beyond

くぼたのぞみ

呼び出し音がくりかえし鳴っている
きみの手のなかにある受話器のむこうで
雪が走る
走る音が聞こえる

いつものように、しばし沈黙の後に
「はい」と声が聞こえることはなく
ぶあつく積もった雪面を
撫でるように雪が走る

手がふさがっていて
受話器を持ちあげることができないのか

みると雪は空からではなく
きみが息をしている
地表数メートルの記憶の面を
ざっくりとえぐり、走り

力がなくなって持ちあげることができないのか
たまたまそこにいないのか
あるいは、もうそこにいないのか
それとも、あっちへ行こうとしているのか
受話器を握りしめるきみはあれこれ考えをめぐらす

落葉樹の裸の幹をたたき
枝をあおる雪煙のなかに
オーバーの襟をつかんでうつむく人の姿にむかって
きみは受話器をいったん置き
それからリダイヤルするが
いっこうに受話器がはずれる気配はなく

吹きつける半透明の幕をからりと払い
姿が音となってあらわれることはなく

ただ呼び出し音が聞こえ
烈しく雪の走る音だけが聞こえ
手のなかで汗ばむ受話器を
きみは静かに握りしめる

しもた屋之噺(110)

杉山洋一

こちらにいると元旦は普通の休日程度の印象で、朝食の後は早速庭の落ち葉掻きをして汗をかきました。家人が元旦の夕方に東京から戻ってきたので、我が家の今年初のお雑煮はお屠蘇と共にに正月二日の朝食に並びました。尤もこれは雑煮とは言葉ばかりの、湯河原の父方の家に長らく伝わる、出汁に大根のみたっぷり入ったあっさりした大根汁で、香り高い貴重なハンバ海苔を振りかけて食べるのが本来の流儀です。ミラノでは海海苔で代用しましたが、それでも一寸した正月気分を味わうには十分過ぎるほどでした。

さて今週は、5歳の息子が通う幼稚園に併設された、ミラノ市立の小学校へ入学手続きにでかけました。手続きにやってきた周りの親も外国人の割合がとても多く、先日の説明懇談会でも、イタリア人の父兄から外国人が多くて国語が遅くならないか不安だと意見が述べられていました。

懇談会では、ファシズムの時代に建てられた数少ない歴史ある小学校で、食料難のために当時は校庭に畑を作って野菜を育てていたとか、概観もどっしりした典型的ファシズム建築で、とりわけ高い天井と高さ2メートルはあろうかと思われる窓は、ペニシリンが普及していなかった当時、ジフテリア対策として太陽光線をあてていたためだとか、「健全な精神は健全な肉体に宿る」を度々引用していたムッソリーニの政策で、当時としては斬新な、学校内に立派なプールまで誂えられて、現在も使用されていることなどを女性の校長先生が誇らしげに話しました。

同じ通りの数ブロック先には、無償の公立に反し格段に高い古くからあるミッション系の私立小学校もあって、登下校時には身なりのよいイタリア人ばかりが道に溢れかえります。日本人の知り合いなどからはそちらを勧められましたが、周りのイタリア人から先の公立小学校の評判も聞いていたし、幼稚園の同級生や先輩もみなそこで学んでいて、結局公立に決めたのでした。生活レヴェルの違いにかかわらず公立小学校に子供を通わせるイタリア人に共通する、「今も昔も学業は公立でしっかり学ぶべき」という信念の清清しさにも心を動かされました。

公立幼稚園に入学の折にも、イタリア語も儘ならない外人ばかりの市立なんて止めなさいと言われることもありましたが、同じように当時イタリア語が苦手だった息子も3年間とても良い時間を過ごして親として満足しているので、学校より結局は良い先生と出会うかに掛かっているのでしょう。家に帰ってきて、同級生の何某はスペイン語が話せるとかアラビア語が上手だとか聞くと、羨ましい気もします。

さて、その幼稚園に通いだして2年目くらいから、随分長い抑揚ある詩を皆で暗記させられていて、フィラストロッカと呼ばれていました。こちらでは暗記をすることが勉強ですから、小学校にゆく予行練習かくらいに考えていて、今回のフィラストロッカは随分滑舌もよく進歩したなあなどとぼんやり思って特に気にもとめていませんでしたら、ひょんな処からフィラストロッカに出くわしたのです。

ここ暫くレスピーギの「ローマの松」の日本版スコアのための解説を書いているのですが、冒頭のボルゲーぜ公園の松で使われている旋律こそ、フィラストロッカでした。「ドレ夫人」は、本来輪になってぐるぐる回りながら「あの子が欲しいこの子が欲しい」とやってゆく、「かごめかごめ」と「花いちもんめ」を併せたような遊びで、我々の世代が子供の頃までは遊ばないまでも良く歌われていたそうですし、レスピーギの楽譜の註釈に出てくる「ジロトンド(ぐるぐるぽん、というような語感でしょう)」
もやはりフィラストロッカと呼ばれていて、息子が近所のおばさんに最初に教わった遊びでした。今でも誰でもやっています。要は旋律があってもなくても、歌詞が口を付いて出てくるわらべ歌のようなものなのでしょう。

この作品を話すときに、当時の時代背景についてどの程度触れるべきか悩んでいます。個人的にはファシズムとこの作品を繋げるのは大袈裟だと思うけれど、黒シャツ隊のローマ進軍ののちファシスト党単独政権誕生した年に、政府の趣旨に等しく、古代ローマ軍の進軍ラッパを高らかに吹き鳴らしアッピア街道からカンピドリオを目指して無数の兵士が勇壮に行進する姿を描いていれば、当初の作曲者の意図がどうであれ、戦争の記憶を持つ人々の中にはこの作品に対して嫌悪感を持つ人がいても仕方のないことかも知れません。

今でも街角で何も考えず気軽に手を上げて挨拶をして、黒シャツ隊のような挨拶をするなと声を荒げられたことは何度もあります。先の息子の小学校の例に限らず、ミラノの中央駅のようにファシズム建築の多くは政治と無関係に市民に愛されているし、ムッソリーニの全てを悪だとは思っていない人が沢山いるのも事実です。人それぞれ戦争に対しての感じ方は違うのは、自分や周りの人々が培ってきた人生がそれぞれ違うのと同じで仕方がないこと。そんな前提を念頭に、客観的なレスピーギ像を恣意的にならずに伝えるため、本当に自分が書くべきことは何か、もう少し頭を整理する必要がありそうです。

政治と音楽の関わりでふと頭に浮かんだのは、日本でもよく知られるようになったベネズエラの音楽教育「エル・システマ」のこと。イタリアでは、クラウディオ・アッバードが直接指導に関わったりして、広く知られるようになりました。思いかえせば初めてベネズエラの音楽家と知り合ったのは、長らくアムステルダムのニーウ・アンサンブルでヴァイオリンを弾いていたアンヘルに会ったときのことだったでしょうか。

真面目で正確で情熱に溢れた演奏は魅力的でした。「自分の国は本当に貧しくて、アムステルダムが自分の肌にあっているわけではないが戻りたくない」、と少し寂しそうに話してくれたのを覚えています。自分の親も音楽家だったと聞いたかも知れません。

年末にペルーのリマからギターの笹久保さんがミラノを訪ねてくれたとき、ペルーの貧困や治安の悪さについても随分話しました。リマの歴史的中心街がシンナー袋をくわえた浮浪児や麻薬中毒者の巣窟となって、治安が悪化している様子を伝えるニュースなどを見ると、荒廃した中心街の姿は想像を絶するものでした。

一見華々しく報道されるベネズエラの音楽教育も、一歩間違えばこうした貧困層の泥沼にはまり込んでいたかも知れない若者のためだと思うと、より尊く感じられます。「エル・システマ」に参加する若者がインタビューで、「音楽は自分の人生そのものです」と語っていたけれど、その言葉の意味の深さを、我々部外者など気軽に理解することは出来ない気がします。

そんな話になったのは、その前日笹久保さんが画廊で開いたアンデス音楽の演奏会に、古くからの友人が連れてきていたペルー人の姉弟2人の養子の姿が、目に焼きついて離れなかったからです。明らかにアンデス人と思しき中学生と小学生の姉弟は、友人に寄り添いながら、どんな思いで郷里の音楽を聴いていたのでしょうか。

彼らもイタリアに来て8年ほど経ちましたが、当時友人が彼らについて色々と教えてくれたことが頭を過ぎります。姉弟は幼いときに親から捨てられて孤児院で育てられたが、周りの孤児たちが次々に訪れた欧米人に貰われてゆくなか、彼らだけが姉弟ということで受入れ先が見つからないまま暮らしてきて、人間不信が取分け激しかったといいます。

当初はただ理由もなく泣くばかりで取りつく島もない、どうして良いかわからない、と訴えるようなメールが届いたこともあります。彼らをイタリアに連れ帰って精神的に落着いてくると、今度は極端な赤ちゃん帰りにあって、同時にスペイン語とスペイン語を話す人全てに対する極度の拒否反応が現れました。スペイン語が分からないふりをして、スペイン語で話しかけられても無視したり、スペイン語を話す人を蔑んで見せたりしていました。

「ペルーの孤児院は劣悪な環境だから、考えられないような人生を歩んできたのでしょう」。
笹久保さんは目の前で弾きながら心が痛んで、夢にまで見てしまったと話していました。姉弟を連れてきた友人の気持ちも測りきれませんが、恐らく全てを分かっていたと思うのです。

ミラノ滞在中、笹久保さんがミラノのペルー領事館から招待を受けたので、住所を確認しようとインターネットサイトを開くと、サイトの一面の領事館の業務内容一覧には「養子縁組」と明記されていて、ペルーがどれだけ貧しいかを力説していた笹久保さんも、流石に肩を落としていました。国家が養子縁組を推奨しなければならない程の資金難に喘ぎ、親の居ない子供が余っていることは紛れもない事実であって、養子縁組の費用がどれだけ高いかも耳にしていましたから、裕福なイタリア人が貧しいペルー人を養子に迎える構図を、素晴らしいと手放しに褒めちぎる周りの社会に溶け込め切れない自分の温度差を、薄く感じたりもするのです。

子供たちが最終的に幸せになることは理解できるのだけれど、これが宗教観の壁なのか、恐らく一生完全には欧米社会に属することもなく生きてゆく自分にとっては、どこかやるせない気持ちも残ると言うと、分かります、と笹久保さんも頷きました。そんなことを書いていると思いがけなくリマからメールが届き、或いは以心伝心だったのかも知れません。先日の彼の演奏会の様子はUstreamから現在でも見られます。

ここまで書いて今朝学校の授業に出掛けると、車のラジオからインタビューを受けるウート・ウーギの声が流れてきました。「音楽には国境がありません。ローマでも東京でもニューヨークでも、言葉や文化の違いを通り越して、音楽を通してなら誰とでも自由に直接交流できる、そんな素晴らしい、恐らく唯一の芸術手段なんです」。

「どんな小さなことでも、どんな音楽でもいいけれど、いつかペルーでも”エル・システマ”のように、音楽を通して人々が繋がることが出来たらいいのだけれど」。
笹久保さんが何となしに呟いた言葉を、ふと思い返していました。

(1月29日ミラノにて)

掠れ書き 9(カフカのことばを歌う)

高橋悠治

36の断片のうち11片はうたわれるので、メロディーだけを先に書く。原文のドイツ語と日本語訳文をみながら、まずドイツ語を歌にして、それを日本語によって修正する、ドイツ語でも日本語でもない歌の姿があらわれてくるように。単語のリズムや抑揚をメロディーにするよりは、フレーズ全体が指し示す方向と、一つのフレーズから次のものへすこしずつ移り変わっていくような音の運動をつくりだす、ことばの身振りが声の身振りになるように。だれが歌ってもいいように、オクターブよりすこし広い地声の音域の範囲内で、3種類の音の長さ、短い(16分音符)、長い(2分音符)、その中間(8分音符)、3種類の中断、コンマ、フェルマータ(停止)、中間休止の記譜に限定する。歌われるシラブルと語られるシラブルを混ぜようと思ったが、それを指定すると複雑になり、指示されたことにしたがうだけで、指示にはとどかない、したがう時間の遅れがだんだん大きくなる、軌道から外れて取り残されるのではないか、そう考えると、指示が指示それ自体に先立つ瞬間へと、時間の縫い目のほころびからさまよい出して、方向のない空間をうごきまわれるような示唆としてはたらくようにならなければ、「そこへ行け」「あれをやれ」というような指示を、いくらか遅れて不器用に反復するだけで、たとえば階段をのぼっていて、あるべき距離に次の段がなかったり、予期しない凹凸や敷石の継ぎ目のずれでつまずきそうになる、そういった細部に注意を向けるような指示でもないかぎり、だれのものでもない、どこから来るのかわからない声という、自動的行為の出現をさまたげるのではないか、と思ってもいた。メロディーを歌うのでもなく、節をつけて語るのでもなく、自分を歌いあげない、相手に直接語りかけない、陶酔や説得の熱気を離れて、何もない空間に眼をそらしながら、夢を見ている時のように、自分の喉から自分でないだれかの声がきこえてくるのを聞いていて、それをどうすることもできない感じ、自由間接話法、隠された意図を持たない引用、思いつきが止める間もなくそのまま口を衝いて出て、しかも抑制された調子で、壁の向こうで話されていることを繰り返しているような。

歌のメロディーを書いてしまった後で、最初の断片にもどり、楽器のパートを書きはじめる。思いついた音から書きはじめ、その音についていく。こんなふうに音楽を作るようになったのはいつからだろう。以前はシステムがあった。材料をそろえ、可能な組み合わせを書き出し、全体の構成や、そのなかでの要素の配分や変化を決める方法があった。20世紀後半の音楽は、音列技法はもちろん、さまざまな技法を使い、どんなに前衛的にみえようと、全体の統一をめざす限り、ドイツ・オーストリア的な一元論や普遍主義から離れられなかった。偶然性でさえも管理され、全体の構図の枠のなかに収まっていた。調性音楽の文法はなくても、メロディーと伴奏、低音の支えがあれば、和声的構造が機能しつづけている。音程が自由になっても、リズムの規則性がはたらいて、そういう音楽を古典のカリカチュアかパロディーのように思わせる。

思いついた音からはじめても、そこから思うままにうごかしていくのではなく、思うままにならない音を追って曲がり、先の見えないままにすすむのは、即興とどこがちがうだろうか。作品のもつ完結性やスタイルが排除しているのはなんだろう。書かれた作品は「この音を弾き、次にこの音が続く」という指示でも、それを書いているときには指示ではなく、流れに追いついていくなかで起こることを見ているだけ。発見があるのは、予期しないことが起こる時だから。

『もしインディアンだったら、すぐしたくして、走る馬の上、空中斜めに、震える大地の上でさらに細かく震えながら、拍車を捨て、拍車はないから、手綱を投げ捨て、手綱もなかった、目の前のひらたく刈り取った荒地も見えず、馬の首も頭もなくなって。』(カフカ『インディアンになる望み』)

ことばを書けば、それが存在しはじめる、ただしこの世界のなかではなく、どこともしれない文学空間のひろがりのなかで。書きすすめるにつれて、人の姿が現れてくる、走っている馬に飛び乗って、身をのりだしている、だがもう走りだしてしまった後だから、拍車や手綱は着けられない、震える大地は感じられても、目の前の風景はあとから作れない、首も頭もない馬の走りだけがある。

einfallenは「起こる」こと、字義通りなら、落ちてくること。落ちてくることばに突き飛ばされて、思ってもいない方向に走りだす。そこで別なことばにぶつかり、方向が変わる。さらにその跡をなぞる(nachziehen)と、「生活の輪郭がはっきりして」道が見えてくるのだろう、降りかかってくる障害を避けて曲がる角が濃くなぞられて。

しもた屋之噺(109)

杉山洋一

今回零下のミラノから成田に着くとき、気温は思いがけず22度という機長のアナウンスが入り、流石に驚きました。翌日から14度程度まで下がりましたが、12月とは思えない日和のなか家に戻ったのをよく覚えています。
4年ぶりにご一緒した東混のみなさんは、最初から最後まで誠実に練習にお付き合いくださり幸せな2週間でした。何より、言葉と人の声の表現力の強靭さに、練習からの帰り道はいつも感激していました。全員が発する言葉に同じ気持ちがこもった瞬間に現れる、信じられない程の現実感と具体感は、オペラをする声とも全く違い、もちろんオーケストラと純粋音楽を演奏するのとも全く異なる、文字通り強烈な体験でした。

上野の文化会館に向うため、駒留の自宅から三軒茶屋の駅まで歩いていたときのこと。世田谷通りを大きな自衛隊の濃鼠の装甲車がゆっくりとやってきたのです。前方左側にはヘルメットを被った自衛隊員が頭を出し、じっと前方を見据えていました。その傍らには白く書かれた「走行訓練中」という表示がみえました。世田谷通りではあまり見慣れぬ光景に、周りの通行人も驚いた表情をしています。走行訓練という文字をみて、漸く胸のつかえが取れたものの、有事でも起きたのかと思わず身体がこわばりました。

それから田園都市線に乗り、表参道で銀座線に乗り換え上野の坂をのぼりながら、ずっとこの装甲車と自衛隊員が頭から離れませんでした。今はまだ世田谷通りを装甲車が走っていれば、周りは思わず驚くけれども、いつまでもそうであることができるのだろうか、気がつくと、装甲車が世田谷通りを走っているのが普通になっていたらどうだろう。そんなことを思いながら、最後の通し稽古を終えて、先ほど出遭った光景を合唱団のみなさんに伝えました。

自分にささやかな希望があるとすれば、それはせめて息子が息を引取るまで、彼が戦争に巻き込まれずに生き存えられること。戦後65年間、日本は戦争に巻き込まれずに何とかやりすごしてきたけれども、今後いつまで続けられるかは分からない。平和とか自由とか気軽に口にしているけれど、それは本来ずっと尊いことでわれわれが守ってゆくべき重責だと思う。音楽を通してせめてもそれを伝えてゆきたいと思う。そこには左も右もなく敵も味方もない。北朝鮮、中国、韓国と国で呼ぶのが簡単なのは、そこには顔が見えないから。

でもどの国にもさまざまな人が住んでいて、恐らく良い人も悪い人もいる。一からげにはできるはずがなく、その一人ひとりに大切な家族がいる。敵であろう味方であろうと兵士が一人死んだとすれば、その死を悲しむ人はたくさんいる。そうして結局傷つくのは殺しあいに係わらなければならない下っ端のわれわれであって、戦争を操作する人が同じ苦しみを共有することはないかもしれない。共有していたら戦争は出来なくなってしまうし、きれいごとだけで国を治めることは出来ないのは、われわれも歴史からよく学んでいる。だからこそ、自分たちが置かれている状況の大切さを、あらためて自覚する必要があるのではないか。遠くから自分の生まれた国を眺めていて思うとことも多く、「人間の顔」がどれだけむつかしいかは理解していたけれど、この機会にどうしても取り上げたかった。そんな指揮者の勝手な希望だが、本番でふと頭の片隅に思い起こして頂けたら嬉しい。そんな話をしたところ、演奏会のあとみなさんから、お話を思い出して一所懸命歌いました、話してもらってよかった、と思いがけず声をかけて頂いたのには感激しました。

今回の帰国に併せてピアノの大井くんが自作をまとめて取り上げてくださったのも、実に有難くそして貴重な出来事でした。普段音楽を聴くこともなく、自作を顧みることもないなかで、学生時代から現在までの作品を連ねて聴くのは想像だにしなかった発見、よく言えば感慨がありました。同時に自作の合唱曲にも稽古をつけていたので余計そう感じたのかもしれませんが、どの曲もみな同じであって、まるで留学前から現在まで20年弱自分に変化もなければ成長もない事実を、肯定的に受け止めろと言われても戸惑わざるを得ません。

東京から零下のミラノに再び戻った翌日、奇しくも自分の誕生日でしたが、2日前97歳になったばかりだった祖母が湯河原で亡くなっていたのを後で知りました。演奏会の当日も容態を確認して安心していたところで、まるで無事にミラノに着くのを待って息を引き取ったかのように感じられ、半年以上も落着いてお見舞いすら出掛けられなかったことが、ただ申し訳なく今さらながら悔やむばかりです。

そんな気持ちを引きずりながら大雪の残るサンマリノに出掛けたのは、年末恒例の国会での記念演奏会に参加するためでした。サンマリノに通い始めて数年が経ちますが、崖の頂にあるサンマリノの旧市街に出掛けたのは今回が初めてでした。麓のボルゴ・マッジョーレから急勾配を這うように登るロープウェイからの眺め、遠くはリミニやアンコーナまでを一望するサンマリノの壮大な夜景は息を呑むほど美しく、旧市街の国会周辺の建物や憲兵などはお伽の国に紛れ込んだ錯覚を覚えました。以前から問題になっていた対イタリアのマネーロンダリングは経済にとてつもない深刻な打撃を与えていました。サンマリノ人がイタリアに仕事を求めるなど以前では考えられなかったことで、流石に驚きました。

慌しくミラノに戻ったクリスマス25日の昼食に招いてくれた精神分析医のアントネッラが話してくれたのは、意外にもこの時期の患者全員が揃って訴える「クリスマスの恐怖」についてでした。日本の元旦に相当するイタリアで最も大切な宗教行事クリスマスは、特に家族の絆が強いイタリアに於いてはパンドラの箱にも匹敵して、普段互いにやんわりと付き合っているはずの家族の関係が、イタリア人の包み隠さぬ直截な性格も相俟って、あっさりと崩れることが往々にしてあるのだそうです。ワイン片手に談笑している我々の傍らで、5歳の息子が皆にむかって食後のケーキをまだかまだかと盛んに催促していて、大人も慌てて食事を口元に持ってゆくのが愉快でしたが、気がつけばこうやって慌しかった一年が瞬く間に終わろうとしているのでした。

来年がどんな年になるのか想像もつきませんが、地球上の一人でも多くのひとが、一日でも多く、平和で安寧な毎日を送れることを心から祈るばかりです。

(12月31日ミラノにて)

勇ましい魚。

植松眞人

うちの事務所の名前は『イサナ』。これはクジラの旧い呼び方で、漢字で書くと勇魚と書きます。ちょうど20年前にまだ28歳の時に怖いもの知らずで独立したのですが、どんな社名にすればいいのか本当に困っていました。ちょうど、CWニコルさんの書いた『勇魚』という小説が出版され、その内容が本当にスケールの大きなもので、僕は「イサナって社名もいいかもなあ」と思ったのです。怖いもの知らずなりに、一人で独立することに不安を感じていたのかも知れません。名前だけでもでっかくしようと、会社設立の書類の法人名のところに「有限会社イサナ」と記入しました。漢字で書くと、魚屋さんに間違えられそうな気がしたから、カタカナにしたんです。

あれから20年。なんだか、今になって「イサナ」って名前にして良かったなあ、と思ったりします。正直、付けたときも、今も、なんとなくしっくり来ないんです、自分の会社の社名が。でも、この「しっくりこない」感じがちゃんと定まってない雰囲気でいいんじゃないかと思い始めました。

たぶん、何やってもしっくりこない感じが、何やってもいいと言われているような気もして……。毎年、年末年始のこの時期になると、不安と希望が交互に僕を襲うのですが、今年はいつもに増して、20年前のあの日、なぜ「勇魚」というタイトルのCWニコルさんの小説に惹かれ、自分の設立した事務所の名前を「イサナ」にしたのかということについて考えました。そして、理由はわからないまま、でも、「イサナという名前にして良かったなあ」と思えるようになったのです。

20年も経ってまだまだ「勇ましさ」も「くじら」のスケールも持ち合わせていないのですが、「そうなれるかも」という気になってきたということなのかもしれません。

オトメンと指を差されて(31)

大久保ゆう

新年あけましておめでとうございます。

今年も相変わらずな私でいようと思うのですが、その相変わらずなところをあえて合い言葉として申しますと「快眠・快浴・快甘」となります。

快眠はわかりやすく、心地よい睡眠に浸ることであります。くさくさした気持ちも現実のあれこれも、とりあえず眠ってしまえばいったんなかったことになったりもするわけで、時には夢の国の方が怖かったり気持ち悪かったりもありますが、おふとんのなかは温かく、頭のなかもぽわんぽわんなので、まあ何だっていい気分になります。生きていくにはどうしても睡眠が必要なのであって、八時間眠らなければ私はまったく成り立たなくなってしまいます。

快浴はつまり快い入浴、楽しくお風呂を満喫することであります。温かいお湯に触れているときの私は最強です。誰よりも強いという意味ではなくて、数ある私自身のなかでもいちばんすごい、ということでありまして、頭の回転の早さでは並み居る私自身たちもまったく敵わないわけなのです。訳語を思いつくときも、いい文を考えつくときも、あるいは何かを見極めるときだって、やはりお風呂のなか。私の能力の八割は浴室で発揮されていると言ってもそれは過言ですが、六割方はそうかもしれません。

快甘は聞き慣れない言葉というか、たった今作ったものなのですが、みなさまおおよその見当がつきます通り、甘いもの=スイーツ、めくるめくスイーツライフを謳歌することであります。糖分を摂取すると頭がすっきりすることもあるし、あるいはこれさえ終われば甘いものを食べていいとするならお菓子のために頑張ることもありましょうし、ただスイーツを食べたいがために食べることだってもちろんありうるわけで、とにかく甘いものは大事。

この快眠・快浴・快甘というみっつのリラックスでもって日々戦っているのですが、どれかひとつが欠けてもうまく行かず、どれかひとつがやりすぎでも成り立たず、放っておくとナンセンスなことばかりつぶやき始めたりするので、バランスよく快感を保つことが肝要であるわけです。しかしこの連載においてはぶっちぎりで快甘が多いので他のことも書きたいのですがあまりヴァリエーションがないのですよね。気が向いたら(何かに気づいたら)今後そんな話も出てくるかもしれません。

ともあれ、上記のような行動原理に基づきまして今年もそんなこんなやって参りますので、みなさまにおかれましては私がナンセンスがことを言い出したらああ疲れているんだなと、いつも通りであればああ忙しいんだなと、まともなことを言い出したらとうとう危ないんだなと、全体的になま暖かく見守るような形でどうぞよろしくお願い申し上げます。

(新年のご挨拶ということで短めに)

ちなみに新年と言えばお雑煮ですが、私は白みそでも赤みそでも合わせ味噌でもおすましでもなく断然お善哉派です。日々朝食にお汁粉を作る私ですが、そこはぬかりなく新年なので具が豪華になるのですよ! おもちだけじゃなくって!

しかも今年はついに鏡餅までチョコレートになりました。実はチロルチョコがチョコ鏡餅を販売しているからでして、需要のわかっている貴社におかれましては今後ともお世話になりたいと思う次第であります。

製本かい摘みましては(65)

四釜裕子

新聞紙にプリントして写真集を作りたいという写真家がダミーを持って店にあらわれた。ママのひろみさんに聞いていた青年だ。大きな手できれいに切りそろえた新聞の束にいくつか写真がプリントしてある。大振りな判型と厚みが肝らしい。プリントがきれいだ。どうすれば新聞紙によく定着するのかプリンターを使い込んでいるのがわかる。新聞紙を使うとひとくちに言っても日付や記事や図版に自分の写真をどう組み合わせるかが見せどころで、ダミーとはいえすでに方々の新聞紙が集められていて、ダミーとはいえ大量の写真の中から選ばれた一枚ずつがにくい感じで組み合わされている。おもしろい。こんな感じで写真展に合わせてまず一冊作りたい、さてどうすれば「本」になるか――。ダミーのような方法でプリンとしたものを使う前提での話から始まったが、いあわせた面々が紙の大きさや材料やプリントや展示の方法やらをひとつずつ却下してアイデアを出しているうちに飲み過ぎて、どんな結論になったのか忘れた。ただこのダミーの感じがとてもよくて、このままでいいんじゃない?このままがいいよ。どうして本にしなくちゃいけないの?「本」って何?一冊だけ作るのならこれが「本です」って言い切ればいい。みたいなところをループしておひらきだったような気がする。

今秋、東京国立近代美術館の鈴木清写真展『百の階梯、千の来歴』に写真集のダミーが展示された。鈴木清(1943-2000)が生前刊行した8冊の写真集のうち7冊は自費出版で、いずれも自身によって繰り返しダミーが作られていたそうだ。ここで展示されたのは『流れの歌』1972・『修羅の圏』1994・『デュラスの領土』1998のための写真集のダミーと、『天幕の街』1982・『天地劇場』1992のための表紙案。展の図録に寄せたマヒル・ボットマンさん(2008年にオランダで開かれた鈴木清展を企画したオランダ在住の写真家・キュレーター)によると、オランダ展の最後の準備に清の妻・洋子さんと作品の保管室にいるときに洋子さんが見つけたのが処女作『流れの歌』のダミーで、おそらく〈存命の間はほとんど閉じられたままだったのだろう〉とある。折れた付箋、乾いて剥がれたセロハンテープのあと、コピーの切り貼り、色とりどりの書き込みで、紙はやぶれ、つぶれ、ゆがんで、ぐったりとぼっさりとした背をわずかに蓄えた紙の束である。いったいこの紙束はどれだけ写真家になでられ、めくられ、そうして一緒に時間を過ごしたのだろう。写真集になってしまえばそれは読者のものである。この写真家はそのすんでのダミーを完全にするまでの時間をたっぷりかけて自分の写真たちを独占し、その住処の設計図を描いていたように思える。余白も言葉もなにもかも、その家の主人となる愛する写真たちのため――妬ましい時間の痕跡だ。

青年写真家のことを思い出していた。あの夜見た紙束は何度目かのダミーの完成直後で書き込みもなくきれいな直方体をしていたが、展が近づくにつれてくたくたになっていることだろう。どんな読み手にも決して知ることのできない、妬ましい時間を宿す”本”の話。

犬狼詩集

管啓次郎

  21

造形のためには純白の小麦粉をこね
食物のためには塩味のする赤土をこね
冷たい夜は愛の不在とともにやりすごす
きみは永久に河原に住んで
五月にも十一月にも半裸でねむるのか
荒々しい人生だがしずかな火が燃えている
きみやおれには都市からの追放の宣告も意味がない
あるがままの貧しさをもって自分の体に
木を植えよう林を植えよう森を植えよう
そこにあるとき鳥と魚が集いはじめる
それから未来が回帰するように
肌の上を月時計の淡い影が回転し
ゆっくりと老いることと若返りを同時に体験する
カリオンが響く、リカオンが吠える
その音と声がひとつになる
朝がくる、夜がくる、朝がくる

  22

傑作を作るといって故郷と恋人を捨てて
ローマに行った彫刻家の話をリルケが書いていた
何かいやな予感にとらわれて
彼は故郷に帰り棺の中の恋人を像に刻む
それが彫刻家の唯一の傑作だった
だが写実が唯一の規則でないのと同様
ローマと故郷の差異は空間にはないと私は思う
ある意味で彼はたしかにローマに住みついた
四つのローマにしか行くことができなかったのだ
北に行けばローマ
東に行けばローマ
南に行けばローマ
西に行けばローマ
ローマを逃れることは彼にはできなかった
そしてローマは苦悩の首都
すべての完璧な薔薇がそこでは石になる

いつの間にか年を越して

仲宗根浩

更新された「水牛のように」を読むと自分の文章、読点の間違いに気づく。出てしまったものはしょうがない。間違いは間違いとしてわかるようにしておこう。

十二月、いきなり暑くなる。勘弁してください、仕事中、これ以上汗をかきたくないんです。そんな中、十二月七日オフ会お誘いのメール。うっ、急すぎる。確かにこちらは連絡いただければ金と時間、工面して行きます、と申しました。が、飛行機も早割りだとなんとかなるものの、一応ネットで東京往復の最安値の料金を調べるが無理だと諦め、仕事先の忘年会に行く。五十名以上が集まる宴会。ちょっと耐えられなかったので、頃合を見計らって逃げる。歩いて四十五分、家の近くの飲み屋で深夜三時頃まで飲むなおす。

そのうち内地が寒くなると沖縄も寒くなる。暖房をいっさいつけてない家の中ではパジャマの上からスエットとパーカーを着てしのぐ。大晦日の日の最高気温十三度と予報。風が強いので外で二十一年ぶりに行った歯医者さんに知覚過敏と診断された歯を風に向かってさらしてみたら、風の冷たさで歯がしみた。

今年は七月からやたら葬式が多く、最後の葬式がひいじいさんの実家の葬式。別の仲宗根の家に生まれたひいじいさんは、うちの仲宗根に養子できた。墓もうちの墓のとなりのとなりにあり、盆には必ず亡くなったおじさんが来ていた。ここでの親戚の幅は広い。別の法事で、戦前のことを知っているおばさん(といってもうちのおばあのいとこの娘)から、そのひいじいさんにわたしが似ていると言われた。昭和二十年に死んでいるので写真は無く今その顔を記憶しているのは何人いるだろう。うちの母親もひいじいさんの顔は知らない。方言でひいじいさんはウフータンメーと呼ばれている。ウフーは大きい、タンメーはおじいさん。

仕事納めが三十一日、仕事始めは一日。学校というの出て大晦日からお正月の三箇日休みというのを経験したのは十年くらい前一度しかない。そのときは奥さんの実家でお正月を過ごした。新年、最初の休みは四日。五日から子供たちは学校が始まる。

一月一日が誕生日のお師匠にお祝いのFAXをしなくては。

阪本順治監督の本気

若松恵子

日本映画の監督のなかで、いちばん好きな人が阪本順治だ。監督デビュー作『どついたるねん』の一場面、今は現役を退いたコーチ役の原田芳雄が、主人公不在の練習場でひとりパンチを打ち込む。パンチが重なっていき、気持ちもどんどん高まっていくその頂点で、通天閣にバチバチっと電気がつく映像がさし挟まれる。彼のエネルギーが、通天閣に電気をつけてしまったのか!「そんな、アホな」と思うと同時に、この監督のことを心から気に入ってしまった。

第2作『鉄拳』でも、殴られて歪む菅原文太の横顔のあとに、宇宙にぽっかり浮かぶ青い地球のショットが挟まれていた。阪本自身も『孤立、無援』(2005年ぴあ)のなかで「たとえ物語が一回止まって意味不明になったとしても、イメージショットのようなものを挿入したくなる」と述べているが、何かふっと、本気をそらすような、あまりにも思いつめている自分をからかい、そのことで緊張をほぐして自分を励ましているような、彼独特の表現方法が好きになってしまったのだった。

そして、そんな、ふざけた飛躍とは正反対であるが、現実(人間)に対する彼の誠実な向き合い方にもう一方で魅力を感じた。絵空事には見えないと言えばいいのか、彼の作品には、人は確かにこんな風に愛したり、悲しんだりするのだろうなとリアルに思わせてくれる力があった。「こんなセリフ現実には言わないよ」とシラケルことがほとんど無かった。かといって、映画が現実をそのままなぞっているという事ではない、彼の描く世界はむしろ全くの虚構だ。或る種の「夢」だと言ってもいい。日常の生活に埋もれさせてしまっている感情を、例えば「あのように愛したい」「こんな状況になったらきっぱりと闘いたい」と思い出させてくれるという意味での「夢」だ。「夢」は現実を見ないためのものではなく、俳優たちは、夢見ることをきちんと成立させてくれるだけの現実感をもってスクリーンのなかに存在している。阪本監督の演出にそういうことを感じる。それは、ひとは現実にどう振る舞うのか、どう生きるのかということへの深い洞察なくしてはできないことではないかと思う。

最新作『行きずりの街』(2010年11月公開)でも、12年振りに再会する2人のラブシーンが、言葉のやりとりによって、言葉にならないものを伝えようとする体の動きによって描かれていた。ひとが人を想うという行為が、そのゆたかな感情が、スクリーンからあふれ流れてきて、心を揺さぶられた。「こんなふうに出会い、愛することができたら」というひとつの夢が、信じられる夢として、現実に生きる俳優によって、描かれていた。誇張された表現も、ドラマチックな演出も無く、とても静かに。静かなラブストーリーは、あまり話題にならずにロードショーも終わってしまったようだ。この美しい映画が、話題にならずに終わってしまうのがもったいない。

cogito, ergo sum

大野晋

新年、あけましておめでとうございます。

東京駅丸の内の旧国鉄本社ビル跡地(というと覚えている方は随分と少なくなったのだろうけれども)にある丸善の四階に「松丸本舗」という面白いスペースがある。そのスペースの隣が、丸善のハヤシライスを食べさせる軽食堂なのだが、その隣に非常に雑多な本の並べ方をした書店棚があり、実はその中をうろうろとうろつくのが面白い。知識は多接的、有機的な結びつきで結びつくことで有効利用できるようになると考えているので、それを具現化したようなその空間は知的な刺激を受けるのに最適な環境のように思う。そういった中で、ふと、おかしなことを思いついたりする。

さて、私たち自身の自我はなにに基づいているのだろうか?
思考が脳だけで行われると思うのであれば、一切の外界からの刺激のない赤ちゃんの状態を考えてみると面白い。果たして、その赤ちゃんに思考は芽生えるのだろうか? 後天的に刺激が受けられなくなった場合にはなんらかの思考がありそうな気がするが、先天的に一切の脳への情報を遮断したとすると、おそらく、心すら芽生えないのではないだろうか? アン・マキャフリーの小説で、「歌う船」というシリーズがあり、この中で生体の脳を使って宇宙船や都市機能を制御する話がある。しかし、実際に人体と異なる感覚器をセンサーや情報の入力器として接続された場合に、歌うといった行為を身につけるのかどうか、非常に疑問に思う部分である。

例え、女性と男性の人体と頭脳が入れ替わったとしても、自分のクローンの体に頭脳が移植されたとしても、うまく動くのかどうか疑問が残る。

知識はニューロンの間に、各々の特徴を繋いだような形で、それぞれが複雑な発火の末に集約された答えを選ぶ、いわゆる連想モデルでモデル化できるにしても、どこにもルールのない世界から、赤ん坊が知識を得、そして一個の人格ができるとは思えない。少なくとも、感覚器を通しての接触と反応で世界を覚えるとともに、模倣で行動を覚えるような普遍の自己プログラムルールがあるに違いない。「2001年宇宙の旅」のHALのような人工知能は、そうした人間の知識獲得の
ルールが見つかったのち、実現されるに違いない。しかし、それが人格としてできるかどうかは、頭脳と感覚器の問題の解決を待つ必要があるように思えてならない。

古来、健康な肉体に健康な精神が宿ると言ったが、頭脳と多数の感覚器を有する体とは、切っても切れない関係があるのかもしれないなどと、考えてもいる。おそらく、今後、新しい感覚器や代わりの感覚器を頭脳に接続したり、頭脳の一部をコンピュータで拡張したるするような研究が進むだろう。果たして、そうして取り換えられたり、拡張された自分はもとの自分と同じなのだろうか?

左手の抒情

くぼたのぞみ

右腕が沈黙を強いられ
とにもかくにも左手で
打ちだすキー&キーの
すきまからゆっくり
ゆっくりもれてくる
ぽつりっく ぽつっりりっく
──ヴィレッジヴォイスか
はたと気づく左手で書/描く
東北 北陸
から北へむかって
海を渡った道のはてか
畑か
たちのぼる


桶にひしゃくの
あたる音おとうさんの
軍手が握るるる
長いひしゃくの柄の先に
若いキャベツがならんでて
まだ細い株のうねのあいまには
あたらしい溝が掘られてて


桶にひしゃくのあたる音がぽーん
 おとなしく
 見てるんだぞ
 近づくな
と響くキャベツの芯は固く
握りしめたビスケッッットト
とびきりおやつが湿気ってく
枝からもいだほんのりピンクの
葉つきりんごは
血のにじむ前歯でそのまま齧り
名にし負はばの植民の子に
ピンネシリはすっぱいからね
自己憐憫のシングルの
村のはなし/歴史なら
ぽつっ りく ぽつっり りりっく
抒情にならないからね──と
戸まどうキーが
見えない夜をはじきかえす

大晦日の礼拝 ジャワにて

冨岡三智

1月号に大晦日の話もちょっとずれているのだが、ジャワで印象的だった大晦日の話…。

いちど、プロテスタントの友人に、大晦日の礼拝に誘われて行ったことがある。その子は、婚約者の彼に合わせてイスラムからプロテスタントに改宗し、熱心に教会に通っていた。実は、教会の中に足を踏み入れるのはそのときが初めてで、信仰心はなかったが、好奇心はあったのだ。連れて行ってくれた教会は、ウィドゥランという大きな通り沿いにあって、私が住んでいた所から自転車で5分くらいの所なのだが、教会前が車で大渋滞していて驚く。今までキリスト教行事の日に出歩いたことはなかったが、こんなに混むとは知らなかった。

建物の中も立派で、大きいのに驚く。礼拝堂は1000人くらいは入る大きなホールで、所々にツリーが置かれてあり、壁面にも雪の飾り付けがされている。雪のないインドネシアでも、クリスマスや大晦日の礼拝行事のときは、北欧風の飾り付けになるんだなあと、不思議な気になる。オーストラリアでもそうらしい。

式次第はあまり覚えていないのだが、最初にいくつか讃美歌の合唱があった。私の友人は、合唱隊で歌うから…と言って、私を置いていってしまった。壇上では教会の合唱隊がずらりと並んで歌い、列席者も起立して一緒に歌う。教会の中では、椅子に座り、起立して歌うというのが新鮮だ。ガムラン音楽の上演や、伝統的な詩の朗読会、それにイスラムの集まりなどでは、床に座って歌ったり、お祈りをしたりというのが普通なので、あまり立って歌う姿を見たことがない。

その次に聖書の朗読というのがあったような気がする。合唱隊から戻ってきた友人が聖書を見せてくれる。聖書はインドネシア語に訳されている。その後の牧師の説教も、確かインドネシア語で終始した気がする。私が今まで出席したことのあるイスラム導師による儀礼というのは、すべてジャワ語で執り行われていた。イスラムの方がよりジャワ土着化しているからかもしれない。

宗教劇もあり、それは確か牧師の説教の前だったような気がする。信徒たちのいくつかのグループが演じていて、学芸会程度のレベルだったのだが、教会によっては芸大の先生たちに宗教劇制作を依頼することもあり、そういうものはやはりレベルが高い。この教会では、イエスと羊飼いの友達とマリアが登場して、携帯電話でやりとりするのだが、通信がうまくいかなくて…といった、コント風のものが多かった。このときの衣装は、マリアが青いマント、イエスも白い布を巻き付けたような格好といった風に、ヨーロッパの図像を踏襲している。この時にハタと思い至ったのだが、この衣装は北欧のものではなくて、暑い中東地域のものだ。この姿なら、ジャワでもあまり違和感がない。けれど、イエスやマリアがこんな薄着なのに、ヨーロッパでは冬の北欧スタイルでキリスト生誕を祝っているのも、不思議だなあという気になる。

その宗教劇の前だったか合間だったかに、献金箱が廻って来る。自分ができる範囲でしたら良いと言われるが、いくらにするか迷うところだ。「近所づきあいで結婚式や葬式のお包みをする程度」の金額を入れることにする。

牧師さんの説教は、まるで予備校の名物講師が壇上狭しと講義しているかのようだ。マイクを手に持ち、口角泡を飛ばす勢いで、えんえんと続く(2時間以上続いたかもしれない)。知り合いの、議論好きの教授の顔を、思わず思い浮かべてしまう。プロテスタントの説教というのは、こういうものらしい。プロテスタントの礼拝に連れて行ってもらったと、後日、私が舞踊の先生の1人(彼はカトリック教徒)に言うと、プロテスタントの礼拝はやかましかっただろ? カトリックでは粛々とやるんだ、なんて言われてしまった。しかし、あの迫力には圧倒されそうになる。また、インドネシア語の、あまりややこしさのない言い廻しが、こういう折伏調のしゃべり(失礼!)にはとても合う。

この牧師さんの話の途中だったかに市長が来て、しばらく挨拶がある。この市長は2年前に就任したばかりで、しかもこの教会の隣の区(私が住んでいた地域)の出身だった。市内の主だった大教会を廻っているようで、この教会で4番目、まだまだ廻る所があるということだった。調べてみると彼はイスラム教徒らしいが、ここインドネシアでも、冠婚葬祭は政治家にとって大事な付き合いなのだろう。

この礼拝はたぶん2時か3時頃に終わったのではないかと思う。それまでは、大晦日と言えば、市役所でワヤン(影絵)があったり、芸術センターやスリウェダリ劇場で特別プログラムがあったりしていたので、そういうものを見るのに忙しくしていた。けれど、日本にいる時は、私は大晦日の夜は近所の神社にお参りして、夜中の0時から始まる歳旦祭に参列していたから、異教徒であっても教会の祈りの中で年を越すと、なんだかすがすがしい心持ちになる。

追伸:
突然ですが、この1月半ばより来年の3月まで、大学の研究員としてインドネシアのジョグジャカルタ(通称ジョグジャ)に派遣されることになりました。今まで留学していたスラカルタ(通称ソロ)から約60km離れた土地です。同じジャワとはいえ、互いに対抗する町として、スラカルタとは違う文化が見られるだろうなと、半分わくわく、半分不安な思いでいます。本年もよろしくお付き合いください。

カレー三昧

さとうまき

年末、クウェートにやってきた。

2011年は、湾岸戦争が始まって20年も経つ。そして、911から10年、2011年の末には、アメリカ軍がイラクから完全に撤退するという。区切りの年には違いない。なんかこれで終わりというわけには行かない。何で人間は戦争をするのか。20年にさかのぼって、この間の憎しみの歴史をたどってみたい。

それで、クウェート人にもいろいろ聞いてみたかった。しかし、クウェートは、クウェート人がいない。三分の一が、インドや、スリランカ、バングラディッシュからの出稼ぎで、一体僕はどこにいるんだろうと思ってしまう。たまにアラブ人の運転手にあうと、ああ、アラブに来ているんだと思いなおす。

ホテルの近くには小さなインド料理屋があって、毎日そこに通っている。年越しソバらなる年越しカレーを食う。みんな、家族を置いて出稼ぎに来ている。正月も帰れないんだねぇー。彼らは、よく働く。ちょっとでもサボったり、ずるしたら、就労ビザを失うからだろうか。そういう、僕たちも出稼ぎ労働者だ。2010年は、そーっと逃げるように去っていった。気がついたら新しい朝。カレーばかり食っていたので胃が重い。なんか、一生カレーを食っていたきがする。さあ、新年、張り切ってこれからカレーを食いに行く。

ことしもよろしくお願いします。

烈火山4首 ――翠ぬ宝75

藤井貞和

「あさまやま」「あさましき世に」「さくらじま」「地を裂くらしも」「わが烈火山」

「黒雲の」「烈火」「来たりて」「尽くせども」「わが憤怒もて」「洗え」「今夜は」

「もろびとよ」「怒れ」「三十八度線」「新潟過ぎる分断」「創痍」

「かぐや姫」「あわれ火山の神という議論」「鋭(と)し」「史料編纂所教授」

(提灯行列を、話には聞くけれども見たことがないぞ。あれは敵の生首をあらわしたというぞ。「皆切り取ったる敵兵の首の形」とな。日清戦争〈明27〜28〉が終われば、金沢市内は鬼灯〈ほうづき〉提灯を三〇〇〇個、家々に掲げたぞ。ここの連隊だけで三〇〇〇の首級を挙げたということか知らぬぞ。しるしとはよく言ったぞ。くりから峠では七万という武者を抛ったぞ。鏡花『凱旋祭』〈明30〉は祭のなかでひとりの婦人を生け贄に供したぞ。軍卒らは清国女性への集団レイプをするぞ〈同『海城発電』明29〉。妻の愛人の処刑を眼前にみせしめる軍人の夫ぞ〈同『琵琶伝』〉。鏡花は描く、明治の男のかくもさもしき横暴の果てを。嗚呼、透谷は日清戦争を見ずして死んだぞ。「懸賞問題答案平和雑誌」〈明24〉12論文のうちには透谷の翻訳せしもあるか知らぬぞ。世は見よ、透谷から鏡花へ消尽するというぞ。)

掠れ書き 8(『カフカノート』の準備)

高橋悠治

1964年秋、分断されて3年たったベルリンの西、森の小径を歩きながらクセナキスからエピクロス哲学の話を聞いた。その後『ソクラテス以前の哲学者たち』をギリシャ語とドイツ語の対訳で読み、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』の最終巻『エピクロス伝』をギリシャ語と英語の対訳で読んだ。

ミシェル・ビュトールにその後パリで会った時、アメリカでナイアガラの滝を見てクリナメン(偶然のわずかな偏り)を理解したと言っていた。さらにその数年後バッファローで、雪の日にクセナキスの運転する小さな車で、ナイアガラを見に行ったことがあった。滝の一部は凍っていたが、流れて激しく落下する水の飛び散る先には、小さな虹が立っていた。それはクリナメンの創造する多重宇宙を映す鏡のようだった。水の粒子はぶつかり、まず反発する。出会いは結びつきではなく、ちがう方向に離れるほうが先になる。目に映る水は、落ちる時、一つの流れからはぐれた粒子の軌跡を一瞬見せる。

1965年パリで、新刊のアルチュセール『資本論を読む』と『マルクスのために』を読み、「重層的決定」や「認識論的切断」のようなことばのナイフで、論理を切り裂いてひらかれた隙間で、ちがう問題意識に移るプロセスがいくらか見えた。1968年5月はもうそこまで来ていた。その頃はヴィトゲンシュタインやクワインを読み、唯名論に興味をもっていた。問いのなかにすでに答えが含まれているなら、問いかたを変えるよりない。

だが、構造は変化しても、構造という枠のなかにいる限り、保護されはしても、いずれ脱ぎ捨てる殻とならなければ、うごきはじめたものも繭のなかでひからびてしまう。1968年はやがて制度に回収され、1990年の崩壊を待たなければならなかった。たとえ殻をやぶって新鮮な空気に触れたとしても、身体は、やがて新しいうごきかたをまなび、それに慣れていく。永続するクリナメンともいうべき一時的結合と離反のプロセスを手放さないように、それぞれのエピクロスの庭を内側にもつことを時々たしかめるのがいいかもしれない。カフカのように、「速く歩いてから耳をすますと、夜であたりが静かなら、しっかり留めてない壁の鏡や日除けがかたかたいうのが聞こえる」(八つ折ノートB)。それでも共生関係にまつわりつかれないで、創造したままの世界全体を見渡すこと、しかもそれが核心からの視点であると同時に、いつでも移動できるようにして故郷に留まっている(八つ折ノートH)、立っているのは二本の脚で立つのがやっとのところ(同じくG)。

こうして『カフカノート』のプランにもどってきた。1986年の『カフカ断片』、1987年の『可不可』、1989年『カフカ・プロツェス』、1990年の『可不可2』の試行と失敗をふりかえり、あらためてテクストを集めはじめる。以前の作品のように演劇でもなく、室内オペラでもなく、ノートブックそのもの。そう思ってはじめたが失敗した試みにまたもどる。もう進歩主義的歴史感もなく、唯一の正しい方向などありようもない、だが並列的に多様化したとは言えないし、多様化の見かけのなかで変化をきらい、現状維持されている世界とそこで創られる音楽について、一般論としての抽象的音楽論であるより、個別のケースにもどる。目立たないが、それをぬきとると全体の組み替えが起こるような小さなネジ、だれのものとは言えないが、だれともちがっている無名で非人称的変化、気づかれずに浸透していく、性格を持たない、偶然の痕跡。

カフカ自身が生前出版した作品からではなく、ノートブックに残した未発表の短編の一部、それよりも、書きかけて数行も続かず、時にはセンテンスの途中で停まってしまったことば。断片をさらに断片化し、脈絡を断ち切りながら並べる作業はコンピュータ上でスティッキーズという紙片を並べ替えながら、前回使ったマックス・ブロート編集の「標準版」(Fischer Taschenbuch)とその訳書である新潮社版全集ではなく、1992年に出版された手稿版(いまはオンラインThe Kafka Projectで見ることができる)から、それによる池内紀訳の白水社版『カフカ小説全集』よりも逐語訳に近い日本語を考える。読まれる文章の調子を変えないように、句読点を原文のままにする。歌にする場合は、ドイツ語の音節数に近づくように日本語の音節を削る。白紙の上に残された痕跡である文字を手がかりに、それを書いたペンの見えない作動プロセスに似たことを、別なかたちではじめられるだろうか。

パフォーマーは、ことばを空中にきざみこむペンとなって、よみ、うたい、舞う。どこでもない場所、いつでもない時。薄明かりとわずかな音。書くこと、書き続けること、細部にこだわりながら途切れることば、響き、動き。意味を持つ前の書く身体の身振りであり、意味や解釈ではなく、理解できなくても、あるいは、理解しようとするかわりに、ただ、限界線を引いて切り取ることば。とくにアフォリズムは、語源の通り、地平を限ることで、一般論や哲学や、まして教訓ではないだろう。それを書いた手の、そのときの状況に即して、行為の地平を限定すること。ことばは意味や解釈で言い換えるのではなく、そこから浮かび上がる音と影のような姿、夢見るような自分の声でない声、音階からはずれていく歌、遠くからきこえてくるような響き、唐突だが抑制された身振り、反復されながらずれていく動作、眼の前で夢を払いのける手を感じながら、はこばれていくだけ。夢見る人のいない夢、突然の転換と停止。断片を断片として、始まりもなく終わりもなく、はじまったものは途中で中断され、流れの方向が変わる。

だが、これもまだぼんやりした期待、それと気づかずに失望がしのびこんでいるような。以前の2回の試みがそれぞれ一度限りのイベントに終わったように、今度も思ったようにはいかないだろう。もともとがカフカのノートブックのように、失敗の痕跡の集積を意図して創るのだから、予見をたえず裏切る展開、角を曲がると、どこかで見たようでもなじめない風景がひろがっているような、そんな幸運を望めないにしても、それだからいっそう。

ハワイの不思議 パールハーバーを忘れるな

さとうまき

友達の結婚式にハワイに行くことになった。どうも、ハワイに行くとは人には言えず、こっそりと夜逃げのように出かけて行ったのである。なぜか罪悪感を感じてしまう。別にパールハーバーで日本がだまし討ちをしたからというわけではない。日本は師走なのにのんびりしていていいのか。 

しかし、ホノルルの飛行場に着陸すると、米軍の輸送機が待機している。1893年:アメリカ人農場主らが海兵隊の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立。このときからアメリカの力が強くなり、1898年には、ハワイを併合した。そしていつの間にか、ハワイは軍事拠点として重要な位置をしめる。ワイキキビーチにいると分からないけど、沖縄同様、米軍基地がたくさんある。

先月沖縄に行って驚いたのは、予想以上にさびれている。嘉手納やキャンプハンセンの前の繁華街。ほとんどシャッターが落ちている。昭和の雰囲気満載のバーは、補修もせずにぼろぼろだ。海兵隊が歩いていたので聞いてみると、「物価が高くてね」と嘆く。確かに円高だ。ベトナム戦争のころは、明日、戦地で死すかもしれない兵士たちが、ドル札をブチまくように、遊んでいたというが。最近、米兵は基地の中でこもっているのだろうか。

一方、ハワイは、日本人が円をぶちまけるように買い物をしている。戦闘機も飛んでこないし、本当に基地があるのかと思ってしまうくらいだ。パールハーバーに行ってきた。アメリカが本土攻撃を受けた唯一の場所。ブッシュ大統領は、911を評して新しいパールハーバーといった。

「ある晴れた朝、何千人もの米国人が奇襲で殺され、世界規模の戦争へと駆り立てられた。その敵は自由を嫌い、米国や西欧諸国への怒りを心に抱き、大量殺人を生み出す自爆攻撃に走った。
アルカイダや9・11テロではない。パールハーバーを攻撃した1940年代の大日本帝国の軍隊の話だ。だが、日本は宗教、文化的伝統を保ちつつ、世界最高の自由社会の一つとなった。日本は米国の敵から、最も強力な同盟国に変わった。
我々は中東でも同じことができる。イラクで我々と戦う暴力的なイスラム過激派は、(日本と)同じ運命をたどることになる。」

ハワイからもイラクに歩兵部隊が派遣された。翌日の新聞は、イラクに800人の歩兵部隊が、任務に就くという記事。オバマ大統領は、8月末に戦闘部隊の撤退を宣言したが、未だに5万人のアメリカ兵が駐屯している。まだ、アメリカは戦時下だ。というかいつも戦争をしている国。戦争に向かうメンタリティーは、1941年当時と何ら変わっていない。ワイキキビーチを歩く。よく見ると、海兵隊員が家族を連れて、一時のバカンスを楽しんでいた。

なんだか、あまりのんびりする気が無くなってしまったハワイ旅行であった。

道に迷った魔女

璃葉

majo12010.jpg

きんきんと風が冷たい夜の街を歩いていたら。

おばあさんに道を尋ねられた。

真っ黒の服、
緑の瞳、
まっしろな髪、

挙げ句に早口呪文のような言葉を喋るので、
どこの魔女かと思いきや、それは呪文ではなく英語だった。

道を尋ねていると理解することは出来ても
英会話能力皆無の私は、どう説明すればいいのか全く解らず
とりあえずおばあさんが手に持っていた地図を奪って、
矢印が書かれた目的地(駅前のホテル)を見る。

ここに行きたいのですか?

と、矢印に指を差して表情とジェスチャーだけで伝えてみせると、
おばあさんは輝く笑顔と激しい頷きを見せてくれた。

足腰が弱そうなおばあさんと手を繋いで、
名前もどこの国の人かも、何故こんな汚い街に来たのかも
聞く事ができず、わからないままそのホテルまで行き、お別れした。

なんだか忘れられないので、絵を描いてそのおばあさんを思い出す。

オトメン と指を差されて(30)

大久保ゆう

「たいやきうどん」……それは私が長年追い求めてきた料理。いつか作って食してみんと、思い始めてかれこれ二十年。「たいやき」+「うどん」という未知なる領域へと、ついに私はその一歩を踏み出したのです……

お読みの方は一体何のことかと思われるでしょうが、ご想像の通り、そんな料理が実際に存在しているわけではありません。むしろ存在していたらうっすら恐怖すらするのですが、これ、実は私の幼い頃の空耳なのです。

自分世代の幼少期が誰しもそうであったように、やはり私もTVゲーム好きだったですが、小さい頃よくやったソフトのなかに『ぷよぷよ』(あるいは『魔導物語』)というものがありました。ご存じの方には説明の必要はないかと思いますが、この作品の主人公にアルルという少女がいまして、その子が魔法を使うのです。

たとえば「ふぁいやー」「あいすすとーむ」などなど、このあたりは簡単な英単語なので、子どもながら間違えることもありませんし、だいたいの意味がわかるのですが、ひとつだけどうしてもこうとしか聞こえないものがありまして。

「たいやきうどん!」「たいやきうどん!」

はてさて、何のことやら。辞書をくってみてもあるわけがなく、人に尋ねてみても知らぬと言うばかり。「なにそれ?」と首を傾げられようものなら、当のゲームの音声を聴かせ、「ほら!」「う〜ん確かに」と言わしめるものの解決には至らず。

そこで子どもは子どもなりに考えてみるのが常でありましょう。「たいやきうどん」とは何であるか。おそらくそれは「たいやき・うどん」と区切るべきである、というひとまずの推測をつけていたので(「たい・やきうどん」と切らなかったのはその少女の発音による)、どちらも食べ物であるからには、そのふたつが組合わさった料理なのだろうという想像に至るのもうなずけますよね(ね!)。

そう、たいやきが上に乗ったうどんなのだ、それは――こうして、周りの人は知らないがきっと世の中にそういう食べ物があるのだろう、きっと出会ったあかつきには食せるのだろう……と子どものときに思ってはや二十年、もちろんそんなものはありませんでしたよ! どこにも! あるわけないじゃないですか!(すごいアホですよ私!)

とまあ、それで終わればよかったものを、ふと大人になると思い出してしまうわけですよね、何かの拍子に。そういえばそんなのあったな、と。しかも大人なので、一人暮らしの自炊なので料理は自由なわけですよ。ほら、いけない考えがむくむくと、心のなかで育っていくわけで。今なら……できるっ、アルルさん、オレやってみるよっ!てな感じで。(ちなみにその当のアルルはかわいい女の子でした。)

そして幾多の失敗と試行錯誤を乗り越えて(あれとかこれとか、本当にばっよえ〜んな味!)、とうとう私とアルルさんの「たいやきうどん」は完成に至ったのです! ここでそのレシピを大公開しましょう! 誰ひとりとして得しませんが!

1.まずたいやきを用意します。これは鉄板で焼いたたいやきがベストです。コンビニやスーパーなどではおまんじゅうタイプのたいやきも売ってますが、液体につけるとすぐむにゃむにゃになってしまいますし、粉っぽさも足りないため、何よりおうどんの汁に合いません。冷凍のミニたいやきでも構いませんが、少々耐汁力がありませんので要注意です。

2.大事なのは、うどんに乗せる前にたいやきをオーブンで熱して、外側をかりかり、内側をほかほかにしておくことです。冷たいあんこのなかに熱い汁がしみわたるのは割といろんな意味で拷問です。

3.うどんの麺は、何でもいいです。さぬきでも細麺でもきしめんでもお好きなものを。汁の方は、薄めの合わせみそ味をおすすめします(だししょうゆとあんこはあんまり相性がよくない気が……)。おろしショウガを添えると風味があってなおよいでしょう。面倒な人は市販品で「日清 朝のめざましうどん」というものがあるので、それでもよろしいかと。

4.そしてたいやきの焼き上がりとうどんの出来上がりが同じくらいになるようにすればOK! うどんの上にたいやきを乗せて! これで無難に食べられるはずです!

わあい夢が叶った。というわけで、私ひとりが楽しい「たいやきうどん」の話なのですが、twitterで実験報告などをしていると、「森鴎外の饅頭茶漬けを彷彿とさせますね」というつっこみが入ったりも。そういえば確かに何か近しいものが……。翻訳家の甘いもの好きと何か関係があるのかも……と、さらなる妄想に発展しそうなところで今回はお開き。

(ちなみに正しい魔法名は「ダイ・アキュート」で、威力が二倍になるというものでした。調理・玩味は自己責任でどうぞ。)

地震と火山

冨岡三智

この間の10月26日に、インドネシアのジャワ島中部にあるジョグジャで、ムラピ火山が噴火した。ムラピ山は活発な活火山で、ほぼ年中噴煙を上げている山なのだが、今回の地震では、前王から山の番人を任じられていたマリジャン氏も亡くなったとかで、人々の打撃は大きいようだ。このムラピ山は前回は2006年5月にも活動が活発になって火砕流を起こしていて、同じ月にジョグジャ沖で地震も発生している。どうやらこのとき以来、ジョグジャは災害続きである。

ジャワの古都ジョグジャは、北のムラピ山、南のパラン・トゥリティス海岸を南北の軸にして、その中央に都市がある。ジョグジャは特別州になっていて、インドネシア独立後も、マタラム王朝由来のジャワ王家の君主が世襲知事として州を治めている。ジャワ王家の信仰では、北のムラピ山には男神ラトゥ・スカール・クダトンが、南の海には女神ラトゥ・キドゥルが棲んでいるとされる。

ジャワの王は、この南海の女神(ラトゥ・キドゥルというのは、南の女王という意味)と結婚することで王国を護る力を得るとされている。また、緑の服を着た人が海岸に近づくと海に引きずり込むとも言われていて(だから、ジャワ人は緑の服を着て海岸に近づくことはしない)、ラトゥキドゥルという名前はジャワでは有名だ。アブドゥラー・バスキという有名な画家もラトゥ・キドゥルの絵を描いている。

もう一方のラトゥ・スカール・クダトンというのは、ラトゥ・キドゥルほど人格化されていない。スカール・クダトンというのは王宮と言う意味なので、抽象的な王室神ということなのだろう。たぶん、絶えず噴煙を上げている、怒れるムラピ山への畏怖の念があるのだろう。

2006年の地震のときに、こんな小話があった。この地震は、ジルバブを被れと命じられたラトゥ・キドゥルが、怒って引き起こしたものだと。ジルバブというのはイスラム教徒の女性が髪を隠すために巻いているスカーフのこと。ラトゥ・キドゥルは土着信仰の女神だ。ジャワではイスラム教徒が9割くらいを占めているけれど、イスラム教は15世紀にもたらされて以来、土着信仰と混交してきたので、厳格なイスラム原理主義者というのはあまり多くない。だから、この小話の裏には、バリ島テロ事件以来激化してきたイスラム原理主義に対するジャワ人の嫌気が表れているのだ。

こんどの噴火に対して、人々はどのように言うのだろうか。

犬狼詩集

管啓次郎

  19

ある果てしない冬の日、冷たい水がとどまる街路で
忘れられていたきみが突然に言語的出現をはたす
まるで空虚として折りたたまれていた
悲しいほど薄くてはかない紙片が
花を模倣するようにみずからを開き
水の存在とその影を利用したようだ
だが限られた影の船に導き入れることのできる
動物の種や数には制限があるし
霊的修練をどれほどくりかえしても
到達できる頂は限られている
不動に見せかけた大地がそれ自体として
地球の表層をぐるぐると廻っているのなら
われわれにどれほど定着の意志があっても
居住はことごとく失敗に終わる
私=きみの定点、それは冬の太陽に禁じられた接触の残像
私=彼の居住地、それは影となった多くの禽獣たちの巣穴

  20

十二月が十二月を思い出している
冬至と前日のあいだに危険な谷間がある
灰色の霙が正午に降り出して
深夜には流星のような雨になった
光が降る、小さな光の群れが
その群れを毛皮に宿して
はぐれた犬の仔が懸命に走っている
彼はabécédaireを学ぶだろう
どんなミモザ色の予感が過去における
未来をさしていたのか
未知の活用を探していたのか
そのころ初めて読んだ詩は「地帯」で
それですべての朝の街路が詩の洪水になった
リュテシアのアテナイの地理学者が
赤いセーターを着て口笛を吹いていた
坂の石段に性別があることを彼に教わった

しもた屋之噺 (108)

杉山洋一

街をゆきかう人々の頭を覆う毛糸の帽子が目立つようになったと思いきや、今朝は夜半から粉雪が舞い始め、目の前の風景はうっすら雪化粧しています。ここ暫くは朝晩深い霧が立ち籠めていて、そんなときはドライアイスに似た焦げ臭い匂いがそこはかなく漂います。深い秋の香りです。街のあちこちに掛けられた気の早いクリスマスの電飾を無意識にからかっているうち、今朝の雪の到来はすっかり冬へと季節が移り変わっていたことを気づかせてくれました。

雪と言えば、今月半ばインスブルックの演奏会からの帰路、夜明け前のアルプス越えのブレンネル峠は猛吹雪が吹き荒れて、一寸先も見えないほどでしたが、麓のボルツァーノに着くころには、紅く燃え立つような朝焼けに果てしなく広がる、澄み切った空気の美しい秋晴れに心が躍りました。

インスブルックではドナトーニ没後10年に因み、拙作や友人たちの作品とともに、ドナトーニの「Arpege」や「Lumen」をオーストリア放送協会のラジオで演奏しましたが、特に「Arpege」関しては、さまざまな演奏家と何度も演奏してきて、初めて本番で満足のゆく演奏ができました。完璧な演奏よりもむしろ、今まで納得のゆかなかったテンポ設定を大胆に代え、ヴァイブラフォンの余韻で聴こえにくかったリズムを特に際立たせ、協和音程を互いにゆっくり聴きあうことで見えてきたものを、演奏会で形に出来たということでしょう。

ブレンネル峠への道すがら、ドナトーニが埋葬されている故郷のヴェローナを通りました。彼は今もコンクリート壁に誂えられた殺風景な共同墓地に仮埋葬されたままですが、当初は没後10年で、故人の生前の希望に則り、記念墓地の名士の墓に移される予定でした。「先日ヴェローナ市役所から、今ごろになってやっと審査のためドナトーニの経歴書を送れ、なんて電話を受けたのよ」。
アルプスに向かって急峻な山肌の底を這う一本道をひた走りながら、マリゼッラが憤慨していました。没後5年で故人を偲ぶ演奏会があれば、優れた作曲家。没後10年でまだ演奏会の機会があったなら、それは相当優れた作曲家だった証し。没後50年で演奏会があれば天才と呼べるだろうし、没後100年でも演奏されれば、それ以上の才能だったということ。生前よく笑いながらそう話していましたが、確かに的を得ていて、イタリア人独特の伝統に対する嗅覚の鋭さに驚かされます。無数のちりあくたが堆くつもっているからこそ、伝統の深みが増すのでしょう。
今月初めまで尾形亀之助をテキストにマドリガルの小品を書き溜めつつ、初めて日本語に対する恐怖心が煽られなかったのも、そんな認識に安堵を覚えたからかも知れません。来月東京で演奏するプーランクの「人間の顔」やペッソンのアダージェット編作を読んでいても、彼らが特に伝統に敏感なことにどうしても目がゆくし、伝統という言葉の底に澱んでいる、積み上げられた過去の時間の重さをおもいます。

プーランクは中学から高校にかけて一番よく聴いた作曲家でした。初めて練習したクラシックのピアノ曲は高校入試で弾いたプーランクの「夜想曲」だったし、入試の和声課題の当日肌身離さず持って歩いていたのも彼のチェロソナタでした。高校で最初の理論ピアノの試験も、下手の横好きで懲りずにプーランクの「憂愁」を弾いたし、「仮面舞踏会」を小編成に編作して学校で演奏した覚えもあります。彼自身がピアノを弾きベルナックが歌っているシャンソンのレコードは特に気に入っていて、こんな風に歌曲が書けたらどんなにか素晴らしいだろうと思っていました。来月並んで演奏する拙作の「ひかりの子」も、明らかに「人間の顔」に感化されていると思うし、当時はプーランクを介してモーツァルトやシューベルトが好きになったものでした。今回の亀之助のマドリガルも、足元にも及ばないながら「動物詩集」のような世界を夢見て書いていたことは確かです。

今回「人間の顔」を演奏するにあたり、20年以上経って改めてプーランクの楽譜を開くと、掴みどころがないほど難しいことに驚き、過去の自分が何一つ理解していなかったことに唖然としました。学生をしながら音楽を嗜んでいたころは、主観や恣意的思い込みに偏っていたのでしょう。かかる桃源郷も人生の或る時期には大切かも知れませんが、音楽が自分のためだけに存在するのではなく、一つの音の裏には数え切れない人々の人生がぎっしり詰まっていることを実感したなら、昔と同じように楽譜を開くことが出来ないのは当然だろうし、実際に音になるその瞬間まで、一つでも楽譜から真実を見出そうと躍起になるのも、自分がこの世界で生きてゆく上で最低限担うべき責なのでしょう。
音楽ごとき霞を喰らって生かして貰っているのなら、その程度の自覚は必要じゃないかい。ドナトーニの言葉は、微笑を湛えて静かに諭しているようにも感じるのです。

(11月26日ミラノにて)

木車、胞衣車、白衣――翠ぬ宝74

藤井貞和

トーコック(藤井貞和訳)

・近鉄奈良駅を楽隊で数人が(それとも楽器はひとりだった?)
・もちいどの通り、杖で隻足(二名ほど)
・附属幼稚園の門のわき、腸のはみだした銃創を見せて(一人)
・4人、6人で
・両足を切断していたひとはだれかに台車で運ばれてきた
・手がかぎになって、小箱をそこにひっかけていたひと(複数回)
・ひとごみから数人であらわれ、消えて行き
・なぜか夕暮れ、会うかれらの時間
・近鉄線に乗りあわせた
・奏でる音楽

(どれだけ思い出せるか、子ども心に、かならず白衣で街や車内に見かけた、沈黙する場合もあるけれども、口々に訴え、要求し、音楽を奏でて。あわれみを乞うのではない、どこか毅然としていたかれら。しかし数年のちには退落し、単なる物乞いへと堕ちていった場合もある。フジーさんは何人、思い出せますか、傷痍軍人を。北村透谷を読みに読んで、評伝も書いてきた平岡敏夫さんが、いまなお読むたびに胸踊り、心を熱くするという、「客居偶録」(明26)には、足に銃創を印し、盲目で小鼓を打ちながら物乞いする元会津武士と、木車にかれを載せて帰らぬ乞食巡礼の旅に出る老爺、ようするに主従老人二人を、国府津在の透谷はたまらず呼び寄せて一飯を与え、見送るという、新刊の『北村透谷』の「「客居偶録」―胞衣車を押す芥川にふれて」を読みながら、フジーさんは少年時代に見かけた傷痍軍人をひとりひとり思い出している。なぜ白衣(の着流し)だったのだろう。しかしかれらの一人が乗せられてきた台車をもう思い出せない。芥川が胞衣〈えな〉車を押すのは「年末の一日」。〈今回は未定稿〉)

秋深く。。。

大野晋

さて、何から書いていこうか。

まず、先月の原稿を書き上げてから横浜の少し奥(山側)のこじんまりしたコンサートホールまで、コンサートを聴きに行った。新進気鋭の若手音楽家が集まった「山田和樹とその仲間たち(横浜シンフォニエッタというのがホントの名前)」のコンサートは若い音楽家たちが集まった非常にモチベーションの高い演奏会。近年、国内のオーケストラのレベルが上がったと言われているが、こういった若い人たちがうまく下支えをしているのだろうなどと、感慨にふけりながら聴かせて頂いた。有名指揮者コンクールで優勝した指揮者の山田さんの今後にも期待なのだが、それといっしょに意欲的なプログラムを作り上げたその仲間たちにも期待したい。ぜひ、忙しくなる若い音楽監督の留守に、様々なマエストロと他流試合をして欲しいと思った。そのくらい面白い合奏団体である。

世界を眺めてみても、非常に若い指揮者と新しい音楽集団が育ちつつあるように感じている。そういえば、むかしむかし、若きネヴィル・マリナーやホグウッドらも、新しい潮流(古楽器やピリオド奏法による演奏など)をアカデミー管弦楽団やエンシェントで作り上げてきている。30年ほどの年を経て、そろそろ、新しい潮流が若い演奏家から生まれてきてもいい頃合なのだろう。

非常に若い演奏に元気付けられていたら、今年のできごとを見直すようなCDに出会った。東京芸術劇場の休日の昼に都響が行ったインバルのベートヴェンの5番と7番のコンサートのCDが発売になった。その会場で、実際に立ち会った私は前方正面の席で、自分の上を運命がどどどどっという音を立てて流れていくのをただ呆然と聞いたのだった。冒頭の一音で、「こいつはすごい」と直感したものの、その後は音の洪水の中にただただ押し流されないように、うずくまっていた。冷静にCDで聴き返してみると、なるほど、と客観的に思えたが、やはり、あのときの実際に立ち会った感覚が思い起こされ、実演に立ち会うことの面白さを改めて認識する。何万円もする海外演奏家のコンサートもいいが、ぜひ、数千円でいいので、国内の音楽家の様々なパフォーマンスに触れるのも実際的でお勧めしたい。いや、近年の演奏レベルの向上で、意外にコストパフォーマンスの良い体験が得られるだろうと信じている。

話は変わるけれど、最近、システムについて勉強をしている。社会学に起源をさかのぼり、システム工学と情報システムの歴史に下るあたりのつじつまを付けるべく、知識を集めては縫い合わせるのが目的だ。まあ、勉強と言っても、目的としては概要を理解してリファレンスを作るだけなので、関連図書を拾い集め、斜め読みをしながら知と知をつなぎ合わせる作業をしているだけなのだが、この作業に都合の良いものと都合の悪いものがいろいろとある。まず、都合の良いものとしては、インターネットの書店の検索機能はすこぶる都合が良い。書評を読みながら関連ありそうな書籍を串刺しにしたり、横並びにしたりしながら拾い集めて取捨選択することに関してはインターネット、ことにネット書店の存在は大きい。効率よく集まってくる。逆に都合が悪いのは、リアルな世界の図書館や書店の使い勝手がすこぶる悪い。ひとつは検索機能がないこともあるが、小さなところでなくても、大規模書店や大きな公立図書館であっても、網羅的にリファレンスの対象となるような書籍が揃っていないことだろう。いったい、あの書棚に何を置いているのか不思議になるのだが、単純な読み物はあっても、過去の知を溜め込んだような硬い書籍の在庫はあまりない。もうひとつ、最近の悪い傾向は、インターネット書店で書籍を拾い集めると最後は買うしかないことだ。こうして、置き場所もないのに書籍があふれかえることになる。図書館にあったとしても、何年も借りっぱなしにするわけにもいかないのだから、仕方がないのだが、いやはや大変なことだ。

最近、自炊と称して、本を解体してPDFに焼く行為がブームなのだそうだ。本という形が好きな人間には壊すこと自体はあまり進められる行為ではないのだが(そういえば、青空文庫用にスキャンしやすく壊れている分厚い本が何冊か持っているけれど)、本の置き場所と言うことを考えても、また資料として多くの書籍を持ち歩きたいと言う要求から考えても、電子化に反対できるものではない。著作権団体などは自炊(書籍の電子化)を請負う業者に訴訟を起こそうなどという動きもあるそうだが、全ての書籍の著作権が有効なわけでもないだろう。その前に、書籍が探せない、置けない状態にあるのだから、自分たちも電子化を進めた方がいいように思えてならない。根こそぎ利益を得ようと欲張れば、かえってチャンスを逃すことになるように思える。

近江商人は江戸時代より商売に長けていたと言われるが、その根本は情報にあったとされる。その近江商人を表す言葉として「三方よし」というものがある。

売り手よし、買い手よし、世間よし。

全員が自分を譲らなければ三方よしにはならず、お互いの利益を譲り合いながら一番よいバランスをとるという商いのコツなのだそうだ。著作物を作るクリエイターにとっても出版、書店にとってもいい、そしてそれを買う購入者にとってもいい、それだけでなく、クリエイターもしくは思想家の作った著作物を後世まで語り継ぎ、発展させることができことで社会にとってもいい、少しずつ権利を譲り合って、一番よいバランスを探ることが今の著作権ビジネスには求められているのではないかな?

さてさて、いよいよと師走になり、誰かに追い回されるようで忙しい毎日。
みなさま、お体にご注意を。

十一月になる と毛布を出し

仲宗根浩

冷えてきた、といっても仕事場では半袖。家では長袖だったり半袖だったり。外に出ると着込んだ人、Tシャツの人がごっちゃ。

休みの日、いつものように明るいうちからの昼酒。試しに買った、紙パックの泡盛の菊の露。まずい。紙パックの匂いが酒にうつっている。やっぱりちょいと高くても瓶じゃないとだめだ。紙パックのものを空いた一升瓶に移したがすぐには紙の匂いは消えない。もう買わないぞ。瓶だと酒屋さんは空き瓶、十円で引き取ってくれる。むかしは空き瓶屋さんがあってなんでも瓶を集めては小銭にしていた。あの頃何セントで交換してくれたか、忘れてしまった。

で、お昼ごはんはどうしよう。奥さんはこどもの学校のボランティアでまだ帰ってこない。帰る前に洗い物を済ませ、たまにしかやらないお昼づくり。賞味期限が三日過ぎただけの焼きそばが冷蔵庫にあった。適当に野菜を出してきざみ、ツナ缶のオイルはフライパンへ。野菜、ツナを炒める。レンジで麺を温めほぐし入れる。焼きそばの袋に入っている粉末ソースを入れ、なじませながら、フライパンを返すと具がちょいと飛びコンロの横に。こういうのは少しやらなくなるとすぐ下手になる。できた頃、奥さん帰宅しふたりで食らう。食らったあとテレビをだらだら見ていると小学生が帰ってきてしばらくすると中学生も帰ってきた。それぞれ勝手に遊んでいる。小学生はフェルトを使って母親と何やら作り始めた。こうなるとこっちが晩ごはんもつくらなくてはいけないので準備する。冷蔵庫にある豚のばら肉と野菜を炒める。調味料は冷蔵庫に余っているわけのわからないタレとか油味噌片。付けるために全部入れる。味見をしないで出来上がったものを食卓に出す。こっちは呑んでいるので昨日のあまりもののサバの煮物をつまむ。誰も文句言わないので大丈夫なんだろう。冷蔵庫の中がちょっとすっきりしたけど、冷凍室にはなんか得体の知れないものがまだ何かある。

“クレージー・ハート”に触れてみる

若松恵子

ロードショー公開を見逃していた「クレージー・ハート」(スコット・クーパー監督・脚色)を飯田橋ギンレイホールに追いかけて見ることができた。落ちめのカントリー歌手をジェフ・ブリッジスが魅力的に演じて、本年度のアカデミー賞主演男優賞を受賞した作品だ。主人公は、かつて一世を風靡した伝説のシンガーソングライター、バッド・ブレイク。自分で車を運転しながらアメリカ中をドサ回りしている57歳だ。

例えばある晩のステージはボウリング場のレーンの横にしつらえられた小さなスペース。出番前に飲み過ぎてしまって、間奏のあいだに裏口で吐いたりしている。「やれやれ」という状況なのだけれど、どんな町にも目をキラキラさせて彼を見つめるファンが1人か2人は居て、ちょっと泣かせる。一方バッドも、やるときはやるという感じで、時折りキラリと輝く本気の一瞬を見せたりしている。全編、スクリーンの真ん中にいるのは、このくたびれたおじさんなのだけれど、何ともいえない存在感があって、どことなく魅かれてしまう。

映画のもうひとりの主人公、ジーン・クラドックは、バッドにインタビューするためにやってきた駆け出しの記者だ。もともとファンだったこともあって、インタビューを通してますます彼に魅かれてしまう彼女。ずっと年上の、今はもう時代遅れになってしまった彼のなかにある、”輝くもの”を見出したからだ。

彼女が彼のなかに見出し、魅かれたもの、それが”クレージー・ハート”だ。”クレージー・ハート”・・・それは音楽を生み出す才能のことであり、同時に普通の暮らしにはどうしても収まることができないハートのことだ。自分には無いものとして魅かれ、ためらいながらもクレージー・ハートに手を伸ばして触れてみるジーン。”クレージー・ハート”を持つ人と、”クレージー・ハート”に魅せられて手をのばさずにはいられない人と。この二人は互いを認め合い、結びつくことができるのだろうか。クレージー・ハートを持つものと、クレージー・ハートを理解するものとは等価の存在として一緒に生きていくことができるのだろうか。ジーンに感情移入しながら、ちょっと深よみすぎる感想を持った。

“クレージー・ハート”を持つ限り、バットは家庭に収まりきれずにドサ回りを続けることになるのだし、”クレージー・ハート”を持ち続けるからこそ彼から魅力的な歌が生まれてくる。だから、2人はずっと一緒にいるというわけにはいかなくなる。ジーンは”クレージー・ハート”に魅せられながらも、離れていくしか方法はない。

映画は、2人のハッピーエンドに終わらないのだけれど、むしろその結末が新鮮な幸福感を残す。離れてしまったからこそ、ひと時のことだったからこそ、”クレージー・ハート”に手を伸ばして触れてみたという経験が、色あせることのない永遠のものとなって、いつまでもジーンを照らし、勇気づける光のようなものになっているのだ。

クレージー・ハートを持つものと、それに魅せられるもの。
表現者とそれを受け取るもの。
ジーンの姿に自分を重ねながら、そんなテーマに心が捉われている。

繊細な女性

植松眞人

日曜日の朝っぱらからトイレットペーパーが切れている。まだ寝静まっている家族を待っていては大事に至るということで、財布をもって外に出てみると、しんとしているのはわが家だけ。世間様はすっかり目をさまして顔を洗ってひと仕事なさっている感じだ。

日曜の朝の神楽坂はスーパーの朝市が開かれていたり、パン屋さんが元気に挨拶をしていたりして、なかなかに活気がある。しかも、まだ観光客がうろうろしていない時間なので、同時に落ち着きもあったりする。

さて、感慨にふけっている場合ではない。トイレットペーパーだ。地下鉄の神楽坂方面から飯田橋方面へと坂道を下っていく。神楽坂上という交差点を渡ると、ドラッグストアの大手であるヒグチとセイジョーが真っ正面で向かい合っている。ちょうど、この向き合った二つの店が同時にシャッターを上げたところだ。よかった。ここまで来て待たされたら、えらいことになるところだった。

とりあえず、セイジョーの側にある歩道を歩いていたので、そのままセイジョーの店先にあったネピアと書かれたトイレットペーパー4ロール入りを手に掴む。いや、待て、と妙な予感がして、真向かいのヒグチの店先を見る。同じようにトイレットペーパーが積まれていて、大きく『168円』と書かれている。その圧倒的な存在感を放つ価格表示にうろたえつつ、手にしたネピアの値段を確認すると、そこには『298円』とある。同時に、かつて私を「ちんけな男」呼ばわりした妻の言葉が蘇る。中三の娘との会話の中で、嫁は確かにこう言ったのだ。
「トイレットペーパーは、やっぱりヒグチやなあ」と。

弾かれたように、車道を横切り、車にはねられそうになりながらもヒグチの店先に。そして、168円と書かれたトイレットペーパーをひっつかんでレジに並ぶ。並んでいる間にもさざ波のような震えが時折全身を襲う。残された時間はそう多くはない。それでも、落ち着きを取り戻そうと、何でもないふうを装って、トイレットペーパーのパッケージを見る。そこには大きく、カラフルな文字で、『ナイーブレディ』と書かれている。

ナイーブレディとは何だろう。繊細な女性なのか? 何故、トイレットペーパーに繊細な女性などという名前がついているのか? これではまるで女性向けの生理用品のようではないか。だいたい、トイレットペーパーを買うと、レジでは店の名前の入ったテープをチョロッと貼るだけで終了だ。つまり、私はここから自宅まで、ナイーブレディと書かれたトイレットペーパーをずっと世間様に晒しながら歩かなければいけないことになる。まるで、私自身がおっさんなのに「ナイーブレディーなんですよ」と喧伝しているかのようなおかしなことになる。いかん。これはいかん。どんな理由があろうとも、いくら大事が迫っていようとも、ナイーブレディを抱えて神楽坂を歩くなんて真似はできない。

私はナイーブレディと書かれたトイレットペーパーを手にしていることに耐えられなくなり、ヒグチからセイジョーへ引き返すが、やはり倍近い値段のネピアしかない。こうなったら二者択一だ。私自身がナイーブレディを名乗るか、ネピアを買って嫁に叱られるかだ。

思いあまって、立ち尽くしている間に、私には最後の時が迫っていた。身体の中で小さく音がして、歯止めが利かなくなるであろう予感がする。もう、迷っている時間すらないのだ。しかし、妻に屈するのも、ナイーブレディになることも受け入れがたい。

私は取り敢えず迫り来る危機を乗り越えるために、すべてを保留にして近くのスーパーのトイレに駆け込んだ。そして、事なきを得ると、ヒグチもセイジョーも放置して、そのまま喫茶店でコーヒーを飲んだ。

そうすると不思議なことに、「ナイーブレディになってもいいかもしれないな」という余裕が生まれたのだ。コーヒーを飲み干すと、私は軽い足取りでヒグチ薬局を目指すのであった。

製本かい摘み ましては(64)

四釜裕子

革で装丁された本が、過ぎし良き時代のもの、あるいはそれに憧憬をあらわすに限らないことを知ったのは、鳥居昌三さんが私家版で刊行した2冊の革装本、北園克衛詩集『重い仮説』(1986)とジョン・ソルト詩集『Underwater Baclony』(1988)を見たときだった。銀座にあった山口謙二郎さんのTBデザイン研究所で、1990年代のはじめのころだと思う。謙二郎さんは函を数回ふって大理石の丸テーブルの上に本を出し、「ほら」と手渡してくださった。どちらもカーフ革による総革装で、表紙に色を抑えたシンプルなモザイクがなされている。つややかでわずかの弾力を感じさせるカーフ革を緊張で汗ばむ指で触れるのは気がひけたので、いったんテーブルに置いて指先をシャツでぬぐい改めて手にすると、あまりの軽さに驚いた。本文は和紙、なにしろ束が薄くて、どちらも10mmに満たなかっただろう。質感や装飾、実際の重さもさることながら、この本に連なる人の軽やかさが感じられて、革装は重厚貴重絢爛高価との思い込みはことごとく覆され、いわば”革装”のモダニズムにさらされた幸せな瞬間だったと思っている。

この2冊は季刊「銀花」98号(文化出版局 1994夏)で、鳥居さんを紹介したページに写真が掲載されている。「日本ひとめぐり 本工房の主人たち」という特集で、美術史家の気谷誠さんが書いている。鳥居さんは海人舎という屋号で私家版を出しており、革装本は7冊、ご自身の詩集『化石の海』(1985)を皮切りに2番目3番目が前述の2冊であった。いずれも和紙に刷ってソフトカバーで100部ほどを刊行し、そのうちの数部を装幀家の大家利夫さん(指月社)に依頼して仕立てている。鳥居さんが北園克衛の「VOU」の同人でもあったことから、気谷さんは北園の詩集への情熱を鳥居さんが引き継いでいるとし、北園が編集を担当した「書窓」(昭和14年 特集:現代書物文化)にも触れている。北園は、C.ジャナンやJ.クレッテによる装幀論を自ら訳してフランスの造本芸術を紹介し、黄、黄緑、グレー、黒などのモロッコ革を直線的なデザインでモザイクしてタイトルの『DOPHNE』の文字を電光掲示板のように配したピエール・ルグランの革装本を写真で掲載した。気谷さんは《おそらく彼にとって、造本芸術の中心地であったフランスの豪華な装幀は、理想の装幀を夢想するときの核であり、また同時に、触れようにも触れ得ない、彼方の美であったに違いない》と結んでいる。果たして北園はどう感じていたのか、残されたエッセイなどに私はまだそのヒントを見つけていないが、自身の手による実験の範疇におさまらない”革装”は、少なくとも当時の北園が向く先にはなかったように思う。おもしろいのは「書窓」のこの号に北園が寄せたエッセイだ。「未来の書物」と題して、写真とマイクロフィルムについて書いている。前者はのちの「プラスティック・ポエム」につながる。

さて『重い仮説』は、北園亡きあと、それまで全集には収録されていない作品の中から鳥居さんが選んだ4点をおさめ、大家さんが30部仕上げている。表紙のモザイクは北園のイラストで、そのイラストを表紙にした紀伊国屋書店のPR誌「机」(8巻1号 1957.1.1)が、世田谷美術館の「異色の芸術家兄弟 橋本平八と北園克衛展」(2010.10.23-12.12)に展示されている。兄弟の出身地である三重の県立美術館から巡回しており、北園が手がけた装幀やデザインも一覧できる。図録もすばらしい。デザインワークをまとめた章扉に置かれた言葉も、これまたすばらしい。《私の「理想の装幀」というものは、必ずしも、私個人の独創的なデザインの上のアイデアを反映しているという意味ではない。……それはどういうものかと言えば、ただそこには、その書物の著者名と書名があるばかりであるといったようなものである。……幸いにも今日ではブック・ジャケットがそういう役目を果たすことになっている。そういうわけで、最近の書物には、このジャケットに相当の費用をつかう傾向が強くなってきているが、このことによって、本当の本の表紙の方のデザインが閑却された形になっている。このチャンスを利用して、装幀家は、清新な理想の装幀を実現しているといったような言い方をしてもよいのではないかと思う。「装幀を感覚する」『朝日出版通信』4号(朝日新聞社 1961.12.20)より》。ただいま2010.12.01、今朝の朝刊のコラムにあってもなんら違和感はない。

11月、茅場町の森岡書店では《私は、北園克衛をどう見るか。How to look at : kit katを通じてデザインのプリンシプルを学んできました》というデザイナーの山口信博さんの「How to look at : kit kat 山口信博の北園克衛コレクション/展」があった。評論家で詩人の金澤一志さんを招いたギャラリー・トークの最後、信博さんがしみじみとこう言っ た。「あのペラペラ感、あの小ささ。年をとっても豪華にならないのは、立派だなぁ、見上げたもんだなぁと、思いますね」。北園の詩集はどれも小さい。いくつかあげると『白のアルバム』普及版(1932 厚生閣書店)縦175mm×横135mm、『若いコロニイ』(1932 ボン書店)縦84mm×横123mm、『円錐詩集』(1933 ボン書店)縦185mm×横146mm、『黒い火』(1951 昭森社)縦144mm×横118mm、『煙の直線』(1959 國文社)縦178mm×横148mm、『空気の箱』(1966 VOUクラブ)縦174mm×横113mm、『白の断片』(1973 VOU)縦178mm×横148mm。名だたるデザイナーはなるほどいつかは豪華本を作っている。もし自分がデザインを職にして自由のきく仕事がきたなら、一度は豪華にやってみたいと思うだろう。北園はデザインにもすぐれていたが詩人であった。あのスタイルが、もっとも自分が思う通りのかたちなのだろう。

信博さんのようにデザインやアート、ほかに建築、音楽など詩以外の関心から北園に惹かれる人は多い。金澤さんはそれを可塑性という言葉でお話しになった。北園自身は常に紙の上、それも見開きにどう美しく配するかを考えて詩を書いてきたわけだから、文字をばらしてタイポグラフィの素材にされたり曲をつけられたりするのは好まなかっただろう。でもかたちをどう加工したところで変わらない「北園克衛の詩」に確信があったから、かまわない、こだわらない気持ちもあったのではないだろうか。『重い仮説』も、北園の可塑性が鳥居さんに作らせたと言ってみたくなる。総革本にしてあの、ペラペラ感。手にした瞬間を思い出すたびにまた鳥肌が立つ。鳥居さんは、前述の「銀花」の取材時すでに体調をこわされていて、刊行前の1994年4月25日に亡くなった。それを書いた気谷誠さんも、2008年9月22日に急逝されてしまった。改めて、残念でならない。

掠れ書き (7)

高橋悠治

太陽の光があたって反射する表面には、輝きしか見えない。雲が通り過ぎ、翳ると、細かい凹凸が浮き出す。曇った日には、物の輪郭はくっきり見える。日が傾くと、影が長くなり、重なり合って、色は複雑になる。求心力・重力がありながら弱まった状態で、観察する眼の運動は、自由になり、深くなる。

このように、中心の光や物がすでにあることを前提とした立場とは逆に、物のあいだ、隙間から考えることもできる。物の輪郭を見定めるとき、物の表面の終わるところではなく、何もない空間が物で区切られる、空間の側から見ると、そこに輪郭線が、物の占める場所からすこし離れて、切り取り線のようにはっきりしてくる。物はそのとき、影のように正体不明の障害物、空間にせり出して、眼を遮る不透明なスクリーンとなる。輪郭線が物の側ではなく、空間の側にある、しかも物とは接触しない、わずかな距離をおいて、輝きを持たない、そこだけ脱色されたような薄い線となって、物の侵入から空間の自由な交通を防衛している、そのこちら側でだけ、眼だけでなく、身体となった意識がうごいていることを、どう考えればいいだろう。

物に接触している身体は安定しているが、停まっている。いつまでもそうしてはいられない。外側だけでなく、身体の内側もうごいている。うごいているかぎり、はじまりも終わりもない。起源も目標もないと言っておこうか。誕生や死を見ているのは、その身体ではなく、その外側からの観察でしかないから。

アルチュセールがヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の最初のセンテンス Die Welt ist alles was der Fall ist について Fall を事柄とかケースとかではなく、文字通り「落下」と訳すことによって、エピクロスと結びつけている対話を読んだ(ルイ・アルチュセール「哲学について」)。まっすぐに落ちていく原子の雨の、粒子の軌道のわずかな偏り(クリナメン)のつくりだす結合や反発の関係のすべてが世界である、それも一つの世界 Universe ではなく、無数の世界 Multiverse であるという考えかたを、起源も目標もない、つまり無神論で非権力の庭に女も奴隷も迎え入れたエピクロスの哲学、というより、生活共同体を説明することばだと思えば、うごいていく身体である意識の活動が、この社会で、この制度のもとで、すこしでも自由になっていく方向で、どんな音楽になって響くか、についてのひとつのヒントがそこにあるだろう。アルチュセールは、材料としての物質や化学物質とはちがう、実験装置としての物質、身振りの痕跡としての物質について語っている。音楽のなかで、音は身振りの痕跡であり、記憶を刻む装置ではないだろうか。音楽は、かつてあった音楽によって条件づけられ、ちがう時、ちがう空間に何回も呼び出され、あらためて問われる。

音楽的記憶を刻み、ふたたび刻む演奏のなかで、その瞬間に突然何の理由もなく起こるクリナメン、それは自由意志のたとえでもあるだろう。偶然のなかにおかれて、決められた意志からは予想できない決断をしつづける、という意味では、自由意志は意志ではなく、意志をもたないことでもない。抵抗する意志の持続とでも言えばいいだろうか。知らない海域で暗礁を避けながら舵を切る航海は、速いように見えても、舟はゆっくりうごいていく。直線に見えても、稲妻形に折れ曲がっている試行の連続。

創造は計画とはちがう方向に傾いていく。そうでなければ、何も起こるはずがない。それが一回限りではなく、何回でも起こる、可能なかぎり創造しつづけることは、時間を瞬間にまで圧縮することによって、うごきまわれる空間を無限大に近づけること。水のように浸透し、蔓草のようにひろがっていく。

たとえをつみかさね、慎重に書きすすめていると、いつかたとえが定着して、それとしての意味をもちはじめるのではないか。本を読みながら、手がかりになることばを拾いながら考えることもできるが、書かれたことばや思想の引用は、それらへの同化ではなく、そこから離れるための足場とも言えるだろう。一般化していく傾向、抽象化する観察。どこかで見切りをつけて、個別のケースにもどる時期が来る。たとえは必要以上のものを呼び込む傾向があり、そのあいまいさが逆に必要な場面もあるにしても、たとえは別なたとえと矛盾することでみがかれる。付け加えることも、削ることも、プロセスのなかで起こることで、そこにたちどまらないで、つづけていくこと、そしてここでは、ことばは音ではないことを、しかし音を考えるにはことばしかないことを、時々思い出しながら。

オトメ ンと指を差されて(29)

大久保ゆう

常日頃唱えている「カントリーマアムは和菓子である」説に賛同してくれる人はいません。みんなあれを洋菓子だと言ってはばからないのです。しかしながらわたしはここでふたつの疑問を提示したいと思います。

一、古き良き時代のアメリカの手作りクッキーという定義がよくわからないこと。
二、このもっさりとした触感とほのかなあんこの後味はどう考えても和菓子のそれだということ。

ソフトクッキーにしてももっと何かこう違うものですよね。作ったり食べたりしたことがある人はわかると思いますが。やっぱりカントリーマアムは「カントリーマアム」という食べ物であって他の何ものでもなく、そうするとこれは日本で作られた和菓子だと考えていいのではないかと。

最近はきなこ味とか宇治金時味とかみそ味とかもはや和風であることを隠しもしておらず、そういった事情からも不二家が作っているから洋菓子なのですという思考停止に陥った派閥に易々と与することはできません。

そもそもショートケーキやミルキーだって和菓子ですよ! どう考えても!(Japanese Strawberry Shortcake and Japanese Hard Milk Candy!)

そんなわけでお手伝いのため今でも顔を出しているボランティアサークルでは、カントリーマアムが消費されるお菓子の第一位をぶっちぎりで占めており、新味が出ると誰ということもなくサークルに常備されているお菓子BOXに供給され、みんなして和やかに食しております。略して和食。

個包装に入れたまま電子レンジにかけてどろどろにしてしまったという猛者もいますが、ジャパニーズソフトクッキーを温めてもいいのなら、おまんじゅうだって同じことをしてもいいわけで、特に黒砂糖系のおまんじゅう(あるいは温泉まんじゅう)をちょっと温めても美味しいですよね。わたしはあれをそんなノリだと思っています。

何が言いたいかというとわたしは不二家を偉大なる洋風和菓子屋だと思っています。あと店舗販売の手作りお菓子と袋売りのお手軽なお菓子のどちらも作ってるというのはとってもえらい。どっちも好きなので。

男なのにこんなにお菓子スイーツと口走るのは、おそらく実家が日々お菓子の流通する文化にあったからで、近所の洋菓子屋さんからたびたび新商品のお裾分けなんかいただいたり、家族が何の前触れもなく普通の日に手作りのお菓子を作り出したり、どこからともなくおみやげが頻繁に届いて家族に配給されたり、なぜか季節の果物が食べきれないくらいに常備されていたり、お買い物についていったときには遊び場っぽいとこでなくお菓子屋に放置される子どもたちだったりと、そんな家庭にいたからだと思わないでもありません。とにかくスイーツと本だけは制限しない家庭でした。

スイーツ好きがこじれて、できればtwitterのタイムラインとかもお菓子や果物のアイコンの人だけで埋めてみたいのですが、そんなアイコンをどうやって探していけばいいのか、あるいはそんなリストがすでに存在しているとしてどうやって見つければいいのか、というところでもやもやしています。

放っておいたらプリンとかケーキとかチョコレートがわらわらと流れてくるようにしたいのに。そうなればわたしもたぶんtwitterが気持ちよくなると思うんです。

だってほら、twitterって基本それぞれがそれぞれのエゴむき出しで、そこかしこにどや顔で名言っぽいこととか偏ったこととか変態的なこととかつまらないジョークとかを脊髄反射みたいに言い切って悦に入ってる人なんかがいて、それがリツイートされて勝手に流れ込んでくるような気持ち悪いところじゃないですか(「(キリッ、だっておwwバンバン」を自動的につけてくれないかな)。インターネットが人間の自我を拡張してさらけ出して垂れ流させるなんていうことは、昔から割と言われていることではありますが、これは極まった、と思ったりするのです。(一応褒めてるつもりで、否定しているわけではありません。)

まあでもわたしはそんなツイートの内容とかはどうでもいいので、お菓子ばっかり流れてくればいいな、スイーツが語るのならたぶん割と何でもいいと思うので、そんな感じにタイムラインを染めたいのです。

お菓子が政治の話をしたりエロい話をしたり鬱々とした話をしたりしてもいいんじゃないかな。twitterの本懐であるところの世間話だけを繰り広げる、ゆるゆるふわふわとしたスイーツだけの世界。

ああ、みんなお菓子になればいいのに。わたしはなりませんけど。