話をする猫

植松眞人

 車はセダンに限る、とあれだけ言っていたK氏がワゴン車で現れた。
 それも、ファミリータイプのSV車などではなく、荷物を運ぶための効率だけを考えたようなワゴン車だった。それだけで、ああこの人はもう自分が知っているK氏ではないのだと僕は思った。そして、車から降りてきたK氏の、以前とはまったく変わらない少し斜に構えた出で立ちを見て、その印象は強い確信へと変わった。
 よく見なければわからない程度の薄い迷彩柄のパンツと、ビジネス仕様に見えるワイシャツも実は襟が二枚重ねてあるという懲りようだ。十数年前に初めて出会ったときにも、こんなふうにシンプルに見えて、実はややこしい出で立ちをしていたことを思い出す。
 その当時、K氏はこう言っていたのだ。
「車は実用と違う。趣味や。そやから、自分の好みの車を選んで乗るんや。それがどんな車でもかまへんねん。けどな、自分の好みの車に乗られへんのなら、もう車なんて乗ったらあかんねん」
 遠縁のおじさんから譲り受けた古い茶色のクラウンに乗っていた僕に向かって、中古の塗装の剥げかけたシトロエンに乗っていたK氏はそう言った。
 K氏は一角の人物になり損ねた男だった。中堅の商社で中間管理職にまでなったのに、優柔不断な立ち居振る舞いで自分に関係のない権力争いのスケープゴートにされてしまった。四十代の半ばで退職を余儀なくされたのはそのためだ。それからというもの、それなりの才能とそれなりの状況判断の良さが災いして、どこで誰と仕事をしてもうまくいかなかった。
 そして、それなりの才能とそれなりの状況判断の良さが功を奏して、どの仕事も中途半端に終わってしまってはいたが、徹底的に食いっぱぐれることもなかった。そうやって綱渡りのように五十代の終わりまでやってきたのである。僕がK氏に初めて会ったのは彼が四十代の半ば、ちょうど商社を追われてしばらくした頃だった。K氏が商社の中間管理職として面識のあった取引先の男を引っ張り込んで、いわばフリーランスの仲介業のような仕事を始めた頃だったと思う。もうバブル景気から時間が経ち、失われた十年などと言われ始めていたが、景気の動向に敏感な人たちはITバブルの予兆に浮き足立っていた。まだ、ほとんどの日本人が長かったバブル景気破綻の底なし沼からもうすぐ脱出できる、と本気で信じていた幸せな時代だった。
 金が動くと人は笑顔になる。不思議なものだ。そして、K氏も金が動く予兆に敏感だった。金が動き出すとK氏が動き出し笑顔になる。しかし、いつもK氏は初動に失敗して、最後の最後、目の前の大金を逃してしまうのだった。
 バブル景気の頃、K氏はまだ勤め人だったが、空前の好景気到来を予測して、沖縄にリゾート施設建設を会社に提言した。最初は乗り気でなかった会社も、K氏の熱心なプレゼンと、額に汗しながら数多くの協賛企業を集めてきた努力を認めて、ゴーサインを出したのである。しかし、計画がスタートした途端に、事業をともに進めていた建設会社の計画の甘さが露呈した。あちらでほころび、そのほころびをこちらで補填し、補填のツケを向こうで補った。そうこうしているうちに、計画の遅れは一年になり二年になった。結局、K氏が提言した沖縄リゾート計画は、完成したとほぼ同時にバブル崩壊の憂き目にあい、ほとんどの資金を回収できないまま売りに出されることになった。K氏のやることは一事が万事だった。
 僕がK氏と初めて知り合ったとき、僕はまだ三十になったばかりだった。ちょうど一回り年齢が上のK氏はとても頼もしく見えた。そして、何よりも仕事を楽しんでいるように見えた。だからこそ、「どうせばたばた働くんやったら、おもろい仕事のほうがええやん」というK氏の言葉に乗ってしまったのだった。
 K氏が僕に持ちかけてきた仕事は、大失敗した沖縄リゾート計画を数万倍小規模にした話だった。
「わが大阪が誇る有名建築家を招聘して、いまだ大阪市内に残る古くさい長屋のあるエリアをネオ長屋として再生するんや」
 どこかで聞いたことのある話だと、どうして気づかなかったのか、と、今でこそ思う。しかし、当時は画期的な話だと思ってしまったのだった。僕は一も二もなく「手伝います」と手を挙げ、K氏に翻弄される日々の幕開けを自ら宣言してしまった。もちろん、K氏はわが大阪が誇る有名建築家ともまだ知り合いではなかったし、再生する長屋エリアというのも、どこかの雑誌で聞きかじってきた話でしかなかった。
 僕がK氏と一緒に動き回っていたのは一年に満たない時間でしかなかった。最終的にはなにも形にできず、時間もお金も失ってしまったけれど、あの一年間はとても楽しかった。最後の最後に大喧嘩をしてK氏のもとを去った僕だが、三十代の最初に、K氏のようないい加減な山師と仕事をしたことは、いい経験になったと今になって思う。
 一緒に仕事をしていた頃、というよりもK氏の使いっぱしりのように毎日を過ごしていた頃、こんなことがあった。
 ある会社の社長と面談していた時のことだ。ネオ長屋計画への融資を頼んでいたのだが、融資を渋る社長にK氏はこう言ったのだった。
「わかりました。結局は、自分の会社がよかったらいいんですね。僕らが地域のためを考えて動き回っている。社長はそのことを笑ろてはるんです」
 そんなことを言われて、相手の社長も黙ってはいられない。
「なにを言うてるんや。君らのことを笑ろたりはしてないがな」
 横で見ていて、僕はキツネに摘まれたようだった。自分たちの計画に説得力がないだけなのに、自分たちのつたなさを相手が笑っているという妙な話にすり替えている。しかも、そう話しているK氏がどう見ても本気としか思えないまっすぐな視線で訴えると、相手は最後の「笑ろてはるんです」という部分にだけ反応してしまうのだ。僕はK氏と一緒にいる一年ほどの間に、そんな場面に何度か遭遇した。
 K氏は人たらしだった。
 何人がK氏にたらされてしまったか。しかし、不思議なことにK氏の人たらしは続かないのだ。長くても一年。短ければ数週間のうちに、相手はK氏のことを罵倒し始める。最初に信じれば信じた分だけ罵倒の言葉は激しくなり数が増える。
 ネオ長屋計画も元々誰かがとっくに手を着けていたものだし、その規模からいってK氏の手に負えるものではなかった。こうして、K氏の企てはことごとく崩壊していく。
 ただ、これだけは言っておきたいのだが、K氏は底の浅い人たらしではあるが、人をだますつもりはこれっぽっちもないのだ。真剣に考え、真剣に動き、真剣に人をたらし、真剣に風呂敷を広げて、その回収に失敗する。

 僕がK氏から離れたのは、ネオ長屋計画の少し後だった。計画崩壊後、K氏から「ギャラが払えないかもしれない」と言うことは聞いていた。かもしれない、ではなく確実に払えないということも僕にはわかっていたが、それでもいいと思っていた。僕はこの計画のために動いてはいたけれど、それは書類を作ったりアポを取ったり、書記をしたり、書類を申請したりしただけだった。計画のどこにも僕の名前は残されていなかった。つまり、責任をとる必要はないのである。
 責任をとらなくてもいいのなら、K氏がどのようにこの計画崩壊のあと行動するのか、見てやろうという気になったのだ。
 K氏の行動は僕の想像を遙かに越えて浅はかだった。K氏は馬鹿正直に自分を罵倒する人たちに電話をかけ、さらに罵倒の言葉を引きだし、奇跡的に面会の約束がとれた相手と会い、時には殴られる寸前まで相手を怒らせた。なにも、怒らせる言葉を吐いているつもりはないのだが、怒っている相手に真剣に、丁寧に謝ると言うことは、ときに、さらに相手を怒らせることになるのだ、ということを僕は初めて知った。
 この人には情がないのだと僕は思った。行動力もあり、それなりに洞察力もあるのだが、自分を信頼してくれた人に対しても、効率でものを考えてしまうのだ。そうなると、K氏が車に対してもっている信条と彼の行動の軸が違っているような気がしてきたのだが、その理由はやがて解けた。
 K氏が付き合っていた女性がいた。K氏よりも七つ年下だったので当時三十代の前半だったと思うのだが、毅然としていて押しの強い人だった。ナナミさんとK氏は呼んでいたが、それが名字なのか下の名前なのかは知らない。そのナナミさんがK氏の代わりに僕を迎えに来てくれたことがあった。「難波の駅前のロータリーのとこにおってくれるか。あと三十分で迎えに行くから」とK氏に言われて待っていたのだが、現れたのはナナミさんだった。
 K氏が乗り回していた古いシトロエンはナナミさんの車だったらしく、運転しながらナナミさんはシトロエンの運転席にある妙なボタンについておもしろおかしく説明してくれた。そして、K氏が待っている喫茶店の近くまで来たときに、K氏が僕に言ったことと同じ言葉を投げかけてきたのである。
「車って乗る人の趣味がわかっちゃうから、大切に選んだほうがええと思うの」
 同じことを言っているのに、ナナミさんの言葉は僕の気持ちの奥の方に優しく落ちてきた。そして、その言葉の持ち主がK氏ではなくナナミさんなのだということがわかってしまったのである。
「そうですね。このシトロエンはナナミさんに似合うてます」
 僕はそう言ってしまってから、とても生意気なことを言った気がして黙り込んでしまった。ナナミさんはそんな僕を見て笑っていた。やがて、車が喫茶店の前に到着して、ナナミさんは車をとめた。僕が降りようとすると、ナナミさんは呼び止めてこう言った。
「ねえ、あの人に言うといてくれる。この車、もう貸さへんからって」
 僕が振り返ると、さっきよりも大きな笑顔をナナミさんは見せていた。
「けど、車がなかったらK氏は困るんとちゃいますか」
 僕がそう言うと、ナナミさんは、うーん、と言ったまましばらく黙った。そして、顔を上げた。
「でもね、なんぼ乗っててもあの人、この車に似合わへんねんもん。そんな人に乗られてたら、車がかわいそうやわ」
「そうですね」
 僕が答えると、ナナミさんは手を振ってアクセルを踏むのだった。

 僕はそのまま喫茶店には入らずに、地下鉄の駅まで歩いて自分のマンションに帰った。そして、その日のうちに荷物をまとめ、K氏からもらったままになっていた僅かな報酬で、東京へと引っ越したのだった。
 あれから十数年たって、僕は以前、K氏が勤めていたのと同じような中堅の総合商社で仕事をしていた。中途採用でもいいよ、と言ってくれた社長のもとでそれこそ真面目にこつこつと仕事をしてきた。K氏を反面教師のようにして僕は仕事をしていた。今の会社の社長は、手堅く仕事をまとめていく僕をきちんと評価してくれている。
 僕は注意深く、K氏のように大風呂敷を広げないようにして、K氏のように必要以上に人から期待されることがないようにできる限り冷静に仕事を進めていく。そうすることで、相手の期待を裏切って罵倒されるような状況を避けてきたのだ。そして、何よりもK氏のようにならないために、相手の気持ちを真っ先に考えて仕事を進めてきた。
 この仕事が好きか嫌いかと聞かれたら、答えは好きだと思う。しかし、これが唯一なのかと聞かれると正直、気持ちは揺れてしまう。逆に、K氏はきっと商社マンのような仕事が大好きだったんだろうな、と思う。情もなく、人から罵倒されても仕事が続けられるのは、きっと仕事が好きだ、という一点突破しかないと思うからだ。それなのに、大好きな仕事から、いつも「嫌いだ」と宣言されてしまうような結末になるのはなぜなんだろう、と僕はときどきK氏を思い出していた。そして、最近になって、ああ、それでも仕事が続けられるように、K氏には情がないのか、と思うようになったのだった。

 インターネットは苦手だった。それでも、今の世の中で仕事をする上でまったく使わないという訳にはいかない。会社の中にも情報ネットワーク部門という課ができた。コンピュータネットワークを保守管理するだけではなく、若い社員を使って、社内のネットリテラシーを向上させるのだと言う。社員一人一人がメールアドレスを持っているだけで充分だと思うのだが、SNSでアカウントを持つようにと促された。いまのネットで多くの人たちが何をしているのか、自分たちの目で見てほしい、ということだった。
 僕はなんとなく抵抗してきたSNSのアカウントを業務命令で持つことになった。そこはとてもお節介な世界で、システムが「これがあなたに向いている」と勝手にショッピングサイトに誘導する。「この人はあなたの知り合いに違いない」と写真とプロフィールを見せつけてくる。その数多くの写真の中に、僕はK氏を見つけたのだった。
 僕がK氏を見つけたということは、K氏も僕を見つけたということで、その日のうちにK氏からSNSの友だち申請が来た。なんとなく小さな小石を腹の中に置かれる気分で、承諾のボタンをクリックする。これで、十数年の時を越えて、僕とK氏はSNS上では「友だち」である。それだけでも、僕にとってはかなり激動の数日間だった。仕事をしながら、勝手にK氏のことを良くも悪くも反面教師として時折思い出す、という穏やかな日々を手に入れるまでには僕だってそれなりに時間を必要としたのだ。それがたった数日で、K氏がネットを介して具体的な存在として再び僕の前に現れたのである。
 翌日、僕はデスクのPCの電源を入れた。いつものように、その日の業務計画書の項目に記入していると、昨日インストールしたばかりのSNSの通知ボタンが点滅している。クリックするとK氏の写真とコメントが現れた。
「申請の承認ありがとうございます。久しぶりですね。急ですが今日、東京へ行く用事があるのですが久しぶりに会いませんか」
 僕はコメントに目を通しながら、K氏の声色まで思い出してしまう。そして、返事を保留したままで昼食を食べ、午後からの営業途中にコーヒーショップで休憩しながら、携帯電話でもう一度K氏からの通知を眺めた。そして、今なら昔話のようにあのころのことを話せるのではないかと思うようになったのである。
 とは言いながら、今日の予定を承諾するには夕方近くになっている。今日の夕食を食べるくらいならいい。それも、夜中にまではなりたくない。
「親族の法要の準備で、午後十一時くらいには赤羽に行かなくてはなりません。午後十時くらいまでなら時間があります」
 僕はK氏にコメントを返した。携帯をポケットにしまうまでに、返信があった。

 ギリギリまで話せるように、とK氏は言い出して、赤羽の駅の近くで僕たちは待ち合わせをした。配送の仕事でもしているかのような、飾り気のないワゴン車でK氏は現れた。服装は以前と同じように地味そうで派手な、いかにもK氏らしいものだった。
 二時間ほど僕たちは一緒にいたのだが、ずっとK氏が話続けていた。以前は、K氏がひとしきりはなすと、「君はどう思てるの?」と僕の返事を促し、その返事の内容がどうであれそのまま持論を展開して、その持論がひとしきり終わると、再び僕に「君はどう思てるの?」と聞く、ということの繰り返しだった。
 しかし、十数年ぶりにあったK氏はずっと一人で話続けていた。僕に問いかけることもなく、僕の返事を待つこともなく、ずっと一人で話続けた。僕は途中からK氏が何をはなしているのかわからなくなった。最初は以前一緒にしていた仕事の話だった。だいぶ、仕事の規模が大きくなっていたし、失敗したことよりもうまくいった部分が華美に飾りたてられていたけれど、K氏は概ね事実に裏付けられた思い出を語り続けた。途中からK氏の話は僕が去ってからの話になり、そこでは僕が想像もしえなかった成功があり、明るく希望に満ちた人物たちが登場して、みんながK氏を慕い尊敬し従っていた。
 しかし、そんな話をするK氏の瞳はとろんとしていて、明らかに正常ではなかった。僕はおそらく知らず知らずの間に、痛々しい視線を投げかけていたのかもしれない。僕が気が付くと、K氏は黙って僕を見つめていた。
 いつ頃からK氏が僕を見つめていたのか。口を閉ざして黙り込んでいたのか。僕にはわからなかった。しかし、だいぶ長い間、僕はK氏を呆然と眺め、K氏は黙りこくりながら僕を見つめていたのだろう。
 騒がしい居酒屋の中がしんと静まりかえったような気がした。背中を冷たい汗が流れた。K氏が小さく口を開いた。何を言われるのか、僕は一度瞬きをしてから、意を決したようにK氏を見つめ直した。K氏は少し微笑みをたたえた唇をわずかに動かして言葉を発した。
「うちの猫は言葉を話すんだよ」
 K氏はそう言って、テーブルの上の食べ残しの料理に視線を落とした。そして、そのまま一言も話さなくなってしまった。
 僕は返事をすることもできず、K氏と同じようにテーブルに視線を落とした。僕たちのテーブルがしんと静まりかえるのと同時に、隣のテーブルの話し声が大きくなり、僕たちを包んだ。中年の男が一人とその部下らしき男女三人ほどが身振り手振りを交えて話し込んでいる。一人だけいる女が、私は猫なの、と言う。いや、お前はどちらかと言うと犬だよ、と男たちが言う。だって、恋人ができても尻尾を振ったりしないもん、と女はふてくされたように口をとがらせる。その様子を見ながら、いちばん年下らしき男が、猫は自分のことをそんなふうに主張しないと思うよ、と言うとその場は大きな笑いに包まれた。
 そんな会話を聞きながら、ふと視線をK氏にあげると、K氏は唇を噛みしめていた。僕はいたたまれなくなって、隣のテーブルの女を見た。女は大きな口を開けて笑いながら、次の話題を待ちかまえているのだった。(了)

緋寒桜のひよどり

くぼたのぞみ

窓のむこうの緋寒桜が
鮮やかなコートをはおって
枝を広げる三月
見れば その奥でさわさわと
空へ飛び立とうとするユキヤナギ
曇天に鳥の声がくぐもり
それを 不整脈が追いかける
毛羽立つ五度目の春に
血液ポンプも悲鳴をあげて
汚染水を処理しかねているのだろうか

昨日みた夢に
めったに音沙汰のない兄が出てきた
二年前の雪解けに逝った
母もぼんやり姿をあらわし
記憶の底に縮む父の影も動き出して
わたしが生まれる半世紀前から
先住人を見えない存在にして
開拓された村の地をはう視線と
掘り尽くされて
すでに閉山した炭鉱の荒くれと
兄と妹がこの世に生まれ出ずる
きっかけとなった大正生まれの親たちの
敗戦後の心の散らかりと
そんなもろもろを牽引した北の歴史
などと手持ちの札をあれこれ整え
脈絡を立てるために
奮闘努力の日がくれる

悲嘆も歓喜も抗いも
思い切りぶちまける斬新な文化の
批判とひたむきさが
破綻した物語の穴かがりは
思いのほか手間どり
耳にした記憶の断片に爪を立て
植民史のかさぶたを剥ぐ作業となって
およそ死者たちをハグするところへ
たどりつけない

それでも
ひよどりがやってきて
今日も緋寒桜の枝を揺する
風が揺するのではなく
鳥が揺する枝を目にすると
なぜか心がやすらぐのだ
鳥啼き魚の目に涙があふれるなんて
思いもよらない北の外地をうろつく心は
寒風が残雪の肌をなでる
薄汚れた白と黒と暗褐色の異界のさなかで
巣を守るシマフクロウの影と
二年前に逝った母の姿が重なり
目の前を行き交う
メトロポリスの春にたどりつけない

それでも
やよい三月の空に
ひよどりが訪れて
悲観桜の枝を揺すると

 またやってきたからといって
 春を恨んだりはしない
 例年のように自分の義務を
 果たしているからといって
 春を責めたりはしない
  
というシンボルスカの「眺めとの別れ」
も思い出され
ひよどりが揺する
大きな枝のその揺れが
この胸のざわめきを解毒して
ひよどりが啼く
今日も ひよどりが啼く

手は型を崩しながら動く

高橋悠治

楽器に触れる手が動いて響きの跡を残す 手が空中に描く線がすぎていくだけでなく その痕跡が響きの形として区切られるほどの長さになれば 音のかたまりがまずあって 時の経つにつれて変化していくようにも感じられるだろう 偶然に触れた位置や空間が記憶に残るのは 動きの痕跡が身体の上に動きや方向として あるいは感触としてしばらくは感じられるからかもしれない  

眼がさめてからしばらくじっとしていると 外の音が聞こえる それとは別に 輪郭の定まらない音のイメージになって身体の上を行ったり来たりしている 動きがしずまって 形が一瞬見えるときがあれば それを記憶にとどめようとはするものの しばらく後で書いておこうと思っても もう形が薄れている 

三味線を習っていた頃 『旋律型研究』(町田佳声)や『大薩摩四十八手』を研究したことがあった 17世紀のバロック音楽でもmusica poeticaといわれた音の絵(figura)があった テクストの内容を音の動きで伝える型あるいは手があるから 音楽は聴き手とあまり離れないところにあったのだろう

音楽が個性的表現や 抽象構成とみなされるようになると 音型のレトリックは表面から消えていった それでも意味が感じられる音の動きには 型や手に似たものがある 文化や歴史に裏打ちされた音のパターンが共感を呼ぶのかもしれない

20世紀後半の音楽の最先端は1950年代の音列技法の全面化から1960年代にミニマリズムに移った 知的で複雑な抽象構造は 単純なパターンを反復しながら すこしずつ細部変化をつみかさねるスタイルに変わった そこで作曲は 全体像と素材になる音響の組合せのあいだを理論やシステムをたよりに往復する知的作業ではなく 最初に決めたパターンを反復しながら細部を取り替えていくコントロールの持続力に力点が移る 反復できるようなパターンは 伝統的な型と似ている部分があったとしても 具体的な身体運動や象徴的な意味を打ち消すような動きをそこに付け加えて 持続し蓄積する以外の方向や特徴をもたないように処理した抽象図形が好ましいと言ってもよい

作品からプロセスへの変化は あまり時間をおかないうちに ミニマリズムのエネルギーを使いつくしてしまった ミニマリズムのパターン反復は アフリカや東南アジアの伝統音楽のように 即興を含む参加のプロセスではない 地域社会の生活のなかの役割を 芸能を通じて確認するものでもない 手や音の動きを数量で置き換える省略法を使って 旧植民地文化から採ったパターンを囲い込み 音楽市場に個人様式として流通させると パターンのなかに潜む可能性をじゅうぶんに発展させる前にトレンドとして消費してしまう という事情もあったのではないか

定石のパターンから文化的・歴史的意味を剥ぎとって抽象化するのではなく バロック期や江戸時代の音楽のレトリックを参照しても 当時使われたパターンではなく いま身体運動的イメージ図式として使えるようなパターンを即興で作り その音の動きを分析して構造を割り出し 組み合わせた構成を考えるのではなく 別なパターンと出会うたびに次の一歩を踏み外し そこから予測しなかった動きが生まれるのを見逃さないようにして 続けていく それが作曲・演奏・即興と分かれている音楽創造の作業を一つにする 音楽家のしごとの日々の あるすごしかたでもあるだろう

手は経験をつむと 踏み外すこともできるようになる 動けばそこにある形は崩れるが 形が崩れると それにしばられず動けるようになり それとともに形の痕跡は 色褪せながら予想外の余韻を残していくのかもしれない

仙台ネイティブのつぶやき(11)5年目の畑で

西大立目祥子

 東日本大震災から、5年がたつ。早いものだ。
 最初の3、4カ月は、時間の経過がひどく遅く感じられ、何年もたった気がしたものだ。あれはどうしてだったのだろう。あまりにいろんな信じ難いことが起きたからか。いま、もう5年たったんだ、という思いで眺める被災地は、決していい状況とはいえない。ボタンを掛け違ったまま見直すことなく事業は進められ、大きな間違いをすることになるのではないかという不安がつきまとう。特に、三陸は。
 でも、仙台だって、災害復興住宅が立ち、平成27年度で復興事業は打ち切られのだけれど、そこで置き去りにされていく人や課題は山ほどある。むしろこれからの方が、課題や問題があらわになっていくような気がしている。

 3月11日が、まためぐってくる。そう感じるのは、1年で最も寒さのきびしい1月末から2月をしのいだあと、すこしずつ高度を増し明るくなっていく日差しの中でだ。カレンダーをめくり頭で感知するのではなくて、あたたかくなっていく気温や日の光に体が感応する。季節のめぐり、つまりは天体の動きに、生きものとして反応しているということなのかもしれない。天文好きだったら、夜空の星の動きに3月11日を思うだろう。あの日の夜は、満天の星。あんなに美しい星空はあとにも先にも見たことがない。

 4月に入って、道端の雑草が花をつけ始め、桜が咲き始めたときは、ひどく不思議な気持ちで眺めていた。オオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ…春になると真っ先に開く小さな花が、約束を破ることなく変わらない姿を見せ、そして桜が満開になった。こんなにひどいことがあっても、花は咲くんだ。そんな気持ちで枝先の桜を見上げた。植物の存在に感じ入ったし、なぐさめられもした。草も樹々もすごいなあ。それは、人をなぐさめるだけでなくて力を与えてくれるものなのだ。

 大きな被害を受けた仙台の沿岸部には田畑が広がり、いまは専業農家ではなくても代々、米や野菜をつくってきたという人たちがほとんどだ。震災から3カ月を過ぎたころからいままで、集落をまわりいろいろな方たちから話を聞いてきたのだけれど、そこで出会った人たちは生きる証を求めるように畑に向かっていた。

 仙台市の東南部、藤塚に暮らしてきたWさんは、大津波で自宅を失ったというのに、3か月が過ぎ避難所を出て借り上げ住宅に入ると、住まいのあった場所にジャガイモの種をまいた。土ではなく、大津波が運んだ海砂の上で、かたわらには貝殻が落ちていた。驚いたことに、ジャガイモは芽を吹いた。「砂だし塩害もあると思ったけど、出てきたんだよ」と指差す先には20株ほどのジャガイモが青々と育ち、伸びた茎の先に花もつけている。少し離れた砂地の上には、ハマボウフウが蘇っていた。「俺の家の跡だってわかるのは、この丸い井戸枠があるからなんだ」といいながら、Wさんは小さな花を見つめていた。

 同じ集落のMさんは、やはり同じようにすべてを流されたあと、畑の土の天地替えをして野菜づくりを再開し、夏にはトウモロコシ、トマト、ナス、秋にはキャベツや小松菜をつくっていた。「借り上げ住宅にいるんだけど、マンションのちっちゃい部屋に何もしねでいるって、おかしくなりそうになるんだよ。だから、がれき撤去されたあと、すぐに通い始めて畑やるようになったんだ。塩でだめかと思ったけど、案外いいんだ。直売所に持っていったりしてんだよ」。あの日、乗って逃げたという軽トラ1台だけが手元に残った。その軽トラが暮らしを支えていた。

 Mさんのように話す人は少なくない。「狭い部屋でおかしくなりそうだ」「仮設にこもってたら、気が違いそうだ」ということばを、何人から聞かされただろう。中には「毎日やることがなくて、狂いそうだ」という人もいた。多くは年配の男性だった。サラリーマンとして生きてきた人でも、沿岸部の人たちは土に親しんできている。そして作物を育ててきている。土から離れることの不安感、その切羽詰まった感情が、おかしくなる、気が違う、気が狂うということばにあらわれていた。

 Mさんは見事に育ったキャベツやブロッコリーを持たせてくれた。青々とした見事な実りは、へし折れた電柱や家の土台を多いつくす雑草や倒れた石碑が広がる荒れた風景の中で、とてもあたたかでなぐさめに満ちているように思えた。

 いつだったか、山形県の最上地方の専業農家の男性が「百姓やってて何がいちばんうれしいかって、種まいて日がたって、土の中からぽっと小さい芽が出たときなんだ」といっていたのを思い起こす。土に働きかけ、手間ひま惜しんで手入れをし、そうすれば必ず応えてくれる作物の愛おしさ。何もしゃべってはくれないけれど、手をかければかけただけ必ず返してくれる健気さ。
あらゆるものを失って、中には家族の命まで失ってしまった人たちは、畑の中の小さな、でも力を潜ませている緑に向かいながら、じぶんを取り戻そうとしているのかもしれない。

 いま沿岸部では、農地の集約化、大規模化、法人化が進められ、砂ぼこりを上げるトラックが引きも切らない。私に気が違いそうだともらしてくれた人たちは、そこでは埒外にいる。小さな畑はつぶされていく。農業を産業としてだけとらえると、人が土に向かって働きかけて生きてきた初源の感情や多面的な価値はたぶん失われていくだろう。小さな畑をあちこちに、生み出すことはできないのだろうか。

古い8ミリ・フィルムのように

若松恵子

片岡義男さんの新作『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』が2月20日に光文社から出版された。編集を担当した篠原恒木さんによると、「レコードを媒介にして、ご自身の物語を書いていただけませんか。それも時代を区切って、20歳から作家デビューするまでの期間で」というリクエストから本づくりが始まったという。

片岡さんが1974年に『白い波の荒野へ』で小説家としてデビューする前、1960年から1973年までのフリーランスのライターであった時代を、その頃ヒットした音楽(ドーナツ盤)とともに振り返る物語だ。片岡さん自身と思われる「僕」を主人公に、44編の短いストーリーが編まれている。

「著者初の自伝小説」という宣伝文句を見た時は「おお!」と思ったけれど、これまでのように、小説のなかに見えている以上に片岡さんが見えるということはなかった。それで私には充分だったのだけれど…。

音楽と共に語られる物語の読後は、不思議と静かだ。ストーリーひとつひとつは、ある時の印象的な場面が切り取られたものだとも言える。「1月1日の午後、彼女はヴェランダの洗濯物を取り込んだ」の1編は、きっと多くの人が好きだというだろうな。家族を撮影した昔の8ミリ・フィルムのように、光に満ちて、平和で温かな読後感をもたらす。

この静けさは、主人公の僕が寡黙だからだろうか。全編を通じて主人公のモノローグなど出てこない。相手とかわす、短い会話文のなかの率直な返答と、描写される行為のなかにしか、主人公を知る手掛かりは無い。あるいは、1960年代という時代への遠さがそう感じさせるのだろうか。赤電話、都電、編集者に直接手渡す手書きの原稿……。今は失われてしまった物たちも、ストーリーに効果的に作用している。

『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』は不思議な魅力をもった1冊だ。

かつて、片岡さんに60年〜70年代の頃の話を聞いて、インタビュー記事にまとめた事があった。あのインタビューから5年たって、あの時代についての物語がこのような形で届けられたことに、うれしさと新鮮なおどろきとで胸をいっぱいにしている。

しもた屋之噺(170)

杉山洋一

この二日ほど雨が降りしきっています。朝、日が明けるのはずいぶん早くなって、寒も緩んできたと思っていましたが、またストーブを点けて今月の日記を書き出しています。

 2月某日
国立音楽院にてドナトーニ歌あわせ。2階の教室を訪れるのは本当に久しぶりで、学生時代を思い出す。あの頃と比べると学校はずいぶん綺麗になった。入口で身分証明書を提出し訪問許可証を受け取る辺りに、世相が反映。

初めて歌手4人に会うと、アジア人3人にイタリア人1人。アジア人のソルフェージュ能力は、やはり総じて高いのか。台湾出身でコロラテゥーラのシャオペイは、4人のまとめ役で、とても難しい パートを軽々とこなす。台湾の地震の話をすると、家族は大丈夫と微笑んだ。韓国出身のスヤンは、歌うときの堂々として輝いているが、練習に際してはとても丁寧で感心する。勢いだけではない。第3ソプラノのミキは、内声の複雑な部分をとてもよく読み込めていて、安心して任せられる。アルトのヴィットリアの声色は、豊かで説得力がある。彼女の声を聞いて、何となくドナトーニが一人アルトを加えた理由がわかる気がした。
音とりを確認し、フレージングと声部の絡みを読み返しながら、テンポや強弱、息継ぎの箇所などを決めてゆく。演奏困難なパートで、学生には無理ではと皆心配していたから、ソルビアティやマンカも最初の練習にやってきたけれど、彼女たちの能力の高さと、吸収力のはやさに舌を巻いた。秋には、ゴルリが「アルフレド・アルフレド」を国立音楽院で上演するけれど、彼女たちがいれば安心。

ドナトーニでこれほど自然なフレージングの曲は他にあるだろうか。人生の終焉近く、それまで自身の音楽への参加を頑なに拒んだ彼が、漸く自分に優しさを見出したのか。流れるような曲線のフレーズと音の呼吸。それは時として途方もなく長い息を描くが、以前と違って持続ではなくフレーズと知覚される。音細胞を展開、蓄積し、連鎖させた持続を捨て、直感的にさらりと音楽そのものを描いた。

 2月某日
イタリア放送響コンサートマスター、ランファルディが、オーケストラに交じって弾きながら学生たちにさりげなくアドヴァイスをしてくれる。この数日、彼は毎日早朝トリノから車を飛ばしてやってきている。休憩中、ずいぶん彼と話し込む。特に印象に残る指揮者で日本人は大野さん。あとはデ・ブルゴスやプレートルの名前があがる。プレートルは決して分り易くはないが、生み出される音楽の素晴らしさに圧倒されると繰り返す。火の鳥冒頭のクラリネットやファゴットの音型を、尖った嘴のように突いて見せてねと笑った。

初めて会ったとき、ランファルディはいわゆる上手な指揮者の話をしてくれたが、胸襟を開いて親しく話すようになると、音楽の素晴らしい指揮者の話になる。それは、わかりやすさでも、人柄のよさとも、もちろん聴衆の人気とも違う部分での信頼関係。ランファルディはミヨーを大嫌いだという。「屋根の上の牛」をどうしても弾かなければならなくて、それ以降ますます嫌いになったらしい。

 2月某日
酷い雨のなか、ドナトーニのクライマックスで使うホイッスル式サイレン3つを買いに朝7時の電車でロヴァートへ出掛ける。明日最初の本番を控えていて、昨日になってサイレンがどこにもないと電話をうける。イオニザシオンで使う、手回しサイレンが一つ用意してあったが、これでは書かれている箇所で演奏できない。長年のイタリア暮らしで、任せておいて後悔するのは厭だと、ちょうど今日のリハーサルが午後からになったので、自分でブレッシャの「カヴァッリ楽器」でサイレンを買うことにした。ロヴァートに8時半過ぎに着いてみると、この街にはタクシーはいないと言う。駅で教わった個人タクシーの電話番号は通じず、インターネットで検索したハイヤーを頼んだが、当初30分と聞いていたベンツは、1時間半経ってやってきた。

 2月某日
学生と卒業生混成オーケストラとは言え、「火の鳥」やドナトーニが出来るか不安だったが、練習を始めると想像以上の吸収力におどろく。オーケストラに参加したくて、オーケストラを学びたい若者が集っているのだから、当然でもある。一つずつ説明しなければならないけれど、説明されたくてうずうずしているオーケストラというのも面白い。「火の鳥」やミヨーは兎も角、ドナトーニやチュルロなどの現代作品でも楽しそうで、練習が終るとみな口々に旋律をハミングしながら散ってゆく。ドナトーニも喜んでいるに違いない。

今でこそガッティとマーラーをやったり、彼らのレパートリーの幅もすっかり広がったけれど、3年前まではベートーヴェンかシューベルトの交響曲でも青息吐息で、とヴィオラ科教授のタレンツィが誇らしげに話してくれた。学校あげての再生事業が功を奏したということ。

 2月某日
メルセデスのお宅で、シャルロットとファビオというフランス人とイタリア人の夫婦に会う。子供3人はフランス語で話していて、フランス人学校に通う。シャルロットはミラノ生まれのミラノ育ちだが、ミラノのフランス人社会はとても排他的で、ファビオと出会った時、シャルロットはイタリア語は話せなかった。ただ、在住フランス人がミラノを嫌いかというと、正反対だという。そんな話を聞きながら、自分と日本人社会について考える。長年ミラノに住む日本人の友人もいるが、切っ掛けがなくて日本人会に入りそびれたままで、日本人社会がどんなものか全体像すら分からない。

学校の帰り道、夕暮れの教会の鐘をききながら自転車を漕いでいて、20年前なら、こんな風景一つ一つに感動したに違いない。自らの感受性の鈍化におどろく。
時間を見つけては魔笛譜読み。アリアのオーケストレーションで、実にていねいに声が通るよう楽器を軽くしてあることに改めて感嘆する。どれだけ時間に急かされて書いたか想像すらできないが、全く手は抜かれていない。全体の構造の簡潔さ、対称性、使われている素材の類似性など、万が一にも作曲の効率も鑑みられていたのかも知れないが、それ以上に、全体の均整に対して絶妙に寄与する。

 2月某日
イタリア人のリッカルドとウルグアイ人のメルセデスと、スペイン語風イタリア語表現の話。
風邪をひく–buscarsi un
raffreddoreという表現があって、奥野先生の本で独習したから、大学に入る頃から知っていたが、使ったことも耳にしたこともなかった。聞けば、2世代ほど上のリッカルドの祖父母はしばしば使っていたと言う。
Taccaniの辞書によると、buscareはスペイン語の「探す-buscar」が語源で、同じく「探しもとめる」の意とあるが、「探し求めて風邪をひく」という表現は、どうも腑に落ちなかったが、リッカルドが分かり易く説明してくれた。
buscarsi un raffreddoreは、「わざわざ寒空の下薄着で突っ立っていたら、案の定風邪をひいた」の意味で、「自ら風邪をひいた。風邪を自ら探しにいった(è andato in cerca di un raffreddore)」の文字通りの意味だった。

同じくリッカルドが、床に臥せっていたメルセデスを、sembra che Mercedes si stia covando un raffreddore, と形容したのが、とても美しいと感心する。直訳すれば、「どうもメルセデスは風邪を抱卵している」、という言い回しで、covarsiは鳥が卵を温めるときに使う。今の若者はこんな深い言葉の使い方はせずに、単刀直入に「風邪をひいた」とだけ云う。リッカルドと奥さんのカルロッタと話していて、世界で最も直接的かつ綜合的、普遍的な言語は、Veni, Vedi, Viciのラテン語だという。彼らに言わせると、こんなカエサルの言い回しは邪道で、ラテン語の真骨頂はキケロだそうだ。普通に高校でラテン語を勉強する国は、ヨーロッパでもイタリア以外あまりないときいた。

(2月29日ミラノにて)

不思議の国の本屋さん

大野晋

アリスは本屋さんの中をお散歩するのが好きでした。
深い深い本の森の中で、知らない本を見つけるのが楽しかったのです。
でも、アリスは思います。なんだか、本の森の様子がおかしいのです。

開店していないふりの森:
ある日、アリスが森を歩いているとその奥の方に新しい本が山のようにうず高く積まれているのを見つけました。まだ、箱から出して間もない本や箱の中に入ったままの本が本の森の奥の方の平棚の上にたくさん置かれていました。アリスは思いました。
「これは本屋さんが開店しているのでしょうか?」
もうお昼をずっと過ぎた午後でした。
「たぶん、開店していないふりをしているのね。きっとそうだわ」
その後、その本屋さんの奥には何週間も同じ本が置かれたままだったというのはまた後のお話です。

あちこちに置かれた本の小山:
ある日、アリスは本屋さんの森の中を歩いていました。すると、そのあちこちに平積みの本の上に、本の小さな山を見つけました。アリスは思いました。
「きっと、慌てもののうさぎさんが忘れていったのね。きっとそう。」
ところが、次の日も、その次の日も、その山は置かれたままです。しかもよく見ると大きな本屋さんのあちらこちらに同じような山が置いてあるのです。
「ずいぶんとたくさんのうさぎさんが忘れ物をしたようね」
ふと、その山を見てみると同じ本がたくさん積まれていました。
「さて、これは忘れ物かしら?それとも?」
その山はいまも置かれたままとのことです。

透明な本の宣伝:
ある日、アリスが本屋さんの中を歩いていると、お店の中でビデオから面白そうな本の宣伝が流れているのを見つけました。
「面白そうな本ね。買おうかしら?」
アリスはビデオの近くの棚を見回しましたがその本は置かれていませんでした。
「きっと、普通の本棚にあるんだわ」
アリスはその本の仲間が並んでいる本棚も探してみましたがその本は見つかりません。
「きっと、これは透明な本の宣伝なのね。きっとそう」
このお話には後日談があります。
アリスはおうちの近所の本屋さんでその本を買うことができました。棚にあったその本たち(実はその本は3巻まで出ていたのです)を抜き取ったアリスは思いました。
「きっと人気のある本よ。これでこの本屋さんには当分なくなってしまうわ」
ところが次の日、その本屋さんには抜かれたのと同じ3冊の本がきちんと補充されていました。アリスはあの透明の本が置かれていた本屋さんって、売る気があったのか不思議に思いました。

最近、アリスがお散歩するような本屋さんはどんどんなくなっています。最初は屋敷林や公園の植え込みのような本屋さんがなくなりました。それから、あちこちにあった少し大きなチェーン店がなくなりました。最近では、大きな本屋さんもなくなっていきます。
「わたしが散歩できる本屋さんっていつまであるのかしら?」
アリスはちょこんと首をかしげました。

136 閉館

藤井貞和

あたりの書架がまぶしかったから、
少年は、
中城(なかじょう)ふみ子歌集を盗み出した。
乳房を喪失する少年の図書館。
ぼくは自由の女神にさよならする。 「ノミ、
すら、ダニ、さへ、ばかり、づつ、ながら」。 
ああ、定型詩と「さよならだぜ」。
黒雲が覆う自由の女神、
かえらないだろう、ふたたびよ、
ぼくらの図書館に。 ノミ、
カエル、ヘビ、ダニが、
詩行から詩行へ跳躍する、
ぴょいぴょいのうた。
閉館。 光がとどかない館内に、
短詩をまた送っちまって。

(古いメモに、「なんという広津さんの思い隈〈ぐま〉。かくあるべきがほんとうなんですと、ナショナリストの推理作家の手を握り、広津さんは静かに泣いていたと、週刊誌が報じている。苦労したという直木賞作家の記事の傍らで」と。短歌から自由律へ向かう途中で、小説が光ったということだろう。『乳房喪失』〈一九五四〉は中城の歌集。広津さんは広津和郎。推理小説作家は松本清張。「ナショナリスト」云々はよく分からない。直木賞作家もだれのことか、わからない。松川事件の最高裁判決〈二審へ差し戻し〉は一九五九年八月。)

アジアのごはん(75)ラオス肉食旅日記

森下ヒバリ

ラオスのサイニャブリという町にやって来た。たまたま象フェスティバルの日だったので、メインストリートのゲストハウスは満員。でも、少しはずれた場所にあるホテルに何とか部屋を見つけることができた。ところが、ホテルの周囲に食べ物屋の看板が見当たらない。困ったな、ちょっと歩いて市場周辺まで行くしかないか、としばらく歩いているとラオスのビール、ビアラオの看板が見えた。

よろこんで店に入ると、どのテーブルも中央に穴が開いている。先客の様子を伺うと、皆なタイで「ムーガタ」と呼ぶ焼き肉鍋をつついている。あ〜、ムーガタの店かあ。焼き肉はわたしも連れもふつうは食べないのだが、どうしよう。食べられないわけじゃないが、肉食ではない二人なのだ。

ムーガタはちょっと不思議な形をした焼き肉の鍋で、平らな鉄板でなく、丸くて、ドーム状に盛り上がったアルミの鍋である。ドーム状の部分を下から炭火で熱して、肉をのせて焼く。そしてドームの根元というか周囲が溝になっていてそこにスープをいれて野菜を煮て食べるのである。肉を焼くときに出た肉汁はドームから溝に流れ込むので、スープはどんどん旨くなる。焼き肉だけど、鍋でもある。

昔、タイでムーガタが出現した時には、韓国式鍋と呼んでいたが本当に韓国にこんな鍋があるのか? いや、ありません。ムーガタがタイに出現したのは、25年ぐらい前、ちょうど、ヒバリがタイ東北部のコンケーンに住んでいた頃で、発祥地はコンケーンの南のコラートのようだ。日本に出稼ぎに行っていたタイ人が韓国風焼き肉と日本の鍋をミックスさせて考え出したと言われている。コンケーンにもさっそく店が出来て、友達のブンミーと食べに行った。いまやタイ全国で大人気のムーガタであるが、ラオスにも店が出来ていたとは。

焼き肉以外のメニューもありそうなので、とりあえず席に着く。隣のテーブルに、店の女の子が大きい炭の入ったバスケットを運んできた。真っ赤に燃〜える炭! タイのムーガタより迫力満点、炭火焼肉、といった趣である。半分は鍋でもあることだし、久しぶりにムーガタを食べてみることにした。肉の種類は、豚、鶏、牛肉、内臓ミックス。豚肉を選んで、ラオスのうまいビール、ビアラオを飲みつつしばし待つ。

皿に並べられた薄切りの豚肉、トレイに盛られたキャベツ、白菜、空芯菜、バジル、ネギ、クレソン、きのこ、春雨、卵、そしてインスタントラーメン! それからタイスキのたれに似た赤いたれ。にんにくと生トウガラシの刻んだの、マナオ(柑橘)の入った薬味セット。やかんに入ったスープ。これらがテーブルに並べられてから、炭火のバスケットが運ばれてきて、テーブルの穴にセットされ、その上に鍋をのせる。

鍋のドームの頂上に豚の脂身をちょんと載せて、鍋が熱くなるのを待つ。乾燥しているラオスの道をバスに揺られてきたので、ビアラオがいくらでも飲めてしまう。シンプルでうまいビール。さあ、肉をのせて、と。焼けるのを待つ間に溝のスープに野菜を入れていく。隣のラオス人は、最初からインスタントラーメンの袋を破り、スープの素まで溶かし込んで、乾燥めんを割って入れている。いやいや、うちは鍋奉行のヒバリさんがそんなん許しまへんわ。味の素てんこ盛りのインスタントラーメンスープの素なんか入れたらせっかくの肉汁入りのスープが台無しやんか。

薄い肉なので、すぐに焼ける。あ、やっぱりおいしいわ、これは。肉はあんまり〜、とつぶやいていた連れは立て続けに肉を鍋からはがしている。野菜も食べなさいよっ。やっぱり炭火のせいか、いや肉がうまいです、これは。野菜も沢山食べられるし、大満足。最後にインスタントラーメンの麺を入れてみたが、麺にもケミカルな味付けが付いていたので、これはやはりまずかった。

サイニャブリの外食事情はなかなか大変だ。象フェスが終わって、客がほとんどいなくなった市場の横のサンティパープというゲストハウスに引っ越したが、町の住民はほとんど外食をしないようで、昼はまだしも、夜になると営業している食堂・レストランというものがほとんどないのである。宿の斜め向かいに昼だけ出るおかず屋さんで、おかずともち米、串に挟んで焼いたスペアリブなどを買って宿の庭のテーブルで食べたりした。ふだんなら、けっして買おうと思わない脂身満載のスペアリブの串焼きであるが、めちゃめちゃおいしそうだったし、事実めちゃめちゃ旨かった。さすがに食べ残した脂身の塊は、少しかじったあと放ってやったら、それまで警戒心むき出しで近寄ると脱兎のごとく逃げていた茶虎猫が目をらんらんと光らせて飛んできた。

サイニャブリはメコン川からは少し距離があり、まわりは山また山である。市場では川魚も牛肉も、なぜか巨大なタコまでも売っていたが、とにかく豚肉の旨い町なのであった。あんまり豚肉のムーガタが気に入ったので、ムーガタの鍋をお土産に買って帰ろうかとちょっと本気で考えたほどである。

のんびり過ごしたサイニャブリを去り、タイの国境の町ケンタウまで戻って来たが、名残惜しいのでラオス側でもう一泊することにした。町でただ一軒、夜営業している食堂もムーガタの店だ。最後にあのおいしい豚肉をもう一度食べようと思ってムーガタを頼んでみる。しかし、国境の町の豚肉はごくふつうの味だった。炭火マジックも効かない。一皿が食べきれない。
国境からタイへ戻る乗り合いトラックバスに乗っていると、タイからピンクの豚を載せて走ってくるトラックとすれ違った。ああ、ラオスの国境の町の豚はタイから来ていたのだな。タイのバンコクに戻ってくると、ヒバリの肉食ブームは一気に終わりを告げた。バンコクで食べる肉は、あまり味がしないし、少ししか食べられない。豚の飼育方法やえさの問題だろう。タイの豚肉はもう、CPなどのアグリカルチャー企業に管理されて飼育されている大量生産に近い工業的な肉がほとんどだ。バンコクの不夜城のような街の光の下では、サイニャブリの郊外で走り回っていた黒い豚たちのおかげで短い肉食生活を楽しめたのが夢のようである。豚肉で満たされた後、暗い夜道をとことこ帰るサイニャブリの夜よ、またいつか。

ふるいひと

時里二郎

昨(さく)のお祭りが果てて
ひいなの箱には
わたしのひいなはいない
いつもそうするように
ふるいひとが わたしのひいなを連れて行った
箱の中で やみの服を着せるのはあんまりだから
ひいなの箱の開(あ)く日までと いい置いて
わたしのひいなを連れていった

ふるいひとは
花のみつでうたを溶かし
空をわたる鳥と交わす呼吸(いき)を風に変えて
わたしのひいなと 遠くで暮らした

ふるいひとは
ひいなを連れてもどってくる
あさいめざめのさかいをふんで
湧水(ゆうすい)のゆらぎから
あらわれるてのひらをさけながら

けれど
さきくさのさく季節になっても
ふるいひとは見えない

もうそろそろねと
おかあさんが納戸の押し入れを開ける日にも
わたしのひいなを抱いて
さきくさのかたわらを過ぎていったそのひとを
見なかった

けれど
納戸からおかあさんが出してきた
ひいなの箱には
わたしのひいなは
ちゃんと帰っている

昨のお祭りのあと
ひいなを仕舞うお手伝いをした ちいさな手の記憶の繭玉を
ふるいひとは やみの紙にくるんでひいなの箱に仕舞ったはず
それから
わたしのひいなを抱いて
さりぎわに
薄目を開けた小さなゆびと
《なしなししななし》
《なしなししななし》
なにもなにもわすれてしまうための
おまじないのゆびきりをしたはず

けれど
どうしてだかわからない
ふるいひとと なにもなにもわすれてしまうおまじないをしたのに
みんな みずのなかのことのように
おぼえている

けれど
ふるいひとのゆびも
ふるいひとのかおも
ふるいひとのこえも
おぼえていない

ふるいひとは見えない
わたしのひいなを抱いて
さきくさのかたわらにいても
わたしはもう見えない

さみどりの草のまだつめたい水の気配がする

(名井島の雛歌から)

天正壬午の乱とセノパティ

冨岡三智

NHKの大河ドラマ『真田丸』は、天正10年(1582年)の武田家滅亡から始まり、その3か月後に起きた本能寺の変後の信濃の混乱(天正壬午の乱)に至ったところ)2月末時点で)。この年代に何かひっかかるものを感じていたら、これがジャワでセノパティがマタラム王国を建国した年の1つだとされていることに気づく。なお、建国の定義や依拠する資料などによって建国年代はまちまちだが、だいたい1570年代から1580年代の間とされている。

セノパティは中部ジャワのパジャンの支配下でマタラムの領主となり、後にパジャンの王に代わってジャワの王となる資格を得る。3代目の王、スルタン・アグンの時代(1613〜1645)に最盛期を迎え、ほぼジャワ島全土を手中に収める。スルタン・アグンの時代はちょうど第2代・秀忠(在位1605〜1623)、第3代・家光(1623〜1651)の時代にだいたい重なっている。そして、家光が1636年に日光東照宮の大造替を手掛けて現在のように整備したように、スルタン・アグンも1643年頃にマタラム王家の廟を完成させた。ちょうど同じ頃、地方から出た領主が天下を統一して三代目にその地位を盤石なものとしたという点で、セノパティはジャワ版家康、と言えなくもない。

ただ、その後が違った。マタラムでは地方貴族の反乱、王位継承問題、オランダ東インド会社の介入などがあって、結局、1755年に王国は2つに分裂する。日本では元禄バブルも吉宗のデフレ政策の時代も終わって第9代・家重(在位1745〜1760)の時代だ。この、マタラム王国のすったもんだの時期が意外に長いことに驚く。この後継者争いで暗躍するのがオランダ東インド会社で、設立されたのは1602年、セノパティが死んだ翌年であり、江戸幕府が始まる1年前である。スルタン・アグンはオランダが商館を開設したバタヴィアを2度にわたって攻撃したが、その後継者たちは諸問題が起きるとオランダに支援を要請し、そのたびに王国の特権を譲り渡すようなハメに陥った。マタラム王国は分裂してスラカルタ王侯領とジョグジャカルタ王侯領となり、それぞれオランダ植民地支配下、一定の自治を認められて存続するのだが、こんなマタラム王国の歴史は果たして大河ドラマになるだろうか…と妄想してみる。

セノパティからスルタン・アグンまでの三代記なら、栄光に向かうので見るのも楽しそうだ。とはいえ、セノパティは歴史資料として実在が確定できないようなので、話はほとんど創作になるだろう。マタラム王国の公式”史書”『ジャワ年代記』では、セノパティの部分は神話的な脚色に満ちている。星の啓示を見たとか、瞑想していたら海が沸騰して、そこに海底に住む女神(ラトゥ・キドゥル)が現れて王を海底の宮殿に誘い…と浦島太郎のような話が展開する。これらのエピソードを入れると講談にはなるかもしれないけれど、大河ドラマとしてはリアリティに欠けすぎる。

資料で存在が確認されるスルタン・アグンの王以降の時代だと、内紛がめじろ押しの時代なので『真田丸』に太刀打ちできそうな話ができるかもしれない。けれど、どこでドラマを終わらせたら良いのだろう。マタラムが劣勢になっていき、最後は、暗愚のパク・ブウォノII世(と私が言うのではない、歴史研究者が言っている)によってマタラム王国がオランダ東インド会社に引き渡されるところで終わるというのも、あまり共感を呼ばない気がする。ただ、それを、ジャワ王家を調略するオランダ東インド会社の視点から描くと面白いだろうなとは思うのだが、オランダを倒して独立したという建国物語を持つインドネシアではその視点も受け入れてもらえない気がする。『真田丸』のように、現在の国家の枠組み内ですったもんだがある分には問題ないが、オランダだの華人だのが出てくると厄介だ。また、”マタラムは2つに分裂しましたがそれぞれ存続しました”というのも波乱万丈の歴史ドラマの幕引きとしては物足りない。文化史ならその先の時代がメインになる…。というわけで、セノパティの業績が歴史的にもう少し解明されてドラマを作れたら、やはりそれが一番面白そうだ。。

グロッソラリー ―ない ので ある―(17)

明智尚希

 1月1日:「おすすめの映画は、1991年公開の『みんな元気』だな。高校生の時なんか学校なんか行かずにぶらぶらしてた。新宿か銀座のどっちだったけなあ、確か単館上映だったと思う。リアリスティックなとこがいいね。作り物っぽくないとこ。ちなみにそれ見た翌日、新宿の昭和地下に行ってるからな。これもまた現実。わはは――」。

(▽⌒) ワハハ

 精神的な沈滞がひどい時、嫌がる四肢を動かして散歩に出る。血流が聞こえ、感覚の目覚めがあり、得体の知れない粒子、モナドが全方位から急速に肉薄してくるのがわかる。デュナミスを間近に感じる。エネルゲイアが見通せる。ここで知覚の扉を開放したままではいけない。我がものとするために、沈滞が始まった同一地点へ戻る必要がある。

ハァ━(-д-;)━ァ…

あっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあ
いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、い
うっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっ
えあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえ
おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおおお

∵ ゞ ( > ε < ; ) ぶっ

ぼんやりと思い出しても、老若男女を問わず嫌な輩がぞろぞろ現れる。上役の前でだけ大きな態度で不平不満をぶつけてきた同僚・教師、年上だという理由だけで誹謗中傷の限りを尽くした老人など。真剣に復讐を考えた。だが復讐するにしろしないにしろ、賢いのか愚かなのか知りようもなく手を束ねて、いずれぼんやりと思い出すことになる。

▄▄█▀█●

 1月1日:「本のほうは、そうだなあ、いろいろあるからなあ。映画より歴史が長いぶん、名作が多いんだよな。まあ同じくらい駄作も多いわけだけどな。ははは。古典もいいし現代ものもいいのがある。難しいね。でもまあやっぱり『グロッソラリー ―ない ので ある―』だな。なにしろ俺が出てくるからな。ちょっと読んでみるか――」。

((^┰^))ゞ テヘヘ

 孤独とは、他者の存在を意識しながら、自分の身体性と向き合うことである。孤立とは、他者の存在を意識することなく、自分の身体性とも向き合わないことである。独りとは、他者の中にまぎれこみながら、自分にささやかな称賛を送ることである。一人ぼっちとは、他者の中にまぎれこみながら、自分を好きでいられる心情のことである。

 (φ(。・c_,・。)…フムフム

[怒りのランキング]
第1位:「一回やっただけで彼女面すんなよ!」
第2位:「メール遅いんだよ!」
第3位:「おまえか、校長室の花瓶割ったのは!」
第4位:「そんなとこに自転車止めるなよ!」
第5位:「広がって歩くな!」

コラァ( ≧∇≦)ノ。°゜°。。ヘ(。≧O≦)ノ

 自分らしさを痛切に感じる時というのは、どうにもやりきれない。個性と言えば聞こえはいいが、それよりももっと個人的なものである。特に顔見知りの前で、自分でも重々承知している性向を外部化した時などたまらない。自分らしさの表出は取り返しがつかない。無言の冷笑を招く。この事態を避けるためにも、よそいき用の自分が必須となる。

(ノc_,・;)ハア・・・

 リンゴ病総裁が、スペインの牛追い祭りでテンプテーション。背面跳びを決めたかと思いきや、ふんどしいっちょでダルマ職人を目指すそうだ。悲しいレトリック。両手両足を精一杯広げて赤ちゃんプレーのまねをするが、証券会社の外交員はスラングばかりで営業しポルシェで帰社する途中、地球が回っていたのでバックしていた。どんとこい。

(≧∇≦)ノ彡バンバン!

 たわいのないこと。大抵の人にとっては、問題にもならない対象だが、作り手にとっては制作を促進する一つの大きな導線となり、どんなことを「たわいのないこと」とするかが発話者のあるいは自分自身を測る材料となる。したがって神経質にかつ鋭敏な人間にならなければならない。森羅万象がたわいのないことだということを念頭に置いて。

(ー`´ー)うーん

 まあどうしたのケンちゃんそんなに……とんまな顔して。

あはっ♪(^∇^*)*^∇^) あはっ♪

 まさに現時点において自分を客観視することは可能なのか。客観的に見ているといっても、見ている主体は自分であり、そこには当然ドクサが入り混じっている。ということは、誰しも客観的的にしか自分を見ることができないことになる。「第三者的に」「客観的に」という言葉には要注意。話者の本音が出る態勢が整ったことを意味するからだ。

σ(´∀`me)??

大きすぎるセーター

植松眞人

 彼女の着ているセーターが少し大きすぎるのではないかと思った。とても暖かそうだし、きれいな発色だし、ふわっとした綿毛で覆われたような質感も上品だし、すべてが申し分ないと思うのだが、少し大きすぎるのではないかと思った。
「そうかしら」
 彼女はそう言って、僕の部屋で鏡を探した。僕の部屋の鏡は洗面台にある薄汚れた鏡だけだ。彼女はそれを思い出したのか、玄関の脇にある洗面台のほうへ行く。
「そうかしら」
 今度は鏡に自分の姿を映しながら言っているらしい。
 洗面台にある鏡は、歯を磨いた後で、ちょっとしみるところが虫歯になっていないか確かめたり、ぼさぼさの髪の毛に水をつけて納めたりするときに使うものだ。彼女の全身を映し出して、セーターが大きすぎないか確かめるためには、少しサイズが縦に足りない。
 彼女がどんなふうに自分の姿を、いつもは顔しか映さない鏡に映し出す工夫をしているのかは、ここからは見えないけれど、しばらくすると、また彼女の声が聞こえた。
「確かに、少し大きいかもしれないわ」
 そう言うと、洗面台のほうからかさかさと服と服が擦れるような気配がする。
「なにをしているの」
 僕が聞く。
 僕の問いかけに、彼女は言葉では答えずに脱いだセーターを洗面台のほうから放ってよこした。
「なにも脱ぐことはないよ」
 僕が言うと、
「大きすぎるセーターを着ているのって恥ずかしいわ」
 と答え、髪を整えながら彼女が洗面台から戻ってくる。
「だから、大丈夫だよ。誰も気付かないと思う」
 そう言ってから、僕はそれは嘘だと思った。
「それは嘘だわ」
 彼女は僕が思ったとおりのことを言う。
「あなが気付いたのに、他の誰も気付かないなんてあり得ない。むしろ、あなたが気付いたくらいだから、世の中のほとんどの人が気付くくらいに大きすぎるんだと思うの」
「そうだね」
 そう答えるしかなかった。でも、だからって脱ぐほどだとはやはり思えなかった。
「だけど、脱がなくてもいいと思う」
 僕が言うと、彼女は笑う。さっき、大きすぎるグレーのセーターを脱いでしまったので、彼女は急にやせ細ってしまったように見えた。まるで、毛を刈られてしまった羊のように思えた。
「大丈夫。前にこの部屋に置いて帰った赤いセーターがあるから、あれを着ればいい」
 彼女はさっき脱いだ大きすぎるセーターを椅子の背もたれにかけると、僕の小さなクローゼットを勝手に開けて、赤いセーターを取り出して着た。僕はその赤がとても彼女に似合っていると思った。
「似合う」
 と僕はつぶやいた。つぶやいてから、でも、以前のほうが似合っていた、と思った。彼女が赤いセーターを着てきたのは確か、ちょうど一年前の今日、彼女の誕生日だった。二十代最後の誕生日を迎えた彼女は「もう若くないのよね」と言いながら、とても若くて見えた。そして、この赤いセーターはまるで彼女に着てもらうためにそこにあるかのように見えたのだった。
「似合うってなんだろう」
 と彼女がつぶやいた。セーターが彼女に似合っているのは確かだけれど、似合うってどういうことなのかは、僕にはわからない。
 それよりも問題は彼女がまだセーターの大きさを気にしているということだ。
 果たして今度は赤いセーターが自分のサイズにぴったりなのかどうか、彼女には確信が持てないようだった。
「似合うということは、サイズがぴったりということなのかな」
 彼女は僕に聞く。
「でも、さっきのグレイのセーターのほうが、君に似合っていると思うな」
「サイズが大きすぎても?」
「そう、サイズが大きすぎても」
 彼女はしばらく、自分が着ている赤いセーターと、脱いだグレイのセーターを見比べたり、さわってみたりしていたのだが、ふと手を止めると僕の前に座り込んだ。
「ねえ、本当にサイズが大きすぎても私に似合ってた?」
「うん。似合ってたよ」
 僕がそう言うと、彼女はぼんやりと椅子の背にかけられたグレイのセーターを見やった。そして、彼女は自分が着ている赤いセーターと椅子の背にかけられたグレーのセーターの両方に手をふれながら黙り込んだ。
「ごめん」
 僕が謝ると、彼女はしばらく黙っていたあとで言う。
「これから出かけようというときに、セーターが大きすぎると言われた人の気持ちなんて、あなたにはわからないわ。そして、その後に、別の赤いセーターを着て、似合うと言われた人の気持ちも絶対にわからない」
 そう言って彼女は僕をまっすぐに見た。
 確かに出かける直前に着ていこうと思っていた服のサイズがおかしいと言われたら、僕だって気分が悪いに違いない。
「ねえ、どうしたらいいだろう」
 僕が許しを請うように言う。
 そして、青く晴れ渡った春めいた休日に、どこにも出かけず、赤いセーターを着て、大きすぎるグレイのセーターをぼんやりと眺めていることこそが、彼女に似合っていることだとふいに思ったのだった。そのことに彼女も気付いたのか、彼女の口元が少し微笑んでいるように見えた。(了)

大人げない話(2)続・ばらまき土産

長谷部千彩

パリで暮らしていた頃、オデオンという駅のそばにアパルトマンを借りていた。セーヌ左岸、パリ中心部。サン・ジェルマン・デ・プレからサン・ミシェルへ抜ける道り沿い。観光客の多いエリアとエリアをつなぐ道は昼夜問わず活気にあふれていた。

フランスは美食の国といわれるが、それはそれなりの値段を払えば、という話。日本のように一食1000円程度でそこそこ美味しいものが食べられるとはいかない。外で食べれば少なくとも20ユーロ。にもかかわらず、大した味ではないのだから残念な国だ。となると、料理に興味のない私でも、在仏中はおのずとキッチンに立つ回数が増えていった。当然、スーパーマーケットへ足を運ぶ回数も。

サン・ジェルマン・デ・プレのスーパーマーケット、MONOPRIX(モノプリ)へは、週に一、二度、訪れていただろうか。既に、観光客の多い地区、と書いたが、その店では、しばしば日本人観光客に出くわした。お菓子の棚、スパイスの棚、お茶の棚。限られた時間に焦っているのか、棚と棚の間を足早に歩く彼らは、滞在中の買い出しではなく、大抵は手頃なお土産を探しに来ている。
それにしても不可思議なもので、日本人観光客は海外にいると、まわりに同胞はいないと思い込むらしい。とにかく声が大きいので、日本人の私に会話は筒抜けだ。

「これ!ばらまきにちょうどいいじゃん!」
背後から聴こえたその声に、その日も思わず振り返ると、新婚旅行中とおぼしきカップルが床にしゃがみこみ、棚の下段に手を伸ばしていた。女がつかんだ箱には、一回分のサラダドレッシングが入った高さ五センチほどのミニボトルが数本収められている。ふたりのやりとりを聞くこともなしに聞いていると、それをバラバラにして何人かに配るという算段。その思い付きに得意気な女。傍らで男が「いいね、いいね」と頷いていた。

確かにミニチュアボトルが可愛いといえなくもないけれど―。
私には、そのドレッシングに馴染みがあった。エールフランスのビジネスクラスに乗ると、食事の時に、塩と胡椒、彼らが手にしているサラダドレッシングの小瓶がテーブルに並べられるのだ。
―それ、渡す相手によっては、機内食で配られたものを流用したって思われちゃうよ?
心の中でつぶやいてから、余計なお世話だわ、と慌てて言葉を掻き消すも、私の心配をよそに、ふたりは値段を確かめて、籠にドレッシングの箱をドサドサと放り込み始めた。

それにしても―。
ばらまき土産という言葉が使われるようになったのはいつからだろう。10年前にそういった言葉は存在していなかったように思う。それがいまでは、女性向けのガイドブックでは、必ずといっていいほどページが割かれているのだから、一般的には「ばらまき土産」は完全に定着した言葉であり、慣習なのだろう。その証拠に、パリのスーパーマーケットで「ばらまき」という言葉が聞こえてきたのは一度や二度ではなかった。そして、その殺伐とした響きを耳にするたび、私はぎょっとして反射的に振り返ってしまうのだった。

かねてから、日本には、出張や旅行の後、みんなで分けられるようなお土産を職場に持って行くという慣習はあるにはあった。しかし、そのふるまいは、「気遣い」という、もう少し控えめなものだったはずだ。それがいつしか「ばらまき」と名前を変え、そのむき出しな語感に呼応するかのように、一段階、ガサツな物のやりとりへと落ちて行った。
あの「ばらまき」土産を受け取ったときの味気ない感じをどう表現したらいいのだろう。望まぬことに巻き込まれたようなもやもやした気持ち。釈然としない感じ。そんなやりとりをするぐらいなら、いっそ何のやりとりもないほうが潔よいとさえ思うだが、それは私だけだろうか。
その一方で、もうひとりの私がこう呟く。
―でもさ、「ばらまき」にしても気遣いにしてもやってることは同じだよね。配って歩くものにしたって、チョコレイトとかそんなものでしょ。ならば、「ばらまき」だろうが気遣いだろうが所詮は同じものじゃない?
確かにそうなのだ。それなのに、何だろう、このぬぐえない不快感は。ああ、悩ましき、ばらまき土産。それとも、こんな言葉ひとつに傷つくのは私が大人げないからだろうか。

戦場ヶ原の夜空

璃葉

戦場ヶ原の雪降る夜は 恐ろしいほど神々しく 寒かった
借り物のヘッドライトをつけて 暗い林のなかを進む 時刻は0時近く
電灯もなにもない樹々の奥は いくら目を凝らしても闇しか見えない
眠っている樹木を起こしてはいけないと言っているかのように 静寂が横たわる
風だけが通り抜けることを許されているような 

林を抜けると急に視界が開けて 広い農場に出る
まっすぐ伸びる一本道
山の上に浮く月と目が合った        痩せかけた月
月も散らばった星々も 澄んだ空では硬度の高い石みたいだ
世界には星の光だけで歩ける場所があるらしい
明るすぎる本州ではきっと無理だろう 
遠くの空が ぼんやり橙色に染まっている
街の光が 秘境といわれる山々の空まで届いている

低く唸る風 山からの声 風に混じる雪
月と星の観察は続く

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だれ、どこ(11)青木昌彦(1938年4月1日―2015年7月15日)

高橋悠治

はじめて会ったのは湘南学園中学の文芸部、6ヶ月しかちがわないのに4月1日生まれは1年上のクラスだった。それが1951年で、最後に会ったのは2015年4月京都フィルハーモニー室内合奏団のコンサート、『苦艾』の初演のとき、いつものように予告もなく会場に現れた。

鎌倉から江ノ電で鵠沼、砂地と松林に囲まれた木のバラック。先生たちは若く、生徒と仲間のようにつきあっていた。授業が終わるとほとんど毎日ふたりで会って、やっと翻訳紹介されはじめたジョイス、プルースト、ダリ、それにマルクス、読んだ断片について話し合い、古本屋をまわり、話題がつきると、何時間も黙って、いっしょにいた。この世界の向こうにある知らない世界の夢、終わりのない知的冒険。1954年に東京のそれぞれ別な高校に移っても、時々会っていた。1956年からは東大に会いに行った。共産主義者同盟ブントで姫岡玲治を名乗っていた頃。すすめられて宇野弘蔵の三段階論を読んだ。原理・段階・現状分析と下降する三段階。武谷三男の『ニュートン力学の形成』では、現象・実体・本質と上昇する認識が科学史のなかで、ティコ・ブラーエの観測、ケプラーの惑星運動法則、ニュートンの万有引力という例がわかりやすかった。現象の記述にはじまり、そこには見えない実体を仮定してその機能を法則化する、本質は普遍的な運動原理になる。その運動を現象とみなして、次の認識の環がはじまる。経済学と音楽は領域がちがっても、システムや方法は仮の足場で、時代や社会状況が変われば、生きかたも変わっていく。

1963年に日本を出た、かれはアメリカへ、こちらはヨーロッパへ。その後こちらがアメリカに移って、ボストンの雪のなかで転び、気がついたら、かれの家で寝かされていた。数年後に妻だった石田早苗が事故で亡くなり、柿本人麻呂の挽歌をチェロと男声合唱の曲にした。『玉藻』はアメリカで書いた最後の作品。ベトナム戦争末期だった。1972年日本に帰ると、かれは京都大学にいた。1975年の次の結婚の披露宴では、ドビュッシーの『喜びの島」を弾いたと思う。その後もよく会っていたし、日本で本が出版されるたびに送ってくれた。いる場所や考える方向が変わり、遠く離れていても、意識するまでもない共感でつながっている感じをもっていた。権威にしたがわない、すこし離れて批判する眼をうしなわない、おなじところに停まっていない、すぐ飽きる、この飽きっぽさで続いていた友情かもしれない。

1990年以後の比較制度分析では、多数のプレイヤーがそれぞれの予想や共同認識から行動方針を決め、多様な関係の結びつきと組合せが、発展しながらいくらか安定すると制度となる。歴史や文化のちがいから、制度はひとつではないし、ゲームのルールは経験の要約にすぎないから、ちょっとした変化のきっかけでバランスが崩れてしまう。いまは冷戦が終わった1990年代はじめから一世代30年かかって次のバランスが作られるまでの不安定な時期らしい。それだからこそ、ちがう眼で世界を見て、冒険ができるはずだ。ほとんどの実験が失敗しても、いずれどこかで折り合いを付けられる。

音楽の制度問題は2000年前後に考え、『世界音楽の本』を岩波で出したとき、書いたことがある。シュンペーターの「創造的破壊」とはちがうが、実験の成果が制度になって固まってしまうとき、そこから逸れてちがう方向をさぐるのが「創造」だと感じていた。

会う時は、かれが見つけてきた食べ物屋で、ふたつの家族のつきあい。食べるのも飲むのも好きだった。日常のなにげない話と、陽気なふるまい。次にまた会うまで。次が突然なくなるまで。いっしょに歩いていても、気がつくと、どんどん先に行ってしまい、角で待っている。少年時代からおなじだった。その頃、「ふと振り返ると、いっしょに歩いていたはずが、ずっと後のほうで倒れていたりして…」と言って笑っていたが、……

みぞれ、雪。

仲宗根浩

月末、今年初めて車のガソリン、満タンにする。いつも入れるスタンドは車検をそのスタンドでやると車検割で1年間ガソリンがリッター7円引きになる。で、リッター税抜き九十円。ちょいと前の軽油の値段じゃないかと、ここまで安くなっているとは。

お正月は暖かい。元日は実家に行き、揃ってお仏壇に新年のごあいさつ。お正月の料理はだんだんと沖縄らしさがなくなってきている。昔からあったのは田芋の田楽くらいだろうか。子供のころ、お年賀の挨拶に父親と親戚まわりをすると子供が口に合う甘いものといえばこれしかなかった。

暖か暑い日が過ぎたあとで、いきなりの寒気とかで四、五日寒くなる。最高気温が十五度でも寒いと感じるが今年は十度前後の気温でみぞれが降り、本島で観測史上初めての雪となった。本土が寒くなると、こっちも寒くなる。部屋のなかの温度計が示す気温はシンプルに夏は三十度、冬は二十度と決まっていた。まあ、すごい寒気とやらであまり正確とはいえない温度計が示すの十八度。翌日は十六度。外は強風に雨。うっ、寒い。この寒さで沖縄から熊本へ引越して初めて迎えた冬のこと思い出した。学校の運動場で遊んでいたら初めて雪を見た。風が強く雪は横に降っていた。雪は降り積もるものだと思いこんでいたが、横なぐりで積もらない雪だった。初めて体験する本土の冬に手はあかぎれで毎日軟膏をぬり、霜柱を踏み潰しながら学校へ行った。

この寒気のなかエアコンの暖房すらつけないで、着込んで布団にくるまるだけで過ごす。みぞれが降り、本島では初めて観測上の雪となる。みぞれが雪と観測されるのを始めて知る。

仙台ネイティブのつぶやき(10)今日も雪かき

西大立目祥子

「今日も」と書くほど、仙台は雪深いところではない。雪かきは、ひと冬に5、6回といったところだろうか。たいてい12月の中旬を過ぎると積雪があって、これはそう積もることなくとけてしまう。そして年が開けて1月中旬から2月にかけて何度か、数日間とけずに道路わきに残るような雪が降り、ときに大雪になる。やがて南の春の便りが入る3月になってから、最後の一撃がくる。この雪はけっこう積もる。東日本大震災のときがそうだった。大地震のあと絶え間なく続く余震に追い打ちをかけるように、雪はこんこんと降り積もった。

 この冬は温かくて、水仙が固い土の中から緑色の芽をするすると伸ばし始めていたけれど、1月中旬に入ったら、やっぱり約束を果たすように雪はまちを真っ白に染めにきた。それから、週にいっぺんのペースで3回、律儀にも決まって週末か週のはじめに降っている。

 雪が降り始めるのはたいてい夜で、静かな気配をまとってそれはやってくる。車の音が遠のき、しんしんと冷え込んできたなと思ってカーテンを開けると…。もうそこは別世界だ。見慣れた庭や道や街は雪の下に眠り、白くてやわらかな世界が広がっている。屋根も車も木々も、丸みをおびてふわふわ。その上、明るくて、降り積もってしまうと雪は暖かい。忘れていた自分の中の子どもがむくっと動き出して、何だか愉快な気分になる。朝、誰もまだ踏んでいない雪の上に最初の足跡をつけて歩くのは、何だか楽しいものだ。

 夜、降り積もった雪の上を歩いていると、時間と空間を飛びこえてしまうような感覚に包まれる。別の時代のどこか見知らぬ街を歩いているような不思議な感じ。それはこの街に生きた出会ったことのない人と私をつなげるものにもなる。明治時代に生きただれか、江戸時代に暮らしただれかも雪の降り積もるこの道を歩いたろう…そんな想像が生まれてくるのだ。

 そうしたら、つい3、4日前、仙台在住の作家、佐伯一麦さんも、地元紙の河北新報夕刊に連載しているエッセイ「月を見あげて」で、島崎藤村の随想「雪の障子」を引きながら、雪の静けさや白さなど、その魅力をあげる藤村に深い共感を示しておられる。そして、またこんなことを書いている。
「それにしても、天気の記述というものは、月の満ち欠けとともに、たとえ自分が生まれる前のことであっても、死者とともに分かち持つ眼、といったものを感じさせないだろうか」(「河北新報夕刊」2016年1月26日)

 だれかとつながっているという感覚は、この”死者とともに分かち持つ眼”ということであるだろう。町並みや暮らし方はどんなに激しく変わっても、天気は普遍なのだ。日差しや雲の流れや降り積もる雪は。

 山形の豪雪地帯に暮らす友人は「雪が降るとほっとする」と話す。晩秋、日が短くなるにつれ、あっちの野菜畑、こっちのリンゴ畑とやらなければならない仕事に気が急く毎日が続いたあと、雪がすべてをおおい隠してしまう本格的な冬の日がやってくる。分厚い雪は、もはや人の手の及ばない自然の力を見せつける一方で、細々とした仕事を忘れさせ長い休息をもたらしてくれるのだ。

 宮城の山間地に暮らす友人は、「11月の晴れたり時雨たりが続くときがいちばんいやだね。でも、雪が積もれば、もうあきらめがつく」という。圧倒的な雪の前に、降れば雪かき、積もれば雪下ろしという長い冬がいよいよ始まるからだ。最初の積雪は、その覚悟を強いる。

 つくづく雪国の人は偉いなあ、と思う。雪の前に、屈するのでもなく、挑むのでもなく、淡々と受け入れて仕事をこなすのだ。朝は6時から家の前の雪かきをして車を出し、勤務先に着けばまた雪かき。仕事をするのはそれからだ。1日中、降り積もるときは、何度も雪かきをし、ひと冬に数回は屋根の雪下ろしもしなければならない。でなければ、生活も命も危うい。足跡をつけて歩く楽しさなんて、笑い飛ばされるだろう。

 1月29日の朝は、起きたら真っ白だった。朝8時過ぎに車で出かける用事があって、15分ほどエンジンをふかしながら、車の雪を払った。屋根の上、フロントガラス、ボンネット…サイドミラーが凍りついて開かない。お風呂場から残り湯をバケツで運び、ざばっとかける。こういうことを友人たちは毎日やっているのだ。

 隣りのご主人が、雪かきスコップでラッセルするように細い路地の雪をどけて進んでくる。すこぶる手際がよい。敷地と道路の段差の雪もスコップの跡目がつくようにきっちりと取り除いた。その姿を見ながら、雪国の出身なんだろうな、へっぴり腰の仙台人とは違うもの、と思ったりした。あいさつを交わし、雪かきのお礼を伝える。こういうふだん顔を合わすことのないご近所同士のあいさつも雪の効用である。

 友人たちはミシミシと雪の重みできしむ屋根の音を聞きながら、そろそろ屋根に登るかと思っているころだろうか。

 さて、私はあと何回の雪かき。 

ひとつの身体

璃葉

漢方医院のとびらを開けると、細長い通路の奥から生薬の香りが漂ってきた。蛍光灯で照らされた病院とは明らかに雰囲気が違う。どうやら、珍しくクリニック内で調剤をしているようだ。通路からそれぞれの部屋に入るかたちになっていて、一番手前が受付、その奥が診療所、そして一番奥に処方箋を受け渡す場所。きっと煎じ器もあるだろう。受付で待っているひととき、雨で冷えて強張ったわたしの身体は、白熱灯の光と薬草の土臭い香りで充分にほぐされた。

去年の秋のこと。原因不明の虫刺されに市販の薬を塗って放っておいたら、見事に悪化した。ひどく悪くなってしまったのは右足首の内側で、三陰交というツボの部分。中心の刺しあとが赤紫色に腫れて、まわりに黒ずみが広がる。皮膚の奥で、なにかが蠢いている感覚が気持ち悪くて、寝ているうちに掻きむしっていたらしく、その箇所は、見ていられないほどにただれてしまった。少し引っ掻けば、あっさりとめくれてしまう脆さだ。その弱さは、もはや皮膚ではなく、和紙や障子紙を思い起こす。市販の薬や病院の皮膚科で処方された抗生物質は効くどころか、顔や脇の下に蕁麻疹がでてしまい、逆効果となった。困った末にたまたま一駅先に漢方専門のクリニックがあることを知り、冷たい雨が降るなか、片足を引きずるようにして歩いたことを思い出す。

「これね、あなたね、まず、虫の毒を抜かないとだめです。皮膚の奥で悪さしてますから。もちろんそれだけが問題じゃないんだけどね。まず、針で刺して血を出します。そのあとに毒が出てきます」
先生にそう言われて、表情が凍った。そんなわたしを見て笑いながら
「大丈夫、ちくっとするだけだから!」
子供をあやしているみたいだ。次の瞬間、消毒した太い注射針で足首の腫れた部分を数カ所ぶすぶすと刺されて、その容赦の無さにびっくりする。しかし、つつかれた感覚だけで、痛みはあまりなかった。痛みさえも感じない皮膚になっていた。
刺して作った出口から、血が玉になって吹き出してくる。滞っている何かが、突然動き出した気がした。燃えるように熱い。ガーゼに垂れていく血液の鮮やかさは、染料のようだ。すべては色で出来ていることを実感する。次第に、血の赤が無色透明に変化する。これが「虫の毒」だ。皮膚を押して、毒を出し切ったあと、薬を塗布しながら、先生は言う。
「毒が入ったまま生活していたという以外に、見た感じ、あなたは冷え性で乾燥肌なので、治りが遅い。けれど、身体を温める意識をすれば体質は変わる。時間はかかるけれど、身体は臓器から皮膚までぜんぶ繋がっているから、血の巡りを良くすれば治りも早まります」
血が循環していることに意識を向けること。いつの間にか身体を分離させて考えてしまうのは、痛みや怪我が目に視えるからだ。視えない部分にどれだけ意識を持っていくことができるだろう。身体のなかを潤して、循環をよくさせること。でないと枯れてしまう。身体はまるで樹木のようだ。

処方箋を受け取るために、廊下の奥に案内される。思ったよりも通路はもっと奥に繋がっていて、ほらあなのようだった。調剤用の薬草が入った、たくさんの引き出しが取り付けられている木製の棚が見える。

看護師の女性がまっすぐこちらを見て、にこり、と微笑んでくれる。エネルギーに満ち溢れているひとだと、一目みただけでわかった。処方箋の説明を丁寧にしてくれ、おだいじに、と言われる。

早朝、漢方を白湯に溶かして飲む時間は至福のひとときだった。土の味が暖かい。今年に入っても皮膚はまだ疼くが、ゆっくりと再生している。草花が成長するように、季節が移り変わるように、皮膚の上で時が流れているのを感じている。

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岬のさきの

時里二郎

岬のさきの帽子の小島
いちどわたったことがある
ゆめのなかで

舟ではわたれぬ島だから
夜に竿さし ゆめをこいで
ゆめのさきへ

ゆめのさきにも 岬があって
帽子の小島が見えている
いちどわたったことがあると
思い出した
ゆめのなかで

ゆめではわたれぬ島だから
うつつの舟を借りてゆく
舟にはひとり先客がいて
忘れた帽子を取りに行く
わたしは何しにゆくのだろう

岬のさきの帽子の小島
いちどわたったことがある
波に流され 見えなくなって
母の形見の夏帽子

岬のさきの帽子の小島
いちどわたったことがある
母にないしょと耳うちをして
わたしに似てる女の子

岬のさきの帽子の小島
波にゆられて夏帽子
あれは白い波の端(は)と
ひとりごちてながめやる

牡蠣殻(かきがら)白い岬の道は
きりもなく続いて
あとひとまたぎに
夢の切り岸

  -『名井島の雛歌』から

2016年の遠藤ミチロウ

若松恵子

遠藤ミチロウ監督の映画「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」を新宿のK’s cinemaに見に行った。1月23日の公開日から、最終上映後にミチロウとゲストのミニ対談が企画されていて、私が見に行った日も漫画家の上條淳士をゲストに迎え、雪が心配される夜だったけれど、多くの観客を集めていた。

この映画は、遠藤ミチロウの「うたいながら旅をする生活」を記録したロード・ドキュメント・ムービーだ。2010年11月に還暦を迎え、ギター1本で各地を回る還暦ツアーや、彼を有名にしたパンクバンド「スターリン」の復活ライブの模様を記録するために企画された。しかし、2011年3月11日に震災が起きて、福島出身の彼の旅は、そのことに大きく影響される。予想外の事だったが、福島支援のライブや、彼の故郷、母と再度向き合う日々が記録されることになった。

この部分が無かったとしても、充分この映画は魅力をもっていると思った。演出された、自分を受け渡した顔ばかりが登場するテレビにうんざりしていたので、こんなに意志のある、それでいながら、やわらかいミチロウの顔を見ているだけでも儲けものだと思ったからだ。しかし、震災のことがなければ、福島や母が登場することはなかったと思うし、故郷や母が登場することで、より遠藤ミチロウという人を理解することができたとも言える。

福島や、母への向き合い方が自然で、正直なのがいい。原発事故後の故郷の状況についても、これまでと同じようにミチロウは怒る。故郷だから特別という事ではない。地元の人たちを苦しめている「不正」について彼は怒る。自然に対してではなく、人が引き起こした災害について彼は直観的に怒る。母親に対するスタンスも、震災が起きたからといって特別に変わるという事はない。彼は、映画の中で、「母親は苦手だ」と語っているが、震災で母親を心配には思うが、苦手だと思う気持ちは変わらない。

パンクバンド「スターリン」の時代に、その過激なパフォーマンスが週刊誌に書かれ、近所の人から「遠藤さんちのミチロウちゃんは気が狂った」と言われ、「週刊誌と僕とどっちを信じるの?」と母に聞いたら「週刊誌」と答えたというエピソードが語られる。どんな子どもにとっても、母親と分かり合うことはやはり難しい。どんなに心配してくれても、ミチロウは、はぐれた子どもなのだ。母親にとってはミチロウの現在も相変わらず「気が狂ってしまった」のと同様の暮らしぶりに思えるのだろう。

2011年8月15日に「プロジェクトFUKUSHIMA!」としてスタジアムで行われた「スターリン246」のライブ映像は、この映画のハイライトだ。スターリンをやるミチロウが、晴れやかな良い顔をしていてうれしい。スタンドの観客席(なんか檻に閉じ込められているように見えるのだが)にむかって走っていく姿もかっこいい。

スターリンが現役の頃は、日本がバブルに向かう時代で、景気の良い日本に、貧しいロンドンパンクのスピリットをお手本にした音楽が受け入れられない感じがしていたが、最近はスターリンの歌がタイムリーになっているように感じる。上映後のトークでミチロウはそう言っていた。福島でぶちまけられるスターリンの音楽を聴いていると、私もそう感じる。ミチロウのうたが、今、必要なのだと感じる。

2014年に膠原病をわずらって、映画の公開も今年になってしまったが、2016年のミチロウはひとまず元気なようだ。2月28日〜3月6日は目黒のライブハウス「APIA40」でゲストを迎えた連続ライブ「ミチロウ祭り〜死霊の盆踊り〜」も予定されている。
新宿のK’s cinemaの上映は2月10日までの予定だ。

製本かい摘みましては(117)

四釜裕子

縦横の道をどれだけ歩いたところでそれが決まって週末となれば、息づく町もこちらが会えるのは吸ったところか吐いたところかどちらかだ。近所に廃業を決めた紙器所があると聞いて向かうと、いつもシャッターが降りて静かな一角だった。細い道をはさんで徐々に敷地を増やしたのだろうか、二階建ての建物数軒に渡って社屋が連なっている。関係者じゃなかったらあえてこの道を選んで通るひとはいないだろう。名前だけ聞いていた約束のひとを受付にたずねると、南側全面の窓を背に長電話をしていた社長さんだった。あいさつもほどほどに「もう、ほとんど処分しちゃってね」と言いながら、これまで手がけてきた化粧品や文房具、食品などのパッケージを見せてくださった。がらんとした事務所は日射しがまぶしい。ブラインドはあげたままだ。

窓から見下ろすと道向かいの建物の入り口が大きく開いていて、「廃棄」の札が貼られた籠をめがけてひとが出入りしている。そちらに案内いただくと、奥に平版の自動打ち抜き機があった。抜き型に紙を押しつけ、切り抜き線や折り曲げ線をつける機械だ。気配はアマゾンのワニのよう。見たことはないけれど。この機械には「オートン」という愛称があって、実はそれは国産メーカーがもつ商標だ。改めて調べてみると、段ボール箱などの製造メーカー・タナベインターナショナル(1947年創業)と紙箱などを作る機械メーカー・菅野製作所(1946年創業)を2014年に吸収合併した日本紙工機械グループが所有していた。もともとお菓子を作る機械のメーカーだった菅野製作所が菓子箱製造機械も作るようになって、自動製函機「サックマシン」や日本初自動打ち抜き機「オートン」を生んだらしい。オートン機は現在もヴァージョン・アップを続けており、最新型は四角く覆い囲ったトーフ型である。この日見たのはゴムのベルトやチェーンがむき出し、小さな円形のハンドルは目が回るほどたくさんついていて、機械の途中には大きな鏡(紙を挿入する位置から作業の進捗を見られるようにしたんだろう)が、そしてほうぼうにガムテープで白い紙(どれもわけありなんだろう)が貼ってあり、昭和の香りを放っていた。この時代の機械を見ると、社会全体で試作品を作り続けてきたように感じる。「もはや鉄くず。でも十分、稼がせてもらった」。

オートンの反対側に小さな階段がある。上は事務所だろうか。スリッパが2つ。「見ますか? そのままでどうぞ」。土足のまま4人で2階にあがる。椅子に腰掛けて作業をしていた女性と目が合い、「おじゃまします」に「スリッパにはきかえて!」が重なった。「いい、いい」。社長が言う。ここにもまた大きな機械、サックマシンだ。打ち抜き機で入れた折り線にそって折り曲げたり、貼り作業もこなす機械だ。こちらも昭和の香りいっぱいで、ゴムバンドの水色やボタンやチューブの赤色は、もはやかわいいとしか言いようがなかった。結束のための機械や大きなホッチキス留め機械、作業のための椅子や踏み台、机などが散在している。どれもこれもやわらかな木で丈夫に手作りされている。奥に並ぶスチールロッカーを見る限り、ずいぶん多くの人がここを職場としたようだ。さっきの女性が仕事を終えて下に降りた。椅子には手編みの座布団がかけてある。

事務所のある建物の1階には、手前から、断裁機、スジ入れ機、打ち抜き機2台が並んでいた。いずれも昭和40年前後の、職人ひとりが向き合って操作する鉄のかたまりのような機械である。打ち抜き機は、切り取り線や折り曲げ線などをつけるための木型を固定して紙を1枚ずつはさんでプレスする。ビク抜き機という別名のほうがよく使われていて、これはイギリスのビクトリア社という機械メーカーの名称からきているそうだ。この作業自体を「ビク抜き」とも言う。壁面にはビク抜き用の型が、右から左へ、小さいものから順にたてかけてある。直近まで注文のあったものだろう。ビク抜きの職人さんが戻ってきた。「彼はね、優秀でね、次の仕事がすぐ決まったんだ。貴重ですよ。若いからね」。社長が言う。四十代だろうか。ここにある機械はすべて、この場所ごと同業他社に引き継がれる。

もう一度事務所に戻るとお客さんがいた。「だいぶ片付いたね」。長いつきあいの紙屋さんだという。くもりガラスで囲われた応接室兼休憩室のドアが開くと、さっき向かいの2階にいた女性が大学いもを小皿に分けていた。三時の休憩だ。「こんにちわ」と、また客。対応した別の女性が「社長、町会費だって」。「もうね、来月で廃業するんですよ。払わなきゃ、だめ? そうか。これで最後だ。お世話になりました」。私たちも礼を言って外に出た。オートンとサックマシンのあった建物の隣は倉庫か駐車場として使っていたのだろうか、真っ暗な中にものすごい数のビク抜き用の型がある。本来、それぞれが発注者のものである。のらりくらりと歩いていたら角のクリーニング屋で自転車に乗った社長さんに追い抜かれた。通りの向こうに銀行がある。

しもた屋之噺(169)

杉山洋一

毎年1月終わり、イタリア各地でアウシュヴィッツ解放記念日の追悼行事が行われますが、ミラノ中央駅の右壁を500メートルほど進み、ホームの端が丁度終って、無数のポイントが絡み合う下あたり、旧貨物駅入口のあるフェルランテ・アポルティ通り3番地は、ミラノの式典の中心です。

1943年から44年にかけ、コモ、ヴァレーゼ、ミラノのサン・ヴィットーレの監獄に収容された北イタリアのユダヤ人はムッソリーニに反発する政治囚らとともに、一定数集まったところで、人目につかない未明のうちに、この貨物駅21番ホームから家畜用の有蓋貨車に載せられ、イタリア各地の強制収容所や、アウシュヴィッツなどへ運ばれてゆきました。

アウシュヴィッツから生還したイタリアのユダヤ人はわずか20数名で、ミラノを発ち収容所のあるポーランドのオシフェンチムまでは7日間かかりました。極寒の中家畜用の貨車で人間が運ばれる姿をじっと見つめる農民たちは、自分たちを眺めながら何を思っているのだろうと生還者の一人は語っています。こうした場所が戦時中のまま残っているのは、ヨーロッパでもとても貴重なのだそうです。この時期イタリア各地の高校生や大学生の多くが、自らがユダヤ人であるかどうかに関わらず、アウシュヴィッツ行きの特別列車Treno di Memoria (記憶の列車)というツアーに参加するといいます。道中語り部らの話をきき、収容所を訪問することで、戦時中の悲劇を追体験するのです。

ここまでは納得できますが、20数年イタリアに暮らし、常に薄く感じられるユダヤ人への羨望と差別をどう理解すれば良いか、1月末が巡ってくるたび消化不良の思いが頭をもたげるのです。

  —

 1月某日 ミラノ自宅
ミラノの大気汚染が酷く、新年0時前にぺタルドという爆竹を使うと罰金というお触れ。10歳になる息子は、爆竹という日本語は知らないので、「かんしゃく玉」と呼ぶ。赤塚不二夫の古い漫画で覚えたそうだ。尤も、ぺタルドは導火線がついていて、正確には「かんしゃく玉」ではない。

 1月某日 ミラノ自宅
2年前に書いた「悲しみにくれる女のように」を、低音デュオのため、歌詞再構成する。バンショワの歌曲、イスラエル国歌「ハティクヴァ(希望)」、パレスチナの旧国歌「マウティ二―(わが祖国)」の歌詞を、作曲当初の下書きに沿い、それぞれあるべき場所へ戻してゆく。旋律に言葉がつくと、意味がかえってくる。改めて、自分はなぜ言葉を剥ごうとしたのか考える。

元来、サグバッドとルネッサンス・フルートのための作品であったから、言葉が介在しないのは当然ではあったが、何か無意識に介在していた気がする。現在のラテン文字アルファベットも、フィニキア文字として誕生した当初は、絵文字に近かった。ヒエログリフや漢字のように、表意文字として生まれ、語彙の増大に応じて表音文字に変化するのは、自然な流れだという。

西洋音楽の音符はグラフで、数字譜も邦楽のたて譜も、音響現象を再現する表に近く、謂わば初めから純粋に表音文字を目指した記号だったが、音符に言葉がついた時点で、当初意味をもたなかった記号が、表意記号に変化する。ラテン文字が26の表音文字を置換えた音響組合せに過ぎず、音となった瞬間そこに意味が立昇るというのなら、文字を簡素な数字に読み替えても、本質的に変化を来たさないのではないか。

そこから「アフリカからの最後のインタビュー」を書き、見えない、聞こえない言葉の発する意味から音楽を成立させようとした。音響現象を再現する表音音符を放棄し、演奏される音が無から発生させる記号の意味を、傍観者として観察するに徹した。それだけ強い言葉であったし、そこに自分が介入するのは無意味で、寧ろ無責任だと思った。

それに比べ「悲しみにくれる」は、自らの恣意的な感情に突き動かされて書いた。ユダヤ人もパレスチナ人も、言葉が通さなければ案外見えてくるものはないか。余りに楽観的な発想で彼らにうまく説明出来る自信もないが、正直に書かなければいけないと思ったし、演奏されるたびにそこには何らかの相関的な意味が立ち昇るように思う。そのまっさらにされた音の上に言葉が戻ってきた。音に意味と歴史と時間が宿り、人の声がそれを生々しいほどに顕わにする。自分が無意識に封をしかけていたものに気づく。恐らく全く違った意味が姿を顕すに違いないが、それをじっと見守りたい。

 1月某日 ミラノ自宅
息子と二人で朝食を摂りながら、NHKラジオニュースで北朝鮮の地下核実験を知る。原子爆弾の話になり、息子はインターネットで探してきた「きのこ雲の下で何が起きていたか」を食入るように見る。水素爆弾はこの一千倍の威力と聞いて仰天している。夜怖くて一人で寝られない。

ブーレーズ永眠。中央駅前老舗の和食レストランで、フィレンツェから着いたチェロのFと昼食。「我先にブーレーズと写りこんだスナップ写真を載せるか、挑戦的にブーレーズを貶して、辺り構わず論戦を交わすか」。フェイスブックがなくても、人生失うものは余りないという。

 1月某日 ミラノ自宅
自分の思う音を鳴らすのと、書いてある音を鳴らすのは、傍目には同じようだが、実際は全く違う作業のはずだ。近代音楽の場合、隠れている機能和声がうっすら見えてくるだけでも、目に映る風景は全く違うものとなる。

近代和声が機能和声領域の拡張を主眼として発展してきたのであれば、単純化して機能和声の柱と梁の姿に戻すのは間違っているかもしれないし、機能感や調性感を見出すのは矛盾かも知れない。分からなければ演奏できないのは非生産的だが、読めば読むほど無知に気付くのだから仕方がない。単なるソルフェージュ能力の不足だと訝しく、愉快に思う。

 1月某日 ミラノ自宅
大石くんの「禁じられた煙」初演にあたり、岡村さんの質問に答える。

「Q: 音楽と社会性について思っていらっしゃることを簡単に教えてください。

A: 僕にとって音楽をかく行為は、日記のようなものです。自分にとって忘れられない出来事、忘れられない感情を、書き残しておきたいのです。情報が人間の処理能力を超えて氾濫するようになって、白黒明確なわかりやすい意見が望まれています。しかし乍ら、本来人間の感情はそこまで単純化できるものでしょうか。

自分にとって音を書くという行為は、かかる不明瞭な領域にある自分の姿を、できるだけ恣意的にならぬよう心掛けつつ、音符に置き換える作業です。それが演奏家という他者によって読取られて音になったとき、改めて自分を見つめ直します。ですから、当初気がつかなかった一面を、思いがけず見出すこともあります。

ですから、作曲は自分と一体ではありません。作曲という作業に、自らを顧みる機会を託しているのです。同じように自分の曲を通し、演奏する人や耳にした人が、何かを考えたり感じる切欠になれたら、とても嬉しく思います。他者への共感を求めているのではなく、それぞれが、それぞれの思いを、音という媒体を通して感じられた素晴らしいと思います。

日本でもヨーロッパでも、難民や移民がたびたび話題に上ります。自分も21年もミラノに暮らす移民ですから、10歳の息子は移民の息子で、妻は移民の妻、ということになります。日本に住み続けていたら、作品に社会を反映させようとは思わなかったかもしれません」。

「自分は移民」と書いて、自分自身に衝撃を受ける。全く認識がなかった。言葉にしてみて初めて、気づくこともある。
(ミラノ 1月29日)

グロッソラリー ―ない ので ある―(16)

明智尚希

 1月1日:「相手のこともそうだけど、その前に自分がまずちゃんとしてなきゃならない。要求ばかり突きつけて、こちらは自堕落なんて話にならないもんな。なにより自分自身が納得できない。女性を意識してきちんとするんじゃなくて、常日頃から実践できているというのが理想だな。その点、俺は意外にもそこそこ自信があるんだよ――」。

(´- `)フッ(´ー `)フフッ(´ー+`)キラッ

 名状しがたい不全感に取りつかれる。親切、配慮、平和、夢など、様々な耳障りのいい高級じみた単語が、一斉に地に落ちて倒れる。完全な不全感とは、裏を返せば高揚のない万能感と言えようか。冷静沈着、沈思黙考を貫き続けている神様との結節点が生まれる。似た者同士ということで、片時でもいい、地位を交代してくれないものか。

( ゚д゚ ) アゼン

流行感冒の一つ。主な症状は政府が1987年に導入を決定した。目標達成を確実にするのが狙いで、医療費などの情報を行うとされている。ノルマはなく、9年間で156人が就職するなどして「卒業」したが、会議室や記者会見席が設けられている。マスコミが作ったとされ、定義はなく、気は遣っていない。20年度までに黒字化。

_(・_.)/ ズルッ!

 目的を思考の到達点と設定した場合、目的的な解釈を余儀なくさせられるかもしれない。ここで問題が発生する。目的的な考え方を理論の中枢に据えないメタファーとしたら、目的的的となってしまう。同じ思考経路で話を進めていくと目的的的的となり、ついには目的的的的的となる時もそう遠くはない。もう当初の目的などどうでもよい。

(`_ゝ´)アッソ

 1月1日:「自分で言うのもなんだけど、いつ誰か来てもいいように部屋はきちんと片づいていて、文学全集や文庫本のきっちり加減はすごいぞ。そんなに広くない部屋だけど、2千冊を書棚や自分で作った棚のなかにきっちり入れてる。それから映画のDVDや音楽CDも、本と同じようにきれいに収まっている。ちょっとした自慢だな――」。

ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー!

 ベッドの中、深夜に真っ暗な部屋の中で、昔のあれやこれやを思い出す。大抵は、幼い頃から今日にいたるまでの、陋劣で、卑屈で、妬み深く、恨みがましく、猜疑心の強い、自分たちである。意識という名の発掘者がこんなものを掘り返すくらいなら、昼間の世界で責め苦にでも合っているほうがましだ。操れるナルコレプシーはどこにある。

アタヽ(´Д`ヽミノ´Д`)ノフタ

 一つだけいいことを教えてやろう。実はな、みんな大嘘つきなんだ。

( ー ー ゛ )

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

 稀にみる才能と作品がありながら不遇をかこつ人よ、成功者を妬まずに、そのまま制作を続けるがよい。時流に乗った幸運児にはなれないが、いずれ乱世の奸雄になる日が来る。不遇の階段を最後まで昇り切ったところには、不遇者だけが感知できる光景がある。人気作品のヒュレーの乏しさ、精神性の低い俗臭、屹立するおのが影なき影が。

( ̄  ̄)………( ̄∇ ̄)ニヤッ

「俺、今から無理やり難しそうなことを言ってみるわ。アクロスティックな体操選手が形而上学的な思考により、サイバネスティックの領域と不可分で幾何学的な哲学を、マインドセットとして累進課税方式にシフトした上で、アートディレクターのディレッタントを尊重するスキゾフレニアに、抽象表現主義の立場を取ることに決定した」

ノ ヽ“┼┐!φ(・c_,・。)

 遠からぬ知人が亡くなって涙に暮れているくらいなら、どうして生きている間にもっと良くしてやらなかったのか、相手になってやらなかったのか。泣いている人を見ると、故人より死そのものが持つ悲しみ、その場特有の空気に、自らが酔って涙しているようにしか見えない。第二の生を始めた故人は言うだろう。「いったい誰が死んだんだ?」。

(U人U)・・・・・

 1月1日:「こうやって見てもわかるだろ。俺の趣味や嗜好が。しかも下世話なものばかりじゃない。教養として見聞きしておくべき最低限度のものプラスアルファの作品を並べてる。もちろん並べてるだけじゃないぞ。どこかにいる誰かさんみたくタイトルしか知らないなんて笑いものだしな。まあ一通りは見たし読んだよ。これも自慢――」。

( ̄∠  ̄ ) ドヤッ!

 最近の高等教育はいったいどうなっとるんじゃ。大学を出ても英語で日常会話すらできないっていうじゃないか。近所の若造をつかまえて、英語で何か言ってみろって話しかけてみたところ「アイウォンチュー」だってよ。そんなもん、小学生でも知ってるってのまったく。え。ちょっと待てよ。アイウォンチュー……わし!? わしなのか?

ギョッ!Σ(・oノ)ノ

 目覚めると代助は蝿になっていた。表に出たはいいがディーダラスは役立たずで、ただ大笑いするのみ。泣いているとラスコーリニコフがナイフを持って突進してきた。刺されたのはとっさに現れた大道寺信輔。代助はトリストラムとゴドーを待つことにした。しかしやってきたのはサンチョ・パンサ。逃げるために結局は電車に乗るしかなかった。

O(≧∇≦)O イエイ!!

 ガムを噛むと頭の働きが良くなると聞く。確かにそんな気がするのだが、実際に口にしてみると、頭の働きがどうのというより、いわれなき焦燥感から懸命にガムを噛む。するとまた焦燥感が増大して更に速いテンポで噛む。この悪循環である。そうとわかってはいてもやっぱり口にしてしまう。ガムは中毒性が高いのだろうか。

(´・ω・`)ショボーン

アジアのごはん(74)米とぎ汁還元水

森下ヒバリ

1週間前からバンコクに来ている。いつものアパートを月極めで借りて住んでいるのだが、ここには台所がない。アパートメントに台所がないのはタイではふつうである。台所がなくても外食文化がたいへん発達しているタイなので、食事に困る事はない‥ないのだが、ワタシはお米を研ぎたくてうずうずしている。しかしそれは、「あ〜、お米を研いで、ご飯を炊きたい!」のではなくて、ヒバリは「お米を研いだ、とぎ汁がほしい〜!」のである。

とぎ汁? そう、あの白く濁ったお米のとぎ汁。日本の自宅では、3年ぐらい前からお米の一番めのとぎ汁の濃い白いものに、白砂糖大匙1を加えて数日置いて作る、米乳酸菌液を毎日仕込んでいる。これは豆乳ヨーグルトの種にするほか、毎朝の(あ、朝ぶろ派です)お風呂にだいたい500ミリリットルを注ぎ込んで乳酸菌入浴剤にする。この乳酸菌液入りのお風呂が気持ちいい。のだが、話はこの最初の濃いとぎ汁のことではない。2回目、3回目の薄まってきたとぎ汁のことである。

「残りのとぎ汁も栄養分とかありそうだな〜、でも飲んでもおいしくはないし、そのまま植木にやるのはよくないし‥」と思いつつ流しに捨てる日々。岡山の田舎の家では台所の流しの端に2リットル紙パックの上を切った入れ物にとぎ汁が入れてあって、よくごぼうなどが突っ込んであった。アク出しにいい、と母親は言うが、臭いよこの液。そう、とぎ汁は放置しておくと臭くなる。とぎ汁の活用法として、掃除に使うとかアク取りに使うとかは聞くが、こんな匂いがするのを使うのはちょっと‥。

以前、中国雲南省・シーサンパンナの景洪に旅した時に、おいしいセルフの食堂で白い液体が鍋に入れて置いてあって、みんな自由に飲んでいた。何だろう?おいしそうに見えたので、ヒバリも一杯。味も何もついていないそれは、お米のとぎ汁だった。特においしくもなんともなかった。なぜみんな競って飲むの? 中国のほか、韓国でもお米のとぎ汁をスープの出しに使ったりする。ふむふむ。

去年フェイスブックを始め、「TGG(豆乳グルグル)ヨーグルト同好会」というのを見つけて参加してみた。そこで知ったのが「3(み)とぎ水」である。なんとお米のとぎ汁は、一日置くことによって、どういうわけか酸化還元値がものすごく高まり、いわゆる還元水になるというのだ。

「酸化還元水」というのは、つまり酸化(老化、サビ、劣化)を元に戻す力である還元力を持った水ということである。いわゆる水素水などもその一種。これには電子のやり取りが絡んでくるのだが、まあその化学は苦手なので説明は省かせていただくが、これまでほかしていたお米のとぎ汁が、一日置くだけで、汚れ落としに使えたり、野菜や魚を数分浸けておくだけでピチピチぷりぷりに復活したり、肌に塗るとしっとり、飲むと身体の老廃物をだして体を活性化してくれる、すごい水になってしまうというのである。

ほんまかいな‥。さっそくお米を洗って、作ってみましょう。まずは2合のお米をさっと洗って水を流す。そして1回目の米とぎ。この濃いとぎ汁は、ペットボトルにとって砂糖と合わせて米乳酸菌にするために仕込む。さて、2回目。このとぎ汁もガラスの入れ物に取っておこう。そして、3回目。だいぶ濁りが薄まってきたが、この薄さ加減がいいらしい。ガラスの水差しに取る。だいたい1リットル分ある。そして翌日・・2回目のとぎ汁は少しどろんとしていて、少し匂いがある。ので、これは植木にあげよう。そして3回目のとぎ汁を、野菜や魚の下ごしらえに使ってみると、いい感じ。いわしはぷりぷりに、野菜はしゃきーん。すごいぞ、還元水。

飲んでみた。あれ、なんとなくおいしい、ような気がする。いやな感じはまったくない。身体にしみじみくる感じ。あの、とぎたてのとぎ汁とはあきらかに違う水だ。なかなかいける。これすごく体にいいんじゃないか。ただ、2日置くとちょっと匂いがするが。

酸化還元力というのはORPメーターというものがあり、数値として測れるので、それを入手してうちのお米のとぎ汁還元水の数値を測ってみることにした。プラスの数値が高いほど酸化力が高く、低いほど還元力が高い。ちなみにもっとも酸化力の高い酸素は+850mv、もっとも還元力の高い水素は−420mvである。だいたい+200以下から還元力があリ、体に良いとされる。

うちの水道水は+330mv。水道水の全国平均は+500mvというから優秀ではある。浄水器の水は−256〜-76mv。うちの浄水器は簡易型の水素水浄水器なので、ちゃんと仕事しているね。さて、お米のとぎ汁を1日置いたものは? なんと−400mv! 日によって数値はもっと悪くなることもあるが、だいたい3回目のとぎ汁を置いたものはすべからくマイナスで、強い還元力を持っていた。高いレトルトパウチ入りの水素水や、水素水発生装置を買わなくても、そういう水素水に勝る還元力をもつ水が簡単に手に入るのである。しかも、これまで流しに捨てていたお米のとぎ汁から!

基本的にマイナスの数値を出すものはアルカリ性であることが多いので、このお米とぎ汁還元水は一気に大量に飲まないで、コップに半分ぐらいをゆっくり飲むのがいいだろう。食後すぐはさける。胃酸過多の人にはぐいぐい飲んでもらってもOK。

しばらく飲んでいるうちに、すっかり体になじんできた。はっきりいって高い水素水浄水器の水より還元力は高いし、体に自然な感じがする。でも見た目がほんのり白く濁っているので、こんなもん飲めるかっと思う人もいるだろうなあ。でもとても体によいので、思い切って試してみてください。

とぎ汁還元水は2日ぐらい置くと還元値は下がって来るし、匂いもしてくる。なので、保存は基本的にしないで2日で使い切る。残れば掃除や植木にあげる。お出かけの為に前日からペットボトルに詰めておいた還元水に少しレモン汁を少し垂らして外出してみたら、匂いもせず、まるでさわやかスポーツドリンクのようにおいしかった。後日、豆乳ヨーグルトの提唱者飯山一郎さんのブログを見ていたら、玄米乳酸菌液を作る時によく臭みが出ることがあるが、その臭い匂いは枯草菌の仕業でかんきつ類の皮などを入れると防げるとのこと。とぎ汁還元水の匂いも同じなので枯草菌だろう。

残ったとぎ汁還元水をうすめて植木にあげていたら、植木がすっかり元気になった。いや、ちょっと茂りすぎかもしれない‥。いや〜すごいパワーだな、と感心していたら、ひと月ぶりに行ったいつもの美容院で「あれ、なんか髪の毛がいつもより多いですね‥。うん、10年前ぐらいの感じ」たしかにいつもより、頭がぼさっとなるのが早いな、と思って美容院に早めに行ったのだが、10年前のレベルとは。もともと髪の毛は多くて固くて太い質だったが、さすがに年と共に「人並みになってきました」と最近は言われていたのである。

そこで思い出したのが、3年ほど前に高性能水素水製造機を導入した友達から初めて水素水をもらって飲んでいたときのことである。この水を飲んでいると、髪の毛が以上に早く伸びることに気が付いた。いつもはひと月半〜ふた月に一度行く髪のカットであるが髪が伸びて伸びてどうしようもない。半月に一度美容院に行く予算はないので、友人の還元力の強力な水を飲むのをやめたら伸びる速度は元に戻った、ということがあったのだ。

還元水で髪がふさふさになった、などという体験談があるのかな、とネットで調べてみると、ありました。しかも白髪が黒くなったという話。しかも、水素水は飲むよりも肌や髪に直接つける方が効くとか。(水素水と、とぎ汁還元水の違いだが、これは還元力の元がすべて水素分子なのか複合成分なのかの違い)とぎ汁還元水をスプレーに入れて髪の毛と肌にスプレーすると、とてもいい効果が出そうだ。

肌につけると、しっとりして気持ちいい。もう化粧水は要らない。ああ、とぎ汁還元水だけでお風呂を満たしたら、どんなに気持ちがいいお風呂になるだろうか。お風呂を満たすだけの大量のお米をとぐことができないのが残念である‥。それにしても、冷や飯パワーにとぎ汁パワー、お米はほんとうにエライ! くれぐれも食べ過ぎには注意だけどね。

☆「豆乳グルグルTGGヨーグルト」(栗生隆子著 永岡書店 1000円)に白米の発酵液としてとぎ汁還元水のことがちょっと載っているので興味のある方は見てみてください。ただし、とぎ汁還元水には乳酸菌はほとんどいなくて、乳酸菌発酵液ではないです。
☆お米のとぎ汁還元水の作り方:お米(白米〜分搗き米)をさっと洗って、3回目のとぎ汁(薄く濁ったもの)をガラスなどの容器に入れて一日(冬は二日)置く。2日を目安に使い切る。そうじ、野菜や魚の下ごしらえ、スープのダシ、煮物の水に適宜加える、肌に付ける、髪の毛に付ける、飲むなど還元水として利用できる。飲みにくい場合はレモン汁を少し加える。
米とぎ汁乳酸菌液作りはちょっと‥と思った人もこれなら作れるでしょう。ガラスの器は洗いやすい形のものを選んでください。こまめに洗わないと匂いが出るよ。もう、お米のとぎ汁は捨てられません!

外国人に通じない日本語

冨岡三智

以前から日本で働くインドネシア人に日本語を教えていて思うこと。会話集の日本語の文法もわりと理解して意味も取れているのに、彼らが「日本人が何が言いたいのかよく分からない」と訴える言い方がいくつかある。その筆頭が、「質問があるんですが…」、「質問があるんですけど…」のような言いきらない言い方。「が」や「けど」は「しかし」っていう意味ですよね?と聞かれるので、この場合は「しかし」の意味ではなくて、単に文をつないでいるだけのことが多いとアドバイスするも、文を切らないという感覚が分かりづらいようだ。それに、突然に「〜が…」と言われると、否定的なことを言われたと思ってぎくっとするらしく、けれどその後は「…」となって何も言ってくれないので、「しかし、何なんだ?」と思うらしい。「質問があるんですが…」の…には、(いま質問してもいいですか?)という言葉が隠されているのだと説明しても、そこが理解できないという。確かに、質問があるのなら最初から「いま、質問してもいいですか?」とだけ言えば良いのである。「が…」、「けど…」と言うから通じないのだ。

しかも、朝礼などで、「〜〜で、〜〜で、〜〜だけど、〜〜で、〜〜が…」と話が切れないで延々続くと、余計に混乱するみたいである。これも、短い文に区切って、「〜〜です。〜〜です。〜〜です。〜〜です。」と言えば通じるのに。ただ、テレビを見ていても、日本人の話し方はほとんどこのパターンだ。文章がいちいち切れると冷たいというか余韻がない感じで話しにくい、聞きにくいと感じられるのだろう。私自身もそういう話し方をしていると思うけれど、なるべく外国人には文章を区切って話すように心がけている。

さらに外国人がよく訴えるのが、日本人の話の結論が分からないということ。もっとも、インドネシア人だって結論のない話し方をする人は沢山いる。しかし、同国人同士で話をする場合、とりあえず単語の意味は分かるので、文章全体で意図が分からないという状況をあまり自覚しない。けれど、日本人に結論のない話をされると、外国人は自分の語学力が足りないために相手の意図が分からないと思ってしまうのだ。

否定疑問文や二重否定、反語表現も分かりにくいようだ。「行きたくない?」とか、「行きたくなくもない」とか、「どうすればいいのよ?(どうもしようがないでしょ)」とか。こういう婉曲的な表現は外国語にもあるけれど、外国語で言われると分かりづらくなるというのは事実だ。私も英語で否定疑問文を使われると、?となる。

というわけで、結局相手に伝わりやすい日本語というのは、1つ1つ短く文を切って、意図が明確な文章を、婉曲的な言い回しをせずストレートに言うに尽きる。外国人が多く日本に在住する状況では、ペラペラ外国語が話せる日本人を生み出すより、こういうわかりやすい日本語を話せるような日本人を育てる方が先決のような気がする。

父の正座

植松眞人

 小学校の一年生だったか二年生だったか。私は父と一緒に蝉採りに出かけた。油蝉が激しく鳴いていたのだから、まだ夏の始めから盛りにかけてのころだったろうと思う。
 あの頃、父は京阪神間を走る私鉄の駅員をしていて、勤務時間が不定期だった。その日も朝方に帰ってきて、
「夏休みやからって、いつまで寝てるんや」
 と母に叱られながら起き出した私をかばうように、
「夏休みくらい、ゆっくり寝させたれよ」
 と父は笑いながら言うのであった。
 共働きだった母は、父のそんな言葉にあきれたようにため息をつきながら玄関から出て行く。出て行く間際に、
「みずやに昨日もろたおはぎがあるから」
 と言った。
 母が出て行くと、父はさっそくみずやを開けておはぎを取り出した。自転車で十分ほどのところにある母方の祖母からもらったものだった。
「えらい形がひしゃげてるなあ」
 父は面白そうに笑うと、青海苔のおはぎに食いついた。
 形がひしゃげているのは、昨日私が祖母の家からの帰り道に自転車でひっくり返り、前のかごに入れていたおはぎが田んぼ道に飛び出してしまったからだった。幸い、祖母がいつも頼りない私からおはぎを守ろうとして、瀬戸物ではなくプラスチックの入れ物におはぎを入れ、それをさらにタオルで二重に巻いてビニール袋に入れるという厳重な包み方をしてくれていたおかげで、おはぎが外に放り出されることはなかった。そのかわり、容器の中で思いっきりひしゃげてしまったのだった。
 父は半分食べた青海苔のおはぎを私の方に差し出して、食べろと言う顔をする。私は青海苔よりもきな粉のおはぎが好きだったので、
「きな粉とって」
 と寝ぼけた声をあげた。
「お前はきな粉が好きなんか。お母ちゃん似たんかなあ」
 と父は言いながら、私にきな粉のおはぎを素手でつかみあげて渡してくれる。
「おばあちゃんのきな粉はご飯が真ん中で外側があんこやから、好きやねん」
 私がそう言うと、父は笑いながら
「お父ちゃんは、青海苔やな」
 と言いながら半分残っていた青海苔のおはぎを口に放り込んだ。
「蝉採り行くか」
 父がそう切り出したのは、私がきな粉のおはぎをちょうど食べ終わる頃合いだった。普段なら朝方夜勤から帰ってきた父はそのまま寝てしまうのだが、その日はなぜかそんなことを言い出したのだった。
 もちろん、私としては願ってもない。私は父と二人で蝉採りに出かけることになった。

 いくら考えても思い出せないのは、なぜそのときに弟がいなかったのか、ということだ。私より一学年下の年子の弟は当時私が行くところにはいつでもどこにでも付いてきていたので、このときだけいなかったのは、私が起き出すのを待てずに先に遊びに出かけたのか。とにかく、そのときには弟がいなかったのだった。そして、自分一人だけが父と蝉採りに行くということが嬉しかったという記憶がある。
 父と蝉採りに行くと、いつもよりたくさんの蝉が穫れるのがうれしかった。子供だけだと低いところにいる蝉しかとれないこともあるのだが、それよりも父は釣り竿を改造した蝉採り用の網を持っていて、これは子どもたちだけのときには使ってはいけないことになっていたのだった。
 釣り竿を改造した蝉採り網は柄のところが伸縮自在の釣り竿で、持ち運ぶときには八十センチほど、伸ばせば二メートルほどの長さになった。
 それだけでも、十分に長いのだが、父は高揚している私に向かって
「もう一つ武器があるんや」
 と言って笑った。
 父はテレビの裏側に立てかけてあった竹を取り出した。これは一メートルほどの長さで、見事にまっすぐな竹だった。まだ、表面が青く、切り口が斜めにきれいに切られていて、恐ろしく切れる鉈かなにかで伐採されたように見えた。
「これ、どないしたん」
 私が聞くと、父は少しもったい付けたように
「ええやろ。お父ちゃんが働いてる駅の裏手に竹林があってな。そこから伐ってきたんや」
「そんなん、勝手に伐ってええのん」
 私がそう聞くと、父は一瞬驚いたような表情をして、
「ええねん、ええねん」
 と答えたのだが、父はそう言いながらも少し慌てているようにも見えた。しかし、そんなことは私はどうでもよく、普段二メートルくらいの網が今日は三メートルになる、ということで居ても立ってもいられないくらいに興奮していた。
 父は、着ていた電鉄会社のワイシャツとズボンを脱ぐと、ランニングシャツにステテコという姿になって、そのまま雪駄を引っかけると表に飛び出した。私も夕べから脱ぎっぱなしにしていた半ズボンを履くと父に続いた。
 父は釣り竿を改造した網を持ち、私はその後ろから竹をもってついて行く。近所の庭のある家からはすでに油蝉のけたたましい鳴き声が聞こえていた。
 当時、私の家の近所の道路はまだ舗装されていないところも多く、砂利道をビーチサンダルで歩くのは、足の裏が痛くて嫌いだった。しかし、その日に限っては手にした竹をまるで兵隊の鉄砲のように肩に担いで、いつもよりも膝を高くあげて歩いた。足の裏が痛いなんて思わなかった。
 ランニングにステテコ姿の父が前を歩く。その後ろを竹を担って私がついて行く。目的地は家からほんの五分のところにある神社だった。こんもりと生い茂った小さな林のような境内をもつ神社は近所の子どもたちのたまり場になっていた。石柱を並べたような外壁があり、その向こうで顔見知りの子どもたちの声がしていた。
 私はもう一刻も早く父の持っている釣り竿を改造した蝉採り用の網と、私が担いでいる継ぎ足し用の武器を友だちに見せたくて見せたくて仕方がなくなっていたのだが、そこは子どもだ。子どもというのは、突然妙なことを考えてしまい、自分の考えがわき道にそれてしまうことに気がつかないものだ。自分が大人になってから思うのだけれど、それを律して、そのとき考えなければならないことを考え続けることができるということが大人の証のような気がしてならないのだ。
 そう考えるといまの私も十分に子どもじみているのだが、当時の私はまさに子どもの中の子どもで、いったん妙なことを考え始めるとそこから逃れることができないほどだった。
 そのとき、私の頭の中に浮かんだのは、自分が肩に担っている竹の節はくり抜いてあるのかどうか、ということだった。
 少し前に小学校の担任の先生が、竹には節がある、ということをしきりに話していたことを思い出したのだ。
「竹には節があって、ししおどしなどはそれを利用しているのです」
 とテレビドラマでしか見たことのないししおどしの絵まで黒板に描いて先生は説明してくれるのだった。
 それなら、この竹にも節があるはずだ。節があるかないかは、この竹の切り口から向こうをのぞいてみればいい。そう思った私は父の後を追いながら、斜めに伐られた竹の切り口をのぞき込んだ。立ち止まってのぞけばいいようなものだが、立ち止まっていては父に置いて行かれる。そして、なによりも少しでも早く蝉採りをはじめたいという気持ちが勝っていて立ち止まることなど考えもしなかったのである。
 まだ身長が一メートルを越したばかりのころの私が一メートルほどある真っ青な竹の伐り口をのぞき込むためには、まるで長い望遠鏡を見るような格好になった。しかし、長い竹は上下にしなってうまく節が見えないのだった。必死になってのぞき込むうちに腕が疲れてきて、竹の先端が地面に付いた。地面に付くことで重さはましになるのだけれど、砂利道をブルドーザーのように竹で押しながら歩いている案配なので、上下にしなりはしないのだが、今度は前後にごつごつと動き出した。それはそうだ。砂利道に敷かれた石の中にはときおり大きなものがあり、そこに突っかかると竹がぐっと目の前に近づいてくる。それをさらに力で押しながら前へ前へと進んでいく。そして、進みながら竹の節をのぞき込む。
 そのとき、また大きめの石に竹が突っかかった。それをまた力で押そうとしたのだが押せなかった。竹は砂利ではなく地面そのものに刺さったように微動だにせず、反対側の鋭い伐り口のほうが、のぞき込んでいた私に突き刺さった。
 痛みよりも驚きに声を上げる私を父が振り返る。父の驚きは私の比ではない。振り返るとまだ幼い我が子が自分が持ち帰った竹を顔面に突き刺して血を流している。しかも、血の出所は右目のあたりだ。
 父は私に駆け寄り、目元に刺さっていた竹を抜き、私を抱え上げると近くの医者へと走った。
 そこから先のことはなにも覚えてない。幸い、竹は直接目には刺さらず、目と鼻の間のわずかな部分に刺さり、目にも鼻にも支障のないただの裂傷となった。しかし、盛大に血が出たことで、父は動転してしまったらしい。
「おまえの目を見えんようにしてしもたと思て、すまんすまん言うて謝りながら医者に走ったんや」
 と、それから何年もしてから父が話していたことがある。
 医者に到着したことも、治療してもらっている最中のことも私はなにも覚えていないのだが、父によると私はずっと泣き続け病院を出るころには泣き疲れたのかそのまま寝てしまったのだそうだ。
 私はあの時、家に帰ってから布団に寝かされていたのだと思う。私と弟の部屋ではなく、家族がテレビを見ていた居間で、私と弟が使っていた物よりも少し大きく少しふかふかな布団に寝かされていた。痛み止めか化膿止めの薬を飲まされていた私は、そこでぐっすりと寝ていたのだが、夜遅くになってから目を覚ましたのだった。
 父と母がいて、その向こうにテレビがあった。テレビはスイッチが入っていて、ドラマか何かが放送されていた。そんな時間にテレビを見せてもらったことがないので、私は父と母越しに見え隠れするテレビを薄目を開けながら、見ていた。目を覚ましたことがわかると、昼間の怪我のことで叱られてしまう。そう思った私は寝たふりをしながらTVを見ていたのである。そうこうしているうちにまた薬が効いてきたのだろう。私は再び目を閉じて眠ってしまった。
 それが私が子どもの頃の夏の思い出なのだが、しかし、最近になってあのとき、父はテレビの前で正座していたのだということに思い当たった。確かに、背中を丸め小さくなって正座をしている父を母が言い咎めていた。私はその二人の間からテレビを見ていたのだ。そして、テレビを見ることに必死で、父と母がその時、何をしていたのか思いがいたらなかったのだ。父は私に怪我をさせたことで、母の前で正座をして謝っていたのだろう。
 法事などの改まった席でも、いつもあぐらをかいていた父だったので、私が父の正座する姿を見たのは、あの夜の曖昧な記憶の中だけの出来事になった。

本を巡るいくつかのこと

大野晋

最近、本に関して考えたことをいくつか。

書籍不況と言われる中で、推理小説だけは売れ行きがましなようで、最近の書店の店頭は猫も杓子もミステリーばかりが目立つようになっている。その中でも、若者用のジュブナイル分野の売れ行きが良さそうで、殺人がごろごろ起きるようなミステリーよりも日常的なネタを扱ったミステリーが多くでているように見受けられる。そんなことを考えながら、さらに周りを見回してみると、コミックの分野で面白いことを考えた。

年末の特集番組で、人気コミック(というかアニメでもあるが)の作者が紹介したことで一気に市場在庫が消えうせた新川直司の「四月は君の嘘」が日常のミステリーにあたるのではないか? と思い当たった。内容は仕掛けのために書けないが、一度通して結末まで読むと二度目の登場人物たちの立ち振る舞いに違う面が見えるという趣向のこのコミックは分野として、ミステリーに分類してもいいような気がしている。実に興味深いコミックだと思う。

年末も押し迫って、植物図鑑である平凡社の「日本の野生植物」が30年ぶりに改訂された。今回の改訂では、従来、草本編、木本編と2分割の上で、エングラーの植物分類に従って、双子葉植物、単子葉植物と分けて、前者を合弁花、離弁花の2分した構造をしていたものを、全部をひとつにまとめて、葉緑体の遺伝子情報に基づいたAPGⅢ分類による分類に改められた。

植物の分類情報を利用する立場の場合、基づく情報はなるべく新しく公にされたものの方がよいため、早速、全5巻揃えると、十数万円する図鑑の第一巻を入手した。
今回の改訂では、実は入手前に気になっていることがあった。前回の分冊では、木本編と草本編という分類学上の分類というよりも形態上の分類によって分かれていたうえで、植物の外見上の違いによって巻が分かれていたために、実務上の利便性はとても優れていた。これが1冊1万円以上する高価な図鑑にも関わらず、一般に受け入れられた理由であったようにも思うが、今回は外見上の形態分類ではなく、遺伝子情報を重視したために、外見から探す巻を特定することができなくなるような事態が予想されたからだ。

第1巻を入手した印象は、事前の不安は現実になったように思われた。これまでのエングラーともクロンキストとも違う配列は、植物の外見によってどこに並んでいるのか予想がつきにくく、図鑑としてその点について配慮されているようにも思えなかった。

図鑑というものは、基本的に植物目録ではない。日本の図鑑であれば、日本に生えている植物をそれがなにであるのかが的確に特定できるインデックスでなければならない。第1巻だけを見た限りでは、とても特定に対する配慮がされているようには見えず、特に今回大幅にアクセサビリティの低下している科レベルへのアクセスはお世辞にも考慮されているとは言えないものだった。本来なら、図鑑として最初に提示すべきポイントがなかったことが残念だった。

図鑑の宣伝文句も、改訂のポイントとして、APGⅢの採用が東京国立科学博物館の標本庫が採用しているという権威づけとしか思えないものだったり、また、別冊として提供されるとされた総索引も実際には改訂前であれば必要のないものだったのに、今回の改訂で分割されていた形態による分類を無理矢理に一体化させたことにより発生した問題の対応で必要になっただけだったりと腑に落ちないもやもやが強く残った。図鑑は植物分類の成果を収めたものであるのとともに、利用者であるその分類を使うユーザへの利便を図るべきもののはずだと思う。その点が、この図鑑の改訂には足りないように今のところ感じる。

まあ、まだ、アマゾンで予約の受け付けも始まらない第5巻で全ての心配と不満が払しょくされるのかもしれないので、それまでは待ってみようと思う。

最近、書店が減っている。少なくとも、不満の少ない書店が減っているように感じる。最近の書店での問題点についてはまた次の機会にしましょう。

135 和泉式部さん、中也さん

藤井貞和

謂はば芸術とは、山を出でて「樵夫〈きこり〉山を見ず」の、その樵夫にして、暗き道にぞ、而も山のこと(「こと」中也傍点)を語れば、たどりこし、何かと面白く語れることにて、いまひとたびの、「あれが『山』(名辞)で、あの山はこの山よりどうだ」なぞいふことが、逢ふことにより、謂はば生活である。

(好評につき、いまひとたび。怒っていいよ、中也さん。怒りでばくはつしそうなことばかり。開聞岳くん、開門しよう。東尋坊さん、襲来です。いえいえ、和泉式部さん。)

冬の響き

高橋悠治

2015年4月から波多野睦美と『冬の旅』の練習をはじめ、9ヶ月後に神戸と東京で3回公演。これほど時間をかけた練習ははじめて。以前岡村喬生と数回公演したこともあり、斎藤晴彦の『日本語でうたう冬の旅』では、山元清多を中心に斎藤晴彦・高橋悠治・田川律・平野甲賀の5人で訳詞を作って、数年公演したこともあった。こんどはヴィルヘルム・ミュラーの詩とフランツ・シューベルトの音楽についてあらためていろいろ考えた。練習の合間には、Ian Bostridge: Schubert’s Winter Journey: Anatomy of an Obsession (2015) をすこしずつ読んだ。詩の日本語訳もした。そのままうたえる訳詞ではなく、詩の各行に字幕のように対応する日本語で、翻訳調の人称代名詞をできるだけ削り、名詞止めや言いさし、ドイツ語の規則的な韻律のかわりに、不規則な半韻をつかう。対訳pdfはここ

歌手であり、歴史家でもあるボストリッジの本からは、当時の政治と文化についての知識をまなんだ。『冬の旅』は多くの歌手にとってのライフワークであり、録音もホッターやフィッシャー・ディスカウなど、いくらでもある。こんどはそういう名演奏は参考にしなかった。作曲家・演奏家として、シューベルトやミュラーと直接に政治的・文化的・音楽技術的対話をしようと思っていた。

ミュラーは、バイロンのようにギリシャの独立運動に参加したくてローマまで行ったが、デッサウに帰らなければならなかった。シューベルトはウィーン周辺から離れられず、抑圧的な体制の、検閲と警察の監視の下で生きた。詩と音楽の抵抗は、正面からのマッチョでヒロイックなアジテーションではなく、ひろくひらいた空間を指さすちいさな身振りでじゅうぶんできる。理論や思想ではなく、演奏のときの、詩や音楽のリズムと身体表現への共感が、啓蒙主義やロマン主義の時代をこえて、いまも息づいている。

ミュラーの『冬の旅』からハイネの『ドイツ冬物語』へ受け継がれた政治詩の流れ。民謡のように簡潔で奥行きのある表現と古典的な韻は、ブレヒトの詩の方法でもあった。第20曲『道しるべ』の「これから行くのは/だれも帰ってこない道」は『ハムレット』第3幕『だれも知らない国から/旅人はだれも帰ってこない」を思わせる。22『勇気』の「神がいないなら/われらが神だ」はニーチェを思わせるが、うつろなアイロニーにすぎない。失恋した男が旅に出るという最初の設定から、人格も性別も消え、家も故郷も捨て、涙も凍り、悦びも悲しみも、夢も希望も幻、休む場所はなく、死と墓も通り過ぎ、闇夜のハーディ・ガーディ、乞食の楽器にみちびかれて、どこかへ消えていく、だれでもないものの、沈黙に向かう貧しいことばは、ほとんどサミュエル・ベケットだ、と言いたくなる。

ハムレットが俳優たちに指図する。「ふるまいをことばに合わせ、ことばをふるまいに合わせ」、やりすぎず、自然の慎みをまもれ。シューベルトがミュラーのことばに音楽をつけたやりかたにも、おなじことが言える。楽器の前奏がその場面を描き出す。風も寒さも、雪の華も、イヌやカラスやニワトリ、風見の旗のきしりまでそこにある。と言っても、いわゆる描写ではない。声は楽器のつくる空間のなかで、声の美しさを聞かせる「歌」ではなく、ことばの抑揚と音色で彩られた旋律の輪郭をなぞりながら「語る」。登場人物を「演じる」ではなく、だれでもない声が壁の向こうで語ることばが喉のフィルターを通して増幅される。と言うと、「表象」のように思われるし、音やことばが向こう側にあり、表現する身体がこちら側にあるような図式が浮かんでくる。演奏の場を離れて、ことばをつかうと、その場で生まれるなにかは消えてしまう。とりあえず、声と楽器をあわせて、現実から生まれ、現実に作用する楽器と声の空間、と言っておこうか。

シューベルトをロマン派として解釈すれば、長いレガートの旋律線、うねり高まる響の嵐、全体構成から分配される部分の劇的対照、過剰な感情表現、演奏技術の誇示、こういう演奏は多いだろう。1950年以後の音列的構成主義から見た「前衛としてのシューベルト」像もある。音高・音価・強弱記号の組合せに解体した響きの精密な設計。記号的理解につきものの速めのテンポと均等なリズムによるディジタルな略画。こういう演奏も、じっさいにあるだろう。

シューベルトを「ウィーン古典派」や「初期ロマン派」ではなく、過渡期の不安定な歴史的な身体と感じるのはむつかしい。演奏は定型を崩しながら、即興でもなく、シューベルトの受け継いだ演奏伝統を考慮しながら その場で対応していく部分がある。第1曲の第1小節の4つの8分音符が均等な歩みになれば、演奏はもう失敗していると感じる。バロック的な不均等な拍を参照しながら、耳が納得する響きを作ろうと試みる。1拍目が少し長くすると、長短短格ダクテュロスに近づく。これはゆるんでいく、空間にひらかれた律、足早にすすむか、おそい場合は21『宿屋』や『死と乙女』での死のリズムにもなる。こうして旅人は歩みはじめた。前半は次の曲が前の曲のパターンを変奏しながら、12曲まで歩み続ける。後半は前半の曲のどれかに対応している。前半はゆっくり谷底へ降りていき、12『ひとりきり』で行き止まりになる。後半は屈折しながらさまよい、24『ハーディ・ガーディ弾き』で空中に消え失せる。

そのほか『冬の旅』の練習をきっかけに見つけた、ピアノで使える技術には、弱い音のさまざまな翳り、腕の重みで強い音をつくるかわりに、胸を引き上げて腕が車輪のようにうごく空間を作り、和音の微かな崩しで内声部に注意を向ける、アクセントを遅らせて呼吸の間を作る、長い線ではなく、ずらした音の層の重なりや滲みとしてのメロディー、音をことばとみなすバロック的な短いフレーズ、たえず伸縮する拍(テンポ)の揺れがある。逆に、身体技法があれば、中心音や和声、ポリフォニーやヘテロフォニーといった既成の技術はいらない。乱流と孔のある空間で音楽が作れる。ハーディ・ガーディの「貧しいものの音楽」が、ベケットのことばにも似た途絶えがちの響きをつむぐ細い流れになって、余韻をたなびかせる。