001 続・日本語

藤井貞和

水牛の寄稿を一回、お休みしました。
すると日本語が泣いています。

あわてて私は日本語にふたをしました。
ふたがやってくる 眠る代わりに

ありあわせの図鑑で「ふた」をすると、
もっとはげしく泣くのです。

貞和(ていわ)さん、冷たいあなたの教室、
にんげんの日本語はさらにはげしく泣きます。

短歌でも 俳句でも、
泣きやまない日本語の図鑑です。

泣き疲れて、それでも刻(とき)は移り、
ページにしたしたしたと涙のしずくが伝います。

大泣きのあなた、詩は書けなくなって、
したしたしたと図鑑のなかから声のしたたり。

海底の草むらに草のかげりがさすと歌って、
ひとびとは逝きました。 泣きはらしてわたしから、

あなたがいなくなる。 地上のすべてから径がなくなる。
涙のあとを航路にして伝わるページに、

考えてもみてください、おおうみは、
すべてのあなたの紅涙です。 まっ赤な海底に、

眠らないで。 独り寝の露を溜めてにんげんの古今集が、
呼びかけています。 袖を濡らして、

詩はどこへ行ったのでしょう。 紀貫之が、
泣いたのは大和物語でしたか、泣いてよいのです。

伊勢物語でしたか、もうだれからも読まれなくなり、
孤独に泣いています。 にんげんの古典に夕潮の満ちくるけはい。

大声が満ちてくる夕暮れの湾。 松風が、
明石海峡を越える、泣きながら。

俊太郎さん 助けてください。
片足を貝が食い散らす連句の涙、和歌の川、

尽くして終わるわたしどもの歌語、
うたまくら、浮くシーツ。

流れて去るわたしの天の川、……尽くして、
どこかでふたたび出逢うことになるでしょう。

そのときまで日本語よ、
続くことを祈っています。

 

(原豊二『スサノオの唄(山陰地方の文学風景)』〈今井出版、2020〉の目次。――米子の風/因幡の土/東伯耆の空/西伯耆の山/出雲の汐/吉備の丘/古典の海原/大陸の朝焼け。詩みたいで、うっとりする。副題は要らないな。「アリストテレスのほうが冷静だけど、プラトンが感じた恐ろしさが問題ですよね。芸術をを持ち出すことで人が死ぬこともある。教育で人も作っちゃう。……プラトンはNOと言う」納富信留〈『短歌って何?と訊いてみた』川野里子対話集、本阿弥書店、2025〉。川田順造は日本口承文芸学会名の英訳を考案するに際し、フォーク・ナラティヴでなくオーラル・アートを提案していたという。高木史人の情報から。「編集者から読者へ」を十八ページ付載した『未来からの遺言』伊藤明彦の仕事1〈水平線、2024〉は、読み終えて刊行の趣旨に理解がとどく。「民主主義の死」「匂いとともに棘で刺す」「霧と少女」「病院に爆弾を落とすな」『世界の起源の泉』〈岡和田晃、SFユーステイティア、2024〉)。

真っ黒の金魚(下)

イリナ・グリゴレ

植木の水を床に溢した。床は土ではないので、水はそのまま小さな湖を作った。水についてよく考えるようになったのはバヌアツ共和国のフィールドワークに行ってから。複数のフィールドワークは体力が必要だが、わかることもより多くある。日本は土、バヌアツは水。日本もバヌアツも火山だらけだけど火ではない、実際に行ってみないとわからない。水の話が水のように流れる、透明でまだ掴めない。よくものを落す私が水の状態と触り心地を理解していたと思ったがまだわかってないはず。フィールドワークは、自分が「自然」について分かったと思っていたことが、ただの勘違いだったと教えてくれる。なぜか、メラネシアという場所を知ってからこの世界を恨むのをやめた。あまりにもこの地球の自然体の姿を見せてくれたから。水を怖がる自分に大きな変化が訪れた。雪も水だから、青森で暮らしながら、毎年大量に降る雪のこともよく観ていなかったことに気付く。彫刻家の青木野枝さんにお正月の雪の写真を送ったら、「雪が生き物みたい」という返事がきた。それは私が言葉にできなかったこと。私は雪を恨んでいた。寒くて、太陽の光が届かない。ずっと降り続ける雪は重たい。

この壊れ尽くした世界まで綺麗に真っ白にしなくていいといつも思っていた。汚いまま、ありのままの姿でいいと。でもそうではない。雪のせいにして構わない。うまくいかなかったこと、遅刻したこと、イライラしたこと、悲しくなって起きられないこと、料理を作りたくないこと、少し太ったこと。なんでもいい。だって、こんな雪が積もっているから、当たり前。車を20キロ以下で運転することも。動くペースをゆっくりする。自然なことだ。昔の人は冬になれば外出せず、家にこもって漬物など保存食を食べ、わざわざ遠くまで行かなかった。それが今では冬眠しない熊さえ現れた。昨年は雪が少ししか降らず、「地球温暖化のせいで青森はりんごではなくみかんを植えなきゃいけない」という人もいたが、今年は過去最高の積雪で、いつもの「雪かきしかしていない」という口癖が戻ってきた。私は運動が嫌いではないが雪かきは苦手。雪かきは全身を使うが、スノーダンプやスコップを握る手が肝心で、特に重たい雪には力が必要。けれど握力がない。

女性だから力がないということではない。私の手の弱さは異常。それはバヌアツで水中のパフォーマンスを習った時によくわかった。小さい女の子にもできる所作が私にはできなかった。音が出たのは一回だけ。物を落とす。口に運ぶものもよくこぼす。遺伝的なものなのか、自分の身体の中の暗いもののせいか、別の理由があるのか。長女もよく物を落とすからこれは遺伝だ、とずっと考えていた。自分の先人をもっと知りたい。夢で推してほしい。ルーマニアの刑務所に入っていた社会主義時代の人に対する拷問について読んだ。その女性は生爪を剥がされ、指を粉々に潰された。自分の記憶ではそうした拷問だった。その後、一本の糸がつながった。キリスト教の始め、ローマ帝国の下に置かれた若い女性の拷問について調べていた時。彼女らは2000年経った今日の正教会で聖女に列せられるとともに、殉教の時に受けた数々の拷問が語り継がれている。

話は青森、ルーマニア、バヌアツ、古代ローマと行き来しているが、自分の中では水水しく繋がっている。時代と場所を超えて真っ黒の金魚がどの話の中でも泳いでいる。バヌアツの場合は金魚ではなく、トビウオだ。一人の女性が海へ走って、飛んだトビウオを素手で獲ったというイメージを今でも何度でも眼裏に再生させる。あの時、彼女に教わったことが忘れない。痛みが黒い魚のように心の中、頭の上にずっと飛び回っているにしても、指が潰されるような痛みを感じるとしても、その痛みの魚を追いかけ、捕まえ、焼いて食べる。全部。笑いながら。白い歯を見せながら。海や川や湖に来てあの魚を塩焼きにして全部飲み込む。苦しみの魚を丸ごと食べる。骨は野良犬にくれてやる。

冬の湖に、ふるさとをすてる

新井卓

 故郷とは思い出す景色、におい、光、味、人のまなざしと声の集まりであり、ひとつの場所のことではない──そんなことを考えたのは、冷たい湖水に、よく知らない人たちと一緒に飛び込んだからだ。
 風が立ち雲行きのあやしい週末、グリューネバルド(ベルリン南西部の森林地帯)の東にある小さな湖、寒中水泳の会に顔を出した。わたしを誘った張本人、一年ぶりの再会になる翻訳者・ティナをのぞき知った顔は一人もいない。アンナ、という何をしているのかよくわからない人が勝手にポエトリ・リーディングをはじめる。冬の木々のことをうたうその詩がとてもよかったので拍手喝采になる。ぽつぽつと集まり十人ほどになったわたしたちはその勢いを借りて、わっと声を上げ一斉に服を脱ぎ捨てた。冬ざれて、死んでいるのか眠っているのかわからないライラックの根本に散乱した下着をはだしで踏みつけながら、水辺に駆け出す。

 こういうのは思いきりが大事だから、つま先からそろそろ入水する人たちを尻目に、勢いよく頭から飛び込んだ。水は澄んでいて、近くをのんびり通り過ぎるマガモの水掻きが見えた。全身が水中に入ってしまえば、不思議に冷たさの感覚はない。全身にスチール・ウールを押しあてるような歯がゆい感覚があり、次いで、こめかみを全力で締め上げるような鮮やかな痛みが湧き上がってくる。これはなかなか癖になりそう。頭は水につけたらだめ、凍えちゃうでしょ、とアンナが咎めたが、ほかの物好きたちも合流して、それから二度、三度と大きな飛沫を上げた。

 もうおしまい!とだれかが叫び、水から出ると、肌は真っ赤に上気して身体の芯に火が燃えるのを感じた。身体を拭き、よろけながら下着を身につけた。どういうわけか、衣服を重ねるほどにどんどん寒くなってくる。ライラックの枝にタオルを干し、各々持ちよったシュナップスやウイスキーを交換しながら、みな饒舌になり、お互いに昔からの顔馴染みのような、奇妙な親密さを受けとめていた。フィンランドのことを思い出す。あそこではとにかく一度、裸になってサウナにさえ入れば、だれとでも親密になれた。

 チアゴ、というポルトガル出身のアニメーターが話しかけてくる。ライアン・ゴズリングそっくりの彼は、たっぷりと遅れてきて儀式に参加しなかったので、いまから一人で入りなよ、湖をひとり占めできるよ、とみんなにいじられ、わたしたちのところへ逃げてきた。
 ──きみ、日本人なの? もうずっと日本のアニメーションを見つづけてきたけど宮崎駿と高畑勲は別格だね。特に『もののけ姫』はすごいし、『ハウルの動く城』も自分の中でベストに入ってる。彼らの作品にはサウダーデ(saudade)の感覚がある。サウダーデ、というのは失くしてしまったものへの思慕(longing)とか、という感じ。
 ──ポルトガル人が失くしたもの、っていうのは植民地? じゃあスペイン人とかオランダ人にも同じ感覚があるわけ?
 ヘーゼルナッツ風味のシュナップスがなみなみと注がれたエナメル・カップを回し飲みしながら、ちょっと意地悪く、ティナが尋ねた。チアゴは、いや実際、大航海時代、植民地主義とは確かに関係があるよ、と言い、スペイン、オランダのことは本人たちに聞いてみて、と苦笑した。サウダーデには大西洋をこえて帰らなかった人々や落命した人々、ポルトガルの没落、という具体的な喪失の記憶が織り込まれているのだと、はじめて知った。

 日本はどうなんだろう? たとえば日本帝国統治下の朝鮮半島に生まれ、海軍士官だった祖父には、サウダーデがわかっただろうか。「失われた世代」とだれかが勝手に名付けたわたしたちの世代には、サウダーデの感覚があるだろうか。少なくとも郷愁、という日本語をあてるにはそぐわない、実体をともなった喪失(という矛盾した言い方が可能なら)の痛み。浅茅が宿。

 そういえば、『ふるさと』という歌がどうしても好きになれずにいるのは、それが過去の喪失ではなく、未来の喪失を歌うからだ(いつの日にか帰らん、って帰る気がはじめからなさそう。少なくともわたしにはそうきこえる)。未来の獲得のための犠牲、という態度こそ植民地主義的態度ではなかったか。わたしたち「失われた世代」も、地方から中央へ、そしていつか国際社会へ、という発展の共同幻想を疑わなかった。しかしその線的なモデルで、過去の喪失と未来の獲得という、ともに実体のないイメージに板挟みになった現在に留まり生きることは難しい。

 『ふるさと』からぼんやりと投影される集合的な故郷のイメージが喪失によって作られているのなら、わたしたちに本当の故郷はない。というか「わたしたちの」故郷、などというものは、初めからない。わたしの故郷は、思い出す景色、におい、光、味、人のまなざしと声の集まりであり、ひとつの場所のことでもなければ、失った何かでもない。それはここに、この身体の遍歴とともにあり、だから、帰らなくてもいい。うっかりすると、忘れてしまうことはある。そんな時は、裸になって冷たい水に飛び込み、「いま」が全身を圧倒するに任せることだ。

マイ・ファニー・バレンタイン

さとうまき

その昔、バレンタインデーが近づくと、女子社員は、チョコを買いにデパートへ駆けつけ、その日の朝がやってくると早めに出勤して男子社員の机に一生懸命チョコを並べる。とても昭和な時代だった。「義理ちょこ」これを人々は悪しき習慣とみていたのだろうか? チョコをもらうのはうれしい。しかし、数が少ないと、いかに女子から嫌われているのだろうかと落ち込んだりするし、義理チョコを義理で返すホワイトデーなるものも照れくさくめんどくさいものだった。そもそもは、製菓会社が仕組んだ戦略にみなのせられていた。

2005年、僕はチョコレート革命を企てた。「限りなき義理の愛」作戦。義理チョコに向けられる財源を、イラクの子どもたちへ投資するという作戦だった。というのはうそで、僕は、革命を起こそうなんて大それたことは考えてなかったけど、自分や、その周りが変わって楽しくなればいいなあという程度。高いお金でチョコ買うよりも、戦争で犠牲になっている子どもたちに少しだけでも愛を向けてほしいという思いと、子どもたちの絵というのは本当に面白くってみんなに紹介したいというのがあった。

結果、とても反響があった。クリスマスとは違い、当時は、カップルにとって楽しいイベント、そこにお金を消費させようというバブルなコンセプトに、戦争反対だの、自衛隊の海外派兵反対など、そういう暗くってめんどくさい、しかも意見が割れてけんかになりそうなネタを持ち込むことなどはタブーだった。しかし、うけた。「義理チョコなんてくだらないって思ってたけど、これならいいわ!」と言って買ってくれるおばさんたちがたくさんいた。

気が付くと売り上げは8000万円をこえていた。僕は調子に乗って、鼻血を流している子どもを描いた絵とか、マスクをかけている子どもの絵もパッケージに使った。イラクのがんの子どもにとっては、リアルな現実だった。しかし、やはりそういう絵は嫌だという人もいた。団体は大きくなると上昇志向にしかならない。売れるためには何でもいい。というのは言い過ぎだけど、プロのデザイナーとかがやってきて、勝手にTシャツや、ギターのデザインに使うことになったらしい。僕はあほらしくなってやめてしまったけど、お金がたくさん集まることはいいことだから、多くの子どもたちを助けてほしいと思う。

今、ガザが大変だ。シリアも大変だ。少しでも何かできないかと思って、昨年からちまちまとコーヒーを売り出した。
「バレンタイン用にデザインしてくださいよ」
と言われた。
「いやーもう、バレンタインデーはこりごりで」

何よりもガザ戦争では、私の知り合いたちが一生懸命現場にかかわっている。そのことは誇りである。ガザに家族がいる藤永さんが、子どもたちと始めた寺子屋。大きな支援が届かないところで活動している人たちにわずかでもいいから送れればなあと思っている。

子どもの絵に♥をつけ足してみる。ああ、いいなあ。やっぱり愛だ。むかし、「愛こそはすべて」という歌があったけど、ガザに愛を届けたい。https://sakabeko.base.shop/

仙台ネイティブのつぶやき(103) 記憶の中の建物

西大立目祥子

また一つ、仙台の歴史的建造物が消えた。広瀬川から引かれた七郷堀という水路のほとりに立つ染物屋の建物だ。堀の両岸は江戸時代から染師たちが暮らしたところで、明治に入ってからも大きな染物屋が並び、昭和30年代くらいまでは堀の水が藍色に染まるほどの忙しさだったという。この染物店はこの町の伝統の木綿染めでなく絹染め専門だったが、黒っぽい木造の2階建の主屋と、ガラス戸の上の木製の看板、瓦を載せた門は、この町の歴史を静かに語りかけてくれるものだった。

「越後屋染物店が解体されてるみたいです」と知人から一報が入ったのは、1月6日の午前中のことで、新年早々、ざらざらした苦い感情が押し寄せた。これまで何度もまち歩きでお世話になり、ご主人とも顔を合わせ話を聞いてきたのに。たしか一昨年、耐震調査をした話を聞いていたのに。何か力になれることはないかと思いながら、昨年は一度も訪ねていなかった。やるせない気持ちが押し寄せる。

仙台で歴史的建造物の保存活動をして、20年近くが経つ。新聞などで建て替えとか移転とか報道されたときは、事態は解体に向かって進んでいる。それからあわてて賛同してくれる人を集め動き出しても、時すでに遅し。何周も遅れてのスタートだということを思い知らされてきた。でも、同じ思いの友人ができたし、市内の中心部に近いところならば、どこに貴重な建造物があるかという地図が頭の中に描けるようになった。この建物は、私の中では残したい建造物の筆頭に上がるものだった。いや、仙台の街にとって、といいかえてもいい。もちろん持ち主のお気持ちとはまた別の、外野の勝手な思いなのだけれども。

こういう建物が消えると、穴が空いたような気持ちになる。残念ねとか、前に見学できてよかったとか、今回もいろいろな人にいわれたけれど、私の感情はもう少し複雑で重い。親しい人を失ったとき、もう少し何かしてあげられたのでは、という思いがついて回るのに近いかもしれない。壊されたらもう二度と見ることはできないのだ。亡くなった人にもう二度と会うことはできないように。だから、建築関係の人たちが解体前に「記録保存をとる」といういい方をするのに、いつも違和感を抱いてきた。それって記録ではあるけれど、保存じゃないでしょう、と。

現場を見るのが恐かった。でも翌日夕方、陰った日射しの中を車で出かけ、スピードを殺して近づいた。もうブルーシートで覆われ、建具は外され、パワーシャベルの重たい頭が主屋の手前にのしかかって半分ぐらいはつぶされていた。いたたまれない気持ちで降りずに通り過ぎた。古いのに輝きがあってしっかりと存在を主張していた建物の姿は、もうどこにもなかった。木造の解体の何とたやすいことだろう。人が守らなければ、それは簡単に崩れ落ちる。

旧知の記者さんから写真を持ってませんか、と問われ、パソコンの中の写真をさかのぼって探してみる。ない。え、ないはずはない。そう思ってもう一度見る。やはりない。CDにまとめていた画像も開いてみるが、一枚もないのだ。壊れてしまった前のハードディスクの中に入っていたんだろうか。

建物は消え写真も失せたというのに、記憶の中の画像がくっきりと鮮明に頭の中に浮かび上がる。ふっと、赤と白の餅をつけたかわいらしいだんご木の小枝が、門柱に刺してあったことを思い出す。門をくぐって入ると、玄関わきには丸窓が切ってあったっけ。もうだいぶ前のことだが、父が亡くなったとき、まったく覚えていなかった暮らしの1コマが、記憶の箱の蓋をぽんと破って出てきたみたいによみがえったことがあった。それと同じことなんだろうか。

昭和11年に立てられたというその建物は、2階は南側と東側が大きく切られ全面にガラス戸がはめられていたから華奢で柔らかな印象だった。全体はいぶしたような焦げ茶色で、そこにぴかぴかに磨き上げられたガラス戸が立ち、日中は隅に白いカーテンがきちんとまとめられている。堀の向かいから眺めるたび、ほれぼれとした気持ちにさせられた。ガラスはまず何より輝きなのだ。磨いていたのはご主人。コツがあるんだよ。こういう古い建物はガラスが汚れていてはみすぼらしいからね。そう話されていた。

1階の店も南側はガラス戸で、入ると半間ほどのたたきがあり、上がり框があって畳が敷かれ、昔ながらの座売り形態だった。奥の座敷との境の扉まで見通せる広い空間だったから柱は少なかったのかもしれない。でも、東日本大震災の激烈な揺れをうまく逃がすようにして、そう大きな被害も受けずに建物は生き延びた。

畳の向こうに大柄なご主人が座り、手前には横顔の美しい奥さんがおだやかな表情で座り、お二人で柔らかな絹の織物にちくちくと針を通しているようすを、絵を見ているようだなと思いながら見つめたことがあった。こんな1コマも記憶の中から鮮やかによみがえってくる。

よく手をかけられ、ていねいに使われてきた建物は、深い呼吸をする生きもののようだ。

4代にわたって暮らし商ってきた建物を自ら壊すと決めたその心中を思うと、ことばが見つからない。でも何か、ひと言何かを伝えたくて、スマホに残っていた番号に電話をかけてみる。無音。固定電話は切られていた。残っていた住所に手紙を書こうと思い立つ。せめてお礼ぐらい伝えたい。でもどんなにことばを重ねてもご主人の無念には到底届かないような気がして、ひと月近くが経つというのにまだ出していない。

新正月と旧正月のあいだで

仲宗根浩

今年の正月二日まで休みにあたったので何年かぶりに実家で酒をあおる。一月から駐車場にまた勝手に車とめられること二回。一回はドライバーがいたのですぐ移動してくれたが二回目、ちょっとスペースがあったのですぐに出られないようにギリギリ前につけて自分の車を入れ、勝手にとめるなこの野郎的な文言を日英の言語でプリントアウトしてワイパーに挟む。今年もこれからこういうことが度々あるのだろうか、駐車場をべつにさがそうか。

去年初めて車検が済んで六か月の車の点検終わり雨の中ドライブ。となりの市、今ははうるま市になっているがもとは具志川市の宇堅ビーチ、当たり前に誰もいない。三十分は無料の駐車場に入ると、スピーカーからヒップホップ系の音楽が流れている。どんよりとした雲、小雨のなかこじんまりとしたビーチをざっと眺めて駐車場から出て、キャンプ・コートニーを過ぎて天願の十字路を右に曲がり石川方面に向かう。コロナ禍で営業をしていなかった石川漁港の食堂の現状を確認しに行く。漁港食堂は居酒屋になっている。中に入ると前の漁港食堂の雰囲気がないが、 ランチメニューで営業していて先客二名。メニューは 鉄火丼、ポキ丼、マグロユッケ丼、イカスミ汁、山羊汁。入ったからには何か頼まないといけないような店内の圧というか様子。テーブル席に座り、漁港で山羊汁は無し、イカスミもちょっと気分ではない。鉄火丼は無難だか当たり前すぎる。ポキ丼も雨の中気分じゃないので食べたことがないマグロユッケ丼を頼む。どんぶりに天ぷら、汁物はお椀に入った沖縄そば。肉のユッケはもう食べられないから。マグロでもいいか。そういえば最近スーパーでアジのユッケが出ているのを見かけた。

末になり注文していたCDが届く。注文したのはいつ聴くのか。あるミュージシャンのアーカイブはvol.4まであるがまだ2までしか聴いていない。その他未聴CD多数、ジャンルばらばら。今年は地道にコツコツと聴くしかない。
となりの駐車場の奥のパパイヤの木に小ぶりの実がぶら下がってる。通りに緋寒桜も咲き、旧正月も終わった。

2025

笠井瑞丈

2025年

新しい年です
新年を迎える

一昔前は今年の抱負
これからの事などを
考えることが多かったが
ここ最近はなぜか

未来の事を考えることより
過去の事を思い出すほうが

多くなった気がする
きっとそう思うには

過去を過ごした時間が
未来を過ごす時間を
上回ってしまったのかも

引き出しの中の荷物の方が
空き場所より多くなってしまった

これからこの空き場所に
何を入れていくのだろう

もう無駄な荷物は入れるわけにはいかない
なるべく大切なものだけを入れていく事に

入る場所だって限られているのだし

ただ

今まで入れてきたものが
無駄だったとは思わない

ただ

時間

空間


有限


水牛的読書日記 2025年1月

アサノタカオ

1月某日 新しい年を迎え、宮内勝典さんの長編小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)を読む。1998年の単行本刊行からずっと続けている年末年始の儀式で、今年が27回目となる。昨年は、三重・津のブックハウスひびうたで、宮内さんの旅と文学をめぐるお話をじっくりうかがう集いを主宰し、感無量だった。

1月某日 講師業の仕事始めで、東京へ。明星大学の授業「マイノリティの文化」でゲストスピーカーを務める。李良枝の小説「由熙」を中心に、少数派の作家による日本語文学の名作を紹介。いつか、李良枝の文学に挑む学生がひとりでも現れればうれしい。

夜は神保町に移動し、韓国書籍専門店チェッコリの書評クラブのメンバーと打ち上げ。チェッコリの佐々木静代さんとともにぼくが企画編集を担当し、昨年末に出版したZINE『次に読みたいK-BOOK![小説・エッセイ編]』のお祝い。メンバーのみなさんから、韓国ドラマやウェブトゥーンの最新情報を教えてもらった。

1月某日 東京・外苑前駅近くのNineGalleryで、渋谷敦志さんの写真展『能登を、結ぶ。』を鑑賞。地震発生から1年、渋谷さんが記録した半島の風景の中に立つ人々のまなざしを、目に焼き付けた。同題の写真集(ulus publishing)を入手し、帰りの電車のシートに腰を沈め、大判の本のページをひらく。

1月某日 植本一子さんのエッセイ集『それはただの偶然』を読む。出会いと別れ、人と人のあいだに揺らめく情感を深く見つめる植本さんの文章はいつもすばらしい。エッセイのことばも、あいだにはさまれる詩のことばもよかった。植本さんの人生に何か大変なことがあったようで、心配になる。

1月某日 学生時代を過ごした名古屋へ出張。10代後半から通い始めた書店、ちくさ正文館の不在をこの目で確かめてきた。工事中の敷地の仮囲いには、「マンション建設予定地」の看板が掲示されている。ちくさ正文館の入り口近くの小さなカウンターの中には、名物店長の古田一晴さんがいつもいた。書店も古田さんも、もうこの世にはいない。

ちくさ正文館の近くにあった中古盤専門店ピーカン・ファッヂもなくなり、お店が入っていたビルはタワマンに変わっていて驚いた。ピーカンの元オーナーである李銀子さん、張世一さんに会い、古田さんの思い出話も聞いた。李銀子さんは作家でもあり、『別冊中くらいの友だち 韓国の味』(クオン)にエッセイを寄せている。

夕暮れ時、東山公園駅前のブックショップON READING へ。お店の書棚で1冊のZINEに出会い、移動中に読み込んだ。COOKIEHEADさん(東京出身、2013年からニューヨーク在住)の『属性と集合体と、その記憶——アジア系アメリカとしてアジア系アメリカを考える』。全42ページの小著ながら、批評的エッセイの醍醐味を味わい、魂のこもった知性の言葉に読後の胸が熱くなった。

アメリカにおける原爆のこと、アジア系としての加害と被害をめぐる記憶のこと。「アジア系アメリカ」「+女性」という集合体の歴史的経験を先人の著作によりながら粘り強く読み解き、「植民地主義」という大きな問題を自分を抜きにしないで考え続ける姿勢に背筋が伸びた。あとがきとして書かれた、パレスチナ解放のマーチに行った日のエッセイは感動的な内容だ。

アジア系アメリカ文学に関心があるのでこのZINEを手に取ったのだったが、COOKIEHEADさんのことは、ZINEの著者プロフィールに記載されている情報——「ファッション業界で働くかたわら」「文章を綴る」、ということ以外はわからない。日本からアメリカへ移り住み、複眼的な視点から批評的エッセイを書く女性作家たち、たとえば「水牛」とも関わりの深い翻訳家の藤本和子さん、そしてライターの佐久間裕美子さんの系譜に連なる書き手だろうと直感。帰宅後にネットで検索したら、COOKIEHEADさんは佐久間さんと東京の書店で対談しているようだ。

1月某日 三重へ。伊勢参りをした後、外宮近くにある散策舎を訪問。日本一聖地に近い本屋さんではないだろうか。青緑の壁が美しい静かな店内で、主の加藤優さんからいろいろなお話を聞く。散策舎が発行する本、岡野裕行さん『ライブラリー・オブ・ザ・イヤー選考委員長の日記 二〇二二年』を購入。ライブラリー・オブ・ザ・イヤーは、「これからの図書館のあり方を示唆するような先進的な活動を行っている機関に対して、NPO法人知的資源イニシアティブが毎年授与する賞」とのこと。そのような賞があることを知らなかった。

1月某日 三重・津のHACCOA(HIBIUTA AND COMPANY COLLEGE OF ART)で講師を務める「ショートストーリーの講座」の最終回。原稿編集のポイントを解説し、これから受講生が小説やエッセイの課題を仕上げるのだが、作品が届くのが楽しみ。

講座後の夜、HACCOAの会場でもあるブックハウスひびうたで主宰する自主読書ゼミに参加。課題図書は、石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)の第3章「ゆき女きき書」。今回は特に、参加者から種々様々な意見が飛び出して、語り合いが大いに盛り上がった。『苦海浄土』が読書会向きだと気づいたのだが、それはこの本の中に複雑で豊かな声が折りたたまれているからだろう。読むことでひらかれる「引き出し」がたくさんある、ということだ。

今年からチェッコリ翻訳スクールで「翻訳者のための文章講座」もはじまり、翌朝にHACCOAの事務所を借りて第1回の授業をオンラインでおこなった。

1月某日 大阪で出版関係の打ち合わせを終えて帰宅すると、ヴェリミール・フレーブニコフ詩集『KA』(志倉隆子訳、阿吽塾)が届いていた。編集協力者で北海道・小樽在住の詩人の長屋のり子さんから。ロシア未来派の詩人による実験的な叙事詩で、ロシア文学者の亀山郁夫さんらが解説を書いている。亀山さんの名著『甦るフレーブニコフ』(平凡社ライブラリー)と合わせて、じっくり読みたい。

1月某日 サウダージ・ブックス代表で妻のKが、整体の先生からすすめられて読んでよかったという本を見せてくれる。演出家の竹内敏晴の評論『ことばが劈かれるとき』で、Kが手にしているのは思想の科学社版の単行本だった。なつかしい、なつかしい愛読書。竹内先生は晩年名古屋に住んでいて、ぼくが通う大学でときおり講演を行うことがあった。遠くから仰ぎ見る存在だったが、学生時代に『ことばが劈かれるとき』を読んで深い感銘を受け(ちくさ正文館で買ったのだと思う)、以来先生に私淑したのだった。この本は、いまはちくま文庫から復刊されている。

1月某日 今枝孝之さんが発行する海の文芸誌『SLOW WAVES issue04』(なみうちぎわパブリッシング)を読み始める。特集「日記の中の海」に、「海の子どもたち」と題してエッセイを寄稿したのだった。クボタノブエさんの色鮮やかな表紙イラストで飾られた、愛らしい一冊。

巻頭に掲載された詩人・犬飼愛生さんの作品「柔らかな砂」がとてもいい。ポケットに入れて人生のお守りとして持ち歩きたい、詩のことばだ。

本小屋から(13)

福島亮

 今年は1月1日がだらだらと続いた。1日の夜に羽田を発ち、まずはホノルルでトランジットし、それから目的地であるニューヨークへと、太平洋を横断して、つまり1日をずっと延長しながら過ごしたからである。ちなみに、出発したのは夜の20時だったが、ホノルルに着いたのは1日の朝8時だった。得した気分である。

 ニューヨークに行ったのは、とある学会の年次大会に参加するためだった。冷戦以降の歴史の語り方をアジア、東欧、西欧の視点から検討する、というパネルセッションの報告者のひとりとしての参加だった。ヒルトン・ホテルとシェラトン・ホテルの会議室フロアを借り切り、3日から6日までの4日間、8時から20時まで合衆国はもちろん、世界中の研究者が集って研究発表し続ける、という、豪快にしてストイックな大会だった。

 英語がからきしダメな私は、12月頃から、大学でフランス語を教えるかたわら自宅では英語の自学自習に励んでいた。学期末試験が近いので、学生たちには試験勉強をするよう促し、発音をさせてはそれを修正し、読解をさせてはその解釈に講釈をたれていたのだが、当の教員は帰宅後こっそりと英単語を覚え、冷や汗を流しながら発表原稿の音読をしていたのである。

 この英語学習は現地についてからも続いた。到着したのは2日で、登壇は5日である。ということは、残り時間は3日。この時点で、原稿はすでにできていた。だが、辞書を引き引き書いた文章は、口頭発表では使い物にならない。というのも、読み上げた時にどうしても不自然になってしまうからだ。頭だけで書いた文章で使われている語彙は、からだに馴染んでいないために、読み上げるとぎこちなさに拍車がかかる。そこにきて、私の発音は、まあひどいのだ。聴衆からしたら、おそらく何を言っているのかわからない代物になってしまうだろう。というわけで、私の低い水準でも口から出てくるような単語で言い換え、場合によってはいくつかの単語に馴染んでおく必要があるわけだ。

 告白しておくと、ニューヨーク行きのために、私は近所の啓文堂書店で『地球の歩き方 ニューヨーク、マンハッタン&ブルックリン2024〜2025』を購入し、観光地の下調べもしていた。だが、それらを楽しく観て回る余裕はなく、ホテルの一室でひたすら発表練習をしていたのである。

 ノックの音。扉を開けると、ラテン系の顔立ちをした中年の女性が立っている。ハウスキーピングです。あの、掃除中も、部屋に、のこっていても、いいでしょうか? ええ、もちろん。たどたどしい英語が通じた! 業務的な英語ではあるけれども、きちんと返答してもらえた! そんな低レベルな喜びに浸りながら、同時に惨めだった。期末試験の前日に出題されそうな問題にやまをかけて一夜漬けしたとき、頭の中には、結局は定着することのない朧げな知識がもやもやぐるぐると渦巻いているものだが、その時の私も同じ状態だった。思えば、こんなふうにもやもやぐるぐるとしたままこの歳まできてしまったような気がする。

 携帯電話の着信音が鳴り響く。ベッドのシーツを替えていた小柄な中年の女性がポケットからスマートフォンを取り出す。笑いながら彼女が発したのは、生き生きとしたスペイン語だ。それまでの業務的な英語ではなく、友人とおぼしき相手と話す、楽しそうなスペイン語。優しい音、明確な音節、簡素な構文、そして遠い縁戚のようないくつかの単語を、縮こまっていた耳がとらえる。ロマンス語の響き。そのにぎやかな音色が、惨めな気持ちに浸っていた外国語学習者にはなんとも心地よく、と同時に、いま目の前でスペイン語を発している彼女がどのような経験を経てマンハッタンで英語を話しているのか気になった。

 マンハッタンで出会ったスペイン語は、ほんの一瞬のものだったけれども、忘れられない輝きを放っていた。スペイン語の時間は30秒ほどで終わった。そのわずかな時間が、ずっとずっと続けば良いのに、と思った。

舞踊の表情

冨岡三智

ジャワ舞踊では表情を作らずに踊る。私はニコニコして踊っていると言われることが多く、ジャワ舞踊では笑顔を作らないんじゃないの?と批判気味に言われたこともある。けれど、別に意識してニコニコしているわけではない。初心者が踊るとき、笑顔になって~とアドバイスする人がよくいるが、自分自身はそういう言われることが好きではないし、そうするものでもないと思っている。

ではどうすればよいのか、あなたはどうしているのかと敢えて問われたら、私は無理に表情のことは考えなくて良い、私もそうしていると答える(今まで数人にしか言ったことはないけれど)。ニコニコであれ無愛想であれ、表情というのは外から作るものではなくて、内から出てきたものの結果だと思うのだ。もっとも、人間の心の働きは一筋縄ではいかないので、悲しい時やつらい時に無理にでもニコニコすることで気分が上向くこともあるから、外から形を作ることも悪いとは言い切れない。外に向けた顔を意識することで、内面が影響を受けてくることもあり得るだろう。けれど、舞踊の場合、作った微笑みはなんだか顔に貼りついたシールみたいな感じで、むしろ観客に踊り手への距離感を感じさせてしまうように思う。観客を引かせてしまうと言うか…。

私は表情をどうこうしようとは思わないけれど、これから踊る空間や音楽に身を浸そうとは思っている。リハーサルや事前の練習がそこでできるなら舞台に立って、舞台の前後左右、上中下をぼーっとゆっくり見ていく。すると、なんとなく気になる方向があるものだ。そっちを向くと自然と嬉しくなって頬が緩んでしまう方向だとか、背中を向けていても何となく気になる方向だとかが。私には霊感はないので、霊的なものがそこにいるという考え方はしない。けれど、何かが存在し偏在していて、そちらこちらに手繰り寄せられるような気になってくる。そこにガムラン音楽が響いてくるとドライブがかかって、私という空っぽの器に音がどんどん流れ込んできて、その器が空間の中を漂い始める…。

私が踊っている時にニコニコしているとしたら、そういう空間や音楽が私の中に流れ込んできた結果で、何かしら嬉しい気分に満たされたものが表情として顔に出てきていたのだろう。たぶん、自分の意識が空間や音楽に対して開いていけば、自然に作っていない表情が生まれる。そんな表情がジャワ舞踊で言う無表情なのではないかな?、と思っている。

しもた屋之噺(277)

杉山洋一

家探しに明け暮れた一カ月が過ぎました。イーロン・マスクはトランプ大統領の就任イヴェントで右手を斜め上に掲げ、つまりローマ式敬礼、ひいてはナチス式敬礼と揶揄されながら、トランプ大統領は反ユダヤ主義の学生の国外追放を発表し、ガザの市民をヨルダンや周辺国に移住させる計画まで報道されていて、イーロン・マスクはドイツ極右政党の政治集会で「ドイツは過去の罪悪感にとらわれ過ぎている」と発言したとも言われます。こうしてみると、現在までの世界の常識は、音を立てて変化しているのを感じます。わたしたちが変わるべきか否か、受け入れられるか否かに関わらず、この変革のスピードに自分も何等かの形で追随してゆかなければ、想像を超えるとんでもないことが起きるのかもしれません。そう痛感する一年の始まりでした。

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1月某日 ミラノ自宅
新年早々、家人と連立って久しぶりにミラ宅を訪問する。ミラ宅に厄介になっているさくらちゃんが甲斐甲斐しく手伝っていて、イタリア語も上手になっていておどろく。去年春にミラが日本旅行をした際は、さくらちゃんが随分助けてくれたのよ、とミラも大層嬉しそうで、各地の神社仏閣を巡った際の御朱印帳を自慢げにみせてくれる。こちらは不学で、御朱印帳が何かすら知らなかった。地下鉄4番線が開通したので、我が家からサルディーニ通りのミラ宅まで、フラッティーニ駅からスーザ駅まで地下鉄を使って簡単にゆけるようになった。我ながら現金なものだと呆れるが、4番線が全線開通したのはつい先日だというのに、開通以前のミラノのアクセスのイメージをすっかり忘れてしまっている。日本に戻っている息子が年始に町田の両親を訪ねた。彼が大好きなトンカツとハンバーグはもちろん、おせち料理も雑煮もよく食べた、と両親も喜んでいた。昨年11月に顔面神経痛になった父は、もうすっかり快復したようだ。バイデン大統領、アメリカの安全保障とサプライチェーン保証のため、日本製鉄によるUSスチール買収計画禁止を発表。韓国では、警備隊200人がユン大統領の拘束を阻止との報道。ロシアは1日から旧ソ連構成国モルドヴァへの天然ガス供給停止したため、モルドヴァ内の親ロシア沿ドニエストル地区では暖房、ガス供給停止。

1月某日 ミラノ自宅
日本に戻っていた息子がミラノに帰宅。ここ数日酷い眩暈と吐気で布団からでられなかった。年末から体調はあまりよくない気がする。シャリーノがミラノの国立音楽院で教えていた当時は、和声や対位法などより作曲のレッスンが面白かったと、当時音楽院の学生だったマンカやピサ―ティから聞く。昨年の東京でのワークショップでは、シャリーノは超高音部の音程を「できるだけ高い音で」と不確定に書くのを嫌がり、音域が殆ど確定できないほど飛びぬけて高いものであっても、出来るだけ音高を指定するよう助言していたのを思い出す。メローニ首相、トランプ次期大統領と会談。

1月某日 ミラノ自宅
天地万有、どのような事象であれ、良いことと良くないことは、常に対になって組合わさっている。喜ばしいことの後に喜べないことが起こり、また良いことが戻ってくる。可もなく不可もなく、こうして人生のほぼすべてを我々は生き永らえているわけだが、恐らく人生のある一時期、誰でもその均衡が崩れるときがあって、恐らくそれは、否定的事象の連続を実感するときだ。半世紀も生きてみると「急がばまわれ」は、やはり真理だと思うようになった。イタロ・カルヴィーノの「アメリカの講義」で、メドゥーサを斃すために盾に映りこんだメドゥーサを狙った逸話がでてくるが、状況を覆すためには、常に軽さをもって立ち向かうことも必要になる。個人的な皮膚感覚で言えば、「急がば、軽さをもってまわれ」。

ところで、自分がすばらしい曲だと感服して聴きいるとき、既にそれを書いた人がいるわけだから、すっきりと諦めを持って聴くことができる。それを倣っても、大方自分が納得できるものにはならない、という経験値のようなもの。アルメニア政府、EUヨーロッパ連合への加盟交渉への法案決定。

1月某日 ミラノ自宅
年末、家主のウリッセに会った際、ミラノの地価高騰もあるので、2月末で更新となる賃貸契約を現在の1,7倍に値上げしたいと言われ、すっかり当惑した。家人とも話し合い、結局新しい家を探すことにする。先日も連立ってセストの物件を見に行ったが、条件に比較して安価と思われる物件は、何某か問題を抱えているようにみえる。1940年に建てられたマンションの一部、110平方メートルの敷地に、当初は庭だったであろう200平方メートルの貸ガレージがついている。元来、現在まだそこを貸している状態だから、イタリアの法律上、簡単にガレージを空にするのも難しく、しっかり屋根を設えてあるから、密閉されてしまって窓を開けても一切新鮮な空気は入ってこない。地下の倉庫には、大きな酒樽が何個も並んでいた。

今日は、北へ向かう郊外電車で15分ほど行ったところにあるボッラーテとガルバニャーテを訪れた。とっぷりと日が暮れたガルバニャーテの街の広場は閑散としていて、中央には小さなスケートリンクが設営され、小さな子供が数人、氷上で反り遊びをしていた。かそけく点滅するクリスマスの電飾が寂しさを誘う。

イスラエル、イエメンのフーシ派軍事拠点を攻撃。「イスラエルを脅かす何れの者に対しても、断固たる態度をとる」。

1月某日 ミラノ自宅
息子はヴェニスに滞在している留学生と連立ってブレラ訪問。アイエツの「接吻」が特に気に入ったという。アイエツと言えば、音楽でいえば、時代的にも作風もヴェルディに匹敵するから、なるほど、子供のころからヴェルディは歌ってきたし、息子はやはり国家統一運動のころの情熱と滋味あふれるイタリア芸術が好きなのだろう。

かく言う自分が「接吻」を最初に見たのは、恐らく中学か高校の教科書だったと思うが、どのように説明されたのか、全く記憶にない。或いは、教科書に書いてあっただけで、素通りされたのかも知れないし、この記憶すら正しいか甚だ怪しい。ただ、ボッチョーニの「空間における連続性の唯一の形態」と邦訳されることの多い代表的彫刻作品と、ルーチョ・フォンターナの「空間概念・期待」が掲載されていたのはよく覚えている。

教科書と言うと、未だに不思議なのは、音楽の教科書に小山清茂の「木挽歌」とともに掲載されていた、グロフェの「グランドキャニオン」だが、未だに実演を聴いたこともないし、客観的にみても他にもっと知った方がよいと思われる曲はいくらでもあるように思うが、何故あの曲が選ばれたのだろう。

因みに、息子は昨年末2回もムンク展に出かけて「叫び」を堪能したらしい。イタリアでは40年ぶりの大規模なムンク展で、100点もの作品が集められ、大成功を収めたと聞いた。ムンクが5つ作った「叫び」がそれぞれどう違うのか興奮気味に話してくれたが、考えてみれば「接吻」も1859年から61年にかけて3作あったが、それから30年を経て、「叫び」が描かれたことになる。どちらも人の描写に終始しているものの、絵画の世界は、音楽よりも変化、発展が本当に著しいと感心させられる。

カタールのムハンマド・サーニ首相、イスラエルとハマスの42日間におよぶ停戦の第一段階合意を発表。

日本から戻って来たばかりで時差呆けの家人が、夜明け前、日本に電話している声がきこえる。高野さんと息子のモーツァルトの自慢話。

1月某日 ミラノ自宅
思いもよらぬ藤井一興先生の訃報に言葉を失う。平山美智子さんがイタリア本国ではシャリーノを歌っていらしたけれど、恐らく、ヴァンドリアンの演奏会で功子先生と一緒に最初に日本でシャリーノを弾いた日本人演奏家ではなかったか。武満徹さんのCDはもちろん現代作品のスペシャリストとして、子供のころから数えきれないほどの実演にふれる機会があった。藤井先生の音の輝きは、彼の頭の裡に広がる宇宙の光を体現していた。宇宙というと漆黒の闇を想像してしまうけれど、彼の宇宙は光が湧き溢れる泉のような空間だった。光は本来直線に進むものなのだろうが、彼の身体に満ちている無数の光源は、その一つ一つが生命体であって、曲線も自由に描けるし、太さも早さも色彩までも自在に変容した。

藤井先生と個人的に懇意になったのは、家人が藤井先生を敬愛していたからだ。長年私淑して深く影響を受けていただけでなく、藤井先生の音楽への姿勢に強く共感して、機会のある度に、自分の生徒や、クラスや、勉強会に藤井先生を招いていたし、結婚してすぐにご挨拶にも伺った。最後に藤井先生の実演に触れたのは、家人との共演でヴィシェネグラツキ―の前奏曲集だった。

あの後の打ち上げで、余程演奏会が楽しかったのか、先生がずいぶん紹興酒を深酒していらして、家人と心配していた。彼女はあの後も何度もご一緒する機会はあっただろうが、まさか自分にとって最後の機会となるとは想像もしなかった。いまごろ、藤井先生は慕ってやまなかったメシアンに再会されただろうか。メシアン先生は本当に心の優しい方でした、と繰返していらしたけれど、再会して、まず何を話していらっしゃるのだろうか。

1月某日 ミラノ自宅
ジョゼッペという年長の指揮の生徒がいて、彼は国立音楽院を卒業したフルーティストだが、中学の音楽教員をしながら、同じような境遇の演奏家たちを集めて小さなオーケストラを作った。もちろん指揮者はジョゼッペである。もう1年半近く続いていて、演奏会は15回はくだらないというから愕く。コンサート・ミストレスは、ウクライナの国立響で弾いていた女性。

今日は、同じく中学で音楽教諭をしているマッシモや息子もそこで半時間ほどモーツァルトを振らせてもらった。いつも演奏ばかりしている人たちではないから、アマチュアのようでもあるが、基礎はしっかり勉強している人が多いので、一概にアマチュア・オーケストラともよべないし、暫く弾いていてこなれてくると、素敵な音がでてくる。息子曰く、弦楽オーケストラより管楽器が入って派手なので振っていて楽しいらしい。大変素直で素朴な感想。

反してマッシモは、改めて自分の振っている姿をヴィデオでチェックしたが、どこがどうわるかったか、何が出来ていないか、など長いメールで反省点をまとめてきた。

オーケストラを作って、それが続いていると言うのだから、ジョゼッペは余程の人たらしなのだろう。大した才能だとおもう。聞けば、数年前に右派「フォルツァ・イタリア」党から、ミラノ市会議員に立候補までしたことがあるらしい。

トランプ大統領が就任し、早速パリ協定から離脱し、世界保健機関から脱退。ガザでは42日間の停戦がはじまり、韓国の大統領は拘束された。

1月某日 ミラノ自宅
今日は、午後から家人と連立って3つの物件を訪ねた。まず最初に地下鉄終点のCまで行く。我々が住んでいる地域は、住み始めた当時とても犯罪率が高い地域であったけれど、20年ですっかり様相が変わり、今ではミラノのコレクションなどの服飾関連のメッカが近くに出来て、行き交う人々も、労働者階級より、むしろ洒落たモデルのような人々が目立つようになった。20年前は軒を連ねていた、渋いペンキ塗りの看板を掲げる昔からの個人商店はみるみる廃れてシャッターを下ろし、替わって、派手な電光掲示板などのフランチャイズ店が出店した。フランチャイズだからか、特に地元に根付くこともなく、経営が立ち行かなくなれば店を閉めて別のフランチャイズが入るだけのことであるが、何代にもわたって続いてきた個人商店がなつかしい。

そんなことを思い出しながら、Cで近郊バスに乗り込み出発を待つ。周りをみると、二人で連立った妙齢も、少し年配の女性も、アフリカ系や中南米系の労働者から火を点けてわけてもらって、愉しそうにタバコをくゆらせている。普段、タバコを吸う女性をあまり見かけることは稀であったが、この辺りはどうも勝手が違うようだ。

Cというと、昔からマフィアなどの犯罪組織が取り立てて高く、街の名前を冠したCギャングの存在も、ミラノに長く住んでいれば知るようになる。果たして、見学した物件は、背の高い自動式鉄扉で外界と切り離されていた、塀の中のちょっとした楽園のようである。聞けば、住んでいるのはミラノ中心街で働く実業家で、ミラノの中心の喧騒が嫌で、この家を買って好きなようにコーディネートしたらしい。彼がミラノから別の場所に移るので、この物件を売りに出したという。玄関から入ると、吹抜けのように天井の高い部屋が一つあって、トロフィーがたくさん並んでいる。巨大な薄型テレビをはじめ、台所、家具、調度品どれもとても現代調で凝っている。床には全てじゅうたんが敷き詰めてあるので、家に入る時には、靴にビニールをかけなければいけない。

その家は細い路地に面していて、角には「金買います。換金屋」という怪しげな店がネオンを輝かせている。隣は中国人の風俗マッサージ店。そこから数件、とても古そうな商店が軒をつられているが、どれも少し壊れかけた斜めのシャッターが下ろされていた。その隣には、割と新しい感じの喫茶店があり、軒先にプラスチックの簡素なテーブルとイスもいくつか並べてある。目つきの厳しいアラブ系の若者が2人、腰かけて話し込んでいて、我々が通りかかると、怪訝そうに顔をあげるのだった。
その通りの端には、その昔Lという別の街まで走っていた、路面電車の廃線がへろへろ延びている。廃止されたのは20年近く前で、線路は草が繁茂していて、ゴミが沢山廃棄されている。
その次に訪れたミラノ中央にある物件は、地下鉄のP駅から徒歩5分ほどのところにある。着いた時間が早かったので、近所の洋菓子店で、菓子パンとカプチーノを頼んだ。
この辺りにアラブ系の住民が多いのは知っていたが、件の物件こそ、正面の外壁のギリシャ風のエレガントな装飾などが美しかったが、通りの反対側の集合住宅の剥げかけた外壁はとても簡素である。見ていると、アラビア語や、何語か判然としない親子などが何組か、その集合住宅に吸い込まれてゆく。彼らの表情は概して落ち着いていて、虐げられた暮らしを送っているとは思えなかった。きちんと背広を着こみ、立派な顎髭をたくわえた眼鏡の男が不動産仲介業のカルロスであった。カルロスは、柔和なスペイン語訛りのイタリア語で、この建築物は1900年前後に建てられたもので、正面入り口がこれだけ広いのは、当時は馬に乗ったまま中に入ったから、と微笑みながら語った。
中庭に入ると、売主のクリスティーナが出迎えてくれる。自分は長く柔道をやっていたから、ぜひ日本を訪れてみたい、と愛想がよい。1階の床は、木でなく、敢えて竹のフローリングを敷き詰めてある。「竹がどれだけ耐久性が良いかは、あなたたちアジア人ならよくご存じよね」。
倉庫を改造した地下室には、ドラムセットが置いてある。クリスティーナのボーイフレンドはバンドマンで、ここで練習をしている。

3軒目は、ミラノから20分ほど郊外電車に乗った先にあるPという駅より徒歩6分の物件。
郊外電車はちょうど家路に着く人々が乗る時間帯だったためか、そこそこ混んでいて、自転車を持ち込んでいる人もいる。
Pの駅前はがらんとした印象、この駅同様、最近建てられたと思しき目新しいマンションが目立つ。地階に店を出しているのは、ケバブ屋であったり、ハラル肉屋であったり。アラブ人のコミュニティに来た感じがするが、特に賑わいがある感じでもなく、寧ろ閑散としていて、落ち着いた界隈に見える。件の物件は、想像以上に大きな家であった。家の前には、アラブ人の営む八百屋があって、大根や生姜も売っている。先ほど通った道ではなく、敢えて立並ぶ集合住宅の中を通って駅へ戻ろうとすると、驚くほど目に見える光景が変化する。2人、3人単位で話し込むアラブ系の若い男たちが、総勢50人ほど居て、暗い路上から一斉にこちらに目を向けた。集合住宅の窓など割れていて、落書きと、路上に捨てられたゴミが散乱していて、荒んだ光景からは、どことなく悪臭とドラッグと思しき怪しげな臭いが鼻をついた。秋山和慶先生の逝去を知る。藤井一興先生と言い、何という一月になってしまったのか。自分たちが子供のころから育まれた音楽が、少しずつ形を失ってゆく。確かにそれは別の何かへ置き換わってゆくのだろうし、それが伝統と呼ばれるものの本質なのかもしれないが、あまりに切ない。消えていかないでほしい、どうかとどまっていてほしい、そう心の中で叫ぶ自分がいる。
トランプ大統領、厳しい不法移民強制送還政策の実施。

1月某日 ミラノ自宅
今日は1900年に建てられたという2階建ての家をU集落まで見にでかけた。初めて訪れた川べりの集落は、鄙びているというより、どこか荒んでいて、思わずたじろぐ。寂れているのともちがって、人は沢山住んでいるようだが、どこか日本の古い団地に高齢者だけがのこっていて、空いた部屋に海外からの労働者が住み着いたところを彷彿とさせた。正面の外壁はうつくしい山吹色にうつくしく塗ってあったが、家の裏側へ廻ると、非常に乱雑に打ち捨てられていておどろく。昔ながらの中規模のミラノの集合住宅の一部のみ、一部屋だけ明かりがついていて、煙突から煙があがっていた。辺りの雰囲気が荒廃していたので、住人が住んでいるのか、何者かが違法に住み着いているのか判然としない有様であった。家の裏側は塵芥が不法廃棄されていて、「無断投棄禁止」と住人が横断幕をひろげている。

日が暮れてすっかり暗くなったどこか想像上のミラノ郊外を、一人歩く夢を見た。その地域では、ラジオ放送のような地域の情報が、巨大なスピーカーから地域全般に向け、大音量で流され続けている。目の前に、金色の円いヘルメットのようなものをもつ、不審な男が道端に立っていたが、素知らぬ体をしてその脇を通り過ぎたのだが、果たして予想通り後ろをつけてくるので、勢いよく後ろを振り返ると、出し抜けに大声をあげながら黄金ヘルメット男めがけて驚かせるようにして突進した。家探しに明け暮れていると、このような夢をみるようになる。

隣で家人は「それならわかるでしょう。一番下のクラスで」、と寝言を言っているのだが、果たして彼女は何の夢をみているのだろう。一体われわれは何を夢みて生きているのか。

(1月31日 ミラノにて)

「人はどういふことがしなければゐられないだろう。」

越川道夫

昨年に比べて何週遅れなのだろうか? ようやく蝋梅が満開となり、梅もちらほらと咲き始めた。道の端の日当たりの良いところでは、オオイヌノフグリが一つ二つと花をつけ始め、この花がとにかく好きなので歩きながら蹲って眺めずにはいられない。私たちはあまり寒くなくてよかった、とか、とかく暖かな日が続くことを喜ぶのだかけれど、植物には冷え込むべき時にはちゃんと冷え込むような、そんな天候のメリハリみたいなものが必要なのかもしれない。
 
朝起きて、まず何をしますか? と問われたことがある。朝起きてとは言っても、宵っ張りになっている自分が目を覚まして起き出す頃には、何か用事でもない限りは、もう日は高々と昇っていて昼も近くなっていることが多いのだが、それでも布団から出たらまずコップ一杯の水を飲み干し、それからするのは日向ぼっこである。何を呑気な、と叱られそうだが、起きて太陽の日差しに当たらないことには、体が動かないのだから仕方がない。東京に住んでいれば御多分に洩れず、高いマンションの一室にでも住んでいない限り、日当たりはあまり良いとは言えない。私の家には猫の額ほどの庭がないではないが、やはり日当たりがいいとは言えず隣家の間と間から日が差し込む時間はごく限られているので、その時間に間に合わなければ、それでもまだ長い時間陽があたっている家の前の道に面した玄関先に、ここだって午前でも昼近くならなければ日が当たらないのだが、蹲ることになる。冬場は、布団にくるまって寝ていても、目が覚めると身体が冷え切っていることがあり、特に肩の後ろの肩甲骨の辺りに冷えがこびりついたようになっていることがあり、もちろん風呂に入れば解消はされるのだろうが、それよりもぎりぎり午前の光にじっと身を晒していると、体の奥底、鳩尾のもっとからじんわりと暖かさがたまってくる。これはガラス越しの光ではダメで、猫じゃないんだから、とか、光合成している、と笑われるのだが、こうでもしなければ一日が始まってくれないので、起きるやいないや外に出ていき、玄関先にじっと蹲ることになる。雨の日や、曇りの日には日差しを浴びるということもできず、なんとも心許ないような気持ちになってしまうのだ。
 
蹲りながら、特に何を考えるということもない。ただその身を光に晒しているのである。冬の光は、白い、というよりも、微量の黄色を含んだ色をしている。これは、起きる時間のせいでもあるかもしれない。もう斜光になっているのである。曇りの日の何もかもが白い、くすんだ白さに覆われるような日も悪くはない。その白さと言えば、全ての色がないような白さであって、陽が差していないのに、影がないために眩しいほどだ。よく晴れた日の空の青は、青というよりは、それは多分微量の赤色を含んだ、くっきりとした、どこか重さを感じさせるような青だと思う。この空の青に、どこから赤色が混ざってくるのかは分からない。
 
このところ見た演劇や、読んだ小説で悲しくなることが多く、別に肯定的なものが見たかったり読みたかったりするわけではないし、悲しいことは決してダメなことではないが、なんだかシュンとしてしまうことが多かったように思う。そのどれもが、「美しい」と思って始まった物事を、人が自ら踏み躙るように汚して終わらせしまう、という展開をとっていることが多く、なぜ人は「美しかったもの」を、それを終わらせる時にわざわざ踏み躙るように汚そうとするのだろうか、なぜ終わるとしても「美しい」ものを「美しい」もののままに終わらすことができないのかと堂々巡りのように問うことになった。劇を見終わった後に、小説を読み終わった後に、かつては美しかったものの無残な残骸が残っている。それは失われなくてはなかったのだとしても踏み躙るように汚されている。まるで「美しさ」から引きずり下ろさずにはいられなかったかのように。そうでもしなければ終わらせることができないのだ、ということは言えるかもしれない。しかし、それは結局のところ「美しい」ということを信じ切れなかったということではないか。ほんとうに「美しい」ことを希求していなかったのでないだろうか。では、「美しさ」とはなんだろう。「ほんとうに美しい」とは、どんなことなのか。それは分からないし、そんなことは到底実現できないのだとしても、それを望まず、希求しないのならば、私たちの生とは一体なんなのだろう。もしかすると私たちは今、「美しさ」ということ、「ほんとうに美しいこと」を信じることができなくなっているのかもしれない。
 
「けれども一体どうだらう。小鳥が啼かないでゐられず魚が泳がないでゐられないやうに人はどういふことがしなければゐられないだろう。」と学者アラムハラド氏に問われた時、その宮澤賢治の未完の童話の中の生徒は「人はほんたうのいゝことが何だか考へないでゐられないと思ひます。」と答えるのだったが、私だったら「人はほんたうの美しいことが何だか考へないでゐられないと思ひます。」と答えるだろうか。それは、「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しい」があることを信じている、ということなのかもしれない。それが現実には到達できなくとも「考へないでゐられない」ということは、それが「ある」ということを信じている、ということではないか。この場合の「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しいこと」は、自分自身にではなく、自分を含めた、それは人とは限らないが、すべて他者に対しての「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しいこと」であり、その他者の「美しさ」に感嘆することにほかならない。
 
「アブラハムドはちょっと眼をつぶりました。眼をつぶったくらやみの中ではそこら中ぼうっと燐の火のやうに青く見え、ずうっと遠くが大へん青くて明るくて黄金の葉を持った立派な樹がぞろっとならんでさんさんと梢を鳴らしてゐるやうに思ったのです。」
 
このところ晴れの日が続いている。見上げれば、ほんの僅かに赤色を混ぜた、少しだけピンクがかったと言ってもいいけれど、青い空である。その下にいつも歩きに行く松や櫟や欅の林が見える。手元だけを見ても分からない、遠くを見なければ分からないことだってあるのだと、ふと思う。

レモン畑

芦川和樹

ザリガニは、スフィンクスの散歩が済むと
少し仮眠をとるために布を切りました
段ボール星ほし、がヌメ⋯ヌメ読む文字が
四国からトラックを操縦して来る
それを、トロフィーだと思うには、まだ
ずいぶん弱いセミで、ヘビと変わらない
脱皮だ、脱皮なのだわ。ヤマアラシ(黒点
)が雑誌の⋯
このあと燃える⋯雑誌の右肩で吠える
大正

無神経な針金が身体を隅まで、隅々まで奪
っていくそれじゃあ奪われていくのですか
、奪われていきますよ奪っていくのだから
ラジコン(四国)がノックする
来ました
短い息と、長い息があってね、いま問題
⋯なのは、鋭さと、長さが共存することだ
⋯と思ったんだけど、跳び箱が⋯
⋯跳び箱が見えますね
⋯いちどとびます

長い間、あ
(長い間)
来たんだって、いらっしゃい
ドアを開けます。氷をいれますか
(短い間)
なにか飲むでしょう、氷をいれますか

皮膚に正確な時刻、時代を表示したい
鉛筆で書いたみたいに⋯
できますかできなくても
困りません、困りません、困りませんが
ピアニッシモになるまで、波が
生き⋯ドアノブが、しずかにしている
パセリの葉陰で
眠った
それで梯子を
支える、メッキの⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯(石鹸

、ボンド。木工用だわ、くうきを入れ換える木工用のニジマスつまりこのよのすべての汚れを拭う、よご、爽やかなレモン。の思い出。みたいなどの目にも明日あす、がかがやいて歯ブラシなどもシャカシャカ小躍りする。涼しいレモンよ、雑誌を燃やすのはいつ?)

サザンカの家

北村周一

メジロ二羽追いつ追われつ路地を抜け飛び込むさきの花ツバキかな
吹き溜まる落葉のかげに黄緑のまろみがひとつメジロのごとし

飛ぶ鳥の痕ありありとガラス扉に残りたりおり羽をひろげて
キジバトのむくろをひとつ葬ればひとこえ鳴いて飛び立つ一羽

今朝もまたメジロ来たりて餌台に糞を残せりコムラサキいろの
山茶花の蜜吸いにくる小鳥らの動きとらえて枝葉はゆるる

さざんかの花もそろそろ終わりねと垣根を白きマスクは行くも
鵜野森の樹々のあわいに蠢くはアオバズクかも 背の闇に聞く

庭の木の小枝のごとも擬態ありてナナフシあわれフンを落としぬ
スズメ二羽繋がりしままに降りきて窓にあたって撥ねて離れず

三つ四つ鳴くたび五つ六つ返すカラスの声も春立ちにけり
ひらりひらり羽毛舞いおち見上げれば電柱のさきカラスは何を啄ばむ

襲われてウズラ飛び出す塀の内 残るひとつはすでにクビなし
木洩れ日のまだら踏みたる足音にしみいる昨夜のあたたかき雨

はじめての秋を想えりサザンカの花咲きそめし古淵の家の
あさぼらけ夢も絵のうちねむりもや苦しいときの「優しい地獄」

睦月とは皆むつみあうひとつきにして楽しみに待つ夕暮れのひと
ゆびに捲れば二月のひかり逆さ不二 カモメ綜合法律事務所

私はニラレバ定食が食べたかった

篠原恒木

ツマに「これから会社を出て帰ります」と電話したら、
「今日は作りたくないから何か食べてきて」
と言われた。よくあることだ。それはいい。何の不満もない。この時刻からわざわざ私の分だけ夕食を料理するのは面倒に違いない。

私は帰宅途中の電車の中で考えていた。
「何を食べて帰ろう」
ラーメンという気分ではない。そば、もしくはうどんか。いや、今夜は麺類ではないと私の胃袋が訴えていた。白めしだ。そう、今夜の私は白めしを食べたい。そうなると問題はおかずだ。トンカツか。いいかもしれない。だが、私がこれから降りようとしている駅の付近で美味しいトンカツを供する店はない。ならばどうする。

ひらめいたのはニラレバ炒めだった。白めしに合う。考えてみれば私はこの数年間、ニラレバ炒めをおかずに白めしを食べていないという事実に気付いた。そろそろ食べておかないといけない。これからの人生で私はあと何回ニラレバ炒めをおかずに白めしを食べるのだろう。ひょっとしたら十回以内で終わってしまうかもしれない。そう考えると一抹の寂しさと同時に、ぜひとも、必ず、是が非でも、石にかじりついても、絶対的に今日はニラレバ炒めにごはんしかないという強い決意が芽生えた。だってあと残り十回だとして、今日食べたらあと九回だよ。猛烈にニラレバ炒めが愛おしく思えてきた。よし、いとしのニラレバ炒め定食を食べよう。

自宅の最寄り駅に着いた。私は電車を降りたが、足が止まった。「ニラレバ炒め定食をどこで食べればいいか」という大きな問題に結論を下していなかったのだ。この問題はレバだけに肝心とニラむべきだ。うまい、座布団十枚。さあ、どこで食おう。地元の駅周辺で旨いニラレバ炒め定食を出してくれる店はどこだ。

ここで私は気付いてしまった。私は地元でニラレバ炒め定食をこれまでただの一度も食べていなかったのだ。判断材料が皆無なのだ。しかし我が欲望はニラレバ炒め定食一択に染まり、いますぐ、可及的速やかに胃袋へ収めたい状態と化している。アズ・スーン・アズ・ポッシブル、略してASAP、アサップだ。

話は横道にそれるが、この「アサップ」という言葉、なんとかならないのかね。
「なるはや、アサップで」
などと言われると、こいつはアホかと思ってしまう。最初に耳にしたときは「アサッテ」だと解釈してしまったものだ。だから私は嫌味を込めて、
「アサップは無理です。シアサップでしたらなんとか仕上げます」
と返すことにしているが、アホには私のハイ・ブラウなジョークは通じないことが多い。

いけない、ニラレバ炒め定食の話だった。どうする。十分ほど歩けば個人経営の昭和的な町中華の店があることを私は知っていた。タンメンを食べたことがあるが美味しかった。あそこのニラレバ炒め定食なら間違いはないだろう。だが、あの町中華に行くと、自宅までの道のりが遠くなる。時刻は午後八時を回っていた。あの町中華は八時には閉店してしまうのではなかったっけ。いや、九時までは営業していたか。そのへんが曖昧だった。いざ遠回りして暖簾がしまわれていたら、いまの私に駅周辺まで戻る気力があるだろうか。ニラレバ炒め定食のためだけに。

焦った私は急速に店選びが面倒になり、駅からいちばん近い中華料理チェーン店へと歩を進めた。どこでもお目にかかる大手のチェーン店だ。入店したことはないけれど、おそろしく不味い料理は提供しないだろう。可もなく不可もなく、というやつだ。「カモなくフカもなく」なので、北京ダックもフカヒレもない、という店だろうが、そんな高級中華料理は今の私には要らない。ニラレバ炒め定食さえあればいいのだ。

「お一人様ですかぁ」
「はい、一人です」
「空いてる席にお座りくださーい」
元気よく女性店員に言われた私はテーブル席に座った。さあ、あとは彼女が水の入ったコップを持ってきてくれたら、
「ニラレバ炒め定食をください」
と、きっぱり言えばいいだけだ。どうせこのようなチェーン店のマニュアルでは、
「ニラレバ炒め定食ですね。以上でよろしかったでしょうか」
と言われるのだろうけど、以上でよろしい。六十四歳です。以上でじゅうぶんです。餃子も肉団子も春巻も要りません。ニラレバ炒め定食だけでお腹いっぱいです。

しかし、だ。テーブルにはタッチパネルのタブレットが置いてあった。画面を見ると、
「タッチしてご注文ください」
の文字が映っている。嫌な予感がした。私、こういうの苦手。店員に直接注文するほうがどれだけ楽なことか。人件費削減、働き方改革など大手チェーン店にも言い分があるだろう。でも苦手なものは苦手。操作に手間取るのだ。

おそるおそる画面をタッチすると、最初の画面は「人数」だった。さっき「お一人様ですか」と確認を求められて「はい」と言ったのになぁ。
釈然としないまま「1人」をタッチする。次の画面は「メニュー」だったが、「セット」「定食」「麺類」「飯類」「逸品」などと細分化されていた。私は早くも「コノー」と、タンマ君化してしまった。いや、落ち着け。私が目指すのは「ニラレバ炒め定食」だから、必然的に「定食」をタッチすればいい。

画面は「定食」のラインナップに切り替わった。「やでうでしや」とまだタンマ君から解脱していない私だったが、いくら探してもニラレバ炒め定食は「定食」のカテゴリーには存在していなかった。そんな馬鹿な。

『新橋駅前のサラリーマン百人に訊きました。「ニラレバ炒め」という文字の次に続く漢字二文字は何?』

というアンケートをしたならば八十九人が「定食」と答えるだろう。残りのうち六人は「蕎麦」、三人は「内閣」、二人は「上納」だと思う。「内閣」「上納」と答えたサラリーマンはウケ狙いか、もしくはただの酔っ払いだ。

さあ、困った。ニラレバ炒め定食はどこに隠されているのだ。私は「定食」を諦め、「セット」の箇所をタッチして次画面に進んだが、ここでも「ニラレバ炒め」と「ライス」のセットは発見できなかった。なぜだ、なんでだ、どうしてじゃ。「グヤジー」と、ますますタンマ君になった私は、「前画面に戻る」をタッチして、「セット」「定食」「麺類」「飯類」「逸品」が並んでいる画面に、つまりふりだしに戻った。もしかして「飯類」なのか、と半信半疑でタッチしたが、炒飯やら天津飯やらがむなしく並んでいるだけだった。

ここまで五分経過。入力したのは「人数・1人」だけという、絶望的状況ではないか。私は力なく「逸品」をタッチしてみた。消去法で考えればもうそれしかない。
あった。あったよ。「回鍋肉」「海老のチリソース」「酢豚」などのなかにありましたよ。だけどあったのは「レバニラ炒め」という単品だった。いや、私が食べたいのは「ニラレバ炒め定食」であって、レバニラ炒めの単品ではないのだよ。白めしはどうした。レバニラ炒めだけ食べるなんて考えられない。あくまでごはんと一緒。そんでもって炒飯についてくるあのスープも脇に置きたい。私はあのスープを味わいたいがために炒飯を頼むことがあるくらい大好きなのだ。あのスープと白めしがあってこその定食ですよ。もうこの際、
「私が食べたいのはあくまでニラレバであって、断じてレバニラではない」
という些末なことはどうでもいい。そちらが「ニラレバ」ではなく「レバニラ」と表記するのなら、疑問点の鉛筆は入れません。私は校閲部か。

そうか、と私は思い当たった。この「逸品」のなかで「レバニラ炒め」をキープして、それから「ライス」、そして「スープ」をそれぞれ単品でオーダーすれば「レバニラ炒め定食」の完成ではないか。よし、レバニラ炒め単品のタッチはひとまず置いといて、まずはライスとスープを探そう。それにしても世話の焼けるタブレットだ。

ところが「ライス」も「スープ」もまったく見当たらない。何度「前画面に戻る」をタッチしたことか。ついにはタッチしすぎて画面がGoogleのトップ・ページになってしまった。信じられなかった。これは完全に中華料理店の管轄外の画面ではないか。農林水産省から一気に公正取引委員会へと管轄が移ったようなものだ。大袈裟か。

私はどこで間違えてしまったのか。

この疑問はすなわち我が人生に通じる。当てはまる。人生をやり直すことができるなら、私はいつのどこへ戻れば現在のような状況に陥らずに済んだのか。いくつか心当たりがないわけではないが、ひとつだけでいいから誰か教えてほしい。

いや、喫緊の問題は我が人生の十字路探しではない。どこをタッチすればGoogleの画面から店のメニュー画面に切り替わるのだ。レバニラ炒めはおろか、店の最初の画面すら映っていない。もう完全にお手上げだ。「オガーヂャーン」と、私は叫んだ。タンマ君純度百パーセントだ。いまこそアサップで画面を復旧しなければならない。シアサップではダメだ。

しかしながら、事態は私一人の能力ではもはやどうすることできない状況へと追い込まれてしまった。私は先ほどの女性店員におそるおそる声をかけた。
「あのぉ、すみません」
「ハイ」
「画面がこうなっちゃったんですけど」

よくない。じつによくない言い方だ。「こうなっちゃった」とは「私がしたわけではなく、画面が勝手にこうなっちゃった」というニュアンスではないか。「秘書が勝手にやったこと」「私は関与していない」「秘書の事務的ミス、単なる記載漏れだ」「文春の記事で初めて知った」とホザいているヒトビトと何ら変わりない。正しくは、
「私の操作ミスで画面をこのような状況にしてしまいました。お店の皆様、他のお客様、ひいては国民の皆様に重大な政治不信を招いてしまったことは謹んでお詫びを申し述べる所存でございます」
と言わなければいけなかったのだ。

だが、女性店員は「あー」と言って、すぐお店のトップ・ページに戻してくれた。どこをタッチしたのか目にも止まらぬ速さだった。だが、もう私には「人数・1人」から始める気力は残っていなかった。
「あのぉ、すみません。ニラレバ炒め定食を食べたいのですが、レバニラ炒め単品は見つかったのですが、それにライスとスープをつけたいのですが」
と、全面的に「ですが」だらけの構文を口走ってしまった。
「あー」
女性店員は素早く人数1名をクリアして、「逸品」をタッチし、「レバニラ炒め」の部分をさらにタッチした。

するとどうだろう。単品だったはずの「レバニラ炒め」は次画面に進み、「レバニラ炒め単品」「レバニラ炒め・ライスつき」「レバニラ炒め・ライス・スープつき」と三分割された画面に切り替わったではないか。
「ごはんとスープをおつけしますか?」
「は、はい。お願いします」
女性店員は「レバニラ炒め・ライス・スープつき」をタッチして言った。
「以上でよろしかったでしょうか」

泣く女

植松眞人

 女が泣いている。バス停の道路を挟んで向こう側。二人がけのベンチが置いてあるだけの小さな公園で、女が泣いている。若くはない。老けてもない。自分でまだ若いと言い張れば通りそうだけれど、たぶん若くはない。そんな女が泣いている。人の良さそうな女には見えない。悪い奴でもなさそうだけれど、良い人には見えない。悪いことはやらない気はするが、人の悪口くらいは言うだろうし、嫉妬深い感じはする。どうしてそう思うのかと、バスを待ちながらじっと見ていると、口元が歪んでいるからだと気付いた。
 泣いているけれど、きっと自分に都合の悪いことが起きたのだろう。それでも、初対面の男にばれないくらいには、都合のいい言葉を巧く並べそうな気がする。泣いている顔の涙を軽く握った手の甲ではなく、手のひらのふっくらとした部分で拭う様子がわざとらしい。こういうタイプの女は都合の悪いことを聞かれたら、見事なくらい自然に泣き声を大きくして、質問を諦めさせるくらいのことは朝飯前である。それから、涙が本当に出ているかどうか、ときどき確かめながら、相手が諦めるのを待ち、諦めかけたと悟ったら、よろよろと立ち上がり、誰かが手を貸してくれるのを待つのだろう。もちろん、誰かが手を貸すはずだ。だって、女は誰かが手を貸すまで、ずっとよろよろしたままでそこにいるのだから。
 バスが来た。女の目がバスを追う。私はバスに乗り込む。後部の窓際の座席に座ると、ベンチに座っている女を道路越しに見下ろす形になる。女はまだ泣いている。バスが走り出す。女は立ち上がる。バスが遠ざかる。女はまたベンチに座り、次のバスを待つ。

吾輩は苦手である 7 

増井淳

 十数年前のこと。
 当時の職場は来客が多く、その日も何人かお客さんがいらした。それで、コーヒーを出したのだが、一人の方に「このコーヒーを作るのに、どれだけのヒトがひどい環境の元で苦労して栽培しているのかも知らないで、すすめようとしているのか」と詰問されたことがあった。
 吾輩はほとんどコーヒーを飲まない。栽培事情にも詳しくはない。だから、その場ではことばを飲み込むことしかできなかったが、今でもその時のことをいろいろ考えてしまう。
 たぶん、この方の言っていることは正しいのだろう。
 
 あちこちで戦争が起こると、すぐに「戦争反対」を叫ぶ人がいる。
 もちろん、吾輩も人を殺したくないし、殺されたくもない。
 ニンゲンとして「戦争は悪だ」と思う。が、「戦争反対」を言うことが免罪符になるとは考えない。
 ニンゲンは戦争をしてきたし、今もこれからも戦争をする可能性がある。そのことを忘れることはできない。

 作家の古山高麗雄に「日本好戦詩集」という短編がある。
 『ガダルカナル戦詩集』を書いた吉田嘉七が、古山あてに「日本好戦詩集」と題して十五編の詩を送ってきたという。
 この短編の中で古山は「反戦は好戦と共存し、しばしば反戦は好戦であったりするのではあるまいか」と書いている。
 吾輩はなぜかこの短編が好きで何度も読んでいるのだが、古山や吉田の言わんとしたことを受け止められているかどうかわからない。
 理解力がとぼしいのだろうが、ひとつ言えるのは、吾輩は「正義の人」が苦手であるということだ。

 コーヒー栽培の過酷さを言うにせよ、戦争反対を言うにせよ、それに完全に同意するという気持ちになれない。
 どうしてそうなのだろうと何度も考えている時に、鶴見俊輔さんの次のような文章を思い出した。

 「まじめな人は、自分が純一の状態で生きたいために、自分の中にせめぎあういくつもの欲求をそのままに見ることができない。一つの方向でおしきれなくなると、もう一つの別の方向にまっすぐ進もうとしがちである。それにくわえて、地上の何かの権威を、絶対的なものとして現実化しようとする」(『私の地平線の上に』)

 「旧約の預言者たちから、マルクスとレーニンまでまっすぐつづいている、地上のもっとも抑圧された人の立場から現在の秩序を批判し、これをくつがえそうとする努力に脱帽するし、その力のはたらく方向に自分をおきたいと思い、そのさまたげになりたくないと思うのだが、自分が正しいとしてつかみとった方針に反対するものは完全に抹殺するという思想構造に同調することはできない。自分にたいするうたがいが出てくる場所がそこにないように感じる。自分に対する批判者に、分があるかもしれないといううたがいのはたらく場がない」(『家の中の広場』)

 何か行動を起こすとしても、その背景にはさまざまな欲求や可能性があることを忘れたくない。
 正義や真理を自分がつかんだとしても、それによって自分自身を正当化することはできない。
 なぜ吾輩は「正義の人」が苦手なのか、そのワケが鶴見さんの文章を読むとわかるような気がする。
 

アパート日記 2025年1月

吉良幸子

1/1 元旦
水が滴るお正月。年末からアパート老朽化による水漏れが続いたまま、年末年始なんて無視で天井から水が落ち続ける。夜中に台所の床がべちゃべちゃに濡れてるのを発見。朝方まで公子さんと水受けいっぱい置いたり、段ボールやタオルを敷いたり。とにかくこの寒い中で床が濡れっぱなしやと身体の芯から冷えて困る。
お昼過ぎ、太呂さんちにお正月の集まりに行く。公子さんは水騒動でぐったりのため寝正月、私が代わりに大事なお年玉を届けた。

1/3 金
映画はじめは東映時代劇!今年の一本目は『旗本退屈男』。市川歌右衛門の映画出演300本目の記念作品で、脇の役までゾッとするほどスタアばっかし。こんなおもろい映画あったんか…!とハラハラドキドキ、手に汗握りながら観て、面白すぎてDVDを買って帰ってしまった。こんなええ映画で幕開けできるなんて、2025年の私の映画ラインナップは明るい。

1/4 土
絵描きの友、キューちゃんちへたこ焼きパーティーをしに行く。彼女は吉原近辺に住んでんやけど、大河の影響もあっていつもより人が多い。鷲神社の前にものすご大きい張り子の熊手があって、張り子したい私にとっては大きな刺激になった。…まぁ、張り子しよと思て取ってあった新聞たちは水騒動で全部使うてしもたんやけど…。家の水漏れは止まることなく、むしろ範囲も量もどんどん増えとる。大家も不動産屋も見にも来んし、正月休みか知らんけど連絡すらない。

1/5 日
友を連れて『巳年の兼太郎』へ。同い年の兼太郎さんの落語会で今年の落語はスタート。ゲストに呼んでた萬橘師匠が軽く話して場の空気を全部持っていっておった。会の後にちょっと一杯。一緒に行ったうちひとりは立体も絵もやってて、出稼ぎ先の展示でお世話になってるし、制作の話、出稼ぎ先の話などなど…帰り道、寒空に酒も回ってぐるぐる考えた。

1/13 祝
お昼から『扇遊・扇辰兄弟会』へ。お二人とも大好きな私にとっては最高な会。隅から隅までおもろかった。夕方に梅家でおいなりさんとぜんざいを食べる。むっちゃおいしい…と感動し、公子さんにも巻物とおいなりさんを買って帰った。
そして帰宅して腹立つことをひとつ聞く。アパートの二階に住んではるお姉さん家族を一階の空き部屋に移し、水の元栓を閉めて水漏れを止めようという話。その引越しが明日の予定やった。それがこちらになんの連絡もなしに「1週間延びました」やて。丹さんが不動産屋に行って発覚した。毎日45L入る大きいタライで水受けて、一晩も待たんと溢れるくらい水漏っとるんや。いっぺん見に来い、そして一晩でもこの環境で寝てみぃ!!

1/17 金
家におると寒いし永遠と水が落ちる音がして気が滅入る。お日さんが出てるうちに外へ出な頭おかしなりそうで、急遽民芸品市へ行ってみる。東北の色んな民芸品を出してはって、福島のダルマをひとつ買った。振るとカラカラと音が鳴って、子どもが手にして遊べるようになっとる。色使いと表情が素敵や。
最近アパートではスリッパくらいじゃ靴下が濡れるようになって、家の中でも靴を履くようになった。常に雨が降るような状況になり、ようやく不動産屋が重い腰を上げた。というか、丹さんが怒って動画や写真を持って行ってくれたからこそ、どんな悲惨か通じたのやしほんまに助かった。私らはもう怒る元気もないくらい疲れておる。
こんだけ水が落ちてくるということは、天井裏に相当な水が溜まっているらしい。その重さで天井が落ちるかもというとこまで話が深刻化した。それでやっと台所や洗面所、風呂場が使えへんのを保証してくれることになった。銭湯に行くのも大家持ちになるらしい。いつもの銭湯に行って、番台のおばちゃんに家の惨事を説明する。いつも無愛想なおばちゃんやけど、こんな時には親身になってくれて優しかった。むちゃくちゃありがたい。優しさが染み入った。

1/18 土
朝っぱらからソラちゃんが喧嘩する声が響き渡った。慌てて声のする方へ行くと、痩せた見慣れぬ顔の猫と睨み合ってる。どう見ても負けそうなその子を逃して、うちの大きなツートン猫を抱っこで回収する。逃げる前にチラッと私の方を見て、ここは任してもええ?って顔の猫と目を合わせた時、なんか心が通じた気がした。
さて、アパート水騒動。引越し先が見つかったら移る算段やったんやけど、そんな悠長なこと言うてられへん事態になってきた。台所の真ん中、水場以外のとこからも水が落ちてくるようになり、とにかくこの部屋から一刻も早く出なあかんらしい。ということで急遽、同じ町内にある、同じ大家のアパートに移ることになった。そこも2年以内に取り壊すらしいけど、とにかく水びたしじゃない部屋に引越して、ゆっくり次の部屋を探しましょうということらしい。冷えに冷えて公子さんは体調崩しまくり、私も雨音が夢にまで出てくるようになってきて、早よ移らなほんまにおかしなりそうや。

1/20 月
お昼過ぎ、引越しの見積もりに業者のおっちゃんがやってきた。陽気な方やねんけど部屋に入るなり水にびっくり。長年この仕事やってるけど、こんな酷いの初めて見ました!!と言うてはった。こんなとこで約1ヶ月もおる私らってすごいわ。最短でいつ引っ越せるか聞いたら、最初は悩んではったんやけど、話してる間もポツリポツリの雨音が耳についたのか急に、こんなとこにいたらノイローゼになります!明日梱包に来て今週中に引っ越しましょう!!と言うてくれはった。ありがたや~。

1/21 火
朝から友と太田記念美術館でやってる『江戸メシ』の展示を観にゆく。大河ドラマのおかげで開館前から長蛇の列が。モネの展示に来たんかと錯覚した。しかし浮世絵ってほんまおもろいわ。1枚の絵やのにむっちゃ動画的で、細部まで色んな物語が詰まってておもろい。人と一緒に行ってああだこうだ想像して言いあえる楽しさもある。今回は食べ物の絵ばっかしで観てる最中にお腹がぐーぐーなった。
そんな息抜きをして家へ帰ると、引越し屋さんの梱包が終わって段ボールがうず高く並んでおった。すんごい量。このアパート来てからむっちゃ本買うたし着物ももらったしな…あ~荷物減らしたい!

1/22 水
さくらさんの初・商業誌掲載漫画の発売日!駅前のコンビニですぐ見つけられた。商業誌になっても勿論、完全手描きされておる。むちゃくちゃ優しい画面で物語にぴったしやった。墨ってええなぁ。読んでみたら…むむ、これはうちにおるソラちゃんのことですか?!ってな内容で笑った。

1/23 木
いよいよ引越しの日。ソラちゃんは数日前から異変に気付いている模様。心配そうな顔で一挙一動を追う。公子さんが外に行こうもんなら、置いていかんとって!とばかりに私のとこへ様子を伺いに来る。置いていく訳ないやんかいさ~と何度も言うねんけど、どうしても心配らしい。
予定より早めに引越し屋さんが到着。靴のままで今日はええんです!と土足で入ってもらうと、水場を見てみなさん、うわぁ~と声を上げはった。洗濯機は濡れながら運び出してもらわないかんで申し訳ない。荷物を引越し先に持っていってもらった後、夕方ソラちゃんを迎えに行く。引越し先は1キロくらいしか離れてないからゲージに入れて公子さんと声かけながら歩いて運ぶ。ソラちゃん専用の駕籠かきになったみたい。

1/27 月
荷ほどきでぐったり疲れ、未だ段ボールだらけの家で暮らす。それでも家の中でのポツリポツリの雨音はないし、何よりお風呂がバランス釜じゃないのと、ボタンひとつで追い焚き機能までついておる!なんて画期的!しかし一難去ってまた一難、本日よりソラちゃんの脱走劇のはじまりはじまり…。
昨日の21時くらいに家を出て、今日は昼過ぎまで戻らん。近所を探してるけどおらんし、なんしか猫が入りそうな場所がいっぱいある。丹さんがやってきて、目の色変えて探しに出てくれはった。まさかね…と、一応元の水漏れアパートへ見に行ったら、建て付け悪くて閉まらん公子さんの部屋のとこから入って元の家におったらしい!忠犬ハチ公か!自分の足で来たなんて頭良すぎやんかいさ!またゲージに入れて、歩いて新しい住処まで運ぶ。引越しの時よりにゃぁにゃぁないて、新しいとこに戻されるのが不服らしい。

1/28 火
22時、またソラちゃんが帰ってこない。昨日と同じ、魔の21時に家を出て、呼びに行ってもなんとなく近場にいない気がする…まさか?!でも、小豆島生まれのおてんばソラちゃんなら…という賭けでゲージを持って元のアパートへ向かう。でっかいソラちゃんを抱えて歩くのは重いから、今回は太呂さんに車で一緒に来てもらった。庭の方から入ってライトで照らすと、庭にまだ置いてたちぃちゃい木の椅子の上にぽつんと座って待っておる。完全に帰り道覚えてもうてるやん!とりあえずソラちゃん連れて太呂さんと帰る。どうしたらええんやろか…とりあえず今夜は家から絶対出さんぞと家の中で閉じ込めたら、朝までずっとニャァニャァ言いっぱなしやった。嗚呼眠たい…。

1/29 水
太呂さんがソラちゃんの首輪につけるGPSを買うてくれはった。軽いけどちょっと大きい丸いタグで、取り付けても本人は全然気にせぇへんみたい。そんな事より俺に自由を!とにゃこにゃこ訴え続ける。首輪をなくさん限りは私の携帯で逐一どこにいるか確認できる。これでちょっとは安心材料が増えた。

1/30 木
夜中はソラちゃんの声でここ数日全然眠れん。公子さんは顔踏まれたり、私よりももっと直接訴えがいく過酷な状況で、寝るのはもっぱらお昼間になってしもた。今日は出稼ぎ、通勤電車でぐっすり寝ながら出勤する。お昼過ぎに公子さんから電話が、今ソラちゃんどこにいるか分かる?と。早速GPSが役に立った。でっかい地域猫に追いかけられたのか、アパートに行く道でもない、川の近くにおるみたい。私はまだ職場やったからとりあえず現在地の画像を公子さんに送る。丹さんも加勢してホシを確保したらしい。丹さんから洗濯ネットに入れられたソラちゃんの画像が送られてきて、帰りの電車で一旦ほっとする。

1/31 金
前のアパートへ行くのが癖になっとるソラ氏。夜中は車も少ないけど、元のアパートの方が先に取り壊される予定やし、あんまりそっちへ行ってほしくない。近場で遊ぶのに慣れてほしい。公子さんはソラちゃんと近場を散歩して、新しい家に帰る練習を一緒にしてはる。しかし、脚力も好奇心も旺盛な島の猫は、またしても夜更けに前のアパートへ向かうのであった!GPS付けとるからどこにおるかは分かっとる。自分で新しいアパートに戻ってくるのかちょっと実験。お昼間の動きを見てても、元の家の近くをうろうろ遊んでるだけ。結局私たちがしびれを切らして丹さんと夕方迎えに行った。昨日の脱走劇で丹さんにむっちゃ怒られたのが効いたのか、丹さんの声を聞いて隠れて出てこん。1時間待って確保、最近こんなんばっかしして部屋は一向に片付かん。そしてソラちゃん騒動はまだまだ続く…。

むもーままめ(46)ひと月、の巻

工藤あかね

怒り狂うおじいさん リピート リピートに次ぐリピート あさっての話 リピートにつぐリピート スタバの飲みかけ 意識高い系 電車でこぼす夢 混んでいる 開いたパソコン 誰も隣に座らない 私立小学生 宿題わすれた 通勤列車 つぶれている 自家製おにぎり アルミホイル ほんの一口 水筒 売り切れ 自販機 空き缶の山 焼肉店 空のタクシー 運転手の不在 ストロングゼロ ポテトチップス 油のついた携帯 読みかけの本 しおりをなくす 昔の映画 居酒屋の昼食 ドラえもんの声 聞き覚えがない 曖昧な予定 返答に困る リピートに次ぐリピート 歯列矯正 笑顔が得意 ほんの少し 空腹 期待はずれ 白い蕎麦 ダンボール 中身を忘れる 雨粒 待っている 詩情 バスのボタン もう遅い 手帳 心ばかり 暴れる靴 鮨 黒い米粒 目線 昼酒 雑踏 いやいや起きる ショッキングピンクの服 割り込み 芸なし ホームレス 穴が空いた 片方の靴下 沈黙 くしゃみ 爆発 相談 解決 席を移す 心を病む 恢復期 ピアニスト 発熱 腰を抜かす 安い酒 アメリカ資本 保険 アイヴズ 衝突 冷たい川 陥没 我慢 絶望 浴室 綻び 土木工事 タイムリミット 全面的見直し リピート リピートに次ぐリピート 虚無 崩れる 頭の重さ 沈む 講演会 荒れる ハンドクリーム 正す 居住まい カチャカチャ カチャカチャ カチャカチャ リピートに次ぐリピート 送る 記憶を

『アフリカ』を続けて(44)

下窪俊哉

 年が明けて、『夢の中で目を覚まして -『アフリカ』を続けて①』が印刷・製本されて完成して、ゆっくり、ゆっくり売っている。よく話していることだが、私は何かを残すために本をつくっているので、別にたくさん売れなくてもよいのだが、印刷・製本にかかった費用を回収できるくらいまでは早く売らないと後が大変だ。現時点では、それまであと少し、といったところだ。つくるのは簡単だとしても、売るのは相変わらず難しい。しかし、書店営業をしない、即売会に出ない、イベントに出ないというアフリカキカクの三原則(?)を守りながら、1ヶ月もたたずして「あと少し」まで売っているというのは、じつは、まあまあよくやっている方なのだ。
 加えて、いろんな人の文章が載っている『アフリカ』と違って、私の本は人気がないことで有名なので、心配する度合いは他の本より大きい。以前、そんな話をしていたら、ある人が「下窪さんのファンは奥ゆかしいから、みんな少し離れた柱の陰からそっと応援しているんですよ」なんて言っていた。「ファンはその人に似る」とも言うから、もしかしたら自分がそういう人なのかもしれない。否定はできない。仕方がないので、その人たちが少しでも柱の陰から出てきてくれますように、とアフリカの神様にでもお願いしておこう。
 じつを言うと、本を買わなくても、この「水牛のように」で大半を読めてしまうのだ。でも、本をつくるということの中にはマジックがあり、熱心な読者のひとりであるSさんによると「水牛の連載は全部読んでいたつもりだったけど、本になって読むと、初めてのような印象」とのこと。2024年3月の「印象的な手紙」のあと、2004年・夏の「徳山駅から西へ」が続くのを「驚くほど、ひとつながりに読めてしまう」とも言っていた。「同じ人が書いているのだから当たり前かな、と考えそうになるけど、それは当たり前のことだろうか?」
 本の中に潜んでいる魔法がどんなものかは、本を手に取り、じっくり読んで付き合ってみないことにはわからない。
 とはいえ、本という器に収めてしまえば、いますぐに読まれなくても、遠い未来の読者に届いた日にも、その魔法の威力は薄れていないだろうと思う。

 さて、晩秋に出るはずだった『アフリカ』次号を後回しにしてしまったが、あともう少し後回しにさせてもらって、また次の、小さな本を制作中だ。

 この話は、昨年10月のある朝に始まる。夢の中で、どこかのスーパーに寄ったら、(この連載ではお馴染みの)守安涼くんとバッタリ会った。夢に出てくるなんて珍しい。仕事関係の人たちと一緒のようだったが、少し立ち話をして、何やら自分は「先ほど思いついたんだけど、シングル盤のような本をつくってみたい」と話していた。そうなると例によって、一緒にいた誰かが「だめだそんなの!」みたいなことを言ったのだが、守安的には「いいね」とのこと。それなら、守安涼の本からやってみようか、という話になったところで目が覚めた。
 起き上がって、うん、いいかもしれないな、と思った。「シングル盤のような本」がどんな本なのかは、よくわからないのだが、つまりレコードの譬えで12インチではなく7インチ盤ということを言いたいのだろうから、それを本に置き換えると、薄い文庫本かな。「本にする」というと、ある程度の分量があり、「本にまとめる」というふうに考えてしまいがちだけれど、そうではなくて、レコードで言うとシングル盤とかコンパクト盤というような感じでつくりたい、ということを夢の中の自分は考えたのだろうと思った。
 そんな感じで、守安涼の本をつくろう、ということらしい。夢の中の話だけれど。
 さっそくメールで、やってみない? と相談したら、ちょっと驚きつつも「ぜひお願いいたします。作品のセレクトはお任せします」とのこと。
 彼はじつは私が書き始める前から小説を書いていたはずだが、しかし雑誌づくりの活動にずっと付き合ってくれているわりには、あまり書いていない。発掘作業の結果、

 斜塔
 時計塔
 給水塔
 管制塔
 なつの蝶

 という5編がピック・アップされた。『寄港』に載っている3篇と、初期『アフリカ』に載っている2篇だ。中には書いた本人が「ぜんぜん何も覚えてない」作品もあったようだ。20代の、若き日の作品集ということになる。どの作品も、たいへん短い。とくに「斜塔」「時計塔」は殆ど詩のようなものかもしれない。
 それから、初期『アフリカ』に載っている雑記をふたつ、ラインナップに加えることにした。

 遠い砂漠
 夜の航海

 このうち「遠い砂漠」は、雑記ではなく小説かもしれないが、小説になる以前のもの、というふうに私は受け取っていた。「夜の航海」だけは、作者の(書かれた当時の)素直な身辺雑記と言える。
 これらの文章を久しぶりに読んでみて、何とまあ表現に凝っていること! と思った。彼にとって小説とは例えば、風景をいかに見るか、感じるか、ということなんだろう。若い頃にはそんなふうな議論をしていたかもしれない。懐かしいような気もする。しかし『アフリカ』最新号(vol.36)に久しぶりの小説「センダンの向こうに」が送られてきた日、その精神がいまもしっかり生きて、続いていることに私は驚いたのだった。いまの彼の文章に比べると、当時のものは力が入りすぎている。でも力んで書いているような文章の魅力もある。それは、上手くなればなるほど忘れてしまうことではないか。それをちゃんと残しておこう、いつでも読み返せるように、と思った。
 今回、初めて気づいたのは、一人称の「わたし」の中に潜んでいるだろう「少年」への眼差しだ。彼は『アフリカ』を始めた頃にはもう父親になっており、自分の中にある「少年」性は一気に薄れていたろうと思う。でも心の中には、ちゃんといる。それを作品の中に書き留めてあるのを確認して、私は何だかちょっとホッとした。

 本のタイトルは『夜の航海』。企画段階で私が仮にそう呼んでいたのが、そのまま採用になった。「夜の航海」とは、ユング心理学で言う「人生における困難な時期」のことだそうだ。この本には何か人生に直接役立つことが書いてあるわけではなさそうだが、「困難な時期」にふと手にして、読むと、仄かな慰めくらいにはなるだろう。ふざけているようなことを言ったり書いたりするのが好きな作者なので、思わず笑ってしまうようなフレーズともくり返し出合える。

 その本を2月に完成させて、3月2日に岡山市で行われる「おかやまZINEスタジアム」に守安くんの屋号「Huddle」で出店することになっている。『アフリカ』最新号と近年のバックナンバー、『夢の中で目を覚まして』をはじめアフリカキカクの本をいろいろと持って行く予定だけれど、「アフリカキカク」で出るわけではないので、三原則を破ってはいない。いや、少し破っているかもしれない。そんな原則は、たまに思わず破ってしまうくらいでいい。

苦い草と狼の毛皮

管啓次郎

苦い草が生えている山に行って
この草をとってきたと
ルネが二枚の草の葉をくれた
おみやげだよ
雲南省かどこかの山林に行っていたらしい
葉は法蓮草くらいの大きさで
やや茶色に変色しているところもあって
あまりみずみずしいとはいえないが
そのまま食べられないほどでもない
何だろう、この葉は
オオタニワタリでもないし
これはherbaceousな植物なんだ
名前は・・・・・・と聞き取れない名を告げられた
名前はたいがい一度では聞き取れない
なかなかよい香りがする
ローズマリーとミントを浸した水を
苔くさい池から切り出した氷を砕いたものの上に
注いで飲んだらこんな香りがするかも
葉を噛むとサクッと深い歯応えがあって
悪くない
ただし苦い、苦みが残る
苦味の本質は過去の改訂、未来への期待
とぼくはまるで無関係なことを考える
気をつけて、とルネがいう
いきなり来るよ
ルネは中国系のタヒチ人で学生時代のともだち
ひさしぶりに東京に訪ねてきてくれた
その場で一枚の葉を食べてしまった
するといきなりはじまったのだ
あのころ、あるところで
いや、それは東京なのだが
凧揚げが流行っていた
青山通りに都バスの駐車場に
なっている空き地があり
小学生でもないのに
ぼくらはそこでよく凧揚げをした
ビル風を集めて
風は強く吹き上げる
蝙蝠のかたちをした凧はぐんぐん上がり
青空の中の小さな黒点になる
目を預けるのよと
知らないオバさまが助言をくれた
凧に目を預けて上空から下を見るのだと
何度も凧を揚げているうちにそれができる
心が自分の外に出て
この都会はバカバカしくなる
なるほど凧は心の乗り物
鬱屈した心が青空に放たれる
この葉っぱを食べることにもいわば
目を預けるような効果があるわけか
とぼくがいうと、ルネがいった
脈拍が速くなるけれど気にしなくていい
未来に移し替えられた過去に
ただ入っていくだけ
おやおや、風景が変わりはじめた
このあたりに高い建物はないんだね
人間があまり住んでいないね
都会だと思っていたら荒野だね
開発という言葉が罪悪だとはっきりわかった
わたしが糸をもっていてあげるから
とさっきのオバさま(いったい誰?)がいう
歩いてらっしゃい、飛んでらっしゃい
ルネとぼくは逍遥をはじめる
地上の視点と空の視点が
自由に入れ替わる
ずいぶん変わったね、このあたりは
いいほうに変わったよ、とぼくは答える
空にいるような風を感じながら地上を歩いている
地上にいるかと思うと風のせいで
いつのまにか空にいる
この位相変換のおかげでいろいろなことが
手に取るようにわかってきた
ここが海だった時代もあった、とルネがいった
そうだよ、海岸線も目まぐるしく変わっている
ただわれわれはあまり長く生きないので
それが見通せないだけ
だがいま凧に預けた目で地上を見ると
この土地の地表の水理のみならず
地下の水系までもが蛍光色でわかるのだ
こうしていろいろなことがはっきりする
青山通りはいま原野に戻り
人間もずいぶん少なくて居心地がいい
ああ、いいものが落ちている、とルネがいった
なんだろうこれは、毛皮だな
狼の毛皮だとルネがいった
とりあえず持っていこう
ぼくは尾頭つきの狼の毛皮を
ショールのように肩に巻いてみた
じんわり熱が伝わってくるようだ
そのまま外苑前あたりまで歩くと
小屋や屋台が並ぶエリアがあり
それぞれ勝手な商売をしている
こういうところだったんだなとぼくはいった
江戸よりもだいぶ古い
鎌倉よりも前の状況かもしれない
だが商売は繁盛していて
これが人間社会の宿縁かと思う
物欲とその延長としての金銭欲ばかりだ
それでも役に立つものを手に入れたいとか
役に立たないからこそ手に入れたいとか
市を行き交う中世人たちも
おなじようなことを考えていたのだろう
人間は欲ばかりだ
どこか暗いところのある存在だ
ぼくは市には興味がないので
素通りしようとしていたら
屋台で犬の剥製を売っている人がいるのだ
野蛮だな
どうするんですか、これ
かわいがってもらえれば、と商人(あきんど)がいう
剝製を? 飾って?
生きている犬がかわいいなら
死んでいる犬だってかわいがれないはずないでしょう
商人の論理に納得はしないが反論のしようもない
飾られているのはブルドッグ、ポインター
芝犬、ビーグル
この時代に犬種は成立していないだろうから
犬種以前の犬種か
試してみるといいよ、とルネがいった
何を?
貸してごらん、と彼はいって
狼の毛皮をぼくから取り上げた
狼の毛皮をブルドッグにかぶせる
ややだぶついているがそれはちょうど
大きすぎるフード付きパーカを
着ているラッパー程度の話
ブルドッグin 狼がたちまち生まれた
すると
ああ、なんというふしぎ
剝製のブルドッグが生き返って
尻尾をふりながら歩きはじめたのだ
ぼくのほうにやってきて手を舐める
立ち上がって前脚で
じゃれかかろうとする
ブルドッグ特有の人なつこさで
まとわりついてくる
こういう仕組みになってたのかと
ぼくは突然理解する
茫然自失している
いったでしょう、剝製は死んでいるわけではないと
商人が得意げにいい、ルネも頷いている
狼は死して毛皮を残すとは
こういうことなんですよ
また商人がいうのが説教くさいが
まあ、いい
狼の毛皮を着たブルドッグを抱き抱えると
体重は25キロくらいかな
ずっしり重いが生命力にあふれている
もぞもぞと動き
はあはあと息をしている
このまま行けると思う? とルネに訊く
ルネが大きく頷いてくれた
ぼくはいつしか凧につかまっている
凧につけたハーネスに
犬を抱いたまますわり
離陸を待っているのだ
さあ、飛んでおいで、とルネが肩を叩いてくれた
飛び出した、みるみる上昇する
ブルドッグがよろこんでバウと吠える
原野のむこうに新宿の
高層ビル街が見える
あちらには丹沢の山々
目が自由に空をさまよっている

話の話 第23話:始めてしまう

戸田昌子

まず、朝、起きます(いつもとおんなじように)。すると、太陽がピンク色に光り輝く朝焼けがあるので、急いで「みてみて朝焼けだよ」って、友達に知らせる。

それからベッドをするりと降りて、湯を沸かし、大きめのイギリスのティーポットに、PGティップスのティーバッグをぽんと放り込む。ポットにはあらかじめ、きび糖を少し入れておく。それからぐらぐら沸き立った熱湯を遠慮なく注いでから、ゆっくり待って、スプーンでぐるぐるとかきまぜる。ついでにミルクもそこに注いでしまう。これは、家の誰もがまだ起き出してはこない時間の、わたしの朝の儀式。

朝は、いつも同じように始めないといけない。だからシンクのなかに洗い物が溜まってたらイヤだし、なにか大きく違ってたら困る。ベッドの中で夕べの夢を反芻しながら、今日の予定が何個あるのかを数え上げていく。事務書類や校正の締め切りが2件、いや、3件。問い合わせのメールはまだ3件返事していないな。授業の支度は半分しかできてないから、あとは電車のなかで考えるとして、本はあれとこれを持っていかなくちゃ。今日は誰に会うんだったっけ? そんなことをひとしきり考えてから、えいや、とベッドを出るのである。

時間があるときは、それからかんたんにシャワーを浴びて、今日の洋服も決めてしまう。服の決め方は寒暖というよりも、まず「この色が着たいな」というところで決めるようにしている。今日会う予定のあの人は、よく白っぽい服を着ているから、私は別の色にしよう、とか。若い人たち相手にはモノトーンが多いし、お年寄り相手には明るい色の服を選ぶ。自分の気分というよりも、どこにいて、誰と話をするだろうか、というのをもっぱら気にしている。

だから去年の後半、わたしが主宰して熱心にやっていた「火星人の会」では、なんとなく「宇宙人っぽい」というのをテーマに服を選んでいた。これは伝わる人に伝わっていたようで、「なんだか宇宙っぽいお召し物ですね」などと言われたものだ。もともとわたしはキラキラした服が好きで、シルバーのパンツやタートルネック、タンクトップなどのアイテムを幾つも持っている。それらを揃えて、「ソラリス」みたいな雰囲気が出せたら面白かろうと思っていたのだけれど、最後はネタが尽きて、なんだか山登りの人みたいなぽってりとしたチョッキなどを着てしまったりして、およそ一貫性のないことであった。

この「火星人の会」というのは、「写真と人間について深く考える会」という、壮大でありつつも曖昧なテーマのもとに始められた、きわめていい加減な会である。中野にある「ギャラリー冬青」で開催されている。ギャラリーが平廊した夜7時から、隔週火曜日に場所を借りて、「とにかくなにやりましょうよ」ということで始まった。こんな思いつきにあっさりと乗ってくれるオーナーの野口奈央さんは、わたしよりはるかにお若いというのに、人間の器の大きさが特大である。とはいえ、こちらも宇宙人という設定なので、たぶん負けない。ともあれ、思いつきだけで準備もしないで始めてしまったし、そうね、夜だしお腹も空くでしょう、となどと考えて、とりあえず軽食を作って出すことにした。なにしろ、「行きますよー」と表明していた人たちが軒並み無職だったので、なにか食べさせなくては、と考えた。「とりあえずおにぎりでも出せばいいかしら」と言ったら「それはおにぎりミサですね」と人が言った。なぜ「ミサ」なのか? と考えていたら、毎回来てくれるメンバーの一人が、そのうちにミサワインを持ってきてくれるようになり、なんだか宗教的な雰囲気が加味されてしまったような気がする。しまいには、クリスマス会と称してプレゼント交換会もやってしまったのでますます宗教がかってしまい、テーマはどこへ行ったんだろう、と主宰者としては軽く頭を抱えていたのだが、参加した人たちはそれなりに楽しかったようだ。ちなみにミサワインは、普通のワインと違っていて、とても甘くて、おいしい。

わたしはそんなふうに、いつも思いついたことを思いついたまま、始めてしまう癖がある。「だから戸田さんはファーストペンギンなんですよ」と、鳩尾がいつもの調子で、ゆっくりと言う。崖っぷちにわらわらと集まっているペンギンの群れのなかで、一番最初に海に飛び込んでいくあいつ。勇気があると言えば聞こえはいいが、調子ぶっこいてノリだけで前へすすんでしまう向こう見ずのあいつを、「ファーストペンギン」と言うのだそうだ。そこでわたしはちょっとだけ反論する。「どっちかってえとわたしは、目立とうとして崖の端っこまでやってくるわりには飛び込む勇気がなくてグズグズしてるペンギンを、後ろから蹴り出す係のペンギンだと思うな」とわたし。「ああ、わかる。でもそいつさ、あとになってから、オレのこと蹴ったやろ、とか言うよな」「言う言う」「あれだよほら、押すなよ押すなよ〜」「それはダチョウ倶楽部でしょ!」などと、架空のペンギンの話を延々としている。

ペンギンと言えば、そういえば最近、いろんな鳥が流行っている。ひところはシマエナガ。これは白くて小さくてふくふく可愛い、北に住む鳥。それから、ハシビロコウ。これはふてぶてしい顔をした大きな鳥で、聞けば、ガサア! と大きな羽音で飛ぶのだそうだ。いきなり飛ぶからびっくりするのだ、というのはこれまた鳩尾の話。それからまた最近、別の鳥が流行っているが、名前を覚えることがなかなかできないやつがいる。なんとなく見るとダチョウのようだけれど、名前が思い出せない。「なんていうか、ダチョウみたいな、ダチョウでないような、さ、おしゃれなダチョウよ。わかる?」と人に尋ねても、要領を得るわけもない。仕方がないので「ダチョウ+おしゃれ」でgoogle検索をかけてみる。すると出てきた「エミュー」。みなさん、あれはエミューですよ。

もうじき節分である。ということは、もうじきバレンタインということでもある。そしてなによりもうじき、わくわく確定申告である。最近ではわたしも、携帯で簡単に申告を済ませてしまうのだけれども、最初のころは大変だった。初めての確定申告のときなどは、源泉徴収票ほか、必要だと言われた書類を握りしめて朝から税務署に行き、長蛇の列に並んだものだった。ドキドキしながら待っていると自分の番になったので、若い係員のお姉さんに言われるまま、手取り足取りコンピューターを操作を行い、最後に源泉徴収票をホチキス留めにして提出……しようとしたのだが、最後の段になって、ふと「この書類、コピー取っておいたほうがよかったのかしら」と不安になった。いまさら「コピー取りに行かせてください」と言うわけにもいかないので、携帯電話を取り出して「写真撮ってもいいですか?」と係員のお姉さんに尋ねた。するとお姉さん、ニッコリと微笑んで「ピースでいいですか?」と顔の横にピースサインを出してポーズを取ってくれる。「ああ、いや……あの……お姉さんの写真じゃなくて、書類の、写真を……」としどろもどろになるわたし。よくお姉さんのお顔を拝見すると、なんとなく地下アイドルといった感じの活動をやってそうな、オタクっぽいお姉さんだった。きっと税務署の期間限定バイトさんだったのではないだろうか。渾身のボケにツッコミで返せなかった自分に赤面しながら終えた、初めての確定申告の思い出。

確定申告でも洋服の整理でも、なんでもいいのだけれど、もしなにかを成し遂げるコツがあるとすれば、「始めてしまう」のがコツだと思っているところがある。まずは何も考えずに手をつけてしまうのである。領収書の整理。書けそうもない原稿。キックボクシングは2年ほど前に始めたのだが、思い立ったその日に、当たりをつけたジムに電話をかけていたらしく、先日ジムのオーナーに「そういえば、戸田さんが電話かけてきたのって去年の12月24日だったんですよ」と言われた。12月24日か……わたしよ、もっと他にすることあるやろ。

「Don’t think twice, it’s all rightやで」と、最近よく鼻歌を歌っている。これは永井宏という人が弾き語りのギターを披露しているのをYouTubeで目にしてから、歌うようになった「くよくよするなよ」という歌(https://www.youtube.com/watch?v=37MM8Y8BvLg)。元はと言えば、ボブ・ディランの「Don’t Think Twice, It’s All Right」である。日本語の定訳は無いようだけれど、ナガイさんはオリジナルで日本語の、関西弁ふうの歌詞をつけて歌っていた。「座り込んでそんなに悩むんことなんてないさ(It ain’t no use to sit and wonder why, babe)」とナガイさんはギターをほろほろと指で撫ぜながらよい声で歌う。それを聞いていて、ああ、やっぱりギターやりたいな、とわたしは思いつたのであった。そして友人のギターを借りてさっさとギターを始めてしまい、しまいにはそのギターを購入し、その半年後には、ほろほろといい加減なギターに合わせたオリジナルソングをネットの大海に放流したりしてしまった。

ナガイさんは『SUNSHINE+CLOUD』という葉山の洋服店の、洋服のカタログに文章を書いていた。洋服の値段や仕様の書いてあるところに、なぜか、ちょっとしたいい感じの文章が書いてあるのだ。友達と街で会ったとか、短パンが好きだとか、そんな、他愛のないものである。今で言ったらツイッター(現X)の1投稿ないし2投稿くらいの分量の、ふとした日常の一コマを描写したようなものなのだが、読んだ後ではなんだか、ふっと心の重さが変わるような感じの、独特の良さのある文章である。2020年に、信陽堂という小さな出版社から『愉快なしるし』という本にまとまっている。

実はわたしは長いこと、ナガイさんを探していた。ナガイさんの話は、あちこちで聞く。どんな人なの? と尋ねると、「どこかでなにかやってるらしい」(←中身がなさすぎる)というような曖昧な風の噂が聞こえる。写真の本を書いたり、美術の作品を作っていたりしたとも聞く。実際にはナガイさんは葉山に住んでいて、「葉山カルチャー」というようなものを発信したり、身近な人の表現活動を応援したりしていたらしい。「だれにでも表現は出来る。ひとりひとりの暮らしが表現になるんだ」と言っては、いろんなことを人に始めるように励ましていたのだとか。

だから、信陽堂で編集者のたんじさんに「永井宏の本を出したんですよ」と『愉快のしるし』を見せられたとき、「わたし、同姓同名の永井宏っていう人を知っているんですけど、この人とはきっと別人ですね」と言ったのである。「きっとそれ、同じ人だと思います。永井さんならありえます」と、たんじさん。やはり、風の噂のような人だなあと思ったものである。

やろうかやるまいか、というようなところで悩むのではなくて、まずは始めてみる。ナガイさんにもそんなところがあったんだろうな、と思う。

その開けた感じというのは、たとえば、カーテンのない部屋みたいな感じかもしれない。引っ越したばかりのとき、前の部屋で使っていたカーテンは、新しい部屋ではたいていサイズが合わないし、古いからと捨ててしまっていたりするものだ。その部屋にぴったりとサイズの合うカーテンは、なかなかすぐに用意できない。カーテンのない部屋はスカスカして寒々しく感じるし、自分の姿は窓から丸見えになってしまう。けれども太陽が登れば目がさめるし、日差しが傾いていくのをじっと眺め続ける愉しみもある。夜の訪れとともに外が見えなくなっても、自分は外につながっている感じがする。夜は宇宙に思いをはせてみることもできる。ばばばあちゃんの『いそがしいよる』みたいに、夜空をみながら、眠りに落ちるのだ。

継ぎを当てる

高橋悠治

行き来する思いつきを書き留め、つなぎ合わせる。モザイクが、一つずつの要素を組み合わせて全体を構成するのに対して、すでに雑多な集まりであるものが瞬間に入れ替わるような、目標とする全体像の持たない、変化の過程の記録である音楽を試してみる。これがファゴットのために書いた『連』の試みだった。

それまで使わなかった音を初めて使う瞬間の新鮮な感じがアクセントになり、一本の線のメリハリが生まれ、そこから不規則な区切りができる。

連歌や連句の「連」は、連続する違い、それは前後の時間につながる空間やひらける風景の違いと、それを見る、というより、その中に包まれる空間の違いを感じ取る体感の違いを経験する過程で、始まりも終わりもない、いつも途中、未完成で、半端な感覚であるはずだった。『連』の場合は、初めの小節に似た動きを使って、循環する時を暗示して曲を終えたが、それが良かったか。「終わり」という感じを作らないこともできたかもしれない。

初めて使う音を、できるだけ遠い時間に離して置くのは、12音技法の原則だった。柴田南雄はバルトークの分析で、確か「配分法」と呼んでいた。子供の頃、音楽雑誌で読んだ論文にあった。12音技法では、シェーンベルクよりはヨーゼフ=マティアス・ハウアーの方がそれに近かった。ということは、ゲーテの色彩論やバウハウスの色彩理論の系統かもしれない。

でも、それらはすべて近代ヨーロッパの考え方だろう。そうではなく、西アジアの「感じ方」、江戸の木目、考える論理ではない、感じる論理、鍵盤の上を這い回る指と掌の間の空気を含んだ空間から聞こえる響きの余韻を追って行く小径を見失わないように。