目次
砂漠の教室 I
砂漠の教室 II
イスラエル・スケッチI
ベドウィンの胡瓜畑
銀行で
雨の兵士
スバル
乗り合いタクシーの中で
鋼鉄《はがね》の思想
ヨセフの娘たち
イスラエル・スケッチII
影の住む部屋
悪夢のシュニツェル
オリエントの舌
――言語としての料理
オリエントの舌
――ハイファの台所
あかつきのハデラ病院
知らない指
おれさまのバス
建設班長
山岳の村
なぜヘブライ語だったのか
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イスラエル・スケッチII
オリエントの舌――言語としての料理
砂漠の教室の過程を修了して外へ出て行く日を心待ちにした理由の一つは、シュニツェルの日々に終止符が打たれ、もう少し人間らしい食べものに出会える機会があるだろうということだった。出会いを楽しみにしていたのは、非ヨーロッパ系の人々が「オリエンタル」と呼ぶところの中東料理である。中東の料理といっても、当初は漠然とイスラエルのユダヤ人の料理、アラブ人の料理、イエメン系のユダヤ人の特別料理というように、きわめて曖昧模糊とした先入観で思い描いていたのだった。中東と呼ばれる地域のそれぞれの国や地方におのおの特徴的な食べものがあるように思いこんでいた。ところで、あとでわかったのは、もちろんそれぞれの場所によって特徴や性格が異なることがあるのはあたりまえだが、それよりも中東全域にオットマン・トルコがはっきりとその足跡を残していったことだ。オットマン・トルコが中東の中で、東のものを西へ西のものを東へというふうに伝え広めていった。ヨーロッパで中東の料理といえばじつはその大部分がトルコ料理であるらしい。あとはシリア料理、レバノン料理、ペルシャ料理だとされている。エジプト出身の人がエジプト料理だと考えていたものが中東全体に共通の料理だった、というようなことがしばしばあるわけだ。
中東はさまざまな国と民族と人種をかかえている。地理条件も季候も社会的な条件も変化に富んでいる。だが、わずかな例外をのぞいて、言語はアラビア語である。とはいえ、アラビア語が共通言語として機能しない場合も多い。ある地域のアラビア語とべつの地域のそれが、両方ともアラビア語と呼ばれながらも、意思を通じ合うことができないほど異なっていることがあるからだ。宗教的にはイスラームが大多数であるが、キリスト教徒とユダヤ教徒とその他の少数宗派が、いくつもの共同体を形成している。
『中東料理の本』(ペンギン・ハンドブック)を著したクローディア・ローデンは、その本のなかにおさめた料理の出どころを、シリア、レバノン、エジプト、イラン、トルコ、ギリシャ、イラク、サウジ・アラビア、イエメン、スーダン、アルジェリア、モロッコ、イスラエルというぐあいに、広い地域に求めているが、これらの国々が食生活の領域においてどれほど離れがたく堅く結びついているかを示している。ギリシャにはいうまでもなくギリシャ特有のものがたくさんあるが、トルコの伝統にそっくりのものもあって、やはりそれはオットマン帝国の落し子であるらしい。そして、北アフリカのチュニジアやアルジェリアやモロッコには、中世時代のアラビア料理やペルシャ料理と不可思議な類似を見せているものがあるという。
この『中東料理の本』の著者はエジプト生まれの女性だが、その一家はもともとスペイン系と呼ばれるユダヤ人の一族で、クローディアの父親はシリアとトルコのユダヤ人の血筋を引き、親戚の者たちはレバノン、北アフリカ、イランなどに幾世代も生きてきた人々と結婚している。このような環境のなかで、彼女の食べものに対する理解と愛着はつちかわれたようだ。
おもしろいのは、彼女にさまざまな料理法を「伝授」してくれた人々のほとんどが、材料のあつかいかた、見た目の感じ、匂いなどについて微に入り細に入り詳しく語るのだったが、なぜか材料の分量や煮炊きの時間などについてはなにもいわないことが多かった、ということである。「ちょっとそのままにしておく」というのが、一時間放置しておく、という意味であったり、「匙五杯分」というのは、五という数がきまりがいいとか、幸運な数だから、というようなぐあいなのだ。「××を少々加える」という表現には茶匙八分の一から大匙山盛り一杯ぐらいの幅があるのだ。その料理のおいしさを描写するには、「かつてこれはかくかくの状況のもとで作られたものである」と説明する。彼女の調査によっても、料理の起源とその変化の過程、征服者によって伝えられた料理、大量移民、宗教の戒律の影響などについては、なかなかはっきりしないことが多いという。
中東の女たちは料理法を他人に教えるとき、「きわめて詳しく、かつ簡潔に教える」そうである。彼女たちが作り伝える料理には、エジプトのファラオの時代から伝承されてきたものさえある。母親から娘へ、姑から嫁へ、娘から娘へと受け継がれた料理である。西洋の女たちが暖炉のかたわらで編物をするように、中東の女たちは葡萄の葉を巻き、トマトに詰め物をする。かつてはクスクスも、各々の家庭でセモリナという小麦の堅粉を指で丸めて粒状にしたのだった。
それに中東の料理は経済的だ。子羊と挽肉がとりわけ好まれて使われる肉であるから。フランス料理のようにアルコール飲料を使うことはまれにしかない。回教が飲酒を禁じているからである。
中東の食生活の歴史は中東の歴史を映し出す。勝利と栄光を映す料理。敗北や悲しみを映す料理。愛の物語を映す料理。料理に関連した歌や詩も多い。
料理の初期の起源は、いまもなお、ベドウィンの簡素な料理から想像することができるという。いずれにしろ、イスラーム帝国はペルシャ帝国から食生活を受け継いだ。アラビア語のメニューにペルシャ名の料理が多く見られるのはそのためだ。ペルシャはそれ以前のアッシリアやバビロニアやアルメニアから受け継いだのだろう。
クスクスが北アフリカからアラビア世界に紹介されたのは、イスラームの征服の時代であっただろう。トルコのひき割り麦が広められたのもその時代だろう。オットマン帝国はその全体を受け継ぎ、さらに征服した国々の料理をつけ加えた。シシカバブは、オットマンの侵略軍隊が天幕で野営したときに開発された、という説もある。野菜の詰め物、ムサカ、それにすばらしい菓子のバクラヴァやコナファもオットマン帝国の落し子である。「真珠のような米」や「金髪美人のようなサフロン料理」という表現が、十六世紀のトルコの詩人レヴァニの作品にあるそうだが、オットマン帝国崩壊のあと、二十世紀の中東はローレンス・ダレルの中東となり、東と西の出会いが新しい料理をうんだ、とクローディア・ローデンは書いている。
料理という行為そものものも、食べるという行為も、微妙に、複雑に入りくんだ中東の文化の性格と生活を反映している。料理のなかに文化と伝統の幾星霜がかくされているだけでなく、料理も食べることも社会生活の重要な部分を担っているのである。中東のあらゆる地域で、客を厚くもてなすことは、厳格に守られるべき義務とされている。「自分が飢えようとも、客に食物を与えよ」とか「おまえの家の門に立つ他人の姿を見て扉を閉めることはならぬ」とか、どこへいっても聞かれる言葉だという。マホメッドの教え、諺、信仰、迷信の数々が、対人行動の礼儀を微細に規定している。だが、礼儀のきわまるところは、ひとを喜ばせることである。料理はかならず余分に作り、食事が終ったときには残り物がなければ失礼である。予告もなしに客がきたら、主人は「なぜきた?」と問うてはならない。大喜びで迎えなければならない。客もなぜ来訪したかについてすぐに切り出してはならず、まず主人一家の状況についてたずねるのである。
まさしくオリエントである。
主人は政治や宗教について議論をふっかけるようなことをしてはならないし、話題が自然にその方向にいってしまったら、なにはともあれ同意する。口論など、もってのほかである。「なにか食べたいか」、「飲みたいか」とたずねることなく、どんどん出す。客は繰り返し断るが、最後には主人のすすめの言葉に従うことになっている。
主人は客人を楽しませなければいけない。小話や謎々などを話してきかせる。
当然、客にも義務がある。かならず手土産をたずさえてゆくことはもちろんだ。出されたご馳走はまず断る。のっけからムシャムシャ食べたりするなどとんでもない。そして、長居は無用。(だが、すぐ帰るのもいけないのだろう。ひとたびひとを訪ねていったら、ひととおりのことをすませて帰らねばならないのだろう。)
料理もこのようなしきたりに見合う、厳粛な態度で行われる。料理はどのような客に出されるかによって内容が変る。晩餐の献立てについて、朝のうちに長い討論が行われることも珍しくはない。夫たちはどのようなものが食べたいと妻に伝えるし、食卓では料理のできばえについて感想をいう。料理人が慢心することを避ける目的で、一こと二こと批判的なことをいうのがよい、とされている場合もあるそうだ。
おおぜいで料理を作ることも多い。母親たち、娘たち、従姉妹たちは食べものについて話し合い、助け合う。祝祭日など、盛大な集まりがあるときは、親戚の女たちは当日の三日ぐらいまえに手伝いにくる。手伝うことができなければ、自分の得意料理をとどける。
宗教的な行事や冠婚葬祭にはそれぞれ特別な料理があり、もしそれが出されないと、不快なことと受けとめられて噂話のたねになるのである。東の文化は、どこもたいへん。
花々を言葉として意思を通じ合う文化もあるが、中東においては食物が言語である、とローデンはいう。なにを、どのように出すかということで、接待を受ける人物の社会的立場がわかるのである。社会的な立場、家族の中での位置、年齢などによって、接待の手続きが異なる。
たたりを避けるには葫《にんにく》がよい、といういい伝え――。疫病がはやったら、子供の首に葫を下げてやる地方もある。獣《けもの》のようにあほうになる、というので動物の脳味噌を食べない地域もあるかと思えば、反対に、脳を強くしさらに利巧になる、といって動物の脳味噌が珍重されるところだってある。小鳥のように臆病になってしまう、といって鳥類の心臓を食べない人々もいる。
色彩はひじょうに重要である。黄色のものは笑いと幸福を招き、蜂蜜や甘いものは人生を楽しくし、悲しみや悪から守ってくれる。黒はよくない。だからあまりにも黒々とした茄子は縁起が悪いと嫌われる。緑色はよい。
食べものの媚薬的効果についても色々いわれている。
技術もたいせつだ。種々の詰め物、菓子類の形や色がそれを語っている。視覚的な美しさの観念も洗練されている。もっとも伝統的な「最後の仕上げ」は、赤いパプリカか茶色のひめういきょう、そしてみじん切りのパセリだ。イスラームの装飾芸術をうんだ精神がそこにも生きている。官能的なブルーとグリーンの模様の皿に、うぐいす色の、刻まれたピスタチオの実! クリーム・プディングを、ほの白くさらされたアーモンドが飾る!
けれども、木の実を砕いたり、かまどで昼夜にわたって煮こんだりするような時間のかかる伝統的な料理法は、女たちが家にこもり、家の奥深くだけを生活の場としてきた長い歴史があったからこそ可能であったといえる。かまどを守り、胃袋を守るだけでなく、コミュニケーションの手段としての食物をささえてきた彼女たちは、客がきても顔さえ見せてはならないとされていることも多いのだ。客としてやってくるのは、そのような場合、いうまでもなく男だけである。マホメッドは「男にとって女ほど有害なわざわいはない」といったそうである。ところが、地域によっては、女は悪魔のたたりを追い払う強い力があるとされていて、そういうところでは、食事のときには、女たちにまず料理が配られるそうだ。いずれにしても、奥深く重層的な伝統である。
そんな伝統にはぐくまれて、のちに中東世界を追われてヨーロッパに住むことになった人々の中に、この著者のクローディア・ローデンも混ざっていたわけである。彼女は「われわれのある者たちはかつての生活を再現しようとした。とりわけ、過去の生活の側面としての食生活がそうだった。料理は中東での暮しの中できわめて重要な位置をしめていたし、追放の世界では、その意味はさらに大きかったのである」と書いている。彼女の家には、ふたたびカイロの市場の匂いがたちこめ、料理の皿が過ぎ去った日々の祝祭や記憶をよみがえらせた。彼女にとって、この料理の本を著すことは、とりもなおさず、彼女を育てた文化の一部を伝えることだった。一皿の料理に、切り離しがたくまつわりつく歴史や伝統、一皿の料理の匂いをとりまく感情や感性を伝えることであった。――「わたしの両親の家での金曜日の晩餐は、わたしの家での友人との集いは、食べものを楽しむことと同時に、過去の亡霊を呼び出すことでもあったのだ」
わたしのイスラエルの滞在はわずか八ヶ月だったし、「うまいものを求めて」の特別な旅をしたわけでもなかったから、権威をもってイスラエルの中東料理について語ることなど全然できない。けれども、折にふれて人々に食べさせてもらったものからも、文化と料理の深い結びつき、料理が表現している伝統の底深さと複雑さを感じとることはできた。
ドルーズと呼ばれる回教の秘教的異端派の人々の家で食べたアラブ料理、落下傘部隊の青年がやっているレストランのイエメン料理、信仰あついイエメン系ユダヤ人モシュの店の「臓物料理」やとうがらし料理。イスラエル共産党員のアラブ人の奥さんのトルコ・コーヒー、ベドウィンの甘いお茶、テーブルの上に三十種も並んだアラブ・レストラン「ユーニス」のサラダ、友だちのシュラミット・ラズの台所の、彼女の母親秘伝のイエメン料理。テルアヴィヴのバス中央停車場のものすごい雑踏の中で売られている、安くてすばらしい仔牛の炭火の串焼き。エルサレム旧市街のお菓子屋で立ち食いしたバクラヴァやコナファやザラビアやアーモンドだんご。そして、わたしの台所でわたしが作ったシシリクや、ヨーグルトと大麦のスープ。占領地区ガザの町のエジプト人の店の小羊の串焼き。そこでは皿は全部チェコスロバキア製で、東ヨーロッパの写実的な花模様の皿が、ガザの町の砂塵にジャリジャリと音を立てていた。
これっぽっちの経験しかないのに、食べものが去年の亡霊を呼び起こす、なんていうこともじゅうぶんありうる、と思ってしまうのである。
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