製本かい摘みましては(56)

四釜裕子

間奈美子さんのアトリエ空中線10周年記念展 「インディペンデント・プレスの展開」(東京渋谷・ポスターハリスギャラリー 2009.11.13-12.6)へ。これまで手がけたおよそ120点が並び、11月28日には書肆山田創設者である山田耕一さんを迎えたトークショー〈瀧口修造の本と書肆山田の最初の10年〉が開かれた。山田さんは浅草に生まれ、療養先の諏訪で手にした『明暗』以来、本を集めるようになり、詩集については処女詩集をことごとく求めていたそうだ。やがてコレクターから版元へ。10人の詩人へ直接詩集を出したいと手紙を書いたという。本は作家のものであるからわたしはなにもしていない、詩のことはなにも知らない、と繰り返す山田さんだが、間さんと聞き手となった編集者・郡淳一郎さんの問いに応じるかたちで逸話がつまびらかになってゆく。

間さんの本づくりのはじまりは、一枚の紙を折っただけのものに書下ろしの詩がある書肆山田の「草子」シリーズにある。1973年から78年にかけて『星と砂と日録抄』(瀧口修造 1973)や『レッスン・プログラム』(岩也達也 1978)など8冊が刊行されており、瀧口修造がアンドレ・ブルドンからおくられた二つ折りの「詩集」がそのかたちのアイディアのもとで、「草子」の名は浅草生まれ(浅草っ子)の山田さんにあやかってという説もある、と、笑いながら山田さんがお話しになった。この展のために刊行された冊子はこの「草子」の”子”で1030ミリ×728ミリの一枚の紙だ。表裏にこれでもかこれでもかと小さな文字が並んでまったくもー読みにくいな……と眉間にしわを寄せながら読みたいから読む。そこには間さんの〈レコードから詩書づくりへ〉という関心の移動のこと、そしてそれら(”インディペンデント”という呼び方すら!)をなんなく走らせる間さんという身体のひたすらを感じる。バサバサと4回開いて読み、4回折って(帯をかけて)は棚に戻す。

「折り」とうことでいえば瀧口修造の”黒い詩集”こと『地球創造説』(書肆山田 1972)は黒い紙に黒い文字で刷られているが、紙を折るときの竹ベラのあとが本文紙についたものをことごとくハネたので50部刷り増ししたという。印刷は蓬莱屋印刷所。山田さんと蓬莱屋さんの関係は間さんとハタ工芸さんの関係にも等しいのだろう。展の冊子にハタ工芸会長の畑登さんが寄せている。〈ナミチャンの仕事は、儲からんしややこしいし、かなわんわ〉。〈人間が頭で想像できるものは実現可能という向こう見ずな直感を得てしまう。以来、今日に至るまで、できない筈はない、と職人さんたちに無理を言い続けることになった〉(間さん)。それはご自身にも言い続けていることなのでしょう。そしてこれから何十年かのち、間さんも言うかもね、「わたしはなにもしていない」。

つれづれに

大野晋

さて、何から手をつけようか迷っている。とりあえずは、思い付いた話から。

都響のコンサートではちょうどインバルが来日中のため、インバルの新譜が大々的に取り上げられていたが、実は同時に今年の小林研一郎指揮の「わが祖国」が早々とリリースされている。昨年のキャンセル騒ぎから大きく取りざたされた久々のコンビのライヴだったが、大抵のライヴ音源は会場の盛り上がりとは裏腹に、冷静に聴き直すとあらららとなることも少なくないのだが、少なくともこの一枚は上出来だった。ゆったりと入った二台のハープの演奏から名演の雰囲気はしていたのだが、聴き直してなおいいと思うコンサートは珍しい。最近のヒットである。

先月、札幌に行ったところで終わったが、札幌では奇しくも札響でエリシュカの指揮でスメタナの「わが祖国」を聴いた。エリシュカの「わが祖国」はN響で今年聴いているから2度目だが、若いオーケストラがいいパフォーマンスだったと思う。エリシュカが指揮をすると相変わらずチェコ節なのだが、安心して聴ける名演だったと思う。

その数日後に、毎年日本にやってくるパーヴォ・ヤルヴィ指揮でシンシナティ交響楽団のコンサートを横浜で聴いた。アメリカのオーケストラらしい非常に機能的な演奏だったが、一番面白いと感じたのは演奏ではなく、そのステージの上がり方だった。「ステージ集合」という感じで、時間が近づくに従い、オーケストラメンバーがばらばらとステージ上に集まって来る。で、最後にコンサートマスターが定刻になってでてきて、じゃ始めましょうか? という感じに始まるのだ。その様子を見ていて、「ステージ集合」というタイトルで音合わせに音や練習の音も含めて指示をした曲(パフォーマンス)ができるのではないかと思った。

さて、いくつかのコンサートを聴いていて、ふと、オーケストラと指揮者との関係がかわってきていないかと気になった。おそらく、オーケストラのいるステージ(段階)によって、オーケストラに必要な指揮者の関与は違うのではないだろうか? 例えば、自分たちの音がまだ決まらない若いオケにはトレーナータイプの指揮者が必要だろうし。ある程度、音の出せるオケならば、客の呼べる指揮者を招へいして、稼ぎにつなげる必要があるだろう。指揮者に対する要求が違えば、必要とされるスキルももしかすると違って当然なのだろう・猫も杓子も有名指揮者を! という時代ではないでしょ?

最後に、JASRAC70周年のパーティから飛び出した発言にはびっくりした方も多いだろう。まあ、このところ沈滞気味だったのだから、ちょうどよいタイミングで話が再開できてよかったと言えるかもしれないと思ったりもしている。私は個人的には次の点だけ変われば、70年に延びてもいいと思っている。
その1:著作権継承者はその著作権を延長、相続等をするに当たっては、文化の発展に寄与するために相応額の税金を払うこと。
その2:著者の死後、著作権が切れるまでの間で、過去10年以上出版されていない著作は商業的な資産価値がないものとして、以後、ネットなどで使用する場合には著作権フリーとすること。
あくまでも商用となっている権利を無理やり剥奪しろとは言わないが、使われていない権利は公に返してもいいように思うのですが?

メキシコ便り(27)ベリーズ、エルサルバドル

金野広美

まるで生きているかのようなティカル遺跡のジャングルからフローレスにもどり、バスで5時間のベリーズ・シティーへ行きました。ベリーズは3ヶ月以内の観光旅行でも日本人はビザが必要です。グアテマラの旅行社にツアー代金を払う時、ベリーズのビザは国境で取るつもりだと言うと、何の問題もないというので契約したのですが、次の朝来た運転手は私に「日本人か、ビザは持っているか」と聞くので、私が「持っていない」と答えると即座にいやな顔をして、「1時間は余計に時間がかかる」とはき捨てるようにいうのです。「何、この人」とムカッとしながらバスに乗り国境に着きましたが、国境は長い列。バスを降りるとき、運転手に「私はフローレスからベリーズ・シティーまでお金を払ったのだから待っていてくれますね」と言うと、「知らん」とけんもほろろなのです。いくら抗議をしても「知らん、待たん」というばかり。私は頭にきたのですが、こんなことで時間をとってもますます遅くなるだけなので、なんとかなるだろうと長い列に並びました。

同じバスに乗っていたフランス人はビザがいりません。そのフランス人に「どうしてフランス人はビザが必要なくて日本人はいるの」と怒りをついむけてしまいました。すると彼は「それはフランスが力を持っているからだ」と答えたので怒り倍増。「くそー、これは単なる差別やー」と彼に言ってしまいました。

腹をたてながらも別室で50ドルを支払い外に出ると、なんとさっきのいじわる運転手が近づいてくるではありませんか。やはり契約通り待っていたのです。待つのならなぜあんな客を不快にさせることを言うのかまったく理解できません。グアテマラの観光業にかかわる人間のマナーの悪さにはもう閉口です。
国境からベリーズ・シティーまでは3時間、港から船で40分のカリブ海に浮かぶ全長7メートルの細長い島、キーカーカーに行きました。カリブ海を見ながらの椰子の木陰での昼寝は、これまでの1泊ずつの移動や、夜行バス、国境でのいざこざなどですっかり疲れ果てていた私をよみがえらせてくれました。

よく眠ったあくる日、すっかり元気になった私はシュノーケリングをするために船で出かけました。海は透明でたくさんのかわいらしい魚やエイを見ることができました。特にエイはまったく人間を怖がらずガイドに抱っこされているのです。このあたりは海洋保護区になっていて捕獲は禁止されているので、すっかり安心しきっているのでしょうね。夜になるとロブロスターを食べにホテルの近くのレストランへ。全長30センチほどのものでも25ドルです。焼きたてのロブスターと冷えたビールは本当に最高でした。

カリブ海に元気にしてもらい、次の日はベリーズ・シティーにもどり、ここから北に約50キロのところにあるマヤの遺跡アルトゥン・ハに行きました。公共のバスはないのでタクシーで50分です。運転手のマヌエルは陽気な黒人でレゲエを大音量でかけながら別れた妻がメキシコ人だったとかで、スペイン語でしゃべりまくります。私がラム酒が好きだというと途中で車を止めてラムとコーラを買いこみ「ラムはコーラで割るのが一番うまいんだ」とか言いながらすすめてくれます。レゲエにラムとすっかりリラックスした私をマヌエルはガイドもできるといいながら、アルトゥン・ハ遺跡をすみずみまで案内してくれました。

ここは紀元後7世紀ごろ栄えたといわれ、ふたつの広場と宮殿、神殿が残り一面緑の芝生におおわれたとても美しい遺跡です。マヌエルは「どうだ、きれいだろう、フォトフォト」と何度も写真をとってくれ、すっかりごきげんです。次の日は緑一杯の川に連れて行ってくれました。大きな浮き輪におしりを沈め、川を流されながらの水遊びです。涼しくてあまりの気持ちよさについうとうとしてしまいましたが、マヌエルがしっかり浮き輪をもっていてくれるので安心です。2日間専属運転手をしてくれ、「もう帰るのか」と不服そうに空港まで送ってくれました。

ところでベリーズの公用語は英語ですが、スペイン語を話せる人も多くいます。それはグアテマラやホンジュラスからの移民が多いためです。より安定した豊かな国ベリーズで働くため彼らはやってくるのです。外国人の私がスペイン語で彼らに話しかけると少しびっくりしたように、でもうれしそうに答えてくれます。港の前で小さな店を出すアンドレアは13年前ホンジュラスからベリーズに一人で来たそうです。そのわけを聞くと「ホンジュラスは貧しくて危険だから」と言い、クーデターに心を痛めているようでした。

確かにベリーズは他の近隣諸国に比べ豊かなのでしょう、働いている子供をみかけません。昼下がり公園に行くとたくさんの子供たちが楽しそうに海で遊んでいます。私がカメラをむけると次々とかっこよく海に飛び込んでみせ、女の子たちはびっくりするようなセクシーなポーズをとります。底抜けに明るい子供たちを見ながら、グアテマラで山の中にある家と湖を毎日4時間かけて往復しながら洗濯していた10歳のアナや、メキシコのチアパスで観光客にバナナを売っていた6歳のマウラ、4歳のパウチョ姉弟を思い出してしまいました。

あの子たち元気にしているかなあと思いながら、空港まで送ってくれたマヌエルに別れの挨拶をしてエルサルバドルに飛びました。夜8時に着き宿を首都のサンサルバドルの旧市街にとりました。エルサルバドルは危険だからと友人にも注意されていたので、少し緊張しながらの入国でした。

次の日、観光案内所を探しに街に出ました。ひょんなことからJAICA(国際協力機構)の仕事で来ているという女性に会い、宿の場所を聞かれたので答えると、その場所は危ないから変わるように勧められました。彼女は街を歩くのは危険だと運転手付きの車で移動しているそうです。私はその話を聞き、ここはそんなに怖いところなのかとびっくりしてしまいましたが、とりあえず観光案内所でもいろいろ聞いてみようと行ってみました。そして適当な宿の紹介を頼むと、きれいなパンフレットを見せながら紹介してくれたのは、なんと私のホテルのひとつ筋違いでした。「なーんだ、私のホテルはJAICAの彼女がいうほど危険な地域ではなかったのか」と彼女と現地の人との感覚の違いにちょっと驚きました。そこでホテルを変えることはせず、そのまま街に出ました。

中央市場はまるで迷路のように道が入りこみ、大勢の人でごったがえしています。それにしても物価が安い。ここの通貨は米ドルなのですが、りんごが1個25セントで、きゅうりも小さいですが20本50セントです。700ミリリットルは入る大きなコップのフレッシュジュース80セントです。私の泊まったホテルもバス、トイレ、テレビつきの大きな部屋で12ドルです。
この国はインフレ率が低く中米でもっとも物価が安い国のひとつだそうですが、日本の1年分の生活費でここだと5年は暮らせるのではと思いました。

次の日はラ・プエルタ・デ・ディアブロ(悪魔の門)という景勝地に行きました。小高い山を登ると360度の眺望で緑いっぱいの美しい自然が広がっています。真っ青の空と、きれいな空気ですっかりリフレッシュ、入国したときの緊張感もほぐれていました。

あくる日はここにも残るマヤの遺跡ホヤ・デ・セレン、サン・アンドレス、そして紀元前12世紀から紀元後5、6世紀ごろまで続いたチャルチュアパ文化の中心地だったタスマル遺跡やカサ・ブランカ遺跡の4箇所を回りました。それぞれ規模は小さく、まだ調査中のところもあり、いまだにあとでつけたスペイン語の名前で呼ばれるように全容解明は困難らしく、まだまだ時間がかかりそうでした。

その中のひとつカサ・ブランカ遺跡の展示室のとなりに日本のろうけつ染めの工房があり、入ってみると、2人のエルサルバドル人の女性が作品を作っていました。そのうちのひとりのクルスさんが「日本の方ですか」と私に聞いてきました。私が「そうです」と答えると、この工房はJAICAから派遣された日本人が作ったもので彼女たちにろうけつ染めを教え帰国、今は彼女たちだけで運営しているそうです。クリスさんは「日本にはとても感謝しています。ろうけつ染めのブラウスやかばんがここに来る外国人によく売れて、私たちは暮らしていけるのです」と言います。作品はデザインもとても美しく「私も記念に一枚買います」というとクルスさんは「染めてあげますよ、時間があまりないので簡単な模様になってしまいますが」と断りながら、きれいなぼかし模様の花柄の手ぬぐいを染めてくれました。ありがたくお礼を言い、腕にかけて乾かしながら、工房をあとにしました。私の友人たちも何人かはJAICAで働いていますが、友人たちの仕事の具体的な成果を見たような気がしてとてもうれしかったです。

危険だといわれたエルサルバドルではなんの被害にもあわず、陸路でグアテマラ・シティーに戻り、コロニアル時代に作られたという水道橋を探して歩いていた時、とうとう遭遇しました、ピストル強盗です。このあたりは日本大使館などもあり比較的安全だといわれている地域です。大きな道路のそばには公園がありサッカーに興じている人がいて、近くの道路はたくさんの車が走っています。しかし、教えてもらった道を曲がったとたん、急に通りは細くなり小さな木立があり、完全にまわりから死角になってしまう空間があったのです。一人の若い男が「チナ(中国人)? ハポネサ(日本人)?」と聞いてきました。グアテマラ人はほとんど声をかけてくることがないので珍しいなと思いながら「ハポネサ」と答えると、「どこに行くの」と聞きながら近づきじっと私のベルト式のかばんを見ています。これはやばいのではと思ったとたん、シャツの下に隠したピストルをちらっと見せたのです。私はびっくりして「とうとうおうてしもた」と思ったのですが、「アクエドゥクト(水道橋)をさがしているの、アクエドゥクトはどこ」と言いました。すると男は「ノセ(知らない)」と行ってしまったのです。「助かったー」私は一目散に男の反対側に走りました。ここでは水道橋はアクエドゥクトといわずにプエンテ(橋)というらしく、もし自分が知っている場所だったら、教えると言って道案内をしながらすきを見てかばんを奪うつもりだったようですが、知らなかったため行ってしまったのでしょう。今考えるとあのピストルは本物でなかったのかも知れませんが、全く予想もしないところで会ってしまいました。比較的安全だといわれている場所でも突然死角になる場所は現れるし、世界中で安全な場所などどこにもないのだと思い知りました。それにしても私はどこまで悪運が強いのでしょう、われながら感心してしまいます。これで力を得た「天下無敵の大阪のおばちゃん」の旅はこれからも続きます。

がやがや

三橋圭介

ひさしぶりのがやがや。ひさしぶりの光ケ丘。日曜日の2時の約束で1時半に到着。ダンサーのたまちゃんが新幹線に乗りおくれたので、いつもの所でゆっくりお昼ご飯。それから集合場所へ。「あっ、みつはしさん! みつはしさん!」と風間さんが迎えてくれる。そこにはいつもの顔が。大ちゃんが手を振っている。ともちゃんがかわいらしくはにかんでいる。そのそばには小林くん。洋ちゃんはやはり座っている。猪越さんもりゅうちゃんもいる。羽賀くんだけちょっと元気がない。

この日はたまちゃんがいるので、場所をかえてレッツ・ダンス。羽賀くんだけは具合がわるく行くことができなかったが、大ちゃんと手をつないで会場へ。途中、小林くんが「もう少しで35歳になるから(結婚を)考えないと…」と打ち明けてくれた。相手はかわいい子らしい。会場は前にCD「がやがやのうた」の練習にもつかった。ひろびろした講堂にいくつもマットをならべ、いつものようにがやがやと「マルマルマル」のうた。これががやがや! そしてフォーク・ダンス。きりさんは早くからダンスのリハーサルまでしていたらしいが、なんだかとんちんかん(これがきりさん!)。手をつなぎ、マスクした風邪のたまちゃんがリードし、なんとなく輪になってくるくる、くるくる回る。

つづいてなぞなぞ。風間さんがなぞなぞ本をどくとくなよくようで朗読して、大爆笑。新たな才能の発掘。それからきりさんの案でなぞなぞの創作。まずみんなに答えをかいてもらい、それをクジで引いて、グループになって「どんなかたち」「大きさは」「いろは」「においは」など答えを連想させることばを書く。ほかの2グループは人目を忍んで入念なリハーサル。わたしのグループは連想することば(洋ちゃん、風間さん、わたし)と絵(大ちゃん)だけ書いて終わり。発表では、リハーサルの組みはさほど実を結ばず?! わがグループは風間さんの距離のあることばのよくようと羅列が、答えになぞの煙幕をはる。みんなの頭の上に???がいくつも。でもりゅうちゃんの「カレー」の一言で幕を閉じた。おそいお茶の時間のあと、それぞれダンスしたりして、おひらき。たくさんのともだちからたくさんのエネルギーをもらった。がやがやはいい。つぎは忘年会でがやがや。

しもた屋之噺 (96)

杉山洋一

中央広場すぐ裏のホテルの窓から見ると、ボローニャの街は赤茶けた屋根ばかりがどこまでも続いているのがわかります。テアトロ・コムナーレとの最後の練習がおわり部屋に戻ってきたところです。練習の録音を聴きつつ歩いて帰ってきました。

ボローニャに来るたびに思うのは、ここが典型的な若者の街だということ。大学が大きいからでしょう。昨晩10時半に練習が終わり、ホテルに戻る道すがら、街はまだすっかり若者で活気に溢れていて、ミラノとずいぶん違う生活スタイルに驚きました。ただ同じ道を歩いて帰ってきたながら、録音を聴いていると、先ほどはすれ違う若い男女の姿が、映画のシーンのように、すべて色あせたセピア色にくぐもって見えるのです。生気が誰からもぬけて、映画のフィルムも端からちろちろと焦げはじめているような、もうすぐ大きな炎に呑み込まれそうな、そんな薄い予感のようなもの。

歩きながら聴いていたのは、つい今しがたまで劇場で練習していた、ドナトーニが大オーケストラのために書いた「Duo pour Bruno」。ドナトーニがマデルナの死を悼んで作曲したものですが、この作品に関しては、実は今も胸がつまってうまく書けません。

Duo pour Brunoは、マデルナが命を落とす原因をつくった癌細胞が、体内で生まれ、少しずつ増殖してゆき、ある瞬間から癌細胞が活発に体内を駈け巡り、あちらこちらに巣食い、それぞれの癌細胞はしまいには身体全部を呑み込み、壮絶な痛みとともに、人間が朽ち果ててゆく姿を、透徹に描いています。

自宅でひとりさらっていても、何度も鳥肌が立ちました。常人の視点ではないのです。本当に痛いまでまざまざと死にゆくさまを客観的に観察している。自分がまさに見開いている目になっているのがわかり、おののきます。実際にオーケストラと演奏すると、恐ろしさはまさに現実のものとなります。素晴らしい演奏をすればするほど、自分が腐ってゆくのがわかります。最後の通しでそれは素晴らしい演奏をしたあと、演奏者たちが口々に、とんでもない作品だ、本当に怖い、呑み込まれそうに病んだ作品だ、そう力が抜けた声でささやきあっていました。

ドナトーニは普通の精神状態ではなかったとおもいます。マデルナとは親しい間柄でしたから当然でしょう。マデルナが売春婦に産み落とされたこと、身分のある家に養子に貰われても、自らの出生を一生引きずっていたこと、どれだけ彼が音楽の天分に秀でていたかということ、第二次世界大戦中、パルチザンを支援しナチスから身を隠して暮らしていて、ある女性が密告しナチスに囚われたこと、戦後女性が裁判にかけられたとき、召喚されたマデルナは過去のことだといって水に流したこと、そして自分を密告した正にその女性と結婚したこと、翌朝からリハーサルがあろうと、朝まで遊ぶ歩く破天荒な放蕩ぶりだったこと。ドナトーニは生徒たちにマデルナの生きざまを話すのが好きでした。

そしてここでは、家族が死んで腐ってゆくさまを克明に見続けて描写せよ。そんな常軌を逸した愛情が作品を成立させています。曲の一等最後、あちらこちらの病巣で癌細胞が爆発し、本人が堪え切れない痛みに悶え、絶命するところで、振っていて決まって突然足が鉛のように重たくなり、何かに憑かれたようになります。足が地面にめり込むばかりで、手が力が入らないのです。こんな経験は初めてです。

振っていて頭をよぎるのは、2000年の夏、ミラノの外れの病院の地下の霊安室で一人、フランコを眺めていたときのこと。あのひんやりした空気と、空調の音。糖尿病でくさりかけていた紫色の足の先や、のどに3本も4本も通された透明のチューブ。ひゅるひゅると喉の奥で鳴る空気の音ばかりのかすれた声。

ベネチア人だったマデルナのため奏でられるベネチアの小唄は、次第に近づいてくる弔鐘とともに、健康な細胞を食べつくす癌細胞へと変化してゆきます。うごめく無数の細胞は虐げられ、小唄は悲痛な叫びをあげます。錯乱のなか長い間かけて弦が呑み込んでゆき、トロンボーンの壮絶な叫びの向こうで、まるで街で一斉に鳴らされた鐘のように木管のきしむ旋律は、意図的にリズムが熔けてなくなっています。

こんな作品を、どうして普通に演奏できるでしょう。演奏していると、誰もが狂ってゆくのがわかります。のめり込めばのめりこむほど、反吐がでるような不快感をもよおします。演奏し終わると、体中から滴る欝がびっしりとはびこっているのがわかります。最後の大太鼓二人は、叩けば叩くほどそれは辛そうな顔をして、でも文字通り命をかけて、皮が破れんばかりに叩きます。クライマックスでかき鳴らした弔鐘をすべて胸でだきすくめるとき、若い打楽器奏者の顔がいつも歪むのが、目に焼きついています。

これほど演奏が辛い作品にめぐり合ったことはありません。ずっと昔、癌の闘病生活から復帰したばかりのエミリオが、ミラノで振ったDuo pour Brunoに立ち会ったのを思い出します。自分で感じた痛みを音楽で再現するなど、一体どんな心地だったか慮ると、言葉もありません。日本で既に演奏されたかどうかは分かりませんが、恐ろしく細部まで細かく書き込まれた作品の質と異常なほどのリアリズムにおいて、後世に残る数少ない現代作品であることは間違いありません。

マデルナは最後、ミラノ・イタリア放送響の指揮者の地位にありましたが、亡くなるほんの数日前に演奏した、確かブラームスだかの最後の録音には、オーケストラとともに、マデルナのぜいぜいと振り絞るような呼吸音がずっと収録されていて到底聴いていられない、と友人が話してくれました。

(11月28日ボローニャのホテルにて) 

* * *

追記

悠治さんよりお便りがとどきました。

・・・・・・・・・

ずっと忘れていたマデルナやあの頃のことを思い出しました
最初はドメーヌ・ミュジカルのアンサンブルと日本に来た時1961年 あの時クセナキスには会ったが マデルナは指揮を見ただけ
その後西ベルリンでRIASに雇われてアイヴスのTone Roadだとおもうけれど ピアノパートを弾いたときの指揮者がマデルナだった オーケストラは言うことをぜんぜんきかなくて それでも演奏は活力があったから あの感染力がはたらいたのかもしれない 練習の合間に話もしたけれど なんだったか
シェルヘンもベルリンではRIASしか指揮させてもらえなかった シェーンベルクのOp.16で 指揮台にたってかすかに手をうごかすだけで 音が息づいて来るのが見えるような
でも マデルナの場合は そういうカリスマ的なものではなくて 
マデルナに最後に会ったのは 場所も時も忘れたがオーボエ・コンチェルトの演奏を聴いた後で 別人のように痩せて 座っているのも苦しそうだった

こういうことは どこかに書いておかないと だんだん忘れてしまいます 意味のあることではないかもしれないが

高橋悠治 

・・・・・・・・・・

こういうこと、つまりその場にいたら、その時代にいたら、当然のこととして受け止め、特に何も注意を払わなかったりする日常が、時間というフィルターにかけられると、まるで別次元のかなたに連れ去られてしまいます。何となくおぼえていられるのではないか、何となく誰にでも理解してもらえるのではないか、そういうことをぼんやり思うにしては、時間は途轍もないスピードで今を駆け抜けていってしまう気がするのです。だから、伝えられることは、伝えられるときに、伝えられるひとが、伝えておかなければいけない。

今回、ボローニャの本番の日に、ドナトーニと長く連れ添ったマリゼッラと一緒に、演奏会直前まで、ドナトーニの生前のヴィデオを映写しながら、テアトロ・コムナーレのきらびやかなフォワイエで、ドナトーニについて小さなコンフェレンスをしました。彼がミラノ放送響で自作のVociを指揮する姿です。意外なほど指揮が上手で驚きました。気がつくと、フランコの次男のレナートも駆けつけてくれていました。
「遠くからだけど、いつも君のニュースは聞いているよ。頑張っているね」
「10年に少し欠けるくらいか。すごく久しぶりだね」

余りに凡庸な物言いで書くのが恥ずかしいくらいですが、今回ドナトーニの巨大な楽譜を毎日ながめて過ごし、あらためて作曲はどれだけすばらしい職業かと痛感しました。楽譜をひろげると、日記よりもっと生々しく、すべての記憶、感情、空気、そんな全てが、活き活きと甦り、溢れだしてきます。

演奏会がおわり、マリゼッラとふたり、明りが落ちた夜半のホテルのロビーでしばし話し込みました。
「大げさかもしれないけれど、結局エミリオやフランコから学んだことを、次の世代に伝えてゆくことが使命だとおもっているんだ」
「何があっても、絶やしてはいけない。一度消えてしまうと、もう再現することは不可能だとおもう。それはもう再現ではなくて、想像の範疇だから。だから、どんなに辛くても、伝え続けてゆかなければいけない」
「オペラ劇場つきのオーケストラで、しかもこれだけ切り詰めた練習日程で、ドナトーニのような複雑な作品に対して一体何ができるのか本当に不安だったけれど、みんな信じられないほど誠実に、音楽にむかってくれた。心をこめて演奏してくれて、自ら感動してくれた。ぼくなんか本当にちっぽけで、何もしていない」
「どこも不況で、世知辛い毎日だけれど、悪いことばかりじゃない。こんな時代でも、音楽は捨てたものじゃない。現代音楽だから、と色眼鏡でみることもない。大変だけど、絶やさないで、とにかく頑張って伝えていかなければいけない」。

(12月3日ミラノにて) 

近づく気配から身をかわし

高橋悠治

すぎてゆく
はなれる
<どこへ>はない
近づく気配から身をかわしつつ曲がる跡を残して
未来へ後ずさりしつづける
<どこから>が<生きられた瞬間の闇>(エルンスト・ブロッホ)を透かして
無数の可能性を唆している

即興からはじめる
まずうごきだす
うごきによってうごきの外側に世界がつくられる
うごきの内側には何があるのか
うごいているものはあっても
うごきそのものは見えない
霧箱のなかのうごきの跡にしばらく残るかたち
空間も時間もリズムとしてしばらくは瞬いている

世界はいつも外側にある
霧のようにうごきをつつみ
うごきに押しのけられる空間を残し
墜ちながら手の届かない空間をふりかえる時間を感じる

雨は落ちながら曲がる(ルクレティウス)
交差とかかわりの予想できないなりゆきから
いまでないいつか ここでないどこかから
ちがう線がのびてゆくそのとき
うごきはひとつのうごきでなく
可能性の束がもつれながら
断ち切られないうねりとなってつづく
上も下もなく 前も後もなく
偶然の選択というより瞬間の意思として
世界に問いかけながら 応えながら
くりかえされる試みの重ね書き

ブレヒトとベンヤミンをよみかえしながら
軋りながら紙を掻きむしるペンの紡ぎだす物語についていった
カフカを思い出しながら
世界の実験室を口述するエルンスト・ブロッホをよみすすめながら
プロセスそのものからつくりだされるまだない音を追って
20世紀音楽の構成主義
固定され順序づけられた要素の組み合わせから離れられない方法主義のかなたに
さかのぼりながら宙に浮かぶ鬼火に照らされた歴史の闇にはいってゆく

少女の死

さとうまき

10月17日、朝の2時30分に携帯電話がなった。一階に電話を置いていたので、とることができず、留守番電話にメッセージが入っていた。イラクのイブヒムからだ。
「サブリーンが亡くなりました」

サブリーンは、2005年に、横紋筋肉腫というガンにかかった。きちんと治療すれば、70%から90%は治るそうである。しかし、サブリーンは、すでに病院に来たときは手遅れになっていた。イブラヒムが、2005年当時、「汚い服を着ている子がいて病院に来るお金もないんだ。支援してあげてほしい」という。すでに、片目を摘出していた。数ヶ月たって、イブラヒムがイラクのこどもたちに絵を描かせたといって何枚かの絵を持ってきてくれた。「なんだこれは!」と言ってしまいたくなるほど爆発している絵がその中にはあった。それが、片目のサブリーンが描いた絵だった。

4年経ち11歳の少女は、15歳になっていた。イブラヒムに頼んで絵をたくさん描いてもらった。猫を飼っていると聞いたら、猫の絵を描いてもらった。ワールドカップではサッカーの絵を描いてもらった。
「マキは、いつも絵を描けっていう」彼女はイブラヒムにこぼしていた。
そんな絵には、「この絵は、マキさんへのプレゼントです。サブリーン」といつも書き込まれていた。

彼女はいつも汚い服を着ていると、イブラヒムが言うものだから、クウェートで何度か洋服を買ってやって、イブラヒムに届けさせたことがあった。最初は、ど派手なピンクのシャツとかだったがおとなっぽくなってくると、銀糸で太陽がぎらぎらしている刺繍の入った黒いアバーヤをあげた。彼女は、つらい手術のたびに、お守りのようにその服を着ていたという。
「みんなが守ってくれているような気がするの」

今年、5月、バスラをたずねることができた。わずか30分くらいであったが、サブリーンがわざわざ太陽の服をきて病院まで来てくれた。この30分は、神がくれた贈り物だった。しかし、その後様態が悪化して残念な結果になってしまった。僕は丁度仕事でバスラに薬を届けなければいけなかったのだが、イブラヒムは、「今、バスラは危険だ。絶対に来るな」という。悲しいかな、お見舞いにもいけなかった。

今、イラクのアルビルというところにいるのだが、イブラヒムがサブリーンの遺品を届けてくれた。「私のことを覚えていてほしいから、死んだらマキにわたして」といったそうだ。イブラヒムがビニール袋から取り出したのは、彼女がつけていた時計、着ていたドレス、頭に巻いていたスカーフ、そしてサングラス! ぬけがらそのものだった。僕はとまどった。こんなのは、普通家族が大切にもっておくのではないのかとも思ったのだが、イブラヒムは「彼女は、孤独だったんだよ。家では、虐待されてたんだ。」というのだ。
うまれてきてつらいことがたくさんあったのだろう。でも天国では、平和に暮らしてほしい。

なにも失われない場所

くぼたのぞみ

暮れるにはまだはやい
翡翠色の
記憶のうす闇に手を伸ばし
つかみ
ひきよせようとする
渾身の力こめる指先の
ことばの温もり
埋め込まれた
チップのような
ノスタルジアのかけら
女の口で飛沫をあげる
苛烈なことばたち

灰色の空に
恥ずかしい病のように響く
孤独と
ささやかな笑み
きみの涙は
渇いた赤土にしみて
見えない

五月のオデオン座なんて知らないけれど
十年後の可視光線のなかを
歩いているのよ わたしは

愛するものの束縛から
自由になるため
きみは
なにも失われない土地
を夢みて
雲の潮騒を聞きながら
時のねじれのなかに
とりあえず
旅立ったことにしたの?

ずいぶんじゃないか

畑から歩っちゃー(ハルカラアッチャー)

仲宗根浩

駐車場に入ると駐車場の大家さんの軽トラックのライトが点いたままだ。大家さんのところに行くと、おばさんが出てきた。ライトが点いていることを伝える。
「あ〜、はるからあっちゃーねぇ、ありがとうねぇ。」
「はる」は畑。あっちゃーは歩くひとやものみたいなもので、その軽トラは大家のおじさんが畑仕事に行くときに使っている軽トラだから「はるからあっちゃー」という呼び方になっているみたいだ。なんか久しぶりに方言の個人的に使う呼び方を聞いておもしろかった。他の方言でもそうだろうがこの微妙なおもしろさというのはそのときの状況もあるし、それを言うほうのキャラクターもあるから、その場にいないとおもしろさはわからないもの。

二度目の台風が近づいたときに、久しぶりにアスファルトの上を水しぶきが走るのを見た。風はかなり強くなっていた。おさまった翌日、車を出そうとドアを開けシートに座る。ドアを閉めようとすると半ドアでちゃんと閉まらない。いつもより強く閉めると、ドアはちゃんと車におさまる。何回かドアを開け閉めする。おかしい。そのまま用事を済ませ家に帰り、奥さんに車のドアのことを話す。「やっぱり。」と言う。前日、子供の部活メンバーを迎えに行った先で、ドアを少し開けたところ突風でドアが尋常じゃないくらい開いた、という。状況をプロレス的に想像すると、ペールワンが猪木に腕ひしぎ逆十字を極められたときぐらいにあらぬ方向に曲がったのだろう(しかし完全に極めているにも関わらずペールワンはギブアップしなかった。特別な間接を持っているらしいけが、その後アームロックを極め猪木はペールワンの肩を外した)。修理屋さんに持っていく。ドアがついている部分が曲がっているらしい。ヒンジも交換しなくてはいけないかもしれないが板金担当が見て判断するが、今日は板金担当が休み。翌日は胃カメラを飲んだあと仕事だから、翌々日の休みの日に持っていくことにした。修理は思ったよりはやく、板金だけで完了した。保険はきかない。修理代は最初のおおまかな見積もりの半分くらいで済んだ。ちょっと近づいただけのちょっとした台風被害。本格的に上陸したら雨はアスファルトから降る。どこから看板が飛んで来るかわからない。一度仕事帰りに車で走っている目の前を大きなブルーシートが横切ったこともある。隣の家の屋上にそのまた隣の家の空の水道タンクが転がったこともある。台風の目に入ったときの静かな時間、五、六年は経験していない。

もう、家の中ではクーラーも必要なくなり、扇風機の出番も少なくなる。海に泳ぎにも行けないまま夜に帰ってきた玄関前、左側の手すりに大きめのゴキブリがとまっている。ちょっと見ていたら飛んでいった。ゴキブリが飛んでいくのを見るのもずいぶんとひさしぶり。

メキシコ便り(26)

金野広美

中米4国から帰ったあと、今度はベネズエラ、コロンビア、エクアドルと南米の北方に位置する3国を回りました。まずメキシコからベネズエラの首都カラカスへ。飛行機がカラカスに着くのが深夜の0時5分。今までホテルは予約などしたことがなかったのですが、時間が時間ですし、外務省からはカラカスに危険度1の注意喚起がされているので、予約だけはしておこうとメキシコからホテルに電話を入れたのですが、これが大変でした。というのはガイドブックには60ドルと価格が表示されているホテルなのですが、料金をきくとこの国の貨幣単位のボリーバルで380ボリといわれました。ドルに換算してくれるように言うとこれがガイドブックとはまったく異なり3倍くらいの180ドルという額になるのです。おまけにボリーバルも普通のボリーバルとボリーバルフエルテ(下2桁の0をとった数え方)の2種類の言い方があり、そんなことを知らない私は何軒か電話をする内にすっかり混乱してしまい、予約ひとつ満足にできませんでした。

しかし、ちょうどその時、家に来ていた友人がベネズエラに友人がいるということで宿の予約とタクシーの手配を頼んでくれました。しかし、まだ問題がありました。深夜なので両替のための銀行はあいていませんし、タクシー代はドルではだめだというのです。うーん困った。私はドルで払えるものと思い込んでいたのです。そこで丁度、私のメキシコの友人からベネズエラにいる彼女の友人にテキーラを届けるようことずかっていたので、その人に相談しました。するとその彼が深夜にもかかわらずホテルの前で待って両替をしてくれることになり、なんとか無事に入国できそうになりました。やれやれです。もうこれからは少々安くても見知らぬ土地の空港に深夜に着くような便には2度と乗らないようにしなくてはと大いに反省した次第です。

当日、飛行機はきっちり0時5分にカラカスに着き、無事ホテルで1泊。一夜明け、ホテル代381ボリを支払わねばならないのにお金が足りません。カードで払えば日本円で18000円位になってしまいます。なぜならベネズエラは公式には1ドル2.15ボリーバル・フエルテですが、実際はブラックマーケットがあり、1ドル5.6から6.3ボリーバルなのです。

ガイドブックに書いてあったホテル料金は闇レート価格でのドル表示だったのです。しかし、普通の両替商や銀行は旅行者には公式レートでしか両替してくれませんし、あらゆるものの値段はどう考えても闇レート価格が妥当なのです。ここはなんとしても闇レートのボリーバルを手にいれなくてはと思い、彼に闇で両替をしてくれるところはないかと聞いてみました。すると彼は噂だけですが、と断わって、ある中国食材店を教えてくれました。

私はさっそくバスを乗り継いで行ってみました。やっと探し当てたその店は住宅地の奥にありました。若い店員に「店主はいるか」と尋ねると、刺青をした、なにやら怪しげなあんちゃんが「何の用だ」と出てきました。私が「両替をして欲しい」というと、店の奥の暗い倉庫に連れて行かれました。なんだかやくざ映画のワンシーンみたいで少しドキドキしましたが、200ドルを1200ボリに替えてくれました。やったー、これでやっとホテル代が払えます。それにしてもベネズエラは個人旅行者にはあまりにつらすぎる国です。

ここ最近この国の貨幣価値はじりじりと下がり続け、ボリーバル紙幣はだんだん紙切れに近づいています。ドルでは受け取らないといわれていたタクシー運転手は、本当のところはドルで欲しかったみたいでしたし、あるベネズエラ人からも秘かにドルをもっていたら両替して欲しいと声をかけられました。この国では外貨の持ち出しも持ち込みも禁じられているため表だっては決してドルを流通させてはいけないことになっていますが、裏ではしっかりドルが幅を利かせ、その力は増しているようでした。

両替するだけですっかり疲れてしまったその日の夜、夜行バスでマシーソ・グアヤーネス(ギアナ高地)への拠点になるシウダ―・ボリーバルに行こうとバスターミナルに切符を買いにいきました。切符売り場は長蛇の列。82ボリといわれ90ボリ出しておつりをもらおうとすると、売り場の女性はいかにも売ってやっているといった横柄な態度で「おつりは今ないから45分待て」というのです。「えー45分、どういうこと」とびっくりしてしまい、「私が他の人に両替を頼みますから10ボリ返してください」というと、彼女は「それなら今売った切符を返せ」とえらそうに言うのです。客に対しての失礼な態度にすっかり嫌な気分になりながらも、並んでいる客の列に両替をたのみました。するとひとりのおじさんが「いくら足りないの?」と聞いてくれ、「2ボリです」と答えると「これをあげるから使いなさい」とお金をくれました。彼女の態度に頭にきていたのですが、これで少しは気持ちも和らぎ、ありがたくいただきました。それにしてもあの売り場の女性の態度は日本ではちょっと考えられないですよね。

その夜9時に出たバスは翌朝6時にシウダー・ボリーバルに着きました。バスターミナルにある旅行会社でギアナ高地へのツアーを申し込み、その日はゆっくりとこじんまりとした町を歩きまわりました。シウダー・ボリーバルは人口27万人のベネズエラ有数の都市で広大なオリノコ川が流れ、平均気温は30度。人々が川岸でビール缶片手に涼をとっています。私も川風に吹かれながらビール売りのおばさんとぺちゃくちゃと話しこんでしまいました。

次の日、飛行場から5人乗りのセスナ機で1時間半、ギアナ高地への入り口になるカナイマに到着しました。カナイマは人口2500人の小さな村で、いまでも原住民族ペモンが多く住み、道行く人々はみんな挨拶をかわしながら歩いているという、なかなかのどかで平和な感じのする村でした。飛行場には若いガイドが迎えに来ていてそのままジープで船着場に行き、細長いボートに乗り込みました。ここからカラオ川、チュルン川を4時間あまりさかのぼり世界一の落差983メートルのサルト・アンヘル(エンジェル・フォール)を目指すのです。

ギアナ高地の総面積は日本の1.5倍。ここにはこの地だけに生息する食虫植物のヘリアンフォラをはじめ原始の形をとどめた珍しい動植物が多くみられます。いまだに人が足を踏み入れられない前人未踏の場所も多く、「太古の歴史をもつ世界最後の秘境」ということで、日本でもしばしばとりあげられています。地球は最初はひとつの大きな大陸でした。およそ2億5000年前に始まった大陸分裂の際、ギアナ高地はちょうど回転軸のような場所にあたり、移動することなく留まりました。他の大陸は何度も気候変化の影響を受け変形していきましたが、ここはずっと熱帯気候だったため大きな変化を受けず2億数千年前から変わっていないのです。地質は地球上で最古の部類に属する花崗岩でできています。それが2億数千年の歳月の間にやわらかい部分がはぎとられ硬い岩盤だけが残ったため、その姿は垂直に切り立ち、頂上はまるでテーブルのように平らになり、テーブルマウンテンとよばれているのです。

ここには100あまりのテプイ(ペモン人の言葉でテーブルマウンテンのこと)があり、そのなかでもサルト・アンヘルが流れ落ちるアウヤンテプイは広さ700キロ平方メートルにもおよぶ大きなものです。船着場を出たボートは13人のツアー客をのせカラオ川をゆっくり進みます。この川の水の色はまるでコーヒーのようなこげ茶色をしています。これはジャングルに生い茂る植物から出るタンニンが川に流れ込んでいるためです。はじめのうちは広くゆうゆうとした穏やかな流れが、進むにつれて急流になってきました。瀬が多くなり、まるでコーヒーがぐつぐつと沸き立っているかのようです。

ガイドのアントニオは先頭に座り客に、「もう少し右によれ」とか「ボートのへりに手をかけるな」だとか細かく船の重心をとるために指示をだします。真剣な表情のアントニオの細かすぎる指示は、かえって乗客の危機感をつのらせ、だんだん怖くなってきました。彼は大きなごはん杓子のようなオールで右に左にと細長いボートを巧みに操っていきます。大きな岩がたくさんある細い場所を通り過ぎる時など、船がひっくり返りそうで生きた心地がしませんでした。最初はわいわいとにぎやかにしゃべっていたフランス人のおばさんたちも次第に無口になり石のように固まってしまいました。4時間15分をかけ、サルト・アンヘルの近くのラトン島に着きました。ここはキャンプ地なので今夜はハンモックで寝なくてはなりません。ゆらゆら揺れながらすぐ眠れましたが、同じツアー客のイラン人のアレックスのすごすぎるいびきには何度も目がさめてしまいました。

睡眠不足の次の日、朝早くキャンプを出発しサルト・アンヘルをめざしましたが、この登山道が大変でした。ジャングルの中はごろごろ石と大きく根をはった木々の根っことでとても歩きにくく本当に疲れました。しかしあえぎながらも滝にたどりついた時は思わずその特異な滝の姿に目を見張りました。この滝は983メートルもの高さから落ちてくるため途中で水がすべて霧になってしまい滝つぼがありません。上方は雲におおわれた滝なのですが途中からはもやだけががたちこめています。世界最長ということで特に有名なのですが、その姿もとても珍しいものでした。その日は天気もよく最初かかっていた雲もしばらくすると晴れ、はっきりと全景を見ることができ、とうとうたどりつけたのだという感慨でちょっと胸が熱くなりました。

ここの見晴らし台はきちんと整備されたものではなく、大きな斜めになっている岩に登って滝を見るのですが、すぐ下は断崖絶壁。「ここから落ちて死んだ人もいるから気をつけろ」とガイドのアントニオがまたもや脅します。彼はガイドになって1年、決して笑い顔を見せない若者で純粋のペモン人だそうです。「なぜちっとも笑わないの?」と聞くと「僕には責任があります。それにここにくるのは年配の人が多いですし」と答えました。そういえば13人のツアーの中でも若者は3人だけ。そんな中で私が最年長、いつもみんなから遅れる私を彼は気遣ってくれて手をさしのべてくれます。そうか、彼が笑い顔を見せないのは私のせいでもあるのかと、今さらながらですが気がつきました。どうもすみません。

ゆっくり滝を見たあとは下方を流れる川で水泳タイムです。遠くに雄大なテプイを眺めながら、さんさんとふりそそぐ太陽の中、冷たい小さな滝つぼの中での水浴びは最高でした。すっかり体が冷えたあとはまた川を下り、カナイマに戻りました。川の両岸に次々と現れるテプイはまるで大きな航空母艦のようだったり、ブルドックにそっくりだったりと、その形も大きさもさまざまで、いろいろなものに見えてきてとてもおもしろかったです。2億年ものあいだ変わることなく存在し続けているテプイ。威風堂々としたテプイを眺めながら、私は文明の進歩の名のもとに地球を壊し、ゆがめさせてしまっている人間たちをテプイは静かに見つづけながら、どのように思っているだろうかと、ふと考えてしまいました。

ジャワ舞踊と語り

冨岡三智

こんなタイトルをつけると、「ラーマーヤナ」とか「マハーバーラタ」を題材にしたジャワ舞踊のお話をするのかと一瞬思われそうだが、ぜんぜん、そうではない。先月予告した「ジャワ舞踊と落語とガムラン」公演の顛末である。自分の公演について自ら語るので、いつものことながら私の自慢と言い訳だらけになるはず。どうか覚悟を決めておつきあいのほどを…。

  ●落語

ジャワ舞踊の公演を依頼されたとき、全体を貫く大きな物語の中のシーンとして舞踊をはめ込みたいなあと考えた。いくつかの舞踊作品をただ並べるのではなくて、その作品がどんな風なイメージを持つものなのか、全体の中でなんとなく分かるようにしたかったのだ。かといって、1曲ずつ解説してから上演するやり方だと、学校の鑑賞会みたいになってしまう。神社という場所でやるなら、もっと自然にさりげない方法がいい。

「全体を貫く大きな物語」ということで、落語家さんが作ってくれたのが、ジャワを旅する男が、あの世ともこの世ともつかない所にさ迷いこんで繰り広げるお話である。上演したい舞踊作品はすでに決めていたし、2人で3曲の舞踊を出す都合上、上演順序も決まってしまうし着替えの時間も考えないといけないしで、それに合わせてお話を作るのは大変だったと思う。けれど神社という舞台も取りこみ、下げも舞踊にからんでいて、一期一会のお話を作ってくれたなあと感激している。

この落語家:林家染雀さんはほとんど毎年ジャワに行く人なので、それで安心してお話を依嘱(丸投げ?)できたところがある。彼自身のジャワ体験も反映されているから、話の内容にリアルさがある。もちろんお話は落語だし、古典の落語をいくつか下敷きにして作ってくれたので、ばかばかしさ満載の作りものなのだが、虚構というのは実感のリアリティに支えられているからこそ面白いんだなあと感じ入る。

この物語の中に、舞踊曲以外の部分でも、ガムラン音楽がお囃子としてふんだんに挿入された。落語家さんの出すきっかけで入り、しかも通常よりずっと短く演奏しないといけないから、前奏を変えたところもある。音楽だけで聞かせる曲というのは、短いようでも意外に前奏が長いのだ。でも、私が直接感想を聞いたお客さんには、きっかけがあって音楽がパッと入るその間合いの絶妙さが良かったと言ってくれる人が多かった。もっとも、これは彼が上方落語の噺家で、お囃子についていろいろとリクエストがあったからこそできたことで、江戸落語の人と組んだらどうなっていたのか、私には見当もつかない。

通し稽古の時、この公演はワヤン(影絵)のダラン(語り手であり人形遣い)を落語家に変えたみたいなあと、ふと思う。ワヤンの面白さというのも、私にとっては、語り(ジャワ語の意味は分からないけど)と、音楽が語りと溶け合っているところの面白さなのだ。「マハーバーラタ」のお話が、語りも音楽もなくて文学としてだけ読まれていたら、あれほど庶民の間に浸透しなかったんじゃないかと思う。ワヤンでは、物語によって世界が構成される。その世界の中で、物体としての人形が「声」を吹き込まれたことで、キャラクターとして生き始める。そして、そのキャラクターが生身の人間で演じられる面白さが、人間が舞踊を上演する面白さのような気がする。

ワヤンを見て育った人たちがジャワ舞踊を見るような感じで、日本の人がジャワ舞踊を見ようと思ったら、やっぱり語りがいる。舞踊作品が始まる前に、その作品の持つ世界や人物設定がなんとなく分かる公演にしようと思ったら、物語を語る形式にするのがいい。でも朗読だとまだ固い気がするし、解説で聞かされると、知識として頭に入るけれど、体に浸透してくる感じではない。では、なぜ落語なのかと問われたら、それはやっぱり染雀さんがいたから、という他ない。

  ●オーバーラップ

1曲目のブドヨ、2曲目のガンビョンの舞踊の途中では、染雀さんに語りを挿入してもらった。彼は舞踊は舞踊として見せたいと考えていたので、これは私からのリクエストである。ブドヨでは、ちょうど前半と後半の間で一度座るところと、最後に立ちあがって去っていくところである。ブドヨ(宮廷舞踊)の上演でこんなことをしたら、特に伝統主義者からは絶対に反対意見が噴出すると思う。

私がジャワでブドヨ公演をした時は照明を使って舞台に陰影をつけたのだが、実は賛否両論があって、かなり批判もされた。しかし、伝統舞踊には、その舞踊が生まれた時代の制約というのがある。ブドヨが生まれたときには今のような照明器具がなかったのだ。私自身、バリバリ古典舞踊というのを中心に勉強してきた経験から、振付のこの部分では、ある人物にスポットライトを当てたいのではないかとか、ここは映像だとスローモーションにしたい箇所ではないか、と思ったりすることがある。しかし、過去にそんなテクニックはなかったから、動きの振付で調整するしかなかった、と思うのである。

ブドヨの前半と後半の間のつなぎ(パテタンとよばれる部分)は、明らかに舞踊のテンションが一時解かれて、映像作品だったら一度カメラを引き、オペラ座みたいに立派な劇場での公演だったら、劇場の天井などをちらっとカメラで写すかもしれないところだ。それなら、ちらっとここで語りが入って一瞬現実に引き戻されるような効果があってもいい。しかも、そこに後半の舞踊を見るヒントなどが入っていたりしたら、もっといいかもしれない。曲の最後で踊り手が消えいらないうちに語りが入るのは、エンディング・テーマが始まらないうちにエンドロールが入りかけるようなもの、という感じだろうか。もっともこれは今回の要望であり、次回の公演では「踊り手が見えなくなるまで喋らないでくれ」と要望するかもしれない。

  ●おうむ返し、二の舞い

私が個人的に一番面白いと思ったのが、3曲目の「ガンビルアノム」の前後。落語の中で「ジャワの王子がえらく思いつめた様子でやってくる」ことが語られて、舞踊が始まる。この曲では恋に舞いあがっている王子のハイな様子が描かれた後、一点して落ち込んだ王子の切ない気持ちが描かれる。曲も、テンポが速くガンガン演奏する曲から、ゆったりした柔らかい感じの曲に変わり、その柔らかい曲に、今回は男性の独唱で歌を入れてもらう。ちなみに、これはジャワ人音楽家のローフィットさんが歌ってくれる。その後王子はまたどこかへ出発して舞踊は終わる。王子が去った後、さきほどのゆったりした曲を、今度は歌なしで、しかもフル編成ではなくてガドン(小編成)で演奏されるのをBGMにして、染雀さんが再度その歌の意味を日本語で語るのである。もっとも真面目な翻訳ではなく、物語に合わせた意訳になっているけれど、これで先ほどジャワ語で歌われた王子の心情がよく分かる。

王子の心情を伝えるには、ローフィットさんの歌を日本語訳するという手もあるけれど、今回、私はその手法を取らなかった。ただ、こんな風にあらためて日本語で語るという染雀さんのアイデアを見ていると、バリの「ガンブ」とかジャワの「ワヤン・トペン」(仮面舞踊劇)などを思い出す。こういう舞踊劇では高貴な人物には必ず道化などがついている。高貴な王、王子や王女は高貴な言葉でしゃべるので、、観客にはその言っていることが分からない。それで日常語でしゃべる女官だとか道化が登場して、高貴な人の言ったことを俗な言葉で言いなおしたり、滑稽に繰り返してやって見せる。ちょうど舞楽の「二の舞い」みたいな感じでもある。今回の「ガンビルアノム」の場合は、別に滑稽に翻案したわけではないけれど、これで「ガンビルアノム」の王子の物語を「腑に落とす」という感じがして良い。染雀さんとしては、その後の下げに向けてお話を構成するのに必要だから、お話のおうむ返しをしたのだと思うが、ジャワの伝統舞踊劇のツボにはまっている。落語でもこの手法はよくやるんだろうか。

  ●

今回は公演全体ではなくて、語りの部分にだけ注目して公演を振り返ってみた。終わってみたら、なんだか「ガムラン囃子による落語の独演会・ジャワ舞踊付き」みたいになったような気もする…。舞踊だけでなく、舞踊を取り囲む世界を生み出すことができていたら良いのだが…。

ある日のできごと

大野晋

その日、最初の小編成のモーツアルトが全ての予兆だったのかもしれない。痩身で長身の指揮者はオレグ・カエターニ。かのイゴール・マルケヴィッチの子供とのことだが、紡ぎだすモーツアルトはとてつもなくリリックであった。金曜の久々のコンサートはいかにも古めかしい上野の杜の文化会館。最新の、といってもすでに一回目の改修を迎えたサントリーホールよりも、ずっと古さを感じるコンクリートのホールは響きの面でもいささか癖がある。しかし、その癖にマッチするかのようなプロコフィエフのピアノ・コンチェルトとショスタコビッチのシンフォニーが今晩の癖のあるメインディッシュである。

いや、予兆はすでに会場に入る時点であったのかもしれない。いつもは十数人くらいしか並ぶことのない当日券売り場が長蛇の列。先週の日曜日の同じ指揮者の公演が評判がよかったからかなあ、位にしか考えなかったが、今となったらあのときから始まっていたのかもしれない。いや、もっと考えてみれば、いつもコンサートの最初に、一番最後に出てきて、挨拶をするコンサートマスターがとっとと定位置に座った時点で、何か起きるな!と感じるべきだったか。

リリックなモーツアルトのシンフォニー第29番K.201で少し高揚した後、指揮者とともに登場したのはカティア・スカナヴィというギリシア系のロシア人。なぜ、ギリシアとロシアが関係しているのかよく理解できないが、長いけれども装飾のないスカートが印象的。

東京文化会館の大ホールでピアノを聴く際には、演奏者のタッチによると舞台下からピアノ下面の汚い音がダイレクトに会場に出てきて、おんおんと曇った反響音しかしない(特に前方の席では)困った傾向がある。さて、今回はどうしたものだろうかと思っていると、プロコフィエフの3番のピアノコンチェルトの最初のピアノの音が力強いタッチで、ピンッと出た。どちらかといえば、硬質なインパクトの強いタッチが似合うだろうと思うこのコンチェルトに良くあった音で、なかなかの演奏が硬質な反響をする文化会館に響き渡る。

演奏後、アンコールで演奏したのが、プロコフィエフとは対照的なリリックなショパンのノクターンで、「私はこんな演奏もできるのよ」とスカナヴィさんに切り返された感じがした。後日、あちこちの演奏会の感想を読んでいて「もし自分の知り合いの女の人に、目の前でこんなふうに弾かれたら、一発で恋に落ちます。そういう演奏だった。」という表現をしているのを見かけたが、まさにそんな感じの演奏だった。もちろん、休憩時間にロビーに置かれた彼女のCDが恋に落ちたおじ様たちに求められて、とっとと売れ切れてしまったことは想像に難くない。

休憩後は一転、非常に厳しいショスタコーヴィッチ。交響曲の6番は大作の5番と7番に挟まれた微妙な位置にある曲で、演奏機会こそそれらメジャー曲ほどは多くはないが、学生時代の酔狂で、プロコフィエフとともに全曲聴きこんだ私には非常におなじみのひとつ。譜面台が取り除かれた指揮台から、暗譜で、指揮者が音量、テンポ、キュー出しなどをてきぱきとこなす様子を見ていて、なるほど、これならコンサートマスターの仕事は少ないわなあ。と変なところを感心する。いや、それにしてもおみごとなシンフォニーでした。

ちなみに、この文章が掲載される頃は遠く北の都にいるはずだ。今年三度目、チェコのマエストロ エリシュカの指揮では二度目のスメタナ「わが祖国」を聴きに、札幌・キタラに。さて、どのような演奏を聴かせてくれるのだろうか? 非常にわくわくとしている。

擬態ーー翠の虫籠61

藤井貞和

あいの夕べは なにしてあそぼ はりのおめめで あかいふうせん ぱちんとわって ふわふわくもに のぼりたい

あおむしといき さんしょのはっぱ さなぎになって ぼくねえさんの かげになりたい このはになって 眠りたい

(擬態は対象となるあいてから遺伝子を獲得しなければそっくりさんになれないはずである。だよねえ? 揚羽蝶の幼虫はあおむしになる直前に「鳥のうんこ」になる。黒い物体に白くまぶしてある感じが落ちてきた糞〈ふん〉を擬態しているというわけ。うんこの遺伝子をどうやって獲得するのだろう、謎だ。最大の擬態は人類。)

アジアのごはん(32)ナム・プリック

森下ヒバリ

なんとか料理の腕が戻ってきた。
ひと月、ふた月の長さで旅行して、その間ほとんど料理をしないでいると、見事に料理の腕がにぶる。味付けのポイントをはずす。煮方や火の通し方のコツを忘れている。料理の手順がヘンテコ。ということの繰り返しで、なにかぼんやりとした味の料理がもたもたとできあがってしまう。う〜ん、いかん。だから、旅から戻ったばかりのわが家にはあまり遊びに来ないほうがいいとは思う。でも帰ってきたばかりは、新鮮なタイカレーペーストやハーブ、トウガラシや粒コショウ、お茶などいい食材も揃ってはいる。しかし味のぼけた和食を食べさせられる確率のほうがだんぜん高い。一日読書をしないと頭が悪くなる・・という話があるが、料理を毎日しないということの威力もすさまじい。

だからといって、タイを中心としたアジアの旅では、自炊しようという気にはほとんどならない。タイや周辺諸国の料理はとにかくおいしい。現地の料理を食べるためにその国を旅しているようなものなのである。バンコクに行ったら月ぎめで借りるアパートホテルには、流しはあるものの、調理器具もコンロもない。だいたい、バンコクの友人たちのアパートもそうだが、いわゆるタイのアパートには台所というものが付いていないことが多い。

はじめは、なんで台所がないのかふしぎだった。台所は生活の要じゃないの? しかし、アジアの都市部、とくにタイの外食事情はたいへん恵まれている。24時間どこかでなにかが食べられるほか、お持ち帰りの出来る惣菜屋さんもたくさんある。その料理の味のレベルも高いし、安い。中華料理の影響で、野菜料理も多いし、いろいろ味や食材の注文もつけられる。もちろん、ちゃんと自炊している人もいるが、ごはんを炊いて卵だけ焼いて、後のおかずは買って来る・・式の半自炊者が都市部では大半ではないか。働いている人などは、休みの日だけゆっくり料理するが、平日は買ってくるか食べに行く、という人が多い。もちろん、まったく自炊しないという人もたくさんいる。

同じように、自分で料理せず外食や出来合いに頼る食生活でも、日本のコンビニ弁当やコンビニ・スーパー惣菜で構成される食生活と、タイの外食や屋台や店売りの惣菜で構成される食生活は、まさに天国と地獄ほどの差。旅行者にとってもシアワセである。

おいしいアジアの食を日本でも活かすために、アジアの旅から日本に戻るときにはいろいろなスパイスやハーブを買い込んで持ち帰ることになる。ヒバリが必ず持ち帰るのは、生の極辛トウガラシのプリック・キーヌー、タイのレモンのマナオ、そして生のトウガラシを潰したトウガラシ・ペーストの「ナム・プリック」である。トウガラシは日本のものとは味や香りがちがうので、やはりタイ産でないと。

まずはタイの極辛トウガラシ、プリック・キーヌーを輪切りに刻んで魚醤油のナムプラーに漬け「プリック・ナムプラー」を作る。魚醤油のナムプラーは京都でもタイ製のイカ印がすぐに手に入る。1ミリから2ミリぐらいの幅にコトコト刻み、ジャムなどが入っていたビンに三分の一ほど放り込み、上からナムプラーを口まで注げばおしまい。これで辛くて香り豊かな「プリック・ナムプラー(トウガラシ魚醤油)」の出来上がり。炒め物などに大活躍。

プリック・ナムプラー製作の次は、タイのレモンであるマナオ(ほんとうは持ち込みしてはいけません)を使って甘辛酸っぱいタレをつくる。材料はマナオのしぼり汁、ナムプラー、さとう。割合は1:1:0.2〜0.3ぐらい。さとうは三温糖がいい。これは、タイ料理の辛くて酸っぱいサラダ、ヤムの調味料である。タイ人は作り置きしないが、日本ではマナオや味の近いかんきつ類がいつも手に入るわけではないので、わたしは作り置きしておく。水が入らないので、かなり長持ちする。マナオがないときは、すだち、かぼす、ゆず、夏みかんなどを使うといいが、ずいぶん香りが違う。レモンでもいいが、味と香りがきつすぎるので他のかんきつ類も混ぜるといいかも。

このタレは、そのままタイふうサラダのドレッシングにもなるし、オリーブオイルと和えてイタリアンサラダのドレッシングのベースにだってなる。というか、うちのサラダの味のベースは、はっきりいってほとんどこのタレである。まずはサラダの材料にオリーブオイルをかけて混ぜ、それからこのタレをちょっとだけかけて和える。好みでさらにレモン汁をしぼったり、塩や酢を足したり、材料や気分によってアレンジする。

我が家のメインディッシュは、冬は湯どうふ、夏は野菜たっぷりサラダであるので、夏、いや寒くなるまで、ほとんど毎日のように大盛サラダを作る。毎日のように食べるから、味つけも材料も微妙に変える。でも、味のベースにこのタレがあると、おいしさの核心みたいなところがピシッと押さえられていて、実に頼もしい。このタレ、自家製ドレッシングの素、とでも言おうか。タイ好きの出雲のヨネヤマさんがさっきうちに来て昼ごはんを食べて行ったが、タコとアボカドと豆のサラダをたいそうお気に召した様子。「その味のベースはナムプラーなんだよ〜」と教えると「え〜、ぜんぜん気が付かなかった〜」とびっくりしていた。

トウガラシ漬けナムプラーを作り、ヤムのタレを作り、さて次は。タイの市場で買ってきたトウガラシ・ペースト「ナム・プリック」をビンに移し変え、冷蔵庫にしまう。ふう〜、これでしばらくはおいしい食生活が保証されるぞ。ナム・プリックとは、ウエットな状態のトウガラシ加工品のタレやつけ味噌のことであるが、ヒバリの愛用している市場の手作りナム・プリックの成分は、シンプルだ。やや荒めに潰した生トウガラシ、かすかな塩、ニンニクの潰したもの少々。生トウガラシは、プリック・チーファーという種類の、日本の鷹の爪ぐらいの大きさのトウガラシである。プリック・キーヌーほどではないが、やはり辛い。それをすり潰してあるので、これは炒め物などの辛味付けに最適である。ラーメンに入れても最高。しかも、ただ辛いだけでなく荒めにすり潰して塩を加え、おいてあることで微妙に発酵して、じつにウマイ。その場で生トウガラシを潰して料理しても、フレッシュでうまいのだが、このペーストはまたなんともいえないコクがある。

ところで、今回の旅の前に名古屋の友人のタナカ嬢から「あのトウガラシ・ペーストを買って来てえ〜」と懇願された。タナカ嬢は去年タイに一緒に行き、バンコクで市場に寄って、いつもヒバリがひいきにしている店で同じナム・プリックを買って帰ったのである。

「そんなに気に入ったの?」「あれ、激ウマだがね。ほんで、炒め物とかもいいけど、冷やっこに乗せて、醤油をかけて食べたらもう、たまらんのよ」「げっ、あれを冷やっこに!? そ、それは、ちょっと過激な辛さじゃないの?」「いやあ、辛いけど、もう麻薬的なうまさっすよ。もう、残りがないの。あれがないと生きていけない。大変だろうけど、お願い買って来てっ」「わ、わかった・・」

こうして、今回はいつもの2倍の量のナム・プリックをカバンに入れて帰国することになったわけだが、それを渡したときのタナカ嬢の喜びようといったら。で、その冷やっこのナム・プリック乗せの味だが、じつはまだ試していない。もし、試してみて激ウマだったときには、わが家での消費量が2倍に増え次回からタイであのトウガラシ・ペーストをこれまでの3倍ぐらい買うことになるのかと思うと、二の足を踏む。

日本の空港から家に戻る途中、ニンニクの香りがもれ出して、帰りのバスの中で肩身がせまいのだ。けっこう水っぽいし、袋が破れたらカバンの中は大惨事。今でさえ、料理にはこれがないとだめなのに、さらに消費量が増えるとなると・・でも、おいしいんだろうなあ・・やっぱり、あんなに喜んでたし・・うう、どうしよう・・。

オトメンと指を差されて(17)

大久保ゆう

 主夫になりたい、という願望はあったりします。といっても楽したいというわけではなくして、そっちの方が性に合ってて、社会的にももっとお役に立てるかな、などと考えるわけでして。

 朝起きて、お弁当と朝食を作って、午前中にだいたいの家事を済ませて、午後は自分の趣味やら翻訳に時間を費やして、夜のディナーが終われば早々に寝る。……なんていうふうな生活がありえるとするなら、おそらく洗濯以外のほとんどが(私にとっての)創造的になるという何という素晴らしい生活!

 あれ? 今のひとり暮らしと大差ないかも。

 とはいえ、結婚するとしてもあまり相手には依存したくないなあ(&依存されたくないなあ)、と思う今時の若者でもあるわけで。伝統的な〈結婚〉というより〈パートナーシップ〉のイメージですね。

 主夫になるについて相手に求めることと言えば、住む家を提供してくれることと、食費等の家事費用を負担してくれることくらいで、自分の衣類やら楽しみやら贅沢費については自分で稼ぐから、ふたりで暮らす分には特に家計をひとつにする必要性を感じないというか何というか。

 ……なんて言うと、「それは主夫というより家政夫だよ!」と突っ込まれてしまうのですが、確かにそうかも。でも相手が誰でもいいわけじゃないし、利害関係だけで結びつく気もさらさらないんですが。

 今のところは妄想止まりですけどね。若いうちはまだまだ結婚しそうにもないので(そんな気配もなければお話もないですし)、人並みに(オトメンとして)そういう生活への幻想を抱いてしまう微笑ましい話として流していただけると幸いです。

 欲がないよね、ともよく言われるのですが、おいしいご飯とあたたかいお布団とお風呂があれば、欲望としてはほぼ満足しちゃうんです。あとは古い本を図書館から借りてきたりなどして、古い映画を見られればそれでよくて。

 あとは何かしら生きるためのお金があれば、あとの時間もお金も能力も、できるだけ公共的なことに使う。クリエイティブコモンズでの翻訳でもいいし、青空文庫でもいいし、〈公共事業わたし〉みたいな感じで。

 そういうことに専念するには、主夫生活がいちばんうまく行くのかな、と思うわけです。

 ……実際に今やってることとは、まったく違うんですが。社会人として働きづめ、研究者として調べづめ、というやつで、現実問題としては、人生をセミリタイアでもしないとそういう生活は無理なのでしょう。

 〈寿引退〉?

 文筆業や研究職にそういうのがあるのかどうかはわかりませんが、そんなものかもしれません。専業主婦が一般的だった時代には寿退社がありえたのですから、オトメンも主夫になるときには、そういうことがありえるのかもしれません。

 正直のところ、オトメンが増えてきたことによって、これからどんなことが起こるのか、どんな問題が生じてくるのか、っていうところで、わからないところがあるんですよね。予想としては、こと〈ビジネスの世界〉においては、これまで女性が社会進出で感じてきたことを、男性が再び繰り返して経験していくんではないかと、そんなふうには思うんですが。

 結婚と引退のこともそうですし、育児休暇とか、職場でのセクハラとか、男性であるがゆえに〈余計〉に理解されがたいという障害が出てくるものと考えることができます。

 とりわけセクハラに関しては、若いオトメンはすでに学校や入り立ての職場で体験済みなのではないでしょうか。たとえば、男だから卑猥なトークは好きなはずだろという思い込み、男だから結局は狼なんだろという視線――それはオトメンが思わずため息をつく、耐えられないことのひとつでもあります。

 今の時代、学校や職場では、たいていセクハラに対しての対処法などの講習会・講演会などが開かれるわけですが、そこへオトメンが参加するのはまだまだ厳しいものがあります。だいたいの参加者は女性の方ばかりですし、男がそこにいるというだけで厳しい目を向けてくる(色眼鏡で見る)参加者も少なくありません。

 そうすると違和感のひとつでも抱きたくなるものです。ここはセクハラの問題を考える場なんですよね? ただ単に男が嫌いだと愚痴を言う場ではないんですよね? などというふうに。

 オトメンがよく生きていくためには、男性という立場からこれまで女性の問題であったことに直面していかなければならないように感じています。そしてそれは、想像以上にきびしくてつらい道です。

 『オトメン(乙男)』のTVドラマが放送されたことによって、もちろん認知度は上がって、これまでより理解されるようになるかとは思いますが、社会に受け入れられる存在となるには、まだまだ時間がかかるでしょう。社会にとっての異物はまず恐れられ、そのあと笑われ、そのどちらもが尽くされ飽きられて(慣れられて)はじめて、溶け込むことができるものです。

 TVドラマは総じて楽しいコメディで、私もとても大好きですが、放送が終わるにあたってちょっと真面目なお話をしてみるのでした。

製本かい摘みましては(55)

四釜裕子

間村俊一さんによる堀江敏幸さんの『正弦曲線』(中央公論社)の装幀がいい。12ミリくらいの薄い本で淡いクリーム色の函付き、函と表紙には恩地孝四郎の「ライチー・一枝」から輪郭を得て箔押しされており、函の底にもタイトルが記されてある。表紙はがんだれ、溝に筋つけされており、紙が柔らかいので片手で持ってもよくしなり、いわゆる「五点支え法」(*)でも読むことができる。本文天は新潮文庫のように不揃いで、本文の組は地の余白が大きくとられてゆったりしている。見返しは黒。堀江さんはサインするとき、銀色のペンでここに書くのだろうか。

月刊誌「ラジオ深夜便」の関連で『母を語る』(NHKサービスセンター刊)というムック誌を担当した。軽くて開きやすくて読みやすいかたちにするために、デザイナーの丹羽朋子さんと大日本印刷と編集部で装幀についての検討を重ねた。横になって読むのにもさわりなく、鞄に入れて持ち歩くにも邪魔にならず……「ラジオ深夜便」の読者の声から具体的な読み手の状況をさまざま知らされていたので、目指すところははっきりしていた。結果、210mm×138mmで144ページ、PUR糊であじろ並製、表紙は柔らかく、本文紙はややグレイ、本文は小塚明朝14.5Qでゆったり組んだ。表紙は淡い布地柄で、表1表2表3表4が共柄なので風呂敷で包まれたような印象である。もちろん、「五点支え法」でも読むことができる。

〈ラジオ深夜便〉はNHKの深夜のラジオ番組で、聞く人の眠りを妨げないことを第一義に毎晩放送されている。「母を語る」はそのなかで、アナウンサーの遠藤ふき子さんが企画交渉聞き手収録編集すべてを担い、1995年から月に一度の放送を続けている長寿コーナーだ。書籍化されるのはこれで3冊目。〈ラジオ深夜便〉は、一人暮らしで、眠りにつくまで、あるいは早くに目覚めて日が昇るまで聞いている人が多くいる。また雑誌の編集部には、本屋に行くにはバスを乗り継いでいかねばならない人からの便りもある。そうした状況を想像はできていても、一人一人の文字を読むほどに「想像」の甘さと強さを感じるばかりだ。今年もこれから寒くなる。遠藤さんの声を思い出しながら、夕暮れどきに木製の机の上から『母を語る』をひき寄せてページをめくったり、ちょっとしたおしゃべりの話題になったらと願っている。

*「五点支え法」 本を片手で持ちながらめくる様子で、xixiang(越膳夕香)のブックカバーにbookbar4(わたし)が指の位置を刺繍して本の”柔軟性測定実験”をしたときに述べたもの。

しもた屋之噺(95)

杉山洋一

「不況バンザイ!」と言われたら、君は何と答えますか?
明後日、イタリア国営放送3チャンネルの来年放送予定の新番組、現在の不況を明るく乗り越えるコツ「不況バンザイ!」のインタビューのため、テレビのクルーが拙宅へやってくるとかで、急遽居間の掃除に精を出しました。質問事項がいくつか送られてきたのですが、最初の質問がこれです。一体どう答えたものか。何でも、ミラノに住んでいる指揮者や作曲家に話を聞きたいということで、一人の生徒さんを通して、お鉢が回ってきたわけですが、実は今月は珍しくこの手の話が次々と舞い込み、困り果てていました。

神仏習合から非核三原則、政教分離など、中学生のための日本文化紹介の電話インタビューやら、ミラノ・ムジカ演奏会の宣伝のためのFMラジオ生放送のインタビューなど、やるたびに落ち込むのでもう引き受けまいと心に誓っていたのに、生徒さんから、折角だしぜひ、と頼み込まれると、結局今回も彼の好意もむげにできず、結局終わってから大いに後悔するのは目に見えているのです。来月末のボローニャ・テアトロ・コムナーレの演奏会でも、本番直前にコンフェレンスがあって、出席するだけでも辛いのに、何か話さなければならないと聞いて、今から脅えています。

今月は初めにミラノでロンバルディア州立オーケストラ「ポメリッジ・ムジカーリ」と武満徹、田中カレンなど邦人作家のほか、マンカ、ジェンティルッチなどイタリア人作家があって、最後は「牧神の午後」という不思議なプログラムでした。日本から帰ってきたばかりだったので、イタリアが懐かしいというか、目が飛び出るほど驚くというか。練習が始まる段になって、楽譜を読んでないどころか、誰がどのパートを弾くやら弾かないやら、まだがやがややっているだけでなく、特に編成や並びが変則的だったせいもあって、何処かへ行って帰ってこないステージマネージャーが椅子と譜面台を動かさない限り自分はここから動かないと始まり、少ない練習時間を無駄にできないので、それなら動かしてあげるから、と宥めると、「マエストロ、それはいけません。ともかく連中はまともに仕事をしない。これは前々から我々の間で大いに問題になっておりましてね」。でも、そうやって頑張っている限り、君も仕事をしないことになってしまう、と口が滑りそうになるのをこらえて待っていて、喫茶店から悠々と帰ってきたステージマネージャー陣が漸く椅子と譜面台をセットし、演奏者が席に着いたと思いきや、今度は、自分のパート譜が譜面台に載っていない、わたしのパート譜セットをどこにやったのよ、などと始まり、なかなか音が出るまでに至りません。

それでも練習が始まれば、没頭してどこまでもぐいぐいついてきてくれるので、あれだけ短い練習で互いに何とかしてしまうわけです。それが善か悪かは別として、無理やりでも何とかしてしまう、何とかなる、という意味において、イタリア人は天才的な才能を発揮しますし、学ぶところも少なからずあるように思います。

「地平線のドーリア」をミラノで演奏しながら、子供のころに上野の文化会館でこの曲を聴いて、遠くからへろへろの音響のつむぎ出す不思議な空間を心地よく眺めていたのを思い出し、胸が熱くなりました。途中のヴィブラートのフレーズの歌い方など、芯の奥がたぎるようなところがあって、イタリア人の「地平線」もなかなか味わい深いものでした。

中旬には、一年ぶりにお会いした今井信子さんや吉野直子さんがミラノで武満さんなどを演奏されたので楽しみに出かけたのですが、本当に豊かな音楽とそれを待ちに待っていた溢れんばかりの聴衆の熱気で、本当にすばらしい一晩となりました。それだけでなく、吉野さんご夫婦と近所のプーリア料理にでかけたり、今井さんやみなさんと応対のいかがわしいシチリア料理屋でオーナーに追い払われたり、揃って黒服に身を包んだファッション業界人のパーティと隣合せで、カブール広場の眺望の良いレストランで遅い夕飯をいただいたりと、すっかり愉快なひと時を過ごしました。

同じミラノ・ムジカ音楽祭の一環ですが、すぐれたヴァイブラフォン奏者で、特にジャズを得意とするアンドレア・ドゥルベッコが、先日武満さんのために書いた小さなオマージュを演奏してくれたので、子供が熱を出し、すわ豚インフルエンザかと慌てふためきながら本番直前に駆けつけると、会場のピッコロ・テアトロ・スタジオは観客が入りきれずに目の前でくじ引きをしているではありませんか。現代音楽の演奏会など元気がないものだと思っていたもので、それは驚きましたし、自分も入ることすら出来ないかと肝を冷やしました。演奏会後も、挨拶もそこそこに慌てて家に飛んで帰ってしまい、なんとも申し訳ないことになってしまったのですが。

ちょうどそのころ家人が10日ほど日本に戻っていたので、来年春に75歳になる母が子供の面倒をみに手伝いに来てくれました。さんざん世話になったお礼を兼ねて、日帰りでヴェニスに連れてゆくと、サンマルコ広場はどっぷりと水に浸かっていて、満潮と重なり、ひどい所では30センチ近い深さになっていたかもしれません。こんな風景は11月くらいかと思っていたので、困りましたが、それはそれで不思議な美しさがありました。何しろ普段は人いきれの広場ががらんどうなのですから、落ち着きを取り戻していて、ひたひたとまるで目の前の海と一つに繋がってしまったかのようでした。

やる気のまるでない土産物屋の妙齢から、ビニールを張り合わせただけの簡易長靴を一足10ユーロで買わなければ、細い路地などたちまち運河の水で膝下まで冠水していたりして、到底歩けるものではありませんでしたが、それはそれで母親にとっては愉快なヴェニス小旅行の思い出となったようです。

無数の溢れかえる路地をやり過ごし、何とかアカデミア橋を超えてサンバルナバ広場脇の食堂に必死にたどり着いたときは本当に安堵しました。友人が是非にと奨めてくれただけあって、どれもがそれは美味しかったこと!鳥肌が立つほどのシャコのパスタや、飛びきり新鮮なカレイのグリルなど、感激を言葉では到底書けないほどです。窓際の席で、ロンガ通りの細い辻をゆきかう人を眺めていると、冠水ヴェニスならではの妙齢の長靴のお洒落と、両腕いっぱいに長靴を抱え、靴屋に卸に行くとおぼしき女性が目立ちました。

そんな毎日のなか、生徒のひとりがトリエステのコンクールのヴィデオ審査に通ったということで、時間を見つけては、何度となくミラノの中央にある彼の家にでかけ、ピアノ合わせに付合いました。彼の母方の曽祖父はトリエステの劇場支配人も務めた高名なヴァイオリンニストで、高祖父と言うのでしょうか、祖父の祖父は、ウィーンで学んだ19世紀の重要な画家で、家中いたるところ、トイレに至るまで彼の絵が飾ってあります。非常に裕福で芸術的薫り高い家庭で、まるで映画に出てくるような佇まいと言えば、間違いのないところです。典型的なユダヤ人家庭の芸術家、富豪のイメージを体言しているわけですが、最後の練習が終わり、ピアニストと一息つきながらふとイタリアの歴史に話が及んだときのことです。
「三国同盟の印象が強い日本人からみると、イタリアが戦勝国扱いなのは不思議でさ」。
「ムッソリーニも20年代、ヒットラーと繋がるまでは農業政策やら高速道路建設など、外国からも評価が高かったと読んだことがあるけれど、実際の所はどうだったのかね」。

すると、それまで落着いて話していた彼が少し興奮して、こう話してくれました。
「その歴史は捏造に違いないんだ。実際ムッソリーニは当初から自分とそりが合わない人間を悉く排除していたからね。戦時中、うちの家族もずいぶん酷い目にあった話を何度も聞いた」。
「親戚の誰はどこに逃げて、誰にかくまってもらって、と色々とあったそうでね。あちらこちらに散らばっていったんだ。そんな中、SSに追い掛け回されてガルダ湖の上にあるほんの小さな街に逃げ延びた親戚がいた。もう死んでしまった年老いた父の叔父にあたったかな。匿ってくれていた、正にその家の主人が密告してね。逮捕されアウシュヴィッツに送られ、そこで死んだんだ」。
「長い間、父だけがその密告者の名前を知っていてね。他は皆年齢的にももう亡くなっていたからね。皆で父に何度となく密告者の名前を教えろと詰め寄ったんだけれど、頑として死ぬまで一度たりとも話してくれなかった。彼の名前を言ってどうなるものでもないだろう。彼は今では彼の家族もいるだろうし、そういう時代だったのさ。今さらこれ以上いがみ合ってどうしようと言うんだ。つるし上げたところで何になるわけでもないだろう、ってね」。
「そんな父のことを、つくづく偉いと思う」。

すっかり長くなってしまって。家まで送ってゆくから、と外に出ると、辺りはもうすっかり日も暮れて、ミラノの秋らしい深い闇に包まれていました。

(10月29日ミラノにて)

アマシェ

高橋悠治

マリアン・アマシェが亡くなった(2009年10月22日)と聞いて、1992年徳島21世紀館のあの30日間を思い出す。彼女は大きな展示室とつながった石の廊下のための音楽を創りに来た。最初の3日間はスピーカーを置く場所を決めるだけに過ぎた。数多くのスピーカーを使って多チャンネル音響空間をつくる普通のやりかたとはまるでちがっていた。凹凸を付けた床面に少数のスピーカーを壁や天井に向けて不規則に置き、空間に音を放射するよりは、建築そのものが振動するようなやりかたで、ひとは音と向き合うのではなく、音のなかに入り込み、内部からそれを体験する。固体振動は空気振動に比べて数倍の伝達力がある。彼女は録音された音素材を、持参した使い込まれた古い小さなアンプを通してそれらのスピーカーに出してみる。そのテストにまた数日かかった。ほとんど眠らず、1日20時間もひとりではたらいていた。

普通のメロディー、短いフレーズが劇のキャラクターとなって動き出し、それ自体の物語を語りだす。クローズアップ画面の内側にいるように、音は耳のそばにいたと思うと、内側に入り込み、鼻先を旋回し、目の前を通り過ぎる。遠くから羽虫のように飛んで来てまつわりつき、どちらを向いても振り払えない音もいる。雨のように降りかかり、眼に見えるかのように3次元の姿かたちを刻々に変えてゆく。それらは2つの部屋のあちこちに出没する音の人物たちだった。聞こえる音だけでなく、それに呼応して聴覚神経が作り出す内耳音響放射(otoacoustic)と呼ばれる生理現象によって頭の中で自発的に生まれるパターンで、電子音の冷たさはなく、自然音や楽器の音のような外部の音でもない、どんな音と形容することさえできない、視覚と触覚のあいだのような感触があたたかい流れのように身体を通り抜けてゆく。

彼女の指はアンプの上をうごきまわり、全身が揺れてほとんど踊りながら、1時間ほどのドラマをその場で創りだしてゆく。それは後にも先にもない、記録も再現もできない幻覚だった。TzadicからCDは出ているが糸の切れた人形のようにさびしい。夢を紡いだ操りの繊細な指、人形遣いは去った。

無季――翠の石筍60

藤井貞和

見えずとも人いるけはい数万人
漢俳の何度も起こる詩の国に
地のけぶりまた湧き起こる蛇だろう
現代詩焼くように訳してしまえ
茶丁の水欲しくて聞いたビートルズ
紅衛兵を守り毛立っている
朦朧の中になくした毛語録
沖縄の訃報長沙へとどけらる
韶山の春に雨降る不思議かな
巻く長蛇桂花をきつく抱くように

(寺山修司や岸上大作。来世は「漢俳」をやってると言って出てきたので、その悪夢を払うため。何万人も歌人がいて、恐かったね。二度と見たくない悪夢というのはあるのです。)

砂漠でラマダン

さとうまき

8月の終わり、鎌田医師らをイラクに連れて行った。クルド自治区は、とても暑い。太陽が、近いのだ。それで、結構みんなへばってしまったが、朝方、北イラクから、飛行機でヨルダンに入り、陸路でシリアに移動。一日で3カ国を旅するという強行スケジュール。翌朝は、早朝にシリアから今度は陸路で国境を越えてイラク国内の難民キャンプに向かう。丁度、ラマダンが始まってしまい、朝から飯が食えない。ただ、水だけは飲まないと、倒れてしまう。

シリアの国境に着くが、なかなか許可を出してもらえず、結局5時間ぐらい、待たされた。
鎌田先生をはじめ、日本からの訪問団は、こういうのあまり慣れていないのだけど、気長に待つしかないのだ。書類一枚無くても、通してもらえないし、書類があっても、なんだかんだと理由をつけられて断られることもある。ずーと車の中で待たされ、ペットボトルの水もお湯のようになってしまう。食料もラマダンだから、ビスケットや、ポテトチップをみんなでつまんでいる。国境は砂漠の真中にあり、気温もどんどんあがっていく。夏のラマダンは、相当きつい。

最後に、僕たちは、シリア警察の事務所に呼ばれて、コーヒーをご馳走になった。警察官は、ラマダンをやらないという。仕事に影響がでるのだろう。イラク国境からイラク警察が迎えに来てくれた。ぎゅうぎゅうづめになりながら、国境を越える。イラク側には、未だにアメリカの海兵隊の検問所があって、米兵が、手の甲に、日付のスタンプを押してくれる。難民キャンプに着いたのは、もう日が傾きかけたころだった。鎌田医師はあわただしく、難民の患者を診察して、去っていた。

僕は、キャンプに一人残ることになった。ほとんど日が傾いてきたころ、子どもたちが遊んでいる。地面に水をかけるとさそりが喜んで出てくるそうだ。捕まえた2匹の黒いさそりを見せてくれる。僕は、砂漠に何度も足を運んだけど、生きたさそりを間近に見るのは初めてだったので、なんだかうれしくなったのだ。日本の子どもたちがカブトムシを捕るような感じだ。

キャンプも昼間は暑くて、みんなテントの中にいるのだが、日が傾き始めると、食事の準備が始まる。買い物を手伝う子どもたちもいる。いよいよラマダンあけのご馳走。イフタールだ。地平線に太陽が落ちていく。正確には、ポテトチップを食ってしまったので、私はラマダンをしたわけではないが、朝から食ったものは、それだけなので、自分的には、ラマダンそのものである。それで、国連の職員たちと、テーブルを囲んで、日が暮れるのをまった。

急に肉をくうのはよくないので、ナツメヤシの干したものとヨーグルトドリンクからスタート。とそのとき、バリバリと音がして、上空に米軍のヘリコプターが飛んできた。いきなり、ミサイルのようなものを撃つので何だ!と思ったが、フレアーと呼ばれるもので、ヘリの熱源を目指して追尾してくるミサイルの赤外線シーカーをだまして、ヘリの代わりにフレアーを追いかけさせるというものだそうだ。ラマダン明けのお祝い? アメリカ軍がそんな気の利いたことをしてくれるとも思えない。下から、ミサイルで狙われているのだろうか?

夜、僕はテントに、泊まる予定だったが、夜の11時ごろ、国連のスタッフが、キャンプは危険だから、国境のUNのキャラバンに止まるように薦めてくれた。夏の夜の砂漠は、ちょっと素敵だ。ラマダン初日は新月。星が降ってくるように輝いている。

朝、地平線から太陽が顔をだす。国連のスタッフが、卵を焼いてくれる。そして、銃声がきこえる。イラク警察が射撃の訓練をしているらしい。長い一日が始まり、僕のプチ・ラマダンが始まる。

国境付近には、パレスチナ難民、イラン系クルド難民、アフワーズ難民(イランから逃げてきたアラブ系住民)がいたが、今年7月全員がアルワリードに収容され、現在2000名近くが暮らしている。難民解決への道は程遠い。

アジアのごはん(31)ラオスごはん再び

森下ヒバリ

タイ・バンコクのモリスタジオで、レコーディングしているカラワンのモンコンに会った。去年会った時はあまり体調が良くなさそうだったが、今回はかなり元気そうだ。
「なんか調子よさそうだね」「うん、お酒を飲むのを・・」「え、やめたの?」「いや、あんまり沢山飲まなくなったから、調子いい」

モンコンはお酒好きで毎晩大量に飲む。しかも飲み始めると長いので、いつも付き合いきれない。朝まで飲んでいたのを、12時ぐらいでやめることにしたらしい・・。9日にビザが切れるので、数日したらラオスのビエンチャンに行くという話をしたら、モンコンが嬉しそうに言う。「9日? 俺たちも9日にビエンチャンでライブがあるんだよ」

ビエンチャンでライブ? ビエンチャンにライブハウスなんかあったのか? ビエンチャンはラオスの首都だが、大変こぢんまりとした町である。市の人口は50万人、と発表されていたような気がするが、市街地に住んでいるのは多くて3万人ぐらいでは・・。

きくと、タイのライブハウス・チェーン「タワンデーン」が海外進出を決め、その一番手がお隣ラオスのビエンチャンで、9月9日がオープニングパーティでスラチャイとモンコンが出演するとのこと。スラチャイに電話して確かめると「前の日からビエンチャンに行ってるから店に来い」とのこと。「ビエンチャンのどこにあるの?」「場所は知らないけど、だれでも知ってるさあ」

バンコクから寝台列車に乗ってタイの国境の町ノンカイで下車。寝台特急はノンカイが終着駅だが、昨年ここからラオスに国境のメコン河の友好橋を通って線路がラオス側までつながったのである。ラオス本土で初めての鉄道開通!(ちなみにラオス初めての鉄道はフランス植民地時代に南部のメコン河の中洲の島、コーン島とデッド島に大変短いが敷かれた。その後すぐ戦争で放棄された)列車マニアでなくとも、ここはノンカイで国際列車に乗り換えて、ラオス入りを果たすべきところであろう。

しかし、ラオス本土初の路線は、なんと橋を渡って少し西にある国境イミグレーションには寄らず、北進してビエンチャン市街から離れていってしばらくして最初で最後の駅に着く。しかも寝台列車がノンカイに着いてから4時間後にしかラオス行きの列車はないのである。不便極まりない。列車は好きだが列車マニアでないわたしは、もちろんノンカイで降りてオート三輪のトゥクトゥクで国境へ出た。

この、ラオス鉄道はいったい何なのかというと、いずれそのまま北進して中国との国境まで線路を作り、中国雲南省とラオスを結び一気にその先のタイへ大量輸送路のラインを作り上げるためのものである。ラオスのねらいではない。中国のタイ進出のねらいである。

ラオスと中国雲南省の国境は北部のモンラーがメインルートだが、以前はラオス側も中国側もまったくの山の中の寒村であった。数年前二度目に行ってみると、いきなり中国国境から完全舗装の四車線道路にピカピカのカジノの建設中であった。ラオス側は変わらぬぼこぼこ道。中国はいったい何を考えているのかと、あっけにとられたものだ。

だが、中国の雲南と(ラオス・ビルマ・ベトナム経由で)タイをむすぶルートへの執着は本気であった。中国の援助で、モンラーからラオス北部の古都ルワンパバーンへの道は舗装され、ルワンパバーンからビエンチャンへの道も立派になった。雲南とビルマ東部の国境からタイのメーサイにつながる道も立派なものが造られた。さらにメコン河の岩場の多いところを大型輸送船を通したいので爆破していいかと再三ラオスに打診して、国際的に非難を浴びまくったので、それは一応あきらめて、タイのチェンコーンとラオスのフエサイに橋をかけることにした。雲南から船で下ってチェンコーンまで来ることが出来れば、タイへの大量輸送ルートがまたできるのだが、メコン河の岩場の前で荷物を降ろして、かわりに道路とメコンにかかる橋をつくることにしたのである。もう、ラオスは別の国だという認識はほとんどないのではないかという、この勝手ぶり。

いまさら、タイへ大量輸送ルートを何本も作っても、これ以上そんなに中国の物が売れるのであろうか。そろそろ、タイ人もバブルな生活から地に足をつける生活に目覚めつつあるような気もするのだが。歴代一位のバブル首相、タクシン時代にタクシンが煽って中国と一緒に考えた計画なのかも。おかげでラオスの国土はぼろぼろである。

とりあえず、ラオス国際列車には乗りそこねたが、無事ビエンチャンに到着。今回は噴水の近くの中庭がきれいで部屋も清潔な中級クラスの宿にした。ところが、夜になるとたくさんのナンキン虫が出てきて大騒ぎになった。ぎゃあ〜! 虫は退治しても次々に出てくるので、フロントに走り、なんとか部屋を変えてもらった。長いこと旅をしているが、こんなに大量のナンキン虫を見たのは初めてである。

次の日、フロントのマネージャーの言うことには、ナンキン虫が大量発生して困っているとのこと。いくら部屋中を消毒して除虫しても三ヵ月ぐらいすると、また大発生してしまい、頭を抱えているようす。人気の宿なのに、これでは評判ががた落ちであろう。ふつう、ナンキン虫は不潔でじめじめした場所を好んで生息する。だから安宿に多いのだが、ここのような清潔で毎日掃除・洗濯している中級宿に出るとはどうしたことか。ホテルも困っているようだが、こちらも大変疲れた。

フロントのお兄さんが、「タワンデーン」は噴水のすぐ向こうにある、と教えてくれたので、ぶらぶら歩いていくと、あわただしく内装工事中の店があった。まだ内装の壁を塗っているわ、作り付けの棚は作っているわ、中は人が右往左往して工事現場そのもの。床もドロドロである。見ていると、トラックでテーブルとイスを運んできた。しかし、もっとよく見ると、店の奥のステージだけは出来ていて、そこで楽器を置いて音を出したりしているではないか。

「明日、ほんとうにオープンするつもりなのかな・・」タイやラオスでは9という数字は幸運の数字なので、2009年9月9日というと、9が三つもあってたいへんおめでたい日なので、どうしてもこの日にオープニングパーティをしなければならないのであろう。前の日に行くといっていたスラチャイたちは案の定まだ来ていなかった。

9日の夜、メコン河の土手にある屋台でごはんを食べてから店に行くと、なんとちゃんとパーティをやっている。昨日は徹夜で工事をしていたらしい。もっとも、翌日また前を通りかかると、再び工事現場に戻っていたが。パーティの客は半分がラオスにいるタイ人であったが、ラオス人もけっこう来ていた。

タイのライブハウスがオープンしたり、古い建物がいくつも取り壊されたり改装されていて、今年のビエンチャンは、なにか開発ラッシュである。メコン河の土手も公園にするために改修中だ。土手に出る屋台の料理もレベルが下がってきた。大好きなネームカオという料理を食べにビエンチャンに来るようなものなのに、今回はおいしいネームカオに一度も当たらなかった。くっ。ネームにつきものの野草としか思えないハーブたちもほとんどついてこなかった。ラオス人以外の観光客がたくさん来るようになったので、屋台の味のレベルが下がったのかもしれない。

そう思って、最終日には、ラオス人の小金持ちが行くこぎれいな川縁の店に行ってみた。
「高いだけやないの?」連れのワイさんはちょっと不服そうだったが、出てきた料理に手をつけると嬉しそうな顔になった。頼んだものは、春雨の和え物、鶏肉のラープ、干し牛肉揚げのウア・デードにもち米である。ネームカオはなかった。春雨の和え物はおいしいが、辛すぎてたくさん食べられない。辛すぎて食べられない、というのも久しぶりだ。ラープもばっちりスパイスが効いていてウマイ。

「う〜んやっと、ラオスの味だ・・」
スパイスに漬けてから半日ほど干した肉を揚げたウア・デードは、いままで食べた干し牛肉の中で一番うまい。しかも厚切り。くちゃくちゃ噛み続けると、うっとりシアワセを感じる。噛んでも噛み切れない干し肉を口の中で反芻しながら、やっとラオスらしい料理にありつけたな、と思う。ラオスの料理は、野性味が身上なのだ。野草のようなハーブ、かけまわる鶏や牛の肉、目の前のメコン河の魚・・。

東からはベトナム、北から中国、南と西からタイにはさまれて、つぶされないでほしい国、ラオス。おいしいラオス料理がある限り、だいじょうぶと信じたい。

オトメンと指を指されて(16)

大久保ゆう

どうもこんにちは。周囲でもドラマ『乙男(オトメン)』の評判がよく、なぜか面映ゆく感じてしまう今日この頃ですが、このエッセイも十七回目ともなると、だんだんと何を書いて何に触れてないかということがわからなくなりつつあります。そこで勢いこれまでのものを読み返して余計に混乱したりするのですが、今回はついこのあいだ我が身に起こったことでも話そうかと思います。

先日、後輩が学会のあったイタリアから帰ってきたのですが、どうも食に関して不満なところがあったらしく、せっかく行ったのにパスタが全然食べられなかったとか。それで欲求不満がたまってしまって、無性にパスタが食べたいらしく、しかも何種類も喰らいたいようで、もうコンビニパスタでもいいからいろんなものを買って、たらふく食べ比べでもしたい、などとぼやくのです。

そんな感じで「やりましょうよ」と誘いを持ちかけられたのですが、そこで私は「いやいやいや」と。あくまでも私はオトメン。これまで触れてきているように自炊して自分でお弁当まで作る男の子(あとお金もあんまりない)。コンビニのパスタにお金を使うくらいなら(ってコンビニに失礼ですが、だって単価が高いんですもの、種類は多いけど)、いっそのこと私がソースを一から手作りをしてふるまってあげるよ! ……などということになりまして。

そこでパスタパーティが開かれることに相成りました。どうせやるんなら人がいる方がいいから、いろいろと声かけてよ、とは言ったのですが、当日になって集まったのはなんと一〇人……一〇人!? 待て待て待て、それって多すぎない!? 正直、そんな大人数に料理作ったことないって! 「噂の大久保さんが作るというので」って、みんなオトメンに期待しすぎだよ!!

とまあ、期待に応えないわけにはいかないので、寸胴鍋で一〇人分を一気にゆでたりしたわけですが、引き上げるのがめちゃくちゃ重くて。これでも男だし力のない方でもないんだけど、さすがに大変でした。というか腕が折れるかと思いました。お店じゃないから順々というわけにも行かず、一斉に食べられるようにと頭のなかであわてて時間配分を計算してやったのですが、そういうところは考えてなかったのです。

もちろん、一から作るといっても正式な手順に則ると、何種類ものソースを何人分も用意するのは難しいので、じゃんじゃんショートカットしているわけですが。ミートソースならホールトマトの缶詰を使ったりとか、クリームソースなら下ごしらえの終わった具材に牛乳とホイップ済み生クリームを半々で割ったものをつっこむだけとか(もちろん味付けにスープの素や塩胡椒も使いますよ)。

さすがにひとりでは手が足りなかったので、後輩の女の子(言い出した人とは別の子)が手伝ってくれたわけですが、私の持ってきた調味料に興味津々で。ナツメグやらオレガノやらを「これは何ですか?」と聞いてきたので、それぞれどういう目的で使うかを説明したり、助手をしてもらいながらも手作りソースの簡単なこしらえ方を教えたり。(「だいたい一〇分〜二〇分でできるよ! 簡単だよ!」とどこのクッキングの人だという……そういえば『乙男(オトメン)』でも料理を教えるシーンがありましたね。)

何にせよ、料理をやっていく上で自分なりに手順を最適化していくっていうのは大事ですよね。毎日そんなに手間をかけられるわけじゃないけど、でもレトルトや既成のソースをそのまま使うのは気が進まないし、だいいち自分の好きな味でもないし、っていうので、ちょっとした工夫をするだけで、簡単に作れるような方法を編み出しておく、みたいな。あとそれで普通に買うよりもお値段がお安くなれば、なおよしというわけで。

ごはんにせよお菓子にせよ、一〇〇円均一で売っているものに手を加えるのが割合と楽です。たとえば、卵を使わずにプリンが作れる粉なんてものがあるんですが、あれがかなり汎用性の高いやつで。基本は牛乳を混ぜるだけなんですけど、その分量を変えていろんなもの(ジュースやら粉末やら裏ごしした何かやら)を混ぜ込むだけでいろんなプリンが作れるので、おもてなしに重宝します。

……などと言っていると、周りの女の子たちから「一〇〇円均一をお好みアレンジ、簡単ごはん・お菓子」みたいなレシピを教えてくれとせがまれたりするわけですが、そういう本ってたぶんもうあるんじゃないでしょうか。ないんですかね? ……一〇〇均の商品に電子レンジか小さなフライパンなりお鍋があれば、割とバリエーション豊かな手抜きができるので。昨今、一〇〇円コンビニも増えてきていますし、スーパーの特売と組み合わせればそれだけでもっとグレードの高い料理もお安く作れちゃいます。忙しいひとり暮らしオトメンの生活の知恵ですね。

9月ももう終わり・・・

三橋圭介

9月ももう終わり10月。学校がはじまる。学生の顔触れはすこし一新、やることは完全に一新する。ワークショップというのをはじめる。生徒が目的にそって工夫をこらし、みんなが参加する。ゼミ形式だからとてもやりやすいはず。みんなが音楽、アート、ことば(詩)などを素材にいろいろ考えてくれるだろう。話し合いの場なども設けたりして、楽しめそう。私もみんなのワークショップに参加して、刺激をもらえたらいい。ほかの授業も生徒が主体となって何かを発見できるものにしたい。

最近はストラヴィンスキーをよく聴き、楽譜とにらめっこし、文献などを読んでいる。一つ長いものを書く約束をした。連載中のシコ・ブアルキは資料がくるのを待っているところ。次回には間に合うかも。前はギターでシコの曲やボサノヴァを弾いていた。もう寒くなってきた。ギターもいいが、今はピアノでミンガスの曲などを弾いて楽しんでいる。ポップスでは学生から教えられた相対性理論というバンドがおもしろい。「現代音楽」にもこういう感性の人があらわれつつある。

カメラを買った。リコーのGRII というもので、いろいろ楽しめるカメラらしい。解説本もたくさんある。いくつか撮っているが、撮っているより解説本を読んだり、プロの撮った写真を見てい る時間のほうが長いかも。カメラは専門用語がよくわからない。そこでつまずく。いろいろ試すには撮りまくるのがいいのか。どこか旅行にでもいけたら…

ジャワ舞踊と落語の公演

冨岡三智

あわただしくしている間にもう9月も末となってしまったので、今度の公演のお知らせだけしておこう。

ジャワ舞踊奉納公演「観月の夕べ」

さまよいこんだ男の見たものは
この世のものか、あの世のものか。
これすべて 月の夜の夢…

日時: 10月4日(日)18:30開演
会場: 大阪府岸和田市・岸城(きしき)神社にて
料金: 無料(カンパ歓迎)

演出: 冨岡三智
主催: ジャワ舞踊の会
共催: 岸城神社、ラヂオきしわだ
後援: 在大阪インドネシア共和国総領事館、岸和田市教育委員会、
    岸和田文化事業協会、大阪文化団体連合会

岸城神社は、きしわだだんじり祭りの行われる神社で、平成23年にご鎮座650年祭を迎える。それを記念して昨年に新社殿が完成し、公演はそこで行う。

落語界きってのインドネシア通、林家染雀の語るインドネシアを旅する男の物語「彼此岸月乃夜夢」の中で、ジャワ伝統舞踊を展開。上方落語なので、ジャワ・ガムラン音楽によるお囃子もふんだんに入り、ジャワ舞踊と落語とガムラン音楽が混然一体となったコラボレーション。今回初演。

MCで無粋な解説をせずとも、舞踊作品の背景やテーマが分かって楽しめる演出、単品の伝統舞踊を単に並べて見せるだけでなく、全体を貫く1つの大きなテーマ、物語の中に組み込んでみたい、と考えて、落語と組んでみようと考えたのだけれど、通してみて感じたのが、期せずしてワヤンみたいな感じになったなあということ。それがどんな公演になったかは、また来月に報告するとして、とりあえず乞うご期待!

実演と再生

大野晋

なんとかの秋というが、夏と比べると夜の時間が延びることと、比較的すごしやすい気温になってくることなどから、芸術の秋などと言われ、秋の夜長に音楽などを聴きたくなる季節である。

さて、数年前から女性漫画の世界から飛び出してヒットし、少なからず、クラシック界のファンの獲得に寄与したとされる「のだめカンタービレ」がいよいよ最終回を迎える。とかく、取り付きにくいクラシックの音楽の世界に多くの若者を引き込んだ功績は大きいと思うのとともに、なくなってしまうと大きな看板が外れた感じがして、今後の人気にかげりが早々に現れるのではないか?と心配になってくる。

比較的古いオールドファンの中には、録音マニアのような者もおり、SP盤、ドーナツ盤の昔から録音された音楽に対して、昔から、ああでもない、こうでもないと難癖をつけている。古くはあらえびす、こと野村胡堂からみゃくみゃくと続く批評家のオンパレードがある。海の向こうの見たこともない音楽家の演奏を知る機会は、当時、録音しかなかったとはいえ、こうした批評の結果がクラシック音楽全体の指向を方向付けていた面もあったのではないだろうか。ある意味、取り付きにくいクラシック音楽のイメージは、こうした録音主義の批評家とファンが作ってきた側面もあるのだろう。機会が少ないと言う前提なのだから自然とパフォーマンスは再生を前提としたカチカチの完ぺき主義になっていく。しかも、何度も同じ演奏を聴き込む録音愛好家は繰り返しの中に完璧を求めようとする。

近年、世界はどんどん狭くなり、人と人との行き来は煩雑さを増している。一昔前であれば、一部のマニア(当時は専門家とか批評家と呼ばれたのだろう)しか、見聞きできなかった大物が毎年のように来日するようになり、日本の若手が欧米の著名なコンテストで賞を取ってくる。

少し間違えば、海外の録音だってタイムラグなしに、もしかすると本国よりも早く入手できたりするし、ネット配信により現地の人たちと同じ情報を極東の島国でも得ることができるようになった。しかし、気分だけは、なんとなく、舶来品に興味があり、なんとなく海外は上、国内は下なんておかしな区分をする人が生き残っている。

そんなわけだけど、よく聴いていけば、海外だってそりゃ、レベルがいろいろとあり、日本の演奏家だって決して負けていないのだ。色眼鏡で見なければ、旅費がかからない分、国内の演奏家の方がきっぷの金額以上に演奏のリターンは大きかったりするのだと思う。あとは、きちんと演奏を聴きにくるという習慣が根付くだけだが、現状は演奏は録音で、実演は珍しいものをといった傾向が、舶来演奏家偏重の聴衆というスタイルにつながっているように思えてならない。そこに、演奏の優劣があるのではなく、単純に得られる機会に対する聴衆の損得感覚があるにすぎない。

さて、何枚あるかわからないCD(実演はいいなどと言いながらたーんと持っているところが非常に矛盾を感じないでもないが)から目に付いたアンサンブル・アントネッロの「薔薇の中の薔薇」聖母マリアのカンティガ集を聴くような聴いていないような状態で流してみる。中東の香りがする中世スペインの音楽に遠く遥かな場所と時間に思いを馳せる。いやいや、ぜんぜん、日本の演奏者だって尖がっている。

私には、日本の音楽、特にクラシック音楽界に必要なのは、お金を払ってでも行ってみたい機会の創造のように思う。そのためには、演奏家の自己満足(でもいい機会はいいのだ。収入を気にせず、ただ、集まった者が自らの楽しさを追求する機会が、実は聴衆にとっても楽しいということはよくあることだから)に陥らず、しっかりとした機会創造、価値を届ける相手に対する付加価値の創造を心がけるだけで十分に企画自体が楽しくなるはずだし、それは決して大衆に迎合する事にはならないように思う。

実演と再生とを比較すると、二度と同じことが起きないという事実から、実は実演のほうが何倍も面白い。そのことを少しでも伝える機会が多ければ、と願っている。

さて、そろそろ、日本のオーケストラは、来年の4月からのシーズンのラインナップの発表が行われる時期である。できれば、意図のあるオールドファンも、新しいファンも、一見さんすらも驚くような見るからに楽しいわくわくするプログラムが発表されることを望みたいと思う。

ベルベット泥濘グラウンド

くぼたのぞみ

ゴム短裏の
土踏まずに
稲の刈り株
ごつごつふれる
霜近い
十月の田んぼ
つぎつぎと崩れる
稲架(はさ)のてっぺん
から裸電球こうこうと灯り
うずたかく
稲束のせて
最後の馬橇が納屋にむかう

夕闇に
残される二本の轍

それは
ぬめりぬめる青土を
太陽が煮つめ
馬橇が型押しした
泥濘羊羹
うっとりふれる土肌は
凛としまり
なめらかなベルベット思わせる
北の、灰色の
抜き差しならぬ
深みのはてに迎える
祝祭のとき

黙視するピンネシリを
空腹をわすれて
林檎かた手に
見あげた、あの──
知らぬまま

註)「泥濘クロニクル」からはじまり「ベルベット泥濘グラウンド」で終わる3つの詩は、木村迪夫『光る朝』(書肆山田、2008)の詩句からヒントをいただきました。

メキシコ頼り(25)グアテマラ、ホンジュラス

金野広美

メキシコにいる間に少しでも中南米の国々を見ておきたいと、夏休みに入るとすぐ、グアテマラ、ホンジュラス、ベリーズ、エルサルバドルと中米4国を回ることにしました。今月はそのうちのグアテマラ、ホンジュラス編です。

まずグアテマラ空港から直接、アンティグアに行きました。ここは3つの火山に囲まれているため地震が多く、1543年から1773年まで首都として栄えたのですが、あまりの被害続出にグアテマラ・シティーに首都が移されてしまったのです。古い街並みが世界遺産に登録されているのですが、いまだに修復中の建物や地震の廃墟がそのまま観光名所になっていたりするところです。

アンティグアからホンジュラスのコパン遺跡に1泊2日のツアーがでているので、2年前のホンジュラス旅行では行けなかったコパンに行くことにしました。折りしもホンジュラスでは6月28日に軍事クーデターが起こっていたので、当初は行くことを迷ったのですが、いろいろ情報を集めてみると、首都のテグシガルパでは集会やデモなどしているようですが、地方はほとんど何の動きもなく静かだというので行ってみることにしたのです。

アンティグアからはバスで7時間、朝5時に出発しました。国境ではそれぞれの入国管理事務所が隣り合いみんな和気あいあい。すんなり出入国の手続きも終わりコパンの街へ入れました。昼には着けたのでさっそく街から歩いて15分の遺跡へ。

紀元後8世紀ごろ隆盛を極めたコパンにはマヤ文明の代表的な都市遺跡があり、暦の記述と王朝の記録のため作られた石碑や、神聖文字でコパン王朝史が刻まれた72段ある階段ピラミッドなど、とても興味深いものが保存状態もよく残っています。石碑の彫刻は今だに鮮明にコパンの隆盛を物語り、2500以上のマヤ文字が刻まれた30メートルに及ぶ階段は貴重な文字資料として調査が続けられてきました。私はそれを見たとき、その精巧さと大きさにびっくりしてしまいました。それにしても硬い石にここまで細かく彫り続けるマヤ人の根気にはただただ脱帽です。

遺跡を見た後、遊歩道を歩いてコパンの街に帰り小さな街を歩き回りましたが、街には観光客はほとんどいなくてレストランも閑古鳥が鳴いています。ホテルもガラガラ、みやげ物屋のおばさんもひまそうにしています。その中の1軒でいろいろ話しましたが、おばさんはクーデターで客が来なくなったことを嘆き、クーデターを起こした軍部を非難します。

コパンは遺跡に来る観光客で成り立っている街なので当然の意見だとは思いますが、それにしてもクーデターなんかいったいどこで起こっているの、というくらい平静で、確かに「こんなに静かなのになぜ観光客よ、来てくれないのー」と叫びたくなる気持ちはよくわかります。街の中心にあるマヤ考古学博物館のフィト・ララさんは「私たちが望むのはただ民主主義と平和です」と悲痛な表情でホンジュラスの政情を嘆いておられました。ただでさえ中南米の最貧国のひとつだといわれているホンジュラスです。早く平和的な解決がなされないと一般国民はどんどん窮地に追い込まれていくという気がしてしまいました。

そんなホンジュラスから、いったんアンティグアに戻り、今度はここからバスで2時間半のアティトラン湖のほとりにあるパナハッチェルに行きました。ここは湖の周りに多くのインディヘナの村があり、湖を船で航行できます。パナハッチェルに降りたったとたん、たくさんの人が自分の船に乗れと押し寄せてきました。そのうちの一人が私の行こうとするホテルは高くなっているので別の安い宿につれていってあげるといい、船も安くするというのでついていきましたが、宿は安いだけはあるというしろものでした。また船賃も船着場の人と結託して安いと思わせているのではと疑われたので、彼の船に乗るのはやめました。おまけにバスで行けるはずの近くの村も道が悪くてバスでは行けないから自分の船で行けというのです。これもどうも嘘っぽいのでやめました。

別の船でサンティアゴ・アティトラン、バスでサンタ・カタリーナ・パロポのふたつの村に出かけました。サンタ・カタリーナ・パロポで湖のほとりを歩いていると女の子が湖で大量の洗濯をしていました。彼女の名前はアナといい10歳、毎朝歩いて1時間の山の中からここまで家族中の洗濯物をしにくるのだそうです。そして、洗濯が終わると山に帰り0時半から始まる学校のためにまた下りてくるのだそうです。毎日4時間、山を登ったり、降りたりしていることになります。いろいろ話していると弟のニコラスがやってきました。3人でお菓子を食べたり、写真のとりあいっこをしながら楽しく過ごしました。ニコラスは初めてカメラを触るらしく、私とアナの写真がうまくとれなくて、いつも片方が切れてしまいます。でもそのうちにちゃんと2人が真ん中に入りとてもうれしそうでした。アナが私に「朝ごはんを食べたらまた0時半にここに来るので待っていて欲しい」といいました。でも私は「次のバスの関係で11時30分には行かなくてはならない」というととても残念そうでした。私もとても残念でしたが、頭に大きな洗濯物のたらいをのせ山に帰っていくアナをいつまでも見送りました。

バスの時間までまた湖のほとりを歩いていると、今度はアナより少し小さな女の子が美しい刺繍のテーブルセンターを売りに寄ってきました。いくらかと聞くと100ケツァール(約1300円)といいます。私は高いからいらないというと、いくらだと買うかと聞いてくるので、あまり買う気はなかったのですが、つい「60」と答えてしまいました。するとその子は80に下げ「10は私へのチップにくれ」というのです。私が断ると今度は70に下げ、「私にアイスクリームを買って」となかなかしつこいのです。私はあまりのしつこさに全く買う気がおこらなくなり、彼女が私の言い値の60に下げたにもかかわらず買いませんでした。丁々発止のその間約30分、でも別れてから少し後悔していました。あんなに一生懸命で、おまけに私の言い値の60まで下げたにもかかわらず追い払ってしまったからです。少し反省しながら通りを歩いているとさっきの女の子が、きっと仕事が終わったのでしょうか、私の前を横切りました。そのとき私の顔を見てにこっと笑ったのです。その顔はあの手練手管を使った売り子ではなく一人の女の子に戻っていました。私はなんだか救われたような気持ちになり、思わず彼女に手を振っていました。

かわいらしくもせつない気持ちにさせられた女の子たちの住む村をあとに、夜行バスに乗りグアテマラの北にあるティカル遺跡に行きました。明け方バスが道の途中で止まり、一人の男性が「ティカル、ティカル」と叫びながらバスに入ってきました。私はびっくりして起きました。ティカルに行くにはバスを乗り換えろというのです。なんだか変だなあと思いながらも、いわれるままにマイクロバスに乗り換えると1軒のホテルの前に止まり、ここに宿をとれというのです。部屋を見ると値段のわりにはいい部屋だったので、そのまま泊まることにしました。そしてもうすぐティカルへのツアーが出発するのでホテルまで迎えにくるといい、おまけにベリーズ・シティーまでのツアーもあると矢継ぎ早に売り込んできます。寝起きだったせいもありますが、そのまま申し込んでしまいました。しかし、あとでよく考えると、なぜあんな中途半端な場所で突然マイクロバスに乗り換えなければならなかったかわからず、よく聞いてみるとグアテマラ・シティーから乗った夜行バス会社が経営する旅行会社が、ティカル遺跡への基点となる目的地のフローレスに着く前に客を先取りしたのだとわかりました。寝込みを襲い、何がなんだかわからないうちに契約させてしまうとは、やりかたが荒っぽくてなんともいやな気持ちになりました。

それにつけてもグアテマラの観光業界は競争が激しいのか、観光客をだましてでも客を獲得しようとする業者が多いため油断がならず、何度も腹立たしい経験をしました。長い間いろいろな国を旅しましたが、こんなに疲れる国は初めてでした。

それでも気を取り直してその日の朝6時、迎えのバスに乗りティカル遺跡に行きました。ここはグアテマラ北部ペテン市のジャングルに埋もれるマヤ最大の神殿都市遺跡として知られています。紀元後300年から800年ごろ最も栄えたということで、16平方キロメートルの空間に3000にも及ぶ大小の建造物があります。あまりの広さと暑さと睡眠不足で、少しふらふらになりながらも、ひとつづつ大きなピラミッドを見て回りました。その中で特に4号ピラミッドは高さが70メートルあり、ここに登ると眼下は一面の緑の海、1号ピラミッドが顔をのぞかせています。風が吹くたびに木々が大きく揺らぎ、まるで海の底から温泉が湧きあがってきているようで、このジャングルは、今なおマヤの人々の命が息づいているのではないかと思ってしまうほど生命力に満ちあふれていました。

しもた屋之噺(94)

杉山洋一

今朝メールをひらくと、ヨーロッパでの仕事をおえて東京にもどられたばかりの細川さんより、ちょうど一年ほど前、演奏会後にパリのブラッサリーで一緒に撮った一枚の写真がとどいていました。

一緒にうつっている望月嬢とは、結局6月に東京で一緒に食事をしたきり、あとは電話でしか話していないし、在オランダの今井嬢も、6月末にやった東京での演奏会へ顔をだしてくれて、演奏会後一瞬立ち話をしたきりですが、何でも、最近アムステルダムで二人は再会を喜んだばかり、とメールをもらいました。彼女たちの国際的な活躍ぶりはご存知のとおりです。

その傍らでほほ笑んでらっしゃる岡部先生には、8月に東京でずいぶんお世話になったので、久しぶりという感じもしませんし、真ん中にゆったりとすわってらっしゃる細川さんは、夏に東京でお会いしただけでなく、9月に、細川さんをフューチャーしたミラノの音楽祭で何度もお目にかかっているので、ミラノの街の匂いとあいまって、不思議な親近感をおぼえます。

この演奏会にはちょうどリトアニアの自作演奏会に向かう途中の湯浅先生がお立ち寄りくださって、直前にいきなり連絡したにもかかわらず、千々岩くんも遊びにきてくれて、打上げまで付き合って、美味しい生牡蠣をたらふく食べたのが、まるで昨晩のことのよう。嬉々として牡蠣を食べる千々岩くんの次の姿は、サントリーの舞台でオーケストラをバックに、堂々とコンチェルトを弾いている、颯爽としたヴァイオリンニストそのもの。湯浅先生にこのあとお会いしたのは、6月に桐朋の練習にいらして下さった折でした。それから8月にも東京でお会いしました。

あさってから練習の始まる武満の譜読みをしていて、思わず思い出すのは、ちょうど1年前、9月末にジュネーブで、今井信子さんとあわせをしていたときのこと。彼女も同じミラノの音楽祭にもうすぐいらっしゃいます。お目にかかるのは1年ぶり。あのときの感触を思い出しながら、自分なりの武満さんの作品の手触りを懸命に感じようとしています。武満さんは、楽譜に書かれている表示より、ずっと骨太の音楽を欲していた、という今井さんの言葉は、たぶん一生わすれられないとおもいます。

同じ演奏会で作品を演奏する田中カレンさんと6月、渋谷の場末のそば屋で再会したのは、何年ぶりのことだったでしょう。最後にお会いしたとき、まだ大学生だったはずだから、18年くらい経っているかもしれません。話し方もしぐさもあのときのままで、別れ際にどうしても渋谷のスクランブル交差点をバックに記念写真を撮りたいと頼まれたのが新鮮で、練習や本番中でも、ふとした瞬間に思わず思い出してしまうかもしれません。

先日、ミラノでの「班女」の再演にかけつけて、8月の東京に続いてお会いしたソプラノの半田さんとも、落着いてお話したのは10年ぶりで、気がつけば、息子さんはもう高校生になられたとか。
愚息をつれ、ドームの天井上の散策にご一緒していて、思わずうちの4歳の子供を眺めて目を細めていらしたけれど、少しその気持ちが想像できるようになりました。

こうして古くからの日本の友人に会おうとすると、普段はヨーロッパの辺境に住んでいる上に腰も重く、よほどの機会でもないと実現しませんが、会うたびにみなさん見違えるように立派になっていて、感嘆することばかりです。自分の周りの人とのつながりに関して言えば、それぞれ半径の違う周期の惑星の定点観測のような感じでしょうか。

立派になって、と言えば、指揮を一緒に勉強しているカルロが今月はじめ、グラーツの指揮コンクールで優勝し、同じく一緒に勉強しているジョヴァンが、指揮ではないけれど、作曲で入野賞を受賞したのは、本当に自分のことのようにうれしいニュースでした。

今年一年、ひょんな流れで、学校をやめた師匠の意志をつぎ、学校から離れて手探りでレッスンを続けてきて、ようやくささやかな指標をみつけた感があります。空白期間をうめるべく、分不相応を承知で引き受けたのは、自分を含め、15人ほどの生徒全員が、師匠から学んできたアプローチを何がなんでも絶やすまい、という明確な目的意識と強い結束があったからこそ。

ですから、カルロの優勝が生徒全員にどれだけ強い希望を与えてくれたか、言うまでもありませんが、成り行きで嫌々指揮を学びはじめたはずの自分が、気がつくと妙なところに足を突っ込んでいたりして、人生とは本当に不思議で一期一会かな、と初夏の日差しに映えるクラスの集合写真など、感慨深く眺めてみたりするのです。

(9月29日ミラノにて)

暑いけど、秋っぽい

仲宗根浩

九月に入るといきなり旧盆がやってきてすぐ過ぎて行った。お盆で帰って来た姉、甥っ子を送るため空港へ行く前に国際通りに寄る。一年ぶりだったが、前にも増して観光客相手のお店がこれでもか、と迫ってくる。夜の飲屋街のキャッチのお兄さんのごとく道行くひとに声をかけ店のちらしを渡しながら、ランチの客引きに精を出す。昔、うちの近所が米兵相手にしていた客引きの光景が昼にかわり、相手が観光客にかわっただけか。暑さと人ごみに疲れ、国際通りに行ったときには必ず寄る沖縄そば屋、ここもだんだん知れ渡るとことなり、観光客が増えてきたけど、店の中はいつも通りの佇まい。

お国の大臣があたらしくなって、近くの泡瀬干潟の埋め立て中断発言に慌てる人々。前に推進する市会議員が埋め立てができると人工ビーチが造られ、みんながビーチバレーができていいじゃないか、とテレビで言っていたのを見たとき笑えてきた。暑い日差しの中、陰がない砂浜にどれだけの人が行くのか。ここはそんなにビーチバレーが盛んなところか。昔からあるビーチがどんどん閉鎖するなか、砂をよそから持ってきた、ビーチだけが増え、モクマオウの木陰などない。

天気予報では最高気温が毎日判で押したように33度だったのが32度か31度になり、風もからっとして気持ちよくなった、と思ったら急な雨が降ったりしていきなり蒸し暑くなる。クーラーが効いたところから外に出ると眼鏡は曇る。家ではまた、クーラーを稼働。畳の次は網戸を張り替え、部屋のなかは処分するものがまとめて置かれる。考えてみたらいま住んでいるところが一番長くなった。沖縄に住んでいる時間はまだ沖縄の外にいた時間より三年ばかり短い。

盆とお彼岸があった九月は過ぎたからもう少し涼しくなるだろう。そうしたら海で泳ごう。

製本、かい摘みましては(54)

四釜裕子

山崎曜さんと村上翠亭さんの共著による『和装本のつくりかた』(二玄社)を買う。二玄社といえば車とばかり思っていたが、いやいや書や美術関連の本もたくさんお出しになっている。こうした本も最近はボワッとユルッとモワッとしたデザインが多いが、こちらは見た目がとてもオーソドックスで、それが狙いどころでもあるのだろう。内容は、書家である村上翠亭さんと手工製本家の山崎曜さんのお二人がからみあってというよりは、前後ほぼ半分ずつ、それぞれご担当されている。書のたしなみの延長としての和装本を村上さんが、書に限らず葉書や写真を、また洋紙やグラシンペーパー、革や割りピンを取り入れているのが山崎さん。全体の流れは、「糊でとじる、糸でとじる、折本をつくる」。おふたりそれぞれの和装本づくりをそれぞれの方法で見ることができて、それがこの本の一番の見どころだろう。

村上さんが作った見本にある文字の、なんてうつくしいこと。豆本には「ナイショ ナイショノ 話ハ アノネノネ」「「運転手は 君だ 車掌は 僕だ あとの四人が 電車のお客 お乗りは お早く 動きます チンチン」などもある。そうだ、上からなぞって書いてみようと買った黄庭堅の「草書諸上座帖巻」のコピー本はどこにいったかな。その一部を摺った手拭まで買ったのだった。落語の「紙屑屋」では若旦那が奉公先の紙屑屋でゴミの中に都々逸や新内の稽古本を見つけては歌ったり読み上げたりで仕事にならないが、折った手拭を片手にのせて指先でめくるしぐさはまさに和装本だからこそ。今、気分が洋紙より和紙なのは、秋風のせいだろうか。