「ライカの帰還」騒動記 その6

船山理

私はこの話を1話完結のカタチで書いていて、全12話で終わる構成を考えていた。1話完結にするのは、掲載予定の雑誌が「カメラマン」という月刊誌であることがその理由だ。月刊誌の場合、ストーリーの最後に「引き」をつくって「続きもの」にしてしまうと、読者は1カ月先まで待たされることになり、同時に前作の展開を1カ月という長い時間、覚えていてもらわねばならない。いくら何でもこれは不遜だ。

また、この話は1話ごとのエピソードがそれほど単純ではなく、じっくり読んでもらいたいことから、ページ数を「折り」に都合のよい16でなく、20とすることにする。これは起・承・転・結を4ページごとにするより、5ページごとの展開にして「読み応え」を深めようという方策だ。このノウハウは長年にわたって小学館が築いてきたものだけど、今回はこれを採用させてもらうことにした。

しかし雑誌をつくる編集現場にとっては、ポンと放り込める16ページではなく、20ページを台割に織り込むことは容易ではない。ポンと放り込めるということは、間に合わないとなったら「折り」ごとポンと外せるということでもある。前後のページに干渉しない分、リスクが大幅に減るというわけだ。20とした場合は、4ページ分が他の「折り」に食い込むことになるから、どたん場の修正が至難のワザになる。

20ページに固定された連載企画を「外部」につくらせるにあたっては、よほど掲載誌側の理解と協力がないと難しい。当然、編集部からはクレームがつくだろうが、これは根気よく説得して了解を得るしかないのだ。私は4話分の原作を月刊カメラマンの編集スタッフ全員分コピーし、以前ホリデーオート誌に掲載した吉原さんのF1コミックを添えて、カメラマン誌の編集会議に臨んだ。いよいよプレゼンの開始である。

こんな話で、この人の絵で展開したいと思います。ご意見を伺わせて下さい。ここでダメを出されたら、すべてが無に帰する正念場なのだけれど、なぜだか私には何の不安もなかった。やっとたどり着いた案件が、ここで座礁するわけがない。考えてみれば何の根拠もないのだが、自信たっぷりで促す私の前で、スタッフは静まり返っている。見ると全員が原作のコピーを読むことに没頭していた。

やがてスタッフたちはポツポツと顔を上げる。目はキラキラしていた。「いいじゃないですか!」「すごい話ですね! これ実話ですか?」「これは楽しみです! いつから始められますか?」この声に私はこれまでのすべてに感謝しつつ、頭を下げた。気にかかるのは編集長の一杉さんだけが、渋い顔を見せていることだ。年配の彼はコミックに親しんできた世代ではなく、社長の林さんとも折り合いはよくないと聞く。

このプロジェクトが社長のキモ入りであることも、あまり面白くは思っていなかったのだろう。しかし雑誌は編集長のものである以上、彼がOKを出さなければ話は始まらないのだ。一杉さん、いかがですか? 私は念を押しにかかった。スタッフ全員が賛同している姿を見れば、安易に反対意見を出すわけにも行かないのだろうが、彼なりに厳しく注文をつける。これは主に進行に関してのことだった。

「20ページというボリュームは、けっして軽いものじゃねぇぞ。もし作業が遅れて、入稿に支障が出た場合はどうする?」これは編集長として当然の懸念だが、進行畑ひとすじでやってきた一杉さんは、そう言って私を睨みつけた。だけどこれは私にとって想定内の質問だ。作家さんも人間です。病気になることも、事故が起こることもありますから、編集作業には作家さんの健康ケアも含まれます。

さらにホリデーオート誌の「I CAN C!」連載の経験も踏まえて、余裕をもって3話分、つまり3カ月分のストックができてから連載を開始させたいと思っています。もちろん、これはムリだと判断したときには、できる限り早い段階でお知らせし、進行の妨げにならないよう努めます。一杉さんは、まだ私を睨みつけている。私はニッコリ笑って、この段階ではそうとしか言いようがないじゃないですか、と言った。

編集会議の席に、やっと笑いが戻った。一杉さんも苦笑いだ。「よし、船山がそこまで言うなら、この件は任せた。月刊カメラマンはコミック掲載を受け入れる。しっかり『いいもの』をつくってくれ」スッタフたちは互いの顔を見合わせて微笑んでいる。私にサムアップを送ってくれる人もいた。一杉さんは号令を下す。「さぁ、次号の編集会議を続けるぞ!」プレゼンは、どうやら成功である。

私は自分の席に戻ると、吉原さんに掲載誌の承諾が得られたこと、さっそく作業にかかって下さいと連絡を入れた。ついに戦闘開始である。当初、私が想定した石川サブロウさんではなく、彼の絵と構成でこの話が綴られる。どんな感じになるのだろう。思いはぐるぐると頭の中を駆け巡るが、サイは振られたのだ。しかし、私の漠然とした不安をヨソに、現実は私の思いをはるかに超えて進行して行った。

コミックの制作は、まず「ネーム切り」という作業から始まる。「コマ割り」とも呼ばれるこの作業は、決められたページ数の中でストーリーをどう展開させて行くかという、いわば設計図とも言えるものだ。作家さんにとってこの作業は、実際にペンを入れることより難度が高いと言われ、およそ7割の時間がこれに費やされる。ネームが完成すると編集はこれをチェックし、作品の仕上がりを見通すことになる。

吉原さんには、さっそくこのネーム作業にかかってもらったのだけれど、彼から「上がりましたよ!」という連絡をもらい、このネームを見て私は愕然とした。本来ネームというのはわら半紙などに割られたコマや人物の配置、セリフの入る吹き出しなどが示される簡素なもので、人物などは顔を円で表わし、向きを示すのは中心線と両目の位置を示す線を十文字で描かくことが普通だ。ところが吉原さんのネームは違った。

鉛筆ではあるが、原稿用紙上に細かく描写しているだけでなく、人物などは表情までが描き込まれている。このまま印刷したくなるほどだ。背景にしても然りで、あとはペン入れとトーン貼りを待つばかりという仕上がりである。これは正直、困った。設計図であるはずのネームが、ここまで「完成」に近づけられては編集がサジェッションを入れる余地がない。もちろんチェックが不要なほどであれば、問題はないのだけれど…。

気を取り直して、じっくり読み込んでみる。コマ割りはストーリーの流れやスピード、余韻を表わすばかりでなく、心情をも表現する。人物の配置や場面の「寄り」「引き」は映画で言うところのカメラワークであり、人物の動きを含めた「演出」や「脚色」、さらに「背景」や「コスチューム」などまで、作家さんはほぼひとりでこれを考え、指先ひとつでつくり出して行くのだ。実に孤高で孤独な作業である。

コマ割りに2、3引っかかるところがあったが、このネーム切りは見事と言うしかなかった。やはりこの人は只者ではないのだ。引っかかったところを、遠慮がちに指摘すると、吉原さんは腕を組み、じっと考えている。やがて「なるほど!」と言ったと思うと消しゴムを取り出し、私の目の前で細かく描かれたコマをゴシゴシとこすり出したではないか。ちょっと待ったぁ! である。私は気が弱いのだ。

私はコピーをとらせてもらい、編集部に持ち帰ってさらに読み込ませてほしいと言った。帰りの電車の中で私は笑みを止めることはできなかった。すごいことが始まっている。私の頭の中から石川サブロウさんの絵は完全に消失していた。吉原さんとの出会いは必然だったのだ。後日カメラマン編集部に報告したとき、スタッフから「ところでこの話、タイトルは何ですか?」と訊かれた。しまった。まだ、それは考えていなかった。

アジアのごはん(63)さよなら乳製品

森下ヒバリ

「え〜、これからはわが家の食事は、乳製品と肉類なしでいきます。動物性タンパク質は全体の5パーセント以下にしまーす」
去年の秋にタイの旅から日本に戻って、『乳がんと牛乳』(ジェイン・プラント著 径書房)、『葬られた第二のマクバガン報告上・中・下』原題は『The china study』(キャンベル博士 グスコー出版)という本を入手したわたしは、読み終わるとすぐにウチの同居人にこう宣言したのであった。
「え‥動物性って魚は?」「魚は放射能汚染されてないのを、食べるけど減らす。うちは魚食べ過ぎ」「え〜〜、ちょっと待って。じゃあカレーはどうなるの? それに‥親子丼ぶりは? あ、鶏肉と大根の煮込みは‥」「肉がなくても作れるから大丈夫!(ウソ)」

これまでは料理に肉が入っていると、けっこうイヤそうによけて食べていたくせに、なんだこの同居人の反応は。
「肉はイヤなんじゃなかったの」「‥そんなことない」もともと、あまり肉を食べないのに、肉なしで行く、とか言われると妙な反発心が生まれるのかもしれないな。乳製品については、食卓に出なくてもとくに不満はないようであった。

半年前に「視神経腫瘍」と診断されたワタクシは、タイのミラクル植物マロム(モリンガ)で薬草治療(カプセルを飲むだけ)するとともに、この際、食療法も試みることにしたのである。じつはヒバリはこの三年ほど前から鶏肉に拒否反応が起きていて、食べる回数が激減していたので、鶏肉は食べなくても平気だ。というか、食べられない。かわりに豚肉を食べていたのだが無理して食べることもない。牛肉はもともとあまり食べていない。

インドに旅するとベジタリアンが多く、ベジの店しかない町もあったりして、肉なし生活が続くことが多い。初めは「肉食べたい」などと考えるのだが、しばらくすると忘れていて、しばらくぶりに食べると、「ケモノ臭い」「気持ち悪い」「体が重い」などと思う。肉は食べないでいると、特に欲しいと思わなくなるのは、インドの旅で経験済みだ。乳製品は、アレルギーもあるので地道に減らしてきていたが、少しならいいかと、ピザとか生クリームのケーキをたま〜に食べていた。しかしアレルギー以上に、乳製品には大きな問題があることがはっきりしたので、この際きっぱりとやめることにした。

最近、まわりで「がん」が多い。女性では乳がん、大腸がん。男性では食道がん、大腸がん、肝臓がん‥。放射能はどんどん放出され続けているので、がんのリスクが上がっているのは明らかだ。これまで以上に免疫を高め、がんにならない食生活をしていく時が来た、と視神経腫瘍と言われたときに思ったしだいである。そこで、参考になりそうだと思って読んでみたのがさきほどの二冊。この二冊を読んで、はっきりとしたのは「乳製品は体に悪い」「動物性タンパク質の食べすぎは体に悪い」ということである。

乳製品に関しては、わたしには乳製品アレルギーではあるのだが、口においしいので、たまにちょっとだけ食べていた。食べたときの感じで、アレルギー以外にも何か問題があるとは感じていた。比喩でなく胸のあたりが何かモヤモヤするのである。それらの疑問を明確にしてくれたのが『乳がんと牛乳』だ。

乳製品の何が問題なのか。それはミルクに含まれる子牛のための成長ホルモン、ホルモン様物質、さらに工業化された牛乳の生産過程で牛に与えられる遺伝子組み換え成長ホルモン・抗生物質など内分泌かく乱物質が、大きな問題だったのだ。プラント博士は「乳製品が乳がんと前立腺がんの原因」と断言している。

栄養のある飲み物としてしかミルクを考えていないと、愕然としてしまうことだが、ミルクは当然ながら「子牛」を育てるための栄養と免疫物質、そして牛の成長ホルモンなどの様々なホルモンで出来ている、あくまで子牛のための飲み物であり、子牛用ホルモン・カクテルなのだ。ちなみに子牛は1日に1キロの体重を増やす。人間の赤ん坊は1か月に1キロ増である。子牛が1日に1キロ育つためのホルモンがどれほど入っているのか想像してみてほしい。あなたはそれを飲めますか? もちろん、牛の成長ホルモンがそのまま人間に成長を促すわけではないが、たいへんな影響を及ぼすことは明らかだ。ミルクに含まれる牛の成長ホルモンが乳がん・前立腺がんに働きかけてがん細胞が分裂・増殖することがすでに研究で確かめられている。最近は乳がん・前立腺がんだけでなく他の部位のがんにもこの牛の成長ホルモンが作用することが分かってきている。

著者のジェイン・プラント博士自身が乳がんになり、自分で原因と治癒方法を求めて辿り着いた結果が「すべての乳製品を絶つ」ことだった。この本は物語としてもなかなか面白いので、乳がんになってしまった方にはぜひ読んでほしい。乳がんになってしまっても、「すべての乳製品を絶つ」ことで、がん細胞が消滅し、再発もしない、というのだから、試してみて損はないでしょう。ヒバリとしては、これにさらに寄生虫駆除、という項目もぜひ付け加えてほしいと思うが。

「わたしは牛乳なんか飲んでいない」という人の食生活を見ると、生の牛乳を飲んでいなくても、牛乳のヨーグルトを食べる、ミルクコーヒーを飲む、トーストにはバターを塗る、チーズを食べる、生クリームの入ったお菓子、バターやミルクを使ったお菓子をしょっちゅう食べているのに、自覚していない人がかなり多い。この間も友人にその話をしていたら、「牛乳は飲んでないよ〜」と言ったすぐ後に「この紅茶、濃いね」といって紅茶に牛乳を注いでいたのには笑った。牛乳をコップに注いでそのままゴクゴク飲む、ことは確かにしていないが‥。市販の加工食品、お菓子、スナック類には乳成分が含まれていることが多いので、要注意だ。ケーキやミルク菓子なら分かるが、柿の種にも入っているのには驚いた。風味をよくするためであろうか。

発酵食品は体にいいからと、牛乳ヨーグルトをせっせと食べている方は多いと思うが、実はそれは乳がんへの近道なのかもしれない。ヨーグルトは豆乳で作ってほしい。それが面倒なら、牛乳ヨーグルトはきっぱりやめて、ちゃんと作られた納豆や漬物、みそなどを食べよう。豆乳は、製品を選べばかなり違和感なく牛乳の代わりになる。そのまま飲むとお腹が張りやすいが、加熱すると消化が良くなる。

しかも、牛乳はたとえ血液検査でアレルゲンと出なくても、ぜんそくをはじめとする様々なアレルギーの原因とも考えられている。一般の牛乳はホモジナイズドといって脂肪分を大変小さな分子に加工している。この分子が牛乳のタンパク質をくるんで、本来は血管の中に直接入るべきでない乳タンパクが血管中に入ってしまう。このために免疫異常のさまざまな病気が起きるというのだ。免疫異常の難病の方も、乳製品を一切絶つ食生活を試してみる価値がある。

牛乳は体に良い、というのは幻想なのである。
本当は男もだが、乳がんの切実さを考えると、断固、言いたい。
「女たちよ、すべての乳製品をやめなさい」と。そして豆乳を料理に使おう。

かつて学生の頃、ぜんそくになって入院したヒバリは、医者に言われた。「タバコとお酒やりますか?」「はい、両方」「どちらかを止めなさい。そうしないと死ぬよ」「‥‥タバコやめます」死ななかったが、ぜんそくは治らなかった。あのとき、医者はこう言ってくれればよかったのだ。「タバコと乳製品を止めなさい」と。十年ちょっと前に乳製品の摂取量を激減させてから、気が付けば一度もぜんそくの発作が出ていない。
乳製品を止めますか、それとも…。

その後のモーグル君

さとうまき

シリア難民のモーグル君はまだ17歳の青年だ。身長は180センチ位あって、見た目は、ハンサムな好青年という感じだが、ストレスに弱く、すぐお腹が痛くなり仕事を休んでしまう。そのくせ反抗的な態度を取るもんだから、ついに、次長のS子が、モーグルを首にしてしまった。涙を浮かべて、モーグルは「僕はシリアに帰る」と言って去って行った。その後音沙汰がなく、生き永らえているのか心配していた。気が付くと一か月。なんとなく、携帯に電話してみるとモーグル君がイラクに戻っていたのだ。

「どうしていたんだい?早速話を聞かせてくれ」「三日前にイラクに戻ってきたんだ。」
モーグル君は、試験勉強をしているらしい。「そのうち」と沈んだ声が聞こえた。相変わらず覇気がないが、まあ、それでも無事に生きていてよかった。

試験勉強が終わったころを見計らって、モーグル君の様子を見に行く。ちょうど前日に、お父さん、おかあさん、兄弟姉妹も一緒に逃げてきて7人で一部屋に住んでいる。「あの次の日、僕は朝3時に家をでて、7時には国境の町についたんだ。友達の家で休んで暗くなったころに、ブローカーが車を手配してくれて、何台か車を乗りついで国境を越えたんだ。」
「カミシリ? 電気は23時間止まったままで一時間しか来ないんだ。燃料もそこをついて、寒くてたまならない。みんな街路樹を切ってストーブにくべていた。もう燃やすものがなくて、靴を燃やしちゃって、外を歩けなくなった友人もいたよ」勉強するのも大変で、ろうそくの火が頼りだという。爆弾が毎日のように爆発している。「それよりも、誘拐やレイプを恐れている」
「水が悪いんだ」お腹でもこわしたの?「いや、頭を洗ったら、髪の毛が抜けるんだ。毒がまざっているのかなあ」モーグル君は頭を見せてくれる。円形脱毛症だ!「それは、ストレスだよ」と教えてあげる。「病院に行かなくても治るの?」ああ大丈夫だ。

モーグルのお姉さんは、シリアで、アコーディオンを教えていたそうだが、そんなものを持って避難は出来ない。そういえば、日本でもらったアコーディオンがあったのを思い出す。津波でアコーディオンが流された小学校に寄付しようとしたがすでに誰かがアコーディオンを寄付していたのでいらなくなってしまったのだ。今度、日本から持ってきてあげるから、コンサートをやろうと約束した。

S子は、モーグル君を泣かせてしまったことに、罪悪感を感じている。
「禿げていたんですか? それって、私へのあてつけですか?」
「いや、彼は、本当にストレスで禿げることは知らなかったみたいだ。本気で、水の中に毒が混ざっていると信じていたよ」
私は、日本に一時帰国したS子にアコーディオンの運び屋を頼んだ。
「重いですよね。アコーディオン。わたしが運ぶんですか?」
「いやー意外と軽かった。5キロぐらいか、6キロか、7キロ、まあせいぜい9キロ」
「重くなってる。。。」
モーグル君一家が無事だったんだし、それくらいのことはやったげよう。モーグル君一家に音楽を届けたい。

製本かい摘みましては(97)

四釜裕子

〈私の裁縫箱からへらが消え、彼はサティのCDを聴きながらへらを使って和紙の手折りを楽しんでいた。〉 『鳥居昌三詩集』(指月社 2013)に鳥居房子さんが「海人舎のひと」と題して書いている。昌三さんは参加していた詩誌「VOU」が終刊したあと個人誌「TRAP」(海人舎)を刊行して、回を重ねるにつれ増えた寄稿者に喜び悩みながら活版で刷ったページをへらで折っていたという。「TRAP」は駿河袖野三椏紙に毎号165部もしくは175部が印刷されて、1994年までに15号が刊行された。海人舎には製本家の大家利夫さんと造った美しい特装本もいくつかある。最初に見たときも今も途中も、それらの特装本を思うと同じ気持ちがわいてくる。憧れと言うのだろう。

と言いながら、誤植を出したつらい春を思い出している。似たような紙を選んで同じ文字列をいくつも並べてプリントして、余白をできるだけ出さないようにカッターで切り、25冊ずつ梱包した茶色の紙をくるりとはがして、一冊ずつ、表、裏とかえしては撫で、正しい文字列を切った紙にのりを入れ、めざすひと文字に焦点を合わせて貼り始めをきめて左親指でおさえ、右人差し指でまっすぐなぞって貼り、裏白紙で上からおさえる。25冊を重ね直して同じ茶色の紙でまき、在庫分はせめてそうして出したのだった。ひとつずつ、一枚ずつ、一冊ずつ。集中して時間は過ぎて、手渡すことのできるモノとしての本に助けてもらって、関わる他の誰にも関係ないがわたしの気持ちはしずまった。書いた手紙に封をして宛名を書いて切手を貼ってポストに向かう気分であった。

「海人舎のひと」には自分で造った夫婦箱に気に入った本などをおさめていたという話が続く。〈開けると出版案内、文芸書評、新聞切り抜き、著者からの私信と共に鳥居昌三の本に対する思いが紙の香りに蘇る。〉無論、箱は無造作にやや厚めに造られたのではなく、あれとこれとそれを入れたいからと計算を尽くして造られたのだろう。それにしても、鳥居夫妻の出会いは〈不等辺四角形の対角線の接点のような不安定な出逢いだった〉そうである。潮の香りがする。

三月、年度末。

仲宗根浩

年度末である。であるからいろいろあるはずだろうけど、いつもの通りかもしれない。

子供の卒業式。なんともゆるい進行で進んでいく。ひとりひとり卒業証書を校長先生から受け取る。その後、何かを叫ぶやつ、バク転するやつなど様々。昔の工業高校の雰囲気を漂わせるやんちゃな部分もありけっこう楽しむ。

一通り終わると次に生徒会主催の式が始まり、その段取りの悪さを奥さんに突っ込んでいた。子供によると各クラスの思い出の写真をプロジェクターで紹介するところでひとつのクラスのスライドショーが丸々飛ばされ、次のクラスが上映されていたと言っていた。卒業式が終わったあと帰宅した野郎は、クラスのみんなで焼肉屋に行き、そのまま友達の家に泊まり、帰ってきたあと映画を見に行く、といって鉄砲玉になった。まあおのれのことを思い出したら、卒業式のあと一旦帰宅するも、その後三人くらいでとんかつ屋で夕食を食べながらビールを飲み、友人宅へなだれこみ酒盛りをしていた未成年。今だとお酒に関してはかなり厳しくなっているのも時代だろうか。

沖縄にいるとシーズンオフのリゾートホテルでは島内在住者用に格安のプランがあり、それを利用して普段では宿泊できないようなリゾートホテルに実家の母親ともども行く。部屋はオーシャン・ビューで「あ〜、こんななんだ。観光で来る人が見る風景は。」と、楽しみながら遊ぶ。翌日ホテルをチェックアウトしたあと、ちかくの道の駅に行き、野菜等を仕入れる。ホテルで売っていた島らっきょが半額以下。久しぶりに沖縄観光をする。住む場所と観光をする場所の落差を楽しむ。

四月から消費税があがる。それとともに職場でその対応に追われる。税込み価格表示のところや税抜き表示のところ、両方とも表示するとこがありそれに文句を言う人ありで、ご意見を伺いつつも仕事場の表示変更を深夜まで行う。なんとも面倒くさいもの。

四月になればこちらの大学に進学した姪っ子の入学式がすぐあり、うちの子供は東京に行く。来るひと、行くひとさまざまな準備を見る三月。

夜がやってきた

璃葉

親しい夜がやってきた
いつものようにランプがぴかぴか光り
風は壁を伝って薄く伸びていく

春の夜の道に、
通るであろう小道の奥に
暖かい不安を置いた
曇った空に色が重なって、
少し見えにくく、しかし輪郭は鋭く。

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高橋悠治

サイレンが遠く聞こえる
懐中電灯の青い光 にぎりしめ充電する微かな音 
暗い家
ねむい子どもを歩かせ 赤ん坊を背負って急ぐ
川向うの洞窟へ
いつももんぺ 髪は手ぬぐいで包む
鎌倉は田舎町で たんぽぽやえんどう豆を食べる
           ピアノは蓋が閉まっていた
おとなたちはいつも近所で過ごす

暑い庭にひしめき座る
家から庭に向けたラジオ
雑音にまぎれた声
その三日後
山の向こうで高射砲が一発 庭に
赤茶けた鉄の塊が落ちてきた

戦争が終わり 音楽がはじまった
 子どもたちがピアノを習いにくる
夜 母は自分の練習をする 
バッハ=ブゾーニのシャコンヌ
 フランクの前奏曲・コラール・フーガ
  ショパンの幻想曲や 子守唄
近所にいたヴァイオリニストと クロイツェル・ソナタ

 ズボンはもうはかない
短めの上着と細めのスカート
フリルカラー・シフォンブラウス
レッスンの合間に 古い料理カードの絵を見て
おなじ皿がひと月続く
ミシンを踏んで縫った 不格好な子どもズボン

ひさしぶりのコンサートで伴奏をして
批評を読み だまって雑誌を閉じた
それからは
生徒に弾かせる曲を 自分でも練習していた

昔のことは言わなかった
聞いておきたかったことも 
 もう忘れたよ としか言わなかった

    *

坂の上の家から
毎日町に出る
足は強かった

九十歳をこえると
ピアノの音は聞こえても
人の声は聞こえにくい
ひとりで昔の写真を見る
姿勢が左に傾いている
 しずかだね
 世の中にだれもいないみたい

ピアノはもう弾かない
からだが重く
支えても足がうごかない
 あぶない あぶない
夜はすぐ目覚め
明かりを点ける
 闇が離れていくように

音楽は もういらない
家を離れて 病院の四人部屋
 出てきたな
 びっくりした
 見舞いに来たの

 いっしょにあそんで たのしかったね
 もっとあそびたいけど
 いまは つらいことばかり

日が暮れてゆく
血圧、脈、呼吸の波がゆれている
呼吸が波立ち 乱れ
他の波に波紋が伝わる
波頭が折り重なり 狭まり尖って
 せわしく喘ぎ
          たちまち砕け散る

*母・髙橋英子(1914.1.31〜 2013.5.21)

犬狼詩集

管啓次郎

  121

ガラス売りの姿を町で見かけなくなった
金魚売りの声が聞こえることもない
打ち水をすることもなく
眠りをもたらす砂男も出てこない
こうして時代に取り残されながら
ビザンチン風の哲学ばかりやっている
でもそれで世界の秘密がわかるわけでもない
朝食用のビスケットに蜂蜜をかけて
饐えた臭いのするソーセージとともに食べる
それをくれと犬の親子が吠える
その犬はかわいいねと白熊がいう
だがヘイエルダールも語っているように
海は広い、極地は遠い
神話をひとつ知るたびに
玉葱の皮を剥くように自分が消えていく
捨てられた玉蜀黍の茎のような光を残して

  122

くもり空だけが見せてくれる光がある
やわらかい灰色の中に眩しさが生まれる
空中に水の中の氷のように溶けこんだ月を
探しあてて矢を放ってごらん
気温と気温のすきまに
たくさんの細い矢がびっしりとささっている
射られたことに気づかず飛び去る鳥に
虹色の羽を一本所望した
それと直接の因果関係はないのだが
逃げ去る黄金虫を捕らえてその身を嚙んでみた
折りたたみ傘に今日の運命を託し
運河沿いの道を歩いていこう
パイオニア広場の名高い grunge girls
だがジミの通った小学校はどこ
ここから湖を泳いでわたり
あひるの後について上陸するのだ

  123

小刻みに意識がとぎれてゆく
空気が薄いせいだ
この飛行は夢を奪う
その引き換えに簡単な冒険心を与える
いつか大胆な transit をめざそう
本来なら八時間もたったはずなのに
わずか十分ほどにしか思えぬまま
飛行機はいつかカラフルな乗用車に変わり
客室乗務員は親切な運転手になる
彼女は髪をほどき
灯台にむかう道を案内してくれるのだ
ほら、いつかの昔の夢につながったでしょ
キューバで伊勢海老を喰って死にかけたきみが
泣きながら海老に謝っている
星空の下でも真黒なブッシュでは
椰子蟹がガサゴソと連れ合いを探している

  124

正当化することのできない順列組み合わせだ
フライトナンバーの影に意味を探すのかい
低家賃の公共住宅には移民ばかりが住んで
かれらの食材には厳格な規定がある
祈りと料理をむすぶ直線と
悲しみにしずむ鴉が飛ぶ直線
どうやっても表現しきれないのが
この筆蝕の粗雑なすきま
フェリーボートの航跡が
またきみの記憶をかき乱す
市場あれ! 港をどれだけ迂回しても
ぐるぐる回る心は距離をものともしない
これからどうやって進んでいこうか
自然河川の曲線を捨ててまで
連結のための最短距離を行くのか
そのとき聞こえるのはカンブリア紀の音

  125

海にむかって目覚めてゆく
河口に近づくにつれて川が
閉ざされていた瞼のように広がっていくのだ
冒険主義的なイルカの群れは
婚姻を避けることなくゆっくりと遡上する
進化の時を、分化の時を
細胞の中にひそむ海を根拠として
月が回転するように確実に
夜光虫に体を光らせて
イルカたちは一頭が一頭を飛び越えて
なんていうのかなあれは「馬跳び」のようにして
次々に上流をめざすらしい
すれちがう動きの中で川がひとつになる
ねむい、ひどくねむい夜だ
ねむってしまえば海峡なんかどこも狭いよね
こうして夜見の国、文字なき読みの国へ

殴ってやろうかと

植松眞人

 ああ、殴ってやろうかと拳を握る。握った拳をぐっと胸元に引き寄せて、腰を落とせば、いつでも殴ることが出来る態勢になる。
 目の前の高木はぼんやりとこちらを見つめるだけで、私が殴ろうとしていることには気付いていない。
 いくら腹に据えかねることを言い放った相手でも、こちらが拳を振り上げたときに構えてくれなければ、さすがに腰をひねって拳を打ち込むことなどできはしない。ぼんやりとこちらを見つめている高木の前で、振り上げられかけた私の拳は、中途半端に宙をさまよったあげく元来た道を戻ろうとしていた。
 すると、ぼんやり顔だった高木がすっと身体を差し込むように半身に構えると、ひらひらとした掌を見せながら右手を顔の位置まであげて、こちらへ打ち込んできた。
 見事なくらいに自然で軽やかなパンチで、まるでスローモーションのように私には見えた。何の力も入っていなかった掌が揺れるように高木の顔の位置まで上げられ、胸元に引き寄せられるころには、まるで卵でも内側に握っている程度に軽く握られ、徐々に力がこもって、私の眼前に来る頃にはそれ以上にないくらいに硬く小さく握りしめられ、血管が浮かび上がっていた。
 この拳で殴られたら死んでしまわないまでも、相当な怪我をするだろうな、と私はおそらく一秒もない時間の中で恐ろしいほどに冷静に拳を眺めていた。
 予想通り、拳は私の左の頬を目がけて加速して、あ、と思った瞬間に私の記憶は飛んでいた。
 
 病院のベッドの上で目覚めたとき、傍らの簡易な椅子に座っていたのは高木だった。
 私が目を覚ますと、高木は椅子から腰を上げて、「大丈夫か」と声をかけてきた。
「お前に殴られたんやなあ」
 私は高木に聞いた。
「そうや、俺が殴ったんや」
 なんとなく記憶が間違っていなかったことで、私は「そうか、良かった」とつぶやいてしまう。
 高木はそれを聞くと大笑いをする。
「殴られといて良かったはないやろ」
「いや、殴られたのは覚えてたんやけどな。もしかしたら、殴られた弾みに頭がおかしなってしもて、お前に殴られたいうのも俺の思い込みということもあるかもしれんやないか」
 私が真顔で言うので、余計におかしくなったのか、高木が改めて大きな声で笑い、廊下を歩いていた看護婦に注意される始末だ。
「そんなに笑うなよ。殴っといて」
「いや、悪かった」
「俺はなんで殴られなあかんかったんや」
 私がそう言うと、高木は照れくさそうに私の顔をのぞき込みながら言う。
「覚えてへんのか。俺は昔ボクシング習ってたんやで」
「あ! そうやった!」
 そうだった。高木は中学、高校時代、ボクシングを習っていたのだった。高校にはボクシング部もあったのだが、高木はボクシング部には籍を置かず、町のボクシングジムに通っていたのだった。
 あの頃、なんでボクシング部に入らないのかと聞くと、高木は「同級生相手に殴り合いなんかできるかい」と答えたことを思い出した。
「同級生と殴りあいたない言うてたくせに、なんで俺を殴るねん」
 だんだん意識がはっきりとしてきて、ずきずきとした痛みが顔の表面を覆い始めたのがしゃくに障ってそう聞いてみた。
「昔の話を覚えとんねんなあ」
 高木は笑う。
「ちゃうやん。同級生と殴り合っても金にならんと言いたかったんや」
「プロを目指しとったいうことか」
「そうや。そんで高校出てからすぐにプロになったんや」
「え、高木、お前プロになったんか」
 高校を卒業すると、高木は父親の仕事の都合で引っ越してしまい、接点が全くなくなってしまった。元々特別に仲が良かったわけでもないので、連絡を取り合うこともなく卒業後二十年目に開かれた今日の同窓会で卒業以来初めて会ったのだった。
「あの後、東京に行って、プロテスト受けて、すぐに通って、何回かプロとして試合をしたんや」
「強かったやろなあ」
 当時の高木の眼光の鋭さを思い出して、私は思わずつぶやいた。
 それを聞いて高木は苦笑する。
「強かったよ。デビュー戦から連戦連勝で五試合させてもろた。けど、そこで怪我してしもてなあ。試合に出れん日が続いたんや。そうなったらあかん。俺は我慢がきかんからなあ。あっと言う間に気持ちが崩れて、ジムにも通わんようになって、そのままや」
 高木はそう言ってしばらく黙り込んだ。私は改めて病室を見回して、そこが普通の入院部屋ではなく救急の患者が簡易に夜を過ごす病室であることを知る。酔っぱらいや予期せぬ怪我をした年寄りがさっきからバタバタと出入りをしている。ベッドが六つほど並べられているのだが、人が横たわっているのは私のベッドを含めて四つだけだ。しかも、四つのベッドに寝ている患者全員が寝間着ではなく私と同じように外を出歩ける服のままだ。ちなみに私は同窓会に出るために新しく買ったジーンズとジャケットという中途半端にカジュアルな格好で高木に殴られた。そのことを思い出して、ジャケットを探すと別途の傍らの椅子にきれいにたたまれて置かれていた。
 私は黙り込んだ高木に話しかけた。
「なあ、なんで俺を殴ったんや」
「お前が殴ろうとしたからや」
 答えながら高木が笑う。
「俺が殴ろうとしたってなんでわかったんや」
「そやから、言うてるやないか。プロでボクシングやってたんや。一瞬でも本気で殴ろうとしたのはわかる。そしたら、条件反射で殴ってしもたんや」
「あ、そうか。一応、反省はしてるんや」
 今度は私が笑う。
「当たり前や。お前と殴り合いして負けるわけがないのに、反射的に一発打ち込んでしもたんやからな。悪いと思てる」
「そやけど、俺がなんで殴ろうと思ったのかは知らんのやろ」
 高木がそう言われて、チラリと私の顔を見る。さっきまでの温和な表情のままなのだが、一瞬だけ冷ややかな視線が混ざったような気がした。
「それはわからん。二十年ぶりに高校の同窓会をした。そこでたまたま俺とお前が隣同士の席になって昔話に花を咲かせた。間に、昔二人で憧れた田村が入ってきてなんか話し始めた。田村がひとしきり話したあと、急にお前の機嫌が悪なってきて、気がついたらこうなってたんや」
 高木は呆れた顔で笑う。
 高木の言う通りだった。そして、驚くべきことに、私はその田村という同窓生の女子が何を話していったのかをまるっきり覚えていなかった。
 私がことの発端を必死で思いだそうとしているということがわかったのか、高木が言った。
「もう、ええんとちゃう?」
「もう、ええかな」
「うん。みんな飲んでたんやし。もう、会うこともないと思うし」
「また、同窓会やりましょう、言うてたやないか。幹事たちが」
「いや、俺はもうええわ。やっぱりこういうのは苦手や」
「そうか。もう会うこともないか」
「そや、そやからもうええやないか」
 私はそれもそうだと、うなずく。それを見て高木が笑う。
「なあ、高木」
「なんや」
「医者はなんて言うてた?」
「目覚ましたら帰ってええって言うてたわ。レントゲンもちゃん撮ってなんともなかったらしい」
「不幸中の幸いやな」
 私がニヤッと笑うと、高木は少し天井を見上げる。
「いやもう許してくれ。俺も元プロや、ちゃんと瞬時に手は抜いてるから。けど、ちゃんと狙いがあってるから見事に脳しんとうを起こしたわけや」
「それは、どうもおおきに」
 私たちは二人でひとしきり笑いあった。
「もう立てるか?」
 高木が聞く。
「ああ、大丈夫や」
「そしたら、そろそろ行こか」
 高木が私に肩を貸してくれる。そして、そのまま病室の入り口に向かって、歩き始めようとする。
「なあ、高木」
「どないした」
「もう、会わへんねんなあ、俺ら」
「うん、たぶんな。お前もそんな気がするやろ」
「うん。なんかそんな気がするわ」
「おもろいもんやな」
「おもろいなあ。ほな高木。おもろいついでに、俺に教えてくれへんか」
 高木が立ち止まって、不思議そうな顔をする。
「何を教えるねん」
「さっきのパンチや」
「パンチ」
「俺を一瞬にして廃人にした殺人パンチや。あれをお詫びに教えてくれ」
 高木は、また私の顔をのぞき込んだ」
「お前、本気で言うてるのか」
「ああ、本気や。俺には元でも現役でもボクサーの知り合いなんかお前しかおらん。もう二度と会わへんかもしれんのやったら、俺にさっきのパンチの打ち方だけ教えてくれや」
 私の話を聞いていた高木は聞き終わると大笑いをした。
「よっしゃ、わかった」
 そういうと、高木は私をベッドの脇に立たせて、パンチを繰り出す前の姿勢を手取り足取り教えだした。他のベッドで寝ていた酔っぱらいや年寄りが不思議そうな顔をして、私たちを見ている。そんなことを気にすることなく、高木は私にパンチの打ち方を教える。
「腰を引いて、戻す瞬間に拳に力を入れるんや。それまでは軽う握っとくんやで」
「こうか」
 私は言われた通りにパンチを出してみる。
「もうちょっとひねる!」
「こうか」
「拳の上に親指を出さな折れてまうぞ」
「こうか」
「もっと体重を乗せて」
「こうか」
「頭を揺らすな」
 雑然とした病室の片隅で、私はいつまでもパンチを打ち続け、高木はいつまでもパンチごとにアドバイスをし続けた。(了)

オーネット・コールマン、ハーモロディックな夢(2)

三橋圭介

ジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトの考え方からすれば、コールマンはコードに対して水平的な攻撃を加え、垂直的な攻撃を加えたのがコルトレーンだ。コールマンがメロディを重視し、一方、コルトレーンは「ジャイアント・ステップス」などで細かいコード変化で音を埋め尽くすシーツ・オブ・サウンドを生み出した。そして共にフリーに向かった。しかし、コールマンの音楽が、フリー・ジャズなのかは議論の余地がある。

一般にフリー・ジャズといえば、コルトレーンの集団即興のアルバム「アセッション」(1966)がよく知られている。参加しているメンバーはモードを共有しながら(テーマは一応ある)、それぞれの自発的な声が混沌のエネルギーを生み出していく問題作だ。一方、コールマンはそれより5年前に「フリー・ジャズ」というアルバムを発表している。左右に振り分けたピアノレスのダブル・カルテットで、コールマンによると「いかなる終着点もなくはじめた」ために、瞬間的なそれぞれの対応がその音楽を決定している。その意味で各プレーヤーはフリーだったといえるが、伝統的なビート(ポリリズミックではある)に加え、テーマ・即興・テーマという従来のジャズの伝統的な型からはずれてはいない。

テーマ→即興というジャズの枠組みは、基本的にテーマのもつコード進行に準じるという暗黙の了解がある(代理コードやテンション・コードなど変更可能だが)。ベースやピアノがコード進行をキープしながら、その上でソリストが即興するという役割があるからだ。しかしコールマンの場合、テーマのコード進行は即興で使われるコード進行とは無関係に進む(アトランティック時代、コード楽器であるピアノを使わなかった)。どうやって合わせているのかというと、ベースのチャーリー・ヘイデンがコールマンの音を注意深くきいて反応するが、これはコールマンを含む他のメンバーも同じように、他人の音を注意深く聴きながら時間を重ねていくことを意味する。ヘイデンは「これまでの人生で誰かに学んだ以上に、私はオーネットと演奏しながら聴くことを学んだ。なぜならいっしょにやるには、かれが演奏するすべての音を聴かなければならないからだ」と述べている。。

一般的に人がある曲を聴くとき、最初の一音からつづくもう一つの音というように順に音を積み重ねながら知覚していく。建物なら見渡せば全体像を大まかに理解できるかもしれない。しかし音楽は時間とともにある。心理学者のエドマンド・ガーニーは、曲の理解は形式の分析ではなく、瞬時に生起する音(フレーズからフレーズへの局所的な動き、パラグラフなど)を最初から最後まで関連させながら把握することにあると主張した。さらに説得力とはその音の断片や移り変わりで提示される連続性に関する満足度に関わっているともいう(cogency of sequence)。美学者のジェラルド・レヴィンソンは、このガーニーの説を「連鎖主義concatenationism」という言葉を使って再評価しているが、構成的な全体の把握は知的産物であり、聴くことの快感は瞬間の連続のなかにあると述べている。コールマンのフリー・ジャズはこの「連鎖主義」を連想させる。というのも一般的なジャズの伝統のなかで、かれのジャズは、先のヘイデンのことばのように「聴くこと」が「弾くこと」にダイレクトに繋がって音楽の形式を決定しているからだ。

1962年、ガンサー・シュラーはソニー・ロリンズの「スリー・セヴン」(アルバム「サクソフォン・コロッサス」)を「テーマに基づく即興」と分析した(1950年代後半の演奏に顕著であり、おそらく、スティーブ・レイシーがロリンズを評価したのもこの時期の即興だろう)。テーマから動機的な素材を引き出しながら即興に応用するもので、「テーマに基づく即興」ということばは、クラシックの分析ではたびたび目にするが、ジャズでは稀だ。通常、テーマのコード進行に沿いながら、即興部分ではテーマ自体から自由に離れていくが、基本にあるコード進行だけがテーマとの関連性を保証しているともいえる。そしてテーマの再現で曲の終わりを感じる。

テーマ・即興・テーマという形は同じだが、コールマンはロリンズとは違い、テーマのコードとは無関係にテーマの形を模倣、変形させながら、さらに新しい動機も生み出して発展していく。「Free Jazz」(1974)の著者Ekkehard Jostは、コールマンの即興をテーマとの関連から分析し、ことばの連想ゲームにひっかけて「連想のネットワーク(Chain of Assosiation)」と説明した。「連鎖主義」と近い考え方だが、そこではフレーズの形態的な類似性を拾い上げ、いかにコールマンの即興が、テーマの各フレーズや動機と結びついているかを具体的に述べているが、このことはいいかえるなら、コールマンが何を拠りどころに即興に向かっているかを示している。つまり、テーマに付随するコードによる即興ではなく、テーマを多様な素材として、その音程・リズムを音の身振りとして発展させていく独自の方法である。

Jostの分析はクラシックの作曲家でやるような作品の統合性や形式論を誘発するが、対象となる音楽は書かれたものではなく、即興演奏である。クラシックの世界でも、かつて作曲家=演奏家の伝統のなかで即興演奏が行われていたが、ジャズの世界ではおそらくコールマンがはじめてだろう。そこでは互いに聴き合いながら、動機的な関係を連鎖的に共有することで、それぞれが独立しながら説得力(cogency of sequence)ある時間を創りだしていく。この点で、コールマンのバンドが生み出す音楽は、クラシカルな音楽をきいているような錯覚を与える(「アセッション」は、メンバーが動機的、リズム的な関連性をもたないために、それぞれがばらばらに共存しているようにきこえる)。いうまでもなく、あらかじめ素材を吟味した見せかけの即興ではなく、聴くということと弾くということが分かちがたく結び着いた瞬間的な時間の積み重ねの結実である。

コールマンは代表作のオーケストラのための組曲「アメリカの空」をはじめ、初期の頃から室内楽やオーケストラへの関心があった。かれの耳で捉え、素早く有機的に構成していく能力は、仲間のジャズ・マンに「あらゆる音を聴く」ことを学ぶよう強いた。コールマンのフリー・ジャズは、妥協なしに誰とでも共演できるわけではなく、実際にはこれまで数例を除いて仲間としか演奏していない。かれは一緒に演奏するミュージシャンを選別し、そして教育する。自由を得るためにはおおきな努力が必要だった。それゆえ、自己の能力を即興しないクラシカルな室内楽やオーケストラに向けたのも当然のことだったのかもしれない。ただ、それはもはやフリー・ジャズとは呼べない。(つづく)

「ライカの帰 還」騒動記(その5)

船山理

吉原さんとの待ち合わせは、板橋区の喫茶店だった。彼を待ちながら気がついたのは、私には期待らしきものがまるでなかった、ということだ。手にしているのは石川さん用に書き直した原作で、何の手も加えていない。「これ、目を通しておきますんで」と言って、その場では文面を一顧だにしてくれなかった石川さんの顔が、いまだ頭を離れないのだ。また断られるに決まってる…。そんな思いがぐるぐる回っていた。

約束の時間に吉原さんが現われた。「どおも!」と元気よく片手を挙げて挨拶してくれたのだけれど、こちらに目を合わせようとはしていない。彼が席に着いて、当たり障りのない会話をする最中も、ときどき上目使いに目線をくれるだけだ。うん、これはこれで分かりやすいな。小学館の友人の話だと、こういったケースも珍しくはないらしい。コミック編集者というものは、こうやって場数を踏んでいくのだろう。

結論は早めに出してもらう方がいい。私はバッグからファイルを取り出して「こんなものを書いてみたんです。興味がおありになれば…」と彼に手渡した。彼はファイルを受け取ると、パラパラとめくり始めた。「いや、どうぞ。ご自宅ででも、ゆっくりと…」と言う私の声を聞いている風でもない。彼は最初のページに戻ると、そこから食い入るように読み始めた。じっくり読んでダメを出す気かな? 私はどこまでも疑心暗鬼だ。

文面に落とす彼の目線で、どのあたりを読んでいるのかが、よく分かる。さすがに自分で書いたものだけのことはあるなと、変なことに感心したりする。やがて彼が顔をあげ、とどめのセリフを言うその瞬間に、身構えている自分がいた。しかし吉原さんは、いっこうに顔をあげる気配がないのだ。それどころか、すさまじいほどの集中力で文字を追っている。あれ? なんだか様子が違ってきているぞ?

吉原さんは、いっきに4話分の原作を読み終えてしまった。そして切羽づまったように、大声で「これ、描かせて下さい!」と私に告げたではないか。目は真正面に私を見据えている。私はと言えば、ただ目を白黒させるばかりだった。「は、はい。どうか、お願いします」かろうじて口から出た言葉は、我ながら何ともマヌケに感じたのだけれど、それが私にできる、精いっぱいの反応だった。

その後、吉原さんはアパートの自室に私を招いた。狭いが部屋はよく整頓されていて、彼の几帳面さが伺えた。「いや、小学館の福田さんからお話があったとき、お断りさせてもらうつもりだったんですよ」彼は悪びれる風もなく、ぽんぽんと話を続ける。「でも、あの話はいい! すごくいいです! 何かベースがあったんですか?」いや、あれはウチの親父の体験で…と言うと、彼の顔はさらに明るく輝きを増した。

「実話なんですか! それは…、ますますすごい!」私にとって、思わぬ展開になりつつあるのだろうが、正直まだ実感が伴わない。彼の絵で、この話がどう綴られていくのか、まるで見当がつかないのだ。それだけ私の中で、石川さんの絵のイメージが色濃く存在していたことに、あらためて驚かされる思いだった。早急に気を取り直さなければ…。今ここに「描きたい」と言ってくれている作家さんがいるのだから!

あの…スピリッツ新人賞の応募作は拝見させてもらったのですけど、ほかに何か描かれたものってありますか? 吉原さんは私の問いに、ちょっと考えてから傍らの押入れから厚紙の箱を取り出した。蓋を開くと大判の封筒が現われる。「これ、以前に描いたもので、小学館での新連載が始まる前に、どこかで掲載してくれると言われたんです。原稿料までもらったんですけどね」吉原さんは複雑な笑みを浮かべていた。

拝見します。そう言って封筒を手に取り、中を見てみるとF1レースが描かれたモータースポーツものである。生原稿ではなくコピーだったが、精緻なペン使いが読み取れた。内容は日本人のメカニック(整備員)が、エースドライバーと罵り合いながらも栄光をつかみ取るといった1話完結もので、総ページ数は27である。小学館で福田さんに見せてもらった「ロレンスもの」も、このページ数だった。

27ページだと本誌ではなく、増刊号の扱いだな…などと思いながら、ストーリーの中で引っかかったと思う部分を頭の中で反芻する。だけど、これは小学館で「通った」原稿だ。プロの目が「通して」原稿料が支払われた作品なのに、何が引っかかったんだろう? 私はコピーを封筒に戻し、これ、預からせてもらっていいですか? と訊ねた。吉原さんは「掲載しないと言われたものですし、問題ないと思いますよ」と答えた。

吉原さんと別れ、帰りの電車の中でコピーを読み直す。やがて引っかかった部分が、おぼろげに見えてきた。エースドライバーがプラクティス(予選前の練習走行)でマシンを大破させてしまい、チームは頭を抱えるのだが、気を取り直したドライバーがTカー(予備のマシン)で何とかクオリファイ(予選)を通過し、先行車のトラブルにも助られながら勝利を勝ち奪る、といったストーリーだ。

引っかかった部分とは、罵り合う主人公とドライバーの接点が今ひとつ希薄であり、このままだと勝利の要因はドライバーひとりの頑張りと、幸運であったことだと読み取れてしまうことだった。これは作者の本意ではあるまい。私は社に戻ると、ホリデーオート誌の編集部に向かい、編集長を交えたスタッフにこのコピーを見てもらった。反応はすごくいい。何よりタッチが精緻だし、ストーリーがシリアスなのだ。

さすがに編集長はページの数に気がつき「フナさん、これウチに載せたいけど、いっぺんに掲載は無理だぜ」と言う。私は、ホリデーオートの月2回発行に合わせて前後編の連載にするよ、と伝えた。私は自分の席に戻ると、コピー機でもう一部のコピーをつくった。それをデスクに広げ、ダーマートで行けそうなコマとコマの間にマーキングする。そう、もう1エピソード加えて、32ページにできないか検討を始めたのだ。

なるべく既存のコマは弄りたくないので、ページごと挿入するに越したことはない。問題はストーリーにさらに深みを与えるエピソードを考えることだ。私は今ひとつ希薄と感じた主人公とドライバーの関係に注目した。プラクティスで大破するマシンの原因は? 私はここに主人公であるメカニックのアイディアと、それを否定するドライバーのやりとりを挿入してみた。うん、これなら行けそうだ!

このやりとりを4ページで構成して、さらに後編用のトビラを描き足してもらえば、この作品は32ページになる。つまり編集に都合のよい16ページずつの前後編ができあがるわけだ。私は吉原さんに連絡し、これを潜らせるのはもったいない。あと5ページ足してくれれば、ウチで買い取りますと告げた。もちろん、その5ページの内容も伝える。吉原さんはこの申し出に「うん、やってみましょう」と快諾してくれた。

快諾してくれたのは、発表の場が設けられただけでなく、小学館の編集が指摘しなかった事柄に私が注目したこと。そして私のアイディアが、この作品の完成度をさらに上げることになると判断できたことだと言う。そうなれば話は早かった。加える1エピソードは、クルマ専門誌に掲載するだけに、マニアがニヤリとするようなものを考えた。資料が揃うと、吉原さんは1週間ほどでこれを完成させた。

ホリデーオート誌に掲載されたこの作品の評判は上々だった。吉原さんには小学館が支払ったというページあたりの原稿料を聞き、同額を32ページ分、支払わせてもらった。「原稿料の2重取りになってしまう」と懸念した吉原さんが、そのことを福田さんに連絡すると「掲載すると約束したものを反故にしたのだから、非は小学館にある。遠慮なくもらっとけ」と言われたそうだ。車輪はついに回り出した。

アジアのごはん(62)はとむぎドリンク

森下ヒバリ

マレーシアのペナン島のジョージタウンは、古くてシックでぼろい、いや趣のある建物が連なる大好きな町だ。この建物群は一見洋風にも見えるので、以前は植民地時代に白人が建てたと思い込んでいたが、じつはマレーシアに15世紀ぐらいから移住してきていた華僑が洋風と中国風をミックスさせて作り上げた様式だった。今残っている建物は古くても19世紀後半、20世紀初頭のものが多い。京都の町屋のように間口が狭く、奥が深い。そして長屋のようにつながっている。町屋と違うのは、煉瓦と漆喰とコンクリートとタイルで出来ていること、軒をつなげて回廊としてあって、人は日差しと車を避けてそこを歩くことができることなどである。

ジョージタウンは家賃統制によって、借家から店子が出て行かず、古い建物がそっくり残り、町ごと世界遺産になっている。それでも、散歩していると、放置されて崩れかけた家や、窓ガラスの割れた空き家もけっこう見る。古い建物をカフェやレストラン、そしてヘリテージホテルに改装するのが流行っている。

放置されて崩れるよりはいいだろうが、こじゃれたカフェより、昔ながらの姿で営業を続ける食堂やレストラン、そしてお茶屋のコピティアムの風情がなんとも捨てがたい。マレーシアのコピティアムは、華僑がやっている飲み物を出す店なのだが、たいがい店の中や外側に屋台がいくつか店開きしていて、そこの店のビーフン炒めなどの料理を注文して食べることができる。飲み物を出す店が屋台に場所を貸しているので、店で食べるときには必ず飲み物を注文することになっている。

朝のお茶をどこのコピティアムで飲もうか。キンバリーストリートにある宿を出て、連れとふらふらさまよう。朝から食堂をやっているところはちょっとあわただしい。じいさんたちがまったりとコピ(コーヒー)を飲んでいる店があり、そこに座った。飲み物の注文を取りに来る。連れはコピを頼んだ。「え〜とね、わたしはバリー」。覚えたての単語で注文してみる。

昨日入ったコピティアムで、隣のテーブルの女子たちが雲呑麺を食べつつ、白い飲み物を飲んでいるのを見た。ジョッキグラスに氷と一緒に入っているその液体は白いが、真っ白ではなく、少し透明感がある。何だろう? カルピスじゃないし‥豆乳うすめ液でもないだろうし。

いつもはテ・オ・コソンと呼ぶブラックティーを飲んでいたが、こちらの紅茶は香りもなくかなり渋い。暑いので水代わりに何倍も飲んでいるとちょっときついので、その白い飲み物を試してみたくなって、指さし注文してみた。飲み物係のおじさんは「どれだ」「これ、これ」「ああ、バリーだな。アイス?」どんな味なのか分からないが、店内の半分の人が飲んでいたので、マレーシアではポピュラーな飲み物なのだろう。

運ばれてきた白い水は、思ったより甘くなく、好ましい味だった。なにか懐かしい感じもする味だ。穀物系の煮汁のような、沖縄の玄米ドリンクを薄めたような‥。何から作っているんだろう?
「味があんまりないんだけど、体にすーっと入って来るなあ、このバリー」「どれどれ」味見してみた連れも、「うん、体にいいって感じがする」と半分ぐらい飲んでしまった。あ、返してよ。なんともあいまいな、ゆるい味だが、気に入ってしまった。

今日のコピティアムで、無事「バリー」が通じて、運ばれてきた。昨日の店とは少しテイストが違うが、これもいい感じ。いい飲み物をみつけた。

ちなみにここのコピティアムの屋台のお粥もなかなかのものだった。いくつか出ている屋台のひとつで、おじさんがちりめんじゃこを中華鍋いっぱい炒めていた。ごま油とじゃこのいい匂いがして来たので、そのじゃこを乗せる柴魚花生粥、というのを注文。とろとろに煮込んだお粥に、かりかりのじゃこ、油条(揚げパン)、ショウガの千切り、ネギがのっている。一口食べて「おいしい」と声が出た。かき回すと煮たピーナッツがたくさん出てくる。ちいさな牡蠣もひとつ出てきた。

じゃことピーナッツは相性がいい。マレー料理のおかずかけごはん屋さんには、必ずじゃことピーナッツを炒めて味付けしたものがある。これがおいしくて、マレー料理を見直すきっかけになった。お粥にも合うんだな、この組み合わせ。

クアラルンプール在住の友人にこの白い飲み物のことを尋ねてみた。たぶん、知らなくて中華系スタッフに聞いたのだと思うが、「バリーは意米水といってはとむぎで作るらしい。英語ではBarleyWater」あとは自分で調べろという。はいはい、ありがとうございます。はとむぎ、だったのか。あの何だか懐かしい味は。ちなみにBarleyとは本当は大麦のことである。はとむぎはPearibarleyだ。長いので略してしまったのか。とにかくバリーはもうマレーシアでははとむぎ煮汁ドリンクのことなのだ。

はとむぎは、日本でも昔からいぼ取り、美肌の妙薬として使われてきた。ちょっと煮えにくいのであまり食べられてはいないが、漢方薬として煮出して飲んだり、ハトムギ茶として飲んだりする。いぼ取りだけでなく、肌のトラブル全般、抗腫瘍作用、アトピー、気管支炎、利尿作用などがあるという。

バリーの作り方は簡単で、30分以上水に浸しておいたはとむぎをゆっくり煮る。半分ぐらいに煮詰めたら、好みの甘さにして飲めばいい。冷やしてもおいしい、煮たはとむぎの実も食べていい。はとむぎの糯性のでんぷんが溶け出した煮汁は白く濁って、とろんとしている。甘くせず、レモンを入れる飲み方もあるようだ。

店で出すバリーにははとむぎ粉を溶いて、砂糖をどっさり入れただけのものもあるようだが、日本に戻ったらはとむぎをコトコト煮て作ってみよう。とろんとした、あいまいな味、でも何かおいしい「バリー」を飲んだなら、ヒマそうなおじさんたちが座ってコピをすすっている、あのコピティアムに自分も座っている気分になれるかもしれない。そして2月の終わりのジョージタウンの暑い暑い日差しとかすかな風も感じられるだろうか。バリーのようにまったりとした、でも何だか懐かしい南の国の風が。

追記 先々月に書いた「モリンガ」について。バンコクでOリングテストの達人マーシャにチェックしてもらったら、これが一番いいと思っていたノニインターナショナルのセブ島産モリンガよりも、沖縄の大城さんのモリンガが断然体に良かった。その場にいた人全員にとてもいい結果が出たので、ぜひ大城さんのモリンガをどうぞ。最初はちょっともったりして飲みにくいが、3回ぐらい飲んでいたらおいしく感じられてくる。これをすすめた友人からは「血圧が下がった」と報告があった。大城さんのモリンガは、モリンガ沖縄というサイトでお値打ちに入手可。なぜかホームページのアドレスがコピーできないので「格安通販 沖縄産モリンガ モリンガ沖縄」で検索してください。無農薬モリンガ100グラム、プレミアムで1600円です。タイ産のモリンガもとてもいい。こちらはカプセル入りでお手軽。ただし、タイに来ないと入手できません。ちなみに、藍藻の「スピルリナ」もモリンガ同様、毒出し効果が大きく、ミネラル豊富。「モリンガ」って何よ、と抵抗のある人は放射能排出、免疫力向上にスピルリナもおすすめです。両方飲む必要はありません。

しもた屋之噺(146)

杉山洋一

まだ暗闇で人影も疎らな早朝のミラノの中央駅から、特急が走り出したところです。今朝は目が覚めると時間に余裕があったので、始発のトラムに乗り、地下鉄の夜間代行バスに乗り換えて中央駅まで来るという酔狂を思いつきました。初めての経験でしたが、バスがすし詰めだったのには驚きました。

 2月某日
夜、学校が終わってから、カドルナに鼓童のライブにでかける。中国人街を通り抜け、競技場の傍で、ジョギング中の若者に道をたずねた。実は一昨日も息子を連れて鼓童の演奏会へでかけたのだが、ちょうど自分が息子くらいのころ、親に連れられて、眞木さんと鼓童の演奏会には何度もでかけたから、息子にも同じ経験をさせてやりたいと思った。鼓童のTさんにその話しをすると、昔とは随分違うでしょう、と言われたのだけれど、あの時の記憶は、子供だった自分が大人の世界を背伸びしてみている興奮が先立っていたかもしれない。今は反対に大人の自分が子供の視点にもどって興奮している。人生とはつくづく不思議な巡り合わせだとおもう。眞木さんが没後十年だと聞いて、時間の早さに言葉をうしなう。Tさんは眞木さんのモノクロームを中央で見事に統率していらした。この曲は子供の頃から何度も見たし聴いたけれど、40の齢を過ぎて最初の一音で鳥肌が立ったのは、なぜだろう。

 2月某日
仕事をしていると、家から何度も電話がかかるので、流石に何かあったのかと気にかかり電話をする。知らせを聞いて、日がな一日どんよりとした気分で過ごす。日本から立て続けにメールが届くが、申し訳ないけれど、皆に同じようにしか返事がしたためられない。それしか言葉が浮かばない。

 2月某日
本年度、勤めている学校は長らく悲願だったヨーロッパの共通大学資格をとった。今年の新入生は当然大学生となるが、去年までに入学した学生は、改めて大学生としてやり直すか、音楽院生として最後まで続けるか選択しなければならない。移行期真最中で大学資格のお陰で学生数が3倍に跳ね上がったとか、国立音楽院から学生が市立に流れてきたとか噂が流れてくるが、実際はよく分からないし興味もなかった。
ところが、大学資格の初めての記念すべき試験が、あろうことか自分が担当するクラスにあたり、学校総出で馴れない手続きをしているその真っ先端につまみ出されてしまった。大学試験は従来の音楽院の試験と違い全て公開で、試験中は他の受験者も熱心に聴いている。受験者は誰も聴いてほしいとは思っていないが、法律で拒否できないそうで気の毒だ。
一人終わるごとに試験官3人は退室し、隣室で点数を話し合うところは非公開。従来の10点満点での採点ではなく30点満点制で、18点以上が合格でそれ以下は落第だが、基本的に落第という形はとらず、教師が次回の再試験を奨める。幸い今回落第者はいなかったが、審査員の点数に本人が納得できなければ、その点数を拒否して、再試験を受けられるので、20人の受験者中3人が再試験を希望した。これはなかなかよいシステムではないか。そのうち1人は、こちらが26点という良い点数を提案したにも関わらず拒否した。
イタリアの学生がこれほど成績に固執しているとは気がつかなかった。一人は特に成績が悪くもないのに、もう一回勉強をやり直してから試験に臨みたいと、試験に登録すらしなかった。

 2月某日
Sさんよりメールが届き、10年以上お目にかかっていなかったMさんが亡くなっていたことを知る。Mさんはとても優秀なコックでミラノで修行中だったけれど、その後東京に店を構えて、とても成功されたと聞いていた。彼がアルコール中毒に陥り、自ら命を断つとは想像すらできなかった。「やられたなあ」と思います。Sさんも辛そうだった。

 2月某日
「誄歌」を素材して曲を書く。構造や規則の上で自由な曲を作ると「脱構造」という構造に絡みとられて身動きできない。無構造から構造を築くのは、制約や制限とほぼ同じだ。社会構造に似て妙に人間臭い。

ピザを齧りながら、イランから留学しているババクに、君はイスラムかと尋ねると、イラン政府は確かにイスラム教を推奨しているが、実際はみな無宗教かゾロアスター教ですと笑う。自分も無宗教で母親は何とかという仏教徒ですが、名前も知らないそうで、頻繁にインドに出かけるので、高僧にでも会っているのではないでしょうかと言う。
イランはアラブではなくペルシャですので、イスラム教は借り物ですと誇り高くいわれて、少し納得するが、ならば日本はどうなのだろうとしばし考え込む。

 2月某日
音符の裏に神秘は存在するのだろうか。指揮をしていて、演奏者の想像をかきたてる言葉を期待される瞬間があるが、胡散臭くて言葉にできない。カリスマティックな文句を期待されても、何も言えないので、ロマンもへったくれもない。ここで悲劇の光がきらめき、というより、和声構造が崩れていたり、楽器のリズムが崩れていたり、音程がわるければ、いくら悲劇の光が各々の奏者にきらめいても、あまり意味がないように感じてしまう自分が、正直なところ少しつまらない。人生もう少しドラマティックなほうが楽しかろう。指揮をする上で自分でもどうなのだろうと思う。もっと夢のある想像力豊かな音楽づくりが出来ればいいと自分でも思うし、何故これほど即物的で俗物かとあきれる。
ドナトーニに習ったからか、音の付加価値に殆ど興味がない。音が発せられた瞬間に、何かが生まれるとは思うが、それは音を置くものが先に期待したり、計算したりするものではない。誰にも帰属しない何某かを神秘と呼ぶのであれば、おそらくそれは確かに存在する。
口ではそう言いつつも、自らにへばりつく音の付加価値に対する不信感から、音楽の神秘など、実は殆ど信じていないのではないか、自身を不信に貶めることもある。
聴き手はセンチメンタルで構わないし、他の演奏者は自分のように夢のない音楽家ばかりでないことを祈る。世知辛い昨今、さもなければより殺伐としてきそうで、少し恐い。

(2月27日ローマ行特急車内にて)

へろへろOL時代

くぼたのぞみ

黄色い各駅停車の電車で通ったオフィスは、黒々とした8階建てのビルで、仕事場はその5階にあった。全面が透明なガラスばりの正面玄関を入ると、まず広い吹き抜けがあり、左手に3機の大きなエレベーターを見ながら中央の階段をのぼる。階段の裏手にはシンプルな椅子とテーブルが数セットならんでいた。吹き抜けのせいで中2階のように見える上階には長いカウンターがあり、その奥が総務部、反対側の踊り場にはグランドピアノが置いてあった。

出勤した者はその階段をのぼり、タイムカードを押すのではなく、カウンターにならべられた名簿にサインするのが決まりだった。ところがこの名簿、9時半になると総務部の人がザザーッと集めて片付けてしまうのだ。1分、いや、30秒でも遅れると、自分の名前と日付のクロスする四角い空白を目前にしながら「ああ、間に合わなかった」とため息をつくことになる。あとで始末書を書かなければならない。たとえタッチの差でも、サインできなかった者は各階の自分の机について、B6サイズくらいの半透明の用紙に、なぜ遅刻したかを書き込み、主任の机の横にある箱に入れなければならないのだ。

その用紙は集められて、毎日、係長、課長へとまわされ、判が捺され、部長へまわされ、さらに上級職にまで回覧される。どれくらい休んだか、遅刻したか、個々人の出勤率はもちろん評価の基準になり、1年間の査定に影響する。だが、それだけではない。月に1度、全課の出勤率が表になってあがってくるのだ。極端に低い課では対策をたてるよう促される、恐るべき集団主義だ。PCなどない時代のことだから、「先端をいく」そんな「合理主義」を貫く手間ひまは、なかなか大きかったはずだ。

というわけで、みんな9時半までにサインするのに必死である。駅からゆっくり歩いて5分もかからずに行けるそのビルまで、電車を下りると脱兎のごとく走るのだ。まずホームから階段をかけあがり、改札を通り抜け、それから電車の線路をまたぐようにかかった橋の歩道を全速力で駆けて、三叉路の交差点では信号をなかば無視して広い大通りを横切り、ビルの玄関を入るや階段を二段飛び、三段飛出でかけのぼる。Tシャツにベルボトムのジーンズ姿の一群が、あるいはネクタイに背広姿の係長や課長までもが、息せき切ってビルに駆け込む姿は、思い出しても笑いたくなるような切ない光景で、いまもこの目にありありと浮かんでくる。

わたしは遅刻の常習犯だった。遅刻だけではない。体調不良で休むことも多かった。3歳にして虫垂炎になり、発見が遅れて、地方都市の病院でペニシリンをかき集めて助かったとさんざん聞かされて育った。幸運にして命を取り留めたそのときから、ちょっとしたことで、がくんと不調に陥る子ども時代を強力な管理のもとで育った、というのは東京に出てから気づいたことで、当時は、親の目や、狭い田舎の口うるささから離れ、24時間を自由に使えるのだと有頂天になって徹夜も、深酒もした。だれに気兼ねすることなく、気ままに深夜の帰宅、夜明けの散歩を楽しんだ。だがリバウンドも大きかった。回復に時間がかかった。とはいえ、結果をあまり考えずに、とにもかくにも、自分を縛る枠を一気に突破する無手勝流の心意気は、間違いなくこの時代に学んだのだと思う。

幼いころ虚弱だった人がある時点でがらりと体質が変わって丈夫になる、という話を聞いたこともあるが、そんな奇跡がこの身に起きることはなかった。勤め人になってみると、応募時点ですでに明確な男女格差をつけられ、入社後も、仕事の内容や職場の人間関係のストレスという大波をかぶった地方出身者の悲哀で、まじめにやろうとすればするほど心身ともに四苦八苦の泥沼に陥り、課の出勤率をひたすら下げた。当然、課全体が取り組み、改善すべき対象になった。奥まった倉庫のようなところで課会が開かれ、矢面に立たされた。そのときほどわが身の体力のなさを呪ったことはない。

しかし、その職場には風変わりな人がいた。遅刻なんて一向に気にかけずに悠々と午後出社。アフロヘアに髭を生やし、長めのトレンチコートをさっそうとひるがえし、えび茶のビロードのスーツに濃いサングラス。フロアのなかでその人のいる空間が不思議なオーラに包まれていた。みごとなまでにマイペース。彼の担当はディランとスプリングスティーンで、街には「しくらめんのかほり」が流れていた。

代書屋稼業

大野晋

オリンピック前の世間を代作問題が騒がせた。鳴り物入りで宣伝していたクラシックの作曲家の作品が実は代だったというのだが、なんとなくその報道は釈然としない。いわく「だまされた」ということらしいが、そんなのはこの世の中にはたくさんある。今回も著作権の権利関係は問題にならないらしいので、「ふうん。そうなの。」と言ってしまえばいいような話のような気がする。

古くは、昔のお殿様の書状はたいていは有筆と言われる書の達人の代書だったといわれる。そんなに古くなくても、少し前なら代書屋が恋文の文面を考えてくれたし、いまなら、行政書士が代わりに書類を作成してくれる。

もっと考えれば、アイドルやタレントの著作物はゴーストライターの代書だというのはもう公然の秘密のはずだ。

週刊雑誌に作品を載せている漫画家はアシスタントという名の背景や小物を描いてくれる代書屋を雇っているのは普通だし、私の監訳した本だって、翻訳は翻訳会社が下訳をやってくれている。(まあ、これがとんでもない訳だと、後作業はとてつもないことになってしまうのだが)

音楽の世界だと、誰かの書いた曲を誰かが別の編成に書き直すなんてことは多くされている。例えば、ムソルグスキーの「展覧会の絵」だってラヴェルの編曲のオーケストラ版の方がよく演奏されるし、そもそも、「はげ山の一夜」なんて曲は作曲者の作ったオリジナルよりも、後で編曲された方の曲の方が有名になってしまっている。そういえば、ストコフスキーという指揮者は演奏する曲を勝手に編曲するので有名だったっけ。

ついでに言うと、この文書だって。。。
いやいや、こんな文書を代書するなぞという代書屋の風上にも置けない連中ではないはずだ。その辺のプロ根性は代書屋だってあると思うんだよね。

2月はとても短い。そして、体調を崩した私にはこれ以上の長さの文章を書く余力は残っていない。今月はこの辺で勘弁してもらってもいいでしょうか。

『物語』とマスコミ

冨岡三智

佐村河内事件で気になったことはいくつもあるけれど、一番気になったのは、マスコミ、とくにNHKの『物語』を求めてやまない体質だ。佐村河内の自己演出のうまさも元々あるだろうけれど、マスコミがそれに乗っかったために、佐村河内も演出(虚言)のスケールをどんどん壮大にしていったと考えられなくもない。

私も多少はメディアで取り上げられたことがあるので(主にインドネシアで)、取材されてしゃべったことが編集されて違うニュアンスになってしまったという経験が少なからずある。新聞に完全に事実と違うことを書かれ、しかも私が詐称したように読めてしまうので、記事の訂正を求めたところ、「それでは、こちらのストーリーに合いません。」という返事が返ってきたことさえある!日本のメディアはインドネシアよりも水準が高いと信じたいが、今回の事件、マスコミの側にも佐村河内を通して語りたいストーリーがあらかじめあったはずだ。

実は、今回の事件を見ていて思い出したのが、平山郁夫の”赤とんぼ”事件である。おそらく知る人はほとんどいないと思うので、知りたい方は金山弘治『検証 平山郁夫の仕事』(1995年、秀作社)を読んでみてほしい。簡単に言えば、ある展覧会に平山が出品した作品の”赤とんぼ”のモチーフは、他の作家の作品の借用の恐れありという告発である。ここで金山は、平山の作家としての姿勢以外にNHKも批判している。というのも、この展覧会はNHKプロモーションの企画で、NHKが全国の視聴者65万通のアンケート結果をもとに「日本のうた」100曲を選び、その歌のイメージを代表的な画家に描かせたものという趣旨だったからだ。この展覧会は全国を巡回して入場料を売り上げ、出品作の画集を会場で販売していた。そして、この企画と連動して、NHKもまた平山郁夫へのインタビュー番組を作った。つまり、NHKが公共放送の名のもとに得たデータ(視聴者アンケート)と制作した番組はNHKプロモーションという企業の収益事業に協力する構図になっているのだ。佐村河内を取り上げたNHKスペシャルはフリープロデューサーの持込企画で、彼は番組関連本をNHK出版から出版している。つまり、視聴者アンケート利用こそなかったものの、ここでもNHKは関連企業の収益事業のために協力していたことになる。

この平山もまた、自己語りが少々大げさだった。シルクロードをモチーフにするのはいいとして、それが「文明源流行」だと言う。出世作の「仏教伝来」について「…啓示をうけたといえばいいのでしょうか。私が見つけだしたのではなく、向こうからその僧はやってきたのです」(金山p39)と言い、この絵を描く動機について語らない代わりに、その当時の貧窮した生活や、ひどく痩せ衰えていて絶体絶命の気持ちで絵を描いたということを語る(金山p45)。もっとも平山は本当の原爆被爆者だったので、絶体絶命の気持ちになったことはきっと何度もあったに違いない。ただ残念なのは、このような出世作についての平山の語りが、主語を佐村河内にしてもそのまま当てはまりそうなことなのだ。肉体と困窮の苦悩の中で、啓示を受けて作品ができるというストーリーは一緒だからだ。

金山は「このシルクロードという背景は、平山が自分自身を主人公にして演出したドラマである、と言うこともできる。貧しく、体の弱い一人の日本画家が、自己救済を求めて『仏教伝来』を描き、以後数えきれないほど中国や西域を取材して、文明源流行を続けているというドラマ、物語、幻想だ。彼はそれを一種のパテント(特許権)のごときものとして、素描、リトグラフその他を量産してきている。…彼が求道者のような外見を装い、それが彼の作品の『解説』の働きをしている、といったことが続いているのは、美術評論家、マスコミ、官僚、政治家などの積極的な支援があってのことだ。」(p78)と言うのだが、佐村河内の場合も、いわゆる「全聾キャラ」をパテントにして、求道者のような彼を積極的に賞賛するマスコミ、特にNHKの支援で有名になったと言える。

ところで金山という人は、1986年にNHKの日曜美術館が田中一村を貧窮の中で孤高の芸術を生んだ天才として取り上げたときも批判している(p79-80)。この例もまた、画家自身のドラマ演出と作品の関係という点で引き合いに出してきたものだ(p90)。こうやって見てくると、今までの事例でことごとくNHKが絡んでいる。佐村河内事件後にネットではNHKスペシャル番組「奇跡の詩人」疑惑を引き合いに出す人もいた。どうも、NHKの公正中立な公共放送を標ぼうするあり方そのものの中に、過剰な自己演出の物語を生み出す素地があるような気がしてならない。

現場

仲宗根浩

姪が沖縄の大学受験する、というので空港まで迎えに行き、一旦実家にもどり下見に連れて行く。風がビュービュー吹く中で試験会場の校舎を確認したあとこの学校にあるモニュメントを見る。米軍のヘリが墜落した現場。もう十年近く前のこと。モニュメントに残されている燃えたアカギの木とその当時あった校舎とバスも通る道との距離の近さに驚いた。やっぱり現場を見ないとわからない。姪はその大学に合格し三月に大学の近くに住むところをさがすことになった。うるさいだろうなあ、オスプレイ。

レコードコレクターズを購入したのは何年ぶりだろう、と思って本棚を見ると2003年10月号マーヴィン・ゲイ特集。大瀧詠一の追悼号だけど本人のインタビューや文章がないのでおもしろくない。やはり本人の文章、ラジオに出演している音源がいちばんおもしろい。Youtubeで三十年以上前にオンエアされたものから近年のものまでどんどんアップされている。いつ削除されるかわからないので見つけたらすぐ音声や動画を変換してダウンロードの日々。

次にドラムマガジン。これも最後に購入したのが2003年7月号ジョン・ボーナム特集。青山純をリズムが正確なジョン・ボーナムと言う人もいる。ドラムマガジンは専門誌なのでプレイの採譜、使用しているドラムセットの説明及び写真、本人のインタビューが再掲載されていたりと、至れり尽くせりだが、かしぶち哲郎については特集は組まれることなく記事が掲載されていた。やはりムーンライダーズを含めてでないと語ることができないのだろう。活動休止を宣言した後、メンバーのひとりがいなくなったバンドはもう活動することは無いのだろうか。ザ・バンドやリトル・フィートは主要なメンバーがいなくても活動を再開した。

いつの間にかテレビはオリンピックばかりになった。地上波はここまでするのか。レギュラーのプログラムが悉く見ることができないし、テレビではメダルの話題ばかりで辟易していたところ、ゲイリー・ムーアの「パリの散歩道」のCDが品切れのニュースで笑う。次はジェフ・ベックの「悲しみの恋人達」などと期待してもありえないか。編曲されたものではクィーンやニルヴァーナが使われていたが、ここは是非オリジナルで、ギターのインストものを。シャドウズなんか使うとサンダーバード世代であればイギリスで大うけするだろうなあ、とおもいつつガキの卒業式を迎える。こういうのに出席するの何年ぶりだろうか。

シリアの若者たち

さとうまき

ヨルダンに行くとシリアから若者たちがたくさん避難してきている。中には、自由シリア軍として戦い、手足をもぎ取られ、すべてを失った若者もたくさんいる。リハビリセンターで治療を受けて治ったらまた戦場に戻る若者たち。
そこまでして身をささげるべき革命があるのだろうか? 僕には、復讐にしか思えないときもある。それでも若者たちの目は清んでいる。

一方、北イラクのアルビルに行くと、モールやカフェやレストランで働くシリア難民の若者たちがたくさんいる。イラク戦争後急成長したこの町は、第二のドバイを目指しているというぐらいだから、シリア難民だろうが外国人労働者だろうがチャンスは転がっている。

モーグル君は17歳。シリアのカミシリから避難してきた。兄と一緒に暮らしている。まだ高校を卒業していない。
父は、高校の校長先生、母は、フランス語、姉は音楽の先生という教育熱心な一家に育った。英語もよくしゃべるし、賢そうなので、働いてもらうことにした。ところが、どこか抜けている。方向音痴なのかすぐ道に迷う。小児がんの子ども達のために買ったクリスマスケーキも、乱暴に持ち運ぶので、あけてみたらテントウムシのケーキがつぶれていたり、掃除とかを頼むと、「それは、僕の仕事じゃない」という。
「じゃあ、もう来なくていいよ。仕事もないし」
というと彼は涙目になってしまった。
「お兄さんが、交通事故にあって、働けなくなったんだ。」
「お姉さんも車にはねられて、それから欝になってしまったんだ。僕一人で働かないと家賃が払えないんだ」という。
「じゃあ、難民キャンプに行けばいいじゃないか? テントだけど食べるものもあるし」
車の中で気まずい空気が流れた。

僕が帰国すると、次長のところに彼からメールがとどいたという。「私の悲劇」と大げさなタイトルがついている。

「人生はつらいことだらけ。それでも前を向いて、明日はきっといいことがあると夢見てきた。もっと強くならなければと自分に言い聞かせてきた。あなたは、雨漏れする家で勉強したことがありますか? 成績が悪くて、お父さんにかみつかれたことがありますか? 誰も支えてくれずに、一人で泣こうとしたことがありますか? 僕は、今まで何度も自殺を考えました。でも、目の前の戦争から逃げる決心をして、あなたに出会えて、希望の種を植えてくれた。ここではお金がないと生きていけません。僕を首にするなんて、目の前が真っ暗になりました。助けてください。」

ヨルダンで出会った戦争で手足をもぎ取られた子どもたちが一生懸命生きている姿を見てきた僕は、また、大げさなことを言っているなあと思いながら読んでいたが、ちょっとやっぱり自殺されても困るし、これは何とかしなくてはいけないという思いが沸々と沸いてきたのだ。次長を派遣。それで何とか、モーグル君に仕事を頑張ってもらい、しばらく雇うことに決めた。しかし、彼には仕事に対する情熱があるわけでもなく、「僕は怒るとおなかが痛くなるんだ」と言って休むし、「掃除をしておいて」と頼むと、「仕事としてはやらない。でも友達だから手伝う」という態度に次長が、「仕事として雇っているのよ! 友達じゃないわよ」と問い詰めると、モーグル君は、とうとう鼻水をすすりながら、泣き出してしまったのだ。

「シリアに帰ります」と言い残して事務所を去り、翌日シリアに帰っていった。ちょっと僕らもモーグル君がかわいそうに思えてきた。17歳の男の子が、戦争によってつくられた援助ビジネスの狭間で世界を相手に去勢を張らなければいけない。「私の悲劇」とは、まさにそのことだろう。彼の涙の向こう側には、お父さんとお母さんが待つシリアが透けて見えた。「故郷」とは、越してきた土地で、つらい思いをして初めて感じるものかもしれない。

心臓

璃葉

夜空が蕩け落ちた
重く、暗く、あたたかく、広がっていく。

椅子にすわり、手を額に当てて、一日を考えで潰してしまうとき、
赤い心臓のなかにはきまって空洞ができている
文字と思い出の羅列
青い枝の刺繍
黒い傷とひんやりと冷たい何かが、暗号めいた意味のない声を出して
身体中に響いている

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製本かい摘みましては(96)

四釜裕子

朝の目覚めは悪くない。それでもなぜか毎日歯をみがくころから出かけるまでは気分が沈む。いってきますと玄関を出て梅を嗅いで雀を追って犬に無視され信号を無視して碁盤の目を5分歩くと地下鉄の小さな入り口。ついたころにはさわやかというほどではないが不快ではないから不思議だ。5分のあいだのいったいどこに、毎朝ひとつその気分を置いているっていうのだろう。エスカレーターもエレベーターもない、銀座線で一番乗降客が少ないというこの駅は始発から3駅目。今日もすわって、何を読もうか。スマフォの本棚から『風流夢譚』。honto BOOKで買ったもので、指をスリッと動かさないとページがめくれないのが難。その点、青空文庫のi読書は指を軽くタッチするだけでめくれるので気に入っている。

電子本に感じる一番の不便は(どこに書いてあったっけ?)と振り返るとき。しおりや付箋機能のあるものもあるけれどそういうことではなく、(はじまりのほうの、おとといの昼にナポリンタン食べたあとに読んだあのあたりにあったはず……)という程度の、紙の本ならぺらぺらとあっちこっちめくりながらああそうそうこれこれとみつけるという、そういう程度のことである。「あのあたり」とか「あのとき」というのは言葉としては曖昧だが言葉にならないもので体は満たされているもので、動かしたり叩いたりしているうちにあっちとこっちがつながって、それで思い出すこともある。紙の本と築き上げたこの関係は、いつか電子本とも別のかたちでむすべる日がくるのだろう。もうそれは私のカラダでは無理そうだけれど、せいぜいこの不便に文句を言っておきましょう。

四代目猿之助さんは本をめ〜っと開いて読まないそうである。開きの良くない本などはのぞきこむようにして読むそうである。昨夜テレビで言っていた。私はよくめ〜っと開く。本に対して愛が薄いつもりはない。それでもこの前、どうにも開きにくくてのぞき込んで読んだ本がある。『朝倉耶 麻子 追懐記』という。昭和29年、彫刻家・朝倉文夫の妻の三回忌のために、文夫の弟子などによる「朝陽会」が中心となって作られた本で、耶麻子さんの美しい写真が数枚貼ってある。2つあけた穴に7ミリ幅程度の濃紺のリボンを通して結んで綴じただけの簡素な作りだ。表紙は福田平八郎による白い山茶花。「遺言なし。全く死を知らないもののようでした(朝倉文夫)」、「毎日沢山の訪問客があっても滅多にひとにあわない。無駄な閑をつぶすより洗濯するほうがいいというて居られた。広い屋内外がいつも清潔であった(金津熊夫)」、「宵越しの金はもたない。他人に対し施すことが大好きな大変幸福な方(半田勇)」、「芸は好んだが芸人には興味無し。芸の批評は厳しかった(矢部謙次郎)」。没後、衣類夜具一切を三井病院に寄付したそうである。耶麻子さんによく似合う装幀と思った。十分にのぞきこんで読んだ。

112ミドゥー原――いきずたま

藤井貞和

還るなき、        還らない
生まれ変わって、   草の刃で刈る
それでも、       終わったの
のこっていたらば、    光どうし
けんかになるさ。      ほたる
いりくちがちいさくて、    夏の 
でぐちのみえない、    鍾乳石の
詩集を書こう、       ぼくら
落ち葉が脱ぎ捨てている、    玉
さよなら。         すたま
時間が落ちてくる、   間に合う?
逢える?       抱いていたら
けさは葉っぱになりました、狐ちゃん
愛してる          草の上

(「いきずたま」は生き―すたま。夢に出てきたもんで、書いとこう。地神が二つに割れて、浮遊する。天災? 人災? いえ、地災です。浮遊する地神が、大きな空から小便をしようとして、もうからだがないんだ。小便のとどかない炉心に、はりついていたすたま。たぶんなきがらだね、狐の。そんな夢、やだな。)

掠れ書き38

高橋悠治

「手慣れた型が聞きなれない響きを立てるとき」、オデュッセウスが魔女キルケーの島から舟出して地中海世界の西の端に上陸して亡霊たちを呼び出すネキュイア(『オデュッセイア』11章)をここで思い出す。道からはずれた場所、でも道の近くから見ると、道をたどっていては見えない風景が見える。

リズムと言うことばは、古代ギリシャでは計ることのできる動きや姿を指すリュトモスに由来するらしい。計る尺度のほうはメトロンと呼ばれ、計って区切られたものはメロスだった。計ることができるためにはリズムは循環していなければならない。

身体のかかわる時間は、足と手と息の三つの先端が表現している。足を上げる、足を下ろす。踏む強さと速さで時間を区切る。肘を開く、下して上げる、肘を引く、肘の位置は指のさまざまなかたちになって表れる。それらは区切るというよりは、持続する時間の変化するパターンを見せる。息を吐き、息を吸う。その作用は加速と減速の不規則な曲線で、手足の動きへの抵抗を和らげる。

音楽は身体の時間とかかわっていると言えるだろう。だが、足の動き、指の描くかたち、どれをとっても、普遍的な方程式はなく、その三つの重なりとずれは、それだけでも複雑であるだけでなく、世界のなかで文化のちがいと歴史の残した傷跡、音楽家の立場と見ている方向によって、二度とおなじ表現はないだろう。

近代の時間は身体の時間ではなく、時計で計る時間で、生活はそれで区切られ、管理されていて、音楽もその例外ではない。メトロノームができ、時計の時間は重みや抑揚ではなく、格子の枠のなかで計られる。それでも、身体の時間を排除するわけにはいかない。身体と時計の二通りの時間のあいだの緊張した関係に一時的に折り合いをつけながら、生活があり、音楽もまたそのなかにある。作曲される音楽の見かけの秩序は、現実に音楽が演奏される時の時間のありかたを予測することが部分的にしかできない。そこからこぼれ落ちる「おどろき」が、演奏スタイルでもあり、現場の偶然も折り込んだ一回だけの経験にもなりうる。

音楽は過ぎていく。音楽は音の記憶、残響と余韻でしかない。そこにはまた、予感が絶えずはたらいている。それがメロディーの成立条件なのだろうか。過ぎた音の記憶を、予感とそれを裏切る現実の響きに結ぶ、それが音楽を聞くことなのか。説明も伝達もできない、メタフォアも届かない、よりどころのない記憶と、聞かなかった人たちにも感染力をもつ、実体のないイメージが漂っている。

過ぎていく音を書きとめる楽譜を書く手は音には追いつかない。書こうとしてイメージを循環させるうちに動きの記憶は変わる。循環と変形を書くことを遅延装置による構造化と呼べるだろうか。一回限りの即興から複数回の演奏が可能になるようなパターン、「型」や「手」が定着して、音を紙の上に書く行為が演奏から分離して「作曲」になるなら、演奏されなくても、ここではないどこか、いまでないいつかに、「作品」が存在するように思えるのか。作業過程がこのように分離していて、その過程を逆にたどって、書かれたページの演奏と、そこに介入してくる即興の順で見ても、聞こえる響きを構造の表面として分析して理解しなくてもいい。そうした理解や記憶は職業的なものだろうが、抽象的な知識の例証として音楽をあつかう方向に逸れていきやすい。

要素還元主義と全体システムの両極から考え、合理主義的な透明性で社会や文化を理解する傾向への反省が1960年代の終わりにさまざまな分野ではじまった。人間の毎日はなんとなく過ぎていく。動きながらその瞬間にしていることを意識していることはすくない、動きのすべてを管理している自分という統一体を意識しながら動くことはさらに稀だろう。管理されなくても、動きのパターンが循環していれば、意識がなくてもシステムはある。パターンを使いこなすには、要素分析と再合成というよりは、動きの分節だけでもいい。1950年代から60年代にかけては、要素のあらゆる組み合わせとその分類から構造を組み立て、それに順序を付けて作品を構成する技術があった。いまでは学校でも教えられているらしい。

分類しないで、雑多なものを貼りあわせ、分節するコラージュは、異質な素材のあいだの緊張と、モンタージュのように、似たような概念だがあらかじめ想定された全体のための効果になってしまった手法とちがって、断片と解体のあいだで、まだ飼い慣らされない違和感と居心地の悪さを残しているような気がする。弱く細い道は複雑な現実のなかで途切れず続くのか。

即興は言うまでもなく、音楽の作曲にしても、演奏にしても、具体的な状況のなかで生まれ、音楽史ではなく、世界の方を向いている。

111ミドゥー海――船名

藤井貞和

言語丸 黒い雪丸 硬い土受ける
言語の黒い雪 硬い土丸 受ける
ミドゥー海 黒い雪硬い土受ける
言語 黒い雪硬い土丸は 受ける
言語 黒雪(くろゆき)丸硬い土
言語 黒雪 硬い土「受ける」丸
黒雪硬土(かたつち)丸 言語の
黒い雪 硬い土に還す 言語の黒
雪丸 硬い土へ「還す」きみの丸

(『核の海の証言』〈山下正寿〉によると、第五海福丸、第八順光丸、第二幸成丸、第十一高知丸、第七大丸、第二新生丸、第十三光栄丸、第七清寿丸が、第五福竜丸のほかに、高校生たちの調べ上げた証言であり、船名です。これらの船名を「日本の記録」は書きとどめておこう。「砂の女」〈安部公房〉ではない、「水の男」を問うと、メールをきのう受け取りました。「水の女」〈折口〉は硬い土のしたに還る。「ひょっとこ」の語源は「火(の)男」ですが、炉心を吹きまくる火の男ですよ、とりかえしのつかない日本語〈言語〉だと言うのにね。オデュッセウスは船名を連ねて。)

「ライカの帰還」騒動記 その4

船山理

石川さんとのアポは容易にとれた。彼は今や売れっ子の新進作家で、しかも雑誌は飛ぶ鳥落とす勢いの少年ジャンプ誌である。指定された練馬の喫茶店に赴くときは、少なからず緊張していた。いっきに書き上げた3〜4話分の原作とシノプシスは、読みやすさに留意して、何度か書き直したものを携えている。約束の時間前に到着し、彼が現われるまではと、何も注文せずにひたすら待つことにする。

やがて彼が姿を見せた。緊張はピークである。名刺を差し出して挨拶。注文を聞きに来たウエイトレスに、私が「コーヒーか何か?」と言うと、石川さんは軽く手を振り「いや、ボクはいいです」このとき背中にジワッと嫌な気配が漂ったが、すかさず世間話に切り替え、私が彼の「北の土龍」に注目していることなどを伝えた。彼は礼を言うと「あれ、もうすぐ終わるんで、次の打ち合わせに入っているんですよ」と言う。

そりゃ、そうだろう。ジャンプ誌としては、ここまで育て、目論見どおりのヒット作をものにした新人を放っておくわけがない。ここまでは想定内なのだ。こちらとしては1年でも2年でも待つつもりでいたから、「あなたの絵を思い描いて書いたものです。目を通していただけると幸いです」と原稿の入った封筒を手渡した。彼は無言で封筒を開くと、プリントアウトされた文面に目を落とすわけでもなく、ゆっくりと4つに畳んだ。

「このあと打ち合わせが入ってるんです」と、4つ折りにしたプリント用紙をヒラヒラさせながら、数メートル離れたテーブルに目をやる。振り返ると、そこには2人づれの編集者然とした男たちが座っていて、彼に呼応するように軽く手を挙げた。集英社だ…。目を戻すと彼はすでに中腰になっていて「これ、目を通しておきますんで」と私に告げると、軽く会釈をして席を立ち、そのテーブルに向かってスタスタと歩いて行く。

私は空になった封筒をバッグに戻し、明るい声で会話が始まったテーブルの面々に、ちょこんと頭を下げて喫茶店を後にした。胸にポッカリ穴が開いたような気がして、言い知れぬ虚脱感が漂う。まぁ、こんなもんだろう、という気分にはなれそうになかったので、オフィスには戻らず、その足で小学館に向かう。ヨソの会社なのに自分は何をしてるんだという思いもあるが、ひとりで考えてもどうなるものではない。

小学館の友人は笑いながら「そんなこと、オレたちはしょっちゅうだぜ」と言う。「最初のイメージとは違ってしまったろうけど、要はその作品が世に出るか否かってことじゃないか?」そりゃ、そうだけど…。「もう一度、(イメージを)組み立てるっきゃないぜ。じっくり行くことだよ」…わかったよ。ありがとう。また誰か、作家さんを紹介してもらえるかな?「うん、誰かいるよ。焦らないことだぜ」

その後、1カ月ほどブランクが続く。私はと言えば、小石くんに月刊オートバイ誌で連載してもらう作品の打ち合わせに忙殺されていた。作品の題名は「マギ〜!」に決まる。彼のイメージの中には「鉄の女」と呼ばれたマーガレット・サッチャーがいて、内容は学園ものであり、破天荒だが憎めない男子生徒が主人公になる。マギーと名付けた鉄のバイクに彼がどう係わって行くのか、ここはお手並み拝見というところだった。

例の話はその後さっぱりで、小学館の友人から連絡もない。自分としても心が折れたようになって、続きの話をまとめる気にもなれなかった。考えてみれば、この作品が石川サブロウさんによってできあがるのだというイメージは、自分の中で勝手に大きく膨らんでいたのだろう。今になってみると、なんで? とも思えるのだが、そのときはそう思えたのだから仕方がない。半ば、あきらめかけている自分がいた。

ある日のこと。自分のオフィスにいても仕方がないので、小学館に出向く。ここは広大な1フロアに少年誌と青年誌が一堂に会していて、かの友人が在籍する編集部にたどり着く間に、いくつもの編集部を通り過ぎる。そもそも昼下がりに編集スタッフがいるわけはなく、どこも閑散としたものだ。売れている雑誌のスタッフの多くは夕方に出社して、また社外へと消えて行くのが常である。職業柄、仕方のないことだ。

そんな中でも最近タイトルが上昇中で、近く新しく発刊される雑誌の編集長候補である友人は、ちゃんと席に座っていた。彼は私の顔を見るなり「おー、来たか。まだ見つからないんだよ。あの話は背景やら小道具やらの描写が難しいからなぁ」と言う。こちらも気にしていなかったわけじゃないけど、すぐに作家さんが見つかるとも思っていなかった。そのことを彼に告げると、彼は席を立って私を編集部の一画に案内する。

そこには小学館の新人賞の応募作や、受賞作の生原稿がきちんと収められた棚があった。「この中でさー、これと思うやつ、あるかどうか見てみれば?」…いいの? 私はドギマギしながら言う。これらは小学館にとって貴重な資料であり、財産なのだ。部外者である私に閲覧などさせていいのだろうか? 幸か不幸か周囲に人影はないし、こちらを注視する視線も感じない。私はいくつかのファイルに手を伸ばした。

さすがに、どれもレベルは高かった。絵柄がこなれて来れば、すぐにでも第一線でデビューできそうなものばかりだ。と、その中で目に留まる作品があった。内容は太平洋戦争末期、捕獲した米軍のB17爆撃機を、帝国陸軍の航空隊が東京湾上空で飛行させるというものだ。ストーリーにインパクトのあるオチがないのが残念だったが、描写は巧みで申し分ない。私はそのファイルを手にして彼の席に戻った。

「あー、目が高いじゃないか。それ、スピリッツ誌の新人賞だよ」へぇ、そうなんだ。でもこの人…、吉原さんって言うの? まだデビューしてないよね?「ん? …う、うん。ちょっと問題があってね。彼、使えないんだ」と、友人が言う。「オリジナル誌の編集部に福田ってのがいるから、オレよりヤツから聞けばいいよ」珍しく、友人は顔を曇らせていた。なんだろう? それは後日、福田氏との話でわかることだった。

福田氏によると、吉原さんはかなりの有望新人であり、昨年に発刊されたスペリオール誌の第1号の巻頭でデビューするはずだったと言う。しかも作品の原作を担当するのは大御所中の大御所、Kさんだ。新人作家のデビューとしては、これほど恵まれた環境は稀に違いない。ヒットは約束されたようなものだからである。ところが、その打ち合わせに新宿のホテルでKさんと待ち合わせた吉原さんは、意外にもこの話を蹴ったというのだ。

怒り心頭のKさんは「アイツは使うな」と言い放ち、憤然として席を立ったという。その場には新生スペリオール誌を任される編集長と、担当を予定していた手練れの編集者も同席していたから、冗談では済まされない。小学館ばかりでなく、大手の出版社で数々の大ヒットを飛ばすメガヒットメーカーのKさんの言葉は重く、これで吉原さんの小学館でのデビューの道は、閉ざされてしまったことになる。

「でも、さ」福田氏は机の状差しからオリジナル誌を1冊取り出し、私に見せる。オリジナル誌なら毎号目を通しているので、見落とすはずはないのだけれど…。よく見ると本誌ではなく、増刊号だ。その巻末に「アラビアのロレンス」でおなじみのT・E・ロレンスを扱った作品が載せられていた。作者は…吉原昌宏。彼ではないか! ダイジョブなの? 福田氏は「Kさんも増刊号までは目が届かないね」と、ニヤリと笑ってみせた。

新人賞を獲得して以来、吉原さんに肩入れしていた福田氏は、彼を放っておけなかったのだろう。しかし吉原さんは小学館の扱いにいまだ憤っていて、福田氏以外の編集者とは会わないのだと言う。ボクでも会えないかしら? と言うと、福田氏は腕を組み、ちょっと考えてから「オレとしては、ヤツに描いてほしいんだよ。でも、年に2回の増刊号じゃ話にならん。一応、話は通しておくよ」ダメもとの、2回目のトライが始まった。

製本かい摘みましては(95)

四釜裕子

ステンレスのキッチンテーブルを捨てた。10年くらい前に中古で買って、切ったり貼ったりの作業台として使ってきたが、表面の冷たさに手足が耐えられなくなってしまった。丈夫だしきれいだしで、しばらくもらい手を探したけれど折り合いつかず、もう、いいよねと、捨てたのだった。なくなってみると、3つの引き出しと足下のスペースの収納力がいかに大きかったかに驚いた。元材木屋がはじめた家具屋で、同じくらいの大きさの机と似たような収納力のある引き出しを作ってもらって、おかげで触れた手足の冷たさにビクッとすることはなくなった。このひやっとした感じには、古い覚えもある。

小学校の入学祝いに買ってもらったスチール机だ。高さ調節ができて蛍光灯がついていて、前面にはカレンダーと時間表、上は本棚、右に引き出し、左にランドセルをかけられるようになっていて、囲まれる感じが自分だけの小さなお城みたいでうれしかった。当時はあれが流行で、しかも年々付属品が増えて派手になっていたのだと思う。近所のおねえさんたちとの雨の日の遊びの”基地ごっこ”で、この机が餌食になることがあった。まわりに食堂の椅子まで持ち込んで全体に毛布をかぶせたり段ボールで囲ったり、私は最後に招かれて、色水でつくったジュースをのまされて落とし穴にはめられたりした。廊下の隅の足踏みミシンも別の基地になっていた。

建築家の坂口恭平さんは子供の頃、六畳一間の子供部屋にA4サイズの方眼紙に書いた地図を敷き詰めて手づくりRPGゲーム「サカグチクエスト」を作ったり、コクヨの学習机の下に潜り込んで毛布をかけて自分の巣を作ったそうである。『ヘンリー・ダーガー 非現実を生きる』(小出由紀子編集 平凡社コロナ・ブックス 「ヘンリー・ダーガーという技術」)で読んだ。狭い団地生活を反転させるための独立国家をつくろうとする試みだったと書いている。そうそう、そうだったんだよね。なんて思ったこともないくせに、いや、でも確かにそういう感じだったのかもしれない、などと言ってうなずきたくなるほど、坂口さんはうまいことをおっしゃる。うちの机もコクヨだったのだろうか。

スチール机がシールや天地真理やサンリオでいっぱいになったころ、父親が木製の古い大きな机を2つもらってきた。姉も私もスチール机からすぐにのりかえた。選ぶまでもなく、両袖机は南側にある姉の部屋に、片袖机は北側にある私の部屋に運ばれた。私は部屋のドアに黄緑のクレヨンで「じょおうさまのへや」、窓の木枠にはカッターで「eternity」、落書きや改造は格下の部屋での暮らしを反転させるための試みだったに違いない。姉に続いてやがて私も家を出た。小さなワンルームで暮らしながら、いつか両袖机を自分の部屋で使いたいと思うようになった。数年たって願いが叶った。分解して宅配便で送ってもらったら、記憶の中にあったものより数段大きくて焦った。泥棒に入られて何か一つだけ家具を残してやると言われたら、この机を残すだろう。

本の履歴書

大野晋

ひょんなことから、自宅の本棚の一部の写真をFACEBOOKに載せてみた。いわゆる私の興味の履歴書といった感じだろうか。一番多いのは仕事にしているソフトウェア関連と品質管理関連の書籍で、次に多いのは学生時代の専門で今も趣味の範疇においている植物学の本だった。

最近、増えているのはシステム学関連の本です。コミックと小説(SFと推理小説)はデフォルトで多いですが、写真集、特に風景写真の写真集は多いような気がします。この辺は今回は載せてないので、本棚の公開されている写真からは見えていないですが。

このところ、本の販売期間がどんどん短くなっているような気がしている。気が付くと廃版や絶版になっていて、買えなかったり、私の手持ちが中古市場でとんでもない値段で取引されていたりする。中古本の値上がりを目的に所蔵しているわけではないけれど、必要な知識が手に入りにくい時代になったと感じることも多い。一方で、写真では見えない本も多くなってきている。いわゆる青空文庫などの電子本がそれだ。

昔(というくらいの昔ではないけれど)は電子書籍は購入してもすぐに見るための機械やソフトがなくなってしまい、そのまま、読めなくなることが多かった。うちの書棚にもおそらく数冊はそういった読めない本が収容されているはずだ。しかし、最近では汎用のフォーマットが出てきた関係で「読めない本」はなくなりつつあると感じている。とはいえ、過去、読めなくなった経験から大切な本は電子書籍では購入しないので、ほとんど持っている本は青空文庫ばかりだったりする。

ふと、気づくと町の本屋も少なくなってきたことに気づく。そういえば、数日前にも近所で車で立ち寄れた本屋が閉店した。さて、今後、私のまわりの本棚はどうなってしまうのだろうか? はたして、私の本棚はどのように育つのだろうか?

その前に、数十棚分の写真を載せたのに、ほんの数分の一という我が家の満杯になった本棚をどうするかという根本的な問題も残っている。ちなみに、青空文庫の作業待ちの書籍は10箱程度が積まれた状態になっている。これもかたさないといけないですね。

ジャワ舞踊作品のバージョン 2「メナッ・コンチャル」

冨岡三智

私が連続テーマで何か書こうとすると大体1回目か2回目で挫折するのだが、昨年11月号に続いてジャワ舞踊作品のバージョン2を書いてみたい。

「メナッ・コンチャル」はソロのマンクヌガラン王宮で作られた男性優形の舞踊で、ダマルウラン物語というジャワで作られた物語に登場する人物を描いている。簡単に言うと、戦いに出て死ぬ運命にある男性が恋に身を焦がす様を描いた作品で、いわゆるガンドロン(恋愛)物と呼ばれる男性の単独舞踊の1つだ。スラカルタのマンクヌガラン王家の舞踊家、ニ・ベイ・ミントララスによって作られた。マンクヌガラン王家といえば、ダマルウラン物語を題材に、ラングンドリヤンという女性だけで演じられる舞踊歌劇が作られたことで有名だ。「メナッ・コンチャル」もその歌劇の一場面が独立した形になっているので、男性舞踊だけれど女性によって踊られ、途中で踊り手が恋する姫への気持ちを切々と歌い上げるシーンがある。しかもその曲は、ジャワ人なら誰でも知っている名曲「アスモロドノ」(愛という意味)。宝塚歌劇のように、男装した麗人の美しい声を堪能しながら、歌詞のロマンチックな気分に浸れる舞踊で、いかにも王家らしい華やいだ雰囲気がある。

が、この作品は、一般的にマリディという舞踊家の再振付で有名で、カセットもロカナンタ社から市販されている。ただし、ちゃんと作者名はニ・ベイ・ミントララスだと明記されている(ちなみにレーベルの写真はマリディの娘)。マリディは結婚式か何かでこの作品を見て気に入り、二・ベイ・ミントララスに即、自分ならもっとうまく振り付けられるからリメークさせてほしいと頼んだらしい。マリディ自身がそう言っていたので間違いないだろう。当初、ミントララスにものすごく驚かれたらしいが(失礼な若造だと思ったのではなかろうか)、リメーク版は本人にも気に入ってもらえたとマリディは嬉しそうに語っていた。

マリディ版とミントララス版の最大の違いは、マリディ版ではサンパという曲(影絵芝居ワヤンでは、場面の転換、出陣や戦いの場面で使う)が「アスモロドノ」の曲の最後に追加され、踊り手が戦場に出立することを暗示しながら走り去る場面で終わっていること。ミントララス版では、普通の宮廷舞踊と同様に、最後は床に座って合掌して終わる。そして、歌いながら踊るために、振付は全体にかなりシンプルである。一方、マリディ版では踊り手は歌わない。その分、これでもかというくらい細部が細かい振付になっている(しかも絶えずバージョンアップを繰り返す人なので、毎年友達が習うたびに違う振付になっている)。つまり、マリディ版の演出では、劇的要素がいやが上にも強められ、振付自体でドラマを表現しているのだ。マリディの振付はどれも、とてもドラマチックな展開になる(たとえ元のストーリーがしょうもなくても)。

スラカルタにある国立芸大では、当初、マンクヌガラン王家で踊っていた教員が大学のカリキュラムに「メナッ・コンチャル」を導入したので、当初の芸大バージョンはかなりマンクヌガラン風だった。留学した私が芸大の先生から個人レッスンで習ったのは、このバージョンだった。当時はまだかなり初心だったので、授業についていけるように個人レッスンを受けていたのだが、授業で習ったのは全然違うバージョンだったので、私の頭は大混乱に陥り、結局試験でも古い芸大バージョンで押し通してしまった。実は、その当時、若手の教員がマリディから習ったものをカリキュラムに再導入したので、芸大バージョンがリセットされてしまっていたのだった。私はまだ見たことがないが、ガリマンも「メナッ・コンチャル」のアレンジを手掛けているらしい。それは、わりとあっさりしてマリディ版とは全然違うらしく、たぶん、オリジナルにより近いのかなと思ったりする。

しもた屋之噺(145)

杉山洋一

羽田空港の深夜のラウンジで、雨に濡れた滑走路を眺めながら書いています。昨日の朝羽田に着いたばかりですぐにトンボ帰りするのですが、まるで随分長く東京にいたような心地がしているのは、濃密な時間を過ごした証でしょう。今朝は期日前投票を世田谷区役所で済ませ、打ち合わせの後で恩師のお別れの会に出かけ、少し涙腺が緩んだからと味とめに両親を誘って久々の焼酎を舐めつつ、メジナとイサキの刺身に舌鼓をうちました。時差ボケと焼酎で京急電車で寝込み、今こうして目の前で闇の中を飛び立つ飛行機を眺めています。

三善先生の合唱曲をききながら、先生のピアノの手触りを思い出し、先生が愛したシャランの和声課題を思い、それを大喜びで歌うミラノの大学生の顔を一人一人思い出し、三善先生がご覧になったら、どんなに大笑いされるかと考えています。
会がひけて奥様にご挨拶に伺うと、想いが混濁して言葉が浮かばず口ごもったままで、中学に上がりたての頃、初めて阿佐ヶ谷のお宅に上がった時と、まるで同じでした。自分がそこにいることすらおこがましく思えて、一番後ろの席に小さくなっていて、会が終わると真っ先に会場を後に飛び出しました。日本にいない自分は、こんな時いつもどこかに後ろめたい気持ちに駆られて、責を果たさない、不誠実な自分にどう対峙してよいか分からなくなります。外は雨がしたたか降っていて、濡れねずみになりながら地下鉄まで辿り着いたとき、どうしても奥様にご挨拶だけしたくて、垣ケ原さんにお電話したのでした。

会の最中、由紀子さんが普通の演奏会のように明るく拍手してほしい、先生がホールのそこここを飛び回っているに違いないからと静かに仰られたとき、背骨がじんと痺れる気がしました。果たして自分は音楽と誠実に向き合っているのかしらと、てらてら揺れる目の前の緑色の誘導灯を、改めてうらめしく眺めています。

  ——

 1月某日 コリコ駅前の喫茶店にて
4時に起床し、息子と連れ立ってドゥビーノの駅まで歩く。二人とも無言で、冷気を切るように歩く。見上げると満天の星空。無数の星が天の川から溢れて空一杯を埋め尽くす星の洪水。ふるえるような鳥肌が立つ。

 1月某日 自宅にて
アルツハイマーが発症してからのウテルモーレンの自画像を何度となく見なおしているのは、ドナトーニが脳梗塞でたおれた時になぐり書きした、プロムの原稿とどこかが似ているから。一見するとドナトーニは動で、ウテルモーレンは静だが、殆ど自分の顔を認識できないなかで、鼻だけすがるように美しく浮き出し、頭に相当する部分には裂け目が走る自画像が内包する、壮絶なエネルギーに圧倒される。子供に帰ってゆくのではなく、深い霧の中で、自らの存在が外側から消滅してゆく。最後に霧の中から少しだけ顔を覗かせたのは、鼻だった。

 1月某日 自宅にて
繰り返し「大喪の儀」のヴィデオを見返して、儀中詠われる、生きた「誄歌」に耳を傾け、何度となく調弦に手を入れる。盤渉調のひびきを、どこまで際立たせられるか、ぎりぎりのところを探す。「誄歌」の和琴は、思い切ってそのまま使う。当初、入れ子構造を何度も重ねてみようと思ったが、結局、「誄歌」を何となしに辿れるような、くねた蔓を描くことにして、歌詞をそのまま遡行する。
そう決めると、面白いことに、ベトナムで使っていた奇妙な漢字が幾つか頭に浮かんでくる。ベトナムの国字は、少し煩わし過ぎるくらい、蔓が躰にへばりついたような奇妙な印象があるのは、単に先入観による思い込みに違いないが、どこか伎楽面の派手さに通じる気もする。

 1月某日 自宅にて
仕事の帰りに14番の路面電車に乗ると、酔っ払いが妙齢に絡んでいたので、ちょうど近くに座っていた気のきかなそうな若者に立ってもらい、「おじさんここが空きましたよ」と大袈裟に云うと、素直に「悪いねえ」と言って座ったので、痴漢にしては聞き分けがよいと感心。妙齢もイタリアでは負けていない。傘をつきたて、「これ以上近づくと刺すわよ」と凄む。

 1月某日 音楽院にて
笹久保さんが作った映画が届いた。これらは演奏しながら浮かぶ映像を定着したもの、という説明に共感を覚える。
音楽の演奏に際して、無意識に何か刺激や拠り所を欲していることに気づく。それを作為的にやると品位を貶める気がするが、指揮者など、そうした映像による集団心理のイメージ操作で、音楽を豊かする最たるもの。実は昔はそんな安っぽいやり方と馬鹿にしていたが、フリッチャイが、文字通り頭のなかにある映像を必死に音にしている姿をみて、自らを恥じた。

 1月某日 自宅にて
亡くなった恩師の誕生日。毎年、「おめでとうございます」と簡単なファクスをしたためてお送りしていたので、今日もふと書きそうになった。もしかしたら、ファクスに紙が吸い込まれていって、そのまま彼の手許に届くかもしれない、と思う。

 1月某日 ミラノへの車中にて
夜明け前、無人のボローニャを駅に向って歩くのは、甚だ心地がよい。昨日は打合せの合間に、アッバードが安置されているサント・ステファノを訪れる時間があった。柩は暖房用の紅い電灯に照らし出されていて、思いがけず小さくみえた。花が一輪載せてあり、薄くレクイエムがかかっている。記帳を終えて中に入ると、誰もが無言で柩をじっと見つめていた。買い物カゴやスーパーの袋を小脇に抱えた、近所の老婦人たちが立ち尽くして居て、立ち振舞いがとても美しく見えた。

 1月某日 三軒茶屋にて
羽田についてメールを開くと、ミラノの市立音楽院が、市長により「クラウディオ・アッバード音楽院」と命名されたと院長より一斉メールが届く。みんな順番に死んでゆき、思いの外素早くそれぞれの死も既成事実として受け容れられて、歴史という膨大なデータベースに仕舞われる。

先日、息子は参加したいと言って聞かなかったコンクールの本番で派手につかえて、酷い結果になったとか。終わった直後は泣いていたらしいが、すぐに「猿も木から落ちる」と言ったものだから、母親からこっぴどく叱られた。彼はまた「12月の色は何だ」というクイズを自分で考えて得意になっている。答えは「青色」。「12月」を漢字で書けば「青」になる。

(1月30日パリ行きの機中にて)

私が消えて、写真が残る

若松恵子

1月最後の日曜日。午後から急に風が強くなって、雲行きに嵐の気配が混じる。こういう天気を片岡さんはうれしく思っているかもしれないな、なんて思いながら出かける。下北沢のB&Bという本屋さんで、片岡義男さんが登場するイベン「BETWEEN カメラ and 万年筆」が開催されたのだ。イベントのお知らせ文によると、写真集『私は写真機』(岩波書店)を完成させたばかりの片岡さんと、名作写真集『NY1980』の著者である大竹昭子さんのトークセッションで、作家にして「撮る人」でもある2人のあいだに立って行司を務めるのは、片岡さんの前作『この夢の出来ばえ』の編集・デザインを担当した川崎大助さんとある。


のっぴきならない用事で、どうしても開始時間に間に合わない。スカイツリーの見える街から電車を乗り継いで、会場にたどり着いた頃には1時間が過ぎてしまっていた。窓際の席から、揺れる電線が見える。夜になってからも風はおさまらない。

会場からの質問の時間になって、印象的な問いが投げかけられた。「なぜ、優れた写真家は言語能力においても優れているのか?」と。言葉そのままに引用できなくて申し訳ないが、片岡さんの答えは、「言葉がもっとも不自然なもので、その次に不自然なものが写真だからでしょう。不自然なものをつくり出す能力として両者が共通しているからでしょう。」というものだった。言葉によってつくられた世界(小説)、写真によってあらわされた世界、そのどちらをも片岡さんは「不自然なもの」と呼んでいて、その言い方にひっかかって、色々と思いを巡らせることになった。

『私は写真機』には、写真とともに4つの短い文章が掲載されているが、冒頭「なぜ写真機になるのか」を読むと、「不自然」の意味がさらに理解できる。片岡さんは、少年の日に触れながら、「曇った日は、すべて均一に揃った現実のなかに自分も取り込まれた」が、「晴れた日の僕は、意識の上でどこかその日の外にいて、外から晴れた日を見ていた。」と言う。そして、「曇った日をリアルだとすると、晴れた日は、それを外からとらえる自分の問題として、リアリティだった、と言ってみようか。リアルが現実そのものなら、リアリティとは、自分がとらえる現実、というものだ。」という核心にふれる言葉が続く。

世界に向き合って立っている自分、世界から切り離されている自分、そのあり方は、ある日意識される。世界から切り離されているあり方が「不自然」なのだ。あえて、それをやろうとする行為、それが「不自然」なのだ。「言葉」というものも、あえて世界と向き合って、名付けようとする行為だから「不自然」なのだろう。「自分がとらえる現実」と言っても、「自分勝手にとらえる」のではない。世界を鏡のようにうつしながら、移動していく人間の姿が、イメージとして浮かぶ。『私は写真機』という題名はぴったりだなと思う。

片岡さんは、暮らしを取りまいているものを撮る。手を加えたりしていないのに、現像された写真は非日常に見える。このことが持つ意味については、まだわからない。

オトメンと指を差されて(66)

大久保ゆう

わたくしが妙な擬音語・擬態語を用いることは今回の回数のちょうど半分の回で触れたりなんぞ致しましたけれども、そういえば最近わたくし気づいたことがあるのですよ。もちろん今でもチョコレートを食しますときは「しょこらしょこら」というフレーズが頭のなかに響いているのですけれども、そう、わたくし普段からよく飴ちゃん(普段は声をよく使う職業でもあるので主にのど飴であるわけなのですが、そう、関西では飴のことを飴ちゃんと常にちゃんづけをするんであくまでも飴ちゃん)をなめるときに流れるフレーズは……

「かんろちゃんかんろかんろ」

あとそうです、日常生活では省エネだったり差し替えだったりでコンセントのプラグの抜き差しをよくするんですが(というかわたくしの下宿にはそもそもコンセントの数が少ないというかタコ足配線もあんまり好きくないのでしないっていうのもあるんですがとにかくプラグの抜き差しをよくするんですが)、そのときに頭のなかで復唱するフレーズっていうのが……

「こはくのせいれいよわれにちからをさずけあたえたまえっ」

それにその、わたくし作業をしているときには結構動画サイトをバックグラウンドで開いていることが多くてですね、そのときにはだいたい VOCALOIDといういわゆる電子的な歌声をBGMにしながらキーボードをぺけぺけしているんですけど(それもだいたい「初音ミク」さんのものが結構な割合を占めていたりなんかしたりして)、まあその動画を開くというかリンクを踏むというか再生ボタンを押すというかそういう曲を聴き始めるための動作をしているときには、意識のなかで自動的に詠じられる言葉があって……

「のーびーすむんでーれくとりすむーさみかーつねかんたー」

うーん、これは。これはこれはこれは。……擬態語どころか文章いや呪文に近いものにすらなっているではありませんか。いったいいつからどこからこうなってしまったんだ……いやいやいや、イメージとしては擬態語のつもりなんですよ、マンガのコマにそれらの行動を取るわたくしが描かれていたらその横に添えてあるようなそんなつもりなので。

とはいえ多少なりとも宗教的な環境で育ってきた人であるならば祈りやら宣誓やらフレーズやらがある一定の場面や行動と無意識に接続されていてふっと浮かび上がってくるなんていうことがあるってことをわかってくださるんではないかと無宗教の国とも言われるこの島で期待したってどうしようもないことは百も承知ではあるんですが、無駄にフレーズが凝っていったりするあたりはわたくしもまだいわゆる「中二病」なるものが心の片隅に残っているのかもしれません。

あ。もしかすると「中二病」をご存じない方がここにいらっしゃるのかもしれないのでここでわたくしはわたくしの地元であるところの町でロケハンが行われたるところのただいま大ヒット放映中のTVアニメ「中二病でも恋がしたい!」をことさらに強調してみるためにその第1話の冒頭のナレーションを引用してみるのですよはい!

「みなさんは「中二病」という言葉をご存じだろうか? 思春期を迎えた中学2年の頃にかかってしまうと言われる、恐ろしくも愛すべき病で、形成されていく自意識と夢見がちな幼児性が混ざり合って、おかしな行動をとってしまうという……アレだ。」

何やらその病(という比喩)は、子どもが背のびするような感じでやたら難しい言葉や漢字を用いたり格好つけたりするような趣でもあるのですが、わたくしの場合は子ども時代に無理して自意識を落ち着かせていた分、今さらに自意識と幼児性がぶり返しているというか「オトメン」はどこかそういうところがあるのできっと通じるところがあるんだろうなーと思っていたらやっぱりそうでしたね!

っていうかそんなことはどうでもいいのでありまして「中二病でも恋がしたい!」のお話はわたくしの地元の町やらその周辺で物語が巻き起こっておりますのでご興味をお持ちになられた方におかれましてはどうぞ一度ご視聴下さい。青空文庫に参加したときのわたくしっていうのはだいたいあんな感じの場所であんな感じであんな人たちと一緒に生きていたのだと考えてくださっておおむね間違いないのではないだろうかと思います。(登場人物の誰がわたくし、なんて無粋なことは言わないですけれども)