2014年11月号 目次
アブ・サイードがやってきた
イラク戦争時米軍の空爆で、大怪我をしたムスタファ。当時8歳が20歳になった。あの大怪我から良く立ち直ったと思う。今では、不自由なく歩けるようになった。ジャーナリストの土井敏邦さんが取材してTVで報道されたので、募金が集まり、手術を受けることが出来たからだ。
今回は、私たちのローカルスタッフのアブサイードが世話役として一緒に来日し、スピーキング・ツアーを行っている。東京、沖縄、福島、長崎を回る予定だ。
一日、土井さんに預けて鎌倉見学をすることになった。同行したスタッフからメールが入り、「アブサイードが泣いています」「え? ムスタファじゃないの?」後で聞いてみると「ドイさんとは、ファルージャとか危ないところにいって、取材を手伝ったんだ。10年ぶりにあったので思わず泣いてしまったんだ。」とアブサイード。ムスタファは、「僕も泣いちゃったけど、誰も気がついてくれなかったよ」
主役を食ってしまったアブサイード。
スピーキング・ツアーではほとんど出番のないアブサイードだが、彼自身の生い立ちがおもしろい。1953年にバグダッドで生まれた彼はパレスチナ人。両親はハイファの出身で、1948年のイスラエルの建国で、父は銃を取り、家族は、トラックに乗せられイラクへと避難した。数年後父は、ようやくバグダッドの家族を探し当て、アブサイードが誕生する。17歳のときはPLOに参加する。
その話は、みんなの前でしてもらおうと、急遽パレスチナ関係者を集めて、囲む会を開催した。アブサイードはしょっぱなから飛ばしまくった。
パレスチナ人は、政権下では、小さなアパートに家賃も払わずに暮らしていた。サダムが接収したアパートを、パレスチナ人にあてがったのだ。サダム政権が崩壊すると、大家だと名乗る男たちが、銃を持って追い出しにきた。お金に苦労していたアブサイードは、たまたま道端で出会った僕に仕事をくれと擦り寄った。アブサイードはいかに情けなくすがりついたかを説明した。
バグダッドを追放された友人を紹介すると、目に涙をためて、「バグダッドで起こったテロは全てパレスチナ人のせいにされた。そして、何もかも奪われ、これからも奪われ続けるのだ。人間としての権利が奪われてしまった。なぜなら、パレスチナ人だからだ!」アブサイードの涙は、説得力があった。彼の額に刻まれた皺は、じじいのしわでなく、パレスチナの尊い歴史が刻まれていた。少なくとも私には輝いて見えた。おそらく、会場にいた全ての人たちにとってアブサイードは、太陽のように光り輝く爺さんに見えたと思う。
翌日は、ムスタファ君の話を聞く会だった。11年前の映像を見ていると、隣でアブサイードの目頭が熱くなり、涙があふれていた。「また泣いている。。」どうも涙腺がゆるくなってしまったらしい。
こんな爺さんを、いつの間にかスタッフにしてしまい、給料を払い続け、日本にまでつれてきてしまったこと。僕は後悔はしていない。いや誇りにすら思っている。
11月8日は、東京での記念イベントです。
是非皆様お越しください。
http://jim-net.org/blog/event/2014/10/-118jim-net102015.php
まだ若い
荘司和子 訳
若者なんだからこころが騒ぐ
創作したくてうずうずする
考えたこと 読んだこと
等しく知識になった
歳とってないよな
誰かと同じだ
長く遠い道のりを後ろに曲がると
ダムが溢れるみたいに
ものがたりが押し寄せる
こころの中に繰り返す音が
歌になって
みんなに聴いてもらう
どうしたってこうしたって
こころがまだわくわくする
夢みた空の果てがきっと見える
いのちが尽きない限り
これからだって
歌を創るパワーがあるさ
こころはまだ若者だから
みずみずしい
何を見ても美しくて鮮やか
あの娘の微笑みに目が覚め
こころはざわめき
紅い炎が燃え上がる
アルバム『きみの名前の本』より
アジアのごはん(65)ココナツオイル
なんか太った‥。6月頃からお腹のまわりが妙にむっちりしてきた、と思ったらわき腹がもったりつまめるようにまでなった。まずい。身体の輪郭が広がっている。人生最大の太り具合だ。ジーンズも入らない。なぜこんなにむくむくとお腹のまわりに脂肪が? その原因の心当たりは一つしかなかった。4月からココナツオイルを熱心に食べ始めたのである。ココナツオイルは食べても太らないんじゃなかったのか? しかしどう考えてもこのお腹の脂肪はパクパク食べているココナツオイルの分だろう‥。
今年の2月タイで自然食品店に行った時、タイ人の友だちのプンちゃんが「これ、口に含んでぷくぷくすると歯と歯茎にすごくいいんだよ、身体にもすごくいいんだって」と棚から取って差し出したのはココナツオイル。「え〜そうなの?」と答えたものの、内心「ココナツオイルはたしか植物製オイルの中では飽和脂肪酸で身体にすごく悪いのに、何言ってんの」と思って聞き流していた。タイの自然系の店にココナツバージンオイルが置かれるようになったのは最近のことだが、それもあまり気に留めていなかった。
そしてタイから帰って4月、久しぶりに近所の「おからはうす」に遊びに行くと、店主の手塚さんが「ヒバリちゃん、ココナツオイルよ!すごいのよこれ!」とわたしの口にスプーンでその油を突っ込んだ。「え、あ〜、うん、おいしいね、これ」「すっごく体にいいんだって」「その話どこかで聞いた‥」
「ココナツオイルは身体によい」という話を二つの国で聞いたので、さすがにネットで調べてみると、なんとココナツオイルは身体に有害どころか、とても健康に良さそうであり、その愛用者たちの熱い語りもすごい。ココナツオイルが身体に悪いというのはウソだったのか?
さっそく「ココナツオイル健康法〜病気にならない・太らない・奇跡の万能油」(ブルース・ファイフ著 WAVE出版1400円)を入手して読んでいたら、ちょうど訪ねてきた友だちが「なにこの本!」「え?」「こんなに思いっきり付箋の着いた本初めて見た〜」と言う。いや、たしかに付箋だらけだ。ページを繰るたびに「これは!」とか「ええ、すごい」とかうめきながら重要と思われる個所に付箋を貼って行ったらほとんどのページに付箋がついてしまったのである。
ココナツオイルは飽和脂肪酸だが、飽和脂肪酸の中でも中鎖脂肪酸という脂肪で、この中鎖脂肪酸はたいへん酸化しにくく、フリーラジカルが生成されることが少なく、吸収されると体脂肪になりにくく、肝臓でそのままエネルギーに転換され(胆汁の必要なしで消化されるので、胆嚢を摘出した人でも食べられる)、コレステロールに影響を与えず、心臓病を防ぎ、血栓を溶かし、糖尿病を防ぎ、有害な細菌やウイルス、寄生虫を殺し、免疫を向上させてガンやそのほかの病気を予防する。肌にも髪にもよく、そのうえケトン体にも転換されるのでアルツハイマー病の予防にもなるという。とにかく奇跡の万能オイルらしいのだ。まだまだ効能はあるのだが、興味のある人はぜひ「ココナツオイル健康法」を読んでみてください。
ココナツオイルが身体に悪いというのは、じつはアメリカの大豆油業界のプロパガンダによる作り話であったというのも驚きだ。何気なく当たり前だと信じていることが、一部の利益のために造られたウソであるということを、いったい何度気づかされればいいのか。
しかし、すばらしい成分で健康に大変よい油であっても、不味ければどうしようもない。その点はいきなり口に突っ込んでくれた手塚さんのおかげでクリアー済みだ。ただ、あの甘い匂いはふつうの料理にはちょっと合わないだろう。彼女が試食させてくれたのはバージンココナツオイル。低温プレスのバージンオイルがもっとも体に良いのは間違いないが、これをそのまま薬みたいに食べるというのも、ちょっと。コーヒーや紅茶に入れるという方法もよく紹介されている。試してみたが、おいしいとは思えなかった。ここは今まで使っていた炒めものや揚げ物の調理用油をココナツオイルに置き換えるのが一番簡単で有効ではないか。
探してみると、ココウェルという会社で販売しているココナツオイルに、精製したタイプの匂いのないプレミアム・ココナツオイルというのがあった。精製といっても溶剤でなく炭と石灰でろ過しているので、安心である。それを取り寄せて使ってみると、クセがなくおいしいし、使いやすい。500ミリリットルで1000円、と同じココウェルのバージンオイルの三分の一のお値段。
まずは、調理用のオイルとして使ってみる。ココナツオイルは25℃前後で固まるが、固体の時は湯煎で溶かして広口瓶に保存し、スプーンですくって使う。保存は常温で問題ない。夏になって、常温で液体になったらオリーブオイルの壜などに入れて使うとよい。一日大人で大匙2杯を目安に摂る。
ココナツオイルを食べ始めて2週間、3週間‥。しょっちゅう起こっていた「あれ、あの名前なんて言ったっけ」現象があきらかに減った。アルツハイマーではなく年頃になると静かに進行してくる「名前が思い出せない」あれである。それが、「あの名前は‥‥ああ〇○」と少し考えると何か水の底からゆっくり浮き上がってくるような感じで名前が出てくるのだった。少し太ってきたので、あせってココナツオイルを食べる量を減らしたら、とたんに名前が出てこなくなった。おそるべしココナツオイル。
しかし、ココナツオイルは余分な体脂肪を減らす働きがあるというのに、なぜ太る? しみじみ考えてみると、オリーブオイルや菜種油と替えて使っているのだが、今まで何も塗っていなかった朝のパンにこってり塗り、炒めものにはいつもより多めにココナツオイルを垂らし、サラダにもたくさんかけ、とせっせと食べているのだからこれまでの油の摂取量よりかなり多くなっている。大匙2杯どころか3、4杯ぐらいは食べていたかも。
これまでの毎日の油分の摂取量が大匙2杯あったとも思えない。ココナツオイルの分はそのまま体脂肪にならなくても、エネルギーとして優先されて使われると、他のタンパク質や炭水化物からのエネルギーが余り、それが脂肪として蓄えられていく。要はいくら身体に良いと言っても、食べすぎだったのだ。年齢的にも代謝が落ちてきたことも影響があるかもしれない。そういえば、おいしいオリーブオイルを入手した時も何にでもかけて食べてすぐ太った記憶がある。油の代謝があまりよくない体質なのかも。
とにかく、たくさんココナツオイルを食べるなら、その分ほかのカロリーを減らすか、カロリーを消費するしかない。ええっどうする。さすがにこのわき腹はまずいだろう‥。まずはいつもの適正体重に戻らなくては。でも、食事を減らすダイエットなんてしたくない。
そこで、思いついたのがトウガラシ効果である。長い間のタイと日本との往復生活でワタクシは、トウガラシが代謝を上げ、たくさん食べ続けていると身体がシェイプされていくことは身をもって知っている。8月からひと月半タイに行っていたのに、今回ちっとも痩せなかったのは、あまり辛い料理を食べていなかったせいだろう。
ちょうど9月の終わりからタイのカラワンを招聘しての日本ツアーで、お世話係となっていて後半は引っ越したばかりのわが家で合宿だった。毎日タイなみに辛い料理を作ってカラワンたちに食べさせていた。これをこのまま続けてみようじゃないかっ。というわけで、カラワンたちが帰国しても、辛い料理を食べ続けている。いつも野菜炒めなどに入れるトウガラシの生潰し(ナムプリック)の量を小さじ山盛り1杯から2〜3杯に増やし、日本料理の時は一味を3倍ぐらいふりかけるようにしてみた。なるべく遠くまで歩いたり、ストレッチも心がける。もっと運動すればなおいいのだが‥。
カラワンツアーが終わって3週間たった今現在、わたしのわき腹はあまり掴めなくなった。すばらしいぞ、トウガラシ。
ココナツオイルは素晴らしいが、適正な量を食べることが大切なのだ。いくら油を食べても太らない体質の方は、どうぞ好きなだけお食べ下さい。おすすめの食べ方はやはり、いつも使っている油を精製タイプのココナツオイルに替え、いつものように使うことだ。揚げ油にはちょっと高価ではあるが、170度以下では酸化しにくいので最高の揚げ油となる。
精製タイプならとくにココナツオイルを使う特別な料理など考えなくてもいい。そして、朝のトーストのバターをバージンココナツオイル+塩に替える。乳製品と酸化したオイルが食卓からなくなることは、あなたの免疫にすばらしい効果があるはず。
ココナツミルクやココナツクリームも、もちろん中鎖脂肪酸が豊富なので、お菓子やタイカレーに使ってみてください。ココナツクリームのKARAというインドネシア産のものが大変おいしい。
好きなものを、100個
『「自分」整理術―好きなものを100に絞ってみるー』(山崎まどか著/2014年5月 講談社)という本の背表紙と目が合って、本屋の棚から抜き出した。
「「自分」というクローゼットを棚おろし」という言葉が本の帯に書いてある。ふと開いたページに載っていたのは、ブロッサム・ディアリーの『ONCE UPON A SUMMER-TIME』というアルバムのジャケット写真だ。「1950年代から1960年にかけてニューヨークやパリのサパー・クラブでピアノを聴きながら愛らしい歌やスキャットを聴かせていた彼女は、60年代後半にはロンドンに渡って素敵なオリジナルナンバーを披露している」という解説がある。ふわふわした金髪のショートカット、にっと笑う大きめの唇。彼女が視線を向ける右端には、彼女のものだろうか、協力して眼鏡を運んで来るツバメたちのイラストが描かれている。山崎まどかの好きなもの、1番目だ。ブロッサム・ディアリーの事は全く知らなかった。「ジャズの世界では決してメジャーな歌手ではありません。ブロッサムは一見可愛らしいけれど、自分のユニークなスタイルを貫き通した信念の人でもあるのです。」という愛情のこもったコメントが続く。
なかなかいいじゃない。と思ってページをめくると、好きなもの2番目は、90年代のはじめに出版された角川文庫の「マイ・ディア・ストーリー」という、海外の少女小説の復刻を目的としたシリーズだ。このシリーズを編集したのは少女小説家の氷室冴子さん。山崎さんはこのシリーズによって大学時代に少女小説に再入門したという。赤いギンガムチェックの表紙がかわいらしい。
6番目の、映画『すてきな片思い』のモリ―・リングウォルドの瑞々しい横顔と、24番目のウエス・アンダーソン監督の唯一無二の立ち姿を見た時点でこの本を買おうと決めて、あとはゆっくり楽しんで読んだ。
ブロッサム・ディアリーについて、山崎まどかは「趣味のいい人たちの密かなお気に入り」と書くのだが、それはこの本で紹介されている100個の好きなもの全部にあてはまる言葉だ。好きなものが共通している楽しさというものもあるが、目利きに密かなお気に入りを教えてもらう楽しさがこの本にはある。しかも、「趣味がいいでしょう」という自慢話にならないのは、山崎まどかが切り取った写真(ビジュアル)と紹介するコメントが素敵だからだろう。独特の感性で好きなものを(嫌いなものも)数え上げるのは、『枕草子』から続く女の子の伝統なのだ。
彼女があげた100個のほとんどを知らなかったのだけれど、37番目に「片岡義男の小説を発見する」という題名があって、びっくりする。山崎まどかがあげるのは、『少女時代』という、片岡作品としてはレアな小説だ。「もし彼の作品を英語に翻訳したなら、それを読む海外の読者は、主人公たちが交わす禅問答のように神秘的な会話を非常に日本的だと思うのではないでしょうか。」という見方がとても新鮮だった。片岡の文体を翻訳的だという人は多いが、英訳するという逆の発想を持った人は、これまでほとんど居なかったのではないだろうか。
「ワードローブを見直すように、時々は好きなものの見なおしをして、少しずつ入れ替えて私なりの大人になっていけばいい」というのが、ハウツーものとしてのこの本のコンセプトだ。好きなものを100あげてみたら「ずっと好きなもの」「新しく好きになったもの」「キラキラしたもの」「憧れを含んだもの」「定番のもの」の5つの項目にわけて、それが好きな利用について考えていく。その作業を通じて自分を発見しようという事だ。
私もためしに、好きなものを指折って数えてみる。今は、きちんと整理整頓された気持ち良さを夢想するのみだ。私というクローゼットはまだ当分散らかったままだ。
久しぶりに
久しぶりにちょっと用事で大阪へ行く。なんか高いビルが昔より増えている。二十代の頃は年に四、五回行ったこともあったが。帰る日の朝、スーパーマーケットをひたすら探しどろソースを入手。何年か前に業務用の食材を売っているスーパーで見かけたがボトルがでかいのでとうてい使い切るはずもなく買うのを諦めた。家庭用はネットでも購入できるが送料やらなんやらで高くなり、そこまでして注文しようとは思わない。大阪で見た原哲男のコマーシャルが懐かしい。メーカーは神戸だけど。
旧体育の日、いつの間にか十九号は沖縄直撃となっていた。一週間くらい前、台風が近づくとよく見るアメリカ海軍の台風の進路予想のサイトではこの前と似たようなコースだったが直前で変化。仕事帰り、家の近くの信号は消えている。家に戻るとたまに停電。点いたかと思うとすぐ消えたり。たてつけが悪くなった昔のアルミの窓はがたがた、雨と風があたる音でうるさい。翌日朝電話が入り、仕事は休みとなる。窓を少し開けると、雨と風は磯の香りが少しする。窓を叩く風、雨の音でテレビの音も聞きづらいのでヴォリュームも大きくなる。夜の十時位からか雨風の音がなくなる。台風の目に入ったのだろう。目を過ぎると吹き返しでまたうるさくなるはずが、翌日の朝になっても吹き返しがない。暴風域の縁が風が強い変な台風だった。台風が過ぎるとかなり涼しくなったがしばらくすると暑さが戻る。三十度を超える気温にはならないが湿度が高い。クーラーはいらないが扇風機まだまだ必要。
最近、ビデオテープからDVD-Rにダビングしたものが続々と再生できなくなった。念のためハードディスクにイメージでも残しておけば良かったと悔やむ。まだテープは処分していないものもある。これは大事に取っておこう。DVD-Rは寿命が短い気がする。メディアが原因か規格が原因か。もうしばらくするとメディアも無くなるんだろうなあ。家にある一番古いCDは1986年プレスのもの。まだ再生できる。
風が吹く理由(7)心音
窓の外の景色にiPhoneのカメラを向け、録画のボタンを押す。波打つ海はインクブルーの濃淡で水面に網目の模様を作り、生命を持った何かのようにもこもこと隆起と沈降を繰り返す。まるで芋虫の背の動き。
遊覧船は波を割って進む。窓の下では、白い引き波が激しい飛沫をあげている。秋の日暮れは早い。西日が波頭に当たり乱反射する様子を眺めていると、私にはそれが小さな妖精が忙しく踊っている姿にも見えてきて、また、硬い床に、ぶつかるように触れるバレリーナのトウシューズのつま先のことも連想され、加えて、金色の何かが粉々に砕け散る、正確には砕け散り続けているようにも思われた。
ボタンを再度押し、録画を終え、小さなディスプレイで動画を再生してみると、船は思ったよりも速い速度を保っているらしい。目で見るよりも、波の動きも光の動きもずっと早く、コマ落としのフィルムのようだった。
エンジンの音。振動。顔をあげて、再び窓の外を眺めると、水面から頭をのぞかせた岩の上で、鳥が数羽、休んでいる。あれは何と言う鳥なのだろう。カモメ。ウミネコ。私にはその違いがわからない。
水平線。今日は一日よく晴れていた。私は心の中で、なんて綺麗なのだろう、と呟く。空も綺麗。海も綺麗。陽の光も綺麗。素晴らしい。そして、私はひどく暗い気持ちになるのだった。
もう慣れている。いつものことだ。こうして東京を離れ、自然の中に身を置くと、私はそこで目にする世界に圧倒され、感嘆の声をあげるのに、同時に強烈な疎外感に苛まれる。部外者として突き飛ばされたような、鼻先でバタンと扉を閉められたような気持ち。そんな時、慌てて辺りを見回すと、大抵、人々は安らぎを覚えたような表情をしていて、それがさらに私の孤独感に追い打ちをかけるのだった。
人間の誰にとっても、自然は安らげるものとして存在しているのだろうか。自然を前にすると、寄る辺ない気持ちになるのは私だけだろうか。母なる大地という言葉があるけれど、もちろんどんな意味で使われているのかもわかっているけれど、最も身近な土はベランダに並べた植木鉢の中にあり、私にとって地面とはアスファルトで覆われた道である。アスファルトの上を革の靴で歩く暮らし。靴の底がすり減ったら、修理に持って行く暮らし。歩く時には、カッ、カッ、カッというヒールが鳴らす小さな音。それが私にとって歩く音。大地と私が作る音。
船着き場が近づいてくる。とても綺麗だった。楽しかった。本当に美しい。そこまでは言える。誰にでも言える。誰もが頷く。私たち一緒ね。同じように感じているのね。だけど私には続きがあるのだ。
―でもその美しさを懐かしく思う記憶が私にはないの。
眩しいのにずっと見ていた波間の光。だけど私の頭の中には別の光が点滅していた。誰に話したらいいのだろう。そもそも私と同じような気持ちであの赤い光を眺めている人はいるのだろうか。街の灯りを受けて暗くなりきれない東京の空に浮かぶ高層ビルのシルエット。その輪郭を示しながら、ゆっくり静かに誰の心を招くでもなく毎晩同じリズムで明滅するあの光。
―あれはね、航空障害灯という名前なんですって。
それは、私が生きた年月の中の多くの時間、私の視界に当たり前にあったもの。私の記憶と現実をきつく結びつけて留めているもの。私はそれを目にする時、自分がいるべき場所にいると感じる。海や山を観ている時のような居心地の悪さは感じない。子供の頃から好きだったもの、寄り添っていたもののそばにいる気持ち。
―私、ほっとするのよ、あの光を観ていると。
昔、一度だけそのことを話したことがある。窓ガラスに手をあてて。
私の好きなあの光は、ゆっくり光るの。
心音みたいにゆっくり光るの。
信州にて
もう30年以上前になるけれど、学生時代、ゼミの追い出しコンパと言えば、決まって松本の老舗の木曽屋という田楽や土壌鍋などを出すお店で催すのが決まりだった。当時の会計がどうなっていたのか覚えていないが、学生はひとり数千円を出して、腹いっぱいに食べて、ビールや日本酒をきちんと飲んでいたような気がする。当時は今と比べると安かったとはいえ、蔵造の木曽屋が安かったとは思えないから、先生たちがいくばくかを負担していたに違いない。当時、いっぱい食べた後、なぜかでてくるシソ飯を汁物といっしょに食べたあと、至誠寮の寮歌である春寂寥を歌って閉めるのが習わしだった。
若い連中のことだから、締めのシソ飯が出てくる頃にはおかずになりそうなものは香の物を含めてなにもなくなるのがいつもだったが、なぜか、それだけでおいしく食べられるシソ飯がずっと頭に残っていた。その後、木曽屋の建物がなくなったのが気になってはいた。
何年かたって、ふいな拍子に木曽屋という名前の田舎田楽を出す店にであった。それは、松本市内を当てもなく、ぶらついていたときだった。木曽屋は建物を建て替えて、営業していたのだった。そのときはうれしくて、手当たり次第に頼んでしまったが、後で会計の時、「食べすぎだ」とお店のおばあちゃんから叱られた。その後、ときどき、シソ飯が食べたくなると、松本の木曽屋を訪れるようになっている。今回も、ふとシソ飯を食べに行ってみた。
ちなみに、その後、聞いた話では、シソ飯のシソは乾燥したもの(ゆかりという名前で売られている)ではなく、塩漬けの生のシソを細かく刻んでご飯に炊き込んだものなのだそうだ。
昔から松本市内には蔵が多い。それは、私が初めて松本に住んだ30数年前もいっしょだ。今回は、食事の前に、ふと蔵造りの商店が並ぶ街を歩いてみた。いや、実は昔、行ったことのある漆器屋にお椀とはしを買いに行った次第である。古い重いガラスの木戸をガラガラと開けると、漆器細工がきれいに置かれている。そういえば、その昔、今使っている箸を買ったときは、生活のための木製品が所狭しと並んでいた。いまは安い輸入品に押されて大変らしい。木曽漆器と松本漆器の並んだ店の中から、手ごろな価格のものを選ぶと、また、ぶらりと街を歩いてみる。
東京、横浜、信州と歩いていて、なんとなく、学生時代を過ごした信州が居心地良いと感じた瞬間だった。そういえば、中華街の海員閣がなくなる前に、もう何回か行っておこうと帰りながらに考えた。
グロッソラリー ―ない ので ある―(2)
1月1日:母親の奇声と同時に、父親なる人の大声も聞こえた。産もうとする母親と産まれよう産
まれまいと相変わらず迷っている僕を応援していた。父親は僕に向け男女兼用の名前を叫んでいた。僕の真価も知らず、それでいて未来に当て込んでいる愚かな
名前であった。産まれている最中に、早くも将来の一部分が完全に断たれた気がした。
度を越した苦労を自慢という悪臭を放って話す人がいる。しかし問い詰めていくと、そこら辺の日常瑣末事のほうが、よっぽど解決困難だったりする。自慢の
大概は似非である。そうまでしないと、自らを悲劇の人物として自らを慰められない卑劣な心根の持ち主なのである。苦労らしい苦労をしている人は、苦労をパ
ロディ化して現在を生きる。
その点、鉄道マニアやバードウォッチングの連中のほうが敏感なんじゃろうな。新ウィーン楽派を痔の真下に敷いて、DVDプレイヤーそのものをたっぷり8
時間見た、このわしのこのわしによるこのわしのための結論がこれだから困っておる。困っております。困ってさふらふ。さんふらわー。おかわりくれよおかわ
りを。
ステレオグラムなあたしを見て。
もうね、嫌なんだよ。正月に初詣に行ってバレンタインデーに義理チョコもらって花粉症で四苦八苦してござ敷いて桜を見て梅を見て新入生と新入社員に遭遇
してゴールデンウィークで渋滞して湿度百パーセントの梅雨が来て猛暑日が連日続いてクールビズが終わってクリスマス商戦が始まって年越しそばを食べる。も
うね、嫌なんだよ。
1月1日:まだ今より体が小ぶりで胎内にいる時、父親なる人が人間の生活について話し、産まれたいかどうか自ら判断せよという旨の言葉を送ってきた。し
かしながら僕は第23号ではない関係上、聞かなかったことにしたかった。したかったというのは、聞こえたからには、僕も精神・神経の病を患っていると確信
したからに他ならない。
インターネット・プロバイダー・サービスの細胞が臨床に持ち込まれても、たぶんキレまくるんだろ。ポッポー、ポッポーの鳩時計のディヴェルティメント。本
当の顔がひょっこり出たり入ったり。そうして秘密を自らばらし続けたほうが、案外人間としてまっとうなのかもしれん。イェルムスレウと紅ショウガ。いっそ
そのままでいてみろっての。
既に読んだ本、まだそうでない本、まんじりともせずにどんどん読んでいった。ほとんど文学部の学生、いや、その中でも本の虫と呼ばれる学生並みに。小
説、古典、評論、原書、図録、実用書、問題集、指南書、漫画などなど。そうして読み始める前に予期した答えに無事に到達して安心する。どんな本も自分の窮
境の何の助けにもならないと。
くわせもんよ、ウソをつけ。ちょいなちょいな。ロイヤル・ワラントつきのクレプトマニアのわしがこれから絵を描くぞ。こうやってこうやって。ほれでき
た。六時間かかった。どうだいこれ。パックス・ルッソ・アメリカーナのヴィーガンでさえ、四十七手目であきらめたっちゅうもんじゃ。盗んだ物を盗んだら裏
の裏は表の論理。
実証主義者は、科学で解明できない事象を認めない。認めたがらない。認めてしまうと科学者ではなくなる。地球上で生起するすべてを科学の力で説明できる
としたら、それはそれで不自然で非科学的だ。反証可能性はどこを浮遊しているのだろう。霊、宇宙人、UFO、これらが人智を超えていないことをどうやって
証明するつもりなのか。
うからみの/しゃんずらごたんにしるかえば/きょごじんもうの/よみにけこたほ
だって三人もいるんだもの。誰か一人は敵になるのが当然じゃて。好事家は胴間声で夜なべの真っ最中ときたもんだ。わしは違う。わしのすごさは今更言うま
でもないが、天才にも一つだけ不可能なことがある。それは自分が天才であることを世に知らしめることだ。そこでわしじゃが......いかん。気づく前から太陽を
直視し続けていたわい。
1月1日:僕の知る限り、精神病者は実に穏やかな現存在である。病院の待合室へ足を運べば、誰もが同じ思いを抱くことだろう。したがって僕も静かにして
いなければならない。胎児だからといって泣き叫んでいる場合ではない。世故にたけた赤子のでんぶをたたくというのはどういう料簡なのだろうか。これがいわ
ゆる虐待というものなのか。
時代精神というのは、とどのつまり生活空間なんだな。超越論的に形而下を考えれば、おのが排泄物をアニメ化してはじめて分限を知るってもんだ。3Dで
じゃぞ3Dで。神様、仏様、お客様の言うことにゃ、二拝、二拍手、一杯なぞどこぞのあんぽんたんの所業であるかということじゃ。パラノイアに幸あれ。シュ
レーバーを胴上げせよ。
ポップな教師の壊滅授業。愛を語りながら放屁。酔って目覚めて晴れ姿。証人喚問にビキニで登場。予告なしにラジオ体操第二。文金高島田の白無垢姿でバク
転。宙吊りなのに優勝。アリの列に参加。トリックアートに間違えられる。つきたい職業トーテムポール。八割がたがアホ。鏡を見過ぎて即死。一見さんが大暴
れ。毛穴開いてまっしぐら。
ジェットコースター効果と吊り橋効果。他の重大事が自然とおろそかになるほど、特定の異性に愛情を抱いた時、同時に同じくらい愛してもらいたいと願う
時、誰しも言葉や態度の限りを尽くして、愛を手中におさめたいと思う。だがそれは賢い方策ではない。大災厄、大事件が相手に立て続けに降りかかるように仕
向けるのが、最も効果的である。
好みってのはくせ者じゃな。幻灯機の回転やシーザー暗号みたいにゃなかなかいかん。雲を掴んだかと思えば吸い込まれ、吸い込まれたかと思えば十五歳。わ
しはわしで新宿の昭和地下に青い魂を置いてきた。あの頃は総立ちじゃった。したがって明日は我が身、アウフヘーベンしてよからぬ一物がひょっこり花を咲か
せることも十分にありえる。
ジャワ舞踊の衣装 ガンビョン
ガンビョン(ソロ様式のジャワ舞踊)は民間で発生した舞踊なので、衣装は簡素である。基本はカイン(腰巻)を正装と同じように巻き、上半身に絞りの布(クムベン)を巻き、サンプール(2.5〜3mくらいのショール状の布)を肩にかける。ジャスミンの花輪を首にかけ、髪を結う。一方、宮廷舞踊だと通常より1.5倍長いジャワ更紗を引きずるように着付け、ビロードにビーズや金糸の刺繍を施した豪華な胴着を着て、腰にサンプールを巻き、豪華なバックルのついたベルトで留める。頭には羽のついた冠を被る。ただし、ガンビョンを正式にレパートリーに取り入れたマンクヌガラン王家では、絞りの代わりにビロードの胴着を着て、冠を被る。だが、この着付はあくまでも例外だ。
ガンビョンのカインは、今ではソガ色(ソロ特有の茶色い色)のパラン模様のバティック(ジャワ更紗)を巻く。しかし、このパランだが本来は王族の禁制柄である。1976年発売のカセット『Gambyong ガンビョン』(ACD045)のレーベルでは、踊り子はパラン模様ではないバティックを着ている。また、昔はガンビョンと言えばカラフルな色物のカインというイメージがあったという。色ものバティックといえば、中部ジャワ以外の地方のバティックには赤色や青色が使われる。それに対して、王宮があったソロではソガ色、ジョグジャでは白地にこげ茶というシックな色合いのバティックを着る。要するに、ジャワの基準では、色ものは田舎製で王宮のものではない。ソガ色のパラン模様のバティックを巻くというのは、ガンビョンを王宮舞踊風に仕立てようとしているということなのである。
それに伴ってか、アクセサリや髪型も変化している。現在では、ソロのガンビョンにはバングントゥラッという髪の結い方をする。これはソロの王宮の女官や王女達が儀礼のときにする結い方だ。昔、王族の催しの余興に呼ばれた踊り子が、その髪型で入るように指示されたことがきっかけだという。もっとも、ソロ以外の地域ではこの髪型のかつらが手に入らないので、一般的な髪型で代用する。その頭頂部に櫛を挿したり、ムントゥルと呼ばれる簪を挿すのも宮廷風だ。ムントゥルは宮廷内では本来王女しか使えない。このムントゥルだが、20年前と比べて、おしなべてデザインが大ぶりになっている。
ガンビョンでは、ジャスミンの大きな花輪を首に掛ける。それは豪華なアクセサリを持たない庶民にとってのアクセサリ替わりだとしか思っていなかったのだが、ガンビョンの衣装で一番重要なのは、実はこのジャスミンの花だと衣装着付の人から教えられた。そうしたら、1953年9月発行の雑誌『Budajaブダヤ』の記事で、踊り子が首にかけたジャスミンの花をもらって病気の子供にかけてやると病気が治ると信じられているという話が出てきた。当時、ガンビョンには扇情的なイメージがあることも書かれている。それでも神聖な舞踊というイメージは失われておらず、ジャスミンはその神聖さの象徴なのだろう。
ガンビョンの衣装のバリエーションとして、金泥でアラス・アラサン模様(森に住む様々な動物を描いたもの、森羅万象を表す)を描いたカインとクムベンをセットにしたものがある。一時期流行したようだ。私が留学する1990年代半ばの頃には下火になっていたが、衣装屋ではよく見かけた。この柄は今では一般化しているけれど、そもそも王宮の花嫁衣装の柄である。ガンビョンには格が高すぎる柄だと思うのだが、ガンビョンは結婚式でよく上演されるので、ゴージャスな舞踊の衣装を望む人々の嗜好を汲んで考案されたのだろう。花嫁風ということで言えば、最近は豪華に見せるためか、花嫁風にティボドド(ジャスミンの花を房のようにつなげて作った飾り)を髪に挿すこともよくある。
肩にサンプールをかけるのは民間舞踊に共通している。タユブというガンビョンの元になった踊りでは、踊り子が観客にサンプールを掛けて舞台に誘い込むのだが、踊り手は首に適当にサンプールを引っ掛けて踊っている。ガンビョンでもそうしても良いと私の師匠は言っていたのだが、今では誰もがサンプールをきれいに四つ折りに畳みブローチで留める。品よく見せるためなのだろう。
こんな感じで、民間舞踊のガンビョンも、次第に地域の伝統を強調し、宮廷風、花嫁の豪華な装い風になってきている。実はこのような傾向は伝統行事一般に言える。ジャワでは舞踊上演の場として結婚式がポピュラーだが、結婚式の会場の飾り付けや花嫁花婿の衣装は伝統的だが王宮風の派手なものになり、正装する人たちの結髪やクバヤ(上着)も派手なデザインになってきている。ただ、ガンビョンの衣装の中でも絞り自体は豪華にならないなあ、なんて思う。日本の着物の絞りのように高度で繊細な絞り、絹の絞りが流行るなんてことはなさそうなのだ。たぶん、絞りには庶民のものという印象が強すぎて、そこで贅沢するよりも、ぱっと見て豪華に見える方が良いのだろう。
反射点の遊び
午後3時の霧、冷えきった空気、濡れる小石
弾く音や叩く音が連続的に聴こえた
最近は注意深く聴くうちに、強調されて聴こえるようになってきた
点は跳ね返り、長くこだまし、逃げ場なく少しの間のなかで漂う
反響した後、分裂し、木の葉のように散る
眼はそこを見ているようで、時間を見ていることに気付く
在るものを描き、分解して 構築する
誰もがやってきた楽しい遊びかもしれない
しもた屋之噺(154)
ハローウィンの今日、9歳の息子は親友のグリエルモと放課後、変装で知合い宅を訪ねまわる計画らしく、先ほどからグリエルモと隣の部屋で笑い声を上げながら着替えています。
自分が丁度彼くらい頃、座間の米軍キャンプに、ハローウィンの夜連れてゆかれたことがあって、憶えているのは、よく知らないところで不安だったのとアメリカ人の背が高かったこと。米軍キャンプの家屋が日本のと違ってカラフルで広く、「奥さまは魔女」のサマンサの居間にそっくりだったこと。貰ったお菓子は、恐らくヌガーのようなものだったのだろうけれど、全然食べられなかったこと。
何より子供心に不思議だったのは、なぜお菓子をわざわざ夜貰いにでかけるのかという素朴な疑問でした。日本の、それも家の近所に、日本語がどうやら通じない場所があって、あまり周りの日本人と親しく付合っている感じでもないのは、随分小さな頃から何となしに分かっていました。
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10月某日 自宅にて
日がな一日ペソン作品の譜割り。原曲の「イタリアのハロルド」を時間をかけて読んでから初めてペソンの楽譜を開いたので、読み始めるのがすっかり遅くなってしまった。そのお陰で全体として鳴るべき音は見えているので、透かし文様の向こう側が見えないストレスはない。漆黒の宇宙で、ドッキングしていた宇宙ステーションから宇宙船が音もなく無限の空間へと離れてゆくさまを無意識に思い描きながら、ページをめくる。
シューベルトが平行調を愛用したように、ベルリオーズのナポリ調への偏愛をおもう。ベルリオーズの調性配分が一見据わりが悪いのは、ナポリを支点にして糸の切れかけた、さもなくば糸が絡んだ凧のように、風に煽られ荒々しく動き回るからではないか。そのすぐ裏側にいつも主調を隠匿している姿は、どんなに非日常に身を晒していながらも、どこかで常に覚醒している作曲者の意識を垣間見るようだ。
シューベルトやプロコフィエフのように、平行調を鍵にして転調を繰返すのなら機能和声の配分に変化は来さず、どんなに遠くへ出かけようとも安定感があるけれども、ベルリオーズは敢えて好んで荒波に身を任せようとする。そんな姿をみるとフランス音楽は元来もっと直情的に演奏すべきものなのだろうと頭では理解できても、偏屈なイタリアに20年近く暮らしているせいか、そこに身を預けられない自分が厭だ。そんなことをぼんやり思いながら細かく一つずつ音符を眺めていると、漸く表題の「眺望、細部、許可」の意味が見えてくる。それにしても楽譜の誤りが極端に多い。
10月某日 自宅にて
川島くん指揮の自作自演が面白く興味深い。楽譜を読んで指揮のジェスチャーが生まれるのではなく、指揮のジェスチャーが楽譜になる。逆説的に指揮の本質とそれが内包する矛盾に触れている。この類は自分ではうまく出来ないけれども、だからこそ素朴に憧れる。似たような憧憬はたとえば三輪さんの音楽にも覚える。
10月某日 ミラノ行特急車内
ルガーノでのリハーサルのために二日ほど殆ど寝る時間もなく訂正表をつくる。練習前に演奏者に渡すため、ずっと書き続け、イタリア・スイス国境を越える直前に列車から電子メールでアンサンブルに送る。
今日は5時間ほどリハーサル時間が予定されていたが、そのうち2時間は膨大な打楽器のセットに費やし、30分はペソン自身の朗読のためのマイクリハ。30分は休憩。演奏時間は実質2時間ほど。
彼が朗読したテキストが、彼のローマ滞在記「Cran d'arret du beau temps」なのはすぐ解ったが何やら違和感が残り、その理由がわからなかったが、夜ミラノ行きの列車で思い返すと、原文は仏語で、今日ジェラルドは誰かが訳出した伊語版を読んでいた。
伊語圏スイスはルガーノの国営放送局で、パリのランスタン・ドネに数人のイタリア人、アメリカ人のエキストラを加えての練習はフレンドリーで楽しい。自分の仏語も酷いが、イタリア人のマリオは仏語を解さないので、彼には英語か伊語で説明する。リハーサルを英語で統一すればよいのだろうが、彼以外は全員仏語スピーカーなので、英語の会話は長続きせず、そんな時は隣の席のアメリカ人スティーブが丁寧に英語に直す。国営放送のスタッフとは伊語。録音技師同士は独語で話しているが、こちらは全く解さないので関係ない。
練習は楽しく進むが、殆ど寝ないまま練習に出かけて何時間も経つと、自分が何語で何を話しているのか解らなくなり、遂には頭がショートし、煙を吐いて真っ白になる。
10月某日 自宅にて
朝、家を出るときミラノは霧雨だったのだが、国境を越えルガーノに着くと、猛烈な瀧のような雨が無情に道路を叩き付けている。坂を駆け下りる雨水は一寸した濁流になっていて、傘は役に立たない。こんな日は当然タクシーも皆無で、丘の上の放送局までバスに乗るが、靴の中は音がするほど水が溜まり、下着の中まですっかり濡れ鼠になるが、放送局脇によい塩梅にミグロスがあって下着と靴下とバナナを購う。
しばしばベルリオーズの原曲の楽譜を参照しながら、アーティキュレーションなどを決める全体練習の後、アルトのルシールと二人で列車時刻直前まで稽古をし、入りのタイミングなどを決め、駅まで坂道を一気に駆け降り列車に飛乗る。
風邪で寒気が酷いので、夜中央駅から行着けの韓国料理屋に寄る。何か精の付く温かいものを頼むと、プルコギの入ったスープが出てきた。肉の出汁がよく出た、ほんのりすき焼きを思い出させる味で美味。
10月某日 ミラノ行特急車内
放送局での演奏会の後、マリオの息子と国営放送局の玄関で話込む。彼はミラノ大でドイツ文化を学んでいて、ドイツの文学と語学のどちらに進むか、進路を決める処だという。スイスに生まれ育てば、数ヶ国語を普通に話せるようになるのでしょう、羨ましいと言うと、それはないと即座に否定される。誰もが学校で苦労して学び、母国語の他に何とか1つか2つ言葉が出来るようになるのだから、本人の頑張り次第だと言われる。英独仏伊全てが堪能なのは余程勉強した人だけという。
ロマンシュ語は勉強しないのか。ロマンシュ語が話されるグラウビュンデンはそう遠くないがと尋ねると、「あんな誰も使わない田舎言葉、何の役にも立たない。ロンバルディア方言とスイス独語の合いの子だから、勉強しなくとも意味はわかる」と素気無い。
カタロニアのカタラン語や、コルシカ島のコルシカ語、マルタ島のマルタ語のように、小国にとって固有の自国語は誇りかと思いきや、あまり関係ないようだ。あと数百年経てば、グロバリゼーションで世界の言葉も相当淘汰されているに違いない。
10月某日 自宅にて
10年ぶりに学校の学生オーケストラに携わる。シューベルトの4番交響曲で1月末までの付合い。オーケストラの8割は昨年、耳の訓練の授業で教えた学生だった。相変らずヴィオラや、オーボエ、ファゴット、ホルンが足りないのは10年前と同じだけれど、今回は半年程前から学生たちからやって欲しいと繰返し頼んできただけあって、出欠も練習開始の時間も随分しっかりとしている。練習が終わって、学生たちが楽しそうにシューベルトを口ずさみながら家路に着くのを見るのは嬉しい。
今日は暫く窓の外からこちらを覗き込んでいた映画音楽科の学生たちが10人ほど、練習を聴かせて欲しいとぞろぞろと部屋に入ってきて、最後まで後ろで座っていた。みな本当に音楽が好きなのだ。
ところで、シューベルトはバッハと同じく、作曲家を特に魅了する存在ではないか。マーラー、ブルックナー、プーランク然り。現代作家で言えば、ディーター・シュネーベルの「シューベルト・ファンタジー」は、高校から大学にかけてレコードが擦切れる程聴いた。当初この曲の原曲のト長調の幻想ソナタの方を未だ知らなかったので、初めて楽譜を買ってピアノで弾いた時の感激たるやなかった。鳥肌が立つような音の連続に時間も忘れて夢中になった。それが切っ掛けで特に晩年のソナタも好きになり、CDをつけっ放しにしていた。前にパリでポゼと話した時も、二人でそんなシューベルトの話ばかりしていた。
構造が極めて簡潔で、必要最小限の素材が互いに相関いや相乗し紡ぎだす新鮮な響きは、美しい旋律に心を惹かれるような表面上の喜びとは根本的に違う、バッハとまるで正反対の意味なのに、等しく理知的に身体が反応する歓喜。シューベルトがいなければ、ブルックナーやマーラーはどんな音楽を書いたのか。その後の音楽史に全く違った展開をもたらしたに違いない。
10月某日 自宅にて
必死に今週末の本番の譜読みをしているところだが、今日は昼前に家人の留守中、息子の面倒を見て貰った友人の忘れ物を受取りに中央駅まで自転車で走った帰り道、中央駅前のピザーニ通りの自転車専用道路で交通事故に遭う。
俄かには信じ難いが、自転車はひしゃげて動かなくなったものの、身体は一切問題なかった。ただ、保険の調書のために、自転車を自分で保管しておく必要があって、自宅まで持って帰らなければならなかった。昼は公共交通機関が自転車の乗入れを許可していないので、動かない自転車を2時間引きずりながら、歩いて帰り、筋肉痛になった。道行く人にこれは酷いと何度も慰められる。
事故の瞬間、車の運転手と目が合って、子供のときの交通事故を思い出した。
自転車が余りに便利なので、家人や息子にも使わせてあげようかと考えていた矢先のことだったので、それは危険だと誰かが諌めてくれたのだと思っている。
10月某日 自宅にて
200ページ程の楽譜を、文字通り徹夜で必死に読み込んで何とか練習に出かけた。「身近なことば」というファビオ・チファリエルロ・チャリディの新作は、福島の震災の際の天皇陛下のテレビ会見で始まり、同じテレビ会見で終わる。
その中に挟みこまれる内容は、賃金の安いメキシコに工場を移すという工場従業員たちの告発や、ゴミの収集が途絶えたことに対するナポリ住民の怒りなどの無数のイタリア住民の生々しいヴィデオで、それらの音声をコンピュータで解析され、楽器で同時に再生させる試みがファビオらしいところだ。
冒頭の天皇陛下の言葉は、ハープに変換されていて、最後に改めて天皇陛下の会見が映し出されるところでは、肉声も重ね合わされる。共産党基盤の文化が連綿として続くレッジョ・エミリアらしい企画だけれども、天皇陛下の会見がイタリアの工場の労働者の告発へと引継がれ、90分後に改めて天皇陛下で終わるというのは、一日本人として不思議な気がする。不敬罪というのでもないが、余りに遠い世界の話が同列に並んでいるからだろうか。
本の表紙と内容が合致していないような錯覚に陥るのは、イタリアで皇族にあたるサヴォイア家のスキャンダルなどを無意識に思い出してしまう為かもしれないが、一緒に出演した人気ジャーナリストのガド・レルナーですら、前時代共産党風のセンセーショナルな映像の連続に天皇陛下の会見が品格を添えると大喜びしていたので、外国人にはそう映るものらしい。尤も、作品としてごった煮の情報を、何も整理せずに並列しザッピングしてみせるテレビショーを痛烈に皮肉っていたので、実は大成功しているのかもしれない。
10月某日 ミラノに戻る車中にて
数年前までレッジョエミリアでは見かけなかったスリランカ人の雑貨屋にてバナナ購入。レッジョの駅の国鉄職員用食堂でアメリカ牛の巨大ステーキを喰らい10ユーロ。
本番直前のドレスリハーサルの途中からクリックが消えるが、構わずクリックなしで最後まで通すと、作曲者を始めスタッフの誰もクリックがなくなっていたことに気づいていない。本番直前今度はクリックの受信機を大丈夫だからと腰につけられ演奏を始めたところ、クリックが全く届かない。調べるとイヤホンが外れていて初めからやり直し。こんなことで良いのか解らないが、やり直した本番中もあるセクションはヴィデオが丸ごと消えてしまっていた。マルチメディアというのは本番になるとどうも色々気まぐれを起こすものらしい。ということは、本番になると失敗するアコースティックと同じだと妙に納得する。
10月某日 自宅にて
ヴィジェーヴァノ郊外に住む、引退した老調律師が売りに出していたブリュートナーのグランドピアノをひょんなことから買った。調律師は100年ほど前の骨董品のピアノばかり10台ほど家に置いていて、その中には150年前のプレイエルや最低音がまだ白鍵盤だった頃のべーゼンドルファー、ベヒシュタインなど錚々たる顔ぶれが並んでいた。購入したブリュートナーは、1958年製で、売れっ子ロック歌手になった娘のために買ったものだという。家人は少しくぐもった寂しい響きが気に入ったようで、耳にしたこともない初期のスクリャービンを隣の部屋でそろそろと鳴らしている。
10月某日 学校にて
接触事故で自転車を失くしたので、新しい自転車が届くまでミラノ市のシェアサイクルを使う。家から学校まで本来であれば自転車で20分ほどの距離のところ、家から10分サヴォナ通りを歩いてシェアサイクルの駐輪場にいき、25分ほどペダルを漕いで、記念墓地向かいのシェアサイクルの駐輪場に自転車を入れ、墓地沿いに10分ほど歩けば学校へ着く。公共機関を乗り継ぐのとほぼ所要時間は同じだが、人いきれのバスや路面電車で通うよりよほど気分がよい。
学校で指揮のレッスンをしていると、上の階から普段指揮クラスでやっているリズム練習が聴こえてきて、一同顔を見合わせて笑う。これは元来指揮クラスのためにエミリオが考えたメトロノームを使う変拍子の練習で、それに音を付けてどの楽器でも出来るようにしたものを、大学の必修授業に使っているので、皆がやるようになった。
ところで、随分前から使用している105教室の窓下に、膝丈ほどの古い石の置物が6つほど並んでいるのだが、これが何の為のものなのか判然としない。脚状で、地に着く部分は獣足に彫られ、中ほどには花模様が施され、天辺は既に大分崩れかけているが、人の顔になっていたことがかすかにわかる。ここ「シモネッタ荘」はスフォルツァ家のルドヴィコ・イル・モーロがミラノを治めていた500年ほど前に建造されたものだが、置物がどの時代のものかはよく解らない。
10月某日 自宅にて
家人に何のために作曲するのかと尋ねられ、自分自身のための備忘録のようなものと答える。その時に感じたことを書留めておくもの。
正義など、自分が語る資格はないだろうが、戦争はしてはいけない。どんな卑怯な手段を使ってでも、戦争は避けたい。人を殺める恐ろしさもさることながら、その場に自分が身を置いたとき自分自身が狂わないとは断言できない。自分自身でさえ怖い。
ガザで殺害された母親から取り出された女の赤ん坊は、母親と同じシマー(自然)と名付けられ、我々と同じ空気を吸い、何も語らぬままその5日後、同じ名前の母親の隣で土にかえった。人工呼吸器の小さなシマーの写真を眺めつつ、言葉と思いを粉々に裁断してゆきながら、夜半五線紙に向う。
島便り(7)
産直に行くのは、それなりに遠いいので気合いで10日に一度くらい行ければ上々だ。今日は売り場のかごにフェイジョアという実があった。プーンといい香りが漂い、明らかに熱帯の植物のようだ。
島へ来てから見たことも食べたこともない作物に出くわすと、作り方を知らずとも、ともかく手に入れ、焼いたり煮たり蒸したりして口に入れてみることにしている。こうしてまんば、たけのこイモ、チヌほかの魚、いのしし、しかの肉を初食したのだった。
フェイジョアはイチジクのように半分に割ってスプーンですくって食べてみると、ほのかにあますっぱい。色は薄いクリーム色、匂いはかなり強いトロピカルな香り。これは誰もが好む果物とはいいがたいかもだ。私は好みだが、一粒味見した内澤旬子はイチジクの方が好きだと言っていた。しかしこの実は気になる、ちょっと調べてみたら、
フェイジョアは南米ウルグアイ原産フトモモ科の熱帯果樹。現在ではニュージーランドが最大の生産地。一般家庭でも多く消費され、ヨーグルトやアイスクリームなどに加工される他、乾燥させた果肉はフェイジョアティーになる
ということであった。パクパク食べられる実ではないので、ジャムにしてみることにする。
10月からようやくイワトの仕事をスタートさせた。まだここに住むことになるとは思いもしなかった2年前、小豆島の土庄町にあるギャラリーMaiPAMにとても興味を持った。倉を改造したそれはとてもスマートに改築した倉と、もともとの米蔵を生かしたつまりボロのままの倉と2種類の倉を同時に使える展示場。これにわたしが心ひかれないワケはない。その後移住してから島中をみわたしても、ココより魅力的なスペースは、やはりなかったです。
旅の途中でMaiPAMをみたときから、絵本画家のミロコマチコさんの展示をうわーっと想像してしまったのだ。ミロコマチコさんとは一冊目の絵本「オオカミがとぶひ」が世に出る前から小さな展示会があれば通って、その絵に惹かれていたのでしたが、ある日メールを出してとある展示会場でお会いしたのでした。そのときに何も決めていなかったのに、私は言ってしまいました。絵本を作らせてほしい(わたし編集者でもないのに)、展覧会を小豆島のギャラリーでやらしてほしい(まだ小豆島とつながりもないのに)と言ってしまったのでした。ミロコさんはキョトンとそれでもウンと言った気がする。
こういうことは私史上なんどか起こることなので、あとはだんだんに実現していけばいいわけで、山や谷が多いほどそのプロセスこそがヨロコビなのでした。
展示についてはMaiPAMでミロコマチコ展(11月24日まで開催中)を皮切りに来年いっぱい、やらせてほしい企画を5種ほど実現できそうです。そのほとんどが移住後に、あぁやってみたいと思った事ごとなので、これから初めの一歩からの仕込みがたくさんありそうだ。
あぁ、それでわたしとしては一番大きなイベント〈小豆島音楽祭「風が吹いてきたよ」@肥土山農村歌舞伎 野外劇場 2015年5月9日〉の準備にそろそろかからないとヤバイぞ。もう夢にうなされはじめたのだ。棚田の見える樹々の中の古い木造舞台で地元のみなさんや島外のお客さんにゆったり楽しんでいただく音楽祭、あぁ想像するだに嬉しやぁ、、恐ろしやぁ、、、。
夜のバスに乗る。(1)
夜に追い立てられるように、夜のバスに乗る。
暗い町のはずれのバス停から、二人でバスに乗る。
小湊(こみなと)さんは最終バスが発車する間際にあらわれて、僕の手を引っ張ると滑り込むようにバスに乗り込んだ。
車両の後方にある二人がけの席に一緒に座る。窓際に身体を滑らせていく小湊さんの白い足があらわになって、彼女が高校の制服姿のままだと気付いた。
僕はいつものジーンズをはいていて、ユニクロで買った長袖のシャツと兄の部屋にあった薄手のジャケットを着ていた。少しは大人っぽい格好をしようとしたのだが、ジャケットが大きすぎて余計に子どもっぽくなってしまった。そんな僕の隣で、制服姿の小湊さんはとても大人びて見えた。
最終バスに乗っているのは僕たち以外には数名だけだった。みんなが都心から帰ってくる時間に、都心に向かうバスはなんだか陰気な空気に包まれている気がした。それでも、僕と小湊さんは明るい希望のようなものに包まれて輝いているはずだった。
「ねえ、今夜、家出するんだけど付き合わない?」
放課後、部活からの帰り道。後ろから自転車で追いかけてきた小湊さんにそう言われた時には、なんのことだかわからなかった。僕が答えられずにただ呆然と立っていると、小湊さんは待ち合わせ場所を僕に告げたのだった。
「駅前の三番のバス停に夜十一時三二分ね。遅れないでよ」
そういうと、小湊さんは再び自転車をこぎ、僕を追い越した。その後ろ姿を見送りながら、僕は「三番のバス停、夜十一時三十二分、と呟き、慌ててスマホのスケジュールに入力した。気がつくと、通り過ぎたはずの小湊さんが僕の隣に戻ってきていた。
「荷物はいらないわよ。お金ならあるから」
小湊さんは微笑みながらそれだけ言うと、また方向転換して、僕の目の前を立ちこぎをしながら一目散に走って行ってしまった。
いま一緒にバスに乗っている小湊さんからはあの時の微笑みは消え去っていて、僕もあの時、小湊さんから受け取った震えるような高揚感をいまはまったく感じることができなかった。ただ、暗い夜の道を行くバスの前方を見つめながら泣きたいような不安を感じるばかりだった。
製本かい摘みましては(103)
台所で、皿を落としてうるさがられたあと翌朝の米をとぎながらがっくりしている母の姿におぼえがある。一人暮らしをはじめてまもなく、自分も同じことをするのに驚いたこともおぼえている。洗いものや布巾がけをしていると指先がすべる。雑にしているつもりはない。その自覚がないのが雑ってことか......。いずれにしても血筋を言いわけにのりきってきたけれど、おとといもご飯用の土鍋が欠けた。炊くのに支障はなさそうだ。落ちていたかけらを拾う。真新しい傷にあてて詫びる。根津美術館で『名画を切り、名器を継ぐ』展を見たばかりだ。東急ハンズで「金継きセット」を買ってもうちでは無駄にはならないかもしれない。
根津美術館にあった丸い大きな白磁の壺はすばらしかった。立ち姿にぞくっとした。そこにあるということはどこか継がれているはずだが、まわりこんで見てもわたしにはわからなかった。説明を読む。寺に盗みに入った男がそこにあった白い壺を叩きつけて逃げた。警察はその破片を証拠品として執拗に集めた。のちに美術館に寄贈され修復されることになる。粉のようなかけらまで揃っていたことで、もともとあった黒漆の繕いまでも復元することができた、とある。志賀直哉が東大寺に譲ったものらしい。改めて眺めても継ぎ跡はわからない。この壺自体の持つ魅力が、関わる人のさまざまな力を引き出してしまったとしか思えない。この壺は明らかな修復復元だが、会場には意図的に改造されたものや最初からパッチワークされたものもおしなべて展示してあり、それぞれの銘が可笑しく読めるのがなおさら楽しかった。
書画もあった。いろんな事情でその一部を切り取って改変されており、こちらもまずそのままに好ましかった。抜群のトリミングで美しく表装された小さな古筆切や古絵巻は、段ボールの中に入れられたオランウータンがひとつだけ開けられた小さな穴から達観した瞳をのぞかせているようで、と言っても目玉はからだから切り取られているという設定なわけだけれども、生きたオランウータンがそこにいるような、と言っても本物のオランウータンだったらこんな風に間近に見つめることはできないわけで、とにかくよくぞ今日までたくさんのひとの手をわたって生きながらえて、わたしの目の前にさえ現れてくれたものだと思う。
巻物を切断した掛物が多い中、冊子を解体したものもあった。まず、『継色紙「よしのかわ」伝小野道風筆』。もとは全紙の長辺を三分割したものをそれぞれ二つ折りにして背側を糊で貼り重ねた粘葉装の枡形本で、糊付けされていない内側だけに書く「内面書写」がなされていた。複数の色の鳥の子紙が用いられたようで、見開きに和歌一首を散らし書きするのが原則だが、左頁から書いて色の異なる次の紙の右頁にかかるように書くこともあり、そういう2枚を、いくぶんの段差をつけて並べて掛物にしてあった。真ん中の折り筋部分がやや黒ずんでいる。ここで切り落としてもよかったものを、そうしなかった誰かがいた。それを汚れとはわたしにも思えない。「よしのがはいわなみたかくゆく水の はやくぞいとをおもひそめてし」(『古今和歌集』巻第11・恋歌1)。冊子の状態で加賀の前田家に伝わっていたものが明治39年に分割売却。『万葉集』『古今和歌集』他からの和歌が記されていたようだ。
もうひとつ、『白描絵入源氏物語残巻』。もとは『源氏物語』に適宜白描の挿絵を入れた粘葉装の冊子本で、それをばらして表裏2枚にはがして金地の屏風に貼り込んでいたようだ。表裏を2枚にはがす、というのは、表裏に描かれていたものをはがしてつなげていたことがわかった『鳥獣人物戯画』と同じようなことなのかどうなのか。改めてそのときのニュース映像を探して見る。高山寺所蔵の『鳥獣人物戯画』4巻のうち丙巻は前半が人物戯画で後半が動物戯画だが、前半と後半はもともと1枚の紙の表と裏に書かれていた。2009年から4年がかりの修復の過程で、薄墨のような汚れが他の場所の絵柄と似ていることに気づいて調べてみると、裏返して重ねたら濃い墨が塗られたところと一致、つまり、反対側の濃い墨のにじみが汚れのように見えていたというのだ。再現している映像もあった。どれもこれも、目の前にあるものをまず十分に見つめることをする人たちがつないできた仕事である。
決定的な亀裂
ナイジェリア出身のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェという作家の短編に『セル・ワン』とう作品がある。拙訳『明日は遠すぎて』(河出書房新社刊、2012)に入っている短篇だ。ここにあまやかされて育つ兄と、それを冷静な目で見つめる妹が出てくる。語り手は妹のほうだ。家族は経験なカトリックで、両親が遠くの祖父母に会いにいったある日曜日に、2人はティーンエイジャーの兄が運転する母親の車で教会にでかける。ところが礼拝の途中で、この兄が姿を消してしまい、礼拝が終るころに素知らぬ顔で戻ってくる。なにをしに外へ出て行ったかというと、なんと、自分の家に強盗が入ったようにみせかけて、母親の宝石をくすねるためだったのだ。
この短篇を訳しているとき、北の土地ですごした幼いころの記憶が、ぼんやりとよみがえってきた。
もの心ついたころから、毎週日曜の朝は隣町の教会へ通っていた。父母がクリスチャンだったからだ。両親より一足早く、1歳ちがいの兄とふたりでバスに乗って、日曜学校に出席した。そこで子供向けの短いお話や紙芝居などがあって、それが終ると大人の礼拝が始まる。子供たちも、もちろん親のそばに腰かけて、牧師さんのお説教を聞くのだ。
礼拝の終りに賛美歌を歌うころ、献金袋がまわってくる。黒いビロードの布でできた巾着みたいな袋で、取っ手がついていた。その取ってもまたビロードでくるまれていた。列の端からまわってくるその袋に、めいめいがささやかなお金を入れるのだ。子供たちも小銭をもたされた。たいてい10円硬貨だった。お祭りのおこづかいが50円か60円の時代、子供にとって10円というのはなかなかのお金だった。バラ売りの大きな飴が2個は買える。
両親がなにかの理由で来られない日、兄はこの10円を積極活用した。5円玉2つに両替して、1個を献金袋に入れ、もう1個で飴を買ったのだ。それはやってはいけないことではないのか、そんなことをすれば神様の教えに反して、悪い人になってしまうのではないのか、と幼女はあれこれ心を悩ませながら考えた。
アディーチェの短篇では、主人公は兄のことを両親に告げ口したりはせずに、じっとこらえている。それは、どうみても自分より兄のほうが特別扱いされ、それが社会的常識としてまかり通ることを知っている者の知恵だったのかもしれない。
一方、戦後の北の新開地で、周囲の男尊女卑の風潮にはっきりと異を唱え、自分の子供は男の子も女の子も平等に育てるのだ、と固く決意した母親に育てられた幼女は、悩んだすえに、母親に兄の献金のことを告白した。早い話が告げ口である。
その結果、兄がしかられたのかどうかまではよく覚えていない。覚えてはいないけれど、それからしばらく、兄がなんとなくよそよそしく、冷たかったことは確かだ。思えばあれは、兄と妹の決定的な亀裂の始まりだったのかもしれない。
120アカバナー(5) とうめいなおめん
中也くんが登園すると、
いつもよりこわい顔して、せんせいが
立っている。 あれれ、
どうしてだろう。 中也はね、
とうめいになるおめんを、
わすれて帰ってきた、きのうのこと。
ようちえんでは、そのあと、
たいへんだったんだって。
中也の置いて帰ったおめんが、
泣いてたよ。 ひとばんじゅう、
つくえのした、ひきだしの
なかで。 でもね、
とうめいだから、見えないのさ、
だれにも。 中也にだけは、
見えたんだって。
ぼくらも泣きたい、
とうめいなおめんがあれば、さ。
(ほんとうはね、中也のおかあさんがたのみに行ったんだって。「すこしうちの子をひどくしてくだされ」、と。それで、幼稚園の先生がこわい顔したりする日ありけり、とか「泣くな心」〈中原中也未刊詩篇〉に書いてある。世阿弥のころに、硝子とか、プラスティックとか、透明な素材があったらば、作ってみるとどうでしょう。「とうめいなおめん」を。みんな悲しいね、表情を隠して。その隠した表情が透き通って。)
父・高橋均(1900-1978)
子どもの頃の愛読書は、長谷川如是閑の「歴史を捻ぢる」だった。もとは1920年代に雑誌「我等」に連載した社会批判で、後に「真実はかく佯る」の一部になった。寓話風の文体と、柳瀬正夢の挿絵が気に入っていた。資本主義も革命も、恐慌も人種差別もこの本で学んだ。
最近近所の図書館でそれを見つけて、父のことを思い出した。父はリベラルな文明批評家・長谷川如是閑と労働農民党の大山郁夫の作った我等社にいた。自分のことをいつか書いてくれと言われたのがずっと気になっていたが、子どものころの記憶しかなく、その後は父親の過去には関心がなかったので、いまは子どもの頃の記憶と、昔の本から拾い集めたことを書きならべることしかできない。
父は1900年10月20日四国の宇和島で生まれた。新島襄の流れの組合派教会の伝道師の三男だった。組合派教会には反権力で直接民主制の気風があり、その家に育った子どもたちはリベラルで自主独立の生活感覚を受け継いだようだ。祖父の自伝には、丸亀で均の母の登世子の悪阻が医者の誤診で手遅れになったとき、1歳だった均が臨終の床に馬乗りになり、アイアイシーシーとはしゃぐので、やめろと引き戻すと、今度は父親に組み付いて倒そうとした、と書いてある。一家は祖父の布教活動で九州から北海道まで転々として、均が10歳の頃は当時の植民地だった平壌にいた。均はそこから熊本の親戚の養子にもらわれて行ったはずだが、数年後には元通り高橋均の名で東京に現れ、東京音楽学校、いまの芸大のヴァイオリン科に入った。
音楽学生だった頃に我等社にも入ったようで、アンリ・バルビュスの社会主義的反戦運動組織クラルテに参加した小牧近江がフランスから持ち帰った楽譜で、トランク劇場の俳優の佐々木孝丸と、後にメイエルホリドに学びメキシコに亡命した演出家の佐野碩が訳詞をした「インターナショナル」を、均が鉛筆を指揮棒にして、創立されたばかりの共産党の党員たちに教えた。1922年のことだ。代々木の市川正一の家で、堺利彦の娘・近藤真柄や高瀬清、青野季吉の顔も見えた、と「トランソニック」6号 (1975) に書いている。
1976年に均が「音楽の友」に連載した「信時潔伝抄」によると、1923年、均は有島武郎の紹介で、叢文閣という有島の出版社から「音楽研究」という雑誌を出した。和声学や形式論、演奏会評などの他に、アロイス・ハーバの4分音記譜法 (1920) やヴェーベルンが書いたシェーンベルク論 (1912)、ブゾーニの覚書 (1909-22) など、ヨーロッパ音楽最先端の情報があった。
有島武郎はその年に人妻と心中し、雑誌が5号でつぶれると、均は小笠原で1年間漁師をしたり、朝鮮半島から当時の満州だった大連まで13年間の放浪生活を送った、と「信時潔伝抄」には書いていたが、その間の1927年には蔵原惟人の作った前衛芸術家同盟の音楽部長になっている。1928年には同盟機関誌「前衛」に「同盟歌」の楽譜が掲載された。作者名はないが、作詞はフランス文学者・桃井京次、作曲は信時潔だった。プロレタリア音楽運動は、ステージで歌がはじまるとすぐ、聴衆席の警官が演奏禁止、全員解散と命令するという、芥川龍之介の「河 童」でも戯画化されている弾圧で、長くは続かなかった。父の本棚には当時出版されたプレハーノフやロシア・アヴァンギャルドの芸術論があって、子どもの頃読んだ記憶がある。幸徳秋水訳の「共産党宣言」もあった。
1932年大山郁夫がアメリカに亡命し、「我等」は1934年2月に無期休刊した。1935年、均は「音楽研究」を共益商社書店から再刊した。季刊で3年間に12号出したが、創刊号はヒンデミット特集で、信時の知人の元ヴァイオリニスト、ベルリンから帰国したばかりの佐藤謙三や信時の弟子でベルリンでヒンデミットに師事した下総皖一、ピアニスト・作曲家で指揮者になったばかりの山田和男(後に一雄)の論文があり、信時潔も住いの国分寺をもじって古久文二の名で、シェーンベルクと比較したヒンデミット論を書いている。その他に長谷川如是閑、社会学者の本多喜代治のエッセイがあり、シェーンベルクの12音技法についてのエルヴィン・シュタインの論文もあった。
その後はロマン・ロラン、シェーンベルクやバルトークの特集号があり、プロレタリア音楽運動にいた盲目の作曲家・守田正義、信時潔の弟子だった作曲家・橋本国彦や長谷川良夫、音響学の颯田琴次、小幡重一、栗原嘉名芽が書いている。東洋美術史研究者の長廣敏雄による20世紀音楽史の連載もあった。最終号は1937年のドイツ音楽特集で、均の巻頭言は、ドイツ啓蒙主義思想のなかの対立物の闘争と普遍性原理の一つの結末がナチスによる音楽の統制とも言えるかもしれないが、スターリニズムの前例はあるものの、いままではありえなかった事態だと書いている。19世紀末のマーラーやシェーンベルクの調性破壊、ドビュッシーの機能和声破壊につづいて、1920年代はバルトーク、ヒンデミットもいるが、ストラヴィンスキーの方向に未来があるようだという見方は、信時と共有していたはずだが、国家の統制は身辺にも迫っていた。軍歌と国民歌謡、葬送行進曲以外に音楽の場はなくなっていた。
神楽坂署だか麹町署の留置場で政治犯が代々受け継いできた「野坂参三の股引」のお世話になった、と聞いたことがある。勾留されたのはいつで、なぜかは聞かなかった。長谷川如是閑と前後して、当時の鎌倉村へ移住したのも、生まれたばかりの悠治の病弱のためと聞いていたが、それだけだったのか。文章はもう書いていなかったし、何をしていたのだろう。鎌倉の浄明寺には、近所に転向作家の林房雄もいたし、如是閑もすこし奥の十二所にいたが、みんな特高に監視されていたのだろう。当時は東京からも遠く、鎌倉は郊外というより国内流刑地のようだった。隣人には、小津安二郎の映画の台本を書いていた野田高梧や民俗学者・大藤時彦、ゆき夫妻がいた。生活がたいへんだったのは、子どもでもわかった。
敗戦後、1946年には芦田均の秘書として憲法普及会で全国を回り、1947年5月3日憲法記念日には長谷川良夫にカンタータ「大いなる朝」、橋本国彦に第2交響曲「平和」、信時潔にも歌曲「われらの日本」を委嘱させたが、普及会はその年12月に解散した。解放気分はたちまち薄れ、冷戦、共産党員追放、朝鮮戦争と続くなかで政治運動には希望がなく、長い空白の後では音楽にはもどれなかった。三菱化成、いまの新日鉄、の黒崎工場に行ったきりの時もあり、香港にも行って独立運動にかかわろうとしたらしいが、結核に感染して帰ってきた。薬代と転地療養で、母がピアノを教えて、貧困家庭はやっとなりたっていた。最後の職は、河出書房の嘱託だった。長生きしたので、ほとんどの友人は先に死んでいた
1978年2月10日夜半、逗子の湘南サナトリウムで転んで、家族を呼んでくれと言ったそうだが、夜が明けてから母が行った時には意識はなく、まもなく呼吸が停まった。次の朝早く実家に行くと、棺の側には母と二人の妹しかいなかった。火葬場では、骨壷に入れる骨はほとんどなかった。その頃のやりかただったのか、骨だけでなく灰まで掃き捨てられていた。