家探しに明け暮れた一カ月が過ぎました。イーロン・マスクはトランプ大統領の就任イヴェントで右手を斜め上に掲げ、つまりローマ式敬礼、ひいてはナチス式敬礼と揶揄されながら、トランプ大統領は反ユダヤ主義の学生の国外追放を発表し、ガザの市民をヨルダンや周辺国に移住させる計画まで報道されていて、イーロン・マスクはドイツ極右政党の政治集会で「ドイツは過去の罪悪感にとらわれ過ぎている」と発言したとも言われます。こうしてみると、現在までの世界の常識は、音を立てて変化しているのを感じます。わたしたちが変わるべきか否か、受け入れられるか否かに関わらず、この変革のスピードに自分も何等かの形で追随してゆかなければ、想像を超えるとんでもないことが起きるのかもしれません。そう痛感する一年の始まりでした。
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1月某日 ミラノ自宅
新年早々、家人と連立って久しぶりにミラ宅を訪問する。ミラ宅に厄介になっているさくらちゃんが甲斐甲斐しく手伝っていて、イタリア語も上手になっていておどろく。去年春にミラが日本旅行をした際は、さくらちゃんが随分助けてくれたのよ、とミラも大層嬉しそうで、各地の神社仏閣を巡った際の御朱印帳を自慢げにみせてくれる。こちらは不学で、御朱印帳が何かすら知らなかった。地下鉄4番線が開通したので、我が家からサルディーニ通りのミラ宅まで、フラッティーニ駅からスーザ駅まで地下鉄を使って簡単にゆけるようになった。我ながら現金なものだと呆れるが、4番線が全線開通したのはつい先日だというのに、開通以前のミラノのアクセスのイメージをすっかり忘れてしまっている。日本に戻っている息子が年始に町田の両親を訪ねた。彼が大好きなトンカツとハンバーグはもちろん、おせち料理も雑煮もよく食べた、と両親も喜んでいた。昨年11月に顔面神経痛になった父は、もうすっかり快復したようだ。バイデン大統領、アメリカの安全保障とサプライチェーン保証のため、日本製鉄によるUSスチール買収計画禁止を発表。韓国では、警備隊200人がユン大統領の拘束を阻止との報道。ロシアは1日から旧ソ連構成国モルドヴァへの天然ガス供給停止したため、モルドヴァ内の親ロシア沿ドニエストル地区では暖房、ガス供給停止。
1月某日 ミラノ自宅
日本に戻っていた息子がミラノに帰宅。ここ数日酷い眩暈と吐気で布団からでられなかった。年末から体調はあまりよくない気がする。シャリーノがミラノの国立音楽院で教えていた当時は、和声や対位法などより作曲のレッスンが面白かったと、当時音楽院の学生だったマンカやピサ―ティから聞く。昨年の東京でのワークショップでは、シャリーノは超高音部の音程を「できるだけ高い音で」と不確定に書くのを嫌がり、音域が殆ど確定できないほど飛びぬけて高いものであっても、出来るだけ音高を指定するよう助言していたのを思い出す。メローニ首相、トランプ次期大統領と会談。
1月某日 ミラノ自宅
天地万有、どのような事象であれ、良いことと良くないことは、常に対になって組合わさっている。喜ばしいことの後に喜べないことが起こり、また良いことが戻ってくる。可もなく不可もなく、こうして人生のほぼすべてを我々は生き永らえているわけだが、恐らく人生のある一時期、誰でもその均衡が崩れるときがあって、恐らくそれは、否定的事象の連続を実感するときだ。半世紀も生きてみると「急がばまわれ」は、やはり真理だと思うようになった。イタロ・カルヴィーノの「アメリカの講義」で、メドゥーサを斃すために盾に映りこんだメドゥーサを狙った逸話がでてくるが、状況を覆すためには、常に軽さをもって立ち向かうことも必要になる。個人的な皮膚感覚で言えば、「急がば、軽さをもってまわれ」。
ところで、自分がすばらしい曲だと感服して聴きいるとき、既にそれを書いた人がいるわけだから、すっきりと諦めを持って聴くことができる。それを倣っても、大方自分が納得できるものにはならない、という経験値のようなもの。アルメニア政府、EUヨーロッパ連合への加盟交渉への法案決定。
1月某日 ミラノ自宅
年末、家主のウリッセに会った際、ミラノの地価高騰もあるので、2月末で更新となる賃貸契約を現在の1,7倍に値上げしたいと言われ、すっかり当惑した。家人とも話し合い、結局新しい家を探すことにする。先日も連立ってセストの物件を見に行ったが、条件に比較して安価と思われる物件は、何某か問題を抱えているようにみえる。1940年に建てられたマンションの一部、110平方メートルの敷地に、当初は庭だったであろう200平方メートルの貸ガレージがついている。元来、現在まだそこを貸している状態だから、イタリアの法律上、簡単にガレージを空にするのも難しく、しっかり屋根を設えてあるから、密閉されてしまって窓を開けても一切新鮮な空気は入ってこない。地下の倉庫には、大きな酒樽が何個も並んでいた。
今日は、北へ向かう郊外電車で15分ほど行ったところにあるボッラーテとガルバニャーテを訪れた。とっぷりと日が暮れたガルバニャーテの街の広場は閑散としていて、中央には小さなスケートリンクが設営され、小さな子供が数人、氷上で反り遊びをしていた。かそけく点滅するクリスマスの電飾が寂しさを誘う。
イスラエル、イエメンのフーシ派軍事拠点を攻撃。「イスラエルを脅かす何れの者に対しても、断固たる態度をとる」。
1月某日 ミラノ自宅
息子はヴェニスに滞在している留学生と連立ってブレラ訪問。アイエツの「接吻」が特に気に入ったという。アイエツと言えば、音楽でいえば、時代的にも作風もヴェルディに匹敵するから、なるほど、子供のころからヴェルディは歌ってきたし、息子はやはり国家統一運動のころの情熱と滋味あふれるイタリア芸術が好きなのだろう。
かく言う自分が「接吻」を最初に見たのは、恐らく中学か高校の教科書だったと思うが、どのように説明されたのか、全く記憶にない。或いは、教科書に書いてあっただけで、素通りされたのかも知れないし、この記憶すら正しいか甚だ怪しい。ただ、ボッチョーニの「空間における連続性の唯一の形態」と邦訳されることの多い代表的彫刻作品と、ルーチョ・フォンターナの「空間概念・期待」が掲載されていたのはよく覚えている。
教科書と言うと、未だに不思議なのは、音楽の教科書に小山清茂の「木挽歌」とともに掲載されていた、グロフェの「グランドキャニオン」だが、未だに実演を聴いたこともないし、客観的にみても他にもっと知った方がよいと思われる曲はいくらでもあるように思うが、何故あの曲が選ばれたのだろう。
因みに、息子は昨年末2回もムンク展に出かけて「叫び」を堪能したらしい。イタリアでは40年ぶりの大規模なムンク展で、100点もの作品が集められ、大成功を収めたと聞いた。ムンクが5つ作った「叫び」がそれぞれどう違うのか興奮気味に話してくれたが、考えてみれば「接吻」も1859年から61年にかけて3作あったが、それから30年を経て、「叫び」が描かれたことになる。どちらも人の描写に終始しているものの、絵画の世界は、音楽よりも変化、発展が本当に著しいと感心させられる。
カタールのムハンマド・サーニ首相、イスラエルとハマスの42日間におよぶ停戦の第一段階合意を発表。
日本から戻って来たばかりで時差呆けの家人が、夜明け前、日本に電話している声がきこえる。高野さんと息子のモーツァルトの自慢話。
1月某日 ミラノ自宅
思いもよらぬ藤井一興先生の訃報に言葉を失う。平山美智子さんがイタリア本国ではシャリーノを歌っていらしたけれど、恐らく、ヴァンドリアンの演奏会で功子先生と一緒に最初に日本でシャリーノを弾いた日本人演奏家ではなかったか。武満徹さんのCDはもちろん現代作品のスペシャリストとして、子供のころから数えきれないほどの実演にふれる機会があった。藤井先生の音の輝きは、彼の頭の裡に広がる宇宙の光を体現していた。宇宙というと漆黒の闇を想像してしまうけれど、彼の宇宙は光が湧き溢れる泉のような空間だった。光は本来直線に進むものなのだろうが、彼の身体に満ちている無数の光源は、その一つ一つが生命体であって、曲線も自由に描けるし、太さも早さも色彩までも自在に変容した。
藤井先生と個人的に懇意になったのは、家人が藤井先生を敬愛していたからだ。長年私淑して深く影響を受けていただけでなく、藤井先生の音楽への姿勢に強く共感して、機会のある度に、自分の生徒や、クラスや、勉強会に藤井先生を招いていたし、結婚してすぐにご挨拶にも伺った。最後に藤井先生の実演に触れたのは、家人との共演でヴィシェネグラツキ―の前奏曲集だった。
あの後の打ち上げで、余程演奏会が楽しかったのか、先生がずいぶん紹興酒を深酒していらして、家人と心配していた。彼女はあの後も何度もご一緒する機会はあっただろうが、まさか自分にとって最後の機会となるとは想像もしなかった。いまごろ、藤井先生は慕ってやまなかったメシアンに再会されただろうか。メシアン先生は本当に心の優しい方でした、と繰返していらしたけれど、再会して、まず何を話していらっしゃるのだろうか。
1月某日 ミラノ自宅
ジョゼッペという年長の指揮の生徒がいて、彼は国立音楽院を卒業したフルーティストだが、中学の音楽教員をしながら、同じような境遇の演奏家たちを集めて小さなオーケストラを作った。もちろん指揮者はジョゼッペである。もう1年半近く続いていて、演奏会は15回はくだらないというから愕く。コンサート・ミストレスは、ウクライナの国立響で弾いていた女性。
今日は、同じく中学で音楽教諭をしているマッシモや息子もそこで半時間ほどモーツァルトを振らせてもらった。いつも演奏ばかりしている人たちではないから、アマチュアのようでもあるが、基礎はしっかり勉強している人が多いので、一概にアマチュア・オーケストラともよべないし、暫く弾いていてこなれてくると、素敵な音がでてくる。息子曰く、弦楽オーケストラより管楽器が入って派手なので振っていて楽しいらしい。大変素直で素朴な感想。
反してマッシモは、改めて自分の振っている姿をヴィデオでチェックしたが、どこがどうわるかったか、何が出来ていないか、など長いメールで反省点をまとめてきた。
オーケストラを作って、それが続いていると言うのだから、ジョゼッペは余程の人たらしなのだろう。大した才能だとおもう。聞けば、数年前に右派「フォルツァ・イタリア」党から、ミラノ市会議員に立候補までしたことがあるらしい。
トランプ大統領が就任し、早速パリ協定から離脱し、世界保健機関から脱退。ガザでは42日間の停戦がはじまり、韓国の大統領は拘束された。
1月某日 ミラノ自宅
今日は、午後から家人と連立って3つの物件を訪ねた。まず最初に地下鉄終点のCまで行く。我々が住んでいる地域は、住み始めた当時とても犯罪率が高い地域であったけれど、20年ですっかり様相が変わり、今ではミラノのコレクションなどの服飾関連のメッカが近くに出来て、行き交う人々も、労働者階級より、むしろ洒落たモデルのような人々が目立つようになった。20年前は軒を連ねていた、渋いペンキ塗りの看板を掲げる昔からの個人商店はみるみる廃れてシャッターを下ろし、替わって、派手な電光掲示板などのフランチャイズ店が出店した。フランチャイズだからか、特に地元に根付くこともなく、経営が立ち行かなくなれば店を閉めて別のフランチャイズが入るだけのことであるが、何代にもわたって続いてきた個人商店がなつかしい。
そんなことを思い出しながら、Cで近郊バスに乗り込み出発を待つ。周りをみると、二人で連立った妙齢も、少し年配の女性も、アフリカ系や中南米系の労働者から火を点けてわけてもらって、愉しそうにタバコをくゆらせている。普段、タバコを吸う女性をあまり見かけることは稀であったが、この辺りはどうも勝手が違うようだ。
Cというと、昔からマフィアなどの犯罪組織が取り立てて高く、街の名前を冠したCギャングの存在も、ミラノに長く住んでいれば知るようになる。果たして、見学した物件は、背の高い自動式鉄扉で外界と切り離されていた、塀の中のちょっとした楽園のようである。聞けば、住んでいるのはミラノ中心街で働く実業家で、ミラノの中心の喧騒が嫌で、この家を買って好きなようにコーディネートしたらしい。彼がミラノから別の場所に移るので、この物件を売りに出したという。玄関から入ると、吹抜けのように天井の高い部屋が一つあって、トロフィーがたくさん並んでいる。巨大な薄型テレビをはじめ、台所、家具、調度品どれもとても現代調で凝っている。床には全てじゅうたんが敷き詰めてあるので、家に入る時には、靴にビニールをかけなければいけない。
その家は細い路地に面していて、角には「金買います。換金屋」という怪しげな店がネオンを輝かせている。隣は中国人の風俗マッサージ店。そこから数件、とても古そうな商店が軒をつられているが、どれも少し壊れかけた斜めのシャッターが下ろされていた。その隣には、割と新しい感じの喫茶店があり、軒先にプラスチックの簡素なテーブルとイスもいくつか並べてある。目つきの厳しいアラブ系の若者が2人、腰かけて話し込んでいて、我々が通りかかると、怪訝そうに顔をあげるのだった。
その通りの端には、その昔Lという別の街まで走っていた、路面電車の廃線がへろへろ延びている。廃止されたのは20年近く前で、線路は草が繁茂していて、ゴミが沢山廃棄されている。
その次に訪れたミラノ中央にある物件は、地下鉄のP駅から徒歩5分ほどのところにある。着いた時間が早かったので、近所の洋菓子店で、菓子パンとカプチーノを頼んだ。
この辺りにアラブ系の住民が多いのは知っていたが、件の物件こそ、正面の外壁のギリシャ風のエレガントな装飾などが美しかったが、通りの反対側の集合住宅の剥げかけた外壁はとても簡素である。見ていると、アラビア語や、何語か判然としない親子などが何組か、その集合住宅に吸い込まれてゆく。彼らの表情は概して落ち着いていて、虐げられた暮らしを送っているとは思えなかった。きちんと背広を着こみ、立派な顎髭をたくわえた眼鏡の男が不動産仲介業のカルロスであった。カルロスは、柔和なスペイン語訛りのイタリア語で、この建築物は1900年前後に建てられたもので、正面入り口がこれだけ広いのは、当時は馬に乗ったまま中に入ったから、と微笑みながら語った。
中庭に入ると、売主のクリスティーナが出迎えてくれる。自分は長く柔道をやっていたから、ぜひ日本を訪れてみたい、と愛想がよい。1階の床は、木でなく、敢えて竹のフローリングを敷き詰めてある。「竹がどれだけ耐久性が良いかは、あなたたちアジア人ならよくご存じよね」。
倉庫を改造した地下室には、ドラムセットが置いてある。クリスティーナのボーイフレンドはバンドマンで、ここで練習をしている。
3軒目は、ミラノから20分ほど郊外電車に乗った先にあるPという駅より徒歩6分の物件。
郊外電車はちょうど家路に着く人々が乗る時間帯だったためか、そこそこ混んでいて、自転車を持ち込んでいる人もいる。
Pの駅前はがらんとした印象、この駅同様、最近建てられたと思しき目新しいマンションが目立つ。地階に店を出しているのは、ケバブ屋であったり、ハラル肉屋であったり。アラブ人のコミュニティに来た感じがするが、特に賑わいがある感じでもなく、寧ろ閑散としていて、落ち着いた界隈に見える。件の物件は、想像以上に大きな家であった。家の前には、アラブ人の営む八百屋があって、大根や生姜も売っている。先ほど通った道ではなく、敢えて立並ぶ集合住宅の中を通って駅へ戻ろうとすると、驚くほど目に見える光景が変化する。2人、3人単位で話し込むアラブ系の若い男たちが、総勢50人ほど居て、暗い路上から一斉にこちらに目を向けた。集合住宅の窓など割れていて、落書きと、路上に捨てられたゴミが散乱していて、荒んだ光景からは、どことなく悪臭とドラッグと思しき怪しげな臭いが鼻をついた。秋山和慶先生の逝去を知る。藤井一興先生と言い、何という一月になってしまったのか。自分たちが子供のころから育まれた音楽が、少しずつ形を失ってゆく。確かにそれは別の何かへ置き換わってゆくのだろうし、それが伝統と呼ばれるものの本質なのかもしれないが、あまりに切ない。消えていかないでほしい、どうかとどまっていてほしい、そう心の中で叫ぶ自分がいる。
トランプ大統領、厳しい不法移民強制送還政策の実施。
1月某日 ミラノ自宅
今日は1900年に建てられたという2階建ての家をU集落まで見にでかけた。初めて訪れた川べりの集落は、鄙びているというより、どこか荒んでいて、思わずたじろぐ。寂れているのともちがって、人は沢山住んでいるようだが、どこか日本の古い団地に高齢者だけがのこっていて、空いた部屋に海外からの労働者が住み着いたところを彷彿とさせた。正面の外壁はうつくしい山吹色にうつくしく塗ってあったが、家の裏側へ廻ると、非常に乱雑に打ち捨てられていておどろく。昔ながらの中規模のミラノの集合住宅の一部のみ、一部屋だけ明かりがついていて、煙突から煙があがっていた。辺りの雰囲気が荒廃していたので、住人が住んでいるのか、何者かが違法に住み着いているのか判然としない有様であった。家の裏側は塵芥が不法廃棄されていて、「無断投棄禁止」と住人が横断幕をひろげている。
日が暮れてすっかり暗くなったどこか想像上のミラノ郊外を、一人歩く夢を見た。その地域では、ラジオ放送のような地域の情報が、巨大なスピーカーから地域全般に向け、大音量で流され続けている。目の前に、金色の円いヘルメットのようなものをもつ、不審な男が道端に立っていたが、素知らぬ体をしてその脇を通り過ぎたのだが、果たして予想通り後ろをつけてくるので、勢いよく後ろを振り返ると、出し抜けに大声をあげながら黄金ヘルメット男めがけて驚かせるようにして突進した。家探しに明け暮れていると、このような夢をみるようになる。
隣で家人は「それならわかるでしょう。一番下のクラスで」、と寝言を言っているのだが、果たして彼女は何の夢をみているのだろう。一体われわれは何を夢みて生きているのか。
(1月31日 ミラノにて)