夏の燈

璃葉

薄紫色の夕闇の中へ自転車をこいでいく。

目的地への近道のため、近所では割と大きめな公園を横切ろうと緩やかな坂を下っていくと、いつもとは比べものにならない人の多さ。橙色のちょうちんがいくつもぶら下がっている櫓を見て、「あ、夏や」とこころの中で呟く自分がいた。

梅雨が早めに終わり、夏本番だとニュースでは聞いたりしていたが、この一ヶ月の中で胃炎を患い、体調は最悪、自分の部屋で寝るか、読書をするかバイト先の暗いバーの中に引きこもっているか、何の色気もない熱風が立ち籠める四角いビルの間を歩くかで、行動範囲はやたら狭くただただ上昇していく気温と、下降して行く自分に嫌気がさすだけだった。

公園の木や遊具に浴衣姿で楽しそうに登る子供達や、がちゃがちゃと並ぶ屋台、ボロいスピーカーから流れる祭り囃子、暖かく賑やかな空気。

公園を横切る数秒、暗かった自分の目や耳に、懐かしくも新しい色と響きが入り込んでくる。夏を実感する一瞬の風景だった。

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ルービックキューブ

植松眞人

 そういうのが得意な人だと思ってた。

 ひとつの面だけが赤い色に揃ったルービックキュービックを冗談めかして見せる僕に、彼女はそう言った。僕がいつもルービックキューブを持ち歩いているわけではない。たまたま立ち寄ったカフェの窓際に、使い込んだルービックキューブが置いてあっただけだ。
 彼女が化粧室へ行き、戻ってきて、頼んでいたハーブティーが来て、頃合いを見計らってカップに注ぐ。その間に、僕は赤い面をせっせと一つに集めてみたのだった。もともと、こういうパズルは苦手なので、他の面のことを考えていては、一面だって完成しない。そんなルービックキューブを横目で見ながら、彼女が僕に投げた言葉は、すんなりと僕の中に入り込んできて、そして、腑には落ちずに小骨のように引っかかった。
 最初、彼女の言葉の棘のようなものに気付かなかった僕は、とても気持ちのいい風が吹くカフェの片隅で、ふいに小さな不快に気付いて、シャツの中にじっとりと汗をかいた。

 彼女がハーブティーを飲んでいる間に、僕はもう一度ルービックキューブを手に取った。そして、ガチャガチャとキューブを回して、赤い面を崩しながら、何気ない口調で彼女に聞いてみた。
「ルービックキューブが得意な人とか、そういう人に憧れるわけ?」
 彼女は僕を真っ直ぐに見つめる。
「どういうこと?」
「さっき、言ったじゃない。そういうのが得意な人だと思ってたって。ちょっとがっかりした口調で」
 そう言うと彼女は微笑んだ。
「がっかりなんてしてないわよ」
「ほんとに?」
 そう問い返すと、彼女は少し考えた。
「そうね、がっかりしたかもしれないわ」
「やっぱりね」
 僕は今度は青い面を揃えようと、ルービックキューブを回している。彼女はそんな様子を眺めている。
「うそよ。がっかりなんてしてない。ただ、本当にあなたが、そういうの得意な人だと思ってたのよ」
 もう一度、そう言われて、僕の中から棘のようなものがすっと無くなるのを感じた。
「今ね、すごい楽になったよ」
「どういうこと?」
 彼女が僕に聞く。
「そういうのが得意な人だと思っていた、って言われて、さっき僕はとても悲しくなったんだよ」
 彼女が僕を見ている。
「だって、君が僕のことを知らなかったってことがわかったんだから。だから、僕は一瞬にして深く傷ついた」
「わかるわ」
 彼女はすまなそうに言う。
「だけど、ゆっくり理解した」
「何を?」
「ああそうか、君は僕を理解していなかったんだなあってこと」
「私があなたを理解してないのに、楽になったの?」
「そうなんだ。なぜだろう」
「なぜ?」
「わからない。わからないけど、それでいいやって」
「私はどうすればいい?」
「どうもしなくていいよ」
 そう言うと、彼女はとても嬉しそうな表情になった。
「このままでいいの?」
「そうだよ」
「わかったわ。でも、なぜなんだろう」
 彼女は僕に聞く。僕は彼女の目をじっと見ながら答える。
「どうせ、わかり合えないんだから、無理することないってことだよ」
 僕がそう言うと、少しだけ微笑みをたたえていた彼女の瞳からそれが消えた。そして、静謐とでもいうような深く濃い瞳になって僕を見つめた。見つめられた僕はルービックキューブの動きを止めた。
 二人の間の空気が硬くなり、やがて、少しずつ柔らかくなり、彼女の瞳が光を取り戻してくる。そして、にっこりと笑うと、彼女は言った。
「そうね、どうせわかり合えないんだから、無理することないのよね」
 僕は手の中のルービックキューブを見た。さっき、青い面だけは揃えたと思っていたのに、そこに小さな赤い四角が一つだけ混じっていた。

掠れ書き15(刺ある響き)

高橋悠治

アルチュセールの出会いの唯物論からエピクロスを思い出し、クリナメンから明滅するオドラーデックにたどりつき、カフカのノートやヴィトゲンシュタインの綴じてないページの束、マトゥラーナの循環するオートポイエーシス、と、むかし一度は触れた飛び石に、別な回路でもう一度出会う。

棒ではじき出された磨かれた金属球が釘にぶつかりながら、逸れて思いがけない囲いに転げ込むコリント・ゲームは、子どものころにはあった。わずかな盤の傾きが、最初の一撃だけで見捨てられた球のうごきを惰性で決めていくとしても、釘に触れるか触れないか、ほんのわずかなちがいで、球の行末を思うままに決められる技術もなく、軌道を予測することには意味もなく、パチンコとは、新幹線と牛車ほどもちがう。天地不仁とはこのことか。

巡礼は離れて、遠く逝き、遠く離れればまた還る。還りは往きとおなじ道は通らない。また往くときも前とおなじ道は行かない。これは全体から見下ろす確率論ではなく、一回の試みはいつも偶然。天気予報では30%でも、いま降っている雨は、100%の雨。どんなにまちがったり失敗しても、歴史は確率ではなく、過去はたしかにそこにあった。でも、いまは日常の闇があるばかり、他には何もない。

使う音がすくなくなれば、メロディーは無限に伸びてゆく。まばらで、微かで、おぼろげで、形がない音楽は尽きない。それでも、どこかにとげがある。

ジョン・グレイの政治哲学から老子に曲がり、西脇順三郎の草を摘みながら歩く詩と、サパティスタの問いかけながら歩く政治運動と、池をめぐる風景の変化、反遠近法、みんなむかし一度は思ったことでも、時を隔てて思い出すときにはちがっている。一つのものでなく、あるいは、一つのことからはじまるとしても、一は純粋の一ではなく、すべての色を含んだ一。二は対立する二ではなく、連続する線の両端、温度計の水銀柱の範囲、三は3つのものではなく、組み合わせ{1,2,3,12,13,23,123}の七でもなく、三角形は囲まれた平面のすべての点を含む。

夜明け近く、暗い空間に光の粒子が漂いはじめると、閉じていた眼がふと開く。バス通りの騒音と混じって、神経の高周波の持続音が聞こえる。身体はまだうごかず、考えだけがしばらく彷徨っている。そんな時に、むかしの記憶や読んだ本の一節が結びついて、ゆっくり回りだす。

行列を組んで高みにのぼり、領土を見下ろしていたむかしの天皇が、反対側からやってきた神の行列とにらみあい、先に名乗りを上げた神は負けて追い払われた神話、神の怨念を祭る山。雄同士の小競り合いと、縄張りを見まわり、マーキングを残し、高いところに上って雄叫びをあげる習性は、人間になっても変わらない。バリ島の司祭たちは、頭上に天以外をいただいてはならないので、橋やトンネルの下をくぐるわけにはいかない。回り道して山にのぼり、道なき道を反対側へと進む。山登りして、尾根を縦走し、降りる道で崖から転げ落ちるのは、背を向けた谷の女神の引力か。

構造主義の20世紀は、作曲家が全体を計画し、要素を配分しながら、地図の上で、それらの組み合わせやうごきを監視していた。目的地も出発点もなく、軌道がずれていく水の循環、谷の音楽は、弱く、柔らかい響きは、耳に残る。

涼しきや――翠ぬ宝81

藤井貞和

ゆくはさびし 山河も虹もひといろに

思想の詩終わる六月 きみがゆく

水売りの声も届かぬ幽境へ

炎天に苦しむこともないだろう

五七五 終わるかきみの初夏に

幽明のさかい越えゆく 涼しきや

衰うることなき燃ゆる五七五

壊滅を見届ける 清水昶(あきら)ゆく

(清水=夏の季語。昶(あきら)さんは晩年、俳句ひとすじでした。相伴します。)

きつね

大野晋

うちの近所には時々狸だのハクビシンだのが出没する。いつぞやは路地の角でばったりと遭遇し、顔を見合わせることがあった。ちょうど、その角の正面が警察署だったのが不思議な縁である。
狸はときどきご近所さんとしても会うのだが、狐にはとんと縁がない。テンやオコジョといったよほど珍しい動物の方が出遇った回数が多いのだから、縁遠いと言た方がよいのかもしれない。そのうち、きつねの近所にでも住んでみたいと思うのだが、どなたかきつねの近所に住まわれている方は情報をお教え願いたい。

きつねと言えば、毎月青空文庫のランキングをのぞく楽しみもきつね絡みだったりする。新見南吉には2つのきつねの話がある。ひとつはご存知「ごんぎつね」悲しいいたずら狐のごんの話である。もうひとつはきつねの親子の姿を描いた「手袋を買いに」で、この2作が上位ランキングに必ず入っている。私の肩を持っているのは「手袋」の方で自分で登録したくらいに好きな話だったりする。そして、毎月、この2作のランクの上下を見ながら勝っただの、負けただのを一人楽しんでいるのだ。ただし、「手袋」には弱点があって、手袋が不必要になる夏場には分が悪い。今年の夏の暑さが、実は私のささやかな楽しみを左右している。

さて、例にもれず、私も連休から数名の作家と密にお付き合いして、作品読みに没頭(すると実ははかが行かないのだけれども)する羽目になった。そのひとり、田中貢太郎は怪奇もの、怪談ものの収集、紹介者として有名だが、中国の怪奇もののなかに、狐の嫁を貰う話が多数でてくる。面白いのが、狐は嫁に貰っても、狐のところには嫁は出さないらしい。中には親しくしていた狐と、そこに自分の妹を嫁に出さないということでいざこざになり、最後は狐の娘を子供の嫁にもらって一件落着なんて話も出てくる。

いくつも読んでいると、ふと、狐とは別の民族なのではないかと思い当たった。そう言えば、西域の少数民族地域にはいまでも欧州系の掘りの深い民族が暮らしている。どちらかと言えば、顔の輪郭が丸く、タヌキ顔のモンゴロイドに対して、いかにも、ひげを蓄えたキルギスあたりのおじさんはきつね顔と言われれば見えない事もない。

そこで思い出したのが、現中国政権の勧める民族融和策であった。伝え聞くところによると、漢民族の若い男性に、少数民族の女性との結婚を勧めているのだそうだ。これが漢民族の女性に少数姻族の男性との婚姻となっていないところがまさにきつね式。今も昔も、きつねとの付き合いは変わらないのかもしれない。

そう言えば、中島みゆきの歌に、狐狩りの唄があったなあ。と、ふと、アマゾンを検索に行く。

しもた屋之噺 (115)

杉山洋一

6歳の息子が担任のエステル先生に、国歌を歌うときなぜ手を胸にあてるのと尋ねると、「それは心の歌だから」と教えてくれました。
「未だあなたには早いけれど、小学校に行ったらむつかしい歌詞の意味をじっくり勉強するはず。イタリアが生まれるいきさつは大変なものだったのよ。沢山の人たちが命がけで力を併せてくれたおかげで、今のわたしたちがいるの。そんな皆に思いを馳せて、手を胸にあてるのよ」。
息子が3年間通った市立幼稚園の卒園式に顔を出すと、イタリア建国150周年の今年に因んで、最後にさまざまな人種の園児たちが、右手を胸にあて、元気よくイタリア国歌を歌っていたのです。

担任のテレーザ先生とエステル先生は、最後の面談で小学校への引継ぎの話が一通り済むと、「あとは涙がこみ上げてくるだけだから、すぐに連れて帰って」と少し照れながら話していたし、息子が日本に発つ前日、最後の登校のつもりで挨拶にゆくと、明日の便はお昼過ぎ?それなら朝はここで少し過ごしてから行けばいいわ、お別れは明日までお預け、と土俵際で寄り切られました。

あれから一週間経って、一足先に戻った家人と息子を追って今朝ほど東京に戻ったところですが、空港に向かう道すがら、幼稚園に一年の勉強の成果をまとめたアルバムを受取りに立寄ると、アルバムが税関で取上げられないかをとても心配していて、恐らく大丈夫と答えると、「そんな曖昧なことでは困るので、私が秋まで預かっておきます」と言われ、慌てて、必ず息子に渡しますと約束して、何とかお許しを貰いました。二ヶ月ほど家を空けることになり、息子が室内で育てていたトマトの苗のうち、二株は庭の菜園に植替えましたが、留守中按配よく雨が降るとも思えず、残った一株は息子と仲良しのニコライにプレゼントしたところ、日本に戻る日の朝、「トマトがぐんぐん育っていて、一つ新しい小さな新葉も吹いたと忘れずに伝えて頂戴」と、わざわざ彼のお祖母さんが電話をかけてきてくれました。

そうして、一週間ぶりに東京で会う息子は、二ヶ月ぶりの日本の小学校がすっかり楽しい様子で、彼なりに溶け込もうと頑張っているのでしょう。数日で「わかんねえ」「すげえ」「きたねえ」などと覚えたての男言葉を、家でも嬉しそうに連発していました。家では日本語は母親としか話さないので、そろそろ彼の日本語の女性化が気にかかり始めたところで、ほんの一週間で、日本語の割舌も見違えるように良くなり、早口になっているのを見るにつけ、子供の吸収力にあらためて驚いています。

さて3年前、ちょうど息子が幼稚園に通い出して暫くしたとき、ボローニャのアラッラとラ・リカータから、才能のある若者がいるので面倒をみて欲しいと頼まれ、ミーノがおずおずとレッスンにやってきたのを思い出します。彼は音楽を始めたのも遅く、高校までは父親を継いで数学者になるか、音楽を続けるか迷っていたそうですが、当時からとても身体が大きく、ムーミンのように太っていて、文字通り繊細な巨漢でした。

飛び抜けてピアノと作曲の才があり、ずば抜けて耳は良かったのですが、両親が離婚していて手元にお金はなく、いつも鈍行でボローニャから通ってきていましたが、その分熱心に勉強して、めきめき力をつけました。自分に教えられることも、そろそろ言い尽くしたかと思っていると、ちょうど息子の卒園式のころ、マインツの劇場のアシスタント指揮・ピアニストに決まったとおずおずと連絡をくれ、一同飛び上がって喜んだことは言うまでもありません。

彼は元来チューリッヒ音大の指揮の博士課程を目指していて、1年目の受験は全く箸にも棒にもかからず、2年目はすんでのところで合格点に届かず、3年目は合格には充分な点数だったけれども、クラスの席が空かずに落ちてしまい、将来を悲観していました。だから、受かるつもりも全くなく、見ず知らずのドイツの劇場で、馴れないドイツ語のサロメのコレペティでオーディションを受けて、初めて、まわりの受験者が各地の劇場のオーディションを渡り歩くコレペティ志望者だと知ったそうです。

最近ふとした偶然から、3年前のボローニャの劇場でのライヒのEightLinesの演奏がインターネットで見られるのを知りましたが、本番でピアノの譜めくりをしていたのも彼でした。あの演奏会の頃、レッスンに来だしたばかりのミーノと、リハーサルの合間に時間を見つけては、舞台裏などでチューリッヒの課題曲だったブラームスのハイドン変奏曲を一緒に勉強していたのが懐かしく、奇しくも、ハイドンの聖アントニの主題は、息子が特に大好きで、拙いながら自分でピアノで弾ける数少ないレパートリーの一つなのを思い出しました。3年という時間が長いのか短いのか、分らない気もするし、少し実感できるようになった気もします。

さて、外は夕立が酷く雷も鳴りはじめました。
蛇の目ではありませんが傘を携え、息子を迎えに行ってくることにいたします。

(6月30日 三軒茶屋にて)

犬狼詩集

管啓次郎

  35

あるひとりの無名の人の出生地と死亡地を
緯度と経度で地図上にしめし
ふたつの地点を直線でむすんだものを
仮にその人の生の、あるいは滞在の、線分と呼ぶ
二十二歳からの七年間
ぼくはそんな仕事をしていた
もちろんその間も調査を怠らなかったので
三十歳の誕生日の直前にはある個人的な
成果に達することができた
六月の桜桃のようにうれしかった
そのときマッピングに成功したのは百二十八の線分
もっとも古い日付は一七四九年で
もっとも遠い地点はゴアだった
線分の群れは東アジア一帯と
フィリピンからトレス海峡、ミクロネシアにまでまたがっていた
百二十八人。ぼくの七世代前の先祖たちだ

  36

想像力がそれまでに想像したことのある「世界」を
乗り越える、その一瞬を「詩」と呼ぶことにすればいいじゃない
と私が一緒に勉強したアイスランド女性がかつて話していた
乗り越えはふたつの契機によってもたらされるだろう
一つ、それは外部に由来する
新しい現実表象(言語+心像)が到来するとき
一つ、それは私の内部において
これまで気づかれなかった組み合わせが発見されるとき
いずれの場合もおもしろいのは
想像力それ自体はほとんど無力だということ
想像力とは能動的・積極的な力ではなく
つねに受動的なある態度にすぎないと私は思う
つまり詩は作れない
それはただ見つかるものにすぎない
詩はみずからを見出すものにすぎない
横たわる想像力がみずからを離脱し超越するのだ

「原発切抜帖」のこと

若松恵子

敬愛する山本ふみこさんが、ないしょの話をするように「原発切抜帖」という小さな映画のことを教えてくれたのだった。土本典昭監督自らスクラップしてきた原子力関係の新聞記事だけで構成された45分の短い映画だけれど、深刻なテーマにしては小沢昭一の語りと水牛楽団の音楽が洒落ていて、今、再び見るべき映画ではないかということなのだ。水牛楽団が音楽!。そういえば山本さんの美丈夫さと気風の良さはどことなく八巻さんと似ているな、などと思っているうちにがぜん見たい気持が高まった。

1982年製作のこの映画は、借りてきてみんなで見る方法しかないかもしれないと思っていたが、岩波ホールで上映されているということを再び山本さんから教えてもらって、最終日に駆けつけることができた。

岩波ホールの緊急特別上映は、羽田澄子監督の「いま原子力発電は…」(1976年/放送番組センター、岩波映画製作所・テレビ番組)との二本立てだった。先に「いま原子力発電は・・・」を見る。始業まもない新品の福島第一原子力発電所が出てくる。「原発事故が起こる確率は50億分の1で、それは隕石にあたるのと同じ確率です」という説明が出てきて、会場には苦笑のさざ波が起こる。「万が一事故が起こった時には、自動に停止しますから大丈夫です」というセリフには、「ウソだ」というつぶやきが後ろの席から聞えてくる。

早稲田大学教授(当時)の藤本陽一氏に羽田監督は話を聞いていく。”原子炉のからだき”という最悪の事態を防ぐには、1分という短い時間のなかで、離れ業の対処をやってのけなければならないという話が出てくる。原子力は有望なエネルギー源だが、賛成できない理由として構造に問題があること(緊急時の冷却が実際には難しい構造になっている)、放射能をいっぱい持った廃棄物が出ること、軍事利用につながることを挙げている。軍事力につながることなど、今は誰も触れない問題だ。

「事故が起きる確率は、隕石に当たるのと同じくらいと聞きますが」と羽田監督は質問する。交通事故のように、頻繁に事故が起こるものについては充分な確立を求めることはできるが、原子力発電のように、事故が起こったとしても非常に稀なものについて、充分な確立を求めることはできないというのが藤本氏の見解だ。科学的に考えるとはどういうことなのか、信頼できる専門家とはどういう人なのか、藤本氏の説明する姿からそんなことを感じた。

「原発切抜帖」(1982/青林舎)は、「新聞記事は日々の風速計だ」という小沢昭一のナレーションで始まる。画面は広島に原爆が落とされたことを告げる短い記事まで時代を遡る。新型傷痍爆弾に対してどう対処すべきかという心得を述べた記事を映しながら、「戦時中は心得だらけでした」というナレーションが重なる。節電の心得、熱中症にならない心得…今もまるで一緒ではないかと思う。そして原爆のことが明らかにされたのは、終戦直後のことだったという。「どうして広島の時に教えてくれなかったのか。」長崎に原爆が落とされた記事を映しながらのナレーションだ。

1981年の敦賀原発の事故対応で、放射能を含んだ水を雑巾で拭きとったという記事。「たとえ放射能が相手でも、現場の人は素手で働くしかない」という実態。アメリカで、原子力関連の死者を13,000人以内にしようという”安全対策”が取られているという記事。「被曝を前提とされた職業が公認されることになる」というナレーションに、そういう見方もあるのかと思う。新聞の記事と、ナレーションと・・・・。水牛楽団の奏でるうららかなメロディーが、私たちの、のんきさを浮き彫りにしていくようだ。

これは、チェルノブイリの事故が起こる前につくられた作品なのだ。これを見るところから何を始めたらいいのか、不誠実なことは言えないと思う。ただ、「日々家々に配達される新聞」の記事のなかに、淡々と進んでいく事態が書かれていたということは分かった。

「原発切抜帖」の追加上映があるようです
8月7日(日)〜8月26日(金)12:10〜 当日料金1,000円のみ
オーディトリウム渋谷

ハエの街

さとうまき

北イラクのアルビルは、とても暑い。不思議なことに、シリアやヨルダンよりは北に位置するのに、比べものにならないくらい暑い。50度を越えているだろう。歩いているだけで息が上がるのだ。

アルビルは、イラクでは一番近代化が進んでいるが、それでも辺境の地という感が否めないのは、遠くに聳え立つ山々とぎらぎらと照りつける太陽のせいか。もっとも太陽はどこでもぎらぎらと照りつけるものなのだが、50度をこえる空気は、太陽の水素爆発により発せられる熱線であり、何億光年もかけて地球に到着して、皮膚を焦がしていく。という非科学的な表現をすれば、いかに辺境かがわかるだろう。

そんなくそ暑い辺境で一人黙々とではなく、気勢を上げて働いている日本女性がいる。私と同じ年齢なのだが、アフリカで鍛えたせいか、基礎体力が違うのだ。しかし、住宅環境が悪く、近く引越すというので、様子を見に行く。確かに、アパートの階段の要り口には、生ゴミが回収されず悪臭を発し、ハエがたかっている。何よりも停電が多く、冷房が効かないし、水が出ないという。

仕事の話になると、ついつい力が入ってしまう。議論が盛り上がると息が荒くなる。口角泡を飛ばすという言葉があるが、そんな感じで、僕たちはお互いの不満をぶつけていた。
「ともかく、311後、日本は変になってしまったんだ!」
その時、急に話が途絶えた。
「あ、ハエを飲み込んだ」と彼女。
確かに、ハエは、水分を求めて唇の周りをうろうろ飛んでいるが、つい口の中に入ってしまう事がよくある。
「どうしようって、ぺって出したら?」
僕は、目の前をハエが飛んでいることに気がつかなかったので、彼女の口からペッとハエが飛び出してくるまでは、信じられなかった。
「今、この辺で動いている」彼女はのど仏のあたりを指差した。
「あ、落ちた。。。〈胃の中に〉」
Sさんは、議論を吹っかけた私の方をにらんで、「どうしてくれるの!」といわんばかりだ。それでも僕は、ハエを一息で飲み込んでしまうなんて信じがたかった。
「うーん、胃液で死んじゃうから大丈夫じゃないかなあ」といい加減な返事をしたが、その夜、彼女は強烈な腹痛にのたうちまわったそうだ。

アジアのごはん40 ラッキョウ漬け

森下ヒバリ

今の季節、保存食作りで台所は忙しい。淡竹、実山椒、山蕗、梅、新ショウガ、ラッキョウ。どうしてこうも同じ頃にどっと出てくるのか。おかげで、最近は6月にはけっして旅行せず、日本にいるようになってしまった。

昨年の12月、アパートの玄関前のスペースに植えていたビワの木になんと6年目にして初めて花が咲き、青い実がついた。6月に入ってしばらくすると、実に色がほんのりついてきた。数の多い小さい実を摘果したり、茂りすぎた葉っぱを取ったり、カラスにすべて食べられないよう、手の届くところに袋をかけたりする。
ビワの実の具合を眺めているうちに奈良から梅が届く。鈴なりになっているビワの実でビワ酒を漬けようと思い、今年は梅酒はやめておいて、6キロ全部梅干に仕込む。

梅漬けはカンタンで楽しい。届いた梅を台所に置いておくと梅が熟れてきて、なんともいえないよい匂いが部屋を満たす。仕込みをはじめて、洗ったり、塩をまぶしたりしている間にも、その匂いに包まれて、なんともシアワセな気分である。花もいい匂いだが、この熟れた実の匂いは格別。これは梅漬けをする人だけが味わえる快楽といってもいい。ああ、梅の木がほしいなあ・・。

ビワは小粒だが、だんだん熟れてきて、けっこうおいしくなった。小粒なものを集めて焼酎につけてビワ酒に仕込む。雨の合間を縫って熟れた実を取り、友達に届ける。とてもうちだけでは食べきれない。今年は豊作らしく、方々で黄色く熟れた実がついたビワの木をみかけた。心配していたカラスも、色づいた初日にいらしただけ。ときどきヒヨドリの夫婦が食べに来るぐらい。

梅雨の合間に、あんまり暑くて日差しも強いので、去年漬けた梅漬けを干すことにした。いつも土用のころは忙しくて、さらに8月はいつも日本にいないので、梅漬けを干すタイミングがむずかしい。でも、日差しさえ強ければいつ干してもいいのだと気がついてからは、すっかり気が楽になった。1年でも2年でも塩漬けのままで置いておいてかまわないのである。むしろ、塩がなれておいしいぐらいだ。

土用干しの呪縛から自由になると、なんと梅干作りの気楽なことよ。しかも、3日3晩続けて干す必要もない。1日干して、次の日天気が好くなかったら、また梅酢に戻しておけばいい。雨が降るかもとやきもきしたり、外出を取りやめることもないのである。ばらばらでも、連続でもだいたい、3日間以上干すと、梅漬けは晴れて梅干に変身する。

先日仕込んだ今年の梅漬けの梅酢もあがってきた。塩は2割よりやや控えめなので、上から泡盛をカップ1杯注ぐ。これはカビ予防。梅の実が梅酢に漬かっていて、重石もしてあったら、干さないままでもたいがいカビは生えない。

もしカビが生えたら・・表面のカビの部分を取り除き、梅は焼酎などで洗って一度日に干す。梅酢はさっと熱して冷まし、また梅を沈める。重石を少し重くする。塩を追加する、などなど。けっして捨ててはいけません。
先週は思い切ってラッキョウ漬けに取りかかった。正直言ってラッキョウ漬けだけは苦手だ。あの、じっと立ってラッキョウを一粒ずつむいて、根っこを切って整えるのが、なんともつらい。貧血を起こしそうだ。流しで洗ったりしながらする作業なので、座ってするわけにもいかないしな〜。

でも、食べるのがきらいなわけではない。市販のものは甘すぎるので、やっぱり自分で作らなくっちゃ。ことしは少なめに500グラムにしたら、鼻歌を歌っているうちに仕込めた。この調子なら、またラッキョウを見かけたら追加製作してもいいかもしれない。

ヒバリのラッキョウ漬けもまた手抜き・・いや、ややこしくない大胆仕込である。一般的には皮をむいてそうじしたら、一度根っこをつけたまま塩漬けすることになっている。その後、ふたたび甘酢に漬けるらしいのだが、そのとき塩を抜いたりもするらしい。なぜだ? 初めから甘酢漬けにしちゃいけないの?ラッキョウをはじめて漬けようと思ったときに、作り方を調べて、この二段階が面倒臭いなあとあきらめかけた。しかし、「いきなり漬け」という漬け方を教えてもらい、「これならできそう」と思ってやってみたら、十分おいしいではないか。

いや、むしろ市販の甘っちょろい甘酢漬けよりずっといい。もっとも、家に遊びに来てこのラッキョウ漬けを食べ「このラッキョウ、野性的だね・・」と1個しか食べなかったヤツが一人だけいるが、そいつとはその後、別のことで信頼関係をなくした。いや、けっしてウチのラッキョウに文句をつけたからじゃありませんってば。

ラッキョウはかじったときの歯ごたえが重要だ。口の中でしゃりっと砕けるあの爽快感。歯ごたえのいいラッキョウ漬けは、仕込みのときの切り方で決まる。では、漬け込みの手間一回だけのヒバリ式ラッキョウしょうゆ漬けの方法でえ〜す。

3年ラッキョウはおいしいけど、小さくて手間が3倍なので、素直に大粒の1年物のラッキョウを仕入れる。
水洗いして泥をざっと落とし、長すぎる茎を切る。そこから薄皮をむく。根っこの部分を切る。ぎりぎりに根っこが微妙に残っているぐらい。まちがっても、市販のラッキョウ漬けのような大胆な切り方をしてはいけない。茎も市販のものよりやや長い感じでね。もう一度洗って、砂がついてないか確かめ、ざるにあけて水を切って乾かす。塩をちょっとふって、まぶしておくと身がしまって味がなじみやすい。

口の広いガラス瓶などに、水気を切ったラッキョウを入れ、しょうゆ1、酢1、さとうかはちみつ0.5ぐらいの感じで上からかける。さとうやはちみつをわざわざ別なべで熱して溶かして混ぜ合わせておく必要はありません。そのうち溶けます。いや、溶かしておいてもいいですけど。鷹の爪を1〜2本ほど入れる。乾燥したものね。

甘みはお好みで。これより少なくしておいて、しばらくして味を見て加減してもいい。塩味も足りなければ、しょうゆを足してしばらく置く。ラッキョウがひたひたになっていれば大丈夫。甘みは、砂糖やはちみつのかわりにみりんをいれてもいい。

1〜2か月で食べられます。1年間はカリカリです。

もっとかんたん、味噌漬けラッキョウ。家にある味噌を手ごろな容器に取り、洗って皮をむいたラッキョウのなるべく小粒なものを選んでそこに入れるだけ。ラッキョウが味噌にまぶされていればいいんです。3日で食べられます。酒の肴に絶品です。

沖縄の島ラッキョウを生で味噌をそえて食べる、あんな味。でも少し漬けてあるから絶妙なまろやかさもある。ほんの少し、あるだけで満足。1週間ぐらいで食べきりたい。お酒は、もちろん、泡盛か焼酎オンザロック!

ラッキョウは夏バテによく効きます。疲れた夜にはまず前菜でラッキョウ漬けを少し食べて元気を取り戻そう。暑さに負けて、電力会社の策略の「電気がないと困るでしょ〜」作戦に取り込まれないよう。今年も暑くなりそう(というかすでに真夏並み)だけど、原発なくても大丈夫、なとこを見せつけてやろうではありませんか。

終電のレモン

笹久保伸

君の墓の後ろに立つ僕の墓の前に立ち

左右色違いの靴を斜め下から履く

どうか君の好きにさせておくれ

終電で帰宅するが

秩父の信号の赤 緑に刺された深い霧を見て
できる事

蛙の見る夢について考えた

夜の霧は黄色いレモンをつかまえよう

と
走り出す白い子供の青いTシャツように

無邪気に溢れ出していた

海と港町の日

璃葉

アルバイト先の店長と
友人達に誘われて
つい先日、曇り空が広がる三浦半島へ出かけた。
店長が船を持っている、という話は
前々から聞いていたが、それが漁船なのか、
ボートなのかヨットなのか。
どんな船を持っているか全く興味が無く、
聞くタイミングも逃していた。
なので当日、駐艇場に並ぶ白くスラリとしたヨットを見た時には、
さすがに興奮した。いつものんびり、ほんわか、とした店長の顔が
急に男らしく見えてしまったりもして。

船にあまり乗ったことが無いので、
水面の近さや、身体中を通り抜けていく湿った風や、
ちょっとした浮遊感が新鮮で、
子供のようにはしゃいでしまい、(実際、子供か、と言われた)
太陽が出てもう少し暖かかったら海に飛び込んでいたな、残念。なんて言葉も漏らした。

その後、三崎の町へ。
本で読んだ三崎の風景はやはり想像通りだった。
しかし、閉店しているお店もちらほらあり、人通りも少なく、とても静か。
少し町の元気がないように見えるのは、震災の影響だろうか。ふと考え込んだりしたが・・・。
時間がゆっくり、ゆっくり、流れている港町を散歩できたのは
せかせかした東京に慣れてきてしまった私にはとても幸せなことだった。
三崎の町へは、車だとあっという間についてしまうが、
電車から電車、バスに乗り継いで行くのも楽しそうだ。

次は美味しい魚とお酒を頂きに行こうかしら。

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かくれ肥満の六月

仲宗根浩

年に一度の健康診断の半日ドック。医者から、かくれ肥満と言われました。体型は問題ないですが、中性脂肪、コレステロールが高いです。お酒は?と問われれば、毎日、と答えると一週間に一回になさい!と言われ、そうお高く言われるとひねくれ者には逆効果、と思いながらも、まあ、詳細な検査結果が届いたらこちらも考えてみようじゃないか、と病院を後にする。しかし、今回の胃カメラは去年よりちょいときつかった。あれも医者の技量?それとも麻酔のかかり具合?おのれの年齢による体力低下か?

六月のある日、帰ると夜は十一時過ぎ、室内三十一度。台風のあと、梅雨が明けずっと暑い。扇風機が一台壊れた。モーターの異音、羽は回ったとおもうと止まったり。古いものじゃないけれど、これを機にこいつをあきらめ、二台扇風機を購入し各部屋一台づつ扇風機を置こうと考え家電量販店に行き二台購入。数日経ったある日、家に帰ると長らく使っていた扇風機が羽がぽっきり折れた状態で佇んでいる。高校入学後初めての中間テストで早くも数学で赤点をかましてくれた息子が倒してくれたらしい。各部屋一台扇風機というインフラが早くも崩れる。翌日にすかさず代替のため一台購入。クーラーの清掃も終えて長い夏に向けて体制がととのった。

早い梅雨明け後、小学生の子供はプール授業が始まった。学校から帰ってきても普通に外で遊びに行く。線量なんて気にすることがない普通の日常がある。

月食気づく間もなく、夏至の翌日慰霊の日。学校が休みのうちの小学生は、十二時に黙祷をする、と言っていたがいつの間にか時間が過ぎていた。母親に南の方角を聞き、風呂場のほうだと教えられると、ひとりで風呂場で黙祷をしている。

台風五号が近づく。今年は一号から近くに来たので行きつけの居酒屋、糸満出身のご主人は「今年は一号から近づいてくるから台風の当たり年かも。」と言う。漁師町出身だからその通りかもしれない。五号が通り過ぎたあと、雨がかなり降り、風が強い日が少し続いたので、しばらくは涼しくなったあとまたいつもの日差しの強い日にもどる。

ジャワのマッサージ

冨岡三智

私は中学の時以来鍼灸にお世話になってきたという肩凝り持ちなので、ジャワでの留学・調査でなにより大事なのが、マッサージの類を受けられる場所を探し出すことなのだ。というわけで今月は、私が今までジャワで遭遇したマッサージについて書いてみたい。

  ●ウルット

インドネシア語でマッサージのことは一般にピジットpijitという。皮膚に対して垂直に押すのがメインなので「指圧」に近いと思う(「指圧」の厳密な定義は知らないけど)。ウルットurutという語もある。これは垂直に押すというより、筋を水平に押して一本一本位置を整えていく感じだ。今風の設備の所では、単にオイル・マッサージのことをウルットと言っているみたいだが、私がソロで見聞きし体験したウルットというのは、足の筋を違えたり、ねんざしたりした人のための治療で、ウルット治療を専門にする人がして、ピジット・マッサージ師とは一線を画していた。

私が以前見たウルットというのは、チウというアルコール度数90%くらいの酒を患部の足や手に吹き付け、ご飯粒をつけてそれを伸ばすようにして筋を整えていくというやり方だった。チウは飲料用アルコールではなくて(これを飲む酔っ払いもいるが…)、治療用だ。チウと言えばウルットという観念は、少なくとも私の周りにいたジャワ人には一般的なものだったと思う。と言った早々でなんだが、私が受けたウルットではチウを塗らなかった。私は2007年の公演1週間前に右足を捻挫してしまい、当時行きつけの鍼灸師さんにウルットをしてもらったのだが、この人は自分で木を削って施術棒のようなものを作っていた。足には何も塗らず、その棒を足の筋に当てて、ゆっくりと筋を元の位置に押し戻すようにしてゆく。この棒は指よりも細いので、微妙な操作が可能なのだった。この治療を1回受けて、確かに筋の位置が戻ったと自覚でき、痛みが激減したことを覚えている。

  ●クロック

ピジットやウルットはお金を払って他人にやってもらうものだが、家族や友人間でお互い施術し合うのがクロックkerok/クロッアンkerokanだ。これはマスック・アンギンmasukangin(アンギン=風が体内に入ること、風邪をひくこと)したときにする。首から背中にかけて、バルサム(タイガーバームの類)を塗って、骨や筋に沿ってコインでこすっていくと、アンギンが入った場所が赤くなるというもの。

余談だが、この時のコインには旧100ルピア硬貨が具合がよくて、ジャワの人たちはこれを使っていた。大きくて薄く、肌当たりがいいのだ。今は流通していないので、代わりに何を使っているのだろう?私はクロックのためにこの旧硬貨を何枚か取ってある。昔、ピジットの後でクロックもしてくれたおばさんは、クロック用にオランダ時代のコインを使っていた。100ルピアコインより大きくて立派だった。また、レンズをはめていない虫眼鏡のような形をした器具を使っていた人もいる。この器具は市販されているが、私には100ルピア硬貨の使い勝手が良かった。

話を元に戻す。私は自分でクロックするが、これは体がだるいとき、風邪をひいたときにかなり効果的だ。私はクロックした後に39度以上の熱が一気に37度くらいまで下がった経験がある。友達も同様のことを言っていた。ただしそれも熱の種類によるみたいで、熱が下がらないこともある。コインでこすらなくても、手で揉むだけでも患部の皮膚は赤くなる。アンギンが入るなどと言うと呪術めいて聞こえるかもしれないが、クロックの話を日本で鍼灸師さんにしたら、原理的には乾布摩擦や小児鍼と同じだから、それは効果的だろうと言われた。これらは予防的に行うもので、クロックは風邪をひいてから行うという違いはあるけど、確かに皮膚を刺激するという点では同じだ。

このクロック、都会の若者はあまりしなくなっているらしい。ジャカルタの友達に「えー、michiはまだやってるの?」と驚かれた経験がある。「昔、おばあさんがやっているのを見たことはあるけど…」と言われて、がっくり。ソロやジョグジャではまだまだ一般的だが、格好悪いとか古臭いとか、田舎的だとかのイメージがあるのかもしれない。

  ●リフレクソロジー(反射区治療)

インドネシアでも、日本のようにフランチャイズ志向の足裏マッサージ店が急速に普及してきているのだが、そういうお店はおいといて、ここでは反射区を刺激するという意味でのリフレクソロジーをやっている所、人を紹介する。患部を直接刺激するわけではないけれど、患部から離れた別の部位を刺激すると、それに対応する患部も直るというのが反射区治療だ。

ソロで私がよく行っていた足裏マッサージ店は足裏専門で、他のマッサージメニューはない。足裏、甲、足首から膝裏まで、1時間半かけて徹底的にマッサージしてくれる。足の指も、一本一本、一節一節やってくれて、ここまで丁寧にやってくれるお店にはいまだかつて出あったことがない。カルテもあって、終了後、身体のどこが悪かったか施術者が書き込んでいる。ここで足を揉んでもらうと、足が暖かくなり、軽くなり、そしてオナラがよく出て、気分が爽快になる。オーナーは華人系で客層も華人系が多いが、一般のジャワ人も多い。華人系の人たちは夫婦、恋人、親子、友達同士など連れ立って来ることが多いのが特徴だ。

足裏ではなく、足の膝から足首までの間(脚の部分ですね)を刺激するというのもある。この治療に特に名前があったかどうか、覚えていない。私は2000年か2001年頃に一度受けたことがあるのだが、それ以前からそういう治療があるという話は聞いていた。施術者は脚の各所を素早くつまみ弾いていく。それで痛い部分があると、そこに対応する内臓なりが悪いということになるのだが、どこをつままれても痛かったというのが正直なところだ。その治療で良くなったかどうかも、私にはよく分からなかった。私が施術してもらったA氏というのは、ソロではこの技法で有名な人らしく、結構えらい人達も通ってきているみたいなことを後日別のところから聞いたが…

  ●刺激療法?

ジャカルタの外れにある、とあるモールにあるマッサージ院で受けた治療。普通のマッサージのつもりで寝台にうつぶせに寝たところ、いきなり、ベッドのマットをはたくもの(インドネシアでは80cmくらいの細い籐の棒?ひご?を数十本、ささら状に束ねたものでマットをはたく。)で、足から背中にかけて順にバシッ、バシッとはたかれた。その後普通に揉んでくれたが、まさか、はたかれるとは思っていなかったので、驚いた。これも伝統的な療法で、邪気を体内から追い払っていたのだろうか…?ともかく、刺激を受けたせいか、それなりにすっきりした記憶はある。

オトメンと指を差されて (37)

大久保ゆう

[某オトメンの仕事場にて、どうにもこうにもかわいくない(むしろグロテスクで異形の)ぬいぐるみたちが語らっている。]

でかい上にフォルムと色のおかしいO(以下O) ひーまーだーなー
真面目なキャラにごまかされがちだがよくみると気持ち悪いT ですね
 ここ最近ずっとおれらの持ち主パソコンに向き合ったり紙めくったりしてるんだぜ
 仕方ないですよ、だって今あの人、論文と発表をいくつも抱えていて、研究にかかりっきりなんですから
 まーなー 持ち主は研究となると人でなくなるからなー
 しかし今日〆切の原稿などもいくつかあったりしたと思うのですが、どうなったんでしょうね
 ちゃんと書いてたんじゃなかったっけ
宇宙的に最強で怖いはずのC(以下C) ふはははははははっ
O&T わっ
 ぐわっはっは
 いったいなんなんだよ、いきなり
 そうですよ
 なにやらきさまらが原稿の話をしておったようなのでな、ふわっは
 だからどうしたっていうんだ
 あれならとうに没にしてやったさ、ぐわっは
 な、なんでですかっ! 書いたんなら出せばいいじゃないですか!
 ふっふっふ、きさまら、研究をしてるときのやつを知らないわけではあるまい
 あっ
 その通り! やつは必要以上に呪わしく冒涜的なものを書いてしまったのだ! オカルト少年の昔取った杵柄でなあっ! だからわしが没にしてやったわ!
 あっ、これですかね
 おいやめろ見るな読むな
 なになに……ああ……うん
 これはだめですね
 だろう? 擬音だって普段の「ぺけぺけ」じゃなくて「ぐももふげで」になってるしさ…… ってちがあああああうっ
 なんなんだよ
 われらが持ち主がマッドサイエンティストであることは、どうあっても伏せねばならんのだっ
 どうしてですか? べつにいいじゃないですか、オトメン以外にも属性が増えて
 そこっ 属性とか言うなっ
 この「居るだけで隣の人の心を折る」ってエピソード最高じゃないか。全世界に公表していこうぜ
 やっめっろっ そんなことはこのCさまが断じて許さんっ! 研究で忙しいときの持ち主はけして外に見せてはならんのだっ
 この「人の呪いを吸い取る」っていうのも
 禁止っ 名状しがたい台詞禁止っ!
 もうなんなんだよ、なんだったらいいんだよ
 そうですよ、どっちにしろ原稿は出さないといけないんじゃないですか
 ぐっ、ぐぬぬ……
 それにメールがたまってたりブックフェアに行けなかったりオフ会に出られなかったりするんですから、それに対するエクスキューズも必要でしょうが
 おい、なんとか言ってみろよ
 では……あれだ、われわれが今の話で原稿を埋めてだ、最後に一言だけ持ち主からコメントをいただければよいのではないか
T&O ほほう
 どうであるか
 いいぜ
 そうしましょう
 うむ、ではみんなして聞きに行こうぞ

(ぬいぐるみ3匹が某オトメンに近寄る)

C&T&O 持ち主、何かコメントを

(せっぱ詰まっている某オトメン、声に振り返る)

普段はオトメンに擬態しているが本当はマッドサイエンティストだったU(以下U) ……えくれあに……みそがはいったら……とっても……しあっわせ……♪
C&T&O どうもありがとうございました

猫のマロン、腹を見せる。

植松眞人

我が家の愛猫、マロンはもともと他の家人と僕との接し方に差を付けている。テーブルの下に隠れていて、僕が通りかかると突然飛び出してきて足に食らいつくのだが、そんなことをするのは僕に対してだけなのだ。嫁にも娘にも息子にもそんなことはしない。

エサをねだるときも同じだ。朝の8時頃と夜の7時頃がマロンの食事時。その前後になると「ごはん、ごはん」とうるさい。いや、冗談ではなく「ごはん!」と鳴くのだ。正確には普段の「にゃあ〜!」が「ゴニャン!」になるくらいなのだが、明らかにマロン自身は「ごはん!」と鳴いているのである。で、これが始まると誰彼なしに足下にまとわりつく。そこまでは家族全員に同じ対応なのだが、それでもエサをやらないでいると、僕にだけ甘噛みしてくるのだ。嫁にも娘にも息子にもそんなことはしないのに。

こうなると、マロンが僕の扱いと他の家族の扱いとに差を付けているとしか思えない。そして、最近になって、新たに僕だけにとる行動が増えた。それは、僕がカーペットの上にあぐらをかいたときに実行されるのであるが、こんな感じだ。

僕がコーヒーなどを手にテレビの前に陣取る。カーペットの上にじかにあぐらをかいて、リモコンでテレビの電源を入れる。そして、ゆったりと映画なんかを楽しみ始めると、小さくニャン!と鳴きながらマロンが近寄ってくるのである。そして、僕の真横に座る。このときは必ず手足を小さく折って箱座りするのである。僕が気にせずに放置していると、マロンは再び、ニャ!と鳴くと突如、僕の真横で白い腹を見せるのだ。まるで甘えるかのように、媚びを売るかのように、白い腹を見せて、ニャアニャアと鳴く。僕がそれでも無視していると、あぐらをかいた足とカーペットの間に自分の前足を突っ込み、白い腹を見せながら手足をバタバタさせるのだ。まるで先に寝ている男に媚びを売りながら近付いてくる恋人のようだ。

マロンがこの行動を取り始めて約1ヵ月。そう、僕がちょっとばかり入院して帰ってきてから、突如この行動が始まったのである。なにが起こったのか。もしかしたら、僕の身体の変化がマロンの中の何かに火を付けたのか。もうまるで、恋人にモーションをかけるかのように、マロンが僕に色目を使いながら、腹を見せ、ちょっかいをかけてくるのだ。

なぜだ、マロン。僕はもう来年五十歳になるおっさんだぞ。そして、マロン、お前だって、人間で言うと30代半ばになっているのだぞ。おっさん同志の関係に、何を望んでいるのだ。

そんなことを考えながら、ぼんやりと雑誌を読んでいた。今日の午後のことだ。また、マロンが近付いてきた。隣に来て、腹を見せるのだろうと思いながら雑誌を読み進める。来るなら早く来い。お前は僕を恋人と間違えているのか。それともちょっかいだして遊んでいるだけなのか。そんなことを思いつつ、気持ちとしてはマロンが近付いてくるのを楽しみに待っている。おかしい、来ない。どうして来ないんだ。そう思うが僕は意地でも雑誌からは目を離さない。駆け引きに負けてたまるかと思う。すると、かすかにマロンの爪がカーペットの上を歩く音がする。

僕は隣でマロンが横たわるのを待っている。ところが、急にマロンは僕の背後から走り寄り、僕の背中を駆け上ったのだ。そして、僕の頭の上にあがろうともがいたあげく、ドタンとカーペットの上に落ちて、ニャア!と鳴いて走って逃げた。

その去り際に、マロンが一瞬立ち止まってこちらを振り返ったのだが、その時の顔を見て悟ったのだ。ああ、遊ばれていたんだな、と。もちろん、そう思ってしまったことをマロンに知られないように、僕は雑誌のページをめくるのだった。

掠れ書き14(わらの犬)

高橋悠治

ジョン・グレイの『わらの犬』(Straw Dogs)」(2002)という本を読んで 老子の天地不仁、以万物為芻狗ということばを知る。そこで老子を読み、最近発見された馬王堆漢墓の『老子帛書』や郭店楚簡まで目を通してみた。

このことばはいちばん古い郭店楚簡(紀元前3世紀)にはない。馬王堆の二種類の帛書(前168年)にはある。『老子』は戦国時代に言い伝えられたことばのコラージュだから、どこかからまぎれこんできたのだろう。「世界に慈悲はない、すべてはわらの犬のように捨てられる」というのは一般的だが、そうでない訳もあり、英訳老子は123種、その他の言語でも無数の訳がある。解釈の数はさらに多い。

これらのことばの集まりである『老子』を統一された思想と考えるよりは、それぞれの断片が読む人の思いを映す鏡としてはたらくと思いたい。すべては揺れ動いて停まらない。不安定な大地と戦乱の世界には、信じられるような原理もなければ、それを信じる自分もいない。落ちかかってくる偶然を切り抜けながら生きていくのは身体の知恵で、意識や心、まして思想や信条ではないだろう。科学は仮説にすぎないし、現実にあわなければ、「わらの犬」のように捨てられる。それでも受身ではいられない。とりあえずの仮説を次々に脱ぎ捨てながら、身体というシステムを維持していく

普遍的な人間のありかたや、人間であることの特別な意義が感じられない時代に、さまざまな生きかたがあり、それらのあいだで折り合いをつけながらやっていくよりないとすれば、グレイのいうホッブス的modus vivendi (とりあえずの共存協定)は、老子のいう「道」、弱くしなやかに受け流すやりかた、またはエピクロスの「庭」、一時的な自律領域(ハキム・ベイのTAZ)かもしれない、決まった方向も目標もなく、意味や論理で差別することのない、ゆるやかな結びつきのなかで、ちがう位置から世界を観て、一歩ごとにたしかめながら、すこしずつうごいていくことになるのだろうか。

書いていると聞こえてくる、音にならない音楽。微かに白く、遠い空間、前後との差しかなく、切れながらつながる時間。ほとんど連句のような。

水槽の 水彩画 届かぬ希望

笹久保伸

  水槽の水彩画

底にある
コンクリートの大木の下!
水槽の奥深くにて
水彩画の舞踏が上演される
金魚

フナ
ヤマメ
イワナ
カジカ
セシウム
手足届かぬ永劫の希望は
64億通り×X
水槽の水彩画
奥深く
もはや
もう
届かぬ光のなかで
遠い昔に生まれた光の残骸をつかまえ
リサイクルしようと試みる錬金術師から
ヤマメとカジカの100万種類の
顕微鏡と望遠鏡を借りて
イワナの書物を読書する
地球を釣る君たち

釣り竿を見て
海老ノ姫は悲鳴をあげながらも
水彩画を描き続ける
その時はもう朝だった

  届かぬ希望

64億×X通りの希望は
出口の見当たらない
四方が密閉された4次元を
亡霊のようにさまよう
その外では
プルトニウムの音楽が流れ
その旋律の中には
幽かに
小さな水風船に入り
宙を舞う
細長い煙突

冷却された
鋼鉄製

冷たい食器
の風景
だけが
いくつかあった

しもた屋之噺(114)

杉山洋一

庭の大木は、5年前に住み始めた頃とは比べ物にならぬほど立派になりました。葉の間を通り抜けてゆく風の音に思わず心がなごみます。六歳になった息子も、毎日この大木を満足そうに眺めてから、教材の付録で送られてきたプチトマトの栽培キットに水をやって、日々の成長ぶりを自慢します。そうして、庭の大木は素敵だが、家が樹や葉に覆われると、きつつきが家に穴を開けるので困る、と少し困った顔で話してくれました。

彼は東京では先月小学校に入学しましたが、ミラノでは最後の園児生活を送っていて、拙宅から幼稚園のあるスカラブリー二広場まで5分ほどの距離を歩きながら、他愛もない話に花が咲きます。

「どうしてお父さんは土日にレッスンをするの」。
[みんな週末が都合いいからさ。昨日いたミーノだってボローニャから来たんだ。ボローニャは遠いんだよ」。
「どうしてミーノはボローニャから来るの」。
「ミーノがボローニャの近くで生まれたからさ」。
「ボローニャの近くで生まれたのは、自分で決めたからなの」。
「自分で自分が生まれるところは決められない気がするけどね。お前がミラノに生まれたとき、自分で決めたわけじゃないだろう」。
「じゃあ、おそらがミーノはボローニャに生まれるように決めたの」。
「そうかもしれないね」。
「おそらには神さまがいるんでしょう」。
「いるかもしれないね」。
「じゃあ、神さまが、ミーノはボローニャに生まれるように決めたの」。
「もしかしたら、そうかもしれない」。
「この間死んじゃったキアラのおばあちゃんも、おそらにのぼっていったんでしょう」。
「ああ、そうだったね」。
「おそらにいって、雲の上でキリストと一緒にいるんでしょう」。
「死んだらみんなおそらにのぼってゆくんでしょう。それで雲の上にいったら、みんな翼が生えるでしょう」。
「そうかもしれない。自分だったら翼はいらないけどね」。
「どうして死んだらおそらにのぼってゆくの」。
「生きているうちに頑張って働いたから、神さまがもう休んでいいよっていうんじゃないのかな」。
「じゃあ、ふわふわの雲のソファーでみんな休んでいるの」。
「そうかもしれないね」。

先日、サンマリノでハイドンのスターバト・マーテルを演奏する機会に恵まれ、その美しさに言葉を失いました。ハイドンは大好きな作曲家ですが、表現力の深さではどの交響曲でもスターバト・マーテルには劣るのではないかと思うほどの圧倒的な美しさで、かけがいのない経験となりました。

実は当初、楽譜を読み始めても、なかなか曲を理解できずに実に苦しい思いをしたのです。ずっと納得がいかず腑に落ちないストレスと、自分が間違いを犯している確信だけが頭にこびりついていて、漸く全てが氷解したのは本番前日の練習直前でした。

譜読みの間も、リハーサル中ひきずっていたフラストレーションのお陰で、答えのヒントが見つかったのでしょうから、今回ばかりは自らの拙さに感謝もしましたが、ほんの少し視点をずらすだけで全く違う鮮やかな世界が目の前に現われることに驚きもし、自らの役の重さを痛感しました。勉強するたびに思うけれども、自分が知りうる唯一の絶対的事象は、自分が何も知らないということだけです。

「スターバト・マーテル」はご存知のとおり、磔刑に処されたキリストの足下で悲嘆に暮れる母をラテン語で綴った宗教曲ですが、「スターバト・マーテル(母が居ました)」は、そのまま「スターバ・マードレ」とイタリア語で読め下せます。このように、このラテン語のテキストは読みやすくイタリア語に逐語訳出来ることもあって、リアリティがより強く感じるのでしょう、時に直截な表現の歌詞につけられた端麗な旋律に当初は戸惑いましたが、歌手や合唱の皆が言葉にこめる思いが音の宇宙を覆いつくすのを目の当たりにしました。

今回こうして手探りながらハイドンを勉強していて、自分がこの165ページの楽譜に救われていることを、何度となく感じました。日本のさまざまな出来事が頭を巡っていて、毎日送られてくるニュースに暗澹となりながら、家族はもちろん、友人や近所の子供たちを思いました。ブラウン管の中で燃え上がる神戸の街を呆然と眺めていた時と同じ、自分は安全な場所で何も出来ない虚脱感は、つい無意識に音楽を否定する思考へ流れそうになります。

演奏会当日は浜岡原発が全て止められて、福島では原発で作業していた男性が急死しました。サンマリノに出掛ける前日は、母の故郷である足柄のお茶からもセシウムが検出されていました。万感を込めて日本の皆さんのために演奏するというのとは凡そ反対で、ただ楽譜を無心で読み、全てを放下して演奏しながら、自分が救われているのを実感しました。だから自分は音楽を否定してはいけないと思ったし、他の誰かにとってもそうであって欲しいと思い、音楽へ感謝の気持ちをどうか演奏者の皆さんと分ち合わせてほしい、とリハーサルの終わりにお願いしました。

独唱で招かれていた、アルトのルチアとテノールのバルダサルの夫婦には、一ヶ月前に女の子が産まれたばかりで、嬉しそうに甲斐甲斐しく乳母車を押すルチアのお母さんが付添っていました。ルネッサンスのマリア像を思わせる美しい卵型の頭と、柔和で憂いを帯びた顔のルチアは、たびたび部屋の隅で微笑みながらお乳を上げていて、はち切れんばかりに張った乳房に赤子を優しく抱えた女性の姿は母性に溢れていて、ヤコポ・ダ・トーディが綴ったと伝えられる「スターバト・マーテル」のテキストと重なる存在でした。

教会のキリストの足元で、彼女が「命ある限り、お前の下で磔刑の苦しみを分ち合わせておくれ」と歌ったとき、言葉に出来ない神々しさに包まれたのは、恐らく演奏者や聴衆誰もが感じていたに違いありません。70分を超える演奏が終わって気がつくと、演奏者や歌手、聴衆がみなさめざめと泣いていて、強靭な音楽の前で、一人ひとりそれぞれの人生が立ち尽くしていました。

(5月25日ミラノにて)

いま聴きたいのは深みのある人の声

大竹昭子

「ことばのポトラック」を思いついたのは震災から一週間後の連休のことだった。渋谷で<サラヴァ東京>を経営する潮田さんに相談したところ、二つ返事でやりましょうといってくれ、すぐに詩人や作家の方々に連絡した。作品を披露するというのではなく、いまみんなと分かちあいたいことばを持ち寄って心を暖めましょう、という気持ちだった。

24時間のうちに十数人が名乗りを上げてくださり、翌日にwebサイトとメーリングリストで告知を流したところ、たちまち予約が埋まり、3月27日に開催した。みんなおなじ思いだったのだ。津波のニュースによって心をさらわれ、原発事故で見えない恐怖に襲われ、すっかり萎縮してしまった心身をなんとか解きほぐしたいと願っていたのである。

当初は1回の予定だった「ことばのポトラック」は、その日、終わってみんなと話しているうちに、一年つづけよう、そして毎回冊子を出そう、というところまで発展してしまった。ことばにたずさわる人間としてやれることはそれしかないという切実な思いだった。

その第2回が6月26日に巡ってくる。初回に武満徹の歌曲を歌ってくれたかのうよしこさんによる「にほんのうた」のソロコンサートである。1回目のときに、詩の朗読会だったら音楽がなくちゃ、と言ってくれたのは管啓次郎さんだった。そうか、なるほど、と思ってかのうさんに出演をお願いした縁でこのコンサートが成った。

かのうさんの声は一度聴いたら耳について離れない声である。歌のうまい人はよくいる。きれいな声の人も多い。だが気になる声の人というのは、そういるものではない。かのうさんはそのひとりだ。アルトの声そのものがドラマを感じさせ、第一声を発するだけで何かがはじまりそうな予感で場を満たしてしまう。マイクなしで届けられる深い響きに心をさらわれる。

ふだんは外国の歌曲を歌うことの多い彼女に、今回は日本語の歌をうたってほしいとリクエストした。いま私たちが欲しているのは、自分のものになりくい外国のことばの歌ではなく、響きにも音にも意味にも長く親しんできた、すぐに心に染み入る日本語で語りかけられる歌だと思う。

これまでの日本歌曲の歌唱は、ことばがよく聞こえなかったり、詩の意味が伝わってこなかったりするものが多かった。もっと別の歌い方ができないものかとかねがね思っていたが、今回は「からたちの花」や「この道」など、だれもが知っている日本歌曲を一オクターブさげて歌ってもらうことにした。低音域に強い彼女にはそれができる。するとどうだろう、「からたちの花」はまるでそこに咲いているように、「この道」はまさに道の情景が浮かんでくるように感じられるのである。人の語りに近い声色の効果だろう。ステージをおりてカフェのフロアで至近距離で歌ってもらう予定である。

水牛レーベルから出ている港大尋さんのCD「声とギター」のなかからも一、二曲歌わせていただくなど、「ことばのポトラック」にふわさしい内容になりそうだ。山田耕筰のころから現代まで、時代は移り変わっても、私たちが人の声に勇気づけられ心を癒されてきたことを、彼女の深い声はきっと証明してくれるはずである。

3月27日の「ことばのポトラック」の模様をu-tubeでご覧になれます。
part 1
http://www.youtube.com/watch?v=hb7dutweUSc
part 2
http://www.youtube.com/watch?v=2FdA-f4vVuA

*予約はサラヴァ東京
http://www.saravah.jp/tokyo/

*第3回は7月3日(日)「ことばの橋をわたって」と題して、日本語と外国語のあいだを行き来している翻訳家、語学教師、在東京の外国人作家など十二名が出演します。

*今後の「ことばのポトラック」の予定についてはwebカタリココ
http://katarikoko.blog40.fc2.com/

犬狼詩集

管啓次郎

  33

火山は火山ごとのむすびめだった
マグマの対流と仮そめの地表をつなぎとめている
そのきわめて空に近い小さな頂へと
これから三人で登っていこう
乾いたクレーターの赤土が
くるぶしを真赤に染める
何の痛みも感じない、この分厚い足裏は
質実剛健な獣たちにまったくひけをとらない
登るうちに小径の傾斜は30°を超える
45°を超え90°を超え魚のようにそりかえる
でもぼくらは落ちない、空はいつも行く手にあって
ただ果てしない宇宙のからくりをのぞきこむだけ
金星を昼の空に見たジェイムズ・クックのように
研ぎすまされた未開の視覚を手に入れたかった
バッキー、ベッキー、走らなくていいんだよ
目ざす頂はすぐそこ、暗いトンネルを抜けたところにある

  34

デューク、この海岸の波は安定している
ロングボードの時代はとっくに過ぎたけれど
そのボードの上を歩いてゆくかつてのスタイルは
いまもその名残を波の上に残している
移植された椰子の林にたくさんの実がなって
実ごとに泣き顔の猿が何かを訴える
汐が香る、水が騒ぐ、プルメリアが香る
はるかな昔と今が蝶番のように合わさる
さあ、勤勉なパドリングで沖まで出ていこう
首が灼けるのもかまわずに海亀の王国へ
イルカの跳躍にまじってシュモクザメの沈黙が
流麗で哲学的な残像をのこしてゆく
そろそろ心を決めてよ、デューク
次の波だ、次の一回性がやってくる
きみだけの波にきみが乗るとき
きみはきみになる

北上川に流されて

さとうまき

太平洋、南三陸の手前に相川というところがあり、小学校の3年生を教えていた先生と話す機会があった。

「3月11日、2時46分。6時間目が終わる直前でした。2日前にも震度5の余震があったから、そんなもんだろうと思ったが、そのあとのゆれがものすごくていつもとは違う。子どもたちが13人向かうように座っていて、私は黒板を背にして立っていたけど、教卓に潜った。子どもたちも机に潜ったが、押さえていないと机が倒れそうだった。子どもたちは泣きだした。怖い、怖いってずーっと泣いているので、「うるさい。黙れ!放送が聞こえない!」と怒鳴ってしまった。放送が聞こえて、「ゆれが収まるまで教室にいてください」と言っていた。ゆれが収まったので校庭にヘルメットをかぶってでた。津波警報が解除されない。地鳴りがひどく、ごーという音が響いている。
そのあいだにも父兄が子どもを引き取りに来たので、どんどん帰らせた。
30人くらいが残ったので、裏山の第二避難所に向かった。ほこらに皆で入って様子を見た。女子はすすり泣いていた。ここにも親がむかえにきたので、最後は20人くらい残った。少し落ち着いたので、海を見ていたら、ものすごい勢いで引きはじめた。肉眼で見ていて、ものすごい勢いで、防波堤の船が動き出した。防波堤に波が覆いかぶさるように越えてきた。「越えてきたね」って言っている間は、まだ余裕があって写真を撮っている人もいた。「越えたね」って言ったあたりから、川の水がものすごい勢いで逆流しだした。高いところから見下ろしていたので迫りくるような感じではなかった。ずいぶん高い波だなあと言っていたら橋に波がのっかって、橋が流されてしまった。え! と言っている間にみしみしという音を立ててそこらへんにあるものが流されてきた。実感がないのですが、洗濯機のように駐車場の車が回りながら飲まれていくのが見えました。
ここにも津波が来るかもしれないというので裏山をみんなで登りました。道がよくわかりませんでしたが、子どもたちを抱きしめたりお尻をおしたりして急斜面を登り、避難所にたどりついたのです。父兄が引き取りに来た子どもたちのことが気になっていました。連絡が取れない。結局、おばあさんに引き取られた女の子が、一人だけ自宅で流されたことが分かりました。遺体はまだ見つかっていません。」

僕は、被害を受けた学校を回って見た。何度か同じ学校を訪ねた。教室にはいろんなものが流れついていた。最初は人気がない廃墟に津波の恐怖を感じ、唖然とするだけだったが、最近では、子どもたちが想い出の品々をとりに来たりしていて、黒板に、メッセージや落書きをしていく。そこで学んでいた子どもたちの息遣いを感じるようになった。

近所に住んでいる老夫婦が穏やかにつぶやいた。
「助けてー、助けてーという声が耳から離れなくって。眠れないんです」
庭には菜の花が植えられていた。
「ここにも津波が来てがれきの山になっていたんですよ」

都市の顔:ソロとジョグジャ

冨岡三智

今回の調査でジャワ島中部の古都ジョグジャカルタ(通称ジョグジャ)に来て、通算滞在日数がそろそろ3カ月になる。過去6年あまり、同じ中部ジャワのもう一方の古都、スラカルタ(通称ソロ)に留学していたのだが、その時にはジョグジャには日帰りで公演を見に来るくらいのことで、ほとんどジョグジャの町については知らなかった。ジョグジャでの勝手も分からず、また食べ物の味もちょっと違っていて、最初の2カ月間はちょっとソロ恋しい気持ちが強かった。やっとジョグジャにもなじめてきたかなあと最近思っている。

それで最近感じているのが、意外にソロとジョグジャは違うということ。といっても、音楽や舞踊の様式についての話ではない。もっと都市の性格が違うのだ。両方ともマタラム王朝が分裂して成立した都市だから、都市としての歴史的な背景はあまり変わらないし、距離も60kmしか離れていない。というわけで、今月は私が感じているソロとジョグジャの違いを書いてみる。

  ●川

実は3月号に書いた「噴火後のムラピ山からカリ・チョデまで-その1-」でも触れているのだが(いつものごとく-その2-がない…)、ジョグジャでは南北の軸が非常に強い。北にムラピ山、南にはインド洋があって、ムラピ山を水源とする川が何本も海にそそいでいる。だから、市内を東西に縦断すると、何本か川を渡ることになるのだが、それがなぜか、自分にとっては新鮮な感じがする。しかも、橋では若い人たち(アベックに限らない)が何人もバイクを止めて川を見ていたりする。夜でもそうだ。ちょっと休憩して川を見るという行為が、ここジョグジャでは暮らしの中にとけこんでいる。

ソロでも川がないことはなくて、町のど真ん中を通っているのもあるが――市役所からパサール・グデ(大市場)の辺りを通るペペ川とか――、日常風景にとけこんでいるという感じではない。ソロを代表するソロ川(ブンガワン・ソロ)は水量も多く川幅も広く、都市ソロの周囲を巡っていて、隣接県との境界を成している。ブンガワン・ソロというのは、都市を貫通する川ではない。ソロの人たちがソロ川と言ったら、たいていはジュルッ公園がある所を指すのだが、そこは、もうソロの端っこである。だからソロの芸大でプンドポを建てて、ちょっと方位に問題があったということでルワタン(魔除けのワヤン)を行ったときに、それに使ったワヤン人形を流したのもここだし、1966年の洪水で、マンクヌガラン王家が他王家から拝領したものの水に浸かってだめになった衣装一式などを丁重にお祓いして流したのも、ここだった。つまり、あの世とこの世(ソロ)との間にあるのがブンガワン・ソロなのである。ソロ川は「ブンガワン・ソロ」の名曲で人口に膾炙していて、人の運命を哲学的に感じさせる川ではあっても、生活を感じさせる川ではないなあという気がする。

それに対してジョグジャのチョデ川というのは、ジョグジャ宮廷の横をかすめるようにして、町のど真ん中を南北に貫通している。川沿いには周辺地域から流入してきた人たちによる不法占拠やら川の汚染問題やらの都市問題が起こってきた地域だった。ロモ・マングンという建築家であり神父である人が先駆者となり、今では多くのNGO団体がその状態を改善すべく、動いている。そんな風に、川沿いは都市住民の生活の場になっている。

ソロでも、前に述べたペペ川沿い(パサール・グデ裏の辺り)は、ほんとうは華人の貧民街なのだが、スハルト政権期に政治的に微妙な問題だった華人系の地域ということもあってか、ジョグジャのように都市問題の表舞台(っていうのも変な表現…)にはなってこなかった。つまり、都市の水辺地域というのは見えない地域だったのだ。

  ●インターナショナル/ジャワ

ジョグジャに来て素朴にも感じたのが、わー、ジャワ人以外が多い、ということだった。今はガジャ・マダ大学のゲストハウスに住んでいるが、大学の内外を問わず、見るからにパプアとかアンボンとか、いわゆる外島(ジャワ以外の島)出身者が多く目につくし、それに外人留学生も多い。この近くにもリアウ出身者やバリ出身者が集まる建物がある。この状況と比べると、ソロは純ジャワ率が高い。ジョグジャの人がそう言うのである。ソロに行くと「ジャワだ〜」という気がする、のだそうだ。そんな風にジョグジャの人に思われているとは、ソロにいる時には全然気づかなかった。ソロはたぶんジョグジャに比べてチナ(華人)率が結構高いと思うのだが、そのチナ系の人たちの顔もジャワ人の顔に馴染んで見えてしまい、外島出身者のように「よそ者」には見えないのが不思議だ。

インドネシア各地から人が来るためか、ジョグジャでは西洋芸術など外来文化の摂取が盛んだ。これは今に始まったことではなく、インドネシア独立以前からである。たとえばソロでは1950年に全国で初めての地域伝統音楽の学校であるコンセルバトリ・カラウィタン(KOKAR,現・国立芸術高校)が設立されているが、ジョグジャでは1950年代初めに西洋音楽を教える学校、ASMI(現・芸術大学に統合)、西洋美術を教える学校、ASRI(現・芸術大学に統合)が設立されている。いまでもジョグジャはジャカルタ、バンドンと並んで現代美術の中心だし、ジャカルタの交響楽団の団員の多くはジョグジャの芸大の卒業生だ。

そんなジョグジャだが、ジョグジャは独立後の現在もいまだに、ジョグジャカルタ宮廷のスルタン(王)が終身知事を、分家のパク・アラム候が終身副知事を務める特別州である。これは先代のスルタンがインドネシア独立に当たって多大な貢献をしたことによる措置だが、昨年になって大統領が独立国家内における旧体制だと批判するようなコメントを不用意にしたので、ジョグジャ市民は過敏に反応し、2月にあった王宮のイスラム行事なんかでも、大統領の発言を批判する政治ビラなんかが配られていた。一見インターナショナルな都市に見えながら、代々ジョグジャに住んできた人たちのマタラム・アイデンティティには強固なものがある。

ある新聞記者の話だが、外来の者に対してオープンなのはソロの方だという。彼女はジョグジャ支局勤務時代にジョグジャ州では居住許可が下りず、中部ジャワ州のスコハルジョ県で許可を取ったのだという。スコハルジョはかつてのソロ王侯領であり、つまりソロ文化圏だ。こっちは簡単に許可が下りたという。ジョグジャはコミュニティの力が強くて新参者が入りにくい、だからテロリストはソロに隠れるのだ、とも彼女は言う。そういえば、バリ島テロ事件以降のテロ事件は、みな、テロリストはソロに潜んでいる。

この話は腑に落ちる。伝統的なガムラン音楽や舞踊の分野でも新しいことに貪欲なのはソロの方だ。ジョグジャやスンダなどの要素をソロ様式の中に取り込んでしまうので、ソロ様式と一言でいってもものすごく幅がある。ジョグジャの方が、ジョグジャ宮廷の古い衣装のスタイル、古い振付、演出などを強固に守ろうとするのだ。それは、逆に西洋や外島の影響がどんどん入ってくるからかもしれない。だからこそ、ことさらマタラムを強調する。さらに王家として、ソロとジョグジャは対等だとはいっても、ジョグジャの方が文化的には分家になる。分裂当時のマタラム王朝の首都、王の称号、さらに王位継承を正統化する舞踊「ブドヨ・クタワン」を継承したのはソロ王家の方だからだ。そして分家の方が、本家よりもことさら正統性を強調し、様式美を作り上げたがるというのも、インドネシアに限らず日本でもありがちなことだ。

ただ、「伝統の現代化」においてソロは強みを発揮するものの、インターナショナル・スタンダードに合ったコンテンポラリという点では、ジョグジャの方が強みがあるように思う。

製本かい摘みましては(70)

四釜裕子

2つ折りした数枚の紙が重ねられている。折山の上下が互い違いに半分ずつ切れていて、破れてしまいそうで頼りない。そっと手に取るが、見た目の印象以上に紙にハリがあって破れることはない。開いてみると、構造は先に書いたより数段複雑。糸や針で綴じているわけではないので、折りを開いてばらばらにしてみる。A2サイズを縦長半分に切った紙が2枚あらわれた。それぞれ観音開きに折られていて、さらに縦に2つ折りされている。まん中の折山に、一方は上半分、他方は下半分だけ切り込みがある。印刷は片面のみ。2枚の紙の2つの切れ込みを組み合わせて折ると、A5判、8ページのもとのかたちの冊子になった。

平出隆さんの「via wwalnuts」叢書である。昨年秋にスタートして、5月の刊行で7冊になった。毎回、表紙カバー替わりともいえる封筒におさめられ、版元に注文すればメール・アートの色濃く切手と宛名シール、そして著者の署名入りで届く。アマゾンでも購入できる。こちらはサインなし、封筒ごとアマゾン仕様に梱包されて届く。今年に入って叢書01の『雷滴 その拾遺』をアマゾンに注文した。40部程度の発行と聞いていたが、アマゾンに載ってるってどういうことか。注文して4日後に自宅に届いたものには「初版第17刷2011年1月18日刊 No.351-370」。1刷は確かに40部、17刷は20部で、手にしたのは通算351から370番目に刷られたいずれかのようである。
表紙カバーこと封筒には、全体の雰囲気からすれば場違いな、でもこの出版行為に不可欠なバーコードシールが貼ってある。封緘紙の役割を与えられ、これがなかなか堂々としていて悪くないなと思わせてしまうところがすごい。よもやこの封筒をペーパーナイフで切り開くひとはなかろうが、シールの左下角には「ここからめくってね」と言わんばかりの▲マークが入れてあり、誘いのとおりに封を開けば、あいた口に表1に刷られたタイトルなどがきれいに顔を出すというしかけ。

版元のウェブサイトには、内容についてのみならず制作についての逸話も多くある。叢書01は17刷から紙の目を本の天地に対して縦目から横目に変え「製造効率が飛躍的に向上し」たこと、インクジェット印刷で問題になるタマリ解消のために途中から「単方向印刷」を採用し、こちらは印刷速度がそれまでより遅くなって「1時間にわずか4枚=2冊分」になったことなど。紙も封筒も良質だが既製品だし、プリンタも高機種ながら家庭用を使っているようだ。少部数でも豪華や繊細に過ぎることなく簡素に美しいのは、継続して制作できるように材料や工程を吟味した結果だろう。刷り部数を限定したりむやみに絶版もせず、極小版元であることに甘えることなく確実に注文に応える、商業出版社の日録なのだ。

しかしながらこうした小さい出版物は置き場所に困ってしまう。鍵付きのガラス書棚に”保存”するつもりはないし、気になるものほど棚の手前に重ねるうちに、いつしかどこかに埋もれている。同じような読者の声がいくつかあったとみえて、10冊まとめて入れる函の制作を予定しているとウェブにあった。本叢書のキャッチフレーズは「Lasting Books――持ちこたえる本」。平出さんがこの言葉に託した思いはわからないが、時代や技術の変化に抗うことなく持ちこたえ方もフレキシブルにいつでも”last”を走っていくワと、悠然とページをはためかせる本のスケルトンが浮かびます。

東天紅コケコッコー

璃葉

青白い雲に、湿った空気。
梅雨に入って、雨の日が続く。

このような天候を見ると、小学生の頃、
近所の野原で出会った、あのニワトリを思い出す。

真っ赤なトサカに、黄金色のツヤツヤした羽毛、
はたきのような、深緑色より暗い尻尾。

niwatori.jpg

奴はある雨の日の夕方、一匹狼ならぬ一匹鶏として
野原で一人遊んでいる私の目の前に現れ、
実家のそばの雑木林で、ひっそりと生き始めた。

養鶏場でも飼育小屋でもなく、林の中で堂々と歩くその姿は
とても凛々しく、少し滑稽で、私だけでなく近所の人達の興味をもひいた。
毎日、朝から夕方まで優雅にそぞろ歩いては餌を探し、
夜は決まった寝床(木)で自分の身体に埋もれるようにして眠る。
その姿を見るのは私の楽しみだった。

誰にも守られず、自由に生きる事を選んだ宿命なのか、
その何ヶ月後かに、野犬に襲われて死んでしまったのだが、
奴が寝床にしていた葉の多い茂った木を見ると、
またそのうちひょっこり姿を現すのではないかと、たまに思う。

味の記憶

大野晋

その店は駅前のごみごみとした路地のそのまた路地にあった。通路が排水溝の蓋の上にしかなかったことを考えると、どうやら以前は商店街の裏側であったらしいことは想像できた。私が先輩に連れて行かれた当時、その店には店名が書かれた看板はなくて、破れた赤提灯が汚い何もかかれていない摺り硝子の扉の脇に吊るされているだけだった。そんな店であったのだが、店を訪れる客はみな、その店の名前を「ねこ」だと知っていた。いや、正しくはどんな字で書くのかは知らなかったから、Nekoであることを知っているだけだったのかもしれない。

仕事が終わると私たちはそんな路地の店の扉をすっと開けながら「空いてる?」とそっと入りたい人数を指で示すのが日課だった。運がよければ人数分の席が確保でき、運が悪ければ「空いてませーん」とおじさんに断られるのが常だった。ただし、入れたとしても、安心できず、焼き鳥の悔いが残っていなかったり、料理が切れていたりすることもざらにあった。そんな日はあっさりと、1本のビールに、いつもあるポテトフライを頼んでさらりと店を出るというのが当時の流儀だった。当時の駅前にはそんな店が何軒かあり、不思議な優先度で選びながら、店から店に飲み歩くと言うのが日課だったように記憶している。いま、駅前は再開発でそんな小汚い感じの店が生き残る余地は皆無になってしまった。大きな駅前ビルに入った小奇麗な店をぶらりと見ながら、私の身の丈にあっていた店がなくなってしまったのが少々物足りなく思えてならなかった。

別のある日、駅から離れた住宅地の中に引っ越している元は駅前にあった洋食屋を訪ねてみた。ここも再開発で閉店する際、小学校の近くでそのうち開店するから、という言葉を聞いていたが、その後、行方不明になっていた店だ。閉店して数ヵ月後、ひょんなことから裏道を歩いていた私は新築の住宅の一階にこの店の看板を見つけてうれしかったのをきのうのように思い出す。この店もあまり商売っ気はなくて、夜の営業は7時前にはとっとと終わってしまうから、なかなか立ち寄れない存在になっている。久々に寄って、いつものように、チキンサラダとマキ(オムライス)を注文する。出てきたチキンライスとは名ばかりのどう見てもチキンソテーのような料理を食べながら、そのガーリックの効いたドレッシングのかかった野菜を食べていたら、やたらと懐かしい気分がした。いつもの、慣れた味が記憶を呼び起こし、緊張した心をリラックスさせてくれる。これが家庭なら、母親の味と言うことになるのだろうし、通い慣れた店ならば常連の楽しみと言うことになるのだろう。

例えば、松本には学生時代から通った店がいくつかあり、春寂寥の歌詞とともにその味を懐かしむことになる。思い起こせばこんな懐かしくなる店がところどころにあり、それを再訪することが旅行の楽しみになっている。ただ、数年に数回しか立ち寄らない店だとしたら、私の味の記憶の旅はあと何回できるのだろうか? だんだんと、そんなことを考えるようになってきている。まあ、その前に、街の移り変わりの中で、消えてしまう店が多いのに、ひとり心を痛めるここ数日である。

アジアのごはん39 放射能時代の食生活2

森下ヒバリ

政府が福島原発事故の後に決めた食品の「放射能暫定規制値」というものが、どうも信用できない。いまの1キロ当たり放射性セシウムなら500ベクレル以下(野菜・穀類・肉・卵など)という数値が、ほんとうに安全なのかは激しく疑問である。なにせ、これだけ原発や再処理工場がありながら、食品に含まれる放射能に関して、これまで食品衛生法上の規制は実はなかったのである。原子力安全委員会の指標があっただけ。チェルノブイリ事故後にも「輸入食品の暫定規制値」が示されたが、それは当時のICRP(国際放射線防護委員会)の勧告である公衆の1年間の被曝限度量5ミリシーベルトに基づいて計算されたものだった。その後ICRPの勧告は5ミリシーベルトから1ミリシーベルトへ改定された。

今回の事故後の国内の食品の安全基準の算出も、基本はICRPの勧告値からだが、ICRPは3月21日に事故を受けて日本の公衆の年間被曝限度値を緊急的に100〜20ミリシーベルトにゆるめるよう勧告してきた。緊急的に、という但し書きが付いているものの1ミリシーベルトからいきなり100とは・・。大問題となった、子どもの年間被曝限度量の20ミリシーベルトへの引き下げは、この勧告に基づいたものだろう。

なぜこんなめちゃくちゃな値が勧告されるのか。その理由は、値をゆるめないと円滑な経済活動ができないから。このICRPという組織は、じつは国際的に中立でも科学的に中立でもない。アメリカの軍事産業、原子力産業の経済活動を保証するために作られたヒモ付き組織である。年間被曝限度値は、これ以下は安全であるという保障ではなく、これぐらいの被爆で出てくる死亡や病気の数ならリスクとして容認しよう(誰が?)という数値なのだ。経済活動のためなら、ある程度は死んだり病気になっても仕方ない、というのが基本姿勢だ。そして、低被曝による影響は無視されている。こういう、人の安全のために算出されたわけではない被曝限度値をもとに、日本の食物の放射能暫定規制値があるのだから、まったく信用できないわけである。まさに「安全です」ではなく「ただちに健康に影響の出ない」はずのレベルにすぎない。

放射能は人間にとって、安全な量というものはなく、少なければ少ないほどいい。このことはヨーロッパの独立系(政府組織や原子力産業のヒモ付きでない)科学者たちによって作られたECRR(欧州放射線リスク委員会)で明言されている。ちなみにECRRの勧告によると公衆の年間被曝限度値は0.1ミリシーベルト以下。放射能の感受性は、子どもは大人の何倍もあり、女性は男性より高いなどのはっきりした傾向のほかに、個体差がたいへん大きい。同じ土地に住み、同じ物を食べてもわたしはちょっと調子悪いぐらいで過ごせるかもしれないが、あなたはすぐ乳ガンになってしまうかもしれない。また、汚染された食物がある程度流通し続けるであろう現状では、たまたま高濃度に汚染された食べ物が「安全」とされて目の前に届くかもしれない。

いま、政府が保証している安全基準で自分や家族を守ることができるだろうか。いや、政府が保証する食べ物(市場に出回っている食べ物)を何のためらいもなく食べ続けることができるだろうか。福島原発事故の放射能汚染は現在進行形である。チェルノブイリの事故後の旧ソ連・ヨーロッパの広範な汚染、イギリスのセラフィールド再処理工場の事故による海洋汚染などからわたしたちはもっと学ばなくてはならないだろう。

ヒロシマ・ナガサキの経験は、占領軍の機密保持政策のために、そして原子力産業と軍事産業の発展のために封印されてしまった。原子爆弾がふたつも落とされたというのに、日本には食物汚染の影響のデータも、内部被曝・低線量被曝の健康被害のデータもない。だいたい低被曝の存在すら認めてこなかった。軍事産業の妨げになるので、占領軍は「微量な放射線の影響はない」ものにしてしまったからである。

チェルノブイリ事故後、食物汚染がもたらす内部被曝による白血病などのガンやさまざまな健康障害が大きな問題となった。ここから学ぶことは、まず汚染された食べ物は食べない、につきるが、どうしても口に入る可能性はある。できるだけ体の中に放射能を取り込まない工夫が必要になってくる。

ほうれん草、たけのこ、きのこ、山菜、ブルーベリー、ハーブ類、茶葉など放射能を取り込みやすい性質を持つものに注意する。セシウムは表面から3センチ程度の土壌に留まるので、大根やにんじんなどの根菜は皮をむく、根菜の葉っぱの生え際は食べない。牧草や雑草に放射能はたまりやすいので、牛乳も要注意だが、分離すると乳脂肪にはほぼ放射性物質はいかない。ので、バターやクリームはかなり安心といえる。

またふだんから、セシウムを身体に取り込みにくくするために、カリウム不足に注意を払うこと。セシウムはカリウムに似た性質を持っていて、ナトリウム過剰な身体だと、セシウムが取り込まれやすい。特にナトリウムの多いジャンクフードや外食中心の食生活を改める必要がある。

カリウムが多いのはアボカド、干しぶどう、りんご、トマト、バナナ、海草、青い野菜、ジャガイモ、ブロッコリー、カリフラワー、納豆、大豆、ひじきなどなど。新鮮な野菜とフルーツを取ること。とくに果物に多く含まれるペクチンはベラルーシでは放射能排出剤として活用されているほどなので、子どもはりんごやかんきつ類を食べるのがよい。ドライフルーツもいい。ジュースには残念ながらペクチンがほとんど含まれない。

海の魚についてはどうだろうか。海への放射能の流出は、北から南に流れる親潮によって南下し、銚子沖で黒潮の流れにぶつかり東へ向かっていき、その後拡散すると推定されている。親潮と黒潮は海水の温度が違うので、この二つの流れの水はぶつかる地点で混じり合うことはない。潮流のほかに、沿岸に沿っても汚染は広がるので、福島原発から銚子沖の間の海域が特に汚染されているだけでなく、原発から南北両方向の沿岸部(銚子からある程度南へも)も汚染の可能性がある。もちろん汚染の高い地域の魚、海草は避けるのが基本だ。特にその地域の小魚、海底に住むヒラメやカレイ、貝類。魚の内臓。なぜかイカとタコは濃縮係数が低く、セシウムの影響を受けにくい。ストロンチウムは魚の骨やエビ・カニの殻などにたまりやすいがセシウムに比べると流出量はかなり少ない。

魚については、大人は汚染海域以外で取れたものなら、あまり神経質になる必要はないようだが、子どもには注意してできるだけ遠い、汚染のない海域の小魚や海草を食べさせよう。カルシウムが不足していると、ストロンチウムが骨に入ってしまう。その意味では更年期の女性もカルシウム不足になりがちなので、注意したほうがいい。今回の事故以外でも、各地の原発や再処理工場(原発の1年分を1日で排出!)では毎日放射能に汚染された水を排出しているので、原子力施設の周辺海域、特に沿岸の海産物にも注意が必要だ。

こうやって、自分で産地を確認したり、選べる場合はいいが、外食や加工食品の中身にはお手上げだ。なるべく外食や加工食品を食べる機会を減らしたいところ。チェルノブイリ事故の後、汚染された脱脂粉乳などが規制のゆるい国を経由して輸入されたり、値の低いものと混ぜられたりして世界で流通したが、そういうことが国内でも起こらないよう祈るばかり。

汚染度が低くても毎日たくさん食べるものなので、主食には用心深くありたい。有害物質は胚芽やぬかに溜まりやすく、汚染の可能性のある地域で取れた米は精米するほうがいい。一方で、ミネラルと食物繊維の豊富な玄米を食べることは毒素排出にもつながるので、安全なお米は、五分搗き米や玄米、発芽玄米で食べたい。栄養豊富な発芽玄米は家庭でかんたんに作れるので、一度ためしてみてはいかが。

玄米は、さっと洗ってボールなどに入れ、ひたひたの水につける。水が臭くならないように1日2〜3回水を替えながら、観察していると2〜3日で胚芽が主張し始め、ぷっくりしてくる。玄米は水を吸って、白くなっているが胚芽の部分はとくに輝いているのが分かる。胚芽がぷっくりしてきたら、いつでも炊いて食べてよし。ちょっとツノが出たぐらいで食べるのがベスト。夏場は、冷蔵庫に入れてもいい。この場合、あまり水を替える必要がないので、日中家にいない人には便利。

どういうわけか発芽玄米は、作っているとなにやらウキウキしてくる。玄米が生きているのが実感できて楽しいだけでなく、生命オーラのようなものがひたひたと溢れている感じだ。同じ目に見えない力でも、放射能とは大違い。こんなときこそ、必要なパワーかも。炊くときは、やはり玄米とほぼ同じかやや短めぐらいの時間と水で炊く。玄米よりもずっと食べやすい。そして、う〜ん、おいしい!

<参考資料>
*「食卓にあがった放射能」高木仁三郎・渡辺美紀子著 七ツ森書館
*「放射能がクラゲとやってくる」水口憲哉著 七ツ森書館
*「原発事故残留汚染の危険性」武田邦彦著 朝日新聞出版
*ブログ「ベラルーシの部屋」http://blog.goo.ne.jp/nbjc
*三重大学生物資源学部准教授「勝川俊雄公式サイト」http://katukawa.com/
*「肥田舜太郎さん講演・低線量内部被曝と・・」http://d.hatena.ne.jp/naibuhibaku/

オトメンと指を差されて(36)

大久保ゆう

流浪です。放浪なのです。翻訳のできるところを探し求めてあちこちさまようのです。必要なものをすべてつめこんだ鞄を手にして、あるいは背負って、あるときは西へ、あるときは東へ、また別のときには南へ北へ。どこでも翻訳ができるを信条に、ふらりふらり。

……ずっと同じところにいては、どうしても緊張感が切れてしまう! ゆるんでしまう! 集中力だって切れてしまう! 頭をいつも適度に冴えさせるためには、定期的に、自分の居場所を変えねば! そうしなければ翻訳力を保てない! ああ! これは定め! 課せられたる呪いのようなもの! 

私は行く、仕事のできる場所を求めてっ。

。。。

というかまあ、何というかですね、今回は前回のお話の続きなわけなんですけどね、一ヶ月もすると以前のテンションを忘れてしまって、あれっ、どういう話をするつもりなんだっけ、と思いながら書いていたりするのですが、とにかく私、上記のような理由であっちこっちへ行ったりするわけなんですね。

昔からそうなのですが、どうしてもひとところに落ち着けないというか、ふらふらしてしまう性分で、じっとしてると怠けたり鈍ったりするので、動かなくちゃどうしようもなかったりするんです。どうも、気持ち的にも、からだ的にも。で、一応仕事場っていうものがありはするんですが、そこはあくまでもベースキャンプ代わりで、そこから外へ飛び出したりするんです。

とはいえ、ものすごく長距離移動してしまうと、それはそれで時間がもったいないので、普段はかなり狭い範囲をあっちこっちと行ったりするわけでして。よくある行き先は、大学構内です。うちの母校は私鉄で二駅分くらいの広さがあって、なおかつ至る所にそれなりの図書館・図書室があるので、気分によって、あるいは必要なものによって各地を使い分けたりしまして。

たとえばいちばん中央のとうちの学部・大学院のは資料が豊富なので、特殊な辞書・事典類を使いたいときはそこへ行きますし、文学のとこはパソコンなど電源の必要なものが用いやすく、教育には絵本があって、経済は英国近代の政治文化資料、化学のとこは構内でいちばん美味しい学食が近く、ほかにも工学のとこは工業規格があるから暇つぶしに最適で……云々。

そんななかでも落ち着いて快適なのが情報系の図書室で、なぜかいつ行ってもがらがらだし、自然言語処理も扱うところだから辞書もそこそこ充実してて、息抜きになるコンピュータ系の読み物にも事欠かない(私の娯楽としての読書は10進分類だと9以外が圧倒的に多いのです)。特に夏になるともっぱらここです。

もちろん公立の図書館に行ってもいいのですが、最近は持ち込みが禁じられているところも多いので、本を借りたり返したりする以外には行かないことが多いです(それでも借りるのは年間二百冊弱ぐらい)。翻訳をする場所としては不向きなところが多いのですよね。公園とか土手とか、野外もありますが、そのときは校正なり資料読みなり、どちらかというと書くよりも読む方になりまして。

そうやって部屋から部屋へ転々としつつ、全然昼間は在宅してない翻訳家が私なのですが、将来は規模を大きくして裸の大将みたく行く先々で翻訳しながら、かの地で起こった事件を解決し、そそくさと立ち去るや〆切近い原稿をふんだくるための担当編集が追っかけてきたりして「あのひとは××先生なのです」「えええええ」「はっ、ここに残されてるのはまさにその翻訳」「××先生待ってくださ〜い」みたいな、コントが繰り広げられると楽しそうですが、妄想にとどめておくのがいいかしれません。

ちなみにオンサイトといって、派遣社員みたいにある会社へ一定期間通ってやる翻訳もあるのですが、個人的にはあんまり数多くは受けてないです。しかし想像してみるに、こっちの場合も流しの翻訳家みたいな感じで、行く先々の会社でかの地にある問題を解k……(以下略

それはさておき、もちろん仕事場のなかで翻訳をすることもできます、というかあります。ただこのなかでは「椅子に座って机で翻訳する」ということはほとんどなくて、「寝そべって作業する」のが基本っ。ベッドの上にうつぶせになって、顎から胸のあたりにクッションを挟んで、頭の前に紙なり電子機器なりを置いて、ぺけぺけぺけぺけ(おなじみ執筆擬音)。

ちなみにこの原稿もその体勢で書かれているわけで、寝ながら執筆するというのはなかなかリラックスできてよいものがありまして。そもそもこんなことをし始めたのは、どうしても床に伏せざるをえない状況なり、集中力がぱっつんぱっつん勝手に切れていってしまう苦境なりが長期あって、それでもやることやらねばならぬ、ということで編み出されたものなのですが、割合昔からそういう崖っぷちっぽいなかで何かする訓練をつまなきゃしょうがない人生だったので、今となっては慣れたものというか何というか。

しかし疲れているときに、寝そべりながら執筆なんかすると、だんだんほわほわしてきて眠くなってくるというかまさに今そんな感じなので、とにかく今回はこのへんでおやすみなさい。zzZ。

岬をまわり、橋をわたる

くぼたのぞみ

畑をたがやしていたことがある
石狩川の流域で
父と母は半日たがやし
祖母たちは終日たがやし
少女には たがやすよりも
ほぐれた土を手のひらですくい
地面にこぼして遊んだ記憶

それでも
手渡された黄金色の豆のつぶを
小鍬(こぐわ)で穿たれた浅い穴に
ひとつ ふたつ みっつ
三角形に落として
篩(ふるい)にかけた黒土を
さらさらとまぶしていくのは
猫の背や 犬の頭をなでるような
温かい山羊の乳房に触れるような
やわらかな喜びを
少女の内部に深く包んだ

村のくうきには だが 
そんなやわらかさはなく
いまにみてろよ 
と出奔する少女 海峡を渡り
目くるめくネオンとコンクリの街へ

冷蔵庫のない初めての首都の夏から
常磐線 東北本線 寝台車に揺られて
みと こおりやま ふくしま せんだい もりおか・・・ 
眠っていたのか起きていたのか
おぼろげに耳にしながら
北へ帰ったあのころ
降り立つことなく通過した土地の名が 
いま 悲鳴となって耳を襲う

降り立つことがなかったから
知らないままのその土地に
たとえ降り立つことがあったとしても
深く知ることはできなかった
かずかずの土地の名が いま 
この列島をずきずき揺さぶり
radiation ── あやうさつのる
ラベルゆえに野菜を買ったり買わなかったり

街でたがやしていたこともある
アスファルトのうえにこぼれた土で
エナメルのパンプスが汚れるのを嫌う
傲慢と利便の暮らしと引き換えに
置き去りにした
土の感覚とりもどしたくて
街でたがやしていたこともある
ほうれんそう ピーマン サツマイモ 白菜
あまい収穫のときも夢とまぎれ
切羽詰まった何万年の問いを迫られる いま
「非在の波」をざんぶりかぶって
doubling the point ── 岬をまわり
折り返す

折り重なるこの痛みは
生命(いのち)なのだから
花を捨てた あの三月の雨にうたれて
生き物であるきみの内部で
真夜中の痛覚としてふたたび目覚め
途方に暮れながら
硬くなった感情の土肌に
突き刺さることばとなって
深々と降り立つ
そのとき きみはふいにわたる
橋をわたる
素足ですすむ足裏で 
ことばの杭を確かめながら

引きこもりの五月のことをつらつらと

仲宗根浩

五月、梅雨。雨が降ると涼しくてすごしやすい。雨の後、太陽さんが出てくると、雨にぬれたアスファルトは容赦ない太陽さんの熱でアスファルトに浸み込んだ水分をとばすにおいと熱で汗まみれになる。

何年ぶりだろう、こんな台風。職場で台風のための養生が終わり、暴風域真っ只中、車で帰宅。久しぶりの暴風域の中の運転は怖い。途中の信号はいくつかは停電で機能していない。ある信号機は三つのうちの一つの電灯が外れ、コードだけを頼りに風にぷらぷら揺れている。そんな信号を過ぎると対向車、ヘッドライトのハイビームを落とす。対向車が過ぎ、ハイに戻したとたんに、目の前いきなり風で折れたでかい木の幹。完全によけることはできない。少しだけハンドルを切り幹を避け枝のところを乗り上げなんとか通過する。信号が赤で止まる。信号は強風で揺れ、停車した車も揺れている。信号、折れずに耐えてくれ。信号が青に変わると加速、するとまた目の前に折れた木の幹。さっきと同じようにかわしながら駐車場前までたどり着く。シャッターを開け車を入れる。駐車場から家まで歩く。何が飛んでてくるかわからない。注意しながら、といっても風が舞っているのでどこから何が飛んでくるか見当つけようがないまま家にたどり着いた。家の中では隙間風は高い音をたてて部屋の中に入ってくる。幸い停電はなく、台風は過ぎた。台風の中を走った車は海水混じりの雨と木の葉くっつけたままで仕事先に通い、台風が過ぎた二日後にやっと洗うことができた。

五月は仕事以外は家に引きこもっていたが、一日だけ日曜日に休みができたので辺戸岬まで家族四人で行く。以前に来たのが幼稚園児のときが小学校に入るかくらいのことなので四十年振りくらいか。昔の記憶だとガードレールのない断崖の曲がりくねった道の記憶があったが、高速道路をおりて北上する58号線は本部半島を過ぎても海岸線を走る。途中新しいトンネル工事の現場があり、もう少し短時間で辺戸まで行くことができるのだろうか。2時間弱で沖縄本島の最北端の岬に着いた。岬の左は東シナ海、右は太平洋。曇りなので与論島を見ることはできなかった。断崖から下を見ると丸いブイなどの漂流物が岩場に打ち上げられている。断崖マニアにはたまらない場所。磯釣りを楽しむ輩はこの断崖を降りていくが、断崖好きでもそこまでの勇気はない。お昼前に辺戸岬をあとにしてお昼ご飯どこで食べるか、せっかくここまで来たのだからピートゥステーキ丼を食いに行こう、と提案するもすぐに却下され名護でも評判の沖縄そば屋へ。いつかひとりでも行ってやる。ピートゥ、中部あたりではヒートゥ、イルカのステーキ丼を食いに。