ハマオカ

北村周一

ことあらば
避難場所にも
なるらしき
展望台より
浜岡を望む
*10月の末に静岡県御前崎市にある中部電力浜岡原子力発電所をたずねた。正確には発電所に隣接する浜岡原子力館ではあるが・・・
地上約
60メートルの
たかみへと
昇りゆくなり
原発を見に
*海抜62メートルからの大パノラマ!入場料は無料むろんエレベーターで・・・
はまおかの
海と砂丘と
げんぱつが
眼下にありて
わたしは小舟
*実のところ高いところはあまり好みではないなんとなくノアの箱舟を連想しつつ・・・
大鳥居と
送電塔とに
守られて
ならぶ原子炉
ハマオカともいう
*池宮神社の参道に建立された朱色の大鳥居。どうみても場違いな感じがしたので調べてみたら中部電力が協力金として地元に出資したものらしいその額総額3億円なり・・・
活断層
すなに埋もれて
見えねども
原子炉五つ
その上にあり
*活断層が原発の真下に4本はあるといわれている・・・
世界一
危険なること
いましばし
わすれたるごと
浜岡に遊ぶ
*原子力館は一度は見ておきたい代物です(予約がおすすめ)・・・
遠洋の
マグロ獲っては
棄てしことも
核とげんぱつ
根っこはおなじ
*御前崎の北に位置する焼津漁港~浜岡からほど近いところにあるので当時の記憶を思い出しつつ・・・
死の灰に
まみれし黒き
雨がさを
振りまわしつつ
ATOMはいずこ
*太平洋上で行った核実験の産物死の灰。子供のころ雨傘を指していれば大丈夫と教えられもしたのですが・・・
物差しで
はかる半径
地図上の
ハマオカあわれ
塵のごとしも
*半径30キロメートルの範囲とよくいわれるけれど根拠あるのだろうか・・・
いいことも
あるのだろうが
風向きと
距離が気になる
浜岡近し
*中電のソフトなイメージ作りがあちこちで目に付くこのごろ地元での好感度アップが狙いなのでしょう・・・
地震にも
津波にも耐えて
いきのこる
ゆめの原発
おもいみ難し
*日本全国地震はいつどこで起きてもおかしくないのだけれど・・・
遠州は
いいところだよと
からっかぜ
身に受けながら
給油所のひと
*浜岡のセルフではないガソリンスタンドで給油したついでに女性の係員と少しく話した・・・
ゲンパツに
反対のこえ
遠州の
かぜよりつよく
ふくかぜ見たし
*上州のからっ風より遠州は厳しいといわれる~事実であろう・・・
北にリニア
みなみに原子
力ありて
不穏なりけり
中部電力
*リニアは大量の電力を消費するそれを支えるのが中部電力・・・
再稼働
うながす声は
あきらけく
西に東に
ハマオカにても
*司法の判断にゆだねるしかないのだろうか・・・
廃炉への
みちのり淡し
はまおかの
嵩上げされたる
防波壁異様
*堤防がだんだんに高くなっているようだけれど自然を騙すことはできないというメッセージもあります・・・
ふる雨に
ぬれて艶めく
茶ばたけの
みどりかぐわし
ゆれるハマオカ
*延々と茶畑が続く牧之原台地その片陰に浜岡原発はある・・・
くらぐらと
深けゆく秋の
一夜ありて
浜岡原発
みて来たりけり

205 海鳥たち、2(輝く)

藤井貞和

(四回ほど、富山さんについて、書いてみようと思って。)

描きの力。 旅芸人の力。 武藤さんは、「すべてが、
どうして輝くのか、出現する」と書きました。

『中南米ひとり旅』(一九六四)をいまひらいています。 ひらいたところに、

銃をもった民兵はコーヒー店のラジオから流れるリズムに合わせて、
小銃を打楽器にし、「ビバ・ラレボルシオン・チャチャチャ」
毎日、日一日とキューバ危機が迫ってくる――

わたくし(藤井)は、一九六一年か、何やってたんだろうな、チャチャチャ。
革命家になる、民兵になる、そんな希望が無くもなくて、
自治会室を訪ねたことがあります、チャチャチャ。 体(てい)よくあしらわれて、
すごすご、その足で、歌舞伎研究会に寄り道しました。

武藤さん「海鳥たちの骸骨がコツコツ、キーボードを叩くさまは、
ほんとにいいですね。 大真面目で、働き者で、
どこかおかしみがあり、この連中のメッセージは必ずどこかに、
衛星経由で、陸上にも届き、解読されそうだと予感させます」

「さらにいえばその貝は1950年代に描いた炭鉱で見ていた、
アンモナイト(図7)に接続するのではないか」と、坂元さん。
「火種として評価したに違いない」と、高際さん。

富山さん「メキシコに行って、リベラの家に泊まるんです。
で、メキシコ革命があるでしょ。 リベラと、トロツキーと、ブルトンと。
リベラは歓待役なんで、国賓のように迎えるわけですね。
……それが39年で、その、トロツキーとブルトンとが、
宣言出すんですね。 反ファシズムのね。 ところがもう、時代が、
出したとき、そこに刺客が来て、トロツキーは殺されるんです、メキシコで」

(高際さん、『東洋文化』101、より)

 富山さんがリベラの家に泊まったみたいですね。(そうかも知れません。)

きょうは絵のページだけ見ることにしました。
セルリアン・ブルーの銅鉱石を見て、富山さんはチリの鉱山へ行きたいと思いました。
日本を出発しました。 太陽と馬、11ページ。
香港の水上生活者、23ページ。 香港からは多くの難民が乗船する。

藍銅鉱かな。 孔雀石かも。 鉱石をへやに並べて、富山さんは好きだった。 日本の鉱山をふらふら歩いて、そこから炭坑です。 暗い地底から太陽の輝くところへ向かう。

武藤さんが言う、「レベッカさんに漏らしたぼくの疑問。 どうして富山さんの世界は、すべて輝くのか」。
「進歩の先回りをして、待ちわびていたとすら思える」と小林さん。

私は清津峡小学校最後の卒業生です。 まさか、ここまで素晴らしい作品になるとは。

とてもきれいで、「こんな学校にかよってみたいな」とおもいました。 ……学校、つぶさないで! 針ケ谷小学校女子

(2010、アジアを抱いて、全仕事展パンフレット、火種工房、より)

(『群像』の今月号に、私の「ビラヴド」(一九九五)を、斎藤倫さんが「ポエトリー・ドッグズ」(連載)で、石牟礼さんの「茜空」にならべて引用している、思い返す。書くのに十年、書くというより、書けなかったな。書いたとしても、内容からすぐには世に出られなかった。こんにちの報道にも「いじめ」が聞かれるたびに傷ましく思い出す。もう四半世紀かよ。題名をトニ・モリスンの「ビラヴド」から(勝手に)受け取った日に、ようやくかたちをなし出した。四半世紀かいな。おいらのうそつきの〈詩語〉が一瞬、きらっと輝いて消えた時、ところ。藍銅鉱がおいらのコレクションのなかできょうも眠っている〈アンモナイトも、孔雀石も〉。)

オールドスクール≒古い人間

仲宗根浩

ガソリン給油、二千円を切った。そういえば距離走ってない。前の月は映画を見に行くため那覇に二回行った。自動車税の還付金があったので北に向かって最初に見つけた銀行で手続きをしようと遊びで久しぶりに海を見に行ったり、次の週は銀行に行くついでに漁港食堂のフライ定食を食べる気満々で行ったら漁港食堂はしばらく休業、また次の週も北に向かい道の駅のATMを見つけそこで野菜を買ったりと、北上遊びでけっこう走った。今の世の中、だんだんとガソリン車に乗っている人間は喫煙者のように肩身の狭いおもいをするようになるのかな。内燃機関があってこそ車、という考えは古くもう時代ではないかもしれない。

感染者の数も減り、飲食店も本来の営業時間ももどったけどもう前のように外に出ても短い時間で帰る。自粛ばかりで外に出ることもいつの間にか億劫になったのかもしれないし人がいる場所が面倒くさいのか。相変わらず聴きたい音楽はあり、注文していたものが届く。アリサ・フランクリン四枚組は聴き終わり、バッファロー・スプリング・フィールドの五枚組、ブルース・スプリングスティーンの二枚組、アトランタ・リズム・セクションは八枚組をこれからゆっくり聴こう。面倒な事も片付きそうな今のうちに。

「トラ・トラ・トラ」作戦

さとうまき

湘南の学生たちは、いけていて、SDGsとかLGBTに関心があるという。海が近いから、マイクロプラスチックの問題とかにも取り組もうとしている。だが、シリアという国が出てくると途端に距離を感じるようである。居眠りしている生徒もいる。でも仕方がない。コロナ禍で、海外に遊びに行くという選択肢は最初から除外されているのだから。

そこで、今年はシリア支援の年賀状を学生たちに作らせることにした。去年牛の絵を描いてくれたブラヒは21歳になっており、オーバーエイジ。絵の中に子供らしさがない。ただ、大人が描くへたくそな絵も時には面白いのだけど、今回はブラヒには説明が無理そうなのでやめておく。ブラヒに近所の子どもを集めてオーディションを受けさせた。3人の子どもが受けた。ラマちゃん7歳の子の絵がいい! 早速ブラヒに、福島の張り子の寅の写真を送って、ラマちゃんにトラの絵を描いてもらった。これがまた面白い。写メして送ってもらうのだが、解像度が悪かったり、スマホの影が入ってしまうので、何度もこうやって映してくれと説明する。これが結構手間がかかり、なかなか伝わらないのである。生徒に課したのは、このトラの絵に湘南・鎌倉の名所を背景にして年賀状を作りなさいという課題。年賀状を売ってその収益で、シリアの孤児院の子どもたちの食費にあてようという作戦だ。

実は、僕は、どうも神奈川県が苦手なのだ。別に深い理由はないのだが、家から遠い。前職では、WE21というリサイクルショップにお世話になり、ちょくちょくお話会を企画してもらったのだが、グループで店舗がたくさんあり、午前中にお話会が組まれることがほとんどで、朝に弱い僕にはつらかった。いつもとんぼがえりで湘南とか鎌倉のいいところなんか全然知らないわけだ。生徒たちにしらす丼のこととか、鳩サブレとか、いけてるカフェとかを教えてもらう。一応大学だから試験問題も作らなくてはならない。

「SDGSとは、国連が定めた持続可能な開発目標で、17の目標があり、2016年から2030年の15年間で達成するために17の目標と、さらに169の具体的なターゲットが決められてます。」

問 以下の文章を読み設問に答えなさい。
来年の干支はトラである。シリアにもかつて北部にはアムールトラが生息していたという。しかし、森林が伐採されると、トラの餌となる野生動物も減り、餓死していくトラが増えた。トラは、小型化を余儀なくされ、進化したトラは、とらじまのネコとなったのである。
2021年の暮れ、ダマスカスの路地裏には、トラの末裔の猫たちがたくさんいてごみ箱をあさっている。10年続く内戦で、トラ子の両親も殺されてしまった。①尤も人間は約40万人が殺されたといわれている。物価は高騰し、人様の食料も不足するありさまで、ごみ箱をあさってもろくなものにありつけない。シリアから逃げた難民は600万人近くになり、今世紀最大の人道危機とまで言われている。
そこで、トラ子は、ゴムボートに乗って、トルコからヨーロッパに向かう難民の群れに紛れ込んだ。「この人たちは、ヨーロッパにパラダイスがあると信じている。うまいものが食えそうだにゃー」
ところが、トルコからギリシャに向かうボートが揺れる。必死にしがみつくトラ子であったが、トラ子の爪がゴムボートに穴をあけてしまった!
気が付くとトラ子は、湘南の海岸に打ち上げられていた。
②2021年3月には、日本政府は、2億ドルをシリア支援(難民支援を含む)拠出することを表明した。ドイツ、アメリカなどに次ぎ世界で6番目の額である。果たして人ではないトラ子がこの支援を受けることができるかどうかは定かではないが。
そこで、サーフィンを覚え、調子に乗ってあそぶトラ子。おなかがすき、海に潜って大好きな魚を食べようとするが、クラゲと間違ってビニールを飲み込んでしまう。
③2050年には、魚の数と、プラスチックごみの数が同じになると言っている人もいる。
「シリアのゴミ箱がなつかしい」
おなかをすかして鎌倉にたどり着いたトラ子は、鶴岡八幡宮にお祈りする。無病息災を祈る人々がそこにいた。シリアでは、コロナのワクチンは2.7%しか摂取されておらず、医療崩壊を起こしている。「祈るしかにゃいのか」そして大仏にたどり着く。「にゃんだ?この偶像は?」
⑤「これはですね、日本ではたびたび飢饉が起きて、餓死する人が絶えず、人々を守ってほしいと大仏が作られたのです。」ガイドさんの説明を聞き、大仏の手のひらで居眠りするトラ子は、幸福な気持ちになったのであった。

設問 赤字部の①から⑤に対応するSDGsのゴールを述べよ。
ゴール1 貧困をなくそう
ゴール2 飢餓をゼロに
ゴール3 すべての人に健康と福祉を
ゴール4 質の高い教育を
ゴール5 ジェンダー平等を実現しよう
ゴール6 安全な水とトイレを世界中に
ゴール7 エネルギーをみんなに、そしてクリーンに
ゴール8 働きがいも経済成長も
ゴール9 産業と技術革新の祈願を作ろう
ゴール10 人や国の不平等をなくそう
ゴール11 住み続けられる街づくりを
ゴール12 つくる責任つかう責任
ゴール13 気候変動に具体的な対策を
ゴール14 海の豊かさを守ろう
ゴール15 森の豊かさを守ろう
ゴール16 平和と公正をすべての人に
ゴール17 パートナーシップで目標を達成しよう

①ーゴール16

②ーゴール10、ゴール17

③ーゴール14

④ーゴール3

⑤ーゴール2

というわけで、年賀状を売り出している。
本当は4人くらいがちょうどいいのだけど、11人の生徒がゼミを受講していて、平等に仕事を与えるのが難しい。イスラム教徒は4人まで妻をもってよくて、ただし4人を平等に愛する必要がある。SDGs的に言えば男目線でアウトなのだが、ジェンダーフリーにして女性も男性も、4人を平等に愛するというお題としてかんがえてみてはどうだろう。すごいテーマである。実の子どもですらえこひいきが出てしまい「愛されてないんだ」と、子どもだった自分が愛されてないって悩んだ人は少なからずいると思う。

先生と生徒なので、愛は置いておいて、仕事を平等に作ってあげるだけでどれほど時間が割かれるのか、一人でやってしまった方が楽なんだけど、僕もじじいになってきたから、自分が楽するよりは、苦しくとも若い人たちに何かを持ってかえってほしいというのがある。それは、このSDGsでいうゴールの17、パートナーシップなのかもしれなくて、人間が暖かいものだということを一番教えたい。残念ながら人生は厳しくて裏切りだらけで、皆さん少なからずひどい目にあっているのでは?

僕はと言えばひどい目に合うようなことをあえて避けて距離を取ってきたけど、そういうひどい目っていうのは、ある日突然避けようもなく、はめ込んでくる。これが、神なんだろう。聖書に出てくる神の仕打ちは結構ひどい。でも人生捨てたもんじゃないのは、本当に少なくても応援してくれる人が必ずひとりはいることで、捨てる神あれば拾う神ありってよくいったなあと思う。一神教ではありえないけど。これは、日本人として素晴らしい概念かもしれない。まあ、学生がそういうのを体験するのは社会に出てかもしれない。

年賀状プロジェクトは組織とかを持たずやると本当に大変なんだけど、「このプロジェクトが続けばいいですね」とかコメントしてくれたり、応援してくれる人が一人でもいるっていうことは、とてもうれしくて、シリア支援の年賀状を50枚買ってくださって、50人に送るわけだから特別な意味がある。単なる募金とは違う意味がある。SNSがすすみ年賀状そのものが毎年減っていく中でも残していきたい文化で、シリアの子どもの絵を選んでいただけることは光栄そのもので、学生にもニュアンスが伝えられればいいと思う。
郵便局の皆さんありがとう!

年賀状はこちらから
http://teambeko.html.xdomain.jp/team_beko/postcard2.html

新・エリック・サティ作品集ができるまで(8)

服部玲治

悠治さんの身体から解き放たれた音楽をたずさえて、今度はわれわれが外側のプロダクトを作り上げていかなければならない。アートワークのデザイナーとライナーノーツの執筆者は、あえてこれまでクラシックの世界にあまりかかわりがなかった人を選定。デザインを手がけたのは、かつて星野源さんが展開していたバンドSAKEROCKのジャケットなどを担当していた大原大次郎さん。そして、ライナーは、人間行動学を専門とする細馬宏通さん。お二人ともに、悠治さんの作品に携わることを心から喜び、熱のこもったアプローチを果たしてくれた。
プロモーションのための取材や、インストアイベント、プロモーションビデオの作成など、レコード会社がリリースの際に執り行う定食的なあれこれ。当初、悠治さんはどこまでやってくれるものなのか、いささか心配したが、蓋を開けてみれば、とても協力的にこなしてくださった。
リリース後、嬉しい反響が多々あった。クラシックのいくつものタイトルのリリースにかかわってきたが、悠治さんのサティの反響はそのいずれとも異なり、受け身ではない、なにか聞き手の態度表明のような意志を感じるものが多かった。
わたしの通っている、新宿駅の中にある小さな、しかし独特の異彩を放つカフェ「BERG」(店名はあの作曲家からとっている)。リリースからほどなくしてビールを飲みに赴くと、店内で悠治さんのジムノペディが流れてきたときは、いくつもの新聞や雑誌のレビューで取り上げてもらうよりも無上の、なにか腹の底からうれしさがこみ上げてくるような思いがしたものだった。

その後、悠治さんと会うたびに、第2弾のリリースの無心を、手を替え品を替え、お話ししてきた(主に酒席で)。が、そのたびに、いつも苦笑ともなんともつかない表情を浮かべながら、明言を避けるようにすり抜けていき、今なお実現に至っていない。
一度だけ、真に迫ったやりとりがあった(と、わたしは勝手に思っている)。あれはリリースから2年ほどたったある日。三軒茶屋の悠治さんの行きつけの居酒屋さんで、ご一緒する機会を得た。またもや、しつこいと思いながらも、次のレコーディングの話を向けたとき、悠治さんがとつとつと話を始めた。いわく、今年はクセナキスの難曲を2回も演奏する機会がひかえているが、肉体のおとろえを自覚していて、思うように弾けるかどうかがわからないという。レコードを録音するのは、ある意味完成したものを作る営みだが、それと今の状態は噛み合わないと。
僕はドキュメントとして録りたいのです、と伝えた。

こんど誘われて1枚にまとめた再録音では、貧しいものの音楽、小さなもののつつましさ、ひそやかさ、その息づかいや、鍵盤に触れるその時に生まれる発見から次の一歩が決まるような、どことなく危うい曲り道を辿る、音から次の音へのためらいがちな足どりの、未完の作曲家サティにふさわしい進行中の記録にとどめておきたい気もあった。
『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』ライナーノーツ所収
「サティの再録音に」より 高橋悠治

ドキュメントと言ったとき、この“進行中の記録”という一文が念頭にあった。おとろえという制約があるからこそ、「これしかできない」ものの中から生まれるものが録りたい。
加えて、悠治さんは、どこか白い結晶のような演奏になっていってる気がします、とも言うと笑われた。白い結晶と口に出た時、わたしの頭の中には、サティと交流のあった彫刻家ブランクーシの「接吻」という作品と、サティ最晩年の「ソクラテス」の白い音楽を思い浮かべていた。いろんなものを削ぎ落し、純化し、でもその向こうに隠し切れずにじみ出てくる歌と情感。今回のサティの録音にもそれは横溢していたように思う。
わたしがしつこく録音、録音、と言ってくることについては、「提案するのは自由だから、悪いこととは思ってない」とはっきり。これはなによりの収穫だった。
『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』はいまもなお多くの人に聴かれ続けているのは、昨今CDを駆逐して主流となりつつあるデジタル配信において、DENONレーベルの上位にずっとこの作品集がランクインしていることからもわかる。
リリースから4年。このプロジェクトは立ち消えてないと考えており、むしろ、悠治さんとまたご一緒したい気持ちは高まっている。
「誘われて」
と悠治さんのライナーノーツにあった。まだみぬ2枚目のアルバムのために、誘い続けようと思う。まずは、三軒茶屋の居酒屋さんに、いきませんか、悠治さん。
(了) ※今後動きがあれば不定期に継続します

ベルヴィル日記(4)

福島亮

 今朝、寝起きにスマートフォンの室温表示を見ると4℃だった。板張の床の冷たさを思うと、なかなか布団から出られない。窓の外はまだ暗い。それもそのはずで、冬は朝の8時くらいまで暗いし、くわえてここ最近曇りが続いている。空は、じくじく湿り、重たい。先日27日、名古屋外国語大学ワールドリベラルアーツセンター主催で、野崎歓氏の講演があり、ボードレールの「秋の歌」へと話が及んだ時、パリの冬の空がいかに暗いか、という話になった。やはり布団にくるまりながら——時差があるから、朝早かったのである——オンライン配信を視聴していた私は、そのお話に深く共感せずにはいられなかった。とはいえ、もう秋はとっくに終わり、あとは冬の深度が増すばかりだ。なにせこれからもっと寒くなってゆくのだから。

 冬の影は、初秋の頃嬉しそうに買い求めていた根菜類にも及ぶ。蕪も人参も葉付きのものはすっかり減って、どこかの倉庫で保存されていたと思われる根の部分だけが市場に並ぶ。まれに葉付きの人参があっても、その葉は和毛のようで、なんだか弱々しい。かわりに、蜜柑や柿は豊富に並んでいる。それはそれで美味しいのだけれども、もりもり茂る葉の方が私は好きなのだ。はやく暖かい季節になってほしいものだ。なにか手頃な冬の愉しみでも見つかればよいのだけれども……。

 そんなふうに思っていたところに一つの小包が届いた。歌人の川野里子さんがご著書を贈ってくださったのだ。『幻想の重量——葛原妙子の戦後短歌』(新装版、書肆侃侃房、2021年)と『葛原妙子——見るために閉ざす目』(笠間書院、2019年)である。葛原妙子は1907(明治40)年に生まれた。葛原の名前を、私は川野さんから教えていただくまでまったく知らなかった。だが、頂いた書物を読み進めていくうちに、葛原のものと知らずに記憶していた歌があることに気がついた。「晚夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて」という歌だ。いつだろう……屹立するどことなく静謐な酢の姿が脳裏に浮かぶ。思い返してみると、それはもうずいぶん前のことなのだが、永田和宏『現代秀歌』(岩波新書、2014年)のなかでこの歌が紹介されていたのである。そこで改めて『現代秀歌』を読み返してみたところ、なんと川野さんの歌も紹介されているではないか。知らずしらずのうちに、私はすでに川野さんとお会いしていたのだ。本のなかで。

 この歌と何年かぶりに再会する直前、私はもうひとつ別の、屹立する液体のイメージに出会っている。それは、つい先日刊行されたばかりの吉増剛造『詩とは何か』(講談社現代新書、2021年)のなかで紹介される田村隆一のエピソードである。それによると田村はある日武蔵野でケヤキを見ながら、「あの木、あれは武蔵野の水が立ってるんだぜ」と吉増に言ったという。このエピソードと葛原の歌とのあいだには、おそらくなんの因果関係もない。だが私としては、武蔵野の水が壜のなかの酢を呼び寄せたのだと勝手に思い込んでいる。そしてその酢は、かつて読んだ永田の書物へと私を立ち返らせ、そこで思いがけずして川野さんとも再会することになったのだ、と。

 冬の寒さと食卓の寂しさになんだか拗ねていたのだが、幾重にも繰り返される再会と想起があれば、今年の冬も乗り越えられるだろう。では、よい年末を。

むもーままめ(13)世界で一番美しい声の巻

工藤あかね

 美しい声、というのは一体なにか。歌をうたって暮らしている身なので、このことに思い至らぬ日はない。

 水晶のような声、トランペットのような声、太陽のような声、天使の声…古今東西、ジャンルを問わず、様々な文字列で美声をたたえられる人たちを、何度うらやんだことか。

 私が録音で最も数多く聴いたのは、マリア・カラスというソプラノ歌手だ。彼女の声は、喉が開いていないとか、美しくないとか、世間ではさんざんに言われてきた。確かに同時代のソプラノには美声で鳴らしたテバルディもいたし。けれど、私が何度も聴いてしまうのは、テバルディではなくカラスだった。ありていにいえば、彼女は私のアイドルだった。学生の頃イタリアに行った時、彼女の豪華な写真集をみつけた。分厚くて大きく、やたら重たかったが、何のためらいもなく何万リラも払って持ち帰った。のちにそれが日本でも安価で手に入るようになっていたのには、少なからずがっかりしたが。

 じゃあ、マリア・カラスの何がそんなに良かったのか。わたしは、彼女が自分の全存在をかけて出した声に惹かれたのではないか、と思っている。そもそも人間なんて、美醜、清濁の渦巻いた世界に生きている。オペラであれ何であれ、何かを表現するのに完全に無垢なものだけ抽出したとして、果たしてそれが本物といえるのかどうか。

 美しい声の人にはたくさん出会ってきた。けれど私には、一度聞いただけなのに、いまだに忘れられない声の持ち主がいる。

 それは、駅のホームで大泣きしていた女性だった。

 ある仕事で、東京都下に通っていた時のこと。リハーサルが終わり、駅のホームにたどり着いたら、歳の頃が30歳くらいの女性が、文字通り「爆泣き」していた。その方はどうやら一般で言うところの障害を抱えているらしく、介護役の女性がついて一生懸命なだめていたが、ホームどころか近隣に響き渡るような彼女の爆泣きと叫びは、一向にとまらなかった。

 母音が刻々と変化していたから何か言葉は言っているようだったけれど、なぜ彼女がそんなにも大泣きしていたのかはわからない。ただ一つ言えることは、彼女の泣き声が、恐ろしいほどに胸を打つ響きだったことだ。

 人前で大声を出してはいけません、騒いではいけません、女の子なんだから、おしとやかにね。

 しつけと呼ばれる、さまざまな制約から解き放たれた人間の声は、こんなにも轟いて、響いて、強くて、輝かしいものなのかと、本当にうっとりしてしまう声だった。

 ちなみに泣き声の高音部分は、どんなオペラ歌手でも羨むような音色である。喉に全く余計な力が入っていなくて弾力があり、ふくよかでシルキー、メタリックな響きもあり、よく通り、声量もすごい。

 彼女には申し訳ないけれど、爆泣き声は録音させてもらった。その録音は今でも持っていて、あれはすごい声だったと思いながら時々聞き返す。歌うたいが目指すべきは、本能に基づき、野生を取り戻すことかもしれない。

新作公演

笠井瑞丈

12月新作公演
『未来の世界』
共演者は

伊藤キムさん
小暮香帆さん
上村なおかさん

三人です

九月からリハーサルを行ってきました

作品作りは

まず

ソロなのか
群舞なのか

それを決め

劇場探し

そこから始まります

今回は一年前に

ひょんなことから
ずっと憧れの存在であった
伊藤キムさんと飲む事になり
伊藤キムさんと踊りたい
次第に私の妄想が膨らみ
そんな事から恐れ多くも
出演オファーを出しました

そしたら出演をオッケーしてもらい実現する舞台です

劇場は中野テルプシコール

テルプシコールは数多くの
舞踊家達が床に汗を落とした劇場です

そして伊藤キムさんが
以前作っていたカンパニー
『輝く未来』の
旗揚げ公演を行なった場所でもあります

そしてもう一人のダンサー小暮香帆さん
彼女は僕が新進芸術家海外留学制度で
ニューヨークから帰国した年
私の作品に出てくれたダンサーです
当時彼女は大学三年生でした

そしてその後何度か私の作品に出てもらい
笠井叡の作品にも出演することにもなりました
そして現在はソロや群舞の振り付けなどをしています

そして共に主催をしている上村なおかさん
ずっと毎年ひとつ二人でプロジェクトをやっています
二人だからやっていけることがある
これからも続けていこう

続くけていればいいこともある

ダンスは人を繋げてくれるます
だから踊るのなだと思います

過去に今の自分を想像できるか
今から未来自分を想像できるか

どうぞお立ち会いください

外国人監督が描いた日本の物語

若松恵子

「MINAMATA」と「ONODA」。外国人監督が描いた日本の物語を2つ、11月にロードショーで見た。今、なぜ水俣なのか、小野田少尉なのか。歴史の教科書で知っているからと言って、本当に知っていることになるのか? そこに生きた人々の姿から、本当に学んだのか。そんなことを考えた。

気候変動や新型コロナウイルス、今もゼロにはならない戦争。今、「水俣」や「小野田少尉」を描くことに意味を見出した外国人監督によって、国を超えて、人間の問題として、50年経ってまだ解決されていない物語として編みなおされて、届けられたのがこの映画なのだと感じた。「知っている」と思い込んでいた日本人は取り上げないテーマだったのだろう。

「MINAMATA」では、ジョニー・デップがユージン・スミスを演じている。映画のパンフレットに川口敦子が書いている。「すでに土本典昭監督作はじめ水俣と向き合った渾身の記録映画が見事な成果を差し出した後に、「史実に基づいた物語」とのことわりを冒頭に掲げた劇映画に何が描けるのか」と。しかし、このような偏見、先入観、予断から不安を持って見始めたけれど、「映画「MINAMATA」が劇映画として、ドキュメンタリーとは別のルートで現実と向き合い、そこにある真実へと近づこうとしていること、つまりは客観的な記録映像こそが真実への唯一の扉といった先入観を覆してみせたこと、その果敢な選択がユージンとアイリーンが向き合ったミナマタの真実と可能な限り共振するための術―と、監督アンドリュー・レヴィタスも、主演デップも撮影ブノワ・ドゥロームも迷いなく覚悟を決めて、それが映画の妙味を浮上させていく。」と。

川口のこの見方に私も共感する。確かに、ユージンが水俣に到着した直後に出会う「アコーディオンの少年のいる淡い緑の雨の夕べ」の風景は、いつまでも心に残るシーンとなる。作り物の限界を感じつつも劇映画として分かりやすく、「MINAMATA」を現在に再び伝えることは必要なことだったのではないかと思った。水俣病が公式に確認されてから65年、いまだ救済を求めて裁判が続いているという事、水俣のように人間によって引き起こされた環境破壊と人への被害が世界中で起きていることがエンドロールで紹介されるのを見てそう感じた。

「ONODA」は1981年生まれのフランス人監督、アルチュール・アラリによる作品で、2021年度のカンヌ映画祭の「ある視点」のオープニングに上映された。15分間のスタンディングオベーションを受けたという事だ。日本人俳優による日本語での演技。そのまま日本映画のように見ることができる。日本人が見て違和感を覚えるような日本人の描き方になっていない所が良い。上映時間の2時間54分を、小野田少尉の横で過ごしたように感じる映画だった。「小野田さんの時間を生きて見せた」そんな俳優陣の演技が良かった。小野田さんの内面の葛藤がモノローグで語られる演出など一切なく、上官の命令を守って赴任地を離れようとしない小野田の姿と、彼の判断に従って同行する4人の男たち、事実通りなのだろうが、最後まで小野田のそばを離れず、忠誠をつくし、命を落とす、そんな人間の在り方の不思議さをしみじみ感じた。日本に帰るヘリコプターの中で、これまで自分の世界の全てだったルバング島を小野田は上から眺める。セリフも字幕もない、小野田の顔のクローズアップのラストシーンだ。俯瞰してみて、島のあまりの小ささに愕然としたのではないか。そんな思いを重ねて私は見ていた。シチュエーションを変えて、同じような悲劇が今でも起こっているのではないか、そう思わせる象徴的なシーンだった。

水俣については、その後こんなニュースが入ってきた。
原一男監督のドキュメンタリー「水俣曼荼羅」(3部構成で上映時間6時間12分)が完成し、11月27日からシアター・イメージフォーラム他で上映されるという事だ。見てみたいけれど、6時間に耐えられるだろうか。
「MINAMATA」の映画の写真を帯につけた『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』という石井妙子による評伝が出版されている。ユージン・スミスの写真により「水俣」と出会い直し、福島原発事故によりアイリーンと再会した石井妙子が、コロナ禍の2021年に取材に出かけ、ユージンとアイリーンについて書いている。読み始めたところだ。ほぼ同世代の石井妙子によって描かれるユージンとアイリーンの姿にも興味を惹かれる。

『幻視 IN 堺~能舞台に舞うジャワの夢~』こぼれ話 

冨岡三智

10月にやった公演についてまだ書くのか!と呆れられそうだが、備忘録としてもう少し書き留めておきたい。

 ●モチョパット

公演の一番最初に、モチョパットと呼ばれる詩の朗誦をナナンさんにお願いする。これは当初ちらしに書いていたプログラムにはない。実は今、関西のジャワ・ガムラン界ではモチョパットがブームになっている(勉強会まである!)という事情もあるが、ジャワでは詩の朗誦が盛んなこと、そしてそこに霊的な力があると考えられていることを示したいなと思って入れた。コロナ禍の収束を祈るような内容で…とナナンさんに詩の選択を一任したら、「シンガ・シンガ…」で始まるスラカルタ宮廷詩人・ロンゴストラスノのパンクル形式の詩(1929年)を選んでくれた。これは「災厄よ、去れ」という内容なのだが、実は私の舞踊作品用に委嘱した音楽『陰陽 ON-YO』(2002年)で使われている詩でもある。作曲者が私が好きそうな詩だといってこの詩を使ってくれたのだ。そんな経緯を全然知らないナナンさんが今回これを選んでくれたのが、個人的に嬉しい。

 ●スリンピの衣装

今回、能舞台で上演することもあって、スリンピ本来の衣装の組み合わせとは違う衣装にした。今回の演目『スリンピ・ロボン』はスラカルタ王家の演目である。同王家の女性舞踊では通常サイズよりも1.5倍長いバティックを裾を引きずるように腰に巻いて着付け、この裾を蹴りながら踊る。しかし、私は今まで2度能舞台で踊った経験から、足袋を履いてこの着付けをすると裾が足首に絡まって非常に踊りにくいと感じていた。ジャワ舞踊を踊る時は素足である。素足だと布は足に絡みつかないのだが、木綿の足袋を履くと摩擦が起きるのか、裾が足袋からうまく離れてくれないのだ。以前私が踊った時は、上演の1か月前くらいに下見で能舞台に上がらせてもらって感触をつかんでいたから、家で十分練習ができた。しかも1人で踊り、古典舞踊そのままでもないから、足さばきがうまくいくよう振付も改変できた。しかし、今回はコロナで移動が制限されていることもあって、他の踊り手は直前のリハまで能舞台に立つ機会がないし、4人で古典舞踊を踊るから振付は変えられない。というわけで、裾を引きずるのは断念したのだった。

しかし、ジャワの正装なら通常サイズのバティックをくるぶし丈に着て、引きずる裾もない。これなら足袋を穿いても着物と同様に足の捌きは良いはず…と思って試してみたところ、全然違和感がない。というわけでバティックは正装の巻き方にする。それに合わせて上半身も正装で着用するクバヤ(ブラウス)にした。私は4着お揃いのクバヤを持っていなかったが、関西のジャワ舞踊界にジャワのクバヤを仕立てられる人がいることがこの公演を決めた後に分かり、仕立ててもらったのである。宮廷舞踊の衣装がクバヤというのは普通はないけれど(ジャワで年配の人がクバヤを着る例は近年増えつつあるが)、能舞台に着物で立つというイメージからすれば、肌を覆った衣装は似つかわしい。しかも、白の布地でシンプルに仕立てたクバヤは私の持つ天女の衣のイメージに合致する。自画自賛だが、能の伝統的な空間にこのクバヤはしっくり収まったような気がする。衣装がバティック・クバヤの組み合わせになったので、頭部はバングン・トゥラッという髪型にした。これはスラカルタ宮廷に入る時の髪型である。

ちなみに、能舞台での上演ということで足袋を履く前提だったが、他の能舞台の中には舞台に敷物を敷いて素足での上演に対応している所もある。実は、私も当初は館主とそれを検討した。実際にそうしている能舞台に連絡したり、敷物の見本を取り寄せたりしたが、最終的には舞台には何も敷かずにそのままでいこうということになった。というわけで床でなく衣装の方を変えたのである。

 ●つるつる、揺れる、冷える能舞台

能舞台はつるつるに磨き上げられているのでよく滑る。ちなみに能舞台は年に何度か牛乳で磨き上げるのだと大澤館主が言っておられた。能舞台というのは維持するだけでも大変なのだなあとつくづく思う。そのつるつるの舞台でスリシック(爪先立ってやや小走りに移動する)やケンセル(横に滑る)をすると、ちょっと足が取られそうに感じる時がある。今回のスリンピ上演はスラカルタ王家の通常テンポよりゆっくり目なのだが――私の好みでもあるし、今回の演奏陣のバランスがちょうどよくなるテンポでもあった――、公演後、踊り手同士でテンポがゆっくりで踊りやすかった、滑らないようにと緊張していつもよりも足が疲れたという話になった。スリ足とゆったりしたテンポはつるつるの床で舞うには必然なのかもしれない…という気がする。

また、4人一緒に能舞台に載って気づいたのが、意外に舞台の床が振動することである。今まで1人でしか舞ったことがなかったから気づかなかった。宮廷女性舞踊では足を上げることはないが、それでも4人揃ってスリシックやケンセルで移動すると、床から足元へ腰へと揺れが伝わってくる。特に、床に直に座るシルップと呼ばれる場面ではなおさらである。揺れるのは、音響効果のため能舞台の床下が空いているからだろう。そういえば、以前、豪華客船でスリンピを踊った時も、シルップの時に波の揺れが伝わってきて酔いそうになったことを思い出した。

舞台で足元が冷えるのも、床下が空いているからだそうだ。特にリハの日は前日までより冷え込んだせいか、足袋を履いてしばらくするとすぐに足の指がつって、踊り手は皆苦労した。公演の日はわりと暖かかったようで、冷えあがってくることはなくほっとした。

 ●演奏席

ガムラン楽器だが、歌い手やルバーブ(胡弓)、グンデル、ガンバンなど、柔らかい音色で旋律を細かく装飾する楽器は舞台横の地謡座に、太鼓やサロン、ゴング類など重くて主旋律を主に担う楽器は舞台下に配した。もとより地謡座には楽器は全部収まりきらないし、上に書いたように舞台床下は空いているから、重い楽器はできるだけ上にあげたくない。舞台(舞踊スペース)は空けたいし、背後の松はきちんと見せたい…ということで館主に相談すると、観客席が外せるという。というわけで、地謡座に近い辺りの観客席を外して台を設置し、そこに楽器を配置した次第。演奏者が2か所に分かれるのは演奏しづらいのだが、仕方がない。

というわけで、試行錯誤の過程やら能舞台と取り組んだ記憶も少し書きとどめておきたいと思って今月も公演話になった。

水牛的読書日記 2021年11月

アサノタカオ

11月某日 ある読書会で出会った方がお亡くなりになった。病気であることは知っていた。かつてともに読んだ本を開いて、その人の声を思い出す。これからも。ありがとうございました。

11月某日 韓国文学翻訳院の主催、小説家のチョン・セランさん、津村記久子さんのオンライントークを高校生の娘と視聴した。司会者の発言を受けて「そうかな? チョン・セランの「リセット」は暗いだけの小説じゃないよ」と娘がとなりで。「最後には希望もある」と。ぼくは「リセット」をまだ読んでいないので、よくわからない。この作品は『声をあげます』(斎藤真理子訳、亜紀書房)に収録されている。

11月某日 『現代詩手帖』2021年11月号を購入。特集は「ミャンマー詩は抵抗する」。今年2月、ミャンマーで起こった軍事クーデター。2019年にミャンマーを旅した妻とともに、一連の報道を注視していた。SNSを通じて、軍事政権に抵抗する民主化運動の前線に詩人がいることも伝え聞いていた。いてもたってもいられない気持ちで詩誌のページをひらき、3月3日、デモに参加して治安部隊に射殺されたケイ・ザー・ウィンの詩「獄中からの手紙」を読む。詩人の四元康祐さんによる訳。

11月某日 在日の文学者・金石範先生の小説を読む。2010年代以降の比較的近年の作品、『死者は地上に』『過去からの行進』『海の底から』(以上、岩波書店)を集中して続けて。『金石範評論集Ⅰ 文学・言語論』(明石書店)も読みはじめたところだが、これはイ・ヨンスクさん監修、姜信子さん編集によるすばらしい企画。金石範先生が70年代に発表した『ことばの呪縛』『口あるものは語れ』『民族・ことば・文学』などの評論集は、日本語環境で「ポストコロニアル」という用語が広まるはるか前に、帝国主義的な国家と歴史のイデオロギーに抵抗する批判精神の上に立ってみずからの文学や言語の思想を語るきわめて先駆的な内容だった。評論のベストセレクションがこうして一冊のあたらしい本にまとめられ、ていねいな解説や解題とともに読めるようになったことはうれしい。

関連して雑誌『対抗言論』2号のふたつの座談会を読む。康潤伊さん、櫻井信栄さん、杉田俊介さんによる「在日コリアン文学15冊を読む」、温又柔さん、木村友祐さんらによる「共同討議 文学はいま何に「対抗」すべきか?」。前者では、金石範先生の小説「虚夢譚」が紹介されていた。

11月某日 最寄りの書店ポルベニールブックストアで、「TAIWAN BOOK FAIR 閲読台湾!」の冊子をもらう。それとは別に、台湾文化センターが発行する「TAIWAN BOOKSTAR 2021」という文庫サイズのおしゃれな冊子ももらった。作家・呉明益の小説をはじめ、台湾書籍がいろいろ紹介されていて眺めているだけで楽しい。

11月某日 アメリカの作家、カレン・テイ・ヤマシタさんが全米図書賞のthe Medal for Distinguished Contribution to American Lettersを受賞。おめでとうございます。同賞は過去にトニ・モリスン、レイ・ブラッドベリ、アーシュラ・K・ル=グウィンら錚々たる作家が受賞している。カレンさんは受賞後のオンライントークで、アジア系アメリカ人の作家としてはじめて同賞に選出されたマキシン・ホン・キングストンのことから語っていた。マキシン・ホン・キングストンの小説については、藤本和子訳で『チャイナ・メン』(新潮文庫)がある。

ぼくは20年来、カレンさんと親しく交流していて、彼女のエッセイ「旅する声」(『「私」の探求』[今福龍太編、岩波書店]所収)と小説「ぶらじる丸(抄)」(『すばる』2008年7月号)を今福龍太先生と共訳している。カレンさんの小説の日本語訳は、本としては『熱帯雨林の彼方へ』(風間賢二訳、新潮社)1冊のみ。『ぶらじる丸』と『オレンジ回帰線』(これはめちゃくちゃおもしろい小説!)は抄訳のみあるが、ほかの作品も翻訳出版されるとよいなと思う。

11月某日 妻が10日ほど旅したので、その間、Netflixで韓国ドラマを集中して鑑賞した。『秘密の森』『補佐官』『イカゲーム』『マイネーム』『地獄が呼んでいる』『調査官ク・ギョンイ』……。凝りだすととまらない。韓国映画も含めて昼夜のべつまくなしに映像を見まくって、これが「ネトフリ廃人」かと思った。
東京・新大久保のコリアタウンへ娘と繰り出し、『イカゲーム』に登場した「タルゴナゲーム」を実地調査。カルメラ焼きみたいなお菓子にさまざまな模様の型をおしあて、爪楊枝や針などできれいにくりぬいたら勝ち(?)、という韓国の遊びらしい。傘の模様にチャレンジしたが、途中でぱきんと割れてしまう。ドラマの中ではこの瞬間、射殺される。無念。

11月某日 明星大学の日本文化学科で「編集論」のゲスト講義をおこなった。この授業は、先輩の編集者・竹中龍太さんが担当。詩人・山尾三省の本の生誕80年出版企画を素材に、本をつくることと場所を知ること、編集とフィールドワークの関わりについて話した。リアクションペーパーを見ると、学生のみなさんに話の内容は伝わっているようでひと安心。多摩センター近くの大学キャンパス周辺の紅葉がきれいだった。

講義を終えた夜、「もしかしたら」と京王線分倍河原駅で途中下車。かねて訪ねたかったマルジナリア書店へ行くと、さいわいオープンしていた。拙随筆集『読むことの風』(サウダージ・ブックス)が棚に並んでいてうれしい。よはく舎刊行の『YOUTHQUAKE U30世代がつくる政治と社会の教科書』を購入。自分とU30世代の娘のために。

11月某日 突然の訃報がまたしても。長谷川浩さんがお亡くなりになった。ぼくは編集者の長谷川さんのお誘いで、『Spectator』などいくつかの雑誌で文章を書かせてもらった。むかし住んでいた神奈川県葉山町の一色海岸でともに遊ぶ人としても、お付き合いしていた。やさしい人で、いつも幼い娘と遊んでくれた。思い出の中で、夏の海、シーカヤックに乗って沖をゆく子どもと長谷川さんの姿がきらきら輝いている。

長谷川さんは下北沢の対抗文化専門カフェ・バー&古本屋である気流舎の運営メンバーでもあり、お店で偲ぶ会が開催されるとのことで訪問。祭壇に置かれた革ジャン姿のかっこいい遺影に手を合わせた後、久しぶりに会ったメンバーとおしゃべりし、棚の本を眺めた。長谷川さんは長年、集英社で仕事をし、90年代に文芸誌『すばる』の編集にもたずさわり、のち編集長に。ずらりと並ぶ長谷川さんが手がけたバックナンバーがなつかしい。学生時代に熱心に読みこんだ特集の数々、ある意味ぼくは「長谷川チルドレン」だったのだ。長谷川さんは書籍編集者としてもワールドワイドに活躍し、『神経政治学』のサイケデリック心理学者ティモシー・リアリーからミハイル・ゴルバチョフまで交流のふり幅の大きさにも驚いた。

不思議と本の話をしたことはない。まして出版社での仕事の話は一度も聞いたことがない。一色海岸で少し猫背の後ろ姿に声をかけると、長谷川さんはいつも「ああ、アサノさん」と片手を上げてはにかんだ笑顔でふりかえった。夏の夜、おたがいの旅の話をしながら、ビールを片手に浜辺のバーのとまり木に腰を下ろし、打ち上げ花火を眺めたこともあった。おーい、長谷川さん。そのうち彼岸のバーでまた会えますか。でも、本の話をするのは、やっぱりやめておきましょうね。生きているあいだに、ぼくらはもういやというほど読んで読んで読んだのだから。

11月某日 宮内勝典さんの待望の新作長編小説『二千億の果実』(河出書房新社)が届く。『文藝』での連載を毎回、興奮しながら読んできたが、いよいよ一冊の本に。年末年始に全身全霊を捧げて読書したい。2005年に刊行された宮内さんの小説『焼身』(集英社)はもともと『すばる』に連載され、当時編集長だった長谷川浩さんが編集を担当したのだった。

言葉と本が行ったり来たり(3)『ロボ・サピエンス前史』

長谷部千彩

八巻美恵さま

以前、お話ししたことがあるかもしれませんが、若い頃、私は自分で作ったパソコンを使っていました。身近にそういった趣味を持つ友人がいて、プラモデルみたいなものだよ、と言うので、それならば、と自作するようになったのです。
ケースを選び、CPUを選び、メモリを選び、グラフィックボードを選び、作業の半分以上はパーツ選び。そこから先は本当に簡単で、言葉通り、プラモデルを組み立てる要領です。不要なパーツが出ると、新たにパーツを加え、パソコンをまた別に組み立てて、頼まれもしないのにひとにあげたり。作ることがとても楽しかったのです。
ですから、八巻さんからいただいたお手紙の“パソコンはなくてはならない道具だけれど、単なる道具という閾をとっくに超えてしまっているのに、その芯の部分のようなところがわたしには理解不能です。”という一文を読み、私はパソコンを電動自転車のようなものと捉えているけれど、それは私にとってパソコンがブラックボックスではないからかもしれない、と思いました。

私に自作を勧めてくれた友人は分解マニアでもありました。ゲーム機など新機種が発売されると入手して、ケースを開けて構造を確認するのです。型番違いのものも調べたいと言うので、私のゲーム機を彼のゲーム機と交換したこともあります。中を見たくて仕方がないようでした。
東京を離れた彼とは疎遠になり、いまは連絡先もわかりません。でも、当時の彼は私にとって頼れる友達で、パーツを買いに秋葉原へ同行してもらったことなど懐かしい思い出です。
バイク便のライダーの彼とブランド物で身を固めた私は、傍目には奇妙なコンビだったかもしれません。けれど、私も洋服を買ったら、必ず裏返しにして仕立てを確かめるし、訪れた国の政治情勢がどうなっているのか調べたくなるし、いま思えば似たもの同士だったのです。
解体したり、裏返したり、構造を確かめると、それに対する認識がダイナミックに変わるというのは、ひとつの事実だと思います。あえて知らないままにしておくという選択もありますが。

今月読んだ中で面白かった本は、島田虎之介さんの『ロボ・サピエンス前史』。SFコミックです。ロボットの数が人間の数よりもはるかに増えた未来が舞台。ロマンティックで素敵なストーリーなのですが(そしてせつない)、私が「いいなあ」と思ったのは、メインキャラクターがロボットということもあり、台詞が少なく、表情が極端に抑制されているところです。
一般的に表情が豊かというのは良いことのように語られます。でも、その豊かな表情が必ずしも感情をそのまま表しているわけではない。例えば、人間の笑顔の半分ぐらいは、円滑に会話を進めるため、敵ではないことを示すために浮かべているものではないでしょうか。少なくとも私はそうです。
では、恣意的に選んで顔に載せる表情、他者へのメッセージとしての表情を排したら――?感情の表出だけに表情を浮かべるなら、案外人間も淡々としたものかもしれない。内面では多くのことを感じながらも、言葉にするのだって実際はほんの少しですし。そんなことを常々考えているので、笑い転げたり、泣き出したりしない、わずかな表情だけを使い分けて生きるロボットのほうに、私はむしろ裸の人間の姿を見たのでした。
作中、核廃棄物が無害化するまで、25万年もの間、ひとり静かにロボットは貯蔵施設の管理を勤めます。ひとは物語が好きだから、一生をドラマティックに綴りたがる。それはきっと欲望のひとつですよね。けれど、神の視点で見下ろせば、人間もそのロボットと同じように、80年なのか90年なのか、孤独の中を粛々と生きているのかもしれません。

今年も残すところあと一ヶ月。八巻さんに紹介していただいた『センス・オブ・ワンダー』は、年内中に読もうと思います。次の手紙には感想を書けるかしら。
東京もだいぶ冷えてきました。風邪など引かぬようお気をつけ下さい。
それでは、また。

長谷部千彩
2021.11.30

 
 
*編集部註:言葉と本が行ったり来たり(2)『センス・オブ・ワンダー』(八巻美恵)は長谷部千彩さん主宰のサイト、memoranndom.tokyoに掲載されています。まさに、行ったり来たり、です。

木立の日々(3)「コンセントを抜かれたテレビ」

植松眞人

 携帯電話が鳴ったのはちょうどバイト先のホームセンターの前だった。シフトが入っていなかったので、久しぶりに食料品を買いだめしておこうと隣町へ向かって車を走らせていたときだった。
 車をホームセンターに入れて、電話に出ると声の主は「今日、はいれる? ねえ、はいれる?」と聞いてきた。話の筋が飲み込めないのと、声が慌てふためいていて、誰だかわからなかったので、最初木立(こだち)は間違い電話だと思った。
「すみません。間違いだと思うのですが」
 木立がそういうと、電話の向こうの声は、
「木立でしょ?」
 と、いつもの林さんの声で聞いた。
「あ、そうです。どうしたんですか」
「とちったのよ。バイトのシフト表。それで、今日、誰もいないの」
「誰もいない?」
 何のことかわからずに木立が繰り返すと、明らかに少しいらついた様子で林さんは、
「だから、私がシフト表の記入をとちったのよ。で、今日来てみたら、誰もいないの」
「あ、そういうことですか」
「そういうことですかじゃないわよ」
 そこまで聞いて初めて、最初の声が慌てふためいていた意味がわかった。
「ねえ、今日、はいれる?」
「わかりました。はいれますよ」
 木立が答えると、林さんはとても長く行きを吐き出した。身体のなかのいろんなものを長く一息で吐き出してしまいたい、という感じがした。
「いま、どこにいるの?」
「店の前です」
 そういうと、木立は店の従業員入口のほうを見た。すっとドアが開いて、携帯電話を耳に当てた林さんが木立のほうを見ながら出てきた。

 新人用にストックされていた制服に着替えてフロアに入ると、なぜかクビになったはずの中村くんがいて、木立を見つけると手を振ってきた。その仕草があまりに自然だったのと、笑顔がとても爽やかだったので、思わず木立も手を振り返してしまったのだけれど、手を振りながら、あ、間違った、と顔が赤くなっていることに気づいた。すると中村くんは私が久しぶりに会って恥ずかしがっているのだと勘違いしたのか、まるで足元にセグウェイでも付けているかのように自然に近寄ってきた。
「お久しぶりです。元気でしたか」
「元気だよ。というか、なんでいるの?」
 木立が聞くと、中村くんは一瞬、ホームセンターの天井を見上げてから、口元に意味ありげな笑みを浮かべていた。
「だって、あんなに慌てふためいてたら放っておけないじゃないですか」
「林さんから電話がかかってきたの?」
 木立が聞くと中村くんは、小さく「あっ」と声をあげたのだけれど、それはちょっとわざとらしくて、何かをバラそうとしていることがわかった。
「電話じゃなくて、顔を見てたからね」
 そういうと、中村くんは木立の顔をのぞき込むようにじっと見つめた。
「顔を見ていた」
 木立は中村くんの言葉を繰り返した。林さんの慌てふためいた声を聞いてから、ずっと時間がふわふわとしている。そして、いま中村くんの口から出た、顔を見ていた、という言葉が急に質量をもって木立のお腹のなかに落ちてきて、息ができない感じになった。
「ここのバイトをクビになった日から、ずっと林さんのところにいるんだよね」
 中村くんはまるで、自分が盗もうとしたマキタの工具がまた入荷したんだよね、という感じで話すのだが、木立にはもう彼の声が自分を避けているかのようにとても小さくしか入って来ない。そこに、林さんがやってきた。林さんは私を見てほっとした表情を浮かべたのだけれど、すぐに中村くんがいるのを確認すると、また表情を引き締めた。そして、木立と中村くんの前にやってきて、話始めた。
「おはようございます。今日は急に申し訳ないです。ちょっと不手際があって、人が少なくてすみません。でも、平日なのと、後から応援も来てくれるのでなんとかなると思います。ただ、今日から始めるイベントがあって、どうしてもアルバイトを揃えなくてはいけなくて…」
 林さん曰く、今日は家電メーカーが新たに開発した家庭用の調理器具の発売イベントがあるのだという。大手の販売店ならメーカーからたくさんの人が派遣されてきて、店舗のスタッフはセッティングをするくらいなのだが、この店は中堅どころなのでそういうわけにもいかない。目標を設定され、しかも、メーカーからはほとんど人がこない。今日は木立と中村くんがいるだけだ。店舗入口を入ってすぐのところにあるスペースには昨日のうちに運び込まれた大型のテレビがあり、そこに新しい調理器具の広告動画を流すらしい。林さんに言われ、中村くんが油をほとんど使わない唐揚げをつくり、木立がそれをお客様に配るという段取りが決まった。
 説明だけをすると林さんはほとんど木立とも中村くんとも目を合わせないで、どこかへ消えてしまった。
「ああいうところ、かわいいよね」
 中村くんは木立に言う。木立は何も答えない。
 まだオープンまで少し時間はある。木立は中村くんに聞きたいことが山ほどあったけれど、まずは今日を乗り切ろうと、中村くんのいうことはすべて受け流すことに決めた。そして、まだ時間があるというのに、勝手に唐揚げをつくり、一人で味見を始めた中村くんを無視して、チラシやカタログ、商品の在庫チェックをし始めるのだった。いつも通りのことをしていないと、なにか失敗をしでかしてしまいそうだったからだ。
 木立は大型テレビの横に置いてあったDVDのディスクをプレイヤーに挿入してみた。うんともすんとも言わない。おかしい。木立はDVDを入れ直してみたり、ディスクに傷がついていないか見てみたりしたのだが、原因がわからない。散々、慌てたあと、急に思い立ってテレビの裏側に回ってみると、コンセントが抜かれていた。ほっとしてコンセントをいれようとする木立を隣で中村くんが笑ってみている。
「朝来たら、めちゃくちゃ大きな音でかかってて。あんまりうるさいもんだから、コンセント抜いちゃったんですよ」
「コンセント抜かなくてもスイッチを切るとか他に方法があるじゃないですか」
 木立が言うと、中村くんはさっきよりも大きく笑っている。
「なにか、おかしい?」
「ほら、ぼくたちの世代は、テレビ消えてたらコンセントが抜けてるのかあ、と思って裏側見たりするけど、木立さんとか林さんの世代って、テレビが消えたりするとまず叩きますよね。面白いなあ、と思って」
「叩かないよ」
「さっき叩いてましたって。もう忘れたんですか」
 そう言って笑う中村くんに、木立は一瞬、カッとしたのだが次の瞬間には身体の力がすっと抜けてしまい、中村くんには何を言っても無駄なのだと思った。そして、もうこいつとは話さないという気持ちを確かめるように強くテレビのコンセントを差し込んだのだった。(続く)

『アフリカ』を続けて(6)

下窪俊哉

 先日、1週間ほど、「活字の断食」をやっていた。その期間は一切本を読まず、新聞や雑誌も見ず、SNSからも離れ、インターネット・ニュースも見ない。初めてやった時には多少の怖さがあったが、いまは「やれば、スッキリする」ことを知っているので、やろう! と決めたら、少しワクワクする。
 普段からあまり読まない人がやっても意味ないだろうが、自分のように、いつだって何かしら読んでいるような人がやるから効果がある。「読む」以外のことはいつも通りなのだ。「聴く」はもちろん「書く」もじゃんじゃんやってよい。
 ただ例外として、メールのやりとりをして送られてきたものを読むのはよし、日々の仕事に支障が出るから。原稿を読むのもOK、原稿は「取り組む」ものだから(というのは屁理屈かもしれないが)。
 その「活字の断食」を始めて数日すると、いま世の中で何が起きているのか、さっぱりわからないという気分になる。こうなるのは、いとも簡単なことなのだ、と思った。SNSがないせいだろうか、ニュースを見ていないせいだろうか、とても静かだ。
 テレビは10年前に捨てた。ラジオはいつものように聴いているが、音楽番組が中心で、その合間にラジオ局が伝えてくるニュースの情報量はとても少ない、というより音でそれを取り入れる習慣をこちらがなくしてしまっているのかもしれない。と思いながら聴いていると、詳しい情報はホームページを見てくださいなどと言う。
 本はどうかというと、たとえば手元に長く置いてあるような本は、もうそのページを開かなくても、いつでも読んでいるような気がするから不思議だ。

 本や雑誌をつくる編集の仕事にもいろいろなことがあると思うが、『アフリカ』編集人の仕事は、まずは何をさておき「読む」ことである。
 どうやって読むか? まずは送られてきた原稿をただ読むのだが、いまはメールで、データで送られてくることばかりなので、それを手元にある適当なフォーマットに流し込んで、プリントして読む。パソコンやスマホの画面で読むことをしないのは、なぜだろう? つくるものが紙の、印刷物だからかもしれない。あるいは、紙にインクを染み込ませて読まなければ、何かしらの力が出ないと感じているところもあるかもしれない。
 とにかくそれをまず読む。最初は通しで読んでみて、唸ったり、笑ったりする。それからまた読む。今度は鉛筆を持ち、メモをとったり、線を引いたりしながら。そこには「考える」という行為が入り込んできている。満足するまでくり返し読む(長い原稿だとくり返しの回数は落ちるが、それでも部分的には何度も何度も読み返している)。それから、書き手に返信のメールを書く。
 自分の中の「読む」も一定してはいない。いまはよく読めると感じる時もあれば、まったく読めないと感じる時もある。常に揺れている。揺れが大きい時はしんどいが、頑張って読んでいると読めてくることがあるから諦めずに読む。読み終えて、しばらくたってから再び読むと、そこに以前とは違う風景が立ち上がっているというふうなことも、本を読む人にはよくあることだろう。『アフリカ』の編集人が最初に読むのは書きたてホヤホヤの原稿である場合が多いので尚更、その最初に読むという行為の中にしかないものが、ありありと感じられる。熟成されていない、生に近い状態で、整えられてすらいない。
「どう読んだか?」を書くことは、「読む」を深めているような気がする。書かなければ読めなかったような要素すら出てくる。しかし「書くために読む」ようにばかりなると、それはそれで奇妙なことになりそうだ。「読む」と「書く」はいつも、行きつ戻りつしている。

 今回、「活字の断食」をやっている期間中、ある人たちと行った座談会の原稿に取り組んでいた。たまたま「断食」初日の朝に、メールで送られてきたのだった。
 その人たちが言う「ZINE」という呼称に、いまだ自分は慣れないのだが、彼らは自然とそのことばを使う。いまは「ZINE」をつくる人たちがたくさん出てきていて、『アフリカ』や私のやってきたことは先駆的だというふうなことも言われている。そう言われて嬉しくないわけではないが、奇妙な感じも受ける。だって、自分にも先達はいて、ミニコミは今も昔も変わらずたくさんあるように見えるし、文学をやる人たちが自分たちで雑誌をつくる文化だって、ずっと前からあったのだから。
 考えてみれば、SNSの隆盛によって、以前からあったその文化が多くの人たちに知られるようになったという側面もあるだろう。知らなかっただけでしょう、と。しかし一方で、この数十年、作家とはコンテスト(新人賞)によって生まれるものだという認識がひろまりすぎたという側面もあるのではないか。
 この数年、文章教室や読書会などのワークショップをやっていて、いろんな人が来てくれるが、その中には「書くからには新人賞をとってデビューしなければ」といった話をする人も時折いらっしゃるのだ。書いているものがあって、応募するのは自由だからやればいいと思うが、「新人賞をとれなければ書き続けられない」というのはどういうこと? という話をしたこともある。

 25年くらい前、『ラジオ英会話』のテキストで、青山南さんの連載を毎月楽しみに読んでいた。それは後に『アメリカ短編小説興亡史〜とめどもなくあらわれるアメリカの短編小説をめぐる、めどもなくあられもない断片的詳説』という単行本になり、さらに後年、平凡社ライブラリー『短編小説のアメリカ52講』にもなった文章だが、その中に「プッシュカート賞」(小出版物からのみ選ばれる年間ベスト)をつくった人の話が出てくる。いま、久しぶりに本を出してきて確認したのだが、ビル・ヘンダースンという人で、彼は20代の大半を「一冊の小説を書くため」に費やし、出来上がった小説を出版社に送りまくるが、全て断られてしまう。そこで彼は、もっと良い作品を書いて再挑戦しようというふうにはならず、「太っ腹の伯父さんの協力」を得て、つまり資金援助を受けて自分で出版社をつくり本を出してしまう。初版は2000部で、500部が売れ、残りは「ベッドの下に積み上げた」らしい。
 その後の行動が面白い。さて次は、小説の二作目ではなく、「じぶんの本はじぶんで出せばいい」のだという自分の経験を書いて本にしようと考えた。図書館で調べたら、「エドガー・アラン・ポーもウォルト・ホイットマンもアプトン・シンクレアもジェームズ・ジョイスもアナイス・ニンも、みんな、じぶんの本はじぶんで出しているのがわかった。それはおおいに励みになった」。読んでいると、その姿が自分の若い頃に重なる。
 自分だけでなく「いろいろなひとの体験談も集めよう」「この本もじぶんで出そう」と決めると、彼はアナイス・ニンに手紙を書いた。まずもらえないだろうと考えていたニンの原稿が届いた日の、彼の感動が伝わってくる。「あなたの本は求められています」と書き添えてあったそうだ。いまから約半世紀前の話である。
 ニンが若い頃、「じぶんの本を、文字通り、手作業でつくっていた」話も、青山さんのその連載で初めて知ったのではなかったか。その時、私はまだ10代だった。
 そんなエピソードを読んだ経験に支えられて、やってきたのかもしれないと、いまふり返って思う。

コヨーテとオサムシ

管啓次郎

書かれたことのなかった話を知っていますか
書かれたことのなかった話を知らなければ
この世のことは何もわからない
だがその話はよく聞こえない

書かれたことのなかった話を
いま自分が初めて書くとすると
それはどんなに震えるような経験だろう
文字だってぶるぶる揺れる

その話は語られたことはあるのだ
語りはくりかえし続いてきたのだ
誰が最初に語ったのかはわからないし
そんなことは誰も気にしない

けれども文字にするとき?
書かれてしまえば話としてはいったんおしまい
線を刻んだり記したりした後で
文字が煮えるのを待たなくてはならない

文字が音をたてて騒ぎだし
弾けるようにそこから声が出てくるのを
息をひそめて待つ
ときには目を閉じて

話は声だが文字は沈黙
沈黙をまた熱して
ひゅーひゅーと叫ばせてみたい
そのための文字だ

そのために折角
鳥や亀に学んだのだから
蜜蜂のダンスや
ナマケモノの動きも習ったのだから

そこで早速はじめるなら—
たとえばコヨーテとオサムシの話です
ご先祖たちはやってきて
「まんなかの蟻塚」あたりに住みはじめた

この高原砂漠は太陽の土地
森なく日陰なく
ジリジリと地面が焼かれる
そこい蟻塚が立っている

話を聞かなければすぐにわからなくなる
いろいろなことがわからなくなったから
思いだす必要があった
よく聞くんだ、目を閉じて

いまの子供であるおまえたちだって
オサムシは見たことがあるだろう
今のオサムシだって
昔のオサムシとおなじものなのだ

それが不思議なところだ
不思議だと思わないおまえはバカだ
かれらは百万年前だってほとんどおなじだったのだ
それはどれほどえらいことか

かれらが人間よりえらいということが
わからない人間はバカだ
この世には変わることと
変わらないことがあるのだ

オサムシは乾いた地面をちょこちょこ走る
そうやって春と初夏をすごす
どんどん強くなる太陽のもとで
脚で空を蹴りつつ

地面に割れ目や穴があったら
どんどん潜っていく
知っているだろう、見ただろう
かれらは恐れを知らない

むかしの話をします
あの黒い塩の山にむかう道で
むかしのあるとき
オサムシが一匹

太陽を浴びながら走りまわっていた
日光を苦にしない強い生き物だ
何を求めているのやら
オサムシに必要なものを探しているんだね

そこにコヨーテがひょこひょこと
小走りにやってきた
それがやつらのやり方だ
身についた生き方だ

耳を立て鼻面を地面につけて
首をぐっと低くすると
オサムシにむかってちょちょいと前足を出した
そして「は!」というんだ

「おまえを齧ってやろうかな」
オサムシはただちに頭を地面につけて
とがめるように触角を一本ふりかざし
ありったけの大声でこういった

「待った、待った、ともだちよ!
ちょっと待ってくださいよ!
お慈悲ってことを知らないのかい!
あのね、この下からじつに妙な音が聞こえてくるよ!」

「へん!」というのがコヨーテの答え
「何が聞こえるんだ?」
「しっ! しーっ!」と頭を地面につけたまま
オサムシはいった。「聞いてごらんよ」

そこでコヨーテは一歩下がり
じつに熱心に耳をすました
やがてオサムシは長い安心のため息をついて
身を起こした

「オクウェ!」とコヨーテがいった
知らない言葉なので
意味もわからないので
その通りに書いておく(それが文字の強み)

「いったい何だった?」
「よき魂よ、われらをお守りください」
とオサムシが頭を振りながらいった
「かれらがいってたのが聞こえたよ

この土地で道を汚した者は全員
狩りだし徹底的にこらしめてやるってさ
どうやらそのための
準備に大わらわらしいね」

「わが祖先たちの魂よ!」とコヨーテが叫んだ
「まさに今朝方、道路をうろうろ歩いていてね
あちこち汚しちまった
まずかったかな

おれはずらかろう!」
そういってコヨーテは全速力で逃げていった
オサムシはすっかりうれしくなって
宙返りをしようとしたところ

頭を砂につっこんでしまった
それからやっとの思いで
体を立て直したんだっけ
コヨーテに齧られなくて一安心

こんなふうにしてむかしのオサムシは
食われちまう身をみずから救ったのさ
運命を変えたんだね
地面の下の方たちの力を借りて

また、こうしてオサムシはあの妙な
癖を身につけたというわけだ
頭を砂につっこみながら
両脚で宙を蹴るってやつだね

もがいているみたいだが
そうでもない
あれはやつらの生存ダンスなのさ
手短にいえばそういうこと

このコヨーテとオサムシの話は
ズニの村に伝わる話を
フランク・カッシングが
聞き取って文字にした*

ぼくはこの話を聞いたことがない
そもそもズニの言葉がわからない
英語に変換され文字に記された
何かをおぼろげに了解しただけ

理解は誤解
いろいろなものが紛れ込む
空耳、空目、空想、想像
話は変わる

文字にしたって変わるのだ
それが話の強みです
なぜなら話は捉えようとしているからだ
まるごとの時間と空間を

三十年前のある夕方、ぼくはズニの土地に立ち
斜めからさす夏のオレンジ色の陽光の中
川沿いに燃える緑を目で吸いながら
生き返っていた

そこにコヨーテがやってきた
あのひょうひょうとした足取りで
何かいいもの/ことはないかと
土地を探っていたんだね

コヨーテはぼくに気づき
そこにすわって大あくびをした
犬とまったく変わらないな
少しすると行ってしまった

でかすぎて齧るわけにもいかないし
何かくれそうにもないし
言葉も通じないと
あきらめたんだろう

それがズニの土地の思い出
話したことも書いたこともなかった
ただ文字という貝殻を
寄せ集めるようにして今これを記す

手短にいうと
そういうこと

*“The Coyote and the Beetle” in Frank Hamilton Cushing, Zuñi Folk Tales (1901).

優しい地獄(上)

イリナ・グリゴレ

5歳の娘は寝る前にダンテ・アリギエーリの地獄の話を聞いてこう言った、「でも、今は優しい地獄もある、好きなものを買えるし好きなもの食べられる」。彼女が資本主義の皮肉を5歳という歳で口にしたことにびっくりした。それは確かに「優しい地獄」と呼べるかもしれない。彼女の言葉が私の中に何日も響いた。この文書を書く時も、彼女は隣の席に座って、スーパーで買った蜜柑の皮を細かく剥いて美味しそうに食べている。

次女も皮を剥き始めて、細かい皮のかけらをテーブルの下に普通に捨てている。彼女の感覚が現代人から少し離れているからなのだ。いくらマナーを教えても3歳の子供は現代人と呼べないところがある。3ヶ月ほど前の休日に、娘たちを森に連れて行くというと、次女は大喜びして、車に乗った瞬間に2分ごと「森についた?」と聞く。森までは40分かかると言っても、まだ町の中で信号待ちをしていても、「ママ、ここは森?」と聞くのだ。私は娘に教えた。「ここはジャングルだよ。人間の作ったジャングルだよ、町ともいう」というと納得した。ジャングルという新しい言葉の音に納得しただけかもしれないが、しばらく森についたかどうか聞かなくなった。

車が森に近づいていくと、山の中で夏の激しい雨が降り始めた。東北の夏によくあるパターンだ。朝の晴れが夢のように感じる夏の雨、冬の吹雪が起きる不思議な天気に未だに慣れない。雨の中をしばらく進むが、この天気だと森の中のハイキングが非常に難しいと判断して、家に帰ることに。次女がちょうど15回目の「ママ、森はどこ?」と言ったあたりだったと思う。山から降りて、町の入り口のコンビニでトイレ休憩しようと駐車すると、次女は「森についた!」と大喜びだ。コンビニと森の違いを説明しても通じないと思いそのままにした。彼女は嬉しそうに森の実、グミとおにぎりを収穫した。ママはフライドチッキン狩りをして車に戻った。長女のいう「優しい地獄」ではなんでも食べられる、優しさに溢れた森なのだ。遺伝子組み換えのアメリカ産のとうもろこしでできている森だ。

私が子供だったとき、本物の森のキノコと野イチゴを食べていたが、誰も測ってないチェルノブイリの放射能がきっとたっぷり掛かっていたので、ここ最近、無農薬とオーガニックの食材を手に入れるのをやめ、地球の空気に触れること自体から考え直すことにした。それはそうだ。蜜柑の種を植えてもミカンにならないし、大事に育てても、大きな植木を植え替えても、実になったとしても、農家で大事に育った蜜柑の味にならない。だから農薬がかかっていても食べる。りんご農家の女性を一年以上調査した。40回以上りんごに薬がかかっても彼女の畑で取れたりんごはこの世のものと思われないぐらい美味しい。人間と自然の対立ではなく、彼女のりんごの木に対しての優しさをずっとカメラに収めて、人間も自然の一部だとよくわかった。木も人間社会もコンビニのおにぎりも近代の産物なのだ。なので、次女がコンビニは森だと思うことも間違ってないかもしれない。未来の森にはコンビニの中でしか出会わない可能性が高いから。綺麗な空気を吸うためコンビニの森に行こうというC Mが目に浮かぶ。空気が大手企業の資本になるから、渋谷の大きなスクリーンに先ほどの家族の休日の過ごし方がきっとC Mとして流れる。

でも、そんな未来があるとしたら、もう一つの「優しい地獄」からも解放されたい。それは私から見た女性の身体で生まれる「優しい地獄」である。もし性別を選ぶボタンがあったら、私は迷いなく「男」という「ブルー」のボタンを選ぶ。その時も女の子はピンク、男の子はブルーが色で区別がまだあるだろう。ここ一年前から、自分は「男になりたい」想いが強くなっている。ある日、女性の服より男の服が好きだと感じた。ジャージ姿、ラッパーのような格好が一番お気に入り。運転するときも、酒を飲む時も男の仕草を真似する。ある日、どうしてもトイレに行きたくなって、知らないレストランの駐車場に車をとめて急いでトイレに入った。壁は濃い緑、ほぼ青だったことと、トイレに入ってから私の後に入った人がした音が、身体の大きさなどと動きがどう考えても女性ではないことがわかった。一瞬だけ私の脳が味わったことのない混乱を感じた。もしかしたら、私は今、男性用のトイレに入っている。でも、混乱は男性用トイレに入っているせいではなく、一瞬、男性、女性と何か分からなくなったからだった。その時、粘菌の気持ちがわかった。植物でもない動物でもない性別もない生き物になった。そしてすごく開放感を覚えた。後に入った人が出るまで待って、(そっちの方がびっくりするだろうと思った)外に出たら、ドアに青い男性の姿が描いてあった。それでも私の勘がおかしくなったと信じることができなくて、赤い女性の姿が描いてあったドアを開けて、明るいピンク色の女性用トイレの眩しさに触れ、て事実を受け止めた。

なぜ、男性になりたいのか。それはこの人間社会では男性の方が楽だからと私の身体が感じ取ったからかもしれない。子供を産むこと以外、この身体で生まれたてよかったと思うことが一度もない。私の身体の個人史を繰り返しても、授業のためにここ最近様々な女性の個人史を聞く機会があったが、私も含めて明るい笑顔の裏に差別、たまに暴力、いじめの歴史が隠れている。もちろん、男性からの差別だけではなく、女性からの差別といじめもある。でも男性だったら、なんて楽と私のミラーニューロンが反射し、男の服を通販で買う。高級和食レストランのカウンターで働いていた友達が「女の作る刺身が美味しくない」とお客さんから言われた話を聞くと、女性の作る刺身と男性が作る刺身の違いがわかるあのお客さんの舌が社会の作った味にどうしてこんなに敏感になったのかと考えるとこの世の料理が不味く感じる。

考えてみると、子供の時に自分は男の子のように髪の毛を短く切られて、ジャージ姿の毎日だったと思う。自分の「女性性」を意識したのは、電車の線路に縛って子猫を殺すことで村の中で有名だった同じ歳のヤンキーな男の子が、混雑していたパンを買う行列で後ろから私のお尻を触って、人混みの中で変な動きをしたことにびっくりしすぎて気絶した時だった。その時に私の身体が彼と違うことが初めてわかった。14歳ごろにはもう女の子の姿をしていただろう。髪も伸びていたしスカートが履けるようになった。村の端っこに住んでいたジプシーの一人の若い男が刑務所から出たばっかりの時だったが、私をみた瞬間に気に入ったようで、私を誘拐しようとした。村で誘拐されていた女の子がすでに何人かいたから危ないところだった。さいわい他の村の若者に守られて無事に家に戻ったが、夜になるといつ襲われるのかわからないので、枕の下に家で一番大きな包丁を置いて寝た。次の日に街に戻ってから、何ヶ月も村に戻ることができなかった。あの日も私はただただ女性だから危ないということがわかった。つまり女性はいつでも誘拐されることが私の世界にはあるし、隣の村の従姉妹が複数の男性にレイプされたことも彼女が女性だったから。もちろん若い男性も危ない時はあるけど、「女の子だから危ない」という口癖がよく聞こえた気がする。だから、子供の時から女の子でいることが大嫌いだった。

それに、ルーマニアでは家庭内暴力が普通にあった。家族の二つに一つでD Vが行われていたという。私の家族もそうだったし、小中学校のクラスの半分の家族もきっとそうだった。中学校の化学の先生もたまに左目が真っ黒になっていて、サングラスをかけて授業していた。そのせいで授業の内容に全く集中できなかった。私は医師になる夢を諦めた。化学の勉強は無駄だと思ったから。女性として医師になっても何も変わらないかもしれない。今は諦めてないけど。私の家族の中では、女性として(男性でも)博士課程まで上がるのは先祖代々私だけなのだ。この遺伝子の組み合せで博士号を持つ可能性が私だけだと思うと、女性男性関係なくなににでもなれると少し希望が湧く。それでも、ここまできても「子育てしながら博論は書けない」と言われたり、ある大学の面接で「子育てしながら仕事できる?」と聞かれたりすると、私の今まで頑張った遺伝子が落ち込む。女性だから聞かれるのか。

中学生の時、美術の授業中に突然先生は私をクラスの前に出し、横顔が「女性性に溢れてボッティチェッリのヴィーナスにそっくり」だからと言って、座らせてデッサンのモデルにされたことが大嫌いだった。その時は私の「持っている」ピークだっただろうが、高校生になってから現在までできるだけその「女性性」を隠そうとした。

アッバス・キャロスタミ監督のTenをみて、驚いた。キャロスタミがここまで女性の気持ちが分かるなんて。主人公の7歳の息子以外、男性は一人も出ない。彼女はずっと車を運転し、息子を含めて10回分の会話を重ねた結果、彼女の世界観、女性として、母親として、妻としての立場が分かる。半分ドキュメンタリー、半分Mania Akbariというメインキャラクターの人生そのまま。彼女の息子もイラン社会の男性そのものの代表に育っていて、母親の自由を激しく批判しているのだ。元夫は道路の向こうの遠くに止まった車からほとんど見えないし声が聞こえない、距離感。彼女の人生とはテヘランという街の中のノイズと激しい交通の中の目眩するドライブだ。離婚、再婚、子育て、お祈りと愛のかけらが彼女の車から溢れて世界に飛び出すのだが、Mania Akbari自身のサングラスをかけて運転する姿が、女でもない男でもないニュートラルな平地にたどり着いた綺麗な生き物に見えた。彼女はそのあとは映画監督になって、30歳で癌になって自ら自分の身体にカメラを向けた。この感覚が私の今の感覚に近いと思った。彼女は息子に「私は誰ものものでもない」と一生懸命教えている言葉が耳に残った。

ある日突然、長女は「男に産まれたらサトルという名前にして」と言った。子供はまだこれから生まれる可能性を信じているのか。その日に鯵ヶ沢の「加藤鮮魚店」というお気にいりの魚屋さんから深浦産のマグロの真赤な刺身を買って、自分で漬けた庭のラズベリー酒を飲んで食べた。赤と赤のコンビネーションが合う。あの刺身が男か女に作られたかどうか全くわからなかったけど、相変わらず美味かった。友達が話す和食屋のカウンターで働いた時の経験。生理になってもトイレに行かれないので、足に流れる赤い線を見て、女性として生きることには本当に大変な時があると思った。こうした話を集めて残したい。もう一つの赤を思い出した。次女が生まれたとき、出血がすごくて意識を失った。血圧は下がりすぎてとても寒かった。死ぬ時はとても寒いのだと覚った。異常を知らせる機械のアラート音で耳が痛くなった、やっと落ち着いた時に目が覚めた。血だらけになっていた床を見た。男性の産科医は冷静に血を拭いていた。不思議な背景だと思った。命がここから始まるのだが、それでもこのお腹は私の「自由」を奪わない。

しもた屋之噺(238)

杉山洋一

見上げると、澄み切った青空に一本、太く純白の飛行機雲がどこまでも伸びています。深秋の午後の太陽が辺りをすっかり黄金色に染め上げていて、秋は日差しこそ短いけれども、輝きの荘厳さに思わず言葉を失います。庭の向こうの眩い光線のなかで、校庭に並ぶ常葉樹がちらちらそよぐ風に葉をくゆらして、反射する光でわれわれを存分に愉しませてくれるのです。

11月某日 ミラノ自宅
ふと、自分は現代音楽や前衛音楽を、さして好きではないのだろうと考える。至極、素朴な感想ながら的を得ている気がする。
確かに昔は好きだったが、それは当時の前衛音楽が好きだったのであって、取り立てて「現代音楽」に熱中したのではなかった。
尤も、興味を覚える現代作品を見出すと、かかる作品は既に存在していて、追随はいけないし必要もないと無意識に諦める癖がついていて、夢がない。
エマヌエラの室内楽レッスンのため、階下で息子がベートーヴェン4番のヴァイオリンソナタを譜読みしている。これが終わると、次はシューマンの1番ソナタが課題だという。
川口さんの助言で、「山への別れ」の5オクターブ・フォルテピアノ版をつくる。モーツァルトの頃使われていた楽器の標準で、所謂フォルテピアノらしい音がする。

11月某日 ミラノ自宅
息子のため、カヴァッリ「カリスト」の天井桟敷チケットを取ってあったのだが、アレルギーで咳こむのが心配と言うので、結局家人と連立って二人でスカラ観劇にでかけたが、これが音楽演出ともに出色の素晴らしさだった。これほど瑞々しい音楽で、上品で愉快な演出だとは想像もしていなかった。
観劇の妙が全て詰め込まれていて、カヴァッリには脱帽である。歌心と言い、物語の展開の塩梅と言い、あれだけ様々な要素を取り込みながら、再終幕で聴き手の心にすっと染み入るところにも、深く感銘を受けた。
仰々しい演出ではなく、社会的距離も鑑みて熟考された演目と演出のはずだが、全体を見通す統一感と言い気品と言い、数年前の「子供と魔法」に匹敵する。
終演後、マンカ夫妻と再会して、ランツァ駅まで徒歩で見送る。パオラに会ったのは久しぶりだが、全く印象が変わらない。随分昔、初めて彼女に会ったときは、まだ共産党新聞「ウニタ」紙の編集部に務めていた。今は国際紙「メトロ」編集局長だが、以前ほど忙しくない分、ジャーナリストとして世界各地の「Metoo」運動を追っていて、結局すごく忙しいのよと笑った。
中国で「Metoo」運動を活発に行う女性人権団体があるなんて、信じられないでしょう。わたしも、半信半疑だったのよ。報道規制とかあるから。でもね、彼女たちの運動は弾圧を受けずにしっかり活動出来ているの。不思議よね。どういう経緯かよく分からないのだけれど。日本の「Metoo」運動はあんまりぱっとしないわね。

11月某日 ミラノ自宅
正午前、居間のガラス窓に何かがぶつかった音がして、庭を見ると、小さな小鳥が死んでいた。美しい橙色で目は静かに閉じられていた。これで今年は三羽目なのだが、一体どうしたのだろう。今までは5年に一羽程度庭で鳥が行き倒れているのを見つけただけだが、今年は立て続けにに三羽、同じ時間帯に同じようにガラス窓に激突して死んでしまった。
決まって晴天の正午前だから、あの時刻だとガラス窓には庭の樹が反射して、或る角度から何某か錯覚を起こさせるのか、さもなければ、巷で騒がれているように、何某か化学薬品に神経が侵されてしまっていたのか。
余りに美しい小鳥で、そっと持ち上げると、三和土に髄液の染みが残っていた。窓ガラスの当たった箇所には少し跡が残っていて、何となくそれを拭う気にもまだならない。三羽並んで庭の奥の樹の下に穴を掘って埋めてやった。リスが掘起こしたりしないだろうが、カラスやトンビにつつかれるのは忍びなく、少し深めに穴を掘る。

11月某日 ミラノ自宅
長年、夢だとばかり思っていた光景がある。小学生の頃、父と連立って下北半島に出かけた折、ふと人気のない駅に途中下車した。広い一本道と、どことなく靄がかった不透明な街の印象は、恐山を訪ねた帰途だったからか。愕くべきことに、道すがら目に入って来る商店の屋号が、どれも自分と同じ名字ばかりで目を疑った。どこか異次元に迷い込んだのかしら、と妙な心地になった。あれは夢だったのかと調べてみたところ、静岡ばかりと思い込んでいた「杉山」姓は、下北半島の一部に、限定的に密集していると知った。あの非現実的な光景は、恐らく夢ではなかったのだろう。一体どうしてあの街にふらりと降立ったのか、殆ど人気がなかったのは何故なのか、わからない。父に尋ねてみても、恐山の印象こそ鮮明なのに、あの不思議な街について一切記憶がないのは何故なのか、ちょっと解せない。

11月某日 ミラノ自宅
トルストイ通り角の喫茶店で、メルセデスとカルロッタと再会を祝った。近所に住んでいながら、コロナ禍にあって実際に会うのは2年ぶりで、最初メルセデスはこちらに気が付かなかったほどだ。こちらはマスクで顔が半分隠れていたし、自分の眼鏡もマスクで曇っていたからだと笑った。
2年ぶりに見るメルセデスは、思いの外こざっぱりした印象で、足を骨折して随分痩せていた。ミラノ工科大で教授陣を纏めるカルロッタは、一昔前と違って、現在工科大に籍を置く中国人学生は、誰もが実に優秀だと褒めそやした。イタリア人学生の三倍は勉強も出来て、努力も惜しまず、研究授業は全て英語ながら、言葉もとても流暢だという。
中国からオンラインで参加している学生は、時差で講義は深夜に及ぶので、最後には疲れ果て、先生もう寝ます、と退室することもままあるそうだが、以前のような、卒業証書を得るためともかく学校に籍を置くだけ、という不遜な態度とまるで違って、とても教え甲斐もあるそうだ。カルロッタ曰く、現在では、国内で相当優秀な成績を修めなければ、ミラノ工科大の入学推薦も受けられないのだろう。

11月某日 ミラノ自宅
家人は朝4時にタクシーに乗り込み、日本へ向かった。朝、一人で散歩に行き戻ってくると、息子の寝室の窓をリスが尾で叩いていて、バンバンという、あまりに大きな音に吃驚する。リスは啼き声もガラガラで烏のようだし、躰に似合わず派手に窓を叩くし、侮れない。
朝10時から夜8時半まで、ズームにてオンラインの3時間授業を三つ。息子は朝6時からオンラインで授業を受けていて、食事は別々に摂る。
こうした日に無難なのは、前日に野菜をくったりと煮込んでトマトソースのパスタを作り、夜寝る前にカレーのルーを足してカレーソースにし、朝起きたときに米を炊いて、各自空いた時間にカレーライスを食べる。こちらの昼休みと休憩時間を使って、息子はピアノを練習している。
この時期はポロ葱が旨いので、他の野菜と一緒にポロ葱をふんだんに入れて煮込む。肉の代わりにツナ缶でコクを出す。パスタとして出すときは、古く乾いたパルメザンチーズの端を割って、ソースと一緒にしばらく煮込む。乳児の歯固めに、イタリアではこのパルメザンチーズの端を使うのだけれど、とろけるまで煮込んで料理に使うのは、ささやかな冬の贅沢。

11月某日 ミラノ自宅
イタリアの感染状況は未だ安定しているが、ドイツとスロベニアを初め、近隣各国で状況はすっかり逼迫しており、ここも最早風前の灯だったが、今朝、新聞を開くと、遂に感染状況の悪化は確実となった、と書いてある。
またか、と腰から力が抜け、足が砂のように崩れてゆく。ワクチンの効果が本当にあるのか、これから真価がわかるのだろう。イタリアの感染拡大は岐路に立たされている。
東京の母が、息子にクリスマスカードを送ろうとしたところ、イタリア行の航空郵便は取り扱っていない、と郵便局で断られたそうだ。
アリタリア航空が破綻し、イータ航空も日本には飛んでいないからか、信じられない事態に驚く。仕事ならDHL便など使うところだろうが、現在、日本に端書きを投函しても、船便でしか届かないなど、俄かには信じ難い状況だ。
週末息子が国立音楽院に出かけると、決まって、帰宅時にワクチン反対派、グリーンパス反対派のデモに遭遇する。当初は単にワクチン接種に抗議していたのが、グリーンパス、牽いてはスーパーグリーンパス導入が話題に上るようになり、ワクチン接種者であっても、人権無視に反対して、デモに参加する人々も現れた。
国立音楽院は、デモが開始されるフォンターナ広場の裏手にあって、しばしば道路も封鎖され、路面電車も止まる。新聞を開けば、ワクチンとグリーンパスに対する抗議運動とワクチン3回目接種の話題は、決まって大きく取りあげられている。
毎朝、トルストイ通り角のキオスクで新聞を買うのだが、売り子のシモーナからも3回目接種の予約はしたかと尋ねられた。今週から、40代以上の3回目接種予約が始まったからだ。
少しずつ感染が広がっているのは感じていたし、2回目接種後半年で効果が落ちるとニュースで喧伝している。1月の半ばすぎると、仕事の合間に接種をうまく差し込めないと思い、結局1月初旬に予約を入れた。

11月某日 ミラノ自宅
市立音楽院にて日がな一日レッスン。指揮にあたって、エネルギーを収斂させる点を具体的に示すことで、案外うまくいくことがある。
学生の前に座って、こちらにエネルギーを投げるよう指揮しろと伝えて、常にこちらの目を凝視しながら振らせることで、自らの殻に閉じ籠るのを防ぐ。
面白いもので、自らの裡の安全地帯に意識が戻り、神経の扉が閉ざされると、目の前で演奏している音は魔法のように聴こえなくなり、どんなに頑張って振っても演奏者に何も伝わらなくなる。
その構造が可視化できるようになったので、正しく振るより寧ろ、自らを常に安全地帯の外に身を置かせ、そこに留まらせる勇気と自らに対する信頼を養う。
とどのつまり、幾ら技術を教えても、自分の外に出なければ指揮はできないが、技術などなくとも、自分の殻の外に自らを置き、感情の起伏や呼吸を演奏者と共有できていれば、技術不足などあまり問題にならないと思う。

そんなことをつらつら思いつつ夕方も終わり近くになった時、ピアノを弾いていたMが突然さめざめと泣きだしたので、我々一同すっかり驚いてしまった。
取敢えず休憩にしたところ、彼女はどこかへ出て行き30分しても戻ってくる様子がなかった。
仕方がないので、こちらも下手なピアノで演奏に参加しつつ次のレッスンを始め、隣の部屋で室内楽のレッスンしていたマリアにMを探しに行ってもらう。普段ローマに住んでいるマリアは、ミラノに来るとき、時々Mの家に厄介になっているのを知っていたからだ。
暫くして、泣きはらしたMを連れてマリアが教室に戻ってきた。恐る恐る残り3コマのレッスンを終えると、できるだけ急いでMを帰宅させた。
その後でマリアに詳細を尋ねると、彼女が泣き出したその時、国会でワクチン未接種者の行動制限法案が可決していたと知った。
彼女の家族に不幸があったか、個人的な事情で大問題が持ち上がったか心配していたので、肩透かしを喰らった気分だったが、それはあくまでもこちらの視点であって、彼女がワクチンとグリーンパスに熱心に反対しているとは知らなかった。
彼女がワクチン未接種で、48時間ごとにPCR検査の陰性証明を提出してグリーンパスを更新しているのは知っていたが、持病のためと聞いていたし、彼女の婚約者もワクチン接種済みだから、彼女が反対しているとは想像もしていなかった。
12月からはPCR検査陰性証明だけでは仕事も出来ず、教壇にも立てなくなる。基本的人権が守られない、と彼女は戦っていた。
フェースブックをやらないのでわからないが、SNS上で或いは彼女の意見も詳らかにしていたのかもしれない。いずれにせよ、正に青天の霹靂であった。胸襟を開いて長年色々と話してきたし、とても信頼しているけれど、ワクチンやグリーンパス導入について、深く掘下げて話したことはなかった。
このように、特定の状況下でなければ意見を交わせない、決定的な溝が社会を分断していることに唖然とした。
我々素人に正答はわからないし、専門家でもそれは同じではないか。ワクチン接種者であっても、すべて躰に良いことばかりと信じる人がどれだけいるのか。ワクチン未接種者であれ、ワクチンが全て悪とばかり妄信しているわけでもないだろう。
実際、身体的事情で打てない人もいるし、別の同僚のピアニストのYもアトピーが酷くアレルギー反応が危険視され、病院に一日入院して、治療を受けながら接種したそうだ。
ワクチンやグリーンパスの反対派は、イタリアでは確かに少数派に違いないが、国内全体で鑑みれば、その人数は無視できるような数字ではないはずだ。
ワクチンを推奨し始めたときから、そしてワクチンパスポートが話題に上りはじめたころから、人権が失われる危険は盛んに話し合われてきた。
一年も経たずにワクチンは義務化され、ワクチンパスポート、つまりグリーンパスも義務化されてしまった。友人同士であっても、宗教や政治のように、無神経に口にするのも憚られる風潮になってしまった。我々はどこへ向かおうとしているのか。何を信じればよいのか。

11月某日 ミラノ自宅
世界保健機関が、警戒すべき新変異種として、南アフリカで確認されたオミクロン株を指定。オミクロンは大規模な変異を含む。
作曲中の「揺籃歌」は、インドのデルタ株までで筆を置くつもりだったが、知ってしまった以上オミクロン株を含めるべきか考える。未だこれが脅威なのか判然としないが、それも含めて何某かは考えるべきだろう。しかし間に合うのだろうか。従来のワクチンの効力が疑問視される、とある。

11月某日 ミラノ自宅
モザンビーク、南アフリカと往来していた男性が、ミラノ空港にてイタリアで初のオミクロン株陽性者と確認。「ワクチンのお陰で、症状は至って軽い」と、本人の談話が湿っぽくないのが良い。ナポリ在住で同居中の家族も経過を確認中だという。現在のところ、オミクロン株の感染者の症状は軽快。日本は外国人入国を1カ月間中止と発表。
母より、自宅で、一風変わったブロッコリーが生ったと聞く。初めて食べてみたがこれがなかなか美味しいそうだ。形状を言葉で説明してくれたが、どうも要領を得ないので、写真を送ってもらって調べた。日本のサカタ社が作った「Bimi」という新種で、イタリアでもこの2年ほど栽培を始めており、味はアスパラガス似で美味、だという。
日本では「茎アスパラガス」として流通していて、スティックセニョールという名前でも呼ばれる。それにしても、Bimiなるイタリア名は、誰がつけたのか。アスパラガスよりも、日本の「菜の花」、イタリアの「Cima di rapa」アブラナの花に近いように見えるが、実際食べたらどうなのだろう。軽く塩ゆでして冷水で締め、オリーブ油とレモンを垂らして、軽くパルメザンチーズをまぶして食してみたい。

11月某日 ミラノ自宅
日本でもオミクロン株陽性者確認。家人曰く、日本に向かおうとしたヨーロッパ演奏家も空港で搭乗拒否に遭ったりして、日本は大騒動だ、とのこと。
イタリアから日本に帰国の場合、政府指定のホテルで6日滞在後、8日間自宅待機が義務付けられている。

(11月30日ミラノにて)

読む日々

高橋悠治

気がつくと ゆっくりになっている からだのかんじ からだのうごき あるくこと かんがえること 気がつくと 朝が昼になり 夕方になり 暗くなっている 時間がすぎるのだけが速くなっている これが年齢ということか

待っていると思いつく そこでうごくと 次にすることができる はずだった その次につながらないで うごきの途中で止まってしまうことさえあるのは どうしたことか

コロナについて言われているさまざまな意見や主張を毎日のように読んでいると 日本のメディアが伝えないニュースがたくさんあることに気づく 英語で読めるサイトでは 中国・カタール・イラン・キューバのメディアがある ロシアの英語サイトは アメリカに住んでいるアメリカ人のジャーナリストがアメリカでは書いても どこにも載せられない意見を個人のサイトから転載している記事がある ツイッターで書けば たちまち削除され口座が閉鎖されてしまう ロシアの英語報道に転載されるが おなじロシアの報道でも 日本語のものには載らない それを見ると アメリカ・イギリス・日本のメディアは いまの政府や経済のなかでは 検閲され資金源を押さえられていて 反政府の言論の自由はもうなく メールもおそらく検閲されていることが なんとなく伝わってくる 日本のことについては 韓国のメディアが現実的かもしれない これも政権が変わるとどうなるかわからない イランのニュースは一時アメリカが閉鎖していた ニューヨーク・タイムズやガーディアンやル・モンドといった欧米のジャーナリズムも いまや政権の代弁機関になっているようだ 日本のテレビや新聞も とっくに監視されているのだろう いくつかの個人のサイトだけが残っているが 知られていないし無力だから 「民主主義と自由」のために残されているのだろうか

コロナ・ワクチンは免疫系を操作して 感染させやすくするという報道がある もう1,300人も死んでいると言われるが 報道はされない PCR検査も倍率をあげて 偽陽性を増やしているという記事もある 政治だけでなく 科学も信頼できないものになっていく ペストとコロナ 細菌とウィルス 近代は中世とはちがう終わり方をするのだろう