2015年6月号 目次
サッカーの好きなマージッド君
昨年、イスラム国が攻めてきた。ヤジッド教徒たちが、虐殺されている。クルド自治区に逃げてきた避難民も沢山おり、その中にはがんの子供たちもいる。
マージッド君もその一人で病院に入院していた。左腕が骨肉腫で切断したという。彼らは、アルビル市内の空き地でテントを張って生活しているという。抗がん剤を打ちに病院に通っている。がんの子供がテント生活をするのは厳しい。清潔にしていないと、感染症になる。
今回、TVも取材したいというので、家を訪ねた。周りには、避難してきたキリスト教徒たちのキャラバンが立ち並ぶ。ヤジッド教徒の避難所はドホークのほうに作られていて、ここからは、3時間以上もかかる。避難してきた家族が見つけたのが、空き地だった。
TVのクルーはエジプトからやってきた。でっかいカメラを前に、マージッド君はひどく緊張している。エジプト人の通訳がいろいろと注文を付けるので、マージッド君は、ますます緊張して、鎌田先生が、「イスラム国をどう思う? 故郷に戻りたい?」
と聞くと泣き出してしまった。そして、お父さんのところに行こうとするが、お父さんは、だめだ、ちゃんと答えなさい というように、押し戻したのだ。まるで、格闘技のリングに戻されるようだった。なんだか、とてもかわいそうで、僕は、ここでタオルを投げ入れるべきだと思ったが、サッカーの話になり少しリラックスしてきた。
「僕は、サッカーをしたい。」
どの選手が好き? 「メッシが好き!」
ああ、メッシを連れてきたら、喜ぶだろうな。しかし、それは不可能だ。
イラクの選手はどうなんだい。ユーニス・マフムード!「ユーニスは、大好きだよ。」
彼なら、今、アルビルのクラブチームにいるという。
わかった。ユーニスにあわせてあげる! ああ、約束してしまった!
外は、雷が鳴り、大雨が降ってきた。テントにあたる雨音が激しい。
僕は、エジプト人の通訳に、
「マージッド君を泣かしちゃったんだから、責任をとってよ」と迫った。
彼も、前の日に、上司から、いろいろ言われたみたいで、がんばりすぎちゃったところもあるのかもしれなかった。
そのあと、マージッド君が持っているぼろぼろのサッカーボールで、遊んであげていた。結構サッカーがうまいので、マージッド君も少しうれしかったみたいだ。こいつがメッシだったらなあ! もっと喜ぶんだけどなあ。もちろん、ユーニスでも。
数日後、アルビルのクラブチームのあるスタジアムに行く。イラクは、FIFAから国際試合を禁止されている。理由は治安だ。イラクの選手も何人かはテロで犠牲になっている。しかし、2013年には、治安が良くなったとして、国際試合が解禁された。しかし、ワールドカップ予選のイラク―日本戦は、まだ日本の選手を送るのには、問題があるというので、カタールでの試合になった。これにはイラクを応援している僕としては文句を言いたくなった。実際、カタールはイラク人に厳しくビザを出さないから応援団は日本のほうが圧倒的に多かったのだ。
アルビルのスタジアムのピッチに入ってみる。なんと、ゴールのところに羊のふんが転がっている。羊が勝手に入ってきて芝を食ってしまったのだろうか。夏はフレッシュな草がない国。結構遊牧民が、街中まで羊を連れてそこらへんの草を食わせる光景を今までも見たことがあるが、これでは、ゴールキーパーいやだろうな。と納得した。
今回もピッチに入ってみると、なんと、クローバーの花が芝に紛れて咲いている! のどかないい感じ。サッカー選手が、四葉のクローバーを探しているうちにゴール! なんてこともあるのかな。
さっそくユーニスの交渉。オーナーも「それはいい考え!」と言ってくれたものの、ユーニスは、海外での大きな試合しか出ないから、あまり、イラクにはいないらしい。え? エースストライカーなのに?
「そう、ここの選手は最近財政難で、給料をほとんどもらっていないんだ。ユーニスは、まったくノーギャラでチームに貢献しているので、いつ試合に出るかとかは、彼次第なんだよ。」
へーそうなんですね。ただ、日本のサッカーだって、今はJリーグで、億の金を稼ぐ選手もいるが、ついこないだまでは、そうでもなかった。松本の山鹿というチームはJ1で活躍しているけども、2007年ごろは、JIM-NETのチョコ詰めのアルバイトに選手派遣をお願いしていたこともある。サッカー選手の苦労話は万国共通かもしれない。
「彼が、スタジアムに来たら連絡するよ。」
ということで、電話を待っているうちに一か月が経ってしまった。FIFAの汚職の話もあるが、ともかく、サッカーは、宗派や民族を超えて、イラクが一つにまとまれるチャンス。ユーニスががんばった2007年のアジアカップでは、イラクが優勝し、一気にイラクの治安も安定に向かったのだ。
6月11日、日本でイラクとの親善試合が組まれた。試合の前にユーニスにインタビューしたいし、マージッド君を喜ばせてあげたいものだ。
MINEKO
みね子は私の祖母だ。
私が幼い頃に死んだみね子がどんな人物だったかは、周りの人の話しと、
わたしの仄かな記憶と、仏壇に飾られた遺影で形成されている。
みね子は自分の名前を「峯子」や「峰子」と記していた。
どちらが本当なのかはわからない。だから私の中で「みね」だけ平仮名にすることにした。
着物姿でいる日が多かったとおもう。華奢な身体つきで背筋がピンと伸びているが、余分な力が入っていない姿勢。
若い頃から酒を飲み、タバコを吸う。戦争で夫を亡くし、独りで3人の子供を育てながら、料亭の女将として長いこと働いた。料亭をやめた後も自由に飛び回っていた。医療用品の小売業をしたり、作家の女中になった。
その後はとうとう身体の調子が悪くなり、寝込む日が多くなる。それでもパチンコへはよく通っていた。
時々夜に起きて、居間をフラっと歩く。猫のような婆さま。
「お酒は身体に良いらしいねえ」「一杯でも呑むとすごく元気が出るんだがねえ」と家族の前で呟く。決して欲しいとは言わない。
「じゃあ少し呑むかい」と誰かが言うと、「そう言われたら、いただくかねえ」と嬉しそうに席につくのだった。やはりお酒が大好きだった。
超の付く気分屋で頑固者のみね子は機嫌の良いときはたいへん社交的で、来客があれば料理の腕をふるい、一流の女将となってもてなした。
客は全員みね子のファンになるのだった。
しかし虫の居所が悪いと、爆弾低気圧を抱えたような形相で2週間以上家族と口を利かないうえに、部屋に閉じこもってしまう。そしてよく家出をした。
旧友の家や店を転々とし、くだを巻いて巻いて気が済むと何事もなかったかのように帰ってきた。
「おいしい饅頭を買ってきたから皆で食べよう」とか言いながら。
勝手にマンションの一室を借りて、家具を一式揃え、ひとり暮らしをしていることも多々あった。
周辺の人々はそんな彼女に見事に振り回されていて、よくトラブルが起こっていたが、
家族だけは(彼女なりに)非常に大切にしていて、助けるときは豪快に助けた。
いざという時、人の前に出て行くその姿は凄まじい迫力だった、とわたしの母はよく語っていた。
その強さと潔さは、皆の中に強烈で嬉しい記憶として残っている。
みね子は生まれたばかりのわたしを見るなり、「この子は呑むぞお」と言い放ったそうだ。
その予言通り、現在のわたしはしっかりとお酒が大好きになっている。
梅雨の中の決意
思えば去年の末あたりからの、なんだろうこの違和感をともなう「はぁ〜っ!」という感覚。ずっと続いていたまま。住んでる土地が土地だからしょうがない、諦めたふりをしてみることにする。テレビ、新聞はおのれのめちゃくちゃな主張する輩ばかりなのでラジオを聴くのがほとんどになる。なんたって今や全国のラジオが聴取可能となった。
月の三分の一は風邪を治すのに費やす。裸で扇風機にあたって寝てりゃしょうがない。風邪が治ったころ台風が朝に通り過ぎ、午後には古い知人が石垣に来ているので飛行機に乗って会いに行き、夕方から食べつつ飲む。夜に石垣の街をひとりでうろうろしていたら警官から職務質問される。免許証を出し、観光で来たことを説明。暗い筋道を歩いたためらしい。近所で喧嘩があったのでかけつけたら、暗がりの筋道をひとりうろうろするへんなやつがすぐ目に付いたので声をかけた、と。きわめて紳士的にふたりの警官に接している、というのに。翌日は朝から自転車で近くの海まで行きホテルで朝食を食べ、空港で別れて午後の飛行機で戻り四時ごろには家に着く。二十五、六年ぶりに訪れた石垣の旅はすぐ終わった。しばらくして梅雨に入る。
横田基地にオスプレイが配備のニュースがあった。それもCV。でもその機種を使う部隊は嘉手納にあるから結局来るんでしょ、こっちに。先月、佐賀でオスプレイ配備を見据えてということで自衛隊のヘリが飛んでいるニュースを見た。ヘリと音が全然違うし、地元の方々も参考にならないとおもう。
今年の梅雨はいつもより雨が多い。雨が続くと涼しくなり、また裸で寝ているとまた風邪をひいた。学習能力は相変わらずない。今度の休みにジェームス・ブラウンの映画を見に行くのでそれまでに治す!
アジアのごはん(69)恐るべしアスパルテーム
インドに行き、その後タイに戻ってからバンコクの友達マーシャに会った。マーシャはOリングテスト(LET)の達人なので、インドでふしぎな寄生虫とかウイルスとかをもらってきていないか、体の不調がないかをチェックしてもらう。
インドに一緒に行ったうちの同居人は、コルカタでタクシーのトランクに荷物を入れているときに、トランクのふたの留め金がはずれて、どかーんと頭の上に落ちてきて、かなり強く頭を打った。そのことがあったので「頭をよく見てね。それに歳のせいか、最近ちょっと頭が悪くなってる気がするんだけど‥」と同居人のチェックをお願いした。
頭を強打したりすると、その時は何ともなくても、血管に傷がついていたり、血が固まって血栓になって、のちのち病気を引き起こすこともあるので、要注意なのである。
「ん〜、やっぱりちょっと血栓ができてるね。んん? あれ、これは・・」「え、なになに?」マーシャがふしぎそうにチェックをしているので、訊いてみると「なんか、変性たんぱくが、ちょっとこの辺に」と前頭葉のあたりを指す。「ええ、それってアルツハイマーとかを引き起こすやつ?」「う〜ん、他にも何か良くないものが脳に溜まってるなあ、何かなコレ」
ちょっと待った〜〜。食事担当であるワタクシは、安全性のあいまいな添加物や農薬などのない食品を選び、野菜の多い自然な食事を日々作っているし、掃除や洗濯などにも合成界面活性剤や殺菌剤の入らないせっけん、重曹、アルカリ電解水や乳酸菌などを駆使し、旅行中だってなるべく害の少なそうなものを食べている。ジャンクフードなどは基本的に飲まない食べない。
こんなに生活に気をつけているのに、なぜそんなものが脳にたまっているのか。同居人は1年の3分の1は仕事で家にいないし、その間の外食に問題があるのか。いや外食もできるだけ気をつけてはいるはず・・。
「そうだよねえ、変な食生活してるはずないよね。じゃあ何か嗜好品とかは?」「あられが好きでよう食べるけど‥外食は多いけど、割と気をつけてるし、コンビニとかでも新聞とガムしか買わないし‥」同居人がそう言うと、マーシャが「おっ」と言う顔をした。
「ガムって、どんなの」「今も持ってるよ。これこれ」ヒバリもたまに食べるガムなのでカバンから取り出して見せる。お口の恋人ロッテのXYLYTOLキシリトールである。
「もお、これ、思いっきりアスパルテームが入ってるの、知らないの?」「え、キシリトールって歯にいいと思って選んでたんだけど。アスパルテームって??」成分を見ると、たしかに人工合成甘味料のアスパルテームの名前が。どれどれ、とマーシャが同居人の頭とガムの共鳴現象をチェックすると、ばっちり反応した。
アスパルテームは安全性に疑問のある人工甘味料であるが、実のところあまり気にしていなかった。基本的に添加物の入っていないものを中心に食べているし、ダイエットペプシもコカコーラゼロも飲まないし、カロリーハーフなどのような人工甘味料は自分では使わないから、自分の食生活の中に入り込んでいるとは思ってもいなかったのだ‥。
「ガムを噛むと唾液も出るし、口の運動にもなるから、しょっちゅう噛んでたのに〜」体に良い選択と思ってキシリトールガムを選んでいたのに、アスパルテームが入っていたとは何ということか。キシリトールは高価な糖なので、メーカーは、コストを下げるために半分は安価な人工甘味料を使っているのだな。
「アスパルテームってそんなに体に悪いの?」「ものすごく悪いね。脳にかなり悪影響がある。ちなみにほかによく使われる人工甘味料スクラロースはこれも脳に悪いけど、肝臓にもすごく悪いよ」と、マーシャ。これはOリングでのチェックの身体反応の結果からの意見であるから、Oリングテストなど眉唾ものと思っている人はスルーしてもらってもいいが、人工甘味料は動物実験などでも脳に腫瘍ができる研究結果がたくさん出ているのである。脳だけでなくさまざまな病気や不調を引き起こすとされている。
スクラロースとアセスルファムKは代謝されにくい甘味で99%体外に排出される、ということで比較的安全と思われているふしのある甘味料だ。ところが実際は発がん性が疑われるだけでなく、分子が小さいので吸収され血管内を駆け巡り、肝臓と腎臓を通ってやっと尿から排出される。その排出のために肝臓と腎臓が多大なダメージを受けることが分かっている。
ちなみにアスパルテームに関する安全という研究結果はすべて開発したサール製薬のスポンサーの元に出されている。アスパルテームはアメリカで1965年に開発されてから、安全性に大きな疑問があるとしてFDA(アメリカ連邦医薬局)に認可申請を却下され続けていた。ところがサール薬品のCEOにラムズフェルト元国防長官が就任し、レーガン政権が発足した1981年に認可される。その時の新しいFDA局長はラムズフェルトが政権移行時に指名した人物である。この時の局長アーサー・ヘイズはFDA辞任後サール製薬に入社。(サール製薬は2003年にファイザーに買収される)なんてあからさまな政治的・利権漁り。
アスパルテームはアスパラギン酸とフェニールアラニンの化合物で、どちらもアミノ酸にすぎないから危険なわけがないという能天気な化学者の意見があるが、こういう人工化合物で注意したいことは、元が天然に存在する化合物であっても、自然界に存在しないものを合成した場合、それを摂取した人間の体がどう反応するのかは、分からないことだらけだ、ということである。
アスパルテームやスクラロースは、FDAや日本の厚生省などで認可されているから安全だ、と信じて自分の体を人体実験に差し出すのはあまりにもリスクが大きい。国民の健康のことを考えて認可を出しているのではなく、企業の利益のため、利権のために認可を出しているのだから。
バンコクのトップスマーケットに行くと、棚に日本の「のど飴」が置いてあった。何の疑いもなく袋を手に取り、ふと後ろの成分表を見た。「アセスルファムK、スクラロース‥」え、なんでのど飴に!思わぬところにも使われているものなのだ。不安になって、スーパーのガムコーナーに移動し調べてみるとタイ製のガムや口中清涼剤はことごとくアスパルテーム入り。タイでも相当浸透している。
日本で使われているのは、これまでたいがい「カロリーハーフ」だの「ノーシュガー」「カロリーオフ」「ダイエットなんとか」とうたわれる食品だった。ダイエットや糖尿病予防にと思って安易にこういう製品を選んでいると、脳へのダメージ、アルツハイマー、脳腫瘍、へまっしぐらである。それだけでなく、リンパ腫、白血病、目の疾患、甘味中毒、うつ、ぜんそく様アレルギー、胃潰瘍、低血糖症、月経不順、胃潰瘍‥になるかもしれず、さらに腸内細菌構成の変化によって糖尿が悪化するという研究結果まで出てきているので、糖尿病への早道にもなる。砂糖の摂り過ぎは身体に悪いから、と‥人工甘味料を選んだら、もっともっと最悪な結果になる。
しかし、最近はカロリーオフ系でないものにもどんどん使われているので、安心できない。無印良品のはちみつねり梅、アスパルテーム入り。ハウスのカレールウにもスクラロース入りのものがあるし、コンビニで売っているスイーツ、アイスクリームなどにも入っている。飲料にも多い。なかでもキリンは人工甘味料がお好きなようで、午後の紅茶ピーチ・アールグレイ、缶コーヒーの微糖系、スポーツ飲料、炭酸飲料、発泡酒、氷結シリーズのチューハイシリーズなどなど、とめどなく使われている。
糖質ダイエット・糖尿予防・痛風予防に糖質カットのビールや発泡酒が人気なようなので、合成甘味料が入っている製品名をいちいち挙げてみよう。アサヒビール:スタイルフリープリン体ゼロ、クリアアサヒ糖質ゼロ、アサヒオフ、アクアゼロ、オリオンゼロライフ(すべてアセスルファムK)。キリン:淡麗プラチナ ダブル、ゼロ生、オフホワイト、のどごしオールライト(すべてアセスルファムK)。サントリー:おいしいゼロ、ジョッキ生、オールフリー(アセスルファムK)、ラドラー(アセスルファムK、スクラロース)。糖質ゼロ系ビールでは入っていないのは今のところサッポロのみか。アセスルファムKは苦みがあるので、ビール風味を増すのにも便利?
同居人の脳に溜まっているという変性たんぱくについては、アスパルテーム入りのガムを止め、毒出し効果の高いタイの薬草を使って、薬草茶を作り一か月ほど飲んでもらったところ、最近は「なんか頭悪い‥?」と思うことがほぼなくなった。ひと安心である。老化によって、脳の働きが落ちたのかと思っていたが、原因はやはりアスパルテームか。
老いや死というのは誰の上にもやって来る。そのありようは様々だろうが、老いに関してはけっして等しくはない。回りを見わたしてみると、人によってその老いの出方の差はずいぶん大きい。いつまでも若々しく元気な人と、あからさまに身体も心も頭も老いて行く人との差はいったい何から来るのか。その原因のひとつがアスパルテームなどの人工甘味料や添加物などだとしたら?
大丈夫と思っている食習慣にさまざまな添加物が忍び込んでいるかもしれない。アルツハイマーなどになりたくないと思う人は食べ物・飲み物を買うときには今いちど成分をじっくり観察しましょう。安全性は政府や企業が保証しているから問題ないと思う人はどうぞココロゆくまで人工甘味料をお楽しみください。
私的青空文庫のお話(その2)
5月の最後に青空文庫のITインフラ周りの未来を考えるアイデアソンが開かれた。残念ながら、傍からでも参加できなかったのだけれどもなかなかの盛況だったようだ。ゆくゆくは若い世代に引き継がなければならないのだから今のところは遠いところから見ていようと思うのだが、何点か気になる点があったので最初にコメントしておこうと思う。
まず、今問題になっている校正システム(というのも実態を示していないと思うけれど)だが、会の中では校正待ちファイルが最重要というようなコメントがあったようだけれども、青空文庫としては入力受付からの作業中のステータス情報すべてが大切なんだと思っている。それはその情報が青空文庫の活動そのものだから。もし、中の人たちがテキストファイルが重要という認識を持っているのだとすれば、それは活動としては問題だと感じた。入力を宣言して、何か月も、何年もかけながらファイルを仕上げる人たちひとりひとりの善意が大切だと思ってほしいものだ。
ネットワークを利用した校正システムを立ち上げることは反対はしないけれど、いくつかの問題や課題があることも認識してほしい。ひとつはテキストアーカイブという作業が必ずしもネットワークのつながる場所でのみ行われる行為ではないこと。そして、校正作業に関しては紙の上で行った方が効果があることもあることをおさえて欲しい。特に青空文庫で問題となる「字形」についてはいいかげんなunicodeではなく、JIS字形に従ったコード体系で扱う必要があることに注意してほしい。これは、現代かなを中心に扱う現代の文章作成と古典的な字体も扱う青空文庫との違いの一つでもある。
それから、校正システムをネット上に置くことは、著作権の残る作品の場合には問題となることも注意してほしい。毎年、正月にアップしている著作権切れ作者のファイルは実際には著作権が有効になっている2年前、3年前から始まっている。このことは、個人で底本からファイルを作成し、青空文庫に送り、誰かがそれを校正する(青空文庫で受け取って校正にまわす時点でかなりグレーだとは思うが)。この作業は実際には著作権が生きている状況で行われている。これを底本や入力したテキストファイルを多数の見える場所に置くということは著作権保有者の要らぬ反発を招くのではないかと心配している。青空文庫の存在自体は認知されてきたとはいっても、青空文庫で行っていること全体がフェアユースとして認められているわけではないので、ひとつひとつの作業や環境について、著作権法から見て大丈夫なのかどうかをきちんと検証しながら進めていく必要があるだろう。
テキストの間違い指摘のシステム化の話も出たらしいが、会の中ではどうやら黒歴史の問題が大きいとコメントされたらしい。しかし、実際的には間違いの指摘において、もめる前に、底本の確認なく読者が違和感を感じただけで指摘を上げ、それを底本にあたって調査するといったやりとりの負荷がまず問題だったと感じている。当時、ほとんどの指摘に関して、県立図書館、市立中央図書館という中核図書館の近所にいた富田さんが対応していたが、そのやりとりは見ていても頭が下がるものだった。しかも、ほとんどは「底本ママ」ということで、指摘者の誤指摘なのだけれども、そうしたやり取りが対応者の負荷となっていた。せめて、底本との比較をして、その結果をもって通知というプロセスを求めるべきであったと、今思い起こすとそのように感じている。
その中で、底本原理主義者ともいうべき、「ケ」「カ」にまつわる問題が発生する。基本的に底本のまま、ただし、日本語が揺れる過程で発生した「ケ」「カ」という文字については青空文庫のテキストではこうしますと決めてしまえば問題ないように思うのだが、自分の考えは曲げられないという主張が長い間の論争につながってしまったのは残念だ。
同様に、日本語の解析のために青空文庫を利用できるようにしたらどうかという意見もあったようだけれども、文学部の論文のためには、校正のしっかりとした底本が欲しいというアカデミアサイドからの文庫本底本排斥の動きがあったこともひとつ覚えておくべきだろう。本来、論文に使うのであれば、きちんとした底本に基づいて各自が校正をかけてから使うというのが正しい研究の進め方のようにも思うのだが、自分の論文の研究に使えないから青空文庫は危険だという主張も過去にはあったということも覚えておいて欲しい。それほど、他力本願と自己主張のターゲットに青空文庫も巻き込まれた歴史がある。
この話の最後に、当日のツイートを読んでいて悲しくなったということを付け加えておこう。
前半のプレゼンの最中のコメントで「80のためになんで対応しなければならない」という趣旨の発言があったが、現在、利用できる青空文庫のテキストは、その80歳の人たちも含めて多くの先達たちの努力のもとに作られてきたことを忘れてはいけないだろう。それだけでなく、死後50年で涙をのんだ遺族やその何十年も前に著作を書き上げた方たちの行為の上で、私たちはそれを利用できているのだということを、もし、青空文庫の活動に関わるのであれば忘れてはいけないと思う。
いろいろな背景と現状システムの状態遷移、フロー図については、力になれる部分もあると思うので、必要ならよろしくです。
さて、長い長い脱線から戻して、きっと短い本題へと入ろう。
青空文庫のまず初期は量を増やすことが活動の中心だったように記憶しているというのは前回までのお話。
さて、量が出てきたところで、工作員の私が勝手に考えたのは次の2点だった。
(1)青空文庫を読む人を増やそう
(2)青空文庫を使って、青空文庫らしいテキストを拾おう
当時、数の増加に寄与したのは森鴎外、夏目漱石と全集のほとんどがテキストになった芥川龍之介の存在だった。一時は芥川文庫などとも揶揄されたが、そのくらい、芥川の量は多かった。純文学に、特に古典の偏った状態は読者を広げられるとは思えなかった。
文学作品の基本は大衆文学であるというおかしな信念を持っている私は、まず、大衆文学の分野の拡充に手を染めようと思った。それが、チャンバラと探偵小説の入力だった。林不忘や大阪圭吉などの作家を探しては入力することをしていた。その中で、翻訳が欲しいと探し出したのがポーの一連の翻訳だった。長らく黒猫やモルグ街がランキング上位に入っているのを見ると、その選択は正しかったように感じている。
また、その作家探しの中で見つけ出したのが、佐左木俊郎である。
新潮社の編集者であり、若くして亡くなった作家であった佐左木の作品は独特の雰囲気を持ったものばかりで、私は一気に引き込まれた。特にショックを受けたのはその全集の立派さと、その割に進んでいるようには見えない版の状態だった。要は立派なやすい古い本を入手して、これはダメだろうと思ったという事だ。そこで、全集を題材にいくつか見繕って入力公開することで紹介できないかと思った。いまでも、ランキングの上位に入ることはないけれども、朗読のファイルが作られたり、ドラマ化されたことを考えるといくらかは前の状況よりはよくなったのかもしれない。
次の話は、佐左木の経験とよく似ている。
インターネットとテキストアーカイブを利用することで変わることはなんだろうか? それは、自分の著作の流通コストが下がるということだと考えている。下がることで、いままでは読者が少なくて流通に乗ることが少なかった作者の著作を広げられることはできないか? この発想から、日本における(青空文庫が日本語のアーカイブだから)マイノリティの作品を取り上げてみようという作品探しだった。この作品探しから、沖縄、併合時の朝鮮人といった視点で作者を選び出したが、残念ながらマイノリティの文学はその量が著しく少ない。特に、アイヌと琉球は、物語を小説という文字ではなく、歌で残すという文化が似ていて、なかなか文字で残されたものを探し出すのが難しかった。ちなみに我が家には東洋文庫の伊波の「をなり神の島」(全2巻)が入手済みになっている。いつか作業できればと思うが、さて、いつ開始できるものかわからない。
次のマイブームはSFをコレクションしようだったけれども、この話は、青空文庫の未来の話とともに次にまわそうと思う。
しもた屋之噺(161)
芝生を刈りながら、どうか葉と葉の合間に息づく虫たちを,無為に殺したりしませんように、と無意識に祈りながら芝刈り機を押していることがあります。昨日も芝刈りを終えると、目の前に、それは見事な黄金色に光る、テントウムシのような形の昆虫、これもコガネムシなのかなと、思わず手に取りました。
戦争で爆撃などで、人を殺めるのも、こんな感じなのかしらと思ったり、でもあちらはそれを前提とする行為だから、少しは違うかしらと思ったり。ああ間違って殺ってしまった、という感じなのかと思ったり。間違いを何度も繰り返すうちに、感覚が少しずつ麻痺してきて、それが愉快にさえ感じられるようになるのかと思ったり。
狩りが趣味だった時代があるとすれば、殺める行為のどこかに、本質的にわれわれの本能のどこかにドーパミンを発するスィッチが残っていて、何かの切っ掛けでそこに電流が流れるようになるのかしらと思ったり。
たとえ倫理的におかしいからと、普段は頭から切り捨てていたとしても。
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5月某日
ミラノで反万博のデモ。昨日まで授業をしていた基督教大学のあるカルドゥッチ通りで、車が放火され、銀行や菓子屋のガラスが粉々に叩き壊された。突然繰り広げられる超現実的な光景に衝撃を受ける。息子は万博よりこの反万博のデモ隊が気になって仕方がないらしく、盛んにニュースのスレッドを検索している。イタリア人がやっているのかと思いきや、彼らはヨーロッパ各地から集まって来て、昨晩はミラノの北公園や、ジャンベッリーノ地区に滞留と国営放送が発表したので驚く。この辺りに匿われているらしい。
5月某日
左手の親指に疼痛。終いには酷くて鉛筆も持てない。リューマチかしらと思っていたが、どうやら先日自転車に乗っていて、車と接触したところだと気がついた。ウィンカーも出さず、携帯電話を見ている運転手の傍らで自転車は危険極まりない。
ここ暫く拙宅に身を寄せている矢野君が、カニーノのレッスンから戻ってきた。109を持って行くと、繰り返し和声について指摘されたという。その彼と息子を連れダヴィンチ展へゆく。
膨大な量の人体や動物の骨格、筋肉、解剖学的スケッチや、陰影の入角計算、遠近法の計算など、徹頭徹尾主観を排除し対象物を描こうとする態度が貫かれていて、ゴシック期を経て、真理を求める当時のメタ宗教観でもあるだろうし、古代ローマ文化への憧憬もカソリック文化との矛盾を晒け出す。精神性とは、前提としてアプリオリに存在するものではなく、最終的な帰結点として彼が目指し続けたもの。写実性を高めることで、真理に近づくと信じたのだろう。
イタリアの文化は、かかる現実主義に培われ現在に至る。109の精神性は、均整のとれた骨格と、無駄のない美しい筋肉をあつらえることで生み出される。高邁な精神性、観念性をもってしても、筋肉や骨格を寸分違わず埋め込むのは不可能だと悟っていたに違いない。
5月某日
作曲科生二人を相手に、三階端の教室でビッチェとピェイグ・ロジェの和声課題を読む。先週はディティーユとメシアンを読み、メシアンの「キリストの昇天」や「おお聖なる饗宴よ」を弾いて聴かせた。今日は低いヤマハの縦型ピアノでは、階下で稽古しているボエームの声量に負けて何も聴こえない。仕方がないので共鳴板を跳ね上げると、丁度学生との間に目隠し板がある格好になり、フランチェスカが笑いながら、「ちょっと止めましょうよ。これじゃあ教会の懺悔室みたい」と声を上げた。民放ラジオで一番大きな「ラジオ・ポポラーレ」で、クラシック番組を長く担当しているフランチェスカの声はよく通る。
「両親が熱心なカソリックだったから、14歳までは毎日曜日、教会のミサに通ったわ。そうして懺悔なんかもさせられて」。
どんな心持ちなのか尋ねると、
「あんな偽善にわたしは我慢できないわ。体裁としては神に懺悔するわけだけれど、実際は懺悔している相手の神父が誰だかも知っているし、神父も私が誰だか知っている。ただの茶番よ」。
定期的に懺悔をしなければいけない、というので、特に懺悔をすることがないときはどうするのかと尋ねると、
「懺悔することがない人間なんて、聖人でもなければ無理ね」
と、至極真面目に応えられてしまった。
「両親は大層がっかりしたけれど、或る時からカソリックであることを止めたわ。うちの娘にもまだ洗礼を受けさせていないの。彼女が自分で洗礼を受けたいと云えば反対しないけれど、自分が信じてもいないことを、娘に課すのは間違っているでしょう」。
いつも明るく笑っているフランチェスカから、そんな話を聴くとは想像もしていなかった。
少し驚きながら家路につき、息子を小学校に迎えに行くと、親友のグリエルモと別れるところだった。
「グリエルモは今日初めて教会で懺悔をやるんだって。お父さん懺悔って何」と尋ねられて、言葉に詰まった。
5月某日
ビッローネの楽譜を読みながら、ヴァレーズ、カウエル、アンタイル、ルッソロといった人々が一世紀程前に目指した音響体と、ジョリヴェやハリソンのような民族主義が混交する錯覚に陥る。百年前は大音量で機械的な音響を目指していたが、科学の進歩や技術革新が進んだ今日、シェルシやノーノ、シャリーノやラッヘンマンといった人々を経て、マクロからミクロへと視点は転換し、微細でより機械的でない音響が求められるようになった。
ビッローネの楽譜が、思いの外構造的に構築されていておどろく。東洋思想など影響を受けているから、そうした手続きを意識的に避けていると思いこんでいた。詰まる所、丹念に描き込まれた陰影を、どれだけ正確に実現できるか、ということ。余計な先入観も観念性も排除したところに彼の音楽の本質が浮かび上がるのだろう、などと考えていて、何だかイスラムの教えのようだ、と荒唐無稽な思考が頭を過る。観念的な視点では、人間はどうにも恣意的に都合良く理解したつもりになるものらしい。
音楽学校で四声の和声を学ぶのは、言い換えれば、西洋音楽の伝統は全て四声で表現できるから。四声で言い尽くせるのは発想の限界と揶揄されるかも知れないが、これ程豊かな無数の音楽が、四声から紡ぎ出される驚異をおもう。尤も、四声に収斂できるという発想そのものが、西洋的なのだろうけれど。
階下で矢野君が、バッハの「旅立つ兄への奇想曲」を練習している。飾り気のないプロテスタント教会を思い出し、幾度も繰り返し試している装飾音が、土壁のシミのように音楽に吸い込まれてゆく。飾っても華美にならぬ純朴な宗教心を思うのは、カソリック文化に囲まれて暮らしているからか。
5月某日
沢井さんから「東アジア琴箏の研究」を頂戴し、嬉々として読みふける。中国の古琴の奏法をはじめ、各楽器についてこれほど丁寧に噛み砕いて説明されていることに驚嘆し、安易に情報を得られるようになった昨今、我々の知識がどれだけ表面的で薄いものになってしまったか痛感する。「マソカガミ」に演奏に際し、彼女は当初、正倉院の楽器を復元した七絃琴が、表現力に欠けることに落胆していらしたが、現在の古琴の先入観さえ棄ててしまえば、丘公により近い少し和琴にも似たあの乾いた音、渡来人が携えてきた当時の音で、聴いてみたいとお願いし、「真澄鏡懸けて偲へと奉り出す形見のものを人に示すな」と詠んだ、地の果てに流れ着いた中臣宅守を想う。
5月某日
ある友人の音楽家からメールを頂く。「最近、日本国民でいることが恥ずかしくなってきました」とある。食事中に日本のニュースをラジオで聴くのが常なのだけれど、先日、沖縄の理解について話していて、70年前日本とアメリカは沖縄で戦い、その後27年間アメリカの統治下に置かれ、昭和47年に日本に戻ってからも、アメリカ軍が駐留していて云々と続いた。しかしながら70年前に何故日米が沖縄で戦いを交え、何故アメリカの統治下に置かれたのか、一切説明がなかった。一言では説明できないのも解るけれど、日本の無条件降伏か、せめて敗戦について説明しなければ、現在まで米軍が沖縄に駐留する理由に納得はゆかないだろう。
若い人々がものを知らない、と苦言を呈す前に、我々は全てを詳らかに説明する責任を負っているはずだ。
歴史認識における近隣諸国との軋轢に関して、どれが正論かは分からない。これがヨーロッパであれば、第三者機関に判断を委ね、その決定に国民は随うのだろうが、文化が違うので仕方がない。中東も、同じように問題解決ができるとは思えない。
近隣諸国による対日本の歪んだ歴史教育を糾弾する前に、我々自身が次の世代に全て正しく伝えているのか、鑑みることも或いは必要かもしれない。さもなければ、歴史認識の相互理解は乖離するばかりではないか。
5月某日
イルカ追い込み漁禁止のニュースで、「日本文化の否定」に対して強い拒否反応があったと聞く。田舎が湯河原なのでイルカ肉については知っている。その昔肉を定期的に食べられなかった頃の貴重なタンパク源で、普通に肉が口に出来るようになった現在、マンボウの刺身のように特に好きな人が口にする程度で、それ以上でもそれ以下でもなく、鯨肉よりも希少なはずだ。
ただ、追い込み漁がどんなものかも知らなかったし、水族館のイルカと関わっているとも知らなかった。
水族館の見世物にされるイルカが可哀想という人もあれば、イルカの紹介を通して理解を深め、環境問題、自然破壊問題に目をむける切っ掛けになるという人もいるだろう。動物園の動物がどのように捕らえられているかも、我々は知らないし、知るべきかどうかも分からない。我々の食肉の屠場の様子や、薬品や化粧品の動物実験について、我々が敢えて知ろうとしないのと均しい。残虐で子供に屠場は見せられないが、肉は食べるという我々の矛盾に、あまり我々にも馴染みのない日本伝統文化の誇りが薄く混じっている感じか。
スカラで掛かっているバッティステッリの新作オペラ「CO2」を観にゆく。息子が毎日家で児童合唱の練習をしていて、彼の歌う場面の音楽は知っていた。
我々の環境破壊、エネルギー消費や消費世界、飛行機の二酸化炭素排出量増大が地球を破綻に導く、という啓示的内容。音楽は停滞せず展開し、舞台そのものが巨大なアップルのモニターになっていて、その中で物語がオムニバス形式で展開するのだが、舞台装置は前評判に違わず見事だった。そして、エネルギー消費削減を啓蒙する舞台を作るべく、電力とエネルギーと、世界各地から飛行機で集う演奏者や観客の不思議を思った。
仙台ネイティブのつぶやき(2)高原に火を放つ
仙台から北西方向へ車で2時間半ほど。温泉地として知られる鳴子を過ぎ、さらに山道を登っていくと、鬼首(おにこうべ)という地区に行き着く。もうちょっとで秋田県という豪雪地帯だ。地区全体が大きなカルデラの中にあり、カルデラの中央には1000メートル近い荒雄岳という山がそびえる。その山裾を縁取ってきれいな円を描くように川が流れ、流れに沿って集落が点在している。
尾ケ沢という集落があって、この8、9年ほどここに暮らす高橋敏幸さんというおじいさんから、かつての山の暮らしを聞くのを楽しみにしてきた。
春先、雪が残る森の中でソリを使って行う燃料の薪や屋根葺き用のカヤの運び出し。家畜に与える草の成長を促すために行う野火入れ。大きなカゴを背に、山と家を何度も往復する春の山菜採りと秋のキノコ採り。鉄砲を肩に、愛犬を連れてウサギやヤマドリを探し歩く狩り。そして、冬場、囲炉裏端でどぶろくを片手に励んだお膳づくり...。田畑と家畜の仕事を基本に、実に多彩な生業の組み合わせで山の暮らしはが成り立っていたことを教えてもらった。
尾ケ沢には、いまも水道が通っていない。裏山に湧く水を、台所と風呂場に引いて使っている。知ったときは本当に驚き「いまだにですか?」といいかけ、ことばを飲み込んだ。高橋さんが「家の裏の太い杉の根元からボコボコ水が湧いてきて枯れたことがない」と続けたからだ。数メートル先にいい水がこんこんと湧き出ているのに、水道を引き塩素消毒した水を飲む必要がどこにあるだろう。高橋さんはさらにこう話した。「昔は台所に水舟があってこの湧き水を引き込んでいてね、イワナまでごちゃごちゃ飛び跳ねながら入ってきたんだ」
「5月1日、野火入れ」。そんなメールが、高橋さんの息子さんから届いた。震災や天候のせいでここ3年休んでいた野火入れを今年は実施するという。ぜひ一度見たかった。
集合は朝8時半。張り切り過ぎて1時間も前についた鬼首は、よく晴れ渡っていた。遠くの山の残雪が白くくっきりと浮き立って見える。桜の木が、茂り始めた草の上に最後の花を咲かせ、ごぉーっと音を響かせて勢いよく雪解け水が流れてくる。山からも地面からも冬のきびしさは消え、やわらかでやさしい息吹があたりに立ちこめていた。
集合場所に集落の人たちが集まってきた。年配の男の人が多く、草刈機や熊手のようなレーキという金属性の道具を手にしている。尾ケ沢と隣の寒湯(ぬるゆ)の集落から23人が出て、高台の約70町歩のカヤ原を焼くという。先日、テレビを見ていたら明治神宮の森が70ヘクタールといっていたから、ほぼ同じ面積だ。広大である。リーダーの高橋さん(といっても私が話をきいてきた高橋さんとは別の人)が、「7人ずつ3班に分かれて、まず防火帯をつくる。着火は9時」と指示を出した。するとまた別の高橋さんが「あそこは下からじゃなく、上から火をつけた方がいいんじゃないか」と意見した。4月末から晴天が続いて、空気はカラカラに乾燥している。火の延焼は何より恐い。こういう時は、斜面は燃え広がらないように上から火をつけるものらしい。ちなみに、鬼首には高橋という苗字が多い。だから、みんなファーストネームで呼びあう。この日は一日、高原に「ノブヒロさーん」「カズユキさーん!」と声が響いた。山の人はどこか優雅である。
私も一つの班に同行した。作業はまず防火帯をつくることから始まる。延焼を防ぐため高原を縁取るように、3メートルほどの幅で伸びた枝を切り落とし、草を刈り、茂った枯れ草を払っていく。ここに小川を切って水を流し、それから火をつける段取りだ。
記録係に徹しようと思っていたのだけれど、「これで防火帯の草払ってね」といきなり背丈ほどの木の枝を渡された。枝が三方にきれいに伸び緑の葉がついている。試しに、ちょっと掃いてみたら、これが実に具合がいい。何というのか、このとき自分の中の縄文人スィッチがカチッと音を立て入った気がした。
見ると、奥の方から白い煙がすぅーっと上がってきた。別の班が火をつけたようだ。「お、あっちは始まったな」というと、カズユキさんが防火帯の縁の枯れ草に100円ライターで火をつけ始めた。さらに、2メートルほど離れた場所に、また着火。えぇっ、水も流れてこないうちにこんなに無造作に始まるものなのか。火はぱちぱちと音をたて、みるみる大きくなっていった。カヤの中の節が弾ける音のようだ。炎で顔が熱い。火の前線の動きは"なめるように"といういい方がぴったりだ。赤い舌を伸ばして燃えるものを探すようにみるみる広がっていく。数人が立って火の進み方を注視し、防火帯をこえるようなことがあれば、走り寄って踏みつけて消す。いつのまにか、私も高原を走り回っていた。
あたりまえのことだが、燃えるものなくなれば自然に鎮火する。焼けた跡は、一面真っ黒な灰になり、いぶした匂いが立ち込める。少しもあわてることなく平然と火のひろがりを見ているのは、周辺の地形を熟知しているからだろう。そして長年のつきあいの中で、互いがどんな行動をとるかも予測できるからだ。「大丈夫だ、そっちは谷だから」「あいつはすぐ騒ぎ立てるからなあ」...そんな会話が聞こえてくる。
鎮火を確かめ引き上げたところで、誰かが「まずいな、谷に下りて行ったぞ」と声をあげた。白い煙が上がっている。消したはずの火が斜面を下りてしまったのだ。消えたかに見えて、樹木の切り株などに入った火がくすぶり続けあとから枯れ草に燃え広がることがある、と教わった。「ポンプ車、呼べ!」とにわかに動きが緊迫してくる。ポンプ車といってもタンクを積んだ軽トラだ。私もホースも引いて走る。何人かがホースを持って谷を駆け下っていって水を撒くが、強い陽射しの下では火の元が見えにくく手こずっている。気づくと別の場所からも炎があがる。30分近くもかかってようやく最後の炎を沈めた。
この日は、さらに数十倍の広さのカヤ原を焼いた。3年焼いていなかった堆積したカヤは想像をこえ恐いほどの高い炎になって、立木のてっぺんまでを包み込む。熱くて顔を向けていられない。煙は黒く変わり、勢いづいた炎はカヤ原の中央に通る防火帯を越えてしまった。誰かれとなく上がった「もういいわ、燃やしてしまうべ」という声に、なりゆきを火にまかせながらも、その歩みをはばむようにレーキを持った数人がたって、勢いをコントロールする。さすがの男たちも、いやいやすごいなという表情だ。よほど、乾燥しているのだろう。ここでも、炎は谷を下りてしまい、60度以上あるような急斜面を、若い人がホースを持って駆け下っていった。
何とか消し終えた真っ黒になったカヤ原に立つ。燃やせば虫が死んでいい草が育ってくるという。「いいワラビも出るんだ。今度きてみな」とも教わった。焼いた面積の広さを見ると、火の仕事量の大きさが胸に迫る。もしこれを草刈りするとしたら、どれだけの日数を要するか。そうか、火は人にとって道具なのだと気づかされる。
1時半、ひと通りの作業を終え、高原に車座になってお弁当を開いた。いっしょに汗を流していっしょに食べる。ここでずっと昔から繰り返されてきた暮らしだ。遠くでウグイスが鳴いている。
「帰りは、おふろに入っていってね」といわれ、運転席に座り鏡を見て驚いた。口のまわりが真っ黒である。これは...まるでカールおじさんじゃないか!草の脂を含んだ煙のせいか、ふいても落ちない。山を下り、共同湯に直行した。
その晩のビールは、すこぶるうまかった。
グロッソラリー ―ない ので ある―(9)
1月1日:「なんでも、ある時には歩道で棒のように倒れて、通行人が救急車を呼んでくれたらしい。駆けつけた時には立ち上がっていて、片手に焼酎のビンもう片手にタバコを持って血の池を眺めていたんだって。救急車に載せようとしたら、歩いて帰るだとか大丈夫ですと言って聞かなかったっていうんだよ。そればかりじゃないよ――」。
上手な生き方とは、カネにものを言わせて快楽に浸るのではなく、気分が沈滞した時に自らを救済するための感覚を利用することである。絵画や音楽を筆頭とする表現作品のどれかに心のチャンネルを合わせ、来るべき自浄作用をおおらかな態度で待つ。目的が完遂したら、以前と変わらぬ社会関係をこなす。こういう聖人はもっといてもよい。
東京音頭が許されていたので、ちゃらんぽらんでいたら告別式だったということもあって、ダッフルコートを買うことにした。買う前に跳べ。ビルの屋上から向かいの屋上に跳び移ったら、ギョウザの皮がうまく閉じられなくなった。カラスの新境地。いつだってコミュニタリアニズム。脳みそが一気に啓蒙されて、おばあちゃんのにおいがする。
意識が邪魔である。周辺を知覚することにも物事を考えることにも、愛想が尽きている。フロイトのいう昼間の残滓とやらの夢、出てくる顔に発せられる言葉。死に近い眠りを最後に取ったのはいつのことか。深酒し死んだ状態で歩いていた夜はあるが。生に不可欠な意識という夾雑物。これほど悩ましい喜劇は人間界にはちょっとあるまい。
まだみんな生きていた――未来は常に過去にある。
明らかな損得勘定が介在する友情。死んでから故人に情を抱き接近する不謹慎者。個人的な処世術を得意気に説く無定見。宗教にどっぷり浸かっての不健康なともがら。世間をすがめで見ながらも品行方正な厭世主義者。この期に及んで夢や希望を押しつけられる亡骸。他人の秘密を楽しげに表沙汰にする不心得者。そんな者になってみたい。
カミュの言う形而上学的反抗をしようと、ボルツマンの原理にすがってギャロッピングインフレとの格闘を海パンに長靴という出立ちで決したら、サンクトペテルブルクのくじに当たった。これでパレート最適なのか。僕は私は小生は、ブリコルールになりたくて、オイリュトミーを実践したまでだ。今度はリパプール方式で尻取りをする。
1月1日:「またある時なんか、何がきっかけかわからないけど、七八人のごろつきと大立ち回りを演じて、それを止めに来た警官が、そいつを取り押さえようとして四人がかりで挑んだんだけど、全然つかまえられなくてもう一台パトカーに応援を求めたんだってさ。総勢八人でやっと取り押さえることができた。そのままトラ箱行きだよ――」。
部屋でじっとしている時、街中を歩いている時、半眼で半笑いの苦痛に襲われる。逃れようとすればまんまと沼に落ち込むだけで、五感の働きが活発な日は苦痛が上乗せされる。あがくように馴染みの道を進み、知った店に救いを求める。椅子に深々と腰を下ろしコーヒーを飲んだところで苦痛曰く「キミがキミでいられるのは俺様のおかげだ」。
大衆参加型社会を想う。かつては「その世界」や「向こうの世界」と言われた職業に、ずぶの素人が大挙して土足で入ってくるようになって久しい。数が増えれば質が落ちるのは自然の摂理。誰にとっても簡単でわかりやすく接しやすい内容が要求されるようになった。幼稚化である。チャンスの神様が前髪を剃るための賽は投げられた。
貧乏の惨めさったらねえやな。身動き取れねんだもの。あぶく銭でタバコを買い、なけなしのカネで借金返済。プライドや世間体なんてもんはドブに捨てた。カネのない人間にはそんな贅沢は必要ない。友人らしき人々もみんな去っていったしな。貧すれば鈍す。おかげで惨めさも半減ってとこじゃ。アタラクシアの境地とでも言っておくか。
病気はやんちゃ坊主だ。疾患部用の薬を飲めば、ひょいとかわして別の疾患部に症状の一撃を加える。時には健康な部位をかどわかしてことを荒立てる。この坊主、何年付き合えど成熟を見ない。これから先も続くであろうことに嬉々としている。まるで医師の診断や患者本人の苦しみなど、間抜けな三文芝居であるかのように好きに増長する。
1月1日:「トラ箱から出て自分が何をやったのか警官に聞いたら『何も覚えてないのか!』と一喝されたんだってよ。警官8人と大立ち回りを演じながら、本当にな〜んにも覚えていないなんてすごいよな。公務執行妨害でてっきり逮捕かと思ったら『よっぽど逮捕しようかと思ったよ!』とまたどなられたって。酒の力はすごいもんだ――」。
[いらないものランキング]
第1位:一回やっただけでの彼女面
第2位:女子による結論のない長話
第3位:酒が強いアピール
第4位:雑な義理チョコ
第5位:「あけおめことよろ」メール&年賀状
肉親はおろか、自分を知っているすべての人から笑われている。そう思えて仕方がない。被害妄想ではなく、過去の馬鹿さ加減、現在のろくでなしぶり、そして将来のつまずく姿を、嫌疑に近い慧眼に読み尽されている気にさせられるのだ。笑いは必ずしも明るく楽しいものではない。無用な人間を絶壁から蹴り落とす笑いもあるものだ。
しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人......。
その日に頼れるものがないとどうもいかん。物体でも思想でも音楽でもいい。酒はまああれだ。一日が長くてしょうがない。煩わしくて疎ましい一日が。こんな時間をわしにくれてくれるな。朝から晩まで部屋の中を行ったり来たりしなきゃならん。窮余の一策としてガムとコーヒーじゃ。これも限度がある。支柱のない人間の不様なありさま。
山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山
山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山山
さて、「山」とは?
人間とそりが合わない。他人の意見・意向にいつも否を突きつける。こんなことばかり繰り返していると、自分はやっぱり人間には向いていない心境になる。またこういう時に限って、意想外の禍いがじりじりと迫ってくるし、未解決の難題が頭脳に殺到する。ノーペイン・ノーゲインがなんだ。万事にけりをつけたくなるひと時である。
魔からにほうしの そではさで
もひつ埋めつに 雁きとなあ
またにき三度で 追いばしょこ
れれくんばりは 捨てらじる
ううこそ婆こそ へほたぬい
電車の吊り革につかまっている。目の前には学生服を着た青年が座っている。この青年、何しに生まれてきたんだ。左で立ちながらうとうとしている会社員、この会社員、何が楽しくて生きているんだ。右側でスポーツ新聞を広げている男性、この男性、どんな理由で生きているんだ。考えつめてしまって、あやうく嘔吐するところだった。
趣味の良い2人組
どんな5月だったかな、と振り返ってみたら、印象に残る2人組の仕事がいくつかあったと思い至った。
『洋子さんの本棚』(集英社/2015年1月)は、書店で見かけて気になっていた本だった。平松洋子と小川洋子。ともに岡山で生まれ、子どもの頃から本が好きで、18歳で上京し、現在はものを書く仕事をしている2人の「洋子さん」が、いかに読み、どんな本に背中を押されて来たのか、それぞれが自分の本棚から選んできた本を読み合い、語り合った本だ。平松洋子が1958年生まれ、小川洋子が1962年生まれ。彼女たちと同世代という事もあって、おもしろく読んだ。
「少女から大人になるまでには、いくつもの踊り場がある」という印象的な言葉がイントロダクションにあるが、そんな"おどりば"ごとに、本は5つの章に分かれている。それぞれの章には「少女時代の本棚」「少女から大人になる」「家を出る」「人生のあめ玉」「旅立ち、そして祝福」という題名が付けられている。成長の節目に出逢った本。なぜその本だったのか、そこに何を読んでいたのか、1冊の本を通して結局は自分自身のことを語ることになるのだけれど、2人の話は、本を勝手に離れて自分のことを語りだすのではなくて、より深く読んでいく会話を通して当時の自分を発見していくことになっている。そこが良いなと思った。2人の洋子さんが読み達者であるからこそ、人生を語ると同時に読書案内としても成立しているのだなと思った。
本の中で平松洋子は、『野蛮な読書』という書評の連載を書いた時を振り返って「書きながら思い出すことが無数にあったことは発見であり、驚きでした。自分では何でもないと思っていた、すでに埋もれていたような記憶の断片が、書くことで姿を現す。(中略)しかも、眠っていたものは、言葉の形をとっていたわけではない」と語っている。それを受けて小川洋子もエッセイを書くことをきっかけにして自分の中に眠っていた記憶が引き出された経験に触れながら「方法としては言葉で探していくけれど、記憶の中では言葉以前の、もっと曖昧な状態でひっそり眠っている。そんな感覚です。」と語り、平松がさらに「奥深くに眠っていた記憶に言葉を与えることで、自分という人間を認知していく。」と続けていて心に残る。
章の題名になっている「人生のあめ玉」というのは、折に触れては何度も思い出しながら自分を励ます、とっておきの想い出のことだ。2人の洋子さんにとって、それは子どもとの思い出なのだけれど、思い出すという行為を、平松洋子は「記憶のあめ玉のように、何百回とむいてなめます」と表現していておもしろい。子ども自身はとっくに忘れているであろう、日常の中のささやかなエピソード。事件でも何でもないのだけれど、子どもの、純粋な心から親にまっすぐ届いたひとつの言葉、それを2人は「記憶のあめ玉」だと言う。言葉にならない部分も含めて、当時の空気感まるごと閉じ込められている、まあるい想い出に触れるには、「なめる」という表現がぴったりだ。
成長の過程で読み、自分の栄養にしてきた本もまた、2人にとっては「あめ玉」だったのだろう。これまで言葉にしないで来たあめ玉に、会話することによって言葉を与え、形を与えていく。そんなところもこの本のおもしろさだったのだと思う。語られた本、つまりあめ玉がどれもおいしそうだという点もさすが「洋子さん」だ。
もうひとつの2人組は石田長生と三宅伸治。ギタリストでもあり、ボーカリストでもある2人は、時々「ヘモグロビンデュオ」というふざけたコンビ名でいっしょに演奏する。俺たちの音楽を聴くと"血行が良くなる"というオヤジギャグなテーマソングも収録されているライブミニアルバム「try」が5月17日に発売された。ライブ会場での手売りと通信販売のみなのだけれど、この2月から病気治療中の石田長生を励まそうと、三宅伸治がライブ音源を急遽CDにしたものだ。石やん(石田長生)の病気が分かる前に企画されていたヘモグロビンデュオのライブを三宅伸治はキャンセルせずに、ヘモグロビンソロに変更して、石やんにゆかりのあるゲストを加えて決行した。5月17日の下北沢440でのライブには、金子マリ、はせがわかおり、本夛マキ、Mac清水が集まって、とても温かなコンサートになった。
「try」には石田、三宅それぞれのオリジナル曲も収録されているが、ブルースやソウルのカバーが収録されていて、それが味わい深い。「ThatLucky Old Sun」、「Trying to live my life without you 」、「Change is gonna come 」。名曲ばかり。きっと2人とも若い頃から好きで何度も繰り返し聴いてきた曲なのだろう。そんな曲を自分たちの唄にできるくらい2人ともうまくなった、成熟したのだなと感じる演奏だ。曲のスピリットを受け継ぐ日本語詞が付けられていて、それも素敵だった。その曲を愛し、理解している石田長生と三宅伸治に翻訳されることで、アメリカのブルースが私の胸にも直接届く。2人の紡ぐギターの音色や石田が添えるコーラスがやわらかくて温かい。
そして、一番最近印象に残った2人組は真島昌利と真城めぐみ。クロマニヨンズのギタリストマーシーこと真島昌利、ヒックスビルのボーカル真城めぐみとギターの中森泰弘の3人のバンドが「ましまろ」だ。正確には3人組なのだけれど、曲をつくるマーシーと、ボーカルを務める真城めぐみの新しいコンビの新鮮さが印象的だったので、5月の私にとってはマーシーと真城めぐみの2人組の印象だ。それぞれ自分のバンドで活動しつつも、「ましまろ」というバンドによって何か新しい試みを始めている感じがする。「ガランとしてる」という4曲入りのミニアルバムが発売された。丸い木のスツールにポツンと置かれている古いラジオのジャケット。「ガランとしてる」というのは1曲目のタイトルでもあるけれど、ある気分を表していて、とてもおしゃれだ。真島と真城が共有しているある気分なのだろう。2人のつくり出す音楽は少年少女のようにピュアで、どこか懐かしい静けさだ。このミニアルバムにも「ハートビート」のカバーが収録されていて、これも実に良い。
2人組の仕事というのは、きっと「これ良いでしょう?」という提案からは始まるのだろう。「うん、いいね」という場合も「それ! 知らなかったけどイイね」という場合もあるのだろう。そして2人で新しい「イイね」をつくり出すことができれば、もっと幸せだ。
再び「安宅」論
先日、約9年ぶりに能の「安宅」を生で見たので、今回はその感想。ちなみに、前回も感想:「男性群像の魅力」を2005年12月号に書いているのでご参照を。その時は、男性ばかりがぞろぞろと出てくる嵩だかさとその運動エネルギーに驚いた。今回もその点は同じだが、座った位置が違ったせいか、印象はずいぶんと異なったものになった。前回は能楽堂のかなり後ろの方の席から見たのに対し、今回は真正面の2列目と至近距離で見たのである。
山伏たちが橋掛かりから舞台へ、また舞台上をここからそこへとザザザーと列になって通過していくさま、また1人1人が順々に向きを変えていくような場面で、前回はその運動の軌跡が線としてくっきりと見えたのだが、今回はそれほどでもなかった。それは舞台が近すぎて遠近がつかみづらかったからで、空間全体を俯瞰できるくらいの位置から眺めた方が、その空間を縦横無尽に走る線が見えやすいものだと、今回あらためて感じた。ちょうど、少し距離があった方がカメラのピントが合いやすいようなものだ。
そのかわり、今回はクローズアップ写真のような臨場感があった。いや、臨場感というような客観的な感想で収まるようなものではなく、自分が当事者として巻き込まれたような感覚があった。舞台を少し見上げるので、弁慶や富樫の威容が目の前に迫っている。その背後から、まるで喧嘩を売るような激しい鼓の音が自分に向かって浴びせられるうち、富樫がふいに以前ジャカルタで一時出国時にやりあったイミグレーションの役人とダブって見えてきた。その役人はビザの手続きミス(私がそれより前に一時出国した時に、イミグレーション側が手続きを間違えていた)を見咎め、私は1時間半も足止めをくらったのだ...。そんなことを思い出すとは意外だったが、「安宅」は要は、義経狩りのために新設された出入国管理局で、弁慶が「山伏ならフリーパスのはずだと入管職員に抵抗する話なのだ。誰しも入管職員に呼び止められれば喧嘩腰にもなる。弁慶と富樫の応酬は、イミグレーションに難癖をつけられた経験のある身には全く他人事ではない。
その緊張感が最も高まったのが、富樫が酒を持って追ってきて酒盛りになるシーンだ。しかし、今まで能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」を見てきて、実はこの最後のシーンの記憶が全然ない。つまり、私はこの部分はドラマとしてそんなに重要なシーンだとは思っていなかったことになる。物語で弁慶一行が危機を乗り越えるシーンは次の3回だ。(1)勧進帳を読んでくれと言われ、弁慶がありもしない勧進帳を読み上げる、(2)変装した義経が見破られそうになったため、弁慶が義経を打擲してごまかす、(3)富樫が酒を持って詫びに来たので、疑心暗鬼ながらもその酒を受けて弁慶が舞う。この後、弁慶一行は頃合いを見計らってそそくさと去る。このうち、(1)と(2)では富樫は義経一行の行く手を遮る悪として登場する。けれど、(3)では富樫が本当に非礼を詫びたくて酒を持ってきたのか、それとも姦計を用いて状況を逆転しようとしたのか、弁慶にもそこが読み切れない。私も、富樫は舞っている弁慶に切りかかってくるやもしれないという疑念を捨てきれず、終わりまでハラハラし通した。今回初めて、「安宅」のドラマのクライマックスはこの弁慶の心理的葛藤のシーンにあるのではないかと思うようになった。そうすると、俄然、その葛藤の元凶である富樫が非常に不気味な存在として再クローズアップされてくる。面をかけていないにも関わらず、富樫の顔はまるで「能面のように」無表情で(実際の能面は表情が豊かだが...)、腹が読めない。実は、私はこの(3)のシーンだけが近代的に思われた。(1)勧進帳を読み上げたり、(2)義経を打擲したりするシーンには、どこか様式的な部分がある(たとえば、勧進帳を覗き込もうとする富樫を弁慶がひらりとかわす部分)が、(3)にはそれが感じられず、心理というものにフォーカスしているからなのだ。
クラリスのシトロエン2CV
私はクルマの免許を持っていない。持っていないと言うことは、つまり、クルマの運転にはまったく興味がない。でも、クルマのデザインには少しばかり興味があって、映画の中に出て来る古いクルマのデザインには興味津々だ。
最近のクルマのデザインは、どれもこれもみんな似たようなデザインばかりでまったく面白くない。それは、走りやすさや燃費の良さなどを研究し続け、それを突き詰めた空気力学的なデザインの結果なので、どのメーカーも同じデザインに集約されて行ってしまうことは仕方がないことだとはわかっている。わかっているけれども、でもやっぱり面白くないのは気に入らない。その点、昔のクルマは自由に見えてしまう。もちろん、その当時としても、走りやすさや燃費の良さを追求していたんだろうけど、まだまだ未熟だった点がデザインに自由さを与えていた。
クルマに興味のなかった自分にクルマの美しさを教えてくれたのは、宮崎駿監督のアニメーション『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)だった。ルパン三世と次元大介の乗るフィアット500。そこに現れるクラリスの乗るシトロエン2CV。それを追いかける悪党一味のハンバー・スーパー・スナイプ。
この中でもクラリスの乗るシトロエン2CVに目を瞠った。
なんて美しいんだろう!
特に、お尻の、グッと急激に落ち込むカーブが美しい。
横から見ると、リアホイールのカバーも同じように半円を描いてリアバンパーへと向かっている。その二つのカーブがコラボレートした優雅さが何とも言えない。
シトロエン2CVは、フランスの"農民車"として構想され、その基本コンセプトは、
「雨傘(こうもり傘)の下に4つの車輪をつけたもの」
であり、
「木靴をはいた農夫が2人と50kgのじゃがいも、もしくはワイン樽を積んで、60km/hで走れること。3リッター/100km(33.3km/リッ
ター)の燃費。どんな悪い道も走破できること。悪路を走っても、後部に積んだ、かごいっぱいの卵が一個も割れないこと」
(「シトロエンの世紀 革新性の追求」武田隆著、三樹書房より)
だったそうだ。
つまり、『ルパン三世 カリオストロの城』では、追うカリオストロ伯爵側がイギリスの高級車ハンバー・スーパー・スナイプだったのに対して、追われるクラリスはジャンヌ・ダルクのごときフランスの"農民車"シトロエン2CVで、さらにそれを追うルパン三世たちは伊達男!イタリアの"国民車"フィアット500と言う構図だった。このあたりの、ぴったりとはまった構図の気持ち良さも、クラリスが運転するシトロエン2CVの美しさを際立たせていた。
後に、シトロエン2CVは宮崎駿の愛車であることがわかり、いまだに乗っていることが2013年8月26日にNHKで放送された「プロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿スペシャル」でわかった。
もし、運転免許を取ることになったら、絶対に宮崎駿のようにシトロエン2CVに乗ろう。クーラーがなくたって、故障が多くたって、素人には手に負えないクルマだってかまわない。絶対にシトロエン2CVだ。
と思いながら、いまだにクルマの免許を取っていない。
製本かい摘みましては(110)
去年と一昨年、朝顔市で2鉢ずつ買ったものの、どちらの年も種から育てたほうが花は小振りながらだんぜん元気だったのはどういうわけだろう。やたら伸ばすことをせず、仕立てたままで存分楽しめるように、なにより市を一番の舞台として育てられた鉢ということか。今年はもう市で買うのはやめにして、それでいつもより種を多く蒔いていた。勝手に落ちた種は先に芽吹いていて、伸びてきた中からえりすぐって誘導網を整えた。さて外に蒔いたヤツも育っているかな。なにしろ毎年ものすごい数の種をとるので、近くを歩きながら街路樹のたもとあたりに振りかけてあるというわけです。
この日、界隈は「モノマチ」の最終日だった。台東区の南、御徒町から蔵前、浅草橋にかけての2キロメートル四方で、問屋やメーカー、職人やデザイナーの工房を中心に飲食店なども含めた254組が、自社を開放して物販やワークショップを行なっている。日射しを避けて、自称"日本で二番目に古い商店街"(一番は金沢の片町商店街)・佐竹商店街のアーケードを歩くと、飛騨のファンマガジン「ひだびと。」などいくつかブースが出ていた。かき氷の白根屋、せんべいの加賀屋、ロールカステラの中屋洋菓子店、ファミリースナック・ロッキーなど、いずれも初めて入るときは勇気を要した商店街の店舗たちが、ゲストを迎えて抜群の書き割りをつとめていた。いや、営業してたかも。
モノマチは2011年にはじまり7回目という。今回の実行委員長は、私も数年前に本のタイトル押しでお世話になった田中箔押所の社長・田中一夫さんで、その仕事ぶりは台東区の地場産業のひとつとして区の公式チャンネル(Youtube)で公開されている。田中箔押所ではモノマチ期間中、こんな連携イベントもあったらしい。カキモリでノートを選ぶ→大栄活字社で活字を拾う→活字を用いて田中箔押所でノートの表紙に箔押し→使い終わった活字をマルジュウではんこに。
明治の中頃、佐竹原(さたけっぱら)と呼ばれたこのあたりに高村光雲が作った大仏の話を思い出した。原っぱに食べ物屋などができてちょっとした賑わいをみせたころ、見世物にと大仏建立を言い出した光雲が後にひけなくなって、仲間うちの大工や竹屋や興行師やらに声をかけて実現したという。たしか火事かなんかで焼けちゃって......ということだったと思うが、さまざまな職人たちがたむろしていて、仲間うちの突飛な思いつきをおもしろがってみなで実現してしまうという......さて、何に書いてあったかな。「高村光雲 佐原 大仏」で検索したらさすが青空文庫、一発回答! 「図書カード:No.46843 幕末維新懐古談 63 佐竹の原へ大仏を拵えたはなし」、お世話になります。
127アカバナー(12)女性
そして黒人兵が、「草葉の光り」に眠る。
ここはバーだ、ひからびた指(ベトナム兵のそれ)を、
米本土まで持ち返ってどうする。
バーの名を「草葉の光り」と言う。 ははは、
青いやくざよ、草葉の光りに眠れ、と私は言う。
日本人をあいてにしなければならなくなって、
女性たちも、やくざよ、きみたちも、
一様に草葉に光る。 ここはベトナム、と、
指は抗議する。 翻訳を私は続ける、生活のために。
生活のために、女性を売る私じゃないか。
あれから四〇年が経つ。 琉球処分を践祖する始原の、
現在。 私よ、よもつ戸を開放するこの空洞で、
米兵の指をくわえ、いま......(*)知事の声に耳を傾けて、
わがする滂沱の涙を草葉のかげであなた、
私が愛した男、夫よ、女性は本気です。
(カヌーは私です。)
(*)いまは翁長と入れてください。
(前回に八重洋一郎さんの「......本土側ではこのような事態がほとんど知らされておらず、従って日本の全面積のわずか0.6%にすぎない沖縄に在日米軍基地の74%が集中している事実が引き起こす様々な出来事に全く無関心である」〈詩と沖縄の現在〉という一文を引用しました。5月17日にはセルラースタジアムの定員が3万5000人なので主催者側の発表でそんなかずだったそうで実際には会場のそとにひとびとがあふれていました。と、新基地反対集会のきのうの報告会および1〜3月カヌー隊の動画でした。18日付の『沖縄タイムス』紙の全紙特集を見せてもらいました。本土で普天間「移設」と認識している移設(という語)はほとんど嘘です。もともとあったところを本格的に基地とする新たな建設計画であり軍港化すると大浦湾ぜんたいがはいれなくなるもの凄い「移設」なのだ、と。だから沖縄では「新基地建設」と言って移設とは言わないようです。詳しくは(カヌー隊の)目取真俊のブログを覧てください。新基地は要塞みたいになるようです。広大な北部訓練場と結んでたいへんな防衛ラインになるのに、いくら自然を破壊しても後始末しなくてよいという取り決めが日米地位協定でしたよね。一九七二年の沖縄「復帰」という処分と一九七〇年の安保改訂とはまったく一連の時間(だってそうじゃないですか、一九七〇年と一九七二年とですよ)。まったく不明なことに二つのこととして理解していた私です。日米両政府からは同じことの表裏でしょう。「あいつら復帰したいと言ってんだから、復帰させてやろうじやないの」という沖縄に基地を集中させて「復帰」させるという安保体制の恒久化と沖縄基地の永続とがまさに表裏一体です。その体制を作った基礎は吉田茂、ついで岸信介という、それがそのまま五〇年後のいまに安保法制論議と辺野古建設との同時並行としてこの5月に繰り返されているのだから、なさけないばかりの歳月。サッカー汚職もすごいけどね。川内(せんだい)さん、どうしてもやる気なら桜島くんに出番をお願いしようかな。いやいやそういうことではなくて、口のえらぶさん、開聞岳くん、と思ったらほんとうにやってしまう(29日、口永良部島新岳噴火)。どうする? 東京(本土人)サイドではフクシマ/オキナワを話題にすることにすら慎重さをしいられる。翁長知事の4月5日の発言はしかし本土人の心に届く何かがあったかもしれず、話題にするひとをちらちら見かける。24日のヒューマンチェーンのなかには知事の訴えに対するレスポンスと考えて参加した人がいたかもしれない、と思われた。自然災害の国であることがむしろ日常的になってきたとコメントしている火山関係者。と、M8・5という巨大地震が30日、小笠原西方の深部で発生する。「東京にはけが人が出ていない」とか川崎では一人とか二人とか報道である。あれ、小笠原村を東京ではないと言うかのような。)
島便り(13)
「もし小豆島美術館ができたなら」仮説で、もうひとつイマの美術・デザイン展示で何ができるか、どんなことなら島内外のみなさんに喜んでいただけるか、これまたあれこれ妄想をめぐらし、6ケほど企画レポート提出しました。進取の気旺盛な町長始め数人の職員の受け取りは早い! 7月をもって島の文学者(黒島伝治など)再発見プロジェクトはスタートできそうだし、美術関係のプレ展示も年内1回は具体化しそうだ。
いずれできるであろう美術館には小回りのきく、変幻自在な空間をひとつは確保したいので、そこでいずれやるであろう展示や映画会を現在使えそうな図書館2階の視聴覚室や、古い建物でやってみてしまおう、これ未来に向けてのプレです。こんな無謀な提案になんと半分案件は同意されて静かにモノゴトは動きだしているのです。なんかみんな考え方や動きが柔軟なのにはおそれい入谷の鬼子母神。
美術では甲賀さん鳥海さんヨコカクさんの「文字に文字」展を9月末から10月。醤油会館というその名もシブイ古い建物の一室でやります。島の印刷屋に保管されていた明治の木版文字なども一緒に展示予定、コレみているだけでほれぼれします。クロージングにはラッパーが東京からやってきて、テクノポップのパーツつくりから、一曲をつくりだし演奏するまでを展示会場でやる、というオマケつきです。
文字についての展示はこれで3回目で、最初の青山の510ギャラリーでの展示から数えると20数年がかりとなる。今回は小豆島の地名や壺井栄の短編の一部をそれぞれの三者三様の書体で出してみるなどなど、中身はおどろくようなことになりそうです。
あと、もうひとつ計画しているのが壺井栄原作の映画がおもいのほかたくさんあるということを発見して、(あっ、「二十四の瞳」の他にということです、わたし木下惠介も高峰秀子も苦手なんです)そのリストを探索してみると、監督、役者ともに見ておきたいものばかりでした。これをなんとかしたい、島の小さな図書館の2階視聴覚室でみんなで観たい。きっと年末映画会なんてやってるんじゃないでしょうか。
★「文字に文字」展
日時 9月27日オープニング 以後毎週金/土/日 10時ー5時開館 最終日10月25日(日)
場所 醤油会館 一階 小豆島馬木
主催 小豆島町
平野甲賀 装丁家/グラフィックデザイナー
鳥海修(字游工房)書体設計家「游明朝体など」
ヨコカク(岡澤慶秀)タイプデザイナー「楷書体 こどもの字 どうろの字」
向進舎印刷 木活字をお借りして展示
クロージング MU-STARS
夜のバスに乗る。(8)犬井さんと渡辺先生が強めの握手をする。
先に声をかけたのは犬井さんだった。
「先生、きっと大丈夫ですよ。小湊さんはただみんなで海が見たいだけなんです」
渡辺先生は犬井さんの言葉を繰り返す。
「みんなで海がみたいだけ」
「修学旅行に行けなかったから、その代わりに先生と海が見たい。それだけなんだと思います」
「だったら」
渡辺先生が言いかけると、犬井さんが笑顔で答えた。
「だったら、そう言えばいいんでしょうけどね。でも、言えなかったんです」
犬井さんにとって渡辺先生は自分の息子と同じくらいの年齢かもしれない。僕らにとって渡辺先生はとても年上の大人に見えていたけれど、こうして犬井さんと話をしている渡辺先生は、まるで犬井さんの息子のように、犬井さんの一言一言を噛みしめるように聞いている。
「どうして言えなかったんでしょうね」
「先生もご存じでしょう?」
「わかってるような気がします」
「そうです。真面目なんです、彼女」
「そうですね。真面目な子ですね」
「真面目だから」
「たぶん」
犬井さんが笑うと、渡辺先生も笑った。
「小湊は本当に真面目な子なんです」
「わかります。それで真面目な斉藤くんが選ばれて...」
「運転手さんが選ばれた」
「犬井と言います」
犬井さんは会釈をする。
「渡辺と申します」
そう言って、深めにお辞儀をする渡辺先生だが、犬井さんはそのお辞儀を辞めさせるように、渡辺先生の手を取って強く握った。僕の目の前で、犬井さんと渡辺先生が強めの握手をしている。
僕はその握手を見ていて、それまでお互いの存在を知らなかった二人の心が、突然通じ合う瞬間というものが本当にあることを知って、胸に何かがこみ上げる。
「真面目すぎて、とんでもないことをやらかしてしまう」
渡辺先生が独り言のように言う。
「そういうことなんでしょうね」
犬井さんが同じく独り言のように答える。
僕は小湊さんを見る。小湊さんはバスの前方の大人同士のやり取りを見て見ないふりをしている。
渡辺先生はさっきまでの緊張を解いた優しい笑顔で小湊さんのところへ向かった。最初はそのことに気付かないふりをしていた小湊さんだが、途中で観念したように渡辺先生に笑顔を向ける。
「先生、一緒に海に行ってください。そう言えばよかったじゃないか」
攻めるのではなく、とてもシンプルな疑問として渡辺先生が小湊さんに聞いた。
「そんなことしたら、私が先生とデートでもしたがっているようじゃないですか」
先生はしばらく考えて、そうだな、とつぶやいた。
「そうですよ。先生にそんなお願いしても絶対に一緒に行ってくれないでしょ?」
小湊さんが聞くと、先生は苦笑する。
「そうだなあ。先生も真面目だからな」
「そう。真面目すぎるから、いろいろややこしいのよ、みんな」
小湊さんはそう言うと、とても楽しそうに笑った。笑いながら小湊さんは少しだけ目に涙をためていた。
大人げない話(1)ばらまき土産
パリから戻った友人が私にボールペンと鉛筆をくれた。それからもうひとつ。有名シェフの名前を冠した高級チョコレイトも。
「これ、貴族のばらまき土産?」と私は訊いた。なぜ、"貴族の"とつけたかというと、彼が裕福で、かつ美食家で、高級チョコレイトをお土産にくれるのが初めてではなかったから。そして、なぜそんなことを不躾に訊ねたかというと、以前、彼からお土産としてもらったものと同じものが、同時期に知ったひとたちのブログやSNSに写真つきで紹介されていたことがあったから。もはやもらいものはもらうだけでは終わらないのだ。誰が誰に何を送ったか、そんなことまでわかってしまう。とはいえ、そんな不躾な質問を投げかけることができるのも、彼が古い友人であればこその話なのだけれど。
メタリックブルーの四色ボールペンを手にぼんやりと考える。私はこれをもらわなければならないのかしら。軸には白抜きでJeffKoonsとプリントされている。最近、ポンピドゥ・センターで回顧展があったらしい。このボールペンが彼の作品「バルーン・ドッグ」をモチーフにしているのはわかるけど、JeffKoons、全然好きじゃないし、メタリックブルーも好みじゃない(自分のペンケースには絶対に入れたくない)。大体、私は、筆記用具は自分で選んだものしか使わない。万年筆はモンブランとカランダッシュ、インクはブルーブラック、ペン先はF。シャープペンシルの芯は0.7ミリ、濃さはH。最近はフリクションボールの0.38も使う。ボールペンは宅配便の送り状を書く時以外、ほとんど使うことはない。インクのベタベタした感じが苦手だから。中でもBICの四色ボールペンが特に嫌い。フォルムがどうしても好きになれない。頭の部分に紐を通せるようについている突起が嫌。ついこの間も、ノベルティでもらったそれをゴミ箱に入れたばかり。なのに、いま、ペン軸の色だけを変えたBICの四色ボールペンが、手中にあるのだから皮肉なものだ。
それでも、いらない、と言って返すのは、さすがにおとなげないような気がして、私は短い逡巡の後、それを受け取ることにした。「ありがとう」―その言葉が口から出るまでの一瞬、いま一度、私は自分に問うたけれども。こういうの、ありがとうって言わなければならないのかしら。
長いつきあいなのだし、私の好みなんて知っているはず。好きなもの以外使わない、そんな頑固な性格も。だけど、これはばらまき土産。相手の好みなんて関係ない。みんなに同じものを買って配る。そう、ばらまき土産は話のネタとして配るもの。話のネタとしてばらまくもの。そうでなければ挨拶代り。だけどそれって何の挨拶?ともかく、彼は"私を"喜ばせようとして渡しているわけではないのだ。ならば、"私が"喜ぶことも、喜ぶふりをすることも必要ないと思うのだけれど―。
「四十も過ぎた男がばらまき土産なんてやめなさいよ。職場で配るのが常識になっているとでもいうのならともかく、プライベートの友人にまで配るなんて。いまどきパリなんてめずらしくもなんともないし、"これがフランスの!?"なんて有り難がるひとはいないと思うの。だいたい相手に敬意を抱いているひとにばらまき土産は渡さないでしょ?つまり、そういうものを渡すってことは、相手に、私はあなたに敬意は抱いてはいませんよ、って宣言しているようなものじゃない?」
いくつになっても弟のようなキャラクターの彼になら―そして、育ちの良さから来るものなのか、いくつになっても忠告には真摯に耳を傾ける彼になら、そう意見することも出来る。だけど、それすらおとなげないことのように思われて、何も言わずにその日は別れた。近いうちにこれと同じものを、他の誰かのブログやSNSできっと目にすることだろう。頭に知人の顔がいくつか浮かぶ。中には自分のために選んでくれたプレゼントと勘違いするひともいるかもね。くすっと笑ってみたものの、なんだか侘しい気持ちになった。こういうもの、もう私にくれなくていいから。次に会った時には、そう言おう。ばらまかれたものを有り難がるほど、私は話のネタにも困っていないから。絶対にそう言おう。私とお茶を飲むなら手ぶらで来て。高級チョコレイトを齧りながら胸に誓う。おとなげない、その通り。ボールペンを配る彼もおとなげない、それを受け取りたくないという私もおとなげない。彼と私、ふたりはどちらもおとなげない。これはおとなげない話。
青空の大人たち(11)
その富田さんはパブリックドメインの共有という活動について生前いかなる賞も個人では受けずそのような話があったときも〈青空文庫〉としてならという条件を必ず出していたという。むろん実質的なリーダーとして決断や行動を(時には強引に)推し進めていたことも事実なのだがその成果を潔癖とも言えるほどに独占私物化しないという線引きをしていたのもやはり思想である。
たとえば青空文庫が収録している各作品の閲覧ページに広告などを貼らずトップページのみに掲げているというのも同様で作品そのものから対価を得ないというのが大原則としてまずありこれまでに幾多もある〈金儲け〉の誘いを一貫して突っぱねてきたというのもわかりやすいがそれでいてお金なしにはサイトの維持はできないので何かしらの助成金を得たり寄付を申し出た企業等に「実はトップページの広告枠があるので」とお互いに利があるように誘導していくあたりはしたたかでもあった。
「組織なし、資金なしでも回り続ける仕組み」を模索する「永久機関の夢を見る青空文庫」では、あくまでも作品自体は自由であって、それを守り維持する棚の部分をそれ自体でマネタイズし自立させるというわけで、迂遠ではあれ理想を続けるには知恵が要るということでもある。
そうした頭のひねり方は参加していた少年にもそれなりの影響があったようでもちろん少年であればこそ暇だけはあり活動にも参加できていたわけだがやがて大人になり仕事をするに至っては昨今余暇もままならない。そこでならばと思いついたのが仕事のなかに活動を組み込んでしまうというあり方で、青年はおのれの非常勤出講先の大学授業で訳したいテキストを扱いその成果をフリー翻訳として青空文庫へと還元するようになる。仕事の一環であれば時間も金銭も確保できる上、講義することで精読できるばかりか学生の指摘から訳稿も推敲可能で、教育の副産物を世に公開するのだから道理も通るというものだ。
それはまたモチベーションの源を確保することにもなる。テキストとの格闘は孤独な作業とならざるを得ないため挫けやすいものだが宛先がある(と実感している)ということはそれだけで励みである。授業であれば学生だがかつての少年および青年にとっては大人たちということになる。あえて自らをさらすことで誰かを巻き込みまたは誰かに巻き込まれることで活動を回していくことはフリーカルチャーの根幹でもあって試みたパターンも様々である。朗読連載という形で朗読してくれる方と組んで併走することもあれば、公開コンテストの課題文として提供するために訳すということもあった。むろんごくごく単純に同人誌への訳載もあったし、大学に提出するレポートの課題にもした。友情やサークル活動のなかでのイベントにもなり、誰かへのプレゼントとして訳したり入力したりすることだってできた。
誰かに宛てるということは明確であればあるほどやりやすい。そもそも宛てるにしても究極的にはそれが自分自身であってもよく、青空文庫へ志願した少年のおのれでさえ「仮定法はまだ習ってない」という豪語の通り英語がよくできたかというとそうではなくむしろ成績としては中の上か上の下あたりをさまよっているというのがいいところで本心としては「翻訳を続けたら苦手な教科のテストの点数も少しは上がるだろうか」という功利的意図があったわけで結局のところ作品を書き写したり訳したりすることは文学修業としてはかなり効果的であった。
その意味では高校生のころは「書きたいと思う作品を訳す」という背伸びにも似たものがあり大作家の良作に肩を借りて文章を作っていくことはひとつの巻き込まれのあり方として成立しているばかりか、フリーで公開するものなのだから未熟でもいいじゃないか自由に訳したって何が悪いという開き直りにも近い態度が取り得て、そうしたものには大人たちは実にゆかいゆかいと頭を撫でてくれるのでやはり少年も増長されるしかない。ましてや大人たちがそうした経緯でフリーで公開されたものを勝手に使ってまた別の作品を作ったり商品を売ったりしてそれを少年のもとへどうだと言わんばかりに見せつけたり送りつけたりしてくるものだからこちらも楽しいことこの上ない。今も自室にはそうした大人たちが送ってきた手製本された冊子や、電子書籍を作るためのツールソフトが入った大きな箱、朗読されたものが詰められたCDなどが保管してある。
先日、ちょうど同じインターネット黎明期にネットを遊び場とした同年代の人物と話をする機会があったが、やはり似たことがあったようで、思い出といえばなぜかわからないが大人がみな一緒に遊んでくれたし、やんちゃな振る舞いは大目に見られ、(要不要・意識無意識を問わず)とにかくいろんなものをくれたという話題になった。確かに趣味のつながりのある大人というものは昔も今もそういうものであるのだが何かが〈回ってゆく〉というものの核にはこうしたことが無数にあるのだろう。
とはいえ子どもとはうるさ型の大人については積極的に回避し忘却するという性質があるのだからつまるところ〈いいこと〉しか覚えていないのであるけれども自由な大人たちが自由に活動をして自由なものを作りそれをまた自由に配ったりしているという有様は衝撃とともに受け取られて何かしらの原風景として心に落ち着き、文化なるものの輝きを目に焼き付けてゆく。そして眼を焼かれた我々はまた同じことを積極的に繰り返すのであって、おそらくは文化のなかで行われる〈まねび〉とは単に作品の模倣だけではなくそうした作り方や受け方さらにその成立のさせ方も含めてまた真似られるもので、暗闇のなかでの模倣は姿形がよく見えずやりにくいが青空の下であればその姿も動きも鮮明で自然と覚えて手が動いてしまうのだろう。
むろん〈フリー〉というのは単に無償とあるだけではなく作品そのものが自由であると言うことで、それに付随する活動もまた自由でありそれとともにそれにまつわる人の関係も自由であって、少年が学んだのはそうした〈自由〉に拠るところが多かったのであろう。
長い道のり(1)
1971年9月20日、小泉よねさんの田んぼ、そして宅地と住居が成田空港の用地にかかり、強権的に代執行された。その二年後、ぼくたち夫婦が養子になった。末期の胆管ガンだったよねさんのなにがしかの力になればと思った末の入籍だった。一時的によねさんは回復したかに見えたが、その二ヶ月後に無念にも息を引き取った。
養子になったことによって、二つの裁判をかかえることとなった。一つは代執行そのものを問う「緊急裁判取り消し訴訟」、それはこちら側が原告で、被告は国と千葉県だった。もう一つはよねさんが残した畑の明け渡しを求める裁判で、こちらが側が被告で、原告は空港公団だった。
一つめの裁判は最高裁の段階で、長らく止め置かれていた。二つめの裁判は、裁判の途中で空港の開港に間に合わせるために、仮執行され、最高裁まで行ったが、こちら側が敗訴した。
二つめの裁判、よねさんの畑をめぐっての件は、空港公団の。その場所欲しさの卑劣な企みだった。よねさんが亡くなったのをいいことに、よねさんには全く権利がないとして、名義上の地主と口裏を合わせ、裁判所もそれに加担したあげくの許せない行為だった。
よねさんの畑をめぐっては裁判上はこちら側が敗けたが、ぼくは「これは冤罪行為に等しい」と声を上げ続けた。空港問題の公開シンポジウムを経て、国、空港公団側が空港建設の手法について強権的であったと、反省を述べたその流れのなかで、よねさんの畑をめぐる問題にも、もう一度光が当てられる事態となった。担当をした空港公団の職員は、よねさんの畑のいきさつに詳しい村の人々や関係者から聞き取りを行い、その結果、よねさんに権利があると認めるに至った。それらの人々の証言は裁判所にも提出されていたものだが、国策に従った司法は、全く無視していたものだった。よねさんの畑について、空港公団が非を認め、同時によねさんの代執行についても謝罪する用意があるとのことだったので、最高裁の段階で止まったままになっていた一つめの裁判についても、「和解」という形に収めることとなった。
二つの裁判で争ったことについて、国、空港公団が非を認めるという形で、こちら側の実質的承知という結果となった。その結果を踏まえて、よねさんの畑が、よねさんが眠る墓地のすぐ近くに返されるという現実的処置も、異例のこととして行われた。
小泉よね問題はそれで終わったわけではなかった。よねさんの代執行は特別な法律によって処理された。緊急的な案件なので、補償についてじっくり判断する時間がないので、仮補償で済まし、その後「遅滞なく」補償裁決をするよう求められているが、それが43年間、放置されたままになっているという問題なのだ。また仮補償において、よねさんの家を壊した補償額が約30万円と算出されたように、よねさんの生活権を全く無視した、見せしめ的な要素があからさまな点についても、大きな問題点として残っていた。
この仮補償の問題について、国と空港公団(現・空港会社)はすでに前の和解において謝罪しているが、代執行の当事者、千葉県が43年間放置していたことについて「やむを得なかった」との態度を取り続けていた。「違法確認の行政訴訟」と起こす他に方法はないと思っていた(ここまでは岩波新書『土と生きる』の「国に拠らず」という章に詳しく書いていますので、参考にしてください)のだが、長らく裁判を担ってくれた前田裕司弁護士から、違法確認の訴訟を起こせるのは起業者(空港会社)で、こちら側からは起こせないとのことだった。
法律によって、仮補償の状態では、その内容に異議があっても、訴えが出来ないことになっている。つまり、憲法によって保証されている裁判を受ける権利が仮補償のままでは奪われているのだ。だから、被収用者の権利を考えて、「遅滞なく」仮ではない補償裁決をしなければならないとされている。43年間放りされているということは、ただ単に、長い間、据え置かれているということではなく、長い間、訴えを起こす権利が奪われているということなのだ。
そういう行政の違法な行いを問う行政訴訟も、またこちら側から起こせないとは、これは権力者のやりたい放題となってしまう。前田弁護士によれば、他の訴訟の方法としては、長い間、放置されてきたことに対する精神的慰謝料を求める損害賠償請求の裁判があると言われたが、それは全く気が乗らなかった。第一、ぼく達はこのことによって損害賠償を求めるほどの精神的苦痛は受けていない。ではどうすればいいか。前田弁護士は次のように言った。「すでに和解によってこのことに対して非を認めている空港会社の人に、千葉県を説得してもらい、話し合いによって解決するという道があるのではないか」
ぼくは早速、前の和解に関わってくれた空港会社の人に、なんとか千葉県を説得して、収用委員会を開き、補償裁決を出すよう促すことは出来ないかとお願いした。しかし、千葉県の態度はかたくなだった。
千葉県の収用委員会の会長が、1988年に、反対運動を支援するグループの人に襲われるという事件があった。その後、収用委員全員が辞職し、収用委員会が空白の時期があった。16年後に収用委員会が復活したが、空港問題うぃ扱わないとの制約を設けていた。
新たに空港問題を扱わないのはいいとしても、この問題は過去のやり残しの問題であるし、きちんと後始末をつけるべきではないか、また、会長が襲われるという事件の前に、17年間の時間があったわけで、「遅滞なく」という条文からして、千葉県の責任は免れない。
その後、事態が動くようになったのは、こちら側から「協議申し入れ書」を内容証明で送ったからだった。それには、協議に参加してもらえなければ、法的措置に出ることもあると、強く申し入れてあった。
これで、国、千葉県、空港会社、ぼく達と代理人という四者がテーブルについたのだが、相変わらず千葉県は言い訳に終始し、「やむを得なかった」と弁明した。「反対運動が激しかったので、収用委員全員が開ける状態ではなかった」、「会長が襲われる事件があり、その後、収用委員全員が再開したが、成田問題は扱わないことになっている」、「この問題の審理ができるのは、空港問題の全ての用地問題が解決してから」、これではあと何年、いや何十年かかるかもしれない。
ぼく達はこの問題を次の世代に残す訳にはいかないと考えていた。最悪の場合、何十年後かに収用委員会がこの問題を審理し、裁決を出したとしても、事情を知らない次の世代では、対応が出来ないだろう。養子として、この問題を引き受けたたのは、ぼく達で、そのことを子供達に委ねる訳にはいかない。
「代執行はしておいて、その後始末が出来ないと言うのであれば、壊した家をもどしてくださいよ。元の場所にとは言わない。ぼくが住んでいる東峰に、よねさんの家をもどしてください。長い間、お世話になっている島村さんに土地をお返しして(よねさんは代執行後、島村さんの農地の一角に宅地の提供を受けて暮らし、その家をぼく達が引き継いでいる)もどしてもらった家に住むから」と、ぼくは少し、憤慨し、一回目の会合を、流した。
アリアドネー
風が水の表面に刻むように 瞬間に起こる変化から 論理を展開しようとすると じっさいに音楽をつくりながら または演奏しながらさぐっていた道からはずれて 解釈から先取りした意味付けに頼って 直線で進みたくなる 実感より先走ると 20世紀前半までの音楽史の上で もう終わった道をくりかえし辿っていることになりかねない
糸玉を転がし その後を追って迷路から出る 道のわずかな傾きを感じて 止まらずに転がっていくのが 論理の糸ではなく わけもなく 跳ね上がり 気まぐれに逸れていくうごきであれば 論理のほうが糸をはりめぐらせてしばるもの 論理こそが迷路で そこから転がり出ていく糸玉は いままでになかった論理として後からまとめることもできるかもしれないが 限界を一時的に決めなおしても そこから新しい迷路が立ち上がるだろう
糸玉がほぐれると アリアドネーは捨てられる
ことばをつかって さまざまなうごきが見える窓をひらくのなら 最後の一行だけでよかったのか それとも これも論理の前ではなく 後の一行にすぎないのか