輪の外にいて

北村周一

母の名を尋ねられたる夕まぐれ
 盆の踊りの輪の外にいて

親しげに母の名を呼ぶひとのあり
 輪島朝市通りをゆけば

母の名を通りすがりにきかれおり
 真夏のひかり鈍きふるさと

七月のキリコ大祭の夜にして
 杳いきおくにわれをうしなう

八月や能登に口能登あることも
 法師つくつく奥能登へ来よ

艶やかなる漆のいろの重なりも
 匂いもともにふるさと能登の

半島の凸なるところわが生れし
 能登はやさしきひとごろしとも

震度7かかる数字が揺れのこる
 奥能登はいま雪雲の下

千年の夢から醒めて隆起せし
 海岸線にゴジラあらわる

元日や右に左に揺れながら
 待てよどなたかの足音がする

小正月おとこは無口の馬鹿でいいと
 テレビカメラ越しにあなた呟く

半島のどこがわるいというのだろ 
 正月四日のBSフジで

真新しき防災服に身を固め
 ならぶ面々ナチスの如し

あのナチスの手口を真似てひっそりと
 緊急事態条項が待つ

逃げ足のはやい鬼さん忽ちに
 ケンケン跳びに姿くらます

逃げ場所はどこにあるのか志賀町の
 原電はいまどうなってるの?

輪島生まれ清水育ちとしるしおく
 わが身上に裏おもてなし

230 ものの声

藤井貞和

Ash from former lives. 
   灰の前生から。
Ash raises hands, all material phenomena are such.
   灰の手を上げる、物象すべてこれ。
Ash, be ashed away.
   灰、敗走せよ。
Ash is to be adjudged.
   灰を裁け。
Ash’s now.
   灰の今。
Ash’s birsh and death.
   灰の生滅を。
Ash, I accuse you.
   灰よ、問う。
Ash, of the ashed act.
   灰の背信行為を。
Ash’s body all over it.
   灰の全身に。
Ash, bits of paper.
   灰、紙片。
Ash, tales.
   灰、物語。
Ash, after many a years.
   灰、歳月ののち。
Ash takes form.
   灰はかたちを。
Ash’s own self whereof.
   灰のみずから。
Ash-bound axial translation, it is.
   灰への平行移動である。
Ash is no other than naming for the genuine itself.
   灰はじねん(自然)そのものの云いにほかならず。
Ash’beingness is that. 
   灰のあることは。
Ash just being.
   灰のただあること。
Ash having “being”.
   灰は「ある」こと。
Of ash, it’s not even birth or death.
   灰の、それは生滅ですらなく。
Ash’s birthlessness and ash’s deathlessness.
   灰の不生であり、灰の不滅である。

(原作「灰」〈部分、『ピューリファイ!』所収〉を、複数のバージョンののち、「ある」「灰、敗走せよ」「灰、背信行為を」「不生不滅」などに腐心して、かたちがととのえられていった。じねん(自然)はgenuin(じぇぬいん)をそのまま外来語として使った語ではないかと「気づいて」、名詞化してある。安藤昌益は「自(ひとり)然(する)」と書いている。敗走、背信は、日本語の発音を生かしてbe ashed away、of the ashed actとし、不生不滅をbirthlessness、deathlessnessとすることによって、完成に近づいた。多言語社会、インドでの朗読のために、松代尚子さんの翻訳。『ミて42』(2002・12・1)による。こんな試みが『ミて』に数篇、あることを思い出す。)

仙台ネイティブのつぶやき(91)生きているのか死んでいるのか

西大立目祥子

クジラにはもう力がなかった。懸命に尾びれを動かしても、前に進むことができない。ただふわりふわりと波間にたゆたうだけ。呼吸が苦しくなると、潮の流れに乗るようにして水面まで浮き上がりわずかに空気を吸う。ふぅっ。そんなことを何日繰り返したのだろう。日が登り、日が沈む。もう終わりが近いことをクジラは知っていた。さようなら、海。さようなら、空。さようなら、みんな。日を追うごとに月は欠けていく。やがて、海原の向こうにやせて上ってくる月をクジラの眼はとらえられなくなった。水音だけは、かすかに聞こえる。漆黒の闇に閉ざされた新月の夜、クジラの心臓は静かに止まった。

流されるまま海を漂って数日後、分厚い脂肪におおわれた体の奥、腸から腐敗が始まった。腸内の細菌や微生物がみるみる増殖し、メタンガスが体内に充満してクジラの体はパンパンに膨れ上がる。もう張り裂けるほどに。

昨年11月15日の夕刻。車のラジオをつけると、こんなニュースが耳に入ってきた。
「15日朝、宮城県石巻市の沖合で、クジラが定置網に引っかかっているのが見つかりました。クジラは体長10メートルを超え、すでに死んでいると見られ、宮城県などが対応を協議しています。
 クジラが見つかったのは、石巻市にある狐崎漁港の沖合1キロほどの場所で、15日午前6時ごろ、近くで漁をしていた漁業者が定置網に引っかかり、腹を上にした状態で浮いているのを見つけたということです。…腹が膨らんだ状態などからクジラはすでに死んでいるとみられ、死んだあとに流れ着いて網に引っかかったと推測されるということです。…県などが今後の対応を協議しています」(NHKニュース)

「腹が膨らんだ状態」という説明に、反射的に子を持った雌クジラかと思い、一瞬気持ちが陰った。が、それは死後数日が過ぎてガスで体が膨れ上がっているからなのだった。巨体はいとも簡単にくるりとひっくり返り、無惨に白い腹を上にしたまま日を浴び、夜は月に照らされ、沖に流され陸に戻されを繰り返すうち、定置網に動きをはばまれたのだろう。これが砂浜なら、打ち上げられていたはずだ。

ニュースを聞いてから、この海を漂うクジラの姿が胸にとどまり続けた。なぜ?じぶんでもよくわからない。クジラは老いて死ぬのか、病で死ぬのか。若くしても命を落とすクジラはいるのか。アフリカの草原の映像で累々とゾウの骨が風にさらされるように、海にクジラの墓場もあるのだろうか。いま、人は死ぬとさっさと焼かれて埋葬されてしまうけれど、腐敗が進みメタンガスが満ち満ちたクジラの体はどう変化していくのか。その前に表皮を鳥についばまれ、シャチに食われ、海底に沈んでいくのだろうか。生命の起源は海にあるのだから、その死に方は根源的な哺乳類動物の消滅の過程を教えているのだろうと思う。

ガスで膨れ上がったクジラは、極限までくると爆発してしまうという。脂肪も肉も血管も体液も、ものすごい臭いとともに飛び散り、事故にもなりかねない。1年に数回、国内でも浜に打ち上がったクジラが報道されるけれど、爆発に巻き込まれずに処理を進めるにはかなり注意を要するようだ。報道にあった「宮城県で協議」とは、事故に備えつつ処理をどう進めるか検討をするということだろう。

翌日、続報があった。
「昨日、石巻港から沖合14キロほどのところで発見された体長10メートルを超えるクジラ。…このまま放置すると破裂しクジラの油が養殖業に影響することなどから、県は処理方法を検討していましたが、発見場所から東に20キロほど進んだ金華山沖に沈めることを決めました。漁協や捕鯨会社の協力を得て、今日午後から捕鯨船を使って引っ張っていて、到着次第ガスを抜いて、最大1.6トンの重りをつけて海に沈める予定です」(ミヤテレNews)

テレビで小さな捕鯨船に沖へと曳航されるクジラを見た。クジラの白い腹はわきにくっきりと何本もの黒い縞が入り、卵を半割にしたように膨らんでいた。別局では、ガスをナタで抜く、といっていた。
金華山沖の目的に到着した船はエンジンを切り、腹を裂く作業をして砂利を詰めた重りとともにクジラを沈めたはずだ。水の中に引き込まれた巨体はゆるゆる沈んでいき、海底の砂の上に横たわった。そこはどんなところだろう。13年前のあの大津波で流された物も散らばっているのだろうか。

そして、ここから新たな物語が始まっていく。クジラはその体すべてをまわりの生き物たちに分け与える。10年にもわたって。そこには「ホエイルホール」とよばれる生態系が生まれるというのだ。移動しない生物たちが死んだクジラを拠り所に活動を始め、その数を増やしていき、そこには見事な生命の循環が誕生する。
クジラは死んだといえるのだろうか。深海の生き物たちと生きているのではないか。もはや私にはわからなくなっている。

    ◎

地下鉄に乗り込み座ってバッグから読みかけの本を出して開いたとたん、反対側のドアの前に立つ男と目が合った。コートもズボンもリュックもねずみ色。頭の毛はやや後退し、口ひげをたくわえている。よく似ている。数日前、新聞の訃報欄を見て驚いたスペイン料理のオーナーシェフに。なんだ、あの記事は間違っていたんだ。生きているじゃないか。そう思える。いや、そう思い込む。男は同じ駅で降り、足早に歩いてエスカレーターの3人ほど前に立った。やっぱりそうだ。この駅が店の最寄り駅になる。いまから店に出て夜の仕込みにかかるに違いない。鍵は信頼できるバイトの学生が開けているんだ。いや、そんなわけはない。訃報が間違っているわけが…。しかし、でも。地上に出て夕闇に包まれたとたん、男の姿は消えていた。

その店には2回しか行ったことがない。でも2回とも、おいしく楽しく飲んで食べた。すこぶる居心地がよく、いい時間を過ごせたのはどちらも祝宴だったからか。それだけではないような気がする。暗い裏通りの店は間口が1間半くらいしかなかったけれど、クリーム色の壁に大きなフライパンがぶら下がり、ワインのボトルが並んでいて入りたくなるようなガラスのドアが立っていた。入ってみると意外にも奥に深い店内には木のテーブルと籐の椅子が並び、小さなペンダントと壁の間接照明がリズミカルに黄色い光を放っている。何時間でも飲んで食べておしゃべりができそうだった。

2回目に行ったとき、つまりは最後に食事をしたときは7、8人で飲み放題コースを頼んだのだったが、ほぼ満席でシェフはてんてこ舞いだった。メンバーが一人遅れてきたのでコースには入らず急遽、別オーダーにすると、「いやー、もう今日はバイトが急に休んで、俺一人なんだ」とぼやきつつ「いいです、もうみんないっしょで」と話し、厨房からでき上がった料理をみずから次々と運んでくる。途中から、大皿のサービスが大変なのか「悪いけど、仕切りのスクリーン開けさせてもらいますよ」と間仕切りを開け放った。そのやりとりに、今日に限らずいつも必死のいい人なんだな、と直感した。

友人たちと飲みにいく話が出るたび、あのスペイン料理の店に行こうよと話していたので、新聞に店の名を見つけたときは衝撃だった。「スペイン料理店、オーナーシェフ、57歳で急逝いたしました」とあり、妻と思われる女性の名前が記されている。心筋梗塞なのか大動脈解離か進行がんなのか、わからないけれど、あっけなく亡くなってしまったのだ。もしや店で倒れたのだろうか。深夜まで働き、次の日もランチをサービスする毎日だったら疲労困憊だったろう。でも本当に?間違いはないはずなのに、ウェブサイトを見ると変わらない入口や料理の写真が掲載され、「営業中」と記されている。店は、誰かが開けているのではないか。それこそ、急に休んだバイトの子が継いだのではないか。噂を耳にすることもなく日は過ぎていった。

訃報を見て2カ月がたったころ、夜7時からその店の近くで会議があり、地下鉄を降りて前を通った私は、たしかここだっけ、とビルの前で足を止めて狐につままれたような気持ちになった。え、ここ? 本当にここ? 入口はあまりにも変わり果てていた。薄汚れたガラス戸。何の変哲もないサッシの窓枠。ただの古ぼけた小さなテナントビルの前で、私はしばらく立ち尽くしていた。

暗闇で一本道を間違えたのか。そうも思った。でも、あの場所だった。2回目にいっしょに飲んだ友人と「新聞にのっていたね、亡くなったんだね」と確かめあったから、間違いはない。店は閉まったのだ。でも、ネットで検索すると、今日も営業中で、パエリアから生ハムのサラダからいろんだ料理を取り揃えている。電話番号も書いてある。かけてみようか。もし、つながったらどうしよう。

どこかで店は今夜も開いている。客の話し声を聞きながら、シェフは厨房で料理に腕を振るっているのではないか。

『アフリカ』を続けて(32)

下窪俊哉

 昨年12月号の(30)で、この連載には大きな区切りがついたような気がする。前回(31)からは第2期、ということになろうか。『アフリカ』の顔(表紙の切り絵)を手がけてきた向谷陽子さんを突然失い、その後の1冊をつくることで、思いがけず、大きな山を越えたようだ。その先の風景が、自分には、どんなふうに見えているだろう?

「ここまでの原稿を冊子にまとめませんか。わたしが勝手にZINEをつくって、イベントで『アフリカ』と一緒に並べたいだけですが」と装幀の守安涼くんからメールが来たのも、(30)を書いた後だった。仮のゲラまで添付されていた。彼が言うには、すでに7万字近くあり、四六判でザッと150ページになるらしい。

 ところで私は、ZINEということばを、自分からは、使わない。自分のつくる本や冊子をZINEと呼ぶ必要を、感じたことがないからだ。
 しかし最近はSNSでZINEをつくっているらしい人との付き合いが増えて、ZINEを売る本屋も増えて、ZINEの即売会やイベントが行われていたりして、私の目には賑やかだ。

 ZINEにもどうやら、いろいろあるらしい。なぜこれがZINEなの? と思うようなガッチリとした本や雑誌もある。かと思えば、家庭用プリンタで印刷してホッチキスで綴じたような簡素な本もある。私が十数年前に初めて耳にしたZINEのイメージは、後者である。そのイメージのなかにいる限り、何というか、プロの仕事をしてはならない。遊んでいる方が面白い。下手くそでいい、というより、下手くそが推奨される。上手くつくろうなんて!(ツマラナイヨ)
 いま、たまに本屋で見かけるZINEからは、あまりそういう感じを受けない。どちらかというと、小ぎれいな本が多い。そのなかに小ぎたない本(?)が混ざっていると、ハッとして、ちょっと嬉しくなる。
 もしかしたら、会社組織ではないグループや、個人あるいは少人数でつくった少部数の出版物の総称して、ZINEと呼ばれているのかもしれない。しかしそれなら、リトルプレスでいいじゃないかという気がする。
 ZINEということばの由来と歴史については、今回は省略しよう。要するにいま、ある界隈では猫も杓子もZINE状態なのだろうけど、私から見ると、どれも、ようするに〈本〉である。
 スッキリ考えられるところを、あえてゴタゴタさせたいとは思わない。自分のつくるものは他所と違うと区別したい気持ちもない。自分は素人で下手なんです、と言い訳したい気持ちもない。少なくともいま本をつくるにあたって、私にはプロも素人もない。書かれたもの、描かれたものなどがあり、それを〈本〉という器に落としてゆくだけである。

 話が一気に逸れたが、つまり私にとって、四六判・150ページの「『アフリカ』を続けて」はZINEかな? と思うところがある。守安くんもさすがにそこは、そう思っているかもしれない。なぜなら、中綴じの本にしたいと言っていたから。ちょっと厚すぎるかな?

 それにしても7万字、いつの間にか書いていた。しかしそれをそのまま、順番に並べて本にするというのでは芸がない。読み返してみると、最初の回はともかく、毎月書いていると、いい感じで書けたと思う回もそうじゃない回もあるし、冗長になっているような箇所も書き込みが不足しているような箇所もある。推敲して削ったり、加筆したり、順番を入れ替えたり、項目ごとにタイトルをつけたり、本にするならそういった編集を経てからにしたい、と話して作業を始めてみたのだが、守安くんの言っているイベントは2月らしくて、それには間に合わせられそうにないということがすぐにわかった。

 この連載が第2期に入ったと書いたが、『アフリカ』自体が大きな区切りを迎えて、次へゆこうとしているのである。それくらい向谷さんの存在は大きかった。それも、いつの間にか大きな存在になっていた、ということだろう。この年末年始に手紙を整理していたら、2010年の秋、『アフリカ』vol.10を出した頃に、向谷さんが「節目のこのタイミングでお断りしようと思いました」と言っている手紙を見つけた。どういうことかと思って読んでみたら、着実に前に進んでいる(と彼女には見えている)私の姿を見ていて羨ましくなり、自分の作品を見返してみたときに「怖く」なったのだそうだ。本当にこんなものでよかったんだろうか、『アフリカ』の顔を描くのには、もっとふさわしい人がいるのではないか、云々。えらく自信がないのである(そう言いながらも新作は“切って”いたのだが)。そんな話はすっかり忘れていたが、手紙をくり返し見ていると、少し思い出してきた。それを読んだ私は、おそらく苦笑したはずである。どのような返事を出したのかは、わからない。でも、これからもあなたの切り絵でゆきたいと伝えたことだけは確かだ。

 さて、私はこれからも『アフリカ』を続けたいのだろうか。もう止めたいと思っているところはない? と自分に問いかける。ないとは断言できない。かといって、積極的に止めたいという気持ちもないのである。これを惰性というのかもしれない。私にはたくさんの人に伝えたいという気持ちがない。未知の誰か(その人はいつもひとりで待っているような気がしている)に何かを伝えたいという気持ちはある。未来の読者へ届けたいという気持ちもある。かつての私にとって、未来の読者には現在の自分も入っていた。例えば、そのvol.10をつくった頃の自分が、いまの自分にどんなことを伝えようとしているか、耳を澄ましてページをめくってみる。どんな声が聴こえてくる?
「続ける」ということのなかには、そういうこともある。

(お知らせ)2月のイベントというのは、「おかやま文学フェスティバル2024」の一環で2/25(日)に行われる「おかやまZINEスタジアム」のこと。「Huddle」という屋号で、『アフリカ』も販売するそうです。当日、『アフリカ』を購入いただいた方へは、小冊子「『アフリカ』を続けて」vol.0(仮称)のプレゼントがあるかもしれません。

むもーままめ(36)四季の窒息2023年7月23日

工藤あかね

充血した白い箱の
壁から壁へと
当たっては折り返す

春に苛まれ
真夏の日差しも浴びず
秋風の匂いも知らず
もはや真冬の凍えも忘れた

波打つ鼓動を持て余す我は
動物園に陳列さるる
生き物たちの同胞

願うことはただ一つ
凶暴にして完璧な
野生の血潮を
蘇らせること

声掛けモンダイ

篠原恒木

歩いていると、街角に立っているヒトから声を掛けられることがある。

最近は「客引き行為」に対して取締りが厳しくなっているが、昔は夜の繁華街を歩いていると、数メートルごとに声を掛けられたものだ。オーソドックスなものとしては、
「もう一軒、カラオケいかがですか」
「一時間五千円ポッキリ、飲み放題いかがですか」
などというものがあったが、こちらが驚いてしまうフレーズも耳にした。

「呑みのほう、いかがですか」

初めてそう言われたときは激しく戸惑った。「呑みのほう」という言い回しに、我が左脳が混乱をきたしてしまったのだ。
「呑み」というのは「サケを呑むこと」を意味することはかろうじて理解できたが、その「呑み」に「のほう」を付けることに衝撃を受けたのだ。
「~のほう」という言葉が意味することは何なのか。
「区役所のほうから参りました」
「私のほうからご説明させていただきます」
このへんまでなら、まだ理解の範疇だが、
「コーヒーのほう、お持ちいたしました」
あたりになってくると、おれのアタマは反乱を起こす。
「コーヒーのほう、ということはコーヒーそのものではなく、コーヒーのようなもの、もしくはコーヒー方面の何かをお持ちいたしました、ということなのだろうか。だいたいコーヒー方面って何なのさ。コーヒーに方角があるのか」
と、考え込んでしまう。そして話はモンダイのひと言に戻る。

「呑みのほう、いかがですか」

これはじつに曖昧ではないか。日本語として成立していない。
「お帰り前にもう一杯だけお呑みになりませんか」
と、なぜ言わないのだろう。待てよ、「呑みのほう」ということは、「呑み」だけではなく、その周辺のことを含ませているのだろうか。では「その周辺」とは何か。ドレスを着たおねえさんが隣についてくれたり、そのおねえさんが頼みもしないのにフルーツの盛り合わせを出してくれたり、「シャンパン開けましょうよ」と言ったりする、そのあたりのことを「のほう」で表現しているのであろうか。だとしたら警戒しなければならない。そもそもおれはサケが一滴も呑めないから「呑み」も「呑みのほう」にも引き寄せられることはないのだけれど。

もっと驚いた声掛けがあった。夜も更けてきた六本木交差点を歩いていたら、突然おにいさんが近づいてきて、おれの耳元でこう言った。

「おっぱい」

耳を疑った。見事な体言止めだ。「おっぱい」、そのひと言だった。これ以上ミニマムなフレーズがあるだろうか。インパクト抜群だ。おっぱいがどうしたというのだろうか。おっぱいをどうするというのだろうか。おれは狼狽しながらも考えた。ここは六本木の深夜だ。風俗店も多い。
「おっぱい触り放題ですよ。いかがですか」
というような意味なのだろうな、と推理はしたが、それにしても省略が激しすぎる。もう少し詳細に主語、述語、目的語を述べてほしいところだが、目的語は「おっぱい」だと思われ、残りの主語と述語を述べられても困るだけなので、おれは無視して歩を進めた。

「なぜおれに声を掛けるのだ」
というケースも多い。家の近所を散歩していたときだ。おれの身なりは近所ということもあり、それはひどいものだった。寝巻き代わりにしているスウェットの上下にサンダルをつっかけてフラフラと歩いていると、スーツ姿の若者が、
「ご検討、いかがでしょうか」
の声とともに億ションのパンフレットを手渡そうとする。どう見てもおれの格好は「億ションの購入を検討しているエグゼクティヴな紳士」には見えない。競輪、競馬、パチンコなどで食いつぶしたおじさんだ。営業センスのかけらもないではないか。おれは無言で通り過ぎた。

「よろしくお願いしまーす」
いや、正確に書き起こすと、
「よろしくおねしゃーす」
と言われて、若い女性からポケット・ティッシュを手渡されたこともあった。ティッシュを見てみると、美容院というかヘア・サロンというか、つまりはそのテの店がオープンしたことを告知していた。おれは完全なハゲアタマである。スキン・ヘッドなどと言うとそれらしく聞こえるが、つまりはハゲアタマだ。そんなハゲおやじに美容院のティッシュを配ることほど無駄な行為はない。これも営業センスが著しく欠如しているではないか。

同じポケット・ティッシュ配りでも感心したことがある。大学生と思しきおにいさんがおれにティッシュを渡そうとする直前にこう言ったのだ。
「花粉症はございませんか。どうぞー」
おれは重度の花粉症である。思わず「どうも」と応えて、ティッシュを受け取った。見るとカラオケ・ボックスの告知だった。カラオケ・ボックスに興味はないが、素晴らしいセールス・トークではないか。あのおにいさんはおそらくアルバイトなのだろうが、将来はどの世界でも成功する優秀なビジネスマンになるだろう。ティッシュ配りにもクリエイティビティが必要なのだ。

つい先日には制服姿の警察官から声を掛けられた。おれにしては精一杯のお洒落をして歩いていたときだった。
「ちょっとよろしいでしょうか」
ああ、また職務質問かよと、おれはゲンナリした。以前にも書いたが、おれは職務質問の常連、上顧客、お得意様、年間契約者、終身名誉顧問なのだ。
「なんでしょうか」
おれは思いきり不機嫌な顔をして、警官と向き合った。
「このようなものをお配りしております。宜しくお願い申し上げます」
拍子抜けしたおれに手渡されたのは「高齢者のための交通安全読本・安全毎日いきいき東京」という小冊子、それにピーポくんのポケット・ティッシュだった。小冊子の表紙を見ると、ニコニコ顔のおじいさんが運転しているクルマが横断歩道で一時停止して、おばあさんが同じくニコニコ顔で手を挙げながらその横断歩道を渡っている様子がイラストで描かれていた。年配のヒトビトを見かけたら配っているものに間違いない。そうか、おれはいくらお洒落をしたところで、どこからどう見ても高齢者に見えるのだなと自覚したら、それはそれでゲンナリした。

声は掛けないでもらいたい。どうかそっとしておいてほしい。

アパート日記2024年1月

吉良幸子

1/1 月・元旦
起きたら年が明けておった。正月感が全くないままお昼過ぎにふらっと近くの八幡神社へ。ほしたら、おはやし保存会がいるわ、法被にひょっとこ姿のねぇちゃんが踊っとるわで紛れもなくお正月なところに辿り着いた。地元の神社いう感じ。初詣に行って良かった。
家に帰ってぜんざい食うて、明るいうちに銭湯へ行く。銭湯でしか会わんおばちゃんと裸でご挨拶。何とも滑稽や。
ちょうどお湯から上がって脱衣所のテレビに目をやると地震速報。番台のおばちゃんもきて、揺れてない?と聞きはるけど、みんな湯に浸かってたしわからんと言う。年明け早々えらいことになってしもた。

1/2 火
公子さんはソラちゃんの“真夜中 窓開けて攻撃”により、冷え切ってちょっと体調崩してはる。文字通りの寝正月。太呂さんと妃奈さんがお正月に作ったチャプチェや煮物を持ってきてくれた。
明日から近くの銭湯が三連休になるし今日も風呂へ。いつものおばちゃんたちとやっぱり今日も混んでるわね、あなたはいつも角で体洗うから隠れたってムダよ、なんて言われてたわいもない話をするのが楽しい。帰っておかあはんに年明け初めての電話をする。話している間に飛行機事故の速報がテレビで入ったと聞く。今年どないしたんやろか。

1/3 水
初夢は日暮里にある帝国湯の脱衣所におった。銭湯好きに磨きがかかってきたらしい。

1/4 木
時間の経つのはなんとはやい、今日はばあちゃんの一周忌やった。

1/5 金
出稼ぎの仕事始め。あっちゅう間に時間が過ぎ、仕事終わりに金春湯へ。43℃のお湯はどってことなく浸かれるようになった。お湯から上がって人生2回目のお釜ドライヤー。短髪やとやたらにあついし変なクセもついて気ぃ使う。ありがとうございました~と出て行こうとしたら、後ろ姿を見たお風呂屋のおばちゃんに、あっちょっとハネてる!と言われて笑いながら出た。帰りしな歩くとハネてるとこがぴょんぴょんするのを感じる。

1/6 土
雷門音助らくご会へ。会場が日暮里ということは帝国湯へ行ける口実がでけたということ。今日もきっかり48℃のお湯で、浸かるとビリビリする。あ~骨の髄まであったまる!とひとりで百面相しながら入る。何となしに壁タイルの鯉の絵へ目をやると、これは昨日行った銀座の金春湯と同じ鯉や!と発見して嬉しくなる。タイル絵の作家がおんなじで、風呂屋ができた時期も似てんのかなぁ。今日もぽかぽか、ええお湯でした。

1/10 水
太呂さん一家から新年のご挨拶のハガキがきた。小4のカイくんからのひとことは「人生一回、楽しく生きよう」。うちのおかあと言うてること一緒で笑う。

1/11 木
朝から隣町にある文具屋まで散歩してみる。途中で工事の交通整備のおっちゃんに、若いのに下駄珍しいですね!とむちゃくちゃええ笑顔で話しかけられた。こういうのは外に出な出くわさん会話でおもろい。うちから行くと必ず心臓破りの坂道を通らなあかんのやけど、下駄でぜぇぜぇ言いながら登ると、いかにも村から出てきたみたいで笑える。坂を登ると自分は一生住まんような豪邸が立ち並ぶ。古いおうちは感じええ。文具屋に着いたらお目当はなくて悔しい。帰りは公園も散策。まつぼっくりをひとつお土産にひろった。
夕方に一番のご贔屓、古今亭始さんから公子さんに電話が入った。真打昇進の名前が決まったらしい。おめでとう、ということで年明け一発目の割烹やまぐちへお祝いに行く。今日は大将ひとりで、お客さんもいつも端っこにいてはる常連のおじさんひとり。公子さん、2合目の八海山になると絵に描いた酔っ払いに変身して大将と常連さんに絡む絡む!いわと寄席の宣伝を散々かましてチラシを置かせてもらうことになった。タダでは絡まん、さすがや。家へ無事帰ってソラちゃんにも絡む。そん時のソラちゃんはすんごい冷たい目ぇしてておもろい。

1/14 日
今日は今年最初のいわと寄席の日。演目全部が講談で、神田紅純さんと神田松麻呂さんの会。俥読みは初めてやったけど面白かった。講談は長い話やと大体そのうちのひとつしか聴かれへんから、続けて違う演者でというのは嬉しい。
今回は公子さんち大集合で、娘のさくらさんと太呂さんち一家が来てくらはった。打ち上げはさくらさんと太呂さんと一緒に。さくらさんから烏口の使い方でアドバイスもらって悩んでたことも解決した。ええ日や!

1/19 金
チンドンもやってる浪曲師・小そめさんのつぶやきをたまたま見て、滑り込みで『羽織の大将』を観にいった。笑って泣けるとはこういう映画を言うんやろうなぁ、前半は声出して笑って、最後は涙が流れっぱなしやった。フランキーが落語家やるなんてそもそも最高な映画なんやけど。やっぱし行ってよかった。

1/20 土
ギタリストの前原さんの夢をみた。出稼ぎ先に毎月演奏しにきてた筋金入りの酒飲みで、とうとう酒の飲み過ぎで去年亡くなってしまった。ちょっとしか話したことなかったけど、笑うと優しい、大好きな演奏家。夢の中でもいつものように黙々とギターを弾いてはった。

1/24 水
久しぶりの整骨院。タイミングよく院長にやってもらって相当スッキリした。今日は院長の若かりし頃の黒歴史を永遠と聞けておもろかった。

1/25 木
今日は休みらしい休み。まず昼過ぎから展示をふたつ。大原大次郎さんの文字の展示には刺激を受けた。こんな筆記具で描いてんねんやとかそんなんばっかし見て、すぐ文具屋に行って筆記具を買った。そしておじいちゃん先生として有名な柴崎春道さんの展示にもお邪魔しに行った。動画で描く過程を見ていた絵を間近に見れて嬉しい。スタッフのにいちゃんが気を利かせてくれて、まさかのツーショットを撮った。そしたら柴崎先生、私の携帯の裏に入れてた若い片岡千恵蔵の写真に釘付けで笑った。こんなとこで片岡千恵蔵好きなんです!と叫ぶとは。
そして夜は落語会。江戸も上方も聴けて嬉しい会やった。演目は同じでも言葉が違うとこないに印象変わるんか、と感じる会で、やっぱし上方出身やから関西弁でやる落語は言葉が柔らこうて好きやなぁと思うた。

1/26 金
朝から、正楽師匠亡くなったの!?という公子さんの声に耳を疑った。林家正楽師匠の突然すぎる訃報が信じられなくて、とにかく寂しくて悲しい。寄席に行けばいつものように出てきてくださる気がしてならない。亡くなるほんの数日前まで寄席に出てはったらしい…かっこよすぎるやないですか!Xのタイムラインはお茶目な師匠の写真とこれまでに切られた紙切り一色になった。それを見てまた胸が詰まる。あぁ、やっぱり寄席っちゅうのは行けるときに行っとかなあかんと痛感した。

1/29 月
丹さんが着物をリメイクしてモンペにしたものを誕生日プレゼントに持ってきてくれた。履いてないみたいに軽くて、しゃがんでもどっこも突っ張らんで、柄が粋!むっちゃ嬉しい、おおきに、センキュー!!

1/30 火
出稼ぎの帰りに携帯を見ると、公子さんからものすごいごきげんメッセージがきておる…こりゃ、酔うとるな、と思いながら帰ると、お布団に包まれた上機嫌の公子さんがむくっと起き上がって喋る喋る!仕事の話をしに行って、ええことがあったんやて!太呂さんにも、丹さんにも、落語家の始さんにも電話して、帰りに割烹やまぐちで落語会の話までしてきたよ~と高らかに話してはる。聞くと日本酒は2合、あちゃちゃ、2合目は公子さんをおしゃべりな酔っ払いにするんやし!今日の出来事を2周ぐらい話して、静かになったなと思ったらぐっすり眠っておった。忙しいこっちゃで!

小津安二郎の月

植松眞人

 中国の四川省からやってきた留学生の趙(ちょう)くんとは、彼が学校を卒業し、私が学校を辞めてからも付き合いが続いている。
 彼はいま仕事の都合で静岡県伊東市にいて、時折、東京や大阪で会っては映画の話ばかりしている。もちろん、彼の日本語が達者なおかげだ。
 昨年のまだ寒い春先のこと。私が関西から東京へ移動することがあり、なんとなく新幹線の路線を頭の中に思い浮かべていると、静岡あたりに趙くんがいることを思い出した。それならと、趙くんにスマートホンからメッセージを送る。熱海あたりで新幹線を降りて一泊するからご飯でも食べないか、と誘うと嬉しいことに趙くんは車で熱海駅まで迎えに来てくれるという。
 当日、熱海駅に着くと土砂降りの雨で、私は駅前のターミナルを雨に濡れない屋根付きのところで眺めていた。すると、タクシーの間に一台の小さめの乗用車が止まり、趙くんが窓を開けて手を振っている。私が一歩雨の中に移動しようとすると、その前に趙くんが私を掌で止めて、自分が傘を差して飛び出してきた。ほんのわずかな移動で趙くんはずぶ濡れになったが満面の笑みを浮かべている。
「お久しぶりです!」
 趙くんのクセのあるイントネーションが懐かしく、私もすぐに笑顔になってしまう。
「行きましょう。車で移動して、どこかでご飯食べましょう」
 そう言って、趙くんは自分が濡れるのも気にせず、私に傘を差しだして車へ誘導してくれた。
 それからたまたま見つけた居酒屋で地の魚を楽しみ、あれこれまた映画の話をした。
「熱海と言えば小津安二郎ですね」
 趙くんがポツリと言ったときに、私は不覚にも泣きそうになった。理由はわからない。確かにそうだ、と思った感覚よりは、何を突然言い出すんだ、という感覚に近かった気がする。『東京物語』の話をして、小津に心酔しているアキ・カウリスマキの話をしたように覚えているが定かではない。でも、熱海で小津の話をすれば、話題は無限に広がっていく。中国の四川省からやってきた若者とは小津の話ができるのに、日本の若者と小津の話をしたことがない、というのは嘆かわしい、などと何か日本の現状を憂ういっぱしの大人のふりをしながら話したような気もするが、思い出すと恥ずかしいので思い出さないように努力する。
 居酒屋を出ると、雨は止んでいた。もちろん、趙くんは車の運転をするために、ウーロン茶を飲んでいたので、そのまま車で私を宿まで送ってくれることになった。
「先生、『東京物語』のあのお父さんとお母さんが歩いていたところ、分かりますか」
 趙くんが言うので、私は助手席で熱海の海岸までナビゲートする。
 趙くんは車を停める。私たちは車を降りて、防波堤に沿ってしばらく歩いて見る。すると、満月が煌々と光っていた。私と趙くんはしばらく熱海の海岸から月を見上げて、黙っていた。
 趙くんに送ってもらって宿に着くと、もう時間は日付が変わる頃だった。宿の窓からさっき見た月は見えるだろうかと、カーテンを開けてみたが、方角が違っていたのか山肌ばかりが見えるのだった。でも、ほんの少し窓を開けてみると、波が寄せる音だけは聞こえている。もどかしく、ぼんやりと山肌を見ていると趙くんから写真付きのメッセージが届いた。
「先生、今日はありがとうございました」
 そんなメッセージと一緒に送られてきた写真は、さっきまで一緒に見ていた熱海の海岸から見える月だった。そして、その月の写真にもメッセージが付いていた。
「先生、小津安二郎もこの月を見たのでしょうか」
 そう書かれていた。私は月の見えない自分の部屋の窓をもう一度開けて、波の音だけを聴きながら、趙くんが送ってくれた月の写真を眺めた。すると、自分の部屋からも月が見えているような気持ちになった。
「きっと小津さんも見ていたよ」
 私はそう返信したあと、月の写真をスマホの画面一杯に写してみた。そして、山肌しか見えない窓のあたりに掲げて、月を見ている気分を味わった。

本小屋から(6)

福島亮

 パリから東京に引っ越して数ヶ月のあいだ、奇妙な戸惑いが続いていた。それは単に生活している場所が違うという漠然とした違和感ではなく、市場のざわめきが聞こえないとか、木でできた螺旋階段がきしむ感じがしないとか、そういった具体的な感覚と結びついた戸惑いだった。なかでも、橋を渡るという行為が東京ではなかなかできないことに対する戸惑いは、引っ越してから数ヶ月間、消えなかった。パリはセーヌ川が弧を描いて街を横断しているために、どこへ行くにもたいてい橋を渡る必要があるのだが、いま暮らしている場所には橋がほとんどない。それがなんだか寂しかった。

 感熱紙に印刷された文字が時とともに薄らいで、最初は黒かった文字がセピア色になり、最後は読めなくなってしまうように、引っ越してから半年ほどすると、橋を渡る感覚も薄れていった。そんな感覚を持っていたことすら、ここ最近は忘れていた。先日、ベルヴィル通りの部屋を貸してくれていた大家さんに久しぶりにメールをしたところ、返信に「あのアパルトマンは売ってしまったよ」と書いてあった。そうか、もうあの部屋には気軽に遊びに行けないのか。メトロ2番線のメニルモンタン駅で降り、ベルヴィル通りを数十メートル進んだところにあるチュニジア人がやっているパン屋の横、深緑色の扉をあけ、ところどころ壊れ、少しカビ臭い螺旋階段で7階にあがって左手一番奥の部屋。当時私だけの場所だったあの部屋は、もう誰かのための場所になっている。そう思った途端、橋を渡る感覚や、階段の軋みや、市場のざわめきが、ほんの一瞬、よみがえり、消えていった。

 ある短い文章を書くために、マリー・ダリュセックが書いたパウラ・モーダーゾーン=ベッカーの伝記『ここにあることの輝き パウラ・M・ベッカーの生涯』を十二月後半から一月前半にかけて読んだ。ドイツ表現主義の先駆けと評されるパウラだが、伝記を読んでいると、パリの仕事部屋に対する彼女の情熱が印象的だった。自分の場所を持つことは、パウラにとって絶対的に重要なことだった。ベルヴィル通りの部屋にいたら、きっと螺旋階段を降りて、彼女が暮らした通りを訪問しただろう。それができないのは、もどかしい。

 私が本小屋に移ったのも、自分だけの場所が欲しかったから。あいかわらず本は増え続けており、最近そこに、雑誌『インパクション』のバックナンバー一式が加わった。春になったら本棚を増設しなければならない。こんなふうに一方的に増え続け——それを読むことが本当は重要なのだが——、読まれることを待っている本たちの視線を感じながら生活すると、なんだか落ち着く。

 だが、甘えてばかりもいられないことを、本小屋は教えてくれる。たとえば寝付きの悪い夜に、ふと辺りを見渡し、ガサガサと本棚を漁って、いくつかの本をパラパラとめくってみる。すると、本当に読みたい本がここにはない、という絶望的な気持ちになることがある。本当に読みたい本とは何か。それはよくわからない。自ら手に入れた本は、私が読みたいと思った本であることは確かなのだが、しかしそれは、「本当に読みたい本」とはどこか違う。というか、そんなふうに寝付きの悪さを口実にして、「本当」であることを求める私の身勝手さを、本が拒絶しているのだと思う。

水牛的読書日記 2024年1月

アサノタカオ

1月某日 新しい年を迎える静かな時間に、宮内勝典さんの長編小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)を読むという儀式を20年以上続けている。ロシアによるウクライナ侵攻は終わりが見えず、昨年の10月には、イスラエル軍によるパレスチナ・ガザ攻撃がはじまった。国家・民族・宗教への帰属にもとづく「唯一無二のわれらの世界」という旗印の下に、人間が人間を殺し続けている。『ぼくは始祖鳥になりたい』の主人公ジローの南北アメリカを舞台とする越境的な冒険譚に、「アイデンティティ」という呪縛から脱出するためのぎりぎりの希望を見出したいと願いつつ、今年もまた夜を徹して読了した。

充実した読書の時間を潜り抜けた心地よい疲れを感じながら、昼下がりのベッドで横になり、このまま続編の小説『金色の虎』(講談社)も読んでしまおうか、と書物のページをめくっていると、ぐらりぐらりと長い揺れが起こり、飛び起きた。能登半島で大地震が発生したという。

1月某日 昨年中に読もうと思っていたのに、読めなかった本。しかし、読みたい本。「積ん読」をよしとしない主義なので、2024年中に一冊ずつ読でいきます。と、机の前で誓いを立てる。

小川てつオ『このようなやり方で300年の人生を生きていく 新版』(キョートット出版)
陣野俊史『ジダン研究』(カンゼン)
坂上香『根っから悪人っているの?』(創元社)
くぼたのぞみ、斎藤真理子『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)
李箱『翼』(斎藤真理子訳、光文社古典新訳文庫)
キム・ヨンス『七年の最後』(橋本智保訳、新泉社)
佐藤文香『渡す手』(思潮社)
植本一子『こころはひとりぼっち』

1月某日 昨年末、熊本・水俣への旅に同行したことをきっかけにして、上野俊哉先生の『ディアスポラの思考』(筑摩書房)を再読した。この本には、パレスチナ系アメリカ人の批評家エドワード・サイードの「エグザイル論」にも関連する文章「二つの旅する批評」が収められている。民族離散、亡命、人間の移動の経験に関する上野先生の関心が、どのような哲学的・思想的な問題意識に由来しているのかを確かめようと、『音楽都市のパラジット』『思考するヴィークル』(洋泉社)や『人工自然論』(勁草書房)など初期の著作も集中的に読み返した。

1月某日 能登半島地震では、大津波も押し寄せたことが明らかになった。日本赤十字社とともに活動する写真家の畏友、渋谷敦志さんがさっそく現地入りしている。渋谷さんがSNSに投稿した取材メモによると、断水、停電、電波障害のみならず道路の亀裂や土砂崩れで文字通りライフラインを断たれ、救援の手が届かない被災地の状況は報道で伝えられる以上に厳しいものらしい。原子力発電所も立地する北陸の半島では今なお、余震が続いている。

不定期で参加している読書会の課題図書としてトーマス・マン『魔の山』(高橋義孝訳、新潮文庫)を連日、読み続けている。1冊700頁超の上下2巻。ドイツの港湾都市ハンブルクからスイスの高原ダヴォスのサナトリムに「いとこ」の見舞いにやってきた主人公ハンス・カストルプは、冒頭から冷えや火照りを感じたり、やがて疲労や発熱に悩まされたりして体調が芳しくない。両親は比較的若く病死しているという。当然、読者は「かれもまた結核なのだろう」と早い段階から疑うわけだが、そんなカストルプ青年に診断が下されるのは、ようやく上巻の380頁。先の見えない長い山道が続く。

1月某日 明星大学で「編集論」の授業を終えた後、図書館で拙随筆集(サウダージ・ブックスから刊行予定)の校正作業。しかし、なかなか捗らない。ルーマニアから亡命したアメリカの詩人アンドレイ・コドレスクの批評エッセイ集『外部の消失』(利沢行夫訳、法政大学出版会)などを見つけて、ついつい読みふけってしまう。

1月某日 神奈川・大船の最寄りの書店、ポルべニールブックストアに新年の挨拶を。黒川創さん『世界を文学でどう描けるか』(図書出版みぎわ)、宋恵媛さんと望月優大さんの共著『密航のち洗濯 ときどき作家』(柏書房)の2冊を購入。どちらも読みたかった本で、よい買い物をした。

1月某日 明星大学の「マイノリティ文化論」でゲスト講義をおこなう。大学1年生向けの授業。現代日本のマイノリティ文学を紹介することを求められたので、李良枝の小説「由煕」を取り上げた。「日本」「日本人」「日本語」の一体的な繋がりを前提とする日本文学とは異なる、「日本語文学」という概念があること。国家(日本)や民族(日本人)に安住することのないマイノリティとして、なお日本語で書くことを実践してきたのが、在日コリアンの作家たちであること。導入としてこうしたことを説明した上で、日本(語)と韓国(語)の二つの世界に引き裂かれながら、「言葉」を凝視することで「自分自身がどう在るか」を深く問いかけた李良枝独特の文章の息遣い、「由煕」という作品の凄みについて語った。

かつて僕が書店の一角で『李良枝全集』(講談社)に出会ったのが、ちょうど大学1年生の時だった。それから20年以上経って、李良枝のエッセイ集を編集することになった。「マイノリティ文化論」の受講生のなかで、いつか彼女の小説を読もうという人がひとりでもあらわれるといいなと思う。ちなみに、ゲスト講義をおこなう前に、宋恵媛さん『「在日朝鮮人文学史」のために』(岩波書店)を読んで勉強したのだった。

夜は、自宅からオンライン読書会に参加。トーマス・マン『魔の山』上巻について意見交換する楽しい時間。まだまだ山の5合目、次は下巻だ。

1月某日 明星大学で今期最後の「編集論」。学生たちにはグループワークの課題として、「私の好きなものたち」を特集したZINEの制作に取り組んでもらう。この日はその発表会。ZINEのテーマは、料理や食、スポーツ、推しの文化(声優、アニメ、アイドル)、地元、映画とバラエティに富んでいておもしろい。限られた時間で原稿、写真、イラストを準備し、編集やデザインの共同作業をおこなうのは大変だと思うが——「センセって鬼ですよね!」と学生に言われた——、しかし表現することやものづくりをすることの喜びを感じてもらえたら……。課題としては「本文16頁程度」と分量を設定しているのだが、今年は60頁超の熱量の高いZINEの力作も登場! 印刷製本は「センセ」の担当なので、自宅の仕事場でうれしい悲鳴をあげる。

1月某日 東京のサンシャイン劇場で、久しぶりの観劇。妻子とともに訪れたのは、少年社中の25周年記念興行「テンペスト」。ストーリーとしては同題のシェイクスピア劇とそれを上演する架空の劇団の物語が交錯する内容で、台詞のあちこちに「テンペスト(嵐)」を現代のドラマとして読み替える脚色・演出の仕掛けが散りばめられていて楽しく、見応えがあった。またそれ以上に俳優のみなさんの演技にダンス、音響照明舞台装置が織りなす圧倒的なエンターテインメントの力に打ちのめされた。まさに熱風渦巻く「嵐」を体感。演劇っていいものだな、と素直に感動した。

1月某日 黒川創さんの『世界を文学でどう描けるか』を読み終えた。すばらしい本だった。黒川さんの著作で言えば『国境 完全版』や『鴎外と漱石のあいだで 』(河出書房新社)などの系譜に連なる世界文学をテーマにした評論集なのだろう、と思って読みはじめたのだが、大文字の「世界」からも「文学」からも一見遠く離れた、著者の20年余り前のサハリン旅行について語る紀行エッセイで、予想は見事に外れた。しかしこの本は、その個人的な旅の経験を通じて、「世界を文学でどう描けるか」という問いを探求するひとりの作家の真摯な思索の記録になっていて、かえって胸を打たれたのだった。

北方先住民の地でありながら、19世紀以降、日本やロシア(ソ連)によって支配されてきたサハリン島。著者は、北端の町オハでニーナという英語通訳の初老の女性を紹介される。大陸のハバロフスクからやってきて、父親はソ連海軍将校のロシア人、母親はウクライナ人。戦時中から海軍居留地の家の隣には捕虜収容所があり、そこでパンを乞う日本兵と交流をしたことがあった。戦後、レニングラードの外国語学校に入学し、そこではドイツ兵の捕虜の姿も見た——。短い出会いをめぐる断片的な耳の記憶を回想しながら、著者はこう書いている。

〈ロシアのプーチン大統領は、ウクライナのファシスト、ネオナチを拭い去る、と繰り返す。ロシアとウクライナのあいだには、一つの地政学的身体を共有してきた、長い歴史がある。……だが、その同じ地に、ニーナのような人たちもいる。彼女たちは、自身のからだにいくつもの民族の歴史を共存させながら生きている〉

深く心に刻まれた一節だ。終わらない戦争の現実を突きつけられ、世界を語ることばを失いつつある絶望の渦中にあって、なお世界をふたたび語ることばが、文学があるとしたらここからはじまる、と著者は確認しているのだろう。つまりさまざまな旅の記憶を宿した一人ひとりのからだから発せられる小さな声に耳を澄ませることから。その姿勢を共有したい。得難い読書体験になった。

1月某日 朝、窓を開けると雨が上がっていてほっとした。資料を詰め込んだリュックサックを抱えていつものように小田原から新幹線に乗り、名古屋を経由して三重・津のHIBIUTA AND COMPANYへ。昨年の春からはじめた「物語を書く講座【ショートストーリー部門】」が終了した。自分が講師を務め、「物語」について共に考え、「読む」「書く」「企画書をつくる」について解説する4回の講座をおこなってきた。これから「私と場所」をテーマにした、受講者の作品執筆がはじまる。原稿が届くのが楽しみだ。

夜は HIBIUTA の書肆室で、自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」第6回も開催。宮内勝典さんの小説『ぼくは始祖鳥になりたい』を参加者とともにゆっくり読み進めている。HIBIUTAで出会った牧師の豆太さんが青森の教会に移るという。引越し前に挨拶することができてよかった。そのまま2階のゲストルームに一泊。

1月某日 沖縄より詩と批評の同人誌『KANA』が届く。記念すべき30号の特集は、昨年亡くなった同人作家・河合民子さんの追悼。

1月某日 ジャマイカの西インド諸島大学英文学科で学んだカリブ海文学・思想の研究者・中村達さんの『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房)が届く。「クレオーライゼーション(クレオール化)」などカリブ海発祥の概念を、ヨーロッパの現代思想的な文脈や用語で解釈するのではなく、あくまでもカリブ海独自の文学史・思想史の側に立ち、位置づけ直す野心的な論集だ。西洋中心主義の呪縛からカリブ海の文学や思想を解き放つ読みを、著者は「解呪の詩学」と呼ぶ。日本での翻訳紹介がフランス語圏に偏りがちという問題意識から、英語圏のカリブ海の作家・思想家の作品をていねいに紹介していて読み応えがある。半分ほど読み進めたところだが、カリブ海のアフリカ系住民とインド系住民の複雑な関係を描いた小説や、かねて関心のあったバルバドス人の歴史学者で詩人のカマウ・ブラスウェイトの言論を詳しく知ることができてありがたい。

黒川創さん『世界を文学でどう描けるか』も中村達さん『私が諸島である』も「唯一無二のわれらの世界」という像を捏造する力に抗って、世界の生々しい多様性を語る可能性を文学や思想のなかに探っているのだろう。

カリブ海の本を読んでいるので、無性に海をみたくなってくるのは当然だ。波の音を聴きたくなってくる。ジャマイカにもいつか旅してみたいが、とりあえず「東洋のマイアミ」と称される江ノ島に行って散歩した。むかし、大西洋まで車で一時間強という土地に3年ほど住んでいたことがある。これからの人生で、ふたたび大西洋を見る機会は訪れるのだろうか。相模湾を眺めながら、そんなことを思った。

舞踊の歌詞の意味

冨岡三智

ジャワ舞踊の多くには歌があるけれど、私は踊る時に歌詞の意味をあまり重視しない。それよりも音や響きの方を重視している。舞踊劇であれば、歌は台詞でもあるので心情を歌った歌詞が作られているし、新しい伝統舞踊作品の中には振付に対応した歌詞を新しく作っている場合もあるので、そういうのは別である。

ジャワで宮廷舞踊『ブドヨ・パンクル』完全版を2007年に公演した時、念のためスラカルタ王家の事務の人から王宮の文学担当者?図書館の人?に歌詞の意味を確認してもらったことがあるのだが、果たして歌詞は女性の美しさを表現しているけれど、特別な意味はないという返事だった。確かに、踊り手としてこの歌を聞いていると、歌詞はコロコロと玉を転がすような心地良い音の響きの連続で、そこに確かに女性らしい美しさが感じられる。私は歌詞は聞いていなかったけれど、音楽の美しさと歌詞をのせた声の響きの美しさに推されて舞い切ったという感覚がある。

その後、『スラッ・ウェド・プラドンゴ』という戦前に宮廷音楽家が書いた音楽伝書を読んでいたら、この『ブドヨ・パンクル』の歌詞の冒頭の歌い出しは「王の命令により歌う」という意味で、これを改訂した王(パクブウォノVIII世)が即位する前の歌詞は「王」の部分が「王子」だったという話や、また、歌詞の中にある「王は身体のことで指示を与える」という意味になる部分はサンカラという修辞法(象徴的な言い回しの中に特定の年号や出来事などを忍ばせる)が使われていて、VIII世の即位年であるジャワ暦1787年(西暦1858年)を意味しているという話が出てきた。これらを読んでへーとは思ったものの、舞踊の振付には全然関係がないなとも思う。舞踊を改訂した王の時代にそういう修辞法が流行して、既存の歌詞の中に少し入れこんだだけなのである。

2023年11月号『水牛』に寄稿した記事「ジャワ舞踊のレパートリー(3)自作振付」でも書いたけれど、私が自作『陰陽』(2002年)のためにデデ氏に委嘱した曲が、2003年頃にインドネシア国立芸術大学スラカルタ校教員のダルヨ氏が振り付けた舞踊「スリカンディ×ビスモ」の中でも使われている。この作品の音楽もデデ氏が担当したのだが、歌詞は私の作品のためにデデ氏がつけてくれた(私の好みに合わせて、災厄を祓うようなフレーズなどを既存の詩などから取っている)歌詞そのままである。私の舞踊作品のテーマは『マハーバーラタ』から取ったスリカンディ・ビスモの戦いの話とは全然関係がないが、曲の旋律はスリカンディ・ビスモの舞踊の中でもふさわしいシーンで使われている。このように、歌詞は意味が大事というより、音楽の旋律と一体化してある種の感情を催させるもので、旋律を歌う手段として歌詞があると考えた方が良い。

『現代能楽講義』(天野文雄著)の中に、昭和の名手と言われた能楽師が、ある能で中入りして楽屋で衣装を着替えつつ狂言役者が舞台でその能の筋を語るのを聞いて、この能はこういう能だったのかと言ったという逸話が紹介されていて、天野氏も、謡を謡っている時は誰しも不思議にその意味を考えたりしないものだと書いている(p.6)。詩劇である能でもそうなのだから、ジャワ舞踊ではましてそうなのだろうと思う。

小劇場

笠井瑞丈

初めてソロ公演をしたのが神楽坂セッションハウスです。1998年の二月でした。当時自分のソロ公演を行う小劇場を探していました。当時はインターネットも無かった時代でしたので、人の噂や、劇場に詳しい人の話を参考に、色々調べ、直接見に行ったりしました。そして見に行った中から、一番自分がピンときたのがセッションハウスでした。そして下見に行ったその日に、ここを借りると決め、セッションハウスで初めての自分の公演を行いました。思い返せば、当時は今と比べて小劇場というものがあちこちらにあった時代でした。それぞれが皆違う劇場の匂いを持ち、それぞれの特色みたいなものがありました。芝居が多い小屋、ダンスが多い小屋。もちろん両方やってる小屋もありました。劇場が独自の色の企画を立ち上げ、ダンス公演が行われていたり、フェスティバル形式の公演が行われてたりしてました。その中でセッションハウスは、本当に数えきれないほどの多くの企画を産み、途切れることなく現在も続けています。僕も本当に多くの企画に関わらせていただきました。その中で多くのダンサーとも知り合うことができました。小劇場は踊る場所でもあり、交流の場でもあり、そして新しいものが一番最初に生まれる場所でもあります。しかし残念なことにここ数年、新型コロナウィルスの影響もあり、多くの小劇場が閉館してしまいました。そんなこともあり、ここ数年、自分でも何かできることはないかと思い、企画を考え、スタッフも自分で行い、天使館という稽古場で、不定期ですが年に何回か公演を行なう活動を続けてきました。稽古場主の笠井叡のソロ公演や、私が以前セッションハウスで行っていたナイトセッション、ダンサーとダンサーの即興公演など、天使館で行ってきました。今はだいぶ緩和されましたが、ここ数年前まではコロナの影響で、場所に人が集まるということが難しい時が数年続きました。ダンス公演もオンラインなどに変わり、劇場から人が離れ、人と人との交流もシャットアウトされ、観に行くお客さんの力も弱くなってしましました。そしてダンスの在り方そのものが変わってしまいました。時代とともも変化していくことは当たり前のことですが、これから未来に向けて、また小劇場から、この時代にあった新しいムーブメントが生まれてくることを信じています。壊れたものからまた新たなもの作りだす。作るより壊す方が簡単です。作る方が数倍時間がかかります。でもそこにはまた生み出す喜びがあります。そんな喜びを噛み締めて、これからも、小劇場が盛り上がっていけたらいいなと思っています。

話の話 第11話:霞を食う

戸田昌子

その日、わたしたちは確かにリゾットを頼んだはずだった。それなのに運ばれてきたのはシーフードグラタンだった。あれっ、と思ったわたしとホリイさんは顔を見合わせ、そしてホリイさんはいつものリズミカルな抑揚で「あ、ぼくら、リゾットを頼んだはずなんですけど」と快活に言った。すると店員は「いえ、グラタンです」ときっぱり断言して、ごとり、ごとり、と皿をわれわれの前に置いた。その確信にみちた不機嫌な仕草に「もしかしたら自分たちが注文を言い間違えたのかもしれない」と思いこんだわたしは、「わたしグラタンも好きだから、これでいいんじゃない? おいしそうだし」と言った。虚をつかれた顔でホリイさんは、「あ、そうですね、うん、」と、確かに「うん」のあとに「、」をつけて、なにかをのみこんだようだった。店員さんが去ったあと、わたしはいつものように笑顔を作ってからグラタンにかじりついたのだったが、ホリイさんはやはり、うまくのみこめなかったようである。「リゾットを頼んだはずなんだけどなあ、」と、また語尾に「、」をつけながらホリイさんはグラタンを食べ、そして、それを食べ終わったあと、両手をパッと合わせて「やっぱりリゾット、食べませんか? 半分こしましょうよ」とわたしに提案したのだった。

そういうわけでその夜は、シーフードグラタン、半分ずつのリゾット、そしてプリンを一つずつ、食べた。店を出ながらわたしは「意外に大食なんですね、ホリイさんは霞を食ってるんじゃないかと思ってました」と言った。するとホリイさんはこともなげに「ああ、霞も食べるんですけどね、あれは喉に詰まるんですよ」と言った。なるほど、ホリイさんは霞を食ったことがあるのか。しまった、わたしは霞を食おうと考えたことすらなかった、と軽く敗北感を感じるわたし。暑かったのか寒かったのかも思い出せないその夜は、ホリイさんと二度目に遊んだ蛍狩の初夏の夜からは、たった4ヶ月も経っていなかったのに、はるか古代のことのようで、珍妙な明かりをともして夜闇に沈んでいる。

霞を食う、と言えば、わたしはヒッピーを連想する。20代前半のころ、アメリカで一緒に住んでいたルームメイトのクリスティーナはヒッピーだった。ヒッピーといえば1960〜70年代のカウンターカルチャー、いわゆるラブ&ピースを理想とする人たちで、コミューンを作って生活し、ドラッグを吸っては瞑想などをしていた人たちだ。彼女は両親ともにヒッピーで、ヒッピーしか住んでいないカナダのある島の出身だった。「ヒッピーはやっぱりみんな、マリファナを吸うの?」とわたしが尋ねると、クリスティーナは「あたりまえやん。うちの島はマリファナを共同農場で栽培してたよ」とこともなげに答える。「わたしらの島だと、マリファナは大事な共有財産だから、ひとりじめしちゃダメなんだよ。なのにあるとき旅行客がマリファナを盗んで大騒ぎになって」と話し始めた。マリファナは共同で栽培・収穫されて共有の倉庫に保管されているが、鍵もかけられておらず、外部の人間でも吸えるのだと言う。ある時、旅行者の二人組が、盗む必要もないそのマリファナをその倉庫から盗み出した。そこまではまあ、ありそうな話だったのだが、問題は、犯人のうちの一人が銃を所持していたこと。その銃を見たこの平和な島の人々は、「なんてことだ!彼らは銃を持っている!違法だ!」と大騒ぎになり、急遽、捜索隊を結成して二人を追いかけることになった。逃げ出した犯人たちは、島に一つだけある港までたどりつき、そこにいた船の船長に「すぐに船を出せ!」と迫った。まるで映画の一場面のようである。しかし船長もまた、ヒッピーなのである。ニヤニヤして「それはどうかな……」と誤魔化してばかりで、船を出さない。そこへ捜索隊が追いついて、ふたりをあっさり捕まえてしまった。警察に突き出すとき島の人々は「こいつらは違法な銃を持ってるから悪いやつらだ」と説明したが、「共有倉庫からマリファナを盗んだ」という真の罪状は決して述べなかった。もし真実を述べれば、島の人々がほぼ全員、捕まってしまうからである。そして犯人たちものほうも、違法な銃の所持に加えてマリファナ盗難などという、自分たちの罪が重くなるようなことをわざわざ言うわけがない。そして警察のほうも、ふだんからマリファナ栽培を黙認している事実を公にはしたくない。そんなわけで、大人たちが雁首そろえて肝心なことは黙ったまま、犯人たちは警察にしょっぴかれて行ったのであった。

しかし、クリスティーナはマリファナに関してはなかなか批判的である。「この島の高校生は全員、マリファナを1回くらいは試してみるけれども、わたしなんかは親が若いころにマリファナを吸いすぎて、いまでも幻覚があるから、あれみたらもう吸わないね」と言っている。マリファナの幻覚は一生もので、本人たちは霞を食って生きていけるのだとしても、はたから見たら「それはどうかな……」といったところなのだろう。

田野が歩きながら言う。「たとえば1950年くらいのさ、東欧のどこかで、レジスタンスにおれとあんたがいてさ、でもあんたはほんとは無政府主義者だから、ちがうんだ。ふたりでかつかつ石畳を歩きながら、コートの衿立てて、たばこを分け合って話すのさ。そうだった気がする」。田野の話はいつも唐突ではあるが、べつに支離滅裂というわけではない。「ああ、それは、ハンガリーとかポーランドだね」とわたしも応じる。「うん、そう。チェコじゃないの。でもチェコもいくよ。連帯してるから。でもちがうんだ。無政府主義だから。詩と音楽を愛してるんだよ」。そこでわたしは唐突に、スロバキアへ行ってしまった友の顔を思い浮かべる。哲学を学んでいた彼女は、大学を出た後、突然スロバキアに行きたいと考え、スロバキア大使館を訪問して、奨学金の試験を受けてスロバキアへ向かった。「わたしはなぜカントを、スロバキア語で読まなければならないのか」とぼやいていた彼女は、5年ほどたって恋人ができ、妊娠したので結婚することにし、新婚旅行と称してヨーロッパの山々をふたりで巡り、その登山スタイルのまま日本へやってきて、長野の家族に結婚の報告をして、ツーショット写真を送ってきた。その写真には、そこからアルプスの山々の緑が匂い立つ気がするような、さわやかなふたりが写っていた。

「日本では、ひとつの米粒には7人の神様が宿っている、と言うんだよ」と妹が義理の父母に説明している。ふたりはフランス人で、初めての日本訪問である。箸を上手に使えないパパさんのお茶碗の中は、食べ残して茶碗にこびりついてしまった米粒がいっぱいである。それをひょいと覗き込んだママさんは、「あら、それならパパさんのお茶碗はパンテオンね」と言う。神様と言ってもこちらは七福神、あちらは古代ローマ神話に出てくるような神々の庭……イメージが、だいぶ、折り合わない。

エルニーニョって、結局なんだったのだろうか。デニーズで遅めのお昼をひとりで食べていると、隣の席で上司らしきサラリーマンが二人の部下らしき若者たち(男女)の前でワインを飲みながら話している。「フランスでは、昼からワインを飲むんだよ。あ、店員さん、おかわり」と上司が言う。ふたりはうんうんとうなずく。「今年はさ、エルニーニョが日本に来るから、大変なんだよ」と、上司はろれつが回らない。ふたりはまた、うんうんとうなずいている。たしかにフランス人は昼からワインを飲むかもしれないが、デニーズではきっと飲まない。それに、エルニーニョは赤道あたりの海面水温が上昇する自然現象なので、おそらく来日はしない。

そういえば、ひさしぶりにホリイさんに会ったのは、わたしがゼミの準備をしていたときに、下鴨ロンドの道路に面した側の「窓を開けて」、部屋に入ってきたからである。通りに面してテラスのようになっている側面の窓ガラスを、手慣れた様子でガラガラと左から右へスライドさせて、ホリイさんは文字通り、スタスタと入ってきた。下鴨ロンドはシェアメイトが常時15名ほどいるシェアハウスみたいなもので、家賃を少しずつ共同で負担しながらイベントや宿泊や勉強会など、みなが好きなように使っている。その日は写真史のゼミが予定されていて、ゼミのメンバーが夜の打ち上げの準備のために台所に集まっていた。あまりに手慣れた様子で入ってきたホリイさんを、まだ会ったことのないシェアメイトの一人かなと思って顔をあげたらホリイさんだった。「ああ、戸田さん、」とホリイさんは言ったあとで、「今日ここへ来たら戸田さんに会えるとおもったので、」と続けた。しかしその時ホリイさんはスニーカーを履いていたのだ。「あ、靴!」とわたしが言うと、「!!!」と驚いたホリイさんは笑いながら靴を脱いで、玄関へ置きに行った。その「スタスタ」という足音がおかしくて、そのあとわたしはだいぶそれを突っ込んだ。だから、Art Collaboration Kyotoの会場でふたたびホリイさんと待ち合わせたとき、「いま近くです。これから行きます。スタスタと歩いて」と彼はLINEに書いたのだ。そして、再び、ホリイさんはスタスタとやってきた。

酔いどれ詩人の暮尾淳さんは、「すたすたすた だったよなあSよ たんたんたん だったよなあAよ Hはぺったぺったで」と書いている(「雨言葉」)。「Jはどんどんどんだったろうか」と続ける暮尾さんは、吹き曝しの階段の下の、埃臭い三角の隙き間に身をすくめながら、去って行った彼らの足音を聞いている。暮尾さんは、詩人だから確かに霞を食う、といったふうでもあるが、たいていは酔っている。暮尾さんは現代詩文庫の『暮尾淳詩集』のなかに、他の詩人についての自分の書き物や、自身の兄が書いた岡村昭彦についての思い出の文章など、自分の詩以外のものをいくつも収録している。そのなかに石垣りんの「わたしは思想により家族をつくらなかったの」という言葉も、記録している。記憶しておかなければいけないことを記録するという意味で、わたしは彼をほんとうの詩人だ、と思ったりする。暮尾さんは自分の話をしているようでも、実はいつも聞く人だった。いま思い出そうとしてもはっきりと思い出せないが、暮尾さんの足音は、ぺたぺたぺた、という音だった気がする。

犬好きの人が、マンションで犬を飼えないので、架空の犬が後ろからついてくるイメージトレーニングをSNSに投稿して遊んでいた。夜中に自分が台所に立つと、架空の犬が「チャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッ」と、ずーっとついてくるのだ、という話が面白かった、とわたしが言うと、「イヌの爪の音だね」と鳩尾が返す。鳩尾はどちらかと言うと「シャッシャッ」と歩く。タラちゃんは、自分が歩くたびに「トコトコトコ」という効果音が出てしまうことに、きっとイライラしているだろう。

しもた屋之噺(264)

杉山洋一

目の前には雲一つなく澄み渡った青空が広がっていて、毎日ラジオニュースで流れてくる陰惨な光景と、どうしても意識が乖離しがちなのですが、日記にも書いたanno bisesto, anno funesto 閏年は憂い年、つまり忌み年だという言葉は、イタリアではしばしば耳にします。どことなしに世界全体が厭忌すべき方角に引寄せられていて、だからこそ各々生きる意味を考えさせられる機会を与えられているようでもあり、つまるところ、社会そのものについて我々は一度立止まって見つめ直すべき時に来ているのかもしれません。目の前の小学校の校庭から沸き上がる子供たちの歓声こそが、なにものにも代えがたい喜びに感じられます。

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1月某日 ミラノ自宅
元旦より大地震。家人や息子が世話になった入善や、金沢の知人友人の顔が浮かび、不安に駆られる。どうしているのだろうか。一人でミラノで過ごしつつ、このまま日本の地震のニュースを見続けると、仕事に手がつかなくなると思い、リスに胡桃をやって机にむかう。
ストラヴィンスキ「火の鳥」を読み、改めてスクリャービンの和音と酷似していることにおどろく。聴かせ方だけで、印象はこうも変わるのである。なるほど「火の鳥」を書いた時点までは、10歳違いの彼ら二人は確かに近しい場所に居たのだろう。その後、それぞれ全く違う道を選んだ。

1月某日 ミラノ自宅
般若さんからと入善の友人から生存確認メールが届く。羽田空港で航空機衝突事故。闇のなか、飛行機がさかんに燃え盛る衝撃的な映像は、現実とは思えない。
野坂操壽さんの手による「菜蕗」譜と筑紫筝の資料が、突然机の横から現れた。随分探していたのに、「夢の鳥」作曲中、今回見つかった場所をいくら探しても出て来なかったのが、作曲が終わった途端突然現れたので、操壽さんがこの資料に拘泥しないよう慮って下さっていたに違いない。
湯河原と大磯の親戚に電話。おじさんは視界の歪みと肝硬変、おばさんは良性脳腫瘍で瞼が自然と下がってしまってと明るく笑い飛ばしていて、こちらこそすっかり励まされた思いだ。
マリゼルラからのメールに anno bisesto, anno funesto「閏年は憂い年」とある。

1月某日 ミラノ自宅
金沢の友人からのメールに、志賀原発が不安なら、娘さん二人はうちで預かると知り合いから申し出があり、子供たちに相談したら、死ぬときは一緒がいいと即答されたとあり、胸がつまる。「家族とはこういうことなのだと思い知らされました」と書かれていた。
ハーバード大学長クローディン・ゲイが反ユダヤ主義に対する姿勢を批判され辞任に追い込まれる。彼女は黒人初のハーバード大学長だった。
年末に書き終えたファゴット曲を書き続けている夢。切れ切れに、同じ旋律をやるというアイデアだったが、今となってはぼんやりとイメージだけが残っているのみ。なんだ、こうやればよかったのか、と夢の中で喜んでいた記憶があるのだが、何か無意識にやり残したものがあったのか。

1月某日 ミラノ自宅
町田の母が、昨年から趣味だったピアノを再開したそうだ。親指の腱をいためているので、ピアノは悪かろうと思い勧めなかったが、いざ弾いてみると無理さえしなければ充分楽しめるらしい。くぐり指はやめた方がいいだろうが、別に指使いなど、趣味でのんびり弾く分には、どうにでも無理のないよう替えればよい。バッハのインヴェンションを弾いているという。

1月某日ミラノ自宅
母がそれとなく勧めたところ、父も嬉々として何時間もピアノを練習していた、と聞き驚愕する。80歳代終盤の父が何十年ぶりに弾いた最初の曲は、「トロイメライ(夢)」であった。半世紀ほどの間、父がピアノを弾いている姿を見たこともなく、ピアノを弾けることすら知らなかった。
その昔、管野先生に油絵を教える代わりに、少しピアノの手ほどきを受けていたと言う。自分が生まれる前のことで知る由もないが、ずっと弾きたいと思っていたらしい。一時期、チェロを弾いてみたいと言っているのを聞いたことがあるが、余り気にも留めていなかった。家族だとそんなものかも知れないが、今更ながら申し訳なくおもう。

1月某日ミラノ自宅
朝9時から夜8時半までレッスンと授業。母曰く、父は「エリーゼのために」を3時間近く籠って練習していたそうだ。
ミーノがブランシュヴァイクのオーケストラの首席指揮者になって最初の演奏会のヴィデオを送ってきた。べリオ「レンダリング」とショスタコーヴィチ15番。彼がまだボローニャに住んでいる頃から面倒をみていたのだから、思えば長い付き合いになるが、自分に近しいものを実感したのは今回が初めてで驚いてしまった。自分と似た演奏をさせたいと思って教えてきたのでは全くないが、彼の裡で何かがすっと吹っ切れたような、拘泥ない自然で美しい音楽が流れていて聴き惚れた。能登半島地震の犠牲者が200人を、ガザの犠牲者に至っては23000人を超えたという。Covidの犠牲者への鎮魂の祈りを込め金沢で「揺籃歌」を初演してから、もうすぐ2年になる。

1月某日 名古屋ホテル
羽田の着陸時、心の中で滑走路に向かって手を併せた。息子は同じ日に東京からミラノに戻ったので、知合いのタクシー運転手に家の鍵を預けて、息子に渡してもらう。川口成彦さんが、「山への別れ」を東京で再演してくれて、演奏会を聴いた家人曰く、初演ともまたまるで違った演奏で見事だったそうだ。その言葉を川口さんに伝えると、今回は表現の欲求が前回よりも増して、作品とより一体となれたんです、とお返事をいただく。作曲したものとして冥利に尽きるし、機会を与えて下さった平井洋さんに改めて感謝している。
坂田君の音楽の魅力は、合奏部分で金管とシンバルを絶妙に重ねて、銀の粉を振りかけたような美しいオーケストラの響きを造り出すところ。演奏していて生理的な爽快感と充足感を覚える。その感覚はきっと聴き手にも伝わるはずだ。
演奏会後、安江さんたちと会場近くでおでんに舌鼓を打った。今回の名古屋滞在中、初日は生春巻きにあたり、その2日後今度はカキフライにあたりと、食事では散々な思いをしたので、艶やかなおでんの美味しさが臓腑に沁みる。メニューに糸コンニャクがなかったので、糸コンニャクは関東独自の具かも知れない、という話になる。出汁は品のある関西風だったから、名古屋のおでんは関西風に違いないとの解釈。
山本君、成本さん、内本さんにも久しぶりに再会。名古屋は思いの外イタリアとの繋がりが深い。演奏会冒頭、ステージの照明も抑えて、震災に向けてレスピーギ「シチリアーノ」を追悼演奏したのだが、金沢にお宅のある成本さんは、能登の友人に思いを馳せて思わず涙がこぼれたと言う。震災後直ぐに成本さんのご主人、田中君に連絡したが、彼から、ちょうど金沢を離れていて二人とも震災には遭わなかったと聞いていた。

1月某日 三軒茶屋自宅
演奏会の本番というのは本当に不思議なもので、必ず何か特別なものが生まれ、耀く。演奏者のはりつめた集中力や鋭い気迫だけではなく、固唾をのんでステージをみつめる聴衆や、ステージを作る関係者一同の心地良い緊張も相俟って、得も言われぬ有機性のある空間が作り出される生きる幸せ、音楽を分かち合う僥倖を実感する瞬間でもある。コンマスの友重さんとはもう長いお付き合いだが、いつも心から感謝している。今回も沢山教えて頂いたし、何より安心して演奏会に臨めるのが嬉しい。彼と一緒にずいぶん沢山の忘れられない公演をやらせていただいた。
眞野さんと一緒に品川に戻る車中、「ローエングリン」舞台装置のテストの写真など拝見。幽玄でどこか儚く、思わず見惚れる美しさであった。家に着いて、ごくシンプルなトマトのパスタを作る。料理は何しろリラックスしてよい。

1月某日 三軒茶屋自宅
三善先生「Over the Rainbow」4手ピアノ編作。彼の生徒で最もピアノが弾けないものとして、一音ずつ弾いては、指のうごきと響きを確かめつつ書き留める。結果として先生のヴォイシングと全く異なるものが浮き上がるが、これが正しく先生の意図だと信じることにした。
昼過ぎ、惠璃さんからお電話をいただき、午後並木橋まで自転車を飛ばす。惠璃さんとは演奏者と楽譜の距離のはなし。
或る時は目の前1メートルくらいに楽譜があるつもりで弾き、また或る時は、自分を楽譜より1メートル先に置いて弾いてみる。楽譜を真下から見上げたり、真下に見下ろしながら爪弾いてもよいし、演奏中に或る位置から別の位置への移動も可能だろう。その意識こそが、演奏者の空間を図らずも意識化、可視化、有機化させる。演奏者の空間が顕現化されると同時に、演奏者自身の音楽が、そこに明確に姿をあらわす。自分が書いた楽譜は触媒でしかないから、楽譜の裡に音楽など存在しないが、その触媒を通し惠璃さんの音楽を紡ぎ出してほしい。

1月某日 三軒茶屋自宅
野坂惠璃さんのリサイタルで「夢の鳥」を聴く。思いがけなく自由な音楽に、思わず心がふるえる。最初の一音がつづく一音の呼び水となり、どこまでも続く。目に見えぬ糸が音を紡いでゆき、まるで織物が編み上げられてゆくようにもみえるし、朝露の雫を溜めるうつくしい蜘蛛の巣のようにも、極彩色をした鳳の典雅なはばたきにも、感じられるのだった。
惠璃さん曰く、その日の朝操壽さんにお線香をあげると、立ち昇る煙が輪を作ったそうだ。あちらの世界は、思いがけなく我々のすぐ傍にあって、そこではきっと誰もが幸せな時間を過ごしているとおもう。

1月某日 三軒茶屋自宅
アウシュヴィッツ強制収容所解放記念日だが、今年はイタリア各地で親パレスチナを掲げるデモが繰り広げられた。治安保持の立場から政府はデモの延期を要請したが、パレスチナの若者がSNSで強行を呼びかけたところ、圧倒的な数の若者が賛同してミラノ、ローマ、ナポリ、カリアリで大規模なデモ行進が繰り広げられ、反イスラエルを叫んだ。ニュースではイスラエル国旗が燃やされる様や、デモが暴徒化する恐れから、ローマなど前日から商店など早々に店を閉める様子、ミラノの政府治安部隊とデモ隊との特に激しいつばぜり合いが繰返し報じられている。
今まで辛うじてそれなりに保たれていた世界のパワーバランスは、明らかに崩れ始めた。ミラノの親しい友人とも、今までのように気軽に政治について話すことができない。生粋の共産党員であるSは、はっきりと話さないがユダヤ人なのだろう。バイデンは頑張っているが、トランプが万が一当選したら万事休すだと言う。確かにその通りかも知れないが、無辜のガザ市民の犠牲者を思うと、暗澹たる思いにも駆られる。年始の能登半島地震の話など、今や話題にも昇らない。日本は耐震構造が進んでいるから、犠牲者も殆どいなくて良かった、程度の認識しか記憶に留められていないように見える。ロシアがウクライナを侵攻するのは悪で、イスラエルがパレスチナをゲットー化するのは善、と言っても誰も納得しないが、イスラエルは国連パレスチナ難民救済機関職員がハマスと内通と糾弾し、イタリアや日本を含め、各国が資金拠出停止を決めた。
日々世界の状況はエントロピーに近づいていて、このエントロピーが、我々から生きるエネルギーを奪ってゆく。最早誰が正しく、誰が間違っているのかもわからない。道義も正義も以前から既に形骸化していて、結局体を成していなかったと気づく。今こそ何のために、誰のために生きるのか、我々が改めて考えるべき時が来たのかも知れない。

1月某日 三軒茶屋自宅
早稲田でひらかれた感謝会の席で、よく響く低い太い声をふるわせ、佐々木さんが諳んじたイーリアスが見事だった。彼が暗誦を始めた途端、空気ががらりと変わるさまは、まるで名演奏家が客のリクエストに応えてさっと即興を披露するが如く。なるほど、彼は身体の芯から音楽家であった。
松本良一さんから草津でカニーノに叱られた話を聞いた。新しいベーゼンドルファーが草津の音楽堂に入ったばかりの頃、遠山慶子さんからピアノに触っていいわよと言われてショパンの舟歌を弾いていると、出し抜けにカニーノが現れて、そこは音が違うだろうとイタリア語で怒りだしてしまった。挙句の果てにお前はどこのクラスの学生かと質されて、自分は取材で訪れている新聞記者だと応えると、たとえ新聞記者でも正しく弾かなければいけない、と改めて厳しく諭されたそうである。

1月31日 三軒茶屋にて

楽譜のスケッチ

高橋悠治

毎月文章を書くのがめんどうになっている。新しいことを思いつき、ことばにするのが遅くなった。それなら音楽を想像して楽譜にするのはどうか、と言われて、その方が楽かもしれない、ピアノで音を試しながら楽譜を書く作曲家はいたし、今もいる。ピアノがなくても、テーブルの上に手を拡げるだけで響きが浮かんでくると、リストのことだったかな、読んだ記憶がある。テーブルがなくても、手の動きを思い浮かべるだけでも良いだろう。
とりあえず、試してみたのがこれ:

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