『砂漠の教室線――イスラエル通信』 藤本和子

目次    


砂漠の教室 I

砂漠の教室 II

イスラエル・スケッチI
 ベドウィンの胡瓜畑
 銀行で
 雨の兵士
 スバル
 乗り合いタクシーの中で
 鋼鉄《はがね》の思想


ヨセフの娘たち

イスラエル・スケッチII
 影の住む部屋
 悪夢のシュニツェル
 オリエントの舌

   
――言語としての料理
 オリエントの舌

   
――ハイファの台所
 あかつきのハデラ病院
 知らない指
 おれさまのバス
 建設班長
 
山岳の村

なぜヘブライ語だったのか

    イスラエル・スケッチII

 山岳の村

 山岳の村の人々はドルーズと呼ばれる集団だった。ドルーズは回教の異端派ともいうべき神秘主義の秘教のアラブ人である。マホメッドの教えの神秘主義的解釈において異論をとなえた一派が創設したといわれている。もとはシリアとレバノンで育ったセクトだった。この派の教義は完全に秘密にされていて、一般のドルーズ教徒はその内容を知らされず、世襲制度や階層や年齢などによって知識の質や量が異なるらしい。ドルーズの男性が頭に被っている被り物を見れば、彼がどのような地位にあるかわかるという。
 彼らが回教の本流と袂を分って独立の宗派になっていらい、回教徒からはたいへんな迫害と差別を受けてきた。シリアやレバノンを逃れてパレスチナへ移ってきたドルーズの集団が現在イスラエルに住んでいる集団であるが、彼らは迫害を逃れるために山の上に住む習慣をもつようになったので、イスラエルでも彼らは山岳に村をおこして暮しているのである。
 ドルーズの集団はイスラエル独立戦争よりずっと以前からパレスチナに住んでいた。独立戦争のときはアラブ側を敵にまわしてイスラエルの兵としてたたかった。
「もう長いことわたしたちはパレスチナに住んできた。人間が住む土地は人間の魂だ。その魂を奪おうとしたアラブ側はわれわれの敵だったのだ。われわれはわれわれを救うためにたたかったのだ」と彼らはいう。「イスラエルが独立したって、われわれはここに住み続けることができることは明白だったからね」
 ドルーズの山頂の村ヤヌッフはハイファから車で九十分、そこへわたしたちを連れていってくれたのはガビ・ワルブルクだった。夫人のラヘルも一緒だった。この二人はキブツ・イエヒ・アムの創立メンバーだった。イエヒ・アムは独立戦争のときに六カ月も完全に包囲されていたキブツだった。このドルーズの村のアメール・ヨセフ・アメールはイエヒ・アムの警備員だったのである。キブツを離れた現在もガビたちはアメールを訪れる。
 アメール・ヨセフ・アメールの家にいっても、会話はアラビア語だったので、わたしには内容はわからない。通訳してもらった分も切れ切れで、それをつなげてあれこれいってみてもはじまらない。ここではもっぱら、わたしの耳ではなく目が情報を得ようとした。
 注意を惹かれたのは、彼らの生活の秩序だった。家族の成員の一人一人にきわめて明確に役割が与えられていて、他の役割を侵すことも、じぶんのそれをおこたることも許されていないように思えた。
 わたしたちが到着したら、まず家族の男性全員が外に出てきて迎えてくれた。主人とその弟たちが、年齢の上の人から順に握手して。客間に通されると、まもなく、一番年の若い弟(二〇歳ぐらい)がオレンジ・ジュースとコーラを運んできてくれた。コップの数はその部屋にいる人数の倍ぐらい。その弟たちの腕にはタオルがかけてあって、ジュースを呑み終って口を拭きたそうにしている兄たちや客たちのところへ行って、タオルの掛かった腕を差し出して拭かせる。順ぐりに口を拭き終るまで、部屋の隅で待っている。
 一同がジュースやコーラを呑み終ると、こんどはトルコ・コーヒーが運ばれた。やはり一番若い弟によって。四人の兄さんたちは椅子に腰かけて、ガビ夫妻と話していて、この弟ばかりが働いている。コーヒーのつぎに出てきたのは細くて長い、いくつもの枕だった。ああいうのはクッションとは呼ばないと思う。幅からいっても、形からいっても枕である。幅が三十センチぐらい、長さ一メートルぐらいで、それぞれ極彩色の人絹で、レースで縁取りした白いキャラコのカバーがかかっている。わたしたちが通された部屋には鉄製の寝台が二つあったので、この枕を渡されたときには、わたしは寝台に横になれ、という意味かとも思ったが、それは考えすぎだろう。枕を背にあてたり、肘を掛けたりして、らくにしてくれ、という意味だろう。
 窓から、もうすっかりあたたかい春の風が入ってくる。部屋の壁は地中海の水の色とおなじ、とても鮮やかなブルーに塗ってある。天上はこれまた鮮やかなオレンジ色だ。「わあ、やっぱり中東にいるんだ」とわたしは思った。
 枕をもらって、肘を掛けてみたり、膝の上においてみたりしているうちに、食事の盆が出はじめた。このときは末弟とそのつぎに若い弟がせっせと料理を運び入れる。手順も、誰がなにをするかも、全部数世紀をへた伝統の秩序としてきまっているようで、「お手伝いしましょうか」などと馬鹿げたことをいうわけにはいかない。外国人のひとりよがりの善意など、奇怪にして無用な異物として宙ぶらりんになるだけだろう。ただひたすら、そこで起こっていることがらの仕組みを理解しようとすればそれでいいのだ。
 食事は焙り焼きの鶏、さまざまなサラダ、山羊乳のチーズなど。そして、パン。パンとはいうが、それは紙のように薄く、風呂敷のように大きい。事実、大きな盆にのせられてきたパンの山は、折りたたんだ風呂敷の山のようだった。これを開いて、少しずつ切り取っては、肉片を包んだり、ソースに浸したりして食べる。適度にやわらかく、塩味がきいていておいしい。厚さは新聞紙ほどといったらいいだろうか。色はきつね色。クローディア・ローデンの本にはこのパンのことはでていない。べつにドルーズに特有のパンというわけでなく、アラブのパンの一種で、マーケットでも買えるものだという。わたしたちがご馳走になったのは、その家のかまどで焼かれたものだった。まだ温かかった。
 食事をしたのは客となって訪れた四人だけで、主人側はなにも食べない。全部きれいに食べてしまわなければいけないのか、適当に残すべきかとまよったが、中近東的な基準でいえば適当に残すべきだろう。全部きれいに平らげれば、「おまえさんがたが出してくれた食事の量は少ない」という意味になるだろう。少し残して、「ああ、もうじゅうぶんいただきました。このように気前よく、多量の食事を出されて、なんともかたじけない」と表現するのではないだろうか?
 食べていると、末弟が腕にタオルを掛けてまわってくるから、口元を拭かなくてはならない。彼はひどく厳粛な表情でまわって歩く。
 さいごにふたたびすばらしいトルコ・コーヒーが出た。到着したときには中天にあった太陽も、そろそろ傾きかけて、壁のブルーの色も天上のオレンジ色にも、わずかに翳りが出てきた。
 そこにすわってふんだんに呑み食いしていた数時間、わたしたちのまえにはついにこの一家の女性は姿をあらわさなかった。料理をしてくれたのも、料理を盛りつけ盆にのせてくれたのも、いうまでもなく、この家の女性たちだった。あのおいしい風呂敷パンを一枚一枚かまどで焼いてくれたのも。女たちは外来者のまえに姿をあらわさないことになっている。だからけっして客間に入ってはこない。階下の台所から、およめさんたちは料理を運んでくるが、それを客間のまえで、客たちからは姿を見られないようにして、男たちに渡すのだ。
 でも、彼女たちの姿はときどきちらりと見えてしまう。見えても見えないことにしておくのが、客たちの役目だろうし、見られても見られなかったことにしておくのが、その女性たちの役目なのだろう。「あらあ、見られちゃったわあ!」とさわいだりはしない。風のように、ほんとに音もなく廊下伝いにやってきて、ひらりと通りすぎてゆく。
 彼女たちは黒いベールで顔全体を覆ってはいなかった。半透明の布の白い長いスカーフを「真知子巻き」にしていた。ドレスはやはり地中海色のブルーや、レモンの黄色や、あざやかなオレンジ色。脚をかくす細いパッチのようなスラックスをはいていて、それがネオンサインのようなピンクだったりする。
 習わしどおり、わたしたち客人はその家の女性たちと顔を合わせることなく訪問を終えた。わたしがドルーズの女性だったら、いうまでもなく、男たちに混じって出かけていったりすることは許されない。よその者たちに対してはそのようなことを例外としてみとめてくれるからこそ同行できたわけだ。そのことを、当然だわ、などといわずに、わたしはなんとか適切に受けとめたいと思う。自分たちには自分たちの生きかたがあるが、他者のそれも尊重することはできるという態度のあらわれとして。
 無論、それはそんなにおめでたいことではないのかもしれない。「二十世紀の歴史に取り残されている」というような意識を、知らぬ間にどこかから押しつけられて、ふと「進んだ者たち」に妥協してしまう、というようなことであるかもしれない。断定することはできない。わたしにはドルーズの人々は誇り高い伝統社会の集団と見え、外部の者たちに鷹揚に接したところで、自分たちの秩序にがたつきがくると感じることがないからこそ、悠々としているのだと思えた。じっさいはもっと複雑なことであるかもしれないのだ。わたしは風のようにひらりと通りすぎる「真知子巻き」の女性と言葉をまじえることはおろか顔さえ合わせずにそこを辞さなければならなかった。それがやむをえないことであるかぎり、彼女たちについての判断はいっさい差し控えなければならない。垣間見た鮮やかなドレスやかくされた脚の記憶と彼女たちが用意してくれた食事の味を思い出すことのみを通して、わたしは彼女たちの心の輪郭をさぐろうとするのだが、それはとても無理である。かくして、わしたちにとって山岳の村は、手さぐりすることもできない世界のシンボルとなってしまった。


河出書房新社 1978年11月25日発行




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