片岡義男さんを歩く(2)

若松恵子

「ここに来る途中、考えていたのです。1960年の今日、1月18日は何をしていたかな、と。推測するには、大学はもう始まっていたでしょう」という片岡さんの先導でスタートした。

――学校には毎日行っていたのですか。

一応家を出ます。雨の日以外は。オーバーコートを着ていたはずです。今より寒かった。寒さの質が違っていたような気がします。今寒いところに行っても、何だろう、あの頃の寒さとは違うと感じます。あの寒さがなくなってしまったのは残念だな。

――どんなコートを着ていたのですか。

映画のなかで赤木圭一郎が着ていたようなオーバー。まったく同じ時代だから。見ると懐かしいのです。着た時の感じ、着て歩いた時の感じを体が覚えている。

――鞄は持っていたのですか。

何も持っていません。手ぶらです。

――その頃からなのですね。

その頃から手ぶらです(笑)。色々持つのが嫌いなのです。靴は何を履いていたかな。おそらく革でしょう。くるぶしまである。浅い靴だと安心して歩けない、闊歩できないから。

――大学まではどんな経路で行かれたのですか。

主として小田急線の「世田谷代田」の駅から、急行に乗り換えることなどせずにそのまま各駅停車で「新宿」まで。新宿から山手線で「高田馬場」。駅から大学まではほとんど歩いていました。歩いて楽しい街だったのです。古本屋がいっぱいあったし、書店もあったし、映画館もあった。大学に着く前に日が暮れてしまう。履修している授業は全部午後からだから。

――『海を呼びもどす』(光文社 1989年)は大学が舞台の長編小説でした。

背景はほぼ全部あった通りです。いつもウエストにベルトを締めている女の子がいたな。色々と違うベルトを締めていることにふと気づいたりするわけです。彼女は服を着る時に、最終的に必ずベルトを締めるわけでしょう。それを取ってみたいと思ったのを思い出します。1月18日……、試験の前ぐらいだったかな。

――授業を受けるために学校に行ったのですか。

いや、それはないでしょう。靴は黒、ズボンも黒。

――大学生がTシャツとかジーンズなどをまだ着ていない時代ですよね。

夏の写真を見ると、全員白いYシャツの腕まくりです。僕もおそらくブルーのシャツなどを着ていました。襟だけ白いブルーとか、薄いピンクのとか。

――珍しいですね。

既成品が合わないので、Yシャツだけは作ってもらっていました。あとネクタイ。あの頃流行った黒いニットのタイ。

――今はほとんどネクタイなさらないでしょう。なぜ。

わからないです。あとはウールのシャツ、ツイードのジャケット。

――そして鞄も持たずに出かけていく。

何の苦労も無い、坊やに見られたことが多かった。そういう人が高田馬場で電車を降りて、早稲田通りを歩いていく。駅の左側、午後の陽があたっている方の道。ポケットのなかにはお金と、たぶん家の鍵とバンダナくらい。バンダナはハンカチより面積が広くて良いのです。

――お金はそのままポケットにバラバラと。

ええ。お金払う時に全部ポケットから出して。しわくちゃのお札を出して嫌がられた事がありました。今よりお札が切れていたり、汚れていたりということが多かったな。

――まだ働いていないから、お小遣いをもらっていたのですか。

おそらくそうでしょう。ただ学費は父親から借りて、三年くらいで返しました。父親は英語ですから嘘がつけないわけです。いい加減にごまかすということができない。英語にはそういう機能があるのです。使っている日本語にインチキな部分が入り込むと英語の頭で分かってしまう。そうすると日本語が使えなくなるというか、できるだけインチキな日本語は使いたくないというブレーキになるのです。ごまかせない、居直れなくなる。

――お父さんとの会話は英語だったのですね。

ええ。
手ぶらっていいですよ。自由だから。途中で何持っても良いわけだから。でも物は買わないし、買ったとしても本くらいかな。学校に行くまでに本屋に寄ると30分くらいはすぐ経ってしまう。本の背中を見ているだけでおもしろいわけです。何か目的があるわけではなくて、探している本があるわけでもなくて、そういう状態っていちばんいいのかもしれない。受身の極みのようでいて、実は能動的。何でも目に入るものをいったんは受けとめるわけですから。学生をやっていることとよく調和している。新刊書店と古書店とは時間の使いかたがまるっきり違う。置いている本が違うわけだから。つらいのは専門書の古書店。法律関係の古書店に入って眺めていると、どの本も自分と何の関係もない。法学部の学生なのに何の関係もないということを感じながらしょんぼりするのも悪くなかったです。そんな時間の中で知ったのが「マンハント」でした。小鷹信光さんの書いたものを立ち読みしたのです。新しい号が出るのを楽しみにしていた記憶があります。

――「マンハント」のような雑誌は他にはなかったのですか。

そうです。それまでの時代と違っている、次の時代の雑誌の走りでした。立ち読みで知って、毎回楽しみにする記事ができて、その記事を書いた当人と会って、その雑誌に書くようになる。つながりというか、必然というか。そこに掬い上げられるというか、網の目にひっかかるというか。

――ひっかかって良かったですね。

良かったです。本当にそう思います。すごい片すみにいたということも有利に作用したと思います。片すみというか、自分にあっている場所というか。1961年の2月のはじめ頃に、高田馬場の駅にいちばん近い本屋で小鷹さんの連載記事を初めて読んだのです。

――そして61年の夏には神保町の洋書の古本屋で出会って、暮れには翻訳したい作品のリスト「マンハント秘帖」を二人で作るのですね。リストをタイプで打ったのが片岡さん。

タイプライターを買いに行きました。米軍の放出品を府中まで。通称「関東村」と言ったかな。机やキャビネットも買いました。軍用のタイプライターは頑丈で酷使できるから。アンダーウッド。インクリボンがなくて苦労した記憶があります。タイプライターの修理会社がお茶ノ水にあって、そこに行ったんだ。タイプライターの修理会社、時代ですよね。

――タイピストがいた時代。

タイピストプールというのがあって、タイピストがずらっと並んでいるのです。朝9時すぎるといっせいにタイプを打ち始める。タイプライターの修理会社……。今はパソコンを捨てる会社でしょ。半世紀でそれだけの違いが出てくる。「マンハント」は久保書店というところから出ていました。中野の哲学堂あたりにあって、2、3回行ったことがあります。

――小さな出版社を好むところは一貫していますね。

好みというか、片すみで知り合うわけですから、相手も小さいのです。

――「マンハント」のどこに魅かれたのですか。

何となく斬新な感じがしました。表紙の感じとか。新刊雑誌は、書店の表に吊るしてあったのです。手に取るでしょ。

――小鷹さんのことは古本屋で出会う前から「マンハン」の記事でご存知だったのですね。小鷹さんは片岡さんのことを知っていらしたのですか。

古本屋のおじいさんから聞いていたようでした。何回も買っていると色々聞かれるでしょう。早稲田の学生ということで、後輩が良く買いにくるよという話を小鷹さんにしたようです。

――お互いに買うものの傾向が似ていて興味を持つということですか。

重なる部分はありましたが、似てはいません。買いかたもまるっきり違います。彼は、あるジャンルをできるだけ集める。集めて構築するタイプ。僕は持っていなければ買う。読むことが目的ではないのです。買って家に持って帰って積んでおく。瀬戸内から東京に帰ってきてからペーパーバックを買い始めたのですが、家の周辺にある古本屋のどこに行ってもペーパーバックが置いてあった。今思えば不思議でも何でもないのです。ワシントンハイツなのです。

――代々木にあった占領軍の宿舎ですね。

そこから出たペーパーバックが下北沢や渋谷で売られていたのです。アメリカのものは本来日本とは関係ないでしょう。それが片すみに置かれている違和感。違和感に加わりたくて、買って家に持って帰るとその違和感が僕のものになるでしょう。子どもの頃からある、父親が捨てないで取っておいたペーパーバックの山にそれが加わるのです。加えるために買っていたのかもしれない。どんどん増えていくのです。片っ端から読んでいくのではなくて、不思議な読み方をしていた。最初のページに宣伝文句が色々と書いてあるでしょう、そこだけを読むとか。積み上げてある背表紙を眺めて、タイトルで西部劇だとわかるからそれを抜き出して読んでみるとか。

――読むものが似ているから意気投合するということではなかったのですね。

買っていた場所が同じだったということです。東京で最後の露店の古本屋、しかも洋書の。

――61年に小鷹さんに出会って、それからは「マンハント」に記事を書く忙しい時代になりますね。小鷹さんに出会う前の1960年のお話をもう少し聞かせてください。

まず先ほど話したように大学に行くまでの道のりです。そして大学に着くと喫茶店。喫茶店に行けば誰かがいるのですから。学校の近くの路地の両側は軒並みマージャン屋で、そこを歩くと二階のマージャン屋からパイを混ぜる音がザーッと降ってくる。そういう時代です。人がいっぱい歩いていて、喫茶店があって、どこか行くと必ず誰かがいて、そこで話して。

――話をしない、人見知りの人ではなかったのですか。

そんなことはないですよ。くだらないことを、ベラベラと。道行く人をつかまえて。60年安保がありましたよね。よく知らないで、喫茶店で学生活動家と喧嘩になったことがありました。

――通りでデモが行われている時代だったでしょう。

あんまり知らないから、君はどこで何をやっていたんだということになる。時代をみんなと共有するような大きなニュースを知らないということが僕の片すみ性の象徴ですよね。もちろんそんな自覚は当時なかったけれど。

――教室とか図書館には行かなかったのですか。

行かなかったな。静かにボーッとしていたいときは喫茶店ではなくて図書館ということはあったかもしれないけれど。演劇博物館は静かで夏涼しくて良かった。ベンチで昼寝していて怒られました。

――片岡さんは街の人なのですね。

巷の人でしょうね。大学に入ってから小鷹さんに会うまでというのは、高田馬場の駅から大学までの、また、神保町の道すじに集約できます。そこに日々があった。いや下北沢もあるな。

――その頃の下北沢は。

バーの時代です。バーがいっぱいあった。

――近所の年上の美しい女性たちも。

まだみんな居ました。結婚しないのです。時代の走りですね。

――女優のように美しくて。

主演女優のように。

――『坊やはこうして作家になる』(水魚書房 2000年)に電車のなかで主演女優に出会う話がありましたね。

ええ。原節子です。

――下北沢のバーには行っていたのですか。

行っていました。あれも不思議な時代だな。バーがいっぱいあって、どこに行ってもホステスがいて、カンカンに化粧をしていっちょうらを着込んで。

――最初に入ったバーは?

覚えていません。高田馬場にもいっぱいあったな。学割があって、バーテンがちゃんと入ってきた客を見て判断して、学生ですと言わなくても学割にしてくれた。

――何て良い時代でしょう。

良い時代でしょう。今は証明書を出せとか、ヘタをすると殺されてしまう。生きて帰れない(笑)。バーテンがしっかり見ていて、騒いだりしたら叩き出される。だからむしろ秩序がちゃんとある世界なのです。バーテンはしっかりした人が多かったな。チンピラ上がりのような人がちゃんと見るのです。人のことを。

――そういう仕事をしてみたいと思ったことはなかったのですか。

ないですね。大変です。酒を揃えなければならないし、酒の種類も覚えなければならない。

――バーで何を飲んでいたのですか。

お酒を飲みに行っていたわけではないけれど、ハイボールでしょうね、きっと。ちゃんと作るとおいしいのです。結局60年代は何にも属さずに、学生だけど大学にも属さずに、どんな束縛も受けないでいた時代。そして、そういうことが可能になる場所は片すみしかないわけです。

――片すみを選んだわけですか。

選んだわけではない。それほど自覚があったわけではないのです。結果としてそうならざるを得ないということです。

――居場所を探して街を歩いているわけでもないのですね。

そういうわけではないのです。困っているわけでもないし、悩んでいるわけでもない。何かないかと探しているわけではないし、まさにモラトリアムですね。

――義務と責任を負わずに自分の裁量で全てできるという点では今と同じですよね。

そうです。

――うらやましいです。なら、あなたもやりなさいと言われそうですけれど。

僕がそうだぜ、ということではなくて、いちばん良いのは自由と孤独なのです。世間ではその二つを早く失うのが良い生きかたとなっているようですけれど。できるだけ早く自由を失って、できるだけ早く孤独を消しなさいと言われる。

――孤独はあまり良いイメージになっていませんね。

残念です。孤独こそ良いものなのに。孤独だったら自由なのだから。片すみ性についても同じような誤解があると思います。

――バーでは何をしていたのですか。

わからないです。階段をあがって行って、扉をあけるというのがおもしろかったのかもしれない。ひとりで全く知らないバーに入ったとしても、当時は最年少の客だから適当にあしらってくれるのです。許容してくれる。中年の男性客に比べたら有利なのです。

――今、それに代わる場所はありますか。

ないでしょう。全くないです。残念だな。70年代の中頃にスナックに変わってしまったのでしょう。

――小鷹さんとバーで会って話すということは?

ありません。彼はお酒を飲みませんから。
60年代、小鷹さんに会うまでの日々は、一本の道筋で説明ができてしまう。自宅から早稲田、早稲田から神保町、そして下北沢。片すみにいて、片すみの雑誌に出会って、その雑誌に自分も書くようになる。

――そして「マンハント」の忙しい日々が始まるのですね。次回は1964年くらいまでのお話を聞かせてください。

(2010年1月18日)

だいちゃんの手

三橋圭介

だいちゃんといるとき、いつも手をつないでいる。少しぬめっとした感触でぼくの手をやわらくつつんでいる。ときどきかれはぼくにはなしかける。そのことばはぼくのあたまのまわりを、呪文のようにぐるぐるまわる。それでも「うんうん」ときいている。さいごに「そうだね」というと、うれしそうにうなずいてくれる。ぼくからはなしかけると、かれはきちんとわかっている。80パーセントくらいは。

このあいだいっしょに料理をした。ぼくたちの配属はサラダ係り。みんなのぶんをふくめて、やく15人。まずレタスを水であらい、「こまかくちぎってね」と。だいちゃんはちぎる。いっしょうけんめいちぎる。大きさをきちんとそろえてちぎる。おわって「トマトをきる?」ときいた。ぼくのもっている包丁をゆっくり指さし、それから自分を指さした。ぼくはまっ赤なおおきなトマトをひとつ手わたす。かれの両手がうけとった。手にあふれんばかりのトマト、たいせつな宝物のようにそっとつつみこんだ。しばらくその手に見惚れた。

だいちゃんの手はやさしいな。「ねえねえ」と肩をポンポンするだいちゃんの手、絵をかくだいちゃんの手、手をつなぐだいちゃんの手、レタスをちぎるだいちゃんの手、トマトをもつだいちゃんの手。ことばはわからなくても、だいちゃんのそばにいるだけで世界はすこしだけやさしい気もちでみたされる。世界にふれるだいちゃんの手はいつも微笑んでいる。

なんば歩き

冨岡三智

なんば、またはなんば歩きという言葉は、現在ではずいぶんポピュラーになったと思う。私がこの言葉を知ったのは2003年、2度目の留学から帰国して、ふと買った甲野善紀の本を読んでからなのだが、それよりずっと以前からも、武智鉄二なんかがなんばについていろいろと語っている。なんばとは、右足を前に出すときに右半身が、左足を出すときには左半身がついていく歩き方で、その結果、右足と右手が、左足と左足が同時に出ることになる。昔の日本人はこういう歩き方をしていたのだが、明治以降の学校教育の中で、西洋式で軍隊的な歩き方が指導されるようになると、このような伝統的な身体遣いが失われてきたとされる。

私がなんばという語に反応したのは、私自身が歩き方を矯正されたときのことが記憶に蘇ってきたからでもある。小学校1年生のとき、運動会を目前に控えて学年で入場行進の練習をしていたとき、教頭先生が、○○市(私が住んでいる市)の子らは田舎者で歩き方も知らん、右手と右足が一緒に出よる、と言ったのだった。そのあと、足とは逆の手を振り出すようにずいぶんと練習させられたことを覚えている。確かにこの時点では、私を含めた子供たちにとって、右手左足が同時に出る歩き方というのは、まだ普通の歩き方ではなかった。だから、この歩き方は、学校で練習をさせられた結果身についたものだとはっきり言える。その教頭は隣市から来ていて、何かというと、○○市の子らは…と下に見た言い方をする人だった。子供心にもその隣市のほうが都会のように思っていたので(いま思うと、全然そんなことはない!)、ああ、右手右足が出る歩き方は恥ずかしいんだ、という価値観とともに歩き方が刷り込まれてしまい、その後長らくその是非を疑うこともなかった。

また、着物を着たときにはそんな風に歩いていないということにも、甲野さんの本を読むまでは無自覚だった。考えてみたら、着物を着てお茶席を歩くときには手は振らず、太もものに手を添えるような形で、したがって右足が出たら右半身が出るようにちゃんと歩いていたのだが。

ジャワ舞踊でも、右足が出たら右半身が出るように歩く。ジャワ舞踊にはラントヨという基本練習がある。4拍で一歩進むという歩き方に合わせて、手の動きのバリエーションと、動きのつなぎ方の練習をする。けれど、ラントヨの基本は、手の動きなどの部分にあるのではなくて、歩く練習にあると私は思っている。このラントヨでは、右足を前に出すときに、右手を振り出したり、両手を振り出したりする。だからやっぱりなんば歩きになっている。ジャワ舞踊を通じてラントヨの歩き方で歩くシーンというのはほとんどないから、ラントヨは舞踊の実践稽古ではなくて、半身ごとに動くという身体遣いを練習させるものなのだ。男性舞踊の戦いのシーンでの身体捌きを見ると、なんばの身体遣いが、よりよく分かる。自分の右足が前に出れば、右半身も前に出て、その結果剣を持つ右手が伸びて、相手の右側の虚空を突くことになる。

  * * *

実は一昨年(2008年度)1年間、中学校の先生をやっていた。秋の運動会のシーズンとなり、全校生徒による入場行進の練習があった日のこと。体育の先生が、一、二、一、二、腕を振れ、腿を高く上げろ、右手・左足、左手・右足…と号令をかけていく。私も生徒の横を一緒に歩いたのだが、手を振って歩くことをいつの間にかしなくなっていた私には、腕を振って歩くことがひどく大変で、おまけに手を振ると、右手右足、左手左足が同時に出る歩き方になってしまう。生徒の手前、右手左足の歩き方に変えようと必死にはなるのだが、普段やっていないことだから、頭では分かっていても、全然体がついてこない。生徒の方は単にだらだらと歩いているだけで、ちゃんと習慣化した、右手左足の出る歩き方になっている。私の方が逆に、先生、ちゃんと歩けてないよと生徒に言われるしまつだった。ジャワ行きを経て、私の歩き方は先祖返りとまではいかないが、学校に上がる以前の段階に返ったらしい。

自分自身がこういう経験をしてきたので、あらためて学校教育の威力と怖さをつくづくと感じてしまう。小学校1年で矯正され、かつ強制された歩き方は、その後の人生の中で当たり前のものとなってしまい、無意識化されてしまう。けれど、私自身がその呪縛から解けてみて分かったように、歩き方というのは文化であって、文化ごとにいろんな歩き方があり、また目的によっても歩き方は変わる。日本では長らく武術だとか伝統舞踊だとかが作り出す身体が等閑視され、学校教育だけが是とされてきた。いざ自分が先生をやってみると、お上が是とするものを強制することに非常なストレスを感じてしまう(先生は向かない?)。明治になって、学校教育でこういう歩き方を教えられた人達は、私よりもっと強いストレスを感じなかったんだろうか。

親不知

さとうまき

イラクへの出張を前に、歯が痛み出した。実は、随分前から、右下の親不知が痛い。レントゲンを見れば、真横に生えているのだ。左下も同じようになっていて、20年くらい前に抜いてしまった。そのときが大変だった。骨の中に真横に埋まっている歯を三つに砕いて、引っ張り出したのだ。一週間は、物が食えなかった。それだけではない。一年後にまた同じところが痛み出し、骨を削らなくてはならなかった。そんな思いがあるので、ほったらかしにしておいた。

主治医の先生は、どうも抜きたいらしいが、ずーっとまったをかけて来たのだ。しかし、ますます痛み出してきたのでやむなく歯医者にいった。イラクで痛くなったらと思うとぞーっとするからだ。

イスラム教徒にとって、歯は白くなくてはいけない。なんでも、預言者ムハンマッドは、歯磨きをよくし、歯を清潔にすることが、神に帰依することであると考えていたとか。彼の時代の歯磨きはというと、ミスワクという木の根っこである。これをかめばブラシのようにほぐれてくる。それでゴシゴシと磨く。ミスワクの樹液には殺菌作用もあるそうだ。今でも、イスラム教徒は、このミスワクという根っこを使ってゴシゴシやっているので、歯が真っ白だ。というわけで、歯を磨くことは、虫歯予防だけでなく、信心深いことを表している。白い歯はまさに、イスラム教徒の紳士のたしなみでもある。

僕は、前歯が差し歯になっているので、あまり白くない。アラブ諸国へ行くと注意されることがよくある。この間は、モスクの前で、注意された。そして怪しげな親父が、歯のサンプルを取り出し、「今すぐ真っ白いのに取り替えますよ」というのだ。モスクにおまいりに来る敬虔なイスラム教徒を捕まえては、入れ歯を勧めている。歯が白くなるのはいいが、抜いたりするのはいやなので、丁寧にお断りした。

そんなことを思い出しながら、歯医者にいった。とりあえず、右上の親知らずが、下に埋もれた親不知をかみ合わせているために炎症を起こしているので、まず、上を一本抜くことになった。痛い、ペンチで引っ張られているのだろうが、めりめりという音がする。走馬灯のように、映像がよぎる。子どもの頃、前歯が永久歯に生え変わるときに、歯医者で抜いてもらったこと。あの駅前の歯医者はいつも混んでいた。アアーあの歯医者のにおい……。抜いた歯を屋根に向かって投げたら、強い歯が生えてくるという言い伝え。飼っていた愛猫の歯を抜いてやったこと。猫も、歯が生え変わるのだ。

そして、イラクでは、拷問するときに、麻酔もなしに、歯を抜いたりするのだろう……いや、サダムのイラクより、アメリカの拷問のほうが強烈だ。アブグレーブをみよ。そういう脈絡のない映像が次から次にと脳裏をよぎり、気がつくと、歯はなんとか無事に抜かれていた。

メキシコ便り(29)エクアドル

金野広美

ニセ札をつかまされたまま入ったエクアドルの首都キトは、中央アンデスの4000メートルから6000メートル級の山々に囲まれ、標高は2850メートルあります。

キトからバスで2時間のオタバロというインディヘナが多く住む町で、大規模な市が開かれているというので行ってみました。ここでアルパカのセーターを買おうとしたときにニセ札をつかまされたということがわかったのです。そのニセ札はだれでもすぐ見分けがつくほどの稚拙なつくりだったのですが、日ごろドル紙幣など使わない私には気がつくはずもありません。うーん、エクアドルに来てまでババ抜きをするはめになるとは思いませんでしたが、何度か試してだめだったら記念にもって帰ることにしました。

エクアドルを有名にしているのは北半球と南半球を分ける赤道がここにあり、エクアドルという国名は実はスペイン語で赤道のことなのです。キトから北に約22キロ離れたサン・アントニオ村に赤道を示す赤い線がひいてあるので行ってみました。ここは今では大きな公園になり、たくさんのレストランやおみやげ屋さんがあります。公園中央には大きな記念碑が建ちその前に赤い線がありました。多くの観光客がこの線をまたいで記念撮影をしています。

しかし、ガイドブックには書いてありませんが、この赤い線は本当は違うのです。実はここから250メートルほど離れたムセオ・ソァール・インティ・ニアンという小さな民俗博物館の中に本当の赤道は存在しているのです。何年か前に計り直したときにこの事実が判明したのですが、すでに大きな公園や記念碑を造ってしまった後なので、公にはされなかったようです。なのでこのことを知らない人も多いのですが、口コミで広がり知っている人は知っているということになってしまったのです。記念碑の守衛さんに「本当の赤道のあるムセオはどこ?」と聞くと「あなたも知ってるの」という顔ですぐ教えてくれました。いったん公園を出てぐるりと回りこんだ場所にその小さな博物館はありました。

ここには口コミで知ったたくさんの人が来ていました。そしてオープンスペースになっている博物館のなかほどに赤い線がひいてあり、その上でガイドがいろいろな実験をやってくれました。そのひとつは、台所の流しのタンクに水と木の葉をいれ、赤道の真上と北側、南側と3箇所で水の落ちる様子を観察するのですが、北側でやると木の葉は水とともに左回りで落ちていき、南側だと右回りで落ちていき、真上だとどちらにも回転しないでまっすぐ落ちていきました。

赤道とは地球の北極と南極の間の自転軸と垂直になる点を結んだ線のことで緯度0度、全周は約4万75キロメートルになります。赤道上は年間を通じて日射量が最も大きいため、付近では上昇気流が生まれこれが熱帯低気圧、すなわち台風やハリケーンになるということですが、ここまで顕著に木の葉が左右に回り、赤道の真上ではまったく回転しなかったのには正直びっくりしました。私はいま、ひょっとしてすごい場所に立っているのではないかという気がして少なからず興奮してしまいした。

次の日はキト生まれでメキシコの壁画運動にも参加していたというオスワルド・グアヤサミンのアトリエに行きました。フィデル・カストロ、パブロ・ネルーダ、メルセデス・ソーサなどの肖像画をはじめとして、インディヘナや労働者、キトの街並みなどいろいろなテーマで多くの作品が展示されていました。そんな中でも民衆の苦しみ、怒りなどを鋭く、力強いタッチで描いた作品が印象的で、特に「手」だけを描いた13枚の連作はそれだけで民衆のすべての生活、思いなどを物語っているようで心に残りました。彼の黒を基調とした鋭い線は非常に鋭角的で、一見冷徹とも見えるそのタッチはかえって対象物に対する冷静な観察眼を感じさせ、私にはとても興味深かったです。

次の朝、ホテルでの清算に例のババを使ってみました。20ドル紙幣3枚の真ん中に挟み込んだのです。ドキドキしながらなにげなく手渡しました。ヤッター、成功です。こうしてババはみんなに嫌われながらエクアドル中を旅してまわるのでしょうね。

このあと、キトのバスターミナルから4時間、高山列車に乗るためにリオバンバに行きました。ここは6310メートルあるチンボラソ山やカリワイラソ山(5020メートル)に囲まれた2750メートルの標高の場所で、エクアドルの中央にあり心臓部部分にあたる都市です。アンデス山脈を列車の屋根に乗って汽車で走れるというので人気が高く、私も乗ってみようと来たわけですが、8ヶ月前に日本の若者が屋根に乗っていて、トンネルで頭を下げずにそのまま激突し亡くなったそうで、それ以来屋根には乗れなくなっているということでした。しかし、よく考えると危険きまわりない話ですよね。いくら見晴らしがいいといっても犠牲者がでるまでそのままで走っていたことの方が不思議なくらいです。以前は地元の人も利用していたその鉄道も今では完全に観光客だけになり形も汽車というよりは、バスが線路の上を走っているような変な感じになっていました。

ちょうど次の日出るという汽車を予約し、その日は6310メートルのチンボラソ山の途中まで登れるというので行ってみることにしました。リオバンバからバスで約1時間、アレナルという場所で降ろしてもらい、そこからジープで第1避難所まで行きます。ここがちょうど4800メートル、そしてそのあと5000メートルの第2避難所まで徒歩で登るというものでした。リオバンバの街から見ていたチンボラソ山は頂上に雪をいただいたとても美しい山でしたが、実際来てみると緑の木など一本もない石ころだらけの乾いた山でした。ジープで送ってくれた運転手はくれぐれもゆっくり登るようにと注意をして帰っていきました。4800メートル、富士山より1000メートルも高いところにいるのだと思うとちょっと感動しましたが、そこからが大変でした。運転手に言われるまでもなく、ゆっくりでないと、歩けたものではありませんし、一歩づつ深呼吸をしながらでないと前には進めません。おまけに細かいじゃりが多くて油断するとすぐ滑ります。注意深くひとあし、ひとあし、大地を踏みしめるようにして歩きました。そしてとうとう着きました、5000メートル地点です。わずか200メートルの登山でしたが、地上5000メートルの空気の薄さだけはしっかり体験できました。

山の頂上は雲がかかり、はっきりとは見えませんでしたが、雪の白さだけは目に焼きつきました。それにしても5000メートルのところにいても息苦しくもないし、頭も痛くならないのは、きっと2200メートルという高さのメキシコで暮らしているからでしょうね。今では高山病とはまったく無縁の身体になりました。

次の日の朝、8時のバスでアラウシに行き、そこから高山列車に乗り込みました。何回かのスイッチバックを繰り返しながらその汽車?バス?は山肌を縫うように走るのですが、他の観光客は谷底を見ながらそのスリルを楽しんでいるようでしたが、コロンビアで本当に恐ろしい山道を5時間あまりもバスで移動した私にとって、レールの上を走るバスは安全そのものでちっともスリルなど感じませんでした。そのためこの「悪魔の鼻」という恐ろしげな名前のついた場所を見に行くという高山列車の旅は、私にとっては真新しい感動とはなりませんでした。

12時半に汽車はアラウシにもどり、そのまま1時のバスでガラパゴス諸島への基点となるグアヤキルに行きました。約3000メートルある高度差をバスは下っていきます。途中のプルミラという村のあたりは、山が段々畑ではなくパッチワークのようになっています。見ている段にはきれいですが、ここで働く人たちにとって斜面での労働は本当にきついだろうと思いました。

バスは夕方5時半にグアヤキルに着いたため、その日はガラパゴスへのツアーも探せなかったので、セビッチェ(魚介類のレモン和え)を食べてホテルでゆっくりしました。ここはマングローブガニをはじめとして、魚介類がとても豊富で安く食べられるのです。

次の日、旅行会社でツアーを探しましたが、ほとんどいっぱいで空きがなく、あきらめかけたのですが、なんとかいろいろ探してくれて4泊5日、1373ドルのツアーが見つかりました。それにしても高い。さらに島に入るために10ドル、国立公園の入園料として100ドルかかります。しかし、大型船だとこれより100ドルは高く、おまけに4ヶ月前からいっぱいだということで、より安い小型船が見つかっただけましと考えて泣く泣く申し込みました。

ガラパゴス諸島はチャールズ・ダーウィンの生物進化論の展開のきっかけとなった島としてあまりに有名ですが、大小133の島があり4島に人が住んでいるだけであとはすべて無人島、「動植物の楽園」と呼ばれています。ここにしかいない動植物が多く生息し、間近でそれらが見られるということで、世界中からの観光客がひきもきらないのです。毎日450人が入島するそうで、一番多いのが米国人で年間5万人、次にドイツ、イギリスと続くそうです。私もその中のひとりなのですが、こんなにわんさか押しかけて本当に自然は守られているのだろうかと少し心配になってきました。

こんなことを考えながら旅行会社を出たあと、セミナリオ公園に行きました。ここは別名イグアナ公園といわれ、多くの陸イグアナが放し飼いにされています。いますいます、たくさんのイグアナがのそりのそりと歩いています。そして、木々の上にもイグアナがいっぱい、じーと前を見ています。大人もイグアナも極自然にくつろいでいるようでしたが、子供はやんちゃです。イグアナの尻尾をもってぶらさげ、ふりまわそうとしています。やっぱり子供って残酷ですね。

次の日の朝8時グアヤキルの空港からガラパゴスのバルトラ島の空港へ、ここからバスとフェリーを乗り継いでプエルト・アヨラ港に行きクルーズ船に乗り込みました。同じ船のメンバーはガイドのルイスとクルーが7人、客はカナダ人2人、ドイツ人1人、米国人の若者3人と一組のカップル、スイス人のカップルと私の合計11人。簡単なレクチャーや自己紹介のあとノース・セイモア島に行きました。

ガイドのルイスに先導され島に上陸するとアシカ、陸イグアナ、海イグアナ、グンカンドリ、アオアシカツオドリなどがいっぱいいます。2匹のアシカの子供が砂にまみれ、たわむれている姿は本当に愛らしいです。アシカは特に人なつっこく人間に近づいてきます。グンカンドリは求愛するとき口の下にある赤いフクロを大きくふくらませます。真っ青な足をしたアオアシカツオドリは孕んでいるときは足の色が白っぽく変化します。海イグアナはみんな海の方をじっと見て動きません。しかし、これは彼らの体温が低いため、海ではなく太陽の方を見ているのだそうです、などなど興味深いルイスの説明を聞きながら島中を歩きました。もちろん触れてはいけませんが、すぐ手の届くところに珍しい動植物の数々。それもまったく人間を怖がらずに暮らしています。何回かのシュノーケリングでは大きなゾウガメやアシカと一緒に泳ぎました。小さなペンギンが一生懸命泳いでいるのも目にしました。そして潮を吹く大きな鯨にも遭遇しました。

ソンブレロ島ではお産をしたばかりのアシカの親子がいました。お母さんのおなかのあたりには血がべっとり。すぐ横には生まれたての赤ちゃんが懸命におっぱいを探しています。そして少し離れたところに一匹の赤ちゃんアシカがポツンといました。お母さんはいったいどこにいるのだろうと心配になり、あたりを見ましたがそれらしいアシカはいなくて、いまだに気にかかっています。

ラビダ島ではひからびた鳥の死骸が落ちていました。そしてたぶんアシカでしょう白骨がたくさんころがっていました。以前のように人間による乱獲はなくなりガラパゴスの動植物は保護の対象で、1964年に開設されたダーウィン研究所により調査や絶滅に瀕した動物の繁殖などがおこなわれていますが、自然の摂理のなかでの生存の厳しさは変わらないし、また人間が変えることはできないでしょう。そういう意味でガラパゴスはあくまでも自然体で存在しているのだと感じました。

古い音楽

大野晋

このところ、ずっとショルティ、シカゴのベートーヴェン交響曲全集ばかり聴いている。実は年末、2回も第九を聴いてしまったのだが、ひとつは最近はやりの先鋭的なピリオド奏法の演奏会で、しかもモダン楽器で大編成でやられたものだから、ずっと頭がギイギイいっていた。たまに聴くのなら面白いが、あまりにもピリオドに拘り過ぎるのもどうかと思った。だからという訳でもないが、長期にわたって注文入荷待ち状態だった冒頭のCDが届いたものだから、昔の演奏にほっとしている。流行っていても、皆がそればかりになる必要はないだろうに。

最近、著名演奏家の古い演奏を収めたCDが多く発売される傾向だそうだ。これは、ブームというよりも、新しい録音をする予算がないため、著名な演奏家の定番曲を出すことで固定客への販売を期待しようということらしい。しかし、なんとも保守的な面白みのない話だと思う。おかげで、特にオーケストラ曲の録音はやりにくいらしい。

どうやら、経済は全て同じで、投資しないことが全ての閉塞感の原因のように思えるようになった。みなさん、呼び水を打ちましょう。

今年も面白そうなことを探したいと思っております。

美遊――翠の虫籠

藤井貞和

紙一枚、だれの置き土産だろう。
水路を行く火が終わる、
国はうす翠の矢を古墳のしたに。
軍国の形容詞は若い花を挿して、
辞書からしずかに消える、
物語を光らせる字句の入り綾。

(「うそかたまって一つの美遊〈=比喩〉となれり」〈『置土産』〉。西日はさっきから美しく遊んでるし、堰は流れなくなっても詰まった笹と美しく遊んでる。時間の遅さだって美しく遊んだ結果だ。意味に遊ぶな、いつかは暁ける。)

音楽作品を委嘱すること など

笹久保伸

作曲家に音楽作品を委嘱する理由の一番の目的はリサイタルで弾くため
とか CDに入れるため
というのが一般的には多い
自分のリサイタルで弾くために新作を数人の作曲家に頼んでいて この数日で
2曲ができあがった

高橋悠治さんは過去にギターソロ作品を2つ書かれている
メタテーシスⅡと ダウランド還る
(しばられた手の祈りはギターにもなっているがオリジナルはピアノ)
この2作品に限って言えば、調弦が大変特殊で 弾くのはもちろん
譜を読むのも大変難しいし暗譜は無理
4度の積み重ねという独特なギター調弦によって音群が動いていく メタテーシスⅡ(音位転換)
言葉で音楽を説明することはできないので 曲を知りたいなら聴くか弾くしかない
聴けば なるほどこういう事か、とわかる(かもしれないし そうでないかもしれない)
この曲の指示にある「ヴィブラート禁止」はとても面白い
ギターという楽器特有のロマン臭もこれでだいぶ消える

ダウランド還るは朗読つきの曲
メタテーシスⅡにも言えることかもしれないが ギタリストにはこういう曲は書けない
かと言ってピアニスト的な曲でもない
これはダウランドのリュートの手の型も使われているが
だからと言って こういう曲は他にない

一方 2009年の年末?2010年の年明けに書かれた
重ね書き‐Rastros
これは これまでのギター作品とは少し違う(と思う)
まず 普通の調弦で弾ける
音もだいぶ少なくなった
タイトル通り 少しずつ重ね書きされた作品で
書いた線をなぞり それが 少しずつずれていく 
気がつくと 別の風景になっている
というような音楽(でしょうか)

これは弾き方(手)だけを家で覚えて(練習して)
あとは演奏する場のニュアンスで 弾き方をかえる
という事にしたい と思っています
「これは」というか もうこれからはどの曲もそうする

カルロ・ドメニコーニというイタリア人のギタリスト、作曲家にも
リサイタルで弾くように何か書いてくれないか と連絡してみたら
一曲本当に書いてくれた
共通の知人が突然亡くなり、その彼の追憶に捧げられた
しかし 内容はペルーアンデス音楽の手の型を使って書かれている

あと数人に新作を頼んでいるが
どういう曲ができるかわかりません
委嘱をするって どういう事なのだろう と考えています

しもた屋之噺(98)

杉山洋一

妙に偏った印象をのこす一月が過ぎようとしています。月初めに東京にもどり、中旬をイタリアですごし、今週初めに東京に戻ってきました。今は望月みさとちゃんのオペラの手伝いをしつつ、三軒茶屋で単身赴任生活といったところ。

ところで、田園都市線で練習にでかけようとすると、毎日のように遅延情報がでています。大方が人身事故で、きのうもあちこちで3件ほどあったでしょうか。歌い手さんからも、電車がとまって練習に間に合わないかもと連絡がありました。今日も池袋まで電車に乗ろうとすると、人身事故により、と電光掲示板にながれていて、暗い気持ちになりました。

当たり前のように遅延するイタリア国鉄、特に南からの長距離列車は、旧型車両の故障やら、線路の凍結をはじめ、単に駆け込み客を収容する小さな親切がつもり積もって、ミラノに着くころに3、40分の遅れになっていたりします。イタリアに暮らして15年、人身事故の遅延というアナウンスは、少なくとも自分では聞いたことはありません。宗教観、死生観の差といわれればそれまでですが、どうしてこれほどの人が、電車に飛び込まなければいけないのだろう、そんなことを考えつつ、東京で毎日練習に通っています。

わたしたち日本人は、生に対する執着心がそれほど薄いのでしょうか。昔からの風習をはじめ、現行の死刑制度にまで話を広げるつもりはありませんが、外国暮らしが長いせいか、百歩譲って、人に多少の迷惑をかけてもいいから、せっかく貰った命なのだから、とにかく頑張って生き抜いたらいいのに、そんなことを思ってしまいます。日本に住んでいたら、この気持ちも変わってしまうのでしょうか。

中旬にイタリアに戻り、中部イタリアのペスカーラに一週間近く滞在して、音楽院の卒業試験の招聘試験官をしていました。2年ぶりに会った院長のブルーノは、もう80歳代半ば。数日、インフルエンザで床に伏せていた所為か、目の周りはぽっかりと窪み、青白い顔に窪みの奥の充血した眼が力なく際立ち、驚くほど顔の肉がこそげ落ちていて、一緒に審査ができるのか不安にかられました。それでも試験が始まれば、音楽という別の血が巡りだすのか、顔色が瞬く間に変わってゆくのには驚きました。

そんな彼から毎日のように、学校裏のステーキハウスに昼食に誘われ、家庭の話から、学校の話、政治の話から、音楽の話と、それはたくさん話してくれました。生きることの強さと素晴しさを痛感し、感動がひたひたと押し寄せてきます。

自分がミケランジェリに習ったとき、ほとんど口では何も説明してくれず、ただ黙って弾いてみせてくれた。確かに弾いているのだけれど、全然指が動いていないんだ。説明してくれないから、どうして音がでるのかすら分からない。一ヶ月近く、熱にうなされたように、必死に先生の真似をしながらパッセージをさらったものさ。でも、自分が弾くとどうしても指が動いてしまう。もう諦めかけていた頃、ふと分かったんだ。鍵盤のなかで弾くということをね。で、ミケランジェリに見せたときの心地といったら、天にも昇るようだったよ。鍵盤のなかのアクションだって今世紀に進歩した技術だろう。マンゾーニはもうピアノは進歩しない楽器だなんて抜かしたけれどピアノはまだまだ進歩するのさ。ペダル一つ取ったってそうだろう。興味も尽きないから勉強も絶やさない。このところ、今さらっているのは、エリオット・カーターと、彼の師とでも呼べるアイヴスさ。本当に素晴しい作品ばかりで、驚くことがたくさんある。85歳の巨匠の口からそう聞くと、感慨をおぼえます。

ミラノの慌しい生活に慣れていると、どうしてペスカーラでは毎日昼休みに2時間も取るのか訝しく感じた程ですが、音楽院長からしてこの調子ですから、察して知るべきでしょう。
ホテルやオーケストラとの練習の合間に、大江健三郎の「水死」を読み、父と息子とは何だろうとずっと考えながら、週末朝一番の飛行機でミラノに戻り、学校に直行しました。授業の後、もう日がとっぷり暮れてから、ドナトーニが昔住んでいた、ランブラーテのアパートを10年ぶりに訪ねました。

ランブラーテ駅に降り立ち、すっかり変わってしまった駅前のロータリーを背に、パチーニ通りをピオーラへむかって歩いてゆきます。こんなに遠かったかと訝しがりながら暫くゆくと、懐かしい交差点があって、右手奥にはくすんだ感じの古い喫茶店が見えてきました。日曜の早朝、フランコがブレッシャに教えにゆくのに同乗するべく、7時きっかりに玄関を出てくるのに間に合うよう、寒いときによく暖をとらせて貰ったのが懐かしく、それを眺めながら左に折れると、その昔フランコが好んで通った南の人らしい、いつも黒い服に身を包んだ豊満なナポリ人のオバちゃんの食堂があって(ああお前かい、マエストロのところの!といつも親しみをこめて呼んでくれました)、その隣には古めかしいブティックが昔のままありました。

アパート下で、「ドナトーニ」と書いてある呼び鈴を押し「ヨウイチだ」というと、懐かしい声が「3階だよ」と返ってきました。入口のガラス戸を開くと、目の前に10年前と同じ、ガラス張りの管理人の部屋がみえました。夜で人気はなかったけれど、その昔ここで管理人と話し込み、「最近じゃマエストロを訪ねる客もめっきり減って、お前と家族と出版社の人くらいになっちまった。寝たきりだし訪ねてきた事すら分からないかもしれないから」、と聞いて、胸を締め付けられたのを思い出しました。薄暗い廊下に不釣合いな、煌々と明るい赤壁の小さなエレベーターで3階に着くと、15年前に初めてここを訪れたときと同じように、大きな体格で笑顔を湛えた顔が待っていてくれました。

15年前ここでフランコに会ったときも、初め言葉がでませんでしたが、彼が亡くなって10年、久しぶりにここに戻って長男のロベルトに会っても、同じように言葉がでてきませんでした。ロベルトに最後に会ったのは、霊安室を出て入れ替わりに彼が次男のレナートと母のスージーと入ってきた時ですから、10年近く前のことになります。

ほら、これだよ。手には、ドナトーニが唯一保管していた1953年作曲の弦楽のための交響曲のスコアが携えられていました。どこからも入手の方法がなく、レナートに頼んで、死後片付けたままだった段ボール箱を丹念に調べて貰って漸く探し出した楽譜を、ミラノに住むロベルトに手渡してもらったのです。

ちょっと見せてもらうだけでいい。この時間ではもうコピーも出来ないだろう。明日東京に発ってしまうから、こんな大切なものを持って帰りたくないと言うと、何を言っているんだ、お前が持っているなら、ここに置いてあるのと同じこと。持ってゆきなよ。少し恥ずかしそうにそう言いました。

アイルランド人貴族だったスージーの影響で、その昔ミラノでアイリッシュパブなどを営んでいて、ビリヤードが得意なレナートが、スマートでスタイリッシュなのに比べると、ロベルトは丁度フランコと同じ背格好で、服装もスタイリッシュとは言えないところも父親似で、何時もはにかんだ表情で微笑んでいます。声色はスージーに似てなくもなく、フランコのヴェローナ訛りも交じっているのは、兄弟二人ともそっくりです。

この辺もすっかり変わってしまった。角の喫茶店、覚えているだろう。あそこも今じゃ中国人がやっている。階下の旨かった食堂、あそこも全部入れ替わって今や中国人ピザ屋さ。昔のよき面影はどんどん消えてゆく。

昔と同じ玄関扉には、黒地に金で書かれた無愛想な「フランコ・ドナトーニ」の表札がそのまま残っていました。その昔、玄関にはフランコにそっくりな母親の写真が飾ってあり、何百という帽子が犇いていた暗い廊下は、今や明るいパステルカラーに塗替えられ、昔フランコの仕事部屋だった玄関脇の長細い部屋、潔癖症なほど整頓され常に薄暗かった仕事部屋(鉛筆や定規まで決まった場所にきちんと並べてあった)は、明るい蛍光灯の下、がやがやと雑然と家具が並び、手前には女児の靴が見えて、傍らの丸腰掛に黒ウサギがちょこんと座っていました。

彼女はね、まだ外で仕事なんだ。彼女の連れてきた女の子にね、いま肉を買いに行って貰っているところさ。

あの昔のストイックなまでに抑圧された芸術家の部屋からは想像も出来ない、生活感あふれる庶民的な匂いに包まれていて、フランコもきっと喜んでいるに違いないと思いました。フランコとロベルトは、大江健三郎の本ではないけれど、決して解り合える関係ではありませんでした。フランコは暴力的なほど強靭な存在で、とりわけ繊細なロベルトはそれに押しつぶされて育てられてきました。だから、フランコに輪をかけて内向的なロベルトは、サンスクリットに熱中しインドで学び、アデルフィ社で難解な本の出版に携わるようになりました。でも最後まで、父との距離は縮まなかった気がします。

何か不思議な気分だな。あの家がこんな風になるなんて。でも、やっぱり昔のこの家の匂いがする。時にはさ、フランコがその辺をひょろひょろ歩くのが、見えたりするんじゃないのかい。

それはないな。でも見えたら、やっぱり嬉しいだろうな。

(1月29日 三軒茶屋にて)

オトメンと指を差されて(20)

大久保ゆう

いろんなボランティアを経験してきました。といっても遠出するようなものはあんまりなくて、ほとんどが生活圏内にとどまるのですが、それでもごく普通の人よりはやっているような気が致します。

ボランティアの集まりというのは不思議なもので、たいていが〈行為〉の部分でつながっています。何をするのか、という具体的な〈こと〉の部分で、同じことをしようと思っているから集まる、という感じでしょうか。

けれども人が集まる限りはもめたりもするわけで。それが避けられないわけで。特に〈気持ち〉の部分ですれ違ったりしてしまうと、何らかの形でずれが表面化してしまいます。ごくささいなきっかけひとつで。

しかしそれでも、ほとんどのボランティアは〈いったい何に対して奉仕するのか〉という対象がはっきりしているので、そこに集約することによって、物事は沈静化したりします。これまで”Trouble is My Business”とつぶやきたくなるほどに、たくさんのもめごとに巻き込まれてきましたが、落としどころとしてはいつもそんな感じだったという印象があります。

そうしてみると、たとえば青空文庫でのもめごとっていうのは、ちょっとだけ性質が違うような気がしてなりません。だってまずそもそも、ボランティアなのに〈いったい何に対して奉仕するのか〉があんまり明確じゃないのです。たとえば人なのか本なのか社会なのか文化なのか。もっと言えば電子の本なのか紙の本なのか。

もちろん行為としてはぼんやりと共通しているわけです。紙の本から電子テクストを作ってインターネット上に放流する、という一点は。でも奉仕対象は曖昧で、だからこそさまざまな動機を持った人が集まってくることができたと言えるわけですが、その曖昧さゆえに軋轢もまた生まれてきます。

表面的にはいろんなことがあるけれども、深層的にはいつだって〈何に奉仕するのか〉で食い違ってきたように、私の目からは見えました。でもほとんどの場合、青空文庫でのボランティアに熱くなる人というのは、自分の思う奉仕対象に対して何らかの情熱を持っている人なのだと思います。自分がボランティアする動機にそういうものがまずあるわけで、意見の相違が表面化したとき、それが自分のボランティア精神の根本とつながっているものだから、自分を曲げようにも折れようにも変えようにも、そんなことは無理だ、というふうになってしまって。

だから妥協も和解もありえようがないし、表面化してしまえば最後、あとは埋まらない溝を延々と掘り続けるしかありません。

ここで話は変わるのですが、いろいろなボランティアをやってきたなかで、青空文庫というのは個人的にちょっと気楽で楽しいものでもありました。どこか趣味の範疇に収まりきるというか、何と言いましょうか。最初の頃は、感覚としてそういうものであったかもしれません。自発的にやりはじめた最初のボランティアでもありますし。

けれども以後に関わった他のボランティアがわりあい切実なものであることが多くて、比喩的に表現してもよければ、少なくとも+1が絶大な力を持つ世界でした。もう始まりの時点が0でしかなくて、たとえどんなものであろうとも、ないよりはある方が格段にまし、というようなところです。

そこでは奉仕対象がはっきりしているとともに、もめてる暇なんかない、というような状況でもありました。そんなことをしているくらいなら、さっさと+1を増やそうよ、で全員がうなずきあえるような場所だったと言えるかもしれません。

そういうところを経てきたあとで、あらためて自分のボランティアと向き合ってみると、その向こうにはどうしても〈始まりが0である人〉という存在が透けて見えてきます。そうならざるをえないというか、私の奉仕対象は圧倒的にそういう人であり続けるでしょう。

まず+1することが何よりも大事で、その上で自分の+1が奉仕対象に対して最も効果的になることを考える、というのが行動原理になるわけで、それ以外のことはどうでもよくなってしまって。

もめごとの外側に立つと、いったい何と何が対立しているのか、という本質的なことが見えてくることがあります。でも個人的には、もはやそれさえもどうでもいいと思えてしまって。ただ心に浮かぶのは、こんなことばかり。

――ボランティアの作業が停滞している、人的リソースが低下している、+1が消えていく、非効果的なものになってしまう――

0が見えたあとは、もめごとの世界がとても遠く高いもののように思えます。ハイチ地震のことも、本当に、そうなんだろうな、と。

小倉朗のこと

高橋悠治

今年は小倉朗没後20年で、10月18日に室内楽コンサートがある。

1948年頃だったか、團伊玖磨にハーモニーの基礎を習っていたとき、鎌倉由比ガ浜の貸間で、レッスンの日にも、先生はしごとで不在ということがよくあった。鍵もなく、だれもいない部屋に入って待ちながら、かってに押入をあけて積み重ねられた楽譜をながめていると、ドアがあいて、麦わら帽子の日焼けした人が顔を出し、おや、こどもがいるな、と言ったのが、小倉朗との初対面だった。

数年後、小倉朗の『舞踊組曲』オーケストラ版初演の夜、その頃の習慣で、作曲家たちが日比谷でのコンサートの帰りに新橋の「鮒忠」の二階で飲みながら、聞いたばかりの仲間の新作を論じ合い、小倉朗は自分のスコアを筒のように丸めてテーブルを叩いていた。帰りの電車は鎌倉までいっしょだった。年譜によると、それは1954年の1月だった。柴田南雄に習っていた時だと思うが、まだ15歳の少年がなぜそんなところにいたのだろう。

さらに数年後、浜辺で向こうから歩いて来た麦わら帽子の小倉朗に出会って、作曲を習うことに決めた。ところが、かれはその頃海釣りに熱中していたので、まず習ったのは自転車の乗りかた、その後は夜の海岸に出て、魚はほとんど釣れず、帰り道の魚屋で魚を買って、かれの家で日本酒を飲む、そんな日々のなかで、ベートーヴェンのスコアをピアノで弾くことを習い、オペラ『寝太』や、民謡によるオーケストラ曲、合唱曲などの書いたばかりのスコアを見せてもらい、現代音楽批判を聞かされ、作曲ができなくなってしまった。

その『寝太』の初演のために練習ピアノを弾いたのがきっかけで二期会に雇われて数年間オペラの練習や歌や合唱の伴奏をして生活し、また偶然から現代音楽のピアニストになったので、後から考えれば、こうして逸れていった軌道は、作曲の生徒として順調に進むよりはまなぶことも多かった、その結果かれの音楽からも離れてしまったにしても。

小倉朗は1960年前後に、わらべ唄による合唱曲集をいくつか書いている。呼びかける言葉のリズムと抑揚が自然に唄に変わる時うまれる単純なメロディーを重ねたり、ずらしたり、また音程をひろげたりせばめたりして色調を変化させているが、一つの響きのなかで停まっては、ページをめくるように別な響きに切り替わる。区切られた色の平面を組み合わせた音楽の創りかたは、小倉朗が追求していたはずの古典的な構成への意志とはちがう、もっと直感的な、瞬間と色彩へのこだわりに見える。かれが批判していたストラヴィンスキーの『春の祭典』や『パラード』のサティのキュビズムに近い。後年のオーケストラ曲のなかにあるような長い旋律線は、じつは限定された音と音程の多様な変容で紡がれ、持続する低音につなぎとめられている。リズムにのってうごくかたちを映してゆれる音楽の表面と、それを織り上げる古典的な技法は、その底に半透明な層になってひろがる響きの持続に包まれている。ドミナントは音楽家の心だ、と小倉朗は言った。だが、かれの音楽のドミナントは、古典的なドミナント、解決に向かって音楽をうごかす劇的な物語をもったドミナントというよりは、それぞれの場面を彩る中心的色調としてのドミナントのようにきこえる。

1937年の『ピアノ・ソナチネ』では、ほぼ同時代のフランス新古典主義の音楽に近い感覚的な音楽だった。その後ドイツ古典の模写をしてオグラームスとからかわれた時代の作品はほとんど破棄されているから、知ることもできないが、1953年に書かれた『舞踊組曲』は、バルトークに触発されたと言われている。それもアメリカに亡命した1940年代のバルトークの最後の時期で、戦時の空白による時差を考えれば、ほぼ同時代の音楽と言ってもいい。反前衛どころか反時代のポーズをとっていた小倉朗は、やはり時代とともに歩んだのではないだろうか。時代のせいで遅い再出発ではあった。それに作品の数は多くはない。細部までみがかれ、削られて、簡潔にしあげる、それは職人芸とも言えるが、わらべ唄のようにあそびへの没入が表面に現れてくるまで洗練するプロセスでもあったのだろうか。

その頃作曲家たちは貧乏だった。小倉朗の年譜には、生活に困窮する、ますます困窮する、というような記述が数年ごとに見られる。根っからの都会人で繊細なひとだったが、べらんめえにふるまっていた。書けない、というのが口癖で、いかにも説得力のある口調でそれを言うので、弟子までがそういう気分になるほどだったが、古典的な意味での「主題」、詩の最初の一行のように、核になる音のうごきを見つけると、しごとは集中して速かった。本人は構成技法の修行の成果と思っていたのだろうが、むしろ直感と瞬発力、ほとんど体力の問題とさえ言いたくなる。そういう創造の時が、『舞踊組曲』から70年代の終わりまでつづいた。1980年の『チェロ協奏曲』以後は、健康も衰えて、音楽を作曲するかわりに、絵をかくのに熱中し、個展をひらいたほどだったが、もう作曲はしなかった。絵はたのしみだったが、音楽にはあまりに真剣だったのかもしれないし、それよりもかれの音楽は身体と深いところでつながっていたのだろう。

20年がすぎて、小倉朗の音楽にまた出会うとき、時間に洗われて、いままで見えなかったなにかが見えてくるだろうか。それは加藤周一がかれの音楽に見たような「形になった感情」かもしれないし、形や技法が消えた後の持続する響きかもしれない。生は苦しく、死もまた苦しい。音楽は、水面に射し込む光だったのか。記憶のなかの時間は年代記のような線ではなく、順序もない点が集まり、また散っていく。

酔っぱらいのトラ

冨岡三智

今年はトラ年ということで、ジャワ舞踊(音楽)とトラの関係を無理やり探してみる…と、マチャン・ゴンベmacan ngombeという名称の、太鼓及び舞踊のスカラン(フレーズ)に思い至る。マチャンはジャワ語で「トラ」、ゴンベもジャワ語で「飲む」、ということで「酔っぱらいのトラ」という意味になる。日本でもトラというと酔っぱらいのことを言うけれど、トラと酔うことの間には何かイメージの連想が働くんだろうか…。

ところが、このマチャン・ゴンベという名称は一般的ではない。このスカランは、普通はウディ・ケンセルwedi kengserと呼ばれていて、有名な音楽家マルトパングラウィットが書いた太鼓奏法の本でも、また私が師事した何人かの舞踊の先生にも、そう呼ばれている。ウディ・ケンセルのウディはジャワ語で「砂」の意、「ケンセル」というのは踵を上げずに、床を滑るように移動するやり方で、砂が風や水などによって流されていく様から連想された語である。このパターンは、ガンビョンという舞踊の太鼓奏法で、一番最後に使われることになっている。ちょっと滑っては止まり、またちょっと滑っては止まり…という風に動く。(そう言われても、想像できないと思うけれど。)ガンビョンは、もともと太鼓奏者の繰り出すリズム・パターンに合わせて半ば即興的に踊る舞踊で、このパターンが来るともうおしまいという合図になり、最後にガンビョン共通の終わりのパターンに移行して終わる。

ガンビョンは元々は民間の、レデッと呼ばれる流しの女芸人が踊っていた(だから即興的なのだ)、品の良くない舞踊だったが、マンクヌガラン王家に取り入れられて洗練され、今のように、高校生も踊れるような、健全な舞踊になった。宮廷に取り入れられた際に、卑猥な振りは別のもので置き変えられたり、振付パターンが固定されて作品化され、舞踊に「人が生まれてから死ぬまでの各段階を象徴している」といった哲学的な意味が付与された。だから、最後に出てくるウディ・ケンセルは、人生の段階に喩えると、死を前にした老衰期に当たる、ということになる。

けれど、流しの女芸人の舞踊とくれば察しがつくように、ガンビョンに出てくる振付には、実はエロティックなニュアンスが満載である。ウディ・ケンセルではなくて、マチャン・ゴンベという名称を教えてくれたのは、元ラジオ局所属の有名な太鼓奏者(仮にW氏としておこう)だが、いまだに、W氏以外にこの名称を知っている人には出会っていない。W氏は、ガンビョンの各パターンは性行為の各段階を暗示している、と言う。ここまでは、ガンビョンに関する論文(ジャワ人が書いたもの)にも書いてある。W氏は続けて、マチャン・ゴンベというのは、最後にコトを終えてぐったり疲れた状態を表しているのだ、と言う…。ということは、ゴンベは酒に酔っ払ったという直接的な意味ではなくて、ぐったり疲れた状態ということなのか…。しかし論文にはそこまで書いてなかった。そもそもマチャン・ゴンベという名称でもないし。

マチャン・ゴンベという名称もあるんだろうかと、私は、当時太鼓のレッスンを受けていた芸大の若い先生に聞いてみた。この先生は、「自分は聞いたことがないけれど、語の雰囲気からして、レデッの人たちが使っていたのかもね」と反応した。なるほど、言われてみればそんな気もする。「W先生は大ベテランだし、在野での経験も広いから、そういう呼び方も知っているのかもしれない。」でもさすがに、この男性の若い先生に、「W先生は、このパターンには、コトを終えて…という意味があると言っておられたんですけど、聞いたことありますか?」とまでは聞けなかった。だが、聞いたらニヤニヤと反応してくれた可能性もある。

というわけで、ガンビョンという舞踊は、こんな風にダブル・イメージがある舞踊なのである。W先生が裏の意味を語ってくれた様子が今も思い出されるけれど、こんな猥談をしながら、昔の演奏家や踊り手は楽しんでいたのだろう。マチャン・ゴンベという動きのパターンは、コトが終わった後の疲労状態を表現するために作られたというよりも、動きが創られてから、それを見て周りの人達が妄想をふくらませていき、それにつれて、人によっては妄想を強調するように振りを変えていったのだろう。

新年早々の話としてはどうかという気もするけれど、トラにちなんだお話ということで御免こうむりたい。

蛇足だが、このマチャン・ゴンべの踊り方にはいくつか種類がある。太鼓の手の1フレーズは、A(滑って止まる)とB(ずっと止まる)という2種類を4つ組みあわせるのだが、私が師事した3人の舞踊の先生(所属がバラバラ)は皆違っていた。それぞれが、AABA、ABBA、AABBのパターンを主張する。最初の場合だと、滑って止まり、滑って止まり、止まったままで、また滑って止まる…が基本のパターンで、これを何フレーズか繰り返すことになる。どの先生も「要は太鼓に合わせりゃいいんだ!」と言い、それぞれの先生が口ずさむ太鼓のパターンは確かに動きと一致しているが、その太鼓のパターン自体が3種類ある。これ以外にも、例えばABABとかを主張する人だっているかもしれない。多分、Aパターンだけ、Bパターンだけというのはないだろうと思っているが。

イラク戦争から6年目

さとうまき

2009年、イラク戦争から6年目。2003年の3月20日、当時小学校に上がろうとしていた幼稚園児が、卒業するわけだから、実に長い戦争だ。僕は、2009年を卒業の年と位置づけ、もう本当に、こういう戦争を終わりにしようといきまいていたのだが、確かに治安は良くはなったものの、8月、10月、12月と、100人を越える死者をだしたテロが起こり、まだまだ、安心して住める国ではないどころか、復興も進んでいない。

2009年は、バスラを含め、6回イラク入りした。そこで、多くの子ども達に再会することができ、本当に大きくなっていたのにはびっくりした。そんな子ども達にスポットを充てて、絵本を2冊上梓した。

『おとなは、どうして戦争をするのⅡ イラク編』(新日本出版)
子ども達の、直面した困難と成長を記録し、童話作家の本木洋子さんにも、わかりやすく、イラク戦争の過ちを書いてもらった。

そして、年末に出来たのが、『ハウラの赤い花』(新日本出版)サマーワの白血病の少女、ハウラの絵だけで、絵本を作った。ハウラの絵を楽しめるように、絵本としての完成度を目指した。図書館などで、「いないいないばあ」「ぐりとぐら」とかと一緒に並ぶとうれしい。日本の子ども達が、イラクの子どもの絵を感じてほしい。

早速、出来立ての本を、6ヶ月のわが息子に見てもらった。ゼロ歳の子どもから楽しめる絵本というのは結構あるらしく、我が家も、童話館のブッククラブに登録し、毎月2冊づつ本が届くようになった。しかし、けらけら笑いながら、本を手にするも、すぐにかじりだし、隅を食べてしまった。これはと思い、あわてて取り上げる始末。赤ちゃんの唾液が馬鹿にできなく、あっという間に、本が溶けてしまうのである。

その昔、パレスチナで、友達の家に絵本がなく、「どうして、絵本を買ってあげないのか」とたずねた所、「一度買ってやったら、食ってしまったよ」というので、うーん、日本の子どもに比べてなんとたくましいのかと半ばあきれていたのだが。。。ゼロ歳児の読み聞かせは、なかなか根気がいるものだ。イラクでは、こういった赤ちゃんが、5歳になるまでに、(1000人中)100人は死んでしまうのだ。

イギリス政府がイラク戦争について、参加からイギリス軍が完全撤退した今年までの包括的検証をするということで、12月24日に「イラク調査委員会」の公聴会をロンドンで開いたという。ジョン・チルコット委員長は「イラクへの関与から教訓を学ぶために徹底的かつ客観的で公正な」報告書を来年末までにまとめる方針を示した。公聴会には、ブレアも証人として呼ばれるという。

そこで、日本でも、これはやらなきゃいけないと、市民のネットワークが立ち上がった。民主党は、もともと、イラク戦争に反対していたから、この検証には乗り気だが、いかんせん目の前の問題が山積しており、首相も、外務大臣も大忙しである。外務省の役人と話をしていたら、「道義的には、戦争に反対だった。しかし、日本にアメリカをとめる力はない、日米関係と国益を考えたら、戦争を支持するしかなかったであろう」という。民主党内でも、もし、当時私たちが与党だったら、やはり、アメリカを支持するしかなかったと思う。検証するのなら、日本の政策ではなく、ブッシュの政策だ。という意見。

大人は、国益で納得できても、子どもにはそういう話は通用しないだろう。今年も、僕は、子どもの目線でやりたいと思う。

というわけで、新年よろしくお願いします。

片岡義男さんを歩く(1)

若松恵子

1960年から1990年までの30年間。私が生まれ、物心がつき、仕事を得てひとり立ちするまでの時間。無意識のうちに大きな影響を受け続けたこの時代を、もう一度味わってみたい。そんな思いが発端でした。送り手としてその時代を過ごした片岡義男さんが見ていたもの、感じていたこと、時代と密接に関わりながら書かれた作品を通して、もう一度この時代を歩いてみたい。まだうまく言葉にできていない夢をもとに、インタビューをはじめることになりました。

――今日お会いするにあたって、年表をつくってみました。その年におこった事件や流行したこと、右はじに、その年に出版された片岡さんの著作名を入れています。そして、これが質問のリストです。

さて、どうしよう

――リストのはじから聞いていってもいいですか。

きちんと覚えている人は、はじから聞いていくとはじから答えてくれるのでしょうけど。僕は何も覚えてないからな・・・。60年代。始まったころは学生です。何でもない、「ただ月謝を払っているから学生です」という感じ。

――法学部ですね。

ええ。試験の日が早くて、発表も早くて、それで決めてしまった。あ、受かったって。体裁とか学校に行きたいわけじゃなくて、時間を稼ぎたかった。

――でも、違う意味でその時期勉強したのではなありませんか。

勉強は何かしたでしょうね、きっと。自分を材料に自分をどんどん特化したということかな。4年かけて自分を蒸留して1滴か2滴、それで行くしかないと覚悟を決めて卒業ですよ。ほんとうにバカだったな。どうしよう。

――そういうことは後になってみないと分かりませんよね。

自分がどれだけ馬鹿か?(笑)でも、うすうすは分かっていたな。1960年、大学2年生。

――最初にアメリカに行ったときのことを聞かせてください。「日本に居ると決めてからアメリカに行った」と小林信彦さんとの対談でおっしゃっていたので。

最初は14歳くらいです。見学しに行った。視察です。

――最初に降り立ったのはどこだったのですか。

ミッドウェイです。軍用機で立川から。ミッドウェイまで行って、そこで飛行機が故障してこの先には行かないと言われて、3日くらい後に別の飛行機で、ハワイに帰ったのです。

――行くことに迷ったりはしなかったのですか。

素直に行きましたよ。無鉄砲に何も考えない子どもでしたから。どんな印象もなかったな。

――日本に居ると決めてからアメリカに行ったのは、大学に入った頃かなと思いました。

いや、卒業してからです。要するに言葉の問題なのです。英語だとあくまでも具体的で現実的なのです。話し言葉だし、基本的には。人と人との関係のなかで具体的に何かができていく、なされていく、アクションを伴うのです。もちろん小説のように書かれた言葉を読むということもあるのですけれど。日本語の書き言葉、日本語に関する認識がもう少し深まるのです。子どもなりに。書き言葉の世界があるのです。話し言葉の他に。これはものすごく大事なことなのです。
小説を書こうとして書けない人がいるでしょう。それは日常の言葉、話し言葉が言葉の全部だと思っているからです。その外に、書き言葉があるのです。いつもの言葉の外に出て、もうひとつの言葉に入っていく、それがわからないと書けない。
そういう思いは、意識のすぐ下あたり、意識と無意識の中間あたりにおきてくるのです。言葉は、どちらかを選ぶかになるわけですから。英語は、何がどうすればどうなるかですからよく分かるわけです。アクションだし、人と人との具体的な関係なのですから。そうじゃない世界、日本語の書き言葉の世界というものがあるのです。・・という話が身に沁みて確定したのは、小説を最初にを書いたとき。「白い波の荒野へ」です。2日くらいで書いたのですが、その2日間がたいへんだった。どうしてかと言うと、書き言葉のなかに正式に入っていくのがたいへんだったから。それまでいろんな文章を書いていたけれど、片足は話し言葉にかかっていました。書き言葉として、できる限りきっちりした、妙な曲線の無い、妙なほつれの無い、角が真四角という、そういう書き言葉のなかに入っていかなくてはならなかった、それがたいへんだった。

――それは、獲得できたと思ったのですか。

とりあえず、スタートはできたのです。書き終えてから、1回書き直しました。ほとんど変わってなくて、言葉を整えただけのように言われたのだけれど、そういうことじゃなくて、日常の話し言葉的にだらしなくほつれている部分を整えたのです。その時の自分にできるかぎりきっちりと。気持ち悪くない程度に精巧に。
『C調英語教室』(三一書房 1963)が23歳、話し言葉に完全に片足がひっかかっています。しょうがないよね、最初だから。これが出た年から起算しても小説が出るまで10年。ちょうど10年かかっている。そんなふうに捉えた方がおもしろいです、僕としては。話し言葉からちょっとだけ書き言葉に寄った言葉で文章を書き始めるわけです。それもきっとモラトリアムですね。修行というか。原稿料をもらいながら練習している。書いていけば気がつくことがあるのですから。
それが60年代だったということが大きくてね。60年代ってすぐ終わるんです。ものすごく激変の時代だから、どんどん終わっていくのです。次の時代になっていく。68年位には完全に次の時代になっているのです。だから60年代半ばを過ぎると何か終わっていくなという感じがありました。今までの、冗談みたいな文章を書いていた日々が終わっていくなという思いがひしひしとした。

――そう感じない人もいたでしょうね。

そういう人は、時代の裂け目に落っこちていく。時代が終わっていくというのを、いろんなところで感じるのです。次の時代にむけて飛んだのが71年の『ぼくはプレスリーが大好き』(三一書房 1973)書き始めてちょうど10年めくらいです。絵に描いたようだよね。小説以外の文章で書き言葉に入っていくために書いた作品。日常とはきわめて遠い題材を選んでいます。最初に書いた波乗りの小説もそうですが、神保町で遊んでいた自分とまるで反対の状況を選ばないと、書き言葉の世界に入っていけなかった。そういう事を無意識に自覚しないでやっていました。頭で考えなかったからよかったのかな。
瀬戸内で過ごした経験が非常に大きかったかもしれない。海で泳げば海や空を全身で受けとめるように、東京でモラトリアムの大学生をやっているとモラトリアムということを全身で受けとめるわけです。文章を書く仕事を始めたりすると、文章を書くということを全身で受けとめるわけですから。

――モラトリアムというと、何もしないというイメージを抱きますが。

全身のこととして何かをやっていたのかもしれませんね。瀬戸内から東京に戻ってきてからは、しばらくつまらなかったな。唯一の楽しみは、やはり全身的なことなのですがアメリカのポピュラー音楽を聴くことだった。ロックンロールの始まりのカントリーやジャズ、全身で受けとめて非常に幸せな感じになるでしょう。頭で考えなかったから良かった。

――60年代はテディ片岡の時代です。「テディ」という名には、何か由来があるのですか。

あります。サリンジャーの9つの短編、あれの最後のタイトルが「テディ」というのです。名前を決めなければいけないという日にその本をたまたま持っていたのです。「テディにしましょう」「どうして?」「サリンジャーの本のここにあります。今見ていたのです」って。

――書かれていたものはテディという名前にあっています。

人の感じにも合っていたのじゃないかな。何だかわからない、トッポイ感じ。

――『僕はプレスリーが大好き』から片岡義男名義ですね。執筆していたのが1968年ごろ。今、ヒッピーや学生運動のことで1968年がちょっと注目されてます。そういうこととは関係なくせっぱつまった思いというのがあったのですか。

偶然でしょ。生まれたのも偶然ですから(笑)。要するに遊んでいた時代にけりをつけなければと思ったのです。

――そのための題材がプレスリーなのですか。

音楽です。これも全身性の問題です。全身で感じることといえばそれしかなかったから。

――けりがついたという感じはありましたか。

忙しかった。次の時代が来ているわけですから。いろいろ出てくるし、いろいろ消えていくし、いろいろ変わっていく・・前の時代を引きずりながら、次の時代も重なっていくのですから二重に忙しいのです。73年くらいには「ワンダーランド」が始まるわけでしょう。

――最初に書いたものについておしえてください。

翻訳です。60年か61年。神保町に洋書の露店があって、大学から都電で1本だし、よく行っていたのです。そこで小鷹信光さんと出会った。彼はすでに仕事をしていて。露店の親父を介して知り合って、つきあいが始まって、「翻訳してみる?」という話になって、「本当にやる?」って何度も聞かれたな。僕は「うん」と言えば「うん」なんだけど。ただ返事をしているだけに見えたのかな。それでリチャード・デミングの短編のテキストをくれた。できたのを小鷹さんに見てもらって、そのまま編集者に渡してもらって、掲載された。一語一語直されるのは厭だな、なんて思っていたのですが、そのままある日ゲラの直しが来た。校正の仕方は母親に聞いたかな。彼女は昔教授の秘書をしていたので、知っていたのです。

――ほとんど直しもなしに。

「しいて言えば漢字が多いかな」と言われたくらい。その瞬間に僕は書き手になってしまった。根拠なんてないし、実績なんてないけど。さっきの話と関係するけれど書き言葉のがわに気持ちとしては入っちゃった。

――それまで書いたことがなかったのに、苦労もなく。

置き換えれば良かったから。その当時、僕が知っている程度の日本語に置き換えればいいのですから。もとの作品というのがその程度だったのでしょう。

――題名をおぼえてらっしゃいますか。

覚えていないな。『マンハント』に載りました。

――そして、他の記事も書かせてみようということになるのですね。

ごく気軽に、書かせてみたという感じじゃないかな。それはそれでたいへん幸せなことなのです。すきまの多い自由な時代。書き手と編集者の2人の関係で話が決まっていく。書いたものが良ければ、活字になっていく時代。おそらく、すぐに連載が始まっているはずです。

――『もだんめりけん珍本市』(久保書店 1964)になったコラムですね。

送り出しがわのスタイルとして、本にするというのが最初からはっきりと傾向としてあった。年表を最初から細かく追っていくと、10年でひと区切りついている。

――でも、書き続ける10年というのは、短くはありません。

そうだね。でもあっという間だった。具体的な話と、言葉の問題とがうまくからみあった年表ができるとおもしろいと思う。具体的な細かい話を順番に追っていくとおもしろいかもしれないね。今度はもう少し緻密に、日めくりのように。

――どこからはじめましょうか?

1960年、20歳の時から。思い出しておきます。

(2009年12月21日 下北沢)

オトメンと指を差されて(19)

大久保ゆう

水牛をお読みの皆様、あけましておめでとうございます。旧年中はどうもありがとうございました。本年もよろしくお願い致します。

さて、年始のご挨拶が住んだところで、今年も今年とて相も変わらずオトメンなわけですが、お正月とオトメンのつながりを考えてみると、たとえばお節料理やお雑煮など食べ物が第一に頭へ浮かんでくるわけなのですが、そもそも私がお節料理を苦手としていてなおかつひとり暮らしをしていると自分のためにお節料理を作ったりしないということもあり、またお雑煮もインスタントの御味噌汁やお吸い物+お餅(電子レンジ調理)というふうに簡便にすませてしまうため、あまり語れることがございません。

しかし。

お正月と言えばお年玉よりも年賀状よりも餅つきよりも羽子板よりも凧揚げよりもあれがあるじゃありませんかあれですよあれあれあれ。初詣の御神酒も格別ですがそれよりも何よりも。

――福袋!

昨今の福袋商戦の激化・進化により男性向け福袋もずいぶん増えてきておりまして、メンズファッションの福袋なんていうものもあるわけですが、個人的にはやっぱり行きつけのおしゃれな雑貨屋さんなどに出向いて、そこの福袋などを買ったりした方が幸せになれるんですよね。

福袋を買うのって難しいですけど、やっぱり私はこの「行きつけのお店で買う」派です。あまりよく知らないお店やデパートなどに行って、福袋という言葉に浮かれてついつい不必要なものを買ってしまうよりも、自分の気に入っているものを扱っているところで買ったものなら、何が入っているにせよ嬉しいということで。(今では中身が見えているものも多いですから、いらないとわかってて買う、という事態がありえるわけですが。)

でもでも最近はデパ地下ならスイーツ福袋とかあるんですよねそうするとやっぱり出向いてしまってそのついでに他の福袋にも手を出したりなんかしちゃqあwせdrftgyふじこlp;@

すいません、取り乱しました。

いやそんな話ではなくて、本当は年賀状のことでも書きたいんですけどね。もっと若い頃はお手製のかわいい年賀状などをちまちまぺけぺけと作ったりして、オトメンらしさを発揮していたわけですが、近ごろは年賀状に注力できる時間的余裕がなくて、もう長い間ずっと色んな方々に不義理・失礼をばしております。

でもできるだけ自分で絵は描かないようにしていました。私が真面目に絵を描くと、ありがたいことに「下手」とは言われないのですが、「ものすごく恐い」「何があったの?」「ダイジョウブ?」などと聞かれてしまうので、なるべくやらないようにと……。(どうやら普段の言動やら振る舞いやら何やらと、かなり齟齬があるらしく。その点に関しては、小説などのオリジナルを創ったときと同様の反応なのですが。)

よく言われるんです、「書くと真面目、訳すと繊細、創ると変態」って。

な、ななな、なんなんだそれはっ! と思ったところで事実なのでどうしようもありません。翻訳だけを見られている分にはどうということもないのですが、イメージを壊されたくない人はできるだけオリジナルのものは見ないでくださいね、と喚起を努めるしかございません。(そのためにペンネームが違うというわけでもありますし。)

あけましておめでたいときなのに、人様に私のグロい絵を見せるわけにはいかない、というわけで描きはしないのですが、もしかすると私にそもそも年賀状自体を書かせない方が全人類的には幸せなのかもしれません。たいていの場合、その年賀状には新年のご挨拶とともに、私のしたためた意味不明で不可解なオリジナルの文字列(好意的に取るならばポエム)が書かれていたのですから。

年賀状を書かない(描かない)――大人になった私としては、たいへん賢明な判断です。

当時私の年賀状をいただいていた人は、いったい何を想っていたのだろう、とときどき不安になることがあります。ご友人の方々におかれましては「う〜ん、ユウちゃんなら仕方ないや」と思われていたのではないかと愚考しますが、なかにはきっと私の本性をご存じない方もおられたはずなので、いったいどうだったのだろうな、と。

ちなみに私はぬいぐるみが好きなのですが、買うのはたいてい「かわいい」と言っていいのか「キモチワルイ」と言っていいのか困ってしまうようなぬいぐるみばかりです。

つまりはオカルト少年とオトメンのハイブリッドだったというわけですね。ここはオトメンの連載なので詳しくはお話しできませんが、それはもうそれはもう、オカルト方面へのはまりっぷりはひどかったものです。

というわけで、今の私のお正月はせいぜい福袋を買うくらいなので、全人類は平和なのでした。

過去の文章を探してみた

大野晋

先月の大久保さんの話を読んで、昔、おかしなことを考えたなあ、と過去の文章を探してみる気になった。ところが、その文章がどこを探しても見つからない。文章を作成したPCはとうの昔になくなっている。掲載された先の機関はもうない。なので、数年前まで残っていたサイトの残骸ももう既に存在しない。では、どこかにプリントアウトしたものがないか?探してみたが、手元の資料から探し出せなかった。ほとほと困り果てて、過去のWebサイトのアーカイブを何年分もさかのぼって、ようやく該当文章にたどりついた。

自分の書いた文章なのに、その文章にたどりつけない。インターネット時代の著作物はこうして消えていく。消えた、いや、存在したことを示せない著作物はないのと同じことだ。現在の著作権は無登録主義だが、登録の必要性はなくとも著作物が消え去れば著作権は消滅したも同然。

さて、探しだした文章はこんなものだったが、果たして探しまわる価値があったのかどうか。

「そもそも、欧米語と日本語では認識の仕方が違うのでは?」

おそらく、筆文字を書かれるT氏ならわかると思いますが、表音を主とする欧米語(代表例:英語)と表形文字を使用する日本語とでは、私たちの言葉の認識に違いがあるように思えます。これは、ワープロの文字変換の過程で気付いたのですが、私たちが手で文字を書く時には文字の形で文章を考えているようです。一方、ワープロ等のかな漢字変換で文章を書く時には、音で文章を考えている気がしています。要は、手(筆)で書く時には文章自体をキャラクタとして認識しながら文章を作成し、ワープロ等で作成する時には、文章を話し言葉と同じプロセスで作成している。(私自身が、文章を書く時に意識してみるとこういう結果になりました。もし、読まれる方で興味がある方がいらしましたら、気をつけて、どのように文章を作っているか見て下さい。)このため、コンピュータのWEBやチャット、会議室という表現手段の上では話し言葉によるコミュニケーションが取られるように思えます。

さて、欧米人や他の表音言語を使用する人種には、そもそも、このような認識の違いが起こりにくい。(ないとは言いません。)なぜならば、言語の認識が視覚によるものと聴覚によるもので異なっていないからです。

で、何が言いたいのかというと、この表形言語を使用する私たちは、知らず知らずのうちに他の種族と違って、視覚による表現、コミュニケーションが発達(というか、欧米人とは違う形になって)しているのではないか。という事です。マンガ、アニメーション、ゲームと私たち日本人が海外に発進してきた文化は、そもそも、他の種族と異なる形に発達してきた私たちの表現形態、要は漢字というものを母体に、物事をデフォルメし、抽象化させる能力が原動力になっているように思えるのです。さて、私も日本語が好きです。しかも、日本語の持つ、字として、文章としての表現力の持っている力がとても好きです。書道という、字や文章をそのまま、視覚表現としてしまえるのは日本語と中国語(朝鮮半島の言葉はハングルオンリーの方向に向かいそうですから)の特権なのではないかとも思います。そして、この日本語の特異性を背景にした情報処理技術が日本から飛び出さないかと期待を持っている次第です。

四辻のブルース その二

仲宗根浩

十月にライ・クーダーの八十年代のアルバム及びサントラが紙ジャケ、リマスタリングされたのをまとめ買いしたのを始め、十月のマイルスのボックスセット、そして十二月はジミ・ヘンドリックスの全アルバムが紙ジャケ、SHMーCDとなって発売。これまで手を出してしまうと、クロスロードで悪魔に魂を売ってしまうことになるので堪えた。それで夜な夜な、修理したギターを手に取り弦高を調整し、オクターヴ調整をしこしこやりながら、マイルスのボックスセットを最初から聴こうとおもうと、おもっきりジャズだった。まああたりまえだ。最初にレコードで耳にしたマイルスの演奏は「バグズ・グルーヴ」だったなと思い出しつつジャズどっぷりは疲れる。自分がリアルタイムだった復活した八十年代から聴きはじめた。そのころのライヴレポートではいろいろ叩かれていたなあ、と思い出しながら、聴くとファンクとロックでやられた。久々に聴いたマイク・スターンのギターはミーハーのこころにくすぐり、エフェクターのコーラスをかませてマイク・スターンごっこしたりして遊んでいたら、毎月に千六百円ぐらいしか使われない携帯電話に緊急出勤体制のメールが入る。年末の休みがすべて吹っ飛んだ。昔から年末、正月は仕事が入るようになっているし、世の中お正月休みを貰えるのはわずかな人々だけと思いつつ、仕事場で声だし動き回る。

知り合いから普天間基地のことに触れたメールが来た。うちは嘉手納基地の近くだから近辺の住宅は防音工事というものが施されている。窓をアルミサッシにしてクーラー及び換気扇が備え付けられただけの防音。でも飛行機が上を飛んだらテレビの音は聞こえない。ここ最近のニュースでの「普天間」のイントネーションに違和感を覚えながら、取り上げはするけどそんなに興味がないんだろうなあ、とおもいながら、晦日にクリームとは全然違うライ・クーダーの「クロス・ロード」のカヴァーを聴いて、いつものように酔っぱらいながら寝て起きたら仕事に行く。

製本かい摘みましては(57)

四釜裕子

引っ越した友人に大好きだというホッキョクグマの写真集を送ると、荷物に囲まれて途方に暮れてます、ホッキョクグマのように身ひとつで生きられたらいいのにね、と返事が届く。おりしも年内最後のゴミ収集日の前日で、まったくそうだと掃除を終えて、夕方、三遊亭鳳楽『文七元結』を聞きに行く。腕のいい左官屋だが博打好きの長兵衛の家は着るものもみな質に入れていて、案じた娘がこっそり吉原へ身売りに出向いたその翌日、賭場で身ぐるみ剥がれて半纏一枚で帰って来た長兵衛が、娘に会いに行くために女房が着ていたたった1枚の着物を借りるのだ。身ひとつに着物1枚ずつではじまる一家の話、生きられぬわけはなさそうだけど……。

身ひとつで生きられないなら身ひとつで死ぬこともできない。野見山暁治さんが『四百字のデッサン』に書いた椎名其二の言葉を思い出す。《何て人間はぶざまなんだ、鳥や獣のようにひっそりと自分だけで『死』を処理できないものなのか》。虐殺された大杉栄のあとを受けてファーブルの『昆虫記』第2〜4巻を翻訳した椎名其二(1887-1962)は、のちにパリで製本を生業にした。晩年は息子に妻を託して自らはパリ郊外の知人の別荘で1人暮らし、最後は身寄りのない者となのり自ら病院へ入って息をひきとったそうである。

蜷川譲さんの『パリに死す 評伝・椎名其二』には椎名が製本をはじめたいきさつが描かれている。妻子を抱え生活に困窮していた戦後のパリで、40年来親しくしてきたヴラン書店の店主に突如こう告げたそうである。「今度、製本屋をはじめる」。道具も技術ももちろん客などあるわけがない。手元にある古い本をばらして綴じ直して糊づけすることからはじめるつもりだと言う。店主からおよそ1万フランの援助を得て最低限の道具を揃えたが、知り合いの製本屋に秘伝だからと技術の伝授を断られ、やむなくひたすら自分の古い本をばらしてはその構造と技術を独学したらしい。元来器用でこだわりの人であったのだろう。数年で習得して客もつく。森有正もそのひとりであったが、だからといって豊かに暮らしたわけではない。

《たまに椎名さんの好きな本なぞが入りこむと、パリ中を歩きまわって色や模様の選択が異常にうるさくなり、約束の日までに出来上がるということは先ずなかった。 そんなにお客を困らせるぐらいなら、誰か傭ったらどうですか。とあるとき、私は山積みになったままの仮綴じの本を眺めて椎名さんに言った。何気なく言ったつもりだったが椎名さんはそのとき真剣になっておこった。きみは私に搾取しろというんですかい。手に職をもち、人の生活をさまたげず、自分の働いた分だけの報酬を手にすること。これは椎名さんの信条だったのだ》(『四百字のデッサン』)

椎名が亡くなる1年前の様子は、やはり野見山さんが『遠ざかる風景』に書いている。弱った体でもはや仕事などできるはずもないのに、友人知人を廻って金を借り、すでに売り払っていた製本道具をまた買おうとしたらしい。《戻すあてもない大金を、なんだって平気で借りてきたのか。当座の生活費を借りる方が、老人の意には反しても、まだ迷惑をかけないで済む。今から金を返しにいきましょう……》。野見山さんはそう言って、《そのための協力をこばんだ》。『パリに死す』の中で蜷川譲さんはこの一節にも触れて、その判断は好きなようにさせる愛と尊厳が欠けていたのではないかと書いた。これを読んで愛だとか尊厳だとかを考えた。相手が老人であることが、なにか特別なことになるのだろうか。会ったときに33歳年上であっただけの、乱暴ではあるが大切に思う友人への愛と尊厳に満ちたそのままの言葉に思える。

『文七元結』は、真面目に働いて娘を呼び戻すためにと女郎屋の女将が長兵衛に貸した50両が、通りすがりの男・文七の身投げを思いとどまらせてさらに縁を呼ぶ話だ。見ず知らずだろうが親子だろうが人の命より50両が安いことは確かだ、そこにどんな理屈があるか。長兵衛はこしらえる腕に自信があるから、50両くらいなんとかなると考えてもいただろう。江戸で職人は「つくる」でなくて「こしらえる」と言ったと鳳楽師匠がまくらで話した。『元犬』では白犬が言う。ヒトとなれば裸じゃいれねぇ。腰に1枚巻いてだな、働かなくちゃあいけねぇんだ。角館生まれで日仏を行き来した其二親方を主人公に、新作落語『巴里製本』なんて聞いてみたい。

メキシコ便り(28)コロンビア

金野広美

太古から続く悠久の時を感じさせてくれたギアナ高地をあとに、コロンビアの首都ボゴタに着きました。ここコロンビアは外務省の「渡航の是非を検討するように」という通達が出ているため、みんな非常に危険だと思い行く人が少ないのでしょうか、ほとんど旅の情報がありません。私のガイドブックにもボゴタの地図もなければ、地方都市の記事も3箇所しか載っていません。それもほんの少しです。日本にいて外務省の通達だけを見ているとコロンビア全土が危険だらけといった印象を受けますが、実際毎日そこで暮らしている人もいるわけだし、確かに外務省が危惧するような危険な場所も多くあるでしょうが、そうではない静かな場所もたくさんありそうで、これは行ってみなければわからないのではと常々感じていました。

ボゴタはアンデス山脈の東、標高2600メートルの高さにある近代的な高層ビルとコロニアルな建物が混在する人口700万の大都市です。コーヒーの国だけあって多くのコーヒーショップが軒を連ね、パン・デ・ケソ(とてもおいしいチーズを焼きこんだ丸いパン。1000ペソ、日本円で約50円)を食べながらコーヒー(日本円で70円から100円)を飲む人たちがくつろいでいます。また博物館、美術館がたくさんあり内容はとても充実しています。その中のひとつ、黄金博物館に行ってみました。

ボゴタはスペイン人がやって来る前、高度な文明を築いたチブチャ族の都があったところで、彼らの首領は金粉を体に塗り、黄金の装身具をつけ儀式に臨んだということで、これがエル・ドラド(黄金郷)伝説を生み出したといわれています。この博物館には金製品2万点余りが展示され、ヒョウやワニ、鳥などの動物や人物などを表現したその細かい細工には目をみはるものがありました。

「黄金の部屋」と名づけられた部屋に入ると中は真っ暗でインディヘナの音楽だけが流れています。しかし一瞬、電気がつき、明るくなったかと思うとまわりはすべて金、金、金。光り輝く黄金でデザインされた流れるような文様は丸い部屋全体がひとつの美術工芸品のようです。私は、金は派手すぎてあまり好きではないのですが、このときばかりはその美しさに見とれてしまいました。

また、コロンビアのメデジン出身のフェルナンド・ボテロが自らの作品やコレクションを国家に寄贈して造られた「ボテロ寄贈館」もダリ、シャガール、ピカソなど多数の有名どころが並び、なかなか見ごたえのある美術館でした。ほかにもディエゴ・リベラ、フリーダ・カーロ特別展を開催していた国立博物館など何か所か回りましたが、それぞれ展示に工夫がこらされ、センスのいいミュージアムが多かったように思います。

夕方、通りを歩いていると楽しげな音楽が流れてきました。アルパ(ハープ)とギターをかかえた辻音楽師が3人で演奏しています。よく見るとアルパをひいているのは少年です。これがなかなかうまかったので声をかけてみました。彼は13歳のオルマン君でお父さんとその友人との3人でコロンビアの大衆音楽ジャネーラを演奏しているとのことでした。そのうちに知り合いの人が通りがかり、みんなでマラカスなどを持ち演奏を始めました。私にも歌えとうながすので一緒にアドリブで声をいれました。自分たちが楽しんでいるだけにしか見えないにもかかわらず道行く人はお金を入れていきます。ちょっと不思議な気分になりましたが、とても楽しかったです。

お父さんと一緒にその場にいたオルマン君の友人のファン・デビッド君、11歳は日本にとても興味を持っているらしく、ずっと日本について質問してきます。コロンビアでも日本の漫画が多く放映されているので日本に親しみがあるということですが、その質問内容はなかなか高度で「なぜ日本はエレクトロ技術が高いのか」などと聞いてきます。11歳のコロンビアの少年にそんな質問をされるとは思っていなかったので、ちょっとびっくりしながらもわかりやすく説明するのに四苦八苦してしまいました。

そういえばインターネット・カフェで日本のニュースを読んでいた時にもカップルから声をかけられ、日本についての質問攻めにあいました。そして別れ際に漢字で自分の名前を書いて欲しいといわれ、茉莉亜(マリア)、辺羅留土(ヘラルド)と書いてあげると大喜びされ、二人は大事そうにその紙きれを持って帰りました。こんなに日本から遠い国で、日本に興味を持っているコロンビア人に会えてちょっとうれしくなった1日でした。

次の日、ボゴタから北へバスで1時間半のところにあるシバキラの町に行きました。ここには岩塩の鉱山があり、塩で作られた教会があるのです。中に入ると塩の大きな十字架がある礼拝堂がたくさんあり、この鉱山全体が教会になっています。今では別の鉱山で35人が働いているだけということでしたが、この十字架を見た時、多くの礼拝堂をつくった人たちは、暗い鉱山の中での厳しい労働の安全を神に祈りたかったんだろうな、などとちょっとつらい気持ちになりました。

その夜、夜行バスに乗り太平洋岸に近いコロンビア第3の都市カリに行きました。朝5時半に着き、ホテルを探して落ち着きシャワーを。ボゴタは寒かったのにここは暑い。じっとしていても汗が噴きでてきます。街の中心のマリア公園では珍しくかき氷屋さんがあったので思わず食べてしまいました。バナナやマンゴーをいっぱい入れてくれて1000ペソ(日本円で約50円)安いです。

メキシコではいろいろ悪い噂があり、私はおまわりさんを見ると避けて通るのですが、ここのおまわりさんはちょっと違って本当に親切です。私が果物屋さんを探してうろうろしていると、声をかけてくれそこまで連れて行ってくれます。そして別の場所をたずねても「そこだとタクシーが便利だ」とタクシー運転手を探して私を目的地に連れて行くよう指示してくれます。メキシコでは考えられない、もう感激です。メキシコのおまわりさんは、その体ではとうてい泥棒など追いかけられないでしょうというおデブさんがいっぱいですが、カリのおまわりさんは背が高く、すらっとしていて、とてもかっこいいおにいさんでした。

次の日の朝6時半のバスで南に9時間、サン・アグスティンに行きました。ここは紀元前3300年ごろから紀元前3000年くらいに起こったといわれているアグスティナ文化発祥の地で多くの石像が残っています。馬でしか行けない場所があり、四方に散らばった遺跡を5時間かけてめぐらなければなりません。乗馬はまったくやったことがないのですが、馬は初心者でも乗せられるように調教されていると聞き、乗ってみることにしました。

朝9時、ガイドに助けてもらいながら生まれて初めて馬に乗りました。何とか乗れましたがものすごく怖い。しかし馬は始めはゆっくり歩いてくれるので、少しずつ慣れてきました。慣れるとなかなか気持ちがいいものです。

まず最初に訪ねたエル・タブロン遺跡にはアントロポソモルファといって半分人間、半分動物の石像があり、顔は人間なのですが、口がジャガーというなかなか興味深い相をしていました。チャキーラ、ラ・ペロタ、エル・プルタルと順に緑に囲まれた山の中の遺跡をめぐりました。赤や青の色がわずかに残っている男女の石像は、まるでお墓を守っているかのようにその前に立ち、なんだかけなげでとてもかわいらしかったです。このころには馬にも大分慣れ、馬上からガイドに質問する余裕も出てきていました。

しかし、帰り道、馬は登りになると、勢いをつけるためでしょうか、急に走りだしました。ヒェー怖い、あぶみを力いっぱいふんばりましたが、振り落とされそうで生きた心地がしません。おまけに私の馬は道の真ん中を走らず、わきの草がいっぱい生えているところを走るのです。そこには木があり枝が張り出しています。顔を枝にひっかかれそうで、恐ろしいといったらありません。頭を低くしながらなんとか走り抜けましたが、もうくったくたになりました。

そしてその夜はもう悲惨。体中痛くて、おまけにお尻の皮が直径3センチほど剥けているではありませんか。でっかいバンドエイドなんてないし、シャワーをするとお湯がしみて痛いし、もう馬なんて2度と乗りたくないと思ってしまった私の乗馬初体験でした。

体中サロンパスだらけで眠った次の日、考古学公園に行きました。ここはきれいに整備され多くの石像が展示されています。特に小高い丘になっているアルト・デ・ジャバパテスは一面芝生で360度の眺望がひらけ、緑あふれた美しい中に石像たちがかわいらしく立っていました。ここの警備をしているエルネストはいつも一人なのですが、この仕事をとても気にいっていると話してくれました。というのはこの丘はいつもさわやかな風が吹き、その風にふかれながら勉強できるからということで、英語を独学しているそうです。スペイン語と英語の両方で書かれたガイドブックを見せながら、ここ以外のコロンビアの遺跡についてもいろいろ教えてくれました。

次の日、国境越えをするため朝6時サン・アグスティンを出発。乗り合いタクシーでピタリートへ。ここからバスでモコア、パスト、国境の町イピアーレスまで行くつもりだったのですが、モコアからパストまでがすごい道で時間がかかり、イピアーレスまでたどりつけませんでした。2、3000メートルはあるだろうという高い山を、バス1台がやっと通れる幅だけの、ガードレールもないじゃり道をのろのろと曲がりくねりながら登って行くのです。もし対向車とぶつかったらどうするの、と思っていると途中2時間ほど行くとトラックと鉢合わせしました。両方の運転手がなにやら話しあって、結局トラックの方がバックしましたが、もしバスの方がバックするのだったら恐ろしくて身も凍ってしまっていただろうと思います。バスの窓の下は目もくらみそうな深い谷。怖くて怖くて下を見ることなどできません。無理やり眠ろうとしましたが、何せガタガタ道、揺れて揺れて眠ることもできません。運転手に「なんて怖い道なの、あと何時間かかる?」と尋ねていると一人の女性がとなりに座るように言ってくれ、途中でお菓子も買ってくれました。彼女は病院に行くため月に1度このバスに乗るそうですが、私は2度と乗りたくないと思いました。

パストで1泊したあと、次の日早くイピアーレスへ行きました。国境ではたくさんの両替商がたむろしています。ここで余ったコロンビアペソからドルに両替をしたのですが、どうも受け取ったお金が少ないような気がして自分の計算機でやり直しました。すると両替商の計算機に細工がしてあったのでしょう、33ドルもごまかされていたのです。そのことを指摘すると「ばれたか」というようなばつの悪そうな顔をしながら33ドル渡してくれましたが、転んでもただでは起きぬ小悪党。なんとその中に偽札をまぜていたのです。

ビアフラ/69/東京

くぼたのぞみ

そこから
きみは
歩いてきた

ことばを
知ったのは20年後で
69年ではない

写真は
真夏の東京の駅頭にあり
水煙が
真冬の本郷にたちこめた年
おぼえてる?
ミニスカートにサンダルばきの
きみがそれを見たのは
クワシオルコル
巣鴨だったか大塚だったか

バルーンのお腹に
枯れ枝の手足
パネルに貼られた写真は
足早に通りすぎる者の目にも焼きつき
それでいて
どこかうさんくさい埃もかぶり
モノクロだったから
わからなかった あなたの
抜ける髪の毛が赤さび色だったなんて

そんなプロパガンダ元年
疑いをもって ひとりで
歩くこと 精神の
ひのようじんに
5人組はいらない

69はことばがこわれた年

そこからきみは歩いてきた
ほとんどひとり
剥がれるように
まっさかさまに
日本語の海へ
モンデットは波を見たの?

あなたが死んだとき世界は沈黙していた

ふたしかな
恩寵

恥辱
が裏と表だなんて
合点が行かない粉雪の舗道から
歩いてきて
歩いていて
歩いている

アジアのごはん(33)おでんのルーツ!

森下ヒバリ

おでんを作ろうと思い、いつもの引き売りの有機八百屋さんに電話した。年末なので配達のみの時期なのである。「大根と、板コンニャクと、ごぼ天とジャコ天ありますか? おでんの材料なんですが」「ごぼ天もジャコ天も、てんぷら系もちくわも売り切れです」

しまった。この店で扱っている練り物はとてもおいしいので、近所のスーパーの練り物だとおでんの味がかなり落ちてしまう。くっ、もっと早く注文しておけばよかった。

おでんに練り物はかかせない。練り物から出るダシがおでんのひなびた何ともいえないあの味をかもし出すのである。練り物が入っていないと、ただの煮物である。

まあ、牛すじとかタコとか鯨のコロなどを入れる地域もあるのだが、やはりおでんの具の三種の神器は1に大根、2にコンニャクそして3にごぼう天やジャコ天、ちくわ、はんぺんなどの魚の練り物だ。この三種はどれも欠かすわけにはいかない。それから好みで茹でタマゴ、焼き豆腐、じゃがいも、昆布巻き、厚揚げ、揚げのモチ入り巾着などなどと続く。

各家庭や地域の好みで、「なに言っとりゃーす、味噌煮込みだがね!」などと怒られそうなのだが、現在の日本でのいわゆる「おでん」の基本形として、コンニャク・大根・練り物が必ず入り、昆布や鰹などのダシ汁と醤油でコトコト煮込んだ煮物、といちおうここで定義しておく。

うちのおでんの基本のダシは昆布とかつお節。味付けはうすくち醤油とみりん少々。ほどほどにコッテリ味に仕上げる。関西風というとうす味、と思われる方も多いだろうが、関西の味の真髄はダシにあるのであって、関西の料理がすべからくうす味というのはまったくの幻想である。関西といっても大阪の料理はけっこうコテコテが多いし、京都でさえも下町は甘辛コッテリ味が大好きだ。

わたしの生まれは岡山だが、学生時代を京都で過ごし、出版社に就職して東京に出た。初出勤の日にいきなりサービス残業をやらされ、それでみんなで夕食に近所の店から出前を取った。わたしはおかめうどんか何かを頼んだのだが、それが届いて、箸をとったときのショックをいまだに忘れない。「う、まっ黒のダシ汁! な、なにこれ?」そして、そのうどんに口をつけたときのさらなるショック。「×××(自粛)!これ、お湯に醤油入れただけ?」

まあ、これは二十年以上前の話なので、東京のうどんのダシ汁も進化しているとは思うのであるが、好意的に言えば、東京では濃い目のしょうゆの味が麺にからむところを楽しむのであって、関西のズルズル飲んでおいしいダシ汁とは成り立ちが違う。つまり、関西で慣れ親しんでいた、ダシのようくきいた汁うどんとはあまりにも違ったのでショックを受けたのである。もっとも、箸を置いて、すぐさま京都に帰りたくなったのは、まあ事実であるが。

関西ではおでんのことをもともと「かんとだき」と呼んでいた。「だき」は「大根炊き」「お揚げと大根の炊いたん」などという関西風の煮物の呼び方の「炊き」である。「かんとだき」は、なぜか「かんと煮」または「関東煮」などと漢字では表記される。しかし「かんと」であって、「かんとう」ではけっしてない。

「おでん」のルーツは豆腐田楽にある、というのが現在のおでん業界、おでん愛好家などの主な意見である。その主張は、だいたいこんな感じである。<田楽は、茹でた豆腐に串を打ち、味噌をぬって焙ったものだが、それを「お田」と呼んでいた。(田楽が田楽と呼ばれるようになったのは諸説あるが、それはおいといて)それが、江戸時代に屋台で売られて庶民に大人気になる。江戸末期ごろ、それまでの屋台の焼き田楽が、味噌煮込み田楽、しょうゆ煮込み田楽になる。それが関西に伝わって、いままでの焼き田楽と区別するために「関東煮(かんとうだき)」と呼ばれた。つまり、つゆだくさんの煮込み田楽は関東から関西に伝わったのものである。「関東煮」縮まって「かんとだき」と呼ばれ大人気となった。これが現在の「おでん」のもとである>

これらのおでん江戸起源説では、「かんとだき」の漢字が、「関東煮」となっているために煮込みおでんが関東から関西へ伝わったという根拠のひとつにされていることが多い。もうひとつの根拠は、江戸末期に江戸の屋台のおでんが、焼き味噌田楽から煮込み田楽に変わったから、それが発祥、というものだ。さらにおでんは濃いくち醤油のコッテリ味だから関東起源、とか。

「かんとだき」が関西でも「関東煮」と表記されるのは、どうやら日清戦争のときの兵士向けの自炊マニュアル冊子が始まりのようなのだ。この資料をどこかにやってしまったので、うろ覚えなのだが、その内容は「関西に、関東炊き・関東煮という煮物があり、簡単でおいしく大人数のために作りやすい・・」として紹介されていたのである。その後、「かんとだき」は文字表記が「関東煮」として流布することとなったと思われる。

しかし。だいたい関西人が、関東から伝わった煮物を「関東煮」などと呼んで重宝する、というのはどうも不自然である。関西人の気質としてありえない。しかもなんで「関東煮」で「江戸炊き」じゃないの? それまであった焙り田楽のおでんと区別するなら「煮込みおでん」でいいではないか。しかも江戸末期といえば大阪は堺が国際港で大変にぎわった商業都市。食い倒れの町でもある。料理も関西の方が格段に洗練されていた。ダシのきいていない江戸風の食べ物を当時の関西人が見下していたであろうことは想像に難くない。

まず、「かんとだき」が関東から伝わったものである、という説を聞いて思ったのはこういう不自然さであった。そこへ、「かんとだき」は「関東煮」ではなく「広東煮」である、という話を聞いた。「かんとんだき」の「ん」が落ちて「かんとだき」になったのであると。

大阪の日本橋道頓堀にある創業弘化元年(1844年)のおでん屋さん「たこ梅」の言い伝えによると、たこ梅の「かんとだき」は現在では「関東煮」と表記されているものの、初代が堺の出島の中国人(広東人)たちの煮物料理を食べて、こらウマい!と感動して自分で工夫して店で売り始めたのがはじまりだという。店の公式見解としてはおでんのルーツはいろいろな説があり・・、として自らがおでんのルーツであるという強硬な主張はしていないのだが、「たこ梅」の「かんとだき」は広東人の煮物を意味する「広東煮(かんとんだき→かんとだき)」であるとしている。広東人の煮物の名前は分からなかったようである。ちなみに「たこ梅」の「かんとだき」はまさに正真正銘「おでん」である。ん? 広東の煮物? おでんのもととなりそうな広東の煮物といえば、あれしかない。それは「醸豆腐(ヨントーフー)」だ。「醸豆腐」とは、もともと豆腐の肉詰めのことであるが、この豆腐肉詰め、魚の練り物各種、大根を一緒にスープ煮した料理も、「醸豆腐」と呼ぶ。この「醸豆腐」は広東人の移住者の多いシンガポールやマレーシアでは在住日本人たちの間でひそかに「おでん」と呼ばれて広東料理屋台で愛食されているという。

ちなみにタイでは、「醸豆腐」に麺を入れるバージョンが進化したものが、華僑があがなう魚つみれ入りの汁麺としてバンコクを中心に存在しており、「醸豆腐」の気配は汁麺の具にたまに現れる大根の炊いたのや3センチ角の肉詰め豆腐にかすかに窺えるのみである。

「たこ梅」に伝わる「かんとだき」のルーツの広東人の煮物が「醸豆腐」であるとすると、それまでかみ合わなかったパズルのピースがピタリとはまる。「醸豆腐」の特徴は具に豆腐と大根と練り物を入れることである。大根と練り物が重要なダシなのである。つまり、江戸の「煮込み田楽」が関西に伝わって「関東煮」になった・・という説では、煮込み田楽にいつから大根や練り物が入ったのか説明が付かない。現在のおでんの基本が「大根、こんにゃく、練り物」になったのは、広東人の煮物こと「醸豆腐」の存在抜きに考えられないではないか。

つまり、いま日本で「おでん」と呼ばれているものは、「煮込み田楽」と「かんとだき」とのミックス、もしくは「焼き田楽」が「かんとだき」化したものと考えてみたらどうだろう。このミックスの度合や、地域の特産物によって、味噌をぬって食べたり、コロを入れたりとかするような違いが出てくる。江戸で焼き田楽が煮込み田楽に変わったのも、実は大阪から伝わったと考えるほうが自然である。

ここまで書いてきて、「アンタ、なんか関東にウラミでもあんの?」という声が聞こえてきそうだが、ワタクシに個人的な関東の料理に対するウラミは、まったく・・いや、だからうどんにダシがきいてないって・・、いやありませんってば。

しもた屋之噺 (97)

杉山洋一

十年ぶりという大雪が天窓をすっぽり覆っているせいか、久しぶりの拙宅は妙に薄暗く感じます。この庭も垣根の向こうの中学校の校庭も、見事に深い雪に包み隠されていて、引っ越し祝いに頂いたヒイラギだけが、必死に雪から頭をもたげようとしています。

メールでもチェックしようと階下に下りコンピュータをつけると、見たこともない画面が現れ、突然コンピュータの奥底にしまってあった先月ボローニャで演奏したドナトーニの練習風景の録音がかかりました。どこか間違って触ったかと録音を止めると同時に、新着メールの着信音が鳴ったのでメールを開くと、ドナトーニ作品の演奏依頼でした。亡くなって随分になるのに、案外その辺をフラフラしているのかと思うと、愉快な気分になります。

カナダのマニャネンシから久しぶりに連絡があって、積もる話に思わず花が咲きます。こんなとき、スカイプで顔を見て話せるのは楽しいものです。92年に初めてイタリアに来たとき、最初に会った作曲家がマニャネンシで、彼は当時シエナでドナトーニのアシスタントを長く務めていて、ドナトーニとの関わりはとても深いものでした。ですからどちらともなくドナトーニの話になり、ドナトーニの名著「Questo」を英訳したいと思っている、と聞いてびっくりしました。ちょうど自分も邦訳したい、しなきゃいけないのではないか、とこの所ずっと思っていたからです。

彼曰く23ページまで英訳したけれど、イタリア人でさえ難解な内容だし、何となく意味は訳せても、「彼の言葉」までは訳せず挫折していたと言うので、もう10年前に「Questo」の前書きだけ邦訳して、到底無理だと投げ出したのにそっくりだと笑ってしまいました。100パーセント訳すのは不可能でも、70パーセントでも訳せば、70パーセントは伝えることができる。0パーセントと70パーセントでは大きな違いだ。そうすれば将来誰かが興味をもって、自分よりもっと上手に訳してくれるかも知れない。お互いそんな風に励ましあって、少し勇気が沸いてきたところ。

ボローニャ・テアトロ・コムナーレのマッチャルディからのメール。
「本来なら文化と発展に寄与すべきところ、今の劇場ときたら政治と役立たずばかりが跋扈している。我々関係者の務めは、そんなあるべき姿を目指して粛々と仕事をすることだと思う」ボローニャのコムナーレに来る前、マッチャルディはトリエステのヴェルディ劇場でソルビアティの新作オペラを成功させています。そんな話をソルビアティとしているとき、最初に彼が言ったのは、「このオペラの目玉は経費が安いこと。場面は転換しないからセットは一つで済むし、合唱もない。とにかく安くできる良いオペラを作ることを目指したんだ。お金をかけなければ新しいプロダクションは出来ない、という固定概念を壊したくて」。実際ソルビアティのオペラは素晴らしいものでした。緊張感もあり彼の音楽もとても自然にオペラに溶け込んでいて、劇的要素も充分でした。

ミラノの州立オーケストラ、ポメリッジの音楽監督になったフェデーレと連れ立って、ビゼー「アルルの女」初演版をポメリッジの定期に聴きに出かけたとき、彼が背筋をぴんと伸ばし、初めて音楽を聴いた子供のように目を輝かせてビゼーに聴き入る姿にある種の感激を覚えました。
「ビゼー氏がどれだけすばらしく書けたか!とんでもない才能だよ!
打楽器はもちろん、グランド・ピアノと縦型ピアノが一つずつ、ヴァイオリン7本にヴィオラ1本、チェロ5本にコントラバス2本、ホルンが2本にサックスが1本、フルートを除いて木管は1本ずつという奇妙な編成から、まるでフル・オーケストラのような響きを引き出して、大合唱を支えます。
「目をつぶって聴いてみろよ。この編成なんて到底信じられない!魔法だよ!」
演奏会の真最中に興奮してこう話しかける音楽監督もどうかと笑いましたが、彼のような特にオーケストレーションが上手な作曲家から言われると、さすがに深い言葉です。確かにイタリアはとんでもない不況で、文化やそれも音楽の打撃は想像を絶するものです。そんな中でも信念を持ち肯定的に生きる友人たちはみな輝いていて、活力や生命力に満ちているようにおもいます。

先日のボローニャの演奏会でも、劇場のオーケストラがあれだけ心を砕いて現代作品を演奏する姿をみて、思うところが沢山ありました。最初の練習が始まる前に、駆け寄ってきた演奏者たちが「普段うちらは椿姫とかやっていて、こんな難しい譜面読めないんです。譜面だって貰ったばかりで」と不安そうに話していましたが、実際鳴らしてみればそれは見事で音楽的でした。こんな世知辛い時世ながら、音楽を通して元気をもらうことがたびたびあって、嬉しくなります。

先日ちょうど40歳の誕生日にはサンマリノで大雪のなかクリスマス・コンサートをしていました。前半はサンマリノの童声合唱を伴奏して、後半はニーノ・ロータ。なにしろサンマリノは小さな国でサンマリノ人だけで大オーケストラは出来ないので、イタリア人も多数混じっているのですが、初めの練習にでかけると、セカンド・ヴァイオリンのトップ裏が先日のボローニャのコムナーレのヴァイオリンのおじさんで、会うなり「いやあ先日はお世話になりまして! 凄かったねえ」と声をかけてくれました。何でも今年は子供たちから率先して合唱をすることになったとのこと。昨年一緒に演奏して愉しんで貰えたかなと少し嬉しくなりました。1年ぶりに会うと、子供たちはみんな随分大きくなっていて、声もよく出るようになっていました。

ニーノ・ロータ特集の演奏会の最後を飾るのは「アマルコルド」。このフェリーニの名作はサンマリノの隣にあるリミニの街が舞台で、題名「アマルコルド」も今も使われる方言の言い回しです。「アマルコルド」ではリミニ出身のフェリーニが自らの青春を赤裸々に綴りますが、この辺りの国民性は映画そのままで、ミラノあたりからやってくると正に外国です(たしかにサンマリノは実際外国なのですが)。ですから彼らにとって「アマルコルド」は文字通り心の故郷なのでしょう。携帯電話の着信音が「アマルコルド」になっている人も何人も見かけました。

もう今年も終わりだなんて何だか信じられない気がしますが、気を取り直しとりあえず熱いシャワーで目を覚ましてレッスンに出かけることにいたします。

(12月28日ミラノにて)

教科書――翠の虫籠63

藤井貞和

人虎伝ブームということが昭和十年代かあって、「山月記」はその一つなりしという。
「蜘蛛の糸」のさいご、お釈迦様はなぜ冷たくぶらぶらと立ち去るのでしょう。
ヨーロッパ女性を妊娠させ、廃人になして逃げ帰りし日本人男のはなしが堂々と、
教科書に載せられているのですよ。彼女の眉をひそめしは「舞姫」のこと。
さて子供の、虎と蜘蛛と舞姫とを盤上にのぼせてコックリサンを始めると、
眠たき午後の魔は教室を襲う、こっくりこっくりするぼくらを乗せて先生の船。
虎を教室につれてきちゃ、だめ。天国から地獄を見るのに井戸があるなんて、
だめ。舞姫は表層で、うらに近代文学が燦としてあるさまを読まなきゃあ、だめ。
先生はだめだめだめを繰り返す。繭を解いて彼女は虎になりました、かの日。

(舞姫の連想で、『平家物語』巻五〈覚一本〉の終り「奈良炎上」は、丸腰の平家の軍勢を奈良の大衆が首狩りして、猿沢の池のほとりに六十箇並べたという。それで怒った清盛が大軍を差し向かわせると、奈良阪および般若寺で七千人を擁して城を築き、めちゃめちゃな合戦である。ここに「奈良阪」「般若寺」とあるので、「奈良阪」はいまの奈良阪とちがう。車谷口〈いまのジェーアール線辺り〉あるいはその西の歌姫口が往時の奈良阪だったと、新刊の『平家の群像』〈高橋昌明〉にある。舞姫と歌姫、関係ないか。『中島敦「山月記伝説」の真実』〈島内景二〉も参照する。虎や友情より、「山月」こそが主題だろう。戦乱に明け暮れるというのも背景にある主題の一つである。)

絵巻はどこからか

高橋悠治

絵巻はどこからかわからない複数の視点から描かれていた
それとも視点がない空間なのか
そのなかで
どうなるかわからない筋の絡まりから身を引き剥がしながら
たくさんの登場人物がそれぞれの感じを持って
だが想定される性格からは思いもよらない行動に出る
そういうシェークスピアについてピーター・ブルックが書いていると
小島信夫が語っている本がある
いまここにあるものは
それなりにあるべき理由をもっている
歴史はそれを認めるからつながる
論理はあって道理はないことが重荷になって
状況を変えることはほとんどできないから
まったくちがうことからはじめる
蕉風連句の付けながら転じるとはどういうことだろう
芭蕉がその場で言ったことば
弟子の記録
後世の研究や分析からは
その時そのことばを書いたプロセスは見えない
ちがうことばを書くこともできただろう
付句は発句からあるきっかけを引き出して
予測できない方向に転じる
きっかけは見えないもの
それともそこに欠けているなにか
付けられたことばは偶然とは思えない
と思うのはみかけだけ
添削すればまた別な線ができる
その座にあって生まれ
それを書くひとのことばのそれまでと
息のつける空間がそこにありながら
そのことばには必然もなく
根拠もなくその瞬間に浮かびあがる
書くことばが途切れないように
前の句にたえずもどりながら
ことばのつらなりの
折れ曲がる線は角々の撓みと重みで
ゆれながらかってにうごきだす
ふりかえれば別な入口が見える
通らなかった道の
視野になかった風景のひろがりを隠して
一本の曲線に見えるものは回帰する微分のあつまりで
微係数には平均値がない
偶然でも必然でもないプロセスは
確率とはちがって顔がない
回りながら逸れるこまの軌道

少女の死・2

さとうまき

僕は、オーストリア経由で、イラクに入った。今回札幌の団体から、ダンボール1箱分の薬を託された。たったの1箱なんだけど、抗がん剤がほとんどなのでお金になおすと300万円分だ。重量が18kgも超過してしまい、なんと、チェックインカウンターで10万円払えといわれた。普通は、10万円といっても5万円くらいに負けてくれる。ああだのこうだの説明するけど、まけてくれない。日本は厳しい。

薬の一部はウィーンでオーストリアのNGOに手渡して、イラクに送ってもらう手はずになっており、随分と軽くはなったが、それでも、まだ、僕のスーツケースは2kgオーバーしていたが、ウィーンからアルビル(北イラク)に向かう飛行機では、追加料金をとられることはなかった。そのあと、北イラクの病院にのこりの薬を届け、肩の荷が降りた。

その後、僕はヨルダンに飛んで、サブリーンの描いた絵をポスターにして印刷屋で印刷してもらった。この印刷屋が結構、いけてて、いい感じで作ってくれる。値段も安いのだ。40種類のポスターを印刷した。出来上がったのを眺めていると、なんとも、うれしくなってくるし、そして悲しくもなってくる。しかし、この印刷屋、あせらすと全くダメで、裁断が、少しづつゆがんでいたりするのだ。

スーツケースはすっかりと軽くなったが、そこに、サブリーンのポスター40枚を詰め込み、イブラヒムからもらったサブリーンが生前に着ていた衣服などの遺品を詰め込むとまた重くなってしまった。実際は、行きより軽くなっているはずなのに、なんだか、とっても肩の荷が重い。

イスラームでは、死後40日間は、喪に服すそうだ。日本でも49日というように、それくらいの日が経てば、悲しい気持ちも癒されることになっている。でも、なんだか釈然としないものがある。イラク戦争って一体なんだったんだろう。子ども達に降りかかった爪あとは、しっかりと検証してほしい。

12月2日(水曜日)、新宿カタログハウス 地下2階で、サブリーンのお別れ会をします。会場には、B2サイズの40枚のポスターを展示します。18:30〜21:00 お問い合わせ:JIM-NET(03-6228-0746)

擬態・2――翠の虫籠62

藤井貞和

擬態語の     はらはらと      わらわらと
 気体燃料     木の葉隠れの     革命家立つ
  北一輝      虫のいろ       まぼろしや
   期待外れの    熱き心に       夢より覚めて
    季題が一つ    眠る越冬       枯れ葉の擬態

(大手コンビニエンスストアに似せた風俗向け無料案内所〈大阪市北区〉。ファミマのそっくりさんです。文法用語に言う「擬態語」と「擬音語」との区別がどうしてもわかりません。「はらはら」は擬態語なのか、擬音語なのか。最近の発見、このまえ言いましたか、擬態語も擬音語も「らはらは」とか「たかたか」〈「かたかた」の逆〉とか、成り立たないのです。音順というのか、「擬」にはしっかりあるらしい。)

オトメンと指を差されて(18)

大久保ゆう

つい最近のことですが、ケータイ小説を書きました。この原稿がみなさんの目に触れるころには、もうすでに連載も開始され、クリスマスに配信される最終回に向かって物語が進んでいるかと思われますが、その件については私のブログでも見てもらうこととして、今回は創作についての話でも。

ケータイ小説というと、とかく批判されがちです。稚拙と笑われたり、内容がくだらないと言われたり、あるいは子どもにとって不道徳であるとか成長に悪影響を与えるとか云々。

けれども自分たちが子どもだったころを振り返って、何が好きだったか思い出してみると、それもまた大人たちから「くだらない」と言われたものだったりして、そんな発言に傷ついたり腹を立てたりしたものです。私の世代だとTVゲームがそうでしょうか。

しかし結果として私たちが悪い人になったかというとそうではなく、ゲームをしていた大部分の子どもたちは普通の大人になっています。結局のところ何ともなく、むしろ遊ぶことで人生のあれこれを学ぶことも少なくありませんでした。

ところが大人になった子どもはそのことを忘れ、新しい子どもたちが楽しむものをけなして取り上げようとします。自分がやられてむかついたことを、かつての子どもたちが同じようにしているというわけで。

こういう構図がずっと続いてきたのだと思います。たとえばマンガやテレビといった新しい娯楽メディアが現れたときには。

それでも、今の私がひとつ思いを馳せることができるとすれば、そういう状況にあっても、子どもだった私たちに「おもちゃ」を作ってくれた大人たちがいたということです。

だから私はいつも、罵倒するより禁止するより、「おもちゃ」をつくる方に回りたい――そう思います。少なくとも自分にできるのは、ひとりの創作者として「ケータイ小説」というジャンルを考え、これを洗練させて整え、子どもたちが面白いと思うものをつくろうとすること。

ケータイ小説とはいったい何なのか、という問いには、おそらくまだはっきりとした答えはないのだと思います。メディアとして若すぎるがゆえに、あるいは成長の途上にあるがために。

そこでいろいろと試してみました。ケータイ小説そのものを読んだり、様々な作品をケータイ小説のフォーマットに流し込んだり、実際の作品として書いてみたり。

その過程で気づいたのは、「どうしても客観的描写が浮いてしまう」ということです。どんな文豪の書いた文の綾でも、自分のつづった言葉でも、携帯電話の小さな画面に映し出されたとたん、意味の声が消え去ってしまうというか、届かなくなってしまうというか、はがれてしまうというか……画面と自分のあいだで、意味がばらばらになって四散してしまうというか。

もちろん携帯電話には電子メール機能があって、私たちは日々それを用いて言葉を交換しているわけですが、ふと考えてみたとき、あまり客観的な文章を送ってはいないことに思い当たります。手紙というよりもほとんど会話に近いものですし、描写よりも気持ちを載せてつづっています。

しかも時に言葉はかなり断片化され、大胆に記号化もされます。それは今まで私たちが使ってきた日本語なるものの実態とも規範とも違っています。

そうすると、この携帯電話なるものは、私たちが普段使っている様式から考えるかぎり、「心と会話しか載らない新しい記号体系の運搬デバイス」ということができるでしょう。

そしてまた、この島国で少女マンガの文法が心と会話を軸として、かなり特殊な発展をしたことを考え合わせると、ケータイ小説が少女のなかで生まれたというのは、どこかうなずけるものでもあります。

であるとしたら、今ここでできるのは、この携帯電話の記号体系というものを物語りに最適化させて、その上で本質的なケータイ小説なるものを展開させること。たくさんのケータイ小説のなかで、萌芽として生まれている核のようなものをかき集め、整理し、まとめあげ、そこから新しい文学の可能性を拓いてみせること。

そうしてみてはじめて、ケータイ小説独自の文体や表現が手に入るのだと、「よりおもしろいもの」ができるのだと、そう私は考えています。もちろん、ケータイ小説以外にも同じことが当てはまるわけで、私はそうしてきた先人たちに深く敬意を抱くものでもあります。

けして直接的ではありませんし、表にも出てきませんが、誰か・何かに対するその種の敬意が創作という行為を駆動させることもあるのだと、強く感じています。

1960 年代のインドネシアを視た人

冨岡三智

11月、ベネディクト・アンダーソンの講演、「革命後のジャカルタ-アクセス可能な都市」を聞きに行く。アンダーソン(長い名前なので、失礼ながらこの後は彼と呼ぶことにする)は政治学、東南アジア学の専門家で、あの「想像の共同体」の著者である。タイトルの「革命後」というのはインドネシアが独立した1950年代から1960年代半ばまでの、スカルノ時代を指している。彼は1960年代前半にインドネシアで調査していて、今回の講演は、1960年代の都市ジャカルタが、さまざまな文脈においてアクセスしやすい都市だったことについて語るものだった。

アクセスのしやすさというのは、ジャカルタのメイン通りでさえべチャ(輪タク)や自転車がまだ走っていて、車が少なかったこと、だから今のように都市は暑くなかったこと、今のように高い壁と守衛によって守られた高級住宅コミュニティーは存在せず、主人と召使の居住空間を分ける外と内を分けるエアコンもなかったこと、大統領宮殿で催されるワヤン劇は民衆に開放されていて、政治家も、大学、学校も近づきやすかったこと、売春婦や狂人らも特定地区に閉じ込められていなかったこと、ストリート・カルチャーが生きていたこと、敬語をもたないインドネシア語が日常的に話されていたこと、などを言っている。

現在のメトロポリス・ジャカルタしか知らない私にとっては、信じられない光景だ。けれど60年代のジャカルタを懐かしげに語る彼の口調を聞いていると、私の留学していたソロ(=スラカルタ)の町の、90年代後半の雰囲気とあまり変わらない気もする…。ソロではいまだにべチャが走っている。高い壁で区切られた空間といえば、王宮があるけれど、逆にそれしかない。それに今ではだいぶ崩れてきたとはいえ、王宮より高い建物を建ててはいけないという不文律があったから、市内には高いビルもなかった。ストリート・カルチャーだって生きているから、夜ごはんを食べに屋台に行くと、流しのミュージシャンに出会える…。

この講演に強烈に惹かれたのは、実は1960年代という点にある。いろんな芸術家にインタビューしていても、1960年代の状況というのが一番分かりにくい。それは、1960年代末で政治や世代が大きく断絶しているからなのだ。インドネシアでは、1965年9月30日の事件でスカルノ大統領が失脚し、1968年にスハルトが正式に第2代大統領となるまで政治的混乱が続いた。その間に共産党が非合法化され、大粛清されている。

ソロで活躍する舞踊家には、1940年代後半から1950年代前半の生まれの人が少ない。それ以前の生まれの人達は、現在の芸術学校の基礎を築いたり、スタンダードナンバーの作品を残したりした世代の人々である。そして、芸術大学の教員に多いのは、1950年代後半から1960年代前半の生まれの人たちである。彼らは、1970年代の、スハルト大統領の経済開発政策に伴う伝統芸術復興の気運に乗って、芸術高校から芸術大学に進学し、そのまま芸大教員になったという、恵まれた世代である。そして、両世代の谷間の世代というのは、1960年代にソロで芸術高校を卒業したものの、就職先がなくてジャカルタに出て行った人達が多い世代なのである。そんな谷間の時代の1960年代というのは、どんな雰囲気だったのだろう。そして、そんな谷間の世代が集まったジャカルタが、現在のようにメトロポリスとして発展するのは1970年代以降のことである。

ここで、彼(アンダーソン)のことに話は戻る。彼の講演を聞きたかったのは、そんな1960年代の様子を知っているという以上に、その頃にソロの王宮に入っているからなのだ。そのことで、1つ彼に直接聞いてみたい質問があったのである。彼は当時コーネル大学の大学院生で、1963年にティルトアミジョヨという、コーネル大のインドネシア人留学生と一緒に、ソロの王宮の即位記念日の式典を調査している。ちなみに、このティルトアミジョヨは、バティック作家として有名なイワン・ティルタのことである。ジャワの宮廷舞踊として有名な秘舞「ブドヨ・クタワン」は、この即位記念日のときだけ上演されるのだが、その内容が一般に知られるようになったのは、この調査報告を通してだと言っていい。ついでに言えば、コーネル大学の東南アジアプログラムが出版する雑誌「インドネシア」の第3号(1967年)に、彼とティルトアミジョヨのレポートがそれぞれ掲載されている。

私が王宮の人々にインタビューしていたところによると、1960年代が宮廷舞踊の一番の危機だったという。王宮の女性の踊り手は、かつては幼少から後宮に住み、長じては王の側室になる人が多いのだが、1960年代にはそんな踊り手ももうほとんどおらず、必要な9人の踊り手を揃えるために、年長者が踊ったり、外部から踊りの上手な人を招いたりもしていた。現在ジャカルタで活躍するレトノ・マルティ女史もその1人である。宮廷で最も重要な儀礼舞踊「ブドヨ・クタワン」を踊るのは穢れなき処女でなければならず、花嫁の衣装を着て、花嫁のように額に剃り込みをし鉄漿を施して踊るのだが、鉄漿をしなくなるのも1960年代のことらしい。多くの招待客を迎えて華々しく行われ、宮廷の威信を振りまいている「ブドヨ・クタワン」が1960年代には廃れかけていた、というのも現在となっては信じがたい。

けれど彼も、1960年代のソロの王宮は、メランコリックな気分に満ち満ちていたと言う。「ブドヨ・クタワン」は、いま見ておかねば、いつ廃止になってもおかしくない、という雰囲気だったと言う。人数が足りないため、すでに盛りを過ぎた踊り手が踊り、当時すでに王は王宮には住んでおらず、ジャカルタからやってくるだけになっていた、と語る彼の口調は、ソロの王宮の人々の誰よりも苦悩に満ちていた。現在の王宮の人たちは、再び隆盛した現在の王宮の状況を知っている。けれど彼は、1972年に政治的な理由でインドネシア入国を禁止されて以来、スハルトが退陣する1998年まで彼の地に足を踏み入れることがなかった。彼の記憶は、1960年代始めの宮廷の空気をそのまま冷凍保存しているように見えた。

私がこのソロのことについて彼に聞いたのは、講演会が終わって懇親会になってからのことなのだが、その語り口を聞いて、彼に思い切って聞いてみて良かった、とつくづく思った。その時代の空気を「彼」がどのように体験したのかということは、いくら彼の文を読んでみても分からない。論文とか調査レポートというのは、そんな「私」を入れ込まずに客観的に書かれてしまうからなのだ。

また、彼はきれいなインドネシア語で話してくれたのだが(私が英語でなくてインドネシア語で話して良いかと断ったもので…)、その話す姿には、思わず「バパッ(インドネシア語/ジャワ語で年長の男性に用いる尊称)」と呼びかけたくなる何かが彼にはあった。谷間の世代以前の、私の舞踊の師のジョコ女史なんかが持っていたような佇まいに似ている。70年代より以前の時代を知っている人の佇まい、なのかも知れない。

四辻のブルース

仲宗根浩

信号がない交差点。こちらは右折しようと右ウィンカーを出し、直進する対向車が過ぎるのを待つ。対抗車の窓から手が出てこちらに早く右折するよう促す。あれっ、と思ったら車はYナンバーではなかったがドライバーがアメリカさんだった。アメリカなどでは交差点での優先権は先に入ったほうにある。基地の中でもそのルールだ。ちょいとお礼に手を挙げそれに従う。車のルールは地方性があるらしいが、こちらで車を走らせるとまずYナンバーには注意する。交差点、車間距離とか。その土地のルールはからだに染み付いているのですぐには順応できない。観光で来るひとは最近レンタカーばかり。「わ」ナンバーと「Y」ナンバーの事故現場に遭遇すると、「あ〜、やってしまったのね。ここは基地の街なんだよ。」と遠目で眺める。観光ガイドにそこらへんの注意は書いてないのかいな。

ちょっと小銭がたまったので久しぶりに最新のマックの購入でもと考える。メール環境はいまだにマック。それもマシンはシェル型iBook。メールソフトはOSX上でのクラシック環境。過去、OSは6.0.7の日本語版から始まり、6.0.8英語版、7.1の英語の混在した環境のあとOS8.1から8.6(これが一番使いやすかった)、9.2を経てOSX10.1から10.3の今の環境のままだらだらと。ネットショップで欲しいソフトなど最低限のカスタマイズで見積もってみたら家賃半年分になったので諦めた。諦めたがすぐ貯めるほうにまわさないのはいつものことで、長い間手直しもされずにほったらかされたギターが二本、これを復活させようと大修理に出す。一本は十三のときに買ったもの、もう一本は十八のときに知人から買った、三十年前の代物。家賃二カ月分くらいかかって見事蘇る。弾くと楽しい。今どきこの値段で単板のものなんて手に入らないし、しっかり鳴る。うかれて弾いて夕方仕事に行き帰ってきたら、ついクリック予約してしまったマイルス・デイヴィスのコロンビア時代のコンプリート・ボックスセット、というのが届いていた。とりあえず重要な70枚組であること、円高でかなり安いことを説明する少し必死な自分がいる。

断然、ノスタルジア虫ぼし済み

くぼたのぞみ

切りそこなった
檸檬の薄切りみたいな
半透明の月が浮かんでいる
霜月のそらに
きみを思う

あのころ
ポーズとしてさえ
拳ふりあげることのできなかった
きみを思う

あのころって
そう
へその見えそうなラッパズボンに
男も女も
長い髪たらして歩いていた
あのころのことだよ
おまけに男は 黒ぐろと
髭まで生やしていたな

なつかしくはないけれど
思い出すのさ
霜月のそらから
陽が温暖に降りそそぐと
きみのことを
それは地球を裏返した
半焼けの
あたしのことでもあるから
かな、やっぱり

櫛の歯がこぼれて
ひとり ふたり
またひとり
雲のなかに旅だっていく
でも、あたしが準備するのは
泪でこねた泥濘なんかじゃない
ほろっと乾いた古タオル
ぬくぬくさらり
包まれて
風が花ばな揺っている
断然、ノスタルジア虫ぼし済みの
ことばの経帷子だ

白くなった
きみの髭も
そこに織り込んでくれない?