朝、庭の樹の下に胡桃を持ってゆくと、1分も経たずにどこからかリスが降りてきて、白い腹を見せて食べ始めます。午後になってリスが枝の上で体を延ばして日向ぼっこをするさまは、「星の王子さま」の象を呑み込んだウワバミそっくりだと家人と笑い合い、思わず見入ってしまいます。
気が付けば、戦いに没したサン=テグジュペリや、平和を希求する「星の王子さま」に、思いを馳せていましたが、学校へ自転車を走らせながら、以前息子が通っていた小学校の窓に垂れる、大きな虹色の横断幕が目に入りました。そこには、よく見える大きな字で「Sì alla PACE (平和大好き)」と書かれていました。
…
3月某日 羽田行機中
フランクフルトからブダペスト、ブカレストと南下して、現在トルコ、アンカラ北部の海上を飛行中。シノップが一番近い街のようだ。黒海を超えたずっと先に、遠くキエフを臨む。
機内スクリーンの航路図を見ると、ここから北東に進路を取り、一直線に進んだ先に東京がある。ヌルスルタン、ウランバートルとロシアの南を縁取りながら、中国、韓国を超えてゆく。ここから東京までまだ10時間4分。
目が覚めるとルフトハンザ機はエレバンを超えトビリシに向かっている。アルメニアやジョージアの地名で無意識に心が躍るのは、幼少からの民族音楽への憧憬からか。
陸路でカザフスタンやモンゴルを訪ねられたら、どれほど素敵だろうと、ふと思う。
尤も、ロシアのウクライナ侵攻がなければ、この航路を使う機会もなかっただろうが。
ウクライナでは、市民への無差別殺戮が始まり、市民2000人犠牲との報道。
学校でピアノ伴奏を担当しているマルコの奥さんはポーランド人で、ロシアのウクライナ侵攻後とても神経質になっている。
ポーランドの家族をいつイタリアに呼ぶか話し合っている最中だそうだが、「妻と同じスラブ系の顔立ちの市民が、戦禍で路頭に迷う姿を見るのは忍びない。彼らは妻と同じ顔をしていて、未だ乳児の娘ともそっくりの顔立ちだ。筆舌に尽くし難い衝撃だよ」。
3月某日 三軒茶屋自宅
思い立って午後、町田へ両親を訪ねる。半世紀続く老舗「ロッセ」で、父はマンデリンを、母はブラジルを、自分にはコスタリカを頼んだ。イタリアでストレートコーヒーを愉しむ機会は殆どないので、日本に帰ると、勢い普段呑めないストレートばかり注文する。二人とも元気そうで安堵。
4年前、学校で聴覚訓練を教えたウクライナ出身のコントラバス奏者、ジノヴィが気になって連絡をとる。童顔のジノヴィ・シュクランは、当時、高校を卒業したばかりで、2週間前にウクライナからミラノに着いたばかりだった。当初はあまりイタリア語も出来なかったが、とても優秀ですらすらと答えていたし、半年教えている間に、イタリア語も他の学生と遜色なくなっていて驚嘆した。
未だ返事はないが、母国に戻って入隊していたらどうしようか、不安に駆られている。
3月某日 三軒茶屋自宅
「断絶のバラード」原曲部分採譜。
世界でロシアの芸術家が排除、罷免されていることについて、どう思うべきなのか分からず、自らに当惑している。
音楽家が排斥されるのは耐え難いが、運動選手の追放は当然で、音楽家は救済すべきという論法は成立するのか。音楽家はそれほど政治と無関係なのか。音楽家が許されるのなら、他の分野での追放運動も考え直してほしい。ともかく、何も政治に関わっていないロシア人芸術家が、否応なしに差別される姿は、到底見ていられない。
3月某日 三軒茶屋自宅
岩波新書、村上陽一郎著『ペスト大流行、ヨーロッパ中世の崩壊』を読む。「1910年代に終熄した最後の大流行に250年を加えると2160年、300年を加えれば2210年である。果たしてそのとき、人類は新たなペストの攻撃を受けるであろうか。それとも内なるペストによって地球はすでに廃墟と化しているであろうか。祈りを捧げるべき神は、何をそこに用意しているであろうか」。1983年早春、の日付。
3月某日 三軒茶屋自宅
ウクライナ南部マリウポリ、小児病院に爆撃。
プレトネフ指揮による東フィルで、スメタナ「我が祖国」を聴く。
決して発音を潰さず、のびやかでしなやかな音を引き出す指揮と、熱量の高いオーケストラは理想的な邂逅で、歴史的な瞬間に立ち会っているのを実感した。
柔らかい指揮ぶりでありながら、掌に音がしっかりと詰まっているので、強音も抜けるように心地良く演奏できる。
目の前にロシア大使館関係者3人が着席していたが、顔に明確な表情は顕れていなかったとおもう。
ロシアが日本を「非友好国」に指定した直後で緊張していたのかもしれないし、最後にバッハのエアーを弾いて、どことなく戦争反対に見えて、不機嫌だったかもしれないし、第一「非友好国」の外交官が、敵国で気軽に笑顔など見せてはいけないのかもしれない。
3月某日 三軒茶屋自宅
ウクライナ市長二人がロシア軍により誘拐との報道。無差別爆撃激化の様相。
今までロシア兵も被害者だと語っていたウクライナ市民も、これだけ戦闘が激化してずっと同じ心持ちでいられるのだろうか。
憎悪が憎悪を倍増させ、心は荒み、或いは自暴自棄にもなるかもしれない。結局戦争はどこでも似たような虚しさに覆われ尽くし、死体が堆く折り重なるばかりなのだ。現代の戦闘だからといって、市民が巻き込まれないわけでも、兵士の殺し合いがなくなるわけでもない。
ジノヴィから返事が届く。1月の国立音楽院オーケストラ演奏会でコントラバスのトップを弾いていたのは、想像通りジノヴィだった。お互いマスクをしていてよく分からなかった。「今こそ、こうしてウクライナ軍を励ます声は本当に掛け替えなく、感謝に堪えません」とある。メッセージの様子では家族をイタリアに呼び寄せたようだ。
Slava Ucraini!と送ると、Gheroiam slavaと返事が届く。
自分が教えた生徒が、若し兵隊になって戦っていたらと思うと、無性に悲しくなった。
何が正しいか自分には分からないが、どんな状況にあっても生延びて欲しいと痛切に願う。自分が教えた学生が戦争に行っていたらと懊悩する日々が、自らにこれほど早く訪れるとは想像もしなかった。続いてジノヴィは、ウクライナ陸軍のために祈ってほしい、と書き送ってきた。血気盛んな年齢でもあり、今後、祖国に戻り、命を捧げようと考えないとも限らない。
侵攻当初、ロシア軍の戦車や戦闘機が破壊される姿を映像で見て、ロシアの兵士がどうなっているのか案じていたが、次第に神経が麻痺してくると、燃え滓となった戦車を見て無意識に安堵する自分に空恐ろしくなる。戦争はただ惨く、人間を、そして人格を荒廃させてゆく。
3月某日 新幹線車内。
妙高高原は一面の雪景色で、地表から湧き立つ靄と相俟って幽玄な風景を織りなす。白妙とは言い得て妙と独言つ。重なり合う無限の白変化。
糸魚川で眼前に開ける日本海に感動し、黒部では、2年前家人と息子が過ごした日々に感慨を覚えつつ、朝靄にむせぶ田園風景に目を凝らす。
あの時は独りミラノで過ごしつつ、家族と再会する日をただ心待ちにしていた。
目の前の雲は、どこまでも低くたちこめている。
3月某日 金沢ホテル
アンサンブル金沢リハーサル。川瀬さんは和声的なアプローチと、映像的、劇的描写のバランスが素晴らしく、何時間とリハーサルを眺めていても飽きることがない。オーケストラも川瀬さんの心の襞に細やかに寄添い共感し、そして共振する。舞台から同心円状に肯定的エネルギーが波立ち、発散されてゆく。演奏家それぞれの矜持なのか、オーケストラの伝統か、飽くなき探求心、好奇心、深い情熱が相俟って、慈しむような時間が滔々と流れてゆく。
床坊さんや北村さんから、これこそ最初に岩城さんが築いた礎だと伺い、心を打たれた。
チェロの植木君との再会は大学卒業以来か。全く変わっていない。当時から背広を着こなす好青年だったが、何十年経ってみても、彼は背広を素敵に着こなす好青年なのだった。
ポーランド、チェコ、スロベニア、EU三カ国の首相、列車でキエフ訪問。スロベニア国境すぐ手前はトリエステやゴリツィアのあるイタリアだ。
3月某日 金沢ホテル
午前一杯続けていたメンデルスゾーンのリハーサルを終え、昼食休憩に入ったところで、ヤングさんの発案で第一ヴァイオリンがパート練習の支度を始めた。随分真面目だと感心していると、やおら拙作の練習が始まったので仰天した。彼らは掛け値なしに、自らの情熱のため音楽をやっている。
メンデルスゾーン、特に4楽章に至っては、川瀬さんは戦地に赴く兵士とその姿に心を痛める妻のシルエットを映し出した。毎日目にする戦禍を反映してか、オーケストラは彼の言葉に、深く、鋭く、そして直截に応えるように見える。それは、或いは無意識だったかもしれないし、各奏者がそれぞれの意識の奥底で何かを想いながら弾いていたのかもしれない。
夜、田中君と3年ぶりの再会を喜ぶ。駅前の割烹で焼「のどぐろ」の蕩ける舌触りを堪能。
目の前に「黙食にご協力下さい」と貼ってあり、殆ど会話せずに食事したところ思いの外早くに食べ終わったので、それはそれで案外便利だと知る。場所を変えて生麩に舌鼓を打ちつつ、聴覚訓練とメタ認知の話。
夜半、家人がほぼ半年ぶりに無事ミラノ帰宅との一報。一気に緊張が解け、力が抜けた。ウクライナ侵攻以来、日欧の航空便状況は益々不安定になり、何度もの変更の末、彼女はウィーン経由になる前の最後のANA便に乗ることができた。
3月某日 金沢ホテル
昨夜は般若さん一家にすっかりご馳走になった。初めて会う、年賀状の写真そのままのお子さんたちの姿に、思わず目を細める。天真爛漫は、そのままで倖せを形容する言葉になると知った。お父さんの真似の大好きな娘さんから、元気一杯走り回って笑顔を振り向く娘さんからは、ご両親を尊敬する姿が自然と伝わってくる。
今日はKさんと連立って、おでんと刺身で昼食。午後は揃って般若さんの工房を訪ねた。家具と音楽は、触覚、聴覚と人間の感覚に訴える部分だけでなく、歴史や時間を裡にしみ込ませるところも似ていて、思いがけぬ相似に膝を打つ。
会場で池辺先生に再会。お元気そうで嬉しい。同門の兄弟弟子を標榜するのは流石に気が引ける。
3月某日 三軒茶屋自宅
朝は自転車でトップに出かけて、コーヒー豆を購う。
息子が、室内楽クラスのため、カスティリオーニの11Danze per la Bella Verenaを譜読み中、と家人より連絡あり。ベートーヴェンの4番、シューマンの1番ソナタの次がカスティリオーニなのは面白いが、高校生の時分からカスティリオーニに親しめる環境は、羨ましい。
久木山さんと一緒に演奏家を集めてカスティリオーニの「マスク」を演奏したのは、高校生活の終わりだったか、大学入学後だったか。パート譜を切り貼りし、移調楽器は手書きして、友人の演奏家たちに些少の交通費と打上げの飲み代で手伝ってもらった記憶が甦ってきて、今更ながら申し訳ない。
息子が二重奏を組むヴァイオリンのサラは、お母さんがファゴット奏者で、学生時代カスティリオーニに作曲を習っていたと言う。家人曰く、息子はカスティリオーニ向きらしい。
3月某日 三軒茶屋自宅
チャップリンの名作は沢山あるが、「独裁者」がどうしても忘れられないのは、有名な演説の場面が心に焼付いて離れないからだ。彼の言葉にも表現にも、戦争を生きた人間だけが知る真実が籠っている。
同じように、言葉のもつ強度を、ゼレンスキーは多分よく理解している。チャップリンは、行方知れずの恋人を想いながらラジオに向かって言葉を紡いだが、ゼレンスキーは、国外の会議にインターネットで参加しながら、たとえ相手が集団であれ、相手の顔を見ながら話しかける。
内容は全く違うけれど、スピーチライターは、チャップリンが演説で訴えかけた、あの言葉の力を信じているのがわかるし、ゼレンスキーもその期待に応えていると思う。
音楽家が政治家になる例は、俳優に比べればずっと少ないが、共通する何かは見出せるのかもしれない。音の持つ強さや、場合によっては恐怖についてすら、我々は十二分に認識している。
3月某日 三軒茶屋自宅
町田の両親宅で使っていたプリンターが壊れたので、結局新調し、設定しなおす。特に、父のコンピュータ設定に時間がかかったので、終電を逃して三軒茶屋に戻れなくなった。仕方なく母の隣に布団を敷いてもらい町田に泊まる。コロナ禍が始まり、両親宅に泊まることも金輪際ないと思っていた。思いがけず母の寝息をぼんやり聴きながら、夜半、感慨に耽る。
ウクライナからイタリアへの難民は、今日の時点で63104人に上る。そのうち32361人が女性で5592人が男性、25151人が未成年だという。イタリアの厚生省初め政府各省庁のインターネットサイトには、ウクライナ難民や受入れ先の情報が多数掲載。
3月某日 ウィーン行機内。
昨晩は会場にて悠治さん美恵さんに再会。「今度また三軒茶屋で食事でもしましょう。もうすぐ月末ですよ、原稿よろしくね」。
離陸後25分程が経過していて、もうすぐ金沢小松空港上空に到達するところ。すばらしい演奏をして下さったアンサンブル金沢のメンバーはまだ東京にいるに違いない。
演奏会前、控室で垣ケ原さんとゼレンスキーの国会演説を聴いた。予想より冷静な印象を受けた。
ピアノの亀井さんの素晴らしさは、敢えて残しておいた最後のパズル一枚を、演奏会ですっと嵌めて披露してくれるところ。
現在飛行機は西安、ウルムチ上空を通過し、タシケント方面に向かっているようだ。
何時か、平和裡に陸路を伝い、新疆ウイグル自治区やキルギス、カザフスタンを再訪できたらどれほど倖せだろう。往路に等しく感慨に耽る。
地図で少し上に目をやれば、ノボシビルスクやチャリャビンスクの地名が目に入る。確かにロシア国境に沿ってぎりぎりまで北上しながら進んでいるのだ。その現実を理解すると、少し緊張する。機長初め乗務員も、我々には思いもかけないさまざまな緊張に晒されているのかもしれない。
ノボシビルスクのもう少し東にある、クラスノヤルスクを最後に訪れたのは4年前だった。人々は変わらず温かく食事も美味で、オーケストラはすばらしかった。いつも満員の聴衆にも驚いた。地元クラスノヤルスクとポーランドの合同オーケストラのために仕事ができたのも、今となっては夢のようだ。弦楽器奏者ばかりで、ロシアとヨーロッパの奏法も違って面白かった。
演奏者たちは最初こそ言葉が通じず多少当惑していたが、一緒に弾くうち直ぐに打ち解けたのにも感激した。彼らは今、どこで何を思いながら生きているのだろう。
一日も早くコロナ禍が落着き、以前の生活に戻れるよう願いつつ暮らしてきたものの、凄惨な報道写真を毎日目にするようになり、それは不可能だと誰もが実感するようになった。我々が日々懊悩する虚しさの根源は、何よりこの事実かもしれない。
現在進行中の世界の紛争はウクライナ侵攻に限らない。確かにウクライナの規模は桁違いだが、どんな戦争も等しく陰惨で、人の心を壊滅させる。
気が付くとトルコ上空を飛行している。黒海の対岸では、この瞬間も、醜い戦争に苛まれる無辜の人々が逃げ惑っている。やり切れない。
3月某日 ミラノ自宅
羽田を出てから25時間かかって、漸くミラノの自宅に着いたのは、深夜0時を回っていた。途中ウィーンで給油のため一度降機し、改めてフランクフルトを目指した。フランクフルト空港の荷物検査は、平時より些か厳しく感じたが、ウクライナの影響なのだろうか。
飛行機が遅れたので日付も変わって息子17歳の誕生日は少しだけ過ぎてしまったが、家族が揃うのを待っていた息子は、誕生日ケーキを食べずに起きて待っていた。コロナ禍に加えて戦争も勃発するなか、二カ月近く一人で暮らしていたので、半年ぶりに家族3人揃ったところで緊張の糸も切れたのか、息子は大人げなく愚図っている。
3月某日 ミラノ自宅
家の掃除を手伝ってくれているウクライナ人のマルタは、ウクライナに住む兄夫婦から15歳の甥と8歳の姪を預かっている。ちょうど彼らの授業のない週末だったので、マルタと一緒にやってきた。
先週だったか、義姉がウクライナから車を運転してイタリアまで彼らを連れてきて、彼女はそのまま直ぐにウクライナへ戻ったと言う。マルタの兄の具合が悪く看病しなければいけないらしい。甥っ子はヴィターリ、姪っ子はヴィクトリアという名で、兄は少しはにかんでいて、妹は闊達な印象を受ける。揃って利発そうな兄妹である。
毎日、彼らは午前中インターネットでウクライナの学校の遠隔授業を受けている。ヴィクトリアはここで算数の宿題をプリントして持って帰った。
マルタは家では彼らと戦争の話は一切しない。15歳のヴィターリはきっと事情も知っているだろうが、彼らも戦争については一言も発さないという。心中察するに余りある。
3月某日 ミラノ自宅
サンドロ宅で日がな一日レッスン後、久しぶりに暫く話し込む。4月半ばから、3年近く中断していたホームコンサートを、少しずつ再開するつもりだという。試しに1回開催してみて様子を見る、とのこと。
「何しろ、件のオミクロン2が最近流行りだしたからね。これからどうなるかわからない。実は昨年秋にウクライナのオデッサに旅行を計画していたのだけれど、ウクライナのワクチン接種率がとても低いと聞いて、取りやめたんだ。そうしたら、戦争が始まってしまった。もう以前の美しいオデッサの姿はなくなってしまった。もう訪れることもままならない。本当に悔しい」。
「その上、ヨーロッパ中に哀れなウクライナ難民が溢れかえっている。彼らの大部分はワクチン未接種に違いない。正直なところ、今後何が起きるか不安なんだ」。
東京から戻った翌々日学校に赴くと、帰伊を喜ぶ同僚に交じり、一人の同僚は「日本の新変異種を持って帰ってきてなければいいけどな」と冷笑を残してエレベーターに乗込んだ。
3月某日 ミラノ自宅
日本では一日の感染者数が微増傾向との報道。今日のイタリアの状況は、新感染者数が73195人、死亡者159人、重症患者数46人増とのこと。一週間平均で言うと、新感染者数は一週間前の1.6%減、陽性率は2.5%減だという。
突然の政府発表により、4月初日からワクチン未接種者の職場復帰が許可されたので、一時的にワクチン反対派の教員分を外部から補填していた音楽院も対応に追われている。
政府は当初、今年上半期のワクチン未接種者職場復帰はないと明言していたので、国全体がそれに併せて采配を下していたはずだ。恐らく国全体が混乱を来しているに違いない。
「自分はコロナ禍前のイタリアの姿が見られて、本当に良かったです」。
レッスン後、コーヒーに誘った浦部君が呟いた言葉がわすれられない。
エミリオからの便り。
「ここ数日、どうにも困憊している。過労には違いないが、何より莫迦げた人間の行ないへの絶望の心緒が原因さ。この世界ときたら、人々の欲望と希望に火を点けるためなら、以前にも増して、どんな痛ましい道具であれ際限なく用意してみせる。それに気が付いてしまったからね。歳を取ったと実感させられるよ。より良い明日など到底見出せぬ現在の哀哭のなかで、生きてゆくことはできない。年長者の愛国-帝国主義的狂気のために、若人が命を落とすなど到底看過できない。
唯一納得し得る「祖国」の概念すら、我々個人がそれぞれ理解し得るものの筈であり、この惑星に於ける「祖国」の意味を、各人がそれぞれに解釈し得るものの筈だ。
どうしてそれを忘れられよう。生命ある上に於いて、我々などせいぜい蝶の羽ばたき一回分相当の時間しか与えられていない、ちっぽけな被造物でしかないことを、どうして忘れられるというのか」。
(3月31日ミラノにて)