蜘蛛を頭に乗せる日(下)

イリナ・グリゴレ

結婚式が始まった。蜘蛛を頭に乗せたまま。誰も気づかなかったのか、気付かないふりをしていただけなのか彼女にもよくわからなかった。古い、壊れたバオイリンを弾きながら、歯がない年取ったジプシーの男は、彼女を家から引っ張り出して不思議な儀礼に参加させた。その日は冬のはずだったのに、なぜか暑い鉄の塊を握るような感覚で、生まれて初めてとても濃い化粧されていたにも関わらず、汗でダラダラと白いパウダーが流れていた。それでも彼女の肌は幽霊のような白さだったので目立つこともなく、「村で一番美人な花嫁」という噂が広がって、次々と門の前に黒い服を着ている村の婦人たちが集まってきた。

ジプシーの音楽家が突然しわがれた声で花嫁と両親の別れの歌を歌い始めた頃、集まった婦人たちは大声で泣き始めた。そのとき、彼女は忘れていた蜘蛛のことを思い出した。手で触ってみるとまだ頭に乗っていたが、それは死んでいた。いや、死んだかどうか判断が難しかったが、動いてなかった。家の前に広がる葡萄畑を見ながら、ジプシーの声を聞いて逃げ出したくなるような気分が収まっていった。その瞬間とても強い風が風いて、儀礼によれば足を水が入ったバケツに入れるはずだったが、バケツが倒れ、水は凍った土に吸い込まれていった。この気温で水がすぐ凍らないのは不思議だと思った。彼女の足がとても熱かったからかもしれない。どうやら大分熱があったみたいだが、この村では一度結婚式というものが始まると誰も止めることができない。結婚式は花嫁が倒れても続く。

彼女はその後、家の門の外に座り、その日に母親が焼いたパンをジプシーの男が頭の上で割り、集まっていた村人に分けた。すると、どこからかわからないぐらい大勢の子供が出てきて彼女を囲み、手を伸ばしてパンを奪おうとした。その小さな手を見てボロボロ泣きだした自分が切なかった。花嫁になるから泣いてのではなく、自分も子供の時、この村で結婚式を見て、手を伸ばしてパンをもらって食べていた。幼い自分がそのパンを世界で一番美味しい食べ物だと思っていたのに、自分が花嫁の立場になった今はとても気持ち悪かった。熱のせいかもしれないが、遠くでパンを取り合って喧嘩する村の子供を見ながら吐きそうになった。なぜ子供の頃は美味しいと思ったのか、あんなまずいもの。口にしてないがまずいとしか思わない。

彼女は何回も倒れそうになったが誰も気付かなかった。おまけに頭に乗っていた蜘蛛が動いているのを感じた。村の教会までどうやって歩いたのか覚えていなかったけれど、それも子供の時に見た花嫁の行列と同じだったかもしれない。いくら考えても思い出せない。儀式は行われたのか、行われなかったのか、それさえも思い出せなかった。しかし、朝からたくさんの人が目の前にいたのに、花婿を見ていない気がした。自分があの蜘蛛と結婚したとしか思えない。誰かに言わないといけないが、もうすでにテントはジプシーのバンドの音楽で賑わって、殺された豚が大きな二つの鍋でシチューに煮込まれていた。親戚やら知り合いやら、人々がテントに集まって食べて踊っていた。彼女が椅子で気絶しても、あまりの賑やかさに誰も気付かなかった。

結婚式の日は彼女の人生で一番長い日のようだった。時間が止まっているというより、何百年もこの日を繰り返してきた感覚だった。全く同じことをなん度もなん度も繰り返していて、その繰り返しのループから抜けないまま一生を終えたような。
結婚式の夜に初めて、どこからかわからない暗闇から花婿が現れ、彼女を家の一番奥の部屋に引っ張り込んで、裸にして、頭に乗っていた蜘蛛を激しく潰した。その後、最初は手で彼女の足の間を触って、あの蜘蛛を潰したスピードで同じ指を彼女の身体に入れて変な声を出しながら興奮していた。彼女は熱のせいか、自分の頭に本当に蜘蛛がいたショックのせいなのか、あの蜘蛛が悪気なかったことを初めて理解したとともにとても気持ち悪くなって、彼を止めようとした。人の前で裸になることも、指で足の間を触られたことも、目の前の蜘蛛が殺されたことも初めてだったので耐えられなかった。でも彼は止めるどころか、もっと興奮してベッドで彼女の上に乗った。そして、彼女はあんな暗い部屋だったのにその後、雷のような光が痛みと共に訪ねたと思った。自分の肉が骨から離れたような痛み、そして離れただけではなくその瞬間に腐ったような匂いがした。

2分しか経ってないのに、彼女は何時間もその状態で声も出ないまま、壁にあった時計の音を聞いて自分の身体から離れようとした。彼は彼女に何も言わず、髭についていた豚の油を拭き、彼女から真っ白なシーツを引っ張って、何かを確認し始めた。シーツについていた血の跡を発見した瞬間、大喜びで賑やかなテントに向かった。しばらくすると外から大きな叫び声と賑やかな音楽が聞こえた。彼女はしばらく動けなかったから、一人で、部屋で泣いていた。あまりにも複雑な気持ちになって、ベッドの横の壁の白いペンキを爪で削って口に運んで食べ始めた。大人の女性とはみんなこのような人生なのかと思いながら。

しばらく経って彼女は起き上がった。足の間に何か冷たいものを感じたが身体は鈍くなって、拭くことさえできなかった。裸で出ようとしたが、突然、部屋の奥から白いモンシロチョウが飛んできた。びっくりしてドレスのことを思いだして手が普通に動き始めた。冬にモンシロチョウが飛ぶのも不思議だったけど、熱のせいで幻を見ただけかと思った。自分で白いドレスを着て外に出てみると、結婚式のテントの前に賞品のようにシーツが張り出されていた。血がついたまま。恥ずかしくてまた涙が出た。顔の上に涙が凍った。すっかり酔っぱらってふざけて老婆の服を着た若い未婚の男たちが後ろから近づいてきて、彼女を担ぎ上げて踊りの中に運び、鶏を彼女に持たせて言った「よかったね、あなたは処女で、この鶏を殺さなくてよかった」。まるで道化師のようにげらげら笑った。

彼女はそこからなんとか逃げ出し、気づいたときは裸足だった。葡萄畑に隠れたが葉っぱはなく、寒かった。花婿はどこを見てもいなかったけど、そもそも見たくはなかった。そのまま花嫁の姿で森へ歩き始めた。どこかに消えたい気分で、暗い森の中に入った。すぐ歩けなくなった。そのまま横になって、眠りたかった。森の中で雪が降り始めたが寒くなかった。血の匂いがした。朝方だったため光が木の姿の間から入り始めた。突然、子供の時に見た鹿が近づいてきて、また幻のように消えた。一緒に行きたかったのにと思った。寒くなってきた。森は彼女を追い出し、人間のところに戻って部屋で倒れた。

その後の人生は枯れた葉っぱのようにただ、たくさんの枯れている葉っぱがある土の上に落ち過ぎた。2回流産して二人の男の子を産み、都会にしばらく住んで60歳を過ぎた頃、全く一滴の愛情も注がなかった夫が死んだ。彼女は村に戻り、育った家で静かに暮らした。ときおり黒い服を着て結婚式と葬式に出かけた。ある日、突然自分が小さな女の子だと思って走って森に入った。そこには鉄砲を持った男と殺されたばかりの鹿がいた。遠くから「誰かが鹿を殺した」と大きな叫び声が聞こえた。

「図書館詩集」12(宗谷で生まれた宗谷トム)

管啓次郎

宗谷で生まれた宗谷トム
この先には海しかないとは思わなかった
知っていた、島影が見えること
知っていた、あちらと行き来する人々がいたこと
巨大な黒いからふと犬がわんわん吠えて
北へ行こうよ、北へ帰ろうよとせかす
出発をはばむのは勇気の欠如?
いや、国境だ
宗谷トムはトンコリを弾きながら
サハリン生まれだったばーちゃんを思い出す
ばーちゃんが飼っていたからふと犬の
ミーシャを思い出す
海辺で鳥が遊ぶのを
よく眺めていた犬だった
ばーちゃんの夢は青森に行くことで
それはばーちゃんが目の青い父親から
話を聞いていたから
ほんとうに森が青い、その森が
どこまでもつづくというのだが
それはたぶんばーちゃんの想像
ばーちゃんは旭川までしか行ったことがない
札幌も知らない
北端よりはるかに南にある土地だから
青森では
夏が長く春は早く山は青いと思ったのでは
ばーちゃんがもしからふとを覚えているとしても
それはたぶん子供として見聞きした
村の風景に限られていると思う
心にしかない土地が
いつか見た土地とおなじ重みをもつのが
人の心の仕組み
見たこともない土地を
水平線に見ている
それで心が騒ぐ
宗谷トムの想像は全方位にむかう
見えないものも
見てはいけないものも
全方位から岬に押し寄せてくる
やってくるたび岬が再定義される
耳がうさぎのように伸びる
海の上をおびただしいうさぎが
跳ねてくる、やってくる
海の中ではおびただしいにしんが
泳いでくる、やってくる
空にはかもめ舞い
太陽が黒々と光る
宗谷岬からサハリンまでは43キロ
ちょっと遠いな
竜飛岬から北海道までは19.5キロ
海が荒れていなければなんとかなるかも
縄文人は本州の子猪を道南に運んで
それを育てては「送って」いたらしい
その儀礼のやり方が
アイヌの「熊送り」とつながってくる
子熊を捉えてニンゲンのこどもとともに
まったくおなじように育てるのだ
子熊はよくなつき、かしこく、愛嬌があり
ほんとうにほんとうにかわいい
「子供たちもすっかり元気になり、
養っていた子グマと一日中、
楽しそうに遊んでいました。
この子グマは、ほんとうにかしこくて、
人間の言うこともすることも
なんでもわかるのです。
政代と末子が棒を持って
「ブランコ、ブランコ」と言うと
走ってきて、
左右をちゃんと見て、
棒の真ん中をつかんでぶらさがるのです」*
それはなんという夢のような
遊びだろう
だがそれは夢とは正反対
熊とかれらとの直接的な
肉体的なふれあい
それなくしては動物どころか
世界のことが何もわからないふれあい
私たちの社会にあまりに欠けているふれあい
ぼくとしてはこの世を限られた時間
歩きながら少しでもそんな
ふれあいを取り戻したい
この手でふれるのが無理ならせめて
物語を真剣に思い出したい
そのとき現実と物語をむすびつつ
ニューロンがどんなふうに発火
するのかを体験したい
知里幸恵『アイヌ神謡集』が
最初に出版されてから百年が経った
その百年がひきつれるのは
その前の一千年一万年の記憶
聞き覚えた物語を
初めてアルファベットで記し
それを日本語に訳して
初めて文字で届けてくれたのは
まだ十代の少女の偉大な魂
彼女が聞きみずからも口にした音が
塗りこめられた文字列を
なぞりながら
その意味もわからないままに
唱えてみようか
トワトワト
ハイクンテレケ ハイコシテムトリ
サンパヤ テレケ
ハリツ クンナ
ホテナオ
コンクワ
アトイカ トマトマキ クントテアシ フム フム!
トーロロ ハンロク ハンロク!
クツニサ クトンクトン
カッパ レウレウ カッパ
トヌペカ ランラン**
以上、きみはそれを三度でいいから
声に出してくりかえしてください
たとえ意味がわからなくても
必ず声に出してください
そこに不思議を感じないということが
あり得るものだろうか
よみがえるよみがえる
文字を手がかりに音を口ずさむ
文字を乗り物として音がみずから
やってくる
そのとき音を乗り物として
やってくるのが神だ
誰が口にするのかは関係なく
その場で生まれている空気のふるえに
振動によって
事物の関係が変わっている
そのことが神だ
そんなことを考えながらどんどん
歩いていくと
となかいの群れがいた
ラップランドから連れてこられたのかな
逃げるわけでもないが
なつきそうにない
それほど殊更こっちに無関心
耳に切り込みがあるのは
飼い主の徴か
橇、毛皮、肉、乳のいずれのためでもなく
ここにいるんだとしたら
どう扱うべきか挨拶に困る
どうどうどう、はいやー
飼われているのがとなかいで
野生のものがカリブーだというが
これらのとなかいはカリブー化したいのか
サハリン島のウイルタは
飼馴鹿をウラー
山馴鹿をシロと呼び
シロの狩猟のために囮にする化け馴鹿を
オロチックウラーと呼ぶのだということを
『ゴールデンカムイ』に学んだ
あれはものすごい漫画だよ
われわれの歴史・地理観を変える
こっちは狩猟民ではなく
漁撈民でも採集民でも
農耕民でも商人でも
技術者でも官僚でもなく
せいぜい最終民
ニンゲン世界の終わりを見届ける者だが
悲嘆にくれている暇はない
となかいに乗ることを断念して
ほらそこをゆく男と一緒に
これから海岸線を歩こうじゃないか
これからまだまだ
まだまだこれから
男は小柄だ、身長148センチだって
天塩川のほとりですでに会っている
僧侶の風体に北方民族の装身具をつけて
どちらまで?
いや、樺太帰りでね
これからオホーツク海の海岸線を
どんどん歩き
知床まで行くのだよ
もしやあなたが宗谷トム?
そんな名前は知らないな
私の名は「多気志楼」とも書きます
この名のユーモアがなんとも好ましい
気が多いやつなんだよ
頭の中で万国と森羅万象が渦巻いている
志すのは、めざすのは楼閣
それがどこにも見つからなくても
彼は歩いていく
「弘化二年(一八四五)、二八歳ではじめて
蝦夷地へと渡った松浦武四郎は、太平洋側を歩き、
夜の明け切らぬうちに知床半島の
先端にたどり着いた。/日の出を待つ間、
案内してくれたアイヌの男性二人に、瓢箪に入れた
お酒を振舞うと喜んでくれ、彼らは海岸に下りると
大きなアワビをとってきて、アワビの刺身で
一杯やりながら輝く朝日を一緒に眺めた」***
多気志楼以外のどの和人にそれができただろう
いったいどれだけの距離を歩いたというのだ
二八歳でそれを果たすことができなかったぼくには
それは曙光の中のぼんやりした夢でしかない
まだ二八歳にみたないきみには
ぜひそんな歩行を試みてほしい
いったい岬までの道はどんな道?
未明の森に羆の気配を感じることはあったのか?
かれらは鮑の刺身を
醤油、ひしお、塩のいずれで食べたのか?
そんな疑問がいくつも生まれる
そして空想の土地と現実の場所を
空想の過去と現実の未来を
つなげてゆこうと思うなら
ただちに歩いていこう
いま出発して
知床を目指して歩くのだ
世界がまた終わるまえに
シルエトクとは大地の果て
トワトワト
トワトワト

*砂沢クラ『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』(福武文庫、1990年)より
**知里幸恵『アイヌ神謡集』(岩波文庫、1978年)より
***山本命『松浦武四郎入門』(月兎舎、2018年)より

稚内市立図書館、2023年8月22日(火)、快晴

やっぱりバスラ

さとうまき

3月15日
結構、迷ったけど結局バスラに行くことにした。明け方、飛行場に迎えに来たガイドは、調子よくハグしてくる。円安と燃油サーチャージが急騰し、ここから先はケチりまくるツアーになるから「よろしくね」というとバスラの市内を通り過ぎて、彼の暮らすズバイルという町まで連れて来てくれた。これといった古い風情のある建物があるわけでもなく、雑な街並みは、薄汚くてゴミが反乱している。粗末なアパートがホテルだという。チェックインしていると、いきなり警察官だという男が話しかけてきた。何か尋問されるのかと思ったが、客として泊っているらしい。研修のためなのか2階を彼らが占領していたので、僕は3階の部屋をあてがわれた。夜になると彼らが戻ってきて廊下は彼らが脱いだブーツで一杯になっていて、牢屋に入れられているかのような妄想を楽しませてくれるが、汚いホテルだった。

イラク戦争から20年だ。会いたい人がいる。いろいろ面倒を見てやったがんの子ども達もそうだ。

1991年の湾岸戦争では、アメリカ軍は劣化ウラン弾という砲弾を使用した。こいつは、ウランを濃縮した後の残りかすのウランを固めたもので、発射されると鋭い矢が飛んでいく。硬いから、戦車の装甲も簡単に突きさす。めり込む時の摩擦熱で、火花が出て、戦車を簡単に爆破させてしまう。しかし、劣化ウランは放射能出すから、微粒子が体の中に入ってしまうと白血病などのがんに罹ってしまう。

2003年も米軍は、劣化ウラン弾を使った。「安全な量しか使っていない」というが、一体どれくらい使ったか、どこに使ったかは、「言わない」のである。特にバスラでは、多くの劣化ウラン弾が使われたと言われて、破壊された戦車が放置してあった。「戦車の墓場」とも呼ばれていたのだ。初めてバスラに来たときには、このあたりが放射能で汚染されているのか?と思うだけで不安な気持ちでいっぱいになった。僕たちは恐る恐る破壊された戦車の横を通り過ぎる。子どもたちは、そんなことはお構いなしに戦車の中で遊んでいた。「あぶないよ」と言っても言葉は通じないし、これ以上は近づきたくはなかった。

しばらくすると、イラクは内戦状態になってしまい、僕たちはイラク国内に入る事すらできなくなってしまった。日本では、劣化ウラン弾への関心が高く、放射能の影響でがんが増えているという報道もあり、抗がん剤を子どもたちに届けてほしいと寄付する人たちがたくさんいた。そこで僕たちはヨルダンに事務所を構えることにしたのだ。そんな時に、バスラから避難してきていたイブラヒムという男に出会ったのだ。この男は、妻を白血病で失い、幼い子供を3人も抱えて途方に暮れていた。ちょうどいい、バスラに行ったり来たりしてもらい薬の運び屋をやってもらうことにした。なんだかそういう風に言うと怪しいことに手を染めているように聞こえるだろう。イラクにはやばい連中がたくさんいて、高価な薬だとわかると盗まれ、闇で転売されてしまうから、極力目立たないように、古着の中に忍ばせたりと苦心した。

ある日、イブラヒムは薬を届けてバスラから帰ってくると嬉しそうに「がんの子どもたちに絵をかかせてみたんだ」という。イブラヒムには全く絵心はなかったが、がんの子どもたちの人気者になったらしく、子どもたちはイブラヒムのためにたくさんの絵を描いたという。

そんな中で、忘れられない絵があった。サインペンで描かれた絵は線が躍動していた。
「これは?」
「サブリーンという11歳の少女がおりまして、まだサダム・フセイン大統領が健在だったころ、お父さんは、兵役から逃れていたのを捕まり、牢屋に入れられました。こいつはいけないやつだということで、耳をそがれたのであります。するとそこから感染症になり、お父さん、獄中で死んでしまった。少女がまだ1歳の時のこと。お母さんは大変だ。女手一つで生活は成り立たない。それで、お母さんは、再婚したというわけですが、ところが、新しい亭主、こいつがまた、定職につけず、貧乏でとてもじゃないがサブリーンを学校に行かすお金もない。まあ、12、13くらいになれば早めに嫁に出してしまおうと考えていたのだろうが、ところがサブリーンは癌になってしまった。サブリーンが病院に来た時にはもう右目は腫れあがり、摘出するしかなかった。お父さんは、相変わらず仕事がなくいつもイライラしてサブリーンをしかりつける始末。なんというかわいそうなお話し、何とかしてください」
ということで僕は彼女の絵の虜になり支援をはじめたのだ。

サブリーンは、がんになったことでみんなに迷惑をかけていると嘆いていた。どうせすべては手遅れだということも知っている。病院に行ってもお金がかかりみんなに迷惑をかけるだけだと。どうせ死ぬんだからもう病院には行かないと言ってこなくなってしまった。しかし、そうは問屋が卸さない。僕はと言えば、彼女が今度はどんな絵を描いてくれるんだろうかと楽しみにしていたからだ。

そんな僕の思いが通じてサブリーンは病院に戻ってきて、また絵を描いた。僕はうれしくなってみんなにサブリーンの絵を見せてまわった。サブリーンの描いた絵のファンも増えてお金も集まるようになり、病院に薬を届けることができた。サブリーンのおかげで他の患者たちの薬も買うことができた。彼女は生きていることの意味をしっかりと感じることができたのだろう。しかし、病気は進行していった。もう目も見えなくなって、彼女は「ありがとう、幸せでした」と言って死んでいった。

その話はどんどん膨らんでいった。ある人は、講演会で「サブリーンが死ぬ前に、私に手紙を書いてくれたんです」と言いって涙を誘い、募金を集めてくれた。
「どうだい? みんなこの話をするとお金をたくさん寄付してくれるんだ」と自慢げだった。ただ、サブリーンは目が見えなくなっていたから、手紙なんか書ける状態ではなかった。その人の話し方がうまくて僕も感動したぐらいだ。なんだか、人をだましているようでどうも釈然としなかった。

サブリーンに会いたくなった。でも彼女は天国にいる。そこで、サブリーンのお母さんに会いに行くことにした。ガイドに頼んでサブリーンの家を探す。2013年にお母さんを訪ねたことがあり大体の道は覚えていた。彼女たちの住んでいる貧困地区には鉄くずなどの資源ごみが集められて、そういうのを売買している人たちが暮らしていた。おそらくその中には劣化ウラン弾の放射能で汚染された鉄くずなども混ざっていたのかもしれなかった。

バスラも最近ではモールができて、65000人が収容できるサッカースタジアムもある。ここにきてようやく復興が進みだしたが、貧困地区の開発は絶望的だ。サブリーンの家の周辺は全く変わっていない。家の前の空き地は、ゴミ捨て場になっており、ごみの回収はいつ行われているのか全く分からないような状態で悪臭が漂う。ただ、以前は、治安の問題から日本人であることを知られないように、隠れるように移動していたので生きた心地がしなかったが、今はそんなことはなく、堂々と道を歩ける。これは大きな進歩だ。

お母さんが扉を開けて家の中に入れてくれた。家で小さな雑貨も売っていて、近所の子どもたちがお菓子を買いにやってくる。サブリーンの弟は結婚して子どもができたばかり。妹たちはというと大学に行っているという。そのうちの一人のファーティマは、成績が優秀で私立の大学に奨学金を貰って通っていて、薬学を勉強していた。サブリーンは学校にまともにいくことはなく、がんになって初めて院内学級でいろんなことを学んでいった。妹の世代は、貧しくても、チャンスがある。「戦争がない状態」は、若者達に未来を与える。日本だと当たり前のこと。イラクは20年経ってようやくそういう段階に来たんだ。そう思うとなんだかとてもうれしくなった。

10月16日は、サブリーンの命日なのである。未だに彼女のことを思いだすだけで何か勇気をもらえるのだ。

ジャワ舞踊のレパートリー(2)男性舞踊優形

冨岡三智

先月に続き、今回は男性舞踊優形のレパートリーについて。私がインドネシア国立芸術高校スラカルタ校に留学したのは1996年3月~1998年5月、2000年2月~2003年2月の2回。男性舞踊については留学後にゼロから始め、芸大の授業履修と教員のパマルディ氏に師事と両輪で進めた。女性舞踊と違ってまだほとんど見通しがなかったので、パマルディに選曲してもらった基本的な演目をやることになった。以下、★印は日本あるいはインドネシアで上演したことがある曲。

最初の留学で習った演目を順番に挙げるとまず「タンディンガン」、次いで「トペン・グヌンサリ(ガリマン版)★」で、これらは1年生後期の授業内容である。1セメスターで2曲習う。留学してクラスに入った時にはすでに授業が始まっていたので、クラスの内容を追いかける形でレッスンを始めた。「タンディンガン」(戦いの意)は芸大では男性舞踊の基礎としてラントヨ(セメスターI)の次にやる演目として位置づけられ、男性優形のクラスでは優形の人物2人の戦い、男性荒型のクラスでは同じ曲で荒型2人の人物の戦いとして同一曲で練習する。戦いものの練習曲だが人物設定はないので、自分でキャラクターを設定したり、また荒型×優形のように組み合わせたりして上演できるようになっている。

その後は「パムンカス」、「メナッ・コンチャル★」、「ガンビルアノム」、「トペン・グヌンサリ(PKJT版)★」といった単独舞踊を習う。これまで挙げた6曲にはすべて市販カセットがある。トペン~とあるのは仮面舞踊で、パンジ物語出典の舞踊は仮面を使う。「メナッ・コンチャル」については『水牛』2014年2月号、2つのグヌンサリについては『水牛』2014年4月号に寄稿した記事で書いているので参照を。「パムンカス」以外はキャラクターがある。パマルディ氏曰く、ここまでは基本的な舞踊なので、アルスをやるなら全部やりなさいとのこと。単独舞踊としては芸大には他にワハユ・サントソ・プラブォウォ氏の振り付けによる「ブロマストロ」があるのだが、それは習っていない。パマルディ氏曰く、それはもう少し難しい曲だから、基礎演目をやったあと自分の方向性として強いキャラクターをやりたいなら習ったらいいという話だった。

2回目の留学ではパマルディ氏は一層忙しく、また当時は現代舞踊・創作を教えることが多かったので、私は授業だけでなんとかマスターし、試験も受けた後でパマルディ氏に見てもらってアドバイスしてもらうという形にした。以前に習った曲を再度授業で履修しつつ、新たに「パンジ―・トゥンガル★」、「カルノ・タンディン」、「パラグノ・パラグナディ」、それから「バンバンガン・チャキル」を履修する。これらには市販カセットがなく、芸大が授業用に録音したものを使う。いずれも芸大で3年生後期以降のカリキュラムだ。前の3曲は古い宮廷舞踊を復曲させたもので、アルスの極みのような曲。「パンジー」は単独舞踊(トゥンガルは1人の意)だが、もともと2人でやる曲を1人でできるようにガリマン氏がフォーメーションを変えたもの。この曲については『水牛』2015年10月号に寄稿した記事「パンジ・トゥンガル」を参照。次の2曲は戦いもの。優形同士のキャラクターの戦いである。「カルノ・タンディン」は複数つながっている曲の最初が、スリンピでも使う「ゴンドクスモ」。グンディン・クタワン形式の曲で、この形式の曲はスリンピでいくつか使われるけれど宮廷舞踊らしい曲でラサ(味わい、感覚の意味)を出すのが難しい。「パラグノ・パラグナディ」は戦いの場面に続くシルップの場面でイラマIVが出てくるところが難しい。このテンポが出てくるのは、私が知る限りではこの舞踊だけ。

「バンバンガン・チャキル」は見目麗しい武将と羅刹チャキルの戦いもので、チャキルは荒型である。昔から商業ワヤン・オラン舞踊劇で人気の、スラカルタを代表する演目だ。この演目についても『水牛』2004年6月号に寄稿した記事「バンバンガン・チャキル」で書いている。この授業では、学生はチャキルを踊ってくれる相手方を自分で探し、授業外に自分たちで振付を考えて試験に臨む。相手役は同じクラスの人でも、他のクラスや学年の人に頼んでも良い。決まった振付がないのは、昔から踊り手が振り付けるのが伝統だからとの理由だったが、4年生後期のカリキュラムになっているので、自分で振り付られるようになって一人前ということなのだろうとも思う。

留学を終えて2003年の夏、ジャカルタで「スリ・パモソ★」を習う。これは宮廷舞踊家クスモケソウォ(私の宮廷女性舞踊の師匠であるジョコ女史の舅)の曲で、2003年2月に上演された。その経緯については、2020年11月号『水牛』に寄稿した記事「『スリ・パモソ』作品と復曲の背景」に詳しいが、その時に復曲させ踊ったスリスティヨ・ティルトクスモ氏に習った。私はその復曲の過程も見ていて、さらにその曲も自費録音させてもらっていたので、格別の思い入れがあった。

どうよう(2023.10)

小沼純一

あたま いた
あたま いた

あたま いない
いない いない

あたま いる
あたま いらない

あたま いたい
あ たま いたい
いた いた いたい
いなかった

いいときは
わるいこと
わるいとき
おもい
ださない
おもい
だし
にくい

かならず
でも
いつも
でも
ないけれど
わるいときにわるいこと
おもいだし
つづいてゆくと

たべるのにつかってるから
はなしのためにはつかわない

のり
つくだに
つけもの
うめぼし
とうふ
たまご
とまと
しらす
みょうが
だいこんおろし
なっとう

しょくよくなくて
じかんがかかる

たまにもれる
みじかなけいよう

あまい
にがい
こい
うすい
かたい
からい

しずかなしょくたく
はしのちゃわんのおとばかり

ひとくちおわると
ためいきひとつ
ひとくちのこる
おみおつけ

ひきどをあけて
しょうじをあけて
もひとつ
がらすまどあけて
あまどをとぶくろに
あみどももどし
えんがわに
えんがわまえのくつぬぎいし
なにもない
つっかけないから
はだしのまんま
にわおりて
あしうらにははっぱやじゃり
いたいくすぐったい
きもちいい
きもちわるい
わかんない
このままどこかにいっちゃいたい
いけのきんぎょは
どこかつれてってくれるかな
かえるとくらすのどうだろな
へいのむこうはいけなそう
にわからそとはどうだろう
いつかいつか
へいのどこかわれるまで

『アフリカ』を続けて(28)

下窪俊哉

 前回は途中まで呑気に「出来ないこと」と「帰ってくる場所」について書いていたが、向谷陽子さんの突然の訃報を電話で受け、しばらくは耐えていたが、もうこれ以上は書けないと思い、亡くなったことを伝える文章を添えて、それで終わりにした。
 ふり返ってみれば、亡くなった夜に、私はそのことをまだ知らなかったが、『アフリカ』に送られてきた「言葉にならない喪失の体験」について書かれた文章を読んで、返信のメールを書いていた。何日かたって、そのテキストが、私の気持ちに寄り添ってくれるように感じられてきた。何も言わない、何かよくわからない音の中で、一緒に座っていてくれている。

 いろいろなことを思い出しながら、これまでに向谷さんが『アフリカ』の表紙のために切った作品、切り絵をスキャンしたデータを整理して制作順に並べ、パソコンの画面上で眺めてみた。
 亡くなった直後には、次号の『アフリカ』へは切り絵が届かなかったのだから、切り絵が不在の、文字だけが置かれた表紙の『アフリカ』をつくろう、と考えていた。それが『アフリカ』にとって喪に服すというか、追悼の仕方になるだろう。あの有名なホワイト・アルバムのように? 急に訪れた大きな転機を前に、まずは白紙を受け入れよう、と。しかし彼女が『アフリカ』に寄せた全81作品をくり返し眺めるうちに、考えは変わってきた。編集人が意図的に、喪失や不在を際立たせるようなことは、しない方がいい。これまでと変わらず、一緒につくろうじゃないか。
 向谷陽子の作品は、切り絵としての技を見せつけるようなところがない。いま何を切りたいかというモチーフ集めから始まり、そのデザインと、切り絵という方法が、上手く絡めば絡むほど力強い〈絵〉となる。
 毎号、表紙と裏表紙のために、2枚の新作を送ってもらっていた。
 81作あると書いたが、『アフリカ』最新号はvol.34なので、合わせると68作。残りの13作は表紙にも裏表紙にもなく、ページの中に置かせてもらうようにしていたが、殆どは目立たない扱いになっている。とくに初期の頃は、余力があったのか暇があったのか、そうではなくて試行錯誤の結果だったのか、多めに送られてくることがよくあった。中には、切った作品を鮮やかな色の和紙のようなものに貼り付けた、カラーの作品もある(『アフリカ』は全てモノクロ印刷なので、その色は消えてしまったのだけれど)。
 作者本人は、私から誘われるまでに自分の作品を発表しようと考えたことが、一度でもあったかどうか。『アフリカ』を除くと、おそらく知人・友人に宛てたハガキぐらいでしか”発表”していないはずである。
 私たちは20歳前後の頃にア・カペラのコーラス・グループをやっていた関係なのだが、その時代の友人たちは殆どが疎遠になり、いまでは音信不通だ。『アフリカ』に書いている人たちは、ほぼ全員、彼女と顔を合わせたことがない。やりとりも私との間にしか存在せず表にも出てこなかったので、どういう人だったのか、誰も知らない。親しみを覚えつつ、「どこかミステリアスな存在だった」と話してくれた人もいる。
 みんなが知らない人の追悼文集は、つくれそうにないし、唯一人私の中にあるのは、ごくごく個人的な思い出ばかりだ。外向けに発表するようなものではないだろう。『アフリカ』の切り絵についてを例外として。
 そんなことを考えながら過去のデータを探っていたら、2013年の夏に珈琲焙煎舎で開催した「『アフリカ』の切り絵展」の記録写真が出てきた。それを見て驚いたのだが、展示用に選んでもらった作品のひとつひとつに、作者のコメントが添えられている。すっかり忘れていた。ああ、彼女のことばが、残っていた。当時のコメントを読んでいると、それがきっかけとなって思い出されることが、また次から次へと出てきた。
 そして、これを使わせてもらって、向谷さんとつくる最後の『アフリカ』を編んでゆこう、と決めた。

 7月、最後に手紙を書いた時に、いま、ハーモニー・グループの話を書いているよ、と伝えたのだった。若い頃、もっとも身近にあったそのことをなぜか書いたことがないと気づいて、というのは半分嘘で、かつての自分たちをモデルにしたわけではないのだが、でも半分は本当だ。あの経験と、いま書いている原稿は、きっとどこかで通じているはずだから。
 その原稿は8月末の時点でかなりのところまで進んでいたのだけれど、思うところがあって一度止め、はじめから書き直すことにした。自分の中の気分というか、音の響きが、あの出来事によって大きく変わってしまったから。

 思い出すのは昔のことが多いのだが、『アフリカ』の今後にも目を向ける。最近、自著を出した仲間がふたりいるので、その2冊については、内容を深めたり、拡げたりするような企画を『アフリカ』誌上でやりたい。
 そんなふうにして、『アフリカ』はまた、自然と浮かび上がってきてくれた。

 それにしても、これで『アフリカ』はますます止められなくなってしまったと思う。向谷さんに「わたしがいなくなったから『アフリカ』が終わってしまった」と思われたくないから。この後、『アフリカ』の表紙のバトンを受けてくれる人は、どんな人だろう。いまは何も決められない。アイデアを胸に秘めて、なりゆきの風に吹かれていたら、きっとまた、よい出会いはあるだろう。でも、いまは何も決められない。
 そこで私はハッとする。ああ、そうだった、『アフリカ』は、続けないんだったね! 続けようとしない。ただ、次の1冊をつくるだけだ。またそうやってやってゆこう。

むもーままめ(32)2023年8月3日

工藤あかね

凍える雲

透きとおる青を覆うのは
氷河を映し取った夏雲
見上げれば
地の溶炉をひととき忘れる

あきれるほどに
蒼白の敷布は果てしなく
水の波紋は
時の記憶を封印する

大胆に連なり
浮かぶ氷山は
なにものにも侵されず
矜持に満ちる

極東のちいさな檻で
囚われの白熊が遠吠える

天は血に染まり
凍える幻想は
しらじらと溶けた

話の話 第7話:まずいかうまいか

戸田昌子

友達と待ち合わせをした。約束したJR御徒町の駅前に、わたしより早く到着した友達は「いま⚫︎⚫︎ダ焼きの前にいます」とメッセージを送ってきた。慌てたわたしは「まって!⚫︎⚫︎ダ焼きは買っちゃだめ!」と大急ぎで電車の中からメッセージを送った。なぜならそれは「⚫︎ンダ焼き」と名前はついているものの、中身はあきらかに、あの「ベビーカステラ」だからである。飲みすぎた深夜などに正気を失った状態で買ってしまうあれは、いつもおいしかったことがない。それを知っていながらつい買ってしまうのは、その実態に反してそれがいつも、とてもおいしそうな匂いを発しているからである。鳩尾いわく「買って後悔しなかったことがない」という代物。街中でそうそうまずい食べ物に出会うことが少なくなった昨今でも、毎回ハズレを引くことが可能な食品として名をはせている。

21世紀に入って、世の中からはそうそうまずい食べ物が減った気がする。20世紀には、どこか出かけた先でえもいわれぬ食べ物に出会うチャンスがあった。尾道のバケツチャーハンとか、四谷駅前の「来々軒」の手のつけようのないほど伸び切ったラーメンとか。ちなみにこの店の、味の逃げ場のないチキンライスは影の最強で、自分を試してみたい時に頼むのがオススメだと夫は主張するが、わたしは試したことがない。一方でおいしい食べ物に出会う才能のある人というのはいて、数ある選択肢のなかで抜群のセンスを発揮して、アタリの店を引くのである。そういう人は「わたしは食いしん坊だから、ぜったい失敗したくないから勘が働く」のだと説明する。わたしはその真逆のパターンで、「ここでいいかなー」と手を抜いて選び、口に入れたとたんに無の表情になってしまうことがしばしばある。たとえばいま住んでいる駅前に、かつてあったそば屋。味わい深い下町にあこがれて転居を決め、昼飯を食べようとなって、それならそば屋なんかいいんじゃないかと夫とふたりで入ったその店で、わたしはざるそば、夫はかけそばを頼んだ。しかし夫はあろうことか、なぜかそこで大盛りを頼んだ。特大のどんぶり鉢で運ばれてきたそれには、運んできた店主の親指が、汁のなかに見事にインしていた。つまりは汁が十分に熱くないのだということがすぐに見てとれる状態だったということである。茹で上がったそばのぬめりを洗ったあと、湯をかけて温め直す手順は省かれたのだろう。ぬるいかけそば大盛り店主の親指入り。そしてそば自体も汁からこんもりと溢れかえり、さすがの夫も食べ切ることができなかった。ひそひそと「なぜ大盛りを頼んだの……」とたずねるわたし、「だってお腹がすいてたんだよ……」うつむきがちに答える夫。その店は数年後に潰れ、そのあとコンビニになった。

昭和の時代には、もらったはいいけれどまずいご当地土産というのもよくあった。たとえばハワイ土産の定番だったマカダミアナッツチョコレート。わたしの小学生時代はバブル全盛期で、八百屋のおやじさんでさえゴルフ会員権などを買っていた時代である。我が家はバブルの恩恵を受けることがなかったので、わたしはといえば、その八百屋で白菜2個、キャベツ1玉、玉ねぎ2袋、にんじん2袋、ピーマンに長ネギなどのご無体な買い物をひとりでしていた小学生であった。話を戻すと、マカダミアナッツチョコレートである。このころはハワイ旅行が流行っていたので(松田聖子全盛期であるからして)、クラスに2、3人が、夏にハワイへ家族旅行する。すると土産は当然、マカダミアナッツチョコレートになる。夏休み明け、得意げに教室で配られるそれは、日本では馴染みのないナッツが入っていて、それがマカダミアナッツであった。ナッツと言えばピーナッツかアーモンドくらいしか食べたことのない小学生にとっては、甘すぎるチョコレートをまとうこってりと油っこいそのナッツは、確かに珍しいものだった。しかし、牛肉すら食べたことのなかった昭和の欠食児童にとり、マカダミアナッツの油脂は強すぎてお腹に重たい。チョコレート自体も、日本のチョコレートと違ってざらざらと溶けにくいし、とにかく甘ったるい。はっきり言えば、まずい。ハワイのなんたるかすらよくわからない小学生にとっては、羨ましくもなし、おいしくもなし、という、えもいわれぬ記憶として残っている。ちなみに牛肉はその後、関税自由化の影響によって、わたしの口にもしばしば入るようになった。

チョコレートと言えば、連想するのは大相撲チョコレートである。わたしの母の叔父、すなわち大叔父が福島の人で、百姓であった。彼は大相撲が大好きで、大相撲のお茶屋さんで長年アルバイトをしていた。本場所期間中は東京、大阪、名古屋、福岡、いずれにも行く。東京場所のときは、我が家に滞在する。百姓らしい、たくましい小さな体を持ったすてきな人だったが、鎌で自分の指を切ってしまい、病院へ行かず放置したら、その形のままくっついて、変な方向に親指がくっついている。とまれ、大相撲では、やきとりや赤飯などのお弁当が提供される。大叔父は余った弁当をいつも持ち帰るので、我が家の欠食きょうだいたちは、それを温め直して食べるのを楽しみにしている。いつも谷内六郎の絵がついたふりかけが配られるので、おまけのカードを集めるのを楽しみにしており、谷内の絵にはそれで親しんだ。そして場所中に1回、大叔父がかならずお土産に持ち帰るのが、この大相撲チョコレートである。「力士人形チョコレート」と言われているらしいそれは、お相撲さんの姿をかたどった小さなチョコレートが、大きなお相撲さんのチョコレート2体を取り囲んでいる。子供達はそれをひとつずつ食べる。もちろん頭からぱくりといくのである。一方、大きなお相撲さん2体も平等に分けられなければならないから、当然それは解体されることになる。おやつを公平に分配するのは当時、わたしの仕事だったから、わたしは大きな包丁を出してきて、力士を切り分ける。切りやすいところで切るので、もちろん首はばっさりいかなければならない。包丁に力を入れながら、ザク、ザク、と力士を解体していく。胸とお腹もばっさり。まわしもばっさり。若干の良心がちくちくと痛む作業である。なぜこんな食べにくいものを作ったのかと毎回、うらめしい思いになる土産であった。チョコレート自体は、おいしかった。

どうしようもなくまずい店といえば、忘れられないのが、当時住んでいた亀戸の中華料理屋「⚫︎⚫︎ダ」である。友人となにか話があって、そのあと飯を食っていこうとなって、わりといつも繁盛しているから、という理由で入ってみた。チャーハンと春巻を頼んだ。値段は安いが、量は多いと言うので、とりあえずそれだけ頼んだら、まずチャーハンが来た。見た目は水っぽいおじやのようである。パラパラなんていう概念とはかけ離れている。そして、量がとんでもなく多い。まわりを思わず見まわしたが、みな普通に食べている。一口食べてみたら、もちろんまずい。なにせ油の滲みたおじやなのだから、おいしいわけがない。どうしよう、食べ切れるかな、と不安になったところで、次の皿が来た。頼んだ覚えのない料理のように見えた。キャベツの千切りのとなりに、不思議な物体が乗っているのである。「え、これ、なんですか」と尋ねる。「春巻デェス」と店員が答える。春巻。それは、野菜や肉を春巻の皮で包んだ食べ物のはずなのだが、それは明らかに爆発している。そして焦げている。どう見ても揚げることに失敗した春巻である。普通こんなものを出すか、と思ったのだが、もしかしてこれはこの店のスタイルかもしれない。食べてみたら意外といけるかも?……結論から言うと、それは完全に、油で揚げた生ゴミであった。言い換えると、食べられる生ゴミ。もちろん食べきれない。友人とふたりで、これは無理だとなって店を出ることにし、会計を頼んだ。食べ残しを見た店員が「包みますカァ」と言う。断るのもなんなので、包んでもらう。なんだかしけた気分になって友人と別れて帰路についたが、それを家に持ち帰ることになんだかイラっとしたわたしは、途中で見つけたゴミ箱に袋を叩き込んでしまった。あんなに驚いた中華料理はそれ以降、まだない。

ちなみにその店は、なぜかわからないが繁盛を続け、その近所にもう一軒、「ニュー⚫︎⚫︎ダ」という店を出店した。亀戸民の味覚は信用できない、と心に刻んだ出来事であった。ちなみに亀戸は変な町で、30数年前、駅の敷地内の土手でヤギが飼われていたことも忘れがたい。通学時に電車に乗っていると、亀戸駅にしばし電車が停車しているあいだ、窓の外にヤギが杭に紐で繋がれているのが見える。「ヤギ」と思う。それは確かにわたしの乏しい知識においてもヤギなのだが、なぜそこにヤギがいるのかはわからない。今と違ってインターネットもないし、理由を尋ねる相手もいない。だからわたしはいつも車窓からぼんやりヤギをみつめ、ヤギは草を見つめ、しばし「ヤギ」と思ったあと、電車が発車する。そんな状態は十数年続いたが、いつのまにかヤギはいなくなり、記憶のかなたへと消えた。そのうち21世紀に入ると、ヤギがいたその場所には小さな畑が作られて、大根が栽培されはじめた。それが亀戸大根であった。ちなみに亀戸大根は、小ぶりで味が強くて、とてもおいしい。

まずいかどうかを確認することが身の危険をともなうケースもある。ある事情で、数年間、大阪に住むことになった。家探しのために内見をしていて、移動のためにタクシーに乗っていたときのこと。あちらこちらで「スーパー⚫︎出」という派手派手しい看板が目につく。話すともなく、「よくこの看板みかけますね。地元のスーパーなんですか」と運転手に話かけると、「あぁ?地元。まあいろんなとこにありますわねぇ。僕はよう入らんのですけど」と口を濁された。不思議に思ったがあまり気にせず、そのことは忘れる。のちに大阪で知り合ったパパ友とその「スーパー⚫︎出」の話になったとき、とにかく安いが品が悪く、特に惣菜は腹を下す確率が高いので自分は入らない、と説明してくれた。「でも」と彼は言う。「飲んだくれて気が大きくなって、つい⚫︎出のポテサラを買ったことがあるんやけど、まぁ腹は下した」のだそうである。ポテサラで腹を下すとはかなりのレベルの危険値である。やはりポテサラは家で作るべきなのだろうか。自分の身をもって確認する勇気の出ない案件である。

なぜ、ひとは、まずいとわかっている食べ物に手を出すのか?それは勇気なのか、それとも自暴自棄なのか。これひとつとっても、ひとは必ずしも合理的な判断をする生き物ではないということが証明されている気がする。

確認できない、といえば、謎肉。わたしは大阪で謎肉に出会った。大阪では肉と言えば牛肉で、カレーにも牛肉が入るのだと聞き及び、東京では基本的に豚肉を入れていたわたしも、大阪に住んでいたころはなんとなく牛肉を入れてみることが多かった。こころみに「カレー用の肉をください」と言ってみると、薄切りの牛肉が提供される。おおこれが大阪か、と感心することしきり。しかしあるとき、ふとみかけた肉屋で、こんな張り紙があった。「牛肉」「鳥肉」「豚肉」に続けて、「肉」と買いてある。肉といえば牛肉、ということかとも思ったが、牛、鶏、豚はすでに出ている。そして「肉」である。この店でもし「お肉ください」と言ったらこの謎肉が出てくるのだろうか。そしてその肉は一体なんの肉なのであろうか。試してみる勇気は出なかった。

ある日、鳩尾が「どうしても食べろ」と言うので、「祇園饅頭」のみそ餡の柏餅を食べることになった。これはわたしと鳩尾の間で長年懸案になっていた食べ物である。というのも、ある日、わたしが「柏餅といわれて食べてみたらみそ餡だったらがっかりする」と言ったら、鳩尾は「みそ餡はおいしいですよ」と主張して大論争になったのである。わたしは「もちろんみそ餡でも食べないわけじゃない。一口くらいなら食べるけど、やっぱりあんこ」と大譲歩してみたが、鳩尾は納得しない。「祇園饅頭のみそ餡は格別だ、これを食べたら考えが変わる」と鳩尾は言うのだが、「でもみそ餡はみそ餡でしょ。柏餅はあんこです」と反論するわたし。ふたりとも肝心なところで譲らず、いっときはそれで喧嘩別れしそうなほど険悪になった。販売時期が6月のみという期間限定である上、日持ちもしないのでわたしに郵便で送りつけることもできずじりじりとしていた鳩尾は、わたしが6月に京都を訪れたタイミングを見計らって祇園饅頭のみそ餡の柏餅をいそいそと持参した。「これなんすか」「祇園饅頭のみそ餡柏餅です」「これをわたしに食べろと」「もちろんです。だっておいしいから」「そりゃおいしいでしょうが……」「まあ食べてみてくださいって」と押し問答したのち、ぱくり。「あー……うん。おいしいですね」。鳩尾、満足。お茶まで差し出してくれた。長年の懸案がひとつ片付いたものの、これでよかったのか。少なくとも、今後、わたしがみそ餡の柏餅を食べるたびにそのときの鳩尾のドヤ顔が浮かんでしまうことは間違いない。

誰だっけ

篠原恒木

ヒトの顔と名前が覚えられない。
複数回会って、打ち合わせや食事をしているのにもかかわらず、その本人を目の前にすると、
「ええと、このヒトは誰だっけ」
という事態に直面することがしばしばある。

顔は認識しているけれど名前が出てこない、というケースなら、まだマシなのだが、顔も名前も、その両方が我が記憶中枢から消去されているのだ。これは深刻なモンダイだ。

先日も南青山の裏道を歩いていると、美しい女性に声を掛けられた。
「シノハラさーん」
誰だっけ。こんなきれいな女性と知り合いだったっけ。おれは狼狽しながらも、手掛かりを探すべく、相手に調子を合わせる。
「どうもどうも。こんなところで何をしているんですか」
「やだ、私の会社、すぐそこですよ。シノハラさんも何回かいらしたじゃないですか」
そう言われて、さらに激しく狼狽したおれだが、相変わらず目の前の女性の素性がわからない。
「そっかそっか、ははは。ですよねですよね。お元気そうで。ではまた」
おれは逃げるようにして、その場を立ち去る。誰だっけな。五分後に思い出した。つい一か月ほど前に二人で食事もご一緒した、アパレル会社でプレス業務をしている女性だった。やれやれ、さしむかいで最近めしを食べているのにこの有様だ。

ある夜、経堂の農大通りを美女と二人で歩いていると、おれの名前を呼ぶ別の女性の声がする。
「あれ、シノハラさん?」
おれはその声のする方向に顔を向ける。声の主はTシャツにショート・パンツでサンダルを履き、手にはスーパー・マーケットのレジ袋をぶら下げていた。
誰だっけ。まったくわからない。おれのそばを歩いていた連れの美女は、リスク・ヘッジのためか、サッとおれから離れ、無関係なそぶりをしてくれた。またもや狼狽していたおれはココロの中で彼女に手を合わせながらも、手掛かりを探すべく、ここでも相手に調子を合わせる。
「どうもどうも。ぐ、偶然ですね。こんなところで何をしているんですか」
「やだ、私の家、すぐそこですよ。シノハラさんこそ、こんなところで何しているんですか」
おれの家は経堂からとても離れたところにあるので、この逆質問はじつに的を射たものであった。ニンゲンは核心を突く質問に対してあまりにも脆い。
「んと、えと、ちょいと食事をしようかな、と」
「わざわざ経堂で? お気に入りの店があるんですか」
「んと、えと、あるようなないような。あるといえばある、のかな」
「えっ、どこ? どこ? アタシが行ったことのある店かな」
おれはしどろもどろになりながら、焼肉店の名前を教えた。
「ああ、あそこはアタシもときどき行きますよぉ。美味しいですよね」
「うん、美味しい美味しい」
「いつもお世話になってます。偶然ってあるんですね。ではまた」
謎のレジ袋ぶら下げ女性はにこやかにそう挨拶すると、おれから去っていった。
一緒に歩いていた美女がおれのそばに戻る。
「お知り合い?」
「そのようだけど、誰だかわからないんだ」

後日、経堂で遭遇したあの女性からメールを貰った。「あのときはどうも。あんなところでお会いするなんて」という内容だった。「失礼いたしました」とも書かれていた。失礼したのはこのおれなのだが、この「失礼」とは、「女性連れなのに声を掛けて、立ち話を続けて失礼しました」という意味なのだろうか。しまった、気付かれていたのか、と思ったが、すぐに「まあどうでもいいかぁ」と思うことにした。おれが偶然に会ったのは、広告会社に勤務する女性で、何回も仕事で会っているヒトだった。

この二つのケースに共通しているのは、
「思いもよらぬ場所で、急に遭遇した」
という点である。おまけに後者のケースは、相手が普段とまったく違う格好をしていたので、完全なる不意打ちを喰らった格好になる。だが、二人の女性とも仕事で浅からぬお付き合いをしているヒトなのだ。つくづく「顔と名前を覚えられない」のは不都合が多い。

パーティが嫌いなので、どうしても顔を出さなければならないもの以外は欠席することにしている。たまに出席しても受付に案内状と名刺を置き、会場に入っても十分後には退出してしまう。おれのパーティ嫌いの理由のひとつは、
「会場で声を掛けられても、そのヒトが誰だかわからない」
というケースがあまりにも多いからだ。最近のパーティでは名刺をホルダーに入れて、胸元に付けている場合が多いが、おれは視力に問題があるので、名刺に書かれている名前が読めない。なので、そういうヒトからいきなり挨拶されても「誰だっけ」という状態になる。だが、まさか目の前に立っているヒトの胸元に顔を近づけて、名刺をまじまじと見るわけにはいかない。おれは狼狽しながらも手掛かりを探すべく、ここでも相手に調子を合わせる。
「どうもどうも。最近どうですか」
「いやぁ、どうもこうもないですよ。ボチボチやっております」
おれの発した質問はむなしく空振りに終わった。相手の答えはあまりにも形而上で抽象的ではないか。仕方なくおよそ二分間、おれは相手の素性がわからないまま会話を続けて、
「ではまた」
と話を切り上げ、そそくさと立ち去ることになる。声を掛けられたときに、
「失礼ですが、どちらさまでしたっけ」
と正直に質問する度胸はおれにはない。そんな質問をしたら、相手は不快に思うに決まっているではないか。反感も買うだろう。何様のつもりだと思われるに決まっている。

この「ヒトの名前と顔が覚えられない」というオノレの性質、いや、もはや欠点が顕著だなぁと思うのは、あらかじめアポイントをとって、カイシャにいるおれを訪ねてきてくれたヒトに会うときだ。
「ちょっとご無沙汰していました」
相手がそう言っても、おれは、
「あれ、このヒト、こんな顔をしていたっけ。でもって、このヒトの名前、何だっけな」
と背中に嫌な汗をかいている。わかるのはこのヒトが所属しているカイシャの名前と、このヒトがどんな仕事をしているかだけだ。近頃ではマスクを外して顔を全面的に見せてくれるので、おれはますます混乱して、顔も認識できず、名前も出てこなくなる。

若い時分からこのような状態なので、最近では完全に開き直っている。
「だいたい仙台で務めているのに名古屋という姓はおかしい。広島本社勤務なのに山口という姓はややこしい。紛らわしくて覚えられないではないか」
そんな言いがかりのような屁理屈をつけて、オノレの欠点を覆い隠そうとしている。
だが、世にも珍しい名前なら覚えられるかというと、これもきわめて怪しい。初対面のときに名刺をいただいて、
「珍しいお名前ですねぇ」
と言って、このヒトの名前なら覚えられるだろうと思ったのだが、
「あれ、三十郎だったっけ、藤十郎だったっけ、何だっけ」
という事態になり、名刺の束を捜索したら「傳十郎」だった。その傳十郎さんの顔も覚えていない。挙句の果てには、次のような不遜極まりない思いが頭に浮かぶ。
「名前が平凡なヒトは、絶世の美男美女か、あるいはその逆か、どちらかにしていただきたい。強烈なヴィジュアルを備えていなければ、このバカなおれがいちいち覚えられるわけがないではないか」

自分の顔を鏡で見てうっとりするような趣味もないので、顔や手を洗うときにチラリとオノレの顔を見るだけの毎日だが、ときどき驚くことがある。
「おれはこんな顔をしていたっけ」
眼鏡を外した自分の顔は見知らぬ他人のように思える。だが、この顔が六十三歳のシノハラ・ツネキの顔なのだろう。不思議な気分だ。そうなのだ。曖昧なのはヒトサマのお顔だけではないのである。

なので、どうかおれを街で見かけたときは、そっとしておいてほしい。そのほうがお互いのためなのだ。そしてこの場を借りて、我がツマにもお願いをしておきたい。おれを街で偶然見かけたときは、一緒に歩いている女性が存在する場合もごくたまにあるので、どうかそっとしておいてほしい。そのほうがお互いのためなのだ。

尾を引くように~「塩狩峠」から

北村周一

塩狩峠というタイトルの映画を観たことがある。原作は三浦綾子。
調べてみると1973年に公開された映画で、監督は中村登、音楽は木下忠司、脚本は楠田芳子との記載があった。
北海道の塩狩峠付近で実際に起きた鉄道事故が下敷きになっているのだが、小説は読んでいない。この映画を公開されてほどなくに観たように記憶している。その記憶が比較的鮮明なのは、いやいや観に行ったからだと思う。
当時親しくしていた大学の同学年の友人、水沢パセリ(彼のペンネームである、自称詩人)にしつこく誘われたからである。
水沢パセリはその頃プロテスタントの教会によく出入りしていた。
といってもキリスト教に入信したというわけでもなく、ただ英会話の勉強のために通っているというようなスタンスだった。
数人の熱心な信者さんたちからこの映画を観るようにいわれて、引くに引けなくなったのかもしれない。それでみんなで池袋駅前の映画館文芸坐へ観に行くことになった。
文芸坐は、上京したての頃の下宿先が雑司ヶ谷鬼子母神前にあったので、ほぼ毎日のように通った映画館であった。いつも満員だった。地下も地上も入館料は百円の時代だった。
ところでこの松竹の映画「塩狩峠」は封切りだったのだが、残念ながらお客さんはわずかだった。俳優座の役者さんたちが大勢出ていて、映画自体は丁寧に作られてはいたのだけれど……。それからみんなして教会のある世田谷の経堂までもどった。
じつはその頃の下宿先は、このプロテスタントの教会のすぐ西側にあったお宅の二階を間借りしていたわけで、さらに水沢パセリはこの教会の東側にあったアパートの二階に下宿していたのである。
同じ大学同じ学科といっても大量の学生が通ってくるのだから、神田駿河台にあった学内で遭遇することはめったになく、そもそも水沢パセリとの出会いはいかがなものであったのか、それを書いておこうと思う。

思い起こせば当時の神田駿河台は荒れに荒れていて、まるでバラックの中に学び舎が存在しているような感じで、真面目に学問するような雰囲気からは縁遠いところにあった。
とはいえ学内にはそれなりにさまざまな研究会があり、取り敢えず美術研究会に籍を置いてみることにした。研究会の顧問は東京都内の画家のようで、渋谷にあった画家個人のアトリエを開放していた。青山研究所といわれていたように記憶している。そこで一、二回デッサンを試みたのだけれど面白くなくて通うのを止めてしまった。一度だけ飲み会に参加したことがあった。そこに賑やかな男がいてそれが水沢パセリだった。ようするに青山研究所は絵を描くためというよりも、一種の溜まり場になっているらしくそれはそれで興味深かったのだが、それきりになってしまった。
それから時間が経って、雑司ヶ谷から経堂に移り住んでしばらくしたのち通りを歩いていたら、向こうから見覚えのある男が近づいてきた。
じっと見ていたら向こうも気がついたらしく、互いにアッと声を上げてそれから互いの下宿先を指差したのであった。
あまりに近いから毎日のように行ったり来たりした。
そうこうしているうちに、プロテスタントの教会が出来上がったのである。

さて映画「塩狩峠」についても少しだけ触れておきたい。
調べてみたら、音楽の木下忠司と脚本の楠田芳子は兄と妹であることを知った。
ともに静岡は浜松の出身であることも。
この二人の兄が、映画監督の木下恵介である。
木下恵介が監督した映画やテレビドラマの音楽の大半を実弟の木下忠司が担当していた。
たとえば1957年公開の「喜びも悲しみも幾歳月」。
この主題歌は、映画とともに大ヒットした。
テレビドラマでは、TBS系列で1970年~71年にかけて放映された木下恵介アワーの中の「二人の世界」。あおい輝彦歌う同名のこの主題歌もドラマとともにヒットした。
このテレビドラマの主人公は、竹脇無我と栗原小巻。栗原小巻の弟役がソロに転じたばかりのあおい輝彦であった。あおい輝彦は、このドラマ出演の3年前まではある4人グループの一員として活躍していた。いわゆるアイドルであった。

  どこまでも尾を引くようについて回る固有名詞が顔を出すとき

散歩

植松眞人

 散歩に行こうと誘ったのは向こうだった。なにか話したいことがありそうな口ぶりだったので、電話を切った後、すぐにスニーカーをつっかけて川沿いの道の方へと歩き始めた。向こうも同じようにスニーカーをつっかけて、どこか慌てて出てきたように見えた。自分から誘ったくせにと思ったけれど、やあ、と小さく手を上げて声をかけた。向こうも、やあ、と声を出した。
 大きな橋がかかっていたが、そこには入らず、土手をまっすぐに歩いた。歩く速度は普段よりもほんの少し遅くて、いかにも散歩といった感じだったが、それが向こうの散歩の速度かどうかはわからなかった。そういえばこんなにわかりやすく一緒に散歩したことはなかった。一緒に歩いたことはあったけれど、どこかに行くために電車の時間を気にしながら、とか、たまたま同じバスで帰宅して、ぼんやり家の方角へ一緒に歩いたり、とか。歩くことを目的とした、散歩、という行動自体をもしかしたらしたことがないのかもしれない。それなのに、その散歩デビューを事前の打ち合わせもしないまま始めてしまったことが普通のことなのかどうか、歩きながらずっと考えていた。
 向こうも同じように考えていたのか、ときどきこちらを見ている。さぐりさぐり、あたりの景色の中に自分たちがちゃんと溶け込んでいるのかを確かめながら歩いているようだった。同じ川沿いの道を歩いてるはずなのに、向こうは川向こうを歩いているように感じられたりもした。不思議なのは向こうがときどきふいにこちらに来たり向こうに戻ったりする感覚があることだった。それでも一緒に歩き続けているとオレンジ色のきれいな花が自生している場所を通ることになった。遠目には丸いイメージなのだけれど、間近で見るとその花びらは細長く、それがたくさん集まって丸いフォルムを作り出しているのだった。
 こちらはその花を初めて見たような気分だったが、どうやら向こうはその花に慣れ親しんだ気持ちを持った様子で、明らかに表情がほどけている。そして、何を考えたのかその花の一本に手をかけて、すっと抜き取った。力を込めなくても、抵抗なく抜けたように見えたことがなんとも気持ちが悪く、向こうがまるで手品でも使ったかのような印象だった。なんとなく負けてはならんという気持ちが芽生えて、同じようにオレンジ色の花の一本に手をかけてすっと抜こうとすると、思いのほか抵抗が強い。歩きながらスッと抜こうとしたのに、歩みを引き留められるほどに抵抗があった。向こうがそれを見ながら笑う。結局、花は茎から抜けず、そのままスライドした私の掌がオレンジ色の花を握りつぶすことになった。
 その後の散歩中、向こうはオレンジ色の花を手に持って歩き、こちらは掌の中に生々しい感触を持ったままだったが、向こうの花は暑さのせいかあっという間にしおれてしまい、こちらの花の生々しい湿気と、掌に擦り付けられたオレンジ色は向こうと別れて家に帰ってからもなかなか取れなかった。

古本まつりで出合った1冊

若松恵子

お盆休みにふらりと寄った池袋西武の別館で、古本まつりが開催されていた。時間に余裕があって良かったと思いながら覗いてみた。個性的な古書店がいくつか集まっていて、児童書や雑誌、サブカルチャーの分野の本も多く並んでいて、こんなのあったねと懐かしく思う本や書評が心に残っていたけれど現物を見るのは初めてという本もあって(たいてい頭にくるほど高い値段が付けられている)わくわくしながら棚を眺めていった。

実家に持っていく手土産を買いに来たのだから、そうたくさん本を抱えるわけにはいかないと自分に言い聞かせながら見ていくうちに、井田真木子の『フォーカスな人たち』という新潮文庫を見つけた。井田真木子は好きなノンフィクションライターだったけれど、この著作については全く知らなかった、見かけたこともなかった。文庫本なのに透明なカバーがかけられ、きれいな保存状態で、古書店が大切に扱ってきたような感じが本にあって、その点にも魅かれて買うことにしたのだった。「古書と古本 徒然舎」という水色の小さな紙が最後のページに付いていた。古書店の住所は岐阜市美殿町だ。

『フォーカスな人たち』は、雑誌「オール讀物」に連載した記事をまとめて『旬の自画像』として文藝春秋社から出版したのち、文庫化にあたって大幅に加筆し、書名も変えて出版されたものだ。1980年代半ばから90年代初頭までの10年間、バブルと呼ばれた時代に注目され、はやしたてられ、無残に退場し、そして忘れ去られた5人の人たちの肖像が描かれている。

登場するのは黒木香、村西とおる、大地喜和子、尾上縫、細川護熙。『フォーカス』という写真誌ともども、今ではすっかり忘れ去られた存在だ。いたね、そういう人、という感じだ。ある時期テレビや雑誌でたびたび目にしたけれど、自分には縁が無いと思っていた人たちだ。井田真木子がこんな有名人を取り上げるのか?という違和感も少しあった。しかし、読んでいくうちに「勝手に持ったイメージで決めつけていてごめんなさい」という思いになった。特に黒木香については、イメージが変わってしまった。自分とは縁が無いと思っていた人たちの物語に引きこまれて読んだ。

連載時の担当編集者だった白幡光明が『井田真木子著作撰集2』の巻末付録の対談の中で印象的なことを語っている。「非常に質の高い優れた作品なんですが、あまり売れなかった(笑)。彼女が焦点を当てるところを理解できる人が少なかったんですね」と。また、彼が大宅賞の候補作として『プロレス少女伝説』を初めて読んだ時の衝撃として「私は当時女子プロレスをお遊びぐらいにしか見ていなかったし、興味もなかった。でも井田さんはその中にああいう意味を見出した。すべての人に存在意義はあるというのが彼女の発想の原点でした」と。『フォーカスな人たち』もまさにそんな彼女の姿勢によって書かれ、そのことによって私も黒木香、村西とおる、大地喜和子、尾上縫、細川護熙と出会いなおすことができたのだと分かった。久しぶりにちゃんとした文章を読んだと思った。

目が覚めるような思いがして、買ったままだった『かくしてバンドは鳴りやまず』(2002年2月/リトルモア)、『十四歳』(1998年5月/講談社)と続けて夢中で読んだ。井田の最後の作品となった『かくしてバンドは鳴りやまず』は、井田が「私の本」と呼ぶほど大切にしているノンフィクション作品とその作者について書いたものだ。『世界の十大小説』のノンフィクション版をという編集者の求めに応じて雑誌『リトルモア』に連載を始め、井田の急逝により3回で未完に終わった。「井田さんが同業の作家たちを素描するために採った方法は極めて特異なもので、それゆえ、これまで誰も書いたことのないタイプのノンフィクション作家論になった。」と未完ながら出版した経緯をリトルモア編集部の中西大輔と大嶺洋子が単行本の冒頭に書いている。第1回の「トルーマン・カポーティとランディ・シルツ」の中に、井田のノンフィクション論とも思える印象的な文章があるので長くなるが引用する。

  *

 ともあれ、勉強ができなかったシルツとカポーティは、訓練によって能力不足を補った。
 そして、聞いたことを正確な文章にして表せるようになったのだ。
 実は、この訓練こそ、事実の理不尽さと対決するのに不可欠なものだ。
 見聞きした〈なにものか〉を自分の五感を通して文字という動かない形におさめてみたとき、初めてそこに、人間の想像力を超えた事実が姿をあらわす。
 やわな想像力など軽々と凌駕する事実をとらえるために、よく聞き、よく見て、忠実に書く。その作業なしには、事実は、ただ抽象的なものに留まるだけだ。事実の本性―とてつもない野蛮さーは、ただ見て、聞いて、書き取ることでしか補足できない。
 そして野蛮な事実とわたりあうことで、作家の『私』や『僕』は、その野蛮さを自分のものにする。カポーティもシルツも、とても野蛮な作家だ。物事をあからさまに、無遠慮に身も蓋もなく書いていく。その野蛮さはパフォーマンスによって得られたものではなく、彼らが事実と格闘を続けているうちに、自然に身についたものだ。それが結果的には読者の『私』や『僕』も目覚めさせ、野蛮な読者、身も蓋もない事実を貪り読む人々を生産することになるのである。

  *

井田真木子は寝食を忘れて、身を削るように書いていたと、複数の人が回想している。彼女も野蛮な作家となり得たのだろうか。また、彼女の作品を読むということは、身も蓋もない事実を貪り読むという域にまで達したのだろうか。2001年に44歳で急逝した後、今では彼女の著作はすべて絶版になっているという。

そんな事情を知らずに彼女の著作の在庫を求めてジュンク堂池袋本店に行ってみたら、『井田真木子著作撰集1』(2014年7月/里山社)が店頭にあった。出版当時は手が出なかった本だ。10年近く経って再び手に取った今、こんなに丁寧につくられた本だったのかと感動した。ビートルズのベスト盤のように、著作撰集1の表紙が赤で、2の表紙が青だ。それぞれ深みのあるいい色が選んである。持ち歩いて何度も読み返す人のために、やわらかい表紙に透明ビニールのカバーが外れないようにしっかり掛けられている。書名の「井田真木子」の部分は本人の筆跡が採用されている。彼女の姿と重なるかわいらしい味のある字だ。目次をめくると少女のようなおなじみの井田真木子のポートレートが現れる。雑踏のなかで振り返って笑う彼女の頬にえくぼが見える。

いちばん最後に、この撰集を作った里山社の清田麻衣子の文章が掲載されている。思いはあふれるほどだろうが、撰集のページを余分に使ってしまわないように、1ページにまとめられた彼女の井田真木子論が胸を打つ。深い理解者によって、井田真木子の本は、後の世代に手渡していけるようになったのだ。

二つの作品

笠井瑞丈

二つの新しい作品に取り組む
ひとつは笠井叡振付『今ショパンを踊る』
ひとつはナイトセッション『うるむ』

今ショパンを踊るは題名通り
音楽は全曲を使ってショパンで踊る

うるむの方は
音楽は全曲バッハを使って踊る

二つとも偉大な二人の作曲家の曲だ

音楽があって踊りがある
踊りがあって音楽がある

そんなことをたまに考える

今ショパンを踊るのリハ

いつも叡さんは稽古場に必ず
サングラスかけて入ってくる
外からやってくるのではなく
隣の母屋からやってくるのに
そして入ってくるなり必ず
目がよく見えないからと言い
ダンサーの顔を深く覗きこむ
でもそれは明らかに近すぎる

この一連の儀式の後
挨拶と繋がる

稽古場にひとつ
違う空気が流れる

ちょっと不自然とは思うが
この作法はいつも変わらない

僕が思うに
彼にとって

リハと言うパフォーマンスなのだ
パフォーマンスと言うリハなのだ

そしてそれが形となり作品となる
リハそのものが作品の一部となる

そこが笠井叡のすごいところだ

そんな事をたまに考える

うるむのリハ

ナイトセッションとは
僕がお願いしたダンサーと
一時間即興セッションを行う企画

この企画はセッションハウスで十四回
場所をうつし天使館で今回で十一回目

ダンサーは僕が一方的に
思い浮かんだ人にお願いしてる

思い浮かんだ時に開催するから不定期なのだ

でも不思議と

なぜか思い浮かんだ時には
全てが完結してしまってる

今回も思い浮かんだ時に
バッハと決めていた

リハ初回が一番大事だと考える
初回が噛み合わないとそのあと
修正していいくのが大変なのだ

だから思う
リハには何かしら決まった作法が
必要なんだ

これから作法を考えよう

思考して作品が生まれる
作品があるから思考する

まあどうでもいい事だけど
そんなことをたまに考える

仙台ネイティブのつぶやき(87)細く煙の上がる家

西大立目祥子

どうやってあの場所にたどりついたのだろうか。そしてどうやって帰ってきたのだろうか。前後はほとんどなにも覚えていないのに、そこだけがぽっと明るく照らされたように残っている記憶がある。
夜、暗い雪の山道を上がっていくと大きな門を構えた旧家があり、真っ白な庭に灯った明かりに導かれて庭木の間を進んだ先には大きな土蔵があった。中には大勢の人の話し声が充満していて、すでに宴は始まっているようだった。

やがて、前の方の少し高い席に、ほろ酔いの敏幸さんがにこやかな表情で座った。語り出したのは、ここ宮城県鬼首(おにこうべ)地区の民話。いつものやわらかな低い声は、お酒が入ったせいか、つややかさが増しよく通る。心地よい抑揚の中で展開する話に引き込まれ、音楽を聴くように民話に酔った。宮城の方言はなつかしい歌のよう。
あのときは80歳をこえたくらいだったのだろうか。お開きになって、見送ったゴム長の後ろ姿が白い雪の中に黒く切り絵のように浮かんだのを、いまも忘れない。

敏幸さんは、山の暮らしがどんなものか、その細部を教えてくれた人だ。山菜採り、馬の飼育、米づくり、お膳づくり、炭焼き、材木の切り出し、ウサギ狩り、クマ狩り、野火つけ(山の野焼き)…。季節に追われるようにつぎつぎと異なる仕事をこなさなければならないのは、何か一つの仕事で家族の暮らしを維持することが難しいからだった。1つの専業を持って生涯を生きるという価値観が、そもそも豊かさに基盤をおいた戦後の発想なのかもしれないと気づいた。敏幸さんは、若い時分には分校の先生としても働いている。

季節の細かい仕事をこなしながら胸にあったのは、餓えへの恐れだったと思う。母から受け継いだ民話を聞かせる活動は、仕事の合間のささやかな楽しみだったのだろうか。いやそれ以上に、きびしい現実を乗り越えるために口ずさむ詩のようなものだったのではないだろうか。

話を聞きに通ううち、奥さんの五十子(いそこ)さんともよく顔をあわせるようになった。漬物や山菜をあれこれテーブルに並べ、何度もお茶を注ぎ足しながら、これまたやわらかい口調で話される。特に家族を評する話しぶりにはなんともいえないおかしみと温かみがあって、聞いているとくすっと笑ってしまう。家族の行動のあれこれをじっくり観察し、やんわり受け止めるユーモアのセンスというのか。嫁にきたときは14人家族だったというのだから、大勢の中で暮らすうちに身につけたセンスと生きる術だったのだろうと思う。

玄関で何度もごめんくださいと声をかけても、誰も出てこないことがあった。お留守なのかなと思いながら裏手へまわると、突き出た煙突から細い煙が上がっている。ガラス戸越しにのぞくとたたきにダルマストーブが据えられていて、その脇の板の間でお二人が芋虫のような格好で寝入っていて、笑ってしまった。なるほど、ここなら畑で作業をしたあと、ゴム長のまま入って食事をとり昼寝もできる。プライベート空間なのだから二人ともしぶったけれど、一度無理をいって入らせてもらった。薪ストーブのじんわりと染み込むような暖かさよ。必要が生み出したなんとも快適な小部屋なのだった。
「ここの煙上がってると、みんな、いたのー?って入って来んの」とおかしそうに話す五十子さん。それ以来、私も煙が上がっているかを確かめるようになった。さすがに「いたの〜」とはいえなかったが。

五十子さんは地元に伝わる在来野菜「鬼首菜」の伝承にも熱心で、90歳近くまで、息子の一幸さんとともに自家採種と種まきを続けてこられた。嫁にきたとき仕込んでくれたおばあさんのやり方をみようみまねで始め、70年近く守り抜いてきたのだという。4年ほど前、台所に入り込んで、軽くゆがいて塩に漬け込む「ふすべ漬け」の漬け方を教わった。栽培種にはないカブの辛味を味わう即席漬けだ。

漬物を教わる機会をつくってくれたり、鬼首菜の種まきから刈り取りまでの一連の作業を教えてくれたのが息子の一幸さんである。敏幸さんが山の暮らしの入口を教えてくれたとしたら、一幸さんは実際の作業に招き入れて地域を教えてくれた人だ。私は集落の男衆に混ぜてもらって広大な高原に火をつける野火つけに参加して炎の中を走り回り、ロープをつたって峡谷に降り雪で傷んだ河川の改修と隧道の掃除を体験する機会を得た。小学校の運動会となれば子どものいない家も草刈りに出向き、校庭の桜の手入れまですることを一幸さんの話を通して知った。地域の共同体があるから暮らしと生産が維持できることを、生活の内側からささやかではあるけれど体験をとおして知ることができたのだった。

敏幸さんが亡くなったことは、2015年11月のこの『水牛』に「古老のことば」として書いた。その後も何度かお邪魔して話を聞いていたのだが、昨年9月に五十子さんが亡くなられ、まだ一周忌を迎えないこの8月に、突然、一幸さんが逝ってしまった。私に東北の山間地の暮らしがどんなものかを教え、その原像をつくってくれたといってもいい3人がいなくなり、いまは山の暮らしを考える足場が失われたような思いがしている。私にとっては大切なフィールドである鬼首という地域との具体的なつながりを、これからどうつくっていけばいいのだろう。

語り部であった父と、在来野菜を守りぬいた母の存在があったからこそ、息子の一幸さんも、この土地の価値を十分に知り、よそ者の私に地域の文化を伝えようとしていたのだ、とあらためて思う。野火つけのあとは恒例で高原に円座をつくりお弁当を広げ酒を回すのだったが、鬼首のシンボルでもある禿岳(かむろだけ)が、「山笑う」の季語そのままに微笑みはじめる時期で、「きれいでしょう?」と誇らしかった一幸さんの口ぶりを思い出す。
友人と二人で訪ねたときは、屋敷裏の小川で「いくらでも取っていい」といわれ、野芹をどっさりいただいてきたこともあった。山菜を送ってくれたり、いただいたものは数しれない。森におおわれ、季節季節の花が咲き、実りをもたらす土地の豊かさを、おそらく両親以上に知る人だったのだ。

遠く離れた仙台にいて、人気の消えたしんと静まった家を想像する。朝日が上り日が当たるガラス窓や、満月に照らされる玄関を想像する。前庭では敏幸さんが植えたアケビがもうすぐ実をつけるだろう。裏庭では来春になれば、タラの芽と行者ニンニクがいっせいに芽吹くはずだ。裏山から湧き出す水を引いていた水屋の水槽は、今日も豊かな湧き水で満たされているのだろうか。そして、8月の鬼首菜の種まきはどうしたのだろう。一幸さんの田植えした田んぼの稲刈りは、代わりに何人かでやるといっていたけれど。もう、あの小部屋に煙が上がることはないのだろうか。
静まる家の映像がぬぐえない。私の耳底には、民話の語りも、ユーモアのにじむ話も、春山の美しさを話す声もまだまだ響いているというのに。

言葉と本が行ったり来たり(18)『男が痴漢になる理由』

長谷部千彩

八巻美恵さま

 今日は曇り空。風も少し吹いている。夏がやっと去ろうとしています。
 今年の夏は例年にも増して厳しく、 園芸仲間はみな、顔を合わせれば口々に猛暑に耐えられず枯れていった植物の話をします。いま農業史研究者・藤原辰史さんの『植物考』を読んでいますが、そこにも書かれている通り、植物が育たなければ、地球上の全ての生きものが死に絶えるというのは本当のことで、暢気な都市生活者にもさすがにその恐ろしさが現実味を帯びて迫ってくる、そんな夏でした。いや、植物が夏を超えられないってまずいです、やばいです、マジで。

 そういえば、『天気の子』というアニメーション映画では、ラスト近くで、主人公が、愛する女の子を救えるなら雨ばかりの世界になっても構わない、みたいなことを叫んでヒロインを救うのですが(劇場で観たくせにうろ覚え、間違えているかも)、そのシーンを観た時、ラブストーリーとしての高揚よりも、「何言ってんの!生態系壊れるよ!植物が育たなかったら、救う救わないの前に誰も生きていけないんだからね!」と、私はそっちに頭が行った記憶が。植物を育てる人は、現実主義者でもありますね。

 閑話休題。最近依存症について書かれた本を何冊か読みました。というのも、アルコール依存症なのでは、と感じさせる友人がいるからです。以前から酒量が多いとは思っていたけれど、暴れたりするわけでもないし、翌日ちゃんと朝から仕事をしている。彼女とは時々しか会わないこともあって、私もそれほど深くは考えていませんでした。たぶんまわりの人たちも、彼女を、お酒が強い、お酒好きな人だとしか認識していないと思う。でも、なんとなく飲み方に違和感を覚えるのです。量が尋常じゃないし、飲んでいる時間も長い。今日はやめとくわ、という日がない。毎晩飲んでいるのではないかしら。私の取り越し苦労ならいいのですが、このまま進んでいったらまずいことになるのではないか、いや、もしかしたら、本当はもう依存症なのではないか、と気になって。また、いわゆるアル中のイメージ――朝から飲むようになったり、手がブルブル震えたり、幻覚に襲われるまで、「ホントに(お酒が)好きだよね~」とみんなで笑って見ているのだとしたら、それも不気味な気がして。
 そもそも「依存」というのは「やめられない」ということですよね? 醜態をさらしたとか記憶をなくしたとか、そういった状態を指す言葉ではありませんよね? そこから興味が湧いて、アルコールに限らず、さまざまな依存と依存症について調べ始めたのです。

『男が痴漢になる理由』(斉藤章佳著)というのも、その中の一冊。男尊女卑の強い国に痴漢が多いというのは想像できていたけれど、どうやらそれはかなり強固に結びついているらしい。痴漢という行為は、女=受容する性というイメージがリンクしているとか、弱いものを支配することでストレスコーピングしているとか、読んでいると、ああああ・・・と合点がいくことばかり。つくづく家父長制は百害あって一利なし、と感じます。
 その本には「認知の歪み」という言葉が度々出てきますが――これは精神医学や心理学の本には頻出するワードですが、今まで私は、「歪み」というのが、具体的にどういうことを言うのか、いまいちつかめなくて、でもこの本に書かれている一例を挙げると、「暗い夜道を歩くと痴漢に会うことがあるから控えましょう」というポスターがあったとすると、そのポスターを見て、「それでも暗い夜道を歩いている女がいるなら、それは痴漢をしてもいいということだ」と認識する人がいる――。そんなバカな!と思うけど、そういうのも「認知の歪み」のあらわれだそうです。

 でも、痴漢はさておき、考えてみると、日常においても、え?どうしてそんな話になるの? なんでそんな風に読み替えられちゃうの? と驚くことはよくある。行き違いや誤解というレベルとは明らかに違うやりとりに出くわすことが。ぼつんぽつんと頭に浮かぶ。あれも「認知の歪み」にあたるのかな。あの人のあの発言にも「認知の歪み」があったのかもしれない。その歪みはまわりの人の心を傷つけて、傷ついた人たちはみんなすごく苦しんでいた。
 八巻さんは私よりも長く生きているから、その分多くの人を見ていると思いますけど、アート / エンタテインメントの世界には、笑えないレベルで変わった考えをする人も、わりと許された形で生息していますよね(歴史を見てもそう思う)。そういう人たち、そういった発言に、私もすっかり慣れてしまって、いちいち傷ついていられないとやり過ごしているけれど、実は歪みだらけ歪みまくりな業界という気もします(どの業界でも歪みには遭遇するでしょうけど)。

 話は戻って、その本の結論は、痴漢は依存症である、逮捕は必須、でも逮捕だけではだめ、有罪判決を受けて、その上で依存症の治療プログラムを受けさせる必要がある、依存症である限り再犯する可能性があるから、ということでした(大雑把なまとめ)。
 人間賛歌という言葉があるけど、人間って本当に素晴らしい生き物なのかなあ。人間って素晴らしい、生きるって素晴らしいと言えたらいいけど、人間って生き物としてはかなりつらい存在なんじゃないの?――駅前のペットショップの前で、お腹を出して寝ているトイプードルの仔犬を見つめながら、そんなことをしんみり考えた九月最後の金曜日でした。
 またお手紙書きますね!

2023.09.29
長谷部千彩

言葉と本が言ったり来たり(17)『人生は小説』八巻美恵

226 見合わせる

藤井貞和

駅のホームにたたずんでいると、聞くともなしに、
母と子との会話が聞こえてきます。

坊や「電車が来ないことをどうして〈見合わせる〉って言うの?」
母親「……」。

そりゃ答えに窮しますよ。 たしかに駅のアナウンスが、
〈しばらく運転を見合わせる〉などと言っています。

ところが、お母さんは答えようとします。
「ホームで待っているひと同士が、顔を見合わせて、

〈電車が来ないわね〉などと言い合うからよ」。
まだ当分、来そうにない若葉台駅の午後です。

(昭和20年代の前半〈1945~1950〉には、置き引きやかっぱらいという被害に遭っても、母のせりふだと〈いまはみんな貧しいからね、そのうちに悪いことをする人がいなくなる平和な時代がやってくる〉と、私はそれからの、ええっ、60年、70年を、〈そのうちに平和な時代が訪れる〉と、母の言を信じて現在に至る。新聞やラジオの報道は小学生の人生や教養の一部を形成したから、それらがGHQの統制(プレスコード)下にあったことをまったく知らない。〈落とすやつがいなければ落ちて来ない〉というような、危険な不協和音は〈しっ、静かに〉とかき消され、代わって戦後ということ、平和の式典、さらには平和公園を訪れるなど、いわゆる〈国民国家〉論がこの国の骨の髄にまで浸透する。それはかまわない、私どものだいじな人格形成の一部になったのだから。昭和27年だけは、解禁された書物や映画が世に問われた。しかし、概してプレスコードの時代は続いたというように見られる。言いたいことはそのさきにある。今年の夏は関東大震災の百年めでもあり、暑さにやられながら新聞(私の場合は朝日新聞)をわりあい丁寧に手にしているうちに、はっと気づいたことがある。プレスコードが77年後の今日にもそのまま生きているということを。悪いやつがいるとは、暗黙の統制下に集合意識化されて、報道される限りでは戦時下の苦労話や美談が口承文学や物語になり、まぼろしの〈平和公園〉をみなが訪れるのである。それでよいのだとは繰り返したいにしろ、前世紀の遺物としての戦争の時代もまた、たらたら繰り返される。願わくば大統領と首相とが駅のホームで顔を見合わせて、そいつの運転を延期させてほしいように思う。ああ、おれはだいじなことを言おうとしているのに、だれも聴いてくれない。)

しもた屋之噺(260)

杉山洋一

朝焼けがきれいな季節になりました。夏の酷い嵐に耐えた庭の樹は、どこかやつれて見えます。
雨ざらしだったマンション入口の天井は全て夏の嵐で剥げれ落ちていて、掃き集められたガレキが、玄関下に山積みになっています。外装がとれ剝き出しになった骨組みも、どこもすべて降り曲がっていて、どれだけ強烈な強風にあおられたのか、想像がつきません。今年のような異常気象が今後続かないことを、心から祈るばかりです。

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9月某日 三軒茶屋自宅
伊豆熱川に住む義父母と熱海で落合い、「スコット」にて昼餐。あわびのコキュールが大変美味しい。エスカルゴに舌鼓を打ちつつ、肉と魚、どちらに近い料理なのかと自問。
パンデミックがあって、義父母に会うのも3年ぶりだったが、思いの外元気そうで安堵する。息子と家人の顔に会って、彼らの顔もすっかり綻んでいた。
食事のあと海岸沿いを歩いて、駅へむかう。隣の湯河原はよく知っているが、熱海はまるで雰囲気が違って新鮮だ。熱海に比べて、湯河原はずっと規模が小さいのかもしれないとおもう。義母行きつけの喫茶店「讃」にて一同喉を潤して、解散。
熱海駅からスコットに向かう道すがら、タクシー運転手に、湯河原は良く知っているが、熱海は随分感じが違うね、と水を向けると、彼は伊東に住んでいるが伊東の人間は熱海が嫌いでね、と返答され、言葉に窮す。不思議な運転手であった。

9月某日 三軒茶屋自宅
安江さんのリサイタルを聴きに、名古屋しらかわホールへでかける。
何でもしらかわホールが来年春で閉館するという。2000年にカニーノさんと大井くんの演奏会で訪れて以来かもしれない。名古屋に降り立って驚いたのは、地下鉄ホームに溢れんばかりに並ぶ人いきれ。ホーム幅が狭いからか、行列は複雑に斜めに伸びていて、目の前の最後部がどこの列から来ているのか、馴れないと判別できない。列車がホームに到着して、乗客が一気に吸い込まれてゆくさまも、圧巻であった。
客席の様子は、東京で聴くよりずっと身近な印象をうける。単に、演奏を聴くという受動的態度だけではなく、自分のための時間を、自ら選択した演奏会に赴き、意義あるもの、自らの人生にとりこんで、豊かに暮らしているようにみえる。
拙作はもちろんのこと、安江さんのどの演奏にも大変感銘を受けた。高校生の頃、学校で初めてプサファを聴かせていただいたときの驚きを思い出す。

9月某日 三軒茶屋自宅
母と連立って、日がな一日墓参三昧。湯河原駅前のスーパーで一日分の仏花とお線香を買い込み、湯河原、小田原、茅ヶ崎、横須賀堀之内と、次々墓参する。文字通り神奈川の端から端まで訪れたにしては、母は疲れも見せず、いたく感心する。天候はここ数日不安定だったが、今日は愕くほど快晴であった。母の希望で、昼食は小田原駅構内の魚力食堂で盛沢山の海鮮丼を食べた。誰が死んでも、納骨後に当人が墓に居座る筈はなかろうが、それでも墓に水をかけ、新しい花を手向ければ、どことなく、墓石もご先祖さんも微笑んでいる感じがするのはなぜだろう。

9月某日 三軒茶屋自宅
ムジカーザで安江さんのリサイタル、東京公演を聴く。しらかわホールとは全く響きも違い、当然安江さんのアプローチもまるで違って面白い。
しらかわホールは舞台が客席より少し高い位置にあって見上げる格好だったが、ムジカーザは、舞台が客席より少し低い位置にあるから、それだけでも見方や聴き方が変化する。
会場が小さい分、楽器奏者の生み出す空気振動は、そのまま肌に迫ってくるが、打楽器奏者はどうしてあれだけ運動し続けても疲れないのか。こちらの躰のなかに、直截に飛び込んでくる響き。
ところで、三軒茶屋から代々木上原まで、当初は自転車で行くつもりだったが、出かける直前にひどく雨が降り出したので、慌てて世田谷代田までバスに乗った。
茶沢通り沿いにバスで下北沢まで出て小田急に乗ろうと思ったが、都合よい時間のバスがなかったのである。案の定、環七は雨と帰宅ラッシュで渋滞し、会場に着いたのは開演3分前であった。

9月某日 三軒茶屋自宅
三橋貴風先生と大倉山でお目にかかった。大倉山というと、高校生の頃、久木山さんと一緒に演奏会を企画したことがある。ヨーロッパ風の大倉山記念館の高い吹抜けで演奏会を開いたとき、まさか後年自分がかの地に住むとは、想像もできなかった。
その後、KさんとSさんと連立って大倉山の法華寺を訪ねると、普通の住宅街の一角に、突如、極楽浄土が現れるような錯覚を覚えた。まるでそこだけを、どこか別世界で切取ってきて、この空間にすっぽり嵌め込んだような、不思議な安らぎに満ちていた。
夜はKさんの作ったカレーを食べながら晩酌。一人だけ飲みなれていないので、すぐに麦茶に替えてもらう。

9月某日 三軒茶屋自宅
長津田にて、中学の恩師、稲葉先生ご夫妻に再会。中学生のころ、頑として登校拒否を続けていたから、先生にも両親にもすっかり迷惑をかけた。交通事故の加害者の子供が同学年に通っているのが耐えられなかったせいだが、馬鹿げた論理である。
よって、卒業式なぞ絶対出席しないと言張っていたある夜、稲葉先生が拙宅を訪れた。他愛もない話をするなかで、最近一番好きな曲はこれです、とジョンシェのレコードをかけたのを覚えている。そんな経緯があったから、この夏、ジョンシェを演奏したときは、稲葉先生をお招きした。当時、まさか自分がジョンシェを演奏するとは考えもしなかったが、こうなったからには先生に、ぜひ実演の「ジョンシェ」を聴いていただきたかった。
モロッコにて酷い地震発生との報道。

9月某日 三軒茶屋自宅
大森にて、山田剛史さん「君が微笑めば」リハーサル。美しい音で、ていねいな音運びに感動する。どうやって書いたのか、覚えているようでまったく忘れている。冒頭から最後まで順番に書き進んだのではなく、何度かやりかけた作曲の工程が中断される箇所がある。死んだ友人が、別の姿に変容していくさまを、淡々と描写したようにも見えるし、ある瞬間、ふとそこに恣意的に介入して、長年病床に臥せていた友人を、どこかで解放しようと試行したようにも見える。
西村先生の訃報に言葉を失う。西村先生が、その昔「冬の劇場」で、タイプライターを演奏して下さったときの姿を思い出している。クスリともせず、すごく真面目な涼しい顔をして、舞台の一角で黙々とタイプライターを打つ姿は、実に印象的で、理知的でもあった。当時、東京音大の西村クラスに潜り込んでは、先生と一緒に、ラッヘンマンのスコアなど、ああでもないこうでもないと話しては、楽しく眺めていたのが懐かしい。
最後に演奏した西村作品は「華開世界」だったが、リハーサルの時、この作品は、散り行く花とともに、一面にひろがる、まばゆく輝きながら花開こうとしている、新しい命の姿をあらわしていると話してくださった。
連綿と続く生命の営みについて話しながら、自分がこの世からいなくなっても、それでも世界は明るい未来に向かって発展し続けてゆく、だから寂しいと思うことはない、そんな風に聴こえるお話しだったから、なぜこんな話をするのかと不思議だった。
当時、ご本人もそんな深い意図はなく仰ったのかもしれないし、或いは何か感じるところがあって思わず口をついて出てきたのかもしれないが、実に忘れ難いお言葉をいただいたと思う。いつでも肯定的で開放的で、力強いエネルギーに満ちていた。いままでどれだけ励ましていただいたかわからないが、その言葉にどれだけお応えできたのか、不安にもなる。戸惑いばかりが先行して、何とも気持ちの踏ん切りがつかないまま、家路に着く。

9月某日 三軒茶屋自宅
明日リハーサル予定だった新作が漸く午後遅くに届いたので、慌てて譜読みをする。イタリア国営放送によると、現在のモロッコの地震の被害状況は2901人死亡、5530人負傷だという。昨日はリビアで大雨がダムを崩壊させたとの報道。世界は、どことなく世紀末的世相を呈している。

9月某日 三軒茶屋自宅
下北沢まで自転車ででかけ、代々木上原で邦楽アンサンブル、リハーサル。彼らの練習で愕くのは、練習の合間の休憩でもほぼ休みもとらず、個人練習に精を出すことだ。全く疲れ知らずとはこのことだ。こちらは邦楽などまるで分かっていないから、恐らく不適当な注文をつけているに違いないが、どんなリクエストにも、実に誠心誠意心を砕いて下さるので、申し訳ないほどだ。尤も、あまり限界を意識しすぎて無理も言わなければ、可能性も広がらないのかもしれない。
練習後そのまま町田に向かい、両親宅で夕食を食べて帰宅。先日の健康診断では尿酸がでているとかで、干物は食べないように言われてしまい、いよいよ日本で食べられる好物の幅が狭くなった。

9月某日 ミラノ自宅
久しぶりにミラノに帰宅。ローマ空港で口にしたイタリアパンに感動する。バターを使わないから硬いし塩味も強く、どちらかと言えばそっけない味のはずだが。
リビアの洪水被害者11300人死亡、1000人余り行方不明との報道。あまりの数字に、感覚が麻痺している。

9月某日 ミラノ自宅
ここしばらく首の付け根辺り、胸郭右上部の神経が少し鈍く感じている。左上部に比べて、薄皮一枚隔てている感覚があって、行きつけの整体療法士を訪ねた。施術前にまず身体の歪みなどを細かく確認してゆく。整体と言っても、マッサージも余りせず、時折肋骨や尾骶骨を少し押さえてゆるめる以外、ただ手を軽く当てて気を送っているように見える。そうして実際身体は確かに熱くなるし、身体の内部がゆるんだり重心が移動するのも実感できる。
興味深いのは、その施術の間、整体療法士が口の中で呪文だか祝詞のようなものを唱えていることだ。耳を澄ますと「天にまします処女マリア…云々…ハレルヤ」と言っているように聞こえる。てっきりマントラの真言でも呟いていると思いこんでいたから、カトリックの祝詞ならばそれはそれで興味深い。整体にまじないがどう役立つのか知らないが、実際身体は緩むし宗教団体に勧誘もされないので、マントラでもハレルヤでも構わない。部屋には小さなイコンはかけられているが、特にオカルトじみたものもない。

ところでミラノに帰宅すると、庭の樹に棲みついていたリス一家は転出していた。取敢えず、胡桃を置いて様子を見ていたところ、二日目どこからか一匹ひょいとやってきて、胡桃を熱心に食べていた。仲間への合図なのか、食事後、暫く頭を下にして木の幹にしがみつき、大きな尻尾を旗のように長い間振っていた。

9月某日 ロッポロ民宿
朝、庭を眺めると、小鳥たちも烏の番も庭に戻ってきて賑やかである。盛んに尻尾を振っていたサインが伝わったのか、早速リスは2匹に増えている。動物の気配がない時より、庭の樹も何だか嬉しそうに見える。
昼過ぎ、中央駅発トリノ行き列車で生徒たちと落ち合い、サンティア駅に迎えにきたトンマーゾの車で、ロッポロへむかう。
トンマーゾ曰くこの辺りは信仰心に篤い人が多いという。だから黒マリア像や黒イエス像なども多いし、土着の風習も未だに強く残っていて魔女も沢山住んでいる、と事も無げに言う。
後部座席に座っていたフェデリコも、「ピエモンテのマスケ(魔女)」でしょう、と楽しそうに話に加わってきた。フェデリコは、大学でキリスト教理学を専攻している。彼らの話を黙って聞いていると、白魔術はどうで黒魔術はどう、この辺りでは悪魔祓いも盛んだという。トンマーゾによれば、元来この地方の魔女は、男性に依存しない独立心の強い女性の象徴でもあって、その場合は悪者扱いもされなかった、というが、事情はよく分からない。
頭の中で、高校生くらいの頃に読んだ、黒魔術や錬金術あたりの逸話が書かれた澁澤の著書の記憶を必死に引っ繰り返していた。
ピエモンテの中心トリノと言えば、白魔術の三角地帯、黒魔術の三角地帯の重要地点らしいし、どこからか魔女も集まっているのだろうか。魔女が集まれば、悪魔祓いも必要となるだろうから、当然祓霊師も沢山いるのかもしれない。
そんなロッポロの古城は小高い丘の上にあって、一見無味乾燥な要塞のようだが、内部は思いの外絢爛であった。オーケストラ・リハーサルの広間の壁は、一面明るい水色に塗られており古めかしい沢山の肖像画がかかっている。天井からは美しいシャンデリアが垂れていた。
学生とディスカッションする中庭の軒先には、剥製の巨大な水牛の頭部が並び、いつもこちらを見下ろしている。少し顔を上げるたびに、薄目を開けてこちらを眺める水牛と目が合ってしまい勝手が悪い。

9月某日 ロッポロ民宿
朝起きると家人から連絡があって、息子の具合が悪いという。39度近い熱が3日続いていて、脱水症状も酷く、食事も摂れないらしい。救急病院に駆け込むよう促すが、家人自身も体調を崩していて、動けないと言う。すわコロナかとも思ったが、息子が食あたりと言い張るので、ともかく消化器科医に往診を頼むと、週初めに食した生肉が原因らしいと分かる。あと3日ほどで治ると言われたが、絶食で息子は4キロほど痩せたと言っている。尤も、この状態で救急病院に駆け込んでコロナを罹患するより、正しい選択をしましたね、と医者に褒められたらしい。

9月某日 ミラノ自宅
起床後、夜明け前のB&Bの共同台所で、自分でコーヒーを沸かす。冷蔵庫には、地元産チーズとマスカットなどが入っていて、トースターでパンを焼き、地産の栗蜂蜜とチーズを併せて、暗がりの中、一人で食す。シンプルながら絶品で、実に贅沢な味わいだ。
今朝はどうしても散歩に出掛けたかったので、ヴィヴェローネ湖とは反対方向に向かって丘を登り、ベルティニャーノの小さな湖を一周する。湖というよりむしろ池と呼ぶのが相応しい、宝石のように美しい小さな湖だが、その湖手前の祠には小さな白い祭壇があって、黒いイエス像を抱く黒いマリアが飾られていた。フェデリコ曰く、ヨーロッパ各地に残る黒マリア像の生まれた背景は諸説あって分からないが、パレスチナに暮らしたマリアの肌は本来褐色だった筈であることと、中世末期、退廃したカトリック宗教界に抗って、純粋な宗教心復興を求めた信者の願いでもあったという。
そう言われて、改めて黒マリア像、黒イエス像を眺めると、不思議と純朴な純粋な宗教心に溢れる顔つきに見えるから不思議だ。
昨日はオーケストラのリハーサル後、トンマーゾが車でヴィヴェローネ湖に連れていってくれた。夕日の映える湖面には、珍しい鳥も沢山集っていた。首から先だけが黒いクロエリハクチョウが悠々と泳いでいて、眺めていると鴨たちにちょっかいを出していて、性格はあまり良さそうには見えなかった。
対岸は渡り鳥が巣を作るため、人間の居住が禁止された鳥獣保護区となっていて、そこから少し離れて鳥獣観察所もある。その辺りには白鳥だけでなく、黒鳥も集っているという。
湖面の向こうに目をやると、遠く、アルプスはアオスタの辺りから伸びる古代の氷河跡が、一本の長い丘になって続く。雄大で奇怪な地形が眼前一杯に広がる。巨大な谷状に抉れた地形の突端にあたる薄い縁が夕日の逆光に耀いていて、その下に深く翳も延びているから、実に繊細な趣を醸し出す。ヴィヴェローネ湖に注ぎこむ川はなく、その昔ここに張っていた氷河の水が溶け湖のとなり、地底からの湧水が足されて現在の姿を保っている。

夜の演奏会後、城主のパトリックに城が収蔵する絵画のコレクションが見事だと話したところ、絵が好きなのかい、と非公開の収蔵作品を見せてくれる。
数枚のラファエルロは言うに及ばず、ジョット、ルーベンス、ダヴィンチも1枚あって、ヴァン・ダイクなどのフランドル派も数多く収蔵されている。ダヴィンチの個人収蔵作品は、世界に数点しか存在しないが、その貴重な一枚だと胸を張った。俄かには自分の眼が信じられず、無造作に壁に掛けられているこれらの絵画は本物かと尋ねると、パトリックは大笑いして、もちろん全てオリジナルだと言う。尤も、少しでも異常があればすぐに警察がかけつけるようになっている。
突如、パトリックは16、7世紀作とおぼしき聖母子像の裏にサインをしたかと思うと、お前の今回のロッポロ訪問の記念に、是非これを持ち帰ってくれ、と渡してくれた。

9月某日 ミラノ自宅
漸く、夏の間放置されていた庭の芝刈りをする。3カ月近く放ってあったので、雑草も延び放題だったが、8月の大嵐で庭の枝が散々折れてしまっていたから、まずそれらを搔き集めるところから始めた。
アゼルバイジャンのアルツァフ共和国、つまりナゴルノカラバフ共和国が、24年元旦をもって消滅との報道。「自画像」を書く上で知った、現在も続く国際紛争の多くが、結局、平和的解決を見出さぬまま、強制的、力学的解消へ向かう事実に、ただ無力感を覚える。戦いだけは、どんなに文明が進化しても変わらない。
政治背景はさておき、ハチャトリアンが作曲したソ連邦のアルメニア国歌は、個性的な響きが印象的に残る佳作だと思う。

9月某日 ミラノ自宅
ミラノ郊外のバッジョまで、家人とYさんと連立って息子のピアノを聴きにでかけた。スカルラッティ2曲に水の戯れ、ベートーヴェンの変奏曲にリスト2曲。先週の食中毒騒ぎで、元来痩せていた息子の躰は、いよいよ痩せ細っていたから心配したが、結局杞憂におわって感心している。
シャリーノが作曲した「ローエングリン」最初の録音は、シャリーノ自身が指揮しディズィー・ルミニがエルサを演じている。録音されたルミニの声や喉の使い方は、シャリーノとルミニが二人で研究したものだ。「ローエングリン」では、精神病院に収容されたエルサの妄想、妄言が、一人二役を演じながら、主要人格が曖昧模糊としたまま演じられる。あのルミニの録音で思い出したのは、カトリックの悪魔祓いの情景であった。
ディ・ジャコモ監督のドキュメンタリー映画「liberami」で、祓霊する神父が悪魔と携帯電話で話す場面などが有名になった。神父の言葉にぎゃあぎゃあ答える悪魔の姿は、まるで喜劇のようだ。カトリックの霊祓師は、精神科医と協力しながら悪霊祓いすることもあって、神経衰弱とか統合失調症の憑依状態は、見分けるのも難しい、とどこかで読んだ。
祓霊の儀式がまやかしか否かはさておき、ルミニ演じる精神病院患者のエルサの声は、憑依状態の患者の声を思わせるもので、案外統合失調症の声にも似ているかもしれない。
悪魔祓いが茶番なのか、現代の魔女が悪魔に何を誓っているのか、知る由もないが、自ら不可解な呪文で整体の施術を受けていたのを思い出し、あながち遠い世界の話ではないと知った。

(9月30日ミラノにて)

水牛的読書日記2023年9月

アサノタカオ

8月某日 「水牛的読書日記2023年8月」はお休みしました。8月後半は新型コロナウイルスに感染し、自宅療養。幸い重症化することはなく、療養中は自室に引きこもり、ベッドの上で姜信子さんの『語りと祈り』(みすず書房)をひたすら読み続けた。旅する作家が訪ねる説教、祭文、瞽女唄、浪曲の世界、あるいは足尾銅山、水俣、離散民の地。「近代」という力に抗う無数の声たちの渦に、心がのみこまれた。熱っぽいからだで姜さんの本にじっくり向き合う読書の時間は、特別な体験になった。この本についての感想は、いつか書きたい。

9月某日 関東大震災100年。戸井田道三の自伝『生きることに〇×はない』(新泉社)を読み返す。最終章は「ゆれる大地、関東大震災」。百年前、14歳の戸井田少年は神奈川・辻堂で被災し、藤沢〜茅ヶ崎間で起こった朝鮮人虐殺について語っている。次の引用は、凄惨な虐殺の場面をめぐる証言につづく自己反省の文章だ。

《大沢商店へ炭とまきを買いにいったとき、おやじさんが「朝鮮人が攻めてくる」と真剣にバリケードをつくっているのを見て、一種の恐怖心をもちました。わたしは、そのときの自分がたった十四歳の少年だからといって自分を許すことができません。……
 林蔵さんの話がウソかホントウかを問題にしているのではありません。朝鮮人を虐殺したという歴史事実があったこと、そのときに流言飛語をわたしが否定する判断力をもっていなかったということについて、自分を問題にしているのです。》

「自分を許すことができません」「自分を問題にしているのです」。戸井田のこの厳しいことばを深く胸に刻んでおきたい。ところで震災直後、かれは東京・青山の親戚宅へ避難した。そこで「朝鮮人を警戒しろ」という「デマ」を記した謄写版の通知書を見て、それを置いていったのは参謀本部の軍人だったとも語っている(いとこからの伝聞として、それはのちにインパール作戦を指揮した牟田口中将だったようだ)。これも貴重な証言だと思う。

9月某日 早稲田大学で開催されたカルチュラル・スタディーズ学会「CulturalTyphoon2023」に大学生の娘と参加。お目当てのシンポジウムは初日の「東アジアにおける新しい戦(中)前とフェミニズムをめぐる対話——陳光興をむかえて」、2日目の「トランスジェンダーの物語とエンパワメント」。台湾の文化研究の重鎮・陳光興氏の発表は、「母の力」が戦争に抗うものになるかを問う論争的な内容。会場をさすらう陳光興氏の風貌が、黄色いサングラスのヒッピー風だったことが印象にのこった。

「CulturalTyphoon2023」の会場では、砂守かずらさんが企画制作した映像作品『Drifting Islands, Still Water』を鑑賞した。砂守かずらさんの父で沖縄出身の写真家、故・砂守勝巳の写真と文章から構成され、音も付けられている。いくつかの強烈なイメージと言葉が心に残った。会場の入り口では、『ははの声』という砂守さんと木村奈緒さんの展示も開催されていて、母親である女性たちを木村さんが撮影したポートレート「声をさがして」も見応えあり。

「未知の駅」を主宰する諌山三武さんのZINE SALONのブースを見つけて、諌山さんとひさしぶりにおしゃべり。池田理知子さん編『MCDスタディーズ——福岡+みつめる』(未知の駅)を購入した。

9月某日 「CulturalTyphoon2023」の2日目は娘だけが会場参加をしたので、「トランスジェンダーの物語とエンパワメント」での高井ゆと里さん、三木那由他さん、水上文さんの発表については帰宅した娘から感想を聞きつつ、アーカイブ動画を視聴。その後、うちにある『すばる』8月号の特集「トランスジェンダーの物語」での高井さん、三木さんのエッセイ、『文藝』での水上さんの文芸季評を読んだ。

9月某日 香川から東京に来ている写真家の宮脇慎太郎くん、『香川のモスクができるまで』(晶文社)の著者・岡内大三さん、Wさんと待ち合わせ、三鷹市美術ギャラリーへ。宮脇くんの紹介で知り合った新田樹さんの写真展「Sakhalin」を鑑賞。写真集もすばらしかったが、オリジナルプリントで見る光の美しさに息をのんだ。サハリンに暮らす残留朝鮮人たちの肖像。寡黙な表情と静謐な風景のなかに旅の記憶の襞がいくつも折りたたまれていて、胸を打たれた。

新田さんの写真集『Sakhalin』(ミーシャズプレス)は第47回木村伊兵衛写真賞と第31回林忠彦賞をW受賞。今回の写真展は林忠彦賞受賞記念の企画で、会場にいた林さんに「おめでとうございます」と直接伝えることができてよかった。

9月某日 東京・三鷹の UNITÉ を訪問。宮地尚子さん&村上靖彦さんの対談集『とまる、はずす、きえる——ケアとトラウマと時間について』(青土社)を購入。お店の前では、秋祭りの神輿の行列ができていた。ついで荻窪の本屋Title へ。こちらでは宇田智子さんの『三年九か月三日——那覇市第一牧志公設市場を待ちながら』(市場の古本屋ウララ)を入手。リトルプレスのコーナーでみつけた貴重な一冊。

9月某日 東京・新小岩の「にこわ新小岩」で開催された本の展示販売会「TOKYO ポエケット」にサウダージ・ブックスとして出展。詩人のヤリタミサコさんにお誘いいただいたのだった。会場ではポエトリー・リーディングのイベントもおこなわれ、とりわけ浦歌無子さんとヤリタさんの共演による詩の朗読に感銘を受ける。会場で、浦さんの詩集『光る背骨』(七月堂)を購入。さっそく帰路の電車で読み、伊藤野枝をテーマにした作品「大杉栄へ——そのときあなたはもっと生きる」などに圧倒された。

そのほか入手した本やZINEは、ヤリタミサコさん&向山守さん編訳『カミングズの詩を遊ぶ』(水声社)、服部剛さん『我が家に天使がやってきた』(文治堂書店)、『カナリア』6号、サトミセキさん『リトアニア〜ラトビア バルト三国の時間を旅する』、『mini・fumi』40号。

9月某日 朝、近所のカフェで編集の仕事をした後に江ノ島の海辺を散策した。打ち寄せる波が生ぬるい。ビーチサンダルで歩けるあいだは、まだ夏。

9月某日 斎藤真理子さんのエッセイ集『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)を読む。タイトルが最高にすばらしい。頁と頁のあいだに挟まれた栞は、書物の内にある作品世界をぴしっとまっすぐ貫いていて、同時に書物の外に飛び出したスピンの先は時代や社会の風に吹かれてちいさく揺れてもいる。そんな「栞」のイメージは、「読書」をテーマにしたこの本の内容にぴったりだと思う。

『本の栞にぶら下がる』のもとになった『図書』の連載を読んでいたが、一冊の本としてあらためて通読。すると、韓国文学の翻訳者である斎藤さんが、世界の文学を遠望しつつ、「近代」という時代と社会において暗い影が落ちるところ(戦争、疫病、差別……)から聞こえる小さな声に注意深く耳を傾ける姿がよりはっきりと見えてきて、背筋が伸びた。

永山則夫や茨木のり子やジョージ・オーウェルについて。朝鮮・韓国の文学について、植民地時代の日韓の作家の交流とすれ違いについて、沖縄や炭鉱の文学について、多くを学ぶことができた。その他にも、いぬいとみこや森村桂やマダム・マサコなど、自分が知らなかった女性作家たちの存在に触れられて、うれしかった。

思い出す、古い本たちのこと。人生のさまざまな場面で読書をする斎藤さんの姿を通じて、かつてある「時代」が人間の心に何かを刻んでいった消息を知り、それが時を隔てていまを生きる自分が抱える問いを予見していたようにも感じられ、いろいろな思いを反芻している。読みどころは本当にたくさんあるのだけど、「「かるた」と「ふりかけ」——鶴見俊輔の断片の味」という一編が、いまのところ自分にとってこの本の「おへそ」かな。 

9月某日 今月から明星大学で編集論の授業がはじまった。授業後の夜、大学図書館で、木島始の詩やエッセイを拾い読み。学生時代、ラングストン・ヒューズの詩をかれの翻訳で読んで理解したつもりになっていたのだが、自分が読んでいるのはヒューズその人というよりは《詩人・木島始》のことばなのかもしれないと、あるとき思い当たった。同じころに、野村修のベンヤミンやエンツェンスベルガー、片桐ユズルさんと中山容のボブ・ディランの翻訳なども夢中になって読んでいた。藤本和子さんによる数々のアメリカ文学の翻訳にもその流れで出会ったのだと思う。こうした尊敬する翻訳文学者たちのことばは、いまもたしかに身に残っていると感じる。

9月某日 台湾の文学研究者・朱恵足さんから郵便が届く。なんだろうと思って封をあけると、『越境広場』12号。沖縄発の雑誌が台湾を経由して海を渡ってやってきた。朱さんの論考「ひと昔前の「台湾有事」を振り返る——金門島の視点から」が掲載。川田文子著『赤瓦の家——朝鮮から来た従軍慰安婦』から引かれた、巻頭のぺ・ポンギさんのことばから読む。今号には、姜信子さん『語りと祈り』の書評(評者は呉屋淳子さん)も載っている。

9月某日 大学の授業で、毎年恒例、ビブリオバトル形式の好きな本の書評発表会を開催。今年は小説やエッセイのほかに、人文社会の本(日本語学、環境問題など)もいくつか紹介されたのが新しい傾向。知らない本ばかりで、学生のみなさんの書評を読んで学びます。

9月某日 HIBIUTA AND COMPANYでの自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」。宮内勝典さん『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)の第2章を参加者とともに読む。移民の歴史や人種差別について、科学とアニミズムについて、色彩について、人物の名前や詩的な表現について。今月、ぼくはオンラインの参加だったが、来月は三重・津のHIBIUTAに行く予定。

9月某日 朝日カルチャーセンター新宿教室にて、今福龍太先生の「記憶と忘却の身体哲学——戸井田道三の〈前-言語〉的世界」を聴講。最終回となる第3回テーマは「戸井田道三と沖縄」。比嘉康雄さん撮影、1978年久高島のイザイホーの写真をよく見ると見物人の席に、民俗学者としての顔も持つ戸井田翁が座っている。その隣の隣に黒頭巾姿の作家・石牟礼道子さん。イザイホーは12年に一度おこなわれる島の女性たちの神事で、この年が最後の開催となった。

9月某日 最寄りの本屋さんである神奈川・大船のポルベニールブックストアで『本の栞にぶら下がる』発売記念、斎藤真理子さんのトークイベントが開催。不肖ながら聞き手を務めることになった。イベント当日の夕方、リュックサックに付箋だらけの斎藤さんの本と資料を詰め込んで、「あれも聞きたい、これも聞いてみよう」と渦巻く頭の中を整理し、心を落ち着かせるために自宅からゆっくり歩いてお店へ向かう。トークについては終わったばかりなので、あらためて報告したいと思います。

辿りと見計らい

高橋悠治

全体の構成から部分へ降りてゆくのではなく、思いついた小さな形を辿る動きからはじめて、その動きをくりかえすとき、指がすこし逸れてしまう。「すこし」を見計らいながら、辿り続ける跡に残る一本の線。

また「すこし」離れた場所から、もう一つの「形」を辿る別な指。音の高さを縦軸に取り、横軸を時間として描く図を思い浮かべてみると、そこからはじまる音楽は、構成ではなく、即興でありながら、続く部分、「先を見通せない」線の流れ。

線は過ぎ去るかと思えば、まためぐる。「めぐる」とき、一つの物を囲むときもあれば、あちこちをさまよい歩くこともあり、もとに返ることはなくてもよいだろう。さまよった末、もとに返れば、全体が生まれ、完結して静まる。そういう音楽はいままで多かった。冒険の果て、一段と強く大きくなった姿を見せて終わる。19世紀のヨーロッパ音楽、シンフォニー、コンチェルト、大編成オーケストラの響き、争い、競争、支配の音楽。

そうした装置を引き継ぎながら、それらを別な方向に動かすやりかたがあるのだろうか。19世紀から20世紀前半まで続いた音楽の革命は、1930年代の新古典主義に統合されて、そこから抜け出す道は、なかなか見つからないように見える。

1968年からはじまった反逆の試みも、90年代までに回収されたのではないだろうか。いわゆる「グローバリズム」は、拡大した国家主義の姿だったのか。

思いつかないままに、ことばに残す。これはだが、ほんの準備段階にすぎない。とりあえずは、思いついた動きを書き留めておく。「形」は「動き」の省略記号。読み取り、指を動かす、その感触から、「ふと姿が浮かぶ」(各務支考『俳諧古今抄』)次の音。無心所着。

これは言葉だった。次は音で試してみよう。