193 大切なものを収める家、の二刷り

藤井貞和

1905年に著された『海潮音』(上田敏)は 象徴詩を「日本」に齎しました。 そのあと、
自由詩と象徴詩とが結びつき、現代の詩は 大きくその傾向に規制されてまいります。
また、短歌や俳句の模擬というか、結社を作り、仲間をだいじにしながら詩を書く、
という傾向も、現代詩には 見られます。 社会を告発する詩は 政治の詩であると、
見なされることを恐れるのか、なかなか書かれないようです。 以上の結果として、
現代詩は 個人の趣味や、興味の範囲内で書かれることが多いです。 わたくしもまた、
個人の趣味や、興味を「大切なもの」だと考える一人であります。 しかし、今回の、
『大切なものを収める家』(1992)において、わたくしの取り上げようとした「大切なもの」とは、
個人の趣味や、興味と違う別の種類のものであります。挙げると、《民族差別、
クレオール(creole)語など少数者の言語、和歌などの古典語、女性短歌、
絶滅させられる動物、殺される神、排斥される神、縄文時代の土器、
滅んだ形式である旋頭歌、滅んだ恐竜、物語、女性差別、造反教官、一九六〇年代、
受験戦争、沖縄、老人問題、いじめ、機械打ち壊し主義(Luddites)、
そして湾岸戦争》でありました。 ははあ、これらがさしあたって、ですね、
作品に見られる限りでの「大切なもの」の一端です。 繰り返して言います、
これらは 個人の趣味や、興味に属するものではない、外部なのです。
わたくしは 現代の詩について、現代語で書かれることを中心に、と考え、伝統詩に対して、
批判的でありたい。 しかし、詩が緊張した内部を保つためには 伝統詩との、
交流を復活させることが必要だと思っております。 現代の社会、風俗には、
そのままだと、とても詩にならない狸雑な要素が多い。 逃げることなく、
挑戦し続けたい。 そのために詩の自明な成立を危うくさせられることがあっても、
怯まないでありたい。 かつて、大きな詩を書くためには、大きな悪魔との契約が、
必要でありました。 現代詩は しかし、たいていの場合、そのような大魔王との対立を避けて、
裏通りの日常生活の悪人、微小な悪魔たちを自分のなかに飼うことをするから、
大きな文学になりにくいのです。 わたくしの思いは 「大きな悪魔」そのものになく、
「微小」なそれらにとどまるのでもなく、その《あいだ》に定めることになりましょう。
とそこまで述べたとき、うしろの正面がひらかれ、大きな鬼が姿をあらわしました。
人食い鬼で、わたくしをむしゃむしゃ食いはじめました。 肉も、骨ものこりません。〈藤井よ、
おまえは きょうから鬼である。 これを食らえ。〉 骨と肉とを吐き出して、
わたくしに食わせました。 なんだ、私の骨と肉とであります。

(1992年の暮れの、済州島でのスピーチの記録と、そのあと見たこの夢に他意はありません。)

むもーままめ(1)オットキョウカの巻

工藤あかね

このたび寄稿のお誘いをいただきました。内容も文字数も自由だというお言葉に甘えて、心に移りゆく、よしなしごとを書いてみます。

よしなしごと。
そう言ってしまえば身も蓋もありませんが、気ままに浮遊しているわたしの無意識を、パシャっとカメラに収めるみたいにして、時々保存してみるのも悪くないかな、と思いました。

今回は、コロナ以前の日常を、気が向いた時にだけ、狂歌みたいにして、書き綴ったものを蔵出ししてみます。

1 2019/1/17
ちもゆるぐ つまのいびきは鳴りやまず うらみはぐくむ 夜半の月かな

(大意:大地も揺るがすような夫のいびきは鳴り止まない。寝られず月を見ていたら、ますます腹が立ってきた。)

わが夫のいびきは本当に轟音で、
耳栓してヘッドフォンをかぶっても、
別の部屋に逃げても、余裕で聞こえてきます。

結婚当初は、牛がモーモー鳴いている牧場に置き去りにされたり、
自動車整備工場でバイクをふかす音にさらされる夢をみたことも。

不思議なことに、爆音でいびきをかいているのに、
本人には自覚がないようです。

2 2019/1/18
かこひばら わが身はかりてしこふむも くすしとがめて しぼむつまかな

(大意:囲いのようにお腹が張ったので、体重を測り慌てて四股を踏む運動をしてみたが、時すでに遅し。医師に体重を減らすよう言われ、夫はしょんぼりしていた。)

年末年始は、体重を減らしたい人とっては魔の季節。
なんだか体が重いかも…と感じて体重計に乗ったところ、
人生最重記録を叩き出してしまったり。
ちょっと運動したくらいでは、筋肉に変わってはくれないようです。
それと、健康管理については私がなんだかんだ言っても聞く耳を持ちませんが、
お医者様の言葉だと素直に聞いてくれます。
感謝。

3 2020/1/16
けんだまの のするさするの快の音に 腿いたむとも やめぬつまかな

(大意:けん玉が皿に載ったり刺さったりするのが気持ちよくて、 太ももが筋肉痛になっても夫は練習を続けている。)

新年、とあるデパートに行ったところ、
けん玉の実演販売コーナーに遭遇しました。
私はスルーしようと思ったのですが、
夫はどんどん技を繰り出すお兄さんにロックオン。
ついに夫はけん玉を手にとって試してみたのですが、
ちっともうまくいきません。

それを見たお兄さんがすっと近づき、夫に囁きました。
「これまでの人生で…刺したことありますか?」
「いえ…ないです…。」と答える夫に、お兄さんは言います。
「大丈夫です、必ず刺さります!!」

けん玉愛にあふれ、しかも教え上手なお兄さんの手ほどきを受けたところ、
夫は短時間でかなり上達しました。
すっかり気を良くして、けん玉をお買い上げ。
それからしばらくは、朝食前にとめけんを成功させないと、
その日のテンションがあがらない、とまで言っていました。

今でも、けん玉は目につくところに置いてあって、
時々カチャンカチャンと、心地よい木の音を響かせています。

4 2020/1/22
きょくのほか 心のおそしつまなれど 思ひゆるさん とつくにのさけ

(大意:音楽以外のことは、からきし気が利かない夫だが、ワイン頼んでおいてくれたから許してあげようかな。)

わが夫は気が利きません。それもちょっとどころか、相当です。
なんといっても私が高熱を出して寝込んだ時、
「よるごはんはどうなるの」と3歳児のような真顔で言った男です。

こればかりは、私もいまだに根に持っていますが、
夫はその思考で長年きてしまった人なので、
いまから矯正するのは、あきらめるしかありません。

それが、音楽のことになると別人なのです。
わたしがちょっと「〇〇版のヴォーカルスコア、おかしい気がする」などと呟くと、
あっという間にスコアから該当箇所を探し出したり、
いつのまにか海外に、必要な楽譜や資料を注文しておいてくれたりするのです。

ある時、ベートーヴェンの第九の自筆ファクシミリが
家にドーンと現れました。
ここで聞いてはいけないのは値段なのですけれど、
やはりそれなりの…いえ、かなりの…お値段でした。気絶。

その後、夫はわたしへの贈り物だと言いながら「
トリスタンとイゾルデ」自筆スコア・ファクシミリも入手し、
ページをめくってはニヤニヤしていましたっけ。

そんな夫ですが、思いもよらぬ時にワインなぞ注文してくれていたりするので、
そのたびに「よるごはんはどうなるの」発言は、
お酒に免じて許してやろうと、
決意を新たにするわたしなのでした。

今回は、夫に関するネタばかりになってしまいましたが、
このあとはコロナに関する歌が増えてきます。
もしよかったら、またお付き合いください。

ONCE WERE BROTHERS

仲宗根浩

久方ぶり、那覇に映画を見に行くと国際通りにはいつの間にかウーバーイーツの自転車が走っている。人通りはある程度あるが筋道に入るとさびしい。これぐらいが歩きやすいが通りで生活しているひとにとっては厳しいのだろう。映画を見終わったら馴染みない場所からそそくさと帰る。「かつて僕らは兄弟だった」、ロックバンドの悲しい映画だった。引用されていた映画の場面で涙が出てしてまう。中学生の頃、ザ・バンドで最初に買ったレコードが解散コンサートのものだった。

ここ数年調子が悪い借家の照明のリモコン。ネットで調べると三千円近くする。液晶画面があるもののボタンの数は少ない。ダメもとで一旦ネジを外し中身を見てみることにする。ボタン部分は基盤の金メッキ部分に接触するようになっている。ボタン部分はゴムか。両方の接触する部分を指で触り、近くにあった眼鏡を拭きの布で軽く拭いて元にもどし所定のネジをとめて動作を確認すると問題ない。天井扇がついている照明なのですべてがちゃんと動作する。簡単な構造なものは取り敢えずネジを外してみるか。

新聞やテレビで首里城の再建についていろいろ取り上げている。首里城が沖縄のアイデンティティと言われると、ん、そうか、あれは首里のにあるものであってこっちとしては身近にない。正殿の龍柱が正面向きか向かい合っているかでもめている。もめているのを論争という。はずれにいるものとしてはどっちでもいい。そもそもアイデンティティというのはなんなだろう。

万華鏡物語(7)心地よい生活

長谷部千彩

 ページをめくる。え?
 ページをめくる。あれ?
 さらにページをめくる。めくる。めくる。
 私は軽い衝撃を受ける。この雑誌だけだろうか。それとも他の雑誌もこうなのか。

 ヘアサロンでは、持参した本を読むことにしている。今日もエッセイ集を一冊読破するつもりだった。だから、鏡の前に置かれたファッション雑誌に手を伸ばしたのは、ほんの気まぐれだ。
 登場する人々はみな、コロナ禍で暮らしを見直したと語っている。新たに取り入れた習慣とやらを披露する。
 早起き。植物への水遣り。健康的な食事。午前中に部屋の掃除。ドリップ式で淹れる珈琲。週に一回花を買う。公園への散歩。寝る前の読書。
 新たに、と意気込む割には、たいした習慣ではないなと思った。それにまるで小学生の夏休みみたいだ。登校する必要がないのに、早朝に起こされ、ラジオ体操に行かされた記憶が蘇る。いま考えれば、休みの間ぐらい、ゆっくり起きてのんびり朝食でも良かったのに。規則正しくというのは、それほどの美徳なのだろうか。最低限やらねばならないこと以外は適当に、というのは悪徳にあたるのだろうか。

 小学校では、何かにつけて生活を振り返るよう促されていたように思う。目標を立てさせられ、子どもだからすぐに忘れて、後から、達成できていない、ここがダメだったから、これからはこう頑張ろうと思います、と、年中そんなことを言わされていた。目標なんてなくても生きていけるのに。
 合点がいった。ああ、そうか、大人になっても、何かあれば生活を見直し、何かを始める、それを繰り返しているのかもしれない、日本人は(他の国のことは知らない)。そしてそれを良いことだと信じている。

「みんな見直しが好きすぎると思うの。むしろ本当に見直してもらいたいのは政府よ。政治家よ。なのに見直すべきひとは全然見直さない」――私がそう呟くと、背後に立つ美容師さんが鏡の中で笑った。

 家に帰るなり、私はiPadを手にサブスクリプションサーヴィスを使って他の雑誌の内容をチェックし始めた。ファッション誌やライフスタイルマガジン、私が以前好んで読んでいた雑誌。そのどれもが「心地よい」暮らしを提案する特集を組んでいた。
 極端なまでに物の少ない部屋。大きな木製のテーブル。apple社製のノートPCが開かれ、部屋の主(あるじ)が背筋を伸ばして椅子に腰掛け、キーボードに手を載せている。それが女性なら、服は大抵紺か白。PCの脇にはマグカップ。たぶん珈琲が入っている。部屋の隅には鉢植えの植物。恐ろしいほどそっくりなインテリアの写真が、どの雑誌にも掲載されていた。
 いまの時代はどうやら「物がない状態=心地いい」ということになっているらしい。確かに物がなければすっきりして見えるけれど。楽しくない。ページをめくっても全然楽しくない。何もない部屋を雑誌で見せられる意味って何だろうと思った。だいたいそんな部屋で外出自粛生活を強いられたら、絶対に退屈してしまう。そう感じるのは私だけだろうか。家から出られなくても、マスクを外せなくても、楽しく過ごす方法はいくらでもあるよ、ほらこんなに!――そんな風に語りかけるひとはいないんだな、と寂しく思った。

 今年の私。モロッコ旅行はキャンセル。香港にも行けなかった。行動が制限されたのは事実。でも、つらいことばかりではなかった。我慢ばかりでもなかった。たくさん映画を観た。たくさん本やマンガを読んだ。たくさん音楽を聴いた。たくさん買い物をした。そしてたくさん仕事もした。達成感のある仕事。不完全燃焼の仕事。何人ものひとと知り合い、そのうちの数人とは意気投合し、そのうちの数人とは心の中で絶交した。美味しいものも時々食べた。ウーバーイーツで気になっていた店から食事を取り寄せるのは楽しかった。自分の料理には正直飽き飽き。困っていそうなひとのために時々募金をし、街頭に立つ男性からビッグイシューを買った。パンプスの代わりに増えたスニーカーは六足。部屋でつけていた香水はゲランのアクアアレゴリアだ。いろいろと調べてみたけれど、感染しないために、そして感染を広めないために私ができるのは、結局、マスク着用と手洗い、ひとに近づくのを控えること、それだけだった。ならば、それを守ったら、あとは面白おかしく暮らしたい。それでいいと思っている。

Sさんは、テレワークに切り替わって、始業の5分前まで寝ていられるのが幸せと言っていた。
Yさんが最近読んでいるのは『「健康」から生活を守る』という本だと言う。
小学生の姪に、休校中、学校に行けなくて寂しいかと尋ねたら、「全然!」という声が返ってきた。
私の大好きなひとたち。
私に健やかさをもたらしてくれるひとたち。
彼らは生活を見直してはいない。

変わりゆくもの

笠井瑞丈

変わりゆくもの

今年もあと一月
今年は変化の年

自分も
世の中も

新しい出会い
古い友人との再会

ドライブインで
コーヒーを飲み
未来の事を語る

『停止』した時間

世界は少しづつ変化し
見るものも変わってくる

焚き火の木が
空気を吸い込み

バッチンバッチン
拍手を打つ

そろそろ

違う衣装に着替えよう

入口は違い
出口は同じ

きっと

物事は続けていけば
そうなるんだろう

放射し
交差する

たまには

走るのを休め
隣を見てみる

気の合う友人との時間
ひさしぶりに良い時間

ネイティブのつぶやき(58)宮城県美術館、現地存続!

西大立目祥子

11月16日は、午前中からあわただしかった。9時過ぎくらいに、ある知人から電話が入り、今日の知事の記者会見で重要な発表があり、宮城県美術館の移転案は撤回される見込みだと聞かされた。しかし、一方でまだ誰にも知らせないようにと、釘も刺された。その2時間後くらいに、今度はいっしょに活動をやってきた知人からも興奮気味の電話があった。「移転案は撤回です。これから〇〇先生に連絡します」という。どうも本当らしい。

 まさに急転直下。11時半に知事の記者会見が始まり、知事が「宮城県美術館は、現地に存続させる」と発表すると、NHKのほか地元放送局が臨時ニュースのテロップを流し、河北新報は「宮城県美術館移転断念 県決定現地存続へ」と大文字が踊る号外を出した。そうこうするうち、ここ何ヶ月かの活動で知り合いになったテレビ局や新聞社の記者から、活動を推進してきた宮城県美ネットに取材をしたいと連絡が入り、宮城県美術館で応じることにした。月曜で休館日だったのだけれど、この美術館は建物のまわりは庭園になっていて休館日も入り込める。何社ものテレビ局や新聞社がきていて、質問に答えたり、バンサイさせられたり…そうこうするうち、飲み込みの遅い私もようやくほんとなのかもしれないという気分になっていった。

 昨年11月18日に、宮城県が築38年になる前川國男設計のこの美術館を突然、移転すると発表して以来、現地存続の活動を始め、要望書を何度も県に提出し署名活動やロビー活動を展開してきた。特にこの7月に、要望書を提出した団体が連携し「宮城県美術館の現地存続を求める県民ネットワーク」という会をつくってからは、30代から80代までのメンバーが団子になって、ほぼ休みなし昼夜なしといっていいほどの熱の入れ方で突っ走った。移転は、建物の解体や売却を意味することだったから、誰もが本気だったのだ。疲れているはずなのに疲れを感じないのは、全員興奮した頭で愉快に笑いながらやってきたからなのか。集団のパワーというのは、全員上機嫌のときに最も発揮されるんだなぁと、いつもみんなの顔を見ながら思っていた。

 それまで知らなかった同士がつながり、一つの目的のために動いていくおもしろさは事務局だけにとどまらなかった。会員の申込みハガキや申込みフォームに「なんでもやります」「手伝います」などと書き添えてくださる方があまりに多いので、手伝ってもらおうよということになり「県美応援団」を組織した。10月10日に開いた第1回目の会合には、40人近い人たちが参加してくれて、何かひと言を、とお願いすると、「デモもやりましょうよ」「署名もう一回やらないとダメ」「絶対に阻止しよう」などと熱い思いが会場にあふれ出てくる。封筒の発送作業も手伝ってくれるので、活動を直接支えてくれるなくてはならない存在になっていった。

 11月29日には、知事の移転撤回後、初めて応援団の集まりを持った。安堵感と達成感がそれぞれの表情に浮かんでいる。あらためて自己紹介を、とお願いすると、口にしてくださったのはこの会の活動の中で自分が得たことだった。「自分の意見をいえる機会をつくってくれてありがとう」「この歳で市民活動をやるなんてね」「残りの人生も悪くないかな、この歳でこんなに署名活動やって達成できたんだから」「人の輪が広がっていくのは楽しい」「未来の県民にあの美術館を手渡すお手伝いができてよかった」「またあの場所の県美に行けるのだから、幸せ」。にこやかに話す人たちの年齢は40歳代から70歳代まで。頑張って実現できたという思い一つでつながるネットワークは、しばらく消えそうにない。

 活動はここで終わりにしないつもりだ。会を継続して、会員も増やし続けながら、つぎは宮城県美術館に直接かかわっていく活動につなげたい。声を上げるためには、何か組織がいることも痛感させられた。私たちの会を中間組織といったらいいのかわからないけれど、個人ではあげにくい声も、誰かが組織をつくり束ねていけば大きな力になりうる。いま会員は2100名。これだけの人たちがこの会に自分の思いを託して声をあげたことになる。

 それにしても、宮城県美術館はしあわせな美術館だと思う。県内広く、たくさんの県民に愛されているのだから。それは青葉山や広瀬川に近い自然豊かな場所に立地していること、質実でありながらもきめ細やかな質感を持つ建物であること、公園としても楽しめることなど、いろんな魅力があるからだ。

 この県民には自明の豊かさを、知事も県も当初はほとんど理解できていなかったのだ。だから、こんな乱暴な移転案が飛び出してきたのだろう。行政と住民の何という意識の乖離。知事は記者会見で、移転する場合は総務省の地方債を使うことに
なり、その場合は前の建物の除去が条件であるため、建物の譲渡先を自ら探したが不発に終わったと話している。もしそれがうまくいっていれば、移転は強引に進められた可能性は十分にある。

 もはや私たちが大切と思うものが、いつまでも維持される時代ではなくなった。大切だと思うものは、通い、手をかけ、いざというときには声をあげなければ守れない。そしてそのためには人と人がネットワークを組み、どこに誰がいて力になってくれるかを知っておかなければならない。今回のこの移転騒ぎが、図らずも残してくれたものはこの人と人のつながりだ。つぎに何か起きたときは、このネットワークが生きてくるだろう。

 ともかく安堵感のうちに師走を迎えられてよかった。
 応援してくださった全国のみなさま、本当にありがとうございました。

ソーシャルディスタンスじいさん

さとうまき

半年通った職業訓練が明日で終わりになる。そもそも、いくつかの学校の試験を受けたのだが、コロナのために、窓は開けっぱなしで寒く、試験官との距離は遠く、しかもマスクをしているからなおさら聞き取りにくい。開校は2週間くらい遅れた。皆マスクをかけているし、話かけづらい雰囲気を醸し出してた。

セクハラ対策なのか、席は男女離れて座らされた。慣れてくると女子同士はよくしゃべる。しかし、男子は一言もしゃべらない。いつしか、男子は空気となり、女子は全く男子の存在など気にせずおしゃべりをしていた。彼氏と暮らしていているとか、ネコを飼っているとか。。。彼氏の話ばかりする女子のおかげで大体彼氏の性格までも容易に想像できるようになった。

この距離は、コロナによってもたらされたものなのだろうか? 僕の場合は、さらに年齢的な距離もあり、そもそも話に入っていけない。自分では若いつもりであったが、白髪が最近増えたと痛感。

就職してこれから社会に羽ばたこうとしている若者を叱咤激励する先生の言葉には、最初から僕は対象外だ。「若いうちだけですからね!しっかり学んでください!若いうちは、やり直し効きますから!」
思わず苦笑いする。「カルチャースクールと勘違いして、WEBを習いに来たじいさん」だとみられているのだろう。

それにしても、男子はしゃべらない。全くしゃべらない男子が大半だ。その中の一人と、帰りが一緒になり、話しかけてみたら普通にしゃべってくれた。職業訓練は2回目らしく、前回は、みんなで酒を飲みにいったりしたらしい。やはり、コロナの影響なのだろう。そういえば、最初のころは男子も 二言、三言くらいはしゃべっていた気もする。次第に男子たちはしゃべるきっかけを失っていった。

職業訓練校は、厚労省からの助成金で成り立ち、生徒をともかく就職させなくてはいけないから必死だ。卒業しても、毎週就職相談を受けなければならないそうだ。就職担当の職員との面接で、
「佐藤さんの場合は、相談はもういいですよね? なんか起業されるとかおっしゃってましたよね?」
「(何を言うか!)老人でも働けるいい仕事があれば、働きたいんですけど」
実際、この半年で稼いだお金は、3万円ちょっとである。本を書くという話もあるが、ベストセラーになるとも思えないし。
「いやいや、起業されるっておっしゃってましたよ? 厚労省には、起業ということで提出しておきますので。ぜひそちらで頑張っていただければよろしいかと」
「そりゃ、起業したいって言いましたけどね、、、、、そんな人生甘くないですよ」
「毎週、遠い距離をこちらに来られるのも大変ですし、私たちも大変なんで、就職指導も終わりということで」

どんどん息が苦しくなり、マスクもずれてくる。僕はそのたびにマスクを直しながら、距離を感じていた。

結局、この半年は何だったのか。「勘違いしたカルチャースクール」で終わってしまうのか。WEBを自由に操り、世界制覇して、世界の格差を埋めていくという野望はどこへ行ったのだ? 今の俺は、磁石のように、社会に近づこうとしても、引き離される。俺は世界から隔離されている!

SDGsとは、ソーシャルディスタンスじいさんのことで、みんなが楽しんでいるところには近寄ってはならないのである。今はそういう磁場が働いているから、いてもしかたがない。

SDGsの本当の意味は、2015年9月25日~27日、ニューヨーク国連本部において、「国連持続可能な開発サミット」が開催され、「私たちの世界を変革する:持続可能な開発のための2030 アジェンダ」が採択されました。このアジェンダは、人間、地球及び繁栄のための行動計画として、宣言及び目標を掲げました。この目標が、ミレニアム開発目標(MDGs)の後継であり、17の目標と169のターゲットからなる「持続可能な開発目標(SDGs)」です。念のため。

ブス

植松眞人

 たった一年ほどしか経っていないのに、どうも顔の印象が違う。以前よりもほっそりとしたし、二十三歳という年齢に見合って大人びた雰囲気を増してはいる。表情を構成する目や唇、鼻や眉の造形に変化もない。つまりは、道でばったり出会っても、きっと「あ、久しぶり」と声をかけてしまうくらいに、以前と変わらないのだ。それなのに彼女と待ち合わせ、駅前でその姿を見かけた瞬間に浮かんだ言葉は「ブス」だった。
 正確には見かけた瞬間ではなかったかもしれない。駅前で約束よりも十分ほど遅れるとスマホにメッセージが入り、そのメッセージ通りの時間に少し小走りで到着した彼女はブスではなかった。ブスという言葉を連想させるものはなにもなかった。しかし、そこで二言三言、言葉を交わした瞬間に、ブスという言葉が彼女の顔にぺたりと貼り付いたのだ。
 その後、焼き鳥屋に入り、何杯かの酒を飲み、いくつかの料理を注文しては食べているあいだも、こちらはずっとそのブスの理由を考え続けていた。なぜ、ブスに見えるのか。なぜ、ブスだと思えるのか。もともとバランスの良い顔立ちではない。目の大きさとよく笑う印象はいいのだが、結局、地頭の悪さで笑うタイミングがいつもほんの少しズレてしまう。本人は気付いてはいないけれど、このタイミングのズレで学生の間は大人たちから反感を買っていたのだった。ただ、反感をもった大人たちもなぜ彼女に反感を持つのか、正確に分かっている者は少なく、結果、互いになんとなく苦手、という感情だけが残るのだった。
 その苦手意識は私にもあったのだが、ただ彼女が私のゼミにいたということで、いつまでも苦手だと言っているわけにはいかず、知らず知らずのうちに、その苦手な部分を個性だと思うことに慣れてしまった。しかし、今回のようにブスだと思ったことはなかったので、正直、彼女が話している仕事の近況などは耳に入らず、目の前に出された名古屋コーチンのレバーを食べるのはやめようと決めた。こんな日に生ものを食べるとろくなことにならない。
 もう私は心の中で彼女のことをブスと呼ぶようになっていた。しかし、ブスのほうは最初の乾杯から上機嫌で、最近手がけた仕事の話などを楽しそうにする。誰もが知っている企業の名前が次から次へと出てくるのは、ブスが働いている会社が大手CM制作会社だからだ。ただ、ゼミを卒業してストレートに就職したわけではなく、彼女は小さな映画の予告篇を作る会社に入った。とても小さな会社で、最初にちょっと危惧したとおりに見事なブラック企業だった。古株は社長と入十年目くらいの女子社員だけで、あとは昨日今日入ったような若手ばかりだったからだ。ようは若手が育たない。そして、社長と十年選手の女子社員だけということになると、想像を巡らさなくてもこの二人ができていることくらいすぐにわかる。実際、そうだったらしく、たった五人ほどしかいない会社なのにちゃんと社長室があり、女子社員は普段後輩社員とのやり取りはすべてメールだけで、一言も喋らないのに、社長室に入ると数時間出てこず、しかも中からは楽しそうな笑い声が響いてくるのだという。
 彼女は結局、入社一年でその会社を辞め、辞めるときに脅されたりいろいろあり、私も相談に乗り、私の知り合いにも相談に乗ってもらったりして、まあ、ブスらしくそれなりに大騒ぎをしたのであった。
 紆余曲折いろいろ合ったのだけれど、結局そこそこホワイトな制作会社に中途採用されることが決まり、ほっと胸をなで下ろし、それなりに頑張っているらしいということを現場で一緒になった同業者から聞いたりもしていたので安心していたのだ。
「実は辞めようと思っているんです」
と話始めたのは、ひとしきり笑い、ひとしきり飲み、それなりに腹一杯焼き鳥を食べた後だった。ははん、と私は独りごちた。それでブスに見えたのか。元々このブスは自分でもそれは掟破りだと思っているようなことをしでかしたり、嘘をついたりすると、学生のころから極端に表情にでるのである。しかも、それを誤魔化そうとして、独りよがりな理屈をこねるのだけれど、やはりいろいろ無理があり、その無理が彼女の表情を歪めてしまう。特に愛想笑いをしようとすると、右頬が中途半端に歪むのだ。それが彼女をブスにする。そうだったのか。また何かやらかそうとしているのか、このブスは。そして、この調子だときっとまた男が絡んでいる。こいつはいつも男が絡むのだ。寂しいからと男と引っ付き、自分のやりたい事に邪魔だからと男と別れる。そんなことを繰り返しているという話は聞いたのだが、おそらくその程度のことならきっと引け目に感じることもなく、もっと晴れやかに飲んでくって騒いでいるはずだと私はじっと彼女を観察する。
 すると、どこか過敏になっているのか、すっと引くのだ。何をと聞かれても困るのだが、こちらに向かってくる熱のようなものが後ろにすっと逃げていく。その逃げた先には、恥を真ん中にしてぐいぐいと力任せに丸め上げた泥団子のようなものがある。
「で、お前、なんかブスになってない?」
 私が聞くと、彼女はさらにブスになって言う。
「えっ。ブスになってますか? 前よりちょっと痩せたし、綺麗になってません?」
 そう真顔で言う顔がこれまたブスなのだが、それを聞いて、また男がらみか、と私はうんざりとしてしまう。
「で、今度はどんな相手だよ」
「相手?」
「なんかしでかしたか、しでかそうとしてるか、どっちかだろ」
 私が言うと、ブスはブスではないという表情を浮かべながら、つまり精いっぱい強がりながら、こう言う。
「いまの会社を辞めようと思うんです」
「まだ一年ちょっとしか働いてないのに?」
「もう一年半です」
「いやまあ、そんなに変わらないけど。これから三年は頑張るって言ってなかった?」
「そのつもりだったんですが」
 と話始めた事情というやつは、彼女の制作会社に出入りしているフリーランスのCMディレクターが「一緒にやらない」と誘ってくるのだ、という話だった。そして、その話は、彼女がすっかりとその気になり、社長に話を通し、先輩にちょっと馬鹿にされながら、すっかり出来上がっている話だった。
「うん、わかった。もうそりゃ仕方がない。僕らの頃は出入りしている会社の新人を自分の会社に誘うなんて、掟破りだったけどね」 そのことについては、彼女は答えず、
「もう、一年も返事を待ってくれていたんです」
 ということだったので、私の方はこれはもう仕事の関係ではないのだと思い、何を言っても仕方がない、という気持ちになってしまう。ただ、これが友だちなら黙っていればいいし、もとの職場の同僚なら頑張れと言えばいいようなものだが、私は彼女が卒業したゼミの担当者なのだった。これは一応、言うしかないという半ば義務感で、
「つまり、入社たった半年の新人に声をかける時点で、個人的には掟破りだと思うし、そんなディレクターに本当にいいものが撮れると思えないけどね」
 なんて、実は心にもないことを言っておくのだった。もちろん、どんなにスケベ根性丸出しなフリーのCMディレクターでも、才能のあるなしとは関係ない、もしかしたらものすごい作品を作り出して大注目されて、ついでにこのブスが絶世に美女に見えるほどに輝く瞬間が訪れるかもしれない。もしかしたら、フリーのCMディレクターよりも、このブスの方が一枚上手で、CMディレクターをきっかけに知り合った、有能なプロデューサーにさっさと乗り換えて、大きなチャンスを手にれてしまうかも知れない。それでも、一応、立場的に言っておかなくてはと思い、そんなことをブスにこんこんと話していると、だんだんこちらもその気になってきて、最後には、
「だから、お前はダメなんだ」
 とか言ってしまう。しかし、別にダメなことはないわけで、本当は好きなように生きるのが一番なのだ。私だって、このブスにブスと言っている場合ではないほどに、ブスになっていることがあるのだろう。焼き肉屋に行って壁に貼ってあるメニューを眺めていると、ハラミとツラミの間に、ネタミとかソネミなんていうメニューが見えてくる気がするほどだ。
「じゃ、帰るか」
 と、ちょっとばかり怒っているふりをして早めに宴席を切り上げる素振りを見せると、ブスが急にしおらしい顔をして、すみませんでした、と小さく言う。しかし、そのちょっと歪んだ顔が笑っているようにしか見えないという恐ろしい事態を生んでしまう。そして、彼女の笑っているような歪んだ顔を見ながら、ああ、こいつはどんな道であっても、その時その時、自信たっぷりに歩いているのだということを知る。歪んだ笑顔になっているのは、私の「じゃ、帰るか」という言葉が脅しにもなんにもなっていないのだ、ということをはっきりと示しているに違いない。このブスは、いま私を哀れんでいる。(了)

しもた屋之噺(226)

杉山洋一

今日からミラノは、都市封鎖のレヴェルがレッドゾーンからオレンジゾーンに緩和されました。良く晴れた静かな深秋の朝です。晴れていても、陽の光が弱いせいか、風景から色味が抜けて、薄く見える気がします。
オレンジゾーンに緩和され、一般店舗と中学生の対面授業が再開し、市内の往来が自由になりました。喫茶店とレストランは相変わらずテイクアウトのみの営業で、市を跨ぐときは今までと同じように証明書が必要ですから、クリスマス商機を見据えた経済緩和策なのでしょう。
まるで正解のない世界に、足を踏みこんだ気がしています。正しいことを目指すにも、何事につけ反駁するに余りある情報の渦に翻弄され、我々の神経だけがすり減り、体力を奪ってゆくようです。
インターネット時代に入って、落ち着いて答えを待つ精神的余裕すら失くしていた我々から、コロナ禍は将来的展望すら奪っていきました。このままでは全てが刹那的に処理され、判断される日々に飲み込まれてしまうのではないか、そんな畏れに薄く慄いてもいます。

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11月某日 ミラノ自宅
明日から学校で指揮のレッスンが始まるが、ジェノヴァに住むマルティーナから、電車でミラノまで出かけるのが怖いと連絡があり、急遽レッスンを入れ換える。都市封鎖になったとしても、学校の対面レッスンが続けられれば、むしろその時の方が電車も管理が行き届いているはずだから、安心してミラノに行けるだろうと言う。なるほど、当然の発想だ。いつ封鎖になるか分からないので、一日でもレッスンを受けさせてやりたい、と思うのは、やはり間違っていたと反省。
新感染者数29907人。死亡者数208人。PCR検査陽性率はイタリア全国平均で16.3%。ロンバルディアに限って言えば21.7%まで数値は跳ね上がる。都市封鎖にならない方がおかしい。

11月某日 ミラノ自宅
新年度初めての指揮レッスン。今日は、指揮伴奏ピアニストに家人も入っていて、二人揃って自転車で出かける。偶然、今日のもう一人のピアニストも木村さんだったので、教室は日本人ばかりになった。長年務めているが、初めての経験。
先週までは、ピアニストも学生も、社会的距離は存分にあるとマスクは外していたが、今日は誰も外さない。家人も久しぶりに他の人と演奏出来て多少は気分転換になっただろうか。出かけられず、誰にも会えず、ずっと家に籠っている生活は精神的に良くない。
学校は相変わらず人気がなく、学生たちも、心なしか、どこか少し緊張しているように見えた。感染を恐れているというより、今日でレッスンが終わるのではないか、これから先一体どうなるかという、先の見えない漠とした不安かも知れない。教師としても、行先の見当がつかない航海に漕ぎだした感がある。
新感染者数22253人。233人死亡。今日も陽性率は16.3%。

11月某日 ミラノ自宅
悠治さん「フォノジェーヌ」の新スコア製作をお願いしているアメリカの大西君より、これから投票に出かけるとのメール。自転車を漕いで、ミラノの反対側までISEE証明書を受取りにゆくと、以前息子が黙役で劇場から受取った給金申告証明書が欠けているとの指摘。息子の学校の授業料のためのISEE証明書だが、再度最初からやり直し。
サンドロが高熱を出し、検査を受けると陽性だった。彼は70歳以上だし、ヘビースモーカーでペースメーカーも付けているから、周りは揃って気を揉んでいる。タッローネとスタンウェイ、2台ピアノがある彼の家を借りて、週末は定期的に個人レッスンをやってきて、気が付けばもう20年近くなるのではないか。親戚のような付き合いで、彼は何時でも使えば良いと言うが、今は到底無理だ。

息子曰く、来週に予定されていた日本人学校の英語討論大会を、緊迫した情勢を鑑みて、急建てながら今日の午後に慌てて実施したと言う。中学3年生は全部で5人。そのうちの一人、太郎君は受験で10日後には日本に戻らなければならない。対面で討論大会をするには今日しかないと息子が提案したそうだ。
新感染者数28244人。死亡者数353人。陽性率15.49%。

11月某日 ミラノ自宅
朝起きて、玉葱のパスタを作り、家人とナポリ広場まで少し歩く。チビカ指揮レッスン2日目。ミルコのレッスンの最中、どうにも内省的で表現が小さいので、何故こんな時に音楽をやり、感染の危険を冒して学校まで来て、ここで振っているのか、考えてほしいと言う。レッスンも今日で最後かも知れない。一期一会と思って、限界を考えたり、人への妙な気遣いはやめ、自分の全てを表現して振って欲しいと頼むと、音楽は劇的に変化した。
今朝コンテ首相が同意した新首相令の内容が、なかなか発表されないので、レッスン中も皆気を揉んでいた。
午後3時ころ、学校を経営する財団より教員に一斉メールが届き、すわ休校かと思いきや、単にCovidに注意喚起を呼びかける連絡で、ピアニストの一人、マリアは学校閉鎖は回避されたのよと喜んでいる。
彼女は、今晩は友人宅で夕食だと大きなシャンパンを昼休みに買ってきて、冷やすため、窓の外に置いている。この時世に友人宅で晩餐など、他人事ながら大丈夫かと少し心配になる。
午後レッスンにやってきたベネデットは、遠隔レッスンがとても辛いと言う。彼はピアノの担当教師がローマに住んでいて、ミラノに来られないため、スカイプでレッスンを受けている。
ここ暫く、教室の鍵のかかる戸棚にレッスンに使う自分のスコアやピアノ譜など一切を置きっぱなしにしていたが、今日のレッスンの後、暫く悩んでから、結局家に持って帰った。
夜、家に帰ると、首相令の詳細が発表されていて、芸術専門学校も一律遠隔授業と明記されていた。絶望的な心地9割に圧し潰されそうになりながら、ほんの微かに、学生を感染させる不安から解放された心地もする。
スカラ初日中止の正式発表もあった。大戦中1943年以来の出来事。夜、生徒のジャコモよりメール。「今度は皆に何時会えるのでしょうか」。悲劇的な口ぶり。
本来は彼は今日がレッスンだったが、パートナーが陽性と分かり、自宅待機になってしまった。浦部君は、行動制限が本格化する前に、明日昼のフライトでミュンヘンの柘植さん宅へ発つ算段を立てた。皆が散り散りになってゆく。ノヴァラからミラノの国立音楽院に転院した息子は、今日が最初のレッスンだったので、自転車で出かけた。
新感染者数30550人、陽性率14.42%。ICU67人で死亡者数352人。
眼前の闇の中から、漆黒の大波が、静かに迫ってきている。

11月某日 ミラノ自宅
昨日16時に学校より遠隔授業との連絡あり。同じミラノでも国立音楽院は対面授業、対面レッスン継続を決定。ノヴァラの国立音楽院も対面授業を続行と言う。夜、生徒のGから明日が授業料の支払い期限だが、今後レッスンはどうなるだろうとのメール。Bからは、学生組合代表として明日学長、財団と談判しますと連絡がある。
サンドロの妻のナディアも陽性判明。彼女は、90歳を超える自分の母親に感染させたのではと心配している。
隣のアリーチェも同僚が陽性だったので、濃厚接触者として家族と離れて一週間暮らした。
朝パンを買いに行くと、馴染みのパン屋の妙齢が、これからも私たちはいつも通り、ここに居ますから、と少し諦めたような笑顔で呟いたのが印象的に残った。
新感染者数37809人で陽性率は16.14%。ICU新収容者数は124人。446人死亡。

11月某日 ミラノ自宅
夕刻、バイデン勝利のニュース。息子は封鎖後初めての国立音楽院レッスンに出かけ、こちらは耳の訓練クラスの遠隔授業。皆とてもやる気がある。ミラノやノヴァラと違って、コモの国立音楽院は閉鎖しているそうだ。国と州が出した令状に対し、遠隔授業にするか、対面授業を続行するか、それぞれの学院長が、自らの解釈で采配を揮う。そのため、教育事情は酷く混乱している。
市立音楽院の学院長より、出来るだけ早くに対面レッスンを実現させたいとメールが届く。新感染者数32616人。ICU115人。死亡者数は331人。昨日は新感染者数39811人、ICU119人、死亡者425人だったから、押しなべて見れば、横ばい状態か。

11月某日 ミラノ自宅
夏前にスキャンで送った請求書の原本を郵送するため、郵便局に出かける。人数制限のため、郵便局の中では待てない。郵便局の入口から社会的距離を保って、道端に人がずらりと並んでいる。寒空で待つこと30分以上、漸く入口まで辿り着く。これが極寒だったり、雨が降っていれば簡単に風邪を引く。
実効再生産数Rt値は1.7まで減少したが、1以下でなければ収束しないとも聞く。イタリアのどの地域も1以上で、2に達する地域もある。
昨日は朝10時から夜8時半まで遠隔授業で困憊。明日以降の学校の対面レッスンの行方は不明。文部省のインターネットサイトに、学校授業体系に関する新しい文部大臣令が出るのを待っていると学長より連絡あり。

アブルッツォ、バジリカータ、トスカーナ、リグーリア、ウンブリアの各州がオレンジゾーンとなり、ボルツァーノがロンバルディアと同じくレッドゾーンとなった。新感染者数は35098人で、昨日まで17%を超えていた陽性率は16.11%に減少。ICUには122人収容、580人死亡。
身体から力が抜けてゆく感覚は、3月と同じ。既視感と諦観をこめて日々の報道を追う。
ブレラ美術館のラファエルロの部屋を懐かしく思い出す。初めて見た時から、ピエロ・デルラ・フランチェスカと記憶が結びついているのは。神殿の構図と、静的な祝祭感のためか。階下で、息子がリストの「婚礼」を練習していて、賑々しい鐘楼の響きが哀愁を誘う。

11月某日 ミラノ自宅
昨日は時間ぎりぎりまで学校の対面レッスンの再開を期待していたが、最終的に不可能と分り、改めて落胆。
ミラノ国立音楽院では現学長のクリスティーナが一貫して対面授業を推進しているが、同じミラノの音楽学校でありながら、あちらでは正反対の問題が生まれている。
市立音楽院で、教師や学生組合が学長や財団に対面授業再開を強く求めているのに対して、国立音楽院では、多数の教師が、学校側が教師や学生の健康を蔑ろにしているとクリスティーナの決定に反対、一時転出を希望し、実際多数の教師が一時的に別の音楽院に移動した。
そのため、当初一律対面授業継続を表明したクリスティーナも、各教師の判断に基づき、対面授業、レッスンを継続、と妥協せざるを得なかった。
全国一律の都市封鎖は回避されたようだが、プーリア、リグーリア、エミーリア、ヴェネト、フリウリがレッドゾーンに加えられる可能性があり、感染拡大の頂点は11月27日と予想されている。昨日は新感染者数32961人、陽性率は14,6%に減少して、死亡者623人。今日は新感染者数37978人で陽性率16.18%。ICU89人で死亡者636人。

11月某日 ミラノ自宅
鈴木君からの情報で、悠治さんの「橋II」はツェンダー指揮、オランダ放送室内管弦楽団の演奏で、日本でもラジオ放送されていたと知る。聴いてみたいが、1月の本番が終わってからの方が良いだろう。もちろん悠治さんは演奏されたことはご存じなかった。悠治さん曰く、ツェンダーとは日本で会ったことがあるそうだ。
高校生の頃から、ツェンダーとマデルナは、指揮ができる素晴らしい作曲家という印象を抱いていた。当時は、ブーレーズは、指揮者よりむしろ作曲家、特に自作を指揮する作曲家だと思っていた気がする。それでも、ツェンダーのオーケストラ曲は、レコードを持っていたので随分聴いたし、彼の指揮したクラシックもルネ・レイボヴィッツの「グレート」と同じく、とても気に入っていた。当時は自分が指揮するとは露ほども想像していなかったから、単純に感嘆していたに違いない。
後年ミラノでアンサンブルを作る手伝いをした時も、当初の希望は、何時かツェンダーに振ってもらえるアンサンブルを作ることだった。それもあって、イタリアでは殆ど演奏されていない、ツェンダーの室内楽曲を何曲も取り上げて演奏した。

文部大臣令による対面授業再開は、ディプロマ課程のみに制限され、未だクラスは再開できない。新入生には、課題のミクロコスモスをメトロノームに併せて、歌いながら指揮したヴィデオを送ってもらう。
新感染者数40902人。ICU60人で、死亡者数550人。

11月某日 ミラノ自宅
朝、息子を国立音楽院まで送っていき、帰宅後、遠隔授業。ロンバルディアのPCR陽性率は、昨日の19.1%から22.8%に増加。何という事だ。既にアルトアディジェの救急病院は、受付が生命に危険がある場合のみに限定された。病床が逼迫している。階下から、息子が譜読みしているベートーヴェンのテレーゼソナタが聴こえる。不思議な調性の窓から見える外の風景は、古いすりガラスを向こう側のように、かすれ、そしてぼやけて見える。
全国の新感染者数37255人、陽性率は16.36%。ICUは76人で、死亡者は544人。

11月某日 ミラノ自宅
平山美智子さんのための「海に」送付。基になっているフォーレの「海は限りなく」は1921年、100年前、スペイン風邪が収まったころに書かれた。
昨日の発表では新感染者数は27335人だが、陽性率は18%に上昇し、死亡者数504人。反して今日は新感染者数は32191人で陽性率は15.47%に減少。ICUは120人で、死亡者数は731人。思わず溜息が出る。

11月某日 ミラノ自宅
昨晩送った楽譜を確認しようとピアノで弾いてみると、何かに似ている。日々の暮らしを縁取る、無数の救急車のサイレンにそっくりだった。ミラノの祭りO bej, O bej中止。
ポロ葱のパスタをつくる。沢山のポロ葱に、一つまみの鷹の爪を入れて丹念に炒め、トマトとトマトソースを足して煮込む。食べる時にペコリーノチーズを存分にかけて食べる。パスタの茹で汁を少しずつ差しながらコクを出し、パスタの最後の1,2分はソースの中で仕上げる。
新感染者数は34283人で陽性率は14.6%。死亡者数は753人。数字に対して感覚が麻痺してきている。東京での新感染者数が493人と聞き、驚いている。

11月某日 ミラノ自宅
安江さんの企画のための、ブソッティのテキストによる新作。原さんの木琴ピンポンが時間軸を紡ぐ。昨日は新感染者数37424人で陽性率15.64%、今日は新感染者数34767人で陽性率は14.66%。カーブの頂上から少しずつ下降が始まった。Rt値は1.18まで減少。どう自分が抗っても無意味でしかない、気の遠くなるほどゆったりした時間の流れ。それこそ、我々が長く忘れていた何かかもしれないと思う。

11月某日 ミラノ自宅
ドナトーニ「最後の夜」ヴィデオ収録リハーサルのはずが、家を出る5分前にピアノのルカより連絡あり。別の曲で参加するはずだったパオロが発熱、PCR検査の結果陽性となり、他のリハーサルで一緒に演奏したヴァイオリンのロレンツォやチェロのジョルジョが濃厚接触者と判断され、今日のリハーサルは中止。彼らの緊急PCR検査の結果を待って、今後の予定を決定とのこと。
パオロは、イタリアでNegazionista否定主義者と呼ばれる、Covid非認知主義を唱えていたらしい。高熱が出たので、今朝リナーテ空港の緊急PCR検査を受けてきたそうだ。尤も、非認知主義者とは言え、家族もいるパオロが封鎖期間中にどこに出かけられる筈もなく、せいぜい、中学校に通う娘が学校で貰ってくる程度しか可能性はないだろう。
ともかく現在この感染状況を落ち着かせられなければ、1月イタリアは酷い第三波に見舞われるとの予想。遠隔授業に反対する中高生は、学校の壁の外で、毛布に包まってタブレットで授業を受ける。
新感染者数は28337人で陽性率15.01%。ICU43人、死亡者数は562人。

11月某日 ミラノ自宅
ブソッティが書いた「娶られた少年」の原詩が余りに生々しく、訳出すべきか迷う。ブソッティ風の言葉遊びは出来ないものかとも悩んでいる。
じゃが芋と玉葱、セロリとトマトを煮込んで、そこにパルメザンチーズの外側、硬くて食べられない部分を放り込んでとろみを出し、パスタは中で直接茹でてアミド質を染み出させて仕上げる。鷹の爪も少し入っていて、ペコリーノチーズを沢山かけて食べる。随分量を作った積りが、家族三人で一気に食べきる。冬の味覚。

この状態が続けば、音楽の形態も否が応でも変化するに違いない。オーケストラのような大人数の演奏形態は、様々な理由で練習回数は減るだろう。1回でもリハーサルが多ければ、感染のリスクも上がり、コストも今まで以上にかかるから、当然小規模なオーケストラが好まれる。
既にかかる傾向は認められるが、現在不可抗力とされているものも、少しずつ自然な欲求の中に溶け込んでゆくのではないか。

新作の傾向も演奏会の企画も、少ない練習回数が絶対条件になり、演奏者の感染を想定すれば、名人芸は不必要になり、演奏者が入れ替えられる便宜が優先されるかも知れない。長い年月の間に、管楽器や歌は、現在と別の場所で演奏されるようになるかもしれない。
オーケストラのピット演奏は廃止され、歴史的オペラ劇場には揃って抜本的な換気対策の措置が義務付けられ、平土間席にオーケストラを置かれるようになるか、バレエのように、録音でオペラを上演するのが当然となる可能性も、皆無ではないだろう。
尤も、その頃には、仮想現実モニターで、実際に目の前でオーケストラが演奏している心地は味わえるようになっているのだろうけれども。

11月某日 ミラノ自宅
今日はドナトーニ「最後の夜」リハーサル。中華街を抜けて、Music Hubへ自転車で出掛ける。あまり封鎖下の都市、という印象は受けなかった。喫茶店はテイクアウトの営業しか許可されていないので、そこが普段と様子が違う。
広大なMusic Hubはがらんとしていて、幼稚園児ほどの子供を連れた親子連れが何組か中庭にいただけ。パオロとソニアは、長男のジョヴァンニを連れてきていて、控室で中学の遠隔授業を受けていた。リハーサル中、控室から「先生!」と元気な声が聞こえてくる度、皆で声を出して笑う。
ドナトーニは、4曲目最後の歌と管楽器の部分、Mor…toの歌詞で、アンサンブルの色を消し、装飾音の吹き方を歌手に近づけてみると、今までとは全く違う凄みが浮かび上がる。

今日の新感染者数は23232人。随分と減った印象だ。陽性率も、12.31%にまで減少した。ICUは6人。死亡者は後から押し寄せてくる。853人。ここ数日毎日3人ほどの医療関係者が亡くなっている、との記事も読んだ。
新感染者数が減少しても、死亡者数が多いのには衝撃を受ける。頭では理解しているが、まるで背後で巨大な鞭がしなっているようで、酷い音が立つ度に無数の命が斃れてゆく。
太田さんよりメールをいただき、平山さん追悼演奏会延期を知る。

11月某日 ミラノ自宅
悠治さん「たまをぎ」の初演譜合唱部分が完全な形で発見された。前に見つかっていたのは、再演時のもので、指揮者は田中先生一人。初演時はオーケストラを若杉先生が担当し、合唱を田中先生が担当して、都合二人の指揮者がいたと言う。その時の合唱譜が見つかったことになる。初演時のオーケストラはN響だったそうだが、以前小野さんがN響のライブラリーを探した際には、オーケストラ譜は消失していた。
新感染者数25853人、死亡者722人。

11月某日 ミラノ自宅
フォンターナ州知事、ロンバルディアのレッドゾーンからオレンジゾーンへの変更発表。
ベルゴニョーネ通りのBaseにてドナトーニ「最後の夜」収録。
パオロのところの一番下の娘アンナは、この9月から小学校に就学した。他の兄弟と違って、アンナはマスクと社会的距離の小学校生活しか知らないので、マスクを忘れることもなく、当然のように人と距離を取って暮らしていて、親は複雑な気持ちだと言う。
新生活様式で生まれ育った世代は、その前の世代とどう折合いをつけてゆけるのだろう。全ては手探りで、恐らく正解など存在しない。
そんな中で録音されたドナトーニの「最後の夜」は、実に激しく、心にせまりくるものがあった。
香港で民主派活動家収監。エチオピアで政府軍による虐殺。アルメニア・アゼルバイジャン戦闘激化。中国でモンゴル語使用制限。タイの反政府運動激化。春に作曲しながらささやかに祈っていた平和はどこにあるのだろう。
新感染者数は28352人。陽性率は12.73%。ICUマイナス64人。死亡者は827人。
日本人学校は来週初めから対面授業再開とのこと。指揮クラス、対面レッスン再開は、学長は、出来るだけ早急に再開したいと努力しているそうだ。
リスが毎日庭に来るようになった。樹の下に長年雨曝しになっていた壊れた木椅子を置き、そこにピーナッツや野菜を少し入れてみた。

11月某日 ミラノ自宅
アメリカの大西君が振った、Evan Chambersの「The longing for the peace in the garden of lost children」。戦争に斃れた罪なきアフガニスタンの子供たち。
アメリカらしい音。「アパラチアの春」の冒頭の立ち上るような、朝霧のような懐かしい讃美歌のような響き。イタリアのようなカトリックの国に長く暮らしているせいか、アメリカを訪ねると、思いの外清教徒的な、素朴で敬虔な宗教観が現在も息づいていて驚く。コープランドは清教徒ではなかっただろうが、アメリカ音楽は、清教徒文化と、アメリカが利用した黒人文化に最終的には収斂されるのかもしれない。
「失われた子供たちの庭で、平和をねがう」
とても好きな演奏だった。大西君の指揮は丁寧に音に寄り添っていたし、耳の良さが際立つ。だから演奏者も耳を澄ましている。特に無音で沈黙を聴くところは、素晴らしかった。新感染者数16377人。陽性率は12.5%。ICUはマイナス9人。死者672人。
 
11月某日 ミラノ自宅
夢の構造。何度となく都市封鎖下で暮らす夢をみている。夢の都市封鎖で苦労する自分を、夢だと思って眺める夢の中の自分がいて、都市封鎖は大変だ、などと思っている。夢から覚めると、夢ほどではないけれど、相変わらず街は封鎖されていて、夜明け前の暗闇のなか、遠く対岸のアパートに、気の早いクリスマスの電飾が静かに浮き上がる。
(11月30日ミラノにて)

師事すること

冨岡三智

これまでのエッセイでも書いてきたけれど、私にはジャワ舞踊で師匠と呼べる人が何人かいる。最初はもちろん模倣から入る。できるだけ師匠のようになりたいと思って、私はその師匠の動きをできるだけ模倣する。

けれど、いつの頃からだったか、私は眼前の師を最終的なものとは思い定めなくなった気がする。それは師匠を乗り越えたいという意味でも、その師匠の域に近づかなくてもよいという意味でもない。師匠が体現している境地のその先を見たい、師匠が見ようとしている方向を目指したい、と思って進んでいくのが師事することなのだという気がしている。

師匠の背中を追って行くと、遠くにほの暗い光があって、師匠の背中越しに光が漏れてくる。師匠はその光の方へと踏み出していく。その光源から遠く離れた所にいる他人の目には、私と師匠の距離やブレは大きく感じられるかもしれない。けれど、その光源の位置から見れば、ほぼ一筋に重なってそれぞれの道をたどって来る2人が見えるかもしれない。

犬の詩9篇(大館のために)

管啓次郎

1 ついてくる
犬がついてくる
どこまでもついてくる
きみが行くところならどこだって
山も川も越えて
森を抜け町をさまよって
よろこんでついてくる
何も求めず
文句もいわず
ついてくるのがうれしくて
きみと歩くのが楽しくて
立ち止まって匂いをかぐ
耳をすます
また歩き出してどんどん進む
行き先にこだわらない
困難にひるまない
あらゆる瞬間が発見
すべての道が冒険
犬がついてくる
いつまでもついてくる
この地上での
きみの旅を
見届けるために


2 持来
帰ったらランドセルを投げ出すぞ
ピートと野原に行くんだ
古いテニスボールをひとつもって
草が枯れきった秋にむかって
遠近法が壊れた
一面の灰色世界に入ってゆく
それからまず大きな声で「持来!」と叫ぶ
ピートはあふれるほどうれしくて
ちぎれそうなくらい尻尾を振っている
それからボールを投げる
光を飛ばす
ピートも稲妻のようにかけだす
何も恐れることなく一瞬先の
未来へと飛びこむように
汚れた緑色のボールを捕まえたよ
ピートは自慢げに見える顔をして
ぼくのところに帰ってくる
「持来」とはもってこいという命令の言葉
でもそれは命令というより合言葉
ピートが待ち望んでいる合言葉
ピートは百回でもボールを拾いたい
ぼくはピートのための
専用の投球マシーン
けっして文句をいわない
永久の投球マシーンだ


3 Fetch!
河原は広く砂が溜まっていて
住民たちはそこをビーチと呼んでいた
海も湖も遠いけれど
たしかに砂浜というのがいちばん近いかも
走れば足をとられそうになる
くるぶしまで埋まって
足はどんどん重くなる
ぼくとぺぺは毎日砂浜にゆく
古い野球の硬球をひとつもって
夏の紫色の夕方
こうもりの群れがそろそろ飛び始める時間だ
ぺぺはそわそわしながら待ちかまえている
ぼくがその言葉をいうのを待っているんだ
午後の熱がこもった砂は
まだほてるように温かいが
ぺぺは気にしない
ぼくは空にむかって宣言する
「宣誓。ぼくとぺぺは正々堂々
地球の重力に対して戦うことを誓います」
それから長く引きずるような声でいう
F-E-T-C-H!
ボールは高く飛んでまっすぐ夕焼け空にむかう
ボールにむかって飛び出すぺぺの動きが
まるで誇張されたスローモーションのように
はっきりと見える
それはぺぺとぼくとの合言葉
一日を楽しく終えるための秘密の儀式


4 ブーメラン
ドッグランでしか遊べないのは
都会で暮らす犬のさびしさ
サッカーコートの半分しかない広場だけど
ここでは好きなだけ駆け回っていい
いろんな犬種が集まってきたね
オールドイングリッシュシープドッグから
ジャックラッセルテリアまで
ローデシアンリッジバックから
ビションフリゼまで
みんなそれぞれ独特な姿をして
それぞれ比べようのない魅力がある
ぼくの犬は中型日本犬の雑種です
名前は「さいとうくん」です
ドッグランに来てもさいとうくんは
他の犬とはあまり遊ばない
ただ
ぼくがその言葉をいうのを待ちかまえている
それがぼくにはわかるのだ
ぼくはさいとうくんにむかって
「ブーメラン!」と声をかける
さいとうくんが突然駆け出した
25メートル先のフェンスまでゆくと
180度、方向転換して急いで帰ってくる
戻るとハーハーいいながらこっちを見て
また待っている
ぼくはまた声をかけるだろう
ブーメラン!
さいとうくんが走り出し
こんどは他の犬たちもついてゆく
むこうのフェンスまで行き
あの、犬独特の不格好な方向転換をして
一斉に戻ってくるのだ
二頭、三頭、四頭の他の犬たちが
次々にそれに加わる
ブーメラン!
ぼくの声を合図にして
犬の群れがみんなで駆け出す
メキシカンヘアレスドッグから
カレリアンベアドッグまで
ニューファウンドランドから
フレンチブルドッグまで
先頭を切って走るのは
中型日本犬の雑種のさいとうくん
嬉々として
はれやかに
元気よく
まっすぐに
仲間たちに遊びのルールを教えるようにして
おなじ掛け声を何度も何度も待ちかまえている
さいとうくんとぼくがいつのまにか一緒に考え出した遊びだ
犬のブーメラン


5 春の庭
四月のうららかな日曜日に
庭が沈んでゆく
お誕生日を祝う少女たちのグループの
笑い声が二階から聞こえてくる
倒れたシェパードの目は
もう何も見ようとしない
さわやかな風が吹いている
やわらかい日の光が降り注いでいる
空にひとすじの飛行機雲が引かれて
天国が近くなる
ロック、ロック
舌を出して力なく呼吸するロックが
尻尾をもういちどだけ振ろうとする
気がつくと
近所の二匹の猫が
塀の上にすわってこちらを見ているのだ
猫と猫とぼくが
空間に作る三角形が
倒れたシェパードのための
目に見えない小舟になる


6 空の犬
空にも犬が住んでいる
にぎりめしを作って空に投げてやれ
風のように犬が降りてきて
ぱくりと捉えるだろう
風の犬は敏捷だ
木立を抜け
屋根をかすめ
草原を吹きわたり
波を立てて
なんでも食べられるものを探す
元気にかけまわる空の犬のために
デュエイン・オールマンの霊がスライドギターを鳴らす
うねるような上下動でしょう
ゆったりとした、あるいは機敏な、旋回でしょう
荒々しく、でもやさしい旋律でしょう
まるで雷神の口笛のように
Skydogが音をあやつる
にぎりめしと鶏の頭を
空に投げてやれ
天の狗が笑うような
大音響で答えるだろう


7 耳をすまして
物置で30年間ねむっていた
レコードプレーヤーを出してきた
おなじく30年間ねむっていた
LPレコードも何枚か
まず聴くのはラヴィンスプーンフルとか
ジュディ・コリンズの『鯨とナイチンゲール』なんかだね
するとすぐ犬がやってくる
白い体に黒い耳をした
His Master’s Voiceの有名なNipperがやってきて
グラモフォンのらっぱにむかって
首をかしげている
5センチほどの小さな体で
ぼくのテーブルの上にちょこんとすわっている
「ほら、聞かせてよ、あの昔の歌を」と
ニッパーが言葉を使わずに伝えてくるのだ
レコードを取り替えて聴かせてやると
ニッパーは満足して舌舐めずりをする
犬は餌のみにて生くるものにあらず
犬にも音楽が必要だ
というわけで5センチほどの小さな犬たちが
何十匹もやってくる
やってきてぼくのテーブルをみたし
みんなで首をかしげている
今夜のぼくはかれらのために
LPレコードをかけつづけるので精一杯だ


8 氷河にむかって
地平線があるから
そのむこうに行こうと思ったんだろう
生き延びるための土地を求めて
遠くまで行こうと思ったんだろう
アリューシャン列島からベーリンジア、つまり
氷河期で陸地になったベーリング海峡を超えて
どこまでもどこまでも人間たちが歩いてゆく
それでね、特に頼まれたわけじゃないが
おれたちも一緒に歩くことにしたのさ
だいたい人間の行くところには
ついてゆくことにしてたんだ
やつら火を使うから
寒い時期には便利だよ
餌も気まぐれにくれるので
何かと助かるんだよ
人間というのはレストラン+焚き火つきのキャンプかも
おれたちにとってはね
叩かれたり蹴られたり
ときには食われることもあるけれど
全体として見ると都合がいいと思うよ
だからまた、これから
1万年の冒険だ
それでまた、これから
1万年の共生だ
人間たちをなつかせて


9 旅した子犬
このごろトラのことをときどき考える
六十年以上前の子犬時代
大館から鉄道に乗せられ
たぶん二昼夜をかけて
大分県南部の佐伯まで旅をした
黒味の強い虎毛の秋田いぬ
幼児のぼくにとっては
虎のように巨大な体だった
やさしい獣
縁側から足をさしだすと
やってきておとなしくぺろぺろと舐める
祖父の自慢の犬だった
そのころの祖父の年齢に
自分がいつのまにか近づいてしまった
夕方の散歩にはぼくもついてゆく
日豊本線の蒸気機関車が
延岡のほうへと力強く走ってゆく
老人と幼児と秋田犬が並んで
夕焼けを全身で浴びている
トラの吠え声は一度も聞いたことがない
祖父が語った言葉もほとんど忘れてしまった
それなのにあの夕方を
なんのためにぼくは覚えているのだろう

冬の伝統芸能とポトテチップス

三橋圭介

ずいぶん前からテレビをほとんど見なくなった。そうなったのは大学時代に下宿していたこともあるだろう。テレビはなかったし、テレビ番組が友だちの話題になることもなかった。現在は居間にひとつ、そして自分の部屋にひとつテレビがある。部屋のテレビは一応番組を映すことはできるが、2つのDVDプレーヤーに接続され、映画と音楽専用として使っている。このあいだ学生にテレビを見るかきいてみた。99パーセントの人は見ないことがわかった。パソコンとスマートフォン。いずれもユーチューブ、ネットフリックス、アマゾンプライムヴィデオが代わりになっている。コロナのなか夢中になったのはこうしたメディアらしい。テレビアニメの最新は1週間もたてばそこで見ることができる。映画、お笑い番組をふくめ、過去の映像は盛りだくさんにそこにある。もちろんテレビニュースもそこにある。テレビが広告費で成り立っているとすれば、見られないものに金を出す企業も減るだろう。いや減っているはずだ。そして番組には資金がなくなり、衰退を余儀なくされる。でも紅白歌合戦だけは見られるのかもしれない。なぜなら、それはもはや年一回の冬の伝統芸能だからだ。わたしもそれを見る一人だ。「石川さゆりとパフュームが始まったらおしえて!」「パフューム始まったよ!」。この2組は年1回見ていることになる。ちなみになぜかこの日だけはポテトチップスを食べてよいことになっている。ふだんは悪食ということなのだろう。しかし特別なこの日ばかりはOKなのだ。冬の伝統芸能とポトテチップスは切っても切り離せない関係にある。

ムーミン谷の11月

若松恵子

エッセイストの山本ふみこさんが講師を務める朝日カルチャーセンターの「どくしょかい」という講座に参加している。本を読み解くというよりは、山本さんが選んだ1冊の本を間に参加者どうしが出会うというような時間になっている。

果たしてカルチャーセンターで「どくしょかい」が成立するものなのかどうか、山本さん自身も確信の無いまま始まった講座の最初の本は、児童文学の「まつりちゃん」(岩瀬成子作)だった。私自身前から気になっていた作品で、社会的にクローズアップされるよりずっとずっと前に「子どもの貧困」を描いた物語だ。この読書会をきっかけに本を取り寄せて読むことができた。事情があって、日中は隠れるように一人で生活している5歳のまつりちゃんと、その存在に気付き、ひそやかに支える近隣の人たちの物語だ。

「子どもの貧困」に対する問題意識も考え方もバラバラなメンバーが、本を間に挟んでそれぞれ感じたことを自由に話すのは、物語とつりあう面白さだなと思った。1か月に1回集まり、全3回でひとつの本を読んでいく。今年のお正月から始まった第2期では庄野潤三の『貝殻と海の音』が選ばれた。庄野潤三についても何となくそちらの方は良い香りがしているぞと思っていたけれど、これまで読んで来なかった作家だった。どくしょかいが読むきっかけをもたらしてくれた。そして、庄野の晩年の暮らしが描かれたこの作品を読んでいるうちに、思いがけずに「ホームスティ」の世の中となってしまった。緊急事態宣言が出された暗い春に、庄野潤三が描く遠い昭和の日々の懐かしさ、その静かで健やかな明るさになぐさめられた。

庄野潤三の3回目は延期となり、7月の終わりにやっと開催することができた。久しぶりにみんなと再会してコロナ禍での近況を報告し合う印象的な回となった。3冊目の『神の微笑』(芹沢光治良)は中止となり(この作品をもとにどんなどくしょかいになったのか興味深いが、参加者が必要数集まらなかったようだ)、4冊目は『ムーミン谷の11月』となった。

今回は「どくしょかい」には参加できなかったけれど、11月に『ムーミン谷の11月』を読むことにした。愛用しているほぼ日手帳の11月の扉に「秋になると、旅に出るものと、のこるものとにわかれます。いつだってそうでした。めいめいの、すきずきでいいのです。」という「ムーミン谷の11月」の一節が引用されていて、これは啓示だと思った。飯能にムーミンパークができたりしてまたブームなのか、新版の全集が講談社から出たばかりだった。

山本さんが、次に選んだ本は「ムーミン谷の11月」ですと話していた際に、ムーミン一家が出てこない物語だと話していたけれど、冬を前にムーミン一家は旅行中で、ムーミンを慕う何人かがムーミン屋敷を訪ねてつかの間の共同生活をする物語だ。人づき合いが苦手な変わり者ばかりが集まって、不器用な共同生活を送る。冷たい空気、雪をいっぱい含んだ灰色の雲、冬の到来を告げる雷、夕暮れに黒々とシルエットになる樹々、冬直前の11月の魅力がいっぱい描かれている。これまで私にとって11月は10月と12月に挟まれた、どちらかというとぱっとしない月だったのだけれど。もうすぐムーミンたちが帰ってくるという予感に満ちて物語が終わるところも良い。ムーミンの物語をあらためて読んでみようと思った。

そんな思いをもっていたからか、時々寄る喫茶店で1冊の本に目が留まった。『ミンネのかけら ムーミン谷へとつづく道』(冨原眞弓著)という本だ。「生きていれば、出逢いがある。小さな予感の積みかさねの先におとずれる出逢いがあれば、いっさい予感をともなわない出逢いもある。あっと思ったときには、もうぶつかっている。ある日、こちらの不意をついて、それはやって来る。なんだかわからないが、衝撃は大きい。しばし呆然として、やがて気をとりなおすが、なにかが変わっている。そういう出逢いが、わたしには二度あった。ただし、ぶつかった相手は生きて動いている人間ではない。二度とも一冊の本だった。」

この冒頭の一文にすっかり魅了されてしまった。書名をメモして帰り、さっそく本屋で手に入れた。冨原が出逢ったのはシモーヌ・ヴェイユとトーヴェ・ヤンソン。この取り合わせにも、何か予感を感じる。そして、2人に魅かれたことをきっかけにして変わっていった人生の中で出逢った人々との思い出、記憶(ミンネ)のかけらが語られていく。今は亡き人も多い、その人との忘れられない風景が描かれるが、それはガラスや鉱物のかけらのようにキラキラと輝いている。青春の日々の思い出が多いからだろうか。冨原の記憶の中にいっしょに立って、輝かしい日々を体験しているような、そんな気持ち良さで、どんどん読み進めていった。冨原が直接会って話したトーヴェ・ヤンソンの思い出もたくさん語られている、冨原が初めてストックホルムで手にした『ムーミン谷の冬』を今度は読んでみようと思う。

自転車に乗っていた女の子

イリナ・グリゴレ

2003年に高校を卒業して、地方の町から首都のブカレストに引っ越し、国立映画大学を受験した。願書を出したとき、事務室の前で待っていたほかの地方の町から来た女の子が、私の方を見て話しかけた。「あなたも女優になりたいの?」私は「いいえ、私は映画監督になりたい」と自信たっぷりに答えた。彼女らは安心した顔で私から離れた。敵だと思っていたようだった。その大学は映画と劇場関係の唯一の国立大学で、全国からこの道に進みたい若者が集まっていた。建物は古いもので、ブカレストは小さなパリと呼ばれた時代には綺麗だったに違いないが、私が願書を出しに行ったときには壁が崩れそうで、カフカの小説の雰囲気を思い出させた。入るとき門の近くに死んだ鳩が放置されていた。あまりいいサインではなかった。

いい大学だと思っていたが、私みたいな人間は普通に入れないとは分かっていた。アートの世界は簡単にアクセスできないからだ。2000年代のルーマニアの社会では格差がまだあったし、地方から来た人間は親の立場によって住むところも出会える人も全然違っていた。ピエール・ブルデューのいうハビタスの概念が当てはまる。同じバックグラウンドの人同士で集まって生きていた。私の場合は、家族や周りに芸術や学問のバックグラウンドをもつ人はひとりもいなかった。映画監督、建築家、科学者、小説家になる確率はゼロに近い。それだけではなく、私は女性だ。映画監督は男性の仕事だと何度も言い聞かされていた。だが私は簡単にあきらめなかった。19歳の私はすべて体験したかったのだ。映画大学はどんなところか見てみたかった。

事務室で願書を出し、試験の日付を聞いて、出口へ向かった。出口の近くに映画監督の受験に必要な映画のリストが貼ってあった。18本ぐらいの映画のタイトルを見て、全部知っていたから安心した。ストーリーも評価も監督の経歴も全部知っていた。でも、じつは実際には一本も見てなかった。インターネットもない時代で、地方には映画館もない。レンタルショップでも芸術映画はほとんど借りられなかった。私は17歳で、将来は映画監督になると決めていたので、毎日図書館に通って分厚い映画史の本と評論を読んでいた。アート関連の本は貸し出していなかったので、片道40分歩いて毎日図書館で読んでいた。最初から最後まで何度も読み返したのだが、私にとってはシネマの始まりから80年代までの歴史が魅力的だった。レンズの発見の話、シネマの始まり、ルミエール、ドイツ表現主義、エイゼンシュタインの映画の作り方、「市民ケーン」、「アンダルシアの犬」、チャップリン、そしてサイレント映画の破壊。サイレントのノスタルジーを肌で感じて、頭のなかだけでずっとずっと繰り返して見ていた。そのあとはイタリア映画、ヌーベルバーグ、フェリーニ、タルコフスキー、パラジャーノフについて読んだ。

私の場合、シネマとの出会いはじつは妄想から始まった。映画について図書館にある本をすべて何回も読んだが、映画は一本も見ていない。それにもかかわらず、当時の私は映画監督になるために大学受験を決意した。本で読んだ、すべての知識を持っている男性としての映画監督のイメージに憧れ、自分の環境も、女性であることも、知識が足りないということも忘れて、そのイメージを追いかけた。自分が置かれている環境を忘れることができ、大きな夢が見えた。自分の身体はあの時無限だと思った。

大学では、映画監督の学科定員は10人しかいなかった。競争はなかなかのものだった。それなのに受験する私はどうかしていると思われたに違いない。受験当日、口頭試験を受けるまで、受験生は控室に通された。緊張していたのは私だけだった。他の受験生たちは顔見知りなのか、冷静に座って待っていた。男性が多いなか、有名な女優の妹と有名なアーティストの娘がいる。呼び出しの名前でわかった。とうとう私の番になって、頭が真っ白になった。部屋に入ると7人の映画監督が座って私を観察していた。女性も2人いた。化粧ばっちりの60歳のレディーが上目づかいに私を見ている。彼女は社会主義時代、子供向け映画をテレビのために作っていた映画監督で、児童映画のレジェンドだった。子供っぽい私をみて、きっと田舎者だと思ったに違いない。

男性たちは、聞いたことない映画監督だった。大学の教官として生き残っていたが、経済混乱期のルーマニアには映画に使う金などなかったから、実際に映画を作っている人はだれもいなかった。ベルリン映画祭で賞をもらうほどの有名人は私が受験する前にすでに死んでいて、あとにはマイナーな映画監督しかいなかった。彼らは名前だけの映画監督で、大学で権力ゲームを楽しんでいた。あの時わかったが、権力がある立場になって初めて人間性が現れる。一人は私を見て皮肉な声で言った。「可哀そうな子だね、ほら水を飲んでちょうだい、喋れなくなったね」「あなたチェーホフのキャラクター、三姉妹の一人みたいだな」とも言われた。映画監督ではなく、女優の試験を受ければよかったと言いたいのか、となんとなくニュアンスが分かった。

あの場でなにを話したのかわからないが、キーワードが与えられ映画のスクリプトを作った後、次に頭が真っ白のまま先生方の後ろにある小さなテレビで映画のシーンが流れて私はその映画と監督の名前を当てなければならなかった。たぶん、バルカン半島の80年代の映画だったが、面白くなかった。酔っている男性が女性を求めるシーンで、気持ちが悪かった。先生は私を見て笑い始める。今にしてみれば、あの大学に入学しなくてよかったと思う。19歳の若い女性としての自分には、あのシーンを説明せよと言われても説明できない。映画であってもやっぱり試験に選ばれるシーンではないと思う。男性の支配のシーンと目の前にいる先生としての男性支配者の顔をみて、なにかを言ったが、よく覚えていない。泣きそうになった私の顔を見ていた教官は満足していた。私のリアクションを見るためにわざとあのシーンを私に見せたのだ。女性の先生はなにか喋っていたがイヨネスコの劇みたいになっていた。お互いに喋り始めるのだが、見ている私はなにもわからない。

試験がおわって、2日ぐらいなにもしゃべらない状態が続いていた。あのシーンをどう説明すればいいのか。そういう映画を作るために映画監督になりたいと思っていなかったし、救いのない男性のリアルな話を描く意味がどこにあるのかわからなかった。私はドキュメンタリーを作りたいので映画の勉強をしたいと言いたかったが、涙を流すことしかできなかった。そもそも私の人間としての経験が浅いと上からの目線で見られた。あの時、私はあの先生たちを恨んだ。映画監督は男中心の世界だと知った。自分が女性であることがとても苦しかった。女性で、田舎者で、人生経験の少ない私は映画監督になれるわけがない。そういうふうに向こうからメッセージが伝わった。涙目になったのはすごく苦しかった。私は弱い人間だと知らされたからだと思ったけれど、あの時に涙目になったのは、自分の弱さのせいではなく、支配者のことが嫌いだったからだ。こんな私を泣かせたい人間は最低だと思ったからだ。女性としての涙だったのではなく、動物が獲物にアタックするまえの目だった。

そのあとブカレストのシネマテックで2年間引きこもって1日に映画を5本見た。読むことしかできなかった映画をすべて大きなスクリーンで見た。そのときから黒澤明の映画をたくさん見て日本語を勉強し始めた。毎日住んでいた貧しい地域から町の中心部にあった2つのシネマテックを訪ねて、パンを少しだけ食べて1日中映画を見ていた。受験の場で見た映画監督の姿とシネマの歴史に残る映画とのギャップが大きくて、ああいう人たちには、こういう映画を作れるわけがないとなんとなくわかった。

ある日、知り合いから映画監督に会わせると言われ、夜にファッションショーをやっているから紹介すると電話があった。映画監督という動物を、もう少し近くから見たいと思って行った。綺麗な服をもっていなかったから、私の当時のジプシー風スタイルで行った。長いスカートに穴が開いているセーター、スニーカー、化粧もしないで、髪の毛は2つにわけて三つ編み。この格好でブカレストの一番高いホテルのロビーに入って、キラキラしているファッション関係者の間を歩く。そもそも高級ホテルに入るのも初めてだった。とても圧迫されてつぶされそうになったとき、知り合いに引っ張られて背の高い男性の前で止まる。紹介される。2メートルぐらいのラグビー選手のようなな人で、落ち着いた声で私に話しかける。電話番号を交換する。何が起きているかよくわからないままだったが、知り合いにこの方が映画監督で、いろんなショーを担当しているのでこんど覗いてみたらと言われる。とても怖かった。周りの人に指示をしている姿をみて、社会でいわれている映画監督のイメージが分かった。

しばらく彼の担当していたショーを見たあとで、家に誘われた。本棚にたくさん並べられているアートの本の中からレオナルド・ダ・ヴィンチの画集を取り出して私に見せた。若い女性の横顔のぺージを開いて「あなたによく似てる」と言われた。私の服を見て、「この格好どうしたの、大変だね。本は好きなだけ貸してあげる」と優しい声で言われた。スタッフが入って来ると、私を放置し、仕事の話を始める。戻ると映画の話を私とふたりではじめる。

私の映画の知識に驚いた様子だった。2時間ぐらいして帰ったが、あのときはとても怖かった。彼はチャーミングで、知識人で、身体も大きくて、完璧な映画監督の像にしか見えなかった。自分が持っていないものをすべてもっていると思ったから、彼がとてもうらやましかった。それ以来、不思議な関係が始まった。私は彼の知識が欲しかった。憧れていた映画監督の目からどうやって世界が見えるのか知りたかった。たくさんの話をしたのは確かだ。映画大学の受験をした時の先生を知っていたし、教える経験もあった。一人一人の話を詳しく聞いた。有名な俳優と女優の話も聞かされた。映画監督になる前、社会主義時代には工場で働いていたこと、付き合った女性の数と話をすべて詳しく教えられた。知りたくないことをたくさん知った。「あなたは女優になればよかった」と言われた。ラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」の主役にぴったりだと笑いながら言われた。私は不思議ないかれた女性にしか見えなかったのだ。そしていろんな話を知れば知るほど支配される関係になる。でも映画の話をする人は彼しかいなかったので簡単にやめることもできずに依存していた。当時、引っ越しを繰り返していた私はある日、住む場所がなくなった。それを知った彼はアパートを借りてあげると言ったが、私は断った。これ以上支配されたくないと意識しはじめたのだ。

私のストーリーをいっぱい聞いて「あなたはフェリーニの生まれ変わりだよ」と言い、「二人の映画はカンヌ映画祭で賞をとれるよ」と話が盛り上がる時もあった。でも二人の間のギャップが大きすぎた。このままいつまでも続けられないと分かっていた。彼がいつも付きあっている女性のイメージと全く違っていたし、化粧も洋服もない私は面白くなかった。ある日、連絡が取れなくなった。「あなたは私を断りすぎだよ、いつまでも自分の状態を超えられない」と飽きられた。こういう関係が終わってよかったと思った。女性というよりまだ女の子だった。彼は私の単純さで自分の男らしさを確かめただけだ。私にとっては男性はこうやって世界を見ていることを知るレッスンだった。お互いに狩りをしている動物のようだった。食べられた側は犠牲になって、食べる側の身体の一部になる。それ以来会っていないが、今になって、私は本当に食べられた側だったのかどうか曖昧なところだ。あのとき私は完全にやられたと思ったが、私も彼の力をもらった気がする。ある日、知り合いから連絡がきた。持っていた映像制作会社が火事になって彼はアル中になっていた。その日、私は分かった。この世で権力のある立場を永遠に持つことはできない。人間性が試されているだけだ。

私が映画監督になりたかった理由は、小学生の時に団地の窓から見たイメージが元にあった。団地の間から霧の中を自転車を引っ張って歩いている痩せている男性の姿がとても不思議で、忘れることができない。自転車の後ろに4歳ぐらいの女の子が安心している様子で座っていて、とても美しかった。男性は髪の毛は長くて髭があり、長いコートを着て、イコンで見るイエス様の姿にそっくりだが、片目をケガしていた。私の方を見た。そしてそのとき、私はあの女の子になった。あの女の子はもうこの世のものではなかった。

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巣籠手帳

福島亮

 外出禁止期間ではあるけれど、住まいに併設されているグラウンドは自由にできる。グラウンドには木立がある。時々、まだ暗いのに、その木立から鳥の鳴き声が聞こえてくることがある。
     *
 今度で三度目の冬。一年目はカリブ海で過ごし、二年目はよく覚えていない。
     *
 太陽が昇ったら、貴重な冬の光を浴びに、グラウンドに出る。時には、木々の下、あるいは芝生の上で、何か短いお話を読む。お話の選択は、その日その日の気分にあわせて、あるいはほとんど偶然に。それは短ければ短いほどよい。
     *
 「最強者の理屈はつねに最良である」——ラ・フォンテーヌの有名な寓話「狼と子羊」はこんなふうに始まる。最も強い者はどんな屁理屈を言ってもまかり通ってしまう、というこの言葉には、どことなく不穏な空気が漂っている。「狼と子羊」を含む『寓話』第一集が刊行されたのは1668年なのだが、その4年前、1664年の暮れ、ラ・フォンテーヌのパトロンであった財務大臣ニコラ・フーケが3年にわたる不当裁判の後、ルイ14世によって終身刑に処せられるという事件があった。この寓話を1668年当時読んだ人の中には、このフーケ事件を想起し、裁判でフーケを追い詰めたコルベールや時の国王といった権力者の姿を狼に透かして見た人も少なくなかったはずだ。
     *
 とはいえ「狼と子羊」の寓話はラ・フォンテーヌのオリジナル作品ではなく、『イソップ寓話』をもとにしている。しかも寓話が寓話たる由縁は、それが今にも通じる不穏な何かを有しているからであり、フーケ事件だけにこの寓話を縛り付ける必要もないはず。
     *
狼と子羊

最強者の理屈はつねに最良である。
それを今すぐお示ししよう。
子羊が澄んだ流れの小川で
喉を潤していた。
そこに腹ぺこ狼があらわれる。狼は幸運にありつけぬものかと思い、
空腹に導かれてこの場所にやってきたのである。
俺の水飲み場を濁らすとは見上げた根性だ。
怒りに燃えさかりこの動物は言う。
お前は自分の向こう見ずな振る舞いの咎めを受けるのだぞ。
王様、と返すのは子羊だ、どうか陛下、
怒りをおおさめくださいませ、
それよりも、ご理解賜りたいのです
わたくしは喉を潤しているところでして
その流れは、
陛下よりも20歩も川下でございます。
そうでありますゆえ、どうしたって、
わたくしには陛下のお飲み物を濁らせることなど出来はしないのです。
お前は濁した、と返すのはこの残酷な獣。
それに知っているぞ、去年お前は俺のことを悪く言ったな。
どうしてさようなことが出来ましょうか、生まれてもいないのに。
そう返すのは子羊である。わたくしは今だって母のお乳を吸っている身。
お前ではないと、ではお前の兄貴だな。
兄などございません。ではお前の仲間の誰かだ、
というのも、お前たちは俺に容赦ないのだから、
お前ら、お前らの飼い主、お前らの犬のことだ。
誰かが俺に言ったぞ、復讐しなければならない、と。
そうして、森の奥へと
狼は子羊を連れ去って、それからそれを食べるのです、
他のいかなる形の裁判もなしに。
     *
 子羊の誠実な弁論は、狼にとっては論難の材料にすぎない。不当裁判の過程で子羊はことごとくやり込められ、口数が少なくなってゆく。それと反比例するかのように、裁判の進行に合わせて、狼は子羊の論理的な言葉遣いを摂取し、いわば子羊の論理を食い尽くすことで、力と言葉を増す。論点はすり替えられ、一切事実に基づかないフェイクニュースが、しかし「論理」の形を偽装して並べ立てられるとき、理性でもって物事を証明しようとする子羊の論理は口をつぐむしかなくなる。子羊が完全に言葉を失い、狼の「論理」が勝ち誇ったとき、子羊はこの世から消え去ることになる。
     *
 不条理な狼を描き出すことで、子羊の正当性こそが逆説的に暗示される。しかし、それだけだろうか。
     *
 寓話の中で、はからずも狼は自らが置かれた境遇を吐露している。「お前たちは俺に容赦ないのだから、お前ら、お前らの飼い主、お前らの犬のことだ。」人や動物を襲う猛獣としての狼のイメージはある程度普遍的なものではあるけれど、そこに例えば羊毛産業の歴史を接木してみたらどうなるか。16世紀のイギリスにおける囲い込み農業がそのよい例だろう。ヨーロッパにおける羊毛産業発展の歴史は、狼と子羊の間の境界線が経済の名のもとで制度化される歴史でもあったのではないか、とふと想像してみる。
     *
 フーケ失脚後に財務総監をつとめたコルベールは、重商主義を導入し、海外に植民地を広げていった。やがて到来する資本主義へ向けて時代が大きく舵を切るとき、金も教養もない狼は落伍者になるだろう。そして、このような時代の動きを、狼の鼻は敏感に嗅ぎとっていたのではないか。子羊に対する狼の「復讐」は、あるシステムによって排除されてゆくものが、そのシステムの中の最も力の弱いものに対して行った凶行だったとも言えようか。
     *
 子羊殺しの凶行は、狼駆除の口実にもなる。話が進むほどに狼は「狼」になってゆく。
     *
 フランスで狼が絶滅したのは1930年代末。華やかな植民地帝国フランスの周囲に、少しずつ、きな臭さが漂いはじめる頃のこと。その後1990年頃になると、国外から狼が流入するようになり、この「外からやってきた狼」は、今また駆除の対象になっている。狼の消滅と再来の歴史、それが狼を復讐に追いやった経済システム、とりわけ植民地という後背地に支えられた経済システムの脈絡と、時間軸の上でわずかに縺れ合っているのは興味深い偶然である。
     *
 「最強者の理屈はつねに最良である」というとき、その「最強者」とは果たして誰なのか。あるいは何なのか。
     *
 物語の最後、行われることのなかった他の裁判は、それが行われなかったがゆえに、この短いお話の最後にぽっかりと穴を穿っている。

七五歳のコンピュータ(晩年通信 その16)

室謙二

 新しいのは信用できない。古いほうが安全ですよ。
 というのが私のパソコンに対する態度である。
 私は同じようなパソコンを、いつも二台持っている。ひとつは古くて、ひとつは新しいもの。ローカルのソフトウェアも同じようにして、オンライン(Dropbox)のデータも共有できるようにしている。一台が壊れたり調子が悪くなったら、すぐに別のパソコンで仕事が続けられる。古いパソコンだって、普段のことならちゃんと動く。バカにしない。
 目の前においてあるカメラだって、パナソニックの十年ぐらい前のもの。iPhoneのカメラより、こっちのほうが好きです。

 ということなのだが、Akai EWI USBを買って問題が起こった。
 これは言ってみれば、デジタル·リコーダー(たてぶえ)です。私たちの世代ははみんな、小学校のころたてぶえを習った。私の持っている古いたてぶえには、親父が尖ったもので「むろけんじ」と名前をキズつけている。それを、Nancyの孫娘が乱暴に遊んでポキリと折ってしまった。女房は孫娘を傷つけないようにと、「大丈夫、大丈夫よ」なんて言っていたが、絶対に大丈夫ではない。ときどき、大事に吹いていたのでがっくりした。ともかく強力接着剤でつけてある。六〇年以上前のものだが、吹けることは吹ける。簡単なバッハだって吹けますよ。
 EWI USBは、リコーダーが吹ければ始められる、とあったので買った。ベース·ギターも練習中、エレキギターとウクレレは、いまはちょっと休憩中だけど、これから死ぬまで素人音楽家なのです。EWI USBは基本的にシンセサイザーだから、表はリコーダーのボタンだけど、裏側にはたくさんのスイッチがついている。いろんな指使い、音色その他その他が、MacとかWindows用の付属ソフトで変えられる。驚くほど複雑だね。
 リコーダーの格好をしているシンセサイザーだ。アマチュア用だけど、プロにもきっと使えるよ。

  経験豊富のユーザーでも

 これをUSBケーブルでパソコンに繋いで(私の場合はMac)、パソコンのソフトを立ち上げて、マウスピースをフーと吹いたが、音が出ない。それが一昨日の午後。それから大騒ぎでいろいろやった。今の状態は、音はなんとか出る。しかし音階が、ドレミファソラシドがでません。出ない音がある。
 私の設定が悪いのか(日本語と英語のマニュアルに、ウェブサイトでも研究しているのだけど)、まずはソフトが悪いのか、ハードウェアの故障なのか分からない。マニュアルもひどいし、ウェブサイトもひどい。最新のMac OS(Big Sur)では使えない。どうしようもない。面倒くさいなあ。若い人ならすぐに分かるのかもしれない。
 EWIは、すでに二十年以上の歴史があって、私は古いものはいいなんて書いたけど、新しいハードとかソフト(OS)とコンパチではない。
 つまり最新のMac OS(Big Sur)では、このEWIのソフトは動かないのです。
 私の八年前のMacBook Pro(OSはCatalinaにしてある)にインストールしてみたら、動くことは動く。音が出るということです。リコーダー·シンセサイザーなのだけど、シンセサイザーとしてちゃんと使えない。多機能のはずなんだけなあ。
 ソフトが新しいOSで動かないだけではなくて、ハード自体が壊れているみたい。それがわかるまで時間かかった。ドレミと音はでるが、ファ以上がでない。まだあちこちのキーが変だぞ。最初はソフトかと思ったが、ハードの故障で、いま交換の手続き中なり。
 老人になると、こういうことに疲れる。エネルギーは使うし、時間がかかる。
 若ければ、すぐにあちらが悪い、こちらはいい、とわかるだろう。私はApple 2を使い始めて以来、四〇年近くアップルとウィンドウとNECのユーザーです。経験豊富なはずなんだ。Macだって最初のMacを、出たばかりの一九八四年に買っている。ところが、いまや(歳をとって、七五歳になって)、パソコンを含んでテクノロジー関係の製品の使い方、設定がわからなくなってきた。

  クルマのハンドルと同じにしてほしい

 新しいものには、新しき機能がついていたり、インターフェースが「使いやすく」なっていたりする。実は使いやすくない。
 新しいクルマを買うでしょ、すぐに運転できる。慣れるのに数時間で、あるいは数日かかるかもしれないけど、問題なく自分のものになる。ハンドルは丸いし、アクセスもブレーキも他機種と同じ位置だ。方向指示器だってバックミラーだって、トランスミッションだってたいして違わない。それがテクノロジー関係の新製品なんか、新しい機能がついて、どう使うのか?インターフェースがわからないよ。プルダウンメニューのどこに、使いたい機能があるのか?
 老人になって分かったことは、こういう新製品は、若い人が開発しているのだね。絶対にまちがいない。
 Mac OSをカタリーナ(Catalina)にしたときに、立ち上げるとすぐにカタリーナ島の写真がでてくるようになった。ところがこの写真が、実に暗い感じのものなんだ。「死の島」のように見える。と感じるのは、私が老人だからだと思うのだが。若い人が見たら、美しい島のように見えるのかもしれない。そのカタリーナ島の写真を見たとき、そうかこれは若い人たちが開発しているだな、と思った。

 OSなんて古いままでいい。新しいハードとかソフトで動くようにするのはいいけど、いちいち新しいことを学ばないで使えるように、丸いハンドルのようにすべきだ。それが、製品の成熟というものだ。
 私は八年前のMacBook Pro(これはほどんど使わない)、三年前のMacBook Airに、そして新しいMacBook Proを買った。みんな一三インチ。届いて最初に驚いたのは、オイオイ、随分と小さく薄く軽いではないか。私は古いMacBook Proとか、ちょっと前のMacBook Airの大きさかと思ったが、Airより小さくて軽い。ラップトップは、小さくて薄くて軽いばかりがいいわけではないぞ。使いやすい、ということと小さくて軽いということは別のことだ。買ったばかりのProに、Apple自社開発のCPUではなくインテルCPUバージョンですが、考えもなく新OSのBig Surを入れた。シマッタ失敗だった。これは随分とこれまでと違うOSではないか。
 あわててインターネットでウェブサイトを検索して「勉強」したけど、違いに驚いているのは私だけではない。古いソフトで動かないものがある。三二ビット版は動かないのだね。六四ビット版がないソフトだって、私は使っているぞ。
 電子リコーダーのEWIのソフトなんかそれだね。だから考えなもなく、最新OSをインストールしたら、EWIソフトが動かない。なんだかんだと、やってみたがダメだった。それで六四ビットのアプリしか動かないBig Surから、以前のカタリーナ(Catalina)にもどした。めんどくさくて大変だった。
 なんでも新しいものがいい。古いものは切り捨てるというのには、断固として反対する。そうなると、私自身も切り捨てられてしまう。

  敬老の日 Respect-for-the-Aged Day

 アメリカに住み始めたばかりのとき、アメリカに敬老の日はないの?と聞いて、何のことか分からないらしく、説明するのに困った。直訳してしてRespect-for-the-Aged Dayと言ったのだが、アメリカには「敬老」という概念がない。これは東アジアの伝統です。アメリカは、単純に言えば若い人の国です。国の歴史も若い。若いことに意味がある。
 だから日本の敬老の日なんて、変なものに映るのです。
 ソフトは若い人が開発して、老人なんか考慮に入れていない。
 敬老ソフトなんかないんだよ。
 別に敬老ソフトを作れというつもりはない。
 だけど老人も使えるソフトをつくるべきだ。
 社会の中での老人の人口は、どんどん増えていくんだ。
 私たちが若い人に寄り添って、若い人が若い人向きに作ったソフトを使うのはおかしいよ。
 ともかく古いソフトを使って、ワタクシ老人は、死んでいくつもりだ。

その日だけの一日

高橋悠治

年の終わりが近づいて 今年のことを思い出そうとしても コロナの蔭になっている みんながマスクをしているから だれだかわからないこともある 頭に霧がかかった状態で日がすぎる その日暮らしがよいところもある 毎日がその日だけの日になり できることをして終わる

コロナについては ウイルスはマスクの網目を自由に往き来できるほど小さいのに なぜマスクで感染が防げるのか ウイルスは人間より以前から地球にいて 人間がウイルスの海のなかで生まれて来ていたのに なぜ今になって喉頭で繁殖するようになったのか 感染確率が低いとされるのに なぜ世界中にひろがったのか 
 
ありとあらゆる説がネットで見つかる 次の日になって 昨日読んだファイルを見つけようとしても 見つからない 保存しておいても 読み返したときは どこかちがう内容になっている ウイルスが宿主によって変化するように それについてのことばも 目の留まる箇所が毎回変わるのか

仕事のない夜は出歩かないでいると 昼間でも しばらく行かなかった場所が 一度も来たことのない道のように見えて 一瞬足が止まる

こんなに不確かで たくさんのものごとが絡まっている毎日が 何ごともないかようにすぎていくのがふしぎ それとも 何ごともないようにあるのは ものごとの網目が絡まっているからなのか

皮膚の内側に感じられる複雑なうごきが 気づきに反応すると静まってしまうなら 出口なくめぐっている流れを そのままに乱さないで 表面の波立ちから その合図を読み取れるように 静かにしていればいいのか

待っていれば 現れてくるのか 言い差し 言い淀み 呼吸を外して 響きだけを残しておけば そうした積み重なりから 見慣れないイメージが垣間見えるなら 試してみよう