『砂漠の教室線――イスラエル通信』 藤本和子

目次    


砂漠の教室 I

砂漠の教室 II

イスラエル・スケッチI
 ベドウィンの胡瓜畑
 銀行で
 雨の兵士
 スバル
 乗り合いタクシーの中で
 鋼鉄《はがね》の思想


ヨセフの娘たち

イスラエル・スケッチII
 影の住む部屋
 悪夢のシュニツェル
 オリエントの舌

   
――言語としての料理
 オリエントの舌

   
――ハイファの台所
 あかつきのハデラ病院
 知らない指
 おれさまのバス
 建設班長
 山岳の村


なぜヘブライ語だったのか

    砂漠の教室 II


 古顔であることは、ときに悪い夢のようで

「あのふたり、また暗闇に消えてペッティングするんだ」とくだらないことを書いてから、もう二ヵ月もたってしまった。その間、いろいろな新しい生徒が入ってきては去っていった。わたしたちはまぬけにも、のっけから五ヵ月のコースに入ったので、九月の新学期にここへきて、もう暮れも暮れ、十二月二十五日になるというのに、まだこうしてここにいる。それというのも、亭主が悪いのだ。有金全部ハタクようにして、五カ月分の授業料、まず最初に払ったからだ。天変地異およびその他いかなる事情があろうとも、支払った金はビタ一文返さぬ、と学校の規則書には書いてある。だがあと一ヵ月のシンボウだ。しかし、わたしたちはなんといっても立派な古顔なのだから、そのことにふさわしく、新しい生徒が入ってくるたびにえらそうに忠告したり、おどかしたりする。
「ブルームには注意したほうがいいわよ。あの人どう見たって、正気じゃない」とか「あら、あなた五ヵ月コースに入ったの? あたしとおんなじ。五ヵ月分の授業料と寮費、ぜんぶいっぺんに払ったのね。ばかねえ。五ヵ月は長いわよう。この辺鄙な砂漠の教室では、五ヶ月はほとんど永遠ですよ。あなた、続く自信があるの? なにしろ食事はまずい、庭は汚れ放題、このあいだなんか、トイレの掃除用の棒つきブラシがね、中庭の真中に何日も転がったままだったのよ。それに生徒の中には、ずいぶんひどいのがいるからね。とくにニューヨークからきているアメリカ人がひどい。だいたい皆とてつもない個人的な問題を抱えていて、それをこちらに押しつけてきますよ。一日二十四時間つき合ってるうちに、こちらまで変になってきますよ。ね、ね、あたしの眼、よく見てごらん。ほら、こう、なんとなく落ち着きがなくて、キョロキョロして不安定で、どうもよくないって感じでしょう? 九月にきたときは、あたしこんなふうじゃなかった!」という具合で、これでは噂に聞く大学の体育部の新入生に対するシゴキとやらに、精神としては似通っているのではないか? 古顔などになってしまって、あたしどうしようと途方にくれているのだ。
 しかし、それにしても、砂漠の教室にはじつにさまざまな人間が集まる。ヘブライ語を習うには、このような私立の学校に入る方法とはべつに、たとえば「メルカズ・クリタ」と呼ばれる移民吸収組織に附属している学校や、キブツで志願して半日働いて、半日学校へ通うという方法もある。わたしたちのいるアキヴァ学校へは移民でなくともこられるわけだし、労働をするわけでもないから、たとえば一ヵ月の休暇を利用してくる人とか、移民しようかと考えちゅうだが、まだ百パーセント決心したわけではない、ひとまず言葉でも勉強しながら、よく考えてみよう、というタイプなどもある。
 一ヵ月の休暇を利用してやってきたポーラはいつも幻覚とともに生きているようだった。彼女はニューヨークはブルックリンの、ある図書館の子供読書室の司書だが、子供は大嫌いだ、とつねに呪いの言葉を吐いていた。食卓の皿に肉や野菜を載せて、ナイフを叩きつけるようにして、それから細かく切り刻んでは、子供は憎らしい、ほんとに胸がムカムカする、と呪うのだった。それから肉や野菜やライスをナイフでゴチャゴチャと混ぜて、まずそうにニチャニチャと食べる。彼女は教室へゆくにも食堂へゆくのにも、重そうなボストンバッグをかついでゆく。なにか盗まれてはならない物がドッサリ入っているらしい。模造紙のように白い顔で、「男たちはなぜあたしを放っておかない?」と訴えるのだ。「たとえば、エマニュエル神父(! 彼はバスクから、滅びかけた言語の復活と教育はいかになされうるかという大テーマを背負ってやってきたフランシスコ修道会の神父で、「バスク独立運動」の一員だ)だけど、神父は完全にあたしにまいっているのよね。ごらん、あんなにさえない顔色(ところが、彼の顔色はじつにつやつやとさえきっていた)をして。片想いに苦しんでいるからよ。でも、あたしとしてはどうしようもない、あたしの役どころじゃないのだもの。それにあのフランスのイラン少年だけど、あの子もあたしを狙っている。フランスの少年てのは、歳上の女に手ほどきしてもらいたいって考えるものですからね。でも、あたしがあの子の思い通りになるなんて思ったら、それこそとんでもない見当違い!」
 ときに彼女は予告もなく、さめざめと泣き出す。教師に飴をあげようと思ったのに、他の生徒がその教師と長話をしていたために、目的を達することができなかったから、いやだ、といって泣くのである。わたしに向ってある日、「日本て保守的な古い国なんでしょう? 反抗する若者は不幸な目にあうんでしょう?」と突然つめよるので、そう単純なものじゃないと回答したら、その後三十分もさめざめと泣いていた。


 砂漠におちるヨーロッパの影

 すでに十二月二十五日と書いてから一ヵ月が経過した。そして、なんと奇跡的に、わたしたちの二十週間のヘブライ語集中学習はついに終了した。くる日もくる日も、教室で五時間、その後は部屋で自習を三時間、あるいは四時間という生活をしているうちに、もうここから出てゆく日は永遠にこないのではないかとさえ思うようになっていた。
 長い夏がある日突然終って、夜が明けると秋だった。秋はとても短かく、わたしにはほんの数日のことのように感じられた。そして、冬。つまり砂漠は雨期を迎えたのだ。静かな地中海も、嵐の日には黒々と波立ち、なにもかも重たく濡れて、野や山にとつじょ小川が出現したりする。イスラエルは乾燥した国として知られているが、雨期の集中豪雨のせいで年間雨量は、たとえばテルアヴィヴのそれはロンドンのそれより多いそうだ。しかし、大地は、一度に空のバケツをひっくり返したかのごとく降る雨を吸収することはできないから、大雨の大半はゴウゴウと地中海に流れこんでしまう。だから、イスラエルは乾燥した土地だ、というのはやはり正しいいいかたである。
 雨期に入った砂漠の教室の生活は日差しの強い明るい夏のそれよりも困難だった。もう観光客も全然こないし、三流ホテルはすっかり閑散として、アキヴァ学校の生徒たちは置き忘れられたやっかいな荷物のようにあつかわれ、食事なども日に日にひどくなるのだった。ヘブライ語の学習のほうは思っていたよりも好調で、だから一応やってきた目的は達せられた。
 いくどか、「なぜヘブライ語などを学ぶのか」ときかれた。イスラエル人にたずねられるのだ。イスラエルに移住するのなら、国語としてのヘブライ語を学ぶのはあたりまえだが、わたしや夫のようにべつに移住する意思もない者たちが、五ヵ月間もそれだけに集中するのはなぜか、というわけだ。そうたずねるのは、だいたい西ヨーロッパから移住してきたイスラエル人だ。移住してきた、といってもすでに三十年ぐらいも前のことだという例が多いのだが、わたしは彼らのその問のなかにすでに答の五〇パーセントをかぎとってしまう。
 もしわたしがフランス語やドイツ語を勉強しているとしたら、おそらく彼らはわたしになぜそのような言葉を学ぶ必要があるのか、とはたずねない。たずねる以前に、「必要がある」と彼らは自ら解答しているからだ。わたしが英語を喋ることについても、「なぜ英語などを子供のときから習ったのか」とは問わない。それは自動的に「よいこと」「ためになること」「あたりまえ」のことだと考えられているからだ。「なぜヘブライ語」を習うのかという問はおそらく、「なぜ外国人が日本語などを学ぶのか」という問と同質のもので、ヘブライ語ないしは英語で発せられる、その「なぜヘブライ語を?」という問には「なぜヘブライ語などを」というニュアンスがかくされている。「なぜ日本語を」と問うときに、なぜ日本語などをというニュアンスがかくされているのと同じことだ。
 わたしはだからその問に答える気持にならない。彼らが問を発したときにすでに自ら半分答えてしまっているということと、問を発する彼らの心に住むヨーロッパ人としてのヨーロッパの像がいやだからだ。彼らのヨーロッパは虚像だ。ヨーロッパが文明のモデルであり、究極的な規範だという幻想と、六百万のユダヤ人(あるいはその数をはるかに上回る市民)を虐殺したヨーロッパ、宿酔いの朝のように、ユダヤ人をその口から悪臭とともに吐き出したヨーロッパとのあいだに、この人たちはどのような折り合いをつけるのか。ほんとうは「こんなところ」へきたくなかった人々。大虐殺さえなかったなら。
 これと関連したことだが、右派と呼ばれる政治グループは、たとえばヒットラーのドイツとアラブの反感を同質のものとして議論する。わたしにとって現在アラブは巨大な闇として立ちあらわれていて、とても第三世界云々という図式では身動きできない感じだ。日本人であるところのわたしが持ち合わせの気持や観念をアラブ人の世界に投影してみたところで、そこから理解が生まれるとはとても思えない。同様に、ロシアのポグロムやヒットラー政権下のドイツ人のことを、アラブの反感や発言に重ねてみたところで、それはやはり一種の幻想だろうという気がする。
 ここはたしかに中近東なのだ。イスラエルのユダヤ人の人口の六〇パーセント以上は有色のいわゆる東方系(オリエンタル)で、だから白人のヨーロッパ系のユダヤ人は四〇パーセント以下であるわけだ。イスラエルのユダヤ人たちは積極的にアジアの経験から学ばなければだめなのではないかとわたしは思う。「なぜヘブライ語などを」という質問を発してはいけないのだ。
 そういう問を発するのはしばしば、ドイツ系のユダヤ人であることが多いようだ。東ヨーロッパからやってきた人々はまた大分感触がちがう。ポーランド生まれの一八歳のイリスは、現在はウィーンに両親と暮しているが、両親はこの娘をイスラエルにおきたい。そこでアキヴァ学校に送りこんだ。イリスには宿命論者的な暗い感じがあって、とても聡明で八ヵ国語ぐらいの言葉を話すが、ブロンドの長い髪を馬のたてがみのようにバサバサにして、しばしば嗜眠症の症状を呈して部屋にこもってしまう。彼女の父親はトレブリンカ収容所でさいごまで生きのびた八人のうちの一人だ。父親は現在はウィーンでホテルを経営しているが、そのホテルはようやくのことでソヴィエトを出てきたユダヤ人がまず最初の西側の宿泊所として使うホテルである。そこへくるソ連のユダヤ人はイスラエルゆきの査証をもっているが、全員がイスラエルに向うわけでもなく、イギリスやアメリカへ方向転換する人々もいる。
 ソヴィエトからやってきてイスラエルに住むようになった人々の一人にわたしも会った。彼は夏のあいだしばらくアキヴァ学校にきていたのだ。彼はアブラハム・ソロモニックという名だが、レニングラード生まれで、ソヴィエトではまず弁護士として出発した。それも法廷で被告を弁護する弁護士だ。その仕事のためにいくどかひどく危険な立場に身を置いた、いま生きているのがほとんど奇跡的だといえるほど僕は運がよかった、と彼はいう。体制の気にさわることをするたびに、彼はレニングラードからしだいに遠去かるかたちで転任させられ、もうあとちょっとでシベリア、というところで弁護士をやめた。その後は成人学校の教師になって英語を教えたそうだ。
 ユダヤ人として差別されたのか、とたずねると、彼は「された」と答える。法律学校にいっていたときも、彼はクラスのトップでいわゆるメダリストだったが、ユダヤ人だから大学院には入れてやらない、といわれた。でもそこで闘うなんていうことは全然考えなかった、と彼はいう。ソヴィエトを出た理由も差別が直接の原因ではない、ソヴィエト社会の構造にすっかりうんざりして、そこでゲームを続ける気持が全くなくなってしまったからだ、という。
 子供のころから、彼にとって、自分がユダヤ人であるということは、名前がユダヤ人の名前だという事実以上のものではなかったと彼は話す。彼はユダヤ人としての教育はなにも受けず、「ユダヤ人」が何者でありうるかも知らず、彼の頭の中ではいつのまにか、「ユダヤ人」とはロシア人によってステロタイプ化された「負」の人間像として存在するようになっていた、と。ということは、そこには、外側からおまえはユダヤ人だ、といって二級市民のあつかいを受け、内側では「なぜかおれはユダヤ人であるのだ」といって、その負の人間像と一体化しなければならないという過程があったわけだ。
 わたしはエルサレムにある彼の一家のアパートを訪ねたが、家具などはレニングラードで使っていたものを全部持ってきているのだ。アパートに一歩入ったとたん、わたしはこの家はいままで訪れた家々とずいぶん雰囲気がちがうぞ、と思った。そこの雰囲気には重く暗くのしかかるようなところがあって、窓から陽がさしこむと、紅茶茶碗にはレニングラードのあの無数の橋が映っているのではないかと、ふとわたしはのぞきこんでしまうのだった。わたしと夫がアブラハムと話をしていた四、五時間のあいだ、アブラハムの奥さんの母親である老婆は、一枚のロシア語の新聞をすみからすみまで、くり返し読んでいたが、ときどき重い溜息のような音をもらした。


 砂漠の教室へのみちのり

 東ヨーロッパということで思い出したが、ポーランド生まれの一人の年寄りの女性がいた。彼女はもう八〇歳になっていただろう。読み書きが自由にならない、というので学習をはじめたのだった。けれどもなにしろ八〇歳で、勉強するという経験そのものが、すでに太古のことになってしまっていたのだから、教室でもひどくトンチンカンで、宿題もまじめにやってはくるが、全然見当ちがいのことをやってしまう。教室では彼女はいつもつぎのように行動するのだった。

 教師のシュムエル じゃあ、こんどはレアの番だ。レア、この文章を過去形に変えなさい。いいですか。わたしは馬鈴薯のホットケーキを焼く、これを過去形に変えなさい。
 レア はい、はい。馬鈴薯のホットケーキといえば、あたしは昔、ほんとうにおいしい馬鈴薯のホットケーキを焼きましたよ。ひけつはね、おろしで玉葱をすりおろして混ぜることですよ。死んだ主人はいつも、あたしの焼いた馬鈴薯のホットケーキをとても悦んで食べてくれましてね。そう、そう、かならず林檎のソースをそえました。なんといっても、馬鈴薯のホットケーキには林檎ソースが一番。
 教師のシュムエル レア、もうよろしい。

 あるいは――
 教師のシュムエル ヘブライ語にはこのような諺があるわけです。では、復習してみよう。レア、最初の、この諺の意味をいってみなさい。
 レア 諺……。そうねえ、諺といえば死んだ主人を思い出します。主人はいつもいってましたよ。諺は噛めば噛むほど味がでるって。たとえば、主人は「りこうな問はすでに回答の半分である」なんていいました。主人はとてもいい人でした。

 いつもこんな調子だった。教師のシュムエルはレアに敬意を抱いていたから、けっしてそういうトンチンカンなレアを侮辱するようなことはなく、いつも鄭重だった。レアはヘブライ語の読み書きが自由にならないから学校へきたわけだが、死んだ彼女の主人というのはじつはヘブライ語の教師だった。主人はレアのヘブライ語に我慢がならず、二人のあいだでは彼が死ぬまで、ポーランド語で話をしたそうだ。教師のシュムエルもポーランド生まれで、ナチスの迫害以前にシオニストとしてイスラエルにやってきた人だ。もうイスラエルに住んで四十五年。彼のレアに対する敬意には、わたしにはおそらくけっして知ることのできない奥行きがあるのだろうと思う。会話の練習のために、生徒はそれぞれ身の上話などをさせられることもあるが、レアが夫の死について話したとき、シュムエルは涙を浮かべてきいていた。教師のシュムエルはそういう人だ。三十五年もヘブライ語の教師をしてきたが、毎日がまるで新しい経験であるかのように教師という仕事をする人である。六〇歳を越えていて、白髪がちょうどあのベングリオンのそれのようで、全部直立している。ふだんはおそろしい顔つきに見える。教室ではきわめて魅力的な教師で、わたしには気持のよい経験だった。

 シュムエル この練習問題はじつにいい。この練習問題を作ったのは誰だろう?
 生徒たち (口々に)シュムエル、シュムエルだ。
 シュムエル ふん、ふん、そうか。しかしなんと立派な練習問題だろう!

 アキヴァ学校にくる人々は、キブツや公共機関が送りこむわずかな部分を除けば、けっして安いとはいえない授業料や宿泊費などを自分の懐から払って入学してくるわけだから、生活に窮しているモロッコ系のユダヤ人などはくることはできない。むしろ、アメリカや西ヨーロッパなどで困らない暮しをしている人たちが多い。しかし、それでもなお、さまざまな年齢の、さまざまな背景を負った生徒たちには、どこかかすかに打ちひしがれたところがあることに気づく。アメリカでなにひとつ不自由なく暮しているユダヤ人が、あるときイスラエルへの移民を考える。彼らは移民の動機については、当然のことながら、一応は言語化し表現するが、わたしにはその「なぜか」の深いところは、彼らの意識からもかくれたところにあるように思えてならない。イスラエルにくれば物質的な生活水準は一挙に低落するし、社会的な地位も一挙に低落することもある。アメリカやヨーロッパから、差別を理由にやってくる者は皆無だ。それでもなお、「イスラエルに移住しようか」とある日彼らは考える。
 ヨーロッパからきている一〇代の娘たちにも何人か会った。イギリスやドイツやフランスからきている娘たち。彼女たちはそれぞれ裕福な家庭に育った娘たちで、高等学校から大学へゆくその中間の十週間から二十週間、ヘブライ語の勉強にくることが多い。表面的な印象からいえば、彼女たちはユダヤ人であるというよりは、まず洗練されたイギリス人であり、ドイツ人であり、フランス人だという感じが強い。イギリス人がフランス人を悪しざまにいう、あるいはフランス人がイギリス人を悪しざまにいう、そういうおかしな対立感みたいなものまで持ちこんでくる。(ドイツからきた青年とフランスからきた少年は、教室でもいつもいがみ合っていて、「フランス人のろくでなしが」とか、「ドイツ人の野蛮人が!」というような言葉を歯の隙間から吐き出すようにいうのだった。)しかしそれでもなお、これらの娘たち息子たちの親たちは強制収容所を生きのびた人々、あるいは奇跡的に捕えられずに戦争の終りを迎えた人々だ。「ベルリンが世界中で一番すばらしい」というドイツ娘や、「休みがあったらパリへもどって、美容院へゆくつもりだったのに」というパリ娘のくったくのなさ、完全にブルジョワ的な甘やかされた生活を見ていると、それこそヨーロッパの頽廃そのものを見ている思いさえするが、それでもなお、彼女たちのくったくのない美しい顔の向うに、わたしは歴史を見る、と思う。個人的に意識化されることはおそらくないままに、彼女たちはそれでもなお、なぜかヘブライ語を習う。
 それぞれが長いみちのりを経て、砂漠の教室へやってくる。みちのりはそれぞれの生徒の個体史の道程よりはずっと長く、彼らが出会ったこともない曾祖父たちや、さらにそれよりもいく世代も以前にさかのぼる時点に出発点をもっている。砂漠の教室そのものが長いみちのりの果てに存在している、といえる。トインビーはユダヤ人を歴史の化石と呼んだし、ユダヤ自身もヘブライ語が日常語として復活するとは本気で信じてはいなかっただろう。ヘブライ語はキリスト教徒が旧約聖書と呼ぶところの聖典の言語、さらにそれをめぐる古典的な評釈的な書物の言語として、それこそ化石的に生き続けるにしても、実用的な言語としてはもう死んだ、と考えられていたわけだ。ヘブライ語の復活はいうまでもなくイスラエルの建国と結びついているが、そこへいたるみちのりの疎外の歴史と、ヘブライ語が内蔵する小宇宙そのものとはけっして無関係ではないようだ。ドイツ生まれの、ユダヤ神秘主義の学者ゲルショム・ショーレムがある日父親に、「わたしはユダヤ人でありたいと思うのです」といって家を出たことと深く結びついている。それは差別からの逃亡というより、異なる小宇宙への出発であったはずだ。そのことと、現在のイスラエルが国家として抱えている問題とのきしみ、あるいはそのことと、正統派と呼ばれる「敬虔なユダヤ人」が無視しようとしている問題とのきしみについては、当然考えなければならないが、いまはひとまず、砂漠のヘブライ語教室にいたるユダヤ人の生徒たちは、それぞれに歴史的なみちのりを経てやってきている、偶然などはない、ということだけにしておく。それは長く、ひどく入りくんだ道だが、それでもなお、のびのびと美しいアメリカやヨーロッパのユダヤ人の娘たちの笑顔のうしろにさえ、ただちに見てとることのできるものでもある。差別とか偏見とか迫害とかいう手軽な常套語では、ユダヤ人が傷ついた人々であることを満足に説明することはできない。キリスト教の世界観の内部に吸収されることを拒み続けた集団の疎外の質がいかなるものであるか、そのことが理解されないとだめだと思う。
 ついに、わたしたちが砂漠の教室を引きあげる日がきた。免状ももらった。そこでの暮しについてはある苦さをもって思い出すことになるかもしれない。その苦さがあの砂漠の教室だけに属するものなのか、それとも、これから数ヵ月住むことになるイスラエルでの経験全体についていえることなのか、まだわたしにはわからない。告白すれば、ナターニャのアキヴァ学校は地質学的には砂漠にあるわけではない。そこは五、六十年ぐらい前は沼地だった。猛烈なマラリアとたたかいながら、人々は沼地を干拓した。そこには砂丘もあり、一面砂地だから、砂漠だ、とわたしは勝手にいったのだが、これは真実ではない。それでもなお、わたしはあそこでの経験を、さまざまな意味で砂漠的であると考えるので、砂漠の教室といういいかたを変えないでおこうと思う。イスラエルの経験そのものが、大きな砂漠の教室の教訓となるかどうか、それはまだほんとうにわからない。ここの教室で出会った人々についても、わたしはまだ等身大の彼らを知らないのだ。わたしにとっての教室はこの先にあるのだといえよう。つぎの教室はカンカン照りの砂漠にあるのか、どしゃぶりの雨期の泥水あふれる街路にあるのか、それもわからない。いずれにしろ、つぎの教室のことを書くということは、おそらく、とりもなおさず、そもそもなぜわたしが九月に日照りの教室に向ったか、そのことに触れなくてはならないということだろうと、重い気持で感じているところだ。きょうのところはまだこうして、もらった免状などをじいっと眺めているのである。


河出書房新社 1978年11月25日発行




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