オトメンと指を差されて(34)

大久保ゆう

みなさん、春です、春なのです。ぽかぽかしてきたのです。春は油断なりません。いつでもどこでも私を誘惑していて、うっかりするとときめかされてしまいます。そんなことになった日にゃあ――

 1.外を歩く
 2.ぼーっとする(or本を読む)
 3.空を見る

ことになっちまうのですよ! ああなんて恐ろしい! ああ仕事が手に着かない! 困りましたね!(ちらっと横目) 春のせいですから、だって春のお方が誘うんですもん!(ちらっちらっとあたりをうかがう)

頭もいい感じにほかほか暖まっているので、色んなことがゆる〜くなってしまって。街を歩いていて、現れた魔法の五文字、そりゃもうお財布のひももだるんだるんびろんびろん。ついでに花粉症で鼻はじゅるんじゅるん、目はちくちく、といってもまだまだ軽度なのでたいしたことはありませんが。

ふわふわ、っとなっちゃって、うろうろ。適当な場所をみつけて、座ったり。きっと私はあやしいひと。まあ周りにはいろいろとものがあるので、最後にはやっぱり見上げるわけで。

空を見るって、いちばん贅沢な時間の使い方ですよね。いやもう、これ以下の暇つぶしはないってくらいに。たぶん、なんというか、自分と時間が一対一で向き合ってるような、そんな感じなのかな、って思ったりもするんですけど。私にもっと風読み・空読みスキルがあるといいんですが、何にもないので、ただ〈見る〉ことしかできないんですよ、正直のところ。

空の向こうにはたぶんたくさんのことがあるんでしょうが、ぼーっとするだけ。時の歩みは、びっくりするくらいに遅くて。自分がそのときの時間と一緒にただ流れてるだけだからなんでしょうかねえ。

それこそ、空を見るってだいたい地球上ならどこでもできることなので、私にとっては旅の定番であります。観光地へ行ったり、美味しいもの食べたり、っていうのもいいですが、その場所の空を見るってのもいいですよね。何も用意しなくていいし。

やっぱり色んな場所の空を見てみたいなあ、と思っていて、実際にどう違うとか、見た目が変わるとか、そういうった部分にはあんまり興味がないのですが、その場所その場所と、ただ時間を共有していたいと言いますか、まあそんな意味合いで考えておりまして。

世界じゅう、なんてできると面白いんですが、とりあえずは日本じゅう、全都道府県を回るくらいを目指してたりするんですけどね。まとまった休みがあるごとにちょこちょこ出かけているのですが、まだ……30くらいしか行ってないので。今年も、春夏秋冬で、たぶん数県ずつ。

そのときには、元気な空が見られるといいな。

季節の声

璃葉

実家のすぐ傍に野原があった。
自然に育てられた様々な種類の草花、
真ん中に立つ大きな松の木。
周りを囲む雑木林。
小生の頃、近所に住んでいる友達大勢で
走り回ったり、秘密基地をつくったりして、
チビなりに大忙しだった。

春の暖かい光の下で、シロツメクサやホトケノザを摘み、
蝶を追いかけ、梅雨時にはバッタが大量発生。
傘を差しながら素手で捕まえた。
夏になると雑草はますます生い茂り、深緑の上に蝉が飛び交う。
タモを旗のように掲げて走った。
秋にはススキが目立ち、枯れ葉も雨のように降ってきて、
それを集めて皆で焚き火をした。
雪が積もると、ためらいもなく寝転んだ。そして風邪をひいた。

現在、野原があった場所には遊歩道ができ、
防火貯水槽が埋められ、健康器具が並んで、
悪ガキ達だけの野原ではなくなってしまったのだが、
あの場所で出会った動物や植物、季節ごとに変わる匂いは、
今でもはっきりと覚えている。

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掠れ書き 11(テクストと音楽・・・遅延装置)

高橋悠治

『カフカノート』の作曲を終わって、いったいこんなことでいいのだろうかと思いつつ、しかしリハーサルのコラボレーションから見えるものもあるだろう。机の上にあるノートを読み上げる声は夢のなかで聞こえてきたことばのように続いて思いがけず途切れる、ピアノの音は途切れながらそのまわりに漂っている、ピアノは片手で弾けなければ両手で、または両手が別な時間、別な線でテクストをなぞっていく、声と楽器の線にうごかされてはじまり、中断されては再開される身体のしぐさが第3の線になる。計算された効果や構成ではなく、ゲームの規則のように、3本の色鉛筆をにぎって描く線の束のように、消えていく残像をひきずりながら、どこへいくかわからないまま進んでいく。

カフカの文章は、入眠幻覚のように、書こうとする意志を鎮めて、心身が脱力したときにあらわれるイメージやことばを捉えて、芭蕉がいうように「もののひかり消えぬうちに書き留める」作業が俳句に完結するのではなく、うごきだしたことばが停まるまでひきのばされ、停まりそうになる時には、うごきがそれ自体をコマの緒のように鞭打っても先へ先へと逃げていく。落ちかかってくるものに対しては、まず避ける、それからすこしずつ近づいていく、触れてたしかめる、最後に受け入れる、という複雑な経路、まがりくねった慎重な対応の軌跡が生まれるだろう。

だが、カフカはかなりの速度で書いている。1991年の手稿版でも見られるように、段落は長いし、普通は分割するようなセンテンスも、コンマを打つだけで先を急ぐ。話す速度で書こうとしているようだ。最近の史的批判版では手稿そのもが写真版になっているようだが、その筆跡を見ていると、もしかするとこれは近代の速度なのか、飛行機、未来派、戦争、ファシズム、ダダ、ロボット、ロケット、大虐殺、加速度で転げ落ちる文明に巻き込まれながら、エッシャーのメビウス的階段を這い回る虫のように登れば登るほどじつは落ちている、息を切らしたバスター・キートンの石の顔がヨーゼフ・Kの顔と二重写しになって、ではこれは不条理な運命に巻き込まれた人間の悲劇なのか、またはちょっとしたことにありもしない兆しを読み取る自縛自縄の喜劇なのか、それともほとんど書かれた人物と密着しながらその側ではなく「世界の側に」立つことばで追いつめていく判決文なのか、おそらくそのどれでもありうるし、だがどれとも言い切れない、ことばを紙に書いている、文字通りペンで紙の表面をひっかきながら、ペンはひっかからずに流れるインクの跡を残しながらうごいていく、それについていく手と、そのことばで書かれた限りで姿を見せ、紙から手が離れた後は失踪する主体は、一人称で書かれていても書いている手とおなじではない。書かれた人物が経験するできごと、物語も、書いている手のうごきの影にすぎないとするならば、書く手の感じていることばの手触り、手が書くことばを通して聞こえてくるだれのでもない声の途切れない響きの変化が、鏡のこちら側にある作者の存在で、といっても、それは作者の生活や経験や知識というより、それらの堆積が環境となってある時あるリズムと抑揚のあいまいな輪郭がうごきだし、それをことばとして聞き出し、聞き出したことばがことばを呼ぶうちにそれらの関係がつくられ、その網目の中でうごきまわるエネルギーがめぐりながら関係を複雑にしていき、共鳴によってことばの揺らぎが大きくなり、拡散して、こんどはその拡散するエネルギーそのものが、ある境界のなかでそれ自体を抑制する方向に向かい、やがてそれ以上の推進力を失って収束に向かう、このプロセスは一回性のもので、二度とおなじようには起こらない。書かれたことばやそこに見え隠れする人物や物語は、創造プロセスの痕跡、外側から観察され、さまざまに解釈されるてがかりにすぎないが、そのプロセスは、意味や解釈、分析などではなくて、別な身体がなぞる声の線によってずれをもった別な振動となった共振が読む側に波及する。

書く手が残した文字を日本語という別な言語に移し替えること、ちがう歴史のなかで造られてきた言語のなかから、一対一で対応する単語からはじめてセンテンスを組み立てていくならば、翻訳以前に解釈があり、翻訳の文体があり、解釈された意味に沿ってあらわれてくる別な風景がある。途切れながら続く声からはじめれば、単語は後回しで、まず呼吸の長さであるパラグラフ、呼吸をさまざまな響きで彩る声のリズムと、抑揚の輪郭のメロディーを、別な言語の響きを使ってなぞっていく作業がある。知的に理解しようとするか、生理的に同調しようとするかのちがいだが、どちらも外側からの観察の結果であることはかわらない。後のアプローチをとる理由は、これが眼で読む文字ではなくて、声のパフォーマンスのための台本であることによる。聞こえてくる声の速度とそれを書く手の速度、書かれたノートを読みあげる速度はみんなちがうし、読みあげる場合はその空間によってさまざまになるが、内部の声から文字、ふたたび声になって劇場空間へと移るにつれて速度は遅くなっていく。そこに音楽がからみつき、別な身体のしぐさを見る時間が加われば、もっと遅くなるだろう。しかも紙の上の文字とちがって読み返すことはできない。声も音もしぐさも知覚された時にはもう過ぎ去り、消えている。「ことばを横切る光の名残」があるだけ。劇場という遅延装置 delay のなかで夢のなかの声は過去へと飛び去っていく。

犬狼詩集

管啓次郎

  25

きっと明日おれはきみに会うと思う
きっと昨日きみはおれを見かけたと思う
きっと明日おれは声をかけるだろう
きっと昨日きみは名を呼ばれた気がしただろう
きっと明日おれはきみの名が書けるようになる
きっと昨日きみは花火のような音を立てて
手紙をくしゃくしゃに丸めて捨てた
それからやっとおれたちの歴史がはじまる
おれたちはひと粒の葡萄をふたりで砂に埋める
おれたちはムクドリの群れよりもおしゃべりでやかましい
おれたちはダゲレオタイプのために四分間のキスをする
おれたちは時々カマルグまで出かけて塩で歯を磨く
おれたちはハープシコードや雨音には悩まない
おれたちはライオンのたてがみをもつ兎が大好きだ
そんなすべての愚かさにきみがにっこり笑ったとき
おれにとっては日付がまた「明日」に変わる

  26

小学生のころ小さく折りたたんで
抽き出しのすみに入れてあったキャラメルの包み紙を
二十数年後のいま初めてひろげてみた
そこに文字が書かれている
すっかりうすれた文字はLIFE
ぼくはあっけにとられ、それから笑い出した
あるとき、たぶん九歳のころ
この単語をいたるところに記してまわった
筆箱にLIFE 下敷きにLIFE
犬の首輪にLIFE 木の幹にLIFE
拾った丸い石にLIFE 野球のミットにLIFE
それがぼくの神の名、魔法の言葉
自分の人生がこれからどんな経路をたどるかなど
何ひとつ思わないまま
生命を信頼し、生命を招こうとしていたのだろうか
あらゆる事物を横断する秘密としての生命

クウェート解放20周年

さとうまき

2月25日は、クェート建国50周年、2月26日は、湾岸戦争終結、つまり、クェート解放20周年ということで、区切りのいい年だ。本来なら、日本のメディアも特集を組んだりするはずなのだが、チェニジアから始まった民主化の波がエジプト、リビア、バーレーン、イエメンと勢いを振るっており、クウェートの記事は、日本では全く報道されていない。

2月25日は、イラク全土で「怒りの金曜日」と称して各地でデモをやるという情報も入ってきたので、イラクからクウェートに避難し、記念式典を取材してみた。

アルビルからバーレーンで乗りついでクウェートにつく。街中が、クウェートの国旗色の電飾できれい。一方、イラクは、電気がなくて、生活の不便さを現政権にぶつけて、デモに参加している。この電気がイラクにあれば! この差はなんだろう。

まず、湾岸戦争メモリアル・ミュージアムに行く。ここの展示、ジオラマが面白い。プラモデルの展示に、効果音や、照明をかぶせて湾岸戦争の始まりから終わりまで、ナレーション付きで解説してくれる。昔作ってそのままになっているのだろう。ローテクだが、味がある。そして、多国籍軍の貢献を展示するコーナー。日本は、130億ドルを拠出したことと、自衛隊がペルシャ湾の機雷除去を行った写真が飾ってあるが、あまり目だたない。「日本はお金は出すが、血を流さない」と批判され外務省はトラウマになったといわれているが、展示を見る限り、立派に「軍隊」を派遣した国として扱われている。要は、日本の宣伝のへたくそさにある。しつこく130億円出しましたと言い続ければいいのに、今回の記念式典にも日本からの要人は来ない。

続いてイギリス。今回当時首相だった、ジョン・メージャーも式典に参加。エリザベス女王の写真も入り口に飾ってあり、存在感をアピール。しかし、アメリカ。一番貢献したのに、今ひとつ目立たない。多国籍軍の国旗の展示コーナーには、アメリカの国旗が外れてなくなっている。単に落ちてそのままにしておいたのかもしれないが、アメリカの要人が見たら怒るに違いない。なぜか、バングラディッシュの展示コーナーが、面積もひろく、目立つ。日本と同じように、戦後処理として、バングラ人が地雷や劣化ウラン弾の除去を行ったと書いてある。軍服も飾ってあった。

今回、20周年ということで、2003年以降のイラク戦争の展示を新しく加えたという。なんと、そこにはサダム・フセインの銅像の首が飾ってあった。アメリカ軍が引き倒したサダムの銅像から首を切り落としてプレゼントしてくれたという。こんなところに飾られていたとは。それだけでも見にくる価値はあると思うのだが、このメモリアル・ミュージアム、観客がいない! もったいない。

外では、クウェート軍の鼓笛隊が演奏していた。しかし、彼らはバングラディッシュ人だという。鼓笛隊だけでなく約5000人が出稼ぎでクウェート軍で働いているというのだ。クウェートにとって、今では、アメリカ軍よりもバングラ軍が頼りになるというわけか? 同じイスラムだし。クウェートの人口の三分の二が実は外国人労働者。特にバングラディッシュやインド人が多く、我々外国人が、街中でクウェート人と会話することなどめったにない。しかし、労働の質は優れている。なぜなら、文句を言ったらビザが取り上げられ本国にかえされてしまう。一ヶ月、200から300ドル程度しかもらえないが、この国の底辺を支えている。彼らが稼ぐ金は、本国では、大金であり決して貧困層には入らない。他のアラブ諸国のように、貧困が問題となってデモに発展することもないだろう。優れたシステムだ。

翌日、市民のデモがあるというので、タクシーを拾う。やはり、バングラ人。英語がなまっていてよくわからない。おまけに、ふっかけてくる。
「高い」
「何を言う。ここは危険だから、早く金を払ってくれ」
「危険だって? デモといってもみんな楽しそうに旗を振っている」
「ここは、危険だ。早く、金を払ってくれ」
もめていると銃を持ったクウェートの子どもたちがやってきて、運転手の顔面めがけて発砲した。2リットルくらいの水を蓄える事が出来る水鉄砲だ。イラク戦争から20年とはいえ、クウェート人の多くにとっては、単なるお祝い事に過ぎず、散々はしゃいだ後は、休暇をとって海外に遊びに行ってしまう人も多いという。湾岸戦争のときも、ほとんどサウジに逃げてしまっていた。やっぱりこの国は、バングラ人が支えている。

噴火後のムラピ山からカリ・チョデまで

冨岡三智

2月13日から22日まで、インドネシア、ジョグジャカルタ市のカリ・チョデ(チョデ川、カリは川の意味)流域で行われていたAPIリージョナル・プロジェクトというのに参加していた。このプロジェクトは、日本財団がアジア5カ国に支給しているAPIフェローシップを受給した人たちが5カ国それぞれで作り上げるプロジェクトで、「人と生態系のバランスに対するコミュニティ・ベースのイニシアチブ」が共通テーマになり、とくに「水」がキーワードになっている。このプロジェクトが企画されたときには想定外だったのだが、ジョグジャカルタでは昨年11月にムラピ山が噴火し、さらにその火山泥流が雨期で増水した川に流れ込んで洪水が起こり…という状態になったので、チョデ川流域の汚染問題の視察という当初の予定以外に、被災地としての実態も視察することになった。

同じジャワ島の古都と言っても、私が以前留学していたソロとジョグジャはいろんな面で違う。ジョグジャでは南北の軸線が非常に重視される。北端のムラピ山と南のパラントゥリティス海岸を結んだ南北の軸線の真中にジョグジャカルタ王宮があり、さらにその線上に、インドネシアで最初の総合大学・ガジャマダも、マリオボロ通りの起点になるトゥグ(記念碑)もある。そのムラピ山の裾野を水源とする川のうち3つがジョグジャ市内を通っていて、中でもカリ・チョデはこの南北の軸に沿って、つまり都市の心臓部を貫通して流れているので、特に重要な川なのだと地元の人は言う。ソロ王家の場合は、南北軸ではなくて四方位を重視する。ソロでもムラピ山にはその四神の1人が棲むと見なされているけれど、ソロではムラピ山は西の山になっている(ソロはジョグジャより東にあるから)。さらに、ソロを代表するソロ川(ブンガワン・ソロ)は、ソロ市を囲むように流れていて、ソロにはジョグジャのような強力な軸線がない、という気がする。

このプロジェクトでは、1日、午前中にムラピ山に行ってカリ・チョデの水源(ただしその辺りではカリ・ボヨン=ボヨン川と呼ぶ、ムラピ山頂から6kmくらいの地点)を見、火山泥流で壊滅したカリ・クニン国立公園で植林をし、昼からパラントゥリティスに行くという日があった。ただし、私自身は別の用事があって、パラントゥリティスには行っていない。

市内のカリ・チョデ流域でも、火山泥流で川床が1.5mも上昇したと言う。ここ上流では、火山泥流の奔流に地面や岩肌が削られた跡がくっきりと見え、泥流に当たって一気に炭化した木片が見つかり、明らかに山の石とは違う感触の石がごろごろ転がっている。間近に煙を吐くムラピ山が見える。三途の川というのを少し連想する。削られた崖の上の端っこに、ぎりぎり建っている家が、下から見える。今、泥流が押し寄せたら、あの家も崩落し、私たちも一気に呑み込まれてしまうのだろう…。APIスタッフの1人が、「日本でなら、この状態ではまだ立入禁止にすると思うけれど…」と言う。確かにそうだ。

川の水源とは言っても、この辺りでは水は地下を流れているので見えないという。けれど、どんどん先へ進んでいくと、地面を這うように水がチロチロと流れて来る。さらにさかのぼると、水が何か所からか湧き出している所に行き当たる。この辺りでは足首がつかるくらいまでの水量があって、湧き出す水流の強さに、小石がコロコロとリズミカルに音を立てながら流されていくのが見える。ささやくような、軽やかな音。ここまで、犬も歩かないのではないかと思われるような狭くて急な道を歩いてきて、へとへとになっていたけれど、この音が聞けただけでも来た甲斐があった。バリ島で見られる、風でときどきカラカラと音を立てるアンクルンに少し似ている気もするし、風葬された人骨が風に吹かれたらこんな音を立てるのかな、とも思わせる音だった。

  〜〜〜

と、ここまで書いてきて、時間切れになりました。話はまだ上流なので、中流のカリ・チョデ流域の話の続きはまた来月に…。

ピンネシリ メルティン

くぼたのぞみ

くらい地平線のはるかむこうに
おぼつかない光が射して
雪原に
おそい薄明が訪れるころ
目の奥に伏して眠る
ピンネシリが解けていく

ピンネシリが男の山
と聞いたのはつい最近のことで
それで謎がいくつも解けた

ふりつもる北の幻想は
身も凍る雪解け水になって流れくだり
あこがれる
やよいの空の横雲のしたで
恥じらいと
無骨さに
身の置きどころなく立ちすくみ
あたたかい潮に遊ばれた南の夢想と
もじもじとことばを交わすが

裏を知らないモノクロの
プロヴァンシャル・ライフのことばたちは
クチクラ樹木の常緑の
こまやかな花に飾られることはなく
いつまでも素っ気ない二色のままで
ノスタルジアだけが
不在のかけらとなって
きみを刺す

それでも ほら
謎が解けて
メルティン メルティン
ピンネシリが解けていく
歌うように ピンネシリ
メリリー メルティン
たたら踏む雲
まだ赤い空

ハイド――翠ぬ宝77

藤井貞和

言えるところにまではたしかに登攀する哲学や、ひとりよがり。
きみに訊く、尋ねる、それならと、リズムを私は問う。

性の歴史の数ページ、置き去りにしたままの詩。
そんな一篇、一篇で終わる。 そう思われた日に終わる。

きみの誕生日はいつで、かさならないことばの行き先で、
切っ先を立てて、なぜ草むらに屍体を投げる、夢のなかで。

幻影の人の理性の狡智が大海に沈む、雄大な落日。 もう一つの
夢もまた終わる、きみが地上の詩人であることにはかなわなくて。

 
(〈そうだ、私はヘンリ・ジキルの姿で床についたのだが、眼を醒ましてみるとエドワード・ハイドになっていたのである〉(スティーヴンスン)。「まれびと」は、西脇のなかで「幻影の人」になる。セーヌ川に浮いて、詩人は屍体となって詩を書く。だれがそれを実証する、流れる水に沈みながら、十八歳の精神がことばをなくしたからっぽのからだで書く。そんなすべてが幻影であり、悪夢から帰還する、床に眼を醒ます、だれも知らないハイド。)

しもた屋之噺 (111)

杉山洋一

先週までの小春日和が嘘のように厳寒の冬が戻ってきて、慌てて弱めていた暖房を元に戻しました。先ほどまで滞在していた中部イタリアの地方都市では、昨夜など粉雪が舞ったほどです。寒さは相変わらずですが、今日は青空も戻り、ミラノに戻る急行列車にゆられて、原稿を書き始めました。南国らしい明るい午後の日差しは目に眩しいほどで、アドリア海の海岸を這うように、列車が疾走してゆきます。風が強く、うねるような高い波が岩を積み重ねた防波堤を呑み込み海岸まで白い飛沫を上げていて、傍らに乗合わせた日に焼けた無口な男たちも、思わず身を乗り出して波頭を眺めていました。

列車に飛び乗る直前まで、実はこの街の私立音楽院の経営陣と、学校を罷めると言い張る85歳の学長を慰留していました。彼は家人のピアノの恩師でもあります。不況で国の文化予算は大幅に削減され、期待していたアブルッツォ州の文化予算も、ラクイラ地震の復興にあてがわれ、学長を初め多くの教師の給与は2年間分も滞っていました。学校は毎月7000ユーロもの賃借料も長く滞納している状態で、学校経営に係わるパトロン一家が手弁当で働けど、経営は一向に回復しませんでした。より安価な場所へ移転出来ないのかと尋ねると、現在国立音楽院卒業資格の申請中で、学校の設計図も提出してあり、移転もままならないとのことでした。

学長がアッカルドやナタリア・グッドマンを招いても生徒数が増えないのは宣伝不足だと声を荒げると、学校には満足な広告をするお金さえ残っていないと、長年共に学校を支えてきた経営陣は寂しそうに応えてくれました。先日も別件でローマからイタリアの文化予算削減への抗議書を送ってくれと直々に連絡があって、手紙を認めたところでしたが、不況に追い討ちをかけるように不安定な中東、北アフリカからの難民問題を抱え、文化予算は言わずもがな、イタリアの経済状況は予断を許しません。20年来経営に携わってきた老婦人は、少し涙ぐみながら厳しい顔を学長に向け「あなたを、皆心から愛しているわ。どうか考え直して、としかわたしには言えないけれど」。小さく華奢な老婦人の姿と凛とした立ち振る舞いは誇りの高さを表していて、耳慣れない南部訛りは新鮮にすら響きました。白いカーテンからは昼過ぎの明るい光が差し込んでいて、やり場のない怒りと感激の入雑じった、すっかり紅潮した学長の顔を浮び上がらせていました。

イタリアでは卒業試験に学外の試験官を含める規則があって、この学校から何度か審査を頼まれたことがあります。今回も今朝まで数日間に亘ってディプロマ試験の審査をしていましたが、親ほども年齢の違う他の試験官と同席していると、興味深い逸話が沢山聞けて全く飽きることはありません。試験の最中の試験官と言えば、生徒と一緒に机の上で音を立てて指を動かしているか、無為なルバートがある毎に舌打ちをして机を叩いて拍を取り出すか小声で会話をしているかで、平均律のフーガで学生が暗譜に詰まると、不機嫌そうに大声で続きを歌って助け舟を出したりします。計2時間のリサイタルプログラム、30分以上のフーガとエチュード、協奏曲全曲を課された受験者は厳しい条件の中、皆よく集中力を切らずに頑張るものだと感嘆するばかりです。

そうしてホールの一番後ろの席で受験者の演奏を聞きながら、カルロ・ゼッキの指揮でシューマンの協奏曲を弾いた時に、ゼッキから3楽章の例の箇所でオーケストラの一拍前に入る左手を弱く弾きオーケストラと合わせ易くして欲しいと頼まれた話や、彼らが学生の時分にはピアノだけ勉強する生徒など皆無で、誰しも作曲や他の楽器を習得していた話、自分はチェロを6年間弾いていてオーケストラに参加していた話や、15、6歳の頃にオーケストレーションは誰にどう習ったかなど、往年の教育がいかに厳格で教師がどれ程優れていたかを話してくれました。

「当時は平均律の楽譜の何調のどこと言うだけで、どの頁の何段目の何小節目で音がどうかと全て諳んじていた、その位でなければ平均律は頭に入らない。教育者とはそういうものだった。だからこそ尊敬を一身に集められたのさ」。自らの不勉強に恥ずかしさで消入りそうになりながら、ふと同時に長く音楽院で作曲を教えバッハの対位法に通暁していたドナトーニが頭を過ぎりました。80年代にはここでドナトーニも教鞭を取っていました。

「今のピアニストは頭を使わない。耳と指だけで暗譜していて一音間違えると破綻してしまう。楽譜から学ばないのさ。昔は構造や和声の把握など全てを駆使して音楽を理解していたのが、何時しかピアニストは楽器にしがみ付くようになった。だからわざわざ近現代作品を暗譜で演奏させるのさ。声部が入り組んでいて音色を弾分けられるようになるのと、読譜と暗譜の訓練に最良なのさ」。今回もカーターのソナタとアイブスの1番のソナタを暗譜で見事に弾ききったアメリカ人の学生がいました。

鍵盤を上から叩かずに鍵盤の中で押しこむ発音の仕方や、ヴィブラートの独特のペダルなど、ピアノを弾かない人間には説明されても理解がむつかしいのですが、何より楽譜に忠実に弾くこと、早いパッセージを指で引き倒さず全ての音が聴こえる速度で弾き、音に陰影をつけて均等に鳴らさないこと、書かれていないルバートは一切受け付けないこと、構造を堅固に作って音色を多層的に響かせるところなど、エミリオの指揮のクラスで教わった内容と全く同じでした。イタリア音楽史には後期古典派からロマン派が欠落しているので、以前のバロック的音楽観が現在まで残ったのかも知れないし、自ら持って生まれた享楽的で開放的な音楽性と調和を図るべく、無意識に禁欲的な音楽教育の礎が築かれたのかも知れません。国立音楽院での和声や対位法はバッハスタイルのみ用いられ、フランスの和声課題は全く範疇になかったのが、留学してきた当時は不思議で仕方なかったことを思い出しますが、確かにレッスンで観念的な指示を受けた記憶も殆どありません。具体的なテンポや音色など、音楽の基礎のみに関して厳しく習ったことは、後に自らの力で音楽を深めてゆく上で大きな助けになっています。どこを見ても遺跡だらけのイタリアの教育は因襲的でどこか古臭い程だけれど、時代に流されない強さを持っていたのかも知れない。世界中が物凄い勢いで変化する現在、その価値を測る指針は目の前には見当たりません。

書かれたリズム通りに左手が消えてゆくスクリャービンの「幻想ソナタ」や、独特の少し乾いたペダルで和音の変化が浮立って見える「水の戯れ」、一音ずつアーティキュレーションをつぶさに眺めてゆくような感覚に陥る「映像」など、日本では接する機会のない演奏を前に、不覚にもマニエリスムの触感を思い出したのは、些か的外だったかも知れませんが、伝統の重さは心に食い込むようでした。

最後まで確約の言葉を発さなかった学長は、紅く染まった顔を少し綻ばせ、「連絡するから心配するな」と言い残し、覚束ない足取りで運転手の待つ自家用車に乗り込みました。寒風に思わず襟を立て駅に向かって歩いていると、ちょうど2本目の辻の手前で、彼の車が静かに追い越してゆきました。

(2月28日ミラノにて)

間接ドッペル ゲンガー。

植松眞人

大阪関空行きANA832便である。座席は26F、搭乗口は6番。日付は1月の2日。落語「代書」に出てくる松本留五郎風にいうなら「いちげつのふつか」だ。新年明けて二日目に羽田から関空へ向かう全日空の搭乗券の半券がいま、僕の手元にある。

そこには、当然のように僕の名前がカタカナ表記で印字されている。が、しかし、僕はそんな飛行機に乗った覚えもなければ、搭乗券を購入した覚えもないのだ。

僕の名前は驚くほど珍しい名前ではない。かといって、初対面の人に「ああ、同じ名前の人知ってます」と言われるほどの名前でもない。僕自身、同じ名字の人に面と向かってあったことはない。そんな名前がカタカナ表記で印字されているのだから、この搭乗券が僕が使用したものだと誰かが思っても仕方がないことだ。

だけど、不思議なのは、この同姓同名のチケットが僕が住んでいる町の僕がよく行く小さなクリニックの小さな看板の上にひょいと置かれていて、しかも、そのタテヨコが10センチにも満たない地味な青い紙片をうちの息子がたまたま見つけたということだ。

だって、考えれば考えるほど、なにかおかしい。自分が住んでいる生活圏に同姓同名の人がいるっていことも、それなりに珍しい偶然かもしれないが、それ以上に、その名前が書かれた小さな紙切れを同姓同名である僕の息子がたまたま見つけて、自宅に持ち帰り「父ちゃん、飛行機に乗った?」と何やら意味深な笑顔で聞いてくるなんて、やっぱりおかしい。探偵小説やサスペンス映画の冒頭で、同じことをやったら、ラッシュの段階でプロデューサーから「偶然にもほどがある」とか「やりすぎ」とか「ご都合主義だ」とか言われてしまうはずだ。

息子がさも嬉しそうな顔をして「父ちゃんが大阪に行った証拠や」と言いつつ件の搭乗券の半券を見せ、家族みんなで「ほんまは一人で大阪行ってたんちゃうの?」とか「浮気や浮気や」とか「近くに同姓同名の人がいるのか、気持ちわる!」などと言い合うような喧噪が終わると、残るのはやはり、なぜ? という疑問。

なぜ、この半券は僕たち家族がよく利用するクリニックの看板の上に置かれていたのか。なぜ、その半券をうちの息子が見つけたのか。そこになんの意味もない、と言ってしまうと人生は味気ない。きっと何か意味があるのだろう。僕の将来に関わることなのか、それとも過去に何か関わりがあったことなのか、そのあたりはわからないが、きっと何か意味があるのだろう。

そんなことを考えていて、ふと思い至ったのは、ドッペルゲンガー。自分とそっくりの人物と出会ってしまうと死んでしまう、というあれだ。間接キスならぬ、間接ドッペルゲンガーではないのか、と思ったりもするのだが、間接キスならキスしたことにはならぬ。そう考えれば、息子経由で間一髪、危機を脱したと言えないこともない。

ということで、僕と同じ名前が書かれた小さな搭乗券の半券がいまどこにあるのかというと……。なぜだか、まだ、お守りのように僕の手帳に挟まれているのです。

夢への切符

璃葉

風がごうごうと吹く窓の外を見て、
怒っているようだ、と思いながら
煌々と輝く部屋の電気を消した。

カーテンの隙間から、真っ暗な部屋の中に
こっそりと夜の光が入り込む。

布団に潜り込み
暗闇を見つめていると
時々、外を走っている車のライトが次々と、
小さい菱形のような形に姿を変えて天井を駆けていく。
なんだか光の競争のようだ。

ぼんやり、それを追いかけていると
いつの間にか夢の中で、
光を探して三千里、という話が出来上がっていて、
真っ黒な月と星の下で旅をしている私がいた。

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二月、セミが鳴く

仲宗根浩

二月の終わり、最高気温二十五度。帰るため仕事場の駐車場に向かう途中、セミが一匹鳴いていた。長く地中にいたのに耐え切れなくなったのか。

旧正月の午後、実家の仏壇にご挨拶。その後、仕事に行く途中広島カープの沢村賞投手、前田健太がランニングしているところに遭遇。後ろから追うテレビカメラ。暑い旧正月、半袖で仕事をする。こっちの桜は満開。

一月の末にあったお嬢様の学芸会で、携帯電話のカメラ使えないことに気付く。年末は使えていたのに。いろいろやってもだめ。後日、職場に携帯電話ショップで働いていたひとがいたので色々対処法を教えてくれたがそれでもだめ。内部も見て一言「修理ですね。でも水没や部品の折れがないから無料ですよ。」と言ってくれた。休みの日にショップに行き修理となり代替機を渡された。渡された機種は同じメーカーだが大きさも微妙に違う。数日戸惑う。千五百円くらいしか携帯にお金を使っていないから頻繁に手にしてるわけじゃないけど。一週間したら修理から戻ったが、設定は一からやり直す。設定まではバックアップしてくれないことを初めて知った。

次はパソコン。壊れたマック用の外付けのマルチドライブがほったらかされている。DVDを認識しなくなったデスクトップにこれを入れてみよう、と試みる。まず外付けのドライブを分解して配線を確認したら簡単に入れ替えできることがわかると、夜中にごちゃごちゃと作業する。ちゃんと動く。これでDVD-RAMも使えるようになった。八年くらい前に買ったマシンなのでいまだハードディスクは40GBのまま。これをSATAのドライブが搭載可能か調べる。搭載可能であっても起動ディスクとして使えるかどうか。BIOSの設定をいろいろ見るとちゃんとあった。これで安いSATAのハードディスクを使える。今どきのものは一世代前の規格だと値段が高くなっている。デジタルの世界は頻繁に新しい媒体にデータを移していないと、何かあったときに使えなくなる。DATがいい例だ。ノートパソコンなぞやめてスマートフォンにキーボードの方が楽じゃないか。小金持ちになったらそうしてやる。

二月のもうひとつの仏壇行事、旧の一月十六日。今年は仕事に行く前に三ヶ所まわる。昔の話をしたり親や兄弟の近況を聞いたり聞かれたり。あの世の正月も無事済んだ。

しかしかなりに惰眠を貪った一ヶ月だった。やらなくていけないことはあるけど怠け者はなるべく寸前まで動かない。どうしても睡魔には勝てない。少しだけあれこれ計画を頭の中でたてて、今年初めて扇風機、スイッチ・オン。近所の通りは黄色いいっぺーの花が咲き始めた。

既視感

大野晋

引越しの次の日、メーターの取り外しの立ち会いのために家に戻った。

荷物を全て運び出したがらんとした家の中で、ふと、どこかで見たことのあるような気がした。その感覚の源がどこにあるのかを考えながら、業者の来るのを待つ。そう、確かに同じ風景を見たことがある。

今から40年以上前。この家が立って一年も経たずに父が亡くなった。当時はまだ、周りに家も少なく、収入源もなくなったことで、幼い私はまだ新しい私の家を出ていかなくてはならなかった。まだ見ぬ将来への不安。もう二度と帰って来られないかもしれないという思いで、引っ越し荷物を運び出したがらんとした家の中で、今と同じ思いの私がいた。そう。あのときと一緒だ。

業者を待ちながら最後の家の写真を撮ったが、一枚も家の中の写真を写すことはできなかった。そして、次の日。家はなくなった。

『清冽』を読む

若松恵子

子どものための読み聞かせについて雑談をしていた折に、大人だって物語を読んでもらうのはうれしいものだよねという話になった。そして、以前、読み聞かせの企画の事務局で会場に居て、母親のためにと、茨木のり子の詩を朗読してくれた人が居たのを思い出した。その詩がとても心に染みたという思い出話しをしたところ、雑談の相手が、茨木のり子の評伝が新刊で出たということを教えてくれた。早速書店で探し、表紙の茨木さんの笑顔にぴったりな『清冽』(後藤正治著/中央公論新社)という題名の本を手に入れて読んだ。

私にとって茨木のり子は、ずいぶん長い間「自分の感受性くらい」の印象しかない人だったが、『歳月』を読んで以来、その人生が気になる存在であった。後藤氏の評伝は、茨木が言葉を大事にした人であったことを充分踏まえた丁寧な労作で、気持ちよく読むことができた。茨木の人生のいくつかの節目を、関わった人をクローズアップしながら、詩を引用しつつ紹介していく。

原石にカットを入れることで宝石として輝かせるように、様々な切り口によって茨木が描き出されることによって、ひとつの強い輝きを見せてくれたという印象を持った。様々な面が語られるのだけれど、どのエピソードも、茨木の魅力を同じように語っている。

私が感じた彼女の輝きとは、評伝のなかの言葉からひろうと「無頼」ということになる。何かに倚り掛かって生きようとはしなかったということ、戦時中も自由を失わなかった金子光晴に心魅かれていたということ、曇りの無い目でたくさんの詩を読み、優れた詩の紹介者であったということ。一貫して茨木は自分自身であろうとしていた。どこまでも自由に。何ものにもだまされずに。そして「自分」という位置から世の中を見、意味を結晶化させようとしていた。

茨木が石垣りんの作品の魅力に触れて「その体験をみずからの暮らしの周辺のなかで、たえず組み立てたり、ほぐしたりしながら或る日動かしがたく結晶化させたものだからだ」と述べた文章が引用されている。この文はそのまま茨木の詩の魅力にもあてはまるものだ。私も暮らしながら、遠く起こった事件の意味を考えている。”動かしがたい意味”が結晶化されているのを見るからこそ、詩を読んで心が揺さぶられる。そして、「暮らしの周辺のなかで、たえず組み立てたり、ほぐしたり」しながら考える手法というものに女性性をとても感じ、その点にもとても共感を覚える。

茨木の詩を読むことは、子育て中の慌ただしい暮らしのなかに、しばし静かな時間をもたらしてくれるはずだ。

オトメンと指を差されて(33)

大久保ゆう

よくモノをいただきます。むしろいただきモノによって生かされていると言っても過言ではありません。私の部屋と日常はだいたいがいただきモノか中古で購入したものか借りてきたものか、といった感じで。いただきモノについては、だいたい次のように分類できます。

 1.お菓子
 2.お茶

 3.まめまめしいもの
お菓子については言うまでもありませんが、甘いものの話をいたるところでちょこちょこしゃべっていたら(「ちょこちょこ」とは「たびたび」を表す方言でチョコレートのことではありません)、ことあるごとに、いやむしろことないごとにいろんなお菓子をいただけるようになりました。洋菓子・和菓子を問わず幅広くいただけるので、仕事場のお菓子ボックスはおもちゃ箱のようにいつもあふれております。とりわけこの時期は増えて、チョコレートのお酒なんかもあったりなんかして、食べきるのにだいたい数ヶ月かかったりします。

たぶんこの時期の私に甘いものをやっておけばこの一年おとなしく言うことを聞いてくれるだろうとか思われてるのでしょうが、まさしくその通りなので何の反論のしようもないというかむしろ喜んでなんでも致しますよ、甘いものくださるのであれば。お菓子をくれる人は私にとってはいい人です間違いなく。学生時代の7年間ずっと同じバイトをやりつづけられたのは、その職場にスイーツタイム(午後3時になるとお菓子がもらえる)があったからにほかならないからでしょう。

そんな感じでいただいたモノを毎日しょこらしょこらと食べるのですが(「しょこらしょこら」は「もぐもぐ」を表す言葉でチョコレートのことではありません)、お菓子につきものと言えばお茶ですよね。これも日本茶に中国茶に紅茶にフレーバーティーに、はたまたタンポポコーヒーなどなど、いろんなお茶をいただきます。どれもおそらくは海外おみやげとおぼしきもので、いろんな外国語が記されており、そういったタイ語やらヒンディー語やら中国語やらを辞書片手に読んでいくのが息抜きのひとつでもあります。(そういえばお菓子は東欧・北欧の言葉も多いかも。仏伊もあるなあ。)

しかしお茶の葉はいただいてからすぐに使わないため、しばらく経ってから飲んで「!」と思ってもたいていの場合、誰からどういただいたのか忘れてしまっていて、二度と同じものを手に入れられないようになっております。一期一会。お茶との出会いは一度きりなので大切にしましょう、と、ひこにゃんのご主人の子孫もおっしゃっていることですし。

というふうに、いろんなお茶をここあここあと飲みつつ(「ここあここあ」は品よく何かを飲むことを表すといいなという妄想でチョコレートのことではありません)、まめまめしく日々を過ごすわけですが、そういった生活に必要な実用的なものもいろいろとゆずっていただいたりするのです。今の仕事場ですと、冷蔵庫とか電子レンジとか仕事机とか本棚とか椅子とかあれとかこれとか。仕事を始めるにあたっての初期投資はいただきモノによってものすごく少なく済んだのでした。

もちろんいただいてばっかりではなくて、お金がないので同じような立派な贈り物はなかなかできないのですが、お住まいが近くの人には手作りのものであったり安くても自分のお気に入りのものであったりを差し上げて、遠くにお住まいの方はなかなかそういう機会もないので、こつこつと頑張っていることなどを示すなどして、いつかは何倍にもご恩をお返しできるといいなあと日々思いつつ生きている次第です。

ぺけぺけ(「ぺけぺけ」は当連載でも何度か出てきている執筆擬音です)、しょこらしょこら、ここあここあ。

いつもありがとうございます。

製本かい摘み ましては(64)

四釜裕子

羊皮紙を作った。見た目は極薄のおせんべいのようでかじればパリッと音がしそうだが、表面をなでると極々短いパイルを持つビロードのようななめらかさがある。折り曲げてみる。折っても折っても割れない。裂けない。油性、水性マジックやボールペンや筆ペンで小さく文字を書いたり、やすりで削ってみる。一部を切って水につけてしばらくおいたら、透明になって柔らかくなった。「皮」なのだ。『バチカン教皇庁図書館展』(印刷博物館 2002)の図録を開いてみる。書写の材料としては4世紀頃までパピルスが主であったが、紀元前2世紀頃から小アジアやヨーロッパで羊皮紙が使われ始めたこと、12世紀に製紙法が伝わったあとも15世紀頃までは王侯貴族や図書館・教会の蔵書には羊皮紙が使われていたことなどがある。図版を見ると、豪華な装飾や美しい文字が書写された、その地の色合いに俄然目がいく。

「羊皮紙を作った」と言ったが、下準備の済んだ材料と道具が用意された体験ワークショップでのことだ。場所は東京・赤坂の区民センターで、講師は「羊皮紙工房」の八木健治さん。この八木さんが、おもしろい。ご本業は翻訳で、「羊皮紙」を調べていたら日本ではほとんど売られておらず本格的に作る人もいないことから、自分でやってみるかと作り始めたそうである。今では羊皮紙の製作販売のほか講演なども行っており、その活動を伝えるウェブサイトがこれまたいい。文献に読んだことを自らの手足で確かめるために製作も調査も始まっているから、閲覧する人を羊皮紙の旅に誘い込む力がある。また〈羊皮紙の研究を勝手に「Parchmentology(羊皮紙学)」と名づけ〉たり、拡大したり燃やしたりUVライトをあてたり濡らしたりの実験もどこかユーモラスなのだ。その八木さんを講師に迎えたワークショップを企画したのは「東京製本倶楽部」。1999年に有志11名がたちあげた団体で、会報誌の発行のほかこうしたイベントも多く開催している。

ワークショップは、羊皮紙を触ることから始まった。「これは何だと思いますか?」八木さんが作った羊皮紙が次々に目の前に並ぶ。堅さや表面のざらつき、色などみな違う。「羊皮紙」とは羊と山羊ばかりでなくさまざまな動物の皮で作られているものの総称だ。だから「これらは何の動物の皮だと思いますか」と八木さんは問うている。ホルスタイン柄のような濃淡が見えるのは牛かなと見当をつけたくらいであとは全くわからない。八木さんは黄色っぽいのをさして「これは羊。皮膚に含まれるラノリンという脂肪の酸化で黄色っぽくなる」、ややグレーがかった白いものをさして「これは山羊。よく見ると毛穴が3つずつまとまっているでしょう」。鹿は非常に柔らかくなめらかだ。「羊皮紙」というより「獣皮紙」とでも呼ぶほうがほんとうはいいのだろう。英語ではパーチメント(Parchment)、特に薄いものをヴェラム(Vellum)と言うが、もともとは仔牛から作ったパーチメントのことをヴェラム(ラテン語の仔牛[Vitelus]が語源)と言ったそうだ。ちなみにパーチメントの語源は「ペルガモンの紙[Carta Pergamena]」、ペルガモン(紀元前2世紀に羊皮紙が生まれたとされる。現在のトルコ・ベルガマ)産の羊皮紙をローマ人がこう呼んだことにある。エジプトから得ていたパピルスが不足したペルガモンで、それまで使っていた「動物の皮」をより書きやすく耐久性のあるものにしたのが羊皮紙の始まりらしい。

現在もイギリスやイスラエルなどで作られている。八木さんが訪ねたヴェラムの製造工房のビデオには木枠に張った皮をグラインダーで豪快に削るようすがあり、壁という壁がそのかすで覆われていた。羊皮紙の製法は時代や地域によって異なるが、八木さんは12世紀のラテン語文献にある方法に沿って製作しているのだそうだ。自宅浴室に国内の食肉用の羊を扱う業者さんから買った塩漬けの原皮を広げて製作していく様子を写真で見る。まずは水洗い。塩と汚れを徹底的に落さないと、品質に影響が出るばかりか後で臭いに悩まされるそうだ。次に消石灰を加えた水に浸して毛穴を開き、頃合いをみはからって取り出して手やナイフで毛を取る。脂分をとるために再び石灰水に浸し、さらに浸水。この後、皮を木枠にぴんと張って表面をナイフで削り乾かす。今回のワークショップは、この木枠に張るところからである。

葉書大にカットされ、しっとりと水に濡れた「皮」がビニール袋に入れてある。これを取り出し、縦40センチ横30センチくらいの木枠に張っていく。木枠には12の取っ手があり、それぞれに紐、その先っぽに金具がついている。金具で皮を固定して、取っ手をくるくる回して紐を巻き取りピンと張る。これらの道具もみな八木さんの手作りである。どれも12世紀さながらと思えるようなシンプルな作りだ。ぴんと張った皮に専用のナイフを直角にあて、両面を削っていく。水分や脂などの不純物を搾り出すことでもあるようだ。どれくらいやるのか加減がわからずにいると、「きまりはない、最終的には厚いところの色が濃くなりそれが羊皮紙らしい風合いを生む、ビクビクせずに気が済むまでどうぞ」と八木さん。なるほど。気が済むまで削ったら(といっても数分)、余分な繊維や脂を吸着させて取るためにタルクをふりかけて軽石で磨き、次に白亜の粉をスポンジでこすり付ける。繊維に粉をすり込むことで不透明度を高め、インクののりもよくなるそうだ。全体を水で湿らせ、木枠の取っ手を回して皮をしっかり張り直し、自然乾燥したら紙やすりで表面を磨いて完成となる。

ぴんと張らずに乾かしたものを見せていただくと、くしゃくしゃにした分厚いトレーシングペーパーをテーブルに広げて両手で一度伸ばしたような感じ。放っといたらこんなふうになるのを、縦に横にぴんと張って繊維の流れを整えるのだ。他にも八木さんのコレクションの中から、大小の写本、製作途中の写本、折り畳まれたり穴を生かした公文書やトーラーの断片のほか、パピルス、粘土板に書かれたハンムラビ法典、鉄筆で蜜蝋に書くメモ帳などを見せていただく。中に恐ろしく薄く柔らかな羊皮紙がある。どれだけ丁寧に削ることだろう。逆に、あまりにもしっかり折り畳まれて開くのをためうほどの厚いものもあったが、この折り目は割れも裂けもしないのだ。冊子本には皮の両面を同じように、巻子本には片面だけ、大きい写本には厚く、小さい写本には薄く、公文書には丈夫にと、羊皮紙の仕上げかたはそれぞれ違う。ほんのわずかの体験ながら作業のあとで改めて実物に触れると、古く貴重なモノと思うばかりだった羊皮紙に生気と活気を覚えて身近になった。野を駆ける動物たちそのものと、関わってきたすべての人の息吹なのだ。

1年ぶりのペルーと初めて行ったイタリア

笹久保伸

2010年11月から12月上旬にかけてリマで行われる「国際現代音楽祭」に招待されたのをきっかけに 11月からペルーに来ています この音楽祭は今年で8年目で 在ペルーのスペイン大使館とスペイン文化会館が主催しているため毎年ペルーの作曲家とスペインの作曲家へのオマージュが行われ 国内外から招かれた招待演奏家たちによってそれらの作曲家の作品が演奏される 今年もヨーロッパ各国&南米から演奏家が来ていた

「オマージュされている作曲家の作品は 最低一曲はプログラムに入れて下さい」と契約書にも書かれている しかし 今年の作曲家(スペイン人のほう)は かなりひどかった いわゆる現代音楽祭に出て来るような作曲家ではなく 作風はロマン派&印象派だった ギター作品はスペイン風ドビュッシーみたいな 何かうさんくさい感じで とにかく弾くのが嫌だった

音楽祭の主催者は昔からの知り合いなので直接メールで聞くと「いやー、頼むよ、仕方ないと思って 弾いてくれよ」と言っていた しかし この主催者は一度も音楽祭に顔を出さなかったので 結局音楽祭期間中は一度も合わなかった この人は他に国際ギター音楽祭と、作曲コンクールを主催しているが あまりに手を広げすぎたため 各イベントが適当になり ギター音楽祭の方は問題が起きてクビになったらしい

音楽監督も前からの知り合いなので「あまり 弾きたくないんだけど・・」と聞くと「やっぱりね、どの出演者も皆弾きたくないって言ってるんだよ。まあいいよ、弾かなくて全然OK、だってこれはどうみても つまらんない曲だしね。それに作曲者は君のコンサートの前日に仕事でスペインに帰ってしまうから、問題ないよ」と言っていたので 結局弾かなかった なら契約書に書くなよ と思ったが・・

一方オマージュされているペルーの作曲家Francisco Pulgar Vidalは以前からの知り合いでEdgar Valcarcelを通して知り合った 彼は作家でもある ギター作品はこれまでに書かれていなかったので 今回は弾く作品がないなあと思っていたら せっかくだから何か書いてくれるという事になり 書き始めたが「オマージュ」という事で 色々な所からインタビューや講演など引っぱりだこになり ストレスだろうか 音楽祭前に脳卒中で倒れてしまった 彼は81歳 よくある事みたいだが 年配の作曲家がオマージュされると 大体死んでしまう Edgarl Valcarcelもオマージュされたとたんに死んでしまった

倒れてしまったので 彼のギター作品は夢と消えた かと思っていたが 何と 倒れた日の午前中に作品を書き終え 国立音楽院で働いている写譜屋の所へ譜面を持って行っていたらしく 写譜屋から譜面をもらった 数日して倒れたFranciscoを訪ねたら ベットで寝たきりだったが 思ったより後遺症はひどくなくて 記憶もわりとはっきりしていて私の事も顔をみてすぐにわかってくれた 書き終えた作品の事をだいぶ心配していた 言葉はよく聞き取れないが 何とか会話もできたので そこで新作を弾いてみてコメントをしてもらった コンサートの日は(初演の日) 必ず聴きに行くからと言っていたが やはり来なかった そのコンサートではSylvano Bussottiの1999年の作品(ギター作品では一番新しい)Ermafroditoも演奏した もしかして南米初演かな と思っていたが イタリア人ギタリストのElena Casoliが2010年にコロンビアで演奏していた と後で知った 今日 2011年2月22日 作曲家Fransiscoと会ったが だいぶ回復していて 歩けるようになっていたし 昔ルイジ・ノーノがリマに来て 会ったときの思い出話などをしていた

1年ぶりにペルーに来たが ペルーは今 大変貌中であると思う リマに限って言えば この10年本当に大きく変わった しかし 貧富の差はもの凄い さらに大きくなるのではないだろうか

金持ちは 超金持ち 高級車に乗って プール付きの家に住んでたりする 夏には浜辺付きの家を買ったりする 海を買ってしまうという発想が ペルー的で笑える(本当は笑えない) どうしてだろう 何をしたら一体こんなに金持ちになれるのだろう と興味を持って 色々な人に聞いてみると 鉱山で金を掘っている とか 麻薬を売っているとか そういうのが多い

一方貧しい方は何も持っていない 今回もだいぶ田舎を旅したが ある村で土木作業員が近くにいたので彼の給料を聞いたら 4日で20ソーレスと言っていた つまり給料が1日180円くらいという事になる 180円(5ソーレス) リマでは ランチ一食分 バスには5回乗れる 一般観光客がリマで泊まるようなホテルは1泊約80ドル 私がその村で泊まった所は1泊180円

自分には 超金持ちの友人もいる 一方とても貧しい友人もいる その狭間と言うのは 辛いが これがペルーなのだろうと思いつつ 何もできない 目の前にいる貧しい人 物乞いをしている人に100円あげても どうにもならない 道を歩けば格100メートルごとに物乞いがいる 無力

いまやペルーで最も重要な観光地であるクスコでは 外国の企業家が土地を買い占め高級リゾート地を作っている 1泊400ドルとかいうホテルもざらである ペルーの物価から言えばとんでもない額だが 無論そこに行くのは外国人観光客

アヤクーチョのある村で25歳の夫婦が「外国人はペルーに来て、ペルーはいいね、何でも素材があるし、安い、パラダイスだ、とよく言うが、我々にとっては全然パラダイスではないね むしろ最悪な国だね」と言っていたのが印象的で 確かに 全然パラダイスでもないし それどころか その国の田舎に住んでいる彼らはまっとうな生活すらできていない 搾取され それで終わり

外国人的視点で見ると ペルーは地理的に アンデス、海岸、アマゾン 3地域があり 食材は大変豊富 天然ガス、石油、鉱山(金、銀、他) 何でもあるじゃないか と思うが しかし 根本的に それらを使って商売ができる人間というのは限られている そこでも また 金持ちが さらに金持ちになる というシステムが出来上がる 大体 物(資源)があっても 日当180円の農民 教育を受けていない貧しい農民が その資源を利用して田舎の村が経済成長する などという事はまずあり得ない 音楽や文化を見ていてもそれを感じる 物(素材)は大変豊富だが それを使って何をすればいいのかすら考える余裕がなく ただ単にその瞬間にパッと売れる音楽やお土産品を作る というアイデアが発生する

ある村では「鉱脈が見つかれば 村なんて簡単に乗っ取られる それに反対すれば殺される、相手が機関銃持ってるのに こっちは石でしょ どうしろっての?」とも言っていた これじゃあ反体制派のテロ組織が生まれても不思議はないだろうなと思った 実際そういった田舎の若者には 毛沢東、マルクス、レーニンの思想に夢を見て 革命を起こしたい と考えている人もいる そこには彼らが他の一般教育を受けていないので それ以外のインフォメーションを一切持っていない という事実もある つまり「今の政府は悪い このままでは我々は永久に貧しい 政府からは忘れられている 毛沢東やマルクス以外に我々の生活が良くなるシステムは存在しない」センデロの思想以降は 潜在的にそうインプットさせられている傾向がある これも田舎の村々に学校ができて ちゃんとした先生が田舎にも行くようなシステムにならないと変わらない

また90年代にフジモリ大統領の行ったセンデロ掃討作戦によって 実際に彼らの親や親戚が虐殺されているため 反フジモリ派はもの凄く多い 当時は 軍が村に行っても誰がテロリストで誰が一般人だか判断できないので とりあえずその場にいた人を全員殺害したらしい ある村は 男は全員殺害されたり 村が消えたりもしている テロリストに協力しない者はテロリストに殺害され 軍が来たら軍に殺害された 「フジモリのせいで一体どれだけの孤児が生まれたと思う? 大統領が最大の殺人犯だ その娘が今度大統領選に立候補している この村に来てみろ!」と言う人は少なくない 首都と そういった田舎では色々な意味で天と地ほどの隔たりがある

一方 旅先で聞いた話 ある村ではコカのお祭りというのがあり(この場合の「コカ」は葉っぱの事ではなく コカインの事) お祭り期間は村中でコカインを吸っている 通称TIERRA DE NADIE(誰の土地でもない=無法地帯)と呼ばれるこの地域は 畑一面にコカの葉を栽培して コカインを作り アメリカをはじめ世界各国に売っている こう書くと なんだか秘密情報っぽいが そこら辺の人は誰でも知っている事で 宿泊した宿で働くおじさんが言っていたが「いや〜あそこは凄いよ 飛行機が飛んで来るんだよ、それでさ、空から箱をポンッと落とすの、お金が入った箱 今は センデロが麻薬組織のガードマンをしてるから 皆武装してるのよ 警察なんて文句言ったらすぐ殺されちゃうんだよ そういうのってニュースにも出ないから 地元民しか知らないんだけどね まあとにかく色々あるのよ」これもまた田舎の現実で 貧しい人々が見つけた手っ取り早い収入源である しかし それすらも誰かが後ろで操り 搾取しているというのが現実 誰かはその日生きるためにコカインを作り それによって誰かは儲かり 誰かは廃人になったり  また誰かは死んだり 誰かは殺したりしている 他人事ながらかなり重いテーマである&人間全然平等ではないという現実を見た

旅をすると色々な事を学びます よく「かわいい子には旅をさせろ」といいますが 本当にかわいい子には あまり旅をさせないほうがいいような気もします 旅による とでも言いますか「知らぬが仏」という言葉もあります

自分は当初何も知らずに演奏家としてふらふらと旅をしていましたが 旅とは 本来そういうための事ではないと知りました 旅の途中の道路で 目の前のバスが横転した時は 運転手と一緒にそのバスの乗客の救出に行き 横転したバスから子供を引っ張りだしたり ひもでバスを起こしたり 途中で土砂崩れがあれば 雨の中スコップを持って 道路整備を手伝ったり 走っている車のタイヤが外れれば 修理を手伝ったり もはや演奏家である事などは一切忘れ 生き残る事だけ終止考えていました 次回は是非 バスではなく歩いて旅したい とすら思いました 基本的に飛行機での旅では現状をよく知れない 車でも スピードがとても早い よく知りたいなら 徒歩が一番 自分がこう書いても なかなか理解はされないでしょうが あれを見ればわかります 今回はLimaからPuquioという町へバスで行き そこから色々な村にふらふら寄りながらHuamangaまでたどり着き その後Sarhuaと言う村に行きました

この旅の前には 12月後半から1月までイタリアに行きました これはまた色々な意味で別世界でした 私は近年Sylvano Bussottiの作品に興味があり 演奏会のプログラムに入れていましたが ぜひ本人に会ってみたいと思い ミラノに行きました イタリアの事は何も知らないので指揮者の杉山洋一さんを頼ってミラノに滞在し Bussottiと会い 作品について教わる事ができました 作者に会ってみて だいぶ作品への印象も変わり 弾きやすくなりました 杉山さんのおかげで ミラノでコンサートをさせていただく事もできました コンサートの一部ではSylvano Bussotti作品だけを弾き 作者本人にも来て頂きました またギタリストのElena Casoliさんもコンサートに来て下さり 知り合うことができたのは とてもうれしかったです ミラノのLimenMusicでは高橋悠治作品とBussotti作品、ペルー音楽を録音し ネットで動画が配信される予定です

観光目的で行ったのではないので 一切観光はできていませんが いつか経済的に余裕ができたときは ぜひ観光もしてみたい と思います

ミラノに着いて数日したある日 ローマに住んでいるペルー人の文化活動家から突然メールが入り ローマでコンサートをする事になりました ペルーを代表するアンデスの村出身の作家Jose Maria Arguedasは今年で生誕100年で世界各地でオマージュが行われています ローマのカピトリーニ美術館でもArguedasへのオマージュがあり そこでコンサートをしました 今回お金に余裕もなかったですしローマに行ける予定は全然なかったので 演奏で招待される事ができてとても幸運でした ローマでも観光はしていませんが 演奏したカピトリーニ美術館は少し見る事ができてとても素晴らしい美術館でした

ローマには イタリア人でありながら40年近くアンデス音楽を演奏し研究している人達がいます Trencito de los andes(現在はIl Laboratorio delle Uova Quadre) というユニットです CDや噂でしか知らなかった彼らと連絡を取り 会う事ができました 彼らの家に行き パスタを食べながらだいぶ話しましたが アンデス音楽を まったく異なる視点から考え(考え続け)「超アンデス音楽」を作り上げている人達であるという事を知り大変驚かされました 今のアンデス音楽のレベルから言えば 彼らのやっている事 考えている事というのはあり得ないようなレベルで 誰もあんな仕事はできないし 真似できないどころか 何をしているのかすら なかなか理解されないような事をしています 頭のいい物理学者と哲学者がアンデス音楽を考えているような そういう感じ こういうタイプ こういう方法が存在するとはそれまで考えもしなかったので とても参考になりました

印象的だった彼らの言葉は「100年以上も前から世界中の研究家がアンデスへ行きアンデスの素材(石)を探している 始めは石拾いがとても面白いが 次第にそれを基に何かを作り上げるという作業があまりに難しいという事に気がつき 皆あきらめ 別の事をする もしくは石の標本を作って終わりにする(採集、採譜) しかし そんな採集した物は 結局役に立った事が無い 我々は 拾った石ころをただひたすら磨く 磨き上げダイヤモンドに仕上げる もしくは彫刻する というような作業を長年してきた」

彼らは自らが採集したアンデス音楽を極限に再現するために Partitura Micronia(ミクロ楽譜)と言う 新しい記譜法を発明した それは3枚の譜面が6秒足らずの時間で流れると言うもので 生演奏は不可能 多重録音によって行われた彼らの録音でしか聞き得ない音となっている 録音主義者で 常に前人未到な完璧な録音を残して来ているが ヨーロッパ各地 南米各地でも公演を行っている

こうした 偶然の重なりで イタリアでは 現代音楽とアンデス音楽を勉強しました イタリアでの思い出は他にもたくさんありますが 中でも ミラノの「タマネギパスタ」と「人参パスタ」は鮮明に印象に残っています

掠れ書き 10(『カフカノート』の作曲)

高橋悠治

ある夜帰ってきてコンピュータの電源を入れるが立ち上がらない。奇妙な音がして内部で空転している。デジタル機器は思いがけなく突然壊れる。アナログのようにしだいに動きがわるくなり停まったりうごいたりをくりかえし最後にまったく停止する前に取り替えたり何らかの手を打つ余裕があるのとはちがって、1か0かというふうに、何の前触れもなく完全に使用不可能になる。こんなことがこの器械では以前にもあったが、今度はハードディスクが壊れてデータが取り出せなくなった。作曲しかけていた『カフカノート』はバックアップを取っていなかったので最初からやり直しになる。

こんな事故をきっかけにちょっと休んで頭を切り替えるあいだにちがうことを思いつくかもしれない、というほうに賭けることにすると、まずテクストの訳は、メールでひとに送ってあったものを返送してもらい、最初と最後の断片をちがうものに変える。それからその訳文からさかのぼって原文を読み込み、ドイツ語と日本語のテクストをそろえたところで、また作曲をはじめる。歌のメロディーだけはプリントアウトしてあったが、ピアノのパートは失われたものを記憶に頼って再現すると自分のコピーになるので自然な流れではなくなってしまう。最初の断片を取り替えたので、作曲は失われたものとはちがうところからはじめることになる。ちがう始まりかたをした音楽の流れは、以前の音楽とおなじものにはならないだろう。

1970年代までは作品全体の構造をまず考え、要素や構成を決めてから細部を書き出すという手順で作曲していた。その時代の音楽の作りかたでもあったし、それが古典的な作曲法でもあった。全体の設計図にしたがって家を建てるようなもので、物語の最後を想定してそこに運んでいくための出来事の流れをくふうすることもできるし、いつも全体の構図が見えているなかで作業をしている、いわば視覚化されたやりかただった。カフカのノートはそれとはちがう、暗いトンネルを掘り進むようなもので書く勢いにしたがって物語がどこへいくのかは作者も知らない。アルチュセールのたとえで言うと「すでに走っている列車に飛び乗る西部劇のヒーローのように目標もシステムもない出会いの唯物論」ということになり、マトゥラーナのたとえでは「設計図もなしにそれぞれの場所で作業をすすめる舟大工がそれとは知らずに造りあげる一艘の舟」となり、さらに別なたとえでは、廻りながら軸がずれていく独楽、または刑務所の塀の上を追手のいる内側にも通報を受けた警察の待ち構える外側にも落ちないで走り続ける脱獄囚でもいいが、音の流れが停止するまでの音楽の時間を手探りですすんでいく触覚的なプロセスにだんだんと移ってきた近年のやりかたでは、手近にある音楽を、それは聞こえてきたものでもいいし、すでにある音楽の一部でもいいが、その場で変形され引用され埋め込まれたパロディーとなって、道を歩むのと同じ速度で作曲もすすんでいく、作者が上から全体を俯瞰するような特権的な位置にはいないから、一つのフレーズから次のフレーズに移る差異以上の全体の地図は存在しない。音を編む作業が最終的に停止したときに地図はできるかもしれないが、聞き手のなかに記憶されるような全体像ではなく点在する瞬間の束の記憶、それも一つとしておなじものではない記憶だけとして残ることを願っている、そのようなものとしてはっきり像を結ばないが「気がかり」Sorgeであるような何か。ベケットの最後のテクスト「何と言うか」Comment dire に書かれているような失語症的言語、思い出せないが循環し、遠くにかすかに見える「あれ」、ただどのような意味でも目標や救いにはならず、透視画法の無限遠点それも複数の点として散乱する道をひらくための。

ただ一方向に直線的にすすんでいるわけでもなく、立ち止まり振り返り曲がるだけでなく、以前のどこかの地点に戻ってやりなおすこともあるだろうが、さかのぼってそこからまたすすむ場合は、同じ道をおなじようにすすむのではなく、今まで見えなかった脇道に曲がってそこからちがう方向にすすむこともあり、循環するのは同じ水ではないばかりか、おなじ水路でもないかもしれない。何回も曲がっていくうちにどこへ行くのかもわからなくなり、すすんでいるのかもどっているのかもわからない。古典的な主題も動機の展開も変奏もなく、偶然の出会いから逸脱をかさねて主体も対象もないうごきそのものになっていく。これがエピクロス的クリナメンとオートポイエーシス的自己創出を重ねあわせた運動、カフカ的に言えば落ちながら跡を曳くうごきということになるだろう。階段を転げ落ちていくオドラーデック。

脈絡のないように選んだ断片からさらに抜き書き:「何もない、ことばを横切ってくる光の名残。」「だんなさま、どちらへお出かけで?」「知らない、ただ行く、出ていく。どこまでも行く、そうすれば目的地に着く。」「目的がおありで?」「ある、「言ったはずだ、”出ていく”、のが目的。」「食糧ももたないで」「いらない、長い旅だ、途中で何もなければ飢え死にだ。もっていても助からない。幸いこれこそ果てしない旅だ。」「長い、長い未完成のものの列。」「ひとことだけ。願いだけ。空気のうごきだけ。きみがまだ生きて、待っているしるしだけ。願いはいらない、呼吸だけ、呼吸はいらない身振りだけ、身振りはいらない思うだけ、思いもなく静かに眠るだけ。」こうしてまた書いている。

時間ののち――翠ぬ宝76

藤井貞和

そりゃあ、きみ、なんと言っても、あんまりだもの
荒川の河川敷で
きみは発見される。 なんと、三十キロもの下流で
三ヶ月ののちに。 ほんとうは何も発見されないままで
ぼくはきみのあとから
青色の砂となって勤めている。 きみは
許す、後任の砂あらしを。 ―青色の
砂から、時間が降りてくる微粒子
このごろでは、すっかり、きみに会うことのなくなった
勤務室。  砂時計を壊す  

(きみの親しかった友人にメールをする、五年前のこと、「白い包帯を左腕に吊した、もの言わぬかげを出口のところで見た。Sだったような気がする。私に何か言いたそうな、警告を発していたような気がする」と。友人は笑う、「はははは、何をフージーさん、古代をやってるやつはこれだから、ヤだな」と。近代主義者のかれは軽くいなして、メールを切る。やさしい友人だよ、見透している。)

アジアカップで寝不足に!

さとうまき

イラクの子どもたちの絵画展を日比谷の画廊でやることになった。2月4日からはじまるので大忙しだが、サッカーのアジアカップが始まり、またまた大忙しになってしまったのだ。

ワールドカップは、ヨーロッパとか南米が優勝するのだが、アジアカップとなると中東の国が結構出てくるから、僕としては親近感がある。特に、前回の優勝はイラクだった。

日本とイラクが対戦する試合を見てみたい。ところが日本はB組、イラクはD組。予選を勝ち抜かないと対戦しない。D組みは、なんと、イラクと北朝鮮とイランが対決。(アラブ首長国連邦は、おまけ?)イラク、北朝鮮、イランといえば、2002年、ブッシュ大統領が一般教書演説で、悪の枢軸と名指しで批判した国。

一体どんな戦いになるのか、とても楽しみだった。何よりも、イラクの試合を日本で生中継で見られるなんて! 僕は夜更かしをしながら、TVにかぶりついていたのだ。時差があり、試合は大体夜中の1時に始まり、3時ぐらいに終わるから、寝不足にはなる。

イラク、イランには敗れたものの、結構頑張って北朝鮮を下し、決勝トーナメントへ進出! 悪の枢軸というレッテルを貼られていても、どの試合もとてもフェアだし、スマート。イラクの友人に電話すると、「みんな、盛り上げって、祝砲を撃ちまくっている! 危なくて外に出られないよ!」と興奮気味。イラク人は、サッカーが好きだ。ガンの子どもたちも、サッカー選手の絵を書いたりしている。ヒーローは、子どもたちを励ますのだ。

翌日、イラク支援の関係者の会議で、「イラク勝って良かったな」と興奮気味で話しかけるけど、「いやー忙しくてねぇ。夜中にTVなんて見てる暇ない。」
えー!あんなに、イラク、イラク言ってたくせになあ。と失望。

残念ながら、イラクは、準々決勝でオーストラリアに敗れる。延長までもつれこむ激しい試合になり、30分延長するとさらに寝る時間が削られるので見てるほうも結構きつい。そして、終わった後にはいつもイラク人から電話がかかってくるから、苦肉をともに戦ったという感じだ。それにしても悔しくて眠れないから、また疲労がたまる。

一方、日本は、どんどんと勝ち抜き、気が付いたら決勝戦。オーストラリアと対戦している。たまたまTVつけたら試合があと10分で終わりそう。「いやー、忙しくてすっかり試合のこと忘れてた!」結局延長戦に入ったので、決定的なゴールシーンも見ることができた。

そして、試合がおわると、イラク人の友人から電話、「おめでとう!」「おめでとう!」メールも来ている。「私は、日本人の素晴らしさに感動しました。あなたたちは誇りです!」と言う感じの大袈裟なメールが何本か来ていた。また夜更かしをしてしまい、体調は最悪。しかし、よく考えたら、試合が終わったらイラク人から電話があるわけだから、どの道起こされるわけだ。

イラク人はいいやつだと思う。ちゃんと試合を見てくれていたのだ。それに比べて、日本人は、本当に、イラクのことなんかあまり気にしていないだろうな。いつか、日本とイラクの対戦を見てみたい。僕はどっちを応援するのかな。

喫茶店物語

植松眞人

ある日、新宿を歩いていて喫茶店を見つけた。ごくごく普通のコーヒーのうまそうな喫茶店である。ということは、逆に今どきあんまりお目にかかれない喫茶店ということであり、これは今入っておかなければいつまであるかわならない、という代物である。

なにしろ、今どき、ちょっとでも油断するとチェーン展開しているコーヒーショップがあちらこちらに浸食している。僕から言わせれば、あれはコーヒーショップであって喫茶店ではない。喫茶店たるもの、あくまでもブレンドコーヒーが自慢で、できればちょっとばかりくすんだ色合いの装飾で、言葉少ないオヤジが店主で、愛想のいいアルバイトの女子がいてくれれば最高なんである。いちいち、こちとらが頼んだものを声高に叫び、店内にいる全店員が復唱する必要はないのである。

さて、僕が新宿で見つけた喫茶店はこれらの要素をすべて満たしており、しかも、新宿のくそったれシネコンから歩いて10分以内というのに座席が7割方空いているという奇跡。なんだか嬉しくなって席を選ぶ……。のであるが、この席選びがえらく難しいのだ。何しろこの店、カウンターが5席程度、4人掛けのテーブル席が6つほどあるのだが、どうも自然に座れる感じがしない。

まず、座席は普通、奥から順番に座りたいものだが、奥の方に妙な置物などがあり、なんとなく、一見客を拒んでいる気がする。かといって、手前の席は、乳製品を入れる小さな冷蔵庫やレジがあり、どうにも落ち着かない。となると、真ん中あたりの席だが、これがなぜか、店の出入り口に向かって真っ正面にも真後ろにも座れないのだ。つまり、入り口から入ってきて、そのテーブルに座ろうとすると、直角90度に折れて、入り口の方ではなく、カウンターの奥にいる店主と向かい合わせになってしまうのだ。

僕としては、店主を目の端に入れつつ、入り口を真っ正面にした席が最上級である。ところが、この、店にはそんな配置の椅子がないのだ。仕方なく、ちょっと遠慮がちに、カウンターにいるオーナーから身体の芯を一人分ほどずらして、座る。オーナーから身体一人分、ずらしてるところが一見客の心遣いだ。

なんとなく落ち着かないまでも、50年代のジャズとうまいブレンドコーヒーに間違いはない。しかも、オーナーは無口でこちらに無遠慮な視線は向けない。これなら、しばらく時間を過ごせる。

と思っていたら、出入り口が開く。気のいいアルバイト女子が「いらっしゃいませ」と声をかける。すると、どうやら常連らしい客が、オーナーの目の前のテーブルで、こちらに真っ直ぐ顔を向けて着座ましますではないか。わかるだろうか、僕から見た情景が! 僕の目の前に小さなテーブルがあり、そこにコーヒーが置いてある。その向こうにまた小さなテーブルがあり、来たばかりの常連オヤジが、しっかり僕の真っ正面にこちらを向いて座っている。さらにその向こうにカウンターがありオーナーがいる。

向き合って、1対2である。オヤジが1対2で時間を過ごすのである。耐えられない。自意識過剰と言われようがかまわない。しかも、そのオヤジは、僕の方に顔を向けたまま、カウンターの中のオーナーと話し始めた。そして、オヤジの問いかけにオーナーが少し面白い答えを返すと、僕を見て笑うのだ。いやいや、こちらにはそれほど内容も聞こえてないし、一緒に笑うほど親しくもない。そして、常連オヤジにのせられて、その後、オーナーは大声でダジャレ連発……。

50年代ジャズもあったもんじゃないぜ。ふっ。

豆腐屋の誘惑

璃葉

子供の頃、母はスーパーで豆腐は買わず、「豆腐屋」で豆腐を買っていた。それについていき、あのシンクのような、湯船のようなものに、ぶくぶくと浸かっている豆腐達を見るのが、楽しみのひとつだった。しかし、小学校に上がる前ぐらいに、豆腐屋はなくなってしまい、その後、自分の記憶の中からもあの古びた店の記憶は消えていった。

それから15年程経った今、上京してのらりくらりと生きているのだが、たまたま家の近くを散歩していた時、とんでもなく懐かしいものを見つけてしまった。

「豆腐屋」だ。

思わず足が止まる。「豆腐」と書かれた古びたえんじ色の旗が立っている隣で、おっちゃん2人が世間話をしている。小さい頃のあの記憶が、湧くように溢れ出てきた。

豆腐屋なんて、探せばいくらでもあるはずだ。しかし、小さい頃から豆腐屋の湯船に浸かっている豆腐に興味はあっても、豆腐そのものには何の興味も執着も無い。だから豆腐屋を探そうとも、美味しい豆腐が食べたいとも…思う事はまるでなかった。

しかし、こんな近い所に昔ながらの豆腐屋を見つけたからには…。そうだ。一緒に住んでいる姉に買いに行ってもらおう。心の中で腹黒い笑みを浮かべた。わがままな話なのだが、誰かが豆腐を買いに行く時について行き、湯船に浸かっている豆腐の大群を眺めていたいだけなのだ。これは、子供の頃から何も変わっていない。あの気持ち良さそうに浸かっている豆腐達が見られる。これを楽しみにしながら、私は再び歩き出した。

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犬狼詩集

管啓次郎

  23

過去に対して熱烈な興味を抱くことがあった
12分ほどのシークエンスをワンカットで撮影してみた
それは本州島の片田舎の河原
地元の少女が三人、川面に石を投げて遊んでいる
いつまでも石を切る、石を投げる、水を切る
水を切る、風とためらいを切る、切ることの強さ
ricochetの美しさ
旋回させるように使う腕のなめらかな動き
むかしからつづく水と空との戦いが
こんなふうに祭儀の現代的な巫女たちによって継続されてゆく
彼女らの役目はどちらにも勝利を与えないことだ
石は水と空とのあいだを弾みながら旅しつづける
切ることで両者をむすびつけてゆくのだ
ricochetの実践的な美しさ
フレームの中のこの運動は永遠につづく
水と空の切断も永遠につづく

  24

「この道を歩いてゆけば河に橋がかかっている
それを渡ればそこがドイツだ」
親しげなトルコ系の中年男の言葉にしたがって
冬の中を歩いてゆくことにした
空の半分はくもり半分は明るい光
みぞれまじりの風が強く吹いてくる
やがて視野が大きくひらけたとき
ヨーロッパの大河が流れていた
航行可能な水系に細長い巨大な船が浮かぶ
橋の中央まで来るとカモメが一羽ずつ
小型爆撃機のように風にむかって飛び立ってゆく
離陸すれば一瞬、風に飛ばされ
オレンジ色の目で岸辺との関係を確認し
ただちに軌道修正して河の中央をまっすぐに飛んでゆく
ぼくはかれらの飛跡を追って上流を見やる
右手はフランス、左手はドイツ

一月、とりあえず酒

仲宗根浩

去年注文したCD、DVD、本が到着したので整理する。年末に届いたR&BのCD、ファンカデリックやアイズレー・ブラザースの紙ジャケCDもティーナ・マリーの訃報で聴けずじまい。去年の趣味趣味音楽はテディ・ペンターグラスの訃報で始まりティーナ・マリー訃報で年を終わったようなもの。レニー・クラヴィッツのYoutubeにアップされたティーナ・マリーへの追悼のメッセージで明らかにになったこと、本人の喪失感が一番出ていた。十年前、友人のサイトでなんでティーナ・マリーをちゃんと評価しないのか、というので盛り上がっていた。一般的に、ただディスコでヒットを飛ばしたおねぇちゃんくらいの認識だったのをレニー・クラヴィッツは「最大限に過小評価されたコンポーザー、アレンジャー、シンガー、ミュージシャン」と言ってくれた。ファンク界の肝っ玉姉さん。メジャーレーベルは紙ジャケ、リマスタリングなんて出してくれないだろうな。

ワーナー時代のアラン・トゥーサンのCDでまったりしたりして、ギブソンのレスポールの本(いまだと二千万、三千万のギターの写真がごろごろある。)、これも写真と文章がいっぱいなので写真ばかり見て読むのはあとまわし。次は浅川マキのオフィシャル本。読んでいると大学進学のため上京したときによく通った、初台のライヴハウスが出てきた。ここでいろいろな人に出会ったけど今は音信不通。ママさんが話してしてくれた浅川マキが「暗い日曜日」を歌わない話とかしてくれたけどもう詳しくは覚えていない。十年前、沖縄で3回のライヴのうち2回行った。そのライブハウスも場所が別の場所に引越したみたい。東京にいるころ浅川マキのライヴを初めて見たのは紀伊国屋の裏にあったときのピットイン。よく通る声にびっくりした。スタイルはいろいろ変えたけどあの生の声だけは全然かわらなかった。

正月は仕事してたから、三箇日過ぎて実家に行くと酒がいっぱいあまってる。缶ビール、日本酒をもらった。休みの日、もらった日本酒まずけりゃ料理に使えばいいやと、呑んでみると結構すすむ。半分残し、泡盛を飲み寝て、翌日昼から日本酒呑んだら一升なくなった。二日で一升日本酒を呑めたことに少し驚く。身体がアルコール三十度以下の酒では満足できなくなっているかもしれない、などと考えているうちにすぐ旧正月がくる。

無縁社会

冨岡三智

この1月18日に、またインドネシアに戻ってきた。今回は、来年の3月までジョグジャカルタに滞在することになっている。ソロにいる私の先生の家に、以前留学していた時に使っていた服などを預けていたので、それを取りに行ってきて、ぼちぼち生活も軌道に乗ってきたところ。

その預けていた荷物の中に、2006年12月15日の産経新聞がある。なんで新聞まで一緒に入れたのだろうと苦笑しながら、とりあえず読みふける。(この新聞は、私の親がときどき日本から送ってきていたものだ。)石津昌嗣(写真家・作家)が、「関西ruins」というコーナーで、大阪の四天王寺境内の一角にある無縁塚を取り上げている。この無縁塚というのは、お参りしてくれる縁者がなくなった無縁仏の墓や地蔵がピラミッド状に積み上げられたものを言っている。その同じ記事の中で、石津は、かつて高層マンションの建築によって街1つがまるごと消えてしまった思い出を語り、「マイホームがマンションになりつつある都会では、家族のだんらん風景も失われがちである。核家族や少子化問題の行き着く先は、とてつもなく寂しい無縁な社会。…(中略)…無縁塚は、今後ますます現代の家族の在り方を象徴していくことになりそうだ。」と続ける。

無縁社会という言葉は2010年1月のNHKスペシャルで一気に一般に浸透したが、その前からこの言葉が広まる兆しはあったのだなと、あらためて感じる。そして、ジャワにいると、現在の日本はひたすら他人と孤立する無縁社会を望んで突っ走ってきたんだなということが、とても痛感されるのだ。

ジャワにいると、人が死ぬということがまだまだ身近だ。そしてお葬式は、隣近所が助け合って、ささっと出す。1回目の留学の時に私が借りていた家には、外に水道がついていた(洗濯用に)。ある日、朝の5時くらいにその水道の音で目が覚めると、なんと隣の家の人が無断で使っている! 聞いたら、前の家で人が亡くなってこれからお葬式なので、炊き出し用にお湯を沸かすらしい。うちの家は水道の出が良いので、使っているということだった。さも当然というその態度にものすごく驚いたが、この後にもこんなことがあって、お葬式のときには、無断で他家の水道を使ってもよいという暗黙の了解があるらしいと分かる。

今度は、2回目の留学の時の話。隣の家の一室に住む独身のお爺さんが亡くなったというので、お葬式があった。私もお葬式に出て、埋葬まで立ち会ったのだが、驚いたことに、このお爺さんはこの家の人とは何の縁もない人だった。隣のおばさんの話によると、このお爺さんは自分の親が生きている頃からこの家にいて(居候なのか、部屋を間借りしていたのかまでは聞かなかったが、どうも居候っぽい様子だった)、M地区に遠い親戚がいるのだが、亡くなったことを知らせても、誰も引き取り手もいないので、この家でお葬式を出すことにしたという。つまりは、この家の人は、赤の他人のためにお葬式を出してあげたことになる。しかも、このお爺さんの身元を知っていたのもこのおばさんだけで、あとの家族や近所の人は、誰もこのお爺さんの身元のことを知らなかった。

この時も、淡々と、しかしてきぱきとお葬式が行われたのだけれど、なぜ、赤の他人のお葬式まで出せるのだろう。日本では、そこまでしてもらえるだろうか? ここでは、袖すり合うも他生の縁とばかり、たまたまそのお爺さんの死に場所に居合わせた人たちが、お葬式であの世まで送りだした。私もそれに立ち会った一人ということになる。このお葬式のときに、うっとうしい人間関係のジャワもいいなあと、初めて感じたのだった。異土で死んでも誰か弔ってくれる人がいる、というのはなんだか安心だ。

ジャワでは(都会では事情は違っていると思うけど)、人の生活にどんどん他人が介入してきて、日本でいうプライバシーはまだまだないと言っていい。自分の家のテレビをよその人が見ているということもしょっちゅうだし、結婚式には招待していない人も来るし、密かに取っておいた冷蔵庫の食べ物はいつの間にか誰かに食べられている。葬式、結婚式の他にも家族の集まりは多いし、職場でもやたらお揃いの服を着たがるし、アリサン(講)もあるし、縁の糸が絡み合っている感じだ。正直、ジャワに留学した当初は、そういう、プライバシーのない縁の社会が息苦しかった。だからこそ、日本の社会はそういう幾重もの縁を断ち切る方向に進んできたのだろう。

村八分という言葉がある。これは交際を全く断ち切ることを言うと一般に思われているが、十の内の八の交際を断ち切ることだと聞いた。例外の二分は葬式と火事で、これがあったときは村八分の家であっても、村の人たちは手を差しのべたのだと言う。そう考えると、今の日本社会は、村八分どころか、村十分の状態を望んで作り出してきたと言えるだろう。縁はなくても、お金を出せば福祉介護もしてもらえるし、各種宅配サービスもあるし…というところなのだろう。そして、お金がなくてサービスが受け取れなくなった人が無縁死する、ということなのだろうか。

降りてこない

大野晋

さて、今月のテーマはなににするか?
いつもは、なんとなく頭の中に浮かんでくるのだが、今月は全く降りてこない。ま、この原稿を書いているのが月の中なので、まだ、頭の中が煮えきっていないせいなのかもしれない。しかし、残念ながら今月は月末に引越しがあって、余裕がないから仕方がない。ということで弱りきっている。ということで、つれづれとなく書き綴ってみよう。

今回、うん十年ぶりに引越し荷物をまとめていて気づいたのだが、思いのほか、CDの枚数が多かった。もっと、本の冊数が多いと思っていたのだが、もしかするとそれに匹敵するほどの枚数があり、封が開いていないものも何十枚も混じっている。本についてはパッケージが開いているから、買うときにぱらぱらとめくって、資料として有効であるとわかれば、置いておくことで記憶の代わりにするのだが、CDに関しては開けて聞かなければ意味がない。だいたい、残りの人生聞いても聞ききれるのかどうかさえも怪しかったりするから困ったものだ。新しい環境に合わせて、聞く環境も新調したいと思うが、どうなるのか?

最近はネットオーディオなるものも出てきて、ナクソスのように、iTuneでなくてもオンラインで音楽を配信するらしいから、聞ける音楽はどんどん増えている。さて、一生にどのくらいの音楽と親しめるのか、人生の競争のような状況になりつつある。まあ、自分で演奏しないからまだまだマシなのかもしれないのだけど。

そうそう、最近では、録音の数が尋常ではないくらいに多く、収拾が取れなくなりそうなので、なるべく、近寄らないようにしていたジャズの分野にとうとう接近してしまった(随分前から聞いてはいるが、コレクションは少なかった)。こうなると、本棚よりもCDラックの方が今後問題になるかもしれない。ま。音楽のない生活には間違ってもならないだろう。

家の打ち合わせをしていて、ペレットストーブなる新兵器を知った。木材を粉砕したものを小さくまとめたもの(ペレット)を燃料にしたストーブで、空気を吹き込んで燃焼させると、薪ストーブとは違って、ほとんど煙や灰が出ないらしい。しかも、燃焼状況が見える(火が見える)のは薪ストーブと一緒で、扱いは石油ファンヒーターに近いことから、市街地で暖炉を置きたいという要求にも対応できるというのが売り文句だ。

石油は過去の植物が堆積したものが高圧力で長い年月をかけて変化したものだから、資源としては枯渇してしまう危険がある。一方で、現在の森林を構成する木材を切って使うというと自然破壊のように聞こえるかもしれないが、日本の現状の森林、その多くが人間が植えた人工林が発育途上のものが多く、その健全な発育を促すための木の間引き(間伐)が必要なのである。ところが、木材価格の低迷で、間伐をしようにも切り出した木材の用途がなくて、売って間伐費用の足しにすらならない状況で、日本の山が荒廃になっている。むしろ切って欲しいが切れない状況がそこにある。まして、自然災害とは言うものの、管理の悪い森林が原因の土砂崩れなどの災害を引き起こしているのだから、問題はいかに国産材を利用するかにある。そういったことを考えると、なるべく、そうした樹木の活用先を考えてやるべきであり、森林由来の燃料は、特に国産材の燃料は、なるほど、よい利用方法だと合点した。なにより、薪は都会では置き場所に困り、灰や煙、火の粉などが心配になるが、ペレットはそうした心配がないのがとてもいい。

本来は、石油消費の代替手段として、都市部での燃料の供給が安定して、メンテナンス体制が確立した上で、導入に対するインセンティブが準備されればもっと普及するだろうと思うのだが、現在は長野県など、寒冷な森林県にそのような体制は限られている。とは言っても、都会で考えるよりも長期に、しかも普及が進んでいるというのが驚きでもある。年何回も信州を行き来する私には、燃料の入手も可能で、とても魅力的なおもちゃなので、秘密で導入してしまおうか?などとも考えている。ところで、昨年末に静岡の山奥の旅館のロビーにあった囲炉裏端でも実感したが、どうも人間は特に寒い時期に火を見ているとうっとりとするように感じる。そうしたのんびりとした時間をすごしたいという側面もあったりもする。そういえば、奥鬼怒温泉郷の最奥のランプの宿の薪ストーブの前はとろとろとしてよかったなあ。

もう40年くらい前、都内の某所(23区内)で、実は薪で風呂を沸かしていた経験がある(銭湯ではない)ので、木の燃える様子にノスタルジーを覚えるのも特別なのかもしれないけれど。

ということで、着々と秘密基地の実現に向けてまい進する毎日である。青空文庫の資料を置いてもびくともしないくらいに広く(内緒だけど)したいと、屋根裏を全部使ったロフト収納だとか、そういった話はまたおいおいということで。

先日、帰宅の際、寄り道をして(といってもいつもどこかによりながら帰るのだけれど)ちょっと先の地下鉄の駅から帰ろうと、ふと駅の入り口の横にある小さな街の書店にふらふらっと立ち寄った。何の気なしに書棚を見ていると、電子書籍のコーナーにボイジャーの荻野さんの本が乗っていた。結構、いろいろなところから聞いたような「電子書籍、初めて物語」が書かれていたが面白そうなので津野海太郎さんの本と一緒に購入した。

世の中は昨年のキンドール、iPad以来、電子書籍ブームということらしい。ブームなどといっても、青空文庫は10何年ずっと書籍の電子化をしているし、それを使って、PCやPDAなどで読む試みはずっとユーザレベルでは続けられてきた。一方で、海の向こうでも書籍の電子化は続いていて、電子、コンピュータ系の学会の雑誌や論文誌などはすでに電子提供であるし、過去の論文の検索参照もインターネット経由でできるようになっている。一方で、アマゾンでも結構前から電子書籍を扱って来ている。要は、日本の出版と電子機器メーカが電子出版というキーワードで、新しい販路があるかもしれないと動き始めたということなのだろう。ただ、今までの流れだと、どこも新しい流れを得られずに尻切れトンボに終わるような気がしてならない。しかし、どうして日本の電子書籍は1冊あたりの料金が高いのだろうか?

魅力的な電子コンテンツであるか、または安価であることが電子書籍で成功する条件のように思う。魅力的でないコンテンツに限って高額だったるするのが日本の電子書籍事情のような気がしている。再販制度に乗っかって、文庫本以上の価格で電子書籍を出しても売れ行きはいまひとつなのではないだろうか? いま、いちばん求められているのは、本を電子化することよりも、刷れば刷っただけお金に換わる再販制度から、売れただけの収入を得られる真の商取引への出版界の脱皮なのではないだろうか?

ということを地下鉄の中で考えた。
変化することは難しい。引っ越し荷物をまとめながら、つくづく、そう思う毎日である。

試練は人を成長させるか

若松恵子

大雪に見舞われている地域の方には申し訳ないが、東京は大晦日以来の乾燥注意報が続く晴天の日々だ。今日も風は冷たいけれど、陽の光のなかに春が混ざっている。次の季節の予感を感じさせる頃というのは、いつの季節でも胸がいっぱいになってしまうものだけれど、もうすぐ春というこの時期は、何かが始まる予感とともに独特のワクワク感をつれてくる。

日曜日の午前8時。国道246に面したファーストキッチンの2階席。道路に面した窓際の特等席で、ノートを広げていそいそと楽しそうに何やら仕事をしている人がいる。日曜日の朝、まだ静かな国道は、さながら浜辺のようで、道路にむかって少しせり出したその席は、海辺のテラスに見たてられなくもない。

洗ったばかりのような静かな朝を眺めながら、娘のことを、つらつら考えている。中学3年生の娘は、もうすぐ高校受験だ。何をしていても受験生という言葉が付きまとう1年間もあとちょっとで終わる。教育熱心な親ではないけれど、それでも、へこたれそうになる折々には、娘を励ましてきた。

12月になって、自分の実力というものも明らかになってくる頃、私立高校の推薦入学に決めてしまうクラスメートが続出した。近年少子化で、私立校の場合、現在の成績を提示して合格を約束してもらうという事もできるのだ。色々とやってみたあげくに不合格になるよりは、確実に安全な策をとった方が賢い選択なのかもしれない。私立校の方が大学受験に向けた指導が行き届いているので、公立校に行って塾に通うよりはかえって経済的ともいえる。2月末まで結果がわからない方法に掛けるのは、ばかなやり方なのかも…。

私立に決めてお正月を迎えている級友をうらやましがる娘に対して、「そういうものじゃないだろう」という根拠のない違和感だけで何と説明していいものやらわからなかった。

そんな時期に、公立校の学校説明会があった。校長の第一声は、「高校は皆さんを待っています」というものだった。入れるならどうぞという態度がオーソドックスななかで、この一言は新鮮だった。そして、「試験の前の日まで、皆さんの実力は伸びます。受験というのは皆さんにとって試練かもしれませんが、試練は人を成長させます。ぜひがんばってください。」というものだった。この時期に受験生が抱えている悩みを良く知っている人の言葉だと思った。

受験は何を子どもにもたらすのだろうか。せめて、いろいろ読んだり、考えたりするのを無駄と思わずに、そういうことに親しむ人になるきっかけになってくれればと思う。日曜日の早朝に、ノートを広げて仕事をしている人を眺めながらそんなことを考えた。

オトメンと指を差されて(32)

大久保ゆう

前回もふれましたが、私はすやすやと心地よく眠れれば満足なのです。月並みですが、そのためには低反発枕とボディピローは欠かせません。

それにしても、ものすごく浸透しましたね、どちらも。だいたいのところがここ一〇年のことだと思いますが、もう違う枕ではなかなか寝付けなくなってしまって、枕が変わると云々という状況です。しかし今では、エコノミーなホテルでも低反発枕のところがあったり、しかも様々な固さから選べたりもするので、ありがたいばかりです。

それでも出先で居眠りするときなんかには、当たり前のことですが低反発枕などあるわけもなく、自宅外で勉学に励むことが多かった時期などは、居眠りにも快眠をということで、小型の低反発枕を持ち運ぶという奇行(?)に及びさえしました。

大学内のあちこちにある図書館・図書室に出没しては、二時間集中+一〇分仮眠、という組み合わせを一日何セットも繰り返すわけなのですが、低反発枕を持ち運ばないあいだは手枕で、肩が凝ったり腕が痛くなったりしたものです。そこで解決するべく導入されたのがミニサイズの低反発枕、ラグビーボールほどの俵型なのでスポーツ用品向けのバッグにうまく入って、何気なく持ち運ぶことができます。

「それ何?」「枕」「は?」というやりとりは友人間で幾度となくなされましたが、集中しすぎると頭が痛くなったり吐き気がしたりするので(あと息をするのを忘れたりもするので)、短時間の仮眠がなくてはならないのです。集中力を上げすぎて消尽してしまったことによる身体的自爆は、学徒においては気をつけるべき第一のことであります。中学以降、放課まで集中が持続せず午後遅くになると廃人のようにふらふらしていたことはもはや懐かしい思い出ですが、大学生になって自ら時間割をコントロールできるようになってからは、効果的に仮眠を挟めるようになりました。

高校のときも覚醒を偽装しながら仮眠を巧みに織り込んではいて、数学の時間は模範解答のときのみ意識的に起きてあとはスイッチオフ、というわけのわからない技を編み出しましたが、その甲斐あって仮眠による集中のオンオフの切り替えができるようになり、常にフル回転で活動できるようになりました。その結果、大学のあちこちで勉強しては眠る、ということになったわけですが、今にして思うとよく誰にも怒られなかったな、と思います。最終的には普段の活動も含めて明らかな過労になってしまい、反省した現在、持ち運び用の低反発枕は大学のデスクの上に活用されず置かれたままになっています。仕事場でいつでも仮眠できるようになったという変化もありまして。

個人的には、仕事場の折りたたみベッドに低反発マットがほしいな、とTVショッピングを見たりして考えたりするわけですが、快適すぎる仮眠はただの本格的就寝になってしまい眠りすぎてしまうので困りものです。ここにボディピローを加えると、もうどうしようもないですね。眠りすぎて仕事になりません。

抱き枕、などと言ってしまうとサブカルチャーの文脈では、アニメやマンガのキャラを大きくプリントした抱き枕カバーのことになってしまうわけですが、快眠派の私にはなかなか理解しがたいものでもあります。あれは描かれている絵を楽しむのでしょうか。しかし就寝時には電灯を消して目をつむっているわけなので、眠るときに見るというのはなさそうで、じゃあ目をつむったまま妄想するのかと考えてみるものの、だったらカバーなしで想像すればいいじゃないか、と思ってしまうわけで。飾っておくのをよしとするならば、そもそもボディピローである必要がなく、覚醒した状態で抱きしめたり会話したりするとなれば、それは枕じゃなくてぬいぐるみ然としたものなのだな、と推察してみるのですが、いかんせん別の文化であることを感じずにはいられません。近頃では人型の抱きぬいぐるみのようなものがあると聞きます。おそらく就寝時と覚醒時の両用になるのだと思われますが、そこまで行ってしまうとある種の彼岸のようなものなのでしょう。

昔からよく布団を丸めて抱きしめたり、うつ伏せになって枕そのものを抱えたりしていた私にとっては、ボディピローは手と足をどこかに落ち着けるためのものです。寝るための覚悟の現れ、でしょうか。私はもうこれを動かさない、というような。生活しているときは、ペンやキーボードなどを使っていますから、止めるというのは活動をお休みするということなのです。放っておくと、あれこれ考え始めて、何かメモしたくなってしまうので、押さえつけるってことなのですね。

中学〜大学のあいだは睡眠時間が少なかったのですが、今はついつい八時間睡眠をしてしまいます。健康のためでもあるのですが、ちょっともったいない気もしています。

製本かい摘み ましては(63)

四釜裕子

ファッションデザイナーの皆川明さんが、綿やカシミア、ウールなどの天然素材の糸の値段が上がっていることを、〈ファッション商品のデフレ傾向の中においては違和感を覚えるほどだ〉と朝日新聞(2011.1.27夕刊)に書いている。カシミアなどは昨夏の猛暑でカシミヤヤギがずいぶん死んでしまったそうで、加えてヤギの飼育者が減ったこと、また経済の隅々にわたる中国の台頭で日本のファッション業界がよい材料を確保しにくくなっており、〈ものをつくる上で、材料がなくては、ことは始まらない〉というのだ。確かに巷では年々季節を先取りして洋服のセールが行われるようになっているし、あるいは会員限定とか顧客限定とか曖昧なくくりで集められた大勢で特別目当ての服もなくとにかく値引きされたものを物色することが増え、少しでも安く買って当たり前の気分でいる。安いにこしたことはないし服に贅沢の趣味もないけれど、体になじんだ質のいい服をまとうひととすれ違えば、どこかの街角の小さな洋服屋のウィンドウでそんな服に出会って衝動買いしてみたいと思うのだ。

鬼海弘雄さんの新刊写真集『アナトリア』(クレヴィス)は、1994年から15年の間に6度、秋から冬にかけて訪れたアナトリア大地(トルコ)で撮影した140点がおさめられている。「貰った背広を着る少年」と題された写真には、2人のおそらく兄弟が煙草をくわえて誇らし気に背広姿をみせているが、何度も見るうちに彼らの後ろにたたずむ馬がほどよく草を食む姿が気になってきて、誇らし気に見えていた彼らの表情が実はいつまでたってもシャッターをきらない外国人の写真家に「まだ?」という倦んだ気持ちを身体いっぱいに表現しているのではないかと見えてくるからおもしろい。ともかくも鬼海さんがおっしゃる〈美しい顔〉をした人々はみな体になじんだ服を着ていて、おそらくそれは大切に着ているということなのだろう。

『アナトリア』は大きい。縦295×横302ミリ、156ページの函入り上製本で、装丁は間村俊一さん。刊行にあたってスライドを見せながらのトークショーが何度かあった。1994年から続けてきた撮影にくぎりをつけたきっかけのひとつとして、訪ね歩いてきた地域がここ5年くらいで物価が高騰し、〈幸せのかたちが金によって明示され〉、町も人々も変わってきたことをあげていた。パンでもなんでも、日常的に物を作る人がたくさんいる土地は個性があっていい、雑木林のようにそれぞれあればいいのであって、〈いつもなにかと比べていなければならないのはあやうい世界だ〉とも言った。この写真集は9,450円。本の値段としては「高い」と言っていいだろう。だがそもそも、割にあった値段などつけられるはずがない。鬼海さんはこんなようなことを言った、とにかく何度も見て欲しい、引越のときもあぁこれは奮発して買ったから捨てずに置こうと思って欲しい、と。

はじめにひいた皆川さんのエッセイはこんなふうに終わる。〈つくられた背景に人の思いが及ばなくなると、使う人は物を尊ばなくなる。…(略)…もう一度、人の手と気持ちを込めて物をつくる場と、物を大切にする生活のサイクルを取り戻したい。間に合わないかもしれないが、あきらめたくない。〉皆川さんのブランド「ミナ・ペルホネン」のシーズンごとのカタログ「紋黄蝶」も毎回つくりが丁寧で美しく楽しい。2011春夏はデザインに須山悠里さんを迎え、右へ左へとページを交互に開いていく造本だった。開ききったらまた逆に、左、右、左、右と閉じねばならない。ちょっとメンドウ……と思いつつ、〈あきらめたくない〉思いを受けとる。

アジアのごは ん(37)鉄分たっぷり・ほうれん草鍋

森下ヒバリ

いやあ、更年期というのはなかなかです。

人によって違うのだが、なかには気付かぬうちに終わった、という人もいる。うらやましい。更年期障害の症状がいろいろ出始めたのは去年の初め。春から夏にかけてヒステリーや虚無感に悩まされたのを、なんとかタイの薬草ガオクルアでしのいだと思ったら、今度は年末から生理で大量出血。死ぬかと思いました。

ふた月も生理がこないな〜もしや密やかに閉経したのかと思っていたら、いきなり豚のレバーみたいな(すいませんスプラッタな話で)血のかたまりが出て、貧血で倒れそうになった。その後も血と一緒に鶏のレバーぐらいの固まりが二日ほど出て、収束。その三日間は夜もほとんど寝られず、タンポンも役立たず、ふらふらと気配を感じるとトイレに。しかも大寒波でさむいと三重苦・・。

その後、五日間ほど出血がなく過ぎたので、ほっとしているとまた始まった。さすがに今度は豚ではなく鶏肝サイズでやや小さくなっているが、また血の固まりが出る。一週間ほど、また安眠できない日が続く。貧血で顔は真っ白、腕は細くなり、やつれ顔。こういう大量出血は更年期のひとつの症状であるらしいが、いったいいつまで続くのか? このままでは出血多量でやせ衰えて死ぬんじゃないのか・・。

いろいろ調べていると、固まりが出るのは子宮筋腫の疑いがあるとか。でも西洋医学の治療法は造血剤や鉄剤の投与で様子見、ひどいものは手術とかホルモン治療とかであるという。すごく身体に悪そうな治療法。閉経になるとなくなるものではあるらしい。しかし筋腫というのは、良性の腫瘍なのであまり気にすることはなさそうだ。とにかくストレスが一番良くないとのこと。漢方治療とか、生活改善などで直せるという情報もある。

考えたら、この大量出血が不安で、ものすごくストレスを自分で自分に与えている。これはいかん。最近、おざなりになっていた「ゆる体操」を初心に帰って再開する。気持ちいい〜〜とか、ふわ〜〜とか言いながら身体をゆるゆるとゆるめ、揺らす。おなかをなでていると、なんだか子宮が愛おしくなって「よしよし、長いことごくろうさん(使ってないけど)、ありがとう」という気になった。気分がとてもすっきりする。

次の日から固まりが出なくなり、ひと安心。しかし液体の血は出続ける。でも固まりではないので、タンポンが使えるし、いろいろ新発売のナプキンを試して高性能のものを見つけたので、なんとか外出も出来るようになった。貧血もほとんどなくなった。はあ〜。

そしてやっとほぼ終わったと思われる今日で、ほぼ三週間も生理の出血が続いたことになる。な、ながかった。三歳年上の姉が数年前に、生理がなかなか終わらないとこぼしていたのを覚えていたので、そういうものなのかと少し心構えが出来ていてよかった。

これだけ血が出たので、鉄分を補給しなくては。ちょうど、引き売りの有機八百屋さんにおいしそうなほうれん草がたくさんあった。そうだ、簡単で身体も心もあったまるほうれん草の鍋にしよう。この料理は、むかし愛知県の常滑の友達の家に居候しているとき、陶器を焼いているテッペイから教えてもらったものだ。「みじん切りというのはねえ・・こういうのをいうの。君のはザク切りだよ」と怒られたっけ。まだろくに料理が作れなかった頃だ。テッペイが韓国に行ったときに向こうの家庭でごちそうになったものをアレンジしたものらしい。

<焼物師テッペイのたぶん韓国風なほうれん草鍋の作り方>

材料は、ほうれん草2束〜好きなだけ、えのきだけ、豚肉薄切り しょうが にんにく。

鍋に昆布を入れてダシをとる。しょうがとにんにくを2〜3かけずつみじんに刻む。ほうれん草はよく洗って、大きいのは2つに切る。鍋のダシが煮えたらしょうがとにんにくをいれ、醤油で味をつけ少し煮る。ほうれん草とえのき、豚肉を入れて火が通ったら、黒胡椒の荒挽きをたっぷりかける。好みでトウガラシ、すだちやかぼすなどを絞るとさらにいい。

ええ、こんなに?というほどしょうがとにんにくを入れるとおいしい。あくまで極細かいみじん切りね。醤油はダシ醤油でもいい。豚肉はしゃぶしゃぶ用ロース肉が一番だが、まあ薄切りなら何でも。あっという間に火が通るので、お箸とお碗を用意してスタンバイしてから具を入れましょう。煮えたらすぐに食べること。醤油の代わりにナムプラーでもおいしいかと。

ほうれん草の赤い根っこの部分は甘くておいしい。でも砂が隠れていて、うまく取り除けていないと、まさに砂をかむ思いだ。水上勉の「土を喰う日々」(新潮文庫)には、沢山の料理と料理の心を教えてもらったが、この本の中に著者が等持院での小僧時代に水が冷たくて洗うのが大変なので、ほうれん草の根もとの部分を切って捨てていたら、和尚に「いちばん、うまいとこを捨ててしもたらあかんがな」と諭される話が出てくる。

疲れているときには、つい長めに根元を切って、捨ててしまうときもある。あるとき、近所のおからはうすという自然食の店をやっている手塚さんが、「こういうのはねえ、切ってお水に浸しとくと、勝手に出て行くねんで」と教えてくれた。根元のところを切り離し、半分に切って、水に放しておくと、土は水に溶け、砂は下に落ちる。念のため、料理の前にさっと洗うのも根元が開いていて洗いやすい。

すごく簡単な技なのだが、こういう料理上の細かいワザと言うのはじっさいに日々料理していないとなかなか分からない。日々料理していても、頭が固いとなかなか分からない。たとえば、鍋にこびりついたご飯の粒をむりやり洗い落とそうとしても大変だが、水を張ってしばらくおいておけば、するりと落ちる、みたいな。

家庭で親から子へと自然に伝えられることなのだろうが、高校は地元に行かず家を出て賄いつきの下宿生活だったので、家でほとんど料理を手伝うことがなかった。そのまま家は出てしまったし、大人になっても仕事が忙しくてあまり料理はしなかった。料理に真面目に取り組んだのは、新聞社をやめてアジアの旅に出て、タイに住んだりした後のことである。ふらふらしていたのでビンボーだったけれど、おいしいものは食べたい。すると自分でいろいろ作って、精進することになる。友達にごちそうになるときは手伝って教えてもらう。そうやって料理を覚えてきた。

疲れているときや、元気のないときにはほうれん草の根っこをざっくり捨ててもかまわないと思う。土に返したり燃やしたりして、またいつかどこかで地球の上を回りまわっていくだろう。大量に血を流した後、なんだか心がすっきりしているのに気がついた。細かいこともどうでもいいような気がする。もう人生の後半(終盤?)に差し掛かったことを子宮が教えてくれたのかな。でも、ほうれん草鍋のしょうが・にんにくみじん切りは細かく細かく・・なるべくね。