちゃんと出しているのである。
 そうか! と思ってざーっと確認してみると、どんな状況であれ、2006年以降『アフリカ』を1冊もつくらなかった年はないのだ。「『アフリカ』を続けて」いると言うからには、最低でも年1冊つくっているというのは驚くようなことではなさそうだが、その事実を年譜の中に置いて眺めてみると、何だか不思議な気がする。

 いろんなアイデアを思いついて実行はするのだが、殆どの人にはウケないという特徴が全体にわたって言える。ただし、信じられないくらい深く伝わっている人もいるのである。たくさんの人にウケたら、深く伝わる人も増えるのかどうか、そのへんはよくわからない。

 そんなことを続けて、もう17年、これまでやってきたことを隠さず(忘れていることはまだあるかもしれないが)ズラッと並べて見せて、私は平気なのだ。清々しい気持ちがする。そんなことは当然のように思っていたが、誰でもそうだというわけではないらしい。つまり過去の仕事、以前の作品は封印しておきたい人もいるわけだ。
 アフリカキカクには17年前のものと、いまのものを並べて同じ雑誌ですと言って見せることができるのである。何かを止めたことすら大した分断ではないと感じているところが自分にはある。ものすごく嫌な出来事があっても休み休み思い出し、あのことがあったからこそ、その後があったと考える。

『アフリカ』を始める前に書き残しておいた文章によると、『寄港』を止めよう(休もう)と思った大きな理由は、他人から要求されて無理やり働かされているような気分になってきて、嫌気がさしてしまったからだそうである。当時は会社勤めを始めたばかりで、余裕のない中、短い休日の時間をその無償労働に当てていた。その文章の中には、「参加者から対応に困る妙な苦情が来たりもした。これは地獄だと思った。」という記述もある。
 なるほど、『アフリカ』を始める時、「続ける気はない」などと言っていたのはある種の人たちへ向けたハッタリだった。これからは好き勝手にやる、何か言いたい奴はあっちへ行け、ついて来るなよ、というわけだ。自分だけでなく、みんなもっと好き勝手にやればいいのにと思うこともある。好き勝手にやると、責任が芽生えるというのか、どうなるか? というと、何があっても他人のせいにしなくなるということではないか。アフリカキカクという場で起こった全てのことを、私は受け止める。好きこのんでそうしているのである。

 私はいまのところ、『アフリカ』を止めたいとも止めたくないとも思っていない。

イスタンブールでマンサフを食う

さとうまき

カハラマンマラシュで被災した家族にお見舞金をいくらか渡して、イスタンブールに戻ってきたときには、雨も上がっていた。今回いろいろと面倒をみてくれたシリア難民のムハンマッドは、家に招待してくれて、晩飯をごちそうしてくれるという。妻に電話して、マンサフと呼ばれる家庭料理でもてなすように指示していた。実は、僕はこのマンサフがどうも苦手なのだ。マンサフとは羊肉を、ジャミードと呼ばれる固形ヨーグルトを溶かして煮込んだものなのだが、とってもくっさいのである。しかし、うまく断る理由もない。

イスタンブールの飛行場は、数年前に新しく森を切り開いて作られた。周辺に戸建ての新しい街が作られつつあり、市中よりも家賃が安いのかシリア難民も最近多く住み着いているという。ムハンマッドがドアを開けると女の子たちがムハンマッドに抱き着いてきた。「娘さん?こんにちは!」とあいさつすると、「この子たちは、兄の娘で、戦争孤児なんだ」とムハンマッドが説明してくれる。ダラアで爆撃に巻き込まれ、両親は即死。女の子だけが3人残された。お爺さんが、彼女らを連れだし、先にトルコに難民として避難していたムハンマッドに合流して一緒に暮らしている。ムハンマッドが自分のこどもと一緒に面倒を見ているのである。

真ん中の女の子は、8歳くらいなのだが、特に甘えん坊でムハンマッドに抱きついて離れない。もうずいぶん前にベツレヘムの孤児院を訪れたことを思い出す。イスラムの世界というよりは、家族の問題なのかもしれないが、結婚前に妊娠したりしたら、一族の名誉のために、母子ともども殺してしまうことは、しばし起こりえるので、病気で入院したことにし、生まれた赤ちゃんを引き取る施設があった。カトリックでも堕胎が許されないので同じように子どもを出産してこっそりと引き取っていた。そこへ見学に行った時、子どもたちが抱きついてきて離れようとしない。この子たちは、愛に飢えているのだ。全く同じような感じがした。

思えば、トルコには340万人をこえるシリア難民が暮らしている。トルコとしても、シリア難民を今後どうするのか、大統領選でも、野党の候補はシリア難民を帰還させることを公約したし、エルドアン大統領も、強制送還はしないが、100万人は帰還させたい意向を選挙戦で語っていた。今回地震の難を逃れたシリア難民ですら、将来を思えば明るい材料はないのだ。

さて、いよいよ夕食だ。アラブ式は、机の代わりに、床にビニールシートを弾いて、そこに大皿の料理が並べられて、それをみんなで取り分けて食べる。ついにマンサフが登場。ところが、羊の代わりに鶏肉を使っていたので、臭みもなくてとてもおいしかった。

子どもたちの笑顔! ムハンマッドも通訳のアブドラも、そして運転手もとても優しそうな顔をしていて、いい奴なのである。みんな、マンサフ食べて幸せな気分。故郷の味は決して忘れることはない。

おしらせ
イラク戦争から20年「メソポタミアの未来」展を開催
7月26日ー8月28日 11時~19時
赤羽「青猫書房」
さとうまきが今回のツアーで最終目的地としたイラクで手に入れた子供の絵や、版画作品などを展示します。
https://aoneko0706-0828.peatix.com/

人感センサー

北村周一

梅雨に入る
まえに来ている
大型の
二号台風
卯の花くたし

命日が
刻まれてあり 
三月の
地震のあとの
六月の雨

重さから
解かれしきみが
虹いろの
灰となりつつ
散りゆくまでを

きみひとり
ねむる木箱の
静けさを
乱さぬように
しぐれふる雨

運ばれゆく
柩のうえに
翳されし
雨傘黒きが
二つ三つほど

毎日を朝日日経神奈川ときたりしのちに東京にする

点滴の
針の刺しどこ
あぐねいる
看護婦さんの
荒れたゆびさき 

静かなる
青のめぐりに
指の先
あててききいる
赤き血の音

命日はみつけられたる日とききぬ
 独り居の女流画家のいちじつ

ねてはさめ
さめてはみいる
銀幕の
繋がるまでの
撓める時間

ほのぼのと
熱き湯いだす
置物の
ふたつちぶさが
男湯にあり

うれいなき
ひとのからだの
軽々と
浮くも沈むも
坪湯にひとり

のむ前の
ひとときこそが
愛おしい
夏でも燗の
酒と決めつつ

紅生姜
なくてはならぬ
それのため
走り買いゆく
次男のさだめ

この家に人の影なき午前二時 
ねむれぬ者は
汗掻くのみに

ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要

冨岡三智

実は仕事をやりくりして、6月半ばから少しインドネシアのスラカルタに行っていた。今回の主目的は、ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要への出席である。2020年10月号の『水牛』に「ジョコ・トゥトゥコ氏の訃報」を書いたのだけれど、早いもので、もう1000日法要の日が巡ってきた。ジャワでは亡くなって40日目、100日目、1年目、2年目、1000日目に法要を行い、この1000日目に墓石を建てて一区切りとする。ジョコ・トゥトゥコ氏は私が宮廷舞踊で師事していた師匠の故ジョコ女史の息子で、2回目の留学時期(2000~2003年)には大変お世話になった。2000年にインドネシアでは3つの国立芸大で大学院が開講し、スラバヤの教育大で舞踊を教えている彼もスラカルタの芸大大学院で学ぶために実家に戻ってきていた。彼のおかげで私の視野も人脈も広がり、彼の大学院修了試験公演に起用してもらって、その経験は大きな財産になった。私の大恩人だし、師匠の一族とは今まで法要で何度も顔を合わせているので会いたかったのだった。というわけで、渡航の主目的は土曜夜の法要のお祈り、日曜朝の墓参りである。

月曜にジャカルタからスラカルタに飛び、着陸した時に機内でサルドノ・クスモ氏とばったり出くわす。サルドノ氏はスラカルタの芸大大学院で教鞭をとっていた現代舞踊家で、ジョコ・トゥトゥコ氏の指導教員でもあった。なんだかジョコ氏が縁をつないでくれたような感じだ。私が定宿にしている所はサルドノ氏の実家のレストランからすぐ近くなので、一緒に空港からタクシーでレストランまで行き、昼食をとる。サルドノ氏は1週間前に私の3月公演の様子を映像作家のウィラネガラ氏(この3月公演で来日)から聞いていたらしい。というわけで、私の2021年、2023年の堺公演の映像やら、過去の私のコラボレーション作品やらを見てもらったり、ジョコ氏の話をしたりであっという間に時間は経ち、話し足りないということでまた水曜にも会うことになった。

水曜昼前、サルドノ氏が大学院の授業を行いジョコ氏が終了公演を行った場所に向かう。以前あったプンドポ(ジャワの伝統建築)やダレム(奥の間)は、床や壁の一部が残るばかりだ。実は2008年にここに来た時にはすでに廃墟のようになっていたが、いまはその廃墟の空間を覆うように頭上には鉄骨製の高い屋根ができ、2階にテラスができて、不思議な空間になっている。ここを再び町中の芸術拠点にしようとこの屋根をつけて改装オープンしてすぐにコロナ禍になってしまったので、活動ができないままになってしまっていたという。けれど、そろそろ大学生やらがここで制作したり公演したりできるようにしたい…というわけで、職人が何人か作業をしていた。今後の芸術の方向だとかの話をしたのだけれど、サルドノ氏は今年で78歳。見かけは白い髪と顎髭を長く伸ばした仙人だが、20年前から頭の中は全然老けていなくてエネルギーに満ちているなあと実感。今の60~70代の、サルドノ氏より年下世代の舞踊家たちと比べても若々しく、ずっとトップランナーであり続けている気がする。その後、実家のレストランの3階(月曜に食事したレストランの近くに、もう1軒、3階建てのレストランがある)も見せたいということで、そちらへ向かう。以前、スタジオに置いていた古いガムラン楽器のセットや自身の抽象的な絵画作品が置いてある。この空間を見ると、宮廷舞踊家(ジョコ・トゥトゥコ氏の祖父)の弟子で、にも関わらず1970年にコンテンポラリ舞踊作品を発表してセンセーションを起こし師匠と衝突してしまうことになったサルドノ氏のあり方~根っこの伝統と最先端を両方つかんでいる~がくっきり出ているなあと思う。

他の日には芸大(ISI Surakarta)にほぼ毎日行って、振付の師、学長、第一副学長、ガムラン音楽科の教員らに会い、今年3月と2021年10月に堺で行った公演の映像を見てもらって、いろいろアドバイスをもらったり、これからのヒントをもらったり、意見交換したりした。実は、それが今回の渡航の第二の目的だった。振付の師には創作を指導してもらっただけでなく、私の宮廷舞踊の公演や録音に歌やクプラ(舞踊に合図を出すパート)で参加してもらってきた。ちょうど大学院の入試面接で忙しくしていたが、会って食事し、話をすることができた。学長や第一副学長はウィラヌガラ氏(3月の公演のために映像を制作してくれた映像作家、公演のため来日)から公演の話をすでに聞いていたと言う。サルドノ氏もウィラネガラ氏から話を聞いていたと言っていたし、知らないところで情報をつないでくれることが本当にありがたい。これらの人々には、1時間近い宮廷舞踊の上演や重い曲である「ガドゥン・ムラティ」を演奏したりして、観客からの反応が好評だったこと、有料公演で提示したこと、関西ガムランのレベルの高さなどに大変驚かれた。だいだいジャワ人は、こういう演目は退屈で飽きられると思っている。けれど本当の宮廷儀礼に触れたい、本当の瞑想的な雰囲気に浸りたいという観客は、少ないかもしれないけれど確実にいる、と私は強調した。そうそう、木曜夜に見に行った公演で、元TBS(スラカルタにある中部ジャワ州立芸術センター)で照明をしていた人(すでに定年)が見に来ていて、「あー!君はブドヨ・パンクル公演のミチだね!」と出会うやいなや言ってくれたことが非常に嬉しかった。私の『ブドヨ・パンクル』公演もこの人に担当してもらったのだが、それは2007年のことなのだ。それで、この人にも私の堺公演の映像をみてもらい(私はどこにでもパソコンを持参していたのだった)、照明家ならではのアドバイスをもらった。

ちなみに、ウィラヌガラ氏は毎月スラカルタの芸大大学院に教えに来ていて、今回私の来イネに予定を合わせて授業の日を調整してくれたので、一緒に食事する。その時に、3月の堺公演のためにお祈りしてくれたスラカルタ王家のラトゥ・アリッ王女(故パク・ブウォノXII世の長女)も誘ってくれて、3人で食事となり、やはり公演映像を見ていただいた。公演で使ったウィラヌガラ氏の映像には故パク・ブウォノXII世を始め亡くなった王家関係者が多く映っており、供物を作って王宮の各所に備えている宮廷儀礼の様子も映っていてとても貴重だ。ウィラヌガラ氏は2004年にパク・ブウォノXII世が亡くなるまでずっと王と王家のドキュメント映像を撮り続けてきた人なのである。王女からも様々なコメントや励ましの言葉を戴き、記念にとバティックまで頂戴する。

というような感じで、わたしの滞在はあっという間に過ぎてしまった。いま、これを書きながら、なんだか過去にも似たようなことをしていたような気がしていたのだが…思い出した!ジョコ・トゥトゥコ氏の公演に出た後2週間足らずで留学を終えて帰国し、その半年後に大学院生となってインドネシア調査に行った時に、いろんな人に自分の舞踊に対する批評やアドバイスを求めて廻っていたのだった…。しかも、その時の様子を2004年2月号の『水牛』に「心をとらえるもの」として書いていた。そして、この時もサルドノ氏にいろいろアドバイスをもらっていた(!)。あれから約20年、私はちょっとは成長できているのだろうか…。今は亡きジョコ・トゥトゥコ氏その母や私の師匠の故ジョコ女史に問うてみたら、何と答えてくれるだろうか…。

演劇

笠井瑞丈

オィデプス王
初めての演劇
役者になりたいと
思った十代の頃
なんのキャリアもなく
なんの知識もなく
仲代達也さんの
無名塾を受験
当たり前のように落ち
役者願望は一瞬で消え
言葉の道から身体の道に
それが正解だったのかは
今となっては分からない
ここに来て巡り巡りって
初めて演劇に挑戦できる
初めて間近で見る役者のセリフ
莫大な量のセリフを覚える主役
カラダが踊ってるように感じた
言葉でも身体でも結局表裏一体
言葉が世界を作り
言葉が身体を作る
演出家の細かな指示
空間に対して身体の立ち方
言葉の母音や子音の出し方
やがて新しい世界が生まれ
言葉の輪郭が作られていく
そして物語が始まる

1カ月間都内のスタジオに通う
そんな稽古も今日が最後だ
やれるか不安の日々だった
台本を毎日片手に
車の中で発声して
いくらやっても覚えられない
きっと覚えるのではなく
カラダの中に溶かす感覚なんだろう

7月は東京
8月は地方

やっとやっとゴールが見えてきた

新しい事に挑戦する
新しい自分に出会える瞬間

本小屋から(2)

福島亮

 結局、バオバブの種を蒔くことにした。樹木の尺度で考えれば、それは人間のエゴだ。アフリカであれば千年も二千年も生きるはずの木を、ここ日本で発芽させようというのだから。とはいえ、好奇心には抗えなかった。そこに種がある。だから、蒔いてみたい。種子が放つ途方もない誘惑に勝てなかったのである。

 50粒ほどの種から、17本の芽が出た。本当はもっと発芽する可能性があったのだが、ジフィーポットを置いていた受け皿の水が原因で、発芽前の種を腐らせてしまったのである。ジフィーポットは紙でできたポットで、ポットごと植え替えができるというすぐれものだが、使用した用土の材質も手伝って、土の乾燥が激しく、止むを得ず受け皿を導入したのがいけなかった。なかなか芽がでない種を観察しようと掘り返してみると、種は腐っていた。かたい殻を指で押すと、中から白っぽく溶けた中身が出てきて、植物が腐るにおいがした。

 17本のうち3本を知人にお裾分けした。そのため、手元には今、14本の苗がある。もしもバオバブの苗が欲しいという人がいたら、先着10名くらいになってしまうが、ぜひお裾分けしたいと思っているので、連絡をいただけたら嬉しい。そうすれば、一千年後、二千年後もこの地で生き残るバオバブが出てくるかもしれないから(まあ、その時人間がいるかどうかは心もとないけれども)。

 梅雨に入って、蒸し暑い日々が続いているが、バオバブのことを思えばその暑さもまったく苦でなくなるから不思議だ。バオバブにとって、30度の気温は心地よく成長できる温度なのだ。だからぐんぐんと成長し、すでに本葉が5、6枚出たものもある。かと思うと、(おそらくジフィーポットから鉢に植え替えたのが気に障ったのだろうが)双葉のまま、ぐずぐずとしているものもある。そんないじけ虫の苗も、よく観察すると双葉と双葉の間がパンパンに膨れ、緑色の瑞々しい茎には幾本もの木質の筋が入り、はちきれんばかりになっている。機嫌が元に戻ればいつでも本葉を吹き出せるよう、用意しているのだ。小さな双葉ではある。だが、根から吸い上げた水分や養分をこれでもかと溜め込むその姿には、なんとも言えない勁さがある。

 子どもの頃から、いろいろな種を蒔いてきた。朝顔や二十日大根の種はもちろん、ほうれん草や蕎麦、メロン、ビワ、アボカドなど蒔けそうなものは片っ端から蒔いてしまう子どもだった。小学生の私をとくに魅了したのは瓢箪だった。小学校の近くにある公民館(金島ふれあいセンター)に図書コーナーがあり、そこで借りた中村賀昭『これからはひょうたんがおもしろい』(ハート出版、1992年)という本に誘われて、千成瓢箪、大瓢箪、鶴首瓢箪、一寸豆瓢など、さまざまな品種の瓢箪を栽培した。さすがにプランターや鉢では瓢箪を育てることはできず、祖母が野菜を育てていた畑の隅を使わせてもらった。畑を瓢箪の蔓で荒れ放題にしてしまったのだから、よく叱られなかったものだと思う。秋、畑に実った種々様々な瓢箪を収穫する。大小合わせて100近い瓢箪が収穫できた。蔓と繋がっている部分(口元)にキリで穴を開け、胴の部分を紐で縛って重石をつけ、数週間水に沈めて表皮と内部のワタを腐らせる。すると実の表面の薄い皮がズルリと剥け、さらに実の内部がドロドロに溶けて種と一緒に取り出せるようになる。種はこの段階で回収しておいて、来年蒔くためにとっておくのである。こうして、硬い瓢箪の殻が残るわけだが、それを真水できれいに洗って、半日陰で乾燥させる。中までしっかり乾燥させないと黴の原因になるから、ここは慎重にやらねばならない。おおよそ乾燥したら瓢箪を指で叩いてみる。軽い音がすれば、それは芯まで乾燥したしるしである。あとはニスを塗って、飾り物にすれば良い。ただ、ニスを塗らずに瓢箪そのものの肌を楽しむのもなかなか良く、私はこちらの方が好きだった。椿油で磨くと光沢が出ると知っていたが、椿油など手に入らないのでサラダ油で磨き、大切な瓢箪を油臭くさせてしまったこともある。瓢箪の中に酒を入れ、毎日撫でていると艶が出ると聞き、試してみたいと思ったが、それは親が許してくれなかった。この一連の作業を私が身に付けたのは12歳の頃だった。20年ほど経ってこんなことを思い出したのは、腐らせてしまったバオバブの種を土から掘り出した時に感じたにおいが、腐った瓢箪の中身のそれと同じだったからである。あ、あのにおいだ、と思った。植物が腐るにおいというのは、けっして気持ちの良いにおいではないけれども、例えば肉が腐ったときに発生するようなすぐにでも遠ざけてしまいたくなる臭気とは違う。植物の場合、どこか柔らかさを感じるにおいなのだ。

 本小屋の夏は暑そうだ。窓が西側についているからである。だが、そこに置かれたバオバブたちのことを思うと、暑さも日光もあまり気にならない。雨が降ったら、それはバオバブにとって自然のめぐみだ。風が吹けば、まだ柔らかい本葉がそよぎ、葉についた埃を払ってくれる。日光は苗たちのよろこび。時々訪れる気温の低下は、苗たちの試練。そう思うと、暑さも湿度も、いとおしく思える。今日は雨だ。バオバブたちは喉を潤しているだろうか。

水牛的読書日記 2023年6月

アサノタカオ

6月某日 そろそろ寝ようかなと食卓でぼんやりしていたら、「文学ってなんのために存在するの?」と春から大学生になった娘に聞かれた。ここでヘタを打つようでは、編集者としても親としても失格だ。3年に1回ぐらい、子を通して人生から真剣勝負を挑まれるような正念場が訪れる。学問ともジャーナリズムとも異なる「文学」の意義について、夜更けまで話し合った。

6月某日 神奈川・大船のポルベニールブックストアで店主の金野典彦さん、本屋lighthouse の関口竜平さんのトークに参加。関口さんが著書『ユートピアとしての本屋』(大月書店)で書いている「出版業界もまた差別/支配構造の中にある」というテーマについての話に考えさせられた。出版編集に関わる者として考えるだけではなく、行動しなければ。

6月某日 ZINE『ケイン樹里安にふれる——共に踏み出す「半歩」』を読む。マジョリティの特権を「気づかず・知らず・自らは傷つかずにすませられる」ことと鋭く表現した社会学者で、昨年急逝したケイン樹里安さんをめぐるエッセイのアンソロジー。

6月某日 東京での仕事の打ち合わせからの帰り道、神保町のチェッコリで購入した韓国 SFの作家ファン・モガの『モーメント・アーケード』(廣岡孝弥訳、クオン)を読む。近未来的なVR技術を用いて記憶の世界をさまよう「私」の孤独。小さな物語の中で人が人と共にある痛み、そして希望までを見事に描き切っている。素晴らしい小説だった。同じくチェッコリで購入した韓国の作家、チャン・リュジンの小説『月まで行こう』(バーチ美和訳、光文社)も読み始める。

6月某日 早朝の新横浜から新幹線に乗車し京都へ移動。車内で一眠り。京都駅からJR、京阪、叡山鉄道と乗り継いで恵文社一乗寺店で、文化人類学者の今福龍太先生のトーク「〈歴史〉は私たちのなかにある——思想家・戸井田道三の教え」に参加した。在野の思想家・戸井田道三(1909~1988)に10代半ばより学校という制度の外で教えを受け、親交を結んだ今福先生による評伝『言葉以前の哲学——戸井田道三論』(新泉社)が出版され、その刊行記念イベント。「知の伝承」について思いを馳せる充実した時間に。会場では先生も関わるスモールプレスGato Azulによる詩やエッセイ、旅の写真などの手製本の販売もあり、盛況だった。

トークの後半では、本書の編集を担当したぼくが聞き役を務めて「漫談」をしたのだが、戸井田の著作の編集担当の一人だった久保覚に言及したことから、彼と梁民基が編訳した『仮面劇とマダン劇』(晶文社)や詩人・金芝河の民衆演劇論などにも話が及んだ。翌日の夜の京都で、先生と僕は韓国の民衆文化運動の研究者であり紹介者でもあるその梁民基に縁のある方に偶然出会い、大変驚いたのだった。

6月某日 京都滞在2日目。某所で、今福龍太先生と文化人類学者の和崎春日先生との対談「歩きながら考える、さまよいながら出会う」に参加。和崎先生はアフリカ・カメルーンなどでのフィールドワークの経験をもとに「生きることの気迫」について何度も語っていた。「知」の根拠を、狭義の学問ではなく学問外の「生」においていることが何よりもすばらしい。学び続けたい《歩く人》の知がここにある。忘れかけていた人類学への純粋で熱い気持ちが胸にこみあげてきた。

6月某日 京都から戻り、地元の図書館で和崎春日先生のアフリカ都市人類学の論考を探して借りる。和崎先生の父・和崎洋一の『スワヒリの世界にて』(NHKブックス)も。テンベア(さまよい)の思想とは何か。

山と山はめぐりあわないが、人と人はめぐりあう
 ——スワヒリ語のことわざ

6月某日 尹紫遠・宋恵媛『越境の在日朝鮮人作家——尹紫遠の日記が伝えること』(琥珀書房)を読む。これはすごい本だ。当たり前といえば当たり前だが、文学研究者・宋恵媛さんの編集によってこの日記資料が書籍化されていなければ、忘れられた作家・尹紫遠の声に自分が出会うことはなかった。

6月某日 詩の本を読む。大木潤子さん『遠い庭』(思潮社)、管啓次郎さん『一週間、その他の小さな旅』(コトニ社)。管さんのエッセイ集『本と貝殻』(コトニ社)も。

6月某日 小川てつオさんの『新版 このようなやり方で300年の人生を生きていく——あたいの沖縄旅日記』(キョートット出版)が届く。読み始めたばかりだが、いのちの律動がそのままことばになったような文章に打たれる。編注などの構成もふくめてすばらしい本だと思う。

6月某日 今月2回目の関西出張。早朝の新横浜から新幹線に乗車し、大阪へ移動。地下鉄、近鉄と乗り継いで河内天美駅へ。

午前中、阪南大学の総合教養講座での講義をおこなう。テーマは「韓国文学との出会い——編集者としての個人史から」。安宇植編訳『アリラン峠の旅人たち——聞き書 朝鮮民衆の世界』(平凡社)を、学生に紹介した本の中に紛れ込ませた。こういう地味な名著にもいつか出会ってほしいと思う。この本の1章「市を渡り歩く担い商人」の聞き書きを担当しているのが黄晳暎。フランス語で書く作家ル・クレジオがノーベル文学賞受賞講演で深い敬意を捧げてもいる韓国の大作家だ。

もちろん、最近の日本で刊行された韓国の小説や詩の本もたくさん紹介した。チョ・ナムジュの小説『82年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子訳、筑摩書房)や文学アンソロジー『完全版 韓国・フェミニズム・日本』(斎藤真理子編、河出書房新社)を題材に「フェミニズム」について話していると、顔を上げて真剣なまなざしをこちらに向ける学生が何人もいた。《後から来る者たちはいつだって、ずっと賢い》という、チョン・セラン『保健室のアン・ウニョン先生』(斎藤真理子訳、亜紀書房)に記されたことばを思い出さずにはいられない。自分よりずっと賢いこの人たちに、いま伝えられることを伝えておかなければ、とみずからに言い聞かせる。大学では、『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだことがきっかけになり、就職の予定を変更して韓国の大学院に進んだ卒業生がいるという話も聞いた。いまは、家族の問題を研究しているそう。本には人生を変える力がある。

6月某日 雨の中、大阪市営地下鉄、モノレールを乗り継いで吹田の国立民族学博物館へ。打ち合わせの後、久しぶりに常設展をゆっくり鑑賞、最近関心のあるアフリカ文化と朝鮮半島の文化を中心に。

6月某日 大阪の滞在先から歩いて行ける針中野の本のお店スタントンへ。以前、詩人・山尾三省展を企画し、展示をしてもらった。いまも三省さんの詩文集『火を焚きなさい』『五月の風』『新版 びろう葉帽子の下で』(野草社)などを販売している。韓国文学もいろいろそろっている。

スタントンでは、「金井真紀の仕事展」を開催していた。ギャラリーで金井さんの人物イラストの原画を、一人ひとりと静かに対話するようにしてじっくり鑑賞。金井さんの著書『日本に住んでる世界のひと』(大和書房)を購入し、崔命蘭さんの物語から読みはじめている。

6月某日 京都・蹴上でひと仕事を終えた後、地下鉄とJRを乗り継いで奈良駅へ。車で奈良県立図書情報館へ向かい、開催中の企画展「韓国文学への旅——現代韓国文学とその周辺」の棚を見学。想像以上に企画展を見に来ている人が多い。すると、以前広島・福山の本屋UNLEARN のイベントで挨拶をした青年と偶然再会した。最近、韓国文学を読みはじめたとのことでうれしい。

図書情報館の乾聰一郎さんからのお誘いで、関連イベントにて「『知らない』からはじまる」と題し、韓国文学についてトークをおこなった。韓国・済州島との出会いについて話すのははじめてのことで言葉足らずの部分もあったと反省しているが、熱心な聴衆に支えられて話を終えることができた。

トークでは、在日コリアンの朝鮮語文学研究者・翻訳家の安宇植の業績を紹介したのだが、翌日、乾さんがさっそく同館所蔵の安宇植の著作や翻訳書を集めて展示コーナーに並べてくれた。いずれも、90年代以降の学生時代に熱い気持ちで読んでいた本たち。先人や先輩の仕事をバトンを渡すように伝えていきたいと常に願っているので、こういう配慮は本当にうれしい。

ところで、会場で配布している図書企画展のブックリストの資料が大変充実していた。歴史、社会、芸術、音楽など文学以外の他ジャンルも網羅していて、韓国に関するこんな本もあるのかと発見があり、眺めていて楽しい。資料にはチェ・ウニョン『わたしに無害なひと』(古川綾子訳、亜紀書房)、キム・エラン他『目の眩んだ者たちの国家』(矢島暁子訳、新泉社)の書評も掲載。別の日におこなわれた晶文社「韓国文学のオクリモノ」などを企画した編集者(現・亜紀書房)の斉藤典貴さんのトークで配られた資料、作家別の翻訳書リストも素晴らしい。これらの資料から、さらに読書の輪を広げていけそうだ。

トークのあと、夜の町をさまよっていると奈良 蔦屋書店に遭遇。想像以上に大きなお店でびっくりした。

6月某日 京都駅から近鉄特急に乗車し、三重・津の久居へ。 HIBIUTA AND COMPANY で「本のある世界と本のない世界——声の教えから」と題してトークをおこなった。ブラジルの日系社会でおこなった文化人類学的なフィールドワークを経て、声の文化と文字の文化のはざまで編集という仕事をはじめたみずからの出発点について振り返ることができた。紹介したのは、3人の人類学者の講義録、今福龍太先生の『身体としての書物』(東京外国語大学出版会)、山口昌男先生の『学問の春』(平凡社新書)、そしてレヴィ=ストロース『パロール・ドネ』(中沢新一訳、講談社選書メチエ)。いずれも編集に関わった本たちだ。

HIBIUTAでは、代表兼月イチ料理人・大東悠二さんの渾身のパスタをいただいたり、ソントンさんが主催する本の会をのぞいたり(そこでえこさんが紹介していたク・ビョンモの小説『破果』〔小山内園子訳、岩波書店〕を読んでみたいと思った)、詩人・水谷純子さんが主催する「詩の会hibi」に参加したり、愉快な1日を過ごした。翌日、大阪への帰路でHIBIUTA発行の『存在している 書肆室編』を読む。所収の村田菜穂さんの「気が付けば本屋」から。

6月某日 阪南大学での講義2日目、テーマは「在日コリアン文学との出会い」。自分が編集を担当した関連書について解説し、在日コリアン文学の背後にある歴史への向き合い方について語った。「韓国文学との出会い」「在日コリアン文学との出会い」という2回の講義で紹介した本が大学図書館の特設展示コーナーに配架されるようだ。斎藤真理子さん『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)から、テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』(平凡社)まで17冊。学生の皆さんと本との良い出会いがありますように。

6月某日 大阪→京都→奈良→三重→大阪をめぐる旅から自宅に戻ると、韓国の作家パク・ソルメの小説集『未来散歩練習』(斎藤真理子訳、白水社)が届いていた。不思議なタイトル。別の小説集『もう死んでいる十二人の女たちと』(斎藤真理子訳、白水社)には震撼させられたが、こんどの本はどうだろう。

韓国を楽しむ雑誌『中くらいの友だち』の最新12号をどこかで買わなければと考えている。

しもた屋之噺(257)

杉山洋一

未だ明けきらない曇った朝空を眺めていると、時々、ぽろろろぽろろろと、どこからか鳩の啼き声が聞こえます。それも一箇所からではなく、左手前や右奧から、短い断片がおずおず聞こえたかと思うと、すぐに止んでしまいます。そうして少し静寂が戻った隙に、遠く微かに雀の囀りが聴こえたりします。
行交う車の喧騒に搔き消され、不可視となった鳥たちの社会を観察していて、自分に目に映る世界など、社会全体の1%にも満たないとも思うのです。各存在はそれぞれ存在理由を持ち、それぞれ道理に基づいて社会を築き、社会生活を営んでいるとすれば、自分の道理を彼らに当て嵌めるのは傲慢が過ぎているのかもしれません。互いに認め合って共存するにあたり、何が不足しているのか、自問を繰り返しています。

6月某日 ミラノ自宅
今朝は、ドイツから遥々浦部君がレッスンを受けに来た。意欲旺盛で頑張っている。レッスン室代わりに使っているサンドロの自宅はここから徒歩5分の処にあって、戦前のアパート群中庭に設らわれた旧い工場を改造した、所謂ロフトである。
ここの集合住宅には、息子が幼稚園、小学校時代に仲の良かった、2歳年長のニコライが住んでいた。彼はロシア人とイタリア人の考古学者カップルから生まれた男の子である。
ロシア人の父の血を引いているからか、ニコライは息子よりずっと骨太で体格も良く、度のきつい大きな眼鏡をかけていた。学者の両親の影響なのか繊細でもあり、時には少し気難しくもあった。彼の両親は別れていたから、ニコライは母親と祖母に育てられていて、気性も激しかったから、彼女たちが時に手を拱いていたのも覚えている。
浦部君のレッスンの合間に、ピアニスト二人にバールでコーヒーを買ってこようと外に出たところ、中庭の塵芥集積箱のところで、ニコライの祖母が手で分けながら分別ゴミを入れていた。
「本当にお久しぶりです。みんな元気ですか、コロナの間も大丈夫でしたか?」。
「ええ、いつもの通り。お陰様で元気ですよ。コロナにも罹らなかったし」、と軽く微笑んで答えてくれる。
「ニコライも変わりありませんか」。
「ええ、いつもわたしたちの傍にいますよ」。
「どういうことです」。
「あの時から、何も変わっていません」。
「どうしたんです、何かあったのですか」。
「お話ししていませんでしたか。彼は天に召されたんです。あれはコロナが始まる直前でしたか。厄介な心臓の病気で、一年ほど辛い闘病生活をしましてね」。
「何てことだ。何も存じませんでした。だって、最後にお話しした時、ニコライは川向うのカヌークラブで精を出しているって、随分お話しになっていらしたじゃないですか」。
「ええそうなんです。でも、あれからすぐに病気が見つかって。病気のために全ての運動を禁止されてしまって、本当に可哀想でした。彼はひどく怒りましてね、それで頑張ったんですけれども、寿命ばかりは神さまがそれぞれにお与えになるものです。わたしたちには、どうにもできない運命でした。でもこれで良かったのかも知れません。短かったけれど、ニコライは素敵な人生を歩みました。あれ以来、彼の母親は昔勉強したロシア語にすっかり夢中です。ロシア語を学び直すと言って朝から晩までロシア語漬けになっています」。

6月某日 ミラノ自宅
今朝は3年間教えてきたマルティーナとフェデリーコ、最後のレッスン。ふら付くマルティーナの上半身をどう安定できるか長く悩んできたが、結局ギターを弾いているため、背骨が極度に湾曲しているのが原因だったようだ。曲がった背骨を敢えて受容れ、いかに重心を下げて、安定させるかを一緒に考える。
13時過ぎにレッスンを終え、自転車で国立音楽院に向かう。14時から、ダヴィデが教える「現代ピアノ作品講座」クラスに顔を出す。10人ほどの学生を前に、ダヴィデと二人、自作についてとりとめもない四方山話をしてから、3人の学生がそれぞれ「間奏曲7番」、「スーパーアダージェット」、「山への別れ」を披露してくれた。
どの演奏もそれぞれ弾き込んであって素晴らしかったが、特にディーマの弾く「スーパーアダージェット」には舌を巻いた。ディーマ曰く、一箇所内声がマーラー原曲と違うそうで、何故かと尋ねられたが、何も憶えていない。
高校でマンゾーニの「いいなずけ」を勉強したばかりの若者たちが、ミラノの大学で「山への別れ」を弾くと、非常に臨場感に漲るようだ。ルチアとレンツォの深夜の逃避行の様子や、眼前に広がるレッコの断崖などが目に浮かぶようである。彼らの方がよほど、作品の本質を正しく掴んでいるようで、不思議な体験であった。
目の前の10人の学生の中には息子も入っていて、息子を前に真面目に昔話をするのは、新鮮でもあり、多少の照れも覚える。
どのようにしてイタリア現代音楽に興味を持つに至り、イタリア留学をはじめた当初、このミラノ国立音楽院に通っていた当時の話をし、そこで出会ったドナトーニやカスティリオーニの話をして、日本とイタリアの音楽観の差異について話す。
興味深かったのは、ダヴィデが、「ドナトーニにとって、システムの厳守は、時に耳で音を選択するより重要だったりするんだよな」と言い放っていたことと、彼から「どうして、ピアノを弾かないのに、ピアノ曲をこんなに沢山書いたのか」と質問されたこと。
前者のダヴィデの見解は、強ち間違いではないと思う。システムを厳守し、そこで選ばれた音を敢えて否定しない姿勢は、まるで手抜きにも聞こえるかも知れないが、実はそうではない。敢えて自分の手から解放したものを、自らの責で受け入れるのは、相応に勇気と技術が必要とされるし、対位法に取組む姿勢に少し似ているのかも知れない、と随分経ってから実感するようになった。その次元に到達すると、システムの構築過程そのものが、音の選択とほぼ同じ価値を持つようになる。丹精込めて音を託せる回路を作り上げ、後はそこに音の生成を任せる。
帰宅すると、「今日は、全く知らなかった父親の話を沢山聞けて面白かった」、と息子もまんざらでもない風情であった。

6月某日 ミラノ自宅
ウクライナ、ナホトカダム崩壊。水没してゆく街の風景や、水門を超え勢いよく広がりゆく水流の姿は誠に超現実的な光景であって、生活臭も現実感すらも消失し、静謐さに満たされて、恐ろしいほどの美しささえ湛える。あの茫洋たる水面の底に、藻屑と消えた無数の命が沈む。
人間はどうしてこうも愚かな存在なのか。核戦争が始まれば、やはり同じように、焼き尽くされ灰燼に帰した地表が超然的な静けさに覆われ、続いて訪れる核の冬では、それら全てが煌めく美しい氷に閉ざされ、或いはその氷が地球全体が覆い尽くして、宇宙から眺める地球の姿すら、変化を来すのだろうか。
今晩、家人とルカが、ホルスト「惑星」オリジナル2台ピアノ版をミラノ市立のプラネタリウムで演奏したが、その折、2013年7月19日NASAの探査機カッシーニが撮影した有名な土星の写真が、スクリーンに投影された。
土星の輪のずっと奥に映り込む小さな白点。15億キロ離れた地球、つまり、そこに暮らす我々皆が映り込んだあの写真だ。土星からみれば、あれほど小さく美しい、慈しみに満ちた光の点に過ぎない我々だが、こうして互いに諍いを繰り返し、一心不乱に自壊を続けるのは何のためか。
「このちっぽけな星の中で戦いは繰り返され、今も辛い思いをしている人たちがいる」、そう天文学者がコメントすると、漆黒で満席のプラネタリウムは、自然に沸き上がった拍手で満たされた。

6月某日 ミラノ自宅
日がな一日、大学の試験をやり過ごしてから、夜は家人と連立ってマンカのヴァイオリン協奏曲世界初演を聴く。コロナ禍で初演が3年近く延期されていて、漸く実現の運びとなった。実に強い意志を持つ、魅力的な音楽であった。
昼頃だったか、ベルルスコーニが死んだらしいと、試験の採点をしていた同僚が、風の便りで聞いてきた。それに対する同僚たちの反応も特になくて、遅かれ早かれそうなると思っていた、程度のものだったから、肯定でも否定でも、もう少し目に見えた反応をすると想像していたので、少々肩透かしを喰らった気分であった。息子の友人たちとのチャットのやりとりによると、彼らはこれで社会が好転すると信じているようであった。
1995年、最初にイタリア政府給費留学生としてミラノに住み始めたとき、ベルルスコーニが首相の職にあった。彼が給費を期間途中で中止する暴挙をしなければ、自分の人生は全く違ったものになったかもしれない。イタリアに居残る選択もしなかっただろうし、生活のため指揮をする必要もなかった。
ベルルスコーニのようなポピュリズム右派政権だったから、我々留学生はこんな仕打ちに遭った、と当時は皆で話していたけれど、その後左派政権に変わったからと言って、外国人への対応が変わるわけでも音楽家が暮らしやすくなるわけでもなく、自分の生活は、自らが粛々と守るしかなかった。かかる自覚を否が応にも植え付けたベルルスコーニに対して、今となっては多少なりとも感謝すらしている。
3日間の喪に服すとの政府発表だが、喪中は何が変わるのか同僚に尋ねたところ、国の公共機関が休業するのだそうだ。大学の試験には特に何も変更はなく、市役所など窓口が機能しなくなるという。

6月某日 チッタ・ディ・カステルロ・ホテル
いくら頭の中で作曲は進んでいても、学校に忙殺されて机の前に座るのも儘ならず、忸怩たる思いばかりが募っている。最近何度か、石井真木さんと島田祐子さんと一緒にテレビにでている小学生の頃の写真を見かけた、と連絡をいただいたが、その度ごとに、功子先生と仲の良かった真木さんが、こちらの作曲の進捗状況を気にしているのか、さもなくば警鐘を鳴らしているのか、何某かのメッセージではないかと気を揉んでいる。
朝、フィレンツェ駅前の宿を出て、9時45分発の準急でアレッツォに向かい、そこで車に乗り換えてチッタ・ディ・カステルロに向かう。アレッツォは郷土祭「サラセン人馬上槍試合(Giostra del Saracino)」の準備が佳境を迎えていて、街中至る所に、コントラーダと呼ばれる地区チームの巨大な旗が掲げられていた。
道中、所々横断する川は酷い濁流で、氾濫しかかっているようにさえ見える。聞けばこの処ずっと毎日酷い嵐のような驟雨が続いていて、今日のように晴天に恵まれたのは久しぶりだという。
初めて訪れるシャリーノ宅は、チッタ・ディ・カステルロの中心あたりにあった。旧く重厚な木の外扉を押し開け、ルネッサンス期から残ると思しき石造りの集合住宅に足を踏みいれる。呼び鈴横のシャリーノの名札はすっかり古びていて、歪んですらいるのが印象的であった。
地階にはシャリーノが物置として使うガレージがあって、フィレンツェの劇場大道具係から贈られたという舞台装置などが、きちんと保管されていた。
その脇から続く小さな石階段を3階まで上ると、そこがシャリーノの家の玄関である。玄関の天井には覗き窓が開けられていて、中世、人が訪ねてくると、まずそこをそっと開き、相手を確かめていたという。その玄関口を抜け、旧くすっかり磨り減った細い石階段を引き続き15段ほど登ると、彼の居間入口に立ち至る。20畳ほどの空間に、漢時代の中国古美術やら、彼が蒐集する古代の石器などが犇めいていて、壁には隙間がないほど、沢山の油絵が飾られている。
隣の部屋には整然と書架が並び、それぞれの棚は、歴史書、ジャポニズム云々とジャンル毎に丁寧に整理されていた。
引続き細い石階段を昇った4階は、2部屋に亙って彼の仕事部屋として使われている。
そのうちの一つの部屋には、大きな仕事机が置かれ、隣の部屋には小さめのグランドピアノがあった。そこには天井から大きなジャワの影絵人形が吊られていて、ピアノの上にはモーツァルトかシューベルトか、何某かの編作と思しき、書きかけの楽譜が無造作に置かれている。
これらの部屋にも油絵や鉱石、無数の石器などが、あらゆる場所に飾られていて、その周りにオリエンタリズムの薫り高い1890 年製カルロ・ブガッティの木製ベンチなど、貴重な調度品が数多く飾られている。それぞれが価値ある骨董品だという。
ドナトーニやブソッティの家のような、整然として実用的な感じは皆無でより開放感があって、物品の多さからか、やや雑然とした雰囲気すら漂う。
そこからより細くなった階段を頭を低くして登った所に、当初、屋根裏部屋として物置などに使われていた空間があって、そこに彼の寝室と別の書斎、そして便所がある。厠の場所はもともと鳩小屋であった。
そこかしこに石や石器が並べてあり、シャリーノはそれを一つずつ手に取って説明してくれるが、石器そのものも、石や鉱石にも石器時代にも疎いため、こちらの理解はまるで要領を得ず、説明してもらうのも申し訳ない。
書斎の奧には気持ちの良いテラスが張り出していて、育ち過ぎた松の盆栽が無造作に置いてある。目の前には自然の美しさを謳うウンブリアの丘陵が広がっていて、実に心地良い。カンカンカンカン、と教会の乾いた鐘の音が街中に響く。

6月某日 ミラノ自宅
早朝よりヴァイオリン協奏曲の仕上げをしていて、そろそろ完成かという時に、東京より緊急の打診を受けた。
プログラムに一柳作品が入っているのを見て、一柳さんがこちらの作曲進捗状況を見計らって、ここぞとばかりに連絡を寄越したに違いない、と思う。なるほどこちらの動向を逐一チェックしているとすると、にべもなくお断りするわけにもいかない。
試験の立ち会いを誰かと交替すれば、何とかリハーサルには間に合いそうなのでその旨学校に連絡をし、日本から送られてきた楽譜データを印刷屋に転送して、ヴァイオリン協奏曲の最後の仕上げに専心する。曲を仕上げて東京にデータを送ったところで、息子に手伝ってもらって伸び切った庭の芝刈りをする。この状況では次は何時刈れるかも分からないからだ。
夕刻、印刷屋にコピーを受取りにゆき、夕食後、製本と譜読みの下準備をしているうち眠り込む。一週間後に本番だなんて考えたくもなかった。

6月某日 ミラノ自宅
早朝より仕事にかかる。余りに膨大な音の洪水に仰天し、言葉を失う。印刷した楽譜サイズも小さすぎて音符が読めない。尤も、短期間にこれ以上大きなサイズで両面印刷は不可能だったからこれで読むしかなく、さてどう譜読みしたものか、途方に暮れつつ作業を進める。
リハーサルに必要な優先項目に合わせて、拍子とテンポ、それから全体構造の確認、フレーズ構造を書き込んでから拍に目印を入れてゆく。いつもと同じ手順ながら、少し違うのは、祈りながら仕事をしているところ。ストレスと目の酷使から、食欲もすっかり失せた。

6月某日 ミラノ自宅
春に肋骨を折ったことと、長らくヴァイオリン協奏曲の作曲が捗らなかった所為ではあるが、もう随分前から、寝ているのか起きているのか分からない日々が続いている。やりかけたスレンカ作品の強弱記号マーキングの残りは息子に任せ、一柳二重協奏曲の楽譜を開く。
特に先入観もなく一ページ目をめくり一段目から読み始めると、途端に惹きこまれてしまった。何気ない音の動きなのだが、琴線に触れるというのか、涙腺が緩むというべきか、我乍ら当惑するほどであった。センチメンタルな作品でないのは百も承知だが、冒頭からこれほど共感を覚える作品も珍しい。
音数は少ないのだけれど、フレージングを決めるのには酷く時間がかかった。意識的に少しアンバランスな構造に仕立ててあるので、こちらを立てれば、自動的にあちらが綻ぶようになっていて、腑に落ちるフレージングを見つけるためには、それらすべての可能性を試してからになる。ほんの少しずつ風景に遠近感がつき、色が塗られて、息吹が吹き込まれてゆく。

6月某日 三軒茶屋自宅
東京到着し、早速三軒茶屋に置いてあった大君の楽譜を確認。明朝から練習とは俄かに信じ難く、悪い夢ではないかと訝しむ。息子が強弱を丁寧に色付けしてくれた楽譜に感謝しつつ、何とかしなければいけないと自戒を新たにしている。

6月某日 三軒茶屋自宅
リハーサル初日。想像通り、オーケストラはとても好く準備出来ていたから、思い切り彼らの胸を借りて全体の把握に努める。そうしながら、3日間の練習後の落としどころ、完成形の青写真を描く。
ロシアにて、ワグネルの傭兵による武装蜂起。ロシア軍の南部軍管区司令部制圧。プリゴジン、ロストフ・ナ・ドヌーの司令部にて国防省幹部と会談。モスクワに進軍と息巻いている。

6月某日   三軒茶屋自宅
演奏会終了。オーケストラの演奏者一人一人の気持ちが纏まっているから、演奏中に指揮者が何をする必要もなかった。
一柳、二重協奏曲の曲尾では、まるで歌舞伎役者がここぞと大見得を切っている姿が目に浮かぶ。ちょうど横尾忠則の「写楽」のように、丁寧になぞられた輪郭を、敢えて機軸をずらして並べた塩梅か。そこに思いがけなく生まれる新しい空間、それは悉くアンバランスに見えるのだけれど、同時に発生する複数の不均衡は、そこにある種の均衡を生みだす。それにより、全体はより別の次元に昇華しつつ、デフォルメし続けてゆく。
一柳さんが素材をここまで客体化できなければ、より身体に纏わりつく質感のキュビズム状になりそうだが、一柳作品の音は、もっとずっと乾いていて、うっすら諧謔性すら身に纏っているから、反アカデミズムという駒尺れた反骨精神ではなく、もっとずっと広い空間に解放された、明るい色調のポップアートの自由さ、寛容さを伴っていて、聴き手に捉え方を強制もしない。
だから、西洋と東洋の触感を対立構造に落とし込むことなく、ごく自然に共存、共鳴しあっているのである。
曲頭から終わりまで、音程操作が徹頭徹尾貫かれているが、その音符が置かれるフレーズ構造も音の強弱も、全て少しバランスをずらして定着してある姿に、横尾「摺れ摺れ草」の連作を思う。
金川さんには、一楽章終わりのmfを、敢えて強く、バランス悪く弾いてもらったし、ヴィブラフォンにはモーターを入れ、銅鑼も、記譜通り、悪趣味ぎりぎり手前まで大きめに叩いて頂いた。そうすることで、音楽はより艶やかで、鮮やかに発色し、本條君の三味線は、洋楽、邦楽の垣根をすっかり飛び越えた独自の存在に変化する。
なるほど、一柳さんが拙作を面白がって下さったのは、この辺り音符へのアプローチを通してではなかろうか。今回、特に音符の価値観に対して、明確に共感を覚えたからだ。今回池辺先生から、「杉山の曲は滅茶苦茶だが云いたいことはわかる」、と云われ喜んだが、それも音符との関係性に因るかも知れない。
いつも一柳さんが着ていらした糊のきいたシャツと、お好きだった卓球と、嬉々として子供のようにピアノの内部奏法に熱中する姿を思い出して、胸が熱くなる。

道山君の音は、誠に霊妙であった。神秘的な弱音であろうと、激する強音であろうと、彼は発音する空間を一切攪乱しない。音が生まれる真空状態の空間の壁に、一切力を加えず柔能制剛と切込みをいれ、瞬時に外圧に同化させる妙技。そして同時に、大君の音楽の真骨頂である歌心も、存分に愉しませてもらった。

ミロスラフは演奏後、「実演でしか起こり得ない奇跡の瞬間、音楽も何もかもを超越した何かが、演奏中、聴き手に押し寄せてきたよ」、と目を輝かせて話してくれた。
レオ・レオニの「スイミー」で、無数の小魚が巨大な魚の形を形作って泳ぐ姿は、ちょうど「スーパーオーガニズム」の描く世界に近い。あそこまで綿密に書き込まれた楽譜を、少しだけ遠くから眺め、こちらの躰の緊張を解けば、まるであの絵本のような温かい世界が眼前に広がるのである。そのギャップが面白い、ともいえる。

6月某日 三軒茶屋自宅
一週間ぶりにコーヒーを呑み、こんなにも美味だったかと感慨を覚える。先月帰国の折、最後まで酷い時差呆けに悩まされたので、今回は、まだミラノ滞在中の帰国2日前から、一切コーヒーは飲まず機内でも断り、東京でも一切口にしなかった。そのお陰か、今回は帰国翌朝からのリハーサルもこなすことが出来た。
無理にでも毎晩1時くらいに布団に入れば、1時間以内には眠り込む。時差呆け故、夜間一度は目が覚めるが、目を瞑り続けていれば、もう一度明け方頃短時間眠りに就ける。
睡眠導入剤を試すべきか悩んだが、普段口にしていない薬で頭の感覚が鈍化するなら、万事休す。リハーサルにならないと分かっていたので、賭けのつもりで、薬は一切摂らなかった。
夕刻、町田に夕食を食べにでかける。下北沢まで前傾姿勢で乗る自転車で出かけたのだが、姿勢を前に倒すと、先に骨折した肋骨あたりの筋肉が攣れて痛い。まだ暫くあの自転車には乗れそうもない。ラッシュアワーだったので、下北沢から町田まで、電車は酷い混み様であった。肋骨を折った人間にとって、満員電車に揺られるのは、額に脂汗が滲むほど恐ろしい体験となる。もっと早くに家を出て、各停に乗るべきであった。町田で食べた江の島産「サザエ壺焼き」は絶品で忘れがたし。

6月某日 三軒茶屋自宅
朝7時起床。浜田屋でパンを購い、高野さん宅で羽田に着いたばかりの家人と落ち合った。自宅で採れたブラックベリーと、自家製梅のジャムをヨーグルトに雑ぜていただくが、大変美味である。ブラックベリーの味は一様でなく、酸味の強いものからすっかり甘く熟したものまで様々で、それがまた良い。

6月某日 三軒茶屋自宅
早朝近くの寺まで散歩に出かけ、手を併せようと境内に入ったところ、住職と思しき男性からマスク着用を求められる。持参していなかったので仕方なく帰宅したものの、広い境内には住職と自分ともう一人、わずか3人居合わせただけであった。
新しく書いたヴァイオリン協奏曲の最後の辺り、何か遠い昔の記憶につながるものがあって、一体何かと考えこむ。
あれは小学校3年生終わり、逆にヴァイオリンを持ち替え、弾き始めたころではなかったか。午後の日差しは、日焼けしたカーテンを通して、レッスン室をセピア色に染め上げていて、功子先生は手本として、プニャーニ「前奏曲とアレグロ」冒頭の4分音符を弾いてみせてくださった。あの時の、勢いよく、情熱的に歌い上げる先生の音楽を、あれから40年近く経って、改めて思い返している。寧ろ、40年間もの間、身体の芯で沸々と声を上げ続けていた、先生の音に気付き、深く感動しているというべきだろうか。

(6月30日 三軒茶屋にて)

223 文(もじ)字

藤井貞和

文字のない世界、と
私が言うと、

亡友は怒りました。
文字を前提にして、

文字のない世界とは、
その言い方を許しません。

まだこの世に、
文字は生まれてなくて、と私が言うと、

ない文字が生まれると、
考えることはできないはずだと、

私にも怒りが感染(うつ)って、
文字はなくなりました。

ふわっと、あれは白い雲で、
なにもない世界です。

なにもない世界だと、
私の考えた企画を壊してなきものにした亡友よ、

まもなく私も行きます。
文字を知らないそちらへ

(六月はオンラインを含めて、「構造と動態」、「物語・語り物とテクスト」コメント、「地神盲僧の語り、伝承、記録」と、口頭発表を三本、いずれも口承=芸能関係で、「文字」というテーマに行き着くかな?)

翳りと「ことば」 

高橋悠治

ある時代、ある地域に生きるひとたちの考え方は、抽象的な論理だけではなく、なかば意識されない翳りを帯びている。読む本や聴く音楽、食べもの飲物の好みも、個人的な好みとだけ言えない共通点がなければ、おなじ時間おなじ場所で過ごすこともなく、それができる場所もなければ、ズームや電話だけのつきあいは、代用でしかない。それなのに、この3年間は、外に出て人と会うこともないのがあたりまえのようになり、それと同時に、国家の力が強くなった。グローバリズムはもう流行らない。いま考えるとそう言われていたものは、アメリカを中心とする世界を前提としたものでしかなかったのではないだろうか。言論の自由や民主主義と言われたものだって、アメリカ中心でなければなんだったのか。ジャーナリズムもいまでは、自由に考えることをさせないためのウソでなければ、ひとをうごかすことのできない「ことば」にすぎない。「ことば」にすぎないことばは、ことばと言えるだろうか。
日本で報道されることは、アメリカに監視されているのか、それとも日本の報道企業が
忖度し、管理しているのか。日本のできごとは、日本では報道されなくても、他国のニュースでわかる。いまのところ、外国の報道を読むことはできる。(いつまでか?)
しかし何か言えば、匿名の非難が返ってくる。日本では、戦前に亡命できたひとはすくなかった。いまは、もっときびしいだろう。アメリカやドイツでも、むつかしくなってきているようだ。スノウデンは亡命したまま、アサンジは投獄されたまま、ブラジルやメキシコに移ることさえできない。日本や韓国で言えることは限られている、というより、無力な「ことば」であるうちは、言うことが許されている。

ところで、音楽はことばではない。もちろんことばと結ばれた「うた」はあるけれど、いま「うたう」音楽はうつろにひびく。語る、つぶやく、ささやく音の、あるいは、音ではなく、音の消えかけた響きの、「余韻」といおうか、そのような音の影の喚び起こすなにか、余韻の時間、余韻の空間、そのなかでうごめく心、そこで…