『砂漠の教室線――イスラエル通信』 藤本和子

目次    


砂漠の教室 I
砂漠の教室 II

イスラエル・スケッチI
 ベドウィンの胡瓜畑
 銀行で
 雨の兵士
 スバル
 乗り合いタクシーの中で
 鋼鉄《はがね》の思想


ヨセフの娘たち

イスラエル・スケッチII
 影の住む部屋
 悪夢のシュニツェル
 オリエントの舌

   
――言語としての料理
 オリエントの舌

   
――ハイファの台所
 あかつきのハデラ病院
 知らない指
 おれさまのバス
 建設班長
 山岳の村


なぜヘブライ語だったのか

    砂漠の教室 I



 砂漠の教室はイスラエルはナターニャという土地にある。わたしは九月十二日に砂漠の教室に到着した。こんな不思議な教室に身をおくのははじめての体験だ。砂漠の教室へはヘブライ語を習いにやってきたのだが、ヘブライ語を習うということをめぐって、カンカン照りの空の下の教室では、いろいろな国からきた生徒たちが出会い、文字どおりぶつかり合うことすらあるのだが、そこにはすでに、それなりのリズムが生まれつつあることもたしかだ。あらゆる年齢の、さまざまな背景の生徒たちがいるが、しかしここは世界市民休暇村でもないし、ヘルスクラブでもなく、生徒たちはヘブライ語を習うということをめぐって共同生活を送っている。いうまでもなく、生徒の多数はユダヤ人だが、そうでない生徒もかなりいる。「わたしはヘブライ語を学んでいる」と生徒たちがヘブライ語でいうこの教室は、おそらくわたしにとっては、「ヘブライ語を学んでいる」とヘブライ語で発語しようとする人々について学ぶ、あるいは少なくとも学びはじめるその発端になる教室だと感じている。
 砂漠の教室の生徒の年齢は現在、最年少が八歳で、最年長が七〇歳。わたしなどは三七歳で、若いほうに属しているのである。東京では「三七歳! もう中年ではありませんか!」といわれるのだから、ここでは若いほうに属していることが、なんだか不思議だ。
 最年長の七〇歳のアブラハムは当世流行の視聴覚法による語学の学習にはきわめて強い猜疑心を抱いている生徒だから、視聴覚法による学習の長所について教師や他の生徒が喋ろうものなら、ものすごい警戒の色を見せる。彼はいつも半分ずり落ちたような感じにズボンをはいて、なぜかいつも重いハイキング靴をはいているが、赤シャツを着て教室にあらわれる日が多い。なぜ赤シャツの日が多いかといえば、あまりこのシャツを洗わないからだ。
 彼はワシントンで小さな金属化学工場を経営している。砂漠の教室に出発する日、ワシントンで留守を守ることになった彼の妻は、「さあ、いってらっしゃい、アブラハム。あなたは子供のころ寄宿学校へゆきたいと思っていたのに、その願いはかなわなかった。でも、こうして七〇歳の今、ようやく念願の寄宿学校にゆけることになって、よかったじゃないの」といって彼を送り出したのだった。
 彼は神とか宗教とかいう言葉を口にする人間の前ではおそろしく攻撃的になる。おれはユダヤ人だが、ユダヤ主義なんかいやだ、宗教なんかいやだ、といつうもいう。でも、なぜかヘブライ語を学ぶのだ。イスラエルに移民して商売するんだ、などといっているが、わたしにはどうもそれだけが理由ではないように思えてならない。おっさんはほんとうは自分でも知らない理由でヘブライ語を学んでいるのだと感じられてならないのである。
 おっさんは独りで部屋にこもって、ノートと辞書にしがみつき、その頭脳にヘブライ語の新しい知識を、まさしく遮二無二押しこまんと、日夜奮闘している。彼は好んで孤独な学習方法を選んでいるのだが、そのため、教室に出てきて教師の質問に汗だくになるときは、じいっと天を仰ぎ、目をギョロギョロさせて答を捻り出すのだから、そのようすはあたかも神との対話を行っているかのごとくで、わたしたちや教師は存在しなくてもいいような感じである。
 彼はきょう、わたしに宣言した。「こんなことが続くなら、もう荷物をまとめてここを出てゆく」というのだ。なにごとですか、とたずねたら、教師が謄写版で刷った宿題のプリントの字が乱雑で全然読めやしない、というのだ。そういうことは許されない、俺は二時間半もかかって、この糞きたないプリントを自分のノートに写し直したが、そしたらみろ、もう肝心の宿題なんぞする時間は残っていない、だから、こんなことが続くなら、もう荷物をまとめて出てゆく、と。出てゆくのなんのというまえに、教師に一言いってみたらどうかしら、とわたしはいったが、そんな下品なことはとうていできない、という答であった。
 これは昨夜のことだったが、今朝教室にあらわれたおっさんはやはり不幸な表情だった。でも、すぐには出てゆくようすはない。さっきも彼の部屋のまえを通ったら、小さな机にその丸いからだでしがみつくようにして、孤独な闘いを続けているのが見えた。なぜ見えたかといえば、もちろん扉が開いていたからだ。なぜ扉が開いていたかといえば、ここイスラエルのナターニャはもう十一月中旬というのに、まだ昼間は真夏のように暑い日が多い。東の砂漠から熱い乾燥しきった風が吹いてくると、ジリジリと暑い。人々はまだ海やプールで泳いでいる。土地の人々は十一月の声を聞くと、もう秋だ、秋だとさかんにいうのだったが、彼らのそのような主張にもかかわらず、わたしの意見ではまだここは夏だ。
 さて、またこの七〇歳のおっさん学生のことにもどるが、彼には「乱雑に書かれた宿題のプリント」という悩みのほかに、もう一つ悩みがある。この砂漠の教室で勉強している生徒たちは、皆ホテルの一部の小屋のような部屋をあてがわれ(よくいえば、「全寮制」とでもいうのだろう)、それぞれ二人一組になって寝起きしているのだが、彼の同室者はトルコ生まれのユダヤ人で総入歯だ。おっさんは同室者がトルコ生まれであることについては文句はないのだが、「総入歯」がたまらない、というのだ。総入歯でオレンジを食べるその音がたまらない、その音を聞くとからだが震えだす、と訴えるのだ。

 荷物をまとめて出てゆく、という考えは、必ず、少なくとも一度や二度は生徒の頭をかすめる想念である。わたしとわたしの夫はある程度の決意をもって、ヘブライ語を習いにきた。わたしの夫はアメリカ生まれのユダヤ人で、十年前にはじめて若い学生として日本を訪れ、日本との出会いを通して、やがて自分がユダヤ人であること、ユダヤ人以外の者ではありえないことと対峙するようになった。ヘブライ語を学ぼうとすることは、彼にとってはその経緯の延長線上にあることで、動機はきちんとしてはいるのだが、その彼も「出てゆこうか」と考えることがある。わたしだって、べつに従順な東洋人の妻として、夫に従いこんな遠くまでやってきたわけではない。わたしもすでに、ユダヤ人とユダヤ主義との両方とに、関わってしまっている。亭主がユダヤ人だからおまえもユダヤ人か、というようなことではなく、わたしはわたしとしてヘブライ語を知らないで平気でいてはならないところへ自分を追いこんでしまった。
 勉強しようと決意したうえでやってきたわたしたちではあるが、それでも、もう帰ろうか、と思うことがあるのだ。事実、わたしは到着した日に、「帰ろう」といった。それ以来、寝るまえと朝起きるときに、わたしは「東京へ帰ろう」と必ずいうことにしている。着いてからちょうど二ヶ月になる。
 砂漠の教室に到着したその日も猛暑で、わたしは頭がクラクラしていた。テルアヴィヴからタクシーでやってきた。途中「ベングリオン空港」に立寄って、東京から別便で着いた冬服の茶箱をひろった。ハイウェイに立っている札などをたよりにやっと着いた先は「グリーン・ビーチ・ホテル」という名のホテルである。学校はこのホテルの敷地と建物の一隅を借りているのだ。砂丘と砂浜と浜に打ち上げられたタールの黒々とした斑点ばかりが目立って、木など一本もないのに、なぜか「グリーン・ビーチ・ホテル」なのだ。わたしの調査の結果をいえば、この浜は植林され、やがて緑に覆われることになる、美しい観光用の海岸になる予定であった、というところから、先見の明をもって、この名がつけられたということであった――。
 雲一つないカンカン照りの空の下、白っぽい砂地にかこまれた三流ホテルの庭にポツンと置かれたわたしたちの荷物は悲し気だった。とりわけ、緑色の茶の葉が印刷された、長旅によごれた茶箱、さらにあちこちに「日本語の文字」で小石川だの静岡だのとあるこの「日本の箱」は場違いで、わたしたちはおかしくて笑いたいような、またひどくなさけないような気持になった。
 さて、「日本の茶箱」をひとまずそのままにして、わたしたちは入学手続きをするために事務所へいったが、そこでどの学級に入るか決められて、それからお金を払ったら、引換えにビニールの書類カバンをくれた。なかにはボールペン一本とざら紙の薄いノートが四、五冊入っていた。小さなノートもあった。あとでわかったが、小さなノートは砂漠の教室で行われる「文化活動」の歌唱指導で習い覚えた歌の歌詞を書き記すためのものだった。(第一日目に、わたしはそのノートを失くした。)もらったビニール・カバンの表にはウルパン・アキヴァ・ナターニャとヘブライ語とアラビア語と英語で印刷してあった。カバンを受けとってから、部屋の鍵をもらった。
 早速部屋にいってみたら、なんということだ! 夜のあいだに海賊でも襲ってきたのか、寝台はひっくり返り、古い服や紙屑や枯れた花などがそこらじゅうにあって、驚くばかり。そこで事務所へゆき抗議したら、掃除のおばさんたちは年寄りだから時間がかかるのだ、という回答だった。夕がた、もう日も暮れるころ、おばさんたちはやってきた。そのおなじおばさんたちが、いまのわたしの部屋を掃除してくれるのだが、それはとても「掃除」とは呼びにくい仕事ぶりで、床をビショビショにしておけば掃除したことになる、というような態度だ。それでも毎朝、二人の太ったおばさんたちはよいしょ、よいしょとやってくる。ちゃんと黄色い制服まで着けて。なぜ、彼女たちの作業にそれほどの時間がかかるかといえば、彼女たちはたいした読書家で生徒たちの部屋にある新聞や雑誌を片っぱしから読むのだ。ある日、休み時間に部屋にもどったわたしは、東京から着いたばかりの『婦人公論』に一心不乱に読むふけるおばさんの姿を目撃したのである!
「もう、帰ろう」と思うことがある、と書いて掃除のおばさんたちのことに脱線してしまった。わたしたちがここにきて、もう二カ月になる、というところまで書いたのだった。ここのコースは五カ月だから、まだ半分も終わったことにならない。砂漠の教室には長短いろいろのコースがあるが、五カ月の集中講座に入ると、やはり人質にとられたような感じだ。朝八時から午後一時まで教室の授業で、午後はまた復習や宿題など二、三時間、ときには五時間ぐらい自習することになることもあるので、ずいぶん閉ざされた生活である。夜は夜で、文化活動という名のもとに色々あって――プロパガンダ映画を見たり、フォーク・ダンスを踊ったり、講演があったり。
 文化活動といえば、ありがたいことにこの閉ざされた教室を訪れてくれる人もときにはあるのである。先日は百五十人のアラブ人の子供がきてくれた。アラブ人とイスラエルのユダヤ人の交流ということに、この学校の女校長が熱心なのだ。どうやって、あんなに大勢の子供を引っ張ってきたのかと思うほど、レクリエーション・ルームには子供たちがあふれて、その声がワーンと天井から反響したものだ。信仰深い親をもつアラブ人の女児たちは、子供でもしっかりと頭にネッカチーフを被っている。皮膚の色が濃い褐色の子供たちと一緒に、金髪で青い眼の子供もいる。アラブ人の子供だ。わたしは「十字軍だ」と思った。それは、やはり、そうであるらしい。さて、このアラブ・ユダヤ交流に熱心な女校長はまた彼女の学校がきわめて「インターナショナル」であることをたいへん誇りに思っている。そこで、この子供たちに対しても、彼女はその点を示そうとした。そう、いつだって彼女はわたしに日本の歌を歌え歌えとうるさいのだ。一、二年前にやはり日本人の若い女性がここで勉強していたことがあるらしいのだが、その女性はわたしなんかよりずっと素直でやさしかったのだろう。わたしが抵抗を示すと、教師たちは意外そうにする。もう一人の女性と、なんたる違い、だいいち理屈っぽくて気むずかしくて、と思っているのではないか。それにしてもおかしいのは、夫のデイヴィッドは日本の代表みたいに日本語の歌を素直に歌う。アラブ人の子供の前で、女校長が、「じゃ、これからここの生徒に歌を歌ってもらいます。ええと、日本からきているのは誰ですか?」(なんと見えすいた芝居だ。まるで子供あつかいだ、とわたしはムッとする)「この人です。デイヴィッド・グッドマンがそうです」とわたしはいってやる。(馬鹿な質問には馬鹿な回答を与えよ、というではないか)それでも、子供たちが聞きたいというのだから、わたしは夫と一緒に歌った。なにをだって? それは秘密だ。歌い終わると、アラブ人の子供たちは拍手したが、アッハッハッ、と笑っている子供もいた。

 二カ月もたつと、本質的にノイローゼ気味の生徒はますますその症状をあらわにしている。本質的にだらしない生徒はますますだらしなくなってきた。本質的にこの世を憎んでいる生徒は、ますます懐疑的になってきた。本質的に甘ったれの生徒は、すでにその正体を自ら暴露した。砂漠の教室は奇妙な教室だ。


 オデュッセイア的下痢

 二人の幼い子供をキブツに残して、十週間ここで勉強するためにやってきた若い女性がいる。エレンという。アメリカ出身の彼女はニューヨークを引き払って、夫と子供二人とともにキブツに住むようになった。夫は「IBM」のコンピューター・アナリストだったがそこを辞めて、現在はキブツの合板工場のコンピューターを操作している。エレンはヘブライ語を覚える、イスラエルに住むと決めた以上はヘブライ語をちゃんと覚えるのだと決心してやってきたのだが、子供のことが心配だったり、家族を置いてきたことに罪悪感を覚えたり、はたまたその心配や罪悪感に自分が悩まなければならないことがきわめて不当にも思えて、ひどく混乱してしまう。すると必ず下痢をする。ひどい腹痛に襲われ、激しい下痢が何時間も続く。はた目にもつらい神経性下痢だ。
 エレンは週末には家族に会いに、朝五時の食事当番が待っているキブツにもどるが、ナターニャからティベリアまで、四度もバスを乗りかえなければ帰れないので、その間、バスを逃すまいと走ったり、バスに鶏が乗ってきたり、つぎからつぎへと事件が起こるので、またもや下痢だ。先々週はついに、彼女が乗っていたバスがトラックと正面衝突し、バスは横転した。乗客に混じっていたイエメン系のユダヤ人の老婆たちは泣き叫び、地にひれ伏して祈りをあげたそうだ。さいわい重傷の負傷者も出ずにすんだが、それでもやはりショックでまた下痢になった。公衆便所に駆けこむ彼女のうしろから、トイレットペーパー売りがギャアギャア叫んで追いかけた、とか。まるで地獄だ、とエレンは思った。こんなひどいめに会うのなら、もう週末にキブツにもどるのはやめようと決心して、先週の週末は砂漠の教室に残ったが、するとまた、子供のことが気がかりで、家へ帰ってやらなかったことが罪深く思えて、さらに下痢をするのだった。
 下痢さえしていなければ、エレンは生き生きとした女性だ。彼女のイスラエルへの移民には、七〇年代アメリカの「オデュッセイア」的なところがある。ユダヤ人の家庭に生まれた彼女はおもに、ニュー・ジャージーあたりで成長したが、二〇代に入ってから、彼女は「真理を求める」精神の旅に出てさまざまなことに巻きこまれた。ユダヤ主義の教えはまちがいでないにしても、今日の生活を生ききることはできない、と考えたらしく、禅や太陽信仰などをはじめとして、色々な場に出入りし、そのたびに失望したらしい。最後の実験は「グールー」信仰だったが、ある集会に出かけていったところ、例によって例のごとく花を飾り香などをたいてある「グールー」の部屋に足を踏み入れた途端、彼女の目に映ったのは、数人の友人が床にひれ伏し、「グールー」の足に口づけせんとしていたところだった。彼女は吐気をもよおしつつ、その場を去った。(「グールー」はその後、故殺罪で刑務所入りしたとか。信者の子供が病気で副腎皮質ホルモンをのんでいたのだが、そんな薬はやめさせろ、わたしが治す、といって引き受け、その結果子供は死んでしまった。)
 さて、「真理」は見つからず、すでに二人の子供をかかえていたエレンはイスラエルへの移民を決意した、という。アメリカでは子供を育てることはできない、という理由で。
 彼女が一家総出でイスラエルへ移ってきたことは、彼女のオデュッセイア的旅の終りを意味するものではないように思われる。その行為のもっとも深い意味については、彼女のなかで意識化されてはいないようだ。現在の彼女の哲学は「われわれは他者の生きかたや思想について判断を下すことはできない。誰も自分にとってよいと思われることをするだけだし、自分が感じることは自分が感じる以上のものではないのだから、それを他者へ敷衍してはならない。そんな資格は誰にもない」というものだ。自分でよいと思うこと、気持にぴったりすることをやればよろしい、Do yoru own thing というせりふを、あまりにこのごろアメリカ人がいうので気持が悪いくらいだ。価値判断をやめて自由を認めあおう、という表現には、大義名分は信用できないぞという発見があったのだろうということを理解したうえでも、なお一種のよどんだ混乱が感じられる。

 モロッコの鰯

 モロッコ生まれのフェルナンドは、今でもモロッコの鰯の話を毎日のようにするのである。朝早く海に出て、浜で漁師からバケツ一杯の鰯を買い、それから角の酒屋で白ぶどう酒を買って仕事にゆく。仕事場についたら火をたいて鰯を焼くと、鰯のからだからは無駄な油がぜんぶ出て、それがジュージューと焼ける、そしたら、そこでぶどう酒を一杯。鰯のうまいこと、あんな鰯はとてもほかでは見つからない。鰯はああでなければならない――というわけだ。わたしは彼が話しているのは、彼が現在住んでいる「紅海」のほとりのエイラットの鰯の話をしているのだとばかり思っていたので、へえ、「紅海」に鰯なぞがいるのかねと不思議な気がして、ある日、それほど結構な鰯なら、一月に学校が終ったら訪ねるから食べさせてください、とわたしはいった。すると、彼はおまえは気でも狂ったか、というような眼つきになったので、なぜそのように眼つきが変化したのかとたずねれば、彼のいう天下一品の鰯とはモロッコの鰯だというのだ。イスラエルの人口のうちイスラエル生まれのイスラエル人は、現在は五割を超えているというが、それにしてもイスラエル生まれではないイスラエル人の割合はずいぶん高いことはたしかだ。彼らは、よくも悪くも昔を背負っている。苛酷な経験をした昔の故郷をそのまま背負っている。ソヴィエト・ロシアからやってきた人々は機会があるとロシア民謡を歌い、踊りを踊る。それと同時に、たとえば「警察」といえばソヴィエトの秘密警察を思い浮かべるので、ちょっとした何でもないことにも強烈な黙秘権を行使して拘留されたりする。二二歳のミハエルがそうだった。彼が拘留されていた四日間、母親は狂ったように泣き続けた。近代国家たるイスラエルのユダヤ人はもはやユダヤ人と呼ぶべきではなく、「イスラエル人」とだけ呼ぶのがふさわしい、という意見を東京で聞いたことがあるのだが、そういうふうにいえるとしたら、たとえばアウシュヴィッツに収容されたときに、ナチスによってほどこされた刺青の「番号」をつけたユダヤ人をなんと呼ぶのだろうか。やはり彼らは「イスラエル人」と呼ばれるだけで、刺青の番号はすでに、偶然腕に浮き出て見えるアザのようなものにすぎず、彼らの現在とはなんの関わりもないことになるのだろうか? そんな馬鹿なことがあるわけはない。刺青は宙に届いてゆきどころもなく、ただプカプカと漂うだけか? 「イスラエル人」とだけ呼べばいい、といえてしまう者の頭の中では、おそらく刺青の「番号」がプカプカと地獄へも天国へもゆけず、さまよい続けることはどうでもいい、ということになるのだろう。イスラエルの起源はユダヤ人の歴史と結びついている。それから切り離すことはできない。刺青はイスラエルのスティグマではなく、人間の腕に刺青を入れ、人間を番号化し、それからガス室で焼き殺したヨーロッパのスティグマとして、あるのだ。もちろん、イスラエルがユダヤ人の歴史の一部を担うということは、正の部分も負の部分もふくめてということだ。だが、帝国主義とか第三世界の敵とか、そんなきまり文句の位相では理解できないことのように感じる。
 このアキヴァ学校でも、わたしはすでに、強制収容所の刺青を腕に残している女性二人に会った。わたしはなにもたずねることができず、からだが凍えるようで、自分は彼女たちの経験に見合う言葉をもたない、と感じるばかりだ。「つらい強制収容所のことをたずねてはあまりにも無礼だ」というような憶測や推察さえ正しいものではないようだ。彼女たちはその経験について語ることをいやがらないらしいからだ。だから、問題はわたしの側の思いやりなどではなく、わたしは問を構成する言葉すらないと、わたしが感じることなのだ。
 彼女たちは強制収容所を生きのびてイスラエルにやってきてすでに二十五年ほどになるわけだが、話し言葉としてのヘブライ語は自由に使えても、書くことに困難があるようで、だからアキヴァ学校へきている。そして、彼女たちの刺青の番号は今でも半透明に青い――。
 書くことに上達したい、いや、書けるようになりたい、という生徒のなかに、先月は七二歳の男性がいた。彼は読むことと話すことは完全にできるのだが、書くことが全然できないのだった。生きることにせいいっぱいで、書くことを学ぶ暇がなかったのだろう、とわたしは思った。七二歳になってようやく、彼はヘブライ語のアルファベットからはじめて、書くことを習う機会を得たのだった。三週間の集中講座が終るころには、彼は手紙が書けるようになっていた。それまでは、必要があっても、伝言一つ書くことさえできなかった彼がだ。ある夕方のこと、わたしは蚊にくわれながら、プールのそばの椅子にすわって彼の話を聞いた。イスラエルにきてからもう三十五年になる、と彼はいった。そして、その日彼は彼の人生最初のヘブライ語の手紙を書いた、というのだった。手紙は彼の一人娘に宛てたもので、娘には、その手紙を読んだら、綴り字の誤りなどをきちんと添削して送り返してくれるようにたのんだ、と彼はいった。以前は娘は彼と同じ町に住んでいたが、結婚してよその町に移っていったので、その娘に手紙を書くことができるようになりたいと、アキヴァ学校にきて勉強していたのだった。生まれてはじめてヘブライ語の手紙を書いたのだよ、と話す彼の背の向うに、わたしはやはりわたしのもち合わせの知識や憶測ではとても知ることのできない歴史があるのだと感じた。
 老人の生徒にも、じつにいろいろあって、オランダ出身の夫婦は夫が七〇歳で奥さんが七七歳だった。大柄な夫婦だったが、二人はいつも手をつないで歩いていた。夜になると、二人は空いている教室にいって一緒に宿題に取り組むのだった。レクリエーション室のまえを通って懐中電灯を手に、暗い教室に向って手をつないで歩いてゆく二人の後姿を眺めては、わたしたち若いほう(!)に属する「初級」の生徒たちは、「あ、ごらん、あのふたり、また暗闇に消えてペッティングするんだ」などとくだらないことをいい合った。


河出書房新社 1978年11月25日発行




本棚にもどるトップページにもどる