吾輩は苦手である

増井淳

 吾輩は苦手である。なにが苦手といって、あれもこれもそれも、いろんなモノゴトが苦手である。その中の一つを取り出してみようとしても、モノゴトというのは複雑にからみあっていて、かんたんには説明しかねる。苦手のモノゴトが多すぎて、とかくこの世は生きづらい。
 そうは言っても日々は刻々と過ぎていき、苦手のモノゴトもつぎつぎと押し寄せるので、とりあえず、それらについて書いてみるといいかもしれない。文章は苦手だが、書くことで悩みを吐きだすということができるかもしれないではないか。

 爪切りが苦手である。
 これまで数えきれないほど爪切りをしてきた。子どものころは、ヤットコというかニッパーというか、そういう形の器具で爪切りをしてきた。仮にヤットコ型とでもしておこうか。このヤットコ型爪切りは、先端の刃の部分を爪にあててハンドル部分を握って切る。しかし、不器用な子どもだった吾輩には、「ハンドル部分を握る」のがどうにもうまくいかなかった。力の加減がむずかしいし、握ることに気を取られるあまり、爪に当てた刃の位置があっと言う間にずれてしまう。おかげで、何度も深爪をして痛い目にあってきた。
 ヤットコ型のあとには、中学か高校の卒業記念にもらった爪切りを使った。これはハンドル部分をくるりと回転させて「テコの原理」を使い爪を押し切るタイプで、今でもごく一般的なものだ。仮にテコ型としておこう。このテコ型爪切りは、ほぼねらった位置で爪を切ることができるし、テコの作用により力もそれほどいらない。大人になっても不器用な吾輩にも比較的容易に爪を切ることができた。
 だがしかし、爪というのはそもそも曲線状をしていて、その曲がり方も人それぞれ。吾輩の場合、左右のはしっこの皮膚と接する部分が、急激に曲がっている。よって、そのあたりは、爪の先端の中央部を切った後で、爪切りの角度をかなり変えて切らないと切り残しが発生する。つまり、一つの爪を切るのには、まず真ん中部分を切り、その後に左右をそれぞれ切らなければならない。おまけに、左右のはしっこの爪は、なぜか真ん中あたりよりやわらかくなっていて、とても切りにくい。さらに曲がり方がはなはだしいので、はしっこのさらにはしっこに切り残しができてしまう。
 この切り残しが厄介である。だいたいはごく細いものなので、手でひっこぬいたり、歯で噛み切ったりしてしまう。すると、時々だが、まわりが赤白くはれあがって「ひょうそ」の症状を呈することになる。これはかなり痛い。放っておくと腱や骨に炎症が波及したり、皮下組織が壊死したりすることもある。何度か痛い目にあった吾輩は、苦手な病院に何度も行くハメに陥った。たかが爪切りと侮ることなかれ。

 ところが、数年前、テレビだったか折込チラシだったかは忘れたが、通販で「電動爪削り器」に出会った。これは亀の子タワシというか、パソコンのマウスのような形状をしていて、その先端に細長いローラーがついている。そのローラーがスイッチを入れると回転するので、そこに爪を当てておくだけで削れていくというものである。押し当てるだけだから、力もいらず、角度も変えやすい。宣伝文句によれば、「力が弱い方でもご使用いただけます」「断面もきれいに仕上がります」「小さくて柔らかい爪にもおすすめ」とあった。よし、これで苦手の爪切りとも決別できるではないか。
 しかし、吾輩は電気製品を買ったり使ったりするのが苦手である。
 数年前、掃除機を買った。二三日後、猫が床に水をすこしこぼしていたので、それを掃除機で吸った。すると、数分後、変な臭いがしだして、掃除機が止まった。それからは何度スイッチを入れ直しても、びくともしなくなってしまった。
 さらに数年前、皿洗いが苦手な吾輩は、食器洗い機を買ったことがあった。大きさとかを事前に調査して買ったが、届いた品物は予想よりも大きかった。というか、台所に置いたのだが、食器洗い機の存在がでかすぎて、洗い終わった食器を置いておくスペースがなくなってしまった。結局、食器洗い機は、食器置き場になってしまった。
 かくのごとく電気製品も苦手だが、「電動爪削り器」の魅力のトリコになっていた吾輩は、思い切って購入した。
 商品が届いて、さっそく使ってみると、あまり力を入れなくてもいいし、きれいに削れる。削り残しもほとんどない。なかなかいい買い物だったと思ったのだが、時間がかかるのだ。手の爪を全部削るだけで、20分以上はかかってしまう。長くのびた爪だとさらに時間がかかる。削りカスも出るのでそれを始末し、ローラー部分をその都度きれいにし、あれやこれやで30分はかかってしまう。足の爪まで削ろうとすると1時間はかかる。テレビでも見ながら削れるならいいのだが、音がうるさくてそういうわけにもいかぬ。
 結局、電動爪切り器はほとんどお蔵入りになった。
 
 吾輩は数匹の猫と暮らしている。猫は爪切り器など使わずとも、ダンボールや家具の角、壁紙などそのへんにあるもので爪を研ぐ。ニンゲンのからだより猫のからだの方がよくできていると思わざるを得ない。
 室内にいる猫なので、爪切りをしてあげることもあるが、猫は手先をぎゅっとつまむと爪が飛び出すので、吾輩の爪を切るよりかんたんだ。
 しかし、1匹の猫だけは吾輩同様、爪切りが苦手らしく、爪を切らせてくれない。この猫は我が家に一番古くからいる白猫で、もとは野良猫である。もう10年近く我が家にいるが、未だに野性を失っていない。実は、この稿を書いているあいだに、その白猫に足を引っ掻かれ、出血して腫れ上がり、病院のお世話になった。
 つくづく吾輩は爪切りが苦手である。

イスラエル人と友達になろう

さとうまき

僕は、だれとでも仲良くなれる人になりたいと子どものころから思っていた。というより誰からも嫌われたくないという気持ちが強かったのだろう。そこで数年前からイスラエルとパレスチナの若者たちの平和交流プロジェクトのお手伝いをして、イスラエル人とパレスチナ人両方の友達を作りたいとひそかに考えていた。僕は、25年前にパレスチナに住んでいたから、パレスチナ人の友達は少なからずいたけれど、敵対するイスラエル人の友達などできるはずがなかった。イスラエル政府にとっては、僕は、パレスチナを支援するとんでもない「テロ」リストのようなものとして扱われた。それでも、だれとでも仲良くなりたい僕は、イスラエル人の友達が欲しかったのである。

昨年の夏。日本にイスラエルとパレスチナの若者がやってきた。パレスチナ人は、いかに自分たちの人権が抑圧されているのかを訴えたかったが、イスラエル人は、そんなことは聞きたくなかった。せっかく仲良くしようとしているのに、パレスチナ人が文句を言って場を乱している。おそらくはそんな風な雰囲気が漂ってしまい、対話がほとんど成立せず後味の悪い終わり方をしたらしい。

まず、イスラエル側の問題として、政治が安定しない。「民主的な」イスラエルは、選挙で過半数を取りきる政党がもはや存在せず、ネタニヤフ政権は、極右の政党と連立を組まざるを得ず、パレスチナ人の弾圧を強化していた。すでに5000人のパレスチナ人が逮捕され裁判もなく拘留されて、時には拷問をうけていた。日本の報道でも、パレスチナ人の犠牲者は過去最大になっていると報道していた。

しかし、平和を求めて日本にやってきたイスラエルの若者たちには、まったくそのようなことはあり得ないと思っている。「5000人?凶悪犯でしょ。つかまって当然」そのような感覚だ。10月7日に、ハマスの奇襲を受けると、イスラエルの若者たちの反応は、「それ見たことか、凶悪犯を生み出すガザを徹底的に攻撃しなければ」というようなのが大半だった。パレスチナを支援している友人の投稿を僕がSNSで転送するとすぐさま、「ハマスがやったことを正当化するのですか?」というクレームを彼らは書き込んできた。

パレスチナ側の問題は、ガザをハマスが実効支配。しかも、2007年の内戦で、ハマスは力ずくでファタハを追い出した。じゃあ当のファタハはというと汚職でどっぷりで、パレスチナ人の信頼を失っている。今回のハマスの奇襲にしたって、奇襲というアイデアはともかく民間人を狂ったように襲うというやり方は、いくら、イスラエルの政策が根本的な原因だと言えども許されるべきではない。といったところでヒステリックになっているイスラエル人は聞く耳も持たない。

昨年10月18日、バイデン米大統領がイスラエルを訪問していいことを言っていた。
「私は次のように忠告したい。あなた方が怒りを感じる間、その怒りに飲み込まれてはいけない。9・11の後、アメリカは激怒しました。正義を求め、正義を得ましたが、間違いも犯したのです」

結局イスラエルはアメリカの忠告も聞かずにガザに侵攻、ハマスせん滅を掲げるが、ハマスがとった人質の解放も進まず、4万人近くのパレスチナ人(大半は民間人)が殺され、さらにその数は増え続けている。国際社会の圧力に屈しないイスラエル。停戦のためには、イスラエル側が変わるしかない。だから僕には、イスラエル人の協力者が必要なのだ。

北海道パレスチナ医療奉仕団の猫塚先生の報告会を企画したときのことだ。会場から「自分はイスラエル人だ」という人が発言した。一瞬緊張が走る。「イスラエル人は、ガザの人たちのことなど全く考えていない。日本の皆さんが声を上げることが、イスラエルの圧力になるから、声を上げてほしい」彼はリランといい、日本人の葉子さんと結婚してイスラエルで暮らしていたが、イスラエルのやっていることは、おかしいと思い日本で平和活動を行おうと決心したという。葉子さんはいう。「イスラエル人は被害者意識をもっているから、追い詰めても彼らはむしろ反発するだけなのです。否定から入るのではなくわかってあげるところから始めないといけないと思うのです」

数日後リランは、ドイツで、パレスチナ人とユダヤ人が共同で立ち上げたNGOがガザを支援していることを伝えてきた。「僕はこの団体を支援したい。協力してほしい」という。ラストチャンスだと思った。まだ、人間って行けるんじゃないのか。

詳しくはこちら→ 環wa

フジロックのクラフトワーク

若松恵子

フジロック2日目の7月27日、一番大きなグリーンステージのラストにクラフトワークが登場した。野外で聴くテクノポップに、おおいに期待して出かけて行ったのだった。電飾でふちどられた4つのテーブル(その前にメンバーが立って、卓上の物を操作して音楽を作り出すのだ)がステージに登場すると観客からどよめきが起こった。あの、クラフトワークなのだ。

14歳の頃に、渋谷陽一がDJを務める「ヤングジョッキー」で紹介された「アウトバーン」に衝撃を受けて、それ以来のファンだという夫が集めたレコードやCD、DVDが家には転がっていて、私にとっても見かけたことがある、あの、クラフトワークなのだった。

バックに流れる映像がバッチリ見える場所を確保して、クラフトワークの世界を浴びた1時間40分だった。知っている曲、おなじみの映像を生で体験する感激というのも、もちろんあったけれど、再現というのではなく、1曲1曲が新鮮なパフォーマンスだった。フジロック特別バージョンというような印象もあった。ずっと聴いてきた夫の解説によると、シンセサイザーの創成記からテクノロジーの発達と共に歩んできた彼らの音楽は、機器や映像技術の発展も相まって、今、とてもシンプルな装置で、やりたい音楽をできるようになっているという事だ。不必要な物をどんどん片付けて、ミニマリストの風情がかっこいいのだと。

確かにクラフトワークの作る音楽や映像のかっこよさや気持ち良さは、合理的に発達していく人間のかっこよさや美しさなのだろうなと思う。数字やマークや道具のデザインの洗練された美しさだ。テクノロジーを駆使しているけれど、とても人間的な感じ、それが私の感想だった。機械が自動で奏でている音楽ではなくて(テクノポップに対する何たる稚拙な誤解!)、やっぱり人が演奏していて、映像もCGとは違う、どこか手仕事感のある感じがクラフトワークの魅力なのではないかと思った。こんな事を言っているとクラフトワークにうっとうしいと思われるだろうけれど、それが分かったことが自分としては一番うれしいことだった。

ライブの中盤、オリジナルメンバーのラルフ・ヒュッターが坂本龍一との思い出を短く話して、「戦場のメリークリスマス」のカバーが演奏された。背景には1981年の2人の写真が映し出された。続けて演奏されたRADIO⁻ACTIVITY(放射能)は、改めて放射能汚染の危機について地球がSOSを発しているのだという事を思い出させた。坂本龍一に呼ばれて「ノーニュークス」のライブでも演奏した曲だ。被爆した地として、ヒロシマ、フクシマが読み上げられ、「今すぐやめろ」という単刀直入な言葉が続く。この2曲は今回のライブのハイライトだったと思う。

フジロックにクラフトワークが来てくれて、本当に良かった。
曲名を見れば頭の中に音楽が鳴る人たちのために、演奏された曲目を書いておく。

・ナンバーズ
・コンピューター・ワールド
・コンピューター・ワールド2
・コンピューターは僕のオモチャ
・ホーム・コンピューター
・スペースラボ
・ザ・マン・マシーン
・アウトバーン(ショートバージョン)
・ザ・モデル
・戦場のメリークリスマス
・ガイガー・カウンター/放射能(フクシマバージョン)
・ツール・ド・フランス
・ヨーロッパ特急
・ザ・ロボッツ
・電卓
・ミュージック・ノン・ストップ

途中の駅

植松眞人

「その頃も旅をしていた」という一節で始まる小説と出会ったのは、確か高校の終わりだった。開高健の『夏の闇』の書き出しに、私は強く心を鷲掴みにされ、日が暮れるのも忘れて読み耽った。高校生が読むには少し大人びた内容で、男女が食べて寝て爛れたような時間を過ごすだけのストーリーだった。いや、だけではなかった気がするが、当時の私にはそれ以上の機微をどう言葉にすればいいのかがわからなかった。
 しかし、『夏の闇』という小説に異様な熱量を感じたことと、同時に冒頭の「その頃も旅をしていた」という一節に引きずられるように私はその長編小説を読み終えたのだった。
 それから、私のなかで旅という言葉のもつ意味が大きく変化したような気がした。登場人物の男女がなんの目的も持たずに、ただ身体を重ね、愛と呼ぶには淀み切った澱の舞う感情を振りまきながら生きているさまが旅なのだと強く印象づけられてしまったのだった。
 とは言え、まだ高校生だった私がどこまでこの小説をしっかりと捉えていたのかはわからない。わからないけれど、確かに「旅」という言葉がくさびのように、私のなかに打ち込まれたことは間違いはなかった。
 あれから四十年以上の時間が過ぎた。私は根無し草のようにあちらこちらをうろうろと動き回った。家族ができて、引っ越しをして、仕事をかわり、会社をつくり、会社を閉じ、流され、打たれ、波間に漂うような暮らしはいまだに落ち着かない。
 いまなんの縁もゆかりもない隅田川の近くに住んでいて、昨夜は大きな花火が咲く地響きのような震動を感じながら時間を過ごしているときに、ふと日中の出来事を思い出した。
 その日は私にも妻にも大きな予定が無かった。しかし、せっかくの休日に一日家にいるのも気が引ける。かといって、夜になって出かけると、いま鳴り響いている花火大会の人混みに巻き込まれてしまう。
 妻は昼間のうちに、バスか電車で気軽に出かけられる場所へ散歩に行こうと言い出した。そこで、私たちは住まいからバス一本で到着できる巣鴨へ向かったのだった。
 とげ抜き地蔵を訪れ、ここ数年、抜けそうで抜けないどうしようもない悩みが収まりますようにと二人で柏手を叩き、お辞儀をした。そして、脇にある水洗い観音に水をかけて石の身体を掌で洗う。そこでも、観音様の胸のあたりを擦りながら、胸に刺さったようなとげを一日も早く抜いてください、とお願いする。
 お願いしながら、そんな自分勝手なことばかりをお願いしてもいいものだろうか、逆に罰が当たったらどうしようなどと考えてしまい、そう考えることこそがよくないのだと自分に言い聞かせつつ、地蔵通りを奥へ奥へと歩いて行く。
 途中、「猿田彦大神・庚申堂」という看板を見つけた。ここまで来たのだからと猿田彦大神に会いに行くことにする。
 妻と二人で五分ほど歩いて、商店街を抜けたあたりに、件の猿田彦の神様が祀られている庚申堂を見つけて、また手を合わせる。狛犬のように、祠の左右に置かれた猿の石像が穏やかに笑っていて気持ちがほぐれる。
 ふらりと散歩に来たのに、なんとなくご縁があるのではないかと思い続けている猿田彦大神に出会えたことに、素直に喜びを感じたあと、さあ、帰ろうかとあたりを見渡すと、都電の小さな駅を見つけたのだった。都電に乗れば、バスと同じように自宅の近くまで一本で帰れるのだ。それなのに、これまで私は都電を使って巣鴨にくるというルートを考えたこともなく、乗り換え方を教えてくれるスマホのアプリから都電の利用を示唆されたこともなかった。
 いま住んでいる場所に四年もいるのに、そして、巣鴨にはそれ以上に何年も通っているのに私は知らなかったのだ。こんなところにいつも使っている都電が通っていることも、駅があることも。
 私と妻は、なにかとても大切な風景を見つけたような気持ちになって、痛いほどの炎天下にもかかわらず、穏やかな気持ちで都電を待った。駅の正面にあった甘味処を眺めながら、次来たときには、このお店でかき氷でも食べましょう、と笑う妻の隣で、私はなにか感じたのだった。なにを感じたのか、その時にははっきりしなかった。暑さでぼんやりしていたのか、思いがけなく見つけた風景を覚えておきたい気持ちが勝っていたのか、何かを感じたことすら、あっという間に霧散してしまった。
 しかし、それがまたやってきたのだ。夕方の雷が収まり、花火大会が始まると同時に響いてきた震動が思い起こさせたのか、あの時、都電の駅の小さなホームで、私が感じたことが今度ははっきりと言葉として見えた。「その頃も旅をしていた」という言葉が私のそばにやってきていたのだった。都電の駅を見つけ、妻と二人でそこに佇んでいる私に、高校生の時に読んだ開高健の『夏の闇』の冒頭の一節、「その頃も旅をしていた」がふいにやってきたのだ。
 いま、こうして都電の駅を見つけた瞬間の積み重ねこそが旅なんだ、と私が感じたということなんだろうか。それとも、ここへ至るすべてが旅なのだと、小説の一節を囁くことで誰かが私に教えてくれたのだろうか。
 そんなことを考えている間に、花火大会は終わり、地鳴りのような響きはしなくなった。そして、私のなかに、途中の駅、という言葉がのこった。

製本かい摘みましては(188)

四釜裕子

今年、うちのバルコニーは新芽が遅いな、暑いせいかなと思っていたら、クチナシを筆頭にしてイモムシにやられていたのだった。擬態の見事で葉裏に直接見つけるのは難しく、下に落ちた黒粒ウンチを手掛かりに探すしかない。ある朝も1匹見つけて鳥の水場用に置いた足高の丸い器の縁に置いた。間もなく雀が見つけるだろうと思った。しばらくじっとしたのちイモムシは縁の上を歩き始めた。目の高さを合わせて横から見ると、飛山城跡駅近くで見送った宇都宮ライトレールの車両みたいだった。もりもり歩いて何周もする。ある場所にくると必ず体を伸ばして、近くの棒につかまろうとするが届かない。日が射してくると今度は日陰を求めてこまめに移動し、身をかがめてじっとしている。日が高くなり全体が陰になると、またぐるぐる回りながら1箇所で体を伸ばすことを繰り返した。

ここでようやく雀。遅かったじゃない。イモムシは体を膨らませてくねくねしている。姿を見る前に鳴き声に反応したような。そしてもしやこれは威嚇? 雀は身を細くしてぴょんぴょんイモムシに近づいていったが、なんと退散。そうかぁということでタオルの代わりにサガエギボウシの葉を差し出すと恐る恐る上がってきて、一目散に葉の端に向かって突進(ちょっと怖かった)したかと思うとガシャガシャ食べ始めた。ここまでおよそ5時間のイモムシ劇場、歩いたのは直径20センチの円状の細い道、だがそこを堂々巡りしていたつもりはないんでしょう? ただひたすらまっすぐに歩き続けて、時々現れる棒きれに毎度ハッとして、その都度エイッと体を伸ばしていたんでしょう?

数日後、円城塔さんの新刊『ムーンシャイン』(創元日本SF叢書25  2024)が届いた。版元の案内に「判型:四六判仮フランス装」とあり、見ると確かに仮フランス装なのだがピカピカの表紙カバーが掛けられているのでどうにも仮フランス装っぽくない。というのはこちらの勝手なイメージだけれども、新潮クレスト・ブックスのように表紙も表紙カバーも紙はちょっとふんわりしていてほしかった。『ムーンシャイン』の表紙の紙はふんわりしているが、これにつるつるピカピカの表紙カバーは似合わないというか、これを掛けるならなぜわざわざ仮フランス装にするのかなと思ってしまう。版元の創元日本SF叢書シリーズの案内には必ず「仮フランス装」が付いているから、これが1つの売りになっているのだろう。SNSの告知で仮フランス装をわざわざ明記する版元や装幀家は多いし、読み手も仮フランス装は美しいとかおしゃれとか素敵とか言っている。

「フランス装」ではなくて「仮」をつけた呼び名がいつの間にか定着していたということだ。そのあたりのことをネットで検索したら自分が書いたものがヒットしてしまった。アルアルだと思うけれども、よりによってこの連載の62回目(https://suigyu.com/suigyu_noyouni/2010/08/-62.html)だった。14年前の夏にここに書いていたことをすっかり忘れ、書いた内容もほぼ頭から消え、結局いつも同じようなことをあれっ?と思い、調べ、納得し、やがて忘れ、そしてまたあれっ?と思い……を繰り返していることをあらわにされて愕然とした。それでさっきのイモムシ劇場が自分の身に重なったという次第。ハッとしてエイッと体を伸ばすときはいつだって新鮮だし真剣なんだけれどもね。とりあえずここではインターネットにありがとうを言うしかあるまい。私の身体から離れた私の記憶を私の外の貴方が持っていてくれたことに対して。

改めてクレスト・ブックスの装幀について追って見ると、新潮社の自費出版のサイトの「本作りの基礎知識」の中に「クレスト装」という項目があった。〈「新潮クレスト・ブックス」のために、弊社装幀部が新しく開発したもので、現在は他社でも使われています。独特の手触りを持つ紙を用い、周囲を折り返して糊付けした表紙が特徴です。「仮フランス装」と呼ばれる製本法がベースになっています。新潮社の自費出版では、この製本方法もお選びいただけます〉。「新潮社 本の学校」というオンラインの教養講座のSNSでも「クレスト装(クレスト表紙)」として大いに宣伝していた。「新潮社 本の学校」では製本ワークショップも行なっているようで、2021年には加藤製本(株)が「新潮クレスト・ブックスの束見本ノートを作る会」なるものをやっていたようだ。新潮社は「クレスト装」と呼んでとにかく推していることがわかり、その説明において「仮フランス装」なる呼称への敬意もわかった。今後は私がイメージしてきた「仮フランス装」は「クレスト装」で、「仮フランス装」は表紙カバーの質感を問わないものだと考えればいいだろう。

「丸フランス装」なる呼び名もこのたび知った。丸背の仮フランス装だが、東京創元社のサイトに『Q』(ルーサー・ブリセット著、さとうななこ訳 2014)が「判型:四六判丸フランス装」と記されており、刊行時にはそのことも大いに宣伝されたようだ。製本を担当した加藤製本(株)のサイトを見ると、〈丸背小口折&丸フランス誕生! 丸背の小口折本、仮フランス本を開発し量産化に成功しました(2013年12月)〉とあるから、実際に市場に出た初・丸フランス装は『Q』だったのかもしれない。丸山健二さんの『ラウンド・ミッドナイト 風のなかの言葉』(2020  田畑書店)もこれだった。手元にしてみて、版元がいう「仮フランス装・丸背」そのとおりと思ったが、装幀が重厚なのに、そこになぜ表紙が柔らかい仮フランス装を組むのかなと思った。言い方が逆かもしれない。とにかく、片手で持って読み倒せと誘うようでいて真逆の拒絶も感じられ(内容ではなくて装幀・造本の話です)、ただこれは当時の私の印象を思い出しているに過ぎないので、今、改めて確かめようとしたが棚に探せず、そうだ、これはまさに「仮フランス装・丸背」の見本としてあの人に貸したままだったと思い出した。連絡します!

久しぶりにいろいろな製本会社のサイトを見て、「仮フランス装」や「丸フランス装」や「丸背フランス装」の説明もいろいろ読んだ。中でも渡邉製本(株)のnoteがタンドツよくて、「国名がついた3つの製本様式 (その1)フランス装編 フランス・ドイツ・スイスがあるのに、イタリアがない?」(2022.8.25)では、「本フランス装」と「仮フランス装」の違い、仮フランス装の機械化には製袋用の機械が応用されたこと、「フランス装」と「小口折製本(雁垂れ製本)」の違いなどもおもしろく読んだ。自社で作ったものを見本として写真や図解で説明したり、依頼者とのやりとりも紹介している。「フランス装で」と依頼されて見積もったが依頼主が思い描いていたのは「小口折表紙製本」だった、なんてこともあるらしい。響きのいいこの呼び名は、今もまだ一人歩きしがちなのかもしれない。

イモムシつながりで最後に1つ。鎌倉文華館鶴岡ミュージアムで開催中の『蟲??? 養老先生とみんなの虫ラボ』展に、イモムシ画家の桃山鈴子さんが参加されている。飼育中に集めたウンチを煮出して染めた紙にも描いてるらしい。工作舎のnoteにある桃山さんのエッセーによると、ウンチ染液の色や香りはイモムシの種類によって十虫十色、食草の香りがするそうだ。〈うんちといっても原材料は植物。イモムシの代謝を活用した草木染めといってもいいのかもしれない〉。私もせいぜい身体を使いきって生きていきたい。

笠井瑞丈

暑い日が続く七月初旬
部屋のクーラーが壊れる
壊れたと言うか全く効かなくなった
それもそのはずもう30年近く
使われてるものなので当然だ
緩い風が微かに出るだけだ
そしてたまに機嫌が良いと
少しだけ冷たい風を出してくれる
この猛暑が続く中クーラーの機嫌を
伺っている訳にはいかない
もうかなり限界に近い暑さ
昔は扇風機一台で夏を乗り切った
しかし今は昔の暑さと次元が違う
人間でも生命の危機を感じる暑さ
きっとチャボ達もきっと辛かろうに
チャボさん達は口をパクパクして
そして翼を半開きにして暑さ対策
水を飲む量が半端ないので
我々同様かなり暑いのだと思う
見かねて水風呂に入れてみる
気持ち良さそうにプクプクと
部屋で火を使って料理なんてしようものなら
たちまち全身から滝のような汗が流れ出る
これはもう危険と判断して
30歳のエアコンに別れを告げる
新しいエアコンを購入する事を決意
色々家電屋さんを見にいくが
なんだかんだエアコンの本体の価格に
取り付け料金やらが加算され
思っている価格より遥かに高くなる
色々と調べた結果
ネットで本体を買い
町のエアコンの取り付け業者に
お願いするのが一番リーズナブルとなった
早速エアコンをネットで購入して
口コミで評判の良い業者を探し予約入れる
木曜日の早朝に業者がやって来てくれた
取り付け作業に取り掛かる
評判通りいい若い作業員だ
なのでこちらもそれ相応の対応
一人できていたので
重たいものを運ぶ際は
手伝ってあげるようにした
無事取り付け完了
料金は思ったよりも安く
手伝ってあげたので
少し割引までしてくれた
よし
これでこの夏も越せるだろう

思ったら
車のエアコンが壊れた
壊れる時は同時に
色々なものが
壊れるものだ

今年はエアコンに見放された
夏の始まりだ

『アフリカ』を続けて(38)

下窪俊哉

 赤い表紙の中に、18年前の、あの「蝶」が蘇っている。と、前回、『アフリカ』最新号(vol.36/2024年7月号)の表紙について、そう書いた。しかし実際には、違ったのである。
『アフリカ』最新号を手にした熱心な読者のひとりから「同じ切り絵をもう一度使ったのかと思っていたけど、よく見たらこのふたつは別の切り絵」だという指摘があり、まさか! と思って見比べてみた。確かに、違う。よく見ないと、わからないのだが。編集している私も、装幀の守安涼くんも、わざわざ見比べることをしなかった。作者自ら、その原画を指して「記念すべき『アフリカ』最初の表紙を飾った作品」と説明していたのだから、そう言われて疑うことはなかった。
 よくわからなかったのは、2006年当時のデータの色が、全然違っていたことだ。その画像は、前号(vol.35/2023年11月号)の追悼企画「『アフリカ』の切り絵ベスト・セレクション」の中にカラーで載っている。そこで私は「カラー印刷を想定していないため、スキャンの色合いがいい加減」と説明していたが、それにしても全然違う色だ。一体どうしてそうなってしまったのだろうと思っていた。
 最新号の表紙に使った「蝶」は、2013年の夏に珈琲焙煎舎で開催した「『アフリカ』の切り絵展」で「最初の表紙を飾った作品」として展示したものだ。もともと複数のバージョンがあり、どれを出したのか作者の向谷陽子さん自身にもわからなくなっていたという可能性もある。しかし、この連載の(33)から(36)にかけて書いた2006年のタイムラインを思い出すと、向谷さんには2006年版「蝶」の完成度に不満があり、展示するにあたって同じ作品を切り直したのではないか、という気がしてくる。そして2013年当時の私は、それに気づくことが出来なかった。空の上にいる彼女はきっと、ほくそ笑んでいるのではないか。いまごろ気づいたか、と。
 2006年版「蝶」の原画は、見つかっていない。他にも見つかっていない作品はある。どこかに眠っているのだろうか。失われてしまったのだろうか。家族とのやりとりを続けながら、向谷陽子という人が生きて、”切った”痕跡をアーカイブする仕事は、これからもぼちぼち続けようと思う。

 さて、『アフリカ』をようやく再始動させて、最新号の発売直後に続々といただいたご注文の波も収まって、落ち着いたところだ。販売にかんして、落ち着いたというのは注文があまり来なくなったということで、よくないことのように感じるかもしれない。しかしもう在庫が50を切っているので、あとはノンビリでいいのである。
 最近の『アフリカ』は部数を200にしてあり、今回は少し増やそうかと考えてみたものの、これはいつもより売れるぞ、と踏んで部数を増やすときに限って売れないというジンクスもあるので、あえて変えなかった。『アフリカ』は雑誌で、売り切ったらそれまでというつもりだ。売り切れた後で、あー、読みたかったのに! とおっしゃる方には申し訳ないが、ご縁がなかったと思って諦めていただきたい(で、ぜひ次を読んでください)。
 執筆者に原稿料は出ない。いまは完成した『アフリカ』3冊をプレゼントすることにしている。表紙を含め全てモノクロ印刷、80ページ、無線綴じで、印刷・製本にかかった費用は4万2千円くらい(+税)である。私の代わりに売ってくださっている人や店には、気持ちのよい条件で買い取ってもらっている。こちらから営業はしないので、自ら売りたいとご連絡をくださる方のみに対応している。
 営業していろんな書店で売ってもらうとしたら、こちらの取り分を増やすか、価格そのものを上げないとやっていけなくなるだろう。しかし私にはとりあえず、書店より読者を大切にしたい気持ちが強いのである。彼らが買いやすい価格にしたい。彼らが、と他人事のように言うのはおかしい。自分が読者だったらどうか、と考える。
 では自ら売りたいと言われる店で売ってもらっているのはなぜかというと、読んで、ご縁を感じて声をかけていただく場合が殆どだからだ。つまりその店の人も『アフリカ』の大切な読者なのである(それがわからない場合は、「なぜ売りたいと思うのですか?」と訊く)。ただし、一度売ってもらったからと言って、次号が出たのでまたどうでしょうなどという声かけもしない。『アフリカ』は続いているのだから、読者も変わる。もちろんずっと読み続けている人もいる。切れたご縁は戻らないかと思えば、しばらくしてからまた戻ってくる人もいる。読者にも、いろんな人がいるから面白い。

 ここまで書いて、スタジオジブリの広報誌『熱風』2024年2月号で読んだ辻山良雄さんの「日本の「地の塩」をめぐる旅」(最終回)を思い出した。新潟で北書店というお店を開いている佐藤雄一さんとの語り合いが収録されているのだが、その中に「リトルプレスって関係性じゃない?」という項目があり、佐藤さんはこう言っている。

 見ず知らずのものを取る必要はまったくなくて、つくっている人と関係があるから、面白そうだから、流通には乗っていないけど、わざわざやるわけだよね。

 書店はそれでよいと私は思っている。「あたらしくできた店のテイストが似ている」のが気になるという話の流れで、リトルプレスの話が出ているのだが、極端なことを言うと(極端すぎるかもしれないが)あらゆる本がそのようにして売られたらよいのかもしれない。関係性に、相手が有名か無名かは関係ないことなのだし。

 ところで先日、アサノタカオさんがウェブ上(note)に書かれた「仲俣暁生さんのトーク「「軽出版」は出版の未来を救うか」に参加して」を読んで、「軽出版」ということばを知った。
 仲俣さんの「軽出版者宣言」という文章もウェブにあり、さっそく読んだ。その冒頭、「「軽出版」という言葉をあるとき、ふと思いついた。」と書いた後、こう続けている。

 軽出版とは何か。それは、zineより少しだけ本気で、でも一人出版社ほどには本格的ではない、即興的でカジュアルな本の出し方のことだ。何も新しい言葉をつくらなくても、すでに多くの人がやっていることである。にもかかわらず、私自身にとってはこの言葉の到来は福音だった。

 そこで仲俣さんは、大きな産業に支えられた「重出版」の対極にあるものとして「軽出版」を定義している。「軽出版者宣言」では書かれていないが、アサノさんによると「軽出版」の規模を「100〜1000部」と話していたそうだ。アフリカキカクでつくってきた雑誌や本はどんなに少なくても100部から、最も多くて(重版の末)1000部なので、「軽出版」に当たるのかもしれない。重要なのは、「重出版」では出せないような内容のものでも、たくさん売らなくていい「軽出版」なら気軽に出せる、ということだ。仲俣さんは自ら本をつくり、売ってみた実感から、こう書いている。

 本を作るのは容易く、売るのは難しい。でもいちばん難しいのは、書くべきことを書くこと、売るためでなく書くために書くことだ。

 この一文には、呼びかけられた、と感じた。この二十数年、私は「書くために書く」べくやってきたからである。
 仲俣さんの自主レーベル・破船房は、自らの書いたものを本にしてゆく活動が中心のようだ。アサノさんのサウダージ・ブックスは「バンド的な本のクリエイター集団を出発点にしている」そうである。その流れで考えると、アフリカキカクは同人雑誌的な営みをベースにしている。『アフリカ』は同人制をとっておらず同人雑誌とは言えないので「的」をつけたのだが、編集者としての私のソロ・プロジェクトと言えば、言えなくもないだろう。
 そんなふうに、やっていることは違うのだが、本をつくって、売る、ということにかんしては似ているというか、同じことなのだ。
「軽出版」という呼称には、これまでリトルプレス(少部数の出版物)とひとくくりにされてきたものを、内側から解き放って自由にしてくれるような軽さがあるのではないか。そう感じながら、まずはここで、少し書いてみた。

朝が始まる

北村周一

天竜の
そらの高みを
ゆうゆうと
泳ぐヒコーキ
雲の純白

あさあけの
そらに向かって
わが吐息
放ちやるがに
小窓をひらく

窓を開け
山と川とが
織り成せる
大気をむねに
導きいたり

天竜の
山のみどりの
おおいなる
気を満たしめて
朝が始まる

三ケ日は
湖のほとりの
露天湯に
おうたわすれて
われをわするる

わさび海苔は
白いご飯の
ともにして
のせて塗して
ゑの具のごとし

油絵の
乾きを遅く
するための
メディウムはなぜか
存在しない

飛び降りる
人の真似して
歩道橋に
たむろしている
カラスの一家

部屋の中に
テントを張って
雨の日は
にぎやかなりぬ
夏休みかな

ラッキーな
一日だったと
思うまで
手間ヒマかけて
マスクを外す

ひさかたの
ひかりと影の
まどろみを
みず割りにして
飲み干す手順

スポンジュの
上下左右の
動きから
得るものありや
風呂洗うとき

夜の雨 
耳に音のみ
記せども
河のながれが
喜んでいる

駐車場にならぶクルマは
黒か白か灰色にして
新緑のなか

無彩色のクルマがずらり 
渋滞の列を抜けゆく
郵便バイク

恐ろしく明るい声でながれくる
政府広報 
頻度が増えた

この文言が目に入らぬかとでもいうように 
〈三分でマイクオフ〉
貧しい国だ

みずからの
席を保たんそれだけの
ために自国の民を見棄てる

ゲンパツを
止めてもらいし奥能登の
珠洲の民への恩返しがこれ

喜びの
森はなんでも知っている
カネの動きもヒトの動きも

むもーままめ(41)捨てられない人の家庭料理、の巻

工藤あかね

 先日、はじめて熱中症になった。その日もとても暑い日で、外に出てすぐいやな予感がした。ものの5秒で脳みそが溶け出すよう感じがしたし、駅に着く頃にはなんとなく手がピリピリしびれだした。おまけに訪問先は降りた駅から目的地までほとんど日陰がなかったので、皮膚は容赦なく灼かれていく。こんな日になぜ日傘を持たずに出てしまったのかと後悔してももう遅い、往路で軽い頭痛がはじまり、帰路には足を引きずるほどに体が重くなり、帰宅後は嘔吐と下痢に苦しんだ。

 そんなこともあって最低限の生命維持のために、しばらくはきゅうりとか、トマトとか、レタスとか、体の熱をとってくれそうなものを食べて過ごしたのだった。世の中には虚無レシピといって、体力気力ゼロでも作れるお料理の紹介もあるのだが、体力気力がマイナスの時に適当に切りさえすれば、あるいはまるごとかぶりつけば食べられる野菜のありがたさよ。けれども少し体力が回復して来た頃に、たまには目先を変えた一品もいいかなと思い、美味しい食べ方を求めてネットをさまよってみた、ところがプロの料理研究家が提案するレシピは、普通の人でも作れそうにアレンジはしてあるのだけれど、ちょっとしたひと手間が入っている。おいしくするコツなので、その工程は省かないほうがよいのだろうけれど、病み上がりにはそれすら面倒くさい。しかも、食材の使い方がなかなか大胆というか、大盤振る舞いというか…。食べられる部分も料理に使わないところはばっさりと切り捨てる感じ。家庭料理だし、ひとつの食材から可食部をなるべく多く取りたいタイプの人間には、どうにももったいない精神が湧き起こってしまう。

トマトは種を取り…いやです。個人的にはゼリーっぽいタネのところが一番美味しい。
トマトは湯むきして…たまにはいいけれど、皮はとったあとどうする?
なすは皮をむき…皮はおいしいし、ポリフェノールもあるからむきたくない。
きゅうりは塩揉みして…カリウムたっぷりの水分絞って捨てちゃうの?うーーーーん。
千切りにしたキャベツは水にさらし…パリパリになるかもしれないけれど、栄養逃げちゃうのでは?
ピーマンはわたをとり…タネのところに栄養があるから使うよ。
オクラのへたをとり…へたも食べられますよ。
鶏肉の皮ははずし…栄養豊富だから食べたいです。

 お料理学校にでも通っていたら、食卓の豊かさのために捨てるところは潔く捨てるようなマインドになるのかもしれないけれどなあ。そんなことを思っていた時に平野レミさんのお料理が脳裏に浮かんできた。豪快な手さばきだけれど食材の可食部はめいいっぱい使い、合理的で、しかもどれもおいしそう。いまだに覚えているのは、ブロッコリーを房に小分けしたりせず、どーんとまるごと使ったお料理。ふだん、包丁で小房に分けると切れ端がポロポロとまな板に落ちてくるのがどうも好きではないのだが、まるごとなら無駄もなく、その一皿にそこはかとないパーティー感も出るというもの。レミさんのレシピで、にんじんの皮を剥かずにまるごと蒸すものもあったが、きっと甘みが出ておいしいのだろうな。

 手の込んだ工程を重ねてつくられた丁寧なお料理もたまには食べてみたいけれど、普段自分が作る時には捨てるところが少なく、工程に無駄がなく簡単でおいしいのが理想。「簡単」の範囲は人によってだいぶ違うのだろうけれど、レミさんのレシピなら面白がって真似したくなる。思わず作ってみたい、食べてみたいと思わせるのは料理研究家(愛好家)の究極の目標だと思う。
 
 シンプルであるということは、食材の本当の姿を追求すると言うことでもあるように思う。炊き込みご飯ばかり炊いていた時期もあったが、あるときふと白米を炊いたら最高においしかった。ツヤツヤと輝いて美しく、いい匂いがして、自然な甘みがあった。炊き込みご飯が悪いわけではないのだけれど、久しぶりにシンプルなものに立ち戻ってみたら、白米の本当の姿があまりに素晴らしくて、惚れ直した。クラスメイトがメガネをとったら意外と美人で、ドキッとしちゃったりするのと同じか。いや違うか。

おジイの眉毛

篠原恒木

おジイになると、アタマの毛が抜ける。さびしい。ゆえにハゲ隠しのため丸坊主にしている。
少なくなった頭髪を伸ばして、禿げた部分へと強引に梳かしつけているヒトを見かけるが、あれは無駄な抵抗だ。そよそよと風が吹くと、目も当てられない状態になっている。未練なのは理解できるが、きれいさっぱりバリカンなどで剃ってしまうことをお勧めする。

肝心のアタマの毛は生えてこないのだが、おジイは生えなくてもいい毛が生えてくる。
まず耳の毛だ。極端なケースからいこう。耳の中からボーボーと生えていて、そのままにしているおジイがいるが、あれはご本人にとってみれば、さほどのモンダイではないのだろうか。
「参ったなぁ、気が付いたらこんなに耳毛が大量発生していて」
と悩んでいるのか、それとも
「これも貫禄じゃ。かんらかんら」
という心境なのか。
訊くわけにもいかないので黙っているが、あれほど大量の毛が、ある日突然耳の中から急に生えてきたとは考えにくい。初期段階では一本、そして二本、やがて数年の時を経て立派に群生、つまりはボーボーという流れなのではないだろうか。年月をかけて丹精に育てていたのか。いやしかし、あの耳毛はやはり「早期発見、早期除去」を促したいところだ。

おれの耳毛は情けない。気が付くと、耳たぶおよび耳の付け根あたりから一本ないし二本が力なく伸びている。発見するとただちに抜くのだが、定期点検を怠ると、また一本成長して平均全長八ミリ、最長記録十五ミリという塩梅だ。思えば若い頃はこんな毛は生えなかった。加齢のせいだろう。

鼻毛も厄介だが、あれも耳毛と同じで定期点検、早期発見が肝要だ。おジイはただでさえ不潔な存在なので、目立つ耳毛および鼻毛はお手入れ、いや思い切って抜いてしまうことにしている。これを「抜本」的解決法と呼ぶのは論を俟たない。

耳毛、鼻毛は自力で処理できるが、自分ではなかなか難しいのが眉毛だ。
おジイは眉毛も無駄に伸びる。若い頃はまったく気にしていなかったが、トシをとるとなぜか眉毛が伸びてくる。ある時、両目の視界の端に細い異物が見え隠れしているのに気付いたら、自分の眉毛だった。伸びた眉毛が垂れ下がり、オノレの視界にまで侵入してきたのだ。これはよくないと思い、小さな鋏でチョキチョキしてやった。抜くのは痛そうだからね。しかしおれは視力が弱いので、眼鏡を外すと鏡に映った自分の顔がよく見えない。したがってどのあたりの眉毛をカットすればいいのか、それが非常に心もとない。カットしすぎたら大惨事になりかねない。おジイのヤンキー眉だけは見るに堪えないではないか。だから恐る恐る控えめに、明らかに伸びているであろうと思われる眉毛だけを数本だけカットする。だが、これだけでは抜本的解決には至らない。すぐまた余分と思われる眉毛が垂れ下がってくる。

おれは思い切ってメンズ専門の眉毛サロンへ行くことにした。
こう見えておれは爪切り、および甘皮処理、コーティングもネイルサロンで三週間に一回の割合で施術してもらっているので、眉毛サロンへ行くのにもさほどの抵抗はなかった。不安だったのは「すっかり整えました」と言わんばかりの不自然な加工的デザイン眉にされたらどうしよう、という点だけだった。イヤだよ、顔が老けているのに、眉毛だけホストのおにいさんのようなかたちなのは。

サロンは客も施術者も若いコばかりだった。
「若者は美意識が高いのだなぁ」
と感心していると、おれを担当してくれる施術者が現れた。若い女性である。いいではないか。おれの眉毛はよその男のために整えるわけではない。女性からどう見られるか。これが重要だ。
「いいトシしてバッカじゃない」
と言いたい奴は一歩前に出てから言え。おジイになっても男なんてそんなもんだよ。世の中が男しかいなかったら、おれは毎日パジャマのまま出勤するよ。
若い女性の施術者はさっそくおれの眉を観察してカウンセリングを始めた。
「何かご予定があって、眉毛を整えたいと思われたのですか?」
ははあ、このサロンへやって来る若い男子は、きっと大切なデート、合コンを間近に控えて、その勝負に臨むために眉を整えるわけなのだな。健気ではないか。おれは質問に答えた。
「いえ、何も予定はないのですが、垂れ下がった眉毛が自分の視界に入って来て、これはどうにかしなくちゃなるめぇと、こう思ったわけでして、ハイ」
「なるほど」
施術者はおれの眉を小さな櫛で梳かしながら言った。
「お客さまは目尻部分の眉の毛量が増えてしまっていて、それが下へ下へと垂れている状態で、いわゆる下がり眉になっています」
「下がり眉」
おれは思わず復唱してしまった。なんと間の抜けた響きだろう。下がり眉。「昇り龍のお銀」なら威勢がよさそうだが「下がり眉のお篠」はショボクレている。下がり眉。だが、施術者は傷ついたおれのココロには気付かず、こう続けた。
「どのような印象を与える眉にしたいか、何かイメージはございますか?」
「印象、イメージ……」
下がり眉のダメージから回復していないおれは激しく戸惑った。眉によってヒトにどんな印象を与えたいのか、などと考えたこともなかったし、おれにとって理想の眉のイメージとは何ぞやと思いをはせたこともない。即答できるわけがなかった。絶句しているおジイに、若い女性施術者は言った。
「たとえば優しい印象に、ですとか、仕事ができるビジネスマン風に、ですとか、包容力のある印象に、ですとか」
困ったことになった。おれは三択から答えを選ばずに、モゴモゴと呟いた。
「えと、あの、その下がり眉を直していただいて、なるべく自然に……」
施術者は男性のさまざまな顔がイラストで描かれているシートをおれに見せて、説明を開始した。水平な眉、鋭角な眉、そして眉の太さ、角度、輪郭がイラストによってさまざまに描き分けられている。おれはざっとそれらの顔をみたが、イラストの男性はあまりにもイケメンで、おれの顔の造作とは似ても似つかない。
「これがいいのだ」
と、ひとつの顔を指差したところでそのイケメン・イラストの顔になれるわけがないという事実はバカなおれでもわかる。だいいちイラストの男性はすべて髪の毛がフサフサだ。当たり前だが、丸坊主の顔はひとつとしてない。
「下がり眉を直してください。下がり眉だと間抜けですよね。その間抜けさをいくぶんキリッとさせていただき、でも細眉にはせずに、さりげなく自然な感じで」
必死にオノレの願望を言語化しながら、どうやらおれはなんとかして「下がり眉」から抜け出したいと切望しているということに気が付いた。下がり眉。
「かしこまりました。では眉のラインを水平に近づけてナチュラルに眉山を整え、眉の下に生えている余分な毛を剃って仕上げていきます」

それからスマートフォンで写真を撮られ、目を閉じてくださいと言われ、何かを眉に当てられ、しばらく時間が経過した。目をひらくといつの間にかおれの眉にガイドラインのような白い線が引かれていた。どうやら定規のようなプレートをあてながら「この範囲内でなんとかする。ラインの範囲外の毛は剃ってしまう」という結論を導き出したらしい。定規を使ったのは左右対称にするためなのだろう。
施術者はおれに手鏡を持たせて「これでよろしければ施術に入ります」と優しく言ってくれたのだが、眼鏡をかけていないので眉のかたちがよくワカラナイ。
「はい、お任せします」
こうなりゃ俎板の上の鯉だ。どうせまた生えてくらぁ。

施術はあっという間に終わった。再び目を閉じるようにと言われ、ジージーというシェーバーらしき音と、チョキチョキという鋏の音が聞こえたが、十分もかからなかったはずだ。最後に眉の部分をウェットティッシュのようなもので拭かれて、
「目をあけてください。あけたお顔で仕上げ、微調整を行ないます」
と言われ、またチョキチョキされた。
「いかがでしょうか」
手鏡を渡されたが、裸眼ではやはりおれの顔はおぼろげだ。でもぼんやりとだが、なんとなく眉尻がスッキリして凛々しくなったようにも思える。
「素晴らしいと思います」
そうおれは応えた。そう言うしかないじゃんね。
「二週間ほどすると、またかたちが崩れてきます」
そうなのか。
「二週間で下がり眉に逆戻りですか」
「いえいえ、もちろん二週間で今までのような状態に戻ることはありませんが、だいたい二週間ごとにメンテナンスをしていただくことをお勧めします」
言われるままに二週間後に再訪の予約をした。おカネがかかるなぁ。おれは眉を曇らせてサロンをあとにした。

会社内の女性たちには、眉の変化をいっさい気付かれることはなかった。そりゃそうだ、誰もおジイの顔など凝視する女性はいない。許そう。現実は許容しなければならない。

帰宅して眼鏡をとって、ツマに顔を見せた。
いくらなんでもツマならおれが眉目秀麗に変身したことがわかるだろう。ご不満は多々あるかと存じますが、なにしろ毎日顔を突き合わせているのだからね。
「昨日までのおれと何か変わったことに気付きましたか?」
ツマはおれの顔を凝視して言った。
「ハゲた?」
おれは眉をひそめた。

仙台ネイティブのつぶやき(97)猫ちゃんズ、逝く

西大立目祥子

猫は明け方に死ぬ。7月21日早朝、我が家の最後の猫が逝った。いよいよかなと感じて猫ベッドに座布団をくっつけるように並べて寝ていて、明け方、粗い呼吸音で目が覚めた。なでながら5分ほど。呼吸がまばらになっていき、間が空いて、ああこの呼吸が最後だ…と直感したところで息が静かになった。時計を確かめると4時13分。日の出の時刻4時30分に合わせるように、日が上り始めた薄明るい中で息を引き取ったのだった。

この猫、マユはなんと20歳。人間でいうと96歳くらいであるらしい。ひときわ小さなからだで、よく生きたと思う。人の生涯が約90年として、その4分の1強の時間を3キロほどのからだで生ききったのだから。仙台市のペット斎場から紙袋に入って帰ってきたお骨は、底の方にかさこそと重なっていて、頭蓋骨はにぎりこぶしよりずっと小さく、大腿骨はペン軸ほどの細さ。このわずかな骨であれだけ敏捷に動き、20年を持ちこたえたのかと思うと、生きものの生命力の強さとその死に怖れのような気持ちが湧いて目の奥がじんわり熱くなる。

20年のつきあいというのは、人にとっても長い。ことばを交わさなくたって、20年身近にいれば何となくなじんで気心が知れてくるし、どんな性格かだって、こちらが猫を見ているように猫は飼い主を観察していただろう。遠慮深かったマユは毎晩、私が布団に潜り込む時間になると甘えてきた。突然カゴに放り込まれ病院に連れて行かれる心配のない、絶対安心の時間帯を知っていたというべきか。いや、一日の終わりというのは、いい日であれ、さんざんな日であれ、気持ちが静まって平らかであるのを感じ取っていたに違いない。最近は階段をだるそうに上がってくるなとか、飼い主の経年変化だってわかっていたかもしれない。こちらが、このごろはびょんと高いところに飛び上がらなくなってきたな、と老いていく猫に我が身を重ねてながめていたように。

運動神経は抜群によくて、全身をしならせて階段を駆け上るようすは、室内ピューマのようだった。こうやって原稿を書いていると、猫ベッドから起き上がって、ととと、と近づいてきて、忙しいんですかー?といいたそうにこちらを見ることがよくあった。死んで10日。部屋にはまだ気配が残っていて、ぱっと振り返るが、誰もいない。実は昨年の11月に、マユの1歳年上のコモという猫も20歳で死んだ。20年のつきあった猫とのお別れはつらかったが、ごはんやトイレの掃除は続き、生活はそう変わらなかった。それがいまでは、猫ベッドはからっぽ。猫トイレに小さな足跡はない。
ああ、我が家の猫ちゃんズは、みんなあちら側にいってしまったのだ。

振り返れば、1997年の秋に庭にあらわれた野良のメス猫に、情にほだされごはんをやったのが猫ライフのはじまりだった。何にせよ名前をつけると関係が生まれる。ビーと名づけたその猫はどこからきたのか兄弟はいたのか、まったくわからない。春生まれで半年くらいは一匹で生きてきたのだろう、人を信用しきらない野性味があった。でも生きもの同士の情緒の交換とでもいったらいいのか、ことばを介さないやりとりのうちに少しずつ関係が縮まっていった。動物と仲良くなるならなら嫌がられることはしない、というのが鉄則。上から見下ろしながら近づいたらパッと逃げられるとか、いきなり頭をさわると猫パンチを食らうとか…NG行動を学んでいくうちに、ビーはガラス戸のすきまから入り込んできてごはんを食べ、しばらくの時間を部屋の隅で過ごしていくようになった。

春が近づくとビーのお腹がふくらんできて、これはヤバいことになるかも…と思っていたら、初産はうまくいかなかったのか何事もなかったように日は過ぎた。やがて翌春、ビーのお腹は特大級にふくらんだ。どこか安心できる場所でお産をしたものか、ペッシャンコのお腹になって数週間がたったころ、事件は起きた。ある日、カーテンの陰から、サバトラ、茶トラ、黒、麦模様の子猫ちゃんがつぎつぎと姿を現したときの衝撃!デビュー!今日からお世話になりますね〜とでもいうような平然とした態度で4匹の子どもたちを従えてきたのである。

ビーはほぼ毎年、春になると贈り物をするように子猫を連れてきた。かわいいけれど、呑気にはしていられない。新聞に子猫いりませんかという広告を出したり、里親探しのイベントに参加したり、奔走の日々。春から夏にかけては毎年てんてこまいだった。
そのころは出入り自由にしていたからウィルスに感染し数ヵ月であっけなく死んでしまうのもいたし、大腿骨を骨折して3本足で帰ってくるのやら、突然姿を消しおろおろ探しまわっていると1週間後にふらりと戻ってくるのもいた。事故にあったのか家出なのか、いなくなりそれっきりだった猫も何匹かいる。3匹、4匹の兄弟だと、たいてい1匹は幼くして死ぬ。子猫の生命力に圧倒されながら、私はこれが100年前なら、人もこうやって指の間からこぼれ落ちるように、1歳、2歳で兄弟が死んでいったのだろうなと想像していた。家の中に、そこいらに、生と死が同時にあったころのこと。

寺田寅彦の『子猫』という随筆には、ひょんなことから家にやってきた2匹の猫が引き起こす騒動や翻弄される家族のようす、動物に目を開かれていく作者の内面が描かれている。最初に読んだのは猫との接点がなかったときだったから格別強い印象は持たなかったのだけれど、いま読むと、書き出しの「これまでかつて猫というもののいた事のない私の家庭に、去年の夏はじめ偶然の機会から急に二匹の猫がはいって来て、それが私の家族の日常生活の上にかなりに鮮明な存在の影を映し始めた。…私自身の内部生活にもなんらかのかすかな光のようなものを投げ込んだように思われた。」というところから、私自身の猫体験をなぞるように読める。
メス猫の三毛、どこか無骨なオス猫の玉、そのうちに子どもが拾ってきたもう一匹のちび、三毛のお産騒ぎと生まれた4匹の子猫のようすや、もらわれていった家やその境遇の違いまで。小さな出来事にざわざわと揺れ動く気持ちや不安感の描写は、動物を飼ったことのある人なら誰もが体験するものだろう。寺田は、芋屋にもらわれていったおさるという猫をのぞきに行き、浮き出た背骨をなで哀れな境遇を思いやって帰ってくる。

私はそこまではしたことはないけれど、先に書いたコモの兄弟を2匹まとめてもらってくれた高校生の女の子のことを思い浮かべることがある。20年たっているのだから、あの子は30代後半だ。ビーの子どもでは唯一だった白猫とハチワレの茶トラはまだ生きているだろうか。送り届けたのは仙台の高級住宅街だったから、うちよりはおいしいごはんを食べさせてもらったとは思うのだけれど。

ビー一族の物語。その最後の一匹がマユだったのだ。ビーとの最初の出会いから27年。それが10数匹2世代の物語であると思うと、長寿化している猫とのつきあいは決して軽いものではない。私の人生や家族の生活の内側に存在して痕跡を残していった一匹一匹の猫たちは、それぞれが人格ならぬ「猫格」を持ち、あっぱれな生き方をしていった。
残酷なほどあざやかな子離れをしたビー、家出をして野良として生き亡骸になって我が家に帰ってきたムギ、引っ越しを拒み野良生活9年ののち最後の2年を家で暮らしたチビ丸…いつか一匹一匹のことをちゃんと書きたい思う。

猫たちは私の中に、引き出しをつくってくれた。この引き出しは奥が深くて、どんなに引いてもいまだ引ききれない。

高窓

芦川和樹

高窓(キルティング、雲が暗くって
雨がさー急に降るからー)。底に立って
いると。目鼻、口も開けば窓で
光が差し込む。きょうはトパーズさんと
ランチですから。ろく、麋鹿びろくの
トナカイさんは二足歩行で行こうかと思う
   ハ
すばらしい約束。すばらしい計画の実行と
都会の灯りが(まだいまは朝です)恋しい
わ。嘘よっ、どこにだってあるもの。灯り
余りある灯り
そのうちのひとつを首から下げているのは
余っているから。それで夜道も安全だし
きれいだし
トパーズさんはカタツムリを追う
目で。窓で(雨が、ざー)。その落下の配
列を覚えてカタツムリを手伝う
殻。ブル
   ドーザーにつぶされても困る
   ッ
   グ
   に拐(さら)われても困
             る
             併
の、白い歯        設された雪国
形。白い歯形
歯医者には、一昨日行ったのだよ
河。ブルーハワイのようだよ
その向こうにトナカイさんが見えました
山になったところで、橇遊びをしている…
何度も、すべって。また山を登る
雨になるまえに(河のこちらは併設、雨)
遊び尽くそうとしている。電話してすぐに
来いっていった
㉟分、分数ぶんすう。が歩く、予感。人魚
がカーテンに生まれ変わっ。るシチューを
食べる、などの。可能性。早く来ないと
マント
靡なび、いて雪国をかき消す雪をかき消す

//////す消きかを国雪す消きかを雪〈キャッチャー〉が捕捉した、ワニ。がシャベルを持っていることで、緑色のマントを連想する。が何色でもいいべつに、何色でもいいだって。マントいらない。雪でも雨でもない日に住む、鹿が、防水の靴を買いましたから。つき指と。あごの、困る困るるんるん

水牛的読書日記2024年7月

アサノタカオ

7月某日 琉球弧の詩人・川満信一さんが2024年6月29日に亡くなった。享年92。いまは悔しい気持ちでいっぱいだ。川満さんは昨年末から『現代詩手帖』に連載詩「言語破れて国興るか」を発表していた。本に、雑誌に、個人誌に、手紙に……。川満さんの遺した詩のことばをかき集め、読み直す。

7月某日 デザイナーの納谷衣美さんと電話。韓国の作家ハン・ガン『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)について語り合う。済州島4・3虐殺事件を背景にした長編小説で、断続的に読み続けてきた。自分のなかにも済州島への旅をめぐる重い記憶がある。それゆえ感想を語ろうとしても喉につかえる感じがあり、まだうまくことばにならない。

7月某日 韓国の作家イ・ジュへの作品集『その猫の名前は長い』(牧野美加訳、里山社)を読む。「水の中を歩く人たち」という短編小説から。

7月某日 韓国を代表する日本文学の翻訳家クォン・ナミのエッセイ集『翻訳に生きて死んで』(藤田麗子訳、平凡社)を読む。個人的には、韓日の編集者の仕事のちがいを知ることができておもしろかった。「翻訳死」なんていう強烈なことばも出てきてどきっとする。

東京・神保町のチェッコリ翻訳スクールで「翻訳者のための編集講座」と題して特別講義をおこない、本書を紹介した。翻訳者を目指すみなさんの真剣な顔に向き合いながら、編集者として、翻訳者が「翻訳死」することなく健康に暮らせるようケアしないと、と肝に命じた。

7月某日 石牟礼道子さん『新装版 花いちもんめ』(弦書房)が届く。巻末には、熊本・水俣の石牟礼さんの旧宅でカライモブックスを営む奥田直美さん、奥田順平さんのエッセイも収録。

7月某日 二松学舎大学の編集論の授業の後、写真部や文芸サークルの学生と雑談をする。同人誌を創刊するそうで、編集をテーマにインタビューを受けることになった。

7月某日 《「百年の孤独」文庫版発売、売り切れ続出 特設コーナーや重版も》。長く文庫化が望まれていたガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』(鼓直訳)がいよいよ新潮文庫で刊行され、毎日新聞で報じられるほど話題に。このタイミングで思いがけず『百年の孤独』について人前で話すことになり、文庫版で読み返さねば、と近所の書店を巡ったもののやはり品切れで入手できず。その代わりに、こちらも話題の友田とんさん『『百年の孤独』を代わりに読む』(ハヤカワ文庫NF)を。

《ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』を、読者であるあなたの代わりに「私」は読む。ところがつい話が横道に逸れて脱線してしまう。『それでも家を買いました』、ドリフターズのコント……》という友田とんさんの本を読んでから『百年の孤独』を再読すると、頭の中で「代わりに読む」的な連想がとまらない。『百年の孤独』を読んだことをきっかけに南米まで行き、人生を脱線した記憶がまざまざとよみがえってきた。

7月某日 読書会にオンラインで参加。課題図書はガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』。参加者はそれぞれにこの名作の力に魅了されたようで、おしゃべりはいつも以上に盛り上がった。ぼくは、物語の舞台である「マコンド」のような村に行ったことがあるという妄想じみた話(でもブラジルで体験した本当の話)を語った。ところでおよそ30年ぶりにこの小説を読み返してみて妙に気になったのは、主人公アウレリャノ・ブエンディア大佐の17番目の息子アウレリャノ・アマドルだった。ほとんど台詞もないまま村から消えるだけの存在なのに、なぜだろう。

7月某日 大阪へ出張。出版社ハザの事務所で対談の収録を行った後、京都へ移動し、恵文社一条寺店を訪問。文化人類学者・批評家の今福龍太先生の新著『霧のコミューン』(みすず書房)刊行記念のトークに参加。平日の午後にもかかわらず会場は満員だった。エミリー・ディキンスン、宮沢賢治、山上憶良、ボルヘス、ゲーテ、ルイーズ・グリュック、トリン・T・ミンハ、ウィリアム・ブレイク、ヘンリー・ソロー、吉増剛造、左川ちか、吉岡実、アルセーニイ・タルコフスキー、川満信一……。今福先生が詩人たちの「霧のことば」を次から次に朗読し、紹介してゆく。関連するさまざまな歌も聴くことができて、非常に充実した時間をすごすことができた。

恵文社一条寺店では、東京・下北沢の気流舎を共同運営するコレクティブのひとり、ハーポ部長の姿を見つけてお互いに近況報告。部長からは、ボブ・マーリーに捧げられたZINE『BOB Book of Books』をプレゼントしてもらった。ほかにも、京都大阪の友人知人とおしゃべり。会場には写真史家の戸田昌子さんもいらっしゃって、イベントの後、書店スタッフの原口輪佳さんに紹介していただいた。戸田さんが監修した『われわれはいま、どんな時代に生きているのか——岡村昭彦の言葉と写真』(赤々舎)を熱心に読んだので、挨拶することができてうれしかった。

7月某日 三重・津のHIBIUTA AND COMPANYへ。市民文化大学HACCOA(HIBIUTA AND COMPANY COLLEGE OF ART)で、「ショートストーリーの講座」第2回の授業を行う。今回は、書評の実践を通じて「読む」「書く」について考えた。

その後、HIBIUTAで読書会「やわらかくひろげる」を開催。課題作品は、宮内勝典さんの小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)の第18章「脳とキノコ雲」、第19章「この惑星こそが楽園なのだ」。人間は意識として存在するのか、物質として存在するのか。世界は意味として存在するのか、物理として存在するのか。究極の問いを突きつけられたまま、来月はいよいよ小説の最終章を参加者のみなさんとともに読む。

7月某日 本屋の加藤優さん(散策舎)、関口竜平さん(lighthouse)、村田奈穂さん(日々詩書肆室)の共著『場所を営む/社会を変える』(HIBIUTA AND COMPANY)を読みながら、名古屋へ。東山公園前のブックショップ、ON READINGをひさしぶりに訪問し、大杉好弘さんの小さな画集『sometimes, somewhere, somethings』(ELVIS PRESS)を購入。ON READINGの黒田杏子さん、黒田義隆さんとも話せてよかった。

黒田さんたちとは同じ大学に通っていたのだが、青春時代を過ごした名古屋の町の風景はどんどん変わって、見慣れないものになってゆく。神奈川の自宅に帰ると、丸田麻保子さんの詩集『カフカを読みながら』(思潮社)が届いていた。装幀は山元伸子さん。

7月某日 二松学舎大学の編集論、今学期の最後の授業を終えて、神保町の韓国書籍専門ブックカフェCHEKCCORIへ。「チェッコリ書評クラブ」に集う仲間とともに、おすすめの韓国文学を紹介するZINEを制作する予定。

7月某日 某書店で開催予定だったガルシア=マルケス『百年の孤独』についてのトークイベントは、最少催行人数が集まらずに延期になってしまった。本書と出会った後の自身の旅と読書の経験を語りつつ、以下の5冊をつなげて紹介するつもりだった。ストーリーは頭の中にあるのでいずれどこかで語るか、書くかしたい。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』(鼓直訳、新潮文庫)
カレン・テイ・ヤマシタ『熱帯雨林の彼方へ』(風間賢二訳、白水社)
星野智幸「目覚めよと人魚は歌う」『星野智幸コレクション フロウ』(人文書院)
松井太郎『うつろ舟』(松籟社)
友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』(ハヤカワ文庫NF)

7月某日 地元の図書館に本を返しに行くと、どしゃぶりの雨。館の入り口で空をみあげると灰色の雲にびっしりおおわれ、雨はしばらくやみそうにない。傘は持っていなかった。館内に引き返し、『中上健次全集』(集英社)の月報を拾い読みしながら時間をつぶす。

ブラジルを旅していたとき、こんなふうにしてスコールをやりすごすことがよくあったな、とそんなことを懐かしく思い出した。

話の話 第17話:ホームスイートホーム

戸田昌子

失敗の多い人生だった。いまでも失敗し続けている。だから自分に自信が持てる日はきっと来ないのだろうと思う。

ドアベルがピンポンと鳴る。郵便屋さんである。扉を開けるとポストマンが手にしているのは、ふかふかした頼りない小包。あれはわたしが夜中に軽いノリで買った服に違いない。見ただけで、とたんにわかる、「また、やってしまった」ということが。大急ぎでハンコをポンとついた後、包みを乱暴に開ける。出てきたのは、ベージュの安っぽいレインコート。おかしいな、こんなものを買った記憶はない。試しに袖を通してみると、石油くさいような、変な匂いまでする。なぜわたしはこんなものを買ってしまったのか? 買ったことを覚えていないだけじゃなく、似合わないし安っぽいし臭いし……と、15分ほど悩む。そしてその果てに、ついに決断する。仕方ない。捨てよう。こんなものを持っていると、なぜこんなものを買ったのかと、また、後悔し続ける人生になってしまうからである。

そして、ゴミ箱に入れる。

そして、忘れる。

すっかり忘れ果てた頃に、妹から「ところで、まあちゃんに代理で買ってもらったわたしのレインコート、届いた? ねえ、どうだった?」とLINEが来る。

はて、そんなもの、あったっけ? しばらく考えて、ああ、あれか(低い声)。なるほどあのコートは、フランスに住んでいる妹に頼まれて、安請け合いして代理購入したコートだったのでした。「ごめん、それ捨てた」「はあ!? 捨てたって?」「うん、捨てた。ごめん、だって、臭かったしダサかった」「……いや、だからって、普通、捨てる?!」

結局、代わりのレインコートを買ってあげ、フランスまで持参しました。高くつきました。妹「さすが、まあちゃんだよね。やることが極端」。

人間ってどうやら、失敗したことを認めないために、恥の上塗りをしてしまうところがある。そんな事例を見るたびに、失敗しても居直って堂々としていたほうがいいんだ、と思う。失敗したことに気づかせなければいいんだ、と居直ってみる。

居直ると言えば、昔、実家のすぐそばに、青いトタン板でできた家があった。屋根がトタン板なのはもちろんのこと、外壁のすべてがトタン板のみで構成されているヴァナキュラー建築である。バナキュラー建築などとおしゃれな言い方をしてはみたものの、夏は暑そうだし冬は寒そうだし、人が住むにはだいぶ微妙な建造物だ。しかも、建てられている場所はY字路の三角州で、一方の道は上り坂、もう一方は下り坂で、危険な立地である。どうもあやしいのだけれど、表札まで出ている。親に尋ねると、「あれは違法建築なのよ」と言う。話によると、戦後の混乱期に、ある男がやってきて、どさくさに紛れて掘立て小屋を建てて住み始めた。しかし坂道の途中の三角州で、一方は国道に面しており交通量も多く、危険な場所であるから、役所の人間が来て、再三、立ち退きを迫られる。しかし、応じない。そのうちに、女の人がやってきて、いつのまにか、子どもまで生まれた。再三の立ち退き要求にはもちろん応じないまま、10年経ち、20年が経つ。そのうちに、トタン屋根はどんどん増えていき、いつのまにか二階建てになった。しかも、そのうちに窓ガラスの入った窓がつけられる。そしてさらに30年、40年が経つ。違法でも長いこと住んでいると、家に関する権利が発生するわけで、もう立ち退きを迫られることはなくなる。その間に子どもはポコポコ生まれ、出て行ったり、帰ってきたり。はっと気づくと、いつのまにか大きな腹を抱えている女の子がいる。孫が生まれる。そしてまた出ていく。何人が出入りしたかは分からないが、いまは静かになって、青いトタン屋根の家はそのまま健在である。

あれくらい居直りたい、と思う。

トタン屋根と言えば、わたしが子どもの頃、ソバージュヘアというのが流行った。高校生のパーマは固く禁じられていた時代だったから(たぶんいまでもだいたいそうだろう)、姉のクラスメイトがソバージュヘアのパーマをかけて登校したとき、生活指導の先生に追っかけられて怒鳴られた。「なんだそのトタン屋根みたいな髪型はァ!」。言われたほうの生徒は、叱られたことというよりも、せっかくのソバージュヘアを「トタン屋根」と形容されて自尊心を傷つけられ、かなりしょげていたそうである。

ちなみに、「焼けたトタン屋根の上の猫」(原題は「熱いトタン屋根の猫」である)は、テネシー・ウィリアムズの戯曲のタイトルである。「欲望という名の電車」といい、「ガラスの動物園」といい、ウィリアムズの戯曲は、忘れられないタイトルを持つものが多い。そのなかで登場人物たちはたいてい、なんとなく直視できないようなうっすらとした不幸のなかに生きていて、はかない薄明のごとく見える希望にすがろうとしている。その、じりじりとした焦燥感と、破局。

「こないだ、戸田さん、夢は全部かなえた、って言ってましたね。珈琲館で」
「よく覚えてますね、そんなこと。……確かに夢は全部かなえたけど、別に空っぽってわけじゃないですよ。やりたいことはこまごまといろいろあるし。でも、駆り立てられるような気持ちというのは、もうない、というか」
「へえ。駆り立てられるって、戸田さんにとって、そんなに大事なことなんですか?」

先日、こんな会話をした。考えたこともなかったが、わたしはどうやら、駆り立てられる以外に人生を駆動させる方法を知らないらしい。「駆り立てられる」、これは他者によってもたらされる感覚だ。わたしは自分が能動形であるよりも、他者によって動かされたいと考えているのだろう。夢によって駆り立てられる、そんな気持ちが消えたあとの、夢を叶えたあとの、人生。

夢といえば、先日、服屋の店先にあった「reve」という文字が刻印されたTシャツをみかけた時に、つい娘に「あれはね、夢という意味のフランス語なんだよ」と言ったことがあった。すると娘は「へぇ、それって、夜みる夢のこと? それとも将来の夢も、同じ言葉で言うの?」といきなり、直球の質問が返ってくる。少々うろたえながら、「たぶん、両方のことを言うよ」と答えると、「どの国でも、寝た時に見る夢と将来の夢が同じ言葉だなんて、不思議だな」と言い始める。「このふたつって、全然違うことなのにな」と言われて、確かに……と、思う。これほどまでに全然違うものを同じ言葉で呼ぶ慣習が、複数の言語で共通しているということは、いったいどういうことなんだろうか。もし、世界中の「夢」という言葉を調べてみたら、言語学にせよ、民俗学にせよ、とても素敵な学問的研究になるんじゃないだろうか。いきなり妄想してしまう。

夢をみる人は素敵だ。先日、アイルランドで、食事会のときに隣に座っていた、笑顔の絶えないアメリカ人が、突然、こんなことを言い始めた。「デザートって本当に素敵だと思うんだよね。僕はね、前菜がデザートで、メインもデザートで、デザートもデザートっていう店があったらいいなっていつも思っているんだよ」。いったいこの人は、どこのどんな星に住んでいるんだろう? 考えながら話を聞いている。「僕ね。そのお店の名前はもう決めてあるの。シュガーって言うんだよ」。思わず、激しく同意する。彼はもう一度考えて、「もちろん、ホームスイートホームでもいいんだよ」。確かに、ホームスイートホームでもいい。その店はきっと桃源郷の入り口あたりにありそうな気がする。

鳩尾が言い出す。「ひとつ思いだした、って、AIが言うっていう、そういう小説が前にあったんですよ」。「それはとてもいいね、」とわたしが返す。そしてちょっと考えてみる。はたして、AIは夢をかなえるのかしら。

本小屋から(10)

福島亮

 名刺が必要になる場面はたしかにあるけれども、かといって他人に渡せるほどの情報は特にないから、ながいこと、必要が生じたら名前とアドレスと電話番号を小さな厚紙に手書きして渡していた。必要、というのは、多くの場合、アルファベットで自分の名前を綴る必要のこと。震災以降、私の姓の方はどれだけ拙い発音で名乗っても書き取ってもらえるのに、喉奥を軽く振るわせて発音すべき名の方は、いくら頑張っても正確に聞き取ってもらえず、ならばと思って、公式の場以外ではLを使って発音したり、ブラジルの都市の知名度を利用して、yの代わりにiを用いて名乗ったこともあるが、結局、書いてしまうのが手っ取り早い、という結論に至り、それからしばらくは小さな厚紙にボールペンで名前、メールアドレス、電話番号を書いてひとに渡していた。

 一年ほど前から、名刺が必要になる機会が急に増えた。そこで通販サイトを利用して簡素な名刺を作った。とはいえ肩書きといえるようなものはどうしても見つからず、仕方なしに「フランス語圏文学研究」とだけ書いた。が、それでは許してもらえないことも多く、私がおずおずと名刺を渡すと、紙片をじっと眺めてから、「で、ご所属は?」と訝しげに質問する人がままいるのである。正直、そういう質問はあまり好きではないし、だいたい「所属」なるものを知ったところで何になるのか分からない。だが、たしかに「所属」を書いていないのはある人々にとっては無礼なことかもしれない。だから「で、ご所属は?」と問われたら、いくつかの大学で語学教師をしていますと答えることにしている。

 毎学期、都内のある大学のフランス語の授業でお茶会を行っている。お茶会といっても、飲み物は各自持ち込みで、有志にちょっとしたお菓子を持ってきてもらう。なまものは禁止。マドレーヌ、クッキー、ビスケットなど、小さな焼き菓子が教室に集う。その授業は受講生の半分がいわゆる学部生、もう半分が社会人聴講生だ。するとどうしても学部生と社会人聴講生のあいだに意図せぬ壁ができてしまう。語学の授業において、受講生のあいだの壁ほど有害なものはない。それが講読の授業であれ、文法の授業であれ、言語を学ぶ以上、教室は開かれた環境であった方がよい。誰もが発言でき、皆がそれに耳を澄ませ、それを受けてまた誰かが発言する。こんなふうに、言葉が自由に行き交う場が理想的だと私は思っている。教師が学生を指名し、指名された学生が発言するだけでは意味がない。実際に言葉が発声されるかどうかが重要なのではなく、その場にいるひとたちと交流したい、目の前にあるテクストについて語ってみたい、誰かの意見を聞いてみたい、という心の持ちよう、心の風通しが重要なのだ。たしかに、学部生と社会人聴講生のあいだには年齢の差があるけれど、それによってコミュニケーションの回路が機能しないのはもったいない。教室で何かを学びたい、教えたい、伝えたい、という気持ちは、学部生にも聴講生にもきっとあるはずだからである。教師がやるべきことの一つは、そのような教室内の交流のためのちょっとした環境整備だ。

 もっとも、じつはこのお茶会の背景にあるのは、そんな大袈裟な教育論ではなく、もっと個人的ないくつかの思い出である。もう10年以上前になるが、政治学者のフランソワーズ・ヴェルジェスさんが日仏会館でセミナーを行った。当時私は学部3年生だったが、どういうわけかそれを聞きに行った。セミナーの主題は、フランスの植民地政策と海外県。緊張感の漂う主題だ。ロの字型に並べられた席につく。参加者の多くもどこか緊張した面持ちだ。ところが、ヴェルジェスさんは席につくと、来場者にむかって微笑み、おもむろに小さな箱を取り出した。それはチョコレートの小箱だった。よかったら、みんなでわけましょう。そこで彼女が語った内容はあまり覚えていないのだが(そもそも、フランス語の議論についていくだけの語学力が私にはなかった)、参加者のあいだにその小箱がバトンタッチのようにまわされた光景をいまでも朧げに覚えている。それから5年ほど経って、私はパリに留学したのだが、そこでも、研究会やちょっとしたセミナーにコーヒーやお菓子はつきものだった。そんないくつかの思い出が背景となって、ちょっとした飲み物や食べ物を媒介しながら、おしゃべりでもするように授業ができたら、といつの頃からか思うようになった。

 もう先月のことになってしまうが、やはり今学期もお茶会をおこなった。BGMにフランス語の歌を流し、この日ばかりは私も黒板の前ではなく、学生用の椅子に座る。机の上には、すでにお菓子が綺麗に並べられている。そのうちのひとつに透明な袋に詰めたクッキーがあった。私の視線は、クッキーではなく、その袋に封入された小さな厚紙のほうにむかった。脆い焼き菓子が崩れないように、袋の大きさにあわせて一枚一枚切り抜かれたその厚紙が、この場を作り上げている学生たちの心をあらわしているように思えた。

想像の共同体の舞踊

冨岡三智

このタイトルをつけたけれど、話はアンダーソンの『想像の共同体』とは関係がない。ジャワの宮廷伝統舞踊をやっていると、西洋では失われてしまった、大地に根差した共同体舞踊の本質がその中にはあるのでしょう?この舞踊も本来は儀礼的・儀式的な舞踊だったのですよね?という問いを観客から受けることがある。直接そう言われることはなくても、そういう期待やそう言いたげな視線を感じることがある。たぶん、アジアの伝統舞踊をやっている人は皆同じような経験をしているのではなかろうか。そして、かく言う私も、そういう期待を以てジャワ舞踊を始めたのかもしれないと思う。

けれど、いまの私は、現在では失われてしまった宮廷舞踊の本質がかつての宮廷にはあった…とは実はあまり思っていない。現在では失われてしまった何かが古代にある、アジアにある、どこか人知れない所にいまなおある…という想像は学問や芸術の探求において大きな動機・起爆装置になる。そしてそれを追体験したい人たちにとって観光の大きな動機にもなる。

けれど、たぶん、人間の本質というのはそうそうは変わらなくて、昔だって儀礼として舞踊を探求したい人も、また優れた踊り手も、実はそんなに多くはなかっただろうと思うのだ。昔は舞台公演がなくて、「共同体儀礼」や「宮廷儀礼」の中でしか踊れなかったのかもしれない。けれど、このコンテクストがあるから成立させてもらえていた面だって大いにあるはずだ。逆に、それだけでは満足できなくて、コンテクストの支えなしの芸術性を追求したいと思っていた人も中にはいたはずだ。

共同体のコンテクストというのは、儀礼の場でもあると同時に社交や娯楽、単なる暇つぶしの場でもあっただろうなとも私は想像している。儀礼として尋常でない覚悟を持ってやっている人の隣には、それを見届けたいと思う人だけではなくて、ボケーッとしている人も、仕方ないからそこにいる人だっていたことだろう。だって、そこを離れたら行く所がないというのがかつての共同体なのだから。それはちょうど今の義務教育の学校のようなものではないだろうか。学校の中でも、言われなくても勉強にスポーツにどんどん自発的に取り組んで工夫をするのが好きな人もいれば、言われたらできる人もおり、言われてもやらなかったりやれなかったりする人もいる。

だから、時間的な隔たりの向こうに(古代に)、辺境の彼方に(アジアに)あったらしい想像の共同体の中で伝承されてきた儀礼的な舞踊…、きっとあるに違いないと思って想像する何かを私は見つけたいのだろうと思っている。

しもた屋之噺(270)

杉山洋一

数日前に栃木で41度を観測と言っていましたが、ちょっと想像ができません。我々が子供だったころ、30度を超えれば猛暑だと思っていましたから、最近のように最高気温が30度を下回るだけでずいぶん涼しい、という感覚からかけ離れていました。
当時、電車などは冷房のない扇風機だけの車両ばかりで、たまたま冷房つきの列車が来ただけで、籤に当たったような得した気分を味わったものです。あの程度で満足していれば良かったのかもしれません。町には砂利道が沢山残っていて、自転車でそうした砂利道で急ブレーキをかけると、転んで膝をひどく擦りむきました。生まれ育った家の前も砂利道でしたが、アスファルトで舗装された道が、すごくモダンで羨ましかったのをよく覚えています。現在では、都会を歩いていて、土に触れる機会もすっかり減りました。街路樹の根元に少しだけ地面が顔を覗かせる程度ではないでしょうか。

7月某日 ミラノ自宅                                                                                                                                                                                                               自転車でプリマティッチョ駅前の市役所出張所に息子を連れてゆき、彼の身分証明書を作った。予め予約してあったので、並ぶこともなく思いの外すんなりと手続きが完了した。息子曰く、窓口の係員と話して書類を作ってゆき、最後、もし自分が死ぬことがあったら、臓器を提供する意思があるか質問されたという。

7月某日 ミラノ自宅
フランス総選挙を前に、朝のイタリア国営放送のニュース解説では、現在のフランス政権と大戦中のヴェシー政権との比較をしている。先日のヨーロッパ議会での極右躍進を受けて、今後のヨーロッパの政治動向にも話が及ぶ。恐らくマクロンは右派を取り込みつつ、今までのような舵取りを続けると予想。フランスでは、ドイツやイタリア、スペインのようなファシズム政権が生まれたことがないからだという。ただ、このまま極右勢力が増大すれば、スペイン内戦を引き起こした捻じれに似てくる可能性もある。

7月某日 ミラノ自宅
どこか奇妙な朝であった。行きつけの焙煎屋では冗談が通じず怪訝な顔をされ、続いて訪れたパン屋では、渡した小銭を店員がショーケースのパンのなかに落としてしまった。どうも妙だと思いながら、そのまま用水路べりを散歩していると、向こうから1メートルほどの鹿が流れてきた。眼を見開いたまま、きれいな躰で浮いていたから、昨夜の酷い驟雨で水に落ちたばかりなのだろうな、などと考える。一度落水すると、用水路だから陸にあがるのも難しかったのだろう。すると、鹿の後ろほんの3メートルほどの所に、今度は小さなネズミの死体が浮いていた。20年近く住んでいるが、動物の死体が流れてくるのを見たのは初めてだった。ランニング中の妙齢も思わず足をとめて鹿の写真を撮っていたし、ネズミに気が付いた中年の夫婦は、あらまあネズミよ、と困惑した声をあげた。

7月某日 ミラノ自宅
もうすぐ日本に戻るので、息子に芝刈り機の延長コードを持たせて芝を刈る。こうすると格段に効率がよいからだ。今年はよく雨が降ったので、芝も木も青々と繁っている。去年は酷い旱魃だったから、いくら水を撒いても草木は乾いたままで気の毒な程だった。
息子はこのところバッハのハ短調トッカータをさらっていて、前奏に続くコラールに現れる2度下行と4度上行の音型が、子供の頃よく聴いたクラム「夏の夜の音楽」のバッハの引用にそっくりなのだが、原曲がこのトッカータなのか、それとも似た別のバッハ曲なのか気になって仕方がない。
キーウの小児病院などにミサイル攻撃。少なくとも41人死亡、170人負傷との報道。外国為替1ユーロは175円まで円安進行。

7月某日 ミラノ自宅
Mdiと一緒に国立音楽院の作曲試験を手伝う。5人編成のアンサンブル作曲が課題に出されていて、試験では先ず学生が曲の意図などを簡単に説明してから全体を通す。その後5、6分作曲者がアンサンブルと簡単なリハーサルをする時間があって、最後にもう一度全体を通す。それから演奏者や見学者は退出、学生と教員3人でのディスカッションの後、学生も退席して教員が点数を話し合い、再び呼び込まれて点数発表となる。こんな塩梅で一人につき1時間近くかかるから、6人の学生だけで朝から夕方までかかる。試験から解放されたところで、息子より無事に日本着との連絡あり。
夜サラから電話がかかってきて、彼女の母親パオラが亡くなったことを知る。突然電話があったので、どうしたの?と尋ねると、お母さん死んじゃったの、と絶句している。暫く沈黙したあと、明日の昼、お葬式だから参列してくれないかしら、と震える声で言った。サラと息子は小学校低学年の頃から一緒に劇場の合唱団で歌っていた。家が近かったこともあって、家族ぐるみで仲が良かった。劇場の公演がある時など、夜おそく劇場裏の通用口で大きな犬を連れたパオラと話しながら、子供たちが通用口からでてくるのを待っていた。合唱団を終えてサラはヴァイオリン、息子はピアノと音楽を続けて、結局同じ音楽院に通うことになり、一緒に演奏するようにもなった。その切っ掛けを作ったのもパオラだった。サラや彼女の姉のソフィアとは、国立音楽院のオーケストラを振ったときに一緒にもなった。サラはちょうど初めてのコンサートミストレスですごく緊張していて、パオラからよろしく頼むわね、と連絡を貰ったりしたのを思い出していた。
最後にパオラに会ったのは、息子とサラが4月にピエモンテの教会で演奏会を開いたときだった。以前はふっくらした印象だったパオラが、すっかり痩せてこけてしまっていたから、家人と二人内心心配していた。そんなことをつらつら思い出していると、再びサラから電話があった。明日の葬式で、音楽院時代に一緒に演奏したブリテンのサラバンドを振ってほしいという。

7月某日 ミラノ自宅
14時20分にロレート広場にほど近い、サンティッシモ・レデントーレ教会に行く。特に何も言われなかったが、折り畳みの譜面台を持ってきたのは正解だった。もう少しで忘れるところだったが、サラやソフィアは気が動転してそこまで気が回らないのは当然である。友人の葬式で演奏した経験はなかったので、服装もよくわからなかったが、一応黒っぽい格好をした。約束の時間になるとサラとソフィアの友人や先生などが集まってきて、小さいながら立派な弦楽アンサンブルが出来上がった。最初にソフィアに会って抱擁したけれど、彼女も、来てくれてありがとうね、と言うのが精いっぱいだった。
既に柩は閉められていて、顔が見えないから実感も湧かない。本当にパオラは亡くなったのか、信じられない気持ちにもなる。柩の傍らの長椅子を皆で動かして、即席の演奏スペースを作って、ミサが始まる前5分程だけ音を出した。
時間通りに葬儀ミサが始まり、神父の説教になった。聖パオロ、聖アンブロ―ジョ、聖某、と聖人の名前を羅列した後、そちらに向かいましたパオラをどうぞ無事に神の国に送り届けてください。よろしくお願いします、ハレルヤ、ホザンナと締めくくると、本当に天空で無数の天使や聖人たちが環になってパオラを歓迎し、そのまま神の国へと吸い込まる姿が見えるようである。観念的というより、ずっと描写的な説教に妙に感心した。ずっと昔から作曲家たちは、この宗教観を連綿と音に綴ってきたのである。
パオラとカルロは別れているから、喪主は長女のソフィアになっていて、家族の言葉も「今朝あわてて書きなぐったものですが」と泣きじゃくりながらソフィアが読んだ。カルロは大学かどこかでミサで歌う聖歌を刷った簡単なパンフレットを用意してきて、ソフィアたちより少し後にミサに着いて、参列者に一人一人配っていた。
ミサの最後にブリテンを演奏したときのこと。左を見れば泣きじゃくるサラがヴァイオリンを弾いていて、右を見れば泣き崩れてチェロを弾いているソフィアが目に入って、胸が締め付けられる思いであった。ただこの音楽がすぐ隣に据えられている柩のなかのパオラに届くといい、そう思いながら振る。途方に暮れていたのだが、演奏に参加した皆の気持ちが彼女たち二人を励まそうと一つに纏まったから、結果としてとても情熱的な演奏になった。
ミサの後、カルロに言葉をかけてから、言葉に詰まってしまった。「生前パオラは息子に本当に良くしてくれて、本当に恩人だと思っている。今は何と言ったらよいか、言葉が見つからない」というと、カルロは「言葉なんかいらないよ。音楽で思いを伝えてくれたばかりじゃないか、あれ以上の言葉なんてないよ」と言った。
泣きじゃくるサラを抱きしめてから、教会を後にした。振り向くとサラとソフィアのところに参列者の長い列が続いていた。柩が運び出されてゆくとき、サラもソフィアもただ教会のなかで立ちつくしていて、教会外の霊柩車までついてゆくことはなかった。すでにパオラが、聖人のびっしり並ぶ環のずっと奥深く佇んでいるのを、或いは彼女たちは見ていたのかもしれない。

7月某日 ミラノ自宅
トランプ大統領暗殺未遂。イタリアのテレビでは「今回の事件で、左派はここぞとばかり銃規制に反対する共和党派を糾弾するでしょうが、規制の厳しいはずの日本でさえ首相が銃で暗殺されたばかりですからね、あまり関係ありませんね」と報じていて、何ともいえない心地。イスラエル、ハーンユーニスを空爆。少なくとも71人死亡、289人負傷との報道。

7月某日 三軒茶屋自宅
朝、散歩にでると、目の前の小学校の校門で、女児がインターホンを押し、開けてもらうのを待っているところだった。インターホンから「お名前をお願いします」と男性教諭と思しき男性の声が聞こえ、女児は名前を言ってから入っていった。
30年近く日本を離れていれば、言語感覚も乖離する。今は先生が低学年の小学生にこうも丁寧に尋ねるのか、と不思議というか新鮮な感覚をおぼえる。じゃあ自分がどう呼ばれていたかと言われると思い出せないが、お名前どうぞ、名前をどうぞ、程度だったのではないか。
たとえば、食う、食わない、という言葉も、息子などには理解がむつかしいようだ。息子に向かって、これは食わなきゃあ勿体ないよ、などと敢えてぞんざいに話すことがあって、彼はそれを真似て、我々に向かって、これも食いなよ、などとたどたどしく試みるのだが、家人から親に向かって使ってはいけない、などと言われて理解に困っている。ジェンダーの境界線も曖昧になりつつある昨今、男言葉、女言葉の区別も時代錯誤というか、矛盾も生じる。尤も、これはイタリア語を話すときでも同じである。
正確に言えば、親に向かって「食う」という言葉を使えないわけではないし、「食ってみたら」と婉曲的な命令表現すらも、場合によっては可能であろう。しかしそれは、「食う」以外の部分の日本語ニュアンスとのバランスであって、唐突に「食って」と親に言うのはやはり無理がある。
息子は魚釣りなどやらないからわからないだろうが、魚の食いつきが悪い、今日は餌を食わないねえ、というのを、魚の食べっぷりが悪いなあ、今日は餌を食べないねえ、というと、どうも雰囲気がでない。庭の池で錦鯉でも飼っているようである。
ところが犬や猫に餌をやるとき、最近この犬、餌を食わなくてさ、この猫、食わないんだよ、と言うと流石にやさぐれて聞こえる。動物にも等級があるのか、それとも日本人が伝統的に食してきたかによるのか。尤も、牛や馬くらい図体が大きくなると、食うでも食べるでもなくて、食むになりそうだ。
時代を下るに従い、以前の敬語表現が格下げされて使われる傾向があるらしいから、50年後くらいには、親が子供に向かって「ほらこれを召しあがって」、飼い猫にも「この餌召し上がらないと」などと話しているのかと想像すると、愉快ではある。イタリア語だって、さまざまなニュアンスを一致させながら話す必要はあるのだけれど、日本語はやはり突出してむつかしい。
バイデン大統領、次期大統領選撤退発表。カマラ・ハリス副大統領を民主党候補として支持を表明。少し前から外国為替は円高傾向に転じている。

7月某日 三軒茶屋自宅
息子が見つけてきた、ディノ・チャーニのウェーバーの録音に衝撃を受けている。輝かしい音を並べつつ、ほとんど即興的に表現の限界に挑んでいる。チャーニは、カセルラ、アゴスティ、コルトーの薫陶を受けたデル・ヴェッキオからピアノを学んだ後、チャーニ自身もパリでコルトーのもとで研鑽を積んだ。その為かチャーニが弾くバルトークは、カセルラの自作自演を思い起こさせるし、ロマン派のレパートリーであれば、イタリア的な読譜が礎に据えながら、コルトーのように眩く発色させた印象を受ける。ウェーバーのソナタも間違いなくコルトーの教えを受けたに違いない。チャーニのショパン3番ソナタの録音でも同じようなショックを受けたが、イタリア人らしい、観念性を排除した譜面の読み込み方と、そこから脱皮し敢えてその衣を過ぎ捨てながら、自在に空間に遊ぶ姿が共存している。もしベートーヴェンからショパンに至る一本の線があるとするなら、ウェーバーは確かにその線上に位置している。息子曰く、ウェーバーとベートーヴェンが違うと考えるより、ウェーバーがあったからショパンがある、と思う方がよほど納得しやすいそうだ。その昔、初めてクラシック作品を指揮した演奏会で選んだのは「魔弾の射手」だった。

教員が教室のクーラーをつけ忘れていて、九州の小学6年生が「暑い、なんでつけてくれんやったと。死ね」と言った事に対し、生徒を窓際まで連れていき、肩に手をまわして教員が「一緒に死のう、一緒に飛び降りるか」と指導したことが体罰に相当と判断されて、「決して許されることではなかった。もう一度学校づくりを進めていきたいと思います。本当に申し訳ありませんでした」と学校が謝罪したとニュースに書いてある。
一概に、時代が進むにつれて、丁寧な表現が格下げされて敷延するばかりではないことは分かった。さて、「亡くなる」の命令形はなんだろう。
日本滞在中の愉しみのひとつ、金曜夜の「高橋源一郎の飛ぶ教室」で大田ステファニー歓人インタビュー。山根明季子さんの音楽を思い出しながら、聴き入る。まだ彼の本を読んでいないから、恐らく見当はずれの感想には違いないが、番組で音読された長大なセンテンスを聞きつつ無意識に想起していたのは、山根さんの音に満たされた三島由紀夫の文章だった。息子は先日まで熱があったらしくて、多少味覚障害が残っている、どうしよう、とすっかり不安に駆られている。

7月某日 三軒茶屋自宅
全く仕事が進んでいないが、ちょっと抜け出してトーンシークの演奏会を聴く。主宰者の久保くんも、増田建太くんも秋吉台で知り合った。久保くんはその後ミラノで研鑽を積んだから、その頃も親しくしていたし、今年の春も奥さんを連れてミラノに遊びにきてくれた。指揮の馬場くんも彼がトロンボーンを吹いていたころから知っている。クラリネットのキュサンは、渡邉理恵さんのアンサンブルで吹いていたのを思い出した。打楽器の沓名さんもフルートの齋藤さんもピアノの秋山くんもご一緒したことがあるから、それぞれ素晴らしい演奏家だと知っている。
久保くんは、ミラノでmdiアンサンブルが若手作曲家にむけたワークショップを開いては、広く演奏の機会を与えていたことに深く感銘を受けていた。だから、帰国直後から、同様の活動を日本でどうしてもやりたい、と深く情熱を傾けてきた。
秋吉台以来の増田くんも見違えるように紳士になっていて、彼の音楽もより広がりを持ち、何よりやりたいことが明瞭になっていたとおもう。秋吉台のホールで、彼が自作を熱心に振っていた姿を感慨深く思い出す。客席にはチューバの橋本君がいて、秋吉台の思い出話に花が咲く。実は増田くんは我々の直ぐ傍らに座っていたのだが、すっかり垢ぬけてしまっていて二人とも彼が増田くんとは気づかなかった。馬場くんの指揮は流れるように音楽的で、アンサンブルも深く寄添っていた。久保くん凄いね、これこそ情熱だよね、いや執念でしょう、と橋本君と笑う。
ヒズボラがイスラエル占領下のゴラン高原にロケット弾攻撃との報道。被害を受けたサッカー場で子供を含む12人死亡。

7月某日 三軒茶屋自宅
その昔、創立されたばかりのひばり合唱団一期生に母が入団した頃、朝5時に起きては蒸気機関車の曳く汽車に乗って、10時からのNHKの収録に出かけていたという。東京にむかう汽車の中で合唱の練習をしていたそうだが、今じゃあ到底考えられないわね、昔はのどかよね、と電話の向こうで笑っている。
般若さんが来月金沢で演奏してくれる「Jeux III」の解説文を書く。すっかり忘れていたけれど、この曲を般若さんに送ったのは、イタリアでcovidが爆発した直後のことだった。あの年の1月、東京で般若さんが悠治さんの演奏会に参加してくれた時、何かヴィオラ曲を書いてほしいと言われていたのだけれど、3月にcovidが爆発して、そのヴィオラ曲を書きあげるまで自分が生き抜く自信がなかったから、サックスと太鼓のための作品を急遽ヴィオラに直して般若さんに送ったのだった。当時、家人と息子は金沢からほど近い、入善の友人宅に身を寄せていたから、無意識に何か書いて送りたかったのかもしれない。
オリンピック開会式。見ていないので何もわからないが、選手たちはセーヌ川を船で下って入場したと聞いた。イタリアはイスラエルと同じ船だったから、イタリアでは、そんな船に同乗させるのは可哀想だとか、見るのも耐えられないなどとも言われたようだ。実際イスラエルの選手たちに対しては、少なからず抗議のブーイングなどが投げかけられたようである。ロシアとベラルーシの選手の参加は認められなかった。

7月某日 三軒茶屋自宅
橋本さんとのリハーサルは楽しい。ご本人からしたら未経験の無理難題ばかり押し付けられ、堪ったものではないだろうが、同時に、怖いものみたさで、それを嬉々として待ち構えているというか、ハングリー精神とも少し違うのだが、興味深々とでもいうのか、練習のたびに研ぎ澄まされてゆく感覚を愉しんでいらっしゃるようにすら感じる。彼女の裡には粘り強く強靭な何かがあって、そこを目がけて音を放つとしっかりと受け止めて跳ね返してくる。そこにエネルギーが生まれ、耀く色が見えてくる。
磨けば磨くほど、何かを演じる際、彼女の裡が空っぽの真空になってゆくのがわかって、すばらしい。体現すべき対象物が自身の裡に燻っていては、表現として外に発すことはできない。
夜、ニグアルダ病院時代に息子がすっかりお世話になった、ベルガモーニ先生と彼女の友人と16歳の息子に会う。彼女たちが2週間の日本を観光を終え、明日ミラノに戻るので、何か食べたいものはないかと尋ねたところ、フグだと言う。よってリハーサル後、渋谷で落ち合って息子も合流して5人でフグの刺身とフグ焼き、カニとうなぎに舌鼓を打った。
フグ専門店に行こうかと思ったが、友人親子はフグがどうしても怖くて食べられないということで、他の食材もあるところを探したのだが、実に美味であった。何でもイタリアでは、日本で有毒のフグを食べるという肝試しがあるらしい。そんな話はついぞ聞いたこともないが、ある所にはあるのだろう。音楽家界隈には馴染みのない肝試しには違いない。
よく聞くと友人親子が想像していたフグとは、トラフグではなくハリセンボンであった。なるほど確かにハリセンボンは我々の食指も動かさない。親子曰く、怖いし、ハリセンボンの剥製を家に飾ってあるから、可哀想だというのである。ともかくベルガモーニ先生は、明日生きて帰れるかしらと冗談を言いながらパクパクと食べていたから、すっかりフグの味が気に入ったのだろう。ウナギもイタリアではあまり頻繁に食べられるものでもないので、最初は皆少し緊張していたが、結局喜んで平らげていた。
ヴィム・ヴェンダーズの「パーフェクト・デイズ」にでてくる公衆トイレは全部行った、と嬉しそうに写真を見せてくれる。この映画に刺激をうけて日本を訪問する観光客はかなりいるはずだ。
渋谷の夜景に美しい美しいと感動していたけれど、でもここに住むのは大変そうね、と笑っていた。道で犬を散歩させる人もずいぶん少ない、と驚いていたが、確かに特に住宅街を訪れなければ、そういう印象を持つのも仕方がない。

7月某日 三軒茶屋自宅
留学先から帰国して2年ほどになるT君と話す。ずっと日本にいると、自分が学んできた大切な部分を忘れてしまいそうになるんですよ、という。狭い世界に閉じ籠っているからか、ここで仕事を続けていると、自分の性格が悪くなってゆく気がするそうだ。日本人社会がとてもきっちりしているのはその通りかもしれないが、それ以上に、学生と社会人であることの違いが大きいに違いない。リハーサルと会議を終え幡ヶ谷から自転車で戻ってみると、慕っていた作曲家の訃報がとどいていて、言葉につまる。
外国為替は1ドル151円、1ユーロ166円まで円が回復。イラン訪問中のハマス最高幹部、イスマイル・ハニーアが飛翔体によって就寝中に殺害との報道。昨日はイスラエルがベイルート南部ダヒエ地区を空爆、ヒズボラ最高幹部のファド・シュクル殺害と発表。世界では平和の祭典オリンピックからはかけ離れた日々が続く。

(7月31日 三軒茶屋にて)

アパート日記7月

吉良幸子

7/3 水
久しぶりに近所の整骨院へ。今年の頭まではまともに通ってたとこで、職場が変わってから約半年行けんかった。申し訳なくてそおっと入ったんけど、久しぶりに会った友達みたいな感じで陽気に迎えてくれた。揉んでもらいながらあーだこーだ話すんがおもろい。みんな元気そうでよかった。これからは週1くらいでちゃんと行こう。

7/6 土
埼玉はとにかく暑くてゲリラ豪雨がすごい。出稼ぎ先が夕方雨で浸水した。お昼間はあんなにお天気で、お子たちと一緒に絵描いたりおりがみして楽しかったというのに。気付いたら嘘みたいに空が真っ暗になって、坂の上から一気に来た雨水が店の中まで入った。浸水する前、雨宿りしてた女の子が店内でてるてる坊主を2人作り、両手に持って歌を熱唱しながら雨雲を追い払ってたんやけど、そのてるてる坊主1人もらってたらよかったなぁと思ったりした。雨が去って絵具職人の同僚と私でひたすら水を店の外へ出す。喫茶部門の同僚、うちのおかあはんと同い年のキョーコさんは撮影係で動画撮ってる。なくしてたピアスが出てきたらしくテンションもどこか高め。後で動画を知人に見せたら、私が浴衣着てるし伊豆の踊子みたいね~と、そんなええもんちゃうで!

7/9 火
入船亭扇辰師匠の独演会へ。冬の噺『鰍沢』でむっちゃ冷え冷えした。会場がシーンとして雰囲気まで冬の感じ。噺だけでこんな冷えんのん!?って感じやった。すごいなぁ。

7/11 木
古今亭始さんの勉強会、ハジベンへ。今週3回目の落語会、そろそろ疲れたきたところに始さんの賑やかな落語で元気もらった。

7/13 土
今週は仕事終わりに1日おきの落語会やったんやけど今日は友達と。出稼ぎ終わりに中野で友達と待ち合わせ、古着物屋さんへ寄ってから桂鷹治独演会へ。受付でスタンプカードをご本人からもらう。お客さん呼ぶのに色々がんばってはるんやなぁと感心。一緒に行った友達は、父親の車で流す落語は聞いてたけど、落語会へ行くのんは初めてで、むっちゃ笑って楽しかったみたい。鷹治さんのファンになりそうやわって言うてくれた。そりゃめちゃめちゃ嬉しい、よかったー!!!

7/17 水
今になってまたこんな家事するなんて…と言うてはるけど、公子さんがむっちゃお料理してくれはる。出稼ぎの日は5時すぎには家出るし、とにかく職場まで行って向こうで朝ごはん食べるんやけど、起きたらミッドナイトキッチンで作ったお弁当が台所に置いてある。夜中に台所に立ってるとソラちゃんが満足してそばで監督してくれるんやて。なんて甘えたなおっさん猫。ご飯とちょっとおかずの時と、サンドイッチの時と。持っていって食べるのが楽しみ。帰ってきたら晩ご飯も作ってくれはるんやけど、最近は具沢山の素麺。薬味とか肉か野菜が入っててむっちゃおいしい。結局素朴なんが一番好きやわ。しかも公子さん、素麺茹でるのむっちゃうまいんやで。

7/20 土
仕事終わりに職場近くのご婦人・おタカさんのおうちへ晩ご飯をよばれに行く。これしかできないのよ、とお野菜いっぱいのお雑煮。むっちゃおいしくてありがたい。お年寄りの喜びは、若い人にご飯をいっぱい食べさすことと心得て、お雑煮に飛び込む追加のお餅をもりもり食べた。なんやかんや話してたら21時半ごろになって、そろそろお暇しようかと腰をあげたらまたまた豪雨と雷。都内行きの最終列車は22時すぎで駅まで自転車で15分くらい。なんとかカッパ着て行くか…行けるか?と考えてたら、こりゃもう雷神さんが足止めしてはるから泊まっていきなさい、と言われて急遽泊まることになった。さらっぴんの浴衣にいつもよりフカフカのお布団、風呂まで沸かしてくれて極楽すぎた。寝るまでくだらんことからちょっと深い話まで、雷神さんがくれた楽しい夜やった。

7/23 火
仕事帰りに公子さんと代々木公園で待ち合わせ。金原亭馬久さんと三遊亭ふう丈さんの二人会へ。スパイス寄席とかいう会で、カレー食べながら落語聴けるというのがウリなんやけど…どうも食事しながらやと噺家さんに悪いし、落語にも集中できんし、始まる前に食べでしまわんと!と焦って、なんやカレーの味もあんまし覚えてない。顔付けがよかっただけに結局そのコンセプトが残念な会やった。

7/29 月
埼玉に比べると東京はまだマシやな~と思うんやけど、今日は風もなくて朝っぱらから暑い!!そやのにソラちゃんは人と会う約束でもしてるかのように忙しそうに外へ出て行く。外が好きやからいつもは構わんねんけど、さすがに空気までこう暑くなると心配になる。うちの玄関の前が日陰の自転車置き場で、そこでベターと干からびて寝てた。こりゃ水分取ってもらわんと!と家ん中に入れて外行けへんように玄関も勝手口も閉める。ご飯食べた後、外にどうしても出ようとするのを公子さんと一緒に止めるのがこれまた大変。どうしても出せ!!と懇願するのを、あかんねん、せめて17時まで待ち!と説得する。家ん中の涼しいとこで寝ればいいのに、猫にしとくのにはもったいないくらい初志貫徹。17時になって玄関開けたら、行かなくっちゃ!と駆け出していった。どっかで仕事でもしてんねやろか。

7/31 水
朝からあほみたいに暑いのに、夕方にまた豪雨。出稼ぎ先でまかないのおいしそうなグラタンに釣られんとさっさと帰ってたらよかったものを、ちんたら食べてたら雨がぽつぽつ降ってきた。心配する同僚を尻目に、さすがに月に2回も…ね、と高を括ってたら案の定また浸水。今度は前回の時よりも雨が激しくて長い。足首まで浸水して、また裸足になって着物の裾まくって水出しした。水切りワイパーがなくて、身丈ほどある木の板で水を外へ押し出してたら湯もみしてるみたいで笑える。
雨が止んでも都心へ向かうあらゆる電車が止まったりしててダイヤは乱れまくり。帰るにも家に着くのが夜中になりそうで、同僚のキョーコさんちに泊めてもらうことになった。埼玉で何回人んちに泊めてもろてるねん!!実家と全く違う洋風の素敵なおうちで、帰ったらキョーコさんのお母さんがシャキッと迎えてくれた。95歳には全く見えん。シャワーしたら白いネグリジェが用意してあって、こんなフリフリ着た事ないで…と記念に1枚写真を撮っておかあはんに送る。晩ご飯食べて、酒呑みながらあーだこーだ夜中まで喋った。あーおもろい夜やった!

236 夏の記録

藤井貞和

私たちは 皆、(とアーサーが言う。)
第五福竜丸に乗っている、と。

航跡が伸びて、
歳月の暗部のさいごの送り火。

定型詩の歌姫は去る、もう、
帰らないからね、さよなら。

この国をひとりぼっちにする。
なにものこっていないが、

荒地の奥の普通の詩人と、
氷島のしたの普通の詩人。

歌わなければならないな、
ひとりになっても。

普通の詩人が歩いてくる、こちらへ、
跨ぎ入れることばを思いながら。

(被爆は三月一日。なぜか夏の記憶に。)

感じと考え

高橋悠治

感じるのは今ここ、考えるのはその後時間をかけて。

その過程の一部だけを見せておくならば、省略された部分を、その後から補った連続は空白と飛躍を含む。点線のように作られた線ではなく、空中に舞う動きが、意図して落とした重みの反動で、その余力を使って弾み続けるのか、途中で偶然地に触れて、擦れた跡か、によって、方向が違っているだろう。

しばらく、音楽をする元気がなかった。また何か始めるきっかけが、なかなか現れない。以前に思いついた断片をコラージュのように繋ぎ合わせてみようと思ったが、できなかった。さまざまなスタイルを思いつき、それをバランスよく並べることができないだけでなく、バランスの必要を疑いながら、違うことを思いつくこともできない。それならば、何かを引用して書きつける前に変えてみようか。

即興から始めて、演奏、作曲の順で、その時できることを少しずつやってみる、朝目が覚めるとき、何か聞こえてくるとか、楽譜の断片が浮かんで来ることは、最近はない、だから困ることもない、のが実は困ったことかもしれない。

ニュースサイトをあれこれ見ても、2000年前後のグローバリズムは終わっていて、それ以前の国家主義が、復活しているのか、それにグローバリズムと言われていたのは、アメリカ覇権に過ぎなかったので、これから時間をかけて、もう少し公平な制度ができるのか、それを待ってもいられないし、なしでやりくりするよりないだろう。

音楽はもう始まっている。それに追いつき、それから少しだけ踏み外す(ルクレティウスの clinamen)、これを連歌の(あるいは蕉風連句の)付けと転じになぞらえて、次の角を曲がって知らない道に出る。でも、後から他人の眼でそう見えても、その時そこでは、「今・ここ」しかない。