撒水象 ――翠ぬ宝73

藤井貞和

フジー・ゴーサラ(藤井貞和訳)

タカハシ・カズーミ「西暦紀元前六百年頃、耆那(ジナ)大雄と八年間の
苦業をともにした、後世、邪命(じゃみょう)派の始祖と名づけられる、
その人に八終局という思想があります」(『ジャシューモン』三)。
ゴーサラ「最後の飲酒、最後の歌唱、最後の舞踏、最後の誘惑、最後の
旋風と、そこまではわかるんです。 最後の石弾戦もわかります。
最後の撒水象って、何だろうな。 象が鼻で水を撒いたのかもしれません」。
カズーミ「最後の愛による最後の石弾戦は、石が華に変わるとき、
散り敷く華よ、きみに命じるだろう。 ――地底の神が33人を見捨てなかったように、
地上をも見捨てないならば、ちいさなちいさな愛の一つを見捨てずには、
そのちいさなちいさな命を二つ、三つと、餓死から救わないならば、
それが報道されずには、知らされぬままに終わるならば、ここから消されるならば、
天上は最後の撒水で世界を大きな水槽にし終えることだろう、と知れ」。 

(理科部の電導についての発表で、おおぜいを前に、電極を大きな水槽にいれて、電圧をあげてもランプが点かないことを示すと、「水は電気を通さない」と結論づけました。銅線は電気を通す。硝子は電気を通さない。では水は電気を通すか。最初の子どもが器用にやって見せて、「はい、銅線は電気を通します」。つぎの子が、「硝子は電気を通しません」。ゴーサラの番が来て、不器用に何度もやってみせたあと、「このように水は電気を通しません」と結論づけたから、おおぜいがざわつきました。顧問の先生があとから、「その結論でよい」と支持してくれた。しょっちゅう、感電していた昭和20年代で、ぬれた手で電気をさわるなと言われていた時代に、ちょっとした勇気の要る研究発表でした。「撒水象」から思い出した。でもどうつながるのか、よく分からない。粘菌〈?〉の生殖について1ヶ月調べて発表したこともあります。)

鹿児島

仲宗根浩

十月のはじめに鹿児島に行った。コンサートを見るために。
空港から鹿児島中央駅まで直通バスで四十分。むかしの西鹿児島駅は再開発されビルの上に観覧車が乗っかっている。三十年前、熊本駅から急行で四時間かけて西鹿児島駅に着き、駅から出ると確か花時計があったような記憶がある。港からクィーン・コーラルという船に乗り沖縄まで行った。午後六時出港の船は翌朝六時に奄美の名瀬港に着き、一度起こされる。途中の離島に寄港し那覇港に着いた。途中、鮮明に覚えているの与論島の港だった。甲板から見る海は底が見え、魚が泳いでいるのも見える。与論の港はいまもあのままの透明な海だろうか。

そのときは通り過ぎるだけの鹿児島市内だったけど今度は二泊三日。ついてすぐ、空港からバスで鹿児島中央駅前に着き、ホテルにチェックイン。コンサート会場までのバス乗り場を確認後、時間になるとバスでコンサート会場まで移動しライヴを楽しみホテルに戻る。出発する数日前から家族の冷たい視線を振りほどき鹿児島まで来た貧乏旅行。二日目、コンサート以外興味なく、どうせならずっとホテルの一室で朝から二日目の開場時間までうだうだと過ごしたいのだが、お部屋の清掃というものがあるためその間は部屋を出るしかない。近くのコンビニで朝食を仕入れ、川沿いの公園で食べる。大久保利通の像がでかく立っている。別の場所には幕末の薩英戦争を説明するパネルや島津斉彬のパネルやら。それを見ていたら立川談志師匠の江戸っ子の定義、維新のときに佐幕か勤皇のどちらにつくか、というのを思い出した。パネルに書かれているのは勝者の歴史だけ。

去年、沖縄の新聞では薩摩の侵攻から四百年、明治の琉球処分から百三十年、という記事がいくつか出ていた。特別に被害者、敗者のことを声高に言うほうじゃないけれどパネルを見ていると変な感じがした。勝ったものは勝ったもので、負けたものは負けたものでそれぞれ歴史を観光の道具にする。

それでも芋焼酎はしっかり飲み、今は黒を売りにしていることがわかる。

ある秋の日に ―― K・S へ

くぼたのぞみ

一日のいちばん澄んだ時間に
きみの詩を読む
いまにも泣き出しそうな
曇天の朝がいい
きみの詩にはいつも
全方位から風が吹いて
びゅうびゅう寒いこと寒いこと
だから
きみの詩集をひもとく窓辺は
無風の朝がいい

熱帯雨林や
砂漠が登場しても
期待される暑熱はない
なぜだろう
トロピカルという語が
極地を思わせる白さだ
風は
断片となったモノの内部から
烈しく吹きさらし
星の鱗まで剝がしていく

あらかじめ熱を奪われ
炎のように荒れる
見えない海を見つめるきみは
(そしてわたしは)
やがて なにものかの欠片となって
眼球の表から彷徨い出し
幻視する 
あたうるかぎり
分け
分けられた
粒子 原子 壊れた単位の 
それを
この世のしずく 
しぶき あわ 飛沫 うたかた
などと
口中でころがしてみても
どれもこれも嘘くさく

宙吊りの曇天の下
行と行のすきまに
スタンザとスタンザのあいまに
時空の具体を超え
消音の響きを想起させる
きみの強靭な意思と髑髏のような姿が
それでも
脱ぎ捨てられない懐かしさに
生きることの空へむかって
慟哭の赤い尾を引く

犬狼詩集

管啓次郎

  17

教室でふたこぶらくだが眠っている
泉を欠き空調機がうなる人工の空間で
トィックトィックと足音を立てながら
アスファルトの回廊を歩いてゆく夢を見ている
かれらのキャラバンサライはいくつかの
地平線を後退したところにある
それからかれらは夢の砂漠で
道案内のいない隊列を進めてゆくだろう
交易圏が拡大し
固有の信仰が意味をなさなくなり
共同体がその基盤を失い
デフレーションが貨幣経済を動揺させても
若いふたこぶらくだの群れは日々の進行を自明のものとして
肉体にも精神にも負荷を与えることなく
どこまでもつづく隊列の夢を見ているだけ
月を読まず、星を知らず、言葉もなく

  18

この教室が森になればいい
あまりに濃密な葉叢が昼を暗くし
気温を低くし脳と筋肉を発熱させる
獣や虫たちの生気に空気がビリビリと震える
この教室は沙漠になるべきだ
遠い視界が紫の山々をゆらし
サボテンのおばけ群衆が国境にむかって歩く
雨雲はかれらにとってくろぐろとした希望
この教室には渓谷であってほしい
河川の水量の変化にしたがって
流れの経路は歴史的に変化し
植生は差異の河原で栄枯盛衰をくりかえす
この教室は海岸に変わってくれ
打ち寄せる波にヒトは反復の意味を学ぶ
水平線を見ながら航海術の必要を自覚する明日
船出の背後にあるのはこのterra firmaへの絶望

アルビル・ピースマラソンと臓器移植

さとうまき

僕が、アルビルにいるときに、「ピースマラソンなる行事があるので、走りませんか」とのお誘いを部下からいただいた。大概のお誘いには好奇心から応じるようにしているが、マラソンは考える余地もなく、「いやー。そもそも、走っているだけで、苦しい思いをしてて、全然ピースな思いもしないだろう」

先日も、イラクのドクターたちとサッカーをして、しんどかったが、チームの一員として協力できた充実感は、とてもピースな気分になれた。が、どう考えても、マラソンは、拷問のようで、ピースなイメージはない。

結局、日本代表としてうちの事務所からは、ケイコとタケノリが走ることになった。応援に行くと、300人くらい集まっている。外国人は20ドル登録料を払うのだが、収益がクルドのNGOへ寄付されるという仕組み。クルド人のNGO職員がイタリアでチャリティマラソンに感化されやってみようということらしい。

日本人が参加するのが珍しいのか、イラクやアラブ諸国のTVがたくさん取材に来て、タケノリに取材が集中。まるでスター選手のような扱い。

みんなおそろいのTシャツを着て走る。よく見ると、「臓器移植のために走ろう」と書いてあり、肝臓をキャラクターにした漫画も描かれている。このマラソン、臓器移植のための資金集めらしい。臓器移植は、貧しい子どもが臓器を売ったり、特にイラクでは、アメリカ兵が、イラク人を拷問死させ、新鮮な臓器を取り出し、移植用に売買していたとの噂があったりと、賛否がわかれる。
タケノリに聞くと
「え!そんな話、聞いていませんよ?」
「Tシャツに書いてあるよ」
「わあ、本当だ。知らなかった」

マラソンの順位で臓器の健康度が測られ値段がつけられる? その場で倒れ、死んじゃったら、臓器がとられる? なんとも恐ろしいマラソン!

企画したのは、イタリア人。ニコラスさんによると、
「私たちのゴールは、世界の人たちが、特に若い人たちがスポーツをとおして、共感しともらえればいい。私は3回目のイラク訪問ですが、こういったイベントを通して、イラクが彼らのうちにある分裂を乗り越え、早く、政府を形成するよう願います」という。

クルド側の主催者は、非暴力協会。マラソンを通して、暴力を乗り越えようという趣旨らしく、臓器移植の話はよくわからない。

さて、実際のマラソンのほうは男子は10km、女子は5kmということで、ケイコは、16位。「イヤー死ぬかと思いました」と倒れこんだ。他にも倒れこんでいた人が数名いたが、死者は出ず、タケノリも、かなりおくれてのゴールで完走。
「何とか皆さんの期待にこたえられたのではないかと思います。〈僕の走りが〉平和につながることを期待します」という立派なコメント。

途中でリタイヤしかけた人も、車でゴール前まで運んでもらうなど、とても和やかでピースなマラソンだった。その後、臓器をとられたという話もきかない。どうもTシャツは別のイベントであまったものが寄付されたらしい。来年はバグダッドを目指そうともりあがっている。

アジアのごはん(36)肉骨茶をめぐる八角物語

森下ヒバリ

マレーシアのクアラルンプールに行ってきた。マレーシアはじつに十年ぶり。クアラルンプール在住十七年のヒロカワ氏が車で空港に迎えに来てくれる。「今回は、肉骨茶(バクテー)研修旅行だからね。肉骨茶の聖地とか、有名店とか、チャイナタウンの店とか色々案内するからね」と、車の中でヒロカワ氏。

ちょうど、共通の友人が日本とバンコクから遊びに来るのに合わせて、わたしと連れもタイからクアラルンプールにやって来たのだが、日本から来る友人ミントちゃんは、先日ヒロカワ氏が日本に一時帰国した際にお土産でもらった「肉骨茶の素」で作った肉骨茶がすっかり気に入り、仲間内で「肉骨茶同好会」なるものまで出来上がっているほどの入れ込みようである。もちろん、ヒロカワ氏自身が大の肉骨茶好きでその仕掛け人だ。「毎日、肉骨茶ぁ? 肉骨茶は好きじゃないから、不参加ね。一回ぐらいは食べてもいいけど〜」じつはヒバリもお土産で「肉骨茶の素」をたくさんもらったが、匂いをかいですぐに友人にあげてしまっていた。「え、ええ〜」

さて「肉骨茶」とはいったい何なのか? 肉骨茶は、バクテー(Bakkut teh)と読む。中国の華南地方、潮洲の言葉でバッが豚で、クが骨、テーは茶。(潮洲は福建省の広東寄りの地方である。マレーシアには中国からの移民、華人が多く、そのほとんどを華南の広東省と福建省の出身者、民族的には広東人、潮洲人、客家人、海南人などで占める)肉骨茶とは、つまり骨付き豚バラ肉(スペアリブ)のスパイス煮込みである。スパイスは八角、クローブ、シナモンなどいわゆる中華の五香粉の味をイメージしていただくといい。

スペアリブやホルモンをこのスパイスとニンニク、甘みのある中国醤油で柔らかくなるまで煮込み、湯葉、戻した干しシイタケ、白菜などを加える。出来上がりに、カリカリに揚げた湯葉や、緑のシャキシャキしたレタスを鍋の上にトッピングしたり、中華揚げパンの油条をちぎっていれたりしてもいい。中国茶を飲みながらごはんと食べる。

ルーツは潮洲料理だが、肉体労働者として連れてこられた中国人苦力の朝ごはんとしてマレーシアの中華社会で独自に発展・定着した。大鍋でぐつぐつ煮たものを小鍋に分けてもらい、米の飯にかけて掻き込むのが本来の食べ方である。いまや、屋台だけでなく専門のレストランまであり、朝だけでなく夕食にも鍋料理ふうにして食べるほど人気だ。

ヒロカワ氏の案内で出かけた店は、肉骨茶専門店で、ガイドブックにも乗っている有名店であった。どうせならもっと通な店にしてほしいなあ、と思いながらも肉骨茶以外のメニューもたくさん注文する。

大きな土鍋で出てきた肉骨茶からは、かすかに漢方の香りが漂う。じつはわたしはこの漢方スパイスの八角が、ダメなのである。この店の味付けはあまり八角が多くなく、思わず口から吐き出す、という事態には至らなかったのは幸いであった。一緒に食べている人が吐いたりしたら、同席している人はさすがにいい気分はしないであろう。ヒバリはこの八角というスパイスをうっかり口に入れると、体が拒否反応を起して、げろりと口から出したり、激しく吐いたりしてしまう。匂いをかいだだけで、もぁ〜んと気分が悪くなる。これは、好き嫌いの問題ではなく、アレルギー反応なのである。

八角は、スターアニス、または大ウイキョウとも呼ばれる。モクレン科の樹木の果実を乾燥させたものである。東南アジア原産で、他の地域では育たない。中国では古から愛されたスパイスで、豚肉やカモ肉の煮込み、甘い料理、お茶やコーヒーに加えたりもする。星型の可愛らしい形で、甘い香りがある。

アロマテラピーの本を読んでいたら、スターアニスは、食欲増進、健胃、吐き気を抑える、利尿作用などの作用を持ち、消化器系によいスパイスではあるが、神経系を刺激しやすく、アレルギー体質の人の使用は避けるようにとの注釈がついていた。なるほど、八角自体がアレルギー源ではなく、神経系を刺激するという性質なのか。

アレルギー体質で、食物では大豆、乳製品、ある種の酵母、ナッツ、小麦胚芽などなどに拒否反応を起こし、花粉症、ぜんそくもある身としては、八角は避けるべきスパイスであるが、身体の方が先にちゃんと避けてしまう。乳製品などの食べ物のほうは、ある程度食べて気分が悪くなるとかの症状が出るまで、身体は拒否しないことのほうが多いので、やっかいである。

八角味が薄そうなので、どんな味かと肉片を一つ食べてみた。う〜む、ふつう。シイタケと白菜を食べてみた。う〜む、ふつう。まあ、ヒバリはこれから一生、肉骨茶を食べなくても生きていけます。甘めの味付けがあまり好みではないのかな。いや、むしろもっとすごくおいしい店に連れて行かれていたら、アレルギーに苦しみながらも肉骨茶のトリコになったりしても困るから、こういうふつうな味のレベルの店でよかったのかも。

後日、肉骨茶の発祥の地といわれるクランという場所で食べた肉骨茶をミントちゃんはほめていたので、美味しい肉骨茶はちゃんと存在する、らしい。

華人の多いタイにも、八角風味の煮込み料理がある。タイの中華社会は潮洲人が圧倒的に多い。肉骨茶とまったく同じものはタイ中華にはないが、同じような味の料理はある。カイパローという豚バラ肉とゆで卵と厚揚げのスパイス煮込みである。カイパローは中華の枠を超えて、タイ人にも愛される庶民料理だ。一皿料理にしてもいいが、ごはんの上にかけて食べてもいい。あとはアヒル肉の煮込み。その煮込みを乗せたごはん、カオ・ナー・ペット。どれも味つけはかなり八角風味の強い漢方スパイス・甘い中国醤油味だ。

肉骨茶研修ツアーには参加しなかったが、夜はみんなでごはんを食べた。ビールを飲んでまったりするには、お酒の飲める中華系のレストランや屋台がいい。
「ねえ、クアラルンプールの中華ってけっこうおいしいと思わへん?」同じくマレーシア十年ぶりの連れに聞く。「ほんまやね。タイの中華よりおいしいぐらいかも」クアラルンプールの屋台で食べる中華の麺や料理は、各地域の中華料理のルーツを保ちつつ、本土よりずっとおいしいのである。レストランにしても然り。

十年前まではビザの書き換えなどでよくタイからマレーシアに来てはいたが、マレーシアなのだからマレー料理を食べなくては、と思い込んでいたフシがある。だが、どうにもマレー料理になじめなかった。料理に興味の持てない国からは、自然と足が遠のく。

今回クアラルンプールに来て、料理を通してマレーシアの華人社会にやっと目が向いた。人口の25%を占める華人。その華人の出自には四種類ある。英国植民地時代にスズ鉱山や港湾労働者として連れてこられた、貧困層や農民出身の華人であるククット(苦力)系をルーツとする華人。彼らはほとんど奴隷のように扱われたという。中国籍を保ちつつ貿易や商売をした華僑の、子孫の華人。そして植民地時代に英国籍を持ち支配階層として君臨した富裕な貿易商の子孫であるプラナカン系華人。さらに植民地時代の後、共産党中国から逃げて移住してきた華人たち。

肉骨茶とは、ククット系華人の育てた汗の匂いのするソウルフードだったのである。植民地という時代を経てマレーシアの華人社会は独特の成り立ちがあった。チャイナタウンは同じような顔をしているが、潮洲人中心でタイとの同化も進んでいるタイの華人社会とは中身がまったく違っていたのだ。

ゲストハウスの華人の女主人は四十代で若々しく、9999ナンバー(ベンツと同じくらい高価)の白いベンツを乗り回し、ナイトクラブも経営する実業家であった。親の代からお金持ちだったのかと尋ねると「父親は金持ちだけど、十人も奥さんがいる男で、一銭もお金はくれなかった。すべて自分で築き上げたわ」と笑いとばした。クアラルンプールにはまだまだ華人パワー健在であります。

季節も早いもので

大野晋

まず、最初に。都響の2011年楽季のスケジュールを見ていたら、定期公演の欄にしもた屋の杉山さんのお名前を見つけた。2012年1月の演奏会なので、鬼が笑うどころか、鬼が寝込むかもしれない話題なのだが、レギュラー演奏会である定期での指揮を楽しみにしたいと思う。曲目はブーレーズらしい。

さて、今年は夏の暑さが長引いたせいか、なかなか、秋になってからの季節の移り変わりが早いように感じている。それに輪をかけて忙しく、このごろは行方不明、消息不明状態になっていることも珍しくない。疲れ果てているか、眠っているか、咳き込んでいるかというのが最近の毎日のようにも感じるが、ゴールも見えて来たようで、来年の夏には家の建て替えが終わりそうだ。構想1年というか、交渉1年。いやはや、自分の思いを伝える仕事をして初めて知る、伝える苦労である。きちんとできあがればいいが、果たしてどうなるか? まだ、8か月も残っている。

そろそろ、日本も北海道辺りでは雪の便りも聞こえ出した。今年は遅くまで暖かく、寒暖の差が少なかったからと、紅葉の具合にはすでに諦め気味である。今年と言えば、サンマがなかなか南下せず、ホタテガイの養殖が不調なのだそうだ。ただし、こういう暑い年はぶどう酒用のブドウはなかなかに糖度が高い傾向があるので、来年早々から出回る国産のヌーボーの味は期待できそうな気がする。しかも、松茸は豊作なのだそうだ。(そうだ、食べに行こう)

うーん。あっという間に秋も後半戦だ。こういうときこそ、体調を崩さないようにお体に気を付けてくださいね。

ふんどし校長へのオマージュ

冨岡三智

川村たかし(故)著の児童文学『ふんどし校長』(1974年)をご存知だろうか。いまどき――と言っても1970年代のことだけれど――ふんどし姿でプールに現れる校長先生の話が、ひよわな男の子の視点を通して描かれる。確か、こんな話だった。実はストーリーについては全然覚えていなくて、ネットでこの本の書評を検索しているうちに、思い出してきた次第。しかし、私にとっては、この主人公の男の子の設定や物語の展開は実はどうでも良いことで、ふんどし校長の存在こそがなによりも重要だった。というのも、このふんどし校長のモデルは、実は私の大おじなのである。

その大おじが10月20日に亡くなった。享年94歳。長田(おさだ)先生といったその人は、若い時から校長という職業が本当に似つかわしい人だった。私が小学校に入学したときの校長がこの大おじで、大おじは、自分の住んでいる地域に久しぶりに転任してきたときに、親戚の子(私)がそこに入学したというので、ずいぶん可愛がってくれた。

ふんどし姿でプールに現れるというのは本当の話で、夏のプールの時間に、突然校長先生がその恰好で現れることがあった。ふんどしというものを生で見たことがない子供たちは、その姿を生で見ただけで大騒ぎする。そこに、校長先生がプールの中に入っていって仁王立ちとなり、子供たちにその股下を潜ってみろ!と挑発したりするものだから、子供たちは嬉々として挑戦する。そんな風に子供に体当たりして、子供の気持ちをぐっとつかむ先生で、”熱中先生〜校長編〜”を地で行くような人だった。

通夜と葬式の会場の一隅には、古い家族アルバムが展示されていたのだが、そこには学校での生活の写真が多く貼られている。児童が糠ぞうきんで一斉に廊下を拭いている様子、校庭で体操をしている様子、歴史の授業中の様子、児童が味噌玉を丸めている様子…。おそらく戦前か戦後間もなくのものだろう。構図がうまいから、写真家が撮影したように見えるのだが、あるいは、大おじの写真の腕前は玄人はだしだったのだろうか。風俗写真としても貴重なものに違いない。そこには、町中の知識人として尊敬されていた、古き良き時代の教師のまなざしが写し出されている。

母が小さい頃、この大おじは同じ地区に住んでいた他の先生たちと3人で、毎週土曜の夜に通称「クラブ」というのを開いて、勉強の場を設けていたらしい。子供たちは自主学習し、分からない点を先生たちがそれぞれ教えてくれるというシステムで、勉強の遅れがちな田舎の子供たちの学力を上げるために先生たちがボランティアで教えていたそうだ。それ以外にもキャンプなどの活動もあり、校長先生のボーイスカウト活動の人脈を生かして他地域の子供たちと交流をしていたらしい。そんな活動の一環だろうか、児童たちの演劇発表会の写真などもアルバムに収められている。

そういう先生としての写真以外に、ちょっと硬派だったらしい男子学生の面目躍如という写真もある。大おじは高校生の頃にカメラを入手したのか、その頃に級友を撮った、あるいは撮ってもらった写真が多い。級友(男ばっかり!)を10人以上も写していて、それぞれにあだ名が書き込んである。また「吾輩」というタイトルの下に、撮影者の級友の名前(全部違う)を記して、自分は何かになりきってポーズをつけた写真が並んでいる…。こんなナルシストの一面があったとは! それに、川で級友たちとふんどし姿で撮った写真が多い。ふんどし校長のルーツはここにあったのだ!引き締まった肉体で、やっぱり恰好良い。

この大おじの夫婦は、毎年写真館に行って家族写真を撮ることにしていた。アルバムには、良き父、良き母、良き二男一女の子供たちが、一張羅を着て、お澄ましした顔で並んでいる。遺影の写真も、そんな家族写真のうちの一つから撮られている。それは今から50年くらい前の写真なので、大おじはえらく若すぎる顔で笑っている。ふんどし校長の時代よりもっと前の写真だ。けれど、そんなに違和感がない。イメージの中の校長先生は、いつもこんな顔で笑っていた。それに、たぶん昔から老成した顔だったのだ。

この校長先生は、母親を早くに亡くし、父親も師範学校を出る頃に亡くし、さらに肋膜炎にもかかり、出征していた間に継母が新妻(先妻)を実家に返してしまい…と恵まれないことも多かったのだと母は言うが、そんなことはみじんも感じさせず、私の頭の中でも、このアルバムの中でも笑顔で写っている。同居していた娘も今年学校を定年退職し、孫娘ともども介護してくれたそうだ。そしてその子供、つまり校長先生のひ孫も今年高校1年になる。校長先生は満を持して逝ったのかもしれない。友達に恵まれ、児童に恵まれ、子孫に恵まれて、ふんどし校長の名前を残して…。

しもた屋之噺(107)

杉山洋一

不思議なものです。前にこのカヴァレリッツァ劇場でオペラをやってから、もう4年の月日が流れたとはにわかには信じられません。今は演出稽古と衣装、照明の確認のための通し稽古の間の2時間の休憩中。そろそろ日が暮れてくる目の前の赤壁の前をゆきかう家族連れや学生をながめながら、原稿を書いています。

今日は土曜日。唯一の休日だった昨日をミラノと家族で過ごし、朝一番の急行でレッジョ・エミリアに戻ってくると、遠足にでかけるらしい幼稚園児なのか、新小学生なのか、スモッグをきた子供たちが列を組んで観光バスに乗り込んで、沿道の通行人に笑顔で手を振っていました。
いつも思うのだけれど、この街は不思議な空気が流れています。大学生が溢れ、若者のエネルギーが見ているのだけれど、混沌としたところがなく、道路の枯葉もきれいに掃かれ、誰もがもくもくと自分に与えられた仕事をこなしているのです。
劇場で働く誰もが、ほとんど4年前と変わらず、ヴァッリ劇場の受付の色黒の明るい中年女性も、カヴァレリッツァ劇場の受付のひとたち、舞台の裏方まで、本当にまるで時間がもとに戻ったかのように、3年前のちょうど今頃、サー二のオペラをやったときのままです。ただ、練習しているオペラが違って、演出家が違い、歌手が違い、今回は劇場俳優も3人いて、休み時間には彼らが長い台詞をつぶやきながら、舞台を歩いて静かに稽古をしています。

チョムスキーの提唱する言語学の説明から経済学へと議題は発展し、ネオ・リベラリズム、グロバリゼーションのディベートにまでスタジオでのTVショー形式で発展し、最後は関係者全員が舞台に下りて、自分たちの自由を叫ぶのです。目に見えないマスメディアやコマーシャリズム、正義のための戦争によるわれわれの自由の破壊を超えて、最後は誰もが同じ平等な立場で、自由を叫ぶ。そういうプランを演出のフランチェスコ・ミケーリは情熱的に説明しました。

小さな細胞のようなフレーズを無限にフラクタルに拡大してゆくカザーレの音楽は、樹木をさかさまにしたようなチョムスキーの文章の分析作業をそのまま音に移し変えたようで面白く、売れっ子エンターテイナー,クリスティーナ・ザバッロー二の歌も、めまぐるしく変わる声色を自在に変えて、それは見事はものです。

毎日カザーレと昼食をともにしながら、本当にずいぶんたくさんの話をしました、そんな中で、ひょんなことから、彼と92年、シエナのキジアーナ夏期講習で一緒だったことを知りました。彼はその頃ちょうど作曲をやめていたころで、ペトラッキのコントラバスの講習を受けにシエナにきていたのです。
その少し前、彼はとあるシチリアの高名な作曲の教師のもとで作曲を学び始めたところでした。はじめ、レッスンに出かけると、その教師はまず彼の父親が職業を聞いたそうです。林業だというと、そりゃ駄目だな、と首を振ったということです。

初めに提示された10万リラのレッスン代は払えないというと、仕方がない半額の5万リラでいいと言われたそうですが、彼は同時に別の部屋で二人の生徒にレッスンをしていたそうです。こちらの生徒に課題を出して隣の部屋で同じことをいい、またこちらの部屋に戻ってきて5万リラ。その上、書いてよいものは制限された古典的なスタイルだけでした。
少しモダンな作風で書いてゆくと、こんなものは100年早いと怒鳴られるありさまで、ついに怒り心頭に達して、宿題の作曲に4小節ほど「死と乙女」の2楽章をそっくり引用してみたところ、案の定、なんだこれは、と怒鳴られて全て直されたことが切っ掛けで、作曲が馬鹿馬鹿しくなってやめてしまったというわけでした。

それから暫くして、先述のぺトラッキの夏期講習に参加し、ときどきドナトーニの作曲のクラスに遊びに来ていたのです。そのとき作品を見せたドナトーニが、エマヌエレの作曲の才能を見出して勇気付けたのが、彼の作曲家への道を開いたのです。
「悪い教師に習うくらいなら、独学のほうがよほど身になる。教わって作曲できなくなるよりは、教わらなくて作曲できるほうが余程ましじゃないか」。彼は繰り返して言いました。
「だから、パレルモの音楽院で作曲を教えるようになったとき、生徒が作曲できるようになる手助けをしたいと思ったのさ」。

ですから、話を聞く限り、彼の作曲の授業の様子はなかなか興味深いもので、まず手始めに、自分の弾ける楽器を持ち寄って、とにかく集団で即興演奏を繰り返します。
そうしながら、生徒はまずアフリカの民族音楽などを手本に、さまざまなリズムを勉強する。無限に変化し続けるリズム、フレーズで戻るリズム、2拍子系、3拍子系のポリリズムをかなり複雑なところまで学んで、リズムだけを作曲するのが1年目。つぎに、楽器や音色を電子音楽の基礎やスペクトルなどと共に学んで、1年目に作ったリズムに音高を当てはめてゆくのだそうです。同時にさまざまな作曲家のスタイルを分析しつ勉強していきます。

ドナトーニやブーレーズ、ベリオ、シャリーノ、クセナキスのような世代から、フェデーレなど中堅の世代まで、できるだけ多くのエクリチュールに馴れて、自分で真似して書けるようになってから、自分の作品の作曲に入るのだそうです。
これは恐らくエマヌエレが実践したプロセスだったに違いありませんが、まずリズムから入るというのが面白く、実用的な気がします。
彼がロベルト・ファッビと一緒に書いたトーク・オペラ「チョムスキーとの会話」の台本は次のとおりです。 →  台本を読む

3人の俳優、1人の歌手、小オーケストラとヴィデオのための「チョムスキーとの会話」は、最後に10秒ほど実際のチョムスキーの近影がヴィデオで投影され途切れるところで幕となります。
ノーグローバルの激しいデモの印象くらいしかなかった自分には、考えさせられることの多い経験でした。何が正しいかという判断は自分には出来ないとしても、事実の片鱗程度は頭に留めておきたいとも思うのです。

(10月6日レッジョ・エミリアにて、29日ミラノにて)
追伸: カザーレと長年一緒に勉強しているロクルトの2作品が11月3日東京の入野賞30周年記念演奏会で演奏されます。ロクルトはこの機会に東京を訪れるのを愉しみにしています。
http://www.youtube.com/watch?v=8jD9emxncRo

ちんけな男

植松眞人

『ちんけ』という言葉がある。辞書を引くともともと賭博用語で「最低」とある。つまり、『ちんけな男』と言えば、最低な男という意味になる。それに語感からのイメージからなのか「小者」的な印象も与えられる言葉である。

とまあ、意味を調べれば調べるほど、『ちんけな男』という貶し言葉は、かなりの威力を秘めた言葉だということがわかる。どうしても馬の合わない男同士の喧嘩や、場合によってはヤクザ者同士の喧嘩にだって登場しそうなくらいに毒を含んだ言葉だということに異論はないでしょう。ありますか? きっとないはずです。あれば言ってください。

さて、ここにこの最大級とも言える貶し言葉を面と向かって吐かれた男がいます。はい、僕でございます。吐いた相手は嫁。高校三年生、十七歳から付き合い始めて今年で三十一年目。結婚してから二十一年目を迎えた同い年の嫁がつい先日の夜中に、酔っぱらって私に言った言葉が「ちんけな男!」という言葉である。

聞き間違いではない。酔っぱらい特有の語尾がわかりにくい言い方であったなら、「ちんけ」ではなくもう少しエロス方面の言葉を言ったのかもしれん、という疑いも頭をもたげるが、それはない。そう確信できるほどに、はっきりくっきりおっしゃったわけである。「ちんけな男!」と。

確かに、ここ数年。リーマンショック以降、嫁には苦労のかけ通し。不景気の大打撃を受けている広告制作の個人事務所の金銭的な苦労もすべて嫁に背負わせ、「作ることと金の計算を一緒に出来ると思っておるのか」などと立場も考えずに言ったこともある。

しかし、しかしである。これまでに「ちんけ」という単語が彼女の口から出るのを聞いたことがない。口癖のように言っているならともかく、聞いたことのない言葉が、パーティで酒を飲み、いつもは酒に強く酔っぱらったりしない嫁が、どうしたことが悪酔いしてしまい、夜遅くに帰ってきて吐いた言葉が「ちんけ」である。

さて、ここで僕は考えるのである。嫁はずっと「ちんけな男」という評価を僕に下していて、ついに酔った勢いで言ってしまったのだろうか。それとも、本当に心にもない言葉を酔った勢いで言ってしまったのだろうか。

数日後、何食わぬ顔で「酒に酔ったときの言葉が本音だというのは本当なんだろうかね」と話をふってみたのだが、「そうとも言い切れないんじゃないの」と明るい笑顔で答える嫁。これではらちが明かない、というので、さらに訊いてみた。「いやいや実は君は僕に向かって『ちんけな男』と言ったのだよ」と。すると答えは「あの日のパーティであった誰かのことだと思うよ」の一言で終了。

それからほぼ二週間経っているのだが、一日に二度は「ちんけ」という言葉が思い浮かんでくる。そして、だんだんとその言葉に飲まれそうな気がして、奮起しなければと思ったり。
さては、これが嫁の戦略だったのか、と思うと、恐ろしくて夜も眠れない。

掠れ書き (6)小倉朗のこと2

高橋悠治

小倉朗の初期「ピアノ・ソナチネ」は1937年で、フランスの同時代、新古典主義の音楽の感覚に近かった。瞬間の知覚が古典的な形式の枠のなかに入れられている。これが音楽の同時代様式だったのだろうか。新しい響きと古い枠組みは、シェーンベルクでもバルトークでも共存していた。モダニズムは、自発的な響きのあそびという散乱に耐えられず、統合された構造の家に収容された。

1940年代、戦時下での孤立と戦後数年の交通の回復のあいだは、排他的な民族主義に加担したくなければ、残されていたのは古典への逃避だった。小倉朗の場合、それはドイツ・オーストリア古典音楽の模写になる。粋な響きだけでなく、持続への意志をささえる論理をみつけようとする試みだったとも言える。反時代的な方向が、その時代をやりすごす道となった。

作曲の技術なしには音楽は作れないが、音楽を作らなければ、技術はまなべない。模写をくりかえして身につける技術は他人のもの、ちがう時代、ちがう文化のもので、それを身につけた後に捨てなければ、いま心のなかで響いている音楽をかたちにはできないだろう。

作曲は分析でもなく、ことばによる解釈や批判ともちがう、音をうごかし、定着し、またうごかしていく作業で、その作用は外からは見えないが、そうだからと言って「達人の技」と神秘化するまでもない。一つの音に他の音が組み合わされ、一つの響きが別の響きに変化する、そういう流れが続いていくように心を配り、そのことに集中している時間が作曲と呼ばれるだけだ。音楽はただ時間のそって流れ去るのではない。流れのどこかに循環する回路がひらき、創るとは、すでに作られたものを作り直し、作り変える、つまりそれ自身のパロディーでもあるような関係の網がその内部にはりめぐらされたとき、音楽としての意味をもちはじめる。それらの関係が更新されている限り、音楽は停まらない。音楽はそれをその場で創りつづけている行為のあらわれである響きとなってきこえるが、行為の軌跡が作品として残されても、その分析から見える姿から、それを創った心のはたらきはこぼれ落ちていく。

小倉朗の世代の音楽家たちは、戦後ふたたびひらかれた世界のなかで、やっと同時代の音楽的課題にもどることができた。古典は記憶のなかの面影となり、はじめて現代史と対話する音楽が生まれるはずだった。加藤周一は「音楽の思想」(1972)のなかで、小倉朗の音楽を「形になった感情」と呼ぶ。戦時下の非合理な情念にさからって古典的な論理を構築した同世代の共感があったのだろう。だが、次の世代がすでに迫っていた。音楽をはじめたばかりで戦争によって中断された世代は、戦後出発した世代との感性の落差を埋めることができなかった。

加藤周一が「形になった感情」に対して「身体になった感情」と呼ぶのは武満の音楽だが、後から来た世代の音楽的感情は、これほど理解しがたいものだったのか。戦時下を耐えた古典的な論理は、もうその役割を終えて、共感をさまたげる壁となったのだろうか。

だが、戦後の解放された感覚にふさわしい音楽のかたち、断片をその散乱と逸脱のままつなぎとめる音楽的行為のネットワークは、まだ意識にはのぼって来なかった。前衛的な試みも、考えだされた規則に従って、切り離された構成要素を記号のように操作することに尽きる。音は音符であり、独立して空間のどこかに浮かんでいるオブジェのようにあつかわれていた。これはかたちを変えた古典主義ではないだろうか。「形になる」のでもなく「身体になる」のでもない、視線によって変貌するかたち、知的操作ではなく、身体的共鳴によって循環する変化を創る作曲の方法はすでにあるのだろうか。まだないとするなら、その徴を、書きとめた断片の集積のなかにさがしあてられるだろうか。未完成の建物、あるいは崩れかけている廃墟、進行中のノート、音の身振り、どこかに向けられるまなざし、一瞬の翳りが見え隠れする、隙間だらけの空間。

演奏によって死んだかたちをふたたび生かすのは、まだやさしい。再現や解釈ではなく、と言って、まったくの即興でもなく、反復でもなく、循環しながら即興的に変化し、伝承されたかたちを崩しながら、卵の殻からちがう運動を呼び覚ます、そんな演奏のありかたを思い描くことはできなくはない。響きが消えるまでの短い時間のなかに生きる音楽にとっては、演奏こそが本来のありかたで、作曲は補足的なもの、演奏への指示と結果の記録が、その分を越えて、それだけが創造であるようにふるまっているのだとも言える。

音楽の変化が現場からはじまるとすれば、それは歴史的身体の必要に応じて変化するだろうし、指示や記録方法の不適切は、後になって気づくこと、つまり作曲法の変化は、演奏の場の変化にいつも遅れて起こることになる。20世紀音楽史は、そうしてみれば転倒しているのではないか。それなら、そこに登場する作曲家や作品をエリート主義としてかたづけられるのか。ポップミュージックまで視野をひろげてみれば、実験とそのデザイン的な応用との相互作用は、コマーシャリズムや音楽ビジネスというだけではなく、表層文化の両輪が噛み合いながら回っていく。この音楽装置のなかで、相対的に自律できる場があるのか、そんな可能性は思い込みでしかないのか。

1950年代の小倉朗は、後になって「なぜモーツァルトを書かないか」(1984)のなかで「音の流れが進みながら、句読の和音(ドミナント)に向って盛り上がり切り立っていくその波頭や、砕けて散るしぶきの中に、あたかも夜光虫の光のように光を放つ感情」と要約されているような古典主義にたどりついた。それから日本語のリズムと抑揚に注目し、それも研究というよりは、じっさいにわずかな音をうごかしながらメロディーを作曲し、そのなかで発見していくプロセスだった。「日本の耳」(1977)は、その経験を書いている。

音楽的感情は、音楽の輪郭となるもの、それ(ら)は、分析の結果あらわれる構成要素や、計算された配列のように、分離され、定義され、操作されるというよりは、うごく音の全体として共有される。音楽が響くとき、さまざまな感じかたのちがいを包みこみながら、だれのものでもない空間がひらく。ちがうことを感じながら自由に歩き回れる場で、音そのもののあらわれから位相を移しながら、ちがいをそのままに人びとの心を通わせる通気口になる。それが音楽のもつ強さとしなやかさと言えないだろうか。

小倉朗が作曲から離れていこうとしていた頃に書いた「竹」(1977)という文章の一節、「だが、そうして竹の枝がほとんど露わになったある朝、竹全体が不思議なうす緑の光につつまれているのを見る」、竹の葉が枯れて飛び離れていった後に萌え出た若葉が逆光を浴びている瞬間、そこにそれぞれの意志と方向をもって飛び交う音を包む場の予感が感じられたのだろうか。

僕が猫を飼うまでの道のり

植松眞人

わが家にはアメリカンショートヘアのオス猫がいる。名前はマロン。由緒正しき血統書付きで、血統書に書いてある名前は、ルネ・マルソー・マロン。マロンという名は、うちの娘、当時11歳が付けたものなので、血統書上で彼の父母から受け継いでいる名前はルネ・マルソーである。フランス人か?

と、名前はなかなかに大仰なわが家のマロン君だが、もともと僕は猫が好きではない。というか、家の中に人間以外のほ乳類がいる、とどうも落ち着かない。爪や牙をもった動物がいると、「いつ痛い目にあうのか」と心配になってしまう。つまり……。つまり? そう、つまりは犬や猫が恐いのだ。だから、ずっと犬も猫も飼わずに生きてきたのである。

ところが、子どもというのはなぜか犬や猫が大好きなのだ。理由なんてなんにもなく、ただただ毛むくじゃらのものが大好きなのだ。案の定、小学校に上がった頃から、娘は「犬が飼いたい」「ネコが飼いたい」と言い出した。そのつど、「いかん、犬は散歩が大変だ」「だめだ、猫は家の中が毛だらけになる」と決して「恐い」とは言わずに回避してきたのであった。

しかし、4年前の春。この時の娘の「猫飼いたい病」はかなりの重傷で、食事の量も減ってしまうほどのものであった。そこまでか?それほどまでなのか?と思いながらも、「じゃあ、飼っていい」とは言えない。だって、恐いんだから。だけども、それほど言われて平然としていられるほど、気丈な僕でもない。娘に嫌われたらどうするの? という別の不安も頭をもたげてくる。

ということで、とある猫のブリーダーのお宅にお邪魔して、ひとまず仔猫を見るだけ見てみよう、ということになった。行ってみた。全身茶色の毛で覆われたアメリカンショートヘアの男の子がいた。見た瞬間に娘が「栗色だからマロン!」と名前を付けた。僕は恐いからじっとしている。もちろん、恐いとは言わずに。すると、猫というのはじっとしている人が好きなのである。ソファで緊張しながら座っている僕の腹の上にマロンがよたよたと登ってきて、ニャア、と鳴くのだ。僕の目をじっと見ながら、ニャア、と鳴くのだ。どうする? どうするよ? と僕が僕を問い詰める。どうするつもりだよ。ニャアって言われてるよ、つぶらな瞳で!

だけども、僕はえらかった。即決しない。一時の気の迷いで動物を飼うということがあってはならない。今すぐにでも連れて帰りたいとごねる娘をなだめすかして、ひとまず退散。途中、用事があったので銀座に立ち寄り、たまたま近くにあったベトナム料理の店で夕食をとることになった。
食事中、ずっとネコを飼うかどうかの家族会議が開催されていた。猫を飼うことでどんなに生活が楽しくなるか。猫を飼うことでどんなに邪魔くさい用事が増えるか。猫の人生を預かるということがどんなに重いことか。だけど、どうして仔猫はあんなにもかわいいのか。様々なことが話し合われたが、結局結論は出なかった。娘は頭を垂れ、息子は鼻をたれ、僕は仔猫の可愛さを認めながらも、恐さ故にいまだブーたれていた。犬、猫に対する怖さと、子どもたちが喜ぶ顔を天秤にかけると、天秤がぐらぐらと揺れている。

どうしようかと、ほとほと困りながら、ベトナム料理を食べ終わり、会計をする。ベトナム料理はすこぶるうまかった。また来るかもしれない、と僕は会計を担当してくれたスタッフに、「この店の名前、ベトナムの言葉で僕には読めないんだけど、なんて読むんですか?」と聞いてみた。すると、そのスタッフは答えた。「ベトナムの家、という意味のベトナムの言葉なんですが、読み方は『ニャー・ベトナム』と言うんです」。え?なんですって?「ニャー・ベトナムです」。そうですか。ニャーですか。ニャアですね。そうです。ニャーです。

かくして、猫のマロンがわが家へ来ることが銀座のベトナム料理店のレジの前で決定したのである。

子守歌の神謡――翠ぬ宝72

藤井貞和

サダリ・フジイック

イフムケ・カムイ・ユカラ
私のかわいい赤ちゃん!
何がお前に魅入ったというのか
横座に行き 手をつき よもや私は
ぐっすりと眠ろうと思わぬ 二人して
いまはミイラ化する屍より
ふたたび起きあがるのはユカラ
鬼の母と週刊誌は語る

(手がうごいてメモを取りながら、朝起きて出所のわからなくなることがある。前回に書いた「世相」と、明らかにモチーフの連続がある。私の作品ではないはず。9月8〜13日、エストニア国タリンで、「日本文学から立ち上げる批評理論」会議と、ラウリ・キツニックがエストニア語訳『あかちゃんの復しゅう』を前日までに完成させて、それの朗読会と。これも赤ちゃんつながり――)

水牛ポロネーズ

藤山敦子

1984年高校生3年生だった私たちは体育の時間、創作体操でショパンの『軍隊ポロネーズ』の曲に倒立前転や開脚後転、静止ポーズなどを組みあわせてひとりずつ発表しなければなりませんでした。体育館からは数ヶ月にわたりポロネーズがながれつづけ「水牛」というあだ名の体育教諭はサイトのロゴとおなじ色の口紅をしっかりひいて容姿はその名をうかがわせ、きゅるきゅるとカセットテープを何度も巻き戻していました。「軍隊ポロネーズ」がきこえると体操と紅い水牛をおもいだします。

教室で、国立大学のお兄さんとおつきあいのあるお友だちのひとりは「水牛通信」をちらりとみせながら、数年あとで知った「ペダンティック」ということばの感じをもってきどり、私は「Olive」(マガジンハウス刊)をかかえ悠治さんや榛名さんについてあれこれときいていました。

ひと学期に2、3回予告なく行われる登校時の校門検査では、水牛(先生)が生活指導係としての任務を全うしていました。かばんからはみでる「流行通信」やサイズの大きくなった「Olive」、LPレコードなど授業に関係のないものはいったん没収されました。が「水牛通信」は教科書のあいだにおさまっていたとおもわれます。

ショパンと水牛…悠治さん…まわしよみの『長電話』は卒業式までにまわってこなかった、そんな年でした。
先生は着任から退職までその名でよばれたそうです。

しもた屋之噺 (106)

杉山洋一

秋空はどうしてこうも変わりやすいのでしょう。つい先ほどまで青空がさしていたかと思うと、突然稲妻が光って、1時間もしないうちに文字通りの集中豪雨でミラノの幹線道路がすっかり冠水して交通が麻痺することが、立て続けに何度かあって、一度は半地下の寝室もすっかり水浸しになったほどです。

ドナトーニの長男ロベルトとコーヒーをはさんで、その昔フランコが蒐集していた数多くの帽子の話になりました。
「あの帽子ね。365個、ちょうど1年の日数の同じだけあったんだ」。
体型や骨格など、フランコにとても似ているロベルトは、いつもどこかはにかんだ微笑を湛えていて、話し方など、アイルランド貴族の娘だったスージーを思わせるところがあります。言葉と言葉の合間に、形容しがたい不思議な甲高い長母音を挟み語調を整えるのが特徴で、そうでなければ、言葉がつまってしまうか、どもってしまいそうな印象をあたえます。アトピーのようなアレルギーなのか、顔の半分ほどがすっかり赤くなっているのが痛々しく見えました。

「365個の帽子は、実はどれもフランコのための同じサイズでね。一つとして被れるものがなかったのさ。365個の帽子があれば、365もの別の人格になりすますことができる。フランコは多重人格に憬れていたから」
「ペッソアの詩を愛読していたものね」。
「自分をさらけだすのが恥ずかしかったんだろう。あの大量の帽子は、フランコが大事に集めたものだから捨てるのも忍びなくて、当初は次男のレナートの納屋にしまっていたのだけれど、彼がミラノからトスカーナに引越すとき、そこも引き払ってしまったものだから、結局暫くうちの地下に段ボール詰めにされてしまっておいた」。

長くフランコが暮らしたランブラーテのアパートに住んでいるロベルトが、こうして目の前の食卓でコーヒーをすすっていると、思わずフランコの姿と重なります。飾り気もなく、いつもきちんと整頓された10年前までの食卓と違って、今は色身も増してすっかり雑然として、彼女の娘と3人で暮らすロベルトの部屋は、アイルランド人のスージーの部屋を思い出させます。

「ある大雨に降られた翌日、地下に降りると、なにやら太いホースが階段の下まで伸びていて、何かと思ったのだけれど。よく聞いてみると、雨に降られて、地下には1メートル以上水が溜まって、ポンプで汲み上げていたというわけなのさ。帽子も黴にまみれてね。結局棄てるしかなかった」。
フランコもスージーも外国語は決して得意ではなかったというのに、ロベルトは中学を出るころには、英語やフランス語はもちろんのこと、アラビア語やイディッシュ語の本を原語で読めるようになっていました。

「当時はね、たとえ母親が外国人でも、バイリンガル教育が悪だと信じられていたから、家でもスージーは下手なイタリア語しか話さなかった。夏にはアイルランドに出掛けたりしていたけれど、特に教えてもらったこともなかったし、結局自分で本で覚えたのさ。とにかく本が好きでね、原語で読んでみたいとおもうようになって、自然に外国語も読めるようになった。話すのは苦手だけれど」。
相槌を打ちながら、無意識にフランコやスージーがいつも本を読んでいた姿を思い出していました。

「アラビア文学やらユダヤ文学やら妙なものに凝っている息子をみて、ベネチア・ビエンナーレに有名な民族音楽学者の友達が来るからとフランコが紹介してくれて。彼からサンスクリットを勉強したらどうかと勧められたのがサンスクリット文学との馴れ初めさ。
サンスクリット語は、コンピュータ言語に似ていてね。インド人が飛びぬけて数学的思考に長けているのと無関係じゃないだろう。スクリプトを覚えるとコンピュータにのめりこむ、あの感覚に近かったんじゃないかな。なにより、サンスクリット文学が面白くてね。
リグ・ヴェーダに全く異本が存在せず、何千年も完全な形で口伝されてきたなんて、想像を絶する事実じゃないか。意味を伝える言語ではなく、規則を伝える人工的な”超(メタ)”言語でこそ可能だった奇跡なんだ」。

生業まで極めたサンスクリット語への情熱を口にして、初めて彼が饒舌なのを知りましたが、ロベルトからサンスクリットの厳格な韻律の話を聞きながら、その昔フランコがバッハの対位法について、同じランブラーテのアパートの部屋で、情熱的に話していたのを思い出しました。

   * * *

東京からミラノに戻ってドナトーニを悼むビエンナーレの新作を仕上げ、11月に初演する尾形亀之助によるマドリガルを書き溜めています。日本語をテキストに使うのは高校生の習作以来で、当初は無理だとほぼ諦めていましたが、先方からの要望もあって書き始めてみると、思いのほか愉しく書き進められています。日本語で曲を書くという先入観に、必要以上に囚われていたのかもしれませんし、その昔、これでは日本の声楽曲の伝統に沿っていないと言われたことが引っ掛っていたのかもしれません。

傷口に塩を刷りこむような作業ですから、自作を譜読みするのは本当に苦痛で、12月に東京で再演する合唱曲も、漸く粗読みを始めたところです。ただ、声楽曲を書きつつ、過去の声楽作品を読返すことで見えてくるものも当然あって、この数年で吹切れたものがあることもわかります。15年ほど巡った挙句初めの場所に戻ってきたような、もしくは当初と似て非なる場所に辿り着いたような感慨を覚えるのです。

再演する合唱曲を読んでいると、当時深い闇の奥に捨置きかけていた何かを、力ずくで取り戻そうともがく、歪んだ純粋と言うのか、全うな不純と呼ぶべきものか、単なる不細工なのか、かかる恥部を受容しないことには先に進めなくて、思わず溜息を漏らさずにはいられませんでした。

めっきり日没も早くなり、今こうして庭から夜空を見上げると、紅葉し始めた樹の向こうに広がる闇も、じんわり深みが増した気がします。今週末からカザーレのオペラのため暫く滞在するレッジョ・エミリアから戻る頃には、或いは濃い乳白色のミラノの朝霧も立ち昇っているかも知れません。

(9月22日 ミラノにて)

犬狼詩集

管啓次郎

  15

川がしだいに急流になっていた、季節が変わるほどだった
私たちが知らないうちにここはもう岩の世界
やまめやさくらますが住んでいる
川を逆のぼることは時間を遡上することだときみはいったが
変だな、きみには、死者には
もう時間など用がないじゃないか
いまではきみは水の女、冷たくほとばしるこの形を欠いた
水流以外にきみが肌の表現をもたなくなるとは
卑劣なスキャンダルだ
個人的な幸福という観念をきみは何よりも嫌った
ぼくはそれ以外に山林や幽谷の
価値をほんとうには知らない
倒木に住む虫たちの生におけるparadigmaticな選択
虫たちの生命とおなじだけはかないのが人の生
さあ、やりなおそう、この強い水に足を濡らして
よろこびこそ生命における最大の批評なのだから

  16

ほんとうに暗い夜は見たことがない
必ず光があるものだ、何かが発光する
星々と獣の目、電線と蛾の鱗翅
落葉の輪郭と泥の上の足跡
獣の尾と人の指先とばらまかれた琥珀の粒
こんな光の群れにみちびかれるままに
夜をひとりあるいはふたりで横切ってゆこう
探すのは夜の勇気
「勇気とはいやなものだ、あまり立派な感情ではない
それはいくらかの怒りと虚栄心と
大いなる強情さと俗悪なスポーツ的快感の混合物」
とサン=テグジュペリが語っていた
でも許してくれアントワン、勇気がいかに愚行に近くても
きみが見たパタゴニアの夜空は私には窺い知れないよ
ただここで地上の小さな雷雲を踏みながら
届かない明け方の勇気への旅を試みるだけ

夏と秋がこんがらがって

仲宗根浩

暑くなったり、涼しくなったりで鼻水が止まらない。仕事場はクーラーがギンギンに効いたところから外へと出たり、入ったり。すると寒さ暑さが体の中で入り乱れる。二つめの台風が過ぎた頃から、夜中近く車を走らせてもクーラーを入れずに窓全開にすればしのげるが、日が出ているうちはクーラーないと無理。アイドリング・ストップなんてもってのほか。夕方の西日は容赦ない。西側の水道管から出る水は相変わらずお湯。週間の天気予報見れば、最高気温三十度、最低気温二十五度が並ぶだけ。風が少し涼しくなったので八月、よりは少しはましだが、家の中では上半身裸族。休みの日に夕方から泡盛を飲んでいりゃ、鼻水も出てくる。蒸留酒は体を冷やす酒らしい。毎晩、ロックで島酒ではなおさら冷えるはあたりまえ。仕事場でもらったバンシルー(グァバ)、齧ると熟したピンクの実、皮の苦味、実の酸味、歯の間に挟まる種。今どきの子供はこんな面倒くさい果物は食べようとしない。

久しぶりの何も予定がない二連休に聴かずにたまっていたCDをパソコンに入れる。一時期、ちゃんとプレイヤーで聴こうと思っていたけど、段々とそれも面倒くさくなり、ハードディスクの容量も充分にあるのでどんどんパソコンにで聴くのに後戻りした。アレサ・フランクリンとキング・カーティスのフィルモア・ウェストでのライヴの完全盤が日本盤として再発されたので(四、五年前に限定で発売されて即完売)これを入れて聴く。三日間のセット・リストを曲ごとに並べ、日ごとに少しづつ変わる同じ曲をチェックしようと思ったが、気合が入った時にあらためて、と断念し、一月に亡くなったテディ・ペンターグラス(ドリフターズ世代であればヒゲダンスの音楽でそのリフは刷り込まれている)のフィラデルフィア時代のソロ・アルバムがリマスタリング、紙ジャケで出たのをはじめ、フィラデルフィアものがどんどん出るので、ペンターグラス以後出たCDを取り込み、次には10ccの片割れ、ゴドレイ&クレームの紙ジャケ。そしたら、ヴァン・ダイク・パークスの三年前に出た紙ジャケもあった。そんなこんなしていたら二日間の休みは酒と音楽と惰眠で終わる。配信音源主流の中で盤が売れないのをいいことに紙ジャケ、限定、最新リマスタリング、という三つでおやじ連中を狙い撃ちするレーベルばかりで、それにほいほい乗っかる、受験生をかかえた世帯主。国勢調査は記入済み。

そろそろと分類のことなど

大野晋

とにかく、うちにあるCDの全貌が把握できなくなってから随分と経つ。並べて置くことができないので、仕方なく、積み重ねたがいいがそれでもタワーがいくつもできて、しようがないので奥の方から箱に入れてしまい込んだ。しまい込んだはいいが、今度はどこに入ったか分からない。そんな箱がいくつもできると、終にはどこに何があるのか分からないお手上げの状態になる。実は本も似たような状態なのだが、これはまた別の機会に。

そこで、この状況を打開すべく、そして、わが寝床を確保すべく、いろいろと画策しているのだが、おかげでこの夏は特別に暑く、特別に何もできないことになってしまった。この状況はまだしばらく続きそうなのだが、できれば数ヶ月先には解消できればいいと淡い希望を抱いている。

しまい込んだ箱を開けることを考えると、その中身を分類することを考える必要がある。クラシックにとどまらず、雑多な音源が詰まっているので、それをどのように広げるかは一大問題だ。そこで、音楽の分類について考えてみた。

音楽を分類するとき、どのように考えるべきなのか? クラシック、ポップス、ジャズなどとジャンル別に分けるだけで十分だろうか?たとえば、バーンスタインのウェストサイド・ストーリーはどの分野に分けるべきなのか? スタジオ録音とサントラを同じ分類でいいのか? ガーシュインは? 若きティルソン・トーマスが指揮をしたサラ・ボーンのライブ録音はジャズなのだろうか? それともクラシックなのか? ピアノのスワニーはジャズに分類するとして、では、ラプソディ・イン・ブルーはどう分類しようか? そんなことを考えていると、実はカテゴリー分けなんて実にいい加減なものであることに思い当たる。さてさて、どうして分類してくれようか?

音楽の提供形態なんていうのはどうだろうか? コンサート、劇(映画)音楽、録音(CD)などというのはどうだろう? でも、私のCDの有効な分類方法ではなさそうな気がするけど。

演奏スタイルというのは? ソロ、少人数、多人数なんていう分類も面白い。なるほど、これに音楽のスタイルを組み合わせると面白い分類ができそうだ。

たとえば、ショパンのピアノのソロコンサートは、「コンサート+ピアノ・ソロ+クラシカル」。スターウォーズの映画の音楽は、「映画音楽+多人数(オーケストラ)+クラシカル」といった具合である。ただし、ハリウッドボールでの、メータ指揮のコンサート形式の演奏会は「コンサート+多人数(オーケストラ)+クラシカル」になるのか? ロイヤルフィルの演奏したクイーンのオーケストラ編曲集などは「CD+多人数(オーケストラ)+ロック」?

実は、こんな話を考えるきっかけになったのは、毎度、名曲コンサートになってしまう弱小プロオーケストラのプログラムについて考えていたこともひとつある。「コンサート+多人数(オーケストラ)」なら、後ろのジャンルはどうとでもできるだろう。たとえゲームに付随してできた音楽でもオーケストラ編成に編曲され、コンサート形式に整えられているのなら、別段、定期演奏会にかかってもおかしくない。むしろ、聞く機会の少なくなった名曲よりも、頻繁に聞く機会のあるゲームやドラマ、映画の音楽の方が若者たちには訴求できるのではないだろうか?

ま。なんとなく、狭い殻に閉じ篭っている感じをならなかったのだ。ベルリオーズの幻想とエクソシストのチューブラーベルズが一緒にプログラムに並んでも、伊福部のゴジラと春の祭典が一緒に並んでも、いいんじゃないかな?

というようなことを考えていると、意外と我々の考える音楽ジャンルなんていい加減なものに思えてきた。いい加減なら、CDもこのままでいいか。。。いや、いかん! いかん! すでに重複チェックもできなくなって同じCDが何枚もある状態なのだから、なんとか、脱却せねば。

さて、皆さんのCDはどんな感じで並んでいますか? ちなみに、うちのiPodはぎっしりといっぱいに、これもまた雑然と詰まっています。あれ? いずこも変わらず?

心のスクリーンにうつす映画

若松恵子

「ミステリ・マガジン」(早川書房)の10月号から、片岡義男さんの連載小説「さらば、俺たちの拳銃」がスタートした。

「1960年代東京を舞台に、ニューフェイスの俳優コンビの活躍を描く。本文中には実在の映画、音楽、人物、場所そして架空のそれらが夢とも現実ともつかず立ち現れる。今後、主人公たちは、映画と現実、双方の事件に巻き込まれ、入れ子構造で謎が展開していく」。スタートに当っての、この紹介文を読んで、とてもうれしい気持ちになった。

2009年12月から2010年5月まで、5回にわたって片岡さんに1960年代についての話を聞き、この「水牛のように」に掲載していただいた。60年代に青年だった片岡さんが語るエピソードと共に、その時代を記憶しなおしてみたいというのがインタビューをお願いした動機だった。片岡さんの60年代を散歩してみたいと「片岡義男さんを歩く」というタイトルにしたのだった。”片岡さんこそ1960年代を語るにふさわしい”という思い込みを持って始めたインタビューだったけれど、つかみきれないまま終わってしまった。

「さらば、俺たちの拳銃」という小説によって1960年代が描かれ、しかもヨシオという人物も登場することを知って、うれしさはさらに深まった。片岡さんはやはり、小説によって描くことを選んだのだ。しかも実在の映画、音楽、人物、場所なども織り交ぜながら、「映画という虚構」と現実が入れ子構造になる予定という。「そうでなくっちゃ!片岡さん」と思った。

時代を懐かしく振りかえることや、まして意味づけることなどには一切の興味を持たない片岡さんだったが、「具体的な細かい話を順番に追っていくとおもしろいかもしれないね、日めくりのように」と始めたインタビューで、「ここに来る途中、考えていたのです。1960年の今日、1月18日は何をしていたかな、と」というわくわくするような言葉で始まった回があった。そして、1960年の1月、片岡さんは大学に行ったのだった。映画のなかで赤木圭一郎が着ていたようなオーバーを着て。

「さらば、俺たちの拳銃」の第2回、赤木圭一郎をイメージした主人公ケニーは、銀座の街をずっと歩いている。かろうじて思い浮かべることができる赤木圭一郎の面影を主人公に重ねて読み進んでいく。私が歩いてみたかった片岡さんの60年代が、言葉によって、心のスクリーンに映し出されていく。

観月の夕べ

冨岡三智

今年もジャワ舞踊の公演を、だんじり祭りで有名な岸和田の岸城(きしき)神社で行った。今年の中秋の名月は9月22日だが、満月は23日ということで、23日の公演となる。今回も私の独断と偏見に満ちた感想をメモしておきたい。

第2回ジャワ舞踊&影絵奉納公演「観月の夕べ」
日時■ 2010年9月23日(木・祝)
場所■ 大阪府岸和田市 岸城神社(雨天の場合は社殿)
内容■
ワヤン(影絵):ハナジョス、西田有里
ジャワ舞踊ジョグジャカルタ様式:佐久間ウィヤンタリ、佐久間新、ジャワ舞踊リンタン・シシッ
ジャワ舞踊スラカルタ様式:冨岡三智
主催■ 岸城神社、ジャワ舞踊の会
共催■ 特定非営利活動法人 ラヂオきしわだ
後援■ 在大阪インドネシア共和国総領事館、岸和田市教育委員会、岸和田文化事業協会

昨年は落語の物語の中でジャワ舞踊が展開するという構成にして、新しい物語を作ってもらったのだが、今年はハナジョスが新しく構成した影絵「スマントリとスコスロノ」に、舞踊を挟み込むという構成にしてみた。当初は影絵は影絵、舞踊は舞踊で別に上演しようと考えていたのだが、ハナジョスの提案でそういうことになる。もっともこの物語に合うような既存のジャワ伝統舞踊はないので、場面の雰囲気に合いそうな舞踊を当てはめることにする。舞踊は佐久間さん夫妻と2人の舞踊教室の方々、それに私。

公演は神社の境内ですることになっていた。社殿への階段の上がり口に影絵のスクリーンを立てて、社殿の奥に向かって影絵を上演し、舞踊は社殿前の庭、影絵スクリーンの前で上演し、観客には舞踊の場を取り囲んで半円形に座ってもらおうと思っていた。しかし、9月23日といえば、前日までの猛暑日が嘘のように大雨となった日で、大阪南部には竜巻注意報まで出ていた。結局、断念して社殿内で上演する。

社殿内では野外のように配置するのは不可能なので、踊り手は拝殿の檀上で踊り、影絵はその下、石畳の上に設置した。この際に、ダラン(人形遣い兼語り)や伴奏する音楽家が観客側にくるようにセッティングしたのだが、「影絵と言うのに、なんで影の側から見ないの?という声があった。言われてみればそうなのだが、ジャワで長く生活した者には、これはちょっとした盲点である。ジャワでは影絵は本来、祖先の霊に対して上演するもので、祖先霊たちは影の方から、人間は人形の側から見る。ジャワではそれが当たり前なので、影絵を上演するときに、スクリーンを壁にくっつけてしまって、はなから影など出来ない、ということも少なくない。

今回は影の裏あたりに少し空間が空いてたので、ゴロゴロという、物語が脱線して途中休憩のようになる場面で、一部の観客がこちら側に座りに来ていた。私も「裏から見るときれいですよ」と言われて裏に見に行って、確かにきれい…と感心した。影絵人形の精巧な透かし彫りが、影絵の側からだととてもきれいに見える。実のところ、私自身もジャワで影の側から見ることはほとんどなかったのだが、やっぱり影の側を見せてもきれいだなあ、静謐な感じがするなあと改めて教えられた。けれど、これは日本で、しかも神社の中で見たからそう思っただけなのかもしれない。そういえば、今日は満月というだけではなく、お彼岸の日だし…。人形遣いや演奏者がいる側にいると、ジャワでは演者同士の下世話な掛け合いがいやでも目に入ってくるので、こんなしみじみとした感じにはなりにくいなあ。

その影絵の上演は、ダラン(人形遣い兼語り)のローフィットさんと、彼とユニットを組む佐々木さん、プラス西田さんという、なんともミニマルな編成である。本当にそれで手が足りるのか?と思ったが、みな八面六臂の活躍で複数の楽器を担当していて、意外に人数の少なさを感じさせなかった。ジャワ留学していた頃は、ガムラン音楽や舞踊はともかく、ワヤンだけは日本でできまいと思っていたが、こんなやり方もあったのだなあと感心する。

ジャワではワヤンは一晩上演するが、今回はワヤン部分だけで1時間、舞踊をはめ込んで2時間半の上演である。ゴロゴロではローフィットさんは日本語を交えたものの、あとはずっとジャワ語の語りである。しかも、このスマントリとスコスロノは軽いノリのお話ではないので、正直どこまで楽しんでもらえたのか不安だったのだが、それなりにジャワの雰囲気は味わってもらえたようである。

さて、佐久間さん夫妻の舞踊は「ブクサン・スリカンディ・ビスモ」。女性の舞踊スリカンディが、敵方の高潔の士、ビスモを倒すマハーバーラタの一シーンを描いている。このシーンはワヤンオラン舞踊劇では人気がある演目なのだが、スラカルタではウィレン(2人による闘いの舞踊)形式にアレンジされたものがない気がする。師匠からも、そういう演目があったと聞いたことがない。ビスモなしの、スリカンディの単独舞踊として振付けられた作品(ルトノ・パムディヨ)はあるのだけれど…。私が今まで見たワヤン・オランではビスモというと小太りのおじさんが演じていることが多かったので、細身のビスモというのがなんだか新鮮だ。やっぱり細い人の方が高潔の士に見えるなあ。

で、私は自分の作った作品「妙寂アスモロドノ・エリンエリン」を生演奏で上演した。これはスコスロノが亡くなるシーンに当てたのだが、もともとこれは亡くなった人を忍ぶ曲として留学中に作ったもの。マルトパングラウィットというジャワを代表する作曲家の曲なのだが、この曲を聞いたとたん、この舞踊のテーマが思い浮かんだのだった。後から聞けば、マルトパングラウィットもまた、誰か亡くなった人のためにその曲を作ったらしい。私は全然そのことを知らなかったのだが、ジャワで上演したときに、何人もの人がそう教えてくれた。そういう曲趣だし、またこれは他の舞踊曲と違って、もともとフル編成ではなくガドン(室内楽的小編成)の曲を想定して振付けたので、3人ガムランでも演奏できて効果もあるだろうと思って、生演奏にする。私が踊っているときに、ナンマイダブ・ナンマイダブ…とお祈りしていたおばあさんがいたよと言ってくれた人がいたが、本当だろうか…。

というわけで、今年の観月の夕べも無事終わり、ほっとしている。この公演を境に一気に秋になりましたね…。

製本かい摘みましては(63)

四釜裕子

1605年にストラスブールで世界最古の新聞「レラツィオン」を創刊したヨハン・カルロスというひとは、製本職人をしながらその副業として新聞を作ったそうである(2010.9.17 朝日新聞)。最初は手書きだったがまもなく活版で刷るようになり、週に一度の郵便配達に合わせて木曜日に刊行する。そのアイデアを誰かに横取りされては困ると、市の参事会に請願した日付入りの文書が見つかったというのだ。請願はもちろん却下。これまで最古の新聞創刊年は1609年とされてきた定説をくつがえす史料が見つかりました、というのが記事のメインだが、その人が製本職人であったこと、そしてその副業ではじめましたというのがよほど気になる。ただしそれ以上の情報はないようで、人物像は謎のまま。

日本に洋式製本がもたらされたのは、A.パターソンの来日による明治6(1873)年とされている。だがそれ以前に、日本人の職人が行ったと思われる洋装本があるらしい(岡本幸治「『独々涅烏斯草木譜』原本は江戸期の洋式製本か?」『早稲田大学図書館紀要』45号、1998年、pp.24-42)。図書館の依頼で『独々涅烏斯草木譜』を修復した岡本さんの緻密な分析によるもので、布の裏打ちの仕方や角の折り方、刷毛の塗り跡を見つけては、和装本の高い技術を持つ人によるものではないかと推理が進むようすがすばらしい。さかのぼって、日本に冊子本がもたらされたのは9世紀初め、中国から空海が持ち帰った『三十帖冊子』が最初である。昨年夏、京都府教育委員会がその修復を発表したが、これでまた推理が重なり、新たな事実が示されるのだろう。このことについて書物学の小川靖彦さんは、”正式な形態”とされていた巻子本から”ノート的”な冊子本へ装丁法が移行するころの、貴重な資料が得られるだろうとブログ「万葉集と古代の巻物」に書いている。中国にはもっと古くから冊子本があったのだが、書写・製作年代がはっきりしている最古の冊子本が『三十帖冊子』だからという。

小川靖彦さんの『万葉集 隠された歴史のメッセージ』(角川選書)には「書物」としての『万葉集』の見方も描かれていて、ブログと合わせて興味深い。原本を失った『万葉集』のどの写本・刊本もまたそれぞれ一部の「書物」であることを、古写本のそれぞれの特徴を解説しながら明らかにしてくれる。そして小川さんが推理した原本はおよそ想像を絶するものだ。これを朗々と読み上げるとは超絶スペシャル劇場のいかんばかりか! 『万葉集』の古写本の多くは、料紙1枚づつを二つ折りして折り目の外側を糊付けして重ね合わせる「粘葉装(でっちょうそう)」だそうである。ほかに、尼崎本は料紙を数枚重ねて二つ折りしたものを幾折か糸で綴じる「綴葉装(てっちょうそう)」、西本願寺本は表紙の右端に綴じ穴を空けて糸で結ぶ「大和綴(結び綴じともいう)」と、綴じだけ見てもいろいろある。文字の使い方や組み方、紙の種類や装飾、墨の濃淡に筆の運び方など、かたちを変えながら中身をつないできた『万葉集』の1200年を思うと、このあとの1200年がさほど気の遠いものでなくなる。

今春から刊行がはじまった林望さんの『謹訳源氏物語』は、表紙まわりの装丁も林さんがなさっている。〈本書は「コデックス装」という新しい造本法を採用しました。背表紙のある通常の製本法とはことなり、どのページもきれいに開いて読みやすく、平安朝から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という古式床しい装訂法を彷彿とさせる糸綴じの製本です。〉と記してあって、そのことがまた話題になっている。ぱっと見たところ、通常の機械による糸綴じだし、背がむき出しなのは『食うものは食われる夜』(蜂飼耳著 思潮社 菊地信義装丁)など前例があるし、なにより、「コデックス装」というのはネーミングなんだろなと思ってもどうにもピンとこない。でもこの装丁で注目すべきは実はそんな文言ではありません。背丁がないのだ。丁合とるのが、あるいは検品が、さぞや手間ではなかろうか。そのための作業の工夫が、現場にはあるんでないかな。

オトメンと指を差されて(28)

大久保ゆう

私にとっては、スイーツとメルヘンは近しいものです。

甘いモノみたいに、突然食べたくなったりします。〈足りない足りない今私のなかで××分が足りてない〉という強烈な意識というか欲求に襲われて、我慢できなくなってしまうわけで。といっても、読むだけではどっちかというと食べるよりながめるだけ。どれを食べよっかな、と物色しているだけ(あるいは味見しているだけ)なのです。訳すことでメルヘンを深く味わうという感じかな?

といっても、わざわざ童話でも民話でも説話でもフェアリーテイルでもなく〈メルヘン〉と呼んでいるのは、先に挙げたどれとも自分の想定しているものと一致しないから、でもあるのです。子どもだけのものでなく、昔からだけのものでもなく、妖精に限らず。何かこう、まず短くて、それでいて別の世界の何かを伝えてくれるもの、でしょうか。

Maere=伝えてくれるもの、chen=ささやかな、という言葉の組み合わせが、いちばん自分のなかでしっくり来ています。だからというか、この言葉があるから当たり前でもあるのですが、ドイツのメルヘンは絶品ですよね。代表的なもので行くと、グリムやエンデなんかがありますが。

それに、私のなかではカフカだってメルヘンだし、アメリカのラヴクラフトの作品だってメルヘンです。あとはSFのアジモフにもメルヘンがあると思いますし、そうそう、この定義で行くと半七捕物帳もメルヘンですね。もちろん絵本は最高のメルヘンですよ!

それに美味しそうな作家があれば、書かれた言語が何であろうと、どうでもいいのです。前にも書きましたが、どんな言葉でも訳そうと思えば頑張って訳せるのです、私は魔法学者ですから。実際大した障害ではありません。(ただ食べるのにはかなりの時間がかかるので、それまでに色々と慎重なプロセスがあったりします。)

また、作品や作家だけじゃなくて、言語を単位として〈食べたい〉って思うこともあります。それは個別のお菓子やパティシエじゃなくて、ぼんやりとチョコが食べたいシュークリームが食べたい、なんていうのがあるような感じと似ているでしょうか。

ふと、「スウェーデン語が訳したい!」とか「インドネシア語が、インドネシア語が!」とか「ギヴ・ミー・アルメニア!」とか、そういう気持ちになることがあるんですよね。何というかさほどの脈絡もなく、突如として。そうすると辞書とテキストを探して、とりあえず味見してみて、考えてみます。

しかし辞書はたいてい手にはいるのですが、テキストの方がなかなか難しいんです。マイナーな言語であればあるほど、今の世のなかでも作品の原典を手に入れるのは面倒になります。少なくとも国内ではほとんど無理ですし、インターネットで海外発送を取り扱ってくれる現地の書店を探さないといけません。ときには国内の代理店を通して発注したり、個人輸入のスキルがどんどん上がっていく一方ですが、場合によってはあまりのハードルの高さに、別の言語でまとめられた本で我慢することもしばしば。それでも今はかなりいい叢書もあるので、楽しむ分にはいいんですが。

でも、こういうとき役に立つのが古書取引の国際的ポータルサイト。どの国の書店とも同じシステムや形式でやりとりできるし、支払もだいたい共通していて、場合によっては新品で買うよりも安くて。洋古書の探索に特化した業者もありますし、そこを経由して手に入れることもあります。いずれにしても労力を使うことは間違いないけれど、かなり手間が省けます。

こういうときに感じるのは、世界は依然として流通・通信において障害があるっていうことです。言葉とか文化とかの差よりも、物理的なアクセスに問題ありで。だからアクセスが解放されるとか、自由になるとか、どんなものであれそのひとつひとつが、ものすごく大きな意味をもっていて。アクセスさえどうにかなれば、あとは本人たちの努力次第ですから。でも「努力次第」のところに持っていくまでは、かなり大変で。

とはいえ、女性がスイーツに対してかけるエネルギーが途方もないように、私も美味しいメルヘンを食べるためには、何だってしますよ? それが秋ともなれば、食欲と読書欲が重なり合って――それはもう、ね。

アジアのごは ん(35)タイの薬草ガオクルア

森下ヒバリ

いきなり来ました、更年期。

いや、正確には数年前からいろいろ兆しはあった。タイの暑さに弱くなり、熱中症になりやすくなった。頭がのぼせる。穴三つ開けていた耳のピアスがかゆくなり、はずした。二十年来寝るときもずっとはめていた何本もの太い銀の腕輪もかゆくなり、細い一本を残してはずした。ときどきくらっとめまいがする。なんだか怒りっぽい。しかし、若い頃から、のぼせやすい、めまいがしやすい、気が短い、生理不順などなど、もともと更年期のような女であったので、なかなか気がつかなかったのだ。

今年に入って、妙に同居人に腹が立つようになった。ささいなことが許せない。もう別れようかと真剣に考えた。怒りが収まらない。どんどんどんどん怒りがわき起こる。怒りは怒りを呼び、ヒステリー状態になる。ぐるぐる、ぐるぐる、怒りのスパイラルである。去年からずっと仕事が忙しかったので、そのストレスのせいだと思っていたのだが、仕事が一段落しても、こころがざりざりとしている。仲の良い友だちにも何か不満がつのる。気持ちが殺伐としたまま戻らない。

五月のある朝、ふとんのなかで半分目覚め、半分眠った半睡状態のとき、はたと気がついた。半睡状態というのは、わたしにとって、気持ちのいい至福のときであり、いろいろなイマジネーションが浮かんでは消える創造的な時間でもある。というのに、理由もなく腹が立っているではないか。怒りがふつふつ沸いてくる。誰も彼もが許せない、もう、世界が許せない。なぜ、こんなに怒りが沸いてくるのか? これはさすがにおかしいぞ。ヒバリは気が短いとはいえ、こんなヒステリー女ではなかったはずだ。あ、も、もしかしてこれが、更年期、更年期障害の症状かも!

いろいろ更年期障害について調べてみると、なるほど、今の状態はぴったりだ。年上の友人たちが更年期の症状として一番にあげていた「ホットフラッシュ」という、いきなり体中が熱くなる、というのは起こらなかったが、こころのざりざり感もヒステリーも暑いとのぼせやすいのも、肌が過敏になったのも、めまいがひどくなったのも更年期障害だったのか。閉経が近づき女性ホルモンが減ることに、脳がついていかず体や感情にトラブルが出るというのである。

五つ上の友達に電話で聞いてみた。「更年期障害? あ〜ホットフラッシュが出たよ」「それで、どうしたの」「ウン、三日で終わった」だめだこりゃ。ネットで調べてみると、更年期障害に漢方や大豆イソフラボンがいいという。タイの薬草ガオクルアもいいという。生活に支障をきたすほどの人は病院でホルモン治療を受けるといいらしい。

「ガオクルア?」そういえば、去年、なにか暑さに弱くのぼせやすくなったということをタイ在住の薬草にくわしい友人に相談したら、「ガオクルア」を勧められ、カプセルをひと箱入手していたのだった。のぼせにはあまり効果がなかったようなので、ちょっと飲んで忘れていた。さっそく棚の中を探して、一錠飲んでみる。しばらくすると、あれほど胸に巣食っていたわけの分からない怒りがするすると消えていくではないか。え、こんなんでいいんですか!? 箱をよく見ると、一日一錠、食後と書いてある。食後だから一日三錠だな、と勝手に解釈してガオクルアをしばらく飲んでみた。ヒステリーは起きない。こころもざらざらしない。めまいやのぼせは少し起きたが、こころはいたって穏やかである。素晴らしいぞ、ガオクルア。

「ガオクルア」とはいったい何なのか。ガオクルア(学名プラエリア・ミリフィカ)はタイの山間部に生えるマメ科の葛の一種の植物である。根に出来る芋を食べたり、精製して薬用にする。タイ北部の山岳民族の間では更年期障害や女性の健康を保つ薬として長年愛用されてきたという。タイではカプセル状になったものが自然食品店などでサプリメントとして売られている。植物性エストロゲン、女性ホルモンに近い働きをする成分を含むため、更年期障害に効くのだが日本ではむしろ「胸が大きくなる薬」として有名かもしれない。植物性の女性ホルモン、自然の薬、副作用なしなどというキャッチフレーズで豊胸クリームやカプセルでけっこう高価に売られている。

そういえば、なんだか胸が・・。女性ならお分かりだろうが、生理前の胸が張る感じである。これを大きくなると言っていいのかどうか、疑問だが、まあハリがあるのはいいことだ。しかし、胸が張るというのは、それだけ女性ホルモンに似た成分が働いているということでもある。やっぱり一日三錠は飲み過ぎかもしれないなあ。ヒステリーが不安でつい多めに飲んでしまったが、冷静に解説を読めば一日一錠だ。

手持ちのカプセルも尽きるので、タイの薬草に詳しい友人のマーシャに頼み込んで、質のよいガオクルアを送ってもらうことにした。一日一錠でヒステリーにはほぼ充分なようだった。マーシャは快医学の徒でもあり、この夏タイに行ったときに、何種類かある質のよいガオクルアのカプセルを、どれが体に合うか、どれぐらい飲んでもいいかOリングテストでチェックしてくれた。これが一番体に合うな、と思っていたメーカーのものがやはりよく、一日二錠までOKとのこと。メーカーによって成分の含有量も違うので、やはりきついな、と思っていたメーカーのものは一錠の量が多かったらしく、一日一錠までといわれた。ちなみにどちらも解説書には一日一錠、食後に飲めとかいてある。

ついでに他の薬草サプリもチェックしてもらう。じつはタイは薬草天国。漢方や日本の薬草事情に勝るとも劣らぬ、薬草の豊富さである。カプセルになっていてサプリメントとして自然食品店で手軽に入手できるのも便利だ。

以前、タイの友人のポチャナにもらって気に入っていたランジェート、これは免疫強化効果があり、解毒作用、二日酔い、アレルギー症状の緩和に効果があるという。これも体に合っている。ちょっとしんどいときや、飲みすぎのときによく飲む。先日ポチャナのうちで日本から遊びに来ていた内山さんが勧めてくれたボーラペット(イボツヅラフジ)のサプリ。そのままは苦いらしい。排毒作用があり、血液の流れをスムーズにし、解熱効果があるという。「健康維持にすごくいいから!」と力強く勧められたが、マーシャのOリングテストではヒバリにはまったく不要な薬であった。ちなみに一緒にテストした同居人にも不要。内山さん、ごめん。

ガオクルアを飲んで、更年期障害の症状がすべて緩和するわけではないが、一番困った感情面のトラブルにはすこぶる効くので、ほんとうに助かった。あのまま、放置していたら家庭崩壊、友人関係まで崩壊の危機であったろう。それにしても、あの心がざらざらする感じ、ふつふつと沸いてくる怒りの感情は、思春期の少女の頃の感情とよく似ている。自分でも持て余したほど荒れ狂ったあの頃。あれは女性ホルモンが出始めで、不安定なせいだったのか。女性ホルモンに翻弄される人生。ああ、女ってやつは・・。

村へ帰る

くぼたのぞみ

おもいっきり
足裏で土を蹴って
出てきた村には
学校帰りに給食のパンを持っていくと
妹をおぶって流しに立つ
小柄なナカバヤシさんがいて
家の奥の薄くらやみには
いないお母さんの気配と
夜、日雇い仕事からもどってきて
ナカバヤシさんのつくった夕飯を食べる
日焼けしたお父さんの影があって
学校から帰ることのできる
少女たちは
冗談いいながら
うつむきかげんに家に向かう

 ──わたしはアマラ*を知っている

ふりむきもせずに
出てきた村には
目をつりあげて嫌みをいい
少女の自転車のタイヤに釘を刺した
ちんちくりんのイナガワくんもいて
いまもときおり
ささやぶの陰に隠れて
仕返しのチャンスを狙っている
このやろう
と思った少女が教室で 
ひょいと片足だして
机と机のあいだを
乱暴に走りまわる
イナガワくんを転ばせたからだ

 ──わたしはアマラを知っている

春と秋の農繁期には
学校が午前授業になる
ちいさな村には
遊び疲れたゆうぐれどきに
泥のついた野菜を古新聞にくるんで
勝手口にあらわれる
りっちゃんちのおばさんもいて
白い肌に青あざつくり
手ぬぐいで目尻を押さえながら
元看護婦の母に
ちいさな声で
とぎれとぎれに話すのを
息をこらして聞いていたんだ

 ──わたしはアマラを知っているのよ

だから村へ帰る
少女が生まれた村へ帰る
アマラたちの村へ帰る
そろりそろり
いや きょうび
飛んで帰ろうか 
それも
ありかな ありかな

  *チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著『半分のぼった黄色い太陽』の登場人物

バスラへの5星

さとうまき

インターネットを見ていたら、バスラで外科関係の国際学会が開かれるという。僕は、医者ではないのだが、少し興味があったので、問い合わせてみた。一番気になったのは、治安である。3月の総選挙以降いまだ、新しい政府が決まらず、その間の混乱でテロが増えているという。「ガードをつけますので、大丈夫です」との返事。招待してくれるという。

バスラはやはり昨年学会で、数日滞在したが、こういう機会でないとなかなか入れない。支援している子ども達に会うのももちろん楽しみなのだが、今回泊まるホテルがシェラトンホテルという5星のホテル。サダム政権時代にも、バグダッドとバスラにあった。バグダッドのほうは、アメリカ侵攻後も米軍が占拠して、外国人が何とか安全に泊まれるホテルとして機能しているが、バスラのほうは空爆されて、その後略奪にも会い、僕が2003年に訪れたときは、まるこげで廃墟と化していた。最近、ようやく再開したという。現地のニュースで取り上げられていたようで、楽しみだ。イラクもいよいよ外国人が、自由に行き来する日も近いんだろうなと希望にあふれたニュースでもある。

さて、ヨルダンのアンマンでは、2005年から活動を続けてきたJIM-NETの事務所を閉鎖することになり、後片付けでしばらく滞在することになったのだが、インターネットの契約も切れてしまったので、メールをするにもインターネットカフェにいちいちいかねばならずネット難民化してしまった。ヨルダンのインターネットカフェは名ばかりで、薄汚い部屋にパソコンが並んでいる。パソコン教室のような感じだ。最近は、おしゃれなカフェでもワイヤレスが使えるようになったが、こちらはコーヒー一杯450円もする。日本にいると常にオンラインでやり取りして最近はツイッターとかもはやっているから、そういう生活に慣れていると、ネットカフェを渡り歩くのは不便だし、ヨルダンは、昼間は渋滞がひどい。タクシーもなかなか拾えず、日差しが強いので、外でタクシーをまっていると干からびてしまうのだ。イラクに行けば、5星ホテルで、優雅にバスラからつぶやける。

しかし、問題はビザだった。前もってイラクのビザをとっておかないと、ヨルダンからの飛行機にすら乗せてもらえない。担当者に電話しても、「明日には何とかします」の繰り返しで、とうとう、予約しておいた飛行機は、明日の早朝発だ。担当者とも電話が通じなくなってしまった。「さては、プレッシャーでとんずらしたか」で、バスラ行きは中止に。

夜中に、バスラのイブラヒムから電話。「担当者は、携帯を事務所におきわすれたそうで、今さっき連絡がはいった。飛行場でまっているから来てくれだって」そんなこといわれても。「僕は行かないよ」ということで電話をきった。しかし、翌朝、バスラ大学の学長自ら電話をかけてきて、「ビザは大丈夫だ。翌日のフライトで来てほしい」というのだ。日本人が会議に参加するとはくが付くのだろうか? そこまで言われたら行こうという気になり、また、ネットカフェに何回か行って、ようやくビザのレターもダウンロードする事が出来た。

さて、予定より2日遅れで無事にバスラに到着。飛行場がまったりしている。米軍が撤退したからだろうか? パスポートコントロールで待っていると、BGMが流れていることに気づく。よく聞いてみるとなんとなく、日本の演歌のような。。。

さて、シェラトンホテルに到着。セキュリティは、民間の警備会社を雇っている。入り口で厳しいチェック。といいながらも、荷物の検査は、目視。実は、まだ完全に客室の工事が終わっていない。ボーイが部屋に案内してくれるが、カード式の鍵を知らないみたいで、ドアを明けられない。部屋はもちろん新しくてきれいだが、トイレには、だれかの糞が流していない!!

さらに、悪いことに、インターネットの回線がまだ来ていないという。「明日には来ます」とフロント。また、明日か?? ホテルの外のネットカフェにでも行ったらそれこそ、人質になりそう。
「バスラで優雅につぶやく」はずだったのに。というわけで、イブラヒムに町のインターネットカフェからこの原稿をおくってもらうことにする。うまくいくかどうか。

バスラから愛をこめて

PS TVのニュースで学会の模様が流れている。「アメリカ、ドイツ、イタリア、トルコ、日本からのゲストを向かえて国際会議を開催することができました」日本人って僕のこと? 演壇の後ろには、アメリカ、ドイツ、トルコなどの国旗に混ざって、日の丸が! 果たして僕が来たことではくが付いたのかどうか。

掠れ書き(5)

高橋悠治

音楽はなぜか心をかきみだす。音のうごきは音を追って、ふたたび起こり、音のなかに消えてゆく。どうしてこの無償の、それ自身の軌道の上でそれ自身を追いかけるにすぎない音の戯れ、響きつづけることしか望んでいない音の世界にこちらを向かせようとか、ある意味をもたせ、ある情報を入れこみ、あるいは抽き出し、ある目的のためにそれを使うことができるのだろう。象徴や指標として使われる音のかたちは、文化や時代によってさまざまだったし、社会がもたせた機能が、ことばのように明確に伝わるわけではない。その社会のなかでも、音楽は社会的機能に収まらないあいまいなところがあり、それだからちがう時代やちがう地域でも受け入れられる場合もあり、それがすべて誤解であるとも言えず、音の美しさというものが、音響学的あるいは美学的、哲学的に定義できるような超越的な価値をもつようにもあつかわれてきたが、そのような論議はすでにある音楽についてのものであれば、決定的な根拠をもたないままに、論議が論議をよび、研究の上に研究の研究があるような、音楽学の歴史ができただけだった。

物理学が実験によって証明できるようには、音楽から生まれた音楽論は、そこからふたたび音楽を創る力をもたない。音楽家が音楽をするときに感じていることと、その結果が論じられるときのことば、たとえば楽譜を書きはじめ、書きつづけたときに作曲家をうごかしていた見えない力、神秘的なものを想定しているのではなく、この音の次にこの音を書いていくという決断と選択の連続がどのようにはたらいたかということは、音楽理論や、実際的な条件や制限だけでは語れない、なにか別な作用で、後からの分析ではない、音とそれを音符として書く人間の連携作業のような側面があり、それはできあがった楽譜の分析からは追体験できないのではないか、それを書いた人間でさえ、それを説明することができない、意識にのぼらなかった部分があるのではないか。そうしてみると、作曲という行為は、作曲家だけのものではなく、よびさまされた音の運動との恊働作業と言ったほうがいいのではないか。

おなじことが演奏にも言えるかもしれない。楽譜になった作品の演奏は、演奏者と楽器、その出会いから起こる音の運動、楽譜を書いた過去の作曲家とその時の音、さらにまさにいま、そこにいて演奏をきいているひとたちの存在、それらすべてを含む音楽空間のなかで進行している。

音の自律的な運動はイメージあるいはたとえにすぎない。音がうごいてメロディーになり、メロディーが次々に音を生んでいくということは結果からさかのぼるイメージで、人間の身体運動が自分の声帯を含む楽器から音を引き出すという状況での、技術に還元できない部分をイメージの連続性で覆っているとも言えるだろう。個の身体が音に共感するのは、歴史的な身体と身体の共振、文化的空間のなかでの情感による間接的な撹乱とも言えるし、音をどのように受け取るかは、受け取る側の自律的な認知行為で、ある音に対して一定の行為を誘導する保証も根拠もない。さらに音は全体的な振動現象で、それがはじまり、一つのまとまりをつくるまでが、聞く行為の対象になり、一つ一つの音や、主題や動機と呼ばれる作曲理論上の構成要素が一対一の対応をつくることはありえない。

18世紀から20世紀にいたる近代音楽史は、オーストリア・ドイツ的な構成的音楽観に囚われていた。その上での進歩主義が崩壊したのは、せいぜい1968年の社会的撹乱をうけて、価値の多様性が再登場した後のことではないだろうか。ミニマリズムは、破片となった構成的統一を最少限すくいあげようとする西洋音楽のあがきとも言える側面をもっていたと同時に、アフリカやアジアの音楽文化の継承してきた身体性を見直すきっかけともなったとも考えられる。経済主義・商業主義に汚染された他文化の私有と知的財産化が問題であるにしても、コロニアリズム的オリエンタリズムとはちがう、ネオコロニアリズム的グローバリゼーションの時代が来た。

身体の復権にともなって、即興性、身振りの引用と転用、コラージュとパロディー、知的論理や認知主義にかわって、内在行動や情感の優位と、分節された構成ではなく、輪郭の循環性による、差異の戯れのなかに姿をあらわす組織の特異性が、すこしずつ音楽のなかに認められるようになった。ゆるやかに変化するもの、軽やかさ、多彩な音色、微妙にゆれうごくリズム、微かな音に耳をすます能力、これらが、まだアカデミックな垢となって新しい音楽の表面に付着している前世紀の技術主義的・構成主義的遺物のなかから、まだほとんど意識されない兆しとなって芽生えているようだ。

世相 ――翠ぬ宝71

藤井貞和

フージー・ジョーワ

そこからは楠の船の領域、はいってはならん
竹の葉が二枚、乗ってはならん
田んぼのましたに国がある、聞こえる
うたっていた泥の海の唄
貝が敷きつめられている、その貝は
二人の餓死を追いつめるであろう 母は
見捨てる、この逮捕劇は忘れられまた
あたらしい母が二人の子を殺める

(1歳と2歳。二人の子をとじこめて、腐らせてしまった若い母の逮捕。『古事記』によるとジンム天皇は137歳、スジン天皇は168歳。現代にも100歳を越えるお年寄りがぞくぞくと〈ミイラになって〉発見されるという世相。ま、いいか。)

旧盆のあと

仲宗根浩

旧盆が終わり、翌日に帰る姪っ子たちを空港まで送る。送った帰り、姪っ子の親たちが首里にある金城の石畳を見たことがない、というので連れていく。こっちも来たのは二十何年ぶり。石畳を上ると途中、樹齢三百年のアカギと御嶽があったので寄る。木々のなか陽の光は遮られている。知らぬ間に手は蚊にいっぱいさされたあと。

その翌日は急に奥さんの実家に行くことになった。次の日の飛行機のチケットを手配しようとするが、どこも満席。仕方なく大阪伊丹の便を予約し、新大阪から新幹線で向かうことにする。こういうことはいつも突然やってくる。出発の当日、午前中には車で空港へ。八月になり何回高速を使っただろう。無料化試験中のため高速の利用者が増えている。ETC以外の入り口が混むことが多いがスムーズに行く。伊丹に着くと気温三十六度、新大阪からこだま乗り換えで名古屋に下りると夕方近かったが気温三十四度。沖縄より暑い。着いた先は浜松。来たのは四年ぶりくらいか。日も暮れかかっているがここも十分に暑い。数日の滞在、バタバタと用事を済ませこっちは先に沖縄に戻るため静岡空港へ向かう。浜松駅から新幹線で次の駅の掛川まで時間で十分ちょっと、窓の外の景色を見ると上の子供が生まれた頃の数ヶ月は毎週この景色を見ていたことを思い出した。田んぼ、お茶畑の緑色。掛川からバスに乗り東名高速に入る。牧之原を降りるまでの東名から見える景色も覚えがあるものだった。昔、何度も通った。

沖縄に着く。空港を出て駐車場までの連絡通路を渡るとき、向こうよりはいくらか涼しく感じる。車に乗り空港を出てしばらくすると高速に入る。相変わらず高速は車が多い。イチャンダ(ただ、もしくは無料)となるとだれもが使いだす。前の車はウィンカーを点けっぱなしのまま走っている。追い抜くと運転していたのはおじいだった。八月は何回イチャンダ高速を使っただろうか。

何年前からかこっちは学校が二学期制となり九月一日より前に中学校は始まっている。子供をたたき起こし、朝ごはんを作り学校へと送りだす。その後、ゴミだし、洗濯を済ませる。テレビで台風が近づいていることを知る。まだ実家にいる奥さんに連絡すると飛行機のチケットは予約したとのこと。戻る日を一日のばすように言う。台風上陸前の朝、学校は休校とテレビでテロップが流れる。午後以降の上陸だから、決定が早すぎやしないかい。お昼過ぎるとこっちは休みだというのに職場から呼び出し。台風に備えての養生のため職場へ行き、残りの作業、戸締りを済ませ、実家へ行く。少し背の高い植木類はほとんど前もって倒してあるが、さらに強くなった風のため倒れそうな植木を倒しておく。夕食を済ませる頃には台風の中心は名護を通り過ぎる。実家から自宅にもどる途中、アスファルトの道路の上を細かいしぶきが舞いながら走る。足元の風がひさしぶりによく見えた。

ジャワの墓参り

冨岡三智

8月お盆の時期に日本にいると、どうしても思いは墓を巡る…というわけで、今月はお墓に因むことについて書いてみる。

ジャワでは土曜日には墓参りをしないものなのよと、私は亡き舞踊の師匠に教わっていた。実際、亡き師匠のだんな様の法事は全部土曜日以外に当たっていたので、ジャワではそういうもんなんだと思っていたのだが、師匠本人の法事で、土曜日だったにも関わらずお墓参りをしたことがあったので、「土曜日にはお墓参りしないものだと聞いているんですが…」と遺族に聞いてみたら、師匠の子供たちは誰も、そのことは知らなかった。古いことをよく知っているのね〜、誰に聞いたの?と聞かれて、いえ、当の師匠に聞いたんですが…と言うと、子供たちは皆(1950年代生まれ)は驚いていた。日本でも戦後になると古い世代の知恵は親から子へと伝えられなくなるけれど、ジャワでも一緒なのかなあと思う。

墓参りとは話が違うが、ジャワでは昔は、退院日は土曜日を避けたものらしい。土曜日に退院すると、また病院に戻ってくることになるのだそうだ。私の知り合いの人が当初土曜日に退院する予定だったのを、そのことを知って別の日に変えたら、看護婦さんから、そんな古いことをよく知っているわねと言われたらしい。

イスラムでは金曜が集団礼拝の日なのだが、土曜にも特別の意味があるのだろうか、と思っていたところ、アラビア語の「土曜日」は「ヤウム・アッ・サブト」といい、その「サブト」はヘブライ語の「シャバット」(安息日の意)が語源なのだそうだ。金曜の日没から土曜の日没が安息日なのだそうである。だとすれば、土曜日に墓参りや退院がだめというのは、どちらも同じ理由――世俗のことはしてはいけない日――に拠るのだ。

閑話休題。

ジャワではイスラム教徒が圧倒的多数なので、まず普通は、遺体は埋葬される。お葬式の通知は、なぜか「告別式×時〜」ではなくて「埋葬×時〜」という形でされる。普通は埋葬は1時からで、逆算して、告別式はだいたい10時過ぎから始まる。これ以外の時間帯にするのを見たことがない。告別式が終わり出棺を見送って帰る人も少なくないが、意外に多くの人、50〜60人くらいは墓まで行って埋葬に立ち会う。その後の法事の日程は、日本のそれとよく似ている。亡くなる1日前から数えるというのも同じで、初七日、四十九日ならぬ四十日、100ヶ日、1年、2年(日本では3回忌と数えるけど)、千日忌があり、千日忌で墓石を建てて一区切りとなる。お墓参りは初七日や四十日に当たる日の午前中にして、法事はその前夜にする。普通、墓参りは午前中にするもののようだ。

ジャワで墓参りに持っていくものは、お花、お線香、聖水、そして自分たちのおやつ。日本のようにお花を立てるのではなくて、花びらだけを撒く。ジャワでは花市場(パッサール・クンバン)というのがあって、そこに行って墓参りに行くといえば、それ用の花びらをかごに詰合せてくれる。紅白、ピンクのバラがメインで、クノンゴkenangaという花やジャスミンを加える。法事のときだけでなく、断食明けにも一族で墓参りするので、断食明けにはバラの値段がいつもの倍くらいに高騰する。聖水は、他の家でも用意するものかどうかよくわからない。私の師匠のお葬式に来た人(親族でない)が、聖水の瓶を見て、あれは何なの? と聞いたので、聖水というのは必須アイテムではないのかもしれない。私の師匠の家では、ガラスの大きな聖水用の瓶があって、バラやクノンゴを入れて聖水(たぶんこの家の裏の井戸から汲んだ水、きちんと井戸を祀っている)を満たしたものを法事のときに用意し、翌朝それを墓へ抱えていく。そして、お墓に花びらを撒き、聖水を振りかけてお祈りを済ませたら、そこで持ってきたおやつを皆で食べるのである。お墓で物を食べてはいけないと、小さい頃から教えられてきた私は、当初、この風習に仰天したが、お墓で飲み食いする風習は沖縄にもあるらしい。そうやって先祖の霊をなぐさめているのだろう。

私の師匠の家の墓地はパク・ブウォノX世の王子の墓が中核にあり、それを囲むように関係者の墓がある。一族で墓参りをするときには、いつも前もって墓守に知らせておき、一向が到着したときには、もうお墓がきれいに清掃されている。その代わり、お墓を発つときには墓守の子供たちにお金をやる。今のレートだと子供1人に1000ルピアくらいやるのだが、お墓の入口の門には子供たちが20人くらいずらりと並んでいるから大変だ。これもイスラムの施しなのだが、こんな風習に慣れていない日本人には、こういうときに堂々ふるまうのが難しい。

一族の墓参りではなくて、著名な人のお墓参り――この場合は巡礼jialah(ジアラー)と言ったほうがよいかもしれない――に行くこともある。以前、ジャワに留学していたときに、大学の創立記念日のイベントとして、亡き元学長や芸大の発展に貢献した芸術家たちの墓参りというのがあって、参加したことがある。それは大学でも初めての試みだったらしく、教員や卒業生は多く集まったものの、現役生徒はなんと私1人だけだった。今どきの学生は、昔の偉い芸術家の墓参りなんて興味がないのかなあと思ったが、教員たちも軽くショックを受けていたようだ。それはともかく、この墓参りでは、行く先々の墓守りが芳名録を用意していた。後で、遺族にこんな人たちが来ていましたよと見せるのだろう。

そういえば、昨年、知り合いの研究者がスハルト大統領のお墓参りに行くと言うので、私もついて行った。スハルト夫人がマンクヌゴロ王家の親戚だというので、スハルトの墓もその近くにある。大統領の墓なのだが、夫人の両親の墓を中心に、夫人の兄弟姉妹一族の墓となっていて、これを見ると、スハルトは完全に入り婿だったんだと思う。私の師匠の一族のお墓のような、つつましげなお墓ではなくて、デカい大理石の墓石で、墓全体が巨大なプンドポの中にあり、床もきちんと貼られている。王宮のプンドポより大きい気がする。スハルトはまだ亡くなって千日経っていないので(今年の10月くらいに千日を迎えると思う)、墓石を建てる予定の場所の床が四角く切り取られ、土がまだ見えている。スハルトの墓参りをしたというと、何人かのジャワ人から、それは良いことをした、と褒められた。私たちが行ったときはガラ空きだったのだが、私の師匠の娘さんはスハルトの四十日だか百ヶ日だかの法事の日に合わせてお参りしたので、ものすごい長い行列で、中でお祈りする時間も制限されていたそうだ。最後は引きずり下ろされた大統領でも、巡礼するとご利益があるのだろうか。あるいは庶民にとっては、元大統領の墓参りというのも恰好の巡礼レクレーションなんだろうか。

新たな夜明け

さとうまき

8月末、アメリカ軍の戦闘部隊がイラクから撤退したという。2003年3月から7年5ヶ月にもわたり、米軍は戦闘行為を続けていたのだ。

ここに来てイラクの治安は、悪化している。アメリカは、それなりの成果を主張してイラクを去っていくつもりなのだろう。しかし、現実は、深刻だ。私の個人的な意見を言わせていただければ、この時期に、出て行くのはあまりにも無責任だ。

バスラでは、8月8日、爆弾テロがあり、43名が死亡したという。しかし、現地のイブラヒムは、150人は死んだといって、メールしてきた。数があまりにも報道とちがう。「本当か?」と問い合わせたら、「神に誓っていい。おそらくそれ以上だ」一度のテロで150人というのは、イラクの中でもそうはない。テロの起きたのは、クリニックなどが集まっている場所だ。「患者が、多く巻き込まれたんだ」イブラヒムが、がん病院で使う薬を調達に行く薬局も近くにある。

翌日、事故現場が封鎖され車が乗り入れられない。イブラヒムは手押し車に、薬を乗せて、テロ現場の横を通過する。25日には、北部モスルから南部バスラに至る13都市の警察施設などで、20発の爆弾が相次いで爆発した。武装勢力による計画的な連続テロだという。イラク政府に治安能力がないことをさらけ出させて一体次は、何を狙っているのだろうか?

イブラヒムは、電話口で、「みんな、とても怖がっている。バスラは60℃くらいに気温が上がって、電気も数時間しか来ない。それでも、もうそんなことには、みんな慣れっこになっていてどっちでもよく、一番怖いのはテロなんだ。だれも、外にはでたがらない」

今までの軍事作戦は、「イラクの自由」作戦。9月からは、「新たな夜明け」作戦が始まる。字面だけ見ていると、なんだか、とてもよさそうな響きがするのだが、イラク人にとって、新たな地獄が来ないよう祈るばかりだ。