ラジオ石/ici

新井卓

 深夜──といってもまだ十時半で、寝かしつけるこどもにつられ眠り込んでしまったから、そう感じるだけ──ずっしりと水を含んだ220番の石に刃をあて、少しずつ番手を上げながら、日本から持ってきた三徳包丁を研ぎ上げる。
 研ぎ、に関して少し腕に覚えがあるのは、仕事柄もう二十年も銀板を磨きつづけているからだ。よく研げたかどうかは、磨く手がかりがふと消え「つかみどころ」のなくなったような感覚でわかる。そうなれば、銀板のおもてや刃先に、濡れたようなとろみのある光沢がでているはずだ。
 研(みが)く、とは実際、もともとある傷をより細かい傷で覆っていくではないか。だから、一見すると滑らかなものを手にとるとき、わたしたちは目に見えず感じることもない無数の傷に触れている。粉をはたいたのど飴みたいなシーグラス、壊れたかたちのままに丸びた巻き貝たち。あなたとわたしの肌。鏡のおもて。

 なぜ、ないものばかり、見えてしまうのだろう。
 熊の紋章を掲げるこのベルリン州に、熊はもうひとりもいない。地元のひとびとが森/Waldと呼ぶ場所はどれも二次林で、根こそぎにされた大地に返り咲く脆弱な生態系なのだと、東アジアの苛烈な自然に研ぎ出されたわたしたちには、わかってしまう。ここらの自然はすべすべとして肌心地よく、裸足で、裸で歩いていける。よく躾けられ、わたしたちを脅かしたりしない、従順な自然。

 家族の集まりで、Juist /ユースト、という島に呼ばれる。
 本土と島の間には滑らかな砂泥が堆積しており、水深は人の背丈ほどもない。定期船はスクリューで泥を巻き上げながら、浚渫(しゅんせつ)船が作る水路を時速5キロで慎重に進んでいく。白人ばかりみっちりとならぶ上甲板で、長椅子の隙間を走りまわるこどもを追いかけながら、全方向からもの言いたげな?視線を浴びる。ここには金持ちのドイツ人しかこないから……海に行きたかったらポルトガルやギリシアに行った方が楽しいし、第一安いわけ。海風が冷たいのか冬もののジャケットの前を合わせながら、連れが言う。
 映画のロケ地だという高級ホテルを背に浜辺に降り、石をさがす。見渡すかぎりつづく遠浅の砂浜の果てに、ステンレス製の遊具がぽつんと立っていて、だれもいない。ここに石は、いない。そういえばベルリンでも、石が転がる景色を見たことがなかった。石がないのはさみしいことだろうか、と考えてみて、やはりそう、と思えてくる。二年前、フィンランドに住んだとき、なんだか守られている気がしていた。フィノスカンディアと呼ばれる北欧の大地は、氷河期のあいだ氷の重みで海抜より低いところに沈んでいたのが、間氷期に動き出した氷河に削られながら、すこしずつせり上がった(そして今もその途中にある)石の舞台みたいなものだ。ヘルシンキの街は、地上も地下もその石で作られていた。一万年前の氷河の痕跡を印した十億年前の石の上に立ち、囲まれていること。

 引き潮で永遠に後ずさっていくように見える海に入り、波の華がこんもりと溜まった浅瀬を、がしがしと歩いていく。なにか硬いものを踏み、取り上げる。それはミルクコーヒーの海水が煮詰まって凝固したのか、親指大の、チェルシーキャンディみたいなすべすべした石だった。てっぺんに乳白のメノウが埋まっている。
 旅に出るようになってから、行く先々で、「特別な石」を探すのが楽しみだった。何をもって特別とするのか、わからない。でも、特別だと思って持ち帰ると、その石に責任を負った気がして、家に帰るころにはすこし面倒になっているものだ。だから、集めた石たちは段ボール箱に入れ、押し入れの奥の見えないところで眠らせている。
 一つしか見つからない石をポケットに入れながら、選択肢がないというのはいいことだ、と思う。それしかない、というあっけない理由で「特別」な石。
 石/ici、ここに、いること。なぜ、ここにいるのだろう?と自問しなくても、もういいのだ。傷つき、流れ転がりつき、研かれてすべすべになった石たち──移民たち。移民になること。


ベルリンに引っ越してから、「ラジオ石/ici」をはじめました。よかったら聴いてください。

237 言霊の力

藤井貞和

土の塊のような無表情の一少年が、促されて詩を書いたという。
 ぼくの好きな色は
 青色です。
 つぎに好きな色は
 赤色です。
と。褒めようがなくて、奈良少年刑務所で詩を指導する寮美千子さんは困った。
すると、一人が立ちあがり、
「ぼくはAくんの好きな色を一つだけやなくて二つも聞けてよかったです。」
もう一人が、「はいっ、ぼくも同じです。Aくんの好きな色を一つだけやなくて、
二つも教えてもらってうれしかったです。」
なんてやさしい子供たちだろう、そんな褒め方があるなんて、と寮さん。

(このはなしには続きがある。もう一人が立ち上がる。「はいっ。ぼくはAくんがほんまに青と赤とが好きなんやなあと思いました」。その時、土の塊のように無表情のAくんが笑ったのだ。寮さんは脳天に鉄槌をくらわされたような気がした。これはたしかに「詩」なのだ、と。「座」の力、ということでもあろう。「詩」と受け止めてくれる人がいれば、それはもう、この現実を変える力を持つほどの「言霊」を持つことになる、と。)

聖なる骨

イリナ・グリゴレ

ここはルーマニア。救いのない地方の町にいる。急に激しい雨が降り出してきた。バス停に避難した。シャオルマを食べている二人の高校生はバス停の小さなベンチの席を譲ってくれた。一言も言わず、目も合わせなかったのに、この狭い場所を雨の中で分かち合う身体同士の当たり前のような優しさ。二人は急にバス停から消え、ベンチの一番奥に座っていた80歳くらいのおじいさんは、ステッキを握りながらひさしぶりに会話できるチャンスをステッキのグリップを握るのと同じ感覚で捕まえた顔をする。高校生たちが雨の中に消えた時も、おじいさんさんの白くて血の気が引いた顔を見た瞬間も、ここは誰も知らない舞台だと思った。雨が強く降っているにもかかわらず、身体に当たる雨粒がない静けさに驚く。雨の中をドライブしていてトンネルに入った途端に雨を感じない違和感と同じ。

バス停という舞台から降りた若者の存在と触れるのはこの一瞬だけ。奥に座っているおじいさんも。ただこの一瞬に同じバス停の空間を分かち合い、そして二度と会えない。でも本当に会いたい人にはこの瞬間に同じバス停でなぜ会えないのか不思議に思える。遠くにいる人、もうこの世にいない人。いくら待ってもバスが来ないのも不思議。雨は止んだのにもう歩けない。待つしかない。ここまで待つのであれば。時間の感覚鈍い。「2時間たっているのではないか」と長女がいう。「そんなことない」とあまり自信ない声で答える私。このバスの主、あるいは神様はこのおじいさんだろう、ずっと私たちの方を見て、誰が先に話すのかゲームをしているみたい。私たちが2時間ここにいるのであれば、この老人はいつからいるのか誰にも測れない。測れるものではない。こういう時間とは。時計が壊れている間と雨が降っている間は時間が測れないということを、私は子供の頃から知っている。このバス停にいるのも苦しくなったので、一緒についてきた母に目で助けを求める。母はバス停の主に話しかける。すると、バスは来ないことが明らかになる。違うバス停へ移動しないといけない。次女はバス停の壁に書いてあった文字をずっと読もうとしていたが、飽きて諦めた顔で静かに私たちの後ろを走ってついてくる。

二番目のバス停は透明のガラスが張ってあって、壊れているが電子パネルの表示もあった。バス停には私たちつまり私、母、娘たちしかいなかった。ガラスの向こうでは、団地の前のベンチに喪服を着ている女性が携帯電話で話していた。激しい雨がまた降り出し、アスファルトの上に水ぶくれのような泡がたくさんできる。水ぶくれという言葉が好きだ。この場所にピッタリだから。自分の身体にアレルギー反応を起こすような場所に再び帰ってきたのだ。地面の皮膚にも水ぶくれができるような場所。地面の口から泡が出るような場所。雨が降って汚い匂いのする場所。ガラス越しに喪服の女性を観察し始める。最近彼女の家族のだれかが亡くなったような、全身を覆う黒服に黒のスカーフを頭に巻いている。髪の毛は真っ白だけれど年齢はきっと見た目よりずっと若いと思う。夫を亡くしたような雰囲気を感じるが、雨と行きかう車の音にかき消され、話している内容が聞こえない。彼女もバスを待っているのだろう。雨が強くなったから同じバス停の中にやってきた。彼女はどこからどこへ行くのか知りたくて仕方なくなった。昔からこんな風に知らない人の人生に興味があった。バスは来ないから娘たちはバス停の屋根から落ちる雨水を、舌を突き出して飲んでいる。いくらやめなさいと言ってもやめない。私も田舎でこうしていた。雨水は甘くて美味しい。田舎では大きなバケツに雨水をためておいて髪の毛を洗ったり、洗濯に使ったり。空から降る水は良い水だという感覚が強かった。雪もよく食べていた。食べたくなる。雨も雪も。「汚染されているからやめなさい」と娘たちに繰り返す自分の声に自分でも納得しない。どうせ昔も今もこの地球の全ては人間によってずっと汚染されてきた。バスが来た。バスというよりミニバンだ。バスに乗りこむと、車内の乗客たちは教会の地獄絵に描かれているような顔をしているので怖くなった。「このバスじゃないのでは?」と母に言いたかったけど黙って乗った。

病院の救急外来を受けるため停留所二つ分の区間乗った。娘は公園で転んで「手を骨折した」と言い、病院に連れていくように私に強くせがんだ。怪我をした時、医療を受けることはいいことだと思って連れてきたが、私はこの土地の病院の暗い雰囲気をよく知っている。だが思ったよりマシだった。待合室に入ると受付のお姉さんはほかの病院と同じように怖いが、不親切に対応したら私もおとなしくしないと通じたようで、最後には優しくなった。娘はルーマニアの保険証も身分証明証もないのに診てもらうことになった。娘の一言に驚いた。そういえば、この病院は去年かかったバヌアツの病院と同じだ。バヌアツのフィールドワークでは次女が三日間40度の熱を出し、マラリアではないかと怖くなって現地の人がやってくる病院の夜間救急に行った。雰囲気はよく似ている。どこの公立病院もこういう雰囲気か。今回はレントゲンとエコーを撮ったにもかかわらず無料だった。自分の中では医療人類学という分野に大きな魅了を感じながらどっちかという宗教人類学の方に行く。なぜだ。

今回のルーマニアの旅も、テープを逆回しするようで、昔何度も見たEnigmaの『Return to Innocence』M Vを思い出す。私の中で祖父母の人生と同じような人生のイメージと重なる。人生の巻き戻し、いつでもできたらなんていいだろう。土、骨、皮膚、おまじない。エコー検査で娘は骨折していないことがわかる。レントゲンを怖がる娘にただの写真だと納得させるため、練習だよといって放射線技師が自分のスマホを取り出して娘にカメラを向けた。私は受付にも医師にも看護師にも「マミ(お母さん)」と呼ばれた。自分に向けて初めて聞く呼びかけにも惑わない。「マミは今妊娠していない?授乳はしていない?それじゃ一緒に部屋に入って撮ろうか?」怖がる娘を安心させるため一緒にレントゲンを撮った。病院と長い付き合いの身として、驚くほど病院にいるときは何も感じない。人生の流れに全く従わない私が、病院だけは何でも従ってしまう。従うというより、実験台になるのが嫌いではない。見たいから。機械と身体の関係を。自分の身体の反応を観察したいし、医療について考え続けることは、この世紀では最大のテーマの一つだという感じがする。

今回のルーマニアの旅ではもう一つの「気になるテーマ」が出来上がってきた。そう、私にとってもう全ての旅はフィールドワークなのだ。ルーマニアの聖人信仰。サブテーマは前から関心のあった女性の聖人と暴力。聖なる身体つまり聖遺物はしばしばバラバラに分割され、できるだけ多くの信徒のために数多くの教会に遺され、初期キリスト教会の誕生以降数々の現象を呼び起こしてきたこと。この旅で不快なことがたくさんあっても、私自身も巡礼者となった感覚で聖遺物について調べ、実際行ってみて、見て、聞いて、触って自分の身体で確かめ、触れて。土、骨、皮膚、おまじない。祖母が亡くなってから私の中にはずっと理想の女性像を探している自分がいるために聖女にたどり着いたのだろうか。ルーマニアに帰って一番先に行きたい場所は祖父母の家だ。今は親戚同士の相続争いで誰も住んでないからボロボロだ。娘と敷地の門から入って誰も食べない木からそのまま落ちている果実を見てしあわせな気分になった。そしてボロボロになった家に入る瞬間、家の中から焼き立てのパンの強い香りがした。祖母が生きていた時と同じ。この場所が好き。地面に落ちて腐り始めた果実からパンを焼く酵母が取れる。だから昔と同じ焼き立てのパンの香りに安心した。そう、先日見たのは、祖母が鶏のスープを作ってこの家で私たち孫に食べさせる夢だった。

黒海からの帰り道、聖女マリナと出会った。そこはルーマニアの東、ドブロジャ地方。ドナウ・デルタを含むドナウ川下流域から黒海にかけての一帯を指す。葡萄畑と黄色い土が広がる大地に不思議な魅力を感じる。古代ギリシャ文化やローマ帝国の一部でもあった歴史を黄色い埃から肌に吸い取る。古代都市ヒストリアとワイナリーをめぐるツアーがキャンセルになって悲しかったので、せめてもと帰りに先住民でルーマニア民族の先祖でもあるゲタエあるいはダキアににらみを利かせたローマ帝国の都市も見ようとした。だが、その日は気温が40℃にまで上がり、幼い子連れの私は両親に反対されて諦めた。それでたどり着いたのは同じ地域の初期キリスト教の教会、十二使徒の聖アンデレの洞窟だった。キリスト教の初期はローマ帝国の暴力と結びついていて興味がある。当時の信徒は洞窟に教会を作り、人目に隠れて聖体礼儀を執り行っていた。祈りの場を岩に削るという雰囲気が好きなのだ。差別、虐殺、拷問など暴力に向き合って全うした人たちは列聖され、大勢の救いを助ける身となる。聖アンデレは、ドブロジャ地方、当時の名前でいうと小スキュティアまで布教に訪れ、この洞窟にしばらく暮らしたと伝えられる。初めて見る初期教会は歴史的な知的興味の方が感動より大きかったが、洞窟の隣に建っている新しい教会で初めて見た聖マリナのイコンには本当に感動した。こんな図像は初めてだ。悪魔の姿はよく教会の地獄絵に描かれるが、教会の入り口で聖人と共に描かれるのは見たことがない。彼女は容姿端麗で、落ち着いた姿勢を取り、右手に霊力の証である槌を、左手には退治されて諦め顔の悪魔をツノで掴んで立っている。このイコンが家父長制についての表象だと感じたのは私だけかもしれないが。

ラスト・アリババ

さとうまき

9月1日、音楽紙芝居「アリババと40人の盗賊」をさいたま市で上演する予定だった。しかし、サンサンとなづけられた台風10号の接近を危惧して中止するという判断が下された。実は、パソコンのハードディスクが壊れてしまい、かなりの部分を作りなおした。特にパレスチナの現状が悲しくて、こんなことをしている場合なのだろうかという悶々とした気持ちも込めて作り直したので、皆さんに見てほしかった。しかも10月からは新作「古代漂流、ギルガメシュの夜」が始まるので最後のアリババ公演になるはずだったから、残念でならない。そこでせめて見どころだけでもここで紹介しておこう。
 
アリババと40人の盗賊は、中世のバグダードが舞台となっているが、この仕事をもらった時に、真っ先に、2003年のイラク戦争の時の掠奪を思い出した。サダム政権が崩壊し米軍が占領すると、町中で掠奪が横行し、ならず者から、ただの貧しい人達も加わって政府の施設や病院などから、とれるものすべてを持ち去った。部屋は空っぽで、それどころか、電灯のスイッチや、コンセント、電線までもが盗まれた。略奪を働く者のことを、なぜかアリババと呼んでいた。物語では、アリババは、善玉のように描かれているが、よく読めば、アリババは盗賊が盗んだ財宝を横取りするわけだから、彼もまた盗賊なのだ。「アリババと40人の盗賊」は盗賊同士の戦いの物語でもあるのだ。

この紙芝居を作ったときは、まだ今回のガザ戦争が始まる前だったのだが、主人公のアリババは、パレスチナ連帯の白黒のカフィーヤを巻いていた。これは、アリババ自身がパレスチナ人ではないのだけど、少なくても連帯の意思を表している。一方の盗賊団は、「恐怖」を強調するために「イスラム国」のイメージで作りこんだ。盗賊の頭にアリババの兄や、役に立たない手下が首をはねられるシーンは、ふつうは絵本などは文字だけになっているが、あえて書き込んだ。実際に「イスラム国」から逃げてきたヤジディ教徒の女の子が描いた絵も使っている。こういった設定は、何か主張があるのではなく、作画のモチベーションを高めるためのもので、物語とは直接関係なく、観客にはどっちでもいいことだ。僕が20年間見てきたイラクでの体験が絵の中に盛り込まれていることには違いない。

物語はほぼ古典的な話の通りに展開する。貧しいアリババは、盗賊の洞窟を見つけ、盗んだパスワードで、洞窟に入り込み、そこにあった財宝を盗んでしまう。兄のカーシムは、アリババから洞窟のことを聞き出し、財宝を盗みに行くがパスワードを忘れて洞窟から出られなくなったところに盗賊が現れパラパラに切り刻まれて殺されてしまった。

盗賊たちは、アリババを見つけだして財宝を奪い返そうとするが、女奴隷のモルジアーナが、かめに隠れている盗賊たちに気が付き、煮えたぎった油を注いで殺してしまう。アリババはすっかりモルジアーナを気に入っていまい、二人は恋に落ちる。盗賊の頭が、コーヒー商人を装い、一人で復讐にやってくると、ここでもモルジアーナが気づき、盗賊の頭を刺し殺してしまう。アリババは、モルジアーナを褒めたたえ、思わず、「愛している」と言ってしまい浮気がばれてしまう。アリババは、ばつが悪くなって、リンカーン大統領の真似をして奴隷解放宣言を叫び、モルジアーナを奴隷の身分から解放する。みんなが、「フリーダム!」と叫ぶ。しかし、妻の目線は冷たいままである。アリババは、パレスチナの伝統的な踊りを踊って、妻の機嫌を取る。

アラブ音楽のエキゾチックな世界に、ヤッチ(ギター)、荻野仁子(ウード)のテンポのいいコントがところどころ挿入されていて、喜劇として仕上げてあるが、僕自身のパレスチナへの思いを入れ込みたいと思い、背景の中にも岩のドームや、分離壁などを書き込んだ。パレスチナの子どもの絵も使った。

いったん物語が終わった後には、子どもたちの絵を使ってイラクとパレスチナの現状を紹介して、最後は、パレスチナ民謡に合わせてダンスを踊るシーンで盛り上げた。昨年、20年以上も前に14歳の少女メルナが描いたダンスを踊るこどもたちの原画が出てきて、あまりにもかわいらしいので、いろいろなところで登場している。彼女とも連絡が取れて今では3児の母になっていて彼女の子どもにも絵を描いてもらい、親子でダンスするという仕掛けを作った。

なぜ僕がこんなことをするのだろうかと考えてみると、まず僕がパレスチナの子どもの絵を見て感動し、パレスチナの子どもたちの絵を舞台にあげて、それを見て感動する日本人がいて、感動している日本人を見て、パレスチナの人々が元気になってほしいという連鎖なのだと思う。憎しみの連鎖とは違うやつ。

それにしても台風が憎い。

解説動画はこちら

おれは信じない

篠原恒木

おれは運、ツキを信じない。

おれは「まずは無料でお試し」と叫んでいるCMを信じない。

おれは「こだわりのグルメ」と銘打った飲食店を信じない。

おれはあらゆる財テクを信じない。

おれは「自分らしく」と唱える本、人、その他を信じない。

おれは宝くじを信じない。

おれは五本指ソックスを履いている奴を信じない。

おれはPCの壁紙に風景写真を選んでいる奴を信じない。

おれは「ああ、もう、最高だったわ」という女の言葉を信じない。

おれは「たまにはそういうときもあるわよ」という女の言葉も信じない。

おれは脱いだスーツのジャケットを椅子の背に掛ける奴を信じない。

おれは「自己肯定感」という言葉を信じない。

おれは苦手な食べ物がたくさんある奴を信じない。

おれは「ああ、そいつとはおれも知り合いですよ」と言う奴を信じない。

おれは足を組んだ時にパンツの裾からたるんだ靴下が見える男を信じない。

おれは「人が好きです」と言う奴を信じない。

おれは食事の途中で「もうお腹いっぱい」とホザく女を信じない。

おれはホワイトボードに「会議」ではなく「MTG」と書く奴を信じない。

おれは会議そのものを信じない。

おれは「これだけの金額を寄付しました」と発表する人を信じない。

おれはワイシャツの袖をまくる奴を信じない。

おれはクラブのおねえさんたちを信じない。

おれは「なるほどですね」と相槌をうつ奴を信じない。

おれは「シェフの気まぐれサラダ」を信じない。

おれは合議制によるアイデアを信じない。

おれは「正義は勝つ」という言葉を信じない。

おれは紺色のスーツに茶色の靴を合わせる奴を信じない。

おれは「生きざま」という言葉を信じない。

おれは自分の顔やスタイルを美しいと自覚している奴を信じない。

おれは「クリエイター」「アーティスト」という肩書を信じない。

おれは電話になると異常なほど大声で喋るおじさんを信じない。

おれは「君のためを思って言っているんだ」と言う奴を信じない。

おれは「スタンフォード式」で始まるタイトルの本を信じない。

おれは「おまえだから言うけどさ」と言う奴を信じない。

おれは会社に出勤するとクロックスに履き替える奴を信じない。

おれは浅野内匠頭のようなワイド・パンツを穿いている女を信じない。

おれは「努力は裏切らない」という了見を信じない。

おれは「W58」と記されているグラビア・モデルを信じない。

おれは「尊敬する人物は父親です」と言う奴を信じない。

おれは「カワイイ」を連発する女を信じない。

おれは自分の勤めている会社の悪口を言う奴を信じない。

おれは自分の勤めている会社の悪口を一切言わない奴を信じない。

おれは話の長い女を信じない。

おれはすべての「老後」関連本を信じない。

おれは「お墓参りが楽しみになる納骨堂」という広告コピーを信じない。

おれは口がうまい男を信じない。

おれは口下手な男を信じない。

おれは立ち食い蕎麦屋で「どうぞごゆっくり」と言う店員を信じない。

おれはカーネギーもアドラーもドラッカーも信じない。

おれは「あと一杯飲んだら帰ろう」という言葉を信じない。

おれは「もっと自分を信じて」と言う奴を信じない。

おれは会議で「いま社長が仰ったように」と言い添えてから発言する奴を信じない。

おれは焦げ茶色のスーツを着ている奴を信じない。

おれは「むしゃくしゃしてやった」という容疑者の供述を信じない。

おれはパソコンを信じない。

おれは元気のないときに「元気出せよ」と声掛けする奴を信じない。

おれは「KPI」「KGI」などのマーケティング用語を信じない。

おれはそもそもマーケティングというものを信じない。

おれは「何かまた機会がありましたら」という言葉を信じない。

おれは腰の下までリュックを下げている奴を信じない。

おれは「座右の書はバロウズの『裸のランチ』です」と言う奴を信じない。

おれは「酔っぱらって覚えていない」と言う奴を信じない。

おれは印刷所が言う締め切り日を信じない。

おれはおれを信じない。

干刈あがた 再会

若松恵子

最近、住んでいる町の市立図書館に出かけることが増えた。本棚で気になる本を次々と抜き出して借りてきて、たとえ積ん読になったとしても古本屋のようにはお金が掛からないという事に今更ながら気づいたのだ。何と1回に借りることができる本は、30冊に増えていた。そういう訳で、図書館で思いがけない本と出会うようになった。

『響け、わたしを呼ぶ声 勇気の人 干刈あがた』小沢美智恵(2010年/八千代出版)は、この夏出会ったそんな1冊だ。1992年に亡くなった干刈あがたの評伝を2010年に出版することになったいきさつが、あとがきに書かれていて、その物語に心魅かれた。

1983年、当時文学好きの主婦だった小沢は、芥川賞の候補作を全作読んで当選作を予想するのを楽しみにしていた。そのなかで干刈の『ウホッホ探検隊』を読み、候補作中でもっとも魅かれ、当選作だと思ったという。残念ながら受賞は逃したが、それ以来、干刈あがたの名前を見かけるたびに作品を読み「年齢はわたしの方が11歳ほど下だったが、子育て中の主婦としての思いは驚くほど共通していて、自分でも気づかなかったもやもやした感情にかたちが与えられる気がしたのである。」という事だ。当時は作品を読むだけで、干刈の実人生に興味を持つこともなかったという。干刈の死を知った時も、これで永遠に新作を読むことができなくなった事を寂しく思うだけだったそうだ。

そして何年か後、小沢が福島を旅していた時に、何気なく入った古本屋で干刈の著作が並んでいるのに偶然出会う。懐かしい人に出会ったような気持ちになり、未読のエッセイ集も含め、安価だったこともあって全部買い込んで帰った。さらに、干刈の父母の故郷である沖永良部島は、小沢の夫の故郷でもあり、祖母の葬儀に島に帰った夫が、干刈がデビュー前に自費出版した『ふりむんコレクション 島唄』をおみやげに持ち帰る。それは、自費出版後、干刈の父の逆鱗に触れ、ほとんどを焼却処分にした幻の本で、小沢が実物を見てみたいと思っていた本だった。偶然が重なり、干刈との縁を感じた小沢は、評伝を書くことで干刈の意思を引き継いで、次の世代にバトンを渡していけないかと考えたという。

「私が今とても大切だと思うことは、『継承』ということ。先を歩んだ人から何かを受け継ぎ、あとから来る人に何を伝えていくかということ。タテのつながりだけではない。今という同じ時代に共に生き、それぞれの場所で考えたり行動している人が響き合っていくことも継承だと思う。男の仕事はともすると競い合いになりがちだが、女たちの仕事は小さくても、継承によってより大きな力になっていけると思う」(「デカダンスは男のものである」『女性教養』88・2)小沢の胸には、干刈のこの言葉が響いていたという。

私も、小沢の書作によって懐かしい人に出会ったような気持ちになったのだった。本棚で眠っていた干刈あがたの著作をありったけ出してきた。小沢からさらに10歳年下の私は、結婚や出産を経験する前に干刈の著作に出会っている。「女」特有の生きづらさには、あまりぶち当たらずに済んできたが、それは、先達の女たちが切り拓いてくれた道があったからであり、周りの人たちに恵まれたという幸運もあっての事だったと思う。干刈の作品に対して「女としてもやもやしていた部分」に形を与えてもらったという読後感は私には無い。

私は、干刈の「やさしさ」に魅かれたのだと、今回いくつかの作品を読み直して、あらためて思った。まず、文章の平明さという「やさしさ」がある。凝った言い回しではなく、暮らしに近い言葉で書かれていて、読む人を選ぶなんてことは無い。ページを切り取って、ずっと大切に取っておいた干刈あがたのインタビュー記事がある。インタビュアーはたぶん吉原幸子だったと思うが、質問に答える干刈の言葉遣いが「やさしい」。それは、女の持っている「やさしさ」という感じで、同じ女として女っていいなと思うような柔らかい言葉遣いなのだ。

記事の冒頭、干刈の印象は「少年のように飾り気がなく、笑うと唇の両端がくぼんでウサギちゃんみたいに可愛い」と書かれている。1986年のインタビュー記事の題名は「ジーパンをはいた母たち」。1943年生まれの干刈は、「ジーパンをはいた母」の先駆けだったのではないかと思う。「母親らしく」には縛られなかったけれど、「母であること」に誠実に悩み、「母であること」を放棄したりしなかった干刈の姿に、私も影響を受けていると思う。「それぞれの場所で考えたり行動している人が響き合っていくこと」、そのことによって「女たちの仕事は小さくても、より大きな力になっていける」と思っていた干刈。人と連帯していこうとする「やさしさ」が彼女の作品の根底に流れていて、そこを好きになったのだと、今は、わかる。

40歳になる前に買って、忙しい40代には読まなかったエッセイ集『40代はややこ思惟いそが思惟』(1988年/ユック舎)をゆっくり読んだ。干刈と同い年で小出版社「ユック舎」を切り盛りする岩崎悦子への連帯の思いが、あとがきに書かれている。「女性作家カレンダー」という文章があった。映画会社が作る女優のカレンダーのように、好きな女性作家をカレンダーにするならば、という内容だ。干刈が選んだのは、
1月:宇野千代、2月:アン・ビーティ、3月:田辺聖子、4月:新井素子、5月:樋口一葉、6月:マルグリット・デュラス、7月:与謝野晶子、8月:アメリカ黒人の女性作家たち、9月:藤本和子、10月:林芙美子、11月:富岡多恵子、12月:佐多稲子。

女を生きた先輩がずらっと並んでいてうれしくなる。干刈が、今活躍している韓国の女性作家たちの作品を読んだならば、きっと喜んだろうなと思ったりする。干刈あがたは何月だろうかと考えてみる。彼女の命日「コスモス忌」のある9月だろうか…。私が選ぶなら、11月。きらびやかな12月の前で、あまり目立たない月だけれど、小春日和の明るさと温かさ。寒さにむかう静かで澄んだ季節。

仙台ネイティブのつぶやき(98)叔母さんとジャガイモ石

西大立目祥子

紅葉が散り始めた秋の庭で、老婆がしゃがみ込み小さなシャベルで何やら掘っている。冬野菜の苗なのか春の花の球根なのか、植え付けようと少し深く掘り進んだところで「えっ!」と声をあげた。ジャガイモじゃないの!なんで?こんな季節はずれに、大きなジャガイモが?

「そうしたら、石ころだったの。きれいに洗って、ほら、見てこれ」
叔母がいたずらっぽい表情で手渡してくれた石ころは、たしかに平たくつぶれてはいるが男爵イモのよう。ところどころにシミがあって、それがなんだかイモのくぼみのようにも見える。叔母はハハハと大声で笑う人ではないが、その眼の動きから、石ころひとつに心踊らせる気持ちがからだを満たしていくのが伝わってきた。クククという笑いが静かに奥深く広がっていく感じ。あいかわらず、楽しんでるねぇ。このとき叔母はそろそろ90歳になるころだったろうか。雲の動きや庭の木々、デイサービスで出る料理まで楽しむ好奇心は、土の中の石ころにまで及んでいたのだ。
石をテーブルに置き、ずいぶんと前からテーブルの上で存在感を放っている赤茶色のつややかなでゴツゴツした石と並べた。こちらは叔母が高校の教員時代、同僚の地学の先生からもらっためずらしい石だという。ジャガイモ石だね、といい合い、何度も手にとって2人でお茶を飲んだ。

この私にとってかけがえのない存在だった叔母が、盆が明けた翌日、逝った。94歳だった。だいぶ前から「死ぬっていう大仕事があるから気が抜けない」といっていたが、その大仕事を終えて、いまはどんな心持ちでいるんだろう。聞いてみたい気がする。
88歳で連れ合いを亡くした叔母は一人暮らしを続け、3度の食事をつくりプランターに野菜の種を撒き、機を織り、絵を描き俳句をつくり、親しい人にはハガキを出して近況を報告し合い、人の声が聞きたくなると電話をかけ…つまりは自立して自律的な生活を送っていたのだけれど、晩年の叔母の生活を彩ったものといえば、絵を描くことだったと思う。始めたのは70歳のときだった。

最初は近くの公民館で開かれている具象画の先生が講師の教室に通い、黒ペンで線描した上に水彩で着色するような真面目な風景画を描いていたのだが、ある先生と出会って変わった。それは、私が4年前に宮城県美術館の現地存続運動を始めたときに、いっしょに共同代表を務めてくださった早坂貞彦先生で、その教室に参加しているうちに、はじけたというのか化けたというのか自由を得たというのか、それまでとまるで違う絵を描くようになった。どうも早坂先生は、叔母の耳元で「絵は何描いてもいいの。何怖がってるんだ?」と何度かささやいてくれたらしい。

発病、入院、手術というような経験も大きかったのかもしれない。内部の何かが劇的に変わった。板に柿渋を塗りつけて抽象画のような茶色の画面をつくったり、軽やかな山のスケッチに自分が織ったウール地の切れ端を切って張り付けたり、パステルで描いた大木の幹にカラフルなたくさんの布を張り込んで具象とも抽象ともつかない絵をつくり出した。
宮城県中部にある七ツ森という7つの隆起した山々を「私、違う色に塗ってみたかったの」といってカラフルなスケッチを何枚も描き出したときには、心底驚いた。叔母の中にあるイメジネーションの源泉が出口を求め、固く閉じていた蓋を跳ね飛ばしたように思えた。

朝起きるとまず日の出をスケッチ。丘陵の中腹にある家からは、遠くに細く海が望める。そこに上ってくる太陽におはようといって、描く。その姿は毎日毎日違っているから、新鮮な驚きに満たされながら絵の具を水でとき色をつくっていたのだと思う。絵日記のように日の出のスケッチはたまっていった。
東北線の4駅南の駅まで、あるビール園の庭の池に咲く蓮の花をスケッチに通っていた時期もある。「午前中行って、レストランでナポリタン食べて、午後にまた描いて電車で帰ってくるんだよ」といっていた叔母は、80歳を越えていただろうか。なんだか憑かれたように描き続けていた。仕上がった何枚ものスケッチは、全面に大小さまざまな開いた花や蕾がちりばめられていて、見せられたとき私は反射的に草間彌生の水玉を思い浮かべてしまい、じぶんでも驚いた。叔母の絵には生命の明滅と律動があふれているように感じられ、あの水玉も生きるものの鼓動そのものだ、とはっとしたのだった。叔母と草間彌生は1歳違い。人は老いの中で、草木一本、鳥のさえずりひとつに、命の輝きを増幅してとらえられるようになるのかもしれない。

老いた叔母が木々に引き寄せられていったのは自然なことだった。庭のフェンスの外側、この丘陵に団地が開かれるはるか数百年前から立っていた桜の老木は、描き続けた大切なモチーフで、ともに長く生きる者同士という共感もあったのだと思う。この木にツタのような植物が絡みつき高く覆い尽くしてしまったときは、敷地の持ち主である高校に電話をかけ、「後ろに住んでいるものですが、お願いですからあのツタを払ってください。でないと桜が枯れてしまいます」と訴えた。数日後、高校の先生たちなのか、何人かがツタの根元を切ってくれたという。「よかった。やっぱり思ったことは伝えないとだめ」。私はあきらめず自力で困難を変えようとする叔母のこういうところが好きだった。

家からさらに坂を上りつめた先にある仙台市野草園には、週に何度も通って季節の山野草をスケッチし、いつも同じケヤキの前に陣取っておしゃべりするように鉛筆を動かした。ケヤキに向かって何をつぶやいていたんだろう、と想像すると楽しくなる。人と対話をするように話しかけていたに違いない。スケッチの帰りは必ず食堂に寄ってお茶を飲んでスタッフの人たちと二言三言ことばを交わすのが常。誰とでも気さくに話す叔母のまわりには、どこにいってもゆるやかで温かな交流が生まれた。

米寿を過ぎて坂を上るのが難しくなった叔母は、ダイニングテーブルに図鑑を広げて化石を描いたり、じぶんがこれまで描いたスケッチブックを取り出してきて描き直したりしていた。どこまでいっても描くことをやめない。早坂先生に会うと「叔母さん、この間、教室に来て、このごろ私、縄文土偶とお話できるようになったっていってたぞ。いやあ、すごいなあ」と愉快そうに笑う。私も「はい、知ってます」と答えて笑う。そう、教室の展覧会のために、叔母は土偶の本を息子にたのんで図書館から借り、来る日も来る日も顔がハート型のやら膝の上で手を合わせているのやら、縄文土偶を描いていたのだ。
 
そのうちスケッチブックに何やらにょろにょろしたものを描き出した。お茶を飲みにいって、めざとくそれを見つけた私が「何、描いてんの?」とたずねると、叔母はいった。「ミトコンドリア」。どう返したらいいのかとまどっている私に叔母が言葉を重ねる。「生命の源」。そのひと言に意表を突かれた。人は90歳を迎えるころになると、さらに新たな境地に達するに違いない。時空を越え、生命の誕生にまでさかのぼり、それまで見えてこなかった何かこの世に生きてあることの確信をつかむ。叔母が私の想像もつかない世界に足を踏み入れているのは確か。私の感慨なんかよそに、叔母は話を続ける。「早坂先生にも見せたの。なんだかかわいいミトコンドリアだなっていわれたから、一番かわいいのが私っていったよ。フフ」 

身体は衰え、耳は遠くなり、記憶だってあいまいになっていくのに、何か見えてくるものがある。でも何十年と生きた経験を持ってしても、その先にくる死がどんなものかはわかるようでわからない、と叔母の胸中を想像してみる。向かいあって食事をしていたとき、不意にこういったことがあった。「ねぇ、死んだら、私の見たもの読んだもの、90年の間に経験したことは全部消えてしまうわけでしょう?それって…」そこで、叔母は言い淀んだ。そのあと何かをいいたかったのではないと思う。身体という器に溜め込んできた経験が、死をもってすべて消えてしまう。その不可思議さに、言葉が見つからなかったのだ。そして私は、口ごもった叔母に何も返せないでいた。

一昨年から叔母の身体が急速に衰えた。一人暮らしは難しい、という叔母自身の判断で昨年夏に施設に入ったのだが、症状の進み方があまりに速いので検査を受けると「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」と診断された。話すことも書くことも難しくなり、50音の表を指し示してもらいながら何とか意思疎通をはかる日々。もう絵を描くことはできなくなった。

「多様性共生 冬の小庭にも」

叔母の俳句が愛読していた『明日の友』の特選に選ばれたのは、たぶんジャガイモ石を掘り出したころ。あちこち達者にスケッチに出かけられなくなった80歳代中ごろから、みようみまねで俳句をつくるようになり、投稿を重ねるうちに佳作に手が届くようになり、ついに最高賞に選ばれたときは「だって選者は黒田杏子さんだもの」と実にうれしそうだった。スケッチをとおして養っていた観察力が、俳句という表現を選びとったのかもしれない。

ALSを発症し、もはや絵筆やクレパスが持てなくなっても、頭の中で言葉を動かし句作は続けていた。だが、それを聞き出すのがなかなか難しい。五十音表をペンで指してもらいながら、息子や私がそばについて書き取るのだけれど、なかなか思うようにいかないもどかしさに、発する側も書き取る側もくじけそうになる。でも叔母は、イライラしたり癇癪を起こしたりすることはなかった。苦笑いのような表情を浮かべてやり直し、それでもうまくいかないとあきらめの表情になった。

絵を描き、俳句をつくり、誰に対しても温かな言葉をかけていた人が、その表現手段をすべて失う。残酷にも思える最晩年の心中はどんなものだったのか。週に一度、外出許可をもらい自宅に戻り、草木の茂る庭を味わい、遠くの海を眺め、ゆっくりと食事をすると叔母は少し元気を取り戻すのだった。表出はできなくなっても、もしかしたら頭の中のキャンバスに色を置き、句作ノートに言葉を綴っていたのだろうか。

亡くなったあと、娘が叔母が今年のお正月につくった俳句があったとメッセージしてくれた。

「にぎって書けと叱りつつ我が手を見ゆる冬の夕暮れ」

胸を突かれた。これは俳句じゃない、歌だ。叔母の胸中には嵐が吹き荒れていたのだろうか。もどかしさにさいなまれた感情は、もはや17文字には収まりきらなかったのかもしれない。そして、動かない身体を抱えながらも、あの人ならもしかするとさらなる新境地を開いていたのではないのか、とも思ったりする。亡くなってまだ2週間。もう少し時間がたったらその心中を想像できるようになるだろうか。カギは残されたジャガイモ石かもしれない。

 

札場の辻

植松眞人

 札場という名の土地で育った私は、その意味を知らなかった。慣れ親しみすぎて知ろうとも思わなかったし、誰かに聞かれることもなかった。また、同じ名を持つ人にも土地にも会うことはなく、ことさらその名を意識することもなかった。
 それなのに、四国の見知らぬ土地に来て、小さな町の外れにある住所表記の小さな金属片のなかに『札場』という二つの漢字を見た時には、なぜか衝撃にも似た驚きを感じてしまい、思わず「ふだば」と声に出して、立ち止まってまじまじとその文字を見つめた。
 私はその辻の傍らにあったバス停の小さなベンチに腰をかけると、ショルダーバッグからスマートフォンを取り出して、『札場』という漢字を入力して検索する。チラチラして見にくい液晶画面には次のような文章が現れた。

1・江戸時代、芝居小屋で入場券の札を売る場所
2・江戸時代、人通りの多い辻のや橋のたもとなどにあった、種々の布告や禁令の制札を立てておく場所
3・社寺でお守り札を扱う所

 だとすれば、このあたりはかつて、それなりに繁栄し、芝居小屋があったか、お札を見る人々が集った場所だったことになる。もしくは寺社仏閣があったのかもしれない。
 どちらにしても今は、かつての人通りなど微塵も感じさせないほどに人影はなく、ただただセミが鳴き、暑く湿気た空気が通り過ぎるだけの閑散とした田舎道である。
 スマートフォンをショルダーバッグにしまい込み、代わりに取り出した水筒から生ぬるい水を飲み、一息吐くと、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。バスだった。田舎道を行くボンネットバスでもくればお似合いなのだろうが、やってきたのは最新式の電気駆動のバスだった。目の前でドアが開き、運転席に座っていたサングラスの運転手が、乗らないんですか、と声をかけてきた。歩いて、最寄り駅まで行くつもりだと伝えると、笑って、遠慮せずに乗れというので立ち上がる。料金を聞こうとすると、私の年格好をさっと一瞥して、無料で良いという。
「このバスも実験的に運行していて、町と国との補助金で走らせているんですよ。1年もしたら、無人バスに代わる予定なんです。六十五歳以上は無料なんですよ」
 運転手はそう言って、席に座るように言う。
こちらは、その年齢まで二年はあるのだが文句を言うこともなく素直に運転手の真後ろの席に座る。
「ねえ、このあたりに来るのは初めてなんだけど、昔は芝居小屋とかあったのかい」
 運転手は芝居小屋など知らないと言う。他の誰かに聞いてみようにも、客は私一人だった。なんの変哲もない田んぼのなかをバスはゆっくりと走る。冷房が効いていて心地良い。運転手の技術がいいのか揺れも少ない。
「そう言えば、JRの駅に着く少し手前に、古民家カフェができてね。そこでこの前、コンサートをやってましたよ」
「コンサート?」
「ええ、僕は知らないんだけど、だいぶ前にヒット曲もあって、そこそこ知られていた人らしくて、店の外にも人が溢れるくらいでしたよ」
 さっき調べた札場という言葉が思い出され、運転手に教えられた古民家カフェの近くのバス停で降ろしてもらう。しばらく歩くと、普通の古民家にコーヒーとかかった看板が掲げられた店をすぐに見つけた。民家と言いながら、かなり大きな家で、もしかしたら古くからの庄屋さんだったのかもしれないと思わせる佇まいだった。母屋の奥には大きな倉もあった。
 店の外から眺めていると、引き戸が開いて、若い店主らしき男が出てきた。
「こんにちは」
 男がにこやかに声をかけてくれる。なんとなく嬉しくなって、こちらも頭を下げる。
「休憩していきますか」
「では、アイスコーヒーでももらいましょう」
 私はそう言って、土間になった店内の案内された四人掛けのテーブルに座る。店内は天井が高く、おそらく二階建てだった土間の二階部分を取り壊して吹き抜けにしたのだろう。エアコンは効いているのだが、そこにかすかな風が吹き込んでいてきもちがよかった。
 アイスコーヒーを持ってきてくれたのは、女性で、聞いてみるとさっきの男が旦那で、夫婦でこの店を切り盛りしているという。
 しばらくすると、旦那のほうが小さく切った水菓子を持ってきてくれる。
「女房の実家が和菓子屋をやっていて、送ってくるんです。サービスなんで食べてください」
 食べてみると、上品で口当たりのいい水ようかんだった。
「少し前にここでコンサートをしていたそうですね」
 私がアイスコーヒーを飲みながら聞く。
「そうなんです。よくご存じですね」
「バスの運転手さんから聞きました」
「私が若い自分に聞いていたフォークデュオがいて、たまたまSNSでつながって、曲が聴きたいと思っていたら、ここでコンサートをやってくれることになって」
 聞いてみると私も知っているグループだった。
「この先にある、札場という場所からバスに乗ったんですが、この家はもともとお芝居とかやっていた場所なんですか」
 私が聞くと、夫婦は驚いた顔を見せて、それはないですね、と答える。
「ただの農家だったと聞いています。その昔は造り酒屋だったこともあるそうですが。どちらにしても、私たちは移住組でこのあたりには縁もゆかりもないんです」
「縁もゆかりもない場所で、商売って出来るもんなんですね」
 私が思わず言うと、旦那の方が少し苦笑する。
「ほんとですね。怖いもの知らずというか」
「いや、そういう意味では」
「いいんですよ。ほんと無謀なんです」
 今度は、奥さんの方が柔和に笑う。
「実は私は兵庫県の生まれなんですが、生まれ育った場所が札場という土地だったんです。それと同じ地名をさっきこの先で見つけて、驚いてしまって」
 私が言うと、旦那は少し大げさくらいに驚いて見せた。
「そうなんですか。それは私たちよりも縁があるじゃないですか」
 旦那がいうと、奥さんのほうも笑う。
「札場というのは、芝居小屋の入場券を売っていた場所だってスマートフォンで調べると書いてあったんですよ」
 そういうと、旦那が自分のスマートフォンを取り出して、何か入力している。
「本当だ。あとは、なにかを布告するときの札がかかっていた場所らしいですね。あ、寺社仏閣が合った場所という意味もあるらしい」
 旦那の言葉を聞くと、奥さんが、
「そう言えば、この店の裏手に参道があって、小さな神社に続いているって、大家さんが言ってたわよね」
「ああ、言ってた言ってた」
 店の中からは見えないのに、三人とも、店の裏手のほうに目を向ける。
 私はアイスコーヒーの残りを飲み干すと、礼を言って立ち上がろうとする。すると旦那が、それを制して、
「送っていきますよ。軽自動車ですけど」
「いや、お店があるのに、それは悪いですよ」
「いや、これも何かの縁だから」
 そう言うと、彼は車のキーを取り出して笑う。そして、奥さんに声をかける。
「そろそろ店も終わりの時間だから、一緒に駅前に行こうよ」
「そうね。あ、だったらその前に、裏手の神社に行ってみましょうよ。まだ行ったことがなかったし」
 そういうと、三人で裏手にある神社に行くことが決まった。札場という土地の名が、その神社に由来するものなのか。それはわからない。けれど、私が札場という場所に生まれつき、縁もゆかりもないはずの場所で札場という土地の名前にであったことは、紛れもない縁なのだと思い、若い夫婦が楽しそうに話す車の後部座席に、私は妙にワクワクしながら乗り込んだのだった。

話の話 第18話:ご飯作りの周辺で

戸田昌子

うちには、「おばあちゃんの輪ゴム」という話がある。わたしの母方のおばあちゃんはたくあんが好きだったのだが、年をとって歯がだいぶなくなってからは、なかなかたくあんが噛みきれなくなった。仕方がないからずっと噛み続けていると、たくあんの皮の部分がまあるく残って輪ゴムみたいになる、という話である。長いこともぐもぐしていたおばあちゃんの口から、輪ゴムがぺろりと出てくる。「また輪ゴムになってる~」と皆が笑う、という、それだけの話である。

年をとってからは穏やかなおばあちゃんで、笑顔しか記憶にはないけれど、母によると、時々、煙草を吸っていたよ、というのである。なにか嫌なことがあったりすると、小さな桐の引き出しを開けて煙草を取り出して、ポーっと吸っていたそうだ。戦前は上海や北京にいて、現地で結婚した人だから、なんとなくハイカラな雰囲気があって、「足がとてもきれいだった」と、写真を見ながら母が言う。わたしは中山岩太の「上海から来た女」(1936)みたいな、けだるい雰囲気を連想する。

順天堂病院の看護婦長だったおばあちゃんは、どちらかと言えば職業婦人で、料理好きではなかったようだ。いま思えばわたしの母も共働きだったし、料理が好きだった、という印象はないのである。「今日の夜ご飯はなに?」と尋ねると、「わたしは名前のある料理なんか作らないわよ」と少々強い調子で言うのが常だった。ただ、母のご飯はいつも美味しかったし、そもそも6人も子どもがいればご飯作りは義務でしかなくて、大変なことだし、よく飢えさせずに全員を大きくした、と感嘆するほかない。『暮らしの手帖』が10年分ほどもずらりと並んでいた部屋の風景を思いおこせば、おばあちゃんから料理を習った、というわけではなかったようだ。それでもわたしたちが小さいころは珍しい料理や変わった料理も時折作った。アナゴをもらってきてさばいていたこともある。ぬるぬるとした蛇のような黒い生き物が、バケツの水のなかを動き回っていて、ギョッとして「蛇?」と母に尋ねたら、「これはアナゴよ、食べるのよ」と言われて納得できない気持ちになったが、口にしたらまるで魚のように淡白で(アナゴは魚だ)、二度びっくりした記憶はいまだに鮮明だ。しかしわたしはいまだに鮮魚をさばけない。

そういうわけで、わたしはそんなに料理が得意というわけではない。けれど食べることにはどこか執着があって、小学生のころにはこっそりカレーパンを作ったりした。それというのも、母の料理本のなかに、食パンで作るカレーパンのレシピがあったからである。残り物のカレーを温めずに食パンに挟み、パンの耳のところを爪楊枝でとめて、溶き卵にくぐらせパン粉をつけて、油で揚げる、というもの。揚げ油はいつも中華鍋に入れっぱなしだったし、台所が好きな子どもだったから、帰宅して誰もいなくて昨日のカレーが余っているようなときは、よしカレーパンだ、と思って作るのである。いつでもお腹が空いていた昭和の欠食児童だったわたしは、サクサクとした出来たてのカレーパンをよく一人で作って食べていた。

うちに遊びにきた実家の父が、帰宅したあとで「まあちゃんはいい鍋を持っている」とぼそっとつぶやいていた、と、母から聞いた。親族のなかでただ一人、東大へ行き大学院まで出てしまったせいで、わたしは実家の家族にまで「エリートはちょっと違うわね」などと言われてしまうような、変な扱いを受けている。そのときわたしは父に、結婚式の引き出物カタログでもらったステンレスの五層鍋でパスタをふるまったのである。母にまで「お宅はいい鍋がありそうよね。なんかいつもご趣味がよろしくて……」などとにやにやされてしまい、「いや、あれは引き出物カタログの商品だから!」と説明するも、誰も耳を貸さないのである。

もちろんわたしとて、いい鍋は嫌いではない。妹がカナダに住んでいたころ、真冬のオフシーズンに遊びに行って、料理の仕事をしている妹の影響を受けてしまい、そこでフッ素樹脂加工の(特にカナダ製ではない)お高いフライパンを買ってきた。1万5千円はしたと思う。しかしフッ素樹脂加工は長持ちせず、2年経ったらひどくこびりつくようになったので泣く泣く廃棄したあと、「もうフッ素加工は買わない」と心に決め、ネットショップでお手頃な燕三条製の鉄フライパンを買った。持ち手が木製のもので、すでに10年近く気に入って使っている。それで調理している写真などをたびたびネットに挙げていたら、しばしば「リバーライトですか?さすがですね」とコメントがつくようになった。なんだそのリバーライトというのは、と調べたら、倍以上の値段がするお高いブランド品の鉄フライパンである。わたしがそんなブランド品を使うとでも思っているのか、と悶々としていたら、鳩尾がある日、道端でリバーライトのフライパンを拾ってきた。「道端に落ちてたんですよ!拾って磨いたらピカピカなんですよ!」と嬉しそう。「そもそも、その、リバーライトってなんなんですか? 高級品?」と尋ねると、「えっ。おたくリバーライトでしょ」と鳩尾が言う。「違いますよ! 和平フレイズの2800円ですよ!」と言うも、「だって、戸田さんって、いい鍋選んでそうなんだもん」とニヤニヤ。そういう誤解、いい加減やめてほしいと思う今日このごろ。

ある日、銀座の「びいどろ」というスペイン料理屋へ行ったら、電動ミルに入った塩と胡椒が提供された。「たかだか塩や胡椒を挽くのに電動だなんて、どれだけ労力を節約したいの?近代人はダメだねぇ」などと笑いながらスイッチを押してみる。片手で持ってスイッチを軽く押さえるとギュインとモーターが滑らかに回って、引き立ての塩や胡椒がさらさらと出てくる。いままでにない感動体験である。「おっ、これは、電動……ありじゃないです?」と思って、ついスマホで検索をかける。定価1万8千円。なにを隠そう、これはプジョーの電動ミルだったのである。なるほどモーターが違うわけです。そのときはランチタイムの終わりの時間だったので、テーブルの上の電動ミルが一ヶ所に集められて中身が補充されていたのだが、プジョーの電動ミルがずらりとまるで駐車場の車のように並べられている光景は、なかなかに圧巻であった。

もちろんプジョーなんて車は買おうと思ったこともないし、そもそも車を買ったことも、買おうと思ったこともない(免許は持っている)。プジョーの電動ミルを買う、ということは、マクラーレンのベビーカーを買おうとするのと似たような感覚だろうか。プジョーの車は買えないけどプジョーの電動ミルは買える(1万8千円)。マクラーレンの車は買えないけど、ベビーカーなら買える(6万8千円)。ちなみにマクラーレンのベビーカーは、とくにパパ層に人気が高いそうである。プジョーの電動ミルに出会って以来、電動ミルに心惹かれ続けていたわたしは、ある日、ラッセルホブズのソルト&ペッパーミル(電動、5千円)を町で見かけて、衝動買いをしてしまう。あまりたくさんは入らないから、しょっちゅうリフィルの必要があるのが難点だけれど、ステンレスでおしゃれだし、そういえばうちの電気ケトルはラッセルホブズだし、いいのではないだろうか、と使い続けている。プジョーじゃないけれど。

しかしわたしはブランドに疎いので、プジョーどころか、車のメーカーも覚えられない。ベンツとBMが違う車のメーカーだということすら、最近ようやく気づいた次第である。しかもBMとBMWが別のメーカーだとすら思っていた。友達が乗っている車でさえ、「たしか、ベンツがBMのどちらかだったよね」という調子で、どちらなのかは覚えられない。「なんかミニに乗ってるスカした女がいて」という発言を聞いて、ミニスカートの美人をイメージしてしまうくらいの関心のなさである。そもそも自分が運転するわけでもない車のブランドをあれこれ言うのは、ブランド信仰が吹き荒れたバブル時代っぽい、とさえ考えている。そんな世代のスカした知り合いに、ベンツやBMW、ポルシェ、プジョー、フォルクスワーゲンなどの車に乗っけてもらったことがある(彼は会うたび違う車に乗っていた)。しかし、どれがどれだかは、やはり覚えられなかった。

そんな話をしていたら「やっぱ、ポルシェってエンジン違うの?すごいの?」と食い気味に聞かれた。うーん。なんか加速が体にくる感じで、どっちかっていうと、苦手でしたよ。と答えたあとで、「ポルシェってフランスの車?」と尋ねたら「ドイツです。シュトゥットガルトって書いてあるでしょ!」と低い声が返ってきた。知らなさすぎるのは、やはり問題らしい。

話を戻すと、道具はともあれ、わたしはご飯をふるまうのが好きである。フムスだとか、南インドカレーだとか。だから京都でも東京でも、つい料理を作っていて、最近では中野のギャラリー冬青で主催している「火星人の会」という、おしゃべり会のついでにご飯を作っている。これは参加者が火星人になった気持ちで、人間と写真について深く考える会なのであるが、営業が終わったあとの夜のギャラリーで行われるため、参加する火星人たちはお腹がすく。そのため、軽食を毎回提供することにしたのである。20人程度なのだけれど、メニューを考えるのが毎回大変である。なぜこんなことを始めてしまったのだろう、と、自分がどこへ向かって走っているのかがわからなくなる日々である。

田野が「おれは走りながら転ぶぜ!」と言い始める。奴はいつも唐突なので、わたしは驚かない。「それはなんの宣言なの?」と尋ねると、「子供の頃の大河ドラマでさ、宮本武蔵やっててさ。オープニングは、ワンカットで武蔵がひたすら道なき道をカメラの方へ走ってくんの。そいで、ときどき転ぶ。そういうのいいなあって思ってたんだよね」と言う。なるほど、わたしもそれがいいな、と思う。わたしもきっと走りながら転ぶ。そんなわたしのイメージは、朝倉俊博『麿赤兒 幻野行』なんですけどね。

渡り鳥が夕刻になると、大きな沼の上を横切っていく。鳥が旋回する。見上げながら目を回し、わたしはどたっと転ぶ。

『アフリカ』を続けて(39)

下窪俊哉

 この連載の(27)で向谷陽子さんの訃報を伝えてから、ちょうど1年がたった。そのうちに本になる予定の「『アフリカ』を続けてvol.1」の目次を見ると、その回には「ベースキャンプに届いた訃報」というタイトルをつけてある。少しふり返って読んでみると、

 そういうことの何をやっても、帰ってくる場所が『アフリカ』なのである。ベースキャンプのようだと言えばどうだろうか。うまくゆくこと、ゆかないこと、何があっても『アフリカ』に戻ってきて、さあ、また次のことをやろう、と考えることが出来る。

 と書いてある。『アフリカ』は自前のワークショップ(工房)でもあるし、旅へ出て戻ってきて、少し休んで、次の旅へ向けた準備をする場所でもあるわけだ。だからその不定期刊行の雑誌が出ていない時でも『アフリカ』は営まれていて、「続けて」いると言える。
 悲しみの中にいると、ことばが生き生きするのを感じられる。その悲しみが癒えることは、ないような気がする。しかし自分の中の、ことばの鼓動が、時の経過により変化してゆくのを感じないわけにもゆかない。
 人はどんなことがあっても「その後」を生きるんだ、と思う。死者だって、死の後を生きていると感じられるから、私たちの間に存在している。

 肝心なことに、「その後」は長く続く。続かざるを得ない。永遠に続くのかもしれない(「その後」にもいつか終わりが来るだろうか)。

(33)から(36)にわたって「2006年の『アフリカ』誕生の真実に迫るノンフィクション」を書いて、『アフリカ』は当時、「とりあえずの結論」をかたちにしたものだった、ということに私は気づいた(と書いた)。スタートではなくてゴールだったわけで、結論が出たら、もうそれまでだったのではないか。『アフリカ』は続ける気がなく始めたという話は、もしかしたら後々つくってしまった話かもしれないと思うけれど、気分的には確かにそういう感じだったのだろう。
『アフリカ』を始めた頃には、まだウェブでの発信を全くしていない。ブログを始めてみたのは少し後で、Googleを使って初めて自前のウェブサイトをつくってみたのは数年後だった。SNSの時代ではまだなかったし、現在あるような便利なウェブ・サービスは殆どなかったと言ってよい。同好会的な文芸のフリーマケットが行われていることは知っていて、手伝ったことすらあったが、自分には居心地が悪かったので『アフリカ』を始めてからは一切出ないことにした。『文學界』や『週刊読書人』、『図書新聞』などに雑誌を送って紹介してもらったのも過去のことになっていて、もう送らなかった。その結果、売る方法の前に知らせる方法が殆どなくなった。つくるだけつくって持ち歩いていたら、当時通っていた立ち飲み屋の常連客が買ってくれて(誌代としてビールを奢ってもらったりしつつ)読まれた。この話は、これまでにもくり返し書いた。
 その頃のことを思い出すと、いろんなことが始まる前でもあったし、私には「その後」が始まってもいた。
 環境や状況に応じて動いたわけではなかった。これからの時代はこんなやり方でやってゆくと良いのではないか、などと考える余裕はなかった。
『アフリカ』の場合、何はともあれ、まず『アフリカ』という場(個人的な雑誌)があった。それしかなかった。自己満足と言われたら自己満足だ。それで結構、ということだった。
 妙にさめた気分で、盛り上がるところがない。話題にはもちろんならない。こんなのが話題になっても困るとすら思っていたかもしれない。ようするに、盛り上がりたくないし、話題にもされたくない、ということなのだ。なぜ? どうしてそうなったのだろうか。疲れるから?(疲れるのは好きじゃない)
 いまとなっては、よくわかる。どうしたら続けられるだろうか、と考えていた。
 盛り上がったら、その後に必ず盛り下がらないといけなくなるし、話題になるものはいつか忘れ去られる運命にある。盛り上がらなければ盛り下がることもないし、話題にならなければ忘れ去られることもない。こんな簡単な理屈はない、ハハハ、と思っていたかどうかは知らない。が、続ける気がないのに、続けるためにどうするかを考えていたことは確かで、面倒くさい人だな、と自分でも呆れる。
 たくさんの人がいま見ているものを一緒に見るのは、楽なことだ。その後、見えなくなったものを見ることの方が、しかし生きるということの実感に近い。

『アフリカ』を始める数年前、谷町六丁目にある韓国料理屋で(私の大学時代の先生である)葉山郁生さんと飲んでいたら、詩人の長谷川龍生さんが『現代詩手帖』の編集者を連れて入ってこられて、紹介された。長谷川さんは私の小説「いつも通りにたたずんで」を読んでくれていたらしくて、こんな話をしてくれた。
「きみさ、女と寝てみて、どうだった?」
 酔っ払って話しているのだが、いきなりそんなことを訊かれる。
「ようするに女です」
 というのは小川国夫の小説からの引用なのだが、そんな返事の仕方は出来なかったかもしれない。自分が何をどう言ったのかは覚えていないのだが、そのあとに返ってきたことばを、忘れることはないだろう。
「だろうね、その後を書かないと」

 話したのはその日、一回限りになってしまったので、その声を私は思い出すことができないが、その微妙なニュアンスだけはずっと心に残っている。「いつも通りにたたずんで」は、その界隈で少し話題になってしまった小説だったから、その頃の私は調子を崩してしまっていたような気がする。だからそう言われたのは、慰めになったのだろう。
 大事なのは、いつだって「その後」だ。「その後」を書き続けてゆこう。

長い電話

北村周一

旧き友と出会いたるのちひとり見る
 夢のつづきは穏やかならず

友ありて語り合いたるその夜の
 夢の真なかにきみがいること

なつかしき声と声とに語り合う
 ふるきよき日は夢を出ずなり

いまはなき人の声する夢のあと 
 夜が明けたらドクダミを抜く

よみの世の声と交わるみずからの
 声音おそろし夢見て泣きぬ

不穏なる声におどろく夢ながら
 目覚めては泣く夜の恥さしさ

たれにとなくひとり語らう夜々のありて
 夢また夢の明けの悔しさ

懐かしき声にかたらうよろこびは
 夢の中ではだれも死なない

寝ては覚め醒めては眠るあかときの 
 夢のかずだけ守る沈黙

旧き友とつながり合って過ごす夜の
 長い電話はよふかし上手

朝一番でんわの声はペンネイム
 水沢パセリの早言はやさし

ふる雨に電話ボックス濡れながら
 会話しており水中花ひとつ

いもうとの電話の声は猛猛し 
 蜜柑がひとつ卓上にあり

おとうとの冷めたる声は遠遠し 
 われらそろそろ冬支度なり

ふいの死のおもみをはかり損ねつつ
 もどす受話器の意外な重さ

トーストゆとろけるチーズは蕩け落ち
 受話器をとれば弁護士の声

スではなくシオだと電話の声はいう 
 ハチミツ屋さんの九州訛り

親機鳴り子機が鳴りして春の昼 
 カネの無心をわが子のごとし

穏やかないちにちだったと思いたい
 親機が鳴って子機が鳴るとき

むもーままめ(42)心火

工藤あかね

わたくしの痛ましい心臓が
湖面に映る木漏れ日の
砕け散った水晶を踏みしだく

わたくしを律する電気信号が
無為の人々に妬ましさ募らせ
朽ちた石像の薄ら笑いに震える

あなたにはこの十字架が見えぬのか
誰もが憐れみ、蔑み、弄ぶこの荷は
わたくしが肩代わりしているのに

笠井瑞丈

毎度のことですが
六月に天使館で
行った公演『Q』
それの再演のため
金沢への車移動
松本から飛騨高山

思い返せば
もう何度も通る道
初めて通った時は
雪がまだ積もってた
興奮したことを思い出す

車旅ほど至福の時間はない
全てから解放され自由なのだ
このまま行こうと思えば
どこにでも行けるのだ
目の前にどこでもドア

そんなもう通い慣れた道
道中途中公衆トイレに入る
夜は熊の侵入に注意の看板
よく山道に書いてある脅し文句
どうせ出ないだろうと思い
あまり気にせず用を済ませ
車に乗り込み富山へ向かう

くねくね山道をヘッドライトが
左右に揺れて遠くの道を照らす
川の音と山の呼吸の音が聞こえる
ヘッドライを切れば
全てを飲み込む漆黒の世界だ
もしここに取り残されたらと

思うとゾッとする
文明の利器に感謝

トイレを出て進むこと数分
少し先の道の真ん中に

黒い影
黒い影
黒い影

犬にしては大きしいし
鹿にしては太ってるし

この辺りで鹿や猿を
見かける事はよくある

徐々に車を走らせ近づく

えっ
もしか

ええっ
もしかし

えええっ
もしかして


です

ヘッドライト越しに
こちらに振り向く
車を停め窓を閉め
緊張した時間が

一瞬目が合いノソノソと山に入っていく
人生で初めて野生の熊に遭遇しました

そしてあのトイレに書いてあったことを思い出す
あれは間違えではないということを確信する
今後あのトイレにはしばらく入れないであろう
やっぱり山を舐めてはいけない

しかしよく考えてみると
ここは熊の領域なのだ
我々がここを通らせてもらってる
だからもっとここを通る時は
山の動物たちに敬意を払わなきゃいけない

忘れていた事を思い出す感じだ
ここはみんなの場所なんですと

人間と動物がともに共存する
もっともっと良い世の中に
なっていくことを願うばかり

チャボさんたちは今日も元気
僕は本当に愛に包まれている
いつもありがとう

8月の渡航と11月の『幻視 in 堺』公演のお知らせ

冨岡三智

8月は短い期間ながらインドネシアに行ってきたのだが、公演を見たり友人知人に会ったりする以外に、実は11月に主催する公演の準備もあった。というわけで、今回は公演の予告と準備の話。この公演は堺市文化芸術活動応援補助金に採択された事業で、これに選ばれるのは今回で3回目。

幻視 in 堺―日月に響き星辰に舞う―
日時:11月23日(土祝)午後公演
会場:サンスクエア堺・サンスクエアホール

第1部
・ガムラン曲「ロジョ・スウォロ」
・サンティ・スワラン(ジャワ宮廷のイスラム歌唱曲)3曲
・宮廷舞踊曲「アングリルムンドゥン」前半の歌
・舞踊「スリンピ・ガンビルサウィット」完全版

客演:Suraji、Waluyo、Kris
プラネタリウム:一般社団法人・星つむぎの村
音:EUHEDRAL / 田中秀俊

●ジャワから音楽家を招聘
今回の企画では、ジャワからインドネシア国立芸術大学スラカルタ校ガムラン音楽科教員のスラジ氏とワルヨ氏、さらに卒業生のクリス氏の3人を招聘して一緒に演奏する。スラジ氏はルバブの名手として知られると同時に、宮廷舞踊スリンピ・ブドヨの権威であり、古い宮廷音楽の復曲なども手掛けている。私もジャワで宮廷舞踊の公演をする時にはいつも必ず楽譜を見てもらってきた。インドネシアではすでに公演や録音で氏に参加してもらってきたが、日本でも演奏に加わってもらいたいというのが私の夢なのだった。ワルヨ氏は歌の名手であり、サンティ・スワランの活動も長らく続けている。と同時に作曲家として多くの音楽・舞踊・映像作品に音楽を提供している。実は私も2011年に舞踊曲”Nut Karsaning Widhi”を委嘱したことがある。クリス氏はこの芸大の卒業生で私が留学していた頃に学生だった人。楽器もオールマイティにできる人だが、芸術団体やそれ以外の事業も持つ実業家でもあって書類作成なども得意、というわけでいろんな手続きは彼が一手にやっている。

5月頃からオンラインで3人で何度か話し合いをしてきて、この8月の渡航時に直接対面で話し合いができた。実は、今年はインドネシアの新首都への移転に文化予算が多くとられたり、昨今のイスラエル情勢で海外派遣への審査が厳しくなったりと、インドネシア側での補助金獲得には思わぬ困難が待ち受けていたのだが…お話の続きはまた公演後に。そして、3人の来日は決定しているのでお楽しみに!

●星空に響く歌
今回はプラネタリウムの星空を投影し、星空に声が響くような舞台にできたらなあと思っている。プラネタリウムを担当するのは山梨県北杜市に拠点を置く一般社団法人・星つむぎの村で、病院などに出張して、本物の空が見れない人たちのために星空や宇宙を届ける活動をしている。私は新聞でその活動を知り、また芸術活動との共同も行っていると聞いて今回のコラボレーションをお願いした。

今回の第1部ではサンティ・スワランの曲を演奏する。サンティ・スワランはスラカルタの宮廷で実践されているイスラム歌唱で、アラブ起源の片面太鼓=ルバナを叩きながらイスラムの歌を歌う。ルバナは普通は大小4つで1セットで、4人がそれぞれ決められたリズムを叩く。ここまではショラワタン(民間でやっているイスラム歌唱)と同様だが、宮廷のサンティ・スワランになると、そこにチブロン太鼓とクマナというバナナ型の青銅製打楽器も使う。今回はイスラムのジャワ化を示す曲を3曲上演する。1曲目は歌詞がまだアラビア語のもの、2曲目は歌詞がジャワ語になっているもの、3曲目はさらにグンデルとスレンテムというガムラン楽器を用いてよりジャワの楽曲化したもの(この編成になるとサンティ・スワランの中でもララス・マディヨと呼ばれる)である。

星はイスラムの象徴でもあり、また中東から東南アジアにイスラムを伝えた人たちもその旅路で星空を指針にしたことであろう。そんな音楽の旅も感じてもらえたら幸いである。1曲目は普通のガムラン伝統曲なのだが、歌詞が「太陽、月、そして星」で始まり、宇宙を構成する要素が歌い込まれているから今回のプログラムにはぜひとも使いたかった。雄大な宇宙を感じさせる曲である。そして、ジャワ化したイスラム歌唱の歌があり、第1部の最後はクマナ編成で演奏される宮廷舞踊曲の前半をお届けする。クマナ編成はスラカルタ宮廷のしかも古い舞踊にのみ見られる演奏の仕方である。クマナとゴング類が延々と刻むティン・トン・ティン・…という単調な音に合わせて歌い、他のガムラン楽器を使わないのが特徴だ。まるで念仏みたいな瞑想的な音楽で、種々の理由から今までの堺公演でもクマナ編成の曲は全然上演していない。というわけで、音楽として今回は上演しようと思った次第。実はサンティ・スワランとクマナ編成舞踊曲はどちらもクマナの刻むリズムは一緒なので、一体感が感じられると思う。

余談だが、このサンティ・スワランで使うルバナ太鼓1セット(4個)を現地に注文していたのだが、今回の渡航で別送にせず持って帰ってきた。タンバリンみたいな形だが、最大のものだと直径が55㎝もあって意外に大きく重い。実は工房に行って目にしたのは今風のルバナだった。今より胴の長さが倍くらい長く、ドラムのように皮をボルトで締めるようになっている。想定外のことに大変驚いたが、私が意図しているような伝統的な形のルバナ(しかし、サンティ・スワランと言えばこのデザインという形)は、今ではほとんど作られていないという。スラカルタ滞在は5日しかなかったが、この間に胴を半分に切り、ボルトも外して皮を張り直してもらった。というわけで、公演ではこのルバナ太鼓にも注目してもらえると嬉しい。

●自然音
今回は曲の合間にEUHEDRAL / 田中秀俊氏が録音された自然音も使う予定である。実はまだ本人にお目にかかったことはないのだが、氏がフィールド録音されている音に心惹かれ、今回使わせてもらうことになった。大自然の星空の下、どこからか聞こえてくる自然の音に入り混じってガムラン曲が聞こえてくるような、そんなジャワの雰囲気、空気感が再現できたらなあと思う。実は私は昔から自然音とガムランの音が混じって聞こえてくる状況が好きで、自作の舞踊『妙寂 Asmaradana Eling-Eling』でも入退場では虫の声を歌にかぶせて使っている。これはジャワに留学中、夜中に自分のレコーダーで録音した虫の声である。今回は他にもいろんな音が入ってくる予定なので乞うご期待!

●そしてスリンピ
私の公演といえば宮廷舞踊の完全版は外せない。というか、長い宮廷舞踊を上演する機会を作るために、それを取り巻く世界の演出を考えていると言っても過言ではない。今回上演する『スリンピ・ガンビルサウィット』はスラカルタ宮廷舞踊曲10曲の中では一番短い曲だが、現存していなくて知られていない曲である。『ガンビルサウィット』といえば、ガムラン伝統曲をするなら知らぬ人はいない基本中の基本の曲で名曲だが、歌唱が通常演奏とは違うのでそこが聞きどころである。

しもた屋之噺(271)

杉山洋一

ここ暫く足の遅い台風が居すわっているおかげで、見事な入道雲に見惚れたかとおもえば何時の間にか厚い雲に変わっていて、気が付けば酷い雷雨、とめまぐるしい天候の変化に翻弄されています。確かに夏の天気は変わりやすかった覚えがありますが、昔からにわか雨は、こんな南国のスコールみたいだったかしらと戸惑いが頭をもたげます。一時でも暑気が和らぐのは有難いけれど、交通機関も流通もすっかり滞っていて、我々の足下はこんなにも脆弱だったのかと気づくよい機会にもなりました。スーパーから米が姿を消したのも、この台風と関係あるのでしょうか。

8月某日 三軒茶屋自宅
早朝世田谷観音まで散歩する以外、日がな一日譜読み。相変わらず、遅々たる歩み。
2002年、書き始めたばかりの「しもた屋」を読みかえし、湯浅先生のミラノ訪問を思い出す。
「10月1日。中央駅にて、最終バスを待ちながら。今まで、うちの学校にコンフェレンスと演奏会のため、いらした湯浅譲二先生、Alter Ego、学校の連中と食事。インゲン豆のスープを頼み、ワインを呷る。先生はその他にパスタを頼んで、量の多さに驚いていらした。湯浅先生と、反アカデミズム、反スケマティズム。音楽を音楽の枠の外から眺め、自分の意志を、しっかり言語化する重要性。40歳前で初めてアメリカに武者修行に出た時、初めは若造がやって来たのかと訝しがられたが、録音を聞かせた途端、相手の対応がすっかり変わった事。湯浅先生のコンフェレンスには殆ど生徒がいなくて、申し訳ない。夜の演奏会には溢れる聴衆。めぼしいミラノの作曲家が顔を揃えて、錚々たる感じ。しかし、作曲の生徒は皆無。どうなっているのか。書き上げたばかりのフィンランドの合唱団の為の新作をコピー。明日ローマから送附されるとのこと。実直な筆致の清書譜に感激。パリのM嬢が湯浅先生のミラノ滞在に併せ、遊びに来る予定が、互いに忙しく断念」。
日記はやはり書いておくべきだと改めて思う。様々な感情や出来事を書いておくことで、身体と記憶を軽くしておけるし、身体から排出することで、記憶を保とうとするストレスとエネルギーからも解放される。

8月某日 三軒茶屋自宅
興味深い作品やテクスチュアなどを耳にしたら、既にそれを実現した人が存在するのだから、できるだけ違うやりかたを探さなければいけない。ずっとそう思ってやってきても、余り曲を知らないので、結果として別の誰かのやり方に似ていたりして、がっかりする。
オリンピックのトライアスロン選手が、セーヌ川での競技に備えてヤクルトを3本飲んだことで、ヤクルトの株が急騰したそうだ。ヨーロッパでヤクルトを飼うと少し高級な印象があって、日本に帰ってくるたび、ひそやかな満足感を覚えつつ必ず購入している。

石塚さんから連絡をいただき、夜、渋谷ドミューンに出かけた。前回2020年に一柳さんと悠治さんと一緒にここを訪れて以来4年ぶりだ。「湯浅譲二90歳記念」特集のはずが、偲ぶ会になってしまった。アキさん、木下正道君、鈴木治行さんに再会。みんな、本当に湯浅作品に精通していらして、一緒に坐っているのも申し訳ない心地。西川竜太さんがいみじくも、湯浅先生は演奏者さもなければ人間の力を信じていたからこそ、あの音楽を書けたに違いないと話していらしたが、その通りだとおもう。

8月某日 三軒茶屋自宅
昨日、町田の母より発熱との連絡。駅前のかかりつけ循環器科に電話をすると、彼女には循環器に持病もあるので検査に来ることを勧められる。コロナの場合、診察室には入れないが、コロナ治療薬の処方箋を出すことはできるからだそうだ。昨日熱は38,5度まで上がったが、今朝測るとには36,5度まで下がっていたと聞き安堵した。それでも味覚障害が残っていて全て苦く感じるらしい。昨日は日経平均、ブラックマンデーを超える4451円の歴史的暴落。今日は3217円もの高騰。イタリアの経済新聞も一面で日本株の乱高下を伝えた。昨日は40円もの下落、ウクライナ軍ロシア・クルスク州侵攻。どうなるのか。「怨嗟」という言葉が脳裏をかすめる。

8月某日 三軒茶屋自宅
宮崎で震度6弱の地震あり。南海トラフ誘発の可能性から、日本政府は「巨大地震注意」発令。一週間の警戒中、東海道本線、東海道新幹線など、一部徐行運転、海水浴禁止など。コロナ禍のよう。

8月某日 三軒茶屋自宅
長崎の平和記念式典への在日イスラエル大使招待が見送られたため、在日G7各大使も出席せず。イタリア大使欠席に非常に落胆。政治とはこういうものと、頭では理解できるが残念。夜、厚木で震度5弱の地震があって、地震馴れしていない息子が怯えている。

8月某日 三軒茶屋自宅
金沢能楽美術館にて般若さんと辻さんがJeux III 演奏。心に残る名演とはこういうものだろう。南海トラフ「巨大地震注意喚起」に向けての薄い緊張、1月能登地震への鎮魂、盆会も相俟ってか、正に鬼気迫るものがあった。演奏中、まさに日が暮れてゆき、般若さんの後ろに、等身大の若女の能装束がうっすら浮かび上がる。Jeuxの演奏前に、辻さんが五島藩時代の三年奉公を嘆く哀切に満ちた「岐宿の子守歌」を歌った。少女たちの悲しみが滲み、子守歌というより嘆き歌、ラメント。
金沢駅から能楽美術館までのんびり歩く。若き父と母は松崎の祖父からお祝いを貰って、兼六園や東尋坊を新婚旅行に訪れたという。昭和34年のことだ。

8月某日 三軒茶屋
演奏しながら、辻さんは「般若さんに引寄せられた」とお便りをくださった。殉教を決心して、天国へ足を踏みだそうとする思いと、恐怖に足はすくみ、身体は震えたまま、生きたいと願う葛藤。アンヴィヴァレンツ-相反する不均衡な感情、主観と客観の双方。和太鼓はどうしてそれらを同時に表現できるのだろう。ウクライナ軍、ロシア国内を奇襲。イスラエルは避難民が身を寄せていた学校を爆撃100人死亡との報道。爆撃を受けて即死しても、天国へゆけるのだろうか。それとも自分が死んだことすら気づかず、身体だけその場に脱ぎ捨てて、目をぱちくりさせながら、辺りを漂っているのだろうか。

8月某日 三軒茶屋自宅
学芸大学まで自転車、東横線で横浜へ。山下公園の日本丸を眺めつつ、コンビニで買ったおむすび2個とジャスミン茶で昼食。目の前の海を眺めながら、すっかり贅沢な心地になる。子供のころ、母に連れられて、たびたび山下公園を訪れた。ぼんやりと記憶もあるが、母と一緒に映る草臥れた写真も残っているから、父と母と3人で遊びにくることもあったのだろう。このおむすびを持参し芝生で昼食にすることもあったに違いない。日本丸の反対側にはピースボートが停泊していて、煙突が薄黒い煙を吐いていた。県民ホールで音響実験。オーケストラの音は思いの外よく通ることがわかって、一安心。声をどのように聴かせるべきか、矢野君や市橋さんと相談しつつ、菊地さんに細かくリクエストを出す。

8月某日 三軒茶屋自宅
朝、散歩をする以外、一日ひたすら譜読み。夜、母と電話をしていると、小学生の頃、父が懇意にしていた山内敏功さんを頼り、郡上八幡や新居浜を訪れた時の話になった。夕日に映える小さな漁港と瀬戸内海の美しさは忘れられない。逆光のなかで黒いシルエットだけ黄金色に輝いてみえた。釣り糸を垂れると、見たこともない極彩色のベラがよく釣れて、子供ながら、綺麗なこの魚は本当に食べられるのかしらと不思議に思った記憶がある。宇和島近くで、当時出来たばかりの船底がガラス張りの観光船で、海中散歩を楽しんだ。
息子が幼かったころ、家人と連立って、コモ湖やらサン・モリッツ、アルプス、ジェノヴァの港やターラントの海、ニースの浜辺や美術館など、慎ましくも愉快な旅行にでかけたのは、息子にもいつか自分が両親と過ごした時間を思い出してほしいからかもしれない。その時頭に浮かぶ風景が、ただ家の日常だけではさすがに味気ない。山や海の色味ある風景と空気の匂いも、できれば一緒に思い出してくれたらよいと思う。
子供のころ自分が両親と出かけた時間は、気が付けば、思いの外大切なものだと気づく。

8月某日 三軒茶屋自宅
新しく作る悠治作品CD原稿を整理していると、ほんの数年の隔たりながら、鬼籍に入った関係者の多さに言葉を失う。これを感慨深いと呼ぶべきなのか。一期一会と記すべきなのか。
母曰く、戦後過ごした松田惣領のそこそこ立派な屋敷ではなく、疎開していた山北の民家に愛着があるという。よく遊んでいたからだそうだ。松崎の両親は疎開先で気兼ねしていたのか殆ど近所づきあいもなかったそうだが、母のような子供は、近所の皆からすっかり可愛がられて、無邪気によく遊んでいたという。今となっては、松田から隣町の山北に疎開する感覚も余りに近くて理解できない。恐らく戦争末期は、松田のような街であっても、爆撃の対象とされたのだろう。グーグルで検索すると松田惣領1536番地、母が戦後住んでいた松崎の家は、現在大型のドラッグストアに姿を変えているが、母が住んでいた頃からあった島村酒店は、現在も道の向かいに店を出していた。

8月某日 三軒茶屋自宅
広々とした木造のファームで、悠治さんのピアノコンサートを聴く夢をみた。観客はさほど多くなく、雰囲気的にクローズドの演奏会だったのではないか。木製の丸テーブルにつくと、悠治さんが目の前の小さなピアノで、「愛の悲しみ」とゴセックのガボットが合わさったような奇妙な作品を弾いた。それから、腕を白鳥の翼のように大きく羽ばたかせて、左から右、右から左へと走った。脱力して走っているからか、少し「どてどてどて」という音がする。出し抜けに大きな白いスクリーンが現れたと思いきや、いきなりそこに家人の姿が映されてびっくりする。どうやら即席で同じ動作をやらされているらしく、照れながら腕を仰いでどてどて走ってみせたので、見物する皆がどっと笑った、というところで目が覚める。

8月某日 草津 佳乃屋
「考」新作の楽譜を携え、家人と連立って軽井沢に向かう。東京駅のコンビニエンスストアを3軒まわったが、線香はどこも売切れていたのはお盆過ぎだからに違いない。駅の隣のオフィスビルで弁当を購うと、箸がついていなかった。軽井沢駅まで天野さんに迎えにきていただき、三人で駅からほど近い軽井沢霊園にむかう。イタリア料理レストラン「プリモ」向かいの駐車場から入って左に3メートル、通りを右に折れて水屋を左にみた角、「アロハ」と刻まれた墓石の先に楕円の墓石がみえるから、と由紀子さんより教えていただく。
実際に目にする楕円の墓石は、想像よりずっと大きく立派で、楕円の墓石は地面に横臥していると思いきや、実際は見事にすっくと立っていた。よく見覚えのある筆致で「三善」と彫られていて、その右には五線が引かれ、五線譜には馴染み深い四角いフェルマータが鎮座ましましていた。
どこも湿っぽくなく、むしろユーモアさえ感じられながら、どっしり、しっかり構えていらっしゃるところもあって、どうやったら全て同居させられるのか本当に見事な作品だ、と由紀子さんに書き送った。
聞けば、あの墓地と決めたのは先生が未だ30代の頃、具体的にお墓が決まったのは今から40年前、建立したのは亡くなる10カ月前で、先生が細かく希望を述べて完成したとのこと。石は地元の千曲石で、信州は由紀子さんの母上の郷里で所縁のある土地だという。文字は自筆譜から起こしたものだそうだ。天野さんが持ってきてくれた箸で、漸く弁当にありつく。

8月某日 三軒茶屋自宅
朝4時過ぎに一番風呂に入って6時の新宿ゆきのバスに乗り込んだ。昨夜も2回温泉に浸かって至福を味わう。もしかすると十年以上温泉には入っていなかったかも知れない。昨晩草津で息子が少しだけ弾いたピアノを内緒で聴いて、そのまま東京に戻り「考」リハーサル。
猿谷さんのフレーズはとても長い。それをぜひ魅力的に響かせたいとおもう。「考」の皆さんは、相変わらず勉強熱心で、休憩時間も惜しんで練習に勤しんでいて、自分はよほど怠惰な性格だと省みるばかりだ。

8月某日 三軒茶屋自宅
代々木八幡のハクジュホール、中村ゆかり・ブルーノ・カニーノ演奏会にでかけた。
台風10号が近づく中、千代田線から代々木公園駅に降りたつと、「台風の影響で次の代々木上原駅は大変混雑しており、ホームに降りられない可能性もあります。ご注意ください」と構内放送が流れた。こんな放送は初めて耳にしたが、一体ホームに降りられなかったらどうなるのかしら、と心配になった。尤も、自分が乗った千代田線はとても閑散としていて拍子抜けするほどであった。
プロコフィエフ2番ソナタ4楽章のpoco menoを、カニーノは臆せずどんどん進んでゆく。すると、なるほど展開部のカンタービレがこれまで聴いたこともないような広がりを持って迫ってきた。
フランクのソナタ冒頭のピアノは、ヴィロードのような触感、魔法のような音色で、何だか自分の耳が信じられない。4楽章終盤、長調が戻るところで、思わず目に涙があふれる。
自分が思うロマンティシズムとは、こういうものだと思う。書かれた音を書かれた通りに奏する。音を主観で塗りつぶしたり、歪めたりもしない。ただあるがままの姿で発音する。その音が、この世界に発せられた瞬間、音そのものに魂が宿る。それは演奏者に帰属するのではなく、空間を共有する皆に等しくしみ込む、感情の襞のようなもの。
少し違うのだけれど、カニーノと悠治さんのピアノは似たところがある。カニーノはよく、指の腹と肉で発音するように言うけれど、その深く、太いタッチが少し似ているのと、主観に凭れず粛々と書かれた音を奏してゆくところだろう。二人とも自分が作曲するからか、ただ書かれた音をつま弾くだけで、エゴなど微塵もはいりこむ隙がないのに、音がこの世に発音された途端、心を灯し光を纏う。そういえば、無為にペダルを踏まないところも似ているかも知れない。
中村さんのヴァイオリンも、ピアノで言えば、深いタッチのような、彫りの深さがうつくしい。中村さんとカニーノは、同じ歌を共有していると思った。

8月某日 三軒茶屋自宅
昨日は駅前で眼鏡を作り、三軒茶屋の蔦屋で尾崎世界観「転の声」を購入。先日、高橋源一郎「飛ぶ教室」でこの作品を取り上げていて、彼が絶賛していたし、絶対読もうと決めていた。なるほど確かにこれはロックミュージシャンでなくとも、クラシック演奏家にとっても必読かもしれない。誰しも心当たりはあるような表現にどきっとさせられるし、なるほど本質は略同じだと思う。読み進めてゆくと、先日の芥川作曲賞で関わった若手作曲家の音楽語法と尾崎の日本語表現に、どこか近しいものがあると気が付く。
自分でそれを真似たいとは思わないし、出来るとも思わないが、一見軽い口調でテンポよくフレーズを紡ぐ絶妙さは、直截な表現が無意識に彼らの裡の衒いを孕んでいて、それを丁寧に避けるべく紡がれた見事な表現手段ではないだろうか。先日もそれを薄く感じながら演奏していたが、尾崎を読んでより強い確信に変わった。なるほど彼らの文化、音の深度、確度を表現するにあたり、良い啓示を受けたと思う。
単に世代格差と言われればそれまでで、現代日本社会からの乖離に過ぎないのかも知れないが、自らを常に新しい空気に曝す努力は、かかる怠惰な人間にとっては酷く重要なのである。
夕方、沼野先生と横浜の英一番館でローエングリンについてのトークがあって、戸部のブリコにて本年最初の秋刀魚をいただく。美味。

(8月31日 三軒茶屋にて)

吾輩は苦手である 2

増井淳

 吾輩は苦手である。何を隠そう、字を書くのが苦手である。
 なんとか字をうまく書けるようになりたいと思うのだが、そもそも日本の文字というのは、漢字・ひらがな・カタカナと数が多すぎる。
 特に漢字はほとんど果てしないほどあるではないか。そんなものを覚えられるわけがないし、正確に書くのも大変なことだ。
 たとえば、「飛」という字は、何度書いても変な形になってしまう。
 シンニョウもそうだ。ふにゃふにゃとしていて形が整わない。さらに、「辻󠄀」と「辻」のように点が一つのものと二つのものがあり、どちらがいいのか判断に困る。
 吾輩は新潟県出身だが「潟」という字は何度書いてもうまく書けない。越後の「越」も同様、辞書を引いて拡大鏡をながめないと正確に書けない。
 ひらがなの「ゆ」もむずかしい。「ゆ」という字はまるで絵のようではないか。
 数年前、母親が「要介護」状態になり、施設に入所することになった。その際、各種書類に署名をしなければならなかったのだが、その数があまりに多く、しまいには自分の名前をどう書くのかさえわからなくなるほどであった。吾輩の名字の最初の漢字「増」の字の右側にある「田」と「日」はどちらを大きく書くべきなのか、悩んでいるうちに字を書くことが激しく苦痛になってしまった。ことばと文字が乖離して吾輩のものではないような感覚に陥った。
 ワープロやパソコンを使うようになり手で書く機会が少なくなった。そういうことも影響しているのだろう。それにしても、自分の名前さえ書けなくなるというのは困ったものだ。
 斎藤茂吉にこんな歌がある。

 あつき日に家ごもりつつもの書くに文字を忘れていたく苦しむ

 これは昭和4年の歌だから、茂吉は40代後半、この頃のことを「ようやく初老を過ぎて」(『作歌四十年』)と書いているからすでに物忘れに苦しんでいたのだろうか。たくさんの字を書いただろう茂吉も字を忘れて苦しんだ経験があるのだ。ろくに字を書かない吾輩が苦しむのも当然のことかもしれぬ。
 
 小学生のころ、書道教室に通っていた。まだ低学年だったと思うが、大きな教室でたくさんの生徒が通っていた。教室に行くと先生のお手本を見ながら自分で書いてみて、完成したら先生に見てもらうというやり方だった。先生に丸をもらうと級位が認定されて、最低は9級で最高は3段くらいだった思う。級位をもらうと短冊状の木の名札が、教室の壁のその級の位置に張り出される。何ヶ月通っただろうか、今となってはまったく思い出せないのだが、ともかく何度書いてもなかなか丸がもらえず、7級になった時点でやめてしまった。そのころから、字を書くのが苦手だなという自覚がうまれたのだと思う。
 字が苦手な我輩でも日記や読書記録を書いていたことがある。最初の頃はていねいに一字一字書いていたのだが、そういう方法は時間がかかる。それでだんだんと早く書くようになったのだが、その結果、自分で書いた字が判読できないということになった。それでは書いている意味がない。
 そういう経験があるので、新保信長『字が汚い!』(文春文庫)はおもしろく読んだ。自分の字が汚い、というか、年相応の字が書きたいと願う著者が、ペン字練習帳で練習したり、ペン字教室に通ったりした経験を綴ったもの。いろんな人の筆跡も載っていて興味深い(特に政治家の筆跡は必見)。
 しかし、吾輩と同じように大人になって字をなんとかしたいと苦慮する姿には、そこはかとない滑稽感が伴う。この本の帯には「50歳を過ぎても字はうまくなるのか?/情熱と執念の右往左往ルポ!/なぜか、朝日・読売・産経・東京・日経各紙も絶賛!」とあり、かすかに著者をからかっているようにも感じるではないか。
 字が苦手というのは、滑稽でわびしいものなのだ。
 書家の石川九楊は、「声とは肉声である。同じく文字とは肉筆以外ではありえない」(『「書く」ということ』文春新書)と書いていて、もっともな意見だとは思うが、苦手なものは苦手なのですよ。

 

言葉と本が行ったり来たり(26)『オパールの炎』

長谷部千彩

八巻美恵さま

 長谷川町子の絵葉書、受け取りました。ありがとうございました。八巻さんからメールでのお手紙が届いたすぐ後に、郵便でも絵葉書が届くなんて贅沢。嬉しい。
 裏面のワカメちゃんとフネさんが縁側で金魚鉢を眺めている画には、私も懐かしさを覚えました。私にも祖母と縁側で過ごした幼少時代の記憶がありますが、あの頃は気温が25度を超えると今年は猛暑だと大騒ぎしていたような気がする。取り戻すことはもうできないでしょうけど、昭和の夏はいまよりずっと気持ちのいい夏でしたね。

 私のほうは、昨夜、残念な形で終わった仕事があり、徒労感いっぱいの週末を過ごしています。誰かがバトンを落とすたび、拾いに行って走って渡してを繰り返すような役回り。「勉強になりました」と笑って散開という形にはしたけれど、すべて無駄だったことは事実なわけで、やりきれない気持ちは拭えません。それで今朝は熱いお湯で長風呂をして、髪にタオルを巻いたまま床に寝転んで、枕代わりにフォームローラーに頭を乗せて、さて読書でも、と思ったけれど、こういうとき、何かの「続き」を、という気分にはなれないものですね。何もかも置き去りにしたくなる。「それまでのこと」を断ち切りたくなる。違う世界へ行きたくなる。だけど、楽しいものは嫌で、軽いものも嫌で、難解なものも嫌で、シニカルなものも嫌で、結局手を伸ばしたのは、自分の現実よりも苦い物語。少し前に買って積んでいた桐野夏生さんの最新刊『オパールの炎』でした。

 途中、髪を乾かしたり、シリアルを食べたり、コーヒーを淹れたりという休憩を挟みながら三時間半で読了。その後、主人公のモデルが誰なのか気になり、インターネットで調べてみると、桐野夏生さんご自身が、「中ピ連」の榎美沙子さんの人生を追って書いたと語っている記事が見つかりました。
 私は榎美沙子さんというひとのことは知りません。「中ピ連」が、「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」の略称だということも知りませんでした。だけど「中ピ連」という言葉には、なぜか聞き覚えがある。「中ピ連」が活動していた頃、私はまだ幼稚園児だったので、聞き覚えがあるというのも不思議な話なのですが。
 けれど、しばらく考えているうちに記憶の奥底から浮かんできたのです。ある時期、テレビのワイドショーのようなもので頻繁にその名前を聞き、女性たちのヘルメット姿を目にしていたことを。幼い私は、中絶、ピル、女性解放などという言葉の意味を知らないし、彼女たちが何かと闘っているのはわかるけれど、何と闘っているのかはわからなかった。だから、こう思ったのです。「中ピ連」のピは肥満の肥のことじゃないかな、きっと中ぐらいに肥った女のひとたちが「肥っている女をバカにするな!」と男のひとたちに怒ってるのだろう、と。
 いま、榎さんたちの写真を見ると、「中ピ連」の女性たちが特に肥っているということもないし、年だってそれほどとってはいない。だけど、幼児の目には、肥ったおばさん、と映ったのでしょう。
 わからないところには自分の持つ知識を無理矢理にでもあてがい、繋ぎ合せて、何としてでもわかろうとする執念。母親の観ているテレビ番組を、隣で自分も同じように観て、同じように理解して、対等な話相手として振る舞いたいという強い想い。確かにそんな形の慕い方が子供にはありますよね。居間に置かれた一台のテレビを家族みんなで観ていた時代の話です。
『オパールの炎』からすっかり脱線してしまいました。台風はどうやら進路を変えたようです。読書もいいけど、気晴らしはドライヴに限ります。明日は出かけられますように!

2024年8月31日
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(25)『蜜のあわれ』 八巻美恵

水牛的読書日記2024年8月

アサノタカオ

8月某日 宮内喜美子さんの手製の詩集『台湾土産話的』が届く。濃紅色の表紙のシンプルで可愛らしい本。台湾への旅、そして原住民作家シャマン・ラポガンとの出会いが語られている。

8月某日 東京・九段下の二松学舎大学で写真部同人誌『模像誌』のインタビューを受ける。サウダージ・ブックスの活動について。その後、神保町の出版社クオンに移動し、今度は自分がインタビュアーになって、韓国の詩人パク・ジュンさんにお話をうかがう。詩文集『泣いたって変わることは何もないだろうけれど』の日本語版(趙倫子訳、クオン)の出版を記念して来日していたのだった。

8月某日 姜信子ほか『被災物——モノ語りは増殖する』(かたばみ書房)、大江満雄編『詩集 いのちの芽』(解説大江満雄・木村哲也、岩波文庫)が届く。東日大震災の記憶、ハンセン病療養所入所者の声。いずれも関係者の問いと思いが充満した本。記憶の蓋が開かれる夏のあいだに読みます。

8月某日 和光大学で野外シンポジウム「共生とあそび——Sympoiesisのゆくえ」に参加。石倉敏明さんと森元斎さん、2人の研究者の発表のあと、文化人類学者・批評家の今福龍太先生が応答。今福先生は6月に亡くなった琉球弧の詩人・川満信一さんの詩を朗読し、オリンピック批判の自作バラッド「五輪終ブルース」を歌った。企画者の上野俊哉先生はシンポジウムの司会のほかに、DJ、料理、パーティの演出と大忙し。上野先生の知を「遊び倒す」姿勢にはいつも驚かされるし、学ぶことが多い。学生たちも楽しそうにBBQや焚き火のお手伝いをしていた。帰宅し、上野先生の本『思想家の自伝を読む』(平凡社新書)を再読した。

8月某日 読書会にオンラインで参加。課題図書は中上健次の未完の遺作となった大長編小説『異族』(講談社文芸文庫)。

8月某日 2日間、三重・津の HACCOA(HIBIUTA AND COMPANY COLLEGE OF ART)で夏期特別講座をおこなった。テーマは「境界線のかたわらで——10冊の本を読む」。編集者になる前の学生時代に読み、人生が変わるほどの大きな衝撃を受けた本を紹介。当時はインターネットが普及する前の時代で、大量の情報も見通しもなかった。犬も歩けば棒に当たる式で、直感と偶然の力だけを信じて書店や図書館をさまよい、10冊の本に遭遇したのだった。後から振り返ればいずれも「越境する世界文学」の潮流につらなるこれらの作品を読む時間がなければ、サウダージ・ブックス編集人としてのいまはなかったと思う。抜粋したテキストを、参加者とともにゆっくり時間をかけて講読してみた。今回の夏期特別講座で取り上げた10冊は以下の通り。

1. 金時鐘『「在日」のはざまで』
(立風書房、1986年。のちに平凡社ライブラリー、2001年)
2. 李良枝『由煕』
(講談社、1989年。のちに『李良枝全集』講談社、1993年に収録)
3. 今福龍太『クレオール主義』
(青土社、1991年。のちに増補版・ちくま学芸文庫、2003年)
4. エドワード・サイード『知識人とは何か』
(大橋洋一訳、平凡社、1995年。のちに平凡社ライブラリー、1998年)
5. トリン・T・ミンハ『女性・ネイティヴ・他者——ポストコロニアリズムとフェミニズム』(竹村和子訳、岩波書店、1995年。のちに岩波人文書セレクション、2011年)
6. 片岡義男『日本語の外へ』
(筑摩書房、1997年。のちに角川文庫、2003年)
7. 黒川創『国境』
(メタローグ、1998年。のちに完全版・河出書房新社、2013年)
8. 宮内勝典『ぼくは始祖鳥になりたい』
(集英社、1998年。のちに集英社文庫、2001/2023年)
9. J・M・G・ル・クレジオ『はじまりの時』
(村野美優訳、原書房、2005年)
10. 津島佑子『ジャッカ・ドフニ——海の記憶の物語』
(集英社、2016年。のちに集英社文庫、2018年)

8月某日 とある出版企画の取材中に、バリ島の祭礼を調査したフィールドワークの貴重な映像を見せてもらった。結婚したばかりの頃、バリの宗教を研究する妻とまだ赤ん坊だった娘とともにウブドに滞在し、郊外の村のお寺で深夜のバロンダンスを見学した記憶がよみがえってきた。あの頃は、バリ島に関する研究書もいろいろ読んだのだった。

8月某日 東京・神保町の韓国書籍専門ブックカフェCHEKCCORIへ。「チェッコリ書評クラブ」で書評講座の講師をつとめている。対面での講座の最終回で、いよいよこれから参加者の書評作品を本格的に編集し、ZINEを制作する予定。これはきっとよい本になるだろう。参加者のみなさんから、韓国文学のいろいろな情報を教えてもらえるのがうれしい。

8月某日 海の文芸誌『SLOW WAVES』issue3(海辺のドライブ)を読む。

8月某日 斎藤真理子さん『隣の国の人々と出会う——韓国語と日本語のあいだ』(創元社)を読了。すばらしい本だった。「口の中に起きる風」を確かめるところから朝鮮語との出会いを省察していることからわかるように、からだを抜きにしない言語観が語られているところに強く惹かれる。「들려(聞こえる)」の発音に関して、「声にすると、関節にすっと風が通るような気がする。今まで虫干しをしたことのない骨と骨のあいだに、風があたる」と表現している文章はすごい。また斎藤さんの詩学において、もっとも重要なエレメントは「風」なのだろう。そんな気づきもあった。江戸時代の儒学者で対馬藩の朝鮮外交に尽力し、ハングルを深く学んだ雨森芳洲という偉人のことを知れたのもよかった。

アパート日記8月 

吉良幸子

8/1 木
豪雨で泊めてもらって一昨日ぶりに帰宅。ソラちゃんがどこ行ってたんだよ~と熱烈に歓迎してくれた。家に着いた途端ガクッと疲れて、公子さんが作ってくれてたカレーを食べて泥のように寝てしもた。どんなに素敵なおうちでも、やっぱり自分とこの煎餅布団が一番落ち着くのね。

8/2 金
今日は出稼ぎ休みやけど、もうほぼ第二の母・同僚キョーコさんと絵具職人のながさきさんとごはん食べに行った。ふと、ながさきさんから、水牛って何?と言われてドキッとする。私の日記見つけて読んでんねやて!!空に放つように書いてる日記をたま~に読んでると告白されると、読んでる人ほんまにおんねや!とびっくりする。嬉しいのやら恥ずかしいのやら。

8/6 火
ここ最近、晩ご飯は毎日公子さんの作るぶっかけ素麺。昨日は豚肉と薬味たっぷり、今日はいつもの薬味に卵焼きとできあいの天ぷらまで入ってめっちゃ豪華。素麺最高!

8/7 水
近所の整骨院へ。施術してくれはる人によって喋る話が色々と違うんやけど、今日は和歌山出身の先生の話。学生時代、空手でめちゃくちゃ厳しい寮に行ってたんスけど…に始まり、帰る頃には軽く一本映画観た後みたいな感じ。自分と全然違う経験したはる人の話はやっぱしおもろいねぇ。

8/9 金
ここ半年欲しかったけど買うのを迷ってたもの、それが風呂桶。木でできた、タガが付いたまぁるい桶。ずっと銭湯専用のカゴで行ってたんやけど、脱衣所でおばあちゃんからお風呂用ってもったい!とちょいちょい言われ続けてきた。最近は着物で出勤するからちょうどそのカゴが5年ぶりくらいに外出用に返り咲き。銭湯には風呂桶に石鹸と手拭い、下着くらいでさっと行けるようになった。木の桶ってほんまに水が柔らかくなるのね~ええ匂いやし使ってびっくりした。プラッチックのんとはちゃうんやね。ひとりめっちゃ贅沢してる気分。

8/18 日
三遊亭兼太郎さんの落語会へ。ちょいちょい電話で喋ったりすんねやけど、落語会は久々。ちょっと聴いてへん間にむっちゃうまなっておった。暑くて行くの躊躇われたけども、こじんまりした会で来てよかった~と思えた会やった。

8/20 火
帰り道、地下鉄内で大きめのおっとりした蜂がブーンと車内を飛んでおった。ぼーっと眺めてたら膝の上に置いてた籠の中へ飛び込んだ!黒い前掛けの色に惹かれて来たらしい。ぶんぶん前掛けを振って車内へ蜂を放ったつもりでおったんやけど、家に着いたら籠の中から蜂が飛んで出てきた。こんな遠いとこまでようこそ…公子さんが勝手口を開けて外へ。庭は雑草伸び放題やし自然いっぱいのとこへ来れてよかったねぇ。

8/25 日
同じアパートに住むゆうさんがいるブラウンライスへ公子さんとお昼食べに。オ、オモテサンドウにあるお店なんて敷居が高い!!!と慄いてたんやけど、自然いっぱいでむっちゃ雰囲気がいいお店で心地よかった。ちょうど錫の酒器が欲しくて悩みに悩んで買ったとこやったんやけど、日本酒頼んだらやっぱし錫の片口に入って出てきた。錫で飲む日本酒はおいしいねぇ~。このお店で落語会やらせてもらう話があってその下見を兼ねてたんやけど、ここでできたら最高やなぁ…と思った。実現しますように!

8/27 火
朝ごはんに公子さんがお弁当作ってくれはるのが定番になってきた。今まではちぃさいタッパに入れててなんとも簡易的な感じやったんやけど、今日から甲賀さんが使ってたお弁当箱を使わしてもろてる。数十年前から家にある、公子さんが出掛けるときに家におる甲賀さん用にお弁当作って置いてたやつなんやて。漆塗りの二段で、朝からそんないっぱい食べれへんから上段の薄い方だけ。器が変わるだけでなんかむっちゃおいしい気がする。今までもおいしかったんやけども。

8/28 水
公子さんが作ってくれたゴーヤのお漬物がめっちゃおいしい。日本酒チビチビ飲みながらそれ飲むのが最近の贅沢。錫の酒器を思い切って買ったんやけど、確実に日本酒飲む頻度が増してる気がする。おいしー!

8/29 木
仕事終わりにながさきさんに埼玉のでっけぇでっけぇホームセンターに連れて行ってもらう。1日遊べるよ~と聞いてたけど、ほんまに大きくて、しかもクラフトコーナーが画材専門店なんかよりもよっぽど充実してて最高やった。9月に友達が展示するのにちょっとコラボを頼まれて紙粘土で落語してる猫を作ってんやけど、その展示用のあれこれを揃えられた。あ~時間ないし!間に合いますように!!

ストロベリー、コクーン!

芦川和樹

延焼。ぬるい火のダルメシアンは
ぬるい夏=夏蜜柑に矢を刺して
果汁をいただきますう
ジュースは葡萄よ、と思う
リス(鬼科。リス、胡桃くるみ組)
空港の窓は空とだいたい同じで
つまり、等しい。
(えじぷと…egypt、おどおど…odod)
麩菓子を耳に詰めてくだらないニ
ュースを知らず(薔薇が見頃です
それは知りたいニュース)に、いる
/キッシュ=ほうれん草の夏を
始めよう。サングラスを
かけます
モップ、つまり睫毛が目窓を拭いて、光を
蒐める、(じーじー、がしゃんがしゃん)
ポケットティッシュはキッシュの仲間だ面
ドー、ドー、頬にメモすれば     積
間違うことなく。皮、膚、肌     が
皮膚。それから肌          近
肌はこんぺい糖           い
=              麩  □
               菓
               子
て、ストロベリーは      だ
数える            !
胚1、胚2、…        !といっ
た、のしい。眠れないひとびとを苺に変え
る、きんちょーる(=鶏)を囲む囲っ
む。昔はよかったよ、水をはじいてさ
クリアケース
クリアファイル
アクリル=絵具を踏む象の耳=耳朶の柄
四面楚歌(、コクーン)
いま、点を結んでできた柄がら、がら↑が
低音。で
シュークリームを生む
のに適した、火炎!
(さあ、ヨーグルトが歌います)

===食器棚にぶつかる
=スプーンが噛みつく!→フォーク。犬ダ
===ハイエナ(アルト)は欠席ですって
=食器が、割れないマシュマロ製で
===よかった
=よかった(梨も柿も、火炎)

楽譜を書く

高橋悠治

コンピュータで楽譜を書くことが当然のように思っていたが、使っていたソフトが急になくなると、今まで作っていた楽譜もどうなるのか。

今まで使っていた Finale の開発中止のニュースで、日本では今年中はなんとかなるらしいから、今までに作った楽譜を何か違うソフトで書き換えるのと、新しいソフトを見つけて習い覚えるのを同時にやらなければならないらしい。

今まで書いた楽譜は、Finale から PDF に変えて保存したり、印刷していたが、PDF について読んでみると、これ自体も短期間の保存しかできないものらしい。何種類かのサブカテゴリーがあり、払った額によって保存期間が違うようだ。そうなると、昔の手書きから紙に印刷した楽譜(絵、文章)の方が、保存され、書き継がれ、たとえ書き換えられたとしても、痕跡は残る、ということになるのか。

ディジタル・メディアが現れた時から、最初に点・位置・個があり、二つ以上の点を繋いで線ができるという考え方が、世界を感じる感覚も変えてきた。まず動きがあり、それを線で表す、その場合も、さまざまな曲線があり、それを直線の集まりに変えるのは便宜上の抽象化に過ぎないことを、つい忘れてしまう。

ピアノの演奏スタイルが10年か20年で変わるのはわかっていたし、演奏記録も SP から LP、テープから CDに変わり、ディジタル録音からまたアナログが見直されてもいるらしいが、生の音の聞き方も、変化しているのは、技術に影響された面もあるかもしれない。

どちらにしても、変化する範囲は、変化しない部分も含んでいるのだろう。変化しない、ということは、変化の一部に過ぎないかもしれない。

と言って見たところで、時は過ぎ、知らない現実や現在の動きに対応しないわけにはいかない。