007 言語学――予言のため

藤井貞和

地面のすきまを、字の手がのびて書く。
意味をしたたらす表音の息はしなやかに。
いきもののけはい、暗夜の言葉である。
言う、すこし。 葉と枝とのあいだに、
くらい、くろい、誕生石。 声音器官の発生と、
くぐもる静止と、発生のあとさきと。
舞う森の遺伝子――言葉。 生まれたよ、
なまり、音便、詞(ことば)の微音。
ひびきに寄せて、意味の幹を切る中相態。
根を腐らす藻状の未完了。
音図にそよぐアクセント。
かまわん。 さいごの記号が、
回復する死語から放たれる過去。
こころのなかのははの歓びが、
胎内でわたしにのこした――
先住語だろう、会うだろう、
からだにはいってくることだろう、
語彙の虫。 土間(どま)の神が語らす、
その墓に会話はあるか。 仮面が黙秘する、
落日の景。 わたしの失語で、
亡いひとの笛をドロに沈める。
うたをワキ僧がものがたりに変える。
からだにはいってくることだろう、
さいごの昔話。 人が出逢う演劇態。

(加藤典洋さんに『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』〈岩波現代文庫〉という、ややぶ厚い文庫本がある。十倍に水で薄めたような、それでも尊皇攘夷の時代が来るという予言の書。加藤さんは大学にはいって、私を何かとつっかかる標的にしたてて、親しく何年か続いた。渡米してかれは批評の人となり、私は〈言語学〉へと訣れた。)

桑の実と至福のあなたへ(上)

イリナ・グリゴレ

もうすぐ、あの美しい場所に近づいている。まわりのもの、特に果物が大きくなるから。畑はやめたけれど、道の駅で買ったスイカは驚くほど大きい。親友に送った。自分用と親友用、合わせて三つ。あまりに大きいので、スイカの中で暮らせそうな気がする。私と娘、ルーマニアから来たばかりの母と。「女の家」で暮らそう。なぜ平安時代の日本に憧れるのか。たぶん、和歌で心を通わせていたからだと思う。今、日常の中で言葉を使うのは、私にはほとんど無理に近い。無駄だと感じるから、日常が残酷だから。最近、人の話を聞いてない。聞こえてない。この贈り物のような世界を語る言葉がない。子どもの頃と同じ感覚で、世界をずっと見ていたい。味わうことに集中したい。

大学の敷地では、毎年6月に桑の実が実る。その木の下を通ると、セメントに黒い染みがたくさんできている。わざと赤い靴を履いてその間を歩く。黒い実の跡と赤い靴のコントラストが好きだ。手に取ると、汁が指に赤い跡を残す。まるで皮膚全体で食べているような感覚に気づく。私、回虫に似ているかもしれない。皮膚から栄養を吸収して生きる。サンゴも同じ。今日、桑の実から教わった。寄生虫やサンゴの目で世界を見てみたい。ハリガネムシという寄生虫に魅了されたのは、カマキリの中に入るその映像を見た日だった。ハリガネムシはカマキリを操り、水中に飛び込ませて脱出し、そこで繁殖する。生き物の性についての講義で、学生たちがカマキリの話を話題にした。オスとメス、メスがオスを殺す、生き物のジェンダー論。先日、運転中に突然、腕にカマキリの赤ちゃんを見つけた。透き通った緑色で、元気に私の体に飛びついてきた。美しい生き物だった。もし大人のカマキリだったら、寄生虫に操られ、私の車に乗って水まで運んでくれと頼むかもしれないと想像した。でも、それは赤ちゃんだったから、まだ寄生虫に支配されていない。自由に私のシルクのシャツの上を飛び、どこかへ消えた。透き通った小さな体に、羨ましさを感じた。大人になると、潰れた桑の実のように黒く、影のようになる。人間も、カマキリも。

人類学者ロバート・ガードナーの『Forest of Bliss』を学生たちと見た。インドのベナレス、ヒンドゥー教の聖地の日常を詩的に描いた民族誌映画。この映画についてなら、いくらでも話せそう。私の内に、美的な寄生虫がいるのかもしれない。美しいものだけを、ずっと見ていたい。ガンジス川に浮かぶ死者も美しい。彼らにとっては幸せな死に方だった。最近、生きることも死ぬことも素晴らしいと思う。特にこの映画を見ると。何度見たかわからない。ガンジス川には人間だけでなく、犬、猫、牛の遺体も運ばれる。この映画を見た日、私の靴下が映画の中の無数のマリーゴールドと同じ色だった。みんなで笑った。一緒に民族誌映画を見るのは、儀式のようだ。ガードナーのタイトル通り、至福の森に入る感覚。儀式はみんなで見て、みんなで参加するから。一人ではない。この映画に森は映らないけれど、生き物と場所はまさに至福の森そのもの。好きなシーンは、100歳くらいのおばあちゃんが死にかけている場面。日本の祭りでよく聞く鉦の音に迎えられながら、まだ完全に死んでいない。死後、小さな細い体をピンクの布で巻き、ガンジス川に降ろす。あのピンクの布の下の小さな体が、幸せそうに見える。ガードナーの一番有名な映画は『Dead Birds』だ。パプアニューギニアのダニ族についての民族誌映画。この映画はダニ族の理解に繋がったが、詩的すぎるという批判もあった。60年代のこの作品から『至福の森』までの20年で、ガードナーの撮り方はさらに詩に変わった。彼の思想がよくわかる。生き物の真実を伝えるには、詩でしかできない。

大学の講義が終わり、子どもの迎えに出た。敷地内の桑の実をまた摘んで食べた。甘い愛の味がした。幸せな気分。道の駅では、スイカだけでなく、大きなイチジクも見つけた。白い紙タオルに丁寧に置かれた、私の手よりも大きな二つのイチジクを買った。インドのピンクの布に包まれたおばあちゃんに供えてから食べた。まるで至福の森のイチジクの味だった。

モギ

笠井瑞丈

モギが旅立ちました
5月から具合を悪くし
二ヶ月間闘病生活を送っていました
回復すると祈っていたのも虚しく
7月12日土曜日永眠いたしました
首が捻転してしまう病気に侵され
一日何十回も発作を起こすようになり
一度発作を起こすと大きく暴れ回り
ケージのあちらこちらに身体をぶつけ
かなり肉体的にも消耗してしまう
その度に身体を戻してあげ
首が捻れて呼吸が出来なくなってしまわないように
深夜も幾度となく発作を起こし
その度起きて身体を元に戻してあげてました
心の中ではもう回復は難しのかもと少し思いながらも
なんとか奇跡が起きないかと願っていました
そしてずっと苦しそうにしている姿を見ていると
とても悲しく苦しい気持ちにもなりました
ふと早く楽にしてあげたいという思いにも
モギはとても不思議な鳴き声をする子で
すごく甘えるような鳴き声をする子でした
あの声がもう聞けなくなってしまった
モギは妹のハギと二人でウチに来た
本当に二人は仲良しで
いつも一緒に昼寝をして
いつも一緒に歩きまわり
いつも一緒にご飯を食べ
いつも一緒に夜は寝床に
モギハギを譲ってくれた大村さんも
二羽がとても仲良しなので
引き離すのは可哀想という事で
一緒に引き取ってくれるなら
譲ってあげますよという条件付きでした
そしてウチに来てすぐ
ナギとも仲良くなり
可愛い三姉妹として
家に光を照らしてくれてた存在
亡くなる数日前からは
あまり発作も起こさなくなった
最初は発作を起こさなくなって良かった
いい方向に向かってると思っていたのですが
もう発作を起こす体力も残ってなかったのだ
亡くなる当日はなおかさんも僕もお休みだった
朝からいつも通りモギにご飯を食べさせ
身体をほぐしてあげたりしてました
そして抱っこした時になおかさんが
モギの鼓動がいつもより早いと気づきました
その後しばらく様子を見てましたが
やはり本調子ではない事に気づきました
僕はその時今日がお別れの日だと直感的に感じた
なおかさんの腕に抱かれてたモギ
眠るばかりでもう動く元気もない

はっ

急に今まで見せたことのない羽ばたきを
バタバタバタバタバタバタバタバタバタ
抱き抱えられないほどの強い羽ばたきを
眼球が徐々に漆黒の中に吸い込まれるていく
そしてゆっくりゆっくり瞼を閉じて
カラダから魂が天に昇っていく
とても悲しく残酷な瞬間だったが
とても美しく綺麗な瞬間でもあった
生命の最後というものは美しいものなのだ
そんな事を教えてくれたモギ
今はきっとゴマとマギとモギ
三人で仲良くやってるだろう

ありがとう
そして安らかに

仙台ネイティブのつぶやき(108)ママンの死

西大立目祥子

日曜日、ママンが死んだ。施設から電話があって駆けつけると、もう息をしていなかった。息を引き取ったのは未明だけれど、亡くなったのは7時近いのかもしれない。よくわからない。なぜって人の死は医師が診断して確定するから。3時半から3時間、ベッドわきで弟ととりとめのない話をしながら医師の到着を待った。ママンは半月ほど前からそうだったように、体を左に傾け右頬をこちらに見せるようにして静かに目を閉じている。眠っているみたい。でももう、体を覆うタオルケットが小さくふくらんだり沈んだりはしない。
東向きの部屋に暑い陽射しが射し込むころ医師がやってきて診察し、「死亡時刻は6時53分、老衰ですね」といった。97歳。涙は出なかった。

半月前、看護師さんに「あまり召し上がらなくなってきました」といわれても、もうさほど動揺することはなかった。最後の時が近いことは、ゆっくりと下降線を下るように変化していくようすから十分にわかることだった。ママンは骨も肉も内臓も絞るように使い切って、命を閉じようとしている。できるのは、死に向かって静かに降りていく人をじっと見守ることだけ。まだ自力で歩いたり動き回ったりできころは、わずかな変化ひとつひとつに右往左往し胃の縮む思いがしたり心臓がバクバク鳴った私も、これはもはや生きているものすべてがたどる自然の衰え、と受け入れられるようになっていた。

でも、物事が進んでいるときというのはじぶんの目の不確かさもあるのだろうけれど全体はつかめないもので、6月を迎えるころにはかなり衰弱していたんだな、とすべてが終わったいまになって気づいている。それでも、もっとこうしてやればという後悔はほぼない。悲しみも湧いてこない。どこか乾いた気持ちで、遠くに歩いていく母の背を見送っている。天寿をまっとうしたからなのか、20年に及ぶ介護をやり終えまわりからもがんばったよ、といってもらえるからなのか、つきあいやすいとは決していえない性分のママンに振り回されながらも格闘するように向き合ったからなのか。

30年前に父を亡くしたときは、死がじぶんに食い込んでくるようで、後悔がつぎつぎ湧いて苦しかった。あれはまだ若かったせいだろうか。そのころ読んだたしか河合隼雄の本にはうろ覚えだけれど、死には、一人称の死(私の死)、二人称の死(あなたの死)、三人称の死(だれかの死)がある、とあって、父の死は私が初めて体験する二人称の死なんだ、と感じた。会えるものなら一目でも会いたかった。それが高じてか、仙台市中心部の大きな交差点で信号待ちをするときに、信号が青に変わってどーっとこちらに向かって歩いてくる群衆の中に父がいる、きっといると夢想したりした。歩き出すと向こうから父がやってくる。お父さん!と声をかけると、おうっ!と返ってきて視線を交わすのだけれど立ち止まることはなくそのまま行き違う。そんな場面を何度も想像した。

母の死はまぎれもない二人称の死なのに、父の死とは明らかに違う。もちろん三人称の死でもない。母ひとりの死に違いないけれど、その向こうに人がこの世に生まれ落ち生きて、生ききって死んでいく大きな物語が、遠くに山並みが連なるように背景として横たわっているように感じる。私たち人の死だ。いや人だけではないかも。生きものみんなの、万物の死なのかも。
 
よくきれいなお母さんだね、といわれたママンはおしゃれで華やかで社交的で明るくてパワーにあふれていた。負けん気が強く決断が早くおしゃべりで、食べたいものはからだのことなど気にもかけずなんでも食べ、ひとり暮らしになっても花柄のワンピースを着込み手にはマニキュアをしヒールのある靴をはいて出かけていった。洋裁、編み物、七宝焼き、革工芸と趣味もあれこれあったけれど、何をするにも圧倒的な集中力を見せてものすごい数の作品を作り上げた。私とはすべてが真逆ともいえて、だからなのか娘のころから何かにつけてぶつかった。相手の気持ちなど顧みず感情をむき出しにしてぶつかってくる母には、振り回され傷つけられもしたし、家を離れこの人から早く逃れたいとも思った。母からみれば、何かにつけていらいらさせられる娘だったろう。

そんなママンも晩年はだんだんとおだやかになった。持ち前の明るさは変わらなかったから、ヘルパーさんや施設のスタッフに慕われ、衝突ばかりしていたママンの思いがけない一面を見せられたような気分だった。
二度のコロナ感染を乗り越え衰えてはいても安定していた状態は、昨年の貧血、心不全治療の入院をきっかけにみるみる落ちていった。面会のたびにやせ細っていく足や腕や背中を見ながら、老いの進むその先にひと続きで死があることを意識せずにはいられなかった。

この年齢になるときょうだいはほぼ亡くなり、下の世代でさえ健康体ではなくなっている。ささやかな葬儀のあと、家族と数人の親族で仙台市西方の葛岡という山の霊園に火葬にいった。
1時間半ほど食事をしながら過ごしたあと、アナウンスに促され弟と二人、確認のために炉前でママンを待った。ほどなくしてママンは白い骨になってあらわれた。まだ熱い台の上の頭蓋骨や背骨や骨盤の中に、大きな大腿骨がごろりと転がっている。目を見張った。左足の大腿骨だ。何?この野太い存在感は? ちょうどピンポン玉のような真っ白な股関節が、周囲を見渡すようにしっかりと頭をもたげている。私は骨に気圧され息を呑み、次の瞬間思った。この人にはかなうわけがなかった、と。この太い骨で周囲を振り回し、私に怒り、翻弄し、100年近い時間を生き抜いていったのだ。

死んだママンは静かだ。白い箱の中に納まって隣の部屋にいる。でもその中にあの大腿骨があるかと思うと、油断はできない。怒らせたら、大腿骨をブーメランのように飛ばして私の脳天を一撃するかもしれないから。

渋谷陽一さんを追悼する

若松恵子

7月14日に渋谷陽一さんが亡くなった。病気療養中である事は知っていたのだけれど、残念でならない。「世界はこのありさま」で、まだまだ彼の発言が必要だった。

渋谷陽一さんは、洋楽ロック批評・投稿誌「ロッキング・オン」創刊メンバー。ラジオ番組でたくさんのロックを紹介した。音楽フェスを主催し、編集者として音楽だけでなく、映画、美術、政治をテーマとした雑誌を作った。ロッキング・オンはいつしかロッキング・オン・グループという大きな会社になっていて、彼は代表取締役会長だった。でも、生涯、「王様は裸だ」とまっすぐに指さした子どもの鮮やかさをもって仕事した人だったと思う。高校から大学の、生きる上での価値観がつくられる時期に彼が紹介する音楽や書いたものにたくさん影響を受けた。

自分が良いなと思った音楽が不当に批判されている、聞いてもいないでお門違いの批評をしている大人たちへの怒りが彼の評論活動の出発点だったようだ。既存のメディアが忖度して本当の事を言わないなら、自分たちでメディアをつくって、音楽を楽しんでいる当事者自身が一番の理解者として本当のことを語ればいい、それが「ロッキング・オン」という雑誌だった。それは、ロックが教えてくれた最良の考え方でもあった。インタビュアーが勝手にまとめてしまうのではなく、ミュージシャンがつぶやいた言葉を制限なく採録する2万字インタビューも、同じ考え方から生まれたスタイルだったと思う。

本質を見抜くこと、その人のなかにまだ埋もれている宝ものを直感的に見出す力が渋谷にはあって、しかもそれのどこがどんなに良いのか、鮮やかに説明して人を納得させてしまうところが彼の魅力でもあった。仲井戸麗市の30周年BOXセットに寄せて「私だけが分かる、あるいは私が分かってあげなくちゃ誰が分かるというの、そんな気持ちを聞き手に抱かせる魔力をチャボは持っている」と書き始めていく解説は秀逸だ。良い聞き手の存在は、良い演じ手と同じくらい必要なのだと彼の仕事を通じて思った。

「ロッキング・オン・ジャパン」の忌野清志郎追悼特別号の編集と巻頭で清志郎について語った言葉、ロッキング・オン創刊メンバーのひとり、松村雄策が亡くなった時に寄せた渋谷の言葉もまた心に残っている。渋谷陽一以上に渋谷陽一を追悼する言葉を語れる人は居ないのでないかと思う。

お払い箱

篠原恒木

今月の三十一日で、おれはカイシャをお払い箱になる。ちょうどあと一か月だ。
参院選大敗の責任をとるわけではない。
六十五歳の誕生月が終わり、それをもって再雇用契約の終了となるのだ。

本当は四年前、六十一歳の誕生月で定年退職したのだが、本人が望めばカイシャは六十五歳まで「再雇用」しなければならないという決まりがあるらしい。「決まり」ではないのかな。違ったかな。そのへんの細かい仕組みは、ヨクワカンナイ。厚生労働省に訊いてくださいね。おれはめんどくさいから訊かないけど。

ともあれ六十一歳当時のおれは、まあまあ何とかスレスレそこそこギリギリかろうじて元気だったし、「参与」というワケのワカンナイ肩書をつけてやるから会社に残れと言われたので、再雇用してもらうことにした。だが、参与って何なのさ。ギモンに感じたおれは総務担当の常務取締役に、
「常務サンヨ、その参与ってのは何をすればいいの?」
と、核心的な質問をしたのだが、あまり要領の得られない答えだった。しかしながら、参与として残ると「参与手当」も月々の給料にプラスされるというので、結果的には尻尾をブルンブルンと振って、おめおめと、ぬけぬけとカイシャに居残ることにしたのだ。つまりはカネで転んだおれだった。情けない。カネさえ潤沢にあったら夜中にカイシャに忍び込んで気に入らない奴らの机の上に次々と脱糞して、すぐにでも辞めてやったのになぁ。四年前はそう思いましたね。

そしてあっという間に四年が経ち、契約の最終期限である六十五歳になったので、もはやこれまで、今月末をもって馘首となるわけである。

社会性ゼロ、協調性ゼロ、社交性ゼロ、愛社精神ゼロ、徒党を組むのが大嫌い、気に入らない奴にはすぐ吠えてガブリと噛みつく野良犬気質のおれが、よくもまあ四十三年間も同じカイシャに勤めたよなぁと自分でも思いますよ。
それと同時に、カイシャ側から見たら、こんな老害ジジイは一日も早く放逐したかっただろうな、とも思いますね。目障りこの上ないもん。

おれがカイシャを辞めなかった理由はただひとつ。企画を考えたり、絵コンテを描いたり、それをもとにデザインを引いてページを作ったり、雑誌や本をこさえるのが大好きだったからだ。

おもにずっと雑誌を作ってきた。若い女性に向けたファッション月刊誌だ。その雑誌を編集していたときは、「読者にどうやったら喜んでもらえるか」ばかりを考えていた。そのためには予算なんて野暮なコトは念頭になかったし、楽しくて素敵なページを作るためならば、とカネをジャブジャブ使っていた。そのため制作費、人件費、ページ数が膨れ上がり、実売部数や広告収入が上昇しても、「純利益はそんなに大きくない」というありさまだった。

これは会社員、ビジネスマンとして致命的欠陥なのだろう、というのはバカなおれでもうっすらとわかる。わかるんだけど、
「仕事の成果はすべて数字で判断する」
なーんて言われると、あなたは本や雑誌なんて作っていないで、メーカーや商社に転職しなさいね、と思っちまうもんなぁ。利潤の追求は大前提なのだろうけど、おれのアタマのなかは「とにかく面白いものを作るのだ」ということしかなくて、最後までその「利潤の追求」という大前提がなかった。思えば決して賢いとは言えない、いや、とことんバカな勤め人だった。

自分が丹精込めて作った雑誌や本の売れ行きが悪いと、
「おれの最大の欠点は大衆のレヴェルまで下りていけないことだ」
と、開き直っていた。いや、おれが作って売れなかったモノは数えるほどしかなかったんですけどね。それとも都合の悪いことは記憶から消しているのかも。うふふ。

まあそういうわけで、四十三年間の放牧の末、カイシャから放逐されるわけですが、最後の最後までモノづくりに励むことができたのはよかった、有難かったと、これは心の底から思っているのですよ。

再雇用期間中でも本を作らせてくれたし、来たる九月十日にはおれの「遺作」とでもいうべき文庫3冊が同時発売されるんですぜ。まだ一カ月以上も先の話で、発売される頃にはおれ、カイシャにいないんだけど。

しかしなぁ、本が売れない世の中で、3冊一挙にどどーんと発売するなんて大丈夫かなぁ。チビリチビリと、毎月一冊ずつ出して「三か月連続刊行!」なんてコピーでお茶を濁すのが最近の常套手段でしょ。今回も、
「どうしますか」
と、社内関係者から意見を問われたのだけど、おれは勢いに任せて、
「3冊の文庫の装幀もおれがやる。デザインは統一性をもたせる。だから、どどーんと3冊まとめて出しちゃえ!」
と、啖呵を切ってしまったのであった。

あ、3冊の文庫とは、おれが単行本を担当した片岡義男さん作『珈琲にドーナツ盤』『珈琲が呼ぶ』『僕は珈琲』の「珈琲三部作」であります。九月十日、3冊一挙に発売するのだ。九月十日だかんね。3冊同時発売ですぜ。しつこいね。

おれは片岡義男さんと何回も一緒にお仕事をする機会に恵まれたのだが、個人的に「うーむ」と思っていたのが、一部の「片岡義男原理主義者」のみなさまであった。はっきり言ってしまおう。彼らはいまだに片岡義男をむかしむかしの「オートバイ・サーフィン・彼・彼女」という狭い文脈でしか捉えていないのだ。いや、コアな有難いファンだなぁとは思うのだが、当の片岡義男はとっくのむかしにそういう小説は書かなくなった。日本語文化と英語文化の比較論を書いたり、映画・俳優論を書いたり、静謐な物語を編んだり、実験的な「メタ小説」を書いたりと、その筆致は進化し続けているのだ。

ザ・ビーチ・ボーイズだってそうでしょ。初期のころはそれこそ「サーフィン・オートバイ・ホットロッド・彼・彼女」だけを歌っていたけれど、そこに安住することなく、のちには『ペットサウンズ』や『スマイル』を作り上げたわけだし、ボブ・ディランだってギター1本でプロテスト・ソングを歌っていたのはデビューしてから数年だけのこと。それからのめまぐるしいほどの進化はおれがいちいち書かなくてもご存じの通りだ。

「あの頃の片岡義男」にこだわる人たちにこそ「今の片岡義男」も読んでほしい。

おれはそう願いながら、片岡さんと仕事をしてきた。もちろん今の若い人たちにも「今の片岡義男」を読んでもらいたい。そんな人たちにとって、ここ数年のあいだに書かれた「珈琲三部作」は、うってつけの作品ですよ。

おれは3文庫の装幀、帯のデザイン、本文の字組みから書店のPOPまで、徹頭徹尾ぜーんぶ一人でやることにした。なぜなら、この最後の仕事くらいは「どうやったら読者に喜ばれるか」を考えず、きわめて衝動的に好き勝手におれ自身が喜ぶものを作りたかったから、だ。
だからとても手間はかかったけれど、最初から最後までずーっと、とてもとても楽しかった。

でもね、本や雑誌なんて、作った奴、つまりは編集者の機嫌がモロに出るから、おれがきわめて楽しく作ったこの3文庫は、きっとあなたにとっても楽しいものになるはずですぜ。そしてすでに単行本をお持ちのかたにも、文庫が欲しくなる「付録」的なものを用意しましたからね。あ、なんでぃ、ちゃんとヒトのことを考えているではないか。さすがはプロだ。いやいや、この特典も、おれが「あったらいいな」と思ったからなのだ。そのへんのもろもろ、詳しくは来月でね。

《この項、続いてしまう》

ここ20年のインドネシアの電話・インターネット事情

冨岡三智

7月末からインドネシアに来ている。『水牛』のことを思い出し、安宿でいま慌ててパソコンに向かったら、昔インターネットで文章を送るのが大変だった時代のことを思い出した。2006年3月号4月号に「ここ10年のインドネシアと日本」と題して、当時までの10年間の日本とインドネシアの電話事情、インターネット事情について振り返っているのだが、2006年当時は家の電話器のモジュールジャックからインターネットにつないでいたのだった。まだwifiはなく、旅行者はインターネットカフェのパソコンから送るか、自分のパソコンを個人オーナーのワルネット(電話機にコインを投入するのではなく、管理者にお金を払って使用するタイプの公衆電話。電話機は普通に家庭で使っているタイプ)に持ち込んで、その配線ジャックを自分のパソコンにつないで送らせてもらうか(オーナーに嫌がられるが)だった。過去には、インドネシアでその通信がうまくいかず『水牛』を送れなかったこともある。今読むと化石のような情報である。そして、当時はインドネシアでも多くの人が携帯電話を持つようになっていたものの、まだ携帯電話でSMSを送るのが主な通信手段だった。

これを書いたのがもう20年近く前のことだというのに愕然とする。この5年後、私は2011年1月~2012年4月にジョグジャに滞在していたが、その当時はUSBモバイルwifiが出ていた。私が滞在していた大学のレジデンスにはwifiがあったが、大勢の人が使うためか、ものすごく通信速度が遅かった。この滞在でいろいろお世話になったインドネシアの友人に教えられて、パソコンのUSBに差し込むモバイルwifiを買い、使用していた。こちらはレジデンスのwifiより通信速度が速かった。友人との連絡手段はまだSMSだった。私がコンパス紙に執筆した(2012年8月)時にものすごく反響があり、私の友人知人や、彼らから私の電話番号を聞いた人がどっとSMSを送ってきたことを覚えている。

私がホワッツアップ(WhatsApp=WA)を使い始めたのは確か2012年に入った頃。2012年9月にインドネシアの芸術大学を招聘して島根で行ったスリンピ公演を手伝ってもらったインドネシア人アートプロデューサーの人から使うように勧められた。海外の人―特にアメリカ人―とのやり取りはWAでやっていると言う。WAは日本のLineのような無料メッセージアプリだが、電話番号で登録する。今調べるとWAの提供が始まったのは2009年5月かららしい。私がジョグジャに滞在していた時、私のインドネシアの知人たちで他にWAを使っている人はいなかったように思う。一般のインドネシア人同士がWAでやり取りするのが一般的になるのは2012年よりは後のように思う。今では私とインドネシア人とのやり取りはWAが主で、facebookのメッセンジャーなどでつながっていた人ともだんだんWAでやり取りするように切り替わってきた感じがする。

インターネットの確保だが、2018年に行った時にポケットサイズのモバイルWifiをインドネシアで買ったので、それ以後渡航するときにはそれを使っている。インドネシアに着いたら空港でSIMを買って、モバイルwifiに入れて使う。いまや安宿でもwifiはある時代だが、出先でwifiがない場所もあるから、モバイルwifiは重宝する。2014年から2018年まではインドネシアに行けなかったので、いつ頃このポケットサイズのwifiが普及したのか知らない。

というわけで、こういう状況もまた「あの時代は…」と振り返る時期が来るのかもしれない、2010~2020年代の風俗資料になるかもしれないと思って、ここに記録を残しておく。

夜の山に登る(5)

植松眞人

 結局、僕らは仕事で絡むことはなかったけど、時々会っては、お互いの会社の愚痴を言い合ったり、東京でのせせこましい暮らしについて話したりするようになった。月に一回は会ってたな。あんたのマンションにも立ち寄るようになって、美幸さんの手料理をいただいたり、純平君とも遊んだこともあった。知美ちゃんが生まれたのは、僕らが再会して、一年ほどしてからやったかなあ。あんたも「女の子は格別やなあ」いうてえらい可愛がりようやった。美幸さんも純平君も幸せそうやった。僕はまだ結婚してなかったけど、結婚を約束した人が社内にいて、あんたとこみたいに幸せな家庭を築きたいと思てたんや。
 美幸さんから僕のスマホに電話がかかってきたのは、知美ちゃんが生まれて一年ほどしたくらいやった。よう覚えてる。知美ちゃんの誕生月は僕の母親と一緒やから。僕の母親は、自分の誕生日が近づいてくると、プレゼントを催促するような人やったから、母親のプレゼントを買うとき、一緒に知美ちゃんのプレゼントも買おうと思ってたんや。
 僕は半年ほど前に埼玉の拠点に転勤になって、あんたと会うタイミングがちょっとだけ難しなってた。「知美がどんどん可愛くなってるんや」というメッセージがあんたから送られてきたのが三ヵ月ほど前やったかな。「今度の休みにちょっと遅くなるけど、知美ちゃんの誕生日プレゼント持って会いに行くわ」と返信したなあ。けど、新しい拠点での仕事が忙しくて、結局行けないままになってた。今度の休みと言っていた日から二ヵ月ほどもたった昨日、スマホに美幸さんから電話が入った。
「急に電話をしてすみません」
 美幸さんの声が沈んでいた。
「どうしました」
 僕が恐る恐る返すと、電話の向こうは黙り込んだままになった。僕はその沈黙には大きな意味があり、その意味が暗く重いものだという予感がして、何も切り出せないまま、互いが黙り込んだ。どのくらい、僕らが黙ったままやったのか、思い出せない。ただ、とてもかすかな声で、美幸さんが、あの人が二日前から帰ってこないんです、とだけ言った。
 その時、僕は思い出したんや。高校三年のあの日の夜、僕の家の前であんたが言うた、「六甲山がええか、夙川の海がええか、お前ならどっちを選ぶ」と聞いた言葉や。僕は美幸さんに言うた。
「たぶん、関西にいると思います。きっと里心がついたんと違いますか」
 できるだけ、明るい声で僕は言うた。けど、美幸さんはもう何かを覚悟をしたように、唇を食いしばってる姿が見えたような気がしたな。(つづく)

立山が見える窓(3)

福島亮

 帰宅してまずするのは、ベランダの野菜たちへの水やりだ。タンクを満タンにしておいた加湿器が数時間後には空になって自動停止してしまうように、この時期はいくら水をやっても、気がつけば土の表面が乾き、葉がしんなりしてくる。とくにミニトマトとピーマンは蒸散の量が多いのか、一日に二度、早朝と夜に水をやらないと実のつき方が悪くなる。ピーマンに至っては、実の下部が腐り始める。尻腐れ病だ。

 植物に水をやるために行き来する居間は高温である。越してくるまで、富山といえば雪国で、雪国であるからには涼しいものと思い込んでいた。フェーン現象という言葉を聞いたことはあったけれど、それが何を意味するのかまでは知らなかった。今の住まいには、入居時にエアコンが付いておらず、ずるずると設置を先延ばしにしていたのだが、先日、ありがたいことにエアコンを無料で譲ってくれる人がいた。おかげさまで、帰宅後すぐにエアコンをつけられるようになった。しかし、室内の熱は執拗に残り、息を詰まらせる。汗を流しながらの水やりは、その息苦しさを紛らわせるための時間でもある。

 いくら水をやってもだめかもしれない。ふと、そう思う。ここしばらく雨が降っていないから、鉢の中に熱がたまりっぱなしなのだろう。ミニトマトの葉の色はくすみ、ところどころ枯れ始めている。それとも、もう収穫の時期が終わり、枯れていくころなのか。いずれにせよ、早朝と帰宅後の水やり程度では、この暑さと雨不足に太刀打ちすることはできないようだ。

 人間の意思や努力、あるいは期待ではどうにもならないものがあることを、これら不憫な鉢植え植物たちは教えてくれる。同様のことを、富山城址公園で死んでいった107羽の鷺たちも警告しているのだと思う。5月頃だったろうか、夜、城址の前を通ると、怪鳥の叫びのような声が鳴り響いていた。あれはきっと、子育て中の親鳥の声だったのだろう。鳴き声や糞に対しては、苦情もあったに違いない。市としては、松を伐採すれば、騒音問題の元凶である鷺たちがどこかに行ってくれるものと思っていたらしく、巣のあった松の木を伐採した。だが実際には、巣立つ前の若い鳥たちは、どこへも行かず、飢えと疲れによって次々に死んでいった。よく「生存本能」という言葉が用いられるが、この鷺たちの死は、その本能なるものが思っているよりもずっとか細く、脆いものであることを知らせてくれる。

 邪魔なもの、迷惑だと思われているもの、視界から消えてくれたらいいのにと思われているもの——その住まいを破壊し、居場所を奪い、どこかに出ていくよう仕向けたところで、そう易々と出ていくことはなく、破壊されたかつての居場所は墓場になっていく。この107羽の鷺たちは現実であって寓意ではない。それでも、あたかも現在進行形で起こっている虐殺の寓意であるように思えてならないし、排外主義がもたらすものの寓意であるようにも見える。

 そんなことを考えながら、プランターに生えた細かな草を抜いていた。せめてものケアをしておきたいと思った。ツルムラサキの土から生える草を引き抜いたとき、芳香に手が止まった。ツルムラサキを植える前に同じプランターに植えていたエゴマの香りだ。うまく育たず枯れ始めてしまったので、エゴマを抜いてツルムラサキを植えたのだった。あのときのエゴマが、知らぬ間に種子を落としていたらしい。

 抜いてしまった方がよい邪魔な草だと思っていたその小さな植物を、もう一度プランターに植え直してから、もう一度、水をやった。

活発な雨雲あんだー不安

芦川和樹

フローラが歩幅を
正確に測る。路上には黄いろい
黄色、き、イエロー
点字ブロックが延びて、フローラ
フローレンスの手先には
雷、か、いなづま、みなりが
残る。絡んでほどけないのよ
あの辺りの闇があすか
いつかの雨雲(徒歩)だろうね
切り絵は
ラ、いいえラじゃない
正月を見据えて
キャリー、荷物のことが
フローレンスの頭を
(翌日の台風を知らせる)よ、ぎるのです
フローラの傘は
おぼつかない足どりで
左頬に吹きつける風
を折りたたむ、たたまなきゃ
歩けないじゃないか
肩に
肩の柵に
凭れて、もた、れて
塗り絵をもとにした
スモークの完成もうすぐ、を鼓舞する
弓矢で
貫ける心臓がたくさんあーる
フローラの雷
すこしだけ走ってみる雨具、雨雲
すぐに止まる
すぐに思いだす
すぐにクリームパンを食べたい
おへそを渡さない
歩幅をそろえない
足跡につばを吐く
うそできるだけ汚さない
固定する(フローレンスの金槌、づち)
固定したものを疑う
ヘリンボーン。ヘリンボーンと

いったところでいくつかの冠が割れる、錆びていたとしても。雷は当たる。塩振る。塩は「冠が割れたね」という。

サザンカの家(七)

北村周一

またはキンモクセイ忌に寄せて

さざんかの花と知りたる秋にしてこの世の闇のさかい目のどか
はじめての秋を迎えしこのいえの重みに堪えてひらくさざん花

新たなるここがわが家と枝枝にひらく山茶花おもたくもあり
とりどりのサザンカのはな前にして 父なき年のひととせ想う

これよりさきいろいろのことが起こるらしくみいろ揃いし山茶花不穏
闇深くまよい来たれる花びらのような足あと踏むもののあり

わけあって いえの敷居をまたぐとき 一歩手前に踏みとどまるとき

いちにち置いて
つづく命日
はや九月 
銀のモクセイ 
金のモクセイ

花のいろは地(つち)の上にも宿るらし 金の木犀散りゆく宵は 
堕ちろというこえに振り向く一夜ありて 金木犀のちりぎわみだら

介護カラ裁判ヲ経タル歳月ヲ越エテ匂エル木犀ノ花
フェンス越し花の木の下モクセイのかおり褒めなば布教をはじむ

はなコトバひた向きなれば声ありて ツヨクイキヨとみみに囁く
ほのぼのと冬のおとずれ待つように花咲くところサザンカの家

わが家にもメジロ来ており ゆく秋の庭の山茶花そろそろ見ごろ
さざん花の蜜吸いにくる野のとりのうごきに連れて枝葉はゆるる

サザンカの赤白もも色ありましてにぎにぎしけれ古淵のいえは
夜になるといきおいを増す山茶花のはなのみいろを数えおるなり

サザンカのおぼえめでたき秋の日や クルマ替えたりしちにん乗りに
家族みなの席あるようにミツビシはシャリオ・リゾート・ランナーとする

さざん花のはなもそろそろ終わりねと垣根を白きマスクは行くも
かぜ吹けばはらりはらりとどこへやら足あとのような花びら散らし

山茶花のはなの散りぎわ見るようにひとりまたひとり離れゆくらし
ちりぢりにちるを厭わぬサザンカのはなの終わりはやさしくもあり

さざんかの花ちり終えしにわかげにくらく仄浮く売家の文字は
売りに出すいえ一軒のさぶさかな 冬至を過ぎてイヴ待つ宵は

常永久の愛とつげられ見かえれば眩暈のごとく古家ありけり
古家ひとつ売りに出だせば矢庭にもさやぎ立ちたるサザンカの闇

根元から伐ればほのかに香り立ち花いろおもい出せずにゴメン山茶花
散りもせず落ちもせずして枯れのこる花のサザンカ春待つごとし

新まりし
秋もほろほろ
冬は来て
春を待てずに
夏の烈しさ

行き止まり数多置かれし路地のうら 大洪水の予感みたしめ

日を置いてほつりほつりともどり咲くサザンカふるき花々散らし
しろ咲けばぴんくほころびまたも赤 寒色系は見ずや山茶花

チンチロリン舞うをよろこぶさざん花のはなのきおくは螺旋をむすぶ
そらぐみの吾子の描きしクレパス画ユスラウメこそ春呼ぶごとし

どこへでも飛べるおもいに指のさき伸ばし伸ばして羽根生ゆるまで
サザンカ三色咲いたとてメジロ来ずミツバチもスズメも消えてさみしい秋だ

ばっさりとオオハナミズキ打ち払われてここより先はよそさまのお宅
サザンカのかきね見事に刈り揃えられわっさわっさと前進するも

号令なしにはどこへも行かないサザンカの垣根はのこりハナミズキゆきぬ
えんえんとつづくおうたのさざんかのかきねのかきねの曲がり角は見ず

『アフリカ』を続けて(50)

下窪俊哉

 個人的に激動だった7月が過ぎて、予定より遅れに遅れた『アフリカ』vol.37(2025年8月号)も入稿、私の手を離れ、いつものニシダ印刷製本にお願いしてある。8月はじめには完成する。スンナリ出来なかったものであればあるほど愛着も増すというもので、語れること、書けることがたくさんあるが、今月は「どんな内容なの?」に応えるものを書いてみよう。

 巻頭を飾っているのは、本人曰く”道草の家のWS(ワークショップ)練習生”であるスズキヒロミさんの「「藤橋」覚え書き」。さいたま市の史跡に「藤橋の六部堂」というものがあるそうで、その「藤橋」にまつわる伝説を筋書きにした前半部と、昭和45年にその資料が発見された経緯を書いた後半部からなる見開き2ページ。「道草の家のWSマガジン」に2回に分けて書かれたものをまとめ、加筆・修正したもので、スズキさんにはさらにこの先の話を書きたいという気持ちもあるらしい。「書きたいことを書いてください」というと自分のことを書く人が多い中で、「藤橋」の話は書き手が子供の頃に住んでいた地域にまつわる歴史を素材にしている。その文章の、何とも言えない素朴な感じに、私は惹かれた。
 目次と、例によって真偽の入り乱れたクレジット・ページを挟んで、現れるのはカミジョーマルコさんの絵「スターの引退」と、その裏話を伝えるコメント。これも絵は「WSマガジン」からの転載だが、コメントは初出。カミジョーさんもこのコメントの続きを書きたい気持ちがあるそうだが、短く言い切るからこそ伝わる何かもあるような気がしている。

 今回は全96ページ。歴代の『アフリカ』の中で最も厚い。いま書きながら気づいたのだが、vol.31(2020年11月号)も同じページ数で、そこにも私の長いお喋りが掲載されていた。その時は『音を聴くひと』という私の作品集をつくった直後だったので、その本にかんして数人から問いかけをいただいて、それに応えるかたちで、架空の人物との対話文をつくったのだった。ある種のフィクションと言えるだろう。
 今回載っているのは、完全なフィクションではない。今年の春、3月1日(土)の朝と夜のお喋りを再現したものだ。
 朝の舞台は、大阪・梅田の喫茶店で、同人雑誌『VIKING』の元編集人・日沖直也さんと約10年ぶりに再会して、『夢の中で目を覚まして – 『アフリカ』を続けて①』を読んでもらった感想をとっかかりにして、「富士正晴の影響を追って」思いつくままに語り合っているドキュメント。
 もうひとつのお喋り、夜の部は、岡山に舞台を移して、この連載ではお馴染みの守安涼くんとビールを飲みながら話したもの。彼が最近、力を入れている「サイレントブッククラブ」や「おかやま文学フェスティバル」をはじめとする文学創造都市おかやまの取り組み、『夜の航海』と『夢の中で目を覚まして』というアフリカキカクの新刊にかんする裏話や、イベントのためにつくられたZINE(自宅や会社のプリンタを使ってちょっとつくってみた小冊子)がどういったものだったかを紹介したりと、盛りだくさんの内容だ。
 そこに書かれているようなお喋りを、私は長年にわたってくり返してきたが、文章化して発表するのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 今回も久しぶりに会って話すのに、ボイスレコーダーなどを回して録音しようという気にはならなかったが、とても印象深い語り合いで、別れた後すぐに「これは書いておきたい」と思った。自分自身で、覚えておきたいと思うのだ。移動中にメモをたくさん取った。後日、それを眺めていたら、これを独占しているのは勿体ないような気がしてきた。メモをそのまま発表するわけにはゆかないので、どうするかというと、その時の対話を思い出して書けばよいのだ。「富士正晴の影響を追って」と「岡山にて」は、そんなふうにして出来た。もちろん対話には相手があるので、見てもらって加筆・修正が大胆に行われ、完成形になった。本来、文学作品とはひとりの作者で完結するものではなく、複数人で書かれるものである。これでよし!
 日沖さんによると、「こんなふうにさっとでっち上げられる手腕に、またもや、のんしゃらんな気質を感じます」とのこと。「のんしゃらん」を調べたら、フランス語の「nonchalant」から来ているとのことだけれど、かつて山田稔さんがパリから『VIKING』に書き送った連載「フランス・メモ」(後に『幸福のパスポート』という本になった)の影響も大きいのだろう。対話の中の私も、思わず「山田稔の影響を追って」いきそうになっている。何しろ我々は生前の富士さん本人には会ったことがなく、山田さんとは酒を酌み交わしたりしていたのだから。

 私、下窪俊哉の「とりあえずの二〇〇六年」は、この連載の(33)〜(36)、つまり『夢の中で目を覚まして』の最終章を含め、その後の数回をまとめて加筆・修正したものだ。続編を本にするのは、おそらく2年後くらいになるはずなので、ここで小出しにしておいたのだが、この後どうなるかは例によって自分にもよくわからない。

 犬飼愛生さんの詩「おあいこ」は、昨年の秋に書かれていたものだが、海水浴に行ってくらげに刺された子供の声が描かれている。そこに私は、大人になった(かつて子供だった)詩人のイマジネーションの働きを感じ取り、その出来事が描かれた「絵にっき」の内容が気になる、と原稿が送られてきたメールの返信に書いた。そこから何ヶ月もかかって、ようやく出てきたその「絵にっき」のクラゲが、本当に絵に描かれたようで、素晴らしいと思った。

『アフリカ』初登場、奥野洋子さんの「僕のガールフレンド」は、書き手の母のいとこ(いとこ叔母)のアメリカ人のパートナー(いとこ叔父)と亡くなる直前に初対面し、その死に立ち会った経験を語るエッセイ。この原稿も昨年・秋に読ませてもらって、度重なる改稿の末にかたちになったもので、思い入れの深いものだ。身近なひとの死は誰でもいつか体験するものだが、ここに描かれているのは、身近に感じていたけれどいま初対面になる異国のひとの死であり、ユニークだ。ある程度の時間を経てから、その記憶を書き留める私、という存在への眼差しもある。

 RTさんの「潜る」は、ハンガリーの映画監督タル・ベーラが、2024年2月に福島で開催した映画制作のワークショップを追った小田香監督のドキュメンタリー「FUKUSHIMA with BÉLA TARR」と、そのワークショップで生まれた作品集「LETTERS FROM FUKUSHIMA」について書かれたもの。RTさんは大阪と和歌山の映画館で観ているのだが、この原稿を読ませてもらっていた最中に東京のユーロスペースでそのふたつの映画の上映があり、私も実際に観た。『アフリカ』に載った原稿以上に、やりとりしたメールの文章が印象深かったような気もするが、それをそのまま『アフリカ』に載せるわけにはゆかないというのも、「書く」ということを考えるうえで重要なことだったのではないかと思っている。

 戸田昌子さんの「耳の祝祭」は、前号の「明け方、鳥の鳴き出すとき」の続編というより姉妹編のような短篇小説。おそらく、まだかたちにはなっていない大きな小説の構想があって、その一部を表しているものなのだということがわかる。ここに描かれている世界が未来なのか過去なのか、わからないけれど(おそらく前者だろう)、いつだって小さな救いは、どこかに見出すことが出来るのかもしれないといった希望を感じながら読む。違法薬物とされる植物をめぐる複数人の細やかな日常が描かれており、前作同様、音楽家・Kahjooeの作品に捧げられている。

 守安涼「お城とベンチ」は、同名のZINE(小冊子)写真集の再編集版。その小冊子は3月のおかやま文学フェスティバルにおいて限定部数制作・販売されたが、『アフリカ』の読者には殆ど届いていないと思われるので、それがどのようなものであったかを伝えるページをつくった。

 坂崎麻結さんの「正月日記二〇二五」は、これも「WSマガジン」に載っていたもの。坂崎さんは最近、横浜の本屋「象の旅」の片隅で「SCENT OF BOOKS」として本を売っていて、そこでは『アフリカ』も売られている。滅多に会うことはないのだが、私の日常とたいへん近いところにいる人であり、この「日記」でも、私が今年最初に観た映画を坂崎さんも同じように観ていたりして、他人事のように思えない。とはいえ、編集している私が、これを書こうと思って書けるものではない。それも、雑誌をやるということの愉しみであると言える。正月の記録を夏に読んで、最近のことだと感じられるか、もっと遠い過去のことのように感じられるだろうか。私には後者であった。

 UNIさんには、何となくの思いつきで、仕事の話を書きませんか? と連絡したら、すでに書いているものがあるというので、見せてもらった。それが今回、ラストに載っている「平日の朝」。このような日常は誰にでもあるだろうと思うけれど、それを書き起こす中には、何らかの創作が現れてくるようだ。「平日の朝」は1回ではなく、無数にくり返すのだと思って読むと、この1ページ分の短い文章もそう簡単には終わらない。

 今回はお蔵入りしてしまった原稿の多さも、印象深かった。書こうとしている内容にはどれも見るものがあり、私はそれらを何とかして載せたいと考えていたが、それが可能な状態にまで至らなかった。雑誌の編集人には、その原稿を載せるか載せないかにかんする権限はあるが、原稿を添削したり、勝手に手を入れたりするような権限はないと私は考えている。いくら載せたくても、載せられない原稿が出るのは仕方のないことだ。ただし今回は、自分の書いたある人の珈琲にかんする談話の原稿もボツにしてしまい、苦笑いしていた。

 編集後記でも触れたが、表紙の切り絵は、これまで誌面では未発表だったものである。向谷陽子さん亡き後、見つかった未発表作品は殆どないのだが、これはそのひとつだ。vol.11(2011年6月号)に類似する作品が載っているので、その時の別バージョンなのだろうか。あるいは、数年後に展示会をした際の新作だったかもしれない。その経緯がどういうものだったのか、知りたいような気もするが、現時点では手がかりがない。その、手がかりがないのも、『アフリカ』を続けてゆく力になり得るのではないか、という気がしている。

 これから、また地道に販売して、読者へゆっくり届けてゆくことになる。例によって、販売にかけられる力の弱いのが、悩みだ。印刷製本にかけた費用分くらいは、早めに売ってしまいたいのだけれど。でも、一気に売り切れてしまうよりは、ゆっくり売れた方が未来の読者へは届くだろう。

古屋日記 2025年7月

吉良幸子

7/1 火
気がづけばもう7月!近場で冨士塚祭りなるものがあるらしく夕方行ってみた。ものすごい人出やと聞いていたが、暑い中、細い路地に人がぎっしり。奥の方は蜃気楼のように霞んで見える。人混みに入っていく勇気は出ず、入り口付近にあったたこ焼き屋でお土産だけ買って家路を急いだ。もちろんお参りはちゃんとしたんやけど、お線香を買ったのに立てるとこがどうも見当たらず、結局持って帰ってきてしもた。程良い香りでええお線香やしうちで使わしてもらお。

7/7 月
お昼前、公子さんが急に、蕎麦屋のカツカレーが食べたくなった!ということで蕎麦屋へ。お昼間は近場のサラリーマンや土方のおっちゃんで満席状態。席についてすぐ、カツカレーふたつ!と給仕のおばあちゃんに注文する。量も多いがむっちゃおいしい。ふたりともぺろっと食べてうちへ帰ってどかっと寝る。

7/11 金
今夜は久方ぶりの時々自動の公演の日。今回は歌もあるけど映画メイン、映像と映像の間に歌が入ってて面白かった。映像がまたどこを切り取っても絵になるくらい美しい。内容は難解。でもむつかしく解釈しなくても楽しめるくらい綺麗やった。最後にはみんなが出てきての演奏。時々自動の歌は毎回音に圧倒されて元気をもらう感じ。今回も最高やった。

7/13 日
毎日暑いからって夜中も扇風機の風に当たってると夏風邪を引いてもた。だいぶ良くなってきたけど、今日行く予定やった兼太郎さんの落語会はキャンセル。むっちゃ申し訳ないんやけど亀戸まで乗り換えて行く元気はまだない。この前公子さんが調子悪かった時、蕎麦屋のカレーうどんを食べて汗かいたら良くなったらしく夕方に蕎麦屋へ。カレーうどんを頼むつもりが貼ってあった味噌煮込みうどんに目がいって、思い掛けず味噌煮込みの方を頼む。滝のように汗をかいて、白飯もかるうに一膳もろてかき込んで食べた。もりもりと力が湧いてくる感じ。ええお蕎麦屋さんが近くにあって助かった。

7/22 火
むちゃくちゃ久しぶりに役者の天辺さんがうちへやって来た。ホームページなどなどを私が制作したのでその手直しでちょっと打ち合わせ。ちょうどうちん中にいたソラちゃんは、天辺さんが大好き。喜多見のうちに天辺さんが来たときなんか、膝に乗せてもらって熟睡しておった。今回も隅々までマッサージされて恍惚の顔して机の上でゴロゴロ…現金なもんやで。仕事もそこそこに、公子さんも買い物から帰ってきはって、もつやき 新潟屋さんへ。ここはとにかく何でもうまい!お客さんが来るたびにここでたらふく食べてる気がする。

7/23 水
昼下がりに下北沢へ、10月から月イチで3回開催する落語・講談の会の会場の下見に行った。新宿で乗り換えようと思ったら、工事が進んだらしくよう分からん改札に出た。この頃は降りるたびに様子が変わるから未だにちょっと戸惑う。さて、会場のアレイホールで高座をどうするかあれこれと相談。10月の会は今までの寄席で裏方やってくれてた舞監の哲さんが来られないので音響のことまで色々と聞く。太呂さんまで途中から参加して、さてさてどうなることやら、楽しみになってきた。
打合せが終わってひとり末廣亭へ。7月下席は遊雀・伯山の交互トリでネタ出し。遊雀師匠贔屓な私にとっては観たいネタの日を狙って行けるしありがたい。今日は遊雀師匠の初日で「居残り佐平次」。居残りさんは川島雄三の『幕末太陽傳』のフランキー堺のイメージしかなく、落語で聴くのは初めて。遊雀師匠で観れるなんて最高!と勢いこんで新宿へ向かう。仲入り後から入ったらいっぱいのお客さん。顔付けも良くて仲入り後だけでも満足なメンツ。そして遊雀師匠はさすがおもろかった。お客さんとみんなでガハハと笑って手たたいて、楽しい寄席やった。

7/28 月
今日もせっせと寄席通い。今日は大ネタ「文七元結」の日。寄席目当てに夕方まで仕事して、楽しみに末廣亭へ向かう。いやぁ~遊雀師匠の文七は良かった~大満足!観に行ってよかった!50分弱やってはったらしい、観てるこっちはそこまでの体感ないんやけど、やってる方はひとりで大変やろうなぁと思う。師匠、おつかれさまです。

7/29 火
6月に漬けた梅干したち、梅ちゃんズを干す。土曜の丑の日は過ぎたんやけど、その頃はちょっと体調悪かったから干すのが遅くなってもた。台風が来そうなちょうど手前3日間で干してみようと思う。ふた瓶漬けて、重石が軽過ぎた方は上の方にカビの予備軍らしきものが…梅酢にまで行ってなかったけど危なかった!人生初の梅干しやけど、我ながらきれいにでけた。赤く染まってるのを見るとむっちゃ嬉しい。ざるの上にきれいに並べて…さぁ、どこで干そ!?と悩む。というのも、うちのすぐ前で3階建てのおうちをせっせと建て始めてから、うちは全くの日陰になってしもた。ベランダも午前中の数十分しか直射日光は来んし、風通しのええところを考えて結局玄関前の小道で干すことにした。ざるを椅子の上に乗せて椅子ごと家の前へ。お日さんに当たって梅ちゃんズは光ってるみたいに綺麗な紅色。でき上がるのが楽しみやど、もったいなくて食べられへんかもしらん。

7/30 水
7月下席の楽日。最終日やし頭から観るか!と今日は16時過ぎには末廣亭へ向かう。梅ちゃんズと一緒に干してた赤紫蘇に、とうもろこしと胡麻が入ったおむすびを作って寄席に持っていく。寄席って冷静に考えると4時間くらい座りっぱなしで、おもろない時は前半がとにかく長くてしんどいけど、今日はそんな長さを感じんくらいおもろかった。楽日で遊雀師匠は全部出し切るみたいにでっかい声出してて笑った。寄席が終わって十条湯で汗流して帰る…あ~楽日って1ヶ月が終わったーって感じがものすごする。もう8月て、はやいなぁ。

7/31 木
昨日の全国最高気温を叩き出したのは実家の隣町、丹波市。昨夜の銭湯のテレビでも丹波市が映っておった。あんな山ばっかしのところでも41度になるんか…と心底びっくりした。ちょうどおかぁはんとビデオ電話したらやっぱり篠山も相当暑そう。こないだ、私がかちわり氷をうちで作ろうとして、分厚く水を凍らしすぎてただのでっかい氷枕になった話とかして、とにかく冷やして水分もたくさん摂ってや~ということを散々言うた。というのも実家にはクーラーがないから。塩分もいるやろし、今日で干し終わる梅ちゃんズを送ってあげよう。

しもた屋之噺(283)

杉山洋一

何のために日記を書くのかと問われれば、一つ一つの出来事を覚えるのが大変だから、と答えたくなります。以前平井さんから、でも人に読んで欲しいから書いているのでしょうと指摘され、自分では特に気にも留めていなかったつもりなのに、その時妙に納得したことがありました。
この原稿を美恵さんに送ったら、伸びきった庭の雑草を刈らなければいけないのですが、こうして1カ月毎に雑草を刈らなければならないのは、草が伸びきっているから。なぜ草が伸びるのかといえば、それぞれの雑草が、一本でも多く自分の種を辺りに残そうと身体を張っているからでしょう。意志かもしれないけれど、自然の摂理と言われればその通りかもしれない。
作曲とは、自然な姿でその瞬間の自らの姿を反映させながら、記録として他者に残せるツールです。ただ、なぜか自分のために作曲している意識が希薄な気もするのです。誰かの為に書いていて、自動書記的に誰かに書かされている感覚が、常にどこか身体の芯に残っている。
堆い瓦礫のなか、辛うじて残ったコンクリート壁に、数名の笑顔の若者の似顔絵が書き残されているのを見ました。この間まで、ここで元気に暮らしていた若者たちです。誰がどこで生きていたのか、どんな姿で暮らしていたのか、何を話していたのか、誰しもがこうやって、誰かに伝えたいと感じているのかもしれません。たとえ伝える相手の顔すら知らぬままであったとしても。

——

7月某日 ミラノ自宅
先日、何十年かぶりにKと話す。彼はヨーロッパにもう30年以上住んでいるのだが、今の日本に帰っても、自分の知っている日本とは随分違うので、寧ろ慣れているヨーロッパの方が居心地はよいらしい。若い頃君はすごく厳しい人だったが、なんだか、雰囲気が変わったな、と言われる。笹久保さんからの便りに、最近はどういう思想で音楽やってますかと書いてある。隣の部屋で息子が「鱒」を練習しているのが聴こえる。自分には思想なんてあるのかしら。円安が進んで1ユーロ170円を超えた。

7月某日 ミラノ自宅
春、フェデーレの自宅で撮ったインタヴューに、日本語字幕を付ける。繰返される記憶が認識を促す話を聞きながら、その昔、ドナトーニがよく生徒に聞かせていた、小咄を思い出す。
部屋にいると、ドアをノックする音が聞こえるんだ。トン、トン、トン…、とおずおずとした感じ。
「どうぞ!」、と答えて、耳を澄ます。
すると、また、トン、トン、トン…とノックをする。聞こえなかったのかと思って、
「どうぞ!」、今度はもっと大きな声で返事をして、ドアを注視する。
あろうことか、またも気弱な感じで、トン、トンとノック。
「どうぞ、入ってと言っているのがわからないの?」と少し苛々しながら声をあげると、
ガラガラ…、おずおずと扉が開いたかと思いきや、
「あの…こんにちは…」と消え入るような声で生徒が挨拶しながら入って来る、というところで、学生全員がどっと声を上げて笑うのが常であった。ドナトーニ曰く、音楽はこんな感じに構造を作るのがいいらしい。
ドナトーニに近い内容だが、フェデーレはより理知的で、思索的な単語を並べる。繰り返しが形成する認識を通して、作品がどのように聴き手に理解されるか。
家人からのメッセージで、女優の遠野凪子が亡くなったと知る。武満さんと谷川俊太郎の「系図」は、少女とも妙齢ともつかぬ、あどけなさとコケティッシュの交ざった表情で、こちらを少し突き放すような表現がすばらしかった。彼女はその姿を常に演じていたのかもしれないけれど、天性の才能に恵まれていたのは誰の目にも明らかだった。

7月某日 ミラノ自宅
ここ二日ばかり、夕方になると猛烈な嵐に襲われる。涼しくなるのは有難いが、実際各地に被害をもたらしている。
一昨日、カニーノのレッスンを受けるため、息子がプレミルクオーレの夏期講習にでかけた。「押さえる」「心」という二つの単語でできたPremilcuoreという印象的な土地の名前を聞くと、イタリア人ですら、へえという顔をする。ロマーニャ州の山の中の小さな村に過ぎないから、「心を打つほど美しい村」を意味するとばかり思っていた。実際は、3世紀にローマ帝国、暴君カラカッラ帝の圧政に反旗を翻した、マルチェッロなる百人隊隊長がこの地に逃げ延び、当時点在していた集落をまとめて要塞化したことが、この村の始まりだと言う。Premilcuoreは”PREMIT COR” つまり「恩人の死に際し、悲しみが我々の心を圧し潰す」か、さもなければ”PREMUNT COR” つまり、「ローマ軍の追っ手にマルチェッロ隊長を差し出すくらいならば、我々自らの心臓を破ってくれようぞ」、という、激情的な文句が発端であった。息子から特に連絡はないが、まあ元気にやっているのだろう。
フェデーレのインタヴュー翻訳をやっていて、伊語と日本語がなかなか同期しない。通訳や翻訳に携わる人は、想像力と集中力のみならず、各単語の意味の言語化にずば抜けて長けているに違いない。哲学的な内容とまでは言わないが、具体的ながら、形而上学的に理論づけて話していて、言いたいことは感覚としては実感できるが、頭のなかで回路が繋がっていないので、言語化してアウトプットできない。フラストレーションばかりが溜まる作業だ。翻訳とは自らの無知を恥ずかしげもなく曝しだすこと。ただ、その勇気があるか否か。
激しい選挙戦の様子を伝える日本からの報道。「力のある言葉」と「粗野な言葉」が、何時の間にか入れ替わった印象。移民の自分から見た外国人排斥の気運については、うまく言葉にできない。

7月某日 ミラノ自宅
イタリア国鉄、ミラノ・ポルタジェノヴァ駅12月閉鎖が正式に発表になった。庭の土壁のすぐ向こう、5メートルと離れていないローカル線と古びた留置線は、風情があってよい。その昔は、夏になると、稀に臨時列車の客車が留置線にゆっくり入線してきて、機関士などと手を振り合ったこともある。尤も、このローカル線は廃止になるどころか幹線に格上げされ、ロゴレード駅まで直通運転するようになるらしい。そのため、盲腸線となるポルタジェノヴァ駅まで一駅区間の旅客営業を廃止する、と報道されていた。昨年暮れにポルタジェノヴァ線の線路を新しく敷設し直したばかりなのに、どうも腑に落ちない。

7月某日 ミラノ自宅
日本に戻っている家人より、三軒茶屋からピアノが搬出された旨の報告。ヴィデオも送られてきた。搬入時はずいぶん大事だった記憶があるが、家人曰く搬出は意外にスムーズだったらしい。さぞ感慨一入かと思いきや、運び込まれた馬込の部屋の方がずっとピアノには居心地よく、寧ろ清々しいらしい。

7月某日 ミラノ自宅
人工知能にスクリプトを書いてもらいながら、慣れないデータ解析を続ける。浮き上ってくるものに慄きを覚えつつ、無意識にそこから常に距離を取ろうとする自分に気づく。
午後、足立さんから頼まれたイントナルモーリを見学しに、ヴィニョーリ通り37番地のNoMusを訪ねる。自宅から歩いて10分とかからない、昔よく通ったパン屋の路地にある教会の隣。少し厳めしい、一面摺りガラスの3階建てのアパート全体がNoMusとなっていて、地下1階、地階、2階は資料室、3階はNoMusを仕切っているマッダレーナ・ノヴァ―ティの自宅である。
一見すると、これがイタリア有数の現代音楽資料館とは想像もつかないが、マッダレーナ曰く、敢えてそういう造りにしているらしい。マッダレーナは、イタリア国営放送のプロデューサーとして、演奏会録音について廻っていたころから知っているが、こんな近所でイントナルモーリと一緒に暮らしているとは想像もしなかった。
足を踏みいれると、実に愉快で不思議な空間が広がっていて、ちょっと在りし日のアールヴィヴァンやカンカンポアのようでもある。
壁には、ブソッティや、ブソッティの兄、彼らの父の大判の絵画が飾ってあり、エミリオと一緒に2000年に演奏したノーノのプロメテオ公演のパネルが立てかけてあり、何やら曰くありげな古い縦型ピアノまで飾ってあって、個性的な情報が犇めきあっている。残りの空間は、所狭しと整理された資料に埋め尽くされていて、骨董品屋と図書館と博物館が相俟った雰囲気を醸し出していた。
マッダレーナが淹れてくれたコーヒーをいただいてから、地下の資料室を訪ねると、1979年ルッソロ・プラテッラ財団のGianfranco Maffinaが、ルッソロの設計図に則って再現したイントナルモーリが4台、白い台の上に展示されていた。マッダレーナは、イントナルモーリを「イントーナ・ルモーリ」と2単語にわけて、少し慈しむように発音した。
秋山邦晴の「現代音楽をどう聴くか」に載っているイントナルモーリの写真に、初めて心をときめかせたのは、まだ小学生の頃ではなかったか。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、半世紀近く経って触るイントナルモーリは、実に愉快で、同時にすっかり感激してしまった。内部構造がわかるよう、箱の片面は透明なプラスチック板が貼ってあり、その下あたりに、電動モーターにつながっている電源のコンセントもついている。そこに電源を繋げば、電動で音がなる仕組みだ。「当時から電気を使っていたなんて凄いでしょう。壊れると怖いからつけたことがないのだけど」、とマッダレーナが少し誇らしげにコンセントを指さした。
隣の倉庫で管理されている、ルチアーノ・ケッサが復元した演奏会用イントナルモーリ17台には、レバーにしっかり目盛りがついていて、楽譜の音高通りに演奏可能だという。実演のたびに、ここから運び出されてゆくらしい。
実際にイントナルモーリ(騒音調音器)を触ってみると、思いの外、演奏効果の高い楽器という印象を受けた。クラシック楽器であまりノイズを弾かせる気が起きないのは、やはりイントナルモーリの音が魅力的だからだと納得する。ケッサがアメリカで作ったような、17台のイントナルモーリ・オーケストラが、世界にもっと沢山あれば良いとおもう。現代音楽のみならず、ロックであれジャズであれ、演劇、合唱、なんであっても、このイントナルモーリ・オーケストラと相性がよいはずだ。
辛気臭く、怪しげな感じが一切なく、観念的な音がしないのが素晴らしい。のびのびとして開放的で、「アモーレ、マンジャーレ、カンターレ」といったステレオタイプなイタリアらしさを使って、ノイズを謳歌している。
電気的に作り出された音ではなく、素朴な仕掛けのノイズだから、ちょうど楽器でノイズを作り出す作業に似た音がするのだが、どこか楽器メーカーが安価で量産すれば面白いのに、と歯がゆい思いまでこみあげてくる。良い指導者さえいれば、学校の教育楽器としての需要も、少なからずあるかも知れない。和声や旋律に拘泥せず、ミラノのダルヴェルメ劇場で堂々とこれを公開演奏したのは、1914年ではなかったか。テルミンやオンド・マルトノのような電気楽器が、現在まで演奏され続けているのは、やはり良い音楽家と出会ったことが大きく影響している。ルッソロは、音楽院のオルガン科で特別に表彰されるほど、優れたオルガニストであったが、楽器製作に関しては、結局発明家で終わってしまい、優れた作曲家との出会いもなかった。アントニオ・ルッソロの作品は、お世辞にも革新的で才気溢れるものではなかった。
そしてイントナルモーリの更なる改良よりも、新しい創作楽器に熱中し、大戦のため、ファシスト政権と当時のイタリア現代芸術は一括りにされて、芸術の真価について顧みられなかった。
オリジナルのイントナルモーリは、大戦中にパリで火事に遭い全て消失してしまったが、あの頃パリで、ストラヴィンスキーかジョリヴェ、メシアンでもヴァレーゼでもいいが、誰か一人でも、進歩的で特に優れた作曲家とより深く交流し、この楽器の可能性とノイズの意義について互いに掘り下げていたら、戦後の現代音楽はまた違った発展を遂げていたかもしれない。一期一会という言葉の通りではあるが、当時、ミラノでもパリでも、イタリア未来派はどこか奇矯な身の振舞いに終始していたし、その後はファシズムに利用されてしまったから、ダダイズムとも結局一線を画したままだった。
あの頃にサティと積極的に交わっていたら、デュシャンとともに、この騒音音楽がアメリカへ渡っていたらどうなっていたか。ケージもプリペアドピアノなど作らなかったかもしれない。そんなことにまで思いを馳せたくなるような、喜びと自信に満ちたノイズだった。これらの楽器は、マッダレーナが借り受けるまで、Maffina夫妻が老後を過ごしたミラノの養老院、「ヴェルディの家」に保管されていた。「つかぬことを聞きますが未来派の…」、と先日「ヴェルディの家」に電話した時は、受付の女性に、「ここには古いものしかありませんよ、未来派なんて、そんなモダンなものがこの養老院にあるわけないじゃないですか」と笑い飛ばされた、「モダンというより、箱型でラッパがついている代物なのですが」と喰い下がると、「博物館には時代物の蓄音機が並んでいますが、あれは蓄音機ですから」と半ば呆れた声で答えてくれた。
ルッソロが製作した微分音鍵盤の1オクターブ分だけは、10年前まではスイスのサンモリッツに住むMaffina夫妻の娘が保管していて、それを譲ってくれるようマッダレーナは何度も頼んだが、断られたと言う。ネットオークションなどで売飛ばされていないといいのだけれど、とマッダレーナが心配していた。地階には、ルッソロとボッチョーニなど未来派の仲間との書簡の他、アントニオ・ルッソロの「雨」の、決して達筆とは言い難い自筆譜も保管されていたし、ルッソロが音楽院から表彰された時の書類も見せてもらった。ルイジ・ルッソロがフレスコバルディやらブクステフーデやらバッハを毎日練習していた、という姿を想像すると、なんだかとても愉快な気分になった。
昨日、庭に乱立している雑木を切って壁に立てかけておいたところ、早速リスや鳥たちの遊び場になっている。

7月某日 ミラノ自宅
言葉はていねいに使わなければいけないと改めておもう。尤も、これだけ情報が氾濫している社会において、人の目に留まるため、耳を傾けさせるため、先鋭化し単純化した、極端な表現にならざるを得ない。理解に努めるよりも、主張に重きを置かざるを得なければ、他者との相違をより際立たせなければならず、自ずと二極化へ向かい諍いが生じる。
では逆はどうだろう。相手を理解しようと努めると、どのような主張であれ、何某かの言い分があることはわかる。「盗人にも三分の理」に喩えるのは間違っているが、それぞれに考えるところはあるわけだ。相手の主張に耳を傾けている間は、互いに何らかのコミュニケーションが残っているわけだから、分断するほどの先鋭化は避けられるかも知れない。時間をかけずに解りやすく、手軽に趣向と損得勘定を反映させたアルゴリズムだけを信じて人間関係を構築するのは、やはり少し危険過ぎる。現在、地球上のどこでもこの傾向に流されていて、言葉のキャッチボールが難しくなってきている。
音楽はどうか。言語化ほど具体性を纏わず、曖昧な表現ながらも、先鋭化した人々の心を、どうにか繋ぐ何某かになり得まいか。それが仲介者なのか媒介者なのかは分からないが。

7月某日 ミラノ自宅
芥川先生の譜面を読みながら、「schietto」という伊語の形容詞が思い浮かんだ。日本語の「竹を割ったような」という感じか。心の裡をさっぱりきっぱり潔く表現すること。知的でありながら理屈臭さがなく、清々しい。無為なセンチメンタリズムを排していて構造に無駄がなく、一見複雑には聴こえないが、丁寧に構造の単純化をさけている。聴いた感じは違うが、湿っていない音符と躍動感、構造へのこだわりなど、ちょっとペトラッシを思い出した。プレミルクオーレの息子より「トッカータがうまく弾けた」と珍しくメッセージが届いた。イスラエル軍、シリアのダマスカスを空爆。シリア暫定政府の国防省の建物などを攻撃。
今月末に南伊サレルノで、ゲルギエフがマリンスキー劇場オーケストラを振ることについて、同地の州知事ヴィンチェンツォ・デルーカは、「プーチンは悪であり、ウクライナを全面的に支援しているが、コミュニケーションの手段を断つことには断固反対する。我々はウクライナからの避難民の受け入れも積極的に行ってきている。素晴らしい音楽家を招いて、素晴らしい音楽を聴くことのどこが悪いのか。批難の声を上げる人々は、3年間の長きに亙ってロシアとの対話を拒否し、パレスチナの悲劇を目にしていながら何もせず、無責任にも程がある。偽善は沢山だ」。彼らしい、少し厳めしい感じのイタリア語で決然とインタヴューに答えた。彼は民主党員で、若い頃サレルノ大学の卒業論文に選んだテーマは「アントニオ・グラムシ」であった。

7月18日 ミラノ自宅
シャリーノCDブックレットの第一稿ゲラが送られてきて、漸く形が見えてきたと安堵する。それを読返しながら、自分は友人、協力者に本当に恵まれていると痛感している。林原さんから、ニマさんの美しいテキスト”Lucid dream “が送られてきた。「ルシッドドリームとは、夢を見ている最中に、自分が夢を見ていると自覚している状態のことで、日本語で『明晰夢』っていうのですって」。
故郷を愛する、とは、結局何を意味するのだろうか。故郷は誰にでも公平にあるようでいて、実際はそうではない。故郷を心の裡にだけ大切にとっておく人もいる。とっておくことしか許されない人もいる。肌の色が違う人にとって、故郷とはなにか、一度立ち止まって考える時間も必要かもしれない。日本の友達からすると、自分は「イタリアに住んでいる杉山君」だから、と暫く前に息子が呟いていたが、望もうとそうでなかろうと彼のアイデンティティは、イタリアに住んでいることを前提として、認知されているのだろう。彼にとって、故郷が何を意味するのか、彼自身も理解していないのだろうが、彼のソウルフードは、ニョッキやシンプルなトマトのパスタだし、田舎と言えば、夏休み、長い時間を過ごした、伊豆熱川の義父母の家なのかもしれない。時間は、物事の本質を時に曖昧にも、目を逸らさせることすらできるかもしれない。
町田の母は、平均律の10番のフーガまで進んだそうだ。前奏曲よりフーガを練習する方が頭が冴えて楽しい、というので愕く。イスラエルは、ガザのカトリック教会「聖家族教会」攻撃を謝罪。シリアへの攻撃で、死者は300人を超えたとの報道。

7月某日 ミラノ自宅
息子は自宅で一泊した後、今度はスイスの講習会にでかけた。般若さんのためにヴィオラに直した「JEUX III」を浄書するため、楽譜を開く。これは元来大石君と辻さんのサックスと太鼓のための作品であったが、これを慌ててヴィオラに直した時は、明らかに死を覚悟していたのが目に見えるようで、改めて恐ろしさに駆られた。般若さんから新しいヴィオラ曲を頼まれてすぐに、イタリアは瞬く間にCovidに吞み込まれて想像を絶する状況に陥ってしまった。新しいヴィオラ曲を書きあげるまで生き延びられる自信など到底なかったから、折角、頼まれた曲を書けず申し訳ないけれども、もうすぐ死ぬかもしれないから、と慌ててヴィオラに直したのである。
ゲルギエフ指揮の演奏会は、伊政府の意向でキャンセルになったとの報道。自分では何が正しいのか、わからない。イスラエルの芸術家が演奏活動ができるのなら、ロシアの芸術家も演奏してよい気もするし、そうでない気もする。善悪も常識も、結局は紙一重の危ういものに過ぎない。物体が目の前に二つ並んでいて、お前、目の前に物体がいくつ見えるかと詰問されている錯覚を覚える。本当はいくつ見えているのか、と自問自答を繰り返す。イスラエルのシリア爆撃で死者は1000人を超えた。

7月某日 ミラノ自宅
「JEUX III」を漸く送付して、譜読みと作曲に集中しなければと気を奮い立たせる。
古代ギリシャでは、富裕層の政治家による、強権的ながら比較的安定した時代を経て、職人出身の市民が民衆を指導する時代が訪れた。皮なめし職人の政治家は、自身の息子に学を持たせようとしたソクラテスを恨んで、ソクラテスを死に追いやってしまった。政(まつりごと)を推し進めるため政治家は大衆を煽り、興奮状態のなかで議会をまとめていき、自らの政治生命のため、必要とあらば民衆への迎合も辞さなかった。民主政治は明確な方向性を逸し、いつしか責任の所在も曖昧になった。最早、世界全体をポピュリズムが支配していて、イタリアはその最たる国の一つだ。
貼りだされるなり、批判を受けすぐに剝がすことになった。イタリア「同盟Lega」党のポスター二種。
人工知能で作った写真に、上目遣いのジプシーの母親と子供がアパートから出てくる姿と、仁王立ちしている警察官二人の後姿が写りこんでいる。「住居を不法占拠だと? 24時間以内に同盟党がお前を外に放り出してやる」。
別のポスターには、デモ隊と思しき妙齢が、道路に座り込んで叫ぶ姿を人工知能で作った写真が貼ってある。「人が働いているのに、道を邪魔しようというのかい。牢屋行きだ」。
恐怖政治に近しかった芸術家が許されないのなら、最早カセルラは存在すら認められなくなる。カセルラはユダヤ人である妻をファシズム政権から守るために敢えて政権に近づいた、と言われることもあるが、戦後自らの活動を省みて「荘厳ミサ曲『平和讃』Missa solemnis “Pro Pace”」で懺悔をしても、その後も長きに亙ってファシスト作曲家と見做され続けてきた。しかし彼がいなければ、ペトラッシは全く違った姿になっていただろうし、ペトラッシが生まれなければ、戦後のイタリア現代音楽は生まれなかったのも確かである。音楽と政治は大いに関係あるとも言えるが、芸術作品の価値と政治は、やはり分けて考えられないものか。
自分の頭では到底結論など見いだせないが、ただ、自分たちがとても大切なフェーズに足を踏みいれているのはわかる。

7月某日 ミラノ自宅
文化相からの申し入れにより、ゲルギエフの演奏会はキャンセルされたものの、デルカ知事は簡単には引き下がらず、急遽別の演奏会を拵えて改めてゲルギエフに打診した。しかし、かかる侮辱は耐え難いものとしてゲルギエフは演奏要請を拒否し、イタリアのマネージメントとの契約そのものを破棄してしまった。どちらの意見にも理があるのはわかる。ただ、どこか空恐ろしい気がするのは、全体的に一世紀前の大戦前夜を無意識に想像してしまうところであり、その結果として、二発の原爆投下に至ったのを我々は知っている。
フォーレの作曲クラスで共に学んだラヴェルとカセルラは、一緒にピアノを弾き、作品を講評しあい、後年まで仲が良かったと言われる。ラヴェルのト調協奏曲2楽章は、カセルラの三重協奏曲2楽章に刺激されて作曲されたともいう。もしそうなら「三重協奏曲」の作曲された1928年頃までは親しい交流が続いていたのだろうか。ラヴェルが「ト調」を作曲していたのは1929年から31年にかけて。「ト調」と同時期、29年から30年にかけてラヴェルはジャズの影響のもとに「左手」を書いた。その少し前、1927年には、ラヴェルはエネスクのヴァイオリンで「ブルース」を含むヴァイオリンソナタを初演している。
イタリアでも、第一次世界大戦中にアメリカ兵がもたらしたジャズが大人気で、国営放送は1927年から29年まで、トリノ、ミラノ、ローマ、ナポリのダンスホールから生中継で、ほぼ毎日ジャズプログラムを放送していた。ちょうどラヴェルが「ソナタ」のピアノを弾き、「左手」を書いていたころである。
ところが30年から終戦まで、35年からの数年間を除き、一切のジャズプログラムは忽然と国営放送から姿を消してしまう。「ニグロ音楽、英国音楽は廃止すべし」「イタリアの伝統に基づく芸術を」とラジオでは盛んに喧伝され、実質的にジャズは放送禁止となったのだ。1942年4月19日には、「ユダヤ人が芸術活動に関わる行為禁止令」が発表され、劇場などから雇用されていたユダヤ人の音楽家、裏方らの契約が一切合切破棄されたのは有名な話である。このように音楽が扱われるのを、中枢とまでは言わないが、おそらく諮問機関には属していた筈のカセルラは、どんな思いで見つめていたのか。何かを感じていたのか、それとも何も考えない身体になっていたのか。
北海道、北見で39度を記録とニュースで言っている。

7月某日 ミラノ自宅
朝、運河沿いを歩いていると、イントナルモーリを3倍くらい大きくした恰好の、ブリキ製とおぼしき怪しげなボートが6艘、列をなして進んでいた。川底を掃除しているのか定かではないが、左右に不安定にゆれながら、大きなエンジン音を響かせて、ゆっくりと進んでゆく。水面に浮いているのかも定かではない、ごつごつ、ふわふわと不思議なうごき。子供のころ、毎週のように通った、湯河原の祖父の漁船のエンジン音を思い出して、すっかり懐かしくなった。
左右に揺れ動く台に並べられたメトロノームは、最初ずれていたとしても、時間の経過とともに自然と同期する。この一般化スペクトル理論のメトロノーム実験は、演奏家がアプリオリに皮膚感覚で認知しているものを、視覚化したモデルともいえる。空気中に少し重さの違う、ひんやりした気体が流れている感覚かもしれない。演奏家であれば、敢えてこの同期に乗らぬよう、抗う感覚も身につけている。そうして台が揺れ動かない状態であれば、リゲティの「100本のメトロノーム」のようになって、リズムを浮き上がらせるのだろう。
巨視化してメトロノームを載せる台を社会として仮定したらどうだろう。例えば、戦争直後、社会全体を厭戦観が覆っている間は、載せる台が動かないのに等しく、各人が主張を繰り広げ、特に迎合することもない。時間が経過とともに少しずつ厭戦観も薄れて、社会が左右へ揺らぐようになってくるとき、何故か我々の主張は、少しずつ一定の社会観に収斂されて、全体主義的な性向をもつかもしれない。
無知とはなんと素晴らしいことか。ソクラテスの無知の知ではないが、知らないということを知る。知ろうとすることからエネルギーが生まれ、人間が生まれ、社会が生まれた。音楽も、誰かを知りたい、という素朴なやりとりから生まれたのかもしれない。
タイ・カンボジア国境で紛争再発の報道。マクロン、パレスチナ国家承認を発表。ニューカレドニアを一定の主権を持つ国家として認めたことを発表。オーストラリアもガザについて強く抗議。

7月某日 ミラノ自宅
朝、運河を通りかかると、件のイントナルモーリのお化けのような作業船が、道路に引き上げられ、分解してトラックに積み上げられていた。なるほど確かに船底にはギア状の円盤五枚ほどが並んでいて、どうやらこれで水草を刈っていたようだ。息子は上海の空港で乗継ができず、航空会社からあてがわれた、高科東路のホテルで一泊している。ホテルには中華弁当が用意されていたが、あまり口には合わなかったらしい。
B’Tselem, Physician for Human Rights,イスラエルの二つの人権団体がガザについてレポートを発表。「我々の虐殺 Our Genocide」。
エジプト、チュニジア、モロッコ、アルジェリア、リビアなどの海岸から、ペットボトルに、米、穀物、シリアルなどカロリーの高いものを詰め、海に投げる連帯運動「Bottles to Gaza」運動。各国のどこからどう投げれば、海流でガザ海岸に届く確率が高いかを示す情報がインターネットサイトに載っている。国連が最早機能せず、我々自身がポピュリズムを力強く牽引している事実に虚しさを覚える。

7月某日 ミラノ自宅
岡村雅子さんが用意してくれた「禁じられた煙」の浄書譜に、簡単に演奏方法などを書き足して送付する。ふと岡村さんの顔が思い浮かび、昔のファイルを拾い出してみたのだ。警官によって窒息死させられたエリック・ガーナー事件をもとに作曲したが、楽譜を見ると様々な風景が甦ってくる。ニューヨークの寒々としたホテルや、雪の降るチャイナ・タウン、雨で濡れそぼったダウンタウンの教会の葬儀。
ミラノ領事館より西ナイル熱への注意喚起のメールが届く。ラティーナでクラスター化した40人の感染が確認され、そのうち6人が死亡したという。現在までカゼルタ、パドヴァ、トリノ、トレヴィーゾ、ヴェネチアなどでの発症例が報告されていて、蚊に刺されないようにするのが大切だというが、薮蚊だらけの拙宅でどう対応すればよいのか。
英・スターマー首相、停戦合意などの条件が満たされなければ9月にパレスチナの国家承認と発表。独・メルツ首相、ガザへの人道支援物資空輸を直ちに実行と表明。

7月某日 ミラノ自宅
早朝、カムチャツカ地震による津波のニュースで飛び起きる。
列強と言われる国々であれば、他国への侵略であったり、それに対するトラウマであったり、狂信的な全体主義であったり、こういった経験を必ずや過去のどこかで共有しているに違いない。ただ、我々市民は国ではなく、人をみることを忘れてはいけない。そして可能ならば、人を信じることを忘れてはいけない。灰色の廃墟が連なるガザの報道を読むのは、ガザ市民への連帯は言うまでもないが、今まで理解できなかった自分自身のルーツを、逆の立場から知ろうとしているのではないか。なぜならそれは我々のDNAの中に刻み込まれていることだから。子供の頃からそれがどうにも信じられず、理解できないことではあったけれど。
加・カーニー首相、9月の国連総会でのパレスチナ国家承認を発表。

 (7月31日ミラノ自宅)

水牛的読書日記 シンガポール旅行編

アサノタカオ

7月某日 はじめてシンガポールにやってきた。チャンギ国際空港から送迎の車で宿に入る。午後6時を過ぎても、街はまだ明るい。宿のそばにローカルの屋台村のような場所があり、そこでマレー料理(牛の内臓を煮込んだルンダン)を食した後、夜の街を少し散歩。気持ちのいい夏の風が吹いている。

7月某日 街のあちこちで見かける背の高い木はレインツリーだろうか。一羽の黒い鳥が枝に止まって、甲高い声で鳴いている。

今回シンガポールに来たのは振付家・ダンサーの砂連尾理さんによる「とつとつダンス」のプロジェクトに参加するためだった。「とつとつダンス」とは、砂連尾さんが、京都の老人ホームに入居するお年寄り、施設のスタッフや地域住民とともに行うダンスのワークショップと公演で、現在はシンガポールやマレーシアなどの認知症ケアの現場でも活動を展開している。砂連尾さんの著書『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉』(晶文社)を編集した縁で、東南アジアのツアーに同行し、現地でのミーティングやダンス公演にオブザーバーとして参加することになったのだ。

朝、立派なモスクのそびえるイスラム教徒のコミュニティにあるアリワル・アート・センターへ徒歩で向かう。ここはもともと由緒ある中華系の学校で、学校の移転に伴い、美術関係者や演劇関係者の共同アトリエのような施設になった。政府の補助があり、家賃は無償だという。砂連尾さんたち日本側の「とつとつダンス」の制作チーム、シンガポールのアート・プロデューサーであるオードレイ・ペレラさん、応用演劇の俳優マイケル・チェンさん、通訳のMさんの参加するミーティングに同席する。「とつとつダンス」のことは別の機会に書くこととして、ここではそれ以外の旅の出来事を記しておこう。

午前と午後のプログラムを終えて、夜はアート・センター近くのベトナム料理店へ。香草たっぷりのフォーとタマリンド・ジュース。目の前にカラオケスナック風の店があり、シンガポールのおっさんたちが女性に囲まれて昭和の演歌のような歌を気持ちよさそうに歌っている。店を出ると、曇り空を稲妻が走っていた。びゅっと吹く風が冷たい。スコールがやってくるかもしれないので、急いで宿に戻る。

7月某日 早朝に目覚め、川沿いの公園を散歩した。とんでもなく巨大なガジュマルを仰ぎ見る。ここは赤道直下、熱帯モンスーン気候の地なのだ。

午前のプログラムを終えて、昼はオードレイさんの案内でインド料理店へ。名前を忘れてしまったが、バターで焼き上げた厚めのパンをベジタブルカレーとともに。黒い鳥がお客さんの残したカレーを啄んでいる。昼食後、チャイナタウンに行くというKさんについていくことにし、バスに乗ってしばし街歩き。いわゆる中華街っぽさはあまりなく、現代的な超高層ビルと20世紀初頭の古い2階建ての建造物が同居する不思議な景観だ。ホン・リム公園には「スピーカーズコーナー」と書かれた看板がある。市民が政治的発言を行うことのできる場所らしいが、使用には警察の許可が必要で、看板の上には警察の監視カメラ。これがシンガポールの現実か。東京あたりよりは涼しいと感じていたが、日中に歩いているとやはり暑い。

Kさんと別れて、チャイナタウンにある草根書店(Grassroots Book Room)を訪問した。中国語書籍専門の本屋さんで、おしゃれなカフェも併設されている。日本文学&韓国文学の翻訳書のコーナーも。女性のスタッフもお客さんも中国語でおしゃべりしている。店先の黒板には〈閲讀即自由〉。すばらしい哲学だ。

この界隈には独立系書店がいくつかあり、近くにあるlittered with booksも訪問。2階建の英語専門の書店で、コミックの本も多い。こちらのお店では女性のスタッフ同士が英語でおしゃべりしていて、外国人観光客と思しきお客さんも英語で話している。近所には多くの韓国料理店が立ち並び、韓国語書籍専門の本屋さんもあった。

何軒か訪ねた書店で個人的に最も心惹かれたのは、BOOK BARだ。可愛らしい絵本や児童書が並ぶ入り口から奥に進むと、インデペンデント・プレスの本やZINE、詩集のコーナーがあり、カフェも併設されている。エッセイの本とZINEを1冊ずつ購入。魅力的な詩集もいろいろあり、滞在中にもう一度訪ねたい。日本でアルフィアン・サアットの小説『マレー素描集』(藤井光訳、書肆侃侃房)を読んだので、詩人でもあるという著者の詩集も見つけられるといいのだが。

BOOK BARで購入したFaction Pressの本とZINEは、内容もデザインもかっこいい。Faction Pressは東南アジア発のエッセイとノンフィクション(かれらはmicro-narrative とも言っている)の紹介に力を入れる出版社で、シンガポールのセックスワーカーの語りを集めたアンソロジー本など出版している。購入したZINE『UNDERTOW』の創刊号のテーマは歴史、記憶、悲嘆。宿でLAWRENCE YPILの短い散文「Untold Stories」を読んで感動した。胸に響いた言葉にアンダーラインを引く。「語れないことについて、語ることを拒むことについて。言葉がなく、何も言えないこと。言葉を拒むから、何も言えないこと」「美は私たちよりも長く生きる。私たちの肉体よりもゆっくりと日々を進む」

連日やや食べ過ぎのような感じがあるので、夜から断食。しばらく水だけを飲むことにする。

7月某日 夜明け前の早朝に目覚めた。シンガーポールについてから地に足がつかない感じが続いている。気持ちが宙に浮いて、いつまでもふわふわしている。だから何を見ても聞いても、何を食べても、いまひとつ現実感がない。理由ははっきりしていて、初日に友の訃報を電子メールで受け取ったからだ。メールには彼女のノートを写した写真が添付されていて、そこには「時々会いに行きます」と見覚えのある手書きの文字が自分宛のメッセージとして記されていた。時々、なんて言わないで、今でもいいじゃない。今回の旅は、彼女の美しい魂と同行二人。その存在を親しく感じ続けるために、地に足がつかないこの時間が必要なのだと思う。

夏の1日だけ涼しい日に

高橋悠治

手書きの楽譜に戻ろうとしているが、手が思うように動かなくなっている。友達が、手書きの楽譜の見本を見せてくれたり、シャーペンや消しゴムをくれたりして、道具も揃っているのに、わずかなきっかけから始まるはずの作曲に取りかかれないで何日かがすぎた。

毎年夏は秋のために準備することがいくつかある。8月の終わりまでには、手を動かすことに慣れるだろうか。

こうして字を書くときも、漢字の書き順を忘れているからコンピュータに頼っているが、音のフレーズを音符を使わずに書くやりかた、図形楽譜の実験は、1960年ごろに試したことはあったが、おもしろいものではなかった。

記譜法のソフトは30年くらい使っていた Finale がこれ以上の開発をやめ、サポートもなくなるから、Muse Score に切り替えることも考えたが、新しい記譜法ソフトを覚えるのは簡単にはいかない。コンピュータが保存している Fnale も他の機械には移せないから先がない。

手書きに戻るのは、これまで何世紀も作曲家たちがやってきたこと、今もやっていることだから、少しの手習いで戻れるとは思うが、それと新しい作曲とがこの暑い時期に重なるのは、予想外だった。

コンピュータの場合は、音符の記号を打つわけだから、同じ記号でも手で書く感触とは違うだろう。次の記号に移る感じも同じではないはず。昔一度だけ演奏した湯浅譲二の Cosmos haptic という図形楽譜の曲があった。今は「内触覚的宇宙」という日本語題名が付いているらしい。ピアノであれば、鍵盤の手触りの感触は、耳でその結果としての音を聞く感覚とは違うけれど、その音を聞きながら音符を見るのと、そのとき手に感じる感覚もまた違いながら、それらを同じものとして扱うことで、作曲も演奏も、また即興さえも成り立っている。

こんなことを書いているより、手を動かすのが先だと思いつつ、もしかしたら作曲も、音のイメージを書き留めるより、五線紙の上で手を動かして、音符の形を書くところから始まるのが自然だろうとも思いながら、こうしてコンピュータで字を打っている。