『砂漠の教室線――イスラエル通信』 藤本和子

目次    


砂漠の教室 I

砂漠の教室 II

イスラエル・スケッチI
 ベドウィンの胡瓜畑
 銀行で
 雨の兵士
 スバル
 乗り合いタクシーの中で
 鋼鉄《はがね》の思想


ヨセフの娘たち

イスラエル・スケッチII
 影の住む部屋
 悪夢のシュニツェル
 オリエントの舌

   
――言語としての料理
 オリエントの舌

   
――ハイファの台所
 あかつきのハデラ病院
 知らない指
 おれさまのバス
 建設班長
 山岳の村


なぜヘブライ語だったのか

    ヨセフの娘たち

 三月。三月なら、もうあちこちで、狂ったように花が咲いている。でも、エルサレムは寒い。高地に築かれた都市であるから。
 その日のエルサレムはみしみしと音を立てるような感じで冷えこんで、わたしは肩のあたりを固くしていた。空気が重く湿っていて、それがコートの裾や袖口から、骨を冷やすようにしのびこむ。
 その日、デイヴィッドとわたしは、ヨセフ・モリスという名の青年を訪問して、話をきかせてもらうことになっていた。ヨセフ・モリスなんて、名が二つ連なっていて、姓がないような名前だな、とわたしは思った。ヒロシ太郎みたいだ、と。
 ヨセフ・モリスはインド出身のユダヤ人だ、といってある友人が紹介してくれた。一三歳ぐらいのときに理想と夢に燃えて、インドからたった独りで移民してきたのだった。いまではイスラエルのありかたに対して苦い気持を抱いている、という説明を聞いていた。
 一番安いレンタ・カーをして、あちこち迷いながら、どうやら彼の家の住所の近くまでたどりついたので、ちょっと車を止めて、道路で大声を出して遊んでいた子供たちの一群に目ざす所番地を告げると、餓鬼大将のようなのが、「その住所なら、モリスの家だ、モリスの家へ行くのか?」といった。わたしたちは、「そうだ、その通りだ」といって、モリスの住所をいっただけで子供たちがわかることにちょっと感心した。モリス、モリスと子供たちに親しまれている、子供たちには大きな兄さんみたいな青年なのかもしれないな、とわたしは思った。
 重く暗く曇ってしまって、じめじめした空気がひどく冷たい。早いとこ、暖かい家にでも入れてもらいたいと思いながら、またしばらく車を走らせると、子供たちが教えてくれたとおりのところに、ヨセフ・モリスの家があった。
 彼の家に着くと、まず奥さんのブレンダが出てきた。おなかが膨らんでいる。気持のいいひとで、彼女はアメリカはカリフォルニアの出身だ。そのうしろに、二人の幼い娘が立っていた。長女のほうは丸顔で、かわいらしいというのがとてもふさわしい顔だ。下の娘はとてもインド的な顔で面長で、黒々とした眼でわたしたちを睨みつけるようにして見ている。
 家の中はやけに寒い。居間のようなところに通されたのだが、とても寒い。そこから階段で家の低い部分へ通じるようになっていて、谷間から上ってくるような恰好で、ヨセフ・モリスが石油ストーブをかついで上ってきて、とても臭いにおいのする石油ストーブに点火した。わたしはブルブルと震えて、オーバーも脱げず、ただなんとなく部屋の中を眺めまわしていた。
「いい感じの人たちだ」と思って、わたしはもうずいぶんまえに枯れてしまったらしい、一輪のバラの花を見ていた。ドライ・フラワーにしよう、というつもりでそこに置かれたままになったわけでもないし、かといって、捨てるのをすっかり忘れてしまった、というような感じでもない。なんか、部屋全体が未完成な感じがする。それが気持がよかった。この家に住んでいる一家が、どうもそのように、完結しない態度で生きているんではないか、とわたしは勝手に直感して、寒いし石油は臭いしでぼんやりしながらも、ひそかに嬉しくなっていた。
 早速インタヴューがはじまる。ヨセフ・モリスはミルク・チョコレート色の皮膚で、インド人らしい容貌だ。ところが同時に、とてもユダヤ人らしい容貌でもあるのだ。ダニー・ケイやトニー・カーティスがユダヤ人だよ、というとこのヨセフ・モリスがユダヤ人だというのは嘘みたいだけれど、逆にモリスがれっきとしたユダヤ人だということを座標軸にとっていえば、ダニー・ケイやトニー・カーティスがユダヤ人だっていうのこそ嘘みたいだ、といわなければならないわけで、軸を単一に定められないところがおもしろい。
 ヨセフ・モリスはわたしたちにさまざまなことを話してくれた。ヨーロッパ生まれのユダヤ人にはできないような話ばかりを。ヨセフとの会話の内容はデイヴィッドがべつにインタヴューの本の中にまとめているからここでは書かないが、彼の談話の中でもとりわけ重要だったのは、白人のイスラエル人の、有色のイスラエル人に対する隠微であり同時にあからさまでもあるその態度のことだった。わたしはヨセフの開いた語り口に好感をもった。
 四歳と六歳の彼の娘たちも、はにかむのはとっくにやめてしまって、床の上を転げまわっている。なにがそんなに楽しいのか、こちらには見当もつかないのだけれど、さかんにキャッキャッと笑い声を上げている。ズボンとセーターのあいだにお臍がのぞいたりしているのにも全然頓着しないで笑っている。美しい子供たち、とわたしは思った。下の娘の眼は、生まれたての黒豹の子供の眼の色だ、とわたしは生まれたての黒豹の子供など見たこともないのに思うのだった。
 美しい子供たちの笑い声が続いていた。それを聞いていると、わたしはふと、ブクブクと泡立つ水面の下にかくれていた、わたしの意識の中にある暗い部分が、光を見たい、とでもいうようにポッと浮き上がるのを感じたのである。それは子供たちの笑う声に触発されて突然浮上してきた。
 いいことじゃないの、とわたしは声に出さずにいった。
 いいことじゃないの、子供たちがお臍なんか出したまま、あんなに大きな声で笑う声が部屋じゅうに、家じゅうに響くなんて、とてもいいことじゃないの。それが自分でうんだ子供のそれであろうと、どこかべつのところからやってきた子供のそれであろうと、暮しの空間に、こんな声が響き渡るとしたら、とてもいいじゃないの。うれしいでもないし、楽しいでもないし、生きがいになるでもなんでもない、ただどこかが間の抜けたような「いいじゃないの」という言葉しか浮かばなくて、それではどうも単純みたいな気がしないでもないが、声に出さずにいってみた「とてもいいじゃないか」が、わたしには一つの閃きのようにさえ感じられた。自分でうんだのではない子供らと一緒に暮してみようかしら、という考えに接近する自分をわたしはそのとき見ていたのだ。

 わたしは三一、二歳になってはじめて、子供をうもうかと考えはじめた。それも、はじめは自分に対してさえ正々堂々としていない態度で、小声で「そうしてみようか」とちらっといってみるというようにしてはじまったことだ。それまでは、子供がいる生活になったら、わたしは子供の存在に生活を全部もっていかれる、そうなったら、わたしは駄目だきっと終りだ、と漠然と考えていたのだ。おもしろそうだがおそろしいことのようで、「どうしようか」と思うたびに、わたしは暗闇から脅迫のメッセージが届けられるような気持がしたのだ。いまとなっても、「そうなればわたしはもう駄目だ」などというのが実際にどういうことなのか一向にはっきりしない。ともかく、「うむのだ」ときめた。「なぜか」と問われたところで、答えることはできなかった。どのような常套語も、わたしには共感をもって使うことはできなかった。ただ、わたしがそうこころにきめたことは正しい、という気持はあったかもしれないが、しかし、「正しい」という言葉を表面に浮かび上がらせたりしたら、それもわたしのほんとうのところを伝えていないとしか思えなくて、癇癪を起こすだけだっただろう。
 その頃、わたしは現代思潮社が出した森崎和江さんの評論集『ははのくにとの幻想婚』を読んですっかり感動していた。「二つのこころ、二つのことば」に代表されるような、森崎さんの生きかたや感受性や視線は、そのまま「女」とはなんだろうかという問の中にもはりつめた一貫性をもって息づいている。地下と地獄が同一視される、基本的には農耕民族的な排他性を強くだきしめている「にほんの思想」では、地底の労働者であった炭坑労働者を理解することはできない、地底の労働は異質の、独自の世界をうみだした。それは地上の世界観や価値観では掬い取ることのできない世界だ。その地底の世界を生きてきたのに、石炭産業がすっかり駄目になって、地上にひきずり出された元坑夫と呼ばれる人たちが、地上の住人に対して無口なのは、地上の言葉では地底の世界を語り切れないからだ、と森崎さんはいう。そして、女についても、わたしたちはまだわたしたちの言葉をもたない、と書いた。手にしている言葉はもらい物で、それはどうしても、いわば地上の地底に住んできた女たちを語ることができない、と。森崎さんはまた、生物として子供をうみ落とすことは誰にだってできるが、「女」には、なることしかできない、ただうんでりゃそれが女にしてくれるわけではない、とも語っていた。女になる、とはどういうことかについて、彼女は問うことをやめない。言葉がないのです、というところから出発した彼女は、それでもずいぶん遠くまできたと思う。その彼女の行為を支え続けてきたのは、「私の原型は朝鮮によってつくられた、朝鮮のこころ、朝鮮の風物風習、朝鮮の自然によって。私がものごころついたとき、道に小石がころがっているように朝鮮人のくらしが一面にあった。それは小石がその存在を人に問われようと問われまいと、そこにあるようなぐあいにあった。そしてまた小石が人々の感覚に何らかの影響をおよぼしているようなぐあいに、私にかかわった。……いや、そうではないのである。そのようなかかわり方にとどまっていたならば、加害者被害者の単純な対応図がえがけるだけである。……私は朝鮮で日本人であった。内地人と呼ばれる部類であった。」(朝鮮断章・1――わたしのかお――)ということと、内地にもどってから、彼女が自分のかおを探し求める旅を経た事実だったと思う。日本に帰った彼女を迎えた日本人は、「おくにはどこ?」という問を発して相手を知ったことにしてしまう集団であり、人々はにっこりと出迎えてくれる厚かましさをもっていて、「まるきり、くらしの股をひろげている感じで」あったのだ。
 朝鮮によって、植民地朝鮮によって作られた自分の顔を語ることの困難を受け入れることによってはじめて、森崎さんは「女」の顔について語るには言葉すらまだない、ということができたのだろう。
 そう、肯定的にだって否定的にだって、わたしたちが「くらしの股」を広げずに、いまだ言葉さえないものを呑みこんでしまうことをせずに、自分らのことを語ることはひどくむずかしいのだ。
 というわけで、わたしは「うむんだ」と自分にいったとき、それがなぜかを説明できないことは、正当なのだと感じることができるようになった。
 闇からの脅迫状もこなくなって、それはそれでよかったのだが、ところがいざとなると全然妊娠しない。しばらくは放っておいたが、一年ごとに一歳ずつ歳は取るのだから、と思って、ちょうどサン・フランシスコに住んでいたとき、スタンフォード大学病院の「不妊問題クリニック」へ通うことにした。
 一週間か二週間に一度ぐらいずつ通った。待合室の椅子で本などを読みながらずいぶん待つと、やっと診察室に呼んでくれる。診察室に入ると、全部脱いで、白いシーツを掛けて寝てなさい、といわれる。全部脱いでから、高い診察台によじのぼるのだ。婦人科の診察台はかならず高いから、わたしたちはほんとにいつもよじのぼるようにして上がって、そして白いシーツをひっかぶって、天上を睨みつけながらそこに転がっているのだ。しかも、婦人科の診察台はふつうの診察台の長さの半分くらいしかないのだから、脚をどうしてよいかわからない。あの鐙に足を掛けて待て、というのだろうか。股を広げて四十分も五十分も? あの高い診察台によじのぼって、蝦のように脚を縮めて転がっていると、いつももう家へは帰れないような気がしてしまう。わたしは診察台に上がることを、屈辱的だとか恥ずかしいとか、そういうふうには思いたくないと思う。わたしたちに屈辱とか恥とか思わすなんて、陰謀にちがいないと疑ってしまうからだ。ただ、自分にも見えない暗がりを覗いて、あれこれいう人を眺めていると、奇々怪々、と思うのだ。
 その暗がりが自分にもよく見える鏡ができたら、新しい言葉が生まれるだろうか? そんなことにもならないだろう。目を木版にこすりつけるようにして版画を彫った棟方志功さんの真似をしても、きっとだめだろう。
 さて、台によじのぼって待ちくたびれては、色々なテストを受けた。子宮の内膜をちょいとけずりとって調べたり、排卵後の性交後の粘液をとって、それが精子に対して敵対的な性格のものでないかを調べたりするのもあった。
 敵対的だったら、どうするのだろう?
 こいつ、反抗的な、といって懲しめてやるのか?
 それとも、薬をのんだりして、懐柔してしまうのか?
「精子に対し、敵対的性向ありと断定」なんてことになったら、新聞の見出しみたい。その判定に不服なら、上告できるのかしら?
 膣壁に小さな穴(小さいものですよ、と若い医師はいったが、穴を開けられるほうにしてみれば、穴は穴である。第一、どのくらい小さいのか、わかりゃしない)を開けてそこから鏡を入れて、子宮の外側およびその周辺をつぶさに観察するテストもあった。それはカルドスコピー(culdscopy)と呼ばれる。この鏡を入れて覗くと、開腹しなくても様子がわかるわけで、これによって癒着や子宮内膜症と呼ばれる障害を発見することができる。卵巣や卵管の様子もある程度わかる。
 検査の最中は局部麻酔をしてあるから痛くはない。局部麻酔するまえには、強力な鎮静剤あるいは予備麻酔のようなものを注射するから、すぐフラフラになってしまう。検査が終ると麻酔が切れてきて、鏡が侵入してあちこち突つきまわしたからだろう、それに穴も開けられたからだろう、しばらく下腹痛が続く。痛いといってあばれれば、回復用の高い寝台から落ちるから、寝台に柵がなければ、誰かが見張っていることになる。見張ってれくれる人がいない人は落ちるのだろう。げんに落ちた女たちがいるからこそ、看護婦たちがつき添ってきてる配偶者たちに、「見てなさいよ、落ちますからね」とうるさくいうのだろう。
 基礎体温もまじめにつけた。グラフ用紙の上にまるで基礎体温のありかたの手本のようにみごとなギザギザの山形があらわれて、きわめて規則的に排卵が起こっている、といわれた。
 じゃ、問題はなんです? ホルモンの働きや子宮内膜の細胞組織も正常だとおっしゃるなら。
 問題はですね、カルドスコピーにより明らかとなりました。子宮内膜症がありますな。どうも、これが妊娠をさまたげる原因になっていると思われますな。あなたの月経のはじまる少しまえに下腹痛があるといいましたね?
 少しまえ、というより、その日の朝に痛くてうめくのです。歯を磨いていると、痛みがそろりそろりと近づいてくるのがわかるのです。あっ、やってくるな、早く歯を磨いてしまわないとひどいことになると思うわけです。そう思っているうちに、どんどん痛みがましてきて、そのために吐気もするほど。大急ぎでアスピリンを噛み砕いてぬるま湯で呑みくだします。アスピリンを粒のまま冷たい水で呑むような悠長なことでは、痛いとうめきつつ転げまわる時間が長引くばかりですから。
 どうも、そのように激しい痛みは、やはり子宮内膜症のせいのように思われますな。そして、これが妊娠の邪魔をしているのではないかと。
 子宮内膜症とはなんですか?
 内膜症とは簡単にいいますれば、子宮の内壁の内膜組織の細胞が、子宮内膜以外のところへ飛び散って、それがそこで増殖してしまうことをいうのです。それが繊腫や嚢腫になることもあると考えられてます。
 なぜ、内膜組織細胞があちこち飛び散ったりするのですか?
 よくはわからない。
 なぜ、そうなると妊娠の邪魔になるのですか?
 よくはわからない。
 因果関係はわからない、とおっしゃるのですか?
 仮説はいろいろありますが、まだよくはわからない。
 わからないことばかりなのですね。
 そう。ただ妊娠しないというケースと内膜症がある、というケースが統計的にある大きな一致を見せている、ということ。内膜症をなおすと、妊娠する場合が三分の一あるからね。
 なおす、のはどうやるのです?
 手術です。
 シリツ! シリツですか?!(とは、わたしはいわなかったけど、そのとき、突如、つげ義春の『ねじ式』の女医が、「シリツします」といったのを思い出していたのだ。)

 わたしは開腹手術を受けることにした。手術のまえの日に入院して、血液やレントゲン検査をやって、まだ病気でもないのに寝巻を着て寝てろといわれた。二人部屋だったので、相棒もやがて加わった。「子宮癌だとわかったので、子宮をとってしまうことになった」とわたしの相棒はいった。「あなたはなにをとるの?」
 手術が行なわれた晩は、そのひとのほうが痛がっていた。わたしは痛くなると我慢しないで、「痛み止めをうってください」と要求しては、うつらうつらしていたのだ。でも、真夜中ごろ、突然、目のまえに二人の白人の大きな看護婦があらわれたときは、てっきりわたしは幻覚を見ているのだと思った。その二人の看護婦があまりにも大柄でたくましく、007の『ロシアより愛をこめて』に出てきたのではなかったか、かの恐怖の組織スメルシュの病院に働く看護婦とはこのような女たちではないか、見ろ、ちゃんとスラブ系の顔さえしている、頬がこうなんかカッと赤くて。
 うつらうつらしているわたしに、この二人は起きて便所へ行く練習をする時間になった、と告げた。
 なぜ、なぜ、なぜ?
 あなたの早期回復のためだ。
 だって、あたし、けさ大手術したばかりですよ! 傷がとても痛いんですよ! まだ、吐き気もしてます。
(手術はあるいはけさではなかったのかもしれない。痛み止めの麻薬でうつらうつらしてるうちに、一週間もたってしまったのかしら。そんなことなら、あたし、たしかにしっかりしなくちゃいけないのだ。)
 スメルシュから派遣されてきた二人の大柄なおそろしい看護婦は、起きてみろ、といってあとへは引かない。(敵の手はすでに張りめぐらされている。逃げようとしたって無駄だ。優秀な諜報員なら、こういうところで勇気を示す。だが、それにしてもあたしがおびている使命とはなんだったっけ?)
 抵抗しても無益、と観念して、わたしはついに起き上り、ベッドから下りて用を足したのである。痛さはものすごかった。そのようにして、その後もせっせとリハビリを行なったのだったが、早く動かすのは癒着などを防ぐためもあるということだった。
 スメルシュの女たちはあの最初の晩にやってきただけで、それからは全然姿を見せなかった。どうしたのだろう。ついに007が始末してくれたのだろうか?
 退院の日は手術から七日目ときめられていた。傷は順調に回復し、診察でも異常はないといわれた。でも、診察のとき、変に痛いなと感じた。それに熱が少しあったのだ。熱があるのはよくないから、抗生物質を呑め、と薬をくれて、でも、そのまま家へ帰された。すると、午後おそく、ひどい悪寒がして、いくら毛布をかけてもおさまらない。とても高い熱が出て、それから翌朝まで、ぶるぶると震えるのと、かっかっと熱くなるのとを繰り返していた。
 手術のあとでなにかの菌に感染して炎症を起こした、ということだった。熱が高い、と医者に連絡すると、急患としてもう一度入院しろ、といわれた。至急だ、と。毛布にくるまって病院にもどると、早速点滴がはじまって、点滴の中に大量の抗生物質が投入され、わたしは上半身を少し起こしておく恰好で寝かされていた。最初に使った抗生物質にアレルギー反応を示したから、薬を変えたが、それも駄目で、三つめのでようやくいいことになった。
 そのとき、わたしはなにも考えていなかった。その感染による炎症がどのような意味をもつのか、考えてみなかった。ただ熱に顔を赤くしたり青くしたりしていただけだ。
 一週間いて退院するときに、医者もなにもいわなかった。
 それほどの高熱が出るような感染なら、それがどのような結果をあとに残すことになるのか、ひと言だっていわなかった。
 ただ、わたしはこの手術のおかげできっと妊娠する、とは感じていなかったようにも思う。合計二週間の入院のあと、家へもどっても、とても疲れた気持ばかりした、
 夏だというのに、サン・フランシスコはとても寒くて、夫と一緒に散歩をするわたしは冬のコートを着ていた。

「あっ、ごらん」とあたしは思わず声を上げた。ヨセフ・モリスの家の居間のガラス戸の外、雪が降ちてくるのだった。「雪になってしまった」
 幼い娘たちがガラス戸に駆け寄って、鼻を押しつけて雪を見る。
 エルサレムの雪。
 砂漠の国に降る雪。
「娘は学校で、おまえのとうさんはクロンボだ、といわれてさ。あるとき、学校から帰ってきても僕に口をきかない、どうした、といっても答えない、ってことがあった。それがなん日も続いてさ。うるさく訊いて、ようやくわかったのが、学校でおまえのとうさんはクロンボだ、といわれたことだった。そこで僕と妻は、黒いのはいいんだ、おとうさんはとてもハンサムだ、と娘にいった。それでようやく、娘がまた僕に口をきくようになった」とヨセフが話している。
 どこかの隙間からこの家に雪が降りこんでくるのではないかしら、とわたしは見まわしたが、そのような気配はない。
 階段で接続している下の谷間のような台所から、ブレンダがなにか湯気の立つ物をささげもつようにして上がってきた。
 焼きたてのパウンド・ケーキ!
 そして、トルコ・コーヒー!
 わたしはもう寒くなんかない。
 ケーキを食べて、コーヒーを呑みながら、わたしたちはブレンダのおなかが膨らんでいることについて話した。
「お嬢さんが二人だから、こんどは男の子がほしいの?」
「健康な子供ならどっちでもいいの。なるべくあたしみたいじゃなくて、インド人ふうな子供ならなおいい」

 わたしは、子供をうもう、ときめたあとで、不思議な体験をした。妊娠しているわけでもないのに、すでに、自分がうもうときめたその子供をいとおしく思いはじめたことだ。それは想像の中にすら存在もしない、生物的な実体は顕微鏡的にだって存在しない相手を対象にしていた。そのいとおしさは、いたいけな赤ん坊がかわいい、というような感情ではなくて、奇妙にも、なぜかすでに全人格のそなわった存在を対象にしているようだった。対象は具象的な存在でもないし、まるっきり抽象的なものでもない。ちょうどその中間にあるようなものだ。それはうむという決意をいとおしく思うということではなかったし、妊娠という肉体の変化が契機になって触発される感動でもなかったわけだし、どういうことなのかはうまくいえない。わたしはそれに関連した夢をしばしば見るようになった。
 ただ、そのとき、じぶんの中で、ある部分がひろびろとしてゆくのを感じていた、というふうにしかいえないのだ。
 森崎さんには、若くして亡くなった彼女のお母さんについて触れている文章がいくつかあるが、わたしはつぎの部分にとりわけ心を惹かれた――。

……私がちょうど現在の長女の年に母を亡くした。死にゆく母の枕辺にいて、私はなにをどうしようもなく切なかった。母は昏睡にはいる前に家族のものに礼をいった。私はすすり泣いて母からはげまされたが、その魂がゆらゆらと薄明にあそんでいると思われるころ、われ知らず子守唄を歌っていた。ぽたぽたと涙をたらしながら母の髪をなでていた。
 あのとき、私には自分のなかに母がよみがえっているような奇妙な感じがしていた。また、その母のなかに母を育んだ祖母がよみがえっているのを感じもした。祖母の母さえ感じられた。私のこころはふかいあきらめにおおわれながら落ちついていたのである。(「こころざし高くこの世を愛して」)

 スタンフォード大学病院での子宮内膜症の手術は一九七四年六月だった。その年、わたしたちは東京にもどった。七五年の六月頃、わたしはスタンフォード病院の主治医から名前をきいて、ふたたび専門医のところに通うことにした。東邦医大の産婦人科に行ってみなさい、といわれた。あとで発見したのだったが、東邦医大は日本不妊学会そのものを発足させた学校だそうで、その分野ではそれこそ草分けと呼ばれているらしい。
 わたしは東邦医大へでかけて行った。行く日は一日がかりのつもりで行く。実際には午後二時頃には家へ帰ってくるのだが、へとへとになっていて、もうこれで一日も終りだ、と思ってしまうからだ。
 ここでもやっぱり長いこと待つ。不妊に悩んでいる女のひとたちと、おなかがすっかり膨らんでいる女のひとたちが肩を並べて、じっとあまり声も出さずに待っている。
 ここでは、全部脱いでシーツを掛けて待ちなさい、とはいわれない。やっとじぶんの順番がきて、診察室に呼び入れられ、大急ぎで診察してもらうところだけ脱ぐ。ぐずぐずしているとおこられる。診察室は個室ではなくて、ちょうど厩のような構造になっている。厩なら仕切りは木の板だろうが、ここではカーテンだ。だから、患者や医師の会話は全部細大もらさず完全にそこに居あわせる全員に聞こえる。
 それから、あれはどういうわけだろう。診察台のちょうど中央あたりに、天上から吊ったカーテンが下りていて、診察を受けるわたしたちは上半身をカーテンのこちら側に置き、下半身をカーテンのあちら側に置くのだ。下半身を見せる恥ずかしさに顔を赤らめている女性の顔を医師が見ないでおいてくれる、という親切心のあらわれとして受けとるべきなのだろうか。「恥ずかしい」だろうと推量して、このみじめなカーテンがそれを柔げてくれると独断するのは誰?
 わたしたちは文字どおり、上と下に引き裂かれ、すっかり混乱してしまう。なにをもって、この汚らしい布切れで切り裂かれた存在を再統合したらいいのか。
 ときには、そうやって切り離された下半身に向って、担当医師が、「コレ、ダレ?」といったりする。「コレ、ダレ」といわれたら患者は夢中で「ダレダレデス」と答えてしまう。だって、もし間違えられたらどうする? わたしの下半身がべつの女性のものと間違えられて、そのべつの女性の下半身にほどこされるべき治療なり処置なりが、わたしの下半身にほどこされれば、困るではないか。あるいは、あたしの下半身に対してなされるべきはずのことが、どこかよそへ行ってしまったら?
「コレ、ダレ?」と問われて、女たちはじぶんの下半身に必死にしがみつくように、「ダレダレデス」と反射的に答えるのだ。やっとつなぎ合わせたジグソウ・パズルの一かけらを無礼な闖入者の手ではじき飛ばされたりするのを怖れるかのように――。
 しかし、それにしても天上からぶら下ってわたしたちを上下に二分する布切れはなにを意味するのか。あちら側にとっては、わたしたちはわたしたちなんかではない。ごろんと転がった下半身の一群である。力ずくで開いて金属を入れて調べるべき肉塊の一群である。汚物盆の野に咲く花々の一群。あるいはキノコの一群?
 カーテンのこちら側からいえば、あちら側は恐怖の荒野だ。なにされるかわからない、という不信はひとときも頭を離れない。あいつらは顔のない、ゴム手袋をはめた手だ。あいつら、みずからすすんで顔をすてたのだ。カーテンをぶら下げてくれとたのんだのはわたしではないから。
 カーテン越しに診察するあいつらの声がなにかいってる。通水の水が通ったとか通らないとか。近くて遠い痛みにあたしたちが唇をかんだって、うなったって、ゴム手袋と化したあいつらには聞こえない。ゴム手袋には耳なんかないのだから。
 あたしたちはあちら側の荒野から、転がされて、「ダレノモノカワカラナイ」と呼ばれた下半身を重いこころで回収して、家へもって帰ってやる。こたつに入って暖めてやる。夏だって、そうしてやりたくなる。
 東邦医大の病院でも、結局その前の年にスタンフォードでやったのと同じ検査を全部やりなおした。一年も前のデータでは古い、と。スタンフォードでやられなくて、東邦大でやったのはレントゲン検査だった。主治医がヨーロッパにでかけていたので、べつの医師に担当がかわったが、その医師がレントゲン検査はぜひとも必要だといった。しかたがないのでその通りにしたのだが、それによると「正常ですな」ということだった。卵管も癒着していない「ようだし」、あとは「ホルモンの投薬」だ、と。ところが、そうこうしているうちにヨーロッパから帰国した主治医は、カルドスコピーをやってみなければわかりません、カルドスコピーが絶対に必要だといった。レントゲン透視じゃ大したことはわからない、と。

 雪は大雪になってしまった。こんな雪の中をあんなガタガタのフォルクスワーゲンで帰れるかしら。
 美しい娘たちはいま唄を歌っている。ブレンダとヨセフが、紀元七〇年のエルサレムの第二神殿の破壊の時代にパレスチナからペルシア湾を経てインドへ向い、そこに定住するようになったユダヤ人の話をしている。その子孫である「イスラエルの子ら」と呼ばれる集団のことを話している。ブレンダが大学院の文化人類学の先生として研究したことをきいてはじめて、ヨセフはじぶんの歴史を知るようになった、と話している。
 石の都のエルサレムが雪の中に沈みはじめる。もう日暮れもまぢか。

 その二度目のカルドスコピーは奇異な経験だった。いよいよ検査台にのぼると、からだをVの字を逆さにして片方の端が頭部で、もう片方が折った膝である。肩で上半身の体重を支えることになるから、検査後数日間は肩や胸に筋肉痛が残る。それについてはこれ以上いわないにしても、麻酔のことはいっておこう。
 検査中、被検査人は完全に意識を失っていたわけではないらしい。予備麻酔と本麻酔がうたれ、からだをVの字に曲げたら、もうなにもかも遠のいてしまった。麻酔がかかると、じぶんだって、じぶんの人生だって遠のいてしまう。遠のいたな、と思ったら、どうしたことか、バッハのオルガン音楽がまるで爆音のようなボリュームで聴こえてきたのである。おやっ、とわたしは麻酔して鈍くなった知性で思った。これはおかしい。わたしは病院の産婦人科の検査室に麻酔をかけられてVの字形になっているのであって、新宿の「田園」にいるんじゃないんだ。よって、バッハは幻聴である。だいいち、わたしには麻酔がかかっているのだから、こうして状況を判断しようともがいていることこそおかしい。考えているわけじゃなくて、これも濁ってしまった意識が愚かなあぶくをブクブクさせているだけだ。しかし、こう思うもうひとりのわたしは、じゃあ、どこにいるわけ?
 と、にわかに、わたしの網膜に極彩色の立体映画が映った! ちょうど、スタンレー・キュブリックの『紀元二〇〇一年』の終り近く、主人公が宇宙に放り出されたあとの場面にそっくり。
 目がまわるよ、とわたしは声も出せないまま叫んだ。つぎの瞬間、ものすごい奈落への落下がはじまった。ほんとにおそろしい。鮮やかな色とりどりの周囲が回転している。そして――、だれかがあたしのからだの内部をぐいぐいと引っ張ってる。あたしの中身を一気に抜き取ろうとするかのように。
 そのあいだも、バッハは大音響で鳴り続け、あたしはもうこれで気が狂うんだ、と思った。だまされたのだ、検査をしてやるなんていう甘言にみすみす乗せられたあたしが馬鹿だった。だまされたんだ、罠だったんだ。でも、もうおそい。もう、二度とふたたびあたしはあたしにもどれない。
 ほら、また落ちる。
 さようなら、あたし。
 こんなに独りぽっちで――。
 おそろしい空間に投げ出されたり、落ちたり、息を止められたりするのが永遠の長さで続く。と、人間の声みたいなのが聞こえる。わたしが薄目を開けると、そこには白い色があって、それはなんだろうかとじっと考えこんでいたら、やがて、それは医師の白衣の色だとわかった。
 では、あたしはやはり検査室にいたわけ?
 麻酔が覚めてゆくその境界の時間もおそろしい。どうしても息ができなくて苦しくて、こんな陰謀によって変えられたあたしは、やはりもうもとのあたしにはもどれないんだ、という意識の混乱が続く。
 どうにか正気にもどったら、ベッドのかたわらにいた夫が、「そろそろ、羽田へブローティガンを迎えにいく時間だね」といった。ブローティガン? そう、彼が着くことになっていたんだったね。あたしは迎えにいけません、すみません、と手紙を書いて夫に渡してあったのだった。
 窓が燃えている。
 夕日で燃えている。
 担当麻酔医がやってきて、「どうです、覚めましたか」とたずねる。どうです、だって? わたしはひどいめに会ったといった。
「あれえ、まえもって、この麻酔の特長を聞かされてなかったの?」
 いいえ。わたしは罠にかかったと思いました。検査とはまっかな嘘で、まんまと欺されたのだと。
「この麻酔はすぐれた麻酔でね。覚めるのも早いし、軽くかかるだけだし、覚めたあとに頭痛や吐気がない、すばらしい新しいタイプなのですよ。ただ、幻覚があるのが玉に瑕。ふつう、まえもって患者に予告しておくんだがね」
「で、音楽が聞こえるのも、バッハが鳴り響くのも幻聴ですか?」
「いや、いや。検査室にちゃんとスピーカーを備えて、音楽を流してます」
 なぜか、とわたしはたずねたが、理由が思い出せない。要点は、その麻酔と音楽を併用するとよい、ということであった。
 バッハが轟くように鳴りわたり、患者は「紀元二〇〇一年」の旅に出てしまう。それは感覚の拷問時間だ。麻薬《ヤク》の手加減をふと間違えてしまったジャンキーの地獄はこんなものだろうか?
 吐気と頭痛が最小限ですみ、覚めるのも早いとは、ほんとに結構である。でも、麻酔医たちがじぶんのからだを使って一度でも実験してみたら、それでもなお「すばらしい新しいタイプ」だなんて主張できるだろうか?
 カルドスコピーの結果、卵巣や卵管のあたりにひどい癒着があることがわかった、と医師はわたしに告げた。子宮の外壁には子宮内膜症は残っていなかったかと質問したら、きれいになっている、という答だった。だが、この癒着を治療しなければ、妊娠はとうてい無理だと。ふたたび開腹手術をしなければ、可能性はない、と。そのときわたしは、レントゲン検査のあと、「正常ですな」、卵管もだいじょうぶの「ようだ」といった助教授のことばを思い出していた。あとはホルモンの投薬をやればいい、といった医師の言葉だ。レントゲン透視で判明することなんて、実際はずいぶん限定されているわけじゃないか。その点すら明確にしないで、「正常のようだ」とか「あとはホルモンの投薬」だけだとか、それは無責任というものじゃないのか? わたしの場合主治医がカルドスコピーをやってみなければわからない、と主張したから、カルドスコピーでべつの事実が明らかにされたわけだから、さいわいだった。しかし、そのレントゲン透視を全能だと信仰している医師を主治医にしている女たちは、結局不妊の原因がじゅうぶんに明らかにされないまま、ホルモンを呑まされているわけだろうか。あたしは腹立たしかった。病院に通っているうちに顔見知りになった女たちのうちのなんにんかは、ホルモンを呑み、うっすらとした吐気をこらえながら、毎朝空しく仁丹婦人用基礎体温計を口にくわえているのだと。長いことじっと堅いベンチに黙ってすわり、それから天上から下ったカーテンに下半身を切断させてあちら側に渡し、つつきまわされたって歯をくいしばって「痛い」ともいわないで、やがて重い気持を京浜東北線や目蒲線に乗せて帰ってゆく女たちは、まるっきり無駄骨折りをしていることもあるわけなのだと。
 もう一度手術をするのはいやだ、とまずわたしは思った。でも気を鎮めて考えて、もう一度やる、ときめた。さいごまでちゃんとしなくてはいけないのだ、とちゅうで逃げてはいけないのだと思った。それにしてもなぜそのような癒着が起こったのかとたずねたら、おそらく前回の手術のときのあの感染で目茶苦茶になってしまったのだろう、ということだった。ということは、前回の手術のそのあとすぐ、すでに新しい障害が生まれていたわけで、なんということはない、わたしだって空しく仁丹体温計を口にくわえ続けてきたわけだった。高熱にうなるほどの感染の炎症を起こせばどのようなマイナスになるのか、スタンフォードの医師たちは警告してはくれなかった。それとも、癒着なんで予想もつかないことだったのだろうか。まさか、とわたしは思ってしまう。退院のとき、「さあ、頑張りなさいよ」なんていってた。白々しいではないか。それと感染症は防止できなかったものだろうか? 不可抗力のものだったのだろうか? それとも、どこかでだれかがなにかを軽く見たから起こったものだったのか。
 東邦医大での二度目の手術のあとは、点滴にステロイド・ホルモンを入れて癒着を防ごうとしてくれたし、体温も注意して見ててくれた。回復の早いひとだといわれて、十一日目に退院した。
 入院中は部屋仲間が五人もいた。仲間の大部分は早産になりそうになって駆けこんできて、早産を防ぐために子宮の口をしばって(!)もらって安静中だというケースだった。手術の前日入院手続きをして部屋に連れていかれたが、大部屋に入るときは一種暗黙の「入会式」があることに気づいた。小さなスーツケースなどをさげて、緊張にこわばって部屋へ入ったとたん、十個の目が迎える。「このひとはどのような理由できたのか?」と詮索している。「なんできたの?」とただちにあけすけにきいたりするわけじゃない。みんなやさしい。でも、なぜその部屋にかりそめの仲間として入ってくることになったのか、そのわけもわからずにただやさしくしてるわけにはいかないらしくて、窓際のベッドや向い側の隅っこのベッドからポツリポツリと質問がくる。「あたしはね……」といって、それから質問する。答えない、という理由もないし、答えたくないと拒否する方法もわからないままに少しずつ質疑応答が進行して、一時間もたったら、わたしのそれまでの人生が白日のもとにさらされていたというわけである。早産防止のために、子宮口を「しばられて」いるひとたちは、安静にしていろ、ときつくいわれているから、その部屋は熟成をまつ甘い葡萄酒の樽たちがじっと夢を見ている場所みたいだった。
 二度目の手術は六月で、八月にわたしたちはイスラエルに発った。そのとき、わたしは治療なり処置なりを続けることになると思ったので、病院から紹介状とそれまでの経過を書いてもらったものを旅行の荷物の中につめた。さまざまな理由から、結局はイスラエルでは専門医を訪ねることはなかったので、それを注意して読んでみることもなかった。どうせ、わたしの知っていることしか書いてない、と思ったから。
 ところが、である。ニューヨークに着いて聖ヴィンセント病院に行き、つぎにくるときに東京の病院からの手紙をもってきなさい、といわれたとき、いちおう目を通そうと思って読んでみたところ、それはわたしのカルテから写されたものとはまるで思えないものだった。
 二度目の手術では、カルドスコピーによる検査でわかったとおり、やはりあちこちに癒着があったので、それを剥離した。と同時に、一度目の手術のあとに飛火するようにしてあちこちへ移った内膜症が、左側の卵巣に「チョコレート状嚢腫」をつくっていて、それでその卵巣はもう機能していないと診断されて摘出ときまった。左側の卵管もその卵巣にひどいありさまで癒着していたので、それも摘出した。ということは、わたしは手術後、マイナス左側の卵巣および卵管、となった、ということである。
 病院からもらった「病歴書」には、わたしの下腹部にはまだ右も左も卵巣、卵管が残されていることになっている。ちゃんと図解してあって、両方描きこんである! 卵管についてはごてねいに、potency good、すなわち卵管が果すべき機能の可能性は良好、と記してある。わたしは唖然とした。摘出されたものがその図には復活していて、しかも機能力良好、とはどういうことか、と。怪談だ。あたしの卵巣がついに化けて出たのね。天国へも地獄へも行けなくて。癒着の部分も図に示されていた。ところがそれが剥離された、とは記録されていない。
 これを書いてくれたのはエライほうの先生だった。紹介して上げますから、といったので、わたしは紹介状を依頼した。ところで、手術のあと、手術の内容や経過について詳しく話してくれたのはもう一人べつの医師だった。黒沢忠彦医師で、わたしは彼には信頼をよせている。黒沢医師が左側の卵巣と卵管を摘出したこと、癒着を剥離したことについて説明してくれた。英語で報告書を作ったけれど、この英語はどうか見てほしい、と夫が相談されて、わたしたち三人はベッドのところで頭を三つ寄せて一緒にその報告書を眺めたのだった。
 推察するに、紹介状用の報告書を作ってくれたとき、なぜか手術まえまでの病歴しか写し取らなかったということではないか。忙しすぎて治療経過の最後の部分をつい落としてしまった、ということかもしれない。でも、そんなことがあってもいいのだろうか? うっかりしてたら、わたしはすでにありもしないモノをあるとする記録を提出してしまうところだった。だから、カーテンの向う側にとっては、わたしたちはやはりゴロゴロ群がる肉塊としての下半身にすぎないのではないかと思ってしまうのだ。あちら側では、「忙しくてつい」ということも許されるのかもしれない。でも、こちら側は? わたしたちは「つい」女になってしまった、とはいえないのだ。
 迷路のよう。
 下腹部がやはりその月も妊娠せずつぎの月経が接近していることを予兆すると、わたしはじぶんの身の丈よりも高い葦草の群落に踏みこみ迷ってしまったような気持になる。子供をうまなくたって全然かまわないと思うし、それでイッカンの終りだなどとは微塵も考えていない。それでも混乱する。この六年間が、全体として迷路の体験のように思えてしまう。ずっと若いころに妊娠して、そのときはうむことなどはまったく考えてみもしないで中絶手術を受けた。中絶手術が子宮内膜症の原因になるのではないかという学説もあるという。でも、絶対的に明らかにされていることなどありはしない。だから、「因果応報、思い知ったか」てな具合にうなだれてしまうわけにもいかない。とはいうものの、わたしはオリアナ・ファラッチの『生まれることのなかった子供への手紙』という作品を読んでいて、突然あることを思い出してしまったのだ。その作品のつぎのようなくだりを読んだときのことだった――。

 厳粛と陽気のあいだで揺れているような口調で、彼は一枚の紙片を取り上げ、つぎのようにいった。「おめでとう、奥さん《マダム》」わたしは機械的にそれを訂正した、「ミスです」と。それはまるで、わたしが彼に平手打ちをくらわしたかのごとくだった。厳粛と陽気は消えてしまい、計算された無関心をもってわたしを見据えるようにして、彼は答えた、「ほう!」それからペンを取って、「ミセス」と消して、「ミス」と書いた。こんなふうにして、科学は、冷たい白い部屋で、冷たく白衣をつけた一人の男を通して、おまえは存在する、と公式声明を発表したのです。わたしはそれを聞いて全然どうとも思わなかった。だって、わたしは科学が声明を発表する以前に、そのことはすでに知っていたのですもの。でも、わたしが結婚していない事実が強調されて、一片の紙片の上で訂正されなければならないことには驚いてしまった。それは一つの警告、将来の問題をピシリと指し示しているようだった。そのあと「科学」がわたしに服を脱いで診察台に横になれと指示した調子さえ、ていねいとはとてもいえないものだった。医師も看護婦も、あたかもとてもいやなものをあつかうように振舞ったのだ。

 わたしが突然思い出したのは、中絶手術のために出かけて行った診察室のことだった。
「あなた元気そうだから、うみなさいよ」とその老医師はいった。彼は第二次大戦中、「産めよ、殖やせよ」の国策に抵抗して、「うみたくないのなら、うんではいけない」と主張して堕胎手術を行ない投獄された医師だった。わたしはそのことを人伝に聞いて知っていた。
 その彼が、「あなた元気そうだからうみなさいよ」といったとき、わたしは一瞬じぶんをものすごく誇らしく感じたのだ。ファラッチの小説を読んでいて、長いことついに一度も思い起こすことのなかったその瞬間のことをふいに思い出したのである。
「元気そうだから、うみなさい」という言葉に躍りあがるような誇りを感じたわたしは、つぎの瞬間、それを足で踏みつぶした。誇らしく感じたことさえ意識してはいなかった。ただある感情の手触りを記憶していただけで、それはいまになって思うと、誇りのようなものだった、といえるのだ。躍りあがってる余裕なんかないのだ、ということだったかもしれない。足で踏みつぶして、泥の中に深く深く埋めてしまった。そして、そのことはそれっきり忘れてしまった。こんなに長い時間が流れて、ある日、ファラッチを読むまでは。ファラッチを読んでいて、その記憶がなんのまえぶれもなくふいにわたしの目のまえにあらわれたとき、わたしはその記憶の鮮やかさに衝撃を受けた。ふいに、鮮明に、もう一度その瞬間を体験するような感じだった。
 こんなに長い時間がたって、ようやくわたしはわたしの足で踏みつぶして泥の中に埋めておいたわたしのこころの躍動と顔をつきあわせている。こんなに長い時間がたって、はじめてそれができるようになった。
「うむ」ときめたものの、妊娠という状態の束縛に動揺したりいきどおったりしているファラッチの主人公は、結局胎児を失う。胎内で死んでしまうのだ。胎児は死んでしまったあとも、ずっと出てこない。主人公もじぶんのからだからそれを失うことを怖れている。けれどもやがて胎児が取り出される日が訪れる。わかれの日である。

 ああ、なんという痛み! とつぜん、わたしは気分が悪くなってしまった。いったい、どうしたわけ? またしても、ナイフで刺すような痛みが。まえとおなじように、痛みはわたしの脳に走り、突き刺さる。わたしは汗をかいている。熱があるみたい。とうとう、その時がきたのよ、おまえ。わたしたち二人を引き離す時が。でも、わたしはいやなの。連中がおまえをスプーンでひきはがすなんていや。汚れた脱脂綿やガーゼと一緒におまえを塵芥の中に捨てるなんていや。それはいや。でも、あたしにはほかにどうしようもない。

 病院の人々はそのあたしに取り出した胎児を見せたくはないといったが、主人公はどうしても見せてほしいという。彼女のまえに置かれた胎児は、彼女が壁に貼って見ていた雑誌のグラビヤ写真の胎児の姿よりもずっと小さく不明瞭な存在である。おまえは、あたしの空想の生きものにすぎなかった、と彼女はいう。あたしの愛したのは、ただのちいさなこんな魚のようなおまえだったのか、と。だが、そのちいさな魚のような不明瞭な存在の死が彼女のからだを毒している。彼女は死にかけているらしいのだ。彼女はまず、裏切られたような気がして腹を立てている。だが、さいごには、それもほんとうはどうでもいいのだ、と感じる。不明瞭な魚のような死んだ胎児に命を奪われることさえ、大きな約束と大きな裏切りの同時的な成就であるかのごとく。
 そして、わたしも、これほど長いことどこかに押しこめられていたあの一瞬との出会いは、後悔であるよりも、大きな約束の、裏返しにされた成就であるように感じてしまう。そのこととなめらかに折り合いをつけることはできないかもしれないが、ようやく自分が女であることと向きあえるような感じ、ようやくこのあたりがひろびろとしてきそうな――。

 ヨセフの美しい娘たちがまた声を上げて笑っている。黒豹の子供の眼をした下の娘がわたしを睨みつけている。ヨセフが家を案内してくれる。四年まえに建てはじめてまだ全然完成していない、あとまだずいぶんかかりそうだな、といって案内してくれる。すっかり立派にでき上がっているのは洗面所だけ。ヨセフは自分の家を縦と横の両方向において増やしたり、けずったり、出っ張らしたりしている。インドとも切り離され、イスラエルの主流の思考からも疎外されているヨセフの世界は未完のそれだ。いまはヘブライ大学の夜警をやって、これからのことをよく考えたいんだというヨセフだって約束と裏切りの地平に放り出されているが、おそれてはいない。


河出書房新社 1978年11月25日発行




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