『砂漠の教室線――イスラエル通信』 藤本和子

目次    


砂漠の教室 I

砂漠の教室 II

イスラエル・スケッチI
 ベドウィンの胡瓜畑
 銀行で
 雨の兵士
 スバル
 乗り合いタクシーの中で
 
鋼鉄《はがね》の思想

ヨセフの娘たち

イスラエル・スケッチII
 影の住む部屋
 悪夢のシュニツェル
 オリエントの舌

   
――言語としての料理
 オリエントの舌

   
――ハイファの台所
 あかつきのハデラ病院
 知らない指
 おれさまのバス
 建設班長
 山岳の村


なぜヘブライ語だったのか

    イスラエル・スケッチI

 鋼鉄の思想

 これはアフィキムという名のキブツに住む友人に聞いた話である。
 アフィキムはもともとロシアからの移民によって1920年代にはじめられた、左翼労働運動系統のキブツである。おそらく、アフィキムはイスラエルのキブツの中でも最大のものだろう。メンバーは二千人といわれている。メンバーが二千ということは、メンバーの子供たちの数などはそこに含まれてはいない、ということである。年老いた親をよそから呼びよせてキブツに一緒に住まわせるような場合も、やはりメンバーとしては数えられない。
 さて、このアフィキムは数年前に分裂して、分派がアフィキムを出ていった。そして、道をへだてて向い側に新しいキブツを設立した。
 新しいキブツはアシュドット・ヤコブと呼ばれ、やはりかつてのロシア労働運動の思想がその基礎に強く残っている。労働せよ、労働こそ神聖である、労働しない者は堕落退廃の恥ずべき存在であるという考えが深くしみこんでいる筋金入りのキブツである。
 ところで、ここに一人の助成がいた。彼女はアフィキム創立時代からのメンバーで、はえぬきだった。彼女はもちろん、女だから、あれはしない、これもしない、というようなブルジョワ的思想とはきっぱりと縁を切ったところで、思想も行動も正しく暮したのだった。灌漑用の溝も掘ったし、牛の糞の始末もしたし、トラクターだって運転した。模範的キブツ員として数十年を生きたのだ。
 その彼女は六〇歳になった日、「もういい」と考えた。あたしはもうじゅうぶんに働いたと思う。できることはなんでもしたし、ときにはできないことだってやった。身を粉にして、ただただ厳しい労働の毎日を生きてきた。もうこれでいい、このへんでいい、事実あたしはもういやだ、もうこれ以上は働けない、と思った。
 キブツの総会が開かれた日に、彼女はメンバー全員の前で、その日かぎりにもう働かないつもりだから、と宣言した。
 そのような態度は正しくない、と親しい友人がいい、彼女を労働の生活に引きもどそうと説得を試みた。彼女を日頃から好いていなかった人々は、「ほら、みろ、ボロが出た。プチ・ブル的本性を露わにしたな」といいあったものだ。他人になんといわれようと、彼女の決心は固く、彼女はそれっきり労働をやめてしまった。
 それから十年後、彼女は七〇歳でこの世を去った。
 葬式の日のことだった。
 いよいよ柩を墓地へ運ぶ時間になった。ところが誰も柩をかつごうとしない。
「十年前、もう働かないよ、といったときに、彼女は裏切ったんだからな」とある者がいった。
「そうとも、あのとき堕落して、それ以来、全然自己批判しなかったんだからな」と同意する者もいた。
 柩をかこんでいた者たちは皆、四十年、五十年を彼女とともにすごした同志たちである。でも誰も、十年前に労働をやめた同志の柩をかつごうとはしないのだった。
 やがて、一人がうまいことを思いついたというように、にわかにポンと膝を打ち、いったものだ。
「そうだ。自分で歩かせりゃいいんだ。好き勝手にした彼女だ、好き勝手に歩いて墓へ入ったらいいんだ」
 すると、相槌を打つ者がいて、
「そうとも、それがいい、歩かせりゃいい」というのだった。
「そうだ、歩かせろ」
「歩かせろ」
とべつの声が口々にいう。
 そうやって数時間がすぎた。「自分で歩かせろ」といった者たちは、柩の中の彼女がいっこう自分で歩くそぶりも見せないことを図々しいと感じたほどだ。
 ガリラヤ湖に夕闇が迫り、果樹園からオレンジの花の甘いすばらしいにおいがキブツにあふれるころ、同志たちは電燈もつけず柩をかこんで、まだすわりこんでいた。
「歩かせろ」
「そうさ、自分で歩かせろ」


河出書房新社 1978年11月25日発行




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