記憶と夢のあいだ

高橋悠治

理論からははじまらない 眼に見えるものではなく 手をうごかし 問いかけるうちに 直線ではなく 揺れと襞 ずれる時間 複数のシステム 断片をまとめたり ととのえたりしないで それぞれに裂け目を入れ 断層をのぞかせ 聞こえないものを聴き 手探りで方向を変えながらすすむ

記憶と夢のあいだ というより 思い出せないことを思い出し まだどこにもないものを夢みるのが音楽だ という ますます強くなる予測に突き動かされ 手をうごかすなかで新しい発見がある それはまだことばになりきれないままで 途切れるとそのまま消えてしまう輪のように かたちもなく 宙に浮いている

煙のように空中に消えるもの 断片をモンタージュして何かを構成するのではなく 全体と部分の階層性を作らないもの 断片を断片のまま変形し 規範からはずれ 予測できない空間にひらくもの 生きる時間の闇のなかで微かに光る徴 哀しみの明るさ 夢の手触り

音楽は音のうごきであり 聞く耳と楽器や声を使う身体の運動感覚や内部感覚 それに感じというとらえがたいものによって維持されている 音は止まれば消え 音楽はとどめようもなく過ぎてゆく それだから消えた記憶をよみがえらせ まだない世界を予感する それが音楽の社会性あるいは政治性なのだが ことばのように世界内の存在や状態を指し示したりするというよりは 「いま・ここ」でないところに注意を向けるきっかけになったとしても それも文化的環境や歴史状況に条件づけられ 主体的な意志をはたらかせなければ何も響いてこない しかし そのあいまいさが音楽の強みでもあり 逆に ことばと結びついたときは相互作用によって強い力をもつことがある

国家主義と古典主義はおなじ側にある 規律や構成のように外部的で静的なバランスにもとづく管理 記号や表象の操作 内面化した自己規制 全体が矛盾なくたった一つの原理あるいはたった一つの構成要素から説明できると考える超合理主義 複雑性やあいまいな状態をデジタルな二分法で還元すること 方法主義 そうしたやりかたで裏打ちされた「新しい」単純性 これが1930年代以来の現代音楽の病気だった 演奏スタイルや ちがうジャンルの たとえばポップについても 似たような現象を指摘することができるだろう

音を物・記号・表象として操作しようとするとき 音を手段として構成される抽象的・普遍的全体 あるいは表面に民族主義・伝統美学・アジア思想を思わせる要素を貼付けてはいても 画一化された均質な部品でモジュール化された現代音楽は フェスティバルという見本市で消費されるだけのもの それは非商業的と言っても じつは少量生産される文化の「贅沢品」として 国家や財団の先物買いの対象になる

音楽は「いま・ここ」に留め置いて味わったり 分析し定義し 理論的に再構成するしようとしても かなたへ逃れて とらえどころがない 音楽論や音楽美学や音楽批評は 音楽の創造には追いつけないだろう ことばで語れるのは可能性でしかない それでもそのようなことばであれば それらの語る自由な夢が 音楽の社会的機能を維持し活性化するのにこの上ないはげましともなってきた ここにあるものではなく どこにもまだ現れていない音楽の夢を語るものである限りは

歩きながら問いかける 問いかけながら歩く これがサパティスタのはじめた運動論だった 1994年のことだ それ以来 ちがう領域でのさまざまな試みを参照しながら すでになされた行為の結果を分析する方法や それ以上変化しない素材や それ以上分解できない単位を組み合わせて作る秩序ではなく うごきつづけ変化してやまないプロセスのなかにありながら それ自身について考える可能性が見えて来た 再帰する生命・意識・認識システムや社会システムをあつかおうとするオートポイエーシスのようにまだ発展途上の理論や 生きている身体が心であることを内側の感覚を維持しながら意識し続ける仏教的な方法 さらに「いまだない」を哲学するエルンスト・ブロッホ doingとdone power toとpower overを区別して存在ではなく可能性から反権力の政治思想を導きだすジョン・ホロウェイ どれも完成された理論ではなく そうなるはずもなかった

音楽は いまある世界をそのままにしておこうとする権力や制度とは もともとあいいれないものだった だが 権力はいつも音楽を自分の側にとりこみ その想像力を自分のために使おうとしてきた だから音楽作品は 完成されたものであるほどゆがみ 可能性は消耗させられ 夢は砕かれ 抑圧され 逆転して その断片だけが散乱している 未完成なものほど 見えない芽をどこかにひそめて 発見される時を待ち望んでいる

シクサルサイト――翠の石筍59

藤井貞和

静かなる夕べ、
ひとりを争ひをらむ、
ふたりの男、
ミンゾク学者と、ミンゾク主義者と、
言ひ争へる路上に、
再び 静寂の時は来たり、
見よ、惨劇は行はれたり、
橋上のひとは去り、
血の海に、
きみは仆れて息なし。
あはれ、ミンゾク、
勝利をわれらに。

(問1〈書き取り問題〉、これらのミンゾクに適当に漢字を宛てよ。問2、橋上のひとはだれか、おなじく「きみ」はだれか。以下のすべてのカタカナに漢字を宛てよ。サベツの実態やシテキ在り方やシンテキ構造など、現代人のなかに膠着やシコウ停止がすすむ現在のようで、それなりに硬直する理由があるとすれば、リニューアルないしシンキリフレッシュして、おなじようにストップしているジェンダー理論、ショウスウ者ミンゾク、ショウガイ者サベツや、ちかごろの大学生シュウダンレイプ、根っこはセンソウなのですが、シゼン破壊やエコも同様、「民族」を「民俗」へとひっかけて、ナショナル言説へシュウノウするちかごろの風説のシンキクササ、拉致問題や北朝鮮ミサイルなんたら、サイバン員セイドという骨〈=シソウ〉抜き人間をつくったり、そのシソウの空洞化、もうゾウスイみたいに蔓延している、みんなそのうちどうでもよくなって、シラケ現象ばかりがすすむ秋葉原の若者シンゾウや、人殺し予告や、村上現象と連動するアイドルマスター=風俗ジョウを、『源氏物語』キャラ並みにエッチの対象にシクサルサイト、第二次バカヤロー解散、どうでもよいです。)

製本、かい摘みましては(52)

四釜裕子

今年も日記帳作りが校了。小学校1、2年生ころの私にあった心配性が今もこの身体のどこかにあることを感じさせてくれる仕事で有り難いデス。あとは印刷製本屋さんにお任せできれいな仕上がりを待つばかり。製本の観点から日記帳や手帳に求められるのは、まずよく開くこと、そしてそのことによってボロくならないこと。となれば俄然糸かがりが主流となるし、部数もそれほど多くなく、カバーなどの造作も特殊だから最後は手作業によることも多いようだ。製本工場で見かけたことがある。季節はちょうど今頃か。天地小口が金で角丸、しおりひもを2本つけた表紙は革風の深紅の紙、豪華で小さな本ですね、と作業する人の手元を覗いたら手帳だった。

西川祐子さんの近著『日記をつづるということ』によると、日本で最初に印刷製本して出版された日記帳は大蔵省印刷局初代局長の得能良介が1879年に官吏に配った『懐中日記』だそうである。フランス製のアジャンタをモデルにしており、『官員手帳』とも呼ばれて一般にも販売された。明治11年のことだ。本格的に商品化されたのは1982年頃。卓上用の「当用日記」と携帯用の「懐中日記」が作り分けられるようになり、当用日記はイギリスのコリンズ社のダイアリーをモデルとしたようだ。博文館では1895年から日記帳を作り始め、1920年頃までその販路はひたすら拡大、印刷製本は夏の間に終えるようになっていたので1922年9月1日の関東大震災でも被害を受けなかったそうである。

『日記をつづるということ』には日記の分類として、個人の日記と集団の日誌、あるいは秘匿する日記と公開する日記という二分法的分類をしている。さて私はといえば、小学生の頃は担任の先生に提出する日記があり、給食の時間に読んで書いてくれるコメントがうれしかった。中学生になってもその習慣で日記をつけたがその一方で、仲の良い女友達と二人で、あるいは複数の男女での「交換日記」にもセイを出した。たいてい誰かが飽きて数カ月で終っていたが、その日記帳を探すのもまた楽しかった。開きやすさなんて考えたこともない。圧巻はサンリオかなんかの鍵付き(!)ビニールカバーの日記帳。いったい何を書いていたのやら。恥ずかしいことを書いていたことだけはわかる。『日記をつづるということ』、副題は「国民教育装置とその逸脱」。

しもた屋之噺(93)

杉山洋一

ここ数ヶ月ずっともやもやと考えていることがあって、それは日本とヨーロッパを自分のなかでどう位置づけたらよいか、それほど明確な問いでもないのだけれど、それに近いことに漠然と思いを巡らせていました。

イタリアで勉強を始めて暫くは、ヨーロッパの技術がどれだけ優れているのか、分かるようでいて余り実感できなくてもどかしさを経験し、何年か経ってその差異が見えた瞬間、今度はとんでもないショックを受けて、自分がそれには及びもつかぬことに苛立ちさえ覚えたのを覚えています。それでも日本人特有の器用さで何とかそのギャップを埋めてゆくと、今度は「日本は何と違うのだろう」、とまるで自分がヨーロッパ人にでもなった心地で数年が過ぎると、それもただ自分の傲慢だった、と猛省するようになりました。別にこれが結論でもなく、今自分がそう感じているだけのことなのですが。

今日グルッペンで初めて3つのオーケストラを合わせるセッションがあり、指揮の沼尻さんと一緒に、大音響のなかサントリー小ホールの真ん中で、必死に楽譜を追っていたのですが、その折、先日沼尻さんが都響を振られた現代作品の演奏会のお話を少し伺いました。先日の沼尻さんの演奏はとてもすばらしかったので、演奏会中、傍らに座っていらしたO先生とも、これだけの演奏をヨーロッパのオーケストラでどれだけ聴くことができるだろう、世界に本当に誇れるものですねと話していたし、すぐ後ろの席に座っていた、細川さんのオペラを指揮したヨハネス・デビュスも深く感動していました。当日のリハーサルを見ていたスザンナ・マルッキも、翌朝ホテルで会うなり、日本の演奏会の水準の高さについて、興奮気味に話してくれました。

たぶん我々日本人は、自分たちが世界に誇れる優れた技術と文化を持っていることを理解しているけれど、ヨーロッパ、欧米に対しやはりどこか劣等感と羨望を捨てきれません。これは音楽に限らず、恐らくごく何にでも当てはめられる、ごく一般的な価値観ではないでしょうか。

これを例えばヨーロッパの国々でどう感じるかと考えると、イタリアに関して言えば、自分たちは世界でもっとも美しい風景の国で、世界に誇れるさまざまな文化が古くから培われてきた国であり、現在経済的には弱く不安定な国、という按配になるかとおもいます。経済的に遥かに豊かなフランスやイギリスに対し、ある種の羨望は隠しもしませんが、自国を貶めることもないように見えます。

今回、ウンスクチンとイリャンチャンの演奏会をやってみて、彼らが本当に韓国人である誇りを表現の強さと糧にしていることに、脱帽しました。もちろん韓国にもいろいろな人がいて、彼らが全てというつもりもありませんが、ヨーロッパ人からすれば、それは至極当然だと感じるに違いありませんし、個性としてとても肯定的に捉えられると思います。ウンスクさんが韓国的な作品を書こうとしているとは思いませんが、彼女にもとんでもない芯の強さと情熱があり、きっとそこに迷いがないのでしょう。聴き手をぐいぐいと引き込んでゆきます。

ぼうっとして、帰りの銀座線を反対方向に乗ったことすら暫く気づかなかったほど感動した細川さんの「班女」も、晦渋に音を絞るだけでは、あの鋼のように輝く表現力は生まれないはずです。細川さんの裡にある時間、個として、文化としての時間、それら全ての肯定的な発露こそが、「班女」の深い魅力につながっているようにおもいます。別に日本的かどうかは、最早大した意味はないともおもうのです。ただ、迷わずに自分の表現をきっぱりと言い切れるか、表現しきれるかどうか。ですから、日本人の演奏、日本的演奏、日本的作曲。そんな薄い言葉で現在カテゴライズできるかどうか。すべきものかどうか。出来たとして、それにどれだけの意味があるのか。それは否定なのか、肯定なのか。善悪で判断できるものなのか。そんなことをここ数ヶ月反芻しながら日々をやり過ごしています。

言うまでもなく、ヨーロッパでもたとえば、フランス、ドイツ、ロシア、イタリアとそれぞれ演奏や作曲のスタイルは違います。日本の土壌がそれらとまるで違うのは当然ですが、それら全てを否定すべきものだとも思えません。今の学生は「モデラート」の意味すら知らない。どう伝えたらよいでしょうね、と尋ねられたのですが、今の自分にはそれをどう伝えてよいのか、正直言葉がみつからないのです。こんな風に悶々としながらあと数年経って、何かが吹っ切れ迷いがなくなることを祈るばかりですが。

今日はこれからグルッペン練習のハイライト。昨晩2時までかけてスタッフの皆さんが設営してくださった大ホール仮設舞台での稽古にでかけてきます。この8月は、たくさんの若い演奏家や指揮者の、そして日本のオーケストラのすばらしさに触れることができて、そしてまた、自らの誇りを豊かに表現するたくさんの作品に出会えたことで、忘れることのできないものとなりました。明日のグルッペン本番も、皆さんの思いがぎっしり詰まった、歴史に残る名演になるに違いありません。
そこに立ち会える幸運に感謝しつつ。

(8月30日東京・三軒茶屋にて)

ジャワ舞踊と動物

冨岡三智

今回は、ジャワ舞踊でどんな動物が登場するのか紹介しよう。(最後に、登場しない動物も一例挙げたが…)一口に動物と言っても、動物の姿を描いた舞踊もあれば、シンボルとして意味を持つものもある。いずれにせよ、人々が身近に感じている動物であることには間違いない。

●象(gajah)
舞踊の振りには、象と付くものがいくつかある。ゆったりと揺れ動くような動きの形容によく使われる。

ガジャ・ゴリン(gajah ngoling)という動きでは、胸から目の高さの位置に右手を上げ、手頸を返しながら、手で摘まんでいるサンプール(舞踊で使う羽衣のような布)を引っ掛けたり払ったりする。左手は腰から下の位置で、その動きのバランスを取るように、やはりサンプールを払う。こう説明すると、手の動きだけが目に入るが、実はこの動きで大事なのは、上体を左右に揺することなのだ。だから、この部分では、音楽は少しテンポを落とすと格好いい。

ガジャ・ゴンベ(gajah ngombe)は「象が水を飲む」という意味。下ろした右手を、甲から上へ吊りあげられるように持って行き、耳の横でポーズを決める動き。最後のポーズはウクル・カルノの終わりのポーズと一緒だが、ウクル・カルノとガジャ・ゴンベでは、右手が経過するコースが違う。ちょうど、象が水を飲むのに鼻を持ち上げているようなポーズなので、この名前がある。

この動きは、次のガジャ・ガジャハンという男性舞踊の動きの中で使われる。しかし、ガンビョンという女性舞踊の中でも使われることがある。ガンビョンのテンポが移行する部分のつなぎの振りとして、ふつうはウクル・カルノを使うところ、故・ガリマン氏(舞踊家・振付家)はガジャ・ゴリンに変えて使っていたと、私の師匠は言っていた。

ガジャ・ガジャハン(gajah-gajahan)は「象のように」という意味。様々な動きが組み合わされていて複雑なので、一言で表現できない。またンガジャ(ngajah)という振りもある。「象になる」という意味だろうか?一言で言えば、体を左右に揺らせながら、後ずさりしてゆく振りで、シンプルだが重々しい。いずれも、宮廷男性舞踊のアルス(優形)で使われる。それはおそらく象が王の象徴であり、自己抑制されたアルスな状態の象徴であるからだろう。ちなみに、ジャワの王宮ではかつて象が飼われていた。その象使いが住んでいた地域がガジャハン(gajahan)である。
●孔雀(merak)
やはり宮廷男性舞踊のアルスの中に、ムラッ・カシンピル(mrak kasimpir)という動きがある。一般的に良く知られた「パムンカス」という舞踊の中にも入っている。「孔雀が羽を広げる」という意味だが、動きは非常に抽象的。振付の前後のつながりを見ていると、何か、最終的に到達した境地を象徴しているように感じる。たぶん孔雀も、宮廷では何らかのシンボルを担っているのだろう。

宮廷とは全然別の系統で、「ムラッ」という舞踊がある。これは孔雀の動きを模した舞踊で、餌を取るように首を突き出したり、肩を揺らしたり、手につけたマント(羽を表す)を広げたりする。子供から若い女性まで踊れる演目だが、動きがちょっとセクシーに感じられる。生物学的に言えば、色鮮やかな羽を持つクジャクはオスなのだが、舞踊では、孔雀の性別は明らかに女性である。「ムラッ」は、中部ジャワでも、西ジャワでも、東ジャワでも踊られている。(これら3地域は様式が異なる)

●サル
ジャワのサルの舞踊には種類が多い。これは1961年に始まった観光舞踊劇「ラーマーヤナ・バレエ」のために、多くの型が創りだされたからなのだ。アセアン各国の共同制作公演の「ラーマーヤナ」に出演していた私の師は、他のアセアンの国では、サルの型はジャワほど多くないようだと言っていた。ジャワで一般的に知られたサルの舞踊といえば、まずは「ワノロ」である。これも「ラーマーヤナ・バレエ」の時に創りだされた演目で、だいたい小学校低学年ぐらいまでの男の子用の演目であり、大勢の子どもたちが一度に踊る。だいたいこの年頃の男の子なんて、やっていることはサルと大して変わらないから、舞台を走り回っていたら本当にサルに見える。ハヌマンなどのキャラクターは花形なので、もっと年齢が上で、経験のある男の子のための演目である。

●ウサギ(kelinci)
ウサギの踊り「クリンチ」も「ラーマーヤナ・バレエ」のために創りだされた演目で、森の中の場面で登場する。私が不思議だと思うのは、ウサギなら女の子用の演目だと思えるのに、ジャワでは男の子用の演目になっていること。舞踊の動きとしては、男の子がやっても女の子がやってもよさそうな内容で、お遊戯会の踊りという感じである。

●イヌ
ここに挙げておいて何だが、現在、イヌの踊りはない。「ラーマーヤナ・バレエ」が始まったとき、ウサギの踊りと共に創られたという。私の師は、「ラーマーヤナ・バレエ」が始まって翌年か翌々年くらいから「クリンチ」に出演していた。その時にはすでにイヌの踊りがなくなっていたが、歌詞には「イヌとウサギが〜」という文句が残っていたという。

イヌの踊りがあったというのも驚きである。ジャワではイスラム教徒がほぼ9割を占めるが、イスラム教徒は犬を嫌う。さらに日本だと犬には忠義や忠節のイメージがある―たとえば、忠犬ハチ公や桃太郎にお供するイヌのように―が、そんなプラスイメージはジャワには全くないという。そういう理由で、イヌの踊りは用いられなくなったらしい。でも、そうなることは始めから分かりそうなものだ。私でも、なぜイヌの踊りを作ったのだろうかと思う。

余談だが、犬は嫌われるとはいえ、ジャワでは犬肉は薬食いとして食べられている。サテ・ジャムーというのがそれで、サテは串、ジャムーは漢方薬のこと。焼き鳥のように、串刺しにして食べる。体が温まるという。

ハラプチャから愛をこめて

さとうまき

7月の終わりに、北海道に里帰りをして、そのまま、ヒロシマに行き、そこから、クルディスタンをまわって、ヨルダンからシリア、そして今度は陸路で国境を越えてイラク国内の難民キャンプを訪問、一昨日東京に帰ってきた。

この約一ヶ月の旅は過酷だった。ヒロシマも熱かったが、クルディスタンが格別だ。40〜50度の暑さである。ホテルは冷房がきいているし、タクシーだって冷房がきいているのだが、ホテルからタクシーにのる一分間の歩行で、へばってしまうほどの暑さである。

ハラプチャという村が、イラン国境の近くにある。ここは、イラン・イラク戦争の末期に、イラク国籍を持つクルド人たちが、イランと結託しているとして、サッダーム・フセインは毒ガス兵器を使用し、約5000人が死亡したといわれている。1988年のことだ。

生存者の証言は生々しい。トラックの荷台にのって、逃げようとした所、運転手は、意識を失い、荷台に乗っていた人たちも次々と意識を失って倒れていった。ジャーナリストが2日後、荷台の中に生存者を発見し、イランの病院に連れて行ったという。そんな彼らは、ヒロシマ・ナガサキとハラプチャを並べ、非人道兵器の禁止を訴え、平和を呼びかける。でも、2003年のイラク戦争は、「アメリカは正しかった」と言い切る。イラクには大量破壊兵器は無かったのに?といっても、「いずれは、手に入れるだろう。手に入れた暁は使わないわけはない。私たちが生き証人である」という。
でも、イラクでは子どもたちがたくさん殺されてしまったのに?
「それでも、戦争は必要だった」と譲らない。

ハラプチャの人たちは毎年、ヒロシマ・ナガサキの原爆記念日に追悼イベントをやっているが、日本が敗戦し、いかなる武力行使も放棄するといった平和憲法を採択したのとは、異なる。やらないとやられちゃう。これは、ホロコーストを体験したユダヤ人にも当てはまる。彼らは、常にアラブ人を威嚇し、核武装までしてしまった。

しかし、話をヒロシマに戻してみれば、日本政府は、オバマ大統領が、核廃絶を宣言したことに、焦りを感じているという。核の傘が無くなったら困るから、核廃絶はやめてほしいと迫っているという。核廃絶に向けて今まで、先陣を切っていた日本が実は違った。これからの日本は自ら核武装すべきであると考える人もいる。

イラク戦争を支持した日本政府、その理由は、ハラプチャの人たちを代弁している。恒久平和という言葉がぐらつく。やられたらやり返す、やられる前にやってしまえ。世界は、ますますやる気満々になってしまっている。
 
私は、その後も旅を続け、戦争犠牲者の子どもたちの話を聞いた。未だに、怪我の痛みを訴える子どもたち。身体には手術の傷跡がくっきりと残っている。戦争はもうたくさんだ。

1/4 ガロンの牛乳パック

仲宗根浩

今年も旧の七夕の墓掃除を済ませたあとからすこし、風が涼しくなった。八月ももう終わりではないか、前々から懸案のささくれ畳を一気に替えてしまおうということになった。ここに住むようになって十二年、畳替え、というのを初めてやった。畳の部屋が二つで全十六枚全部取っ替えた。この借家の畳、一枚一枚が微妙に幅と長さが違っている。だから八畳間とはいえない。同じ畳八枚が敷かれている部屋だが微妙に広さも違う。まあ家賃も十二年値上げ無しだからそのまま住んでいるけど、畳替は自腹だと、大家。

畳替えとなると畳の部屋にあるものすべて移さなければいけない。一番物が多い板の間に。それで板の間がえらいことになっている。まだ片付いていない。新しい畳が敷かれた部屋は物が少なく広くなったのでなんとかこの広さを保ちつつ、捨てるものをいろいろ探している奥さんにこの家で「一番物を持っているのはあんたよ!」と責められる。十年くらい前、CD類は千枚超えないように、と定期的に数えていて聴かなくなったものはどんどん処分して、八百枚に抑えていたけど、いつの間にかその縛りも解けてまた増えはじめている。何年も数えていない。一年前にずいぶん処分したけど。買ってまだ読んでない本もたまってきた。休みの日はただただ寝てごろごろするのに時間を使うから本読む時間がない。畳が新しくなると余計にごろごろの時間は長くなるわさ。今の畳替えは畳屋さんが朝来て畳を全部車で持って行き、機械で表替えされたものを夕方に車で持って来て敷いてしまう。そうか、現場作業ではなくなったんだ。ドカベンの山田太郎のおじいちゃんのような畳屋さん、というのはもう遠い昔のことなんだ。

ごろごろしていると八月が終わりすぐ旧盆に入る。スーパーでは旧盆の必需品、線香、ウチカビ(あの世で使うお金)、最近はウチカビを燃やすための専用のボールも売っている。肉屋では豚の肩ロース肉、三枚肉がブロックではだかのまま並べられ、豚の中身のボイルも計り売り。子供の頃はまだ肉屋さんは斤を使っていたけど今、斤を使うのは食パンくらいか。でも牛乳のパックは1000mlではなく復帰前とおなじ946ml=1/4ガロンのまま。

オトメンと指を差されて(15)

大久保ゆう

ドラマ『オトメン(乙男)』面白いですね! 毎週欠かさず見ています。そういえばこういうことあったなあ、とか、やけにかわいい系の男の子に慕われることが多かったなあ、とかそういう昔のことを思い出しながら、一視聴者として楽しんでおります。

我々オトメンはあのような感じの生き物なのですが、やはり個人差というものもあるわけで、たとえば私はお化けとか幽霊とかが全然怖くありません。妖怪とか怪物とか宇宙人とか、とにかくオカルトといったものが(あくまでも娯楽として)大好きです。昔から怖い映画も平気で(むしろ笑いながら)見ていて、しかも絶叫マシンなんかに乗っても基本は笑ってます。ジェットコースターで大爆笑する人です。そんでもって一日じゅう乗り倒して、最終的には三半規管がおかしくなってホテルでぐったりするようなそんな感じ。

お化け屋敷は別ですよ、あれは怖がらせるものじゃなくて、びっくりさせるものです。驚かされたらさすがにあわてるんですが、それは幽霊とかお化けが怖いとはまた違うものじゃないですか。あくまでもびっくりしているのであって、怖いのではないのです。

ともかく、私はお仕事としては童話の翻訳やらホラーの翻訳やらをしているわけですが、よくよく考えてみればどちらもいわゆるフェアリーテイルなのです。ほんわかした妖精も、おぞましい怪物も、突き詰めればどっちもフェアリーですし、童話だって時に残酷なお話があるように、ホラーだって時に切ないものや愉快なものもあります。

私のなかではそのふたつに差はなくて、というか、私にとっての三大童話作家は、アンデルセンとグリムとラヴクラフトなのです! アンデルセン童話・グリム童話などと呼ばれるように、クトゥルー神話などもラヴクラフト童話と呼ばれてもいいのではないかと思うのです。神話に出てくる怪物たちのかわいいぬいぐるみだってありますし。ポニョのぬいぐるみと並べてもまったく違和感がありませんよ!(むしろポニョの方が怖いです。あれは本物の恐怖だよ、と周囲の人に力説するもあまり理解してもらえず。こちらを参照。)

当人も幼少の頃、童話などをよく読んでいたといいますし、作品もどこか子どもの見る悪夢じみたところがありますからね。あんまり言い過ぎると怒られるかもしれませんが、実際、少年少女向けの文庫で数社から出ていたりもします。今思い出してみれば、あのあたりのラインナップって相当変でした。特にSFとかミステリとかホラー方面で。ラヴクラフトだけじゃなくて、ディックとかレ・ファニュとかポリドリとかあったし、あれはポプラ社や金の星社、岩崎書店あとあかね書房でしたか、その節は非常にお世話になりました。

「童話」と言いますか「ジュヴナイル」というものは、言い切ったもの勝ちみたいなところもありまして、翻訳の仕方次第(文体次第)で何でも化けさせることができてしまう、不思議な不思議なくくりであったように思います。これって翻訳の魔法のひとつですよね。私が「朗読向け」として使う文体には、このあたりの本の影響が多々あります。白木茂さんや南洋一郎さん、亀山龍樹さんや久米元一さん、那須辰造さん――下手な逐語訳・完訳よりもずっと面白かったんです。

純文学も大衆文学もSFもホラーもミステリも何もかもがいっしょくたになるある種の「翻訳ジュヴナイル」という枠がかつてあったことは、のちにもっと勝手放題な「ライトノベル」という枠が育っていくことにもつながるのだと思いますが、それは別の話として。

私も最近はオトメンらしく、手すさびというか手あそびというか手なぐさみというか、児童文学を書いてみたりしていたりするわけなんですがもにょもにょ。あまり大声では言わないんですけどね。書いては気に入らず破り、書いては棄てというようなことを繰り返しているのですが、たまに知ってる人に内緒で読んでくださいというような感じで渡すこともあり。

翻訳だと結構人様に見せられるというか、そもそも人と人をつなぐためのものなのでおおっぴらに公開しても全然大丈夫なんですが、オリジナルなものっていうのはどうしても私的で、個人的なつながりのある「読みたい」と思っている人に渡すような側面があるように思っていまして、ほら、気恥ずかしいじゃないですか、何かそういうのって。

だからブログはかなり苦手で(毎日プライヴェートのことを書くとか絶対無理!)、SNSはちょっとはマシですけど……って、そういうことを考えてるからオトメンって言われるんでしょうけど。そこのところは「カフカみたいだね」と言ってもらった方がまだいいかも。私はカフカの翻訳もしましたけど、正直、未出版の草稿から翻訳されているものを見ると「お願い、やめてあげて!」と同情みたいなものを感じてしまいます。

けれども書いたものをおずおずと友人に差し出すカフカもわかるので、出版されたものは翻訳しちゃうんですけど。喜んでくれる人が目に見える形で何かを書きたいんでしょうね、きっと。翻訳はそのお手伝い、かな。

メキシコ頼り(24)オアハカのゲラゲッツァ

金野広美

メキシコでは日本の七五三にあたる、子供の成長を願うための大きな行事が3歳の誕生日に行われます。私の友人のデルフィーナが「妹の孫のフィエスタ(誕生会)が7月24日にオアハカであるので行かないか」と誘ってくれました。折りしも7月27日はオアハカのインディヘナの民族舞踊の祭典であるゲラゲッツァも開かれるので、これも見ることができると二つ返事で招待を受けることにしました。

オアハカにはデルフィーナのいとこのマウロの車で行くことになり、7月23日の夜、彼女の息子2人とマウロ夫婦の総勢6人で夜0時半メキシコ・シティーを出発しました。2時間ほど過ぎ、私がうとうとしていると、車が急にストップしました。なんとタイヤと車体をとめてある5本の軸のうち3本が折れたのでした。運転手のマウロはすぐ電話で連絡をとっていましたが、なにしろあたりは何もない真っ暗闇、星だけがきれいに光っているだけです。

4時間ほどすると修理人が車で着きましたが、部品がないとかでマウロと一緒に行ってしまいました。そして程なく別のマウロの親戚の修理工だという人がやって来て直してしまいました。マウロも帰ってきて、さあ出発しようとした時、その親戚の人がもう片方の車輪もとれそうなのに気づき、それからまた部品を買いに行ってしまいました。そして待つこと3時間、やっと両方の車輪が直り、車が止まってから8時間後にようやく出発できました。

くねくねした山道を車はすごいスピードで走ります。マウロの運転があまりに荒いので生きた心地がしなくて、早く着いてくれないかと願っていると、2時間後、またしても車がストップ。なんと今度はエンジンから煙が上がっているではありませんか。エンジンオイルが空っぽになっていました。「もー信じられなーい」でもこれで車から降りることができると内心はほっとしました。この車まだ新らしそうだったのに、メンテナンスが全くできていなかったのです。

メキシコでは車はとても高いのです。給料は日本の半分以下なのに車の値段は同じくらいです。そのため大半の人は月賦で車を買うため、返済に追われてメンテナンスにはお金をかけない人が多いのです。おまけに運転が荒いので道路にはトペといって小さな山型の障害物がたくさん作られています。トペの前ではブレーキをかけてゆっくり通過しないと頭を天井にぶつけてしまいます。何度も何度もブレーキをかけなければならないため車は早く痛みます。だから余計にメンテナンスが必要なのですが・・・・。

おまけにメキシコでは免許証は買うもので、日本のように自動車教習所のテストに合格しないと受けられないものではありません。運転は親に習い、メンテナンスの知識も十分ではありません。友人の話によると、たいがいの人は定期点検などせず、車は故障するまで乗り、故障したら親戚の車に詳しい人に直してもらうというのです。なんとも恐ろしい話です。私はもう二度と個人の車には乗らないことに決めました。

このように散々な目に会いながらも、バスとタクシーを乗り継いで着いた彼女の妹さんの村は、オアハカのパトロナル・デ・サンティアゴ・アポストルという、山あいにある人口300人の小さな村で、緑にあふれたとても静かな美しい村でした。夕方6時に着いたためフィエスタはすでに始まっていました。白のスーツを着たこの日の主役のオスカル君はとてもかわいい子で、みんなに祝福され、はしゃぎまわっていました。バルバコアというトウモロコシの実をつぶしてゆがいたものの上にやわらかい肉がふんだんにのったお祝い料理をいただき、ビールをいっぱいご馳走になりました。祭りのときには呼ばれて演奏するというギターを抱えた親子が、にぎやかなバンダやコリーダ、ランチェーラを演奏し、私もみんなと一緒に踊りました。
村の半数は親戚だといわれるくらいの村なので招待客の数も半端ではありません。多くの人が入れ替わり立ち代り朝まで飲み、食べ、踊り明かすのだそうです。しかし、私たちは前夜ほとんど寝ていないので、11時ごろにはひきあげさせてもらいました。

ぐっすり眠った次の日、デルフィーナたちと別れ、私はゲラゲッツァが開かれるオアハカセントロに移動しました。ここにはホテルで働くベトという友人がいるので彼のホテルに直行。そして同じく友人のエリもやってきて1年半ぶりの再会に話がはずみました。

ゲラゲッツァは年によって開催日が違うのですが、今年は7月20日と27日の月曜日に2回づつステージがあり、この期間中は他のインディヘナの村でも小規模の民族舞踊の祭典が開催されます。華やかなパレードが通りを練り歩き、フェリア・デ・メスカル(ここの名産のお酒メスカルのお祭り)が開かれ、広場では市がたち、メキシコ各地からだけでなく海外からも多くの人がやってきてとてもにぎやかになります。私もベトたちと街を歩き回り、広場では踊りの輪に加わりながら夜遅くまで飲んで、食べて、踊って楽しく過ごしました。

次の日の朝、ゲラゲッツァ会場があるフォルティンの丘に行きました。1万2000人が入る会場は満員で1時間前に着いたにもかかわらず、席を確保するのに苦労しました。1人でうろうろしていると年配のメキシコ人の男性が「ここが空いているよ」と教えてくれ、その男性の隣に座りました。会場では楽団が演奏を始めていたので観客はすでに盛り上がっていて、踊っている人もいました。

今年は12の地域からそれぞれの村に伝わっている踊りが披露されました。サン・パブロ・マクイルティアンギスの「エル・トリート・セラーノ」という踊りは、女性が牛に扮し、男性を打ち負かすというユーモラスな踊りで、男性が舞台から落とされるたびに大きな歓声がわき、マッチョの国でのせめてもの抵抗の踊りのようでなかなかおもしろかったです。また、ビージャ・デ・サーチラからはダンサ・デ・ラ・プルマという大きな直径1.5メートルはある丸くて平たい羽飾りをつけて踊る踊りがありました。これはスペインによるアステカ帝国征服の様子を表したもので、ピョンピョン跳びながら踊るものですが、あとでこの羽飾りを持たせてもらいました。あまりの重さにバランスをとるだけでも大変なのに、これで踊るのだからすごいなあと感心してしまいました。

黒地に色とりどりの花模様をあしらった素晴らしい刺繍の衣装が目をひく、シウダ・イステペックの踊りの音楽は、にぎやかなマリアッチで演奏するワルツで、優美な中に輝く太陽のような明るさのある興味深い踊りでした。このほかにも収穫の喜びを表現したものや、男女の恋のかけひきを表したものなど、それぞれにカラフルな民族衣装と相まってとても美しく楽しいものでした。そして、各踊りの最後にはパンや果物、帽子など、各村で採れたり、作られたものが舞台から客席に投げられ、観客は立ち上がって掴み取るのに一生懸命でした。私は何もゲットできなかったのですが、となりの男性が、獲得したパンをひとつくれました。ほのかに甘くて素朴な味わいのあるおいしいパンでした。

この男性は毎年ゲラゲッツァを見に来るそうで、「インディヘナの伝統舞踊も民族衣装もメキシコの宝で、メキシコ人の誇りだ」と熱っぽく語りました。しかし私は彼の言葉を聞いたとき、思わず反感を覚えてしまいました。それは、メキシコ人が彼らの伝統芸能や美しい手工芸品をメキシコの誇りだというのなら、なぜインディヘナに対する根深い差別を放置しているのかと聞きたくなったのです。

ゲラゲッツァの日だけインディヘナはメキシコ中の、そして、世界からやってきた観光客の注目を一身に浴びて踊ることができます。しかし、次の日からはまた、過酷な日常が待っているのです。彼らがきらびやかに、そして晴れ晴れとした表情で踊れば踊るほど、私はとても悲しくなってきました。そして舞台が終わった時、私一人が祭りの余韻の中、トボトボと歩いていました。

最近の野望

大野晋

さて、なんとなくタイトルは物騒ですが、本人はいたって物騒なことは嫌いだったりします。まあ、騒ぎを起こすのは好きかな?

このところ、青空文庫で狙っているのは10年留保というベルヌ条約の抜け道で著作権が切れている書籍の登録がひとつです。著作権は現在の日本では50年間保護されるのですが、これがなんとも長いこと。最近の変化の激しい出版の世界では一年一昔の感もあり、10年だととんでもない昔。50年なんて著作が残る年数ではありません。しかし、世界の趨勢は某ネズミ国のロビー活動の成果もあって70年、100年と延びる傾向にある。これが問題。そんなに長く読まれる著作なんてほんの一部なのに、その一部のために全てが振り回されている感じがします。

その伸びる著作権保護期間にあって、10年で著作権が切れてしまうといううれしい制度が「10年留保」。日本の著作権が改正された1970年以前の海外著作であれば、10年間日本で翻訳されることがなければ自由に、翻訳権の取得なしに翻訳出版できるといううれしい制度です。しかも、日本だけのローカルルールというよりもベルヌ条約で認められていた国際的な権利なんですね。(まあ、戦時加算や挿絵などの権利は保護されるなど考えるべき項目は多いんですけどね)これを使って、まだ化石になっていない著作を青空文庫の本棚に置いてみたいなあと思っております。ふふふ。

特に、探偵小説、ミステリーといった分野は昔から少数のコアな推進役(出版、研究、そして執筆)とコアな読者が中心になって形作られていますから、比較的書誌情報は整備されていますので、この分野のオールドミステリー(クイーン、クリスティあたりの初期のものまで入りそうですが)を中心に探して見たいと思っています。

もうひとつは校歌だとか、県歌だとか、寮歌だとか、そういったものを青空文庫に収集していきたいなあと。以前から、野口雨情の童話を登録してみたりと「うた」を入れておきたいという気持ちはあったのですが、昨今の流れから過疎化や市町村合併から古くからある小学校などが廃校になる事態が進んでいますし、そうでなくても古い歌詞は難しいので今の子の感性にあわないと、校歌が作り変えられることが多くあります。しかし、そうやって、捨てられた歌は残念ながら卒業生や古い地域の住民の記憶に残っても、やがてはそういった人たちの存在とともに消えていってしまう命。ならば、記録として、どこかにアーカイブしておきたいなあ、というのが背景です。

とりあえずは長野県歌「信濃の国」の作詞者の浅井冽が書いた校歌が松本市教育委員会が編纂した書籍にまとめられていますから、これをなんとかやっつけようかと。もひとつ背景としてあるとすると、まあ、消えていく存在として寮歌というものがあって、自分も随分とお世話になった寮歌をどこかに残せないものだろうか?という思いがずっとあったというのもあります。(春寂寥なんて前説からしていいですよ)大学の寮自体の存在が変化し、そしてその存在自体がなくなろうとしているとすると、そこに大正の時代から綿々と存在した寮の歌というのもどこかにのこしたいなあと。

ただ、難しいのが著作権の確認が非常に取りにくいんですね。もともと、当時旧制高校の学生だった(私の専門学部の方の寮歌は実は先生も作っていたりもするんですが)作者をどう特定して、著作権の有無を確認しようとすると大きな壁が立ちふさがっています。ただし、寮歌の存在自体は、昔から寮歌として採用されたら公共物と、今でいうパブリックドメインあつかいだったりしますから、過去、現在の寮生に言わせると、そんなもの、出して文句を言われる筋合いじゃない、ということになるんですが。

一部の著作権管理団体に管理委託されている作者の寮歌ではない限り、実際の問題は少なそうに思っています。これも、どういう手順、どういう手続きを持って、青空文庫の本館に置けるか?というのが当面の課題です。当面の長野県歌をやっつけたら、次は土井晩翠作詞の旧制松校校歌かなあ。。。

話は変わりますが、青空文庫のアクセスランキングリストというのが最近公開されましたが、これをぱらぱらと見ていると面白いことに気付きます。なんと、テキスト版とHTML(Web)版とでランキングに上がっている著作の構成が違うんですね。Webの方はどうも有名指向というか、文庫本などのランキングに近いものがあるのに対して、テキストはあきらかにミステリー指向。ずらっと探偵小説、推理小説、スリラー、ミステリーが多くランキング上位に並んでいます。たぶん、テキスト版はiPodやiPhoneに入れると持ち歩けるために、通勤や通学、旅行などの合間に読むためにダウンロードしているのだろうなとの推測ができて面白い。日本人、やはり、かなりのミステリー好きのようです。このランキングに新しいカテゴリーから何件入るか?楽しみです。

以上、小さな野望ですが、過去、青空「時代劇」文庫化計画や青空「探偵小説」文庫化計画、青空「大衆文学」文庫化計画などをしかけた(と本人は思っている)だけに、また、当分、こういった感じでなにが起きるか楽しもうと思っています。
やはり、私って物騒な人間かもしれません。

青いこくわの実

くぼたのぞみ

擦り傷だらけの
うで、ひじ、すね
抱えてかえる山道で
もぎとったこくわの
熟れる前の青い実は
白い白い米粒の奥深く
ずずずっ
と埋めておくんだもん

押し入れをあける
いきなり浮かぶ
「水銀ボルドー」
ダンボール箱に印刷されて
目線の高さに
八歳の

真四角な晒布
三角に折って
しんに新聞紙入れて
さっと頭巾結びする母さんの
素手が撒く──ららら
白い粉は
ぬめり、ぬめる、泥濘の深みから
空にむかってつんつんのびる
青い刃の
葉先にかかり
朝露にぬれた
畦草にかかり
立ちつくす少女
の目にもかかり
のど粘膜に着地して
みごとな刻印をのこす

思えばとおい
不知火の海も北の大地も
ららら列島
科学の子のおともだちよね
やがて
こくわの実もあまく熟して

音楽すること

高橋悠治

まデイヴィッド・グレイバーの出るシンポジウムをききにいった 資本主義ももう長くない すべてを監視するセキュリティー装置は高くつく いらない商品をますます大量に作り 売れなければ 先物買いをする すべてが負債でうごいている 権力は要求を拒否し それができなくなると部分的に取り込み それでもたりなければ戦争を起こして注意をそらす というようなことをひとりで笑いながら言っていたが それが日本語に翻訳されると おなじ話もどこか暗くまじめで笑えないものに変わっていた 

ベトナム戦争中の1968年はたしかに世界を変えた 制度も一枚岩の反体制も信用されなくなった しかし運動自体は継続できなかった まだ非日常的で コミューンの日々が終わり 日常がもどってくると 解体し 消えていった 反逆は制度に部分的にとりこまれ 回収された 日常のなかでの革命は それでもすこしずつすすんでいた 権力や公認された位置をもとめない女たちや先住民のなかに 1989年から2001年の頃 社会をうごかす大きな流れになってまたあらわれた時は 非中枢 非権力 非統一の考えかたがうけいれられるようになっていた それでもアフガニスタンやイラクの戦争が起こる グレイバーの考えでは それはアメリカ人の注意を権力からそらすための戦争だったということになるが それでは殺されたイラク人たちは犠牲の羊ということか

先月書いたことのつづきだが 「すでにないもの」の記憶 と「まだない」夢とのあいだにゆれている「いま」の半透明のスクリーンに映るはためく翼の重ね書きのずれた線の束が ここをすぎていったかたちのないうごきの軌跡となって 不安定にゆらぎつづけるのが音楽ならば ざわめくひびきをつくりだす息づかいや指先は 外側から見える書かれた楽譜や 結果としての音の分析からではなく ひとつではない複数の身体の内部運動とそれらを顧みる内部感覚が途絶えずに「音楽している」プロセスを支えているということが 音楽がつづいているあいだは 声や楽器や演奏者をききわけながら 音楽の内側で音楽として生きられ 経験されている 音楽がやむと この全体は失われ 音がうごきまわっていた空間も 跡形もない 「いま」は記憶と夢に回収され 語ることばは 音楽にとどかない 記号としての音楽 表象としての音楽ではない 記憶であり夢である創造のプロセスを手放さないでいれば 音楽は世界とつながっている 歴史 文化の伝統 政治 社会 自然 それらのなかで「音楽する」ことは ひとつの交換であり 世界をともに感じる生きかたでもあるだろう

20世紀の音楽は 設計図にしたがって 部品を集めて組み立て みがきあげた機械のように 中心や統一や構成に支配されていたし 産業化し 技術化し 商品化して回収されるものだった 作曲家と演奏家と聴衆は 資本家と労働者と消費者のようなヒエラルキーを崩せないで 新しさをもとめる作曲家は 不要な商品をつくりつづける資本家のように 無目的な開発と理解されない悩みのあいだで 道はないが進まねばならないと自分をなぐさめるばかりだった 冒険や発見を否定したり 後もどりはできないし 回収された技術は 音楽を古い規則から自由にしたこともたしかだ 創造の場のヒエラルキーをこわすやりかたはあるだろう 生産と消費 あるいは理論と実践のような産業的科学的なたとえでなく 音をきく 音楽をする という行為の共有から生まれてくるもの さまざまな場 状況 条件のなかで変化しながら維持される活動を反省しながら確実なものにし 人びとのあいだへとひらいていく方向があるはずだ

閏月(ユンヂチ)に

仲宗根浩

電話の着信音が鳴る。事務所の内線電話か? はたまた外線か? そのうち音が切れる。
「仲宗根さんの携帯じゃないですか?」
携帯を取り出す。着信の記録がある。初着信は電話を取ることなく終わった。あまりにも普通の着信音に設定していたのでわからない。その上、ケースに入った携帯電話は音がやわらかくすぐ近くで鳴っているような感じがしない。携帯には着信時、電話機自体を振動させる機能があったことに気づき、その設定をする。携帯初心者にとってはこれを持ち歩き続けることは戸惑いばかり。購入した機種は、自分とは真逆のスマートなビジネスマンが持つモデル。電話機自体が華奢ですぐこわれるような気がしたので近所の革製品を作っているところで生意気にも携帯ケースをオーダーしたら五千円。購入後はマニュアルを読みまくり、付箋を貼り、学習する。料金のコースはどうせかけることは少ないだろうから二、三ヶ月は様子見て基本料金が一番安いものにする。しかし、基本料金が安いと通話料が高く、無料通話分もそれなりの少ない額、ちょと携帯サイトみればパケットで結構高くつく、複雑な料金体系。仕事場では携帯を持ちながら、内線用のPHSも持たされる。家にいて、二、三十分ちょっと外に出るときは携帯を持つのを忘れる。気がついてもポケットに一つ新たにものを入れたり、首からぶら下げたりするのもなんか面倒なので、ドライブモードというのを見つけた。これであれば着信の履歴は残り、ちょっと外に出るときは持たずにすむ。私用では使う気がないので携帯を持っていることを知っている知人に番号を教えてと頼まれたが、今のところは番号は教える気はない、と断る。現在、仕事上で携帯電話で話したのは四回、メールのやり取り二回。こんな使用頻度で本当に必要なのか。携帯電話を持っていてあたり前のうえで話しが進められる世の中、持っていなくちゃいけないものなのか。

マーティン・スコセッシが監督したストーンズのライヴ・ドキュメント映画「シャイン・ア・ライト」とデジタル・リマスター版、ハル・アシュビーが監督の「レッツ・スペンド・ナイト・トゥゲザー」のDVDが届く。「シャイン・ア・ライト」から見る。ロン・ウッドのスライド・ギター、う〜ん相変わらず下手だ。今、バンド・サウンドを支えているのはピアノとキーボードのチャック・リーヴェル、ベースのダリル・ジョーンズというのがよくわかった。スコセッシは「ラスト・ワルツ」でできなかった一つのバンドのライヴ・ドキュメントの欲求不満をこの映画で解消したんじゃない?という感じだった。スコセッシの小細工が気になる映画。ハル・アシュビーの作品は二十数年前に前売り券を買い、映画館で見て以来。あの頃は映画館は今みたいに入れ換え制ではなく、外に出なきゃ、一枚の券で朝から夜まで同じ映画を何回も見ることができた。はやい場面から出てくる、ピ
アノの故イアン・スチュアートの姿に感動。こちらは映画自体がロックン・ロールだ。最近は映画館で映画を見ることはない。ストーンズだって本当は大画面で見たいが、あの5.1chサラウンドというのがどうも馴染めない。2chステレオで十分だろうよ。普段、ラジオのFMはモノラルで聴いている。チャンネル多いからといっていい音とは限らない。うるさいだけのこともある。最後に映画館に行ったのは子供と行った仮面ライダー劇場版と実写版「鉄人28号」をはしごしたときだ。

旧の五月が二回ある今年、テレビでは仏壇、霊園、お墓屋さんのCMが多い。閏月のことをユンヂチという。仏壇の交換や移動、お墓を建てるのはユンヂチに、というのが昔から言われている。夜に墓屋さんの前を車で通ったら、展示されている墓がLEDで見事にライトアップされているではないか。暗闇に墓だけが浮き上がっていた。月々、旧暦の行事があるが、ユンヂチには神様も月がわからなくなり、その間に仏壇を買い替えたり、墓を建てたりしてしまえ、というのを何かで見たおぼえがあるので、奥さんにユンヂチのことを聞かれて、そう答えておいた。

ひさしぶりに用事で西海岸のリゾードホテルが並ぶ国道58号線に出たとき、夏の海を少しだけ目に入る。

乳(ち)の包むごとき凜として文字新し――翠の石筍58

藤井貞和

ち ちからいっぱい、
の のばす毛糸、
つ つきとおす針、
つ つみあげた布地、
む 胸にバリケード?
ご ごらんのとおりいまや、
と 解けないハリケート(針、毛糸)、
き 霧吹きで吹く、
りん りんねるや、
と 解きほぐす袷。
し しつけたそでに、 
て 手をとおし、
も もつれる刺繍に、
じ じゅばんの、
あ 洗い張り。
た タトゥーの素肌に、
ら ラメのしたぎ、
し しぼりのパジャマ

(吉本隆明さんが「和歌」という語を言わないので〈前月参照〉、『新古今和歌集』をどう言うのかしらと心配したら、ちゃんと「新古今集」と言ってました。)

オトメンと指を差されて(14)

大久保ゆう

ついに! ついについに! オトメンという言葉の出所である菅野文さんのマンガ『オトメン(乙男)』のドラマが今月から始まるわけですが!

本原稿執筆時ではまだドラマが放映されていないため、いろんな意味でドキドキしております。なんといってもTVですから、このドラマで「オトメン」のパブリックイメージが形成されるといっても過言じゃありません。なので当事者としましてもぜひよいドラマになってほしいと思っています。というわけで頑張れ岡田くん! 応援してるよ!

と、せっかくなので今回はそのTVドラマを意識したお話でも。

……ええと(こほん)。

……ご覧になった方の夢を壊すようで(げほげほ)、とてもとても気の毒に思うのですが(むむむ)。その、現実的なことでたいへん心苦しく(きりきり)、そして当たり前と言えば当たり前なんですが(うんうん)。

――オトメンと言っても、みんながみんなイケメンなわけではありませんっっ! 本当に申し訳ありませんっっっ!

……といっても(ふう)、いわゆるスマートなイケメンに限らないっていうことなんですけどね(あはは)。

やはりそもそもオトメンのみなさんは「男らしい」わけで、そんでもってその源泉は「体育会系」だったり「スポーツマン」だったりするところにあるわけで。そうすると、一方には「さわやか系」があって、もう一方には「濃ゆい系」がありまして。もちろん「ストイック」な方面もありますよね。(ちなみにオトメンは草食系男子ではないのでなよっとした人はいません。)

それで個人的な経験上、そのどちらにもプライヴェートでキュートな趣味をお持ちの方はいらっしゃるわけで。

とりあえず思い出せるだけのあらゆるスポーツマン&アスリートの方を頭に浮かべてください。それからそのどなたもオトメンでありうると考えてみてください。ぬいぐるみが好きだったり、料理が趣味だったり、甘いものが好きだったり……あんな人も……こんな人も……

……ええと、ご想像できましたでしょうか。そういうわけなんです(他意はありません)。

私ですか? う〜ん、昔から「さわやか」だとはよく言われましたが、ルックスの方は「大久保くんの顔もそんなに悪くないよ!」などと微妙な励ましのお声をいただくくらいなので、まあその程度なのでしょう。ただ身だしなみはみなさんしっかりなされるので、お見苦しくはないと思いますよ(にこっ)。

あとそのスポーツマン的側面からもうひとつお話をすると、元々が元々のため、何事にも根性論や精神論がまかり通ってしまうところがありまして。たとえば私は今ダイエットをしているわけですが(先月参照)、「食事制限+運動」というほぼ正面突破のような方法を欠かさず二〜三ヶ月続けてしまった挙げ句、もう早くも「6kg」減量していたりしてしまうわけで。

まったく我ながらわけがわかりません。なかなかダイエットできずに試行錯誤してその果てにお手軽なダイエット法でも発見してここで報告してちょっと話題にでもなれればいいななどと考えていたのに、簡単にダイエットできてしまっては何のネタにもならないじゃありませんかっ! ある意味、私自身が最大の敵か!(書き手として)

そうなんですよね、そういえば黙々とトレーニングとか練習とかやってたわけですから、ダイエットもそりゃ黙々と続けてしまいますよね。自分を甘く見てました。「こつこつ」とか「黙々」とか大好物なんでした。

何ということだ! 大誤算だ!

しかし手を抜くことなどできないのです。それだけはおのれが許さないわけでして。そうするとネタにならない上に、あんまり人にもお勧めできないことになってしまって。(ダイエットの秘訣=根性、って人をバカにするのもいい加減にしろって感じですものね。)

……本当に、困った話です。

  【おまけ】

Q.『オトメン(乙男)』のドラマが始まるということですが、それに関連して大久保さんのお仕事は増えていたりするんでしょうか?

A.いやいや、世の中そんなに甘くはないですよ。今まで通り、節約とやりくりを駆使する割と最底辺の生活です。ただ、昔からの傾向ではあったのですが、キュートでファンシーな感じのお話をいただくことが最近多くなったかもしれません。

Q.やっぱりぬいぐるみとか好きなんですか?

A.あ……はい、好きです。でもやっぱり買うのは恥ずかしいですし、あとぬいぐるみの趣味がちょっと歪んでます。何か怪物とかモンスターのぬいぐるみとか。そういうのの方が。かわいい一辺倒なやつよりも、ちょっと強そうなやつとか。

Q.少女マンガとか読みますか?

A.たまに。そんでもって号泣します。

Q.こんな連載してて恥ずかしくないんですか?

A.恥ずかしいですよっ! いつももだえ苦しみながら書いてるんですっ! ……でも、頑張ります(基本、負けず嫌いなので!)。

メキシコ 便り(23)エルタヒン遺跡と土のピラミッド

金野広美

メキシコには、テオティワカン、チチェンイツァーをはじめとし、まだ発掘されていないものも含めて、6000の遺跡があると言われています。それらの遺跡を調査、発掘するために若い日本人研究者たちが活動しています。そんな彼らが「メキシコ文化研究会」というグループをつくり、2007年、2008年、2009年の秋から春にかけて連続講演会を日本大使館領事部で開催しました。「国際都市テオティワカンとその住居」「サアチラ王朝史」「モンテ·アルバン衰退後のサポテカ文化」「ミステカ·アルタ」など、とても興味深い内容で、私もかかさず参加しました。

そんな中のひとつ「タヒン遺跡を歩こう」で、講演者のkさんが「おまけの話です」と話をされたのですが、ベラクルスの近くのテハールという村で、最近土のピラミッドが発見されたというのです。私はその、おまけの話に興味津々、土のピラミッドと、もちろんエルタヒン遺跡を見るために、ベラクルスに行くことにしました。

まずエルタヒン遺跡のある、ベラクルス州パパントラへ。メキシコシティーから朝9時のバスに乗り、着いたのが3時。ここからミニバスで30分のはずが、1時間余りかかり遺跡には4時過ぎに到着。入り口のおじさんが「明日もまた来ていいよ。タダで入れてあげるから」と、いうので、安心して中に入りました。

ここには、窓の窪みが365個あり、カレンダーになっている、壁がんのピラミッドや、17の球技場、タヒン様式といわれる、エントレラセスという交錯文様やボルタスという、渦巻文様のレリーフがたくさん残されています。球技場では、フエゴ・デ・ペロタという、神に捧げるための競技が行われていました。これはちょうどサッカーとバスケットボールを足したような競技で、足と腰とひじだけを使い、ゴムでできたボールを、競技場の中央上方につけられた、直径30センチ程の輪の中を通すというものなのですが、その輪までが、4、5メートルあり、あんな上にある小さな輪に、よく手を使わずにボールが入るなあと、感心してしまいました。

南の球技場の北東に、勝ったチームのリーダーを人身供犠するために殺しているレリーフがあるのですが、そのあまりの鮮明さに、ちょっとショックを受けてしまいました。神は負けた者の血など欲しないということで、勝者のリーダーが生贄になったのだといわれていますが、私ならわざと負けるだろうな、などと思いながら遺跡を後にしました。

エルタヒンの研究を13年間続けている、先の講演会の講師kさんと食事をした時、彼に「本当に、勝者のリーダーが生贄にされたのですか?」と、聞いてみました。すると彼は「神は敗者の生贄など欲しないという考えもありますが、生贄の衣装が立派なので多分勝者だろうといわれていますが、本当のところは分かりません」と答えられました。その他にも、いろいろ質問したのですが、答えはいつも「そういわれていますが、本当のところは分かりません」ばかりなのです。

確かに誰も見てきた人はいない訳ですから、本当のところは分からないのは当然でしょうが、私は「考古学って、地道で長い時間のかかる大変な学問だと思っていましたが、ひょっとして、結構自由で、イマジネーションを際限無く働かせることのできる、楽しい学問なのではありませんか?」と聞いてしまいました。すると彼は「そうなんです、親父にも、お前のやっている事は、誰も見てきたもんはおらんのやから、好きなように解釈しとったらええ、楽な仕事やな、と言われました」と、笑いながら話されました。

しかしそんな彼も、奨学金をもらいながらの生活は苦しいらしく、発掘やガイドのアルバイトをしているそうです。でも実直で生真面目な彼のガイドとしての説明は、いつも「そういわれていますが、本当のところは分かりません」ばかりで、私は「発掘はともかく、ガイドの仕事は向いていませんね、だって観光客は、はっきりとした説明を聞いて納得したいのに、いつもあなたの様に、本当のところは分かりません、ばかりではね」と、つい言ってしまいました。すると彼は「そうですよね」と、納得したように、苦笑いしていました。

そんな彼のエルタヒンに関する、いろいろな説明を思い出しながら遺跡を見学した次の日、ベラクルスからバスで、1時間のテハールに行きました。土のピラミッドは、ラ・ホヤ遺跡と名付けられているのですが、タクシーの運転手に聞いても、道行く人に尋ねても分かりません。すると雑貨屋のおばさんが「ああ、セサリオさんの家ね」と教えてくれました。

そこにタクシーで行くと、セサリオさんの親戚の人だというおじさんが「自由に見ていいですよ」と言ってくれたので、大きな敷地の中に入りました。ありました。ありました。高さ5メートル、幅10メートル、奥行き5メートル位の小ぶりの土のピラミッドが。半分位は崩れているのですが、階段の形がはっきりと見てとれ、確かにピラミッドです。

2年前に発見されたとかで、詳しいことは何ひとつ解っていないので、これからの調査を待たなければならないとのことですが、ここは個人の敷地なので、まず政府がこの土地を買い取ることから始めなければいけません。しかし、何せメキシコのことです、何事にもゆっくりで、まだ何も始まっていないそうです。ピラミッドの多くは、石でできていますが、これは土です。早くしないと、いつまでも野ざらしにしていたのでは壊れてしまうと、私一人がヤキモキしてしまいました。

クラシック音楽超初心者ガイドなど

大野晋

さて、コンサートに通っているとときどきいろいろと周りの声が聞こえてくる。つい最近も、近所に座っていた初老の夫婦が、「最初の曲は知ってたけど、次の曲はよくわからなかったなあ」などと話していた。これが非常にレアな、演奏機会の少ない曲ならばまだしも、シューマンやベートーヴェンやスメタナなどでもそうなのだから、まあ、不勉強と言えないこともないが、いまさらクラシック音楽の勉強もないだろうから、音楽鑑賞のための超初心者向けのガイドなどを書いてみようかと思った次第。

まず、バッハとか、ハイドンとかいった作曲家の場合には、音の繰り返しを楽しむことになるから旋律に乗って、じゃんじゃんじゃん繰り返しなどと頭の中でやっているとだんだんと気持ちよくなってくるものだ。まあ、モーツアルトなどは独特の揺れなどもあるので、わからなくなったら寝てしまえば間違いない。

ベートーヴェン、だのブラームスだのはその点、ちょっと難しい。なまじ旋律やら難しい繰り返しやら、趣味趣向がちりばめられているので、こいつらはとりあえず何曲か聞いて、パターンを覚えてしまおう。だいたい、演奏機会の多い曲なんて数曲だから、それらを全て、「クラシック100曲集」といったようなタイトルのCDで覚えてしまえば、やっつけるのは簡単だ。

そのあと出てくるマーラーやらブルックナーといった作曲家はとにかく長いのが難点である。あまり聴く機会のない人間が聴くととにかく暇な旋律の繰り返しが多い。まあ、よく聴いてみれば、どこかの誰かの曲からパクった旋律が出て来て暇つぶしも可能なのだが、最初のうちはとにかく飽きると思う。(いやあ、偉そうに言うが、私だって学生時代はこいつらの長い曲には辟易していたものだ)仕方がないので、眠くなったら寝るのが一番だろう。そのうち、音の羅列や音階の移行に面白さや美しさを感じる時がやってくるかもしれない。まあ、私の場合はそこまで20年くらいかかったので、時間がない人は適当にしといた方がいいだろう。

そのほか、サティだとか、ラヴェルだとか、ドヴュッシーだとかいった作曲家はとにかく寝てしまうに限る。そのために、テンポの揺れのある曲を書いてくれたのだ。できれば、寝椅子の用意されたホールがいいだろう。(私はうまくチケットが取れたことはないので、実際に寝椅子のホールで寝た経験は残念ながらない。ま。その分、普通のホールではときどき意識がなくなっているけれど)

ロシア系のプロコフィエフやらショスタコービッチやらは近づかない方がましだと思うが、もし、演目に入っていたら、きれいな旋律(メロディー)を聴こうと思わずに、どんどんどん、とか、ばんばんばんとか、ビートを感じるようにすればいいだろう。こいつらは、ほとんど、ロック、特にハードロックの世界に住んでいる。美空ひばりではなく、ハードロックやパンクの世界だと思えばまちがいはあるまい。縦乗りに興じていればそのうち気持ち良くなる。

現代音楽はもっと世界が違っていて、音楽ではなく、「音」として、何を感じるか? の世界に入って来る。いわば、怪談のヒュードロドロの世界である。音楽ではなく、音として、感じるべきだろう。などと難しい事を考えなくても、最近ではドラマのBGMでこの系統の音楽は多用される傾向にある。そうドラマのBGMなのだ。そう思えば、結構面白くなるに違いない。

まあ、などとバカなことを書いてきたが、実は意外と美術の世界にも通じることが多い。

具象から抽象へ。パターンからカオスへ。ちょっと先に進みたい気になったら、芸術論を学ぶと面白いだろう。きっと、老後の20年では済まないくらいに広い面白い世界が広がっているに違いないから。

ジャワ舞踊の美・境地を表す語

冨岡三智

たとえば能ならば「幽玄」、利休のお茶なら「わび」というように、芸道ではそれぞれ目指すべき理想の境地が、簡潔な語で言い表される。では、ジャワ舞踊で追求すべき境地は、どういう単語で表されるのだろう。ここではいくつか挙げてみたが、これらはジャワ舞踊だけではなく、ジャワ人の行動様式やジャワ文化一般を語る上でも重視な単語だと言える。

●バニュ・ミリ(banyu mili)
ジャワ語でバニュは水、ミリは流れるという意味で、水が流れるような様をいう。ジャワ舞踊の動きの流れるような滑らかさ、しなやかさを形容するのに使われる語。

●アルス(alus)
アルスはジャワ語で、インドネシア語ではハルス(halus)という。アルスとは自己抑制された状態で、物腰が柔らかく優美にふるまうさま。反対語はカサール(kasar)で、自己抑制ができず、粗野にふるまうさまを言う。ラーマーヤナ物語でたとえると、ラーマ王子がアルスで、ラウォノがカサールなキャラクターである。染谷臣道の著書で「アルースとカサール ―現代ジャワ文明の構造と動態」というのがあるように、アルスとカサールはジャワ文化を理解する上で最も基本的な概念だと言える。

●スメディ(semedi)
スメディとは瞑想に入って精神集中した状態のこと。サンスクリット語のサマディsamadhiからきている。ちなみにサマディを音訳すると三昧(ざんまい)になる。本文では三番目に挙げたけれど、「目指す境地」を表す語としてはスメディが最もふさわしいように思う。舞踊の実践は一種の瞑想のようなものだと考えられている。

●スメレー(semeleh)
スメレーはおだやかで落ち着いたという意味。ジャワ舞踊の良し悪しを評価する場合に、最もよく使われる語だと言える。スメディも同じような意味で使われているように感じるが、辞書で見ると、スメレーには「神を信じ、神に身をゆだねた」と言うニュアンスがあるようだ。スメディという語には、瞑想修行によって到達してゆく過程が意識され、その過程を経て得た安寧な心の状態がスメレーなのかも、と思ったりする。

●スピ(sepi)
スピはインドネシア語にもあり、人気(ひとけ)がない、寂しいという意味。これを舞踊の境地を表す語として使う人は少ないかも知れないが、私の師はスメレーと並んでこの語を使った。訳語としては「静寂」が一番ぴったりくるような気がする。喜怒哀楽の感情や我執を超越した無の境地、寂々たる境地なのかと思っている。

●ウィンギット(wingit)
これは古代ジャワ語(カウィ語)の語彙で、あまりなじみがないかもしれない。これも舞踊の境地を表す語として使われることは、あまりないように思う。辞書では「寂しい(sedih)、つらい(susah)」と意味が説明されているけれど、私が師たちと語り合った中においては、この語は「超自然的なものに対する恐れ、畏れ」というような意味で使われる。たとえば「ブドヨ・クタワン」という即位記念日の時にしか上演されない宮廷舞踊は、精霊を統括する超自然界の女神と王の結婚というテーマを描いていると同時に、王国に災厄がもたらされないようにという意味をこめて上演される。そのような、目に見えない世界からもたらされるものに対する畏れの感情がウィンギットなのだ。

私は、宮廷舞踊のうち男性舞踊はスメディな境地を求めようとし、女性舞踊はウィンギットなものを表現しているように思う。それは宮廷における男性と女性の舞踊家の本質的な立場の違いに由来する。もともと宮廷の儀礼舞踊としてあったのは女性舞踊の方で、儀礼の供物、魔除けとしての性格が強い。宮廷女性舞踊に見られる、息の長いフレーズ、高音部から低音部へと上昇下降を繰り返すこと、古い曲に見られる転調、クマナという楽器の単調なリズム…これらトランス状態を引き起こしそうな要素もまた、ウィンギットなものを表現していると私は思っている。

●マヌンガリン・カウロ・グスティ(manunggaling kawula gusti)
カウロは僕(しもべ)/臣下、グスティは神/王、マヌンガリンは合一という意味。本来は、神と神の僕たる自分との合一という宗教的な意味だったのが、ジャワ社会では次第に、神と同一視される王と家臣の間の理想的な関係を言うようになった。ジャワ舞踊に関して言われる場合は、もちろん本来の「神との合一」という意味である。この言葉、あるいはこの言葉がベースにある「ロソ・トゥンガルrasa tunggal」などは、舞踊作品の題名などで意外によく使われている。ただその分だけなんだかキャンペーン用語のようで、観念的で実感性に乏しくなっている気もする。

泥濘クロニクル

くぼたのぞみ

ぬめり、ぬめる、泥濘の
田んぼの土こねた泥に
埋めようか
水はって溶かそうか
経文つぶやく
筵敷いたリヤカーの
握りの錆は

ぬめり、ぬめる、泥濘の
冷たい足の指
と指
のあいだに
滲み出る
とろりとした
青い土よ――「よ」はいらないな

内地の土と、内地の泥に
思いつのらせた
もと水呑百姓の
開拓植民の
住みつかなかった子どもが
燃やす
扉あかない納屋と
理由の数々

曲がる腰の痛み吸いあげ
稔る穂
のきらめく、ゆらめく
八月の田んぼの空に
名はなくて
ぬめり、ぬめる、泥濘の
名づけ替えられた
土地の声に
耳澄ましても

なに・いま・さら

困惑顔かな
ピンネシリは

記念日

さとうまき

今年は、JIM-NETができて5周年。2004年6月、バスラから医者が来日して話を聞いているうちに、みんなで力を出し合ってイラクの小児がんの支援をしようよということになったのが6月9日。それから5年間よくも続いたと、大概、5周年記念パーティを盛大にやるものだ。しかし、気がついたら「今年は5周年だなあ。何かやらなければなあ」と思うも時すでに遅し。会場も空いていないし、記念出版といっても今からじゃ到底間に合わない。確かに、5とか10というのは歯切れがいい年であるが、残念ながらチャンスをのがしてしまうのである。

イラク戦争がおきて、すでに6年がたつ。5周年というわけには行かなかったが、6という数字にこだわれば、小学生が入学して卒業するまでが6年間。そこで、イラクの子どもたちがこの6年間の戦争をどう乗り越えたのか、あるいは、途中で命絶えた子どものことも伝えたいと、絵本『おとなはなぜ戦争をするのII イラク編』(新日本出版)を作った。親子で読んでほしい。

イラク戦争が始まり、緊急人道支援を行っている時に出会った子どもたちは、6年もたてば成長している。びっくりしたのは、バグダッドの音楽バレエ学校に通っていたスハッドちゃんだ。お父さんは、学校の守衛をしていたので、音楽学校に住みこんでいた。最初は、学校の脇の小屋に、お父さん、お母さんと兄弟5人で暮らしていたが、バグダッドが空爆され、小屋は爆弾で炎上してしまったので、その後は校舎の中にある、小さな部屋をあてがわれて暮らしていた。 イラクといえば、今はイスラーム教が強くなっており西洋音楽なんて、あまり考えられないかもしれない。レオタードを着て踊るバレエなんていうのも、どうなのだろう。しかし、2002年から2004年にかけて私がバグダッドを行き来していたころは、子どもたちはピアノやバイオリンを演奏し、「くるみ割り人形」を踊っていた。

バグダッドは、アッバース朝の頃に音楽の理論家もたくさん出現したようだ。しかし、2002年、イラク人の音楽家にとって音楽は神にささげるものではなく、サダム・フセインにささげるものに堕し、子どもたちはといえば、サダムを称える歌ばかり歌っていた。

2004年以降バグダッドは治安が悪くなった。特にシーア派の民兵組織は、イスラームに厳格でない人々を粛清し始めていた。アルコールを販売するものは殺す。イスラームで威厳のシンボルになっているひげをそる散髪屋は殺す! パンやも殺す? 医者も殺す?? さすがになんでもかんでも殺していくようなやり方は住民にそっぽを向かれてしまった。

そんな時期なので、音楽を学んでいて、日本とも関係があることがわかると、宗教的にもけしからんし、金持ちだと思われ、誘拐されて身代金を請求されることも考えられたから、一切連絡を取らなかったが、最近治安がよくなって、いろいろな情報が入ってきた。スハッドちゃんの家族は、音楽を今でもやっているというのである。遠くから車の送り迎えつきで通ってくる他のクラスメートに比べて、この一家はとても貧しい。今のイラクでは、音楽を続けていくことは難しいだろうと思っていたのが、なんと、最近ではオーケストラに入って、五つ星ホテルで演奏をしたりすることもあるそうだ。バグダッドはここ数年間、世界で一番地獄に近い都市といわれてきた。そんな中でも、音楽をやっていたということが、とても僕には感動的だったのだ。彼らが、送ってきてくれた写真は、5人兄弟で、バイオリン、オーボエ、ウード、カーヌーンという西洋とアラブの楽器を取り混ぜて演奏している姿。一体どんな音が奏でられるのか、ますます聞いてみたくなったのだ。

ふと思い出したのだが、僕が海外で活動を始めたのが、ちょうど今から15年前。僕はイエメンで内戦に巻き込まれたし、友人はウガンダで内戦に巻き込まれていた激動の時代。ということで、この本は、15周年特別記念出版ということで。

子規に萌える

更紗

7月3日朝日新聞の朝刊に、正岡子規の直筆の選句集「なじみ集」がみつかったというニュースが載っていました。これは、存在することは確かなれど、いままで見つかっていなかった「幻の書」だったのだそう。

いやぁ、すごく面白そうなんですよ。子規が直々に選んだ、漱石や虚子ほか、子規に「なじみ」のあった門下生ら約90人の俳句と自身の俳句が674ページも! それだけでかなり萌えます! そう、まさしくこのニュースを読んだ時の興奮は「萌え!」(笑)。

子規ははたして、どのような言葉や感覚を面白いと思っていたのか。ビビっときていたのか。これは知りたいですよ。好きな作家やミュージシャン、役者、デザイナー。彼らが、どんな本をや音楽やファッションを好むのか、食べモノは…飲み物は…? そういうものを知り、触れてみたい。そんなファン心理! 子規はエッセイ『墨汁一滴』に仔細に食べ物の好みについては書いてくれていて、実はそれを読んでからというもの、閉店直前のタイムセールで刺身3〜4パックで千円になるのを狙う回数が増えていたりする(子規は刺身好き)。

記事に紹介されていた、「なじみ集」でみつかった子規の新句にぐっときたので、ひとつご紹介します。

  しにゝ行くためにめしくふこじき哉

歴史上の人物などに入れ込む女子を「歴女(れきじょ)」などと呼ぶらしいですが、「俳女」も増えてほしい。一緒に子規に萌えてくれる女子、いませんか!? 文学的解釈だのなんだの、さらりとかわして、ただその言葉や設定(背景)の関係性に妄想たくましくときめきたいのです。

なじみ集を子規が編んだのが、だいたい25歳から28歳くらいだと言われています。私もまもなく25歳。100年前の同年代の感覚、楽しみですな。

しもた屋之噺(92)

杉山洋一

朝起きて窓を開けると、ミラノの空気がとても爽やかに感じられます。夏が近づき、街から人がずいぶん減ったからでしょう。今はまだ夜も明ける4時過ぎ。鳥のさえずりと共に、日本でいう秋虫の声が涼しさを誘います。半袖で寝ていると寒くて目が醒めてしまいます。

愚息の夏休みも兼ね、東京に戻っている家人に子供を任せ、一ヶ月ほど仕事に集中するため単身ミラノに戻っていますが、初め1週間根をつめて生徒を教えた以外、殆ど誰にも会わず机に向かうのみで、何か書くといっても、その間頭を過ぎったことを思い出すくらいしかできません。

どうしてもこうも自分は愚鈍で肝が小さいのか。呆れるのを通り越し、感心するくらい気が弱いわけですが、自らに対する不信感が相当根強いのでしょう。本当は4月末までに仕上げるはずの新曲を作曲したいのに、来月と再来月の本番の譜読みがこわくて仕方がない。それから先の譜読みはさておきと諦め、ともかく最低限の粗読みだけでも片付けてからと決めて、と昨日までで9曲くらい、立続けに譜面を読んでいますが、気が小さいからなのか、一曲につき予想の倍から4、5倍の時間がかかってしまいます。先日東京で、ライブラリアンのIさんと話していて、何とかさんなんて、最後の一週間くらいでささっと読めてしまうのよ、と聞いて本当に落ち込みましたけれども、基本的なソルフェージュ能力の違いですからどうしようもありません。本当はそうでなければ生活は成立しないのでしょうが。

自分が振るわけではないからと安請け合いしたグルッペンでさえも、譜面を開いてみると、勉強せずには目も耳も到底付いてゆけないことがわかり、泣く泣く、リズムの近似値表を作り直して、計算機片手にテンポ間の比率計算を始め、全ての音符を譜割し、各フレーズに音部記号を書き込み、ようやく頭のなかでオーケストラの音が鳴るようになってきました。144ページのスコアにたったこれだけのことをするのに、毎朝夜明け前から机に向かってどれだけ日数がかかったか、情けなくて書く気も起きません。

ただ、少しずつ音が鳴るようになってくると面白いもので、「おお懐かしい! 実験音楽なんて言葉を思い出したのは何十年ぶりか」などと独りごちつつ、当初ただ異様に複雑としか映らなかった楽譜が、古典的な意味で実に音楽的にできていて、意図を実現すべく作曲者がどれだけ細部に心を砕いているのかが分かり驚嘆しました。何より端的に、音楽が美しいことに心を打たれました。それが、現実としてどれだけ実現できるのか、聴こえさせられるのか。彼のとんでもなく強靭な意志が、演奏者をじっと見つめているのを感じます。

ですから、演奏家はマゾヒズムがなければ務まらぬ職業だろうか、などと今回は真剣に考え込んでしまいました。一つずつ無心で音を拾ってゆきながら、写経をするときはこんな心地かしら、などと失敬を頭が過ぎりましたが、自分が指揮するのでなくて良かったと何度溜飲を下げたことか。

今からもう10年近く前、ノーノのプロメテオをエミリオと一緒にヨーロッパツアーをしたときのこと。指揮者2人と四方にばらまかれたオーケストラ演奏に包まれ、2時間近くもの無限の音響体験を経て、最後に聴衆と演奏者が到達するエクスタシーがあったとすれば、グルッペンはそれを記号化、論理化して、20分というフレームに信じられないエネルギーをもって凝固させた感があります。こうして見れば、ノーノはどこまでも人間臭く、汗や涙が充満するオペラ文化そのものだけれど、シュトックハウゼンは、ストイックで宗教心にすら通じる透徹で高邁なきざはしを、めくるめく音たちが昇りつめてゆく気がします。それは我々の手には到底届かない、北方ゴシックの燦然たるファサドのようなもの。

続いて武満さんの「ノスタルジア」と「地平線のドーリア」を、引込まれるまま貪るように読み、いかに自分が武満さんを理解していなかったか、痛感させられました。この2作品にしてもそうですが、武満さんは時代を経て作風ががらりと変化したとばかり信じて疑いませんでした。調性がどちらも変へ調なのは偶然としても、全体の構造や和音、フレーズ、どれもが実に緊密な関係があるのは、こういう機会でもなければ知らなかったかと思うと恥ずかしいばかりです。

いつか書きましたが、ドビュッシーに等しく武満さんにとってタクトゥスは不変で、その不変のタクトゥスがルバートするのならば、一見まるで違う譜づらの「ノスタルジア」と「ドーリア」も身体を通う血は同じでなければならない筈です。何より音が美しく、ピアノで弾いていて、何度も鳥肌が立ちました。半終止のように響く「ドーリア」の19小節の印象的な和音が、36小節から38小節にかけ、聴き手も耳をもぎ取りイ調に解決する瞬間の表現力など、静謐だけれど、途轍もない迫力だと思います。

今頃気がつくのは悲しいが、でも知らないままでいる方がもっと悲しい。これで由としよう、毎日何度そう思いながらやり過ごしていることか、考えたくもありません。

それこそ武満さんを勉強していた頃かとおもいますが、気分転換にユーチューブを眺めていて、偶然目にしたフリッチャイの「モルダウ」に、食欲を無くすほど衝撃を受けました。名演や素晴しい演奏家は枚挙にいとまがありませんが、自分の皮膚感覚に途轍もなく近いことを、果てしなく遠い高みで実現しているのを見ると、いくら自分が凡庸だと分かっていても、最早それすら意味を成さないのではと訝かしみたくもなります。

まったくもって悲観主義者ではありませんが、もし生活がかかっている家族がいなかったら、実際まだ音楽を生業にしていたかどうか怪しいところです。これも流れですから逆らったとて仕方ないと諦めておりますが、正しいかどうかは甚だ疑問ではあります。あと数曲、9月までの譜読みが残っていますが、大方雰囲気が掴めたこの辺りで颯爽と気分を変え、シャワーでも浴びて作曲に勤しむことにいたしましょう。

(7月27日ミラノにて)

七月のコンサート三つ

高橋悠治

まずオーケストラアンサンブル金沢メンバーとの室内楽。ひさしぶりのバッハのクラヴィーアコンチェルト、だれも知らないハイドンのトリオ37番など。統制されず協調による合奏の、ゆるく束ねられたポリフォニー。室生犀星の詩6篇の朗読と室内楽のための作曲は、楽器の音色のずれた線と沈黙をはさんだ断片。他の日本の作曲家のようにオペラもバレーも書かず、オーケストラ曲もなく、音楽監督や教授などにはならず、賞とも無縁でいれば、ピアニストの趣味の作曲と思われているのだろう。

そのピアノだが、60年代以来、同時代音楽からしだいにクラシックに重点が移動してきた。一応の需要に合わせていればきりがなく、だれもききたくもない作曲などよりは、バッハかサティのように無害無益な音楽をやったほうが、クラシックファンの現実逃避の暇つぶしには向いている。もっとも日本の演奏家の弾くクラシックは、だれかヨーロッパ人が次に弾くまでの埋め草でしかない。こんなことでは、他の演奏家の手伝いをするなら多少の意味もあるだろうが、派遣労働者とおなじ、もっと安上がりの演奏家が出て来るまでのあいだでしかない。

水戸では作品の個展もあった。『高橋悠治の肖像』というタイトルは、ブーレーズとベリオに続く3回目と言われれば、聞こえはいいが、日本の作曲家たちとは何のかかわりもないし、だれも聴きにこないのが現実だろう。60年代のピアノ曲から最近の作品まで、オルガンやギターなど、ほとんど演奏する機会もない曲も演奏され、あたらしい演奏家たちとつきあうなかでそれなりの発見もあったが、これらの音楽はすべて過去のこと。じっさいに演奏してみると、いまはない「水牛楽団」のスタイルがいまでも新鮮だった。ここからやりなおして、ちがうところに行けるかもしれない。このどうしようもない世界のなかで、殺され死んでいったひとたちの記憶、まだない世界の兆しをはらむ響き、音の自律的なうごきと関係が織りだす変化の軌跡が、不安定なリズム、ゆれうごく線とわずかな彩りで一瞬浮かび、ずぐにまた消えてゆくような音楽の幻。

先月の小杉のための新作「あたましたたり」につづいて、さがゆきのための「眼の夢」を新宿ピットインで初演する。即興のために「書く」のはむつかしい。スタイルのちがいを透して見えてくる「かたち」を、どのようにあらわすか。いままで使ったどんなやりかたも、その場限りのものだったし、毎回考えなおしても、共通項も、基本原理もない。システムも方法もない。たえず変わる感覚もあてにならないし、定義も理論もありえない。といって、状況しだいでやりくりしているわけではない。共同体も信仰もイデオロギーも崩壊したいま、そこにはたらくのは、たぶん社会的な身体の姿勢とでもいうべき方向かもしれないが、それを語ることばはまだない。まだないものは、すでにないものと似ている。そこにあるものが、そこにないものを見せる鏡であり、ここに見えるかたちは、ここにないものの影にすぎないという、反歴史の行為。

春と秋のあわいに

くぼたのぞみ

サマータイムの
赤道をまんなかにして
ぱっきり上下に分かれて
生きている この時間
こっちは春を
あっちは秋を

テキストに忠実か
(テキストを読む自分に?
作者に誠実か
(テキスト裏の声を読み取ることに?
選びきれないそんな問いは
遠く連なる共││震、鳴、感への道を
あらかじめ
閉ざすことになりはしないか
机の上のコスモポリスと
ブログの裾のエラスムス
地球儀のおもてに
首ひとつぽこりと伸ばして
この時間
耳を澄ませていたいな

届かない手紙の小瓶
ざらりと汚れて解けない氷
問いのまま抱きしめながら
ことばの 
ぬかる道を歩いていく

こちらは
春の埃にふいに咳き込み
あちらは
秋の雨に心うつむく
丸いテーブルと 
遠くて平らなマウンテンと
青い、青いピンネシリと

製本、かい摘みましては(52)

四釜裕子

「製本」にひかれる全てのひとに、読んで欲しい詩集がある。高橋昭八郎さんの『ペー/ジ論』(思潮社 2009.5)だ。表紙に刷られたV字型の柄に、きっと馴染みがあるだろう。製本前の刷り本の背にみられる背標をモチーフにしたもので、56折り分が記されてある。背標とは丁合のミスをなくすために折りの背に階段状に印があらわれるよう考えられたしくみで、オンデマンド印刷などをのぞく商業印刷本にはみなこれがついている。愛用されるシステムは単純で美しい。愛されるように、気に入られるように、そういう思惑がないからだろう。本というモノが背負う美しさをまとったこの詩集を手に、まずは背標の柄よろしく指でV字をつくり、本よありがとう!永久に!と叫ぶのだ。

本文紙は208ページで13折り、そして前後に4ページずつのやや白い遊び紙がつく。表紙も白、そこに紺で背標柄が刷られ、タイトルと名前が空押しされている。表紙全体に透明の表紙カバーがつき、「過剰な文学的〈意味〉によって遮断されてしまっていた詩の可能性が、ここに新たに浮かび上がってくる」としめた詩人・奥成達による帯文が黒でビシッと刷られている。表紙を開けば、背標柄による誘導もあるのだろう、51ある作品それぞれが、大きな紙、そしてもっとずっと大きなところに生まれていて、それがパタパタと折り畳まれて今この手の中に届けられたと感じる。限りない広さとは、全ての本が持つべき力だ。

2004年7月29日〜8月12日に、高橋昭八郎さんの個展「反記述による詩」が東京で開かれた。うだるように暑かったが、幸せな夏だった。この展のために「ページにみる余白 本のかたちがうむ白のイベント」と題して昭八郎作品への感想を寄せていたので、読んでみてください。
http://www.mars.dti.ne.jp/~4-kama/sho8ro/s.html

オトメンと指を差されて(13)

大久保ゆう

それは春のこと。どこの大学でも健康診断が行われます。私の大学でもありました。といってもごくごく簡単なものなのですが、やっぱり身長体重も測定されるわけです。

「××kgです」
……耳の錯覚でしょうか、今年の体重測定では、私が今まで聞いたことのない数字が告げられています。いやいやいや、これは何かの間違いです。落ち着いて検査表に書かれた数字を見てみるのです。

「!」

(翻訳:え? あれ? ちょちょちょ、ちょっと待った。これっておかしくない? ええと、私がこの身長になっていちばん痩せていたときの体重が△△kgだから、ああああ、それと20kgくらい差があるんだけど、あるんですけどおおお!)

これは、見なかったことに……はできないので、ひとしきり落ち込みましょう。そして考えましょう。どうしてこうなったのかを。

(……そういえば、去年は翻訳に専念して屋内に引きこもりっきりだったなあ……それで自転車をほとんど漕げなかったなあ……しかも外に出かけたらいつもスイーツを食べていたなあ……何かおかしいと思っていたんだよ、こないだ春物を出してみたら、タイトなジーンズが入らなくてさ、てか特にウエストがさ、昔っからその細さを人に自慢してたくらいのウエストがさ……)

云々。危機です。ゆゆしき事態です。ありえません、こんなのありえません!(大事なことなので二回言いました。)太りました。しかもこの体重は私が生きてきた二十数年のあいだでもっとも大きい数字です……最初の一桁が見たことのない数字になっています……うわああああああああ! あああ! ぐにゃあ! にゃあにゃあ! いあいあ!

……取り乱して申し訳ありません。ええと、こんなわけであまりにも落ち込んだため、たぶん大学入試に落ちたときよりも凹んだため、自分を強制的なダイエットモードへ追い込むことに致しました。……というお話です、今回は。

まあ、原因は簡単です。

  1.食べ過ぎている
  2.運動をしていない

以上。

1の「食べ過ぎている」件については、別にお菓子が悪いわけじゃなくて、スイーツが悪いわけじゃなくて(大事なことなので二回言いました)、おそらく料理が楽しすぎて作り過ぎちゃうことが問題なのですよね。昼も夜もどーんとボリュームたっぷりに。レコーディングダイエットじゃないですけど、考えてみると、たいして活動をしないにもかかわらず夜のボリュームが多すぎるんです。(ちなみに朝は元々あんまり食べられない人なので、食べやすく加工した炭水化物で済ませます。)

2については、いや、運動できなかったのは色々とプライヴェートにまつわる理由もあったのですが、言われてみれば確かなんですよね。私の仕事場は山の中腹にあるので、普通なら自転車で降りてのぼるだけでかなりの運動になります。ふともものサイズがきれいに保てるくらいには。なのに漕がなかった……約一年の間あんまり漕がなかったんです。

私も大人になりました。もう普段の生活をしていたら自動的に健康と美容と体型が維持される時代は終わったのです! ここは、オトメンとして腹をくくって、たゆまぬ努力を積まなければならないのでしょう!

というわけで、ダイエットなどはしたことがないのですが今回これを始めました。どっちかというと「冷やし中華始めました」的なノリで、初夏に始まって秋には満足な結果を残して終わるくらいな一シーズンで片づくような感じにはしてみたく候。

ですが、私は世の人々が嵌ってきたダイエットにありがちなミスには陥りません! シンプルイズベスト、対策は簡単です。

  1.食べ過ぎない
  2.運動をする

どうですか! 完璧でしょう! 真っ正面から殴り込みですよ! オトメンは逃げないこと、これ大事!

まずは栄養に気を遣いつつも、食べ過ぎの夜を何とかして、量としては朝と同程度、もしくは間食が入ったときなんかはまあ抜いてしまったりするのです。そんでもって図書館へ行くときも自動車とかバスを使わず、往復10kmほどの距離を自転車で。冬は寒くて正直やってられないけど、今の季節なら大丈夫のはず! むしろ夏に入って汗だくだく! 京都を動き回るときもバスじゃなくてどこでも自転車! 駐車場少ないけど何とか探して自転車!(でもスイーツは食べるよ! むしろスイーツ食べに行くまでが運動だから! 遠くの店へ、より遠くの店へ!)

そうは言ってもすぐ終わるだろうというおおよその予想を裏切って続いているわけですが、ただいま1ヶ月経過時点では、3kg減少。目標は夏の終わりまでに10kg減らすことです。いや、いちばん痩せていたときはさすがにやばかったという自覚はありますので。

進捗状況についてはときどきこの場を借りてご報告致します。「オトメン27歳はじめてのダイエット」、はじまりはじまり。

ぶらり 夏

更紗

ここのところ、私の顔の半分は、仕事をさぼっている。それも、もともとさぼり気味だった左側が、更にさぼっている。食事も噛まない、喋るときもなるべく動かない、力まない。

それというのも、左のほっぺたの内側に口内炎ができてしまったから。しかも、その口内炎、水風船のような形で、ぷらぷらぶら下がっているときた。口内炎といえば、富士山形かクレーター形ばかりと思っていたが、そうでもないみたい。こんな形の口内炎は初めてなので、つい舌先でぷらんぷらんといじってしまう。迫力ない形の口内炎で、飼い主である私の気分もどうもへにょっと情けなくなる。

情けなくなると、以前情けない気分を味わったときの思い出が走馬灯のように浮かんでくる。それで浮かび上がってきたひとつが、数年前の夏のはじめ、周りの流れにのって就職活動をしようと試みた時のこと。

就活といえば、企業の説明会に行ってみたり、大学の卒業生らしき人を頼って会社の話を聞いてみたり。それから、履歴書を送り、筆記試験や面接を数回経て内定。こういう流れのものだと思っていた、ところがどっこい。当時おもしろそうじゃんと思っていた、ブライダルの某社に服飾関係の某社や某社、それぞれの説明会に行く為には、なんと別々の「就活サイト」に登録しなくてはならないという! めんどうだなぁと思いながらも、これも一つのステップかと登録をした。説明会のお知らせを受け取るため、住所ももちろん登録。志望業種なども登録するのだが、それがとても大きなくくりで(例えば、服飾は流通業か製造業、ブライダルはサービス業か接客業だった)、ちょっと首をひねった。

3日後。アパートの玄関を開けた私は、ギョッとした。なんと床一面の郵便物! それまで、月数通の郵便物と光熱費の請求書しか投函されたことのなかった部屋に、である。しかも拾い上げると、保険に金融、不動産、果ては様々なメーカーまで。自分の志望する企業でもなければ、自分の興味ある領域でもない。最初だからかと思いきや、何の返事もしていないのに郵便物は続く。ほぼ週1ペースでお便りしてくる企業もある。毎日、帰宅して最初にすることが、自分の名前と住所を切り刻んで捨てる作業になった。そうして、ついに自分宛の郵便物を土足で踏みつけて自室に帰った日……でぇええい! 気持ち悪い! と、すべての就活サイトを止めたのだった。

土足で自分宛の郵便物の山を踏みつけ、情けない気分になったあの日。それにくらべて、水風船型のぷらぷら揺れる口内炎の痛みに情けない気分になる、今日の私。

情けない、けれども、何かこっけいだし、あの日よりも気持ち悪くなく生きているんじゃあないかい? なんて、ついつい大口開けてビールを飲み……いてぇええ〜! 沁みるよう! と、頬をおさえて悶えるのだった。

そんな、情けない夏の始まりに捧げたい、稔典さんの一句。

   遠巻きに胃を病む人ら夏の河馬

しもた屋之噺(91)

杉山洋一

昨晩、桐朋学園オーケストラとの演奏会が無事におわり、ミラノに戻るところです。梅雨の盛りに一ヶ月間東京にいたら、どんなに鬱々とした陽気かと思っていましたら、意外なくらい雨は少なく、今日のように朝から低い雲からひたひたと梅雨らしい雨が滴っていると、安心するくらいです。

ある朝、外を見ると雨が降っていて、玄関の靴置きから黒い折りたたみ傘を取り、そのまま何日か特に気も掛けず使っていたのですが、仕事帰りにふと握り棒に色褪せたほんの小さな紙切れがセロテープで貼り付けてあり、何やら名前が書いてあります。よく見れば、この6月13日に20回忌をむかえた、父方の祖父の名前ではありませんか。先日、もう95歳のお祖母さんに会いに湯河原に出向いて、定吉さんの20回忌にも代わりに線香を上げて欲しいと電話したばかりでした。誰もこの傘の所以は知りませんし、ましてや何故うちの靴箱にあるのか想像もつきませんが、お祖父さんが亡くなったときも、虫の知らせなのか、朝5時前、突然目が覚め誰に言われるでもなく、ただ何となしに一人で病室へ足を向けると、ちょうど臨終だったのを思い出します。

20年という時間を考えれば、昨日一緒に演奏した学生さんで、その頃に生まれた人もいた筈です。20年で昨日のような立派ができるようになる。当たり前じゃないかと笑われそうですが、自分は20年前もしっかり生きていて、20年経ってようやっと演奏会をご一緒できる程度になったことを鑑みれば、素直に驚いてしまいます。

昨日の本番前、楽屋裏に指揮の高関先生がいらしていて、顔から火が出る思いでご挨拶したのですが、昨日の打楽器セクションには高関先生のお嬢さんも参加していて、昨晩は特に大活躍だったのです。高関先生も今日芸大オケの本番なのに、わざわざ聴きにきて下さったことに感激しましたし、親とは誰もきっとそういうものだな、と妙な納得もしました。

ほぼ20年前、正確には22年前ですから高校終わりか大学1年だったと思います。サントリーの作曲家委嘱シリーズで、ノーノが来日したとき、興奮しながら演奏会に出かけたのを昨日のように思い出します。実のところ、ノーノの新作よりもむしろ生まれて初めてシャリーノのオーケストラ作品を演奏会で聴けることに上気していました。小遣いをはたいて楽譜ばかり買い集めつつ、ハーモニックスのみびっしり書き込まれた楽譜から、どんな思いがけない響きが飛び出すのか、想像するだけで胸が躍らせていました。あの晩、「夜の寓話」を指揮なさっていたのが、高関先生でした。あまりに感動して、演奏会の数日後、桐朋の学生ホールで高関先生をお見かけした折、思わず少しお話させて頂いたのも、懐かしく思い出します。そうした体験が積み重なり、自分がイタリアに住むことへと繋がってゆくのですから、一期一会と呼ぶと大袈裟ですが、一体誰に対して、何が役立つとも知れないのだから、一つ一つの出会いや時間は、せめても大切にして生きなければと、ウッドブロックをたたく高関さんの真剣な顔を見ながら、内心独りごちていました。

1ヶ月近く若い演奏家の皆さんと付き合っていつも感心していたのは、彼らの年齢で自分は理解出来なかったことを、しっかりと理解し、実現にむけて努力してゆくひた向きさと誠実さでした。今この歳になって初めて、当時先生方から言われていた意味に気づかされるばかりで、一体当時何を考えていたのだろう、と呆れることが日常茶飯事です。言葉にしてしまえば簡単なことのようですが、全員で鳴らす不協和音の渦のなか、ここにG majorを聴こう、ここにA majorを聴いてみようと言われても、当時の自分では絶対耳を開くことすら出来なかったと思うし、ヨーロッパにゆき、それが出来るようになるまで一体何年かかったのか数えたくもありませんが、でも昨日の彼らは、無意識かもしれないけれど、当時の自分よりずっと耳が解放されていて、羨ましいほどでした。だからでしょう、本番の演奏は余裕をもって驚くほどのびのびと、作曲家側の視点に立てば、驚くほど正確に、ひとつの作品さえ取りこぼしもなく弾ききった姿は見事でした。たとえプロフェッショナルだとしても、それは凄いことではないでしょうか。本番中は指揮者は何もする必要がなかったからか、演奏会後の疲労感はまるでなかったのにも驚きました。

こうして日本で、それも若いひとたちと長く接する体験は初めてでしたけれども、終わってみて結局とても彼らに励まされた気がします。自分にとっての励みでもあるし、自分の子供が知ることになる、これからの日本を思うとき、何かとても頼もしいものを感じることができたのは、幸せでした。これから20年経ち、自分が何を思い何を考えるのか、不安でもあるけれど、でも愉しみにもなってきました。

さて、これからすぐにミラノに戻り、今度はイタリアの若者相手にレッスンをし、締め切りを2ヶ月過ぎた新作を仕上げ、滞ったまま積み上げられている8月以降の譜読みに勤しみ、8月半ばに東京にもどるとき、果たしてどんな顔色になっているか、考えないように致します。わざわざ自分の顔を見る必要もないですしょうし。

6月30日 東京・三軒茶屋にて

薦(こも)よノート(または野良犬ノート)――翠の石筍57

藤井貞和

薦よ 巫女(みこ)持ち、       (籠のひげ毛を与え、美しい籠と母乳と)
副詞もよ 壬生(みぶ)菜、串刺し、  (女よ、久しい思いのひげ毛を与え、美しい夫君を持ち)
糯(もち)の粉を 蟹にまぶし、    (此の岳に、菜摘みするおまえは)
夏の野良犬、情けもなく、       (家を告げないで、名も告げないで、更紗の羽根に──)
そらの上 遠のく庭、         (虚しく見るみなとは、山のあったところが)
押し鍋の手は割れ 底に敷き、     (戸を押し流され、私の許しこそ折れてめちゃくちゃ)
割れても割れても 増せ、       (師はよい名まえを、倍にして手にし)
こそばゆい蚤 虱を、         (私の許しは背も歯もぼろぼろになって──)
もっと増やせ へのこも尾も      (野良犬め! ふぐりも尾もだらりと下げて)

(万葉集巻一の巻頭歌から。──吉本隆明さんの講演を聴いてたら、「西行のうたが好きなんだ」と繰り返して、「定家も啄木もよいけれど、西行の中世詩は、詩歌は、古典詩という定型は……」とたぐりながら、ついに氏は「和歌」と言わなかった。短歌や長歌その他をひっくるめた「和歌」と呼ぶ言い回しを氏は拒絶したのだ。思えば西郷信綱さんもそうだった。初心は「和歌」をやめてみるところにあったと思い出す。かっこのなかは別解。)

ううむ。。。

大野晋

話題としては先月のできごとだったのだけれど、未だ、私の中で整理が付いていない。
ある土曜日の午後、地元の音楽堂で長くローカルオケの音楽監督をされていた老指揮者のコンサートが開かれた。このところ、体調が優れないという話が流れており、今回の引退もその体調が原因なのだが、とりあえず、開かれるという事で楽しみに聴きに出かけた。

ようやく、数分遅れで始まったあたりからおかしな兆候はあったのだが、初めの曲が終わった時点で指揮者が指揮台から崩れ落ちるような体勢になった。とっさに駆けつけた楽団員に抱えられながら、台を降りた。しかし、コンサートは続けられたので、問題は小さなものなのだろうと考えながら聴き続けていた。

そして、そのときが来た。
最後の曲の演奏中に指揮者の左手がおかしな感じに大きく、斜め後ろに伸びてきた。なにがおきたのだろうと注視していると、マエストロの様子がおかしい。指揮台の上に設えた椅子から今にも崩れ落ちそうな様子で、とりあえず、落ちるぎりぎりのところで留まっている。どうやら、踏ん張っていた足の力が入らないようで、どんどん、ずり落ちていってしまう。それを後ろに伸ばした左手で指揮台の手すりを握り締め、ぎりぎりのところで止まっていた。

すでにオーケストラに対する注意は途切れているので、オケは自主的にコンマスを中心に走っていたが、その凄まじい表現と今にも崩れ落ちそうなマエストロの様子が重なり、土曜日の午後は壮絶な様相を呈してきた。どどどど、という擬音が聞こえてきそうな演奏は、なんとか、終末を迎えたが、無事ではなく、その場でマエストロは崩れ落ちてしまい。袖で椅子に腰掛けたまま、カーテンコールには一度も出て来ずじまいであった。

そのときの、助けを呼ぶように伸びた左手の様子が、未だに私の中で未消化になっている。どんなに素晴らしい仕事をした人にも、やがては終末が訪れる。それをどのような形で迎えるのか? 考えないとなあ。。。

あと、4年で吉川英治の著作権が切れるなあ。。。と考えながら、自分の年齢をふと考える。ああ、もうそんな時間が経ったんだ。著作権保護期限の50年はそれなりに読者の年齢も高くする。ごく稀な著者を除くと、多くの著者は忘れ去られるのに十分な時間だろう。ううむ。自分の著作権は書物でなくなった段階で公開してしまおうと心に決めるここ最近。

しかし、脳裡にはまだあの左手が残っているのだが。(未消化)