『砂漠の教室線――イスラエル通信』 藤本和子

目次    


砂漠の教室 I

砂漠の教室 II

イスラエル・スケッチI
 ベドウィンの胡瓜畑
 銀行で
 雨の兵士
 スバル
 乗り合いタクシーの中で
 鋼鉄《はがね》の思想


ヨセフの娘たち

イスラエル・スケッチII
 影の住む部屋
 悪夢のシュニツェル
 オリエントの舌

   
――言語としての料理
 オリエントの舌

   
――ハイファの台所
 あかつきのハデラ病院
 
知らない指
 おれさまのバス
 建設班長
 山岳の村

なぜヘブライ語だったのか

    イスラエル・スケッチII

 知らない指

 イル・アティカとは壁に囲まれたエルサレムの旧市街のことだが、この市街にある店の大多数はアラブ人の店である。石畳のせまい街路の両側にびっしりと店が並んでいて、男たちがさかんに客を呼んでいる。たいていそこは大変な混雑だ。店の裏側には中庭を囲むようにして住宅がある。イル・アティカは観光客のためにあるわけではない。見えない中庭をぐるりと取り囲んで、生活があるのだ。もめんの上っぱりを着た、大きな黒い瞳のアラブ人の子供たちが、その背にカバンを背負って学校から帰ってくる。手押し車に子羊の死骸を山盛りにして、それを押しながらゆるい勾配の石畳の上を行く男がいる。うろうろする観光客たちを「ホラ、ホラ、ホラ」というように聞こえる言葉で押し分け、押しのけて、皮をすっかり剥がれて桃色の肌をさらしている死んだ子羊たちの山盛りを運んで行く。靴の修繕を専門にやっている店では、二人の職人が昼の食事の最中だ。店は間口半間、奥行一間くらいだろうか。そのとなりの木の実専門店では、おかみさんが木の実を全部数粒ずつ試食してみている。
「そんなに食っちゃこまるな、おばちゃん、商売あがったりだ」
「うるさいね。味のよしあしも知らずに買うわけにゃいかないよ」
 店員とおかみさんのやりとりはそんな内容だろうか?
 旧市街へ行くと、わたしはただただ圧倒されてしまう。手押し車に山盛りの羊の死骸や、トルコ・コーヒーのすばらしい香りや、甘いお菓子の陳列された店頭や、店員が客を呼ぶ声や、生肉の湿り気をおびた重いにおいや、無数の旗のようにぶら下がっているベドウィン婦人の中古ドレスの鮮やかな色たちがいちどきに襲ってきて、一つのことに集中することができない。らばが絵本で見るようなやさしい目をして、振り分けになった袋を下げてゆっくりと歩いている。およそ二千年の昔、長く執拗な抵抗をついに打ち砕いてローマ軍がこの都市を陥落させた。そのとき流された血がこの石畳を洗ったのだ。らばはまるでその二千年をここで生きてきたのではないかと思うほどに歴史的自信に満ちている。
 アメリカ人のヒッピーが真鍮のトルコ・コーヒー・セットを値切っている。イギリス人のヒッピーが見事な刺繍のブラウスを値切っている。ぼんやりしていたら、いきおいのいいアンチャン風につきとばされた。
 運動靴をはいて、軽いスラックスを着けて、ばかばかしい帽子を被っているアメリカ人の団体。髪などもきちんと結い、固苦しいような服装をしている女たちの一群は「復活祭」を聖地で祝うためにやってきたドイツ人のクリスチャンの団体さんだが、なぜこの人たちからはひそやかに獰猛な「邪教的」なにおいが立ちのぼるのだろう?
 できたての、ピタと呼ばれるパンを高く積み上げた盆を頭にのせて、人混みをかき分けて行く青年。オマー・シャリフみたいだ。ドンと人にぶつかったりするが、頭の上のパンだけは安定している。香ばしい香りは、ピタについたごまのそれだ。なんだか、すっかりからっぽになってしまったような気持で、ふらふら歩いているわたし。
 わたしは旧市街をいくどか訪れたが、ついに最後の機会までは買物をすることができなかった。石畳の上で起こっていることの色彩や音やにおいにすっかりぼんやりしてしまうし、そんなときに立派に値切って買物なんかできやしない。イスラエルを去る数日まえ、最後だと思って旧市街へ向ったときも、買物をするだろうとはあまり思っていなかった。おみやげなどもどこかで買い揃えなければならないことは承知しつつも、どうせあそこへ行けばぼんやりしてしまうばかりだから、と思っていた。
 その日、わたしたちは三人連れだった。わたしの夫とその弟とわたしだ。金曜日の午前中のことで、例のごとくダマスカス門から入って行ったが、なんだかいやにシンと静かなのだ。閉っている店も多い。八百屋や肉屋やパン屋など、生活の店が閉っている。どんどん街の奥へ入って行くと、それでもみやげ物屋風のところはだいたい開いている。そう、そういえば、金曜日は回教徒たちの安息日だった、とわたしたちも思い出した。ふつうの日は、彼らは祈りの時間がくれば、メッカに向いて祈りを捧げればいいのだが、金曜日はモスクへでかけて行かなければならないことになっている。それで、こんなに静かなのだ。
 歩いていても全然人にぶつからないし、腕を引っぱられて店へ連れこまれそうにもならない。「地には平和……」である。勾配の街路の上へ下へ、見通すことまでできる。店頭のギラギラした裸電球たちも消えていて、石の街はほの暗い。
 押す人たちもいないし、トルコ・コーヒーのにおいに酔うこともないしで、わたしたちはみやげを買ってみようかと相談した。ここでは値切らないで買うということはない、と聞いている。値切ることを前提にして値段がついている。値段は浮動価格だ。観光客はばかにされていつだって高すぎる値段で買ってしまう、ともいわれている。じゃ、やってみるか、ということで、わたしたちはアクセサリー屋へ入った。
 デイヴィッドがどんどん値切っている。このヒトずいぶん堂々とやってるな、と思ったら、弟もあきれたようにして見ている。そんな値段ならいらないよ、といいすてて店を出ると、追いかけてきて、よし、あんたのいい値でいいや、しかたねえや、といってこちらのいうとおりになることもある、と聞いていたからかどうかわからないが、わたしたちも、そんならいらないよ、といって店をスタスタと出たが、そのあとを揉み手をして追ってくる者はいなかった。値切ったり、ふっかけられたり、たいした物も買わないのに、けっこうおもしろおかしい思いをして二時間ぐらい、石畳を上ったり下ったり、西へ行ったり東へ行ったりしていたが、やはりその日のハイライトは最後に中古のドレスを買ったときのことだ。
 服を買うつもりなんか、ほんとは全然なかった。あれこれみやげなど買って、ああ、おもしろかったと思っているうちに、ついあちこちぶら下っている長いベドウィンのドレスを見ていたのだ。よく見ると、それらのドレスの刺繍がとても美しい。どれだけの時間をかけてほどこされたものだろうか? 胸と肩と袖とスカートにそれぞれこまかい刺繍がしてある。手でした刺繍だ。服そのものは、あちことしみがついていたりして、着古されている。わたしが買ったものも、袖口などはなんどか繕われたらしいあとがある。
 買おうか? 高いかな。
 買えよ、買っていいよ。
 きっと似合うよ、姉さん。
 じゃ、いくらか聞いてみようか?
 わたしがわたりあった相手は子供だった。一〇歳ぐらいの男の子だ。彼はわたしがドレスに興味をもっているらしいと察して、店頭につり下げられている長いドレスたちの行列のまえに立つと、どれがほしい、とたずねた。英語である。どこで英語をおぼえるのだろう、とわたしは思った。
 まだ、眺めてるだけで、よくわからないけど、これなんかいくら?
 六百ポンド。
 六百ポンド? これが? ねえ、あんた、あたしにそんなお金があると思うの?
 あるさ、そのくらい。
 六百ポンドじゃ、買わない。三百にしなさい。
 三百たあ、ひどい。せめて五百でカンベンしてくれ。五百だって、掘り出し物だよ。
 五百。だめね。三百よ。
 きついひとだ。四百。
 三百。
 ええい、しかたない三百。
 でも、あたし、ほんとはこっちのほうがきれいだと思う。これはいくら?
 これはちょっと格がちがう。八百だってまけてあるんだ。
 八百?! じゃ、だめね。あたし、そんなお金あるように見える?
 見えるよ。
 八百じゃ、とてもだめね。まけなさい。
 七百。大出血で七百だ。
 とても、とても。それじゃ話にならない。さっきの三百になるのなら、これ四百でいいはずよ。四百。
 そんな無茶な。これは別格なんだ。全然ほかのとちがうだろ? 六百。
 四百。四百。
 ねえさん、あんた、くにはどこなんだい?
(なぬっ? 小僧め、あたしのくにがどこだって、そんなことあんたの知ったことかよ、とややムカッとして、わたしは)
「あててみな(guess)」といった。
 すると、少年は、
「ねえさんは『あててみな(guess)』のくにからきたんだ。だから、特別に五百にまけたっ!」といったのである。
 Guessという名のくにがあると思ったのだ、この少年は。だいいち、そんなくにがあったってなくたって、彼にとってはそれがどうだというのだ? わたしがにほんというくにからきた、と正直にいったところで、彼にとってそれがどうだというのだ?
 彼は商業英語をマスターしていたのだ。実地の訓練によって「すぐに役立つ実務英語」をマスターしていたのだ。
「ねえさんは○○のくにのひとだから」というのが、駆け引きの最終的パンチラインときまっているのだ。パターンがちゃんとあるわけで、フランスからきた、と答えれば、「ねえさんは、フランスからきたんだから、特別に……」となるわけで、くにの名前のところが空白になっているパターンがあって、わたしがちゃんと予想通りに答えなかったことに気づかず、すかさず「あててみなのくに」と、それを空白にあてはめた。お見事。一本とられたのはわたし。「あててみなのくに」からきたわたしは五百ポンドでその白地に驚異的な刺繍があるベドウィンのドレスを買った。現金をちらつかせて、その肉体から剥ぎとるようにして買い取られたにちがいない白い長いドレスを。知らない指が熱い砂漠の昼下りの夢を縫いこんだ。知らない指が、こんな市場での観光客の紙幣でいとも簡単に買われることになるとも知らずに、気の遠くなるような時間をかけて、色糸で縫い取った。砂漠の風に乾ききった指は、この白い生地の上に血を流さなかっただろうか? 「あててみなのくに」からきたわたしが一人の少年から買い取ったこのドレスは、すかしてみるとはっきりとしみが見える。料理をしながら、山羊の世話をしながらついたしみだろうか? 働くときに、白いドレスを着るだろうか?
 シナイ砂漠の砂丘いちめんに広げられたベドウィンの洗濯物のことを思う。物干し竿など使わずに砂地にじかに洗われた衣類を広げておく方法だ。地熱と太陽の熱を受けて、洗濯物はすぐ乾く。
 からだも頭もすっかりおおった母親が大勢の子供となん頭かの山羊を引き連れて砂丘を降りて行く。陽は傾き、砂丘にいくつもの長い長い影を落として、一千年の昔の風景さながら、母子と山羊の一団が遠ざかる――。
 知らない指のあるじのことを思う。
 砂塵に目を細める女たちの夢と肉体がとても遠く、わたしが買ったドレスはやはりいまでも彼女たちのもので、ついにわたしのものになることはないだろうと思いながらも、縫い取られ縫いこまれた針仕事のうちに、わたしはメッセージを読み取ろうとするのだが――。


河出書房新社 1978年11月25日発行




本棚にもどるトップページにもどる