新山口駅脇のホテルで原稿を書きはじめました。薄く透明な青空に、絵に描いたような小さな雲がひとつ、目の前にこんもり突き出た、小さな山のすぐ隣に棚引いています。ときどき、2,3秒のうなるような風音を立てて新幹線が通過してゆき、そこから、あの可愛らしい雲が噴き出されたように沸き立つのが、そこはかなとなく微笑ましく感じられるのでした。
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10月某日 ミラノ自宅
来週に迫ったアルバニア滞在の日程が二転三転している。こちらはともかく、企画をしている大使館のみなさんは、さぞ大変だろう。ハマスの攻撃にイスラエル猛反撃とのニュース。2014年、イスラエルとパレスチナの国歌で母の悲しみをうたう曲を書いた、あの時の無力感。ガザの爆撃で死亡した母親の胎内から取り出され、5日間人工保育器で生きた嬰児シマーを思う。誰が正しくて、何が正義か。そもそも正義など存在するのか。ウクライナ侵攻とイスラエル建国、西側の矛盾を見事についた攻撃ではあった。子供の頃、父親に将棋の相手をしてもらっていて、敵陣を詰めかけた途端、決まってぴしゃりと「王手飛車取り」と角を張られたのを思い出す。
10月某日 ミラノ自宅
7月に東京現音計画の演奏会で聴いた Dror Feiler の音。耳を塞ぎたくなる、生理的に嫌悪感すら覚える程の爆音が、どこまでも続く。聴き終わると、耳は飽和していて、奇妙な焦燥感が体内に残っているのに気づく。理解出来なかったし、好きな音響でもない。ただ、彼がその音を、発さずにはいられぬ必然と、そこに至る切迫感に、胸が一杯になった。
ファイラーの人となりを何も知らずに聴いたが、後で読んだ彼の経歴には、彼は1951年テルアビブ生まれで、ストックホルム「イスラエル・パレスチナ和平のためのユダヤ人(JIPF)」会長と書かれている。彼の母は、ヨルダン川西岸パレスチナ自治区の移動健康管理センターに勤めていた。
ミラノ日本領事館より緊急メール。サンバビラ広場でパレスチナ支持集会が予定されていて危険であり、日本人学校のあるアルザーガ通り、グアステルラ通り、サンジミニャーノ通り付近は、ユダヤ人関連施設が多く警備強化とのこと。日本人学校の真向かいはユダヤ人学校で、以前からイタリア軍が厳重に警護していたが、現在はその比ではないのだろう。
10月某日 ミラノ自宅
一柳さんのための小品の題名を、「炯然独脱」とする。「慧眼」が最初に頭に浮かんで、「炯眼」から臨済義玄の「炯然独脱」。確かに、本條君から一柳さんと「禅」を意識した作曲を依頼されたが、「無」に拘り過ぎて音が未だ五線譜に載っていない。身体の裡には存在しているのだが。
10月某日 ミラノ自宅
ピラーティ「ピアノと弦楽のための組曲」を読む。時に生硬にすら感じられるほど、バロック的で生真面目な和声進行を、9度、11度、13度の和音で繋いでゆく。家人曰く、イタリア未来派的だと評したが、なるほど、堆くつみあげられた5個7個の和音は、未来派時代のファシズム建築の石柱のよう。言葉にするとフランス印象派のようだが、噎せるようなイタリアの匂いに満ちているのは、人懐っこい民謡調の旋律と、転回形を多用した滑らかな低音進行を敢えて避けているから。たとえばマリピエロが、絵画におけるデ・キリコのように、自らの未来派的特徴をより前衛的、進歩的に活かそうとしたのに対し、マリピエロよりずっと後年に生まれたピラーティは、出土した古代コリント風石柱をそのまま使って、古めかしく、温かい手触りの1925年の建築物を造った感じ。
10月某日 ティラナ ホテル
朝9時から夜7時半まで授業をやり、そのままマルペンサ空港に向かう。1年ぶりのアルバニア・ティラナの空港に降り立ったのは深夜1時。ホテルに着いたのは1時半。ミラノと比べ極端に暑い印象はなかったが、それは恐らく深夜だったからだろう。前日からティラナに入りしていた家人が、レストランから魚のグリルを取り寄せておいてくれたので、夜食を摂って就寝。9時間以上の授業の後の移動で困憊。
10月某日 ティラナ ホテル
アルバニア日本文化週間のため、アルバニア文化省から国立芸大でレッスンと演奏会を頼まれたのは良いが、首相が急遽芸大訪問を決めたため、日程が全て変更になった。3日間学生オーケストラと練習する予定は1日になり、1日学生オーケストラを使ってレッスンする予定は、キャンセルになった。大学を訪問すると、いきなり2時間ほど時間が空いたので、相談を聞いてくれという指揮学生とコーヒー片手に話し込む。オーケストラを振る機会は数えるほどしかなく、CDの録音に合わせて振ったり、指揮伴奏ピアノを使ってレッスンを受けなければならないのが不満だそうだ。基本的にロシア・メソードだから、それに則ったレパートリーを中心に、アルバニアの作品も学ぶ機会が多い。大学課程は1セメスターでロマン派交響曲を最低1曲は習得し、その他の作品を段階に応じて増やすのだと言う。
去年は、指揮の学生と指揮伴奏のピアニストの学生しか知る機会はなかったが、今年は弦楽オーケストラの学生とも関わるので興味深い。彼らが全体でどのレヴェルなのか分からないが、特に高くも低くもない。アルバニアの学生は決めた事を堅実に実行する習慣があるのか、自由闊達にやってほしいというと、最初は戸惑っていた。直線直角は得意だが、曲線や波線で輪郭をなぞるのに馴れていない印象を受ける。皆明るく素朴で、素敵な若者たちであった。
10月某日 ティラナ ホテル
17時からのドレスリハーサルのため大学に赴くと、アルバニア政府関係者がそっと近づいてきて、耳元で囁やいた。「これより、首相の奥さまが急遽学校見学にいらっしゃることになったので、申し訳ありません、20分ほど外で時間を潰してきていただけますか」。
なるほど保安上の理由から、学内は一時的に全館立入禁止になるようであった。ちょうどばらばらとオーケストラの学生たちが集まり始めたところで、理由を説明すると「ああ、うちの政府ときたら…」と絶句して、皆揃って落胆している。芸大の学長と現首相が懇意なので、しばしばわれわれ学生はこうして振り回されるんです、やり切れません、本来あるべきではないことでしょうが、と言われる。指揮の教授からも、政府の混乱に貴方がたを巻き込み申し訳ないとメッセージが届く。
アルバニア国立芸大は1920年代のイタリア統治時代に建てられた、端麗なファシズム建築で、入口のファサドの格子柄が美しい。入口は3階まで吹き抜けになった明るいアトリウムとなっていて、この建築物に1920年代30年代にレスピーギやピラーティが書いた作品が響くと、不思議なくらい溶け込むのだった。
家人が、平尾貴四男の「春麗」や、三善先生の「夕焼小焼」を大学教授陣と演奏するのを聴き、なんの先入観もてらいもなく取組んだ、純粋で情熱的な演奏に感銘を受ける。家人と「夕焼小焼」を弾いたメリタがこの曲をすっかり気に入っていて、メリタはまるでラフマニノフのように弾く、と家人はいたく感心していた。
10月某日 ティラナ ホテル
サラと息子による、ミラノ「ヴェルディの家」での室内楽演奏会。こちらはアルバニアで演奏会を聴けないので、サラの両親からヴィデオが送られてきた。シューマン、カスティリオーニ、ヤナーチェク、ブラームス3番というプログラム。サラも息子も本当に成長したと瞠目する。サラは、11月からボローニャのテアトロ・コムナーレで仕事を始める。実に伸びやかで豊かな音楽を奏でるようになった。その演奏もそれぞれ素晴らしいと感じたが、ヤナーチェクは愕くほど深く、大胆にこちらの胸を抉る瞬間が何度もあった。それまでは、二人とも慎重に表現する印象を持っていたから、これは本当に意外な喜びでもあった。
10月某日 ティラナ ホテル
二日間の指揮レッスンを終えて。皆とても真面目で、よく勉強していて好印象である。指揮のメソードが違うので、技術や解釈には一切注文は付けなかった。それぞれ、自由に自分が表現したいことを、目の前の音楽家と一緒に彼らの音を使って、その場で作りあげるように頼む。
予め決めてきたことを、頭の中で音を鳴らしながら目の前の架空のオーケストラに向かって振るのではなく、最初の一音を、どんな質感、どんなキャラクターで始めたいかだけを決めたら、そのアウフタクトに必要な情報を全て籠めるように集中し、そこから先は目の前のピアニストの眼を見て音を聴き、彼らとその場で作るのを愉しむように話すと、一様に最初はぎょっとした表情をするのが印象的であった。
これは、弦楽オーケストラの学生たちへ注文をつけた内容と基本的に一致している。皆が揃って「そんなことしていいんですか」という表情をするので、こちらは内心、いけない琴線に触れたかしらと危惧したが、その後すっかり表情も変わって感謝もされたので、何か感じるものはあったのだろう。それで良かったかどうか、正直わからないけれども。
作曲も指揮も、自分が望む表現を自由に実現できなければ成立しない。作曲指揮のみならず、演奏、芸術、表現全般において、他人に押し付けられた表現の再生産では、おそらく最終的には成立し得ない。そして、将来的には人工知能で事足りるのではないか。一方的に指揮者に強制された演奏を続けるオーケストラも、きっとどこかで破綻する。
ひいては我々の人生における選択の一つ一つも、他者から提案された選択の可能性であれ、最終的に自発的、自主的に決定した内容でなければ何時か破綻するのかもしれない。
明朝3時半、ホテルに空港行きのタクシーが迎えにくる。
10月某日 ミラノ自宅
早朝リスに胡桃をやり、朝8時から山田剛史さんのピアノコンサート配信で、「君が微笑めば」の演奏をみた。家人曰く、山田さんが未だ7歳か8歳のころ、家人がソアレス先生に山田さんを紹介したばかりにピアニストになってしまった、と今も彼のお母様に笑われるらしい。
一週間前、高校、大学と作曲の同期だった星谷君のお父様と電話で話した。何十年かぶりだったが、大学時代の名簿にある電話番号にかけてみると、そのまま使われていた。
お父様の声は昔と全く変わっていなかった。「足の調子がちょっとね、だからなかなか遠出できなくなってしまって」と笑っていらしたけれど、お母様は数年前にお亡くなりになっていた。「今は目の前で伸太郎の隣に並んでいるよ」と伺い、お電話を差上げたことを深く後悔した。
衝動的についお父様に電話しようと思い立ち、一度は躊躇ったけれど、これもきっと伸太郎君の気持ちではないかしらと、つい、お電話してしまった。或いは正しかったのかも知れないし、とんでもない間違いをしたのかも知れない。
閑話休題。山田さんは、「君が微笑めば」を弾きだした瞬間、音が綺羅星のように耀くのをみる。30光年遥か向こうで、微かにやっと明滅を認めるばかりの自らの姿。アルテル・エゴ(分身)ほどの身近な感覚もなく、ただ遠過去の一点に置き去りにした、意識の一部のようなもの。
ただ、当時全く気付いていなかったが、冒頭のモティーフは、毎日こうしてミラノで聴いている教会の鐘の音そのものであった。あれは旋律ではなく、朝陽が乱反射する、強烈な郷愁を誘うような山田さんの音のように、高い鐘楼に並んだ鐘が、澄んだ朝、偶然紡ぎだす旋律そのものであった。
まるで、ソラーリ通りを下った先、デル・ロザリオ広場の教会の鐘にそっくりじゃないか、そう自分の裡の誰かが呟くのを聴いて、30年前の自分が覗いていた、現在の自分に気づく。
理由はわからないが、聴きながら何度か目頭が熱くなり、演奏を聴き終えて、ちょっとうまく言葉が発せなかった。隣の家人に向かって何か言おうとすると、喉が詰まって涙が零れそうになるので、困ってしまった。こんなことは初めてで、すっかり当惑してしまった。
少なくとも、自作に感動したのではない。山田さんが無心で奏でる音は純粋に胸を穿ち、電話口の向こうで、少し言葉につまっていた星谷君のお父様の声が聴こえ、30年後の自分に向かって語りかける、若々しい自分の声と言葉に愕き、彼が亡くなって、同期の皆が集い彼の遺作CDを作った時のことを、ほんの少し、思い出したからかもしれない。よくわからない。
10月某日 三軒茶屋自宅
The Palestinian people have been subjected to 56 years of suffocating occupation(56年間占領下の息のつまるような56年に曝されてきたパレスチナ人)。グテーレス国連事務総長のこの言葉の意味は大きい。
単に自分は戦争に対して慄いているだけだろうか。今回ばかりはイスラエルもアメリカもイギリスも、大きな過ちを犯したのかもしれない。そう考えると、ふと怖くなる。
これから1世紀後、地球上の経済勢力図は、当然現在と全く違ったものになっているとして、今回のSNS時代におけるイスラエルのガザ爆撃は、もしかすると欧米諸国の衰退、崩壊の具体的要因になりかねない危機かもしれない。そうならないよう切に願う。
小学生の終わりだったか、既に中学生だったか、渋谷ユーロスペースで見た「水牛楽団」コンサートが、最初ではなかったか。「パレスチナのこどものかみさまへの手紙」で、美恵さんが薄く大きなタイコを叩いていて、悠治さんがトイピアノを弾いていたように記憶している。或いは違っていたかもしれないが。
狭い会場はぎゅうぎゅう詰めで、今にして思えば、一体どんな聴衆が集まっていたのか。周りの殆どは自分より年上だったが、自分を含めわれわれは何を感じ、何を期待していたのか。何かを共有しようとする熱気のようなものを、朧気に覚えているのだけれど、何を求めていたのだろう。
ただ、軽快な音楽に皆で一緒に身体を揺らして聴き入っていたわけではないと思う。幼かった自分ですら、よくわからないが、そうではない何か、を薄く理解していた。
10月某日 新山口 ホテル
最終便で22時半、宇部空港に降り立つと、得も言われぬ感激におそわれる。コロナ禍前、毎夏秋吉台を訪れていた頃が、ただ無性に懐かしい。ホテル脇のコンビニエンスストアで弁当を買って夕食にする。弁当には白米が入っていない。レジで少量、普通、大盛を指定してその場で詰めてもらう。気のせいか、山口は白米好きな人が多いような気がする。
町田の母から、今月二輪目の月下美人の写真が送られてきた。前回を上回る大輪である。最近、彼女はまたピアノを触っているという。簡単なバッハの楽曲など、指に負担のかからないものを弾くのは、時間も忘れるほどの愉しみらしい。確かに、バッハなど、頭の中で絡みついた蔓やら、さび付いた扉など、少しずつていねいに解して、磨いてくれるような気がする。
10月某日 新山口 ホテル
駅前で田中照通先生と再会。お元気そうで嬉しい。タクシーに同乗して芸術村へ向かう。その道すがら眺める、美祢の風景が心を打つ。
今までは青々とした真夏の美祢しか知らなかったが、今目の前に広がっているのは、秋めいた黄金色の姿である。とても暑い場所だとばかり思いこんでいたが、この時期、気温はあまり東京と変わらずひんやり涼しい。冬になれば、時に雪すらも積もると聞いた。
田中照通先生の作曲による、山口の誇る画家香月泰男の手記に基づく70分ほどのオラトリオを、山口交響楽団、美祢の合唱団さくらなど、自分以外全員、山口県の皆さんと一緒に、芸術村開村25周年を記念して演奏することになった。演奏者、関係者は皆明るく、本当に気持ちの良い人々ばかりである。
香月は、1945年から47年までの悲惨なシベリア抑留体験を、克明に描いた「シベリア・シリーズ」で知られる。彼が1945年最初に収容されたセーヤ収容所は、奇しくも、今まで演奏会のために2回訪れたことのある、クラスノヤルスク郊外にあった。それを知った時には、少し信じたくない気持ちにすらなった。
クラスノヤルスクで会った人々は、皆心温かい人々であった。街並みは美しく、料理はとても美味しかった。クラスノヤルスクで食べた、ウーハの魚スープが忘れられず、今も家人が真似して作ってくれる。ホテルの前を流れる雄大なエニセイ川は神秘的な水面を湛えていて、毎朝立ち昇る水煙に噎せるのをみた。
収容された旧関東軍俘虜1万人の1割が、栄養失調と過労で死亡したと言われるセーヤ収容所は、演奏会をした国立オペラ劇場裏からレーニン通りを4キロほど下った、シベリア鉄道クラスノヤルスク駅の鉄路を少し北へ進んだ辺りにあったようだ。その情報が正しければ、現在は色とりどりの背の低いガレージが並ぶあたりだろう。
クラスノヤルスクを訪れた時、日本人墓地へ連れて行って欲しいと頼んだことがあったが、ここからは少し遠くて行きにくいんです、とやんわり断られたのを思い出した。日本人墓地は、収容所からずっと山の方向、西へ下った、広大な墓地の一番奥の一角にあって、香月の戦友たちは今もここに眠る。
照通先生のオラトリオは、苛烈な香月のテキストを、時には調性を浮き立たせながら、音列と音程操作を用いて淡々と書き進められ、余分な情感を排した精緻で透徹な筆致が、むしろ悲しみを際立たせている。
「意図せずとも、ずいぶん現在の地球の世情を反映した上演となってしまいましたね」、そう照通先生に話しかけると、「平和は、元来戦争と戦争の谷間に許された、ほんの一時の休息でしかない、そう読んだことがあります。悲しいかな、人間は古来、戦争をしている時代が普通なのだそうです」。
(10月31日 新山口にて)