何のために日記を書くのかと問われれば、一つ一つの出来事を覚えるのが大変だから、と答えたくなります。以前平井さんから、でも人に読んで欲しいから書いているのでしょうと指摘され、自分では特に気にも留めていなかったつもりなのに、その時妙に納得したことがありました。
この原稿を美恵さんに送ったら、伸びきった庭の雑草を刈らなければいけないのですが、こうして1カ月毎に雑草を刈らなければならないのは、草が伸びきっているから。なぜ草が伸びるのかといえば、それぞれの雑草が、一本でも多く自分の種を辺りに残そうと身体を張っているからでしょう。意志かもしれないけれど、自然の摂理と言われればその通りかもしれない。
作曲とは、自然な姿でその瞬間の自らの姿を反映させながら、記録として他者に残せるツールです。ただ、なぜか自分のために作曲している意識が希薄な気もするのです。誰かの為に書いていて、自動書記的に誰かに書かされている感覚が、常にどこか身体の芯に残っている。
堆い瓦礫のなか、辛うじて残ったコンクリート壁に、数名の笑顔の若者の似顔絵が書き残されているのを見ました。この間まで、ここで元気に暮らしていた若者たちです。誰がどこで生きていたのか、どんな姿で暮らしていたのか、何を話していたのか、誰しもがこうやって、誰かに伝えたいと感じているのかもしれません。たとえ伝える相手の顔すら知らぬままであったとしても。
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7月某日 ミラノ自宅
先日、何十年かぶりにKと話す。彼はヨーロッパにもう30年以上住んでいるのだが、今の日本に帰っても、自分の知っている日本とは随分違うので、寧ろ慣れているヨーロッパの方が居心地はよいらしい。若い頃君はすごく厳しい人だったが、なんだか、雰囲気が変わったな、と言われる。笹久保さんからの便りに、最近はどういう思想で音楽やってますかと書いてある。隣の部屋で息子が「鱒」を練習しているのが聴こえる。自分には思想なんてあるのかしら。円安が進んで1ユーロ170円を超えた。
7月某日 ミラノ自宅
春、フェデーレの自宅で撮ったインタヴューに、日本語字幕を付ける。繰返される記憶が認識を促す話を聞きながら、その昔、ドナトーニがよく生徒に聞かせていた、小咄を思い出す。
部屋にいると、ドアをノックする音が聞こえるんだ。トン、トン、トン…、とおずおずとした感じ。
「どうぞ!」、と答えて、耳を澄ます。
すると、また、トン、トン、トン…とノックをする。聞こえなかったのかと思って、
「どうぞ!」、今度はもっと大きな声で返事をして、ドアを注視する。
あろうことか、またも気弱な感じで、トン、トンとノック。
「どうぞ、入ってと言っているのがわからないの?」と少し苛々しながら声をあげると、
ガラガラ…、おずおずと扉が開いたかと思いきや、
「あの…こんにちは…」と消え入るような声で生徒が挨拶しながら入って来る、というところで、学生全員がどっと声を上げて笑うのが常であった。ドナトーニ曰く、音楽はこんな感じに構造を作るのがいいらしい。
ドナトーニに近い内容だが、フェデーレはより理知的で、思索的な単語を並べる。繰り返しが形成する認識を通して、作品がどのように聴き手に理解されるか。
家人からのメッセージで、女優の遠野凪子が亡くなったと知る。武満さんと谷川俊太郎の「系図」は、少女とも妙齢ともつかぬ、あどけなさとコケティッシュの交ざった表情で、こちらを少し突き放すような表現がすばらしかった。彼女はその姿を常に演じていたのかもしれないけれど、天性の才能に恵まれていたのは誰の目にも明らかだった。
7月某日 ミラノ自宅
ここ二日ばかり、夕方になると猛烈な嵐に襲われる。涼しくなるのは有難いが、実際各地に被害をもたらしている。
一昨日、カニーノのレッスンを受けるため、息子がプレミルクオーレの夏期講習にでかけた。「押さえる」「心」という二つの単語でできたPremilcuoreという印象的な土地の名前を聞くと、イタリア人ですら、へえという顔をする。ロマーニャ州の山の中の小さな村に過ぎないから、「心を打つほど美しい村」を意味するとばかり思っていた。実際は、3世紀にローマ帝国、暴君カラカッラ帝の圧政に反旗を翻した、マルチェッロなる百人隊隊長がこの地に逃げ延び、当時点在していた集落をまとめて要塞化したことが、この村の始まりだと言う。Premilcuoreは”PREMIT COR” つまり「恩人の死に際し、悲しみが我々の心を圧し潰す」か、さもなければ”PREMUNT COR” つまり、「ローマ軍の追っ手にマルチェッロ隊長を差し出すくらいならば、我々自らの心臓を破ってくれようぞ」、という、激情的な文句が発端であった。息子から特に連絡はないが、まあ元気にやっているのだろう。
フェデーレのインタヴュー翻訳をやっていて、伊語と日本語がなかなか同期しない。通訳や翻訳に携わる人は、想像力と集中力のみならず、各単語の意味の言語化にずば抜けて長けているに違いない。哲学的な内容とまでは言わないが、具体的ながら、形而上学的に理論づけて話していて、言いたいことは感覚としては実感できるが、頭のなかで回路が繋がっていないので、言語化してアウトプットできない。フラストレーションばかりが溜まる作業だ。翻訳とは自らの無知を恥ずかしげもなく曝しだすこと。ただ、その勇気があるか否か。
激しい選挙戦の様子を伝える日本からの報道。「力のある言葉」と「粗野な言葉」が、何時の間にか入れ替わった印象。移民の自分から見た外国人排斥の気運については、うまく言葉にできない。
7月某日 ミラノ自宅
イタリア国鉄、ミラノ・ポルタジェノヴァ駅12月閉鎖が正式に発表になった。庭の土壁のすぐ向こう、5メートルと離れていないローカル線と古びた留置線は、風情があってよい。その昔は、夏になると、稀に臨時列車の客車が留置線にゆっくり入線してきて、機関士などと手を振り合ったこともある。尤も、このローカル線は廃止になるどころか幹線に格上げされ、ロゴレード駅まで直通運転するようになるらしい。そのため、盲腸線となるポルタジェノヴァ駅まで一駅区間の旅客営業を廃止する、と報道されていた。昨年暮れにポルタジェノヴァ線の線路を新しく敷設し直したばかりなのに、どうも腑に落ちない。
7月某日 ミラノ自宅
日本に戻っている家人より、三軒茶屋からピアノが搬出された旨の報告。ヴィデオも送られてきた。搬入時はずいぶん大事だった記憶があるが、家人曰く搬出は意外にスムーズだったらしい。さぞ感慨一入かと思いきや、運び込まれた馬込の部屋の方がずっとピアノには居心地よく、寧ろ清々しいらしい。
7月某日 ミラノ自宅
人工知能にスクリプトを書いてもらいながら、慣れないデータ解析を続ける。浮き上ってくるものに慄きを覚えつつ、無意識にそこから常に距離を取ろうとする自分に気づく。
午後、足立さんから頼まれたイントナルモーリを見学しに、ヴィニョーリ通り37番地のNoMusを訪ねる。自宅から歩いて10分とかからない、昔よく通ったパン屋の路地にある教会の隣。少し厳めしい、一面摺りガラスの3階建てのアパート全体がNoMusとなっていて、地下1階、地階、2階は資料室、3階はNoMusを仕切っているマッダレーナ・ノヴァ―ティの自宅である。
一見すると、これがイタリア有数の現代音楽資料館とは想像もつかないが、マッダレーナ曰く、敢えてそういう造りにしているらしい。マッダレーナは、イタリア国営放送のプロデューサーとして、演奏会録音について廻っていたころから知っているが、こんな近所でイントナルモーリと一緒に暮らしているとは想像もしなかった。
足を踏みいれると、実に愉快で不思議な空間が広がっていて、ちょっと在りし日のアールヴィヴァンやカンカンポアのようでもある。
壁には、ブソッティや、ブソッティの兄、彼らの父の大判の絵画が飾ってあり、エミリオと一緒に2000年に演奏したノーノのプロメテオ公演のパネルが立てかけてあり、何やら曰くありげな古い縦型ピアノまで飾ってあって、個性的な情報が犇めきあっている。残りの空間は、所狭しと整理された資料に埋め尽くされていて、骨董品屋と図書館と博物館が相俟った雰囲気を醸し出していた。
マッダレーナが淹れてくれたコーヒーをいただいてから、地下の資料室を訪ねると、1979年ルッソロ・プラテッラ財団のGianfranco Maffinaが、ルッソロの設計図に則って再現したイントナルモーリが4台、白い台の上に展示されていた。マッダレーナは、イントナルモーリを「イントーナ・ルモーリ」と2単語にわけて、少し慈しむように発音した。
秋山邦晴の「現代音楽をどう聴くか」に載っているイントナルモーリの写真に、初めて心をときめかせたのは、まだ小学生の頃ではなかったか。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、半世紀近く経って触るイントナルモーリは、実に愉快で、同時にすっかり感激してしまった。内部構造がわかるよう、箱の片面は透明なプラスチック板が貼ってあり、その下あたりに、電動モーターにつながっている電源のコンセントもついている。そこに電源を繋げば、電動で音がなる仕組みだ。「当時から電気を使っていたなんて凄いでしょう。壊れると怖いからつけたことがないのだけど」、とマッダレーナが少し誇らしげにコンセントを指さした。
隣の倉庫で管理されている、ルチアーノ・ケッサが復元した演奏会用イントナルモーリ17台には、レバーにしっかり目盛りがついていて、楽譜の音高通りに演奏可能だという。実演のたびに、ここから運び出されてゆくらしい。
実際にイントナルモーリ(騒音調音器)を触ってみると、思いの外、演奏効果の高い楽器という印象を受けた。クラシック楽器であまりノイズを弾かせる気が起きないのは、やはりイントナルモーリの音が魅力的だからだと納得する。ケッサがアメリカで作ったような、17台のイントナルモーリ・オーケストラが、世界にもっと沢山あれば良いとおもう。現代音楽のみならず、ロックであれジャズであれ、演劇、合唱、なんであっても、このイントナルモーリ・オーケストラと相性がよいはずだ。
辛気臭く、怪しげな感じが一切なく、観念的な音がしないのが素晴らしい。のびのびとして開放的で、「アモーレ、マンジャーレ、カンターレ」といったステレオタイプなイタリアらしさを使って、ノイズを謳歌している。
電気的に作り出された音ではなく、素朴な仕掛けのノイズだから、ちょうど楽器でノイズを作り出す作業に似た音がするのだが、どこか楽器メーカーが安価で量産すれば面白いのに、と歯がゆい思いまでこみあげてくる。良い指導者さえいれば、学校の教育楽器としての需要も、少なからずあるかも知れない。和声や旋律に拘泥せず、ミラノのダルヴェルメ劇場で堂々とこれを公開演奏したのは、1914年ではなかったか。テルミンやオンド・マルトノのような電気楽器が、現在まで演奏され続けているのは、やはり良い音楽家と出会ったことが大きく影響している。ルッソロは、音楽院のオルガン科で特別に表彰されるほど、優れたオルガニストであったが、楽器製作に関しては、結局発明家で終わってしまい、優れた作曲家との出会いもなかった。アントニオ・ルッソロの作品は、お世辞にも革新的で才気溢れるものではなかった。
そしてイントナルモーリの更なる改良よりも、新しい創作楽器に熱中し、大戦のため、ファシスト政権と当時のイタリア現代芸術は一括りにされて、芸術の真価について顧みられなかった。
オリジナルのイントナルモーリは、大戦中にパリで火事に遭い全て消失してしまったが、あの頃パリで、ストラヴィンスキーかジョリヴェ、メシアンでもヴァレーゼでもいいが、誰か一人でも、進歩的で特に優れた作曲家とより深く交流し、この楽器の可能性とノイズの意義について互いに掘り下げていたら、戦後の現代音楽はまた違った発展を遂げていたかもしれない。一期一会という言葉の通りではあるが、当時、ミラノでもパリでも、イタリア未来派はどこか奇矯な身の振舞いに終始していたし、その後はファシズムに利用されてしまったから、ダダイズムとも結局一線を画したままだった。
あの頃にサティと積極的に交わっていたら、デュシャンとともに、この騒音音楽がアメリカへ渡っていたらどうなっていたか。ケージもプリペアドピアノなど作らなかったかもしれない。そんなことにまで思いを馳せたくなるような、喜びと自信に満ちたノイズだった。これらの楽器は、マッダレーナが借り受けるまで、Maffina夫妻が老後を過ごしたミラノの養老院、「ヴェルディの家」に保管されていた。「つかぬことを聞きますが未来派の…」、と先日「ヴェルディの家」に電話した時は、受付の女性に、「ここには古いものしかありませんよ、未来派なんて、そんなモダンなものがこの養老院にあるわけないじゃないですか」と笑い飛ばされた、「モダンというより、箱型でラッパがついている代物なのですが」と喰い下がると、「博物館には時代物の蓄音機が並んでいますが、あれは蓄音機ですから」と半ば呆れた声で答えてくれた。
ルッソロが製作した微分音鍵盤の1オクターブ分だけは、10年前まではスイスのサンモリッツに住むMaffina夫妻の娘が保管していて、それを譲ってくれるようマッダレーナは何度も頼んだが、断られたと言う。ネットオークションなどで売飛ばされていないといいのだけれど、とマッダレーナが心配していた。地階には、ルッソロとボッチョーニなど未来派の仲間との書簡の他、アントニオ・ルッソロの「雨」の、決して達筆とは言い難い自筆譜も保管されていたし、ルッソロが音楽院から表彰された時の書類も見せてもらった。ルイジ・ルッソロがフレスコバルディやらブクステフーデやらバッハを毎日練習していた、という姿を想像すると、なんだかとても愉快な気分になった。
昨日、庭に乱立している雑木を切って壁に立てかけておいたところ、早速リスや鳥たちの遊び場になっている。
7月某日 ミラノ自宅
言葉はていねいに使わなければいけないと改めておもう。尤も、これだけ情報が氾濫している社会において、人の目に留まるため、耳を傾けさせるため、先鋭化し単純化した、極端な表現にならざるを得ない。理解に努めるよりも、主張に重きを置かざるを得なければ、他者との相違をより際立たせなければならず、自ずと二極化へ向かい諍いが生じる。
では逆はどうだろう。相手を理解しようと努めると、どのような主張であれ、何某かの言い分があることはわかる。「盗人にも三分の理」に喩えるのは間違っているが、それぞれに考えるところはあるわけだ。相手の主張に耳を傾けている間は、互いに何らかのコミュニケーションが残っているわけだから、分断するほどの先鋭化は避けられるかも知れない。時間をかけずに解りやすく、手軽に趣向と損得勘定を反映させたアルゴリズムだけを信じて人間関係を構築するのは、やはり少し危険過ぎる。現在、地球上のどこでもこの傾向に流されていて、言葉のキャッチボールが難しくなってきている。
音楽はどうか。言語化ほど具体性を纏わず、曖昧な表現ながらも、先鋭化した人々の心を、どうにか繋ぐ何某かになり得まいか。それが仲介者なのか媒介者なのかは分からないが。
7月某日 ミラノ自宅
芥川先生の譜面を読みながら、「schietto」という伊語の形容詞が思い浮かんだ。日本語の「竹を割ったような」という感じか。心の裡をさっぱりきっぱり潔く表現すること。知的でありながら理屈臭さがなく、清々しい。無為なセンチメンタリズムを排していて構造に無駄がなく、一見複雑には聴こえないが、丁寧に構造の単純化をさけている。聴いた感じは違うが、湿っていない音符と躍動感、構造へのこだわりなど、ちょっとペトラッシを思い出した。プレミルクオーレの息子より「トッカータがうまく弾けた」と珍しくメッセージが届いた。イスラエル軍、シリアのダマスカスを空爆。シリア暫定政府の国防省の建物などを攻撃。
今月末に南伊サレルノで、ゲルギエフがマリンスキー劇場オーケストラを振ることについて、同地の州知事ヴィンチェンツォ・デルーカは、「プーチンは悪であり、ウクライナを全面的に支援しているが、コミュニケーションの手段を断つことには断固反対する。我々はウクライナからの避難民の受け入れも積極的に行ってきている。素晴らしい音楽家を招いて、素晴らしい音楽を聴くことのどこが悪いのか。批難の声を上げる人々は、3年間の長きに亙ってロシアとの対話を拒否し、パレスチナの悲劇を目にしていながら何もせず、無責任にも程がある。偽善は沢山だ」。彼らしい、少し厳めしい感じのイタリア語で決然とインタヴューに答えた。彼は民主党員で、若い頃サレルノ大学の卒業論文に選んだテーマは「アントニオ・グラムシ」であった。
7月18日 ミラノ自宅
シャリーノCDブックレットの第一稿ゲラが送られてきて、漸く形が見えてきたと安堵する。それを読返しながら、自分は友人、協力者に本当に恵まれていると痛感している。林原さんから、ニマさんの美しいテキスト”Lucid dream “が送られてきた。「ルシッドドリームとは、夢を見ている最中に、自分が夢を見ていると自覚している状態のことで、日本語で『明晰夢』っていうのですって」。
故郷を愛する、とは、結局何を意味するのだろうか。故郷は誰にでも公平にあるようでいて、実際はそうではない。故郷を心の裡にだけ大切にとっておく人もいる。とっておくことしか許されない人もいる。肌の色が違う人にとって、故郷とはなにか、一度立ち止まって考える時間も必要かもしれない。日本の友達からすると、自分は「イタリアに住んでいる杉山君」だから、と暫く前に息子が呟いていたが、望もうとそうでなかろうと彼のアイデンティティは、イタリアに住んでいることを前提として、認知されているのだろう。彼にとって、故郷が何を意味するのか、彼自身も理解していないのだろうが、彼のソウルフードは、ニョッキやシンプルなトマトのパスタだし、田舎と言えば、夏休み、長い時間を過ごした、伊豆熱川の義父母の家なのかもしれない。時間は、物事の本質を時に曖昧にも、目を逸らさせることすらできるかもしれない。
町田の母は、平均律の10番のフーガまで進んだそうだ。前奏曲よりフーガを練習する方が頭が冴えて楽しい、というので愕く。イスラエルは、ガザのカトリック教会「聖家族教会」攻撃を謝罪。シリアへの攻撃で、死者は300人を超えたとの報道。
7月某日 ミラノ自宅
息子は自宅で一泊した後、今度はスイスの講習会にでかけた。般若さんのためにヴィオラに直した「JEUX III」を浄書するため、楽譜を開く。これは元来大石君と辻さんのサックスと太鼓のための作品であったが、これを慌ててヴィオラに直した時は、明らかに死を覚悟していたのが目に見えるようで、改めて恐ろしさに駆られた。般若さんから新しいヴィオラ曲を頼まれてすぐに、イタリアは瞬く間にCovidに吞み込まれて想像を絶する状況に陥ってしまった。新しいヴィオラ曲を書きあげるまで生き延びられる自信など到底なかったから、折角、頼まれた曲を書けず申し訳ないけれども、もうすぐ死ぬかもしれないから、と慌ててヴィオラに直したのである。
ゲルギエフ指揮の演奏会は、伊政府の意向でキャンセルになったとの報道。自分では何が正しいのか、わからない。イスラエルの芸術家が演奏活動ができるのなら、ロシアの芸術家も演奏してよい気もするし、そうでない気もする。善悪も常識も、結局は紙一重の危ういものに過ぎない。物体が目の前に二つ並んでいて、お前、目の前に物体がいくつ見えるかと詰問されている錯覚を覚える。本当はいくつ見えているのか、と自問自答を繰り返す。イスラエルのシリア爆撃で死者は1000人を超えた。
7月某日 ミラノ自宅
「JEUX III」を漸く送付して、譜読みと作曲に集中しなければと気を奮い立たせる。
古代ギリシャでは、富裕層の政治家による、強権的ながら比較的安定した時代を経て、職人出身の市民が民衆を指導する時代が訪れた。皮なめし職人の政治家は、自身の息子に学を持たせようとしたソクラテスを恨んで、ソクラテスを死に追いやってしまった。政(まつりごと)を推し進めるため政治家は大衆を煽り、興奮状態のなかで議会をまとめていき、自らの政治生命のため、必要とあらば民衆への迎合も辞さなかった。民主政治は明確な方向性を逸し、いつしか責任の所在も曖昧になった。最早、世界全体をポピュリズムが支配していて、イタリアはその最たる国の一つだ。
貼りだされるなり、批判を受けすぐに剝がすことになった。イタリア「同盟Lega」党のポスター二種。
人工知能で作った写真に、上目遣いのジプシーの母親と子供がアパートから出てくる姿と、仁王立ちしている警察官二人の後姿が写りこんでいる。「住居を不法占拠だと? 24時間以内に同盟党がお前を外に放り出してやる」。
別のポスターには、デモ隊と思しき妙齢が、道路に座り込んで叫ぶ姿を人工知能で作った写真が貼ってある。「人が働いているのに、道を邪魔しようというのかい。牢屋行きだ」。
恐怖政治に近しかった芸術家が許されないのなら、最早カセルラは存在すら認められなくなる。カセルラはユダヤ人である妻をファシズム政権から守るために敢えて政権に近づいた、と言われることもあるが、戦後自らの活動を省みて「荘厳ミサ曲『平和讃』Missa solemnis “Pro Pace”」で懺悔をしても、その後も長きに亙ってファシスト作曲家と見做され続けてきた。しかし彼がいなければ、ペトラッシは全く違った姿になっていただろうし、ペトラッシが生まれなければ、戦後のイタリア現代音楽は生まれなかったのも確かである。音楽と政治は大いに関係あるとも言えるが、芸術作品の価値と政治は、やはり分けて考えられないものか。
自分の頭では到底結論など見いだせないが、ただ、自分たちがとても大切なフェーズに足を踏みいれているのはわかる。
7月某日 ミラノ自宅
文化相からの申し入れにより、ゲルギエフの演奏会はキャンセルされたものの、デルカ知事は簡単には引き下がらず、急遽別の演奏会を拵えて改めてゲルギエフに打診した。しかし、かかる侮辱は耐え難いものとしてゲルギエフは演奏要請を拒否し、イタリアのマネージメントとの契約そのものを破棄してしまった。どちらの意見にも理があるのはわかる。ただ、どこか空恐ろしい気がするのは、全体的に一世紀前の大戦前夜を無意識に想像してしまうところであり、その結果として、二発の原爆投下に至ったのを我々は知っている。
フォーレの作曲クラスで共に学んだラヴェルとカセルラは、一緒にピアノを弾き、作品を講評しあい、後年まで仲が良かったと言われる。ラヴェルのト調協奏曲2楽章は、カセルラの三重協奏曲2楽章に刺激されて作曲されたともいう。もしそうなら「三重協奏曲」の作曲された1928年頃までは親しい交流が続いていたのだろうか。ラヴェルが「ト調」を作曲していたのは1929年から31年にかけて。「ト調」と同時期、29年から30年にかけてラヴェルはジャズの影響のもとに「左手」を書いた。その少し前、1927年には、ラヴェルはエネスクのヴァイオリンで「ブルース」を含むヴァイオリンソナタを初演している。
イタリアでも、第一次世界大戦中にアメリカ兵がもたらしたジャズが大人気で、国営放送は1927年から29年まで、トリノ、ミラノ、ローマ、ナポリのダンスホールから生中継で、ほぼ毎日ジャズプログラムを放送していた。ちょうどラヴェルが「ソナタ」のピアノを弾き、「左手」を書いていたころである。
ところが30年から終戦まで、35年からの数年間を除き、一切のジャズプログラムは忽然と国営放送から姿を消してしまう。「ニグロ音楽、英国音楽は廃止すべし」「イタリアの伝統に基づく芸術を」とラジオでは盛んに喧伝され、実質的にジャズは放送禁止となったのだ。1942年4月19日には、「ユダヤ人が芸術活動に関わる行為禁止令」が発表され、劇場などから雇用されていたユダヤ人の音楽家、裏方らの契約が一切合切破棄されたのは有名な話である。このように音楽が扱われるのを、中枢とまでは言わないが、おそらく諮問機関には属していた筈のカセルラは、どんな思いで見つめていたのか。何かを感じていたのか、それとも何も考えない身体になっていたのか。
北海道、北見で39度を記録とニュースで言っている。
7月某日 ミラノ自宅
朝、運河沿いを歩いていると、イントナルモーリを3倍くらい大きくした恰好の、ブリキ製とおぼしき怪しげなボートが6艘、列をなして進んでいた。川底を掃除しているのか定かではないが、左右に不安定にゆれながら、大きなエンジン音を響かせて、ゆっくりと進んでゆく。水面に浮いているのかも定かではない、ごつごつ、ふわふわと不思議なうごき。子供のころ、毎週のように通った、湯河原の祖父の漁船のエンジン音を思い出して、すっかり懐かしくなった。
左右に揺れ動く台に並べられたメトロノームは、最初ずれていたとしても、時間の経過とともに自然と同期する。この一般化スペクトル理論のメトロノーム実験は、演奏家がアプリオリに皮膚感覚で認知しているものを、視覚化したモデルともいえる。空気中に少し重さの違う、ひんやりした気体が流れている感覚かもしれない。演奏家であれば、敢えてこの同期に乗らぬよう、抗う感覚も身につけている。そうして台が揺れ動かない状態であれば、リゲティの「100本のメトロノーム」のようになって、リズムを浮き上がらせるのだろう。
巨視化してメトロノームを載せる台を社会として仮定したらどうだろう。例えば、戦争直後、社会全体を厭戦観が覆っている間は、載せる台が動かないのに等しく、各人が主張を繰り広げ、特に迎合することもない。時間が経過とともに少しずつ厭戦観も薄れて、社会が左右へ揺らぐようになってくるとき、何故か我々の主張は、少しずつ一定の社会観に収斂されて、全体主義的な性向をもつかもしれない。
無知とはなんと素晴らしいことか。ソクラテスの無知の知ではないが、知らないということを知る。知ろうとすることからエネルギーが生まれ、人間が生まれ、社会が生まれた。音楽も、誰かを知りたい、という素朴なやりとりから生まれたのかもしれない。
タイ・カンボジア国境で紛争再発の報道。マクロン、パレスチナ国家承認を発表。ニューカレドニアを一定の主権を持つ国家として認めたことを発表。オーストラリアもガザについて強く抗議。
7月某日 ミラノ自宅
朝、運河を通りかかると、件のイントナルモーリのお化けのような作業船が、道路に引き上げられ、分解してトラックに積み上げられていた。なるほど確かに船底にはギア状の円盤五枚ほどが並んでいて、どうやらこれで水草を刈っていたようだ。息子は上海の空港で乗継ができず、航空会社からあてがわれた、高科東路のホテルで一泊している。ホテルには中華弁当が用意されていたが、あまり口には合わなかったらしい。
B’Tselem, Physician for Human Rights,イスラエルの二つの人権団体がガザについてレポートを発表。「我々の虐殺 Our Genocide」。
エジプト、チュニジア、モロッコ、アルジェリア、リビアなどの海岸から、ペットボトルに、米、穀物、シリアルなどカロリーの高いものを詰め、海に投げる連帯運動「Bottles to Gaza」運動。各国のどこからどう投げれば、海流でガザ海岸に届く確率が高いかを示す情報がインターネットサイトに載っている。国連が最早機能せず、我々自身がポピュリズムを力強く牽引している事実に虚しさを覚える。
7月某日 ミラノ自宅
岡村雅子さんが用意してくれた「禁じられた煙」の浄書譜に、簡単に演奏方法などを書き足して送付する。ふと岡村さんの顔が思い浮かび、昔のファイルを拾い出してみたのだ。警官によって窒息死させられたエリック・ガーナー事件をもとに作曲したが、楽譜を見ると様々な風景が甦ってくる。ニューヨークの寒々としたホテルや、雪の降るチャイナ・タウン、雨で濡れそぼったダウンタウンの教会の葬儀。
ミラノ領事館より西ナイル熱への注意喚起のメールが届く。ラティーナでクラスター化した40人の感染が確認され、そのうち6人が死亡したという。現在までカゼルタ、パドヴァ、トリノ、トレヴィーゾ、ヴェネチアなどでの発症例が報告されていて、蚊に刺されないようにするのが大切だというが、薮蚊だらけの拙宅でどう対応すればよいのか。
英・スターマー首相、停戦合意などの条件が満たされなければ9月にパレスチナの国家承認と発表。独・メルツ首相、ガザへの人道支援物資空輸を直ちに実行と表明。
7月某日 ミラノ自宅
早朝、カムチャツカ地震による津波のニュースで飛び起きる。
列強と言われる国々であれば、他国への侵略であったり、それに対するトラウマであったり、狂信的な全体主義であったり、こういった経験を必ずや過去のどこかで共有しているに違いない。ただ、我々市民は国ではなく、人をみることを忘れてはいけない。そして可能ならば、人を信じることを忘れてはいけない。灰色の廃墟が連なるガザの報道を読むのは、ガザ市民への連帯は言うまでもないが、今まで理解できなかった自分自身のルーツを、逆の立場から知ろうとしているのではないか。なぜならそれは我々のDNAの中に刻み込まれていることだから。子供の頃からそれがどうにも信じられず、理解できないことではあったけれど。
加・カーニー首相、9月の国連総会でのパレスチナ国家承認を発表。
(7月31日ミラノ自宅)