『砂漠の教室線――イスラエル通信』 藤本和子

目次    


砂漠の教室 I

砂漠の教室 II

イスラエル・スケッチI
 
ベドウィンの胡瓜畑
 銀行で
 雨の兵士
 スバル
 乗り合いタクシーの中で
 鋼鉄《はがね》の思想


ヨセフの娘たち

イスラエル・スケッチII
 影の住む部屋
 悪夢のシュニツェル
 オリエントの舌

   
――言語としての料理
 オリエントの舌

   
――ハイファの台所
 あかつきのハデラ病院
 知らない指
 おれさまのバス
 建設班長
 山岳の村


なぜヘブライ語だったのか

    イスラエル・スケッチI


 ベドウィンの胡瓜畑

 ネゲブ砂漠にあるタミットという新興都市を訪れたときのことである。
 ある午前中のこと、強い日差しの中をわたしは男の人三人と一緒に砂漠を歩いていた。いくつもの砂丘をのぼったりくだったりしているうちに、わたしたちはふいにベドウィンのテントの前に出ていた。
 テントといっても、これは天幕を張って作ったものではなく、乾葉《ひば》やそだのようなものを組み合わせて作ったものだった。屋根もそういうもので作ってある。
 ベドウィンのこの住居の前に立っているわたしたち四人組の前に、とつぜん二人のベドウィンの男性がどこからともなく現われ、大声でなにかいった。アラビア語でいったので、わたしにはわからなかったのだが、同行者のイスラエル人ガブリエル(ガビ)にはわかった。
「お茶を呑んでゆかないかって、きいているよ」とガビは通訳した。
「ツヴィ、この二人はあなたの知り合いのベドウィンなの?」とわたしはたずねた。ツヴィはアメリカ生まれだが、現在はこの近くのヤミットの住人だからだ。「ベドウィンの友人はいるけど、この二人はべつに知り合いじゃないよ」とツヴィは答えた。
「お茶に招かれたら、ひとまず、ごめいわくでしょうから、と断わるのが礼儀なの?」とわたしはガビにたずねてみた。
「ちがう、断わると気分を害すると思うね」
「じゃあ、行きましょうよ。お茶を呑ませてもらいましょう」
 そういうわけで、わたしたちはこの見も知らぬ二人のベドウィンの住居に入って行った。床はなく、砂の地べたが床で、もちろん、家具などいっさいない。丸めた毛布のようなものが、二、三置いてあるだけだ。そこが居間兼客間とでもいうのか、奥のほうのうす暗いところに、地面に浅い四角い穴が掘ってあった。
 それが囲炉裏だった。囲炉裏には白っぽい光を放つ火が入っていた。年上のほうのベドウィンが、そだを細く折って囲炉裏にくべ、フーッフーッと吹くと、そだがぼうぼうと燃え上り、火が大きくなった。
 そのあたりにすわりなさい、というようなことをいわれて、わたしたちは砂地にぺたりとすわり、主人が茶を入れてくれるのを眺めていた。
 主人は若いほうのベドウィン青年に水をもってきなさい、というようなことをいったので、青年はどこからか水をもってきた。主人はアラビア文字が印刷してある袋から茶の葉を一つかみ、二つかみ取り出し、アルミのやかんにじかに入れた。
「ガビ、このお茶はどこからきたのかきいてください」
「コノオ茶ハドコカラキタモノデスカ、ゴ主人?」
「コノ茶ハだますかすカラキタ」
「そう、ダマスカスのお茶ですか?」
 茶を入れたやかんに、主人は冷たそうな水を注ぎ、それからそこへ多量の砂糖を加えた。
「茶の葉と砂糖を水から煮るのですね」
「ゴ主人、茶ノ葉ト砂糖ヲ水カラシタテルノガ、アナタガタノフツウノヤリカタデスナ?」
「サヨウ。フダンナラ、コレニ多量ノすぱいすヲ加エマスガ、客人ドモニハ強スギルト思ワレルノデ、キョウハすぱいすハ手加減シマショウ」といって彼は、ひめういきょうを一つかみ入れた。
 やかんに蓋をして、それから火にかけたのだが、火にかけるときには、ちょうど日本の五徳そっくりのものを使う。わたしは目を見張った。これはまさしく三脚の五徳ではないか!
 なぜ、ネゲブ砂漠のベドウィンと日本人がまるでそっくりの五徳を使うのか? 頭に血がのぼってしまった。でも、そんな様子は見せず、同行の男性三人に「このやかんを支えているものは、日本で使うものにそっくりですよ。第一、この炉がだいたい不思議です」といった。三人は日本人ではないので、あまりピンとこないようで、そりゃ人間が使う道具だ、似たものはいくらでもあるだろうさ、というさりげない態度だ。
 これは五徳である、これはたしかに五徳である、でもなぜ、ネゲブ砂漠のベドウィンがあたしたちと同じ五徳を使う? とわたしは心の中でくりかえした。
 ベドウィンの男たちが囲炉裏のかたわらにすわるそのすわりかたも、ペタンと折った脚を開くような恰好で、それがまた不思議だった。西欧系の三人の男性はあぐらをかいていた。わたしはどう坐っても気持がぴったりしなくて、もぞもぞ動いては、なんとなく誤魔化すような、あいまいま姿勢で坐っていた。
 ベドウィン男性二人とガビが色々話していたが、話の内容は「住居」に関するものだった。「オレタチハココニスデニ十八年モ住ンデイルゾ」と彼らはいった。ガビは英語で、「やっこさんは十八年といっているが、彼らは数を数えることはできないのだから、十八年というのは、きわめて長い歳月という意味だな」といった。
 ガビが「コウイウ小屋ジャナクテ、チャントシタ家ガ欲シイト思ウカ」とたずねると、主人の目の色がさっと変り、「欲シイガ自分デ建テタ家ジャナクチャイヤナノサ」といった。
 あとでガビに聞くと、主人はガビがイスラエル政府の役人かなにかと考えたらしい、つまり、イスラエルの政府がベドウィン対策として集団住宅を建てたり、いま住んでいるところから追い立てたりするのではないか、とひどく警戒の色を見せた、ということだった。
 主人がわたしを指さし、ガビにたずねる。
「コノ女ハドコカラキタノカ?」
「コノ女ハニホンカラキタノダ」とガビは答える。「ニホン、テキイタコトアルカイ?」
「アルトイエバアルヨウナ、ナイトイエバナイヨウナ。デモ、ドウセ遠イトコロダ。知ッテテモ知ラナクトモ、オレニハ同ジコトダナ」
 わたしはなるほどと思った。
 やがて湯がたぎり、お茶ができ上った。ガラスのコップは三個しかない。コップは洗ったままで濡れていたので、だから主人が指をつっこんで、内側をぎゅうぎゅうとこするようにして水分を取り除いた。布巾はないのだな。指が「人間布巾」だ。水分を取り除いたコップに濃く出た甘いお茶を注いでくれた。おかしなことだが、わたしたち四名が、どのような順序で三つのコップを使ったかいまはどうしても思い出せない。
 わたしはいつも、それまでに接触したことのない民族の家を訪れると、そこでは女はどう振る舞い、どうあつかわれているか、ということにまず関心をもつのだが、このとき、どういう順序で四人が三つのコップを使ったか、どうしても思い出せない。ベドウィンは回教徒やドルーズと呼ばれる人々とちがって、宗教的な束縛を自らにあまり課さないので、宗教的な束縛や教理から派生してくる異性間の礼儀や禁忌や不平等からもかなり自由であるように見える。遊牧生活というものが本来そういう傾向を生むものなのだろうか。同時に、なんとなくベドウィンには折衷的な感じもある。
 たしかに、一番最初にお茶をもらったのはわたしではなかった、というところまでは記憶があるのだが、その先がふっつりと思い出せない。どうも、ガビかなんかが仲介者的にふるまって、二つ目か三つ目のコップをくれたようが気がする。
 しばらく話をしていると、ベドウィンの若いほうが主人になにかをいい、主人もそれに答えるというやりとりがあって、若いほうが席を立った。若いほうはここで働かせてもらっているというような感じだった。話を総合すると、主人格のほうは独身で、若いほうには妻子がある、ということだったが、妻子はどこにいたのだろう? どこかべつのテントに暮していたのだろうか? 黒々とした大きな目の、若いほうのベドウィンには、美しい小姓のような感じがあって、この男性二人のあいだにはなにがあるのだろうかと、わたしは気をまわした。
「男が二人だけで砂漠に暮してる、一人はベドウィンとしては異色の独身です、きっとなにかあるのよ」とわたしはいった。なぜ、彼にそれほどの自信があるのか、よくわからない。「ありえない!」だなんて――。
 やがて、先ほど外へ出ていった若いほうが、外でなにごとかを叫ぶと、主人も大急ぎで出ていった。どうしたんだろう、といいあっているわたしたちのところへ主人がもどってきて、「山羊ガ子ヲ産ンダノダ」と報告した。見たければきなさい、ということだったので、小屋を出て、ぐるりと裏へまわると、七、八頭いるうちの一頭がいまちょうど子山羊を産んだところ。母山羊はまだ血を流しながら、それでももう懸命に子山羊のからだを舐めてきれいにしてやっている。産んだばかりで、痛くはないのだろうか、とわたしは思ったが、母山羊はただもうせっせと子山羊を舐めている。その母山羊を手伝うようにして、若いほうのベドウィンがボロ布でやはり子山羊を拭いていた。子山羊の姿は一頭しか見えなかったが、かたわらに濡れたかたまりのようなものが落ちているので、これはなに? とたずねると、誰かから、死産の子山羊だ、という答がかえってきた。母山羊はそれには見向きもしない。死産の子山羊は母山羊に舐めてもらっている子山羊のおよそ半分ぐらいの大きさで、黒ずんで、ドブから拾い上げたベルトみたいだった。死産の子山羊を見て、わたしは落ち着きを失った。細く黒ずんた、死んだ子山羊。ついに目を閉じたまま、それこそ胎内の闇から、砂漠の闇にすてられる子山羊。
 母山羊にきれいにしてもらっているほうの子山羊は、もうすでに目を開け、立とうとさえしている。なんだかあまりにあっけない即席的な誕生風景で、それがまた奇妙だった。若い黒々とした美青年のベドウィンが死んだほうの子山羊を足をつかんでぶら下げて行った。
「いやだ」とわたしはいった。
「神は与え、そして奪う、というじゃないか」とかしこい男が答えた。
 子山羊はもう立ち上り、ゴクゴクと乳を呑んでいる。
 二人のベドウィンは全然なにごとも起こらなかったかのように、日程のつぎの作業にとりかかろうとしていた。三頭の駱駝を、つないであった柱から解き放つ。お茶の時間はもう終りだ。
 はだしで、長い黒っぽい服を何枚も重ね着した二人のベドウィンは大声でかけ声をかけながら、駱駝を引いて砂丘をのぼって行った。あとに、強い日差しの中、砂地に広げられた何枚ものシャツや上着や外套の洗濯物が残された。
 そして、胡瓜の畑に無造作にかけられたビニールが砂漠の太陽に白く反射していた。イスラエルの砂地で胡瓜の栽培をするときは、気温を保ち水分の蒸発をふせぐためだと思うが、いわゆるビニール栽培をする。ユダヤ人のキブツ農場では、ちゃんと骨組を作って、それにビニールの覆いをかぶせるから、それらは丈の高い簡易温室といった感じで、整然と秩序立って、見た目にも恰好いい。ところが、ベドウィンの場合は骨組もなにも作らず、胡瓜の上にただドサリとビニールをかぶせてあるだけなのだ。誰かが誤まって落として行ったビニール・シートが、風に舞い、胡瓜の畑に飛んできて、偶然胡瓜の上にかぶさった、という感じだ。
 それがわたしには現在のイスラエルに住むベドウィンの生活を象徴的にあらわしているように思えてならなかった。
 ベドウィンとはもともとアラビア砂漠の遊牧民をいう名称だ。お茶をご馳走してくれた砂漠の住人は、「スデニココニ暮シテ十八年」といった。遊牧生活をすてて久しいわけだ。そのうちに胡瓜なども栽培するようになった。農耕生活は彼らの生活にとっては一大変化であったはずだ。胡瓜の栽培も、「先進的農業」がやってるのを真似て、ビニールをかぶせた。
 でも、ビニールはただ「おっかぶせて」あるだけだし、胡瓜を栽培しているといってもほんの二、三列、おしるし程度に植えてあるだけである。全力で同化もしないし、全力で能率的な農業をするわけでもない、かといって伝統的な遊牧生活を守るというわけでもない、その態度がわたしにはおもしろく思えた。工業や化学農業が砂漠を少しずつ変えてゆくのを見てきた彼らは、たしかに変化が彼らの伝統的な生活様式をおびやかしはじめたことに気づきはしたが、永劫回帰のリズムと周期のうちに営まれてきた遊牧生活がすっかり終るだろうとはまだ信じていないのかもしれない。
 通りすぎる自動車の窓から、砂地に子供たちと山羊を従えて、黒い長い服をつけ頭をおおいかくしたベドウィンの女が、じっと身動きもせず立っているのを見かけたりすると、わたしだってその女はもう何千年もそうしてそこに立ちつくしてきたのだと考えてしまう。そして、明日も、そのつぎの日も、やはりじっと身動きもぜず立ちつくしているだろうと。まるで絵のように。
 砂丘を斜めに降りてゆくベドウィン一家の姿を見かけたこともある。夕方で、陽はすでに低く傾き、彼らの長い影が砂に落ちていた。それもまるで絵のようだった。
 でも歴史は絵ではないのだろう。その証拠が砂漠におしるしばかりに植えられた胡瓜であり、それにバサリと無造作にかけられたビニールだ。
 ただ、まさしくその胡瓜畑がおしるしばかりの気のないもので、ビニールもどうでもいいように放り出すようにかぶせてあることが、彼らの「マア、ドウデモイインダケド一応ヤッテミルカ」というような、あまり思いつめたところのない、なんとなく行きあたりばったりの気風があらわれているようでおもしろいと思った。
 気乗りのしないことを丸出しにしていることがおもしろい。砂地に洗濯物を全部平らに広げることで洗濯物を乾燥させるという、悠久の時間を通過してきたその光景と、胡瓜畑のビニールが、強い日差しの中に並んであったそのありさまが変に心に残っている。


河出書房新社 1978年11月25日発行




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