『砂漠の教室線――イスラエル通信』 藤本和子

目次    


砂漠の教室 I

砂漠の教室 II

イスラエル・スケッチI
 ベドウィンの胡瓜畑
 銀行で
 
雨の兵士
 スバル
 乗り合いタクシーの中で
 鋼鉄《はがね》の思想


ヨセフの娘たち

イスラエル・スケッチII
 影の住む部屋
 悪夢のシュニツェル
 オリエントの舌

   
――言語としての料理
 オリエントの舌

   
――ハイファの台所
 あかつきのハデラ病院
 知らない指
 おれさまのバス
 建設班長
 山岳の村

なぜヘブライ語だったのか

    イスラエル・スケッチI

 雨の兵士

 
その日はどしゃ降りの春の安息日だったが、わたしたちは車でガリラヤ湖へ向った。わたしの夫とその父親とわたしの三人である。目ざすはキブツ「クファール・ハナシ」。クファールとは村、ハナシとはかの大統領という意味だが、かの大統領とはイスラエル初代大統領ハイム・ワイツマンのことである。つまり、このキブツはワイツマンにちなんで名づけられたキブツである。イギリス系の人々がその成員の中核だ。
 イスラエルの雨期は晩秋にはじまり、春まで続く。北はすっかり緑色で、ぬれた森のかなたには野生のシクラメンが群生している姿が見える。わたしにとって、シクラメンといえば鉢植えで、玄関の靴箱の上に飾るもの、買うときは銀紙に包んであって、布施明が歌う花だ。野生のシクラメンといえば、わたしはイスラエルへくるまで、そのようなものがあることさえ知らなかったので、ハイファの借家の庭にその花々を見つけたときは、ほんとうにびっくりしてしまった。花は一重で、白とピンクの二種あるが、萼の近く白の場合ピンクで、ピンクの花の場合はずっと濃い目のピンクで、色の境界はぼかしのようになっている。花の大きさは土壌の質などによって異なるようだが、わたしの借家の庭のそれは丈が四センチぐらい、先のもっとも太い部分の直径が三センチぐらい。茎の長さは十センチぐらい。葉は厚く、平均、長さ九センチ、幅七センチぐらいだろうか。予想もしてない花をある日突然見つけて、わたしはあらためて、ここの人々はわたしが体験したことのない季節を、まったく異質な周期をくぐって生きているのだと感じた。野生のシクラメンの開花は、雨期の終りが近いことを告げ、目まぐるしく変化する野生の花々の開花を予告するものだ。シクラメンが終る頃、野には野生のグラジオラス、けし、豆科の花々、デイジーなどが、ある一定の順番を正確に守って咲く。とつぜん暑い日があったりすると、野の様相は一挙に変化し、昨日まで咲いていた花々はすっかり立枯れて、それまで姿さえなかったと思われる新しい花々がいっせいに咲いてしまったりする。そんなとき、その変化の烈しさに、わたしは「わたしの庭」は狂っていると思った。そういう気性のはげしい、こちらが予想を立てることを拒むような季候はわたしが育った風土にはない。昨日まであった野生のにんじんの花、「アン女王のレース」がすっかり消えて、とげっぽい葉に守られたまっ黄色な名もわからない、強そうな花ばかりが一面に庭を覆っているのを見た朝、わたしはひどく気持が乱れた。そのとき、ふと、わたしはベドウィンの女たちのことを思った。あの女たとが、真夏でも黒い長い服を着て、腕を露出させず、頭もすっかり覆っているのは、なにも暑さから身を守る、というような合理的科学的な理由、あるいは「女としての場をわきまえるよう」にアラブ社会から押しつけられた非人間的拘束の結果だというような理由だけではなく、気持の平衡を守るためではないかと考えてしまった。女たちは気性の烈しい、めまぐるしく変化する温順ではない自然からその心を守るために、頭から爪先まで黒く思い布で覆って、みずからの内なる世界を包みこんでしまうのではないか。狂ったような野を眺めているうちに、自分も狂ってしまうかもしれないではないか。
 シクラメンが咲いていた、と書いて、狂気の春の庭のことに脱線してしまった。もう一度、どしゃぶりの安息日のことにもどろう。
 ちょうど、ツファットへ向う道を走っているときだった。道路の曲り角になっているところに、一人の兵士が立っていて、わたしたちの車に止まれという合図をした。わたしたちが、なにごとであるか、わたしたちをアラブ・ゲリラと誤解したのか、と思いつつ、ともかく車を止めると、兵士は車のうしろのドアを開けるように合図する。後座席にすわっていたわたしは、指図どおりにドアを開けた。すると、兵士はそのまま車に乗りこんできて、ツファットまでゆきたい、といった。
 なんのことはない、この兵士はヒッチハイカーの兵士だったのだ。ゆるぎない威厳をただよわせて、止まれの合図をするから、こちらが勝手にパトロールの兵士だと思いこんだだけだ。
 考えてみれば、安息日や安息日がはじまる前にヒッチハイクする兵士たちは、いつだってゆるぎない自信をもって、合図する。止まりたまえ、という感じで。それは安息日そのものと関係があることだ。
 イスラエルでは、とりあけ若い人々は宗教や信仰について、口ではいやに割り切っている。彼らは「信仰のない者」と「信仰のある者」というように、全人口を黒と白にわける。ところで、「信仰のない者」というのは、表面的には、神を信じない、神がモーセを通じて与えた法を守らない、すなわち、宗教的な意味のユダヤ人らしさを意識的にすてている、という意味だ。そりゃ、自分たちはユダヤ人だ、だって、祖父も父も、祖母も母もユダヤ人だからな。だが、それが意味するところは、あくまでも歴史的・社会的だ、と断言する。むしろ、ユダヤ人であることは偶然みたいなもので、べつに非ユダヤ人と世界観や価値観の上で異なるところはありはしない、という。
 彼らによると、いっぽう、「信仰のある者」とは、モーセの法を、すなわちタルムードによって解釈され体系化された「トーラー」(律法)をできるだけ字義どおりに守ろうとする、時代錯誤者、保守主義者だということになる。そりゃ、人間は自分が正しいと思うことをすべきだから、彼らがそありたいと思うなら、それも連中の自由だが、と彼らはつけ加える。
 表面的には、この「信仰深いユダヤ人」と「信仰なきユダヤ人」は、たがいに疎外され、共有する部分をもたずに暮しているかのようだ。もちろん、それはあくまでも、「信仰なきユダヤ人」と「信仰深いユダヤ人」というふうに、人口を二分することは可能だ、と考える人々の話を聞いているとそういう感じがする、という意味にすぎない。
 といっても、現実そのものは流動的だ、というわけでもない。いわゆる正統ユダヤ主義派と呼ばれる、おそらく、二〇パーセントほどのイスラエル人は、そうでない人々に対して実質的な影響力をもっているようには見られない。精神的な指導者である、とはとうていいえない。彼らは歴史とどう関わればよいかを身をもって示していないし、逃げている。ひどいいいかたをすれば、いまが二千年前のパレスチナであるふりをして生きている。それが真の意味でユダヤ的ではないかもしれない、とは考えない。「メア・シエリム」と呼ばれるエルサレムの一郭には、きわめつけの正統派イスラエル・ユダヤ人が住んでいるが、その一郭を見て衝撃を受けるのは、それが東ヨーロッパの都市にあったユダヤ人・ゲットーを彷彿させるからだ。その一郭全体が壁で囲まれたように造ってあって、門を入って、はじめてそこに人々の日常生活があることがわかる。閉ざされたゲットーの構造そのものが再現されているのだ。これを建てた人々は、ゲットーの構造以外に、街というものを知らなかったのかもしれない、とも思う。だがいっぽう、もしかしたら、これは意識的な身振りであったのかもしれないとも思う。みずからを外に対して閉ざすことを、彼らはそのとき選び、いまも選び続けているのではないか、と。もし、そうだとしたら、これら、きわめつけユダヤ人たちは、もっともユダヤ的でないユダヤ人だ。
 人口を白黒に分別せずにいられない青年たちは、そのことをおそらく嗅ぎとっている。けれども、そのにおいを鼻に覆いつつも、では、いまユダヤ的であるとはどういうことか、という問に対して彼らは答えるすべを知らない。いや、言語化するすべを知らない、というべきだろう。
 あるいは、おそらく、「ユダヤ的であるとはどのようなことを意味するのか」という問を問い続けることが、もっともユダヤ的な行為である、ということを意識していない、といえるかもしれない。彼らは妥当な問を自らに投げかけることができるかどうかという、ユダヤ的試練そのものから疎外されているようだ。
 だが、そうであるにしても、言語化されもせず、意識の表層に浮上しないことの多くが人間の生活を支配している、ということも事実だ。「信仰深いユダヤ人」たちは問うべき問を問うことをやめてしまい、「信仰なきユダヤ人」たちは問が問われなければならないということも知らされずに生活しているにしても、イスラエルはまさしくユダヤ人の国である。彼らの暮しはユダヤ的なものに支配されている。
 ここでようやく、わたしは安息日の兵士たちのヒッチハイクについてのべbることができる。
 安息日は金曜日の日没からはじまり、土曜日の日没とともに終る。習慣では、日没十八分前に安息日を迎える蝋燭を燈し、安息日を送る祈祷は土曜日の日没からおよそ半時間後に行なわれる。カバリスト(神秘主義者)たちは、安息日を花嫁と女王にたとえ、「花嫁を迎えよ。女王を迎えよ」と歌ったが、それがいまではカバリストのみでなく、安息日の前夜の礼拝で一般的に歌われるようになっている。
 アブラハム・ヘシェルは「安息日」を時間の城にたとえた。ユダヤ人は神殿ももたず、礼拝のためだけの教会というものももたず、偶像を置く城ももたない。彼らは時間の中に城を構築する、という。空間に聖域を設けるかわりに、時間に聖域を設けると。時間は構造を与えられ、識別され、区別される。時間は実体となり、ユダヤ人はある一つの構造をもつ時間から、異なる構造をもつ時間へ歩み入る。そこを立ち去るときがくれば立ち去るが、彼らはそこをふたたぶ訪れることができることを知っている。
 安息日はユダヤ主義の教えの中でも、中心的な位置を占めるものだとわたしは思うが、イスラエルはその安息日を守ることによって、きわめて特異な時間を毎週経験するのだ。それが特異であるのは、「休む」ことにあるのではない。「休む」ことなら、べつにユダヤ人でなくたってする。安息日とは、「第七日」、すなわち神が天地創造を終了したといわれる「第六日」の次の日で、神もその日は「休んだ」ということだ。その後、シナイ山で神はユダヤ人たちに、七日目は休め、創造の記憶を新たにするために休め、と命じた。「休め」とはどういう意味か。「七日目を聖なる日とせよ」とも書かれている。「聖なる日」にするには、どうすればよいか。あるラビは、創造的なことはするなという意味だと語る。人間がなにもしなくたって、天地は機能することを認識するための日だ、謙虚になる日だ、と。
 ユダヤ人はさまざまな解釈と意味づけを行ない、週の第七日を構造的に他の日とは異なる日にしようとしてきたのだ。ヘブライ語では月、火、水というような週日の呼び名はなくて、第一日、第二日というふうにいう。第一日とは第七日の安息日から数えて第一日目、すなわちクライマックスの翌日、次のクライマックスからもっとも遠い日である。
 安息日には、週日は「犬のように」働く人間も王のようにふるまわなければならない、といわれている。週日はたとえ「犬のように」尊厳を奪われて暮しに追われようと、安息日には神のイメージに似せてつくられたという人間にふさわしく、苦しみや小さな野望を忘れて生きろ、といわれている。
 そう、それはたしかに時間の城であり、時間の聖域だ。もっとも深い意味で、「宗教的」な時間である。
 イスラエルでは、安息日にはすべての店がその扉を閉め、すべての公共の交通機関が止まってしまう。よそからやってきた者でも、うっかりすると、土曜日に冷蔵庫には食べる物が全然ないのに店へいって買うこともできないという経験をくり返すうちに、しだいに安息日に向けて具体的に準備をする習慣を身につけるようになる。具体的な準備にはやがて心の準備がともなうようになり、知らないうちに、よそ者ですらこの「第七日」のクライマックスに向けて暮すようになるのだ。
 もっとも深い意味で、またおそらくは言葉の真の意味で「宗教的な」構造をもつ第七日を安息日とすることで、イスラエルはその意識の深奥にユダヤ性を保っている。第七日は土曜日で、彼らの第一日目はわたしたちの日曜日にあたるが、わたしたちの日曜日はかれらにとっては、月曜日である。日曜日、かれらの生活は週日の、ふつうのそれにもどる。世界じゅうが休んでいるときにだ。
 また、すっかり脱線してしまった。雨のヒッチハイカーのことにもどらなければならない。脱線したのは、その兵士にはヒッチハイクするよりほかに、どのような帰省手段もないということを説明するためだった。それともう一つ、兵士たちはヒッチハイクの車を十回乗りついでも、安息日にはなんとかして家へ帰るということである。わたしたちが車に乗せた兵士は、その日の朝、ずっと南のアシケロンの隊を離れ、家へ帰るところだった。翌日の朝までには、また隊へもどらなければならない、ということだった。これでは、たしかに安息日は「休む日」だなどとはいえない。そう感じながら、兵士たちはそれでも家族のところへもどる。
 兵士は花をかかげて家へ帰る。彼らは皆一様にひどく若い。一八歳から二一歳までの、少年のような兵士ばかり。髪を短かく刈りこんだ、ひきしまった細いからだの若い兵士たちが、制服を着て銃を肩にかけ、腕に花束をかかえて家へ帰る。金曜日の午後の高速道路傍には、こういう姿の兵士が無数に手を上げて立っている。いや、手を下げて、というべきか。彼らはアメリカ人のように、親指をつき立てて方角を示したりしない。地面を指差すように腕を斜め下にのばして立っているのである。
 花束をかかえた子供のような顔つきの兵士たちは、金曜日の風景の一部である。「信仰深き」正統派の男たちが清く安息日を迎えるべく「みそぎ」場へ急ぐ姿と同時に、それは安息日の一部である。
 
 それにしても、この雨の安息日の兵士は、ヒッチハイクをしたいという希望を表現する身振りをしつつ山中の道に立っていたというよりは、ちょうど検問中のMPかなにかのような恰好でわたしたちの車を止めた。わたしたちは検問だと頭から思いこんで停車した。だから、そのMPはずの兵士がもそもそと車に乗りこんできたときには、一瞬度肝を抜かれた。すぐに彼の行動の意味はわかったが、もうそのときはすでに「検問だと思ったから止めたおですよ。降りてください」というには遅すぎた。新聞にはしじゅう「兵士を車に乗せてやりなさい!」というキャンペーン広告が出ているのだから。
 湿ったカーキ色の制服のその若い兵士からは不思議なにおいが立ちのぼっていた。錆のようなにおいだ、とわたしは思ったが、でも、錆のにおいであるはずはない。銃は磨きこまれているはずだ。いやしくも兵士の銃である。きっと、これは銃の鉄分のにおいだ、とわたしは思った。銃のにおいをかぐのは、わたしは生まれてはじめてだった。それは鼻をつくきついにおいで、なんか歯ぐきが刺戟されるような性格のものだ。小型車の湿った空気いっぱいに、銃のにおいが満ちた。
 わたしはヘブライ語で兵士と話していたが、とつぜん彼は「わたしは英語もしゃべれますよ。英語でしゃべってもいいんですよ」といった。わたしはどう答えていいかわからないので黙っていた。彼はたしかに若い兵士だったが、徴兵年齢の一八歳から二一歳という年齢層にはすでに属してはいないように見えた。けれども、銃のにおいに混ざって立ちのぼる兵士のからだのにおいは、日向で一日じゅう遊んできた子供のそれのようなにおいでもあった。
 やがて彼は車を降りていった。わたしたちの車が彼の目指す方角から右にそれていったからだ。彼が降りていったあとも、車のなかには鉄のにおいが残っていた。
 わたしは前の座席にすわっていた夫と夫の父親にいった。
「とうさん、もう兵隊はひろわないで」
「なぜかね?」と夫の父親がきく。
「鉄砲のにおいがきつくてたまらないから。だからもう兵隊はひろわないで」
「いいとも。でも、あれは鉄砲のにおいじゃない。鉄砲を磨く油のにおいだよ」
「そうなの。でも、いやだ、あのにおいは」
 どしゃ降りの安息日の雨が運ぶ湿気が車のなかに満ちて、そのただなかに、兵士が残していった鉄のようなにおいと日向で遊んできた子供のようなにおいが、じっと身動きもせずすわり続ける。


河出書房新社 1978年11月25日発行




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