204 海鳥のたたくキーボードのうた(富山さん)

藤井貞和

「カタカタ コトコト 光をください」
  カタカタ 「私はなんのために。
誰のために描くのか」
 花崎さん「わたしたちは、
その実例をここに見ることができるだろう」
 「解体←→再構成」
「スライド」
「テクノロジーの進歩に対して先回りし、
その進展を待ちわびていたとすら思える」(小林さん)
 「ほら、見てごらん。
過去と記憶の断片だけでも目を凝らして見てごらん」(レベッカ)
「蛭子、傀儡子、旅芸人の物語」(富山さん)

 父も母も淡路のひと。 富山さんの幼時に、お正月になると座興に人形浄瑠璃を演じる。 「ほんの田舎芝居だと言って、二人は照れていたが、幼いわたしは、浄瑠璃の言葉に籠められたなにか、怖いけれど否定できないなにかに魅せられて、聞き入ったものだ」(『アジアを抱く』、二〇〇九)
 「壺坂」や「阿波鳴門の巡礼」の段などを母は語ってくれたと。

ジェーンマリー・ローの引用(金子さんから)は、飯田市阿南町の早稻田神社の「虫送り」についてだろうが、
――観客たちは三番叟の観劇後、人形を神輿に乗せ、集落の通りを抜けて村境の所定の場所へと運ぶ。 集落を通り過ぎる間に、その人形に路上の疫神や他の例が取り憑き、運び去られると考えていた。 この儀礼の目的は、ことに稲の収穫を台無しにしてしまう害虫の霊の駆除にあるとされた(ロー)。
淡路島では才蔵虫。 義民というのかな、獄門にさらされた才蔵を、福神として祀るとともに、それを怠ると祟り神にもなるという。 金子さんの言わんとするところ、淡路の原点としての「解放」と、漂流し続ける人形とが、富山さんのなかで一つになる……

(淡路の人形芝居を観光施設で見たのは私〈藤井〉の場合、一九八〇年。物語研究会の帰途だった。ローの『神舞い人形――淡路人形伝統の生と死、そして再生』(二〇一二)は斎藤智之さんが訳者、そして発行者。金子毅さんの「淡路・富山妙子『解放』の原点――縄騒動、そして人形芝居」は『東洋文化』101から。斎藤さんの訳文とすこし相違があるけれど、そのままに。)

『アフリカ』を続けて(5)

下窪俊哉

 2011年11月11日、府中市美好町に珈琲焙煎舎という小さな店が誕生した。そこは当時、私が住んでいたところのすぐ隣にある長屋の一角だった。それまでも珈琲は好きだったが、何かこだわりがあるわけではないし、部屋で珈琲を淹れる時には安物のコーヒーメーカーを使っていた。珈琲焙煎舎は「手網焙煎珈琲」の専門店らしいが、そう言われても何のことやらサッパリわからない。でも隣に珈琲豆を売る店ができたので、オープン2日目に顔を出してみた。
 11月11日、関東地方は一日中雨だった。しかし私はその前日から泊まりがけの外出をしており、美好町に戻ったのは夜遅かったので初日のことは知らない。2日目の12日、土曜日だった。秋晴れの気持ちのいい日だったので、昼頃から散歩に出て大國魂神社までゆき、戻ってきて珈琲豆を買いに立ち寄った。
 男女ふたりの店員が迎えてくれて、どうしようかと思っていたら、「お時間あれば少し飲んでみませんか。試飲で出しますから」と言われて待つことにした。男性の方がハンド・ドリップで淹れて、デミタス用のコップに注がれた珈琲を受け取ってひと口飲んだ。
 その時の感動を、おそらく私は一生忘れないだろう。
 あれは本当に、現実の珈琲だったのだろうか、とすら思う。

 当時、私はひとり暮らしで、「生存確認のため」と言いながら毎日、短い文章をブログに書いて公開していた。「道草のススメ」という、よくあるようなタイトルのブログだったが、その翌11月13日には「珈琲焙煎舎」と題して、こんなふうに書いている。

「いまぼくが住んでいる建物の隣に、長屋のような小さな店舗(兼住居)群がある。その一角に「珈琲焙煎舎」という店が入って、11日にオープンしたばかり。昨日、行ってみると、若い夫婦(と思われる)ふたりが迎えてくれた。機械に頼らない「手網焙煎」で、少量ずつ焙煎して出している。できるだけ安く提供するために、珈琲豆以外の部分はごく質素なサービスにして、ということらしい。不器用そうな、ふたりの控えめな笑顔を見て、何だか励まされる気がした。どういう経緯を経てここへ来られたのか、何ひとつぼくは知らないけれど。応援したくなった。ぼくに出来ることは、定期的に顔を出して珈琲豆を買うことくらいしかないとは思うけれど。
 それにしても、待ち時間に出してもらった珈琲の、素晴らしさ!」

 書くことと珈琲は、いつも切り離せない関係にあった。
 大阪では、あべの橋筋にあった「田園」という喫茶店に通って書いていた。近くに住んでいた時期もあって、その頃は多い時で週3日か4日はそこにいた。いろんな人とそこで待ち合わせて、話もした。
 いつもその手元には珈琲があった。「田園」ではコーヒーとカタカナで書く方が似合っている。店の前の看板には「コーヒ」と書いてあったっけ。ホット・コーヒが320円で飲めて、長々と過ごせた。広い店で、店員とも顔馴染になっているので気楽だった。
 どこかに出かけると、よい喫茶店がないか、探したくなる。そして、ふらりと入ってみる。そうやって観察してみると、珈琲にも幾つかパターンがあって、けっして同じではないことはすぐにわかる。しかしそれ以上、深く考えてみたことはなかった。
 一方、自宅で飲む珈琲に満足したことは、なかった。まあこんなもんだろうとしか考えていなかった。

 珈琲焙煎舎で飲ませてもらった珈琲は、しかしそれまでに自分が飲んできたどの珈琲とも違った。衝撃的だった。それは、どこまでも入ってゆけるくらい深くて、濃厚で、澄み切った珈琲だった。しかし、豆を挽いてもらって買って、家のコーヒーメーカーで淹れても(美味しいとは思ったが)その味にはならないのだった。

 その後、珈琲焙煎舎の男性の方が「道草のススメ」を見つけて読んだらしくて、「きっとあの人だよ」という話になったらしい。たまに顔を出して立ち話をするようになり、ある夜には、SNSを通して「営業終わってこれから晩ご飯にするけど、食べに来ない? 茶碗と箸は持って来てね」と連絡があった。じつはすでに食べ始めていたのだが、面白そうだ、と思って(まだ食べてないことにして)出て行った。徒歩1分もかからない距離である。茶碗と箸だけを持って。
 話を聞いてみたら、ふたりは夫婦ではなくて、前の職場で一緒に働いていた同僚らしい。女性の方が「店主」で、男性の方は期間限定でお店のオープンを手伝っている「焙煎士」らしい。その夜、どんな話をしたのかは忘れた。何だか気が合いそうだ、ということはわかった。
 12月になって、『アフリカ』をまた出すことになって、珈琲焙煎舎でもその話をしたら、「うちで売りません?」という話になった。『アフリカ』はその時まで店頭で売られたことがなかったが、誘われたらとりあえず乗ろう、というのが当時の自分の方針だった。そうしたら焙煎士が言ったのだ。「『アフリカ』なら、アフリカ・ブレンドをつくるからセット販売しない?」

 なるほど、それで『アフリカ』という名前の雑誌にしたのかもしれない。何がどうなるかわからないものだ。私は翌2012年2月、珈琲焙煎舎のオープンと同時期に出会った女性と結婚することにして横浜に引っ越したが、それまでずっと私の住居に付いてきていたアフリカキカクの現住所は府中市美好町に残すことになった。つまり、珈琲焙煎舎に引き受けてもらったのだった。

 あれから10年がたち、今月、『珈琲焙煎舎の本』と題した小冊子をアフリカキカクから発売することになった。1年前から「つくりましょう!」と話していた本だが、いざつくろうとなったら、こうしてみたらどうか、ああしてみたらどうかと、よさそうな本のアイデアが幾つも浮かんだ。しかしそれらは全て「よさそう」なだけで、自分からボツにしてしまった。10年間、珈琲焙煎舎の珈琲を飲み続け、語り合いを続けてきて、その時々で『アフリカ』用に書いたインタビューも幾つかある。手元にある素材をそのまま出して、それに最新のインタビューや写真を加えるかたちで編集する方がずっと面白いと思った。忘れていたことが、次から次へと思い出されてきたりもして。
 その本の中で珈琲焙煎舎の店主は、何が正解か、不正解かではない、要は、どうすれば自分が美味しいと思うかなんだ、という話をしている。その話は、書いたり読んだり、本をつくったりすることにも通じると思った。

夜気にくるまれ

璃葉

日付が変わる直前のこと。アイリッシュウイスキーのボトルと、1オンスのショットグラスを持った仲間が公園に現れた。何かの話の流れで、外でウイスキーを飲もうという話になったのだ。

街中にしては、その公園は広々としていた。大きな桜の木が目に付く。異様に目立つそれは間違いなくこの公園のシンボルだ。ベンチに座り、一息つく。風は強くなく、秋のひやりとした空気の漂いを手や顔で感じる。

小さなショットグラスに注がれたウイスキーを口に含むと塩っぽさやバニラ、青リンゴの味が広がった。
ちびちび味わいながらたまに煙草を吸い、仕事のこと、これからのこと、ちょっとした噂話で盛り上がる。酒が進めば進むほど話題は絶えない。軽々としたことばは夜気にくるまれ、宙へと消えていく。
夜空には惑星がぎらぎら輝いていて、明るい1等星もぽつぽつ見える。北極星も静かに佇んでいた。
とてつもなく心地いい、宝の時間である。

数時間後、さすがに寒くなったので友人宅に引っ込んだが、それでも結局飲んでしまう。酔っ払いの私たちは、うら若き頃に聴いていた音楽で朝方まで踊り、歌い狂ったのだった。

しもた屋之噺(237)

杉山洋一

庭の土壁を這う蔓の葉もすっかり濃い朱に染まり、梢に垂れる葉からは愈々青みが抜けて、黄緑色、黄色がモザイクのように輝きます。ミラノも深秋らしくなってきましたから、直に乳白色の霧に包まれるに違いありません。

10月某日 ミラノ自宅
前から見たかった1967年イタリア国営放送制作、マンゾーニの「いいなづけ」を見つけた。
サルヴォ・ランドネ扮するインノミナート(名無し)がマリオ・フェリチァーニ扮するボッロメーオ枢機卿に対面して改心する場面など、彼らが劇場で盛んに演じていたシェークスピア劇を彷彿とさせ、恰もヴェルディのオテロを見ている気分で、思わず涙をこぼしてしまった。
「Berceuse」全体の構想は未だ糢糊。今日はブソッティ90歳の誕生日で、今年初めに東京で試演した「和泉式部」断片のヴィデオ公開。実際に音にすることで見えてくるものがある。そして、それを一定期間おいて、改めて見直すことから浮き上がって見える本質もある。
 
10月某日 ミラノ自宅
「Berceuse」のため、中国、イギリス、南アフリカ、ブラジル、インドの民謡を採譜。中国は東北地方の、南アフリカはズールー人の、インドは南インドはタミル語の揺籃歌。特にインドの寝かせ歌は国土が広いせいか無数にあり、どれもそれぞれに美しく、深く心を動かされる。世界はこれほど美しい旋律に溢れていて、我々は何故いがみ合っているのか。ふと、不思議な心地に囚われる。誰が誰に向かって書いているのか、自問自答を続けている。
 
10月某日 ミラノ自宅
東京で震度5の地震。息子が間一髪で自宅に着いていたと知り安堵。さもなければ、馴れない土地で電車も止まり、途方に暮れていたに違いない。
首から肩にかけての神経が攣れがどうにも我慢できなくなり、イタリアで初めて歯医者に出かけたところ、いきなり親知らずを抜かれた。歯の治療についてなど全く明るくないので、自転車くらい漕げるだろうと高を括っていたが、家はナポリ広場の先だと言うとかなり驚かれ、麻酔が切れないか心配された。
 
10月某日 ミラノ自宅
自分の掌や腕などが、何時の間にかすっかり皺だらけになっていて皮膚も萎びたさまに、重ねてきた馬齢を見る。それは仕方がないが、頭の中まで干乾びて草臥れているのかしら、と少し虚しくなったのは、歯医者と縁遠かった人間が抜歯で意気消沈しているからか、夜半に歯痛で目を覚ましたからか。
 
10月某日 ミラノ自宅
ルイス・デ・パブロの訃報。自分がミラノへ越して来た頃までは、毎年のように、市立音楽院でデ・パブロやファーニホウ、ドナトーニが作曲講習会を開いていた。正確に言えば、ファーニホウとドナトーニのセミナーは、ミラノに留学する前年に終了していたが、それまで長い期間ミラノで定期的に講習会を開いていたのは知っていた。だから当時、ミラノの若い作曲学生の間では、ドナトーニとファーニホウを併せたような作風が盛んに書かれていたけれど、そんな当時の雰囲気は、現在の学生らには想像もできないに違いない。
ミラノに関して言えば、あの後暫くして、フランスからグリゼイやデュフール、ドイツからラッヘンマン、イタリア国内からはシャリーノが盛んに演奏会や講習会をするようになり、若い作曲家たちの作風も大きく影響を受けた。それも一段落して、最近は彼らの薫陶を受けた世代、ジェルヴァゾーニやビッローネ、フィリデイ、ランツァと言ったより若い世代に引継がれている。
インターネットが流布する以前の方が、文化の差異がより明確だった分、国際交流も必要とされ、活発だったようだ。垣根がなくなり、「交流」という敢えてエネルギーを伴う運動ではなく、肯定的な意味において溶解や同化、つまりフュージョンへ進化してきた感覚を覚える。

デ・パブロとは随分長い間手紙のやりとりをしていた。
97年8月29日の日記。
「デ・パブロ先生から手紙を頂く。
先生はご自分の住所を灰色のインクで印刷した趣味の良い封筒に数枚の美しい絵端書を入れ、その裏に小さな字で色々と認めて下さる。
先生の丸みを帯び絡まった筆致はご自身の音符に良く似て、どことなく鄙びた風情を醸し出す。
先日お送りした拙作に関しての批評を丹念にお書き下さり、毎度乍ら恐縮する。
ルイス・デ・パブロと言えば、現代音楽を齧った人間には馴染み深い名前。カタラン人で今はマドリッドに住んでいて、武満さんなどの招待で何度か来日もしている。今世紀の最も偉大な作曲家の一人と言っても過言ではない。
初めて先生に御会いしたのは、去年の初春だったろうか。先生の出版社がミラノにある都合で当地に寄られた際に講習をされ、何度かゆっくりお話しするうち、手紙をやりとりする様になった。
自作に関する先生の分析はロジックに終始し、主観については何も仰らないのに、いざ音に耳を傾けてみると聴こえてくるのは先生の心の滾りばかりなのであって、圧倒された。とても言葉では言い表せない衝撃だった。
一つ一つの音に彼の感情が刻み込まれていて思わず胸が一杯になる。
音楽に携わる幸福に心から感謝する瞬間だ。

早朝、先生はいつも生徒より早く教室に入っては生徒の作品を眺めている。
昼食も独り早く済ませると、教室でやはり生徒の作品に目を通し、思ったことを備忘録に書き留めている。
夕方遅くに漸く授業が退けると、やはり生徒の作品を小脇に抱えホテルに向かう先生の丸い背中があった。
先生の音楽に対する、あくまでも真摯な態度に言葉を失い、自分を恥じた。
二人で色々な事を話した。
何度も訪れた日本の事。フランコ政権下での事。先生の情熱の事。亡くなったばかりだった武満さんのこと。
「先生について勉強したいです」と言うと「不器用だから教えるのにも体力が必要でね。一寸もう無理かなあ」
いつも限りなく温かい眼差しをしていらした。
先生がフランコ政権に国外追放され、長年米国のインディアナ大で教鞭を取られる前後にかかれた「我に語らせ給え」という弦楽合奏の総譜を頂き、暇を見つけては少しずつ譜読みをしている。」
98年1月25日の日記。
小さな教会の十字架の前で、デ・パブロを振る。
楽譜を開く前に脳裏に彼の顔が浮び、少し切ない気がした。
音でしか表現できない思いが、詰まっていて、薄くさざめく人の影。鮮烈な思いや迸る血潮。
言葉が見つからないので黙って録音を送ろうかと思っている。(ミラノ日記)

デ・パブロからの手紙だけをまとめてある封筒を久しぶりに開いた。
当時の文章を見ると、未だ音楽の実体が自分でも理解できずに、手を拱いているのがよくわかる。音に感情を籠める、音楽に自らの意思を反映させる術がわからず、途方に暮れていた。現在、それが分かったとは到底言えないが、自分なりの小さな指針は見つけたつもりでいる。
技術を学んでも、その先に音楽はない。もちろん、音楽を学んでも、技術を学ばなければ表現は成立しないが、あれから23年経ち、自らも教える身になってわかるのは、先に技術を学ぶのは間違っているということだけだ。併しながら、教え得る内容は、ただ技術だけだ。
日本は真鍋淑郎氏、イタリアはジョルジョ・パリ―ジのノーベル賞受賞のニュースで賑わっている。パリ―ジが、詰め掛けたサピエンツァ大の学生たちから大喝采を浴びる姿に心を打たれた。
 
10月某日 ミラノ自宅
昨年Covidで延期されたドナトーニ「最後の夜」再演のためのリハーサル。昨年の今頃、リハーサル時は都市封鎖が目の前に迫っていて、結局演奏会当日に封鎖が始まった。
そんな状況だったから、リハーサルは今よりずっと緊張感があった、とも言えるし、実際は気もそぞろだったかも知れない。今から思えば、ともかくリハーサルで気を紛らわそうとしていただけにも感じられるし、どう足掻いても演奏会は無理だ、と半ば腹を括るというのか、自棄になっていた気もする。
だからこそ昨年のリハーサルはとても意義があったし、何より演奏者が練習にかける集中度は並大抵のものではなかった。その意味を一年を経て痛感した。
明らかに今回の練習を通して、前回辿り着けなかった楽譜のその先にまで踏込むことができたからだ。歌手は音符を、楽器をなぞるのではなく、空間に漂う亡き赤子の姿を見出し、語りかけ、叫び、訴える。漂う粒子のまにまに見え隠れする、小さな身体を必死に探しながら。
 
10月某日 ミラノ自宅
ミラノ・ムジカ。ドレス・リハーサルをやってみて、エルフォ劇場が思いの外音響がよいことに愕く。この演奏会の前後、劇場はエリオ・ディ・カピターニとフェルディナンド・ブルーニが、シリル・ジェリーの戯曲「外交術」をやっていて、第二次世界大戦末期パリの外交官邸宅の書斎を模した舞台装置のなかで演奏した。「外交術」は「パリよ、永遠に」で映画化されているが、その中で即興的で大時代なホームコンサートを催す心地だ。
演奏会前半、会場でノーノの「夢をみながら歩まねばならぬ」を聴きながら、20年前に同じ音楽祭で演奏した「プロメテオ」を思い出す。同じ手触りの和音。同じ質感の持続。波長が変化しつづける光線のような音。旋律の襞を描かないから、そう見えるのか。
あの世代のイタリアの作曲家のなかで、ノーノだけが晩年、音の向こう側に広がる神秘を書き留めようとした。香炉から漂ってくるような、時にかそけく、時に空間に切込む音楽は、ノーノが以前書いていた人の生命そのものを訴える音楽と随分違ったので、プロメテオの譜読みを始めた当初、少し戸惑った記憶がある。
「プロメテオ」の演奏は、まるで儀式に参加するようだった。時間の経過とともに、次第に深くその世界に吸い込まれてゆく不思議な体験を、何度もした。特にパリで演奏した際には、何が起こったのか不明だが、演奏者も聴衆も途轍もない深い感動に包まれた。
所謂、音楽を聴いて感動する体験からはかけ離れていて、強いて言えば、多少宗教的な感動に近かったのかもしれないけれど、宗教曲の演奏に感動するのとも全く違う。信仰の対象が意識、認識できる類のものでもなかった。
 
ドナトーニ「最後の夜」は、実際の演奏会ではやはり特に熱を帯びていて、演奏中少し怖くなる瞬間さえあった。演奏会後に顔を合わせた知合いは、揃ってドナトーニの本質はやはりこのパトスだとしみじみ話していた。そうなのだ。昏い洞がこちらに向かってかっと大口を開けているような、吸い込まれそうな深い闇をいただく、どこか諧謔的ですらあるこのパトスこそが、ドナトーニの音楽だとおもう。
演奏会の最後に、アンコールの代わりにブソッティ「いつも練習(Studia sempre)」を演奏し、没後1カ月になるブソッティを偲ぶ。
 
10月某日 ミラノ自宅
一瀉千里に読み切った「クララとお日さま」。歯痛で作曲できないと読み始めて止まらなくなった。その最中、ぼんやりとラーゲルレーヴの「ポルトガリアの皇帝さん」の温もりを想い返していたのは、なぜだろう。内容も時代も文化背景も全く関係なく、敢えて二人の作家に共通する点は、ノーベル文学賞の受賞歴くらいかと思うが、一体何が、思いがけなく自分の裡で二人を結び付けたのか。
イシグロのきめ細やかで解像度の高い描写表現の鮮やかさに圧倒されながら、こんな風に音楽が書けたら、どんなにか素晴らしいだろうとも思う。平易な表現で、透徹な描写を無数に連ねてゆきながら、人の温かさを読者の裡に宿す。
「クララ」最後の回想場面は、自分が漠として想像する死後の世界に似ていた。死んで躰は朽ち果て骨になるまで、人はちょうどあのような感じで過ごしているのかもしれない。イシグロは、とても日本的な視点から時間の推移を見つめ、書き留めているとおもう。
もしかすると、この部分がラーゲルレーヴの「幻の馬車」の記憶と無意識に重なって、思いがけなく「ポルトガリア」が浮かび上がってきたのかもしれない。
 
10月某日 ミラノ自宅
ルカがフランチェスコ修道会が立てた小屋でリサイタルを開いた。ベートーヴェン、エロイカ変奏曲やリストのハンガリー狂詩曲と一緒に、ハンス・ビューローのリスト編作を聴く。
ハンガリー狂詩曲がなぞる「ヴェルブンコシュverbunkos」は、当時のハプスブルク支配下でのオーストリア軍の募兵キャンペーン音楽だから、と言って弾き始め、あたかも酒場で楽団が気分を盛り上げるように弾いて聴かせた。なるほど、ヴァイオリン弾きとツェンバロンを携え占領地にでかけて、無邪気な田舎の若者の士気を駆立てる音楽だったわけだ。
ルカ曰く「エロイカ変奏曲」は、本当は「プロメテウス変奏曲」と呼ばれるべきだと力説し、当初ヨーロッパの解放者だと信じられたボナパルトへの敬愛を早々に捨てた、現実主義者ベートーヴェンを讃えたところ、ナポレオンに征服されたミラノ市民の末裔たちは、揃って大喜びした。被征服者の記憶は、簡単には消えない。
ハンス・ビューロー「ダンテソネット」リスト編作は初めて聞いたが、すっかり気に入ってしまった。ブラームスとワーグナーとの間をうまく立ち回った彼らしい響きで、ドイツ人の憧れるイタリア観とその鄙びた感じもある。
息子と家人は、スカラにて「イタリアのトルコ人」観劇。夜半二人で自転車で帰宅中諍いになり、深夜、自転車で辺りを徘徊する息子をフラッティーニ広場あたりまで探しに出かける。
帰りしな、この夜更けに独りで歩く中年男性から「あなたがたの幸福を神にお祈り申し上げます」と声をかけられ、ドアの開け放たれた乗用車からは、酔いつぶれているのか、薬物で高揚しているのか、興奮した若者たちの哄笑が漏れ聞こえてきた。
 
10月某日 ミラノ自宅
家人と国立音楽院でエマヌエラが演奏する4手版「大フーガ」を聴く。演奏会後にソルビアティは、「大フーガ」を聴くと興奮が抑えられないと歓喜していたが、確かに音楽の愉悦と叡智、興奮すべてが包含されている。昨日聴いたルカの「エロイカ変奏曲」の手触り、ルカ曰く「ビッグバンド」のように敢えて太く、開放的に鳴り響かせるファンファーレを思い出す。
現在、感染状況は未だ落ち着いているが、イタリア全体の実効再生産数は0,96まで上昇し、来週中には1を超える見通し、とレプーブリカ紙に書いてある。
 
10月某日 ミラノ自宅
夕食に上がってきた息子が、ペトルーシュカを聴きたいと言う。幼ないころに彼は劇場でペトルーシュカのバレエの黙役をやったので、ここで熊が出てくる、とか、ここでメリーゴーランドが回っていて、など得意げに説明する。
ずっと彼の方が詳しいと感心しながら耳を傾けていると、突然、随分前に家族でボルツァーノを訪れた折の話を始めた。
「お父さんはあの時ペトルーシュカを歌っていて、一緒にボルツァーノの文房具屋に出かけてノートを買った。ページが一枚一枚切り取れるタイプの。だけど程なくしてそのノートを紛失したんだ。どうでもいいことは、良く覚えているんだよね」。
あれは息子がニグアルダ病院に担ぎ込まれる、ほんの直前のことだった。アルプスの麓のボルツァーノで、未だ少し雪の残る肌寒い春先、リハーサルの合間に一緒に川沿いを散歩し、ケーブルカーで山に昇り、野原で飛び跳ねていた。(10月31日ミラノにて)
 

仙台ネイティブのつぶやき(67)街角に生きる犬たち

西大立目祥子

 宮城県北の温泉町、鳴子で菓子店を営む宮本武さんが電話をくれた。「あの…ご報告です」。どこか沈んだ声がこう続けた。「バードが亡くなりました」。
 バードは宮本さんの愛犬で、菓子店兼カフェ「玉子屋」の看板犬。黒短毛のラブラドルレトリーバーだ。何歳だったの、と聞くと「17歳4ヶ月」というので、最近の年齢を重ね弱りかけたバードの姿を思い起こし、ほんとに頑張ったね、となぐさめるしかなかった。

 あらためて17年という年月を考えると、犬としては相当な長寿だし、人にとってもその時間は人生の何分の一かを占めるほどに長い。その長い時間、大きな温かい存在を常に感じながら、ともに山を歩き、店でお客さんを出迎え、夜は一つ布団の中で眠っていたのだから、「6代目の犬だけど、こんなに落ち込んだことはなかったよ」というひと言もすんなり胸に落ちる。

 私とバードの出会いは7、8年前のことだ。店でコーヒーを飲んでいると「犬、大丈夫?」と聞かれて、うなずいたら奥からやけに陽気な大きなワンコが現れた。犬というのは賢くて人がじぶんを歓迎しているか警戒しているかを、たちどころに感じ取る。この最初の出会いで認めてもらえたからか、以来、訪れると押し倒さんばかりの勢いで大歓迎を受けるようになった。店に置いてあるイベント案内のチラシをくわえて持ってきたり、リードをくわえてうろうろまわりを歩きまわり散歩に行こうと誘ったり…。

 一度、せがまれていっしょに散歩に出かけたことがある。少しは町中の道がわかるので、「バード、こっち行こ」と町でいちばん大きな神社の陰の道に入り込んだら、やがて勝手知ったるわが散歩道とでもいうように、バードが先頭を切りぐんぐん歩き出した。途中すれ違う人に「あら、玉子屋のバード?またお客さんと散歩だね、いいこと」と声をかけられたから、どうもしょっちゅういろんな人と散歩に出ているらしい。
 やがて、来たことのない山の中腹の広い道に出た。眼下には鳴子温泉の町が広がり、江合川の流れの向こうにはさらに青い山並みが重なっている。さらに引っ張るバードについていくと、峡谷に橋がかかり、そのほとりの一軒家の庭先につながれた一匹の柴犬がいた。微動だにせずじっとこちらを見ている。バードも立ち止まってしばらくの間、2匹は静かに見合っていた。そうか、バードはこの犬に会いにきたんだ。友だちなのか、ガールフレンドなのかはわからないけれど、人の及ばない嗅覚で仲間の存在を知り、じぶんたちの地図をつくり、ときにはこうやって近づいて互いに安否を確かめあっているのかもしれない。その姿を見て安心したのか、「帰ろ」というとバードは素直に従って来た道を戻り始めた。

 1時間ほど歩いて店に戻ると、宮本さんが「遅いなぁ、いったいどこまで行ったの?」と笑っている。バードは人気者で、ときおり「バードいますか?散歩させて」と訪ねてくるお客さんがいるのだそうだ。このときとばかり、そんな鳴子に不案内な人たちを引き連れて得意気に数時間も町を歩き回っているらしい。気持ちのいい時間を過ごして戻ると、バードは満足気に床に寝そべり、お客さんはそのつややかな黒毛をなでながらゆっくりとコーヒーをすする。犬と人という種をこえて、ひとつ空間の中で打ち解け、互いを満たすような静かな時間が流れる。

 鳴子温泉駅前、玉子屋のバード。店の前を車で通れば、いるかいないかを目の端で確かめ、散歩するバードを見つければ駆け寄って背中をなで、私にとってその存在は鳴子の風景の一部になっていた。
 よく犬は人につき猫は家につくというけれど、犬の方がはるかに強く場所につながっていると感じる。猫はふらふらと出歩いたりするけれど、犬はもっと場所に忠実に生き、「定点」としてそこにいる。そして、無機質な建物や道路のわきで、つややかな毛並みと濡れた瞳で存在感を放ち、その場所に光を宿す。

 もう1匹、忘れられないのは仙台市内、南材木町という江戸時代から続く町の材木屋の愛犬だったハナで、こちらもラブラドルレトリーバーだ。ふさふさした金色の巻毛を揺らしながら、年季の入った大きな木材倉庫のある敷地内を自由に歩きまわり、その堂々とした美しい姿はオーラさえ感じさせた。よく車の往来の激しい道路のわきで通りを眺めているのだけれど、一歩たりとも敷地から外には出ることはなく、でも撫でてくれる人がいればうれしそうに尻尾を振って応じる。通りかかって「ハナ!」と呼ぶと、お気に入りの木の切れ端をくわえて、ゆさゆさと巻毛を揺らしながら小走りに近づいてきた。おだやかだから子どもたちにも親しんで、下校する近くの小学生たちが敷地に入り込んで寝そべるハナを取り囲み楽しそうにしているのを、何度も見た。
 その後、材木屋の閉店が決まり、自由に歩き回っていた大きな敷地から、小さな庭の小屋で一日を過ごすことになったハナは、わずか数ヶ月であっけなく命を閉じてしまった。環境の激しい変化が、無垢な生きものを翻弄し痛めつけたのだろう。

 いまこの材木店の跡地は、がらんとした駐車場になっている。ここに明治初期から続いてきた材木店があり、そこに輝くような毛並みの犬が暮らしていたことを覚えている人はもうほとんどいないかもしれない。私自身、この駐車場とあの木造の材木倉庫は連続しているとわかっていても、あまりの風景の変わりように立ちすくむような思いにさせられる。
でも、小さく「ハナ」と、その名を口にすると、名前というものは存在の容れ物のようで、その姿が立ちあらわれるような気がする。そしてあらわれたハナは、決まって木の匂いのする使い込まれた材木倉庫の風景を背景に町にたたずんでいる。

 ときおり、なつかしく思い出す人がいるように、犬はまちの風景の一部となって私たちの胸に生きた痕跡を残している。気がつくと、鳴子を歩けばバード、南材木町を歩けばハナの姿を探そうとしている。

猫が部屋を走る。

植松眞人

 せまい借家の二階から階下へと素早い物音がする。何だろうと顔を向けるのだがなにもいない。物音と言いながら、その運びは生きている動物のようで、数ヵ月前までなら飼い猫の足音で間違いはなかったのだが、夏の暑い日に逝ってしまってからは、私ひとりの家の中で物音などしようはずもない。それでも、何度か確実にその音は響き、その度に耳をそばだてている。そのうち「ああそうか、やっぱりマロンか」と逝ってしまった猫の名前をつぶやく。別に格段、スピリチュアルな思いもなく、ごく普通に、猫のマロンがまだ家の中を走り回っているのだと納得する。
 そんな思いをまだ大学に通っている娘に投げてみると「そうだよ」と落ち着いた声が返ってくる。「いまごろ何言ってるの」とでも言わんばかりである。娘曰く、マロンはみんなのことを心配してまだこっちにいるのよ、ということだ。その口調はまるで、玄関の鍵はここに置いておくからね、と確実にある物をはっきり手渡すときのような明快さだ。
 しかし、猫が心配するこっちのこととはいったいなんだろう。マロンは十五年前に我が家へやってきた。その頃私はまだ四十代になったばかりで、娘は中学生、息子は小学生だった。初めてのペットであるマロンは家族に可愛がられ、愛想を振りまき、家の中をドタバタとまるで仔犬のように走り回って大きくなった。
 数年前から仕事の都合と高齢となった母の世話をするために、私と妻は生活の大半を関西で過ごすようになり、息子は就職してひとり暮らしを始めた。結局、マロンは東京の借家で娘と一緒の時間が多くなり、たまに私たちが顔を出すと多少不服そうに甘えてくるのだった。しかし、娘が一声かければ娘の側に行き、そこから動かなくなり、娘とマロンの仲の良い様を眺めているのが私は好きだった。
 そんなマロンだから、逝った後も心配になるのはやはり娘のことなのだろう。それが証拠に、亡くなったとはどこへでも顔を出せそうなものなのに、この荒川の家でしか、マロンの気配を感じたことがないのだ。
 娘が言う、「マロンがみんなのことを心配している」というのは、結局、娘のことなのだろう。娘は芸術大学で彫刻を作っているのだが、現在、博士課程の二年目である。本来なら留学などを計画していたのだが、昨年から世界的に猛威をふるっている新型感染症のおかげでいろんな計画が頓挫してしまった。ただ抑え付けられるような時間を消費しつつ作品制作を続ける日々を送りながら、娘は鬱々とした気持ちになっているのだろう。声に出してもなにも解決しないので、本人はなにも言わないけれど、そのストレスは相当なはずだ。そう考えると、逝ってしまったはずの猫の足音は、そんな娘を一人にしないための何かなのだと思えた。
 しかし、娘がいないときにも、家の中を走り回る音がするのはなぜなのか。娘だけではなく、私にも何かを伝えようとしているのか。もしそうだとしたら、マロンは私の何を心配しているというのだろう。私の人生は甘い見通しと我慢の効かない弱い性格が災いして、人生の要所要所であまり当てにならない味方を増やし、大切な仲間と袂をわかってきた。だから、これから稼げそうだ、というところで舞台が暗転する、ということが多くあった。そのあたりは、自分でも心配しているところだが、猫のマロンもそんな私を心配しているのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、マロンのことが急に思い出された。久しぶりに顔を確かめてみようとスマホを取り出そうとショルダーバッグを探る。バッグの中でスマホに手が当たり引き抜いてみると、スマホと一緒にマロンの毛が出てきた。茶色い栗色をした毛が数本、スマホのくたびれたシリコンカバーに引っ付いている。
 我が家へやってきたばかりの幼い頃のマロンの表情が不意に思い出され、写真など見なくてもいいくらいに、頭の中いっぱいに広がるのだった。そして、なぜかマロンは娘のことも私たちのことも一生懸命に心配してくれていたのだという確信が胸に押し寄せた。不思議なのだけれど、足音を思う気持ちと目の前の鞄の底から出てきた毛の感触が同時にあって、私ははっきりとマロンの気持ちを知ったのだ。間違いはない。マロンは私たちをそして私をものすごく心配していたのだ。そして、亡くなった今も心配してくれている。
 古い借家の床を足を擦らせながら走る音がした。音は二階へと上がっていく。いま座っているソファからは見えないのだが、階段を下に立ち、二階を見上げると、そこにはきっとマロンがいる。そして、マロンは二階から一階の私を遊んでほしそうに見つめているはずだ。(了)

『幻視 IN 堺~能舞台に舞うジャワの夢~』公演を終えて

冨岡三智

先月告知したジャワ舞踊&ガムラン音楽公演『幻視in堺 ― 能舞台に舞うジャワの夢 ―』(2021.10.23、堺能楽会館)が無事終わった。というわけで、今月はその公演内容に関することと先月号で書き忘れていたことについて書きたい。

 ●能舞台とジャワ舞踊

先月号で書こうと思って書き忘れていたのが、能舞台を会場に選んだ理由である。能舞台でスリンピ(女性4人の舞い)やブドヨ(女性9人の舞い)などの宮廷舞踊を上演することは、実は私が宮廷舞踊を習い始めた頃から抱いていた夢だった。女性の宮廷舞踊は神代に天界の音楽に合わせて天女が舞った舞踊が宮廷舞踊の起源だとされ、サンプールという腰に巻いた布もまるで羽衣のようだから。ジャワ宮廷舞踊は宮廷儀礼で上演されるものとして発展したので、江戸幕府の式楽である能と格では劣らない。ジャワ宮廷舞踊はプンドポと呼ばれる壁のない儀礼用建築の中央の、4本の柱で囲まれた方形の空間で上演されるのだが、その空間には特別な意味があり、1つのコスモロジーを表しているという意味で能舞台の空間と共通する。昔から能舞台の空間が好きだったので、鏡板に描かれた松の前に天女として降り立ってみたい…とずっと思っていた。

実は私は2007年にインドネシアで能の公演をプロデュースしている。その時は今回とは逆に、インドネシア国立芸術大学スラカルタ校のプンドポに能の『羽衣』の天女が舞い降りた。このことは2007年2月号『水牛』に「ジャワに舞う能」という題で書いた。それから10年経って初めて私自身が能舞台を踏む機会が巡ってきて、本来複数の人で舞う宮廷舞踊曲の一部を単独舞として能舞台にかけた。このことは2017年12月号『水牛』に「能舞台に舞うジャワ舞踊」という題で書いた。そして、2019年には自分自身が振り付けた『陰陽 ON-YO』という宮廷舞踊風の曲を、今回の舞台となる堺能楽会館で上演した。この時はマルガサリというガムラン団体の公演の中での上演で、この時も単独舞であった。今回、やっと4人揃ったスリンピを能舞台で上演することが実現して感無量である。白砂青松の海岸に天女が降り立ったように見えていると良いのだが…。

 ●ガンビョン

ガンビョンは私自身の振付演出である。曲は途中まで楽曲『グンディン・ガンビルサウィッ』(スレンドロ音階)を使い、途中で無音の部分をはさんで『グンディン・ガンビルサウィッ・パンチョロノ』(ペロッグ音階)に切り替えた。実はこの2曲は音階が異なるだけで旋律は基本的に同じだが、後者の曲のサロン(鉄琴)パートにはにぎやかなバリエーションがある。今回の公演ではスレンドロ音階の楽器しか使っていないが(楽器を置くスペースが限られるため)、サロンはペロッグ音階のものも用意してそのバリエーションを弾き、無音部の前後で一気に雰囲気を変えた。実はこの無音部を挟んでの音階の転換はすでに2014年の『観月の夕べ』公演(岸和田市)でやっているが、曲の最初(メロン部)の歌やチブロン太鼓の手組はその時とは変えている。

ガンビョンは一般的には豊穣祈願の舞踊に由来すると説明されるが、今回はガンビョンの太鼓の手組に込められている意味:女性が生まれてから死ぬまでの様を描く…をテーマにしたかったので、その説明をあえてプログラムに書かなかった。セリフや物まねぶりといった演劇的要素はないものの、私の脳裏にある1人の女性のドラマを描いたつもりである。今回のように演奏が途中でブツッと切れる演出は元々伝統舞踊にはないが、それもドラマとしての表現として取り入れた。

 ●間狂言

今回の公演の前半では切戸口の前に屏風を立てていて、それを間狂言の時に舞台中央に持ち出した。これは南蛮屏風で、実は館主・大澤徳平氏のコレクションである。公演が近づいた頃、大澤氏から実はうちには南蛮屏風があって使っても良いよというお話をいただき、それならばとこのシーンで使わせてもらった。2人の風変わりな男たちが目にする堺の港風景ということにしたのだが、狂言の掛け合いにうまく取り込めていただろうか…。さらに、橋掛かりの奥の壁に掛かっていたオランダ船(VOC=オランダ東インド会社の旗が船上に描かれている)の掛け軸も大澤氏のコレクションである。この屏風と掛け軸によって堺とジャワが一気につながった。まるで今回の公演に合わせたかのような偶然だ。もし、同じ内容の公演を他のどこかで再演できたとしても、これらのコレクションは登場しない。この会場ならではの、一期一会の機会だったなあと感無量である。

 ●スリンピ

能舞台での上演のため私たち踊り手は足袋を履いたのだが(ジャワ舞踊では裸足で踊る)、通常のスリンピ上演と大きく変わったのが腰布の着付である。スラカルタ王家の舞踊では長い腰布の裾を引きずるように着付ける。過去に私が能舞台で上演したときは足袋を履いてその着付をしたが、裾が足元にからみついて非常に踊りにくくなるため(裸足だと足にからまない)、今回は通常の正装と同じようにくるぶし丈で腰に巻いた。スリンピは4人で踊り、しかも場所移動も多いから、滑りやすい能舞台で安全に踊ることを優先したのだった。裾を引かないと宮廷舞踊の魅力は半減するかもしれないと危惧したが、着物姿のような感じで能舞台にはなじんでいたようにも感じられた。

現存するスラカルタ王家のスリンピ作品は10作品あるが、今回上演したのは『スリンピ・ロボン』の完全版である。ちなみに私が完全版で上演したスリンピはこれで5曲目になるが、日本人による演奏で上演するのはこれが初めてになる。私が最初の留学をしてスラカルタ王家の定期練習に参加した1年目(1996年)はこの曲がしばしば練習されていて、個人レッスンで2番目に習った曲なので思い入れが深い。2000年に留学先の芸術大学音楽科でスリンピ3曲を自主録音したときにもこの曲を録音していて、今回その時の音源を参考にした。

『ロボン』では弓を持って踊り、弓で戦うシーンがある。基本的にどのスリンピにも戦いのシーンがあって葛藤や克己のメタファとなっているが、弓を持つスリンピ曲はこの曲を含め2曲しかない。またスレンドロ音階マニュロ調の曲を使うのはこれだけで、ロボン~パレアノム~コンドマニュロの3曲がつながったこの作品のメロディーは甘やかで、とても幸せな気分に包まれる。

今回は前奏の前にポチャパンをつけた。これは男声による一種のナレーションで、宮廷でスリンピ舞踊の前に付けるものである。これから美しい衣装に包まれた女性が舞踊を上演するというような内容で、サスミトと呼ばれる舞踊曲名を暗示する言葉が織り込まれている。

この作品の中でひときわ華やかな場面がリンチャッ・ガガッと呼ばれる振付である。実は10曲のスリンピ中7曲にあるという定番の振付で、しかもすべてオラ・アスト~スカル・スウン~リンチャッ・ガガッという流れになっている。オラ・アストはその場で手を動かす動き、次のスカル・スウンは横に滑る動きでどちらも静かな動きなのだが、リンチャッ・ガガッは体を前後に揺らしながらその場で回転する動きである。ここでそれまでよりもテンポが一段と落ち、しかも体が揺れるのに合わせて掛け声と手拍子が頻繁に入るので、踊り手はスポットライトを浴びて注目されているような感覚になる。このシーンできちんと掛け声と手拍子を入れて上演したいと思っていた。人数が限られる日本での公演ではそれは贅沢なことだが、これがあると一気に宮廷舞踊という雰囲気が出るのだ。

 ●

以上、書き留めておきたいことだけまとめてみた。先月の公演のお知らせ文と併せて読んでいただければ幸いである。他にも書きたい点はもっとあるのだが、そのうちにまた思い出して書くかもしれない。

ガラパゴス

北村周一

沈黙と
微笑それとも
在りし日の
ファースト・レディの
憂鬱さえも

*Sさんは、旧姓もアルファベットの頭文字がSなのでやや紛らわしいが、それはそれとして夫が先月辞任したのでもはやファースト・レディではなくなった・・・

人格の
遮られない
憂愁の
帰結 サヨウナラ
するしかないね

*『遮られない休息』というタイトルの語感に誘惑されて・・・

いつもの歯科
衛生士さんに
褒められて
紅く染まりし
口がよろこぶ

*歯科検診に使うあの紅い染料へのこだわりを込めて・・・

イタリー産
ワインにチーズに
オリーブ油
トマトにレモンに
長寿はるけし

*イタリアは長寿の国だそうだ、食べるもの飲むものにもう少し気を配ろう・・・

白湯の
ちからを借りて
飲み下す
眠剤のかなた
月満ちてあり

*10月20日は満月のはずだったがあいにく天気が悪かった・・・

非常ベル
夢の中より
洩れ出だし
そこへ近づく
サイレンの音

*長いこと非常ベルが鳴っていた、夢の中の出来事かと思っていたらほんとうに消防車が近所に来て止まった、何があったのかいまだに不明・・・

20度を
切っているのか
その数字
見つつ思わず
身震いをせり

*秋、急に寒くなる日があってからだが天候に追いつかない・・・

かかりつけ
とは毎月受診する方
のみと告げ
られて黙って
引き下がれるか

*話には聞いていたけれど、実際に遭遇するとえっなぜっと思ってしまう、インフルエンザの予防接種の予約時のこと・・・

総裁選
内輪揉めなれど
賑やかなり
そのさいちゅうも
国会開かず

*この間の報道のあり方に関しては甚だ疑問というより不快ですらある・・・

最高裁
判事にも〇
✕のありて
付けていいのは
✕のほうだけ

*衆院選と同時に行われる最高裁裁判官の国民審査、なぜだかあまり注目されない・・・

しらじらと
既得権益に
ぶら下がる
左派もあるらし
中道もまた

*利権に群がるのに右も左も中道もあらず・・・

コマーシャルが
すべての世界
日が落ちて
左右中道
いよいよ暗し

*衆院選の開票がはじまってすでに10時間くらい経過している、投票率が気になる・・・

これもまた
広告のひとつ
きみの名と
通夜の日取りが
紙面にならぶ

*地方新聞には訃報記事がわりと目立つところに掲載される、共通の友人がたまたま見つけて知らせてくれた・・・

まぼろしの
楽園にして
ガラパゴス
日本モデルと
なりにけるかも

*大いなる課題が山積しているはずなのに・・・

セイタカの
草々を闇に
しずめ置き
芒野原に
午後の日のどか

*最後には、国産のススキが帰化植物のセイタカアワダチソウに勝利するといわれている・・・

住むところ
絵を描くところ
置くところ
みぃんなまとめて
花一匁

*正確には、ふるさとまとめて花いちもんめなのですが・・・

未来の世界

笠井瑞丈

今新作の作品を作っています
出演者に私がダンスを始めた時から
憧れの存在である伊藤キムさんが出てくれます

私が初めてキムさんを見たのが
確か10代後半だったと思います

長男の爾示さんに
「おもしろダンサーがいるから見に行かない」
誘われ渋谷の劇場に見に行った覚えがあります
その時の舞台美術に兄貴の知り合いが
関わっていたという事もありましたが

この時が

父以外のダンスを見る
初めての体験でした

なので

私の初めての

『ダンス体験』

紛れもなく

『伊藤キム』

です

その作品を見てとても強い衝撃を受けたのですが
そこから
ダンスを始めるという所には至りませんでせした

ただただ

『伊藤キム』

という名前が私の頭にインプットされ
月日が数年経つことになります

そこからダンスを始めることなるのですが

まだダンスの右も左も分かず
どこでどうすればいいのだと

ダンスを始めるといっても
誰にどこで習うのだ!!!

その時にフッと
自分の頭の引き出しに

電話番号を調べよう!!

今のようにインタネット
携帯もない時代です
情報があまり出回っていない時でした
私がただ知らなかっただけかもしれませんが

父に番号を知っているだろうという

劇場関係者教えてもらい
電話番号を入手しました

そうしたらなんとうちの近所に
住んでいるという事まで知りました

そこから
長い時間電話の前に座り

カケル
カケナイ
カケル
カケナイ

母にいい加減にカケタらと言われました

一大決心

受話器を持ちしばらく続く呼びだし音

「はい」

あまりの緊張で自分の名前も言わずに開口一番

「ダンスを習いたいのですが」

「あっそうですか」

ガチャ

強い想いの枝を
ポッキと折られた感じでした

でも考えれば
当たり前の対応です
名前も名乗らずにいきなり
ダンスを習いたいのですが
となれば あっそうですか
としか言いようがないです

結局私は伊藤キムさんの所に通うことはなかったのですが
逆に通わなかったということから憧れだけはどんどん膨らみ
その後のキムさんの公演はほぼ欠かさずに見に行きました

初めて行った渋谷の劇場
あの時から自分のダンスは始まったのだ

公演が終わり
劇場を出た時
降っていた雨
寒かったよる

過去の思い出はよく想像できる

しかし

あの時はこんな未来は想像できなかった


来の世界


像の世界


想像の世界にダンスがあり
人と人は繋がっていく

むもーままめ(12)みなさま、ご機嫌いかが?の巻

工藤あかね

 メトロの駅構内で掃除をしている方を見るたびに思い出す、笑顔の記憶がある。

 何年も前のことだ。
 パッと乗ったメトロの車両の中に、お掃除コスチューム姿の方達が乗っていた。数人でいたその方達は、コロナ前だったけれども、周囲に気を遣ってか、小声で、けれども楽しげに話していて、なんだかとても感じが良かった。しっかり働いた後の、清々しさというか、そういうものが全員に見受けられた。
 その和気藹々とした輪の中に、やわらかな笑みをこぼしながら同僚の話を聞いている女性がいた。

 なんと形容して良いかわからないのだけれども、その方の、人の話を傾聴する態度というか、包み込むような穏やかさが、ひどく私の心を打ったのだった。
 おすまししておしゃれしてお出かけするような格好でもないし、たしか三角巾のようなものさえ、かぶっていたような気さえする。化粧っ気のないその女性の笑みが、あまりに無垢で美しくて、思わず見惚れてしまった。年齢とか、身につけているものとか、そんなことは人の品性には関係がないのだな、と強く思った。

 残念なことに、その反対のケースにも遭遇したことがある。都内でも家賃相場がきわめて高いあたりを走る電車に乗った時のはなしだ。向かい合わせで四人が座れるボックスが空いていたので、私は窓際に座った。数駅過ぎたところで、家族連れがやってきた。ビシッとしたスーツ姿の若い父親らしき人、非の打ちどころのない上品な服装だけれども無表情な母親らしき人、小学校低学年くらいの女の子の3人だった。そして問題はなんと、いかにもリトルレディ風のきちんとしたワンピースを着た、その小さなお嬢さんだった。

 父親らしき人と、この少女がボックス席の、私の向かい側に並んで座った。母親らしき人はなぜか席に近寄らず、離れて扉の前に立ったままだった。父親は昼食に何を食べたいか娘に尋ねている。「ステーキがいい?お寿司がいい?」と問いかけると、小さな女の子は「ステーキ!!」と言って父親の腕にしがみつき、可愛らしい目つきで父親を見上げていた。

 絵に書いたような甘えっ子だと微笑ましく思っていた。ところが次の瞬間、その小さな女の子は、向かい側に座る私に対し、明らかな敵意を剥き出しにして、睨みつけてきたのだった。

 はじめのうちは、子供のやることだからと意に介さなかったのだが、しばらくするとひどい悪態をついた顔つきで、口に出すのも憚られるような言葉を次々と、エアーで繰り出してくるのだから、笑ってしまった。私がボックスから出ていけば、ママも一緒に座れるから?そうだとしても、先に座っていたのは私だし、なんならもう一人座るスペースあるんだけどな。

 おやおや、と思い窓の外を見ていると、今度は明らかに私の足を蹴ってくるので、よけた。子供相手に腹を立てるのも馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、このような娘さんの行動に、ご両親はお気づきにならないのかしらね。よそ様の家の話ながら、正直言って将来が思いやられます。

 最後はやはり、気分良くしめたいなと思いつつ、名も知らぬ人で感じが良かったのはどんな人たちだったっけ、と思い返している。街中にも、電車の中にも、さまざまなところで袖擦りあった素敵な方達の記憶が、つぎつぎに蘇ってきた。

 某コンビニエンスストアのカードで決済しようと思って、「ナナコでお願いします」と言ったところ、「ナナちゃんね~!」と返してきた店員さん。
 天気の良い日、工事現場の昼休みらしく、地べたに座ってキラキラした目でコーヒーを飲んでいた作業員の方。
 スーパーで買い物した時に、黄色いバケツに入った真っ赤なリンゴをひと盛りレジに持っていったら、「これ、可愛いですよね、うふふ」と話しかけてきた店員さん。
 朝の通学路の見守りで子供たちに挨拶を無視されても無視されても、笑顔で呼びかけをし続けている町内会のおじさま、おばさま。
 盲導犬を連れて電車に乗ってきた方と犬を、周囲から庇うようにして立っていた人も見たことがある。
 電車の隣の席で大泣きしている赤ちゃんを、変顔であやしていたサラリーマン男性。

 思えば、いいなと感じる人たちはみな、自分の機嫌も人の機嫌も良くしようとしてくれていた。本当の大人ってこういうことか。善は急げ、自分の機嫌をとるぞ!!と、手始めに美味しそうなモンブランを買って帰るあたり、私はとうていあの人たちのようにはなれないなぁ、と思ったりして。

ベルヴィル日記(3)

福島亮

 ここ数日、雨が続いている。二週間ほど前になるが、洗面所のガラス窓のガラスが、もともとはいっていたヒビにそって外れてしまい、二日ほど窓に穴があいた状態で過ごすはめになった。どうにかテープで応急処置をしたから今は風が吹き込むことはないのだが、その二日間に風邪をひき、いまも鼻風邪が続いている。いまだにフランスの冬には慣れない。

 10月12日の夜、コンゴ共和国生まれの作家アラン・マバンク(1966- )と会うことができた。とある小さな書店で、マバンクとセネガル生まれの詩人スレイマン・ディアマンカ(1974- )が対談をおこなっており、立ち会うことができたのだ。

 2006年に発表した『ヤマアラシの回想』という小説でルノドー賞を受賞したマバンクは、現代フランス語文学を代表する小説家の一人だ。マバンクは現在、合衆国でカリフォルニア大学ロサンゼルス校教授をつとめつつ、フランスで刊行されている「ポワン・ポエジー」という叢書の責任者も担当している。この叢書の紹介をすることがイベントの目的だった。ベルヴィルとはあまり関係ないけれども、今回はこのイベントのことを備忘録風に書いておこうと思う。

 なんといっても、ディアマンカの朗読がすばらしかった。彼は、がっしりした身体をしているが、雰囲気は物静かで、すこしはにかんだような目をしている。どんな詩人なのだろう、と思っていたが、いざ彼が口を開くと、原稿も本もなにも見ていないのに、途切れることなく、とうとうと詩句が流れ出すので驚いた。彼のパフォーマンスは、「スラム」や「スポークン・ワード」と呼ばれるものなのだが、その詩にはなんともいえないリズムと言葉遊びがあった。朗読しているあいだ、ディアマンカの身体はかすかに前後に揺れており、その揺れに合わせて、言葉が身体から湧き出てくる。不思議な感覚なのだが、彼の身体から溢れ出す言葉を聴きながら、まるで、ディアマンカの身体のなかに書物があり、それが彼の舌を通じて音声に変換されているような心持ちがした。(ディアマンカの「紙の蝶々(パピヨン・アン・パピエ)」という作品がYouTubeにあがっていたので、リンクをはっておこう。この作品もあの日の夜、朗読された。https://youtu.be/mq_1QnemAWc

 朗読には、マバンクも舌を巻いていた。「なんでそんな風に朗読できるの?」と思わず質問をする。ディアマンカの答えはこうだった。彼の両親は文字の読み書きが自由にできず、ディアマンカは子どもの頃から記憶を駆使する生活を送っていたのだという。本を読んでは、それを記憶に刻みつけ、口にしていたらしい。だからなのだろうか、ディアマンカが話しているのを聴いていると、べつに詩作品を朗読しているわけではないのに、どこかリズムを感じる。ゆっくりと揺れるようなディアマンカのフランス語。この人のフランス語ならば、どうにか身につけてみたい——そんなふうに思っている自分に、驚きもした。あるテレビ番組では、ディアマンカのことを「現代のグリオ」と紹介していた。言い得て妙だと思う。

 会場は人で埋まっていた。その多くがアフリカ系の人たちだ。老若男女、さまざまである。みな、同郷の作家や詩人に会うためにやってきているようだった。もちろん、人気作家マバンクを目当てにやってきている私のような人もいただろうけれど。この有名作家に誰もが関心をよせている。

 マバンクとディアマンカの対談が終わって、会場に質疑応答がふられると、ある紳士がおもむろに手をあげて、こう質問する。「マバンクさん、私はあなたの本をまだ一冊も読んだことがないのですが、何を手始めに読んだらよいでしょうか?」会場からは笑い声。マバンクも笑いながら、「誰かおすすめを言ってやってくれ」となげかける。「『明日、僕は二十歳になる』なんかどうだろう」「『割れたグラス』がいいと思うよ」と会場から声があがった。

 会場のすみで控えめに手を上げている若い女性がいる。大学生だろうか。彼女はギニア出身だという。「マバンクさん、パリだとこんな風に本屋があって、誰でも本を手に取ることができます。あなたの本も自由に読むことができます。でも、私の国の若者はそうはいきません。そもそも本がないのです。あなたは有名人なのですから、政治家にかけあったりして、どうにか状況を変えてくれませんか。」「すでにしています、何度もやっています」とマバンクは答え、「文化事業の担当者、いや非=文化事業の担当者にも掛け合いました(会場からは笑いがおこる)。でも思い起こしてみてください。アフリカの国の大統領で、だれか演説中に文学作品を引用したことのある人はいたでしょうか。フランスの大統領を見てください。文学作品の引用をしています。でもアフリカはどうですか。誰もいません。誰もいないのです。」私の後ろに立っていた男性は、それがアフリカさ、とつぶやいた。マバンクはさらに続ける。「政治家が率先して文化に関心を持たなければならないのです。そうでなければ……」

 ふと日本の首相はどうだったか、なにか文学作品を引用したりしていただろうか……と自問し、答えに窮してしまった。

 イベント終了後、マバンクは彼と言葉をかわそうとする一人ひとりと談笑し、サインを求められれば、一人一冊などと言わず、目の前に積まれた本すべてにサインをしていた。ディアマンカの方は、音楽をやっているというやはり物静かなちょっと不思議な青年とゆっくりと語り合っていた。不思議な、というのは、質疑応答の際にこの青年も手を挙げて、(おそらく)詩と音楽の関係について質問をしていたのだが、それは聞き取れないほどか細く静かな声で、しかもゆっくりした口調だったからである。それは何かを伝えようというよりも、かろうじて聞こえる独白のようだった。ディアマンカもまた、朗読以外のタイミングでは、ゆっくりと静かな声で話す。二人の世界はどこかで響き合っているようだった。

 一足先に書店から出て、帰路につく。まだ店の中には大勢の人がいたから、あの後もずっと談笑が続いたに違いない。メトロに乗りながら、まだ、あの場にいた人々の語り合う声が耳元でこだましているような気がしていた。

水牛的読書日記 2021年10月

アサノタカオ

10月某日 京都への旅から帰ると、荘司和子さんがお亡くなりになったことを知った。荘司さんはタイ語の翻訳家で講師。著書に『ソムタムの歌』(筑摩書房)、訳書に『カラワン楽団の冒険』(晶文社)など。サウダージ・ブックスから刊行した『ジット・プミサク+中屋幸吉 詩選』(八巻美恵編)の翻訳で大変お世話になった。一年に一度は電子メールでやりとりし、タイの詩について、歌について教えていただいた。荘司さん、本当にありがとうございます。

 彼は死んだ 森のはずれで
 ……
 彼は人知れず散った
 けれど今 その名は轟く
 人びとはその名を尋ねその人について知ろうとする
 その人の名は ジット・プミサク
 思想家にして著述家
 人びとの行く手 照らす灯火
 ――スラチャイ・ジャンティマトン「ジット・プミサク」(荘司和子訳)

荘司さんが訳したジット・プミサク詩集やスラチャイ・ジャンティマトン短編集はウェブページ「水牛の本棚」で読むことができます。
http://suigyu.com/hondana/index.html

10月某日 芥川賞や直木賞など日本の「文壇」賞にはまったく興味がないけれど、ノーベル文学賞の発表は毎回心待ちにしている。文学を通じて、世界の広さ、深さを知ることのできる喜び。昨年の受賞者、ルイーズ・グリュックの詩集『野生のアイリス』(野中美峰訳、KADOKAWA)を読みながら発表時間を待つ。と、第一報のニュースに「ザンジバル出身」の文字を発見し、驚いた。
2010年にサウダージ・ブックスから出版した飯沢耕太郎さんの『石都奇譚集』は東アフリカ、インド洋に浮かぶザンジバル島を舞台にしたトラヴェローグ。ぼくはこの本の編集のための取材をかねて飯沢さんとともにこの島を旅したことがあり、「ストーンタウン」と呼ばれる迷路のような石造りの旧市街を何日もさまよい歩いた。だから、気になったのだ。
2021年ノーベル文学賞は、タンザニア連合共和国に属するザンジバル出身の作家 Abdulrazak Gurnah が受賞した。現在は英国を拠点とし、英語で書くポストコロニアル文学の作家で、サルマン・ラシュディの文学の研究などもおこなっているようだが、邦訳された著作はまだない。日本の大学図書館でもその研究書以外の彼の小説(原著)の所蔵は少なそう。さまざまな書誌情報サイトを検索しても、日本語文献はあまり見つからない。
ノーベル文学賞発表後にいちはやく公開された『The Gurdian』の記事によると、Abdulrazak Gurnahは、1948年に当時英領だったザンジバル島のインド系の家庭に生まれ、1964年のザンジバル革命後に難民のようにして英国へ渡り、小説家になったという。アフリカ中心主義を掲げるアフロ・シラジ党による革命では、それまで支配階級だったアラブ系やインド系の多くの人々が迫害されたと聞く。むろんその大元には、ヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地化の問題がある。こうした苛烈な歴史とディアスポラ(民族離散)の経験からどんな文学が生み出されたのか。近い将来、日本でこの作家の著作が翻訳、出版されることを期待したい。

10月某日 川内有緒さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)は、すばらしいノンフィクションだった。全盲の視覚障害者が美術を鑑賞するとは、どういうことか。最後のページを閉じてもはっきりした答えは見つからず、目の見える/見えないのあいだにある「わからないこと」がむしろ増えた。川内さんがつづるのは、「目の見ない白鳥さん」とともに全国各地の美術館や芸術祭、寺社をたずねる旅の物語。語り口は風通しが良く、文体はやわらかで軽妙。しかし読後にお土産として渡された問いはずっしりと重い。その重みを感じつづけることが大切だと今は思う。川内さんの紀行作品『バウルを探して〈完全版〉』(三輪舎)も読み返したくなった。

10月某日 前夜、千葉県を中心に関東一帯で最大震度5強の地震が発生した。東日本大震災を思い出すほどの大きな揺れを感じたが、神奈川の自宅で被害といえるものはなかった。棚から落ちた何冊かの本、崩れた書類の山を片付け、避難用の防災グッズと靴を玄関に準備しておいた。
この日は早朝から大阪に出張する予定だったのだが、JRの在来線は地震の影響で広範囲で運休し、交通機関の混乱がしばらくつづいていた。東海道新幹線は多少の遅延はあるもののうごいている様子なので、予定を午後の出発に変更して大阪へ。道中では、「シリーズ ケアをひらく」より村上靖彦さんの『在宅無限大』『摘便とお花見』(以上、医学書院)を読む。看護師の語りをめぐる現象学的研究の書。
大阪・桃谷で、認知症の人と家族の会大阪府支部のつどい「認知症移動支援ボランティア養成講座」の実習に、取材を兼ねて参加した。森ノ宮医療大学の先生で作業療法士の松下太さんから認知症ケアの技法として注目される「ユマニチュード」や、車椅子など福祉用具の使い方を学ぶ。折りたたみ式の車いすを開いたこともなかったので、実際に手足を動かしてみてなるほどの連続。実習の後は、大阪市認知症の人の社会活動推進センター「ゆっくりの部屋」のライブラリーに立ち寄り、川内有緒さん『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』を寄贈した。
講座終了後の夜、桃谷から鶴橋までの界隈をゆっくり散策した。桃谷には子が生まれた病院があり、なつかしい。病院に立ち寄り、消灯したロビーを外からのぞくと、待合室のシートにひとり座り、暗がりの中でスマホの画面をのぞきこむ若い男の姿が見えた。不安な夜を過ごす人々のあしたに希望の道が開かれますように、と心の中で小さな祈りを捧げた。

10月某日 昨日に引き続き、大阪のコリアタウン「猪飼野」の周辺を歩きながら思い出の古書店をめぐることに。子が生まれた2004年前後は一時的に大阪に住んでいて、南巽の日之出書房、鶴橋のあじろ書林、楽人館にほんとうによく通った。こういう店で、ぼくは韓国文学や在日文学の世界に本格的に出会ったのだった。日之出書房は閉店して、いまは谷町線の喜連瓜破駅に移転。地下鉄のアナウンスで見慣れない漢字の駅名を「きれうりわり」と読むことを知った。
先々月に亡くなった画家の富山妙子と李應魯、朴仁景との対話『ソウル—パリ—東京』(記録社)を楽人館で購入し、帰路、新大阪からの新幹線車内でじっくり読みはじめる。1985年刊。アジア一帯で日本がおこなった戦争と植民地支配の暴力の記憶はいまよりも生々しいものとして存在し、同時代の韓国社会は光州事件以後、軍事政権に抵抗する民主化運動のうねりに大きく揺れ動いていた。日本と韓国のアーティストが、これほどの知的な緊張感をもって対話をすることが今あるだろうか。ひとつひとつのことばの背後にある、ポストコロニアルな世界を激しく生き抜いた三者の旅する人生の振れ幅が大きく、読んでいてひたすら圧倒される。

「1970年秋、私は思いきって韓国をたずね、釜山から列車に乗り戦前に通ったおなじ鉄道沿線の風景をたどってみた。……あのころ私は釜山で青葡萄を一籠買い、マスカットのような大粒の葡萄を食べながら、車窓の風景を眺めたものだ。戦後『朝鮮詩集』を読み、李陸史の「青葡萄」という詩を知った」(富山妙子)

10月某日 台湾の作家、蘇偉貞の長編小説『沈黙の島』(あるむ)を読了。主人公の晨勉(チェンミェン)の物語と、彼女が想像するもうひとりの晨勉の物語が交互に語られるという凝った仕掛け。重厚な小説で、倉本知明さんの翻訳がよかった。
先月、名古屋の本屋ON READINGの黒田杏子さんから聞いた「閲読台湾」という台湾文化をテーマにしたブックフェアが、全国各地の書店ではじまる。今年2021年に入り、台湾の作家・呉明益の小説の日本語版が続々と刊行され、故・天野健太郎さんの名訳による『歩道橋の魔術師』と『自転車泥棒』が河出文庫、文春文庫で文庫化された。この機会に台湾文学も、いろいろ読みたい。
ちなみにぼくの亡き父親は植民地時代の台湾・台中に生まれた、いわゆる「湾生」だ。戦後の引き揚げ時は12、3歳で記憶はあるはずだが、子供たちに台湾のことを語ることは一度もなかった。植民地主義の歴史は、暗い影のようなものとして自分の内に存在している。

10月某日 北海道大学出版会が主催、朝鮮語学・日韓対照言語学が専門の野間秀樹さんのオンライン講演会に参加。同出版会から刊行された新著『言語 この希望に満ちたもの』をめぐって。この本は事前に読んでおり、講演のお話も興味深い内容、美術作家としての顔も持つ野間さんがみずから手がけた本の装丁についてのエピソードもおもしろかった。野間さんの『新版 ハングルの誕生』(平凡社ライブラリー)も手元にあるが、大著ゆえにこちらはまだ読むことができていない。

10月某日 雨の休日、神奈川県立美術館葉山館で開催された「生誕110年 香月泰男展」を家族で見に行く。画家・香月泰男が抑留体験を描いた《シベリア・シリーズ》全57点は強烈圧巻だった。絵画の圧が強すぎてやや心身不調となり、館内のベンチに座り込んでしまった。うちの子は《シベリア》以前の少年のシリーズ、妻は晩年の青がよかったとのこと。ミュージアムショップで図録『日韓近代美術家のまなざし——『朝鮮』で描く』を購入。読み応えあり。

10月某日 東久留米市立図書館で開催される「図書館フェス2021」。今年のテーマは「言葉をとどける、世界はカラフル」。「本屋さんのトビラ」という企画に参加し、おすすめの1冊として、温又柔さんの小説『真ん中の子どもたち』(集英社)を紹介した。

「台湾人の母、日本人の父のもとに生まれ、東京で育った大学生の主人公・琴子(ミーミー)が、中国の上海に語学留学する。台湾、日本、中国。国や民族のはざまで生き、迷い、悩む若者たちの人生が異郷で交差する。どの「普通」にも収まらない琴子ら「真ん中の子ども」たち。自分だけの言葉、自分たちだけの言葉を探す主人公たちの旅を描いた青春小説です。」

ぼくは都会の本屋さんに通うようになる前の少年時代、地元の図書館でよく本を借りて読んでいた。そこで日本と海外の文学の世界に目覚めたのだった。だから図書館で、とくにいまの中学生や高校生に読んでほしいと願って推薦文を書いた。この本をきっかけに、温さんのほかの小説や、日本語についてのエッセイにも関心をもってもらえるとうれしい。
https://www.lib.city.higashikurume.lg.jp/soshiki/2/chuou-tobira20211020.html#tobira15

10月某日 思うところがあり、年内は在日文学の大家・金石範先生が近年発表した小説を集中して読むことにする。『火山島』全7巻(文藝春秋)に代表されるように、1948年におこった済州島4・3虐殺事件を中心に、朝鮮半島の歴史、そして在日というディアスポラの歴史のなかで語れられなかった声に身を捧げるように、90歳を超えていまなお日本語で小説を書き続けている。多くの作品のモチーフ、登場する人物たちやエピソードには反復と連続が多いのが金石範文学の特徴だが、それは大切なことは何度でも語り直さなければならない、と作家がつよく信じているからだろう。なぜ書き続けるのか。そこには、近代文学の概念や作家個人の思想を超えた、太古の時代から無名の人々の群れによって語り継がれてきた「神話」のようなはたらきもあるのではないだろうか。

色川さんの贈り物

若松恵子

作家の色川武大に、特別な親しみを感じている。彼はきっと、出会った人みんなに、そんな思いを抱かせてしまう人だったのだろう。『色川武大という生き方』(田畑書店編集部編/2021年3月)は、彼の全集の月報をまとめた本で、32人の心の中に居る色川武大と会える本である。

最初の1篇、大原富枝の「たぐい稀なやさしい人」は、みごとなラブレターだ。これからは、純文学(自分の書きたいもの)だけを書いていこうと決心した矢先の色川の死を「わたしの胸をしめつける哀しみ」と大原は書く。けれども、作品の完成はみなかったけれど、彼は「他の人間が生涯かかっても遺せなかったような、妖しいほど透明な文学の美を遺していった。」と大原は続ける。彼が遺した透明な文学とは「一人の男の生涯として、悔いることのない美しい思い出とやさしさを、友人すべての胸に遺してゆくという、なまなかな人間には決して出来ない見事な生涯」そのものの事であると。

奥野健男は、「色川武大の作品は、ぼくがなぜ文学をこんなに好きになったかの根源を改めて思い起させてくれた。」と書いていて心に残る。

色川が『妖しい来客簿』で泉鏡花賞を受賞した際に、同時受賞した津島佑子の回想も胸を打つ。受賞式後の懇親会の席で、太宰治の娘である津島に「おまえの作品は父親を踏みにじっている、思い上がりもはなはだしい」と酔ってからむ相手を色川が魔法のように黙らせてしまったエピソードをひいて、「酒に酔った人を相手に、そのように冷静に、しかも突き放すでもなく、話しかけることができる人を、私は他に知らなかった。そして、今でも知らない。」と津島は書く。その後の、子どもも含めた色川との交流の思い出を語りながら、津島は文章の最後をこうしめくくる。「個人的な、この程度の出会いに、特別な意味など、あろうはずはない。作家について何かを語るのなら、作品のことを語るべきなのだ。そうは思うのだが、同じ時間を偶然、共有し、さりげなくそのまま遠のいていく、ということに、その時間の延長線上に今でもまだ、生きている者として、やはり、特別な思いを持たずにはいられなくなる。」と。

色川が遺して行った思い出そのものが、何より色川の文学であったのだということに私も共感する。重ねて、色川自身の心に遺された、年月を経て蒸留されたもの、思い出が彼の文学であったのだとも思う。多くの人がやり過ごす小さなことに目を留め、多くの人が忘れ去ってしまうささやかなことを忘れずにいる彼のやさしさが、彼の文学であったのだと思う。

私自身は、作品でしか色川武大を知らない。出会いは、『花のさかりは地下道で』だった。この文庫本をふと抜いた、金町駅前の本屋の風景を今でもよく覚えている。大学を卒業して働き始めた年で、私は家から家を訪問する営業の仕事をしていた。題名に自分の境遇を重ねたのかもしれない。

はぐれてしまった者に向けられる温かなまなざし。作者の色川と思われる主人公もまた、何かを求めて街を行きかう人を眺めていた。家族でもなく、愛人でもなく、まして敵でもない、「味方」と呼べる存在。彼は、はぐれてしまった自分を分かってくれる人を街のなかに探していた。「稼いでいるかい?」主人公が路上の仲間である街娼の「アッケラ」にかけるセリフを想像して、心の中で色川さんの声を思い浮かべながら、私も街を歩いたのだった。

色川さんにいっしょに歩いてもらって何とかしのいだあの年からしばらく経った頃、私は旅行で一関に泊まることになった。「色川さんが亡くなった一関だ」と思いながら、夕食のあと、ふらりと入ったゲームセンターで、子ども用のパチンコをして遊んだ。とんでもない大当たりになった。パンドラの箱を開けたみたいにとめどなくジャラジャラと出てくる玉を見て、「色川さんだ」と思った。色川さんからの贈りものに違いないと思った。ガム1枚とも交換できない当たりだったけれど「このくらいの運なら、プレゼントしても運、不運の足し算が狂う事はないだろう?」と色川さんが笑っているような気がした。

子ども用のパチンコをどうしてやってみようと思ったのか、思い出せない。何だか不思議な気がした。そして、うれしかった。どこか遥かなところから送られてきた、温かな色川さんの挨拶だった。

言葉と本が行ったり来たり(1)『自由への手紙』

長谷部千彩

 八巻さん、こんにちは。
 今日は生憎の曇り。衆院選の投票日です。
 私は昨日のうちに投票を済ませました。午後、青山で探検家角幡唯介さんの講演を聴き、その足で散歩がてら投票所である区民センターまで歩いたのですが、いいお天気だし、赤坂御所の緑を横目に、とても気持ちが良かったです。土曜のためか、期日前投票だというのに会場の入り口には行列ができていました。

 選挙というと思い出すのは、幼い頃、両親の投票にお供させられたことです。
 小学校の廊下に、土足で入れるよう、緑色の養生シートが貼ってあって、その日だけは子供たちの姿は消え、ひっそりした校内に大人しかいない。それが普段と違う雰囲気を醸し出していて、学校の隠された顔を見るようでドキドキしたのをよく覚えています。

 いま考えると、両親は――というよりも母の判断に違いないのですが、幼いうちから子供達に、選挙に行く姿を見せておきたかったのだと思います。母親になった妹も、子供が幼稚園児のときから投票に連れて行ったりしていたけれど、たぶんそれも同じ理由でしょう。
 私の兄弟が「選挙は欠かさず行く派」なのは、きっとその経験が影響しているのでは、と思います。

 だからと言って、母がそういったことを、「教育」として私たちに施したわけではないのです。
 ただ、毎日じっくり新聞を読むひとで、家事の合間に、畳の上に拡げたそれに正座して目を通す姿(母にとってはそれが楽な姿勢だった)――うつむいた首の角度や背中の丸み、体を支えるためについた片腕、右側に寄った重心、時折ひそめる眉、気まぐれにやってきて、その体に甘えてもたれる小さな弟、そこに差す陽光までも、幼い頃、目にしていた記憶が私の中に焼き付いていて、いま私は新聞をタブレットで読むので、大抵ベッドに寝転んでのことですが、そして母ほど熱心にではないけれど、新聞を読むのは私にとってごく自然な日常の行為です。
 だから、選挙に行くのも面倒と感じないし、票を投じるひとを選ぶのも迷わない。それは、親の習慣を抵抗なく引き継いだだけ、といえるかもしれません。
 なぜ、そんなところまで話を拡げたかというと、「子供の教育」というものについて、最近モヤモヤと考えていることがあるからです。もう少しまとまったら、八巻さんへのお手紙にも書きますね。

 さて、面白かった本を教え合いましょうというお約束、私が選ぶのはオードリー・タンの『自由への手紙』です。「台湾の最年少デジタル大臣が日本の若き世代に贈る、あなたが新しい社会をつくるための17通の手紙」と帯にあって、いやらしいビジネス本みたいですけど、というか、章立てもビジネス本仕様なのですが、読み進めていくと台湾の政策の数々が紹介されている興味深い本でした(台湾の政策研究の講義があれば受けてみたいと思った)。
 例えば、台湾はアジアで初めて同性婚を認めましたが、どのように理論を組み立てて合法化させたかなんて、同じ家父長制の文化を持つ国として参考になる内容です。
他にもコロナ対策、ジェンダー問題、ハンコ問題(ハンコ問題はハンコではなく紙の問題という指摘もユニーク)、移民に対する姿勢、ソーシャルメディアとの付き合い方、デジタルをどのように社会に活かしていくかという話など、もちろん提案の中には、そんなにうまく行くのかな、と感じるものもありましたが、一本すっと補助線を引くと問題が解けるということを実演してくれるような楽しい本でした。一時間程で読み終わるという手軽さも良かったです。

 さらっと読める短い手紙をと考えていたのに、すっかり長くなってしまいました。
次回は、八巻さんを見習って、「きりりと短く」を心がけますね。
お返事いただけるのを楽しみにしています。
それでは、また。お元気で。

長谷部千彩
2021.10.31

製本かい摘みましては(168)

四釜裕子

絶賛老眼進行中で、紙の本や辞書を見ながらモニターで作業するのがいよいよつらくなってきた。めがねの上げ下ろしをするのにカチューシャみたいにしてしまうと下げるときに髪の毛がばっさばさになって邪魔だし、ならばとおでこにめがねを止めるが、ああこれ、所ジョージだ、と思う。長く参照するときはもう迷わずスマホで撮ってモニターに大写しにして見ているし、引用する場合はまずはGoogleレンズでテキストをコピペしてしまう。ということをするようになって、今度は片手で本をおさえながらスマホ操作するのが大変になってきた。本をぺたっと開くことに抵抗はないが、左右に重石をのせても本がじっとしていないこともある。それでふと思い出した。数年前にネットで見た、”アクリルの本”。

”アクリルの本”というのは商品名でもなんでもなくて、ただ自分の記憶にある”それ”の呼び名だ。こんなんで探せるかなと思ったら探せた。「BOOK on BOOK」という。TENTさんという会社が作っていて、2013年ころになるのだろうか。〈BOOK on BOOK は、好きな本の好きなページを開いたままにするために作られた、アクリル製の透明な本です。使い方はシンプル、お手元にある本のお気に入りのページを開き、その上に BOOK on BOOK をのせるだけ〉。

当時、おもしろいなとは思ったけれど、 想定されたシチュエーションが〈写真集やアートブックを開いてインテリアに飾ったり〉や〈お茶とお菓子を楽しみながら読書したり外に持ち出して景色を読んだり〉とあったりしてぴんとこなかった。今改めてサイトを見ると、開発のそもそもから、試作、完成にいたる経緯が簡単に記されている。ごはんを食べているときも本を読みたいと思ったTENTの青木さんという方が、ならば開いた本の上に透明の板をのせればいいんじゃないか、まん中はくぼばせたほうがいいだろう、それならいっそ本のかたちにすればいいんじゃないかということで、まずは3Dプリンター+紙やすり研磨で試作したこと。周囲の好評を得て、量産へと舵をきったこと。最初はシリコン型を作ってエボキシ樹脂で試みるも失敗、その後さまざまな試行錯誤をへて、そしてようやくたどり着いたのがアクリル製だったそうだ。おお……。

ということで、買ってみた。幅21センチ、横18.5センチ。文庫本を開いた上にのせると左右がぴったりという感じ。5ミリ厚くらいの1枚のアクリル板を、1枚1枚手作業で成形しているそうだ。本ののどのところは、アクリル板との湾曲具合がどうしてもずれるから文字がゆがむし、大きい本にのせればアクリルの端が重なったところの文字もゆがむ。でもそれ以外はとてもクリアで安定している。光の反射もない。モノとしても美しいし、かわいらしい。全体の重さは220グラムで、おおかたの本はそれをのせれば落ち着いて開いていてくれるんじゃないか。のせた状態でさっそくスマホで写真を撮ってみる。Googleレンズで読み込ませてみる。快適だ。ページを開くたびにこの板を置き換えることになるが、いろいろな不便を天秤にかけると、こういう目的があるのなら難儀ではない。

BOOK on BOOK には〈電子書籍にはない、紙と活字の本だけの楽しさを伝える、本を楽しむために〉という売り文句もあったようだ。まあこちらにそんなつもりはない。むしろ電子と紙をつなぐ透明の PAGE on BOOK とでも呼んでみたいなとか思っていたら、高橋昭八郎さんの「蝶」という作品を思い出した。詩集『ペ/ージ論』(構成:金澤一志 2009  思潮社)の「蝶」のページ(p18)を開いて、 BOOK on BOOK をのせてみる。おっと、最初の見開きの左右ページに一行ずつ配された文字にアクリルの端がちょうど重なる! 全3見開き6ページのこの作品、BOOK on BOOK をのせるたびに不本意にかもしだされたゆがみが、ページをめくる前のどこかを映す。固定された文字のゆらぎやためらいをのぞき見るみたいだ。昭八郎さんにそのことを言ってみたくなった。

よみがえった「お兄ちゃん死んじゃった」

さとうまき

イラク戦争当時、ブッシュ政権で国務長官を務めたコリン・パウエルがコロナで亡くなったというニュースが飛び込んできた。

2003年1月29日、僕はバグダッドにいた。
ブッシュ大統領は、一般教書演説でイラク攻撃を訴えた。
いつ開戦宣言するのか、バグダッドの人たちはかたずをのんで見守っていた。僕が泊まっていた町中のぼろホテルにはパソコンが置いてあって、インターネットがつながっていた。ホテルの従業員がのぞき込んできて、「なんて言っている?」と聞いてくる。
「『2月5日に安保理で、パウエル国務長官が、イラクの違法な兵器開発計画と査察からの隠蔽、テログループとの関係について情報を示す』そうだよ。一週間は大丈夫だ」

そして、2月5日になるとバグダッドの人たちは、もっと緊張してTVを見ていた。僕ももう、明日にでも戦争が始まるのだろうと思った。ただ、パウエルの持ってきた証拠があまりにも信憑性がなかった。そもそもイスラム原理主義のオサマ・ビンラディンと、世俗的な社会主義を掲げるサダム・フセインが手を組むはずがない。アルカーエダのザルカウィというテロリストがイラクにいる証拠を説明していたが、その場所はクルド自治区であり、サダムの勢力が及ばない地域だ。でも日本を始めとしてそんな細かいことはどっちでもよくて、アメリカがそういうんだからそうでしょ、みたいな雰囲気で、やっぱり戦争になるんだろうか。って、僕は、どうなるんだろうなあ!このまま戦争に巻き込まれてしまうのだろうか?

しかし、さすがにパウエルの証拠はインチキ臭く、国際社会も、ちょっと待てよ?ということになった。演説の中で、引用した英国の諜報機関による「大量破壊兵器開発にかかる機密文書」は、実は、すでに発表されていた大学院生の論文だったことがすぐにばれてしまう。

そして、パウエルは、「カーブ・ボール」と呼ばれるドイツに亡命したイラク人が「フセイン大統領はトラックで移動が可能な生物兵器を所有しており、兵器工場を建設している」と証言したことも紹介したが、のちになって、「カーブ・ボール」は食わせ物で、難民として永住権を取りたいがために、ドイツ政府に嘘をついたことが判明する。

そういうわけで、パウエルは、とんでもない嘘つきで、イラクをめちゃくちゃにした張本人の一人として歴史に名を連ねた。本人は、のちにそのことを「人生最大の汚点」として反省している。

日本政府の対応もひどかった。原口国連大使が2月18日の国連の会合で、「日本政府としては、国際協調を重視しており、イラクが非協力であり義務を十全に履行していないという事実を踏まえ、国際社会の断固とした姿勢を明確な形で示す新たな安保理決議の採択が望ましいと考えております」と述べて、アメリカがイラク攻撃を容認する決議案をだしたら、国連は一致団結して賛成するように訴えたのだ。原口大使は、のちにパウエルのように、「人生最大の汚点」とは思わなかったのだろうか?

反戦運動が世界的に盛り上がっていった。戦争をやめさせるチャンスは十分にあった。僕は、バグダッドの子ども達に絵を描いてもらって日本で紹介することで、戦争反対の機運を高めるミッションを実行していたのだ。

安保理は、フランス、ロシア、中国、ドイツが、イラク攻撃に反対したために、国連の支持がないまま、アメリカとイギリスは、大量破壊兵器が見つかることを信じて戦争を始めてしまった。大量破壊兵器=神なのか??

そんなある日、出版社が僕のところに来て、「谷川俊太郎さんの詩にイラクの子どもの絵を使いたいので、貸してほしい」というのだ。聞くところによると別に谷川さんがイラク戦争の詩を書いたのではなく、今までの詩を集めて絵本にするのだという。なんか違和感があった。「そんなんじゃだめです。戦争を見たイラクの子どもたちが谷川さんの詩を聞いてどう感じるのか。そういうシンクロしないと意味がないんじゃないですかね」

それで、少し落ち着きだした2003年の7月に一週間くらいイラクの子ども達とワークショップをしてたくさんの絵を描いてもらったのだった。編集の仕方が気に入らず、結構編集者とその後ももめて出来上がったのが「『おにいちゃん死んじゃった』イラクの子どもたちとせんそう」という絵本だ。

今回、ようやく子どもたちの絵が僕のもとに戻ってきた。当時は、あちこちから展示したいという依頼があったが、イラク戦争から18年も経って、すっかり忘れ去られてしまっていた。絵を手にとると、わくわくしてくる。原画は、まるで生き物のようなもの。子どもたちの「イラク」! 僕の「イラク」がそこにあった。

ワークショップは、夏休み中の音楽学校の教室を自由に使わせてもらって、住み込みで働いていた用務員のサエッドさん一家の子ども達が毎日来てくれた。当時8歳だったムハンマッド君の絵に書き込まれた文章が楽しい。


  大切なもの

ともだち
お父さんとおかあさん
勉強
学校
学校大好き。とっても楽しいんだもん。
僕は、学校で勉強し、本を読み、友達と遊ぶんだ。
学校って、なんて素晴らしいんだろう。学校大好き。とっても楽しいよ。僕は学校で本を読んでいるよ。

このムハンマッド君は、イラクがその後地獄のように内戦化しほとんど外に出られない時も学校に住んでいたから、音楽を続けることができた。今でも音楽を続けていて、先生として教えていたり、バンドも作って海外のフェスにも出ているというからうれしくなってくる。

イラクでは、10月に国政選挙があり、子どもたちも立派に成人して、親になっている。選挙に行くのか聞いてみたら、皆行かないと言っていた。理由は、「イラクはだれを選んでも汚職だらけ。投票する人がいないよ。この国には未来がない」という。

投票率は41%。サダムの時代は、サダムしか選択肢はなく、投票率100%の得票率100%という驚くべき数字だった。こういう独裁者を排除して、アメリカがイラクを民主化すると言って始めた戦争だ。支持した日本の責任は重い。日本は、いまだイラク戦争の攻撃の是非を検証せず、日米関係が良好になったという理由で、「アメリカのイラク攻撃を支持したことは正しかった」としている。日本でも昨日は衆議院選挙の日だった。投票率は、55.78%だった。外交や国際平和が争点になることはなかった。だから、僕はこの絵を皆さんにつたえていかねばならない。


11月23日-28日まで 東京江古田の古藤という画廊で「イラクの子どもの絵」の展示を行います。アラブ音楽の演奏などもあります。詳しくはこちら
http://chalchal.html.xdomain.jp/Chalchal/index.html

夢の中(晩年通信 その24)

室謙二

 よく夢をみるようになった。
 まず一晩に何度も起きるのである。
 昨日の夜なんて、一時間に一度ぐらい起きて、そのたびに夢を見ていたらしい。起きた瞬間は、その夢を覚えている。だけどすぐ忘れてしまう。数分たったら、もう忘れているぐらいだ。
 夢日誌と言うものを作ろうと思った。枕元にノートを置いて、夢を見て起きたら、すぐにそこにどんな夢だったかを書きなぐる。だけど、あくる日に起きてその字が読めなかったりする。読めてもどんな夢だったか思い出せなかったりする。
 夢を見たときには「これは重要な夢だ」と思ったりするが、次の日にノートを見てもちっとも重要ではない。毎日の普通の出来事のことが多い。
 でも死んだ友人とか両親とか姉さんには、よく夢で会った。学校時代の夢も見る。出たくないクラスとか。飛行機に乗り遅れそうになる夢もあった。まだ以前の結婚生活を続けていたりする。これはちょっと焦ります。
 夢を見ている夢も見るしね。でも夢から起きられなくなったら、どうするのだろう。夢が現実になってしまったら、どうするのかなあ。

 フロイトとかユングは、夢は人々の意識の下にあることを象徴するものだと考えた。そしてその分析を通して、精神分析という科学と方法が生まれたのである。その理論はわかるけど、私の夢が、昨晩の何回も見た夢が、何かの象徴なのかなあ?フロイトとかユングのところに行って、聞いてみたいよ。
 かつてはユングの文章をたくさん読んだが、歳をとってしまって、記憶が悪くなって思い出せない。でも本棚のユングの本を取り出すこともしません。

  釣りの風景

 十年以上前に、よくフライ釣りに行っていた時は、釣りの夢を見た。釣りの夢というより、釣りをする場所、空間の夢である。
 川の流れとか山に囲まれた湖もあった。そしてフライ釣りのロッドを持って、ウェーダーを着て水際に立っている。あるいは、あの当時はカヌーを持っていたので、それで小さな湖に漕ぎ出している。
 川だと水が足の間を流れている。もっと川の中に進むと、水はもも近くまでやってきて、これだと転ぶと危険だな。フライをラインの先につけて、ひゅっと川上に投げる。魚のいそうなところにね。この魚のいそうなところというのは、本を読んだり、経験でだんだんとわかってくる。簡単に説明することはできない。
 湖だと水面をねらうフライではなくて、水面の下とか底へ、ルアーを投げる。そんな夢をみるのである。

 夢で見る釣りをする場所は、ほとんど決まっていた。ああまた同じところに来たなあ、と思う。場所、空間、それに空とか風とか、周りの風景、木々とか岩とかが、ほとんどが同じである。音はない。
 釣りというのは、だいたい見えない魚を釣るのである。フライは、水面に浮かばせて、川の流れるままに、そのフライが流れるのがいい。だけどフライにはラインが付いていて、それが抵抗になって、空中の昆虫が水面に落ちて、川の流れのまま流れていくようにはいかない。色々と試すのだが、水面下の魚は変な動きをするフライを見限ってしまう。それだけではなくて、さっさともっと深いところに潜って、もうフライを見てもいない。賢いのである。
 というのは、みんな釣り人の想像である。魚は見えないのだから、それに魚と話しあったわけでもない。こちらは魚がこうしているだろう、ああしているだろうと想像して、手管を使って魚を釣ろうとする。釣りは、つまり想像のゲームなのだ。

 フライ釣りの場合はあまりしないが、ルアー釣りの場合は重しをつけて、あるいは重いルアーで底釣りをする。カヌーからポトンと重いルアーを湖の底に落とす。ピンと張られたラインが底に着く感じが手に伝わったら、そこからちょっと上にあげて、また落とす。そんなことを、いろなやり方で試しているうちに、運が良ければ魚が食いついてくる。
 いつ魚がフライとかルアーに食いついてくるかは、分からない。今書いたように、釣りは想像のゲームなんだ。何時間もそんなことをやっていて、一匹も釣れなくて、がっかりと疲れてしまう。でも楽しい。
 だけど突然に、ラインに抵抗があって、竿がちょっと曲がる。魚がフライとかルアーにちょっかいを出したか、軽く食いついたか。さてそこでどうするか?

  無意識から引き上げる

 パッと合わせて、ロッドを数インチ持ち上げる。いや、もう少し待ってしっかりと食いつくまで待つか?でも、軽く食いついて、これは餌ではない(食べ物ではない)、木のルアーとかフライだと吐き出すかもしれない。神経を集中して、大の大人が小さな水面の下にある魚のことを考える。そして合わせて、引っ掛けたぞ万歳。というわけではない。それからラインを引っ張って逃げ回る魚を、引き寄せないといけない。それがまた息を呑む時間ですよ。最後に網に入れて、それから魚を逃がす。私のやっている釣りは、キャッチ・アンド・リリースだから。
 と釣りから帰ってきて、魚はどこ?と聞く女房に説明する。だけど、一体なんのために釣りをやっているの?と呆れられる。魚と戯れる高級な遊びなんだけどなあ。分からない人には分からない。

 水面下というのは、フロイトとかユングの言う無意識なのです。何十年か前にユングを読んでいて、山に囲まれた湖の水面下を無意識の領域だと書いていて、それで釣りが無意識とコミュニケートするゲームだということがわかった。もっとも釣りをそんな風に書いている文章は読んだことがないが。
 夢の話を書こうと思ったら、釣りの話になった。
 夢というのは、私たちが現実と思っている世界とは、別の世界のことらしい。それはどこにあるのか?
 釣りというのは、釣り糸(ライン)と餌(ルアーとかフライの時もある)をかいして、釣り人と魚がつながる。しかし魚はだいたい釣り人には見えない、別世界(水の中)にいる。夢と同じように、それは私たちが生きている、呼吸をしているこの世界とは違う世界なのだ。
 だから私にとっては、夢と釣りは面白い形で重なっている。釣りは、無意識の世界、水面の下から生きているものを引き出すゲームなのである。

  母と父の夢

 母の最晩年、もう歩けなくて病院のベットに寝たきりの時に、夢の話を何度もした。もっともあれは、目をつぶって眠った時に見る夢ではなくて、昼間にほんの瞬間に見る夢のようなものだった。
 何十年前の、まだ東京の日本女子大にいく前の大阪の出来事とか、病室の棚にあるものを取ってくれとか。お母さん、棚にある何を取って欲しいの?と聞くと、母親には見えていて、私には見えないものがあるらしい。現実に対応した意識と、別の次元の意識が交差するのである。
 父親の最晩年の時にもそういうことがあった。ケンジ、さっき神楽坂の照国から出てきたら、雨が降っていたよ。と言うのだけど、当人は病院のベッドに寝ていて、神楽坂に照国という食べ物屋はなかった。そしてだんだん現実と夢が重なってきて、私と話をしながら、目をつぶって寝てしまったり起きたり、ちょっと横を向いて、ブッダさん久しぶりですね、なんて言っている。早稲田大学を引退した後、熱心な仏教徒になっていたのである。もっとも日本のお寺や僧侶を信用していなかったら、戦争責任について厳しかった、一度もお寺にもいかず僧侶とも話をしなかった。半分夢で半分現実の中で、数行の遺書を書き、私が死んでも絶対に僧侶を呼ぶなと言うことで、兄さん姉さんと相談してそうした。
 母親も父親も、最晩年は夢と現実が交差する意識の中で、それでも家族のことを考えて、立派に生きたと思う。

多様性・迷い・不安定

高橋悠治

バルトーク「5つの歌」Op. 16 (1916) と ピアノ曲「スケッチ」Op. 9 を演奏する機会に、傷つきやすい(傷ついた)、壊れやすい(儚い)印象について思いめぐらし・・・

一つの中心を持ち、組織され、構成された硬い表面が押し付けてくる主張・表現の重み、強さ、バランス、運動が隠している弱さ、不完全、未完成、不均等、不純が表側に出て、中心のない散らばり、かけら、言いさし、言いなおし、揺らぎ、ぶれ、ずれ、一つひとつがそっぽを向いた小さな線の集まり、その不安定な集まりが、まだそこにない変化を呼び出すように・・・

19世紀の民族主義、20世紀の民族国家の独立、束の間の自律と従属、短い平和と長い戦争、そのなかで「無用なあそび」、「精神」や「思想」に還元されない「よけいなもの」である音、その振動の「触り」と離れていく「響き」と、消えてしまっても残る痕跡(余韻)・・・

ある村で民謡を採集し、それに基づいて作品を創るというしごとは、村の人ではない「よそもの」のすることで、それをしながら村から離れていくと気づけば、風景はひろがり、歩みはさらに遠ざかる。ハプスブルグ帝国が解体した時代に、国境線を引き直してその内側に落ち着くのではなく、起源や影響を追って国境から外に眼を向ければ、バルトークのようにハンガリーからルーマニア民謡を採集しただけで双方から非難されたり、さらにブルガリア、トルコ、アラブまで足を向けていくほどに、どこからも「よそもの」になってゆく。民謡にピアノの和音を付けるだけでも、同じメロディーに毎回ちがう和音の彩りを添えて、それはことばの意味やニュアンスを描くのかもしれないが、象徴としての機能をどこか外れて、メロディーとことばの関係を不安定にしていくのではないだろうか? これは仮のもの、ここに置かれていても、いつかは、なくなっているだろう。

バルトークの音楽の影響ではなく、「異質」で「外側」にいるという位置の取りかた、心をひらくのではなく、謎のまま、扉の向こうの闇、理解を拒む澄んだ水を、別な位置から感じること・・・

「異邦人の眼差し」を向けることは、確実な成熟や発展とはちがって、正統性や権威をまとうことはないだろう。そのかわり見えていたものは見えなくなり、見えなかった染みや影が浮き出してくる。風景は暗い。道は見え隠れ、垣間見えるだけ。

それでも、この不安定が誘う、「まだない」変化には仄かな光がさしている。迷いが呼ぶ、ことばにならないうごめき、安定しないから変化をやめない、ひとつにまとまることなく、組合せを絶えず変えながら、そのたびにすこしだけ折り合いをつけ、でも違いを失うことなく、流れ・・・