オトメンと指を差さ れて(休)

大久保ゆう

今回は、ただいま筆者が全オトメン力を用いて〈ふしぎの国〉に迷い込んでいるため、お休みさせていただきます、あしからず。なお、かの地より筆者のお手紙が届いておりますので、ここにエッセイの代わりとしてご紹介致します。

拝啓 ふしぎの国はすっかりからっぽめいて参りましたが、みなさまはいかがお悩みでしょうか。わたくしはさっぱりです。そうなんです、こちらのお風呂はたいへん湯上がりがよいのですが、うっかりのぼせてしまう人も多いらしく、浴槽さんは結婚の申し込みを断るのがたいへんだとか。そのためハートブレイク用のお菓子も流行っているのですよ。なかでもいちばん人気はヤブレカブレで、塩味がきいているみたいです。幸いなことにわたくしは賞味する機会にありつけておりません。わたくしはしらばっくれるあいだ、ふしぎの国でトドのように丸くなりますので、どうにかしてください。ご自愛するより誰かを愛しておあげなさいませ。敬具

かん

三橋圭介

一ヶ月くらいまえ、一匹の猫がやってきた。名前はかんたろう。アメリカン・ショート・ヘアーの雄。松下佳代子さんというまだ一度も会ったことはないが、Facebookでやり取りとしていた方のにゃんこ。「たすけてください」とFacebookで叫ばれており、ならばお引き受けしましょうと、かんたろうをあずかった。松下さんは日本とドイツで暮らしているピアニスト。ドイツではデュッセルドルフのシューマンが暮らした家が住処という。そんな彼女がローマ法王の御前演奏会のため、一ヶ月くらい家をあけなければならず、あるお宅に預けられたものの、そこにいる子猫が怖がっているということで、わが家にやってきた。到着してそわそわと家のなかを点検し、もちろんわたしたちも詳細に点検され、合格をいただいたのは2日くらいしてからでしょうか。テーブルの上という自分の居場所を発見し、ゆうゆうとわれわれを見下ろし、「ごはんがないぞ」「あそべ」などと命令しはじめました。そうこうするうちにわたしも「かんたろう」「かんちゃん」から、ただの「かん」と呼び方を変えて馴染んだわけで、その馴染み具合は、私の手から腕、足などの傷がその証となります。電車に乗るとリストカットと間違えられるほどにかんの愛のムチが神々しく輝き、危険な人として目を背けられること度々。道端のねこじゃらしから専用の遊び道具などつぎつぎ投入するも、「手や腕を噛むのは絶対にやめられにゃ〜だ」とくるくる絡んでキックします。わたしも負けてはいられないので、真剣に血を流しながらも遊びます。最近では私の腕枕も気に入り、フミフミもしますが、寝る前の行事として欠かせないのがナメナメ攻撃です。よく親猫が子猫を舐めてあげる姿をみますが、そんな感じなのでしょうか…。かんは髪の毛をとても丁寧にぺとぺと舐めてくれます。中位の紙やすりですりすりされると思ってください。顔はかなり痛いです。髪の毛ならハゲそうです。寝ていると舐めて起こしてくれるのですが、必ず起きます。そんなかんですが、とうとうお別れです。9月2日に松下さんが引き取りにきます。かんの夏休みも終わりです。もはや98%「みつかん」なので、松下さんを見てどういう反応をするかちょっと楽しみでもあります。まあ、すぐに「まつかん」に戻るのでしょうね。この原稿を書いている今、かんは机の前にある出窓でころっと横になってぼんやり窓の外を眺めています。

製本かい摘みましては(81)

四釜裕子

スマホで撮った記念写真を即メールで送る。DPEで焼いて選んで焼き増しして封筒に入れて送ったりしていたのがずいぶん昔みたい。さくさくさくさく送られてみんなどうしているのだろう。わたしは見るだけ。整理するためのアルバムはずいぶん前から持っていない。自分で撮ったものでも焼いた写真は適当に仕分けして靴の箱に入れてあるしフィルムはほとんど処分、デジタルデータは撮影年月別のフォルダーに入れてあり、必要があって探す以外は懐かしく振り返るために見ることはない。懐かしむことと写真が離れていく。

「アルバム」と言われて頭に浮かぶのは厚い台紙にグレーのヘリンボーン柄みたいな布表紙のものだ。ずいぶん大きい印象があるけれど、小さい手でめくっていたからそう感じるのだろう。表紙には黒と緑のラインと金と銀の小さい四角が数個あって、あのデザインというか柄が好きだった。同じような大きさの厚手のものが数冊あったが、どれも父が文房具店か百貨店かでひとり選んだものだろう。ソファの上に作られた棚からとってもらって、姉と2人、床に置いてめくる感覚が今も残る。

写真の1枚づつに短いコメントがあって、おとうさんが書いたのよ〜とは母に聞いた。ひとりで読めるようになるまでは姉が読んでくれたので、アルバムを見ているあいだは誰かほかのひとに話しかけられているように感じていたと思う。そこに写っているのが自分自身だとまだわからない時分のこと。絵本みたいなものだったのかもしれない。小学生くらいになるとわたしよりも姉の「絵本」のほうがだんぜん多いことにココロをいためるが、20年たちそれは愛情量の比ではないことだけはわかった。

東日本大震災の被災地で瓦礫の中からみつかった写真を入れるアルバムを作って贈ろうというプロジェクトが昨年9月に東京製本倶楽部で立ち上げられた。呼びかけに応えて14カ国200人以上の製本家から483冊のアルバムが事務局に届いたそうである。今年3月には岩手県立美術館と大船渡市民文化会館で展示会があり、最終日にはアルバムを希望する大船渡市民の長い列ができたと聞いた。

集まったアルバムを写したビデオを見た。アルバムであること以外しばりはないのでさまざまだ。革や木の皮に切れ目を入れて表紙の開きを良くしたり留めたホッチキス針で手を傷めないよう保護したり、表紙のおさまりがよくなるように小口に細工したり凹凸に折った紙に細い紙を通して綴じたり、タマネギのように紙を交互に組み合わせて綴じたり。思いもよらない刺激を受けて、普段得意としている材料や技やデザインが一人ずつの体からチューブのはみがきみたいに気軽に出てかたちになっている。作品展でもコンクールでもなく、時間もなかったからだろう。483人がどこかでそれをめくっている。

ETが来て、台風が来た

仲宗根浩

七月半ばから左の足、腕に若干のしびれ。頭の中の血管に詰まりでもあるとまずいとおもい、病院に行き、頭の中を輪切りして見てもらうが異常なし。いつもなら七月に行く人間ドックもごちゃごちゃ忙しかったので行けず、予約を取ったら十月。その時に相談しよ。胃カメラは苦にならないが、検便は面倒だ。

うちのお嬢さんの小学校、始業式の日に旧盆に入る。小学校は二学期制、ガキの高校は三学期制。夏休みに入る時期も違うし、終わる時期も違う。同じ二学期制をしている小学校でもさまざま。それぞれの学校の裁量に任されているみたい。面倒くさいな〜、と毎年思う。

旧盆前、去年はメガネの半分が吹き飛ばされた八月の台風。来る前は記録的な台風とかで騒がれたが、うちは停電することもなく、台風の夜、窓から外を見ると四つ角で雨が渦巻いていたのを見たくらいで何事もなかった。そんな中でも歩いて普通に仕事に行く。Tシャツに短パン、ビニール袋に着替えを詰め込みメガネを外し、前かがみで向かい風を歩く。おもったほど風の抵抗もなかった。台風が過ぎると少しだけ夜が涼しくなるだろう。

八月は半ば、ETこと竹澤悦子が沖縄に来た。五月の連休に来る予定をたてていたけど混雑している時期なのでだめになり、たまたまお三弦ひとつかかえての演奏会で来るから会うことになった。演奏会は仕事で行けないのでこちらが空いている日が向こうが帰る日。飛行機の時間まで初対面のご主人と三人で観光する。暑さの中、グラスボートに乗ったり、御嶽に行ったり、漁港の食堂でご飯を食べたりと一年ぶりのだらだら観光をする。車の走行距離百三十キロ。小さいなこの島は。えっちゃんは格安で三線を手に入れ帰った。食堂で食べたイカ墨汁、そのあとどんな便が出たか報告は無い。

八月最後の日、子供のピアノのレッスン代が上がる、というよくない知らせを奥さんから聞かされる。これで九月もますます働くお父さんに徹してなければいけなくなった。こっそり買ったつもりがばれてしまった、マディ・ウォーターズとストーンズの公式発売された共演DVD、いつ見ることができるだろうか。夜の空、月はうろこ状の雲に囲まれていて、秋らしい素振り。でもまだまだ夏。引き続き早く夏終われ、とつぶやく。

夢のつづきのPreludio

笹久保伸

あっという間に2012年の8月も終った
8月はいつも何かある季節
今年もそうで
出会いもあれば 別れもある不思議な8月だった

8月5日は自分の新しいCDが発売になる予定の日だったが
その日は秩父で別のイベントがあり演奏していた
数日前にCDの発売は延期なる と知らされていたが
祖父の死がその日におとずれるとは誰からも知らされていなかった
CDのタイトルが「翼の種子」だけに 祖父は翼を持って旅にでたのか
種子へ回帰したのか とか独りで考えてしまったが それは偶然だ

「翼の種子」はポール・エリュアールの童話
私のCDのコンセプトとは直接関係がない
しかし CDのコンセプトやタイトルを考える時に
種子へ還るべきか 種子から育つのか どちらだ
と考えた時に 今は まだ種子へ還れない と漠然と思った
外へ向かいながらルーツへも還れ とペルーのManuelcha Pradoに言われた事がある

結局CDは8月12日に発売になった
ジョン・ケージと中上健次の命日だったらしい と後で知ったが
CDに入れた「空飛ぶ法王」という曲を作るアイデアとなった句集を書かれた
俳人の夏石番矢さんは 晩年の中上健次の友人だった
自分の意図しない事や直接自分には関係のない事が 
遠いところで繋がったりもするのかな
とも思ったが 偶然だ

自分は自分が作曲や演奏を続ける上で何かのエモーションがないと 
何も生み出せないのではないか と心配している
しかし仮にエモーションがあって何かを書いたりしても 
それで自分が何かを生み出した もしくは 生み出しているのだ
とも思えないが
とにかく今は エモーションや動機がないと 作る意欲がなくなってくる
でも それがないと作れない という事ではないし
理由があって何かを作るという事はほとんどない
何かのためになるわけでもないし 自分のためにもならないし
わけがわからなくなってくる

書ける事しか 書けないが そういう意味でも
8月はエモーションだらけの月で自分の気も狂いそうだった
いや ある意味 いつでもオカシイかもしれない

今年の8月は生まれて初めて 熱中症にもなった
お酒に弱くて 全然飲めないのだが
ある夜 ラム酒を6杯飲んで 水を飲むのを忘れたまま
なぜかエアコンのない部屋で寝てしまい
朝起きたら 暑くて暑くて めまいがして 立ち上がれなくて
喉や口がカラカラなのに 水を飲めない 飲むと気持ち悪い
そのまま病院へ行き 点滴4時間 病院で1日過ごし
地獄を見た
その後も不調で 夏バテのよう

他人や友人や見知らぬ人々が会話をしているのを聞く
ある瞬間に大勢の人々が それぞれ別々の会話をしているのを聞くと面白くて
話の内容にではなく その音響効果に感動する事がある
8月はそういう方法で小説も書いた

そんな2012年の8月は 夢のつづきのPreludioだった

八月

璃葉

真昼の通り雨は子供の足音を真似て
愉快に家々を走り回りながら
蒸し鍋の中に座り込む少女に晩夏を知らせる

老いた月と黄金色の灯りを空から吊るすと
色褪せたはずの秋が微かに橙を吐き出した

あの日生まれた死に部屋には
朝焼けを映す雨雫を垂らそう
きっと暗緑の夢から抜け出せられるはずだから

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奇妙な殻のなかで

くぼたのぞみ

つんつんと萩の小葉が
8月の風に指をひろげて
黄色い粒が風に飛んで
するどく こまかく 切れる刃物は
ひとつの世界の
あざやかな開口部を見せはするが

切断された欠片が行きどころなく
散らばる地表に
無常の熊手がのびる季節が近づく
ほら そこに見出されるのは
群島フェミの忘れもの
きみはなにを創り
なにを育て
なにを枯らしたか

19世紀小説がなつかしいと地球儀のおもて撫でる
(特権+無意識+マスキュリン+永遠の僕)的作家の時代は去り
ここ東アジアで(も)
全=世界へ向かって じわりじわり
アンドロギュノスのしなやかな蔓がのびる
のびる のばすために紡がれることばたち

産む
育む
見る
守る
関係はあとからやってくる

偶然の呪縛 踏みしめて
全=世界つらぬく命の糸の
きみはなにを創り
なにを育て
なにを枯らしたか

糸たちが通り抜けていった
奇妙な殻のなかで
ひたひたと考えている

犬の名を呼ぶ(4)

植松眞人

近頃、ブリオッシュは真っすぐに走るようになった。高原はふいにそう思う。リードを引いて一緒に散歩しながらブリオッシュの背中を見ていて、唐突にそう思ったのだった。

しかし、だからと言って、それまでのブリオッシュが真っすぐに走らなかったのかと言われると判然とはしない。思い返してみても、右へ左へヨタヨタ走っていたわけではない。ただ、真っすぐに走っていたというイメージが持てないのだった。歩きながら速度をあげることはあっても、迷いなく目的地に向かって走っている、というイメージではなかった。もちろん、いまも明確な目的地があって走っているわけではないのだが、確かに一足一足を落とす場所に迷いがない、という気がする。

歩くこと、走ることに迷いがなくなった、ということなのだろうか。いや、もしかすると、ブリオッシュは走るということを意識したことがなかったのかもしれないと思う。歩く速度があがっただけで走れるわけではない。高原はそう思った。歩くことと、走ることの間には確かな線引きがあるはずだ。ブリオッシュはここしばらくの間に走ることを覚えたのではないか。だとしたら、それはいつだったのか。高原は考え始める。そして、考え始めてすぐに「あの時だ」と思い至る。

二週間ほど前、ブリオッシュと散歩に出かけようとした時に、リードを付ける前に脱走してしまったことがあった。

きっとのあの時だと高原は確信した。ブリオッシュはあの瞬間に走ることを覚えたはずだ。走ることと歩くことの違いを知り、意識して走れるようになったのだと高原はなんとはなく確信したのだった。

いつもの公園のいつものベンチに座ったまま、足元に寝そべっているブリオッシュの背中を高原はなでる。ブリオッシュは少しうるさそうに高原に視線を送る。そして、すぐに元の姿勢に戻ると、再びあごを地面につけて寝そべってしまった。

あの日からブリオッシュの動きにはメリハリのようなものが出てきたような気がする。少なくとも我が家にきたばかりの時のように、部屋の中を走り回るということはしなくなった。前は家の中も家の外も同じように走り回っては、いろんな物を壊したりしていた。それが最近、ぱたりとやんだのだった。

以前は、ブリオッシュを唐突にうちに放り込んでいった娘によく文句を言っていたものだ。
「じっとしているかと思うと、突然火がついたみたいに走り回ったりするんだよ。おかげで家の中が落ち着かないよ」

それがどうだろう。こちらが「散歩に出かけるか?」という目配せをするまでは、ぼんやり寝そべっていたりする時間が増えた。

高原がそう言うと、娘は笑った。
「大人になったんじゃないの? 犬は生まれて一年で成人するっていうからさ。ブリオッシュだってもう子供じゃないんだよ」

そんな母親の話を聞いて、今度は孫娘の聡子が言う。
「ねえ、お母さん。ブリオッシュって何年くらい生きるの」
「そうね。大型犬だからねえ。犬は大型犬の方が寿命が短いのよ」

そういうと、聡子は「え?っ」と露骨に嫌そうな声を出す。
「かわいそうだよ!」
「仕方ないじゃない。でも、十年から十五年は生きるんじゃないのかなあ」

そう言われた聡子は、ブリオッシュの顔をじっと覗き込む。

十年が経つと俺はもう七十五歳だ。そう思った途端に、高原は目の前の風景に蜃気楼がかかったような揺らぎを感じた。うっすらとした透明の膜のようなものがかかって見えた。高原は深いため息をついた。そのため息を聞きつけたのか、聡子が高原を心配そうに覗き込みながら「大丈夫だよ」とにっこり笑う。
「心配しなくても大丈夫だよ。おじいちゃん」

ちょっと複雑な表情で、高原は聡子に微笑み返す。聡子はもっと高原を慰めようと、言葉をつなぐ。
「おじいちゃんとブリオッシュで、どっちが長生きするか競争だね」

そう言われて、高原は一緒に笑う。笑うのだが、自分の笑いだけが少し引きつっているのではないかと、そればかりが気になって仕方がない。

あれから数日たっても、「どっちが長生きするか競争だね」という言葉が棘のようにつかえたままになっている。そして、その棘は日を追うにつれて小さくはならず、大きくもならずに、ずっと同じ大きさで同じ場所に刺さっていた。だが、その場所がよくわからない。

あと十年たてば俺は七十五だ。そして、十五年たてば八十歳。八十になって俺が死んでも、誰も「お若いのに」とは言わないだろう。高原は改めて自分の歳を明確に意識することで、目の前のブリオッシュの背中から視線を離せなくなるのだった。

ブリオッシュのゆっくりと息づく背中を、その動きに合わせて、同じようにゆっくりとなでる。
「どっちが長く生きるんだ」

高原はブリオッシュに聞いてみる。そして、自分が確実に年老いていく十年の間に、ブリオッシュはどんな一生を駆け抜けるのだろう。そう思うと、高原は自分が過ごしてきた時間がいかに長い時間であったのかを考えて呆然としてしまう。そして、その長い時間を振り返ろうとしてやめる。どうせ、そんなことをしても悔やまれることばかりが思い出されそうだ。

「でもな、お前よりも覚えることも、やらなきゃいけないことも多かったんだよ」
 高原はブリオッシュに言い訳するように言う。
「まあしかし、俺の散歩とお前の散歩では、その重みが違うのかもしれないな」

そして、高原は笑いながら立ち上がる。いつもよりも少し長くベンチに座っていたからか、それとも真っすぐに走ることを覚えたからか、ブリオッシュも待ち兼ねていたように立ち上がる。

尻尾を振り、今にも駆け出そうとするブリオッシュをリードの微妙な引き具合で制しながら、伝わってくる鼓動に高原は呼応する。そして、ため息ではない短く勢いのある息をブリオッシュにも聞こえるように音を立てて吐く。「十年は長いよな」
高原はブリオッシュに話しかけてみる。

すると、ブリオッシュは「うん」と言ったのか「いいや」と言いたかったのか、少し振り返ると妙な音を立ててくしゃみをした。

オチャノミズ(その4)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

ときおり自分がギターのことについてあまりにも熱中しすぎて、ギターの香りがわたしの感性の中にたち込めているかのように感じる。ギターに塗られたオイルのいい香りはわたしの鼻にしみこんでしまった。ときには鋭い弦が指に食い込んで鮮血がぽとぽと垂れてくることもある。

わたしの指は弦と触れた跡がくぼみになってしまっている。爪の長さのちがいに細心の注意をはらわないといけない。指を使えば使うほどに、どの指も皮膚が厚くなってしまった。その上いやなことに乾燥してまるで木の皮がはげるようにむけてくる。

二本の弦に指をおいたときのあの想像力の深み、それは名指しがたい深い静けさと歓喜なのだ。

わたしは50段余りのコンクリートの階段を下りてきたときのことを忘れたことがない。70度くらいで一直線になっている。上がるときと降りるときでは別の苦しみといっていい。上がるときはめちゃ重いので一歩ずつ這うように動き、北部の高い山にでも登っているかのような思いになる。降りるときは年齢と身体の状態次第で、膝と足首が痛むことになる。

この恐ろしい階段は下りていくと中学校の門前に出る。わたしが下りて学校の前まできたときこどもたちが校庭で遊んでいる声がしていた。ときには何か行事があったり、バスケットかフットボールなどのスポーツ競技をしていたりする。フットボールはこの国ではサッカーと呼んでいる。意味不明だが。

ここは若い男や女が絶えず行きかっている。日本人は生命力に溢れて仕事しているように見える。服装は自分の好みでさまざまだ。どんなかっこうをしているかでどんなタイプの人間かがはっきりわかる。大きい人も小さい人も誰もが漫画本の中のキャラクターみたいに見える、容貌といい、態度といい。色がとても白い。日に当たったことがないのではというほど青白いのもいる。

ただ皆同じなのはお互いに黙って関知せずというところだ。誰一人として他人に関心を持たない。それぞれが歩いてきて、それぞれが過ぎていく。たまに友達グループもいるが、電車に乗るとみな黙ってしまう。本を読んでいる人、目を閉じている人。ただし降りたい駅に着くや彼らはすばやく立ち上がって出ていくのだ。

わたしは日本人の顔を読むのが本を読むのと同様好きだ。彼らの顔には一つ一つ物語がある。日本人の顔はこれはハンサムだとか美人だとかはっきり決められない。何か足りなかったり、多すぎたりする。けれども誰の動作にも可愛らしさがある。

犬狼詩集

管啓次郎

  79

草原を更新するため毎年の火入れにより攪乱した
鹿の意見によると森と草地はいずれも好ましい
栗は樹木の中では明るい森を好んでいた
六色しかない色鉛筆で今日の天気を表現してみよう
境界性の人格であり、樹格であり、獣格だった
眼鏡のふちに「すべてはうまくいく」と小さく書きこんでいる
墓から目覚めて最初の食事は巣蜜と焼き魚だった
カジキをごく軽くいぶしてレモンをしぼって食べる
与那国語には母音が三つしかないと聞いて死ぬほど驚いた
No way! という表現を直訳すれば「道がない」
まだ緑色の栗の毬を蹴りながら歩いた
たどりつく場所がないすべての行程を全面的に肯定する
渦を巻いて水が流れ落ちる巨大な貯水池だった
突き出した突堤に立ちフェリーボートの知らない乗客に手を振る
動物園でもないのにcoatiの群れが森から出てきた
これから夕立が来ることを予感しわざと傘を忘れて出る

  80

隔たったものがむすびつき見えるべきものが見えなくなった
亀に名前をつけても翌日にはもう見分けがつかなくなる
建築学校のキャンパスの木から蘭の花が咲いていた
線路の終わりは民家の裏庭でそこには物干竿もある
ある文体が定着するには大体千年がかかるといっていた
ひとつのレモンを電池として千時間の照明を確保する
島から島への横断を一都市内で経験した
写真によるアフリカとキューバの連結をすぐには信じない
その人の顔があまりに左右非対称なのでかえって魅力を感じた
その二人の少女は絵画のように愛らしくしずかにしている
別の少女たちは滝から群れをなして飛び込むらしかった
巨大な老いたゲリラ兵士が壁の穴をのぞきこんでいる
死はまったくの自然現象なので風が吹くようなものだった
人工物を生命のメタファーにするのは無理だ
川の水面を川が流れていくとき感情は止まらなかった
農業と狩猟採集のはざまで壊れてゆくプロトコルに別れよう

  81

夏至近くの木漏れ陽が煉瓦色の壁にゆれていた
この町には中国人が少ないのでアフリカ人が驚いている
ビール会社の名前に打たれた星を改めて探してみた
千年紀を記念する橋をかもめが歩いている
そういえば犬をめっきり見かけなくなって心配だった
さまざまな色のドットが等間隔に並べられ迷路の気分だ
灰色一色で描かれた絵画にのみ心を奪われた
煙草の吸い殻を集めるとそこから蝶が飛ぶという手品だ
花を模倣する紋様を模倣する平面を作りたかった
川を見ると何度でも身投げしたくなるが一回だけはいやだ
仏陀の教えを懸命に写真に撮りそれで浄土と極楽を表現した
音楽的には無音よりはつねに鳥の歌を選びたい
黄昏が午後十時までつづくとき熱帯を遠く感じた
芝生にきれいな直線で既視的な歩行の線がついている
低い雲が海の風に飛ぶとき生き方をしきりに反省した
四つの橋が連続する筋の美しさをときどき思い出す

  82

トンネルがゆっくりとカーヴして光が曲がって見えた
緑の葉を石で潰しその汁で指を黒く染める
故障の原因は操作のまちがいが大半で後は兎のせいだった
山火事から走って逃げるロバの群れがカタルーニャを再生する
年輪形成がある以上は成長の完全な停止もあるはずだった
生きているのだから心の平静など絶対に訪れるはずがない
斬新さと呼ばれるすべては主として無知の効果だった
趣味の良さとうなだれるオランウータンの幼児を比較する
ベレニスが長い髪を切ったので海上の空に星が流れた
身をやわらかくして波に浮かんで太陽に目を細めている
ナキウサギが岩場に立ちGreat Snow Mountainにむかって吠えていた
経営的手腕を問う以前に誤字脱字がじつに独創的だ
その野良猫がどんなにみすぼらしくても心をよぎらない日はなかった
友人は身体をしだいに透明化させこれから霞ばかり食うと宣言する
歩く習慣を失うと山の輪郭の見えが変わってしまった
これから国立図書館にゆき古い科学映画を見てくるつもりだ

  83

湯が存在のある位相ならそれを喩とすることが求められていた
つぶつぶと白い歯を撒いてヒトの発芽および収穫を待っている
終点があるかぎり必ずそこにゆき番地のない家をたずねた
川が川だけが土地の全面的な主人だということを疑えない
理性は発話の手前で立ち止まり声は朗唱をあきらめた
サゴヤシのサゴ澱粉で麺を加工してもいいですか
「南海の消滅」というフレーズを完全に勘違いしていた
リズムに乗って話してはいけないしビートに心を委ねてはいけない
地名の喚起力といえば聞こえはいいがそもそも音的に聴き取れなかった
きみの耳は舗装され線路が敷かれ蜜鑞でふさがれている
緑色の目をして彼女が肌に梨の実を塗っていた
これから木を伐って谷川に橋をかけようと思う
その二千字が歴史を語るといってもビーズ細工のような伝説だった
石をもって夢を掘り出し当面の生存に役立てる
思い出は痛みであれ愛であれモノローグにすぎないと分析家にいわれた
その黄色は硫黄ですかひまわりの影なのでしょうか

  84

カワセミの青が水面を低く掠めてきらめいた
「自分もいつか死ぬ」というのはどうやら信仰にすぎないようだ
焼けたグラウンドでボールの反撥係数が試された
夏草とつるぶどうの生長に合わせて息と嘘をつく
久しく手紙を書いていないので切手を貼る位置がわからなくなった
新しいという麦藁帽だがどこか漁村の色をしている
距離を歩測する道具として自転車の前輪に印をつけた
夕焼けの雲が血に染まったスナメリの群れに見えてくる
動物としての交感の基本は体温の交換だった
殺すことで一度死に投獄されて二度死にそれから処刑される
どんぐりというのは一種類ではないんだよという若い父の声が聞こえた
水よ、陽炎よ、揺れよ、燃えよ、雲よ
午前七時に集合して鉄道をいくつも乗り継ぐのだった
蛙たちにコーンフレークスは完全食品だと教える
見る見る暗くなる空で教会の廃墟が急成長した
時間とは感情の偏光が生む色の影にすぎない

掠れ書き22

高橋悠治

たいせつなのは構造ではなくプロセスか。しかし、20世紀音楽のさまざまな試みをふりかえり、そのなかで聞かれることのすくないものを聞き直したり、楽譜を拾い読みしたりするのは、分析のためとは言えないだろうし、ベケットやウィトゲンシュタイン、最近ではクラリセ・リスペクトルの小説をすこし読んだりするのも、方法や構造ではなく、分析やアフォリズムのように一般化された原則のみかけを追うのではなく、なにか一瞬掠めて過ぎるもの、そこから垣間見る何かわからない感じからうけとる気配がそのまま外に反射されるきっかけではないか。

ギリシア悲劇でも能舞台でも数人の歌と踊りから分離するモノローグや対話で野外のひろい空間をみたすことができたとは、どういうことだろう。1本のアウロス、または能管とすこしの打楽器があるだけで、近代オーケストラやエレクトロニクスもなく、仮面の裏から響く声はオペラ歌手のようなあからさまな自己顕示とは反対のように思えるし、近代劇場のなかで響き渡る音響は、野外ではかえって聞き取りにくい貧弱なノイズなのかもしれないとさえ想像できる。それにギリシア劇のテーマの一つが人間の思いあがりの招きよせる不幸とすれば、意味によって考えさせることばというよりは、ことばのリズムと舞う手足から伝わってくる遠い声が、その場に参加する人びとの共感のなかで身体に直接伝わってくるのは、物理的な音量というよりは、暦の循環する時間に刻まれた季節の徴と、心的空間の指向性のせいかもしれない。

作品としてできあがってしまったものも、もともとは可能性の予感と何かわからない力に押されて岸から離れて漕ぎつづけながら、離れれば離れるほど岸にもどろうとする舟のように、最初の一撃、創造の芽の瞬間を理解しようとして構成や形式の壁で囲み、方法やシステムで炎を掻き立てながら、弱ってくる火を消すまいとする。形式も方法も循環の抽象と定式化、構成と方法は理論化で、作品として完成したものはプロセスの痕跡、炎が表面から消えた燠火、構成の高揚感は舞い上がる灰、二日酔いの陶酔だとしたらどうなのか。全体の図式をととのえるために書き加えていく技術は、延命治療のように衰弱を長引かせるだろう。19世紀以来の量的拡大とそのための規格化は、とっくに組織化され産業化されて、マスメディアの鈍さが妨げとなっている。別な道はもっと身軽な少数派の実験がひらくかもしれないが、それが巨大化した全体組織に波及するまでには時間がかかりすぎる。

量的思考の足し算ではなく、解体と断片化の引き算の方向も現れてきた。そこにまだ残っている妨げはスタイルにあるのかもしれない。実験者のペルソナがつきまとって、作品の整合性と冗長性、それがかえって商品価値を保証しているように見える。羽毛のなかのえんどう豆のように、感触がさぐりあてるのはほんの一瞬、一点にすぎないのなら、何のための解体だろう。

モンタージュという方法が発見されたのも20世紀だった。連続性を断ち切るとで断片に鋭角をあたえるやりかた、こうもり傘とミシン、『春の祭典』のリズム的ペルソナ転換、『アンダルシアの犬』のカミソリと眼、それが機能になってしまい、1930年代の記念碑的新古典主義に埋没していったとき、ふくれあがったペルソナ、1%の法人が核となって99%の原子を惹きつける体制が再登場したのではなかったか。

古代劇場でのペルソナの転換の瞬間、おもいがけない出会いをきっかけとしたペリパテイアは1行のセリフに凝縮されている。夢幻能でもそうであるように、仮面をつけかえて再登場する声はここにあるが遠くからの響きのこだま。

書こうとしても、書きはじめると逸れていって、そこにはたどりつけない。文章に妨げられることばのなかの光。こうしてみると、連句と座はその後ふたたび定式化された美学と形式の殻を捨てて、連句でないものとしてよみがえるなら、ぼろぼろの穴だらけの、途切れ途切れの響きと色の、即興でない即興、作品でない作品、プロセスであるような未完の試みへのてがかりになるかもしれない。

孤立した原子ではなく関係の網目。微かな輪郭と薄い彩り。崩れない硬さを残して。潜在意識的音列による統一と支配ではなく、偶然のつくるパターンからのゆるやかなひろがり。音色としての音程。低音の安定のためでない浮遊する共鳴としての5度と4度、不協和でないずれとしての2度、調和でなく弱さとしての3度と6度、同一性としてではなく、それゆえに20世紀的アレルギーの対象でもない8度。和声的安定や対位法的な連続性をもたず、カオスの多層性によって裏側から秩序とのバランスをとるのではなく、穴のあいた網目をたどりながら移っていくつづれ織。

20世紀のさまざまな技法は、1980年代には学校で教えられるような標準的なものになってしまった。複雑な音楽にはどれくらい持続する生命力があるのか、ときどき疑っている。オリエント的音程の独特な明暗も規格化された西ヨーロッパ的微分音とはまったくちがう使いかたがある。西洋オーケストラの音色パレットは標準化されてぜいたくだが貧しい音色になってしまった。メロディーで情感をかきたてるのには適しているかもしれないが、それだけのために何十人も必要だろうか。特殊奏法や超絶技法は一度しか効かない薬品のようだ。くりかえし使われ、分量が増えていく。

翠の数式94――終わりは来るか

藤井貞和

括弧はちいさいが
正確な一語を容れる

括弧のなかは正確
正確な日本語によって

無理数
対数計算

輪を包囲する
くうかんの「虚」に投げいれる

ついに
数値が終わる日の

せめて前夜なりとも
好きな人といっしょにいましょう

文末を正確にね
最終の句読点

(「石牟礼道子さんの『苦海浄土』を事故後に読み直して、自分もああ言ったきちっとした正確な日本語で表現できたらいいなということを考えています」〈若松丈太郎〉。「できれば福島原発の『苦海浄土』を書きたいなと。できれば、ですけど」〈同、日本経済新聞〉。終わる日の前夜は好きな人と一緒に、と小出裕章さん。誰もが死を覚悟した瞬間、と前福島県議会議員高橋秀樹。)

ラマダンにはいいことをしよう 

さとうまき

いつの間にか、月が欠けて、見えなくなるとラマダンが始まった。

日中、空腹を感じ、貧しい人のことに思いを馳せ、日が落ちると一気にご馳走を食らう。ここ数日、ホテルでラマダン明けの食事を取ったが、これがまた半端じゃない量だ。僕は、イスラム教徒ではないから断食はしないけど、ここヨルダンでは、レストランはほぼ全部しまっていて日中は食べるチャンスをなくし、なんとなく断食ぽい生活をエンジョイしている。

さてさて、空腹に耐え、貧しい人のことを考えた暁には何かいいことをしなければいけないのだ。そこで、羊を買って、シリア難民に振舞うことにした。難民支援で集まったお金で生きた羊を1頭買ってあげようということになり、シリア人のバシールに車を出してもらって郊外の羊市場を探した。バシール君は、ホムスから逃げてきて自身も難民だが、他の難民たちの面倒をよく見ている。

しかし、かみさんが最近切れたそうだ。出歩いてばかりいて、自分の家にはほとんどお金もたまらない。人助けもほどほどにしなさい!と離婚を迫られているという。近所に住んでいるヨルダン人のハッジが何とか説得したが、宗教裁判所に行ったりしているみたいで、大変なようだ。

そんな愚痴を聞きながら、車は、郊外の、資材置き場というが、ゴミ捨て場のようなところにやってきた。見るからにやばいものが取引されているような場所。商談が成立しないと、ずどんとやられて、そのまま、遺体は干からびて犬にでも食われそうな場所だ。こんなところの羊はまずそうなので、バシールを促して、もっと砂漠の奥深くへいくことに。

なんでもエジプト人がやっている羊屋さんがあり、この地方では見かけないオーストラリア産の羊も輸入して売っている。毛並みもよくて上品な顔している。やっぱりここは地産地消だ。ヨルダンの羊を注文すると、いつものちょっと下品な羊が出てきた。子羊は、僕はどうも苦手。はやり、十分人生を楽しんだ後のじいさんがいい。

で、ちょっと大き目の羊を選んだ。はかりにのせられるとメーメーと泣き出した。自分の運命を知ってのことなのだろう。体重は丁度50キロで360ドル。早速手足を縛って車のトランクに入れて持ち帰りだ。途中何度も、暴れる音が聞こえた。なんだか、かわいそうになってきた。一体、自分はいいことをしているのだろうか? 羊にとっては、とんでもないやつに違いない。第一手足を縛って車のトランクにいれて、最後は、ナイフで頸をきる。これって、イラクやシリアではびこっているテロリストがやっていることじゃないのか? そこで、僕の正義感がわいてきて、いっそ逃がしてやろうかともおもうが、所詮、誰かに食べられる運命なのだ。ならば、強欲な金持ちに食われ、食い残されたりするよりは、羊とて、貧しいシリア難民に骨の隋までしゃぶってもらいたいだろう。

そうこうしているうちに、屠殺場についた。こちらでは、たいてい肉屋が屠殺場になっている。羊を持ち込むと、1000円くらいで解体してくれる。あっという間に頚動脈を切り、血がどくどくと流れ出る。見事なものだ。見た目は残酷そうでも、苦しむ事はほとんどない。皮をはいで、内臓を取り出して、肉片にわけて。。あっという間でもなかったが、手際よく作業は進み、ビニールに入れて13家族分に分けた。羊が犠牲になり、シリア難民の命をつなぐ。まさに、「頂きます」の言葉の重みを実感した。
 
難民支援募金はこちらから http://kuroyon.exblog.jp/

早く夏終われ

仲宗根浩

休みなのでいつものようにおやつの時間から飲む。外は台風が少し近くなったので風が強い。

六月から週四日、朝から昼過ぎまで別の仕事を始め、そこが七月繁忙期に入り休日出勤二回ばかり。そしたらあっと言う間に月末。がんばれをやたら煽るオリンピックが始まってもそんなに興味なく、働くおじさんに徹する。

聴けずにたまっていた一週間分のポッドキャストをまとめて聴く。兄が送ってくれた立川談志のDVD二十枚くらいは九月にならないとゆっくりと見る暇がないので、見たいというものにすぐ貸した。買ったばかりの最新リマスター、モノラル・ヴァージョン初CD化(こういう言葉についついのっかってしまう)のビーチ・ボーイズの初期三枚も封も開けぬまま。五月に来たシカゴの日本でのライヴ盤に収録されている「A Hit By Varese」という曲を聴いて、ヴァレーズのCDがあることを思い出し引っ張り出したたままでそころらへんに置きっぱなし、昔の「音楽芸術」にヴァレーズについて記事と年譜があったことを思い出し、本棚にあったものを引っ張り出したままこれも置きっぱなし。

最近、やたら家の上を飛ぶいろんな飛行機。もう少しするとあのオスプレイも加わるのか。じぶんちの上を飛ぶことがわかると、あちこちでみんな騒ぎはじめる。

近所の立ち飲み屋でビールを飲んでいると、町ぐるみの演劇フェスティバルがいつの間にか始まっているのを知る。だらだらと家で、早く涼しくなってくれ、と思いながら寝っころがっていたら眠ってしまい、起きたら夕飯をみんな食べ終わってた。

気まぐれ飛行船(2)

若松恵子

「柘植ディレクターは『きまぐれ』は音楽番組ですと断言した。」という言葉が1979年7月発行の『FM fan』のなかにある。79年6月30日に東京新宿のツバキハウスできまぐれ飛行船5周年を祝うパーティーが開かれた。その様子を伝える記事のなかの柘植有子さんの発言だ。

この記事を見ながら、「きまぐれ飛行船について、音楽番組ですか? トーク番組ですか? とよく聞かれましたけれど、音楽番組として作っているからという気持ちがいつもあった。」と柘植さんは話してくれた。「インタビュアーに”トークばっかりの回もありますよね”と、つっこまれたりしたのだけれど、たとえ1曲しか掛けなかったとしても音楽番組なのだという気持ちだった。」という。

今は、ダウンロードすることで多様な音楽を手に入れることができるようになったけれど、かつて、聴きたい曲があって、レコードを手に入れることも出来なくてラジオにリクエストして掛けてもらって聴くという時代があった。ラジオが唯一音楽を届けてくれる魔法の箱だったのだ。

「片岡さんは、ラジオからエアチェックして自分の好きな曲だけを集めた特別のテープをつくるリスナーの気持ちが分かっていたから、イントロにかぶせて曲を紹介したり、途中でフェードアウトしたりすることが決して無かった。可能な限り、1曲をきちんと初めから終わりまで掛けた。」と柘植さんはいう。
オンエアのなかで、録音しやすいように、まず先にまとめて紹介して、曲を続けて掛けますと言って、レコード会社から苦情を受けたこともあったそうだ。「曲が終わった後、テープを止める間をとってから話し始めるので、放送事故にならない程度に編集で間を詰めたこともある」と笑いながら話してくれた。

番組で掛けた曲が順番に記載されているキューシートを柘植さんは長い間保管していたという。事務所を引っ越す時に残念ながら処分してしまったという事で、もう見ることは叶わないけれど、『FM fan』に載っているほんの一部の曲目を眺めるだけでも充分楽しい。ある回に掛った曲を探して、その並びで聴いてみるという遊びをいつかしてみたいと思う。

「たとえ1曲しか掛らなかったとしてもきまぐれ飛行船は音楽番組」という言葉は胸に響く。たしかに、この1曲が聴けただけでも満足。そういう曲と出会える番組だったのではないかと思う。ラジオというもの、音楽というものを両方深く理解している人たちがつくっていたことが、番組の魅力につながっていたのだと思う。

これは、大名曲ばかり掛ったということではなくて、例えば1978年11月27日の「蔵出しおもしろLP大会」で掛けたミセス・ミラーという人はイギリスの有名な大音痴おばさんで、オーケストラをバックに朗々と歌うはずれ具合が大爆笑だったというが、そういう奇妙な曲も掛る稀有な番組だったのだ。中華街で見つけてきたという美人歌手「李成愛」の特集をしたり、柘植さん持参のレコードにスクラッチが入っていて困った時に片岡さんは「スクラッチが入っていないのはつまらない」と言っていたという。

もちろんビートルズの1962年のオーディションテープを紹介したり、日本語でロックをやる人やレゲエをいち早く紹介するという正統のすごさもあった。
「番組を通して片岡さんに色々な音楽を教えてもらいました。LPのおもしろさを教えてくれたのも片岡さん。それまではヒット曲を集めたベスト盤を買っていたけれど、LPはアーティストが自分の音楽をどのように聴いてほしいかが表れていて、流れがあるから本来は全部最初から最後まで順番に聴くのがアーティストへの礼儀だということを教えてくれました。」と柘植さんは言う。番組の中でLPを1枚ずつ紹介するコーナーもあった。「スイート・ハーモニー」(マリア・マルダー)「欲望」(ボブ・ディラン)「MENTANPIN Ⅱ」(まんたんぴん)「島田祐子メルヘンをうたう」(島田祐子)「スマイル」(ローラ・ニーロ)…取り上げられたLPの題名を見ていくだけでもうれしい。

冒頭で触れた『FM fan』の記事に、片岡さんの言葉が紹介されている。
「いかにも”作っている”という感じの番組にはしたくない。自由な感覚で選曲し、話をしていく、そこからリスナーが感動とまではいかないが、ちょっと幸福な気分になってくれたら、それで最高です。いま、スタッフ全員で南の島にでも行き、そこで買ったレコーとその島の話題で番組を作る、そんな夢を抱いているんですよ」
夢の番組は実現されたのだろうか? 片岡さんがこんなことを想いながらマイクの前に座っていたというだけでも充分だけれど。

しもた屋之噺 (127)

杉山洋一

この原稿を書くとき、まず原稿が何回目なのか「水牛」を開いて確認するのですが、今回は8月に演奏するドナトーニについて書くつもりが127回目と知って、少しばかり動揺したことを先に告白しておきます。ドナトーニは音楽の道に進む前に経理士の資格を取っていて、家が裕福ではなかったために自分でくいぶちを見つけられるようにと親から勧められたのだそうです。そうしてヴェローナの銀行にでもつとめながら、夜はアレーナのオーケストラでアルバイトでも出来ればよいと、親がヴァイオリンを習わせはじめたのが音楽との出会いでした。

ドナトーニの「数」への偏愛が経理の勉強と繋がっているのか分かりませんが、とにかく彼のお気に入りは27でした。生まれ年が1927年だったからです。127というと27が入っていることはもちろん、1927から9を抜いた数ですし、9は2と7の和にもなっています。1927と127の両端の数を選ぶと、17というイタリアの忌み数になりますが、ドナトーニが最後にニグアルダ病院に入院したとき、ベッドが17番で縁起が悪い、変えてもらおうと言っている間に、さっさと8月17日に亡くなってしまい、電話をもらってニグアルダの地下の一階の霊安室に駆けつけると、小さな霊安室は17番で、びっくりしましたものです。そういった数遊びや冗談がとても好きな人でしたから、127と見て、ああまたか、と思ったわけです。ロシアのホテルの食堂でも、ドナトーニの数遊びの話しになり、何気なく彼女の年齢を尋ねると27歳でした。
ドナトーニが1980年に書いた「経緯X」の中にある「数」という項を少し訳出することにしました。

7月X日19:00クラスノヤルスク・ホテル
クラスノヤルスクの隣町レソシベリスクまで昨晩の演奏会に出かけた。確かに隣町だが250キロ離れていて、バスで4時間かかる。バスはパトカーに先導されて走る。一台でも車とあればメガホンで退くよう大声で命令するので、救急車か消防車にでも乗っている気分だ。数軒ぽつねんと軒を並べる村を通過すると、乳牛の一団が道路を占拠していた。パトカーはやはり牛にどくように叫んでいるが、なかなか動かない。尤も、人影のないタイガを4時間走り続けて、パトカーの頼もしさを痛感。日本の45倍の国土を治めるのだから、当然違うアプローチが必要になる。レソシベリスクの会場に入る折、ロシアのしきたりに従って、民族衣装に身を包んだ男女から差し出されたケーキ状のパンを千切り、てっぺんの塩をつけて口に運んだ。
時代を感じさせる木造の大ホールは満員御礼。ロシアの観客はとてもあたたかい。木材が豊富だからか、イタリアでは見られない木造の建造物がとても多い。猛烈な寒さには石造りの方が暖かそうだが、案外違うのかもしれない。
帰りの道すがら、バスは数軒ある喫茶店の一つでしばし休憩。コーヒーを飲もうとカウンターに並ぶと、飛んできた通訳I嬢に、危険なので食べ物を買わないよう注意され、続いてコーディネーターのJからも、衛生状態が悪いので気をつけるように言われる。カウンターには、さまざまなケーキがトレーに載せて並べてあり、レジ横には昔、乾物屋に吊ってあったような、赤茶けた魚の干物が数本。エスプレッソマシーンで淹れたコーヒーを一杯飲むだけだと説明すると、それなら一番安全と笑った。傍らに並んでいたオーケストラの団員たちも、揃ってここの食べ物は危険だと注意してくれる。勿論彼らも、食べ物には一切手をつけない。

7月X日15:00クラスノヤルスクホテル
リハーサルと本番の合間。ホテルのベッドに寝転がって、ドナトーニの資料を読む。辺りのコンビナートのせいか、光化学スモッグが酷く空は白く霞んでいる。何れにせよ、一人で外を歩くことは許されていない。
…彼がボローニャ音楽院で作曲のディプロマをとり、かねてから憧れていたぺトラッシに会うためローマへ出かけた。
最初ぺトラッシは「まず僕の話からしよう」と言って、小麦やぶどうが満載の荷車で田舎からローマへ出てきた話や、教会で合唱隊をしていた話、音楽関係の専門店で働きながら暮らした話などをして場を和ませてから、「では、何か聴かせてください」とドナトーニに水を向けた。ドナトーニが書き上げたばかりのぺトラッシ風「オーケストラのための協奏曲」を暗譜でピアノを弾いてきかせると、1楽章が終わったところでぺトラッシはドナトーニを遮った。「わかりました。あなたはこのぺトラッシズムから遠ざからなければいけませんね」と言って卓上のスイス葉巻を勧め、話は続いた。
「僕が作曲を続ける価値はあるでしょうか」と青年ドナトーニが尋ねると、ぺトラッシは「その価値はあると思います」と答えたことが、ドナトーニの背中を押すことになった。
「サンタ・チェチリアのアカデミーに登録されてはどうでしょう。ピッツェッティのクラスは興味を引かないかもしれないけれど、奨学金が貰えるはずです。それであなたはローマに住むことができますし、いつでもあなたが望むときにわたしに会えますから」。
その言葉通り、ドナトーニはサンタ・チェチリアに入学し、ローマに住んだ。足繁くぺトラッシのもとを訪れては、長い時間を共に過ごした。このときのぺトラッシの青年作曲家への優しさは、作曲教師となったドナトーニにそのまま受け継がれることになる。

7月X日12:00成田エクスプレス
昨日の朝、通訳D嬢が連れていってくれた民俗博物館が実に面白かった。ネネツ人、ドルガン人、ヌガナサン人、ハカス人など、クラスノヤルスクに近い地方の少数民族の風俗を紹介しているのだが、深い雪用にすっぽり被る形の衣服や、雪の反射から目を守るための木製のサングラスなど、見ていてどこもまったく飽きない。日本人の起源はバイカル湖畔のブリヤート人という説もあるそうで、親近感すら覚えた。ロシア各地に残る民族音楽や民族舞踊も、衣装の色柄、ゆったりとした舞など、雅楽や神楽の立ち振る舞いをしばしば思い出させ、アジアの懐の広さと深さを想う。
オーボエの2番奏者がモンゴル人に似た顔立ちだったので、聞くとトゥバの出身だそうだ。フェスティバルにはトゥバ共和国の伝統音楽や民族舞踊団もきていて、ホールの楽屋で民族衣装の彼らと談笑している姿が印象に残る。楽屋のドア脇の廊下で、横笛の調律を直して、ホーミーの倍音にあわせて馬頭琴をチューニングしていた。
通訳のD嬢に、ああいう少数民族を見るとどんな印象を持つかと尋ねると、「アジア人だとおもいます」。D嬢自身エキゾチックな顔立ちで、聞くと父親はウズベク人で母親はモスクワ生まれのロシア人だそうだが、ウズベキスタンには何の親近感も湧かないという。ボーイフレンドは朝鮮族で、キムチは好きだがロシア人のアイデンティティしかないそうだ。ウズベク語も朝鮮語も話さない。
その彼と7月末に日本を初めて訪れる予定で、「たこ焼き」と「温泉」、「ディズニーランド」と「東京タワー」を楽しみにしていた。シベリア大日本語科のロシア人の先生から、日本に「こんにゃく」という不思議な食べ物があると聞き、興味津々。メドジェべフの北方領土訪問については、なにも知らない。

7月X日22:00自宅にて
原稿書きのためIn Caudaの分析。
In Cauda I のスコアを読みII, IIIの素材とした部分を探し出し、どのような作業が介在したのかを曲ごとの方向性が見えるまで比較と検討を繰り返す。
ドナトーニが素材として使用した「In Cauda I」第3部のブランドリーノ・ブランドリーニのテキストは、イタリア語のなかに、ラテン語と英語が雑じる。

III

ちょっと   ふざけて
愛で     彼女を愛すよ
誘き寄せて  行キハヨイヨイ 必要ナノカ?

うお座の   懐疑
黄道帯の   反響言語
沈黙の    連続

用済みの   一羽の雄鶏が
説明する   喉って
声ダゼ    行キハヨイヨイ!

誘惑された   必要ナンダ    餌を-必要ナンダ-ネコガ-餌を-必要ナンダ-ネコガ-餌を
尾ッポハ    彗星       目標を-尾ッポハ-くれる-目標を-尾ッポハ-くれる-目標を-尾ッポハ

あの娘は    彗星の尾     でも-だれ-お前は愛す-でも-俺-だれ-お前は愛す-でも-俺
だん だん   消えつつ     お前-歯-消えて-お前-歯-消えて-お前-歯
宇宙に     いけ ゆけ    向かって-いけ-ゆけ-向かって-いけ-ゆけ-向かって-いけ
エピファニー  ゆけ いけ    ゆけ-いけ-ゆけ-いけ-ゆけ-いけ-ゆけ-いけ-ゆけ-いけ

「Duo pour Bruno」を作曲した頃のドナトーニ自身の回想を読む。
「探究心の欠如が意味するものは、作曲をやめるべきというサインだった。それくらい僕の鬱はどうしようもないところまで行っていた。3月のある日、音楽院に出かける道すがらサンドロ・ゴルリに出会い、彼に外から見ても僕の鬱が分かるかと尋ねてみた。鬱が最終段階に入ると外見にまで変化を来たすからね。少し戸惑いながらサンドロは分かると答えてくれた。だから僕は医者の友人に電話をして、病院に部屋を用意してもらった。発作は1967年僕が40歳の頃から始まっていた。1972年僕はベルリンにいたがとても孤独で辛かった。だからイタリアに戻ると妻の助言に従い神経科へ出かけた。医者は僕にパルモダリンという薬を与えてくれたが、お陰ですっかり薬の依存症に陥っていたことにずっと後で気づいた。薬のお陰で物凄く作曲をする元気が湧いたのだけれども、その薬は僕の人格までも変えてしまい、結局長い結婚生活で築いた、夫としてのささやかな評価すら失墜させられてしまった。当時は女と見れば追いかけ廻していたわけだ。しかし73年母親が死んで僕はまた鬱に逆戻りしてしまった。前よりも酷く、どんどん酷くなリ続ける欝だった」。
これを読むと、前妻スージーと2人の息子、ドナトーニの恋人マリゼルラが、互いに葛藤はありつつも、最後は家族のように親しく交わっていたのかが、少しわかる気がする。

7月X日12:50ヴェローナ駅構内
原稿を書き終え、ヴェローナの記念墓地まで12年ぶりにドナトーニの墓参りにきた。何度も来ようと思いながら、一人では来られないだろうと諦めていたが、実際に来てみれば駅からも思いのほか近く事務所の女性も親切で、すぐに場所を印刷してくれた。地図に従って、入口から足を踏み入れ、四方をパンテオンで囲まれた比較的小さな墓地群を突っ切ると、向かいのパンテオンの礼拝堂から人が大勢出てきたので、きっと大層美しい教会に違いないと覗き込むと、どうやら故人を悼むミサをしていたようで、不謹慎なことをしてしまった。
左脇の木扉から外に出て、別の門から入ると、そこは、明らかに富裕層とわかる、立派な墓が並び、何人もの庭師が故人の芝を刈ったり、家政婦らしい女性が個人の墓の窓みがきをしている。一つずつの墓が家とも礼拝堂ともつかぬ立派な造り。
それを横目にずっと奥まで歩を進めると、壁に横穴式に棺桶を入れていくスタイルの集合墓地群がある。12年前に来た時は出来たばかりで、随分空いていた覚えがあるが、今回はぎっしりとどこにも故人の写真が張られている。それどころか、場所が足りないのか、ほんの小さなスペースが確保された墓も新設されていて、火葬された故人用なのだろう。
集合墓地は1ブロックが横に7基、縦に6基整然と並んでいて、巨大な駅のロッカールームという印象を与える。床も墓石もすべて磨いた朱色の石で、一基ごとのスペースはとても小さく、花受けもないので、本物の花束が手向けられた墓は、この辺りはほとんど見かけなかった。
ドナトーニの墓は、その集合墓地の一番左奥から入ったそのまた左奥にあった。12年前のあやふやな記憶ではこれほど奥まった印象はなかったので、意外だったが、その左奥にあるブロックの真ん中の一等上段にドナトーニの顔写真が見えた。
近くにあった大掛かりな脚立を動かし、上まで花を手向けに昇ると、目の前に墓石があった。花もロウソク状の飾りもなかったが、誰が作ったのか彼の作品名をちりばめた詩が刻まれていた。そこに墓地の入口で買った小さな花束を何とか引っ掛け、挨拶替わりに何度か墓石をなでてから手をあわせ脚立を降りた。
ひんやりとした集合墓地は人影もほとんどなく、正午前の明るい日差しもいい具合に差し込んでいて、そっけなくひんやりしたニグアルダの霊安室をほんの少し、思い出させるものだった。

7月X日15:00自宅にて
幾ら見直しても納得できなかった「Prom」のテンポ表示の謎が漸く解ける。途中に2度同じ速度表示が無意味に繰返されており、全体の纏まりのなさがずっと喉もとに閊えていたが、「In Cauda II, III」を原曲と比較して分析したおかげで、ヒントがつかめるようになった。何が役に立つか分らないものだ。彼は速度表示を後で出版社に指定するつもりだったが、書き終える前に発作で倒れたため、それっきりになっていたに違いない。そして(自分を筆頭に)周りも本人も既に音符が書き上がっていた部分について何も疑うことなく完成させてしまったのが原因だった。ただ素材を丹念に見直してゆけば、どの速度表示がどの部分に相当すべきか分かるようになり、作品にメリハリがついて活きてきた。
今まで教えてきたクラシック部門ではなく、現代音楽部門の長から呼び出されて学校に出かけると、今やっている耳の訓練の他に作曲科生のために指揮の基礎を教えてやってほしいという。旧知の学長の粋な計らいとすぐに分かった。クラシック部門では、市との契約上の厄介と人間関係のシガラミが複雑に絡んで今以上の仕事を頼めないが、とにかく踏ん張って居残ってくれと去年から頼まれていたのはお世辞ではなかった。こういう友人のお陰で、イタリアで今まで生きて来られたのだと改めて感謝している。

7月X日16:00自宅にて
「Esa」譜読み。明らかにオリジナルの素材を貼り間違えた場所があって、直すべきか随分悩む。間違いにも後天的に理由付けが可能だというドナトーニのスタンスを知っているので足が踏み出せない。多かれ少なかれ誰においても言語は、そうした小さないい間違えと、無意識的、意識的なこじつけの連鎖によって成立する。思いがけず出てきた言葉に合わせ、次の単語を無意識に選択し、構文を選択していきながら、韻を踏むなり、外すなりし、言葉が一つの形態を次第に整えられていく。ごく当たり前のことだ。
閑話休題。少なくとも今回の貼り間違えに関しては、いくら探しても何らメリットも見出せないので訂正することに決め、補足としてオーケストラへ送るメモに書き足した。
この万華鏡のような音楽は何だろう。素材が元来持っている方向性、重力を否定し、一つ一つをコンテキストから取外して組立てると、そこに後天的な意味すら充分に見出されるのである。
繰り返しが描き出す模様が次第に減って、「In Cauda I」でブランドリーノ・ブランドリーニが書いたテキストのように、宇宙へ全ての素材が解き放され漂うようにもみえる。
ケージとの出会いで生まれた偶然性、古典的な作曲に回帰しながら自己の介在を否定した自動書記、自動書記に纏わる誤りにおける後天性の理由付け、それらは最終的に「Esa」において素材のシャッフルという形に帰結する。全てはドナトーニの肉体から引きはがされたドナトーニが操作した結果だ。ペッソアのように自分があって、自分であって、自分ではなく、自分はない。

「どうも誤解があるようだ。なぜならわれわれの言葉は正確ではないからね。感情と魂は何ら関わりがないのさ。感情はうつくしい魂を作りあげる自意識過剰のブルジョアのセンチメンタリズムが作りあげるもので、抽象化された理念はその自意識過剰の自我とは無関係なんだ。この死んだものが、感情なんだ。この死んだものが、主観なんだ。心理学的な意味にいおいて自我はもちろん死んではいない。われわれの内側で何時でも息づいているからね。でも主観なんてものは、今日もはや何も信じることは出来ない。主題(テーマ)はもはや存在しない。ただ、われわれの内面に無意識に動きまわる感覚というものがあって、その感覚こそが我々のその他の感覚をみちびいている。ぼくは作品を書くとき、無意識で自覚もない、この感覚の仲介役になっているわけさ。では無意識とは何だろう。それは意識的には望まれていないこと。それはまだ合理的ではないこと。だから表明された感情なんていうのは、死んだんだ。たとえば愛情をつき動かすにせよ、この意味において、もはやレゾンデートルすら存在しない。なぜなら、二人の関係は感覚によって結ばれるものでも、感情によって結ばれるものでも、愛情によって結ばれるものでもなく、物質によって結ばれるものだからさ。現在、興味があるのは、書くことではないんだ。なぜなら書くことによって存在を、イデオロギーを、さもなければ革命を、伝えなければならないからだ。書くことは個人的な鍛錬であって、自らに改革を起こすべく、自分自身を見出すことなんだ。自らの内面に向かわない限り、何ら向上は望めないというウェーベルンの言葉を思い出せば充分だろう」。(フランコ・ドナトーニ1982)

オトメンと指を差されて(50)

大久保ゆう

みなさま、夏でございます。蒸し暑い日々が続いておりますが、こうなると何かしらひやりとするものが欲しくなって参りますよね。いつもならばオトメンらしく、そこで氷菓子やら冷スイーツなどなどをご紹介するところですが、いやいや怖い話、背筋の凍る怪談も捨てがたいわけなのです。

以前にホラーを見ると大笑いする、という私の奇癖についてお話したかもしれませんが、他人が(生命の大事に関わりない範囲で)怖がるというのも、これまたひとつの愉悦。おかげさまで恐怖小説の朗読のために訳稿を拵える仕事もしておりますが、では時折オリジナルのものを作るのかと聞かれることもございまして。しかしここが悩ましいのです。

なぜか私が怖いと思うものを人様にお話しすると、首をひねられるか、お笑いになるかで、ちっとも怖がってもらえないのです。えっ? 自分が怖いものを見聞きして笑うのだから、相手が吹き出しても何もおかしくないじゃないかって? いえいえ、そもそも私は、人様の恐れ怖がるものを〈勝手に〉笑っているだけであって、その恐ろしいものが本質的に笑えるものではないのです。ですから、〈怖いんじゃないかな〉と思うものは、やはりみなさんにとっても恐ろしいものであるはずなのです、よね?

たとえばひとつ例を挙げましょう。

あるところにひとりの大学生がおりました。その方は毎晩、夢枕に幽霊が立つもので、金縛りに合ってたいへんうなされておりました。あるとき、その学生は幽霊がいつも何かを呟いていることに気が付きました。耳を澄ませてみると、幽霊はこう言うのです。「見つからない、見つからない。」いったい何が見つからないんだろう、学生はこう感じて、ついに幽霊のことを調べることにしました。大家さんに聞いてみると幽霊の身元はすぐに判明しました。何でも何人か前の住人に翻訳家がおり、外出したときに車にはねられて死んでしまったと。化けて出そうなのはそいつしかいない、ということでしたが、結局何が見つからなかったのかはわかりません。「見つからない、見つからない。」学生は夜に現れた幽霊に思い切って聞いてみました。「何が見つからなかったんだい?」するとその翻訳家の幽霊は、悲しそうな顔をして、6文字のアルファベットを声に出して、ふっと消えたのです。むろん学生は早速その言葉を辞書で引いてみます。ところが、色んなサイズの、様々な言葉の辞書を引いてみましたが、そんな単語はいっさいないのです。また大家さんと話してみると、ああそういえば、とさらなる情報が入りました。そのときその翻訳家が訳していたある本の題名を教えてくれたのです。そこで学生は書店へ行って原書を買い、目を皿のようにして確かめたのですが、どうにも原書にもそんな単語はありません。結局何がどう見つからなかったんだろう、と思っていたのですが、ふと何となく大学の図書館から版の古い原書を借り出してみると……なんとその言葉がありまして……そうなんです、その翻訳家、原書の言葉がわからず考えあぐね、図書館へ調べものをしようと出かけたときに交通事故にあったのですが……その単語は、〈誤植〉だったのですッ!

ぎゃあああああああ。さらにさらにもうひとつ。

ある翻訳家がエッセイを訳しておりました。それは先頃自殺した作家の絶筆で、その訳者さんは長年その人の書き物を訳してきていて、ほとんど専属に近いといってもいい人でした。ですから相手の言いたいことや考えもわかって、いつもすらーっと訳せるんです。ところが、そのときは、不思議とある一節で止まってしまって。何てない文章なんです、文法も正しいし、意味もまあわかる、他の人からすれば普通の表現なんですが、その人はなぜだか引っかかって、言葉にならない、訳せない、というのも何と言うか、単語の選び方、これがいつもの相手じゃないんです。だから相手のヴォイスというか、声に乗ってこない、なってくれないわけです。おかしいな、おかしいな、何でなんだろう、うまく行かないな……とその訳者さんは思っていたのですが、そんなときいつもやることがありました。癖というかコツというか、原文を書き写すんです、いわゆる写経で、これが不思議なもので、わからない文章でも一字一句写しているうちにだんだんとわかってくるものでして。で、わかるまで様々な形で書きまして、そのままのときもあれば、文章をぐるぐる円状にしたり。そして、ふと何とはなしに一単語ずつ改行してみたんです……実は、その訳者さん、相手の作家とは面識があって、対談やプライヴェートで会ってて、もちろん訳すときの苦労や癖も話していまして……はっとしました。一つずつ縦に並べた単語の先頭のアルファベットをつなげて読んでみると…… タ ス ケ テ コ ロ サ レ ル!

ぎえええええええええ。

なんて恐ろしい。身体の震えが止まりませんよ。ひええええ。……あれ、……う〜ん、……どうやらやっぱり、怖さが伝わっていないみたいですね。なんでなんでしょう。

ん? んん? ……今気づいたことがあります。えっと、人様の怖いものが私は面白いんでしたよね。でしたら、もしかしたら私の面白いものこそ人様に怖いんであって、これみたく、私の怖いものはむしろ人様には失笑もの?

……あらあら。困ったものですねえ。(おしまい)

オチャノミズ(その3)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

ギターを売る店はよく覚えていて、どの店も案内してもらわなくても行けるくらいだ。10年ほど前ギターを修理してもらったカワセという店などとくによくわかる。店主は相変わらず愛想がいい。ただ髪に白いものがふえたことと、動作に機敏さが衰えたことに時の流れを感じる。彼の方ではわたしが誰だか覚えていないに違いない。何百、何千という客がこの長い年月、日々入れ替わっていったことだろうから。

ショーケースの中には高価でまぶしいようなギターがいくつも並んでいた。正札の数字についているゼロの数は数えたことがない。最初の数字をぱっと見ただけで値段がわかるから。円というのは数えやすい通貨だ。何年も前から円はわれわれ貧乏人には垂涎の的だったのだが、世界中の投資家にとっては一層垂涎の的であろう。

「あれ見ろよ、100枚以上だぜ」わたしは友にささやく。とても自分の手に届くものではない。100枚どころか20枚ですら考えられない。枚が何かって、マン、つまり万札のことだ。

50年代のものかそれより古いギターはアメリカから買い占めてきたものだ。日本というのはこういうところだ。ギターだろうと古いジーンズであろうと、ほとんど全部を買ってきて、今ここで見ているようにショーケースに飾っている。

弦とボディとからは実に美しい音色が響く。ボディの木が硬いのはいいギターの証である。歳月がたつほど木はさらに乾燥してくるが、それがまたギターの価値であり値段でもあるのだ。

「あれはぼくとおない年くらいだな」わたしはユーゾーさんにつぶやく。
「ぼくはもう何年も見てるよ」と、彼は眼を輝かせてささやく。いつもの笑顔で。

朝10時に目覚ましをかけてここへやってきたのだ。できるだけ多くの時間をここで費やしたい。日本では、たった一ケ所に来るだけで1日が終わってしまう。

ギターを売る店は30軒以上ある。全部に入る必要はない。10軒ですら無理というものだ。いずれにせよ、あの高いギター、あれが自分のほしいものなのだ。でもそれを買う、という意味ではないが。けれどもそれが自分の欲求でありこころの奥底にある希求なのだから、今のこの状態は、欲求を刺激して全身から瞳に至るまでを湧き立たせているようなものである。

日本へ来るたびにわたしはこの街へ来ている。大して買うものがなくても何かしら買い物をする。少なくともギターの糸とか、ピックやカポタストとかを。アメリカのギターのほかに日本の古いギターでもいいものがあって捨てがたい。知っている限りでは初期の日本のギターはアメリカのものをコピーして作っているからだ。日本というのはまずコピーから始めて徐々に追い越し、ついには先頭に立っている、そういうところがある。

犬狼詩集

管啓次郎

  73

つつじとポピーと蒲公英の共存が異様なほどはなやかな朝だった
タンポポがひたひたと水に浸る野原の夢をよく見る
心にいくつかのrefugeが必要だとは以前から提議されていた
鳥たちが大勢集まってくれたがその名も言葉も知らない
日没を迎えて西の稜線が星のようにくっきりした
創造が可能で創造が瞬間の中にあるなら今がそれかもしれない
砂浜にむかって砂が打ち寄せる海岸を乗組員たちはめざしていた
木造の小屋を中から突き破って樹木が孔雀のように羽をひろげる
瞬間と瞬間が断絶してそのすきまで何かが生まれるらしかった
砂にむかって砂よ上陸せよ砂のための城砦を自己実現してごらん
詩はreminderでありいつも何かを思い出させていた
日本語の構文が少しずつまちがった英単語を海綿のように吸収している
母になりすますとき私は普段とは別のアクセントで話していた
いつもあちこちの路上の言語を適当に組み合わせて使っている
かれらの大きな問題はこのあたりの地名を知らないことだった
何もないと見なしていい地点だって実在と意味とオゾンで充満している

  74

「見せかけの自伝」という題名のラテン語訳をラテン語教師に相談した
黄砂が降りそそぐ街角で道路は勝手に波動する
鉄道の遅れはロバが線路を歩いていたせいだった
セント=キルダの砂浜ではアザラシに犬が吠えている
海進はさほど昔のことではなく水はここまで来ていた
小島だった小高い丘にかりそめの祭壇を作る
名前を概念化し表情を図案化した
花粉の団子を与えて抵抗力をつけさせている
花を欠くとき花柄のシャツを着て花の季節を追悼した
タロとヤムとコンニャクイモの区別を地元の中学生に教わっている
指をそのまま彫り出して指環に見せる技が開発された
どうしよう足が痛くて今日はもう歩けない
3ピースの少女ロックバンドが驚くべきデビューを果たした
花粉を床にしいて黄色い光を部屋に充満させる
同期を失ったテレビにときどき過去が映っていた
木製のはきものの花緒は白黒紅の三色で染められている

  75

ミントが香る小路に逃げこむようにして曲がった
衰弱した巨大なマスチフが寝たまま尾を振っている
幾何学的にはこの都市の地形はいくつかの円錐体だった
道標のようにコーヒー豆を落としながら進む小学生がいる
光の髭に包まれた篤学の長老たちだった
朝をライムのようにスライスして窓ガラスに貼りつける
午前七時にモーリタニア人とスペイン語で挨拶を交わした
十分な上昇気流がなくて砂埃が舞い立たない
メスキートの藪からたぶん鶉が飛び出した
鉛筆を削るためにきみと物置小屋に入る
このシャツを最後に着たのは二〇〇二年夏至のパリだった
ある名は何度も口にされ、ある名はけっしてされない
“A perplexing question” と円卓が突然にしゃべりだした
ヘブライ人の問いには輝くてんとう虫を対置する
この店の裏に鹿が来ることもあると女主人に聞かされた
掌の跡をそのままで崇拝の対象とする宗教があるようだ

  76

ポラロイドで身の回りのものを撮りコラージュを作っていた
心の崩壊と統合はつねに同時に起きている
コーヒーカップの赤が妙に鮮やかに見える朝だった
電車の窓ガラスにオレンジ色の口紅で女が長い線を引いてゆく
Over the rainbowという想像力が恐ろしくて震えたことがあった
神にフィルムはなく精霊にフォルムはなくかれらはすべてを忘れる
津波の動画を百一回くりかえし見たとき記憶の組成が変わった
つながりが見えない語と語の間に螢のような存在が住みつく
土地の「遠さ」を忘れることをみずからに禁じた
あの哲学者は州間高速道路でも方角を見失うらしい
未舗装の道を五時間走ってやっと村に着いた
教会の奥の祭壇から声が聞こえても絶対に見ないほうがいい
経験が見出した法則以外は空論にすぎないと先生に叱られた
雨が上がって二時間してやっと飛行が可能になる
虹の出現は予測可能だがそれでも虹を見ずにはいられなかった
悲しみを灰色と呼ぶのは間違いでいつも虹と希望の色をしている

  77

水溜まりの泥色の水面に古代と昨日が同時に見えたようだった
海の清浄に比べてなぜか沼にはいつも不安になる
自分に投錨地があるとしてそれは現代のうちに探すしかなかった
自然遷移で森林化するより早く虹の下まで逃げてゆく
クーガーマウンテン以前のおれなんておれですらなかった
皮膚を刻むことでかれらは自我を表面化する
燃えるスカラベを掌に載せて森のはずれに立っていた
スプーンからスープの表面へと稲妻がバチバチ飛ぶ
「十代終わったんだなあ」と早朝の路上で晴れやかに叫ぶ娘がいた
アサイの果汁の色のドレスをずっと探している
詩を救出するのはいつも動物の不意の出現だった
視野の端から端まで光が何度も往復する
台風がこれから通過する都市を一歩も出る気がなかった
巨大な藍色の瞳の奥で星たちがまたたいて見える
コップ半分以下の排気量であんなにスピードが出るなんてと驚いた
目を慣らす訓練が必要だがそれだって脳の問題だ

  78

Blade runner といっても刃の上を俊敏に走ってゆく人ではなかった
切断された脚の代わりに独特なばねを使って彼女は走る
ボルトとホイペットの競走では圧倒的に後者が速かった
蓮の葉をわたる競技では誰(どの動物)が勝つかを賭けてみる
鉄道員だった父親にベラクルス州のすべての駅名を教わった
標高と気分の関係を彼女はいつも正確にモニターしている
フラメンコを踊れなくて裸足でフォックストロットを踊った
肩越しに梅雨空とスカイツリーが見えてついクリスマスと破滅を考える
参会者たちがメビウスの環のスナップ写真を撮りまくっていた
アメリカ軍のヘリコプターが頭上を無音で通過する
韓国とペルーのコーラの味の違いを議論する人々がいた
すべてがメキシコに救われるときわれわれは死とも和解する
おれの仕事はひとつの場所に留まることで初めてなされると友人がいった
「火星人」が到着して「すばらしい、珍しい」と感嘆を隠さない
通信の不思議に私たちは心を燃焼させた
私の最終的な単語をWhy?として本日の挨拶を終える

犬の名を呼ぶ(3)

植松眞人

散歩に出かけようとして、ドアを開けた瞬間だった。ブリオッシュが駆けた。ずっと以前から、いつか逃げ出してやろうと虎視眈々と狙っていた、という感じではない。ただ、ドアの隙間が自分の通り抜lけられるぎりぎりの広さになった時にまるでスイッチが入ったかのように駆け出してしまった。そんなふうに、ブリオッシュは高原の目の前から消えた。

いつもなら、きちんとリードを付けて、スニーカーを履き、糞の始末をするための道具を入れた小さなショルダーバッグを持ってから、ドアを開けているのに。なぜ、今日に限って半年間も毎日行っている手順の通りにしなかったのだろう。

ブリオッシュが逃げ出したことよりも、そのことの方が気になり高原はしばらくの間立ち尽くしていた。天気が気になってドアを開けたのだったか、何かの物音を確かめようとしたのだったか。なんにせよ、いつもと違う手順のせいで高原はブリオッシュを見失っている。

すぐに後を追いかける気にもなれず、高原は玄関のあがりかまちに腰掛けて小さく息をついた。どこを探せばブリオッシュに会えるのだろう。とにかくいつもの散歩道をたどってみようと高原は思った。あれだけ大きな犬なのだから、すぐに見つかるはずだと思い、そのすぐ後から大きい犬が町をうろつく姿を思った。

この家に連れて来られた時には、まだ小さな子犬だったゴールデンレトリバーも半年ですっかり大きくなった。年々、体力の衰えを肌で感じている自分への当て付けかと思うほどに、すくすくという音が本当に聞こえそうなほどに、順調に育った。大きさだけなら、もう立派な成犬だ。しかし、その内にはまだ未成熟な甘えがあり、道行く見知らぬ人にも唐突にじゃれついたりすることがあった。そんな情景を思い浮かべた途端、高原は立ち上がった。世の中は犬が好きな人ばかりじゃない。そんな人にあんな大きな犬がじゃれついたら騒動が起こってしまう。もしかしたら、驚いて怪我でもさせたら大変だ。

高原はドアを開けて外に出た。いつもの散歩道をいつもよりも、ほんの少しだけ速く歩いた。歩き始めてすぐに、高原の息は切れた。息が切れて初めて、高原は、自分がブリオッシュの速さで毎日歩かされていたのだということに気付いて苦く笑う。

「うちはマンションだから飼えないんだけど、私も聡子もこの子が気に入っちゃって」
と、無責任きわまりない言い訳をしながら、まだヨタヨタとしか歩けないゴールデンレトリバーの仔犬を、娘がこの家に持ち込んだ日のことを高原は思い出していた。

金魚さえ飼ったことのない俺に犬なんて飼えるか!という一言が可愛い孫娘の前では出てこない。こちらが黙っているのをいいことに、娘は亭主への愚痴と、犬を飼うためのあれやこれや一式を残して、あっと言う間に帰っていった。可愛い孫娘は車の助手席の窓を開けて、「おじいちゃん、元気でね」とでも言うのかと思っていたら「ブリオッシュをいじめないでね」と念押しする始末。

「ブリオッシュ…」

高原はほとんど初めてブリオッシュの名前をまともに呼んでみた。それでも恥ずかしくて大きな声では呼べない。何度も何度も小さな声で「ブリオッシュ、ブリオッシュ」と繰り返しながら歩く。ブリオッシュとならすぐにたどり着くはずの小さな公園がやっと今頃になって目に入ってきた。少し小高くなった公園へのほんの数段しかない階段を、手すりをたぐるように上がる。一人で歩いてみて初めて、ここまでの道のりが案外遠かったのだと気付く。本当に小さな公園だがその真ん中に一人で立って見ると、いつもより広く感じられる。

公園には二人がけのベンチがぽつんと置いてあり、他には水飲み場があるだけだ。時折、ブリオッシュにここで水を飲ませたりしていた。そんなことを思いながら、高原は勢いよく水を出して顔を洗った。最初は生ぬるかった水が少し冷たくなり、それを口に含んでみる。濡れた顔を拭こうとポケットのハンカチを探すが見つからない。水滴が頬を伝う。高原はその水滴を払うために首を左右に振ってみた。まるで、ブリオッシュのように首を振ってみると、ほんの一瞬、犬の喜びのようなものを感じられた気がした。自分で起こした風が気持ちよかった。ブリオッシュになった気持ちで公園の真ん中で足を踏ん張り、これから行く道を見すえた。公園の向こうは二手に別れていて、いつも行く道が右側に伸びていく。もう一方の道は左へぐいっと逸れている。

高原は思った。きっと今日、ブリオッシュはいつもとは違う左側の道を選んだのだろう、と。そして、この道をたどりもう少しだけ歩けば、きっとブリオッシュがいて俺の方をすまなさそうな顔をして見ているのだろう、と。もし、本当にそうなったら、俺はその犬の名をいつもよりも大きな声で呼んでやろう。高原はそう思いながら公園を出て左側の道へと歩き出した。

アジアのごはん(48)口の中の金属

森下ヒバリ

七月から新しい歯医者に通い始めたのだが、二回治療したところで、タイへ来るために休止中だ。この歯医者は、金属アレルギーに配慮してくれるところで、初日にさっそく、いちばん違和感を感じていた差し歯に近いような歯を外してもらった。

すると、すっきり気持ち晴れ晴れで、歯医者を出てから三軒も寄り道して買い物に走り、その後三日間はハイテンションで元気にあふれていたのである。二回目に差し歯の芯を樹脂にして仮歯を入れたとき、「前回はずしてどうだった?」と先生に聞かれ、「三日間すごく元気でした!」と答えると「三日だけか〜」と笑われた。

金属アレルギーがあるのではないかと、思い始めたのは長年はめていた銀の腕輪やピアスが気持ち悪くなった五年ぐらい前のことだが、歯の治療に使う金属のことまではあまり考えていなかった。

食物アレルギーは、乳製品とか大豆とかいろいろあるが、食品に含まれる金属によってもアレルギーが引き起こされるということも知って、どうもそちらの反応もあるかもしれないと疑いを持っていた。ナッツや豆の皮、胚芽などには金属が多い。

学生時代からたいへんな肩凝りで、これがなくなったら人生はどんなに素晴らしいかといつも思うほどなのだが、いろいろ体操をしても治らない。頸椎がゆがんでいるのかというと、そんなこともない。緊張する体質だからなのか。

首筋があまりに張るので、歯が悪いのが原因かと歯医者に通い、治療するが治らない。治療した歯も違和感いっぱいで、ぜんぶはずしたい(泣)。歯の金属の詰め物がよくはずれる。タイやラオスで主食のモチ米・カオニャオや固い肉など噛んでいると外れてしまうのだ。日本でそのころの歯医者の先生に「キャラメルとか食べちゃダメ」と怒られたが、いえ、モチ米なんです、と言っても通じない。

しかし、タイ人やラオス人が歯の詰め物をしょっちゅうはずすとは聞いたことがないし、わたしよりモチ米好きの友人も外している気配はない。もしや、モチ米が悪いのではなく、わたしの体が詰め物を拒否しているんじゃないのか?

そう思い始めたころ、バンコクでたまたまOリングテストに長けた友人と一緒にご飯を食べていたとき、がきっと口の中に違和感がしたと思ったら、また詰め物が外れた。Oリングテストは指で作った輪が開くかどうかで体の反応を見るテストで、たとえばある薬がその人に合っているかとかが分かる。

「これが体に合っているかどうか、チェックして〜!」たったいまはずれた詰め物を、店先で人目をはばからず友人にチェックしてもらうと、やはり合ってない。しかも首筋の凝りにかなり反応した。あ〜。

日本に帰って、金属アレルギーで検索してみると京都にもいろいろな歯医者があった。セラミック至上主義みたいなところも多い。セラミックも夢の素材ではないし、ふと思いついてOリングテストで検索すると、あるじゃないすか。Oリングテストで体に合う素材を探して治療してくれるという歯医者さんが。

だいたい医療保険のきく金属は体質に合わない以前に人体に有害な金属ばかりなのだという。金属アレルギーじゃなくても、体は苦しんでるわけだ。保険外ということは、つまり、かなり治療費はかかるかもしれないが、この口の中の違和感と肩凝りが治るなら、貯金をはたいてもいいです。

と、決心してその歯医者さんの住所と電話番号をメモし、ボードに張ったものの、とくに痛くもないのになかなか歯医者さんに電話する気にならない。歯医者は子どものころからずっと苦手だ。

来週、来月とのばしのばしにすること半年。近所の自然食喫茶を営む友人が、「すごい歯医者にこの間から行ってんねん、金属の芯の入った歯をはずしたら、もうすか〜〜っとしたわ」と満面の笑みでいう。もしや、その歯医者さんて・・。その日のうちに先延ばしにしていた予約の電話をかけた。ちなみにその友人も首筋の凝りは相当なものを抱えているが、金属アレルギーではありません。

というわけで、二回治療したところで、タイへ来るために治療はお休みなったわけだが、八月のバンコクの気温は33℃から35℃と、じつは日本よりちょっとだけ涼しい。雨季といっても基本はスコールで、一日降り続くタイプではないから、そんなに湿気もない・・はずだったのだが、バンコクに来てみると雨が多くて、湿度が高く、実際の気温より暑く感じるではないか。こんなはずじゃなかった。そう、夏のタイへの旅は避暑(の、つもり)なのである。

こんなことなら、関西電力本社前のデモにも行って、歯医者に通いつめればよかった。いやいや、京都のアパートにはクーラーがないからあのままいたら熱中症で倒れるかもしれないし、とデモや歯医者より旅を選んだのではあるが。じつはかなり真剣にタイに来る前に旅をやめて、歯医者に通おうかと考えた。それほど、歯医者に通うのが楽しみでしょうがない。今まで生きてきて、初めての気持ち。

学会と観光

冨岡三智

先月7月のはじめに、インドネシアはスラカルタ(通称ソロ)市で開催されたアジア歴史家国際学会(IAHA)に参加した。ソロでの開催、主催はインドネシア教育文化省、協力がインドネシア観光創造経済省とスラカルタ(通称ソロ)市(+当然いくつかの歴史学会も協力)とくれば、私としてはなんとしても参加したい。インドネシア政府の観光政策をもてなされる側として体験する良い機会なのだ。というわけで、この「学会つき観光」の発表に応募。その学会内容はさておき、今回体験した観光内容について書いてみたい。

まず、スケジュールを記すと、

学会会場: ホテル・サヒッド・ジャヤ(旧名ホテル・サヒッド・ラヤ、ガジャマダ通り)

7月2日(月)受付。夕方からクラトン(=カスナナン宮廷)にてオープニング・パーティー。
7月3日(火)8:30〜5:30学会、夜はホテルで学会員だけのディナー。
7月4日(水)8:30〜3:30学会、夕方、ダナルハディ博物館見学。市長公邸にてディナー
7月5日(木)8:30〜夕方、プランバナン寺院にてクロージング・ディナーののちラーマーヤナ・バレエ鑑賞
7月6日(金)午前中、希望者のみサンギラン(ソロ原人の化石が出た所)へのエクスカーション。

●7月2日
ホテルからクラトンまで、私はてっきりバスを出すのだと思っていたのだが…、なんと、ホテルに大量の馬車が集められ、学会参加者全員が三々五々馬車に乗せられて行くという羽目になる。この展開は私の予想外。学会参加者は予定だと300人近く、結局来なかった人も多いが、少なく見積もっても200人くらいはいたはず。1台の馬車に4人ほど乗り合うので、50台くらいは馬車が集められた計算になる。これだけの馬車が、このパレードのために特に交通規制もしていないスラマット・リヤディ通りの端を通っていくのだから、えらい渋滞。バスで行けば10分以内で着く距離に、1時間かかった。このサービス、私たちの方こそ見世物にされているみたいで、私の周りの参加者にはえらい不評であった。ちなみにこの馬車、会議の偉いさんたちが乗った豪華なやつは市役所所有で、他は個人業の人たちに動員をかけて集めたらしい。時々、イベントで動員されるのだと、私たちの乗った御者のおじさんは語っていた。

クラトンに着くと、なんと正面の中央扉が開けられている。正面には3つの扉が並んでいて、普段は、中央の大扉は閉まっており、左右の扉から出入りする。中央扉が開けられるのは、位記念式典の日、ジャワ暦大晦日の夜、市内を巡航する宝物(槍など)を持った宮廷の人々が中から出てくるとき、など限られた時しかない。これは、この学会が宮廷の一級の賓客としてもてなされたということなのだ。それも、私たちが、教育文化省つまりは国のお客様だからだろう。

開会はホンドロウィノというガラス張りのレセプションルームにて。開会の挨拶が終わり、食事(ビュッフェ式)の間、女性舞踊「ブドヨ・ドゥラダセ」(約30分)、男性舞踊「ウィレン・ボンドユド」(約10分)が提供される。王の即位記念日に上演される「ブドヨ・クタワン」だけは未婚の踊り手たちによって舞われるが、客人を迎えての場合は、結婚して「ブドヨ・クタワン」は引退したベテランの踊り手が踊ることも多い。私が宮廷の練習に参加していたときに現役だった人たちだ。さらに、王女の娘(先代の王の孫)も含まれている。その子たちはまだ初々しいが、宮廷はこの上演に力を入れているということがよく分かる公演だった。

●7月4日
ホテルから博物館を備えたバティックのお店、ダナルハディへは、歩いていくには面倒だが(日本国内なら歩く距離なんだけど)…という微妙な距離。ベチャででも行くのかしらん、と思っていたら、なんと大型観光バスが来る。そして、思い切り遠回りして10分以上かかってダナルハディに横付けしてくれるので、これまたどっと疲れた。しかも、突然、出発がスケジュールより1時間も繰り上げられる。しかし、ディナーの開始時間は決まっているから、バティック店見学のあと無意味に市内をバスで廻り、その間何の市内ガイドもない。あまりにも無駄な時間…。だいたいバス手配係からして、今自分たちのロケーションを全然把握していない。彼らはソロ地元民でなかったのだ。参加者が減ったから発表時間を削るというなら、休憩時間にしてほしかった。まだ次の日も朝8時から学会はあるのだから。明日の発表者は準備もしたいだろうに。

ダナルハディだが、ソロを代表するバティック企業で、この博物館は必見。ちなみにこの建物は、元はウルヨニングラットの屋敷。ウルヨニングラットというのは、カスナナン王家の王族で、インドネシアの民族独立運動ブディ・ウトモに参加した人として有名。博物館だが、ソロ今回は学会参加費に含まれていたけれど、普通は高い入場料を払う(今でもそのはず)。しかし、その入場料に見合う充実したコレクションで、スタッフもよく教育されていて、質問にも納得のいく説明をしてくれる。さすが私企業、公立ではこうはいかない。今回も私たちは特別扱いで、普段は禁止のカメラ撮影がOK。私が最後に来たのは2007年頃だが、その頃にはなかった「中国コーナー」の展示場が新しくできていた。3年ほど前にできたという。インドネシアで華人文化が復権したので、中国の影響があるバティックを展示してあるのだ。やっぱり、こういう博物館には時々は足を運んだ方がいいと実感。

そして、ディナーはロジ・ガンドロン(市長公邸)にて。これは市長主催なのだが、あいにく市長のジョコウィ(通称)は、現在ジャカルタの知事選に立候補して選挙活動中…。市長公邸はオランダ時代の建物で、ロジは「オランダの官邸」、ガンドロンは「恋する」という意味。その昔、このロジでは夜になるとオランダ人たちがダンス・パーティーに興じていたのを、地元のジャワ人が見て、オランダ人たちが恋し合っていると思った、というのが語源らしい。真偽のほどは知らないけれど。

ロジの車寄せに敷物を敷いて、ジャワの正装した男子が2人座り、1人はグンデル(ビブラフォン)を弾き、1人はチブロン太鼓を叩いている…のだが、唐突に入口の前に座っている感じといい、編成の不思議さといい別になくても良かった気がする。そして、中庭に出れば、クロンチョン楽団が待機していて、パーティー中音楽が流れていた。演奏はうまいと思ったが、BGMとしては音響の音量が大きすぎ、ひっきりなしに演奏されるので隣の人と会話するのが一苦労。

ここでも舞踊があったのだが、なぜか、今入ってきた中門の方が正面になっていて、中庭の奥にあるプンドポは使われなかった。ここでのパーティーには2回出席したことがあるが、2回とも、そのプンドポに偉いさん席が設けられて、そこで舞踊が提供されたのだが…。プンドポを使うまでもないという判断だったのかどうか、気になるところだ。

舞踊は2つで、マンクヌガラン宮廷提供の女性4人による「ルトノ・クスモ」と、市提供の舞踊。予算の都合だろう、カセットで上演というのがいかにも残念。ところで、スラカルタに政府関係の客人が来ると、最初にクラトン、次にマンクヌガランを訪れるのが普通なので(ちなみにダナルハディにもよく寄る)、今回マンクヌガランの正式訪問がないのはなぜだろうと、私は不思議に思っていた。ここでマンクヌガランの舞踊の上演があり、その前に、司会者が「スラカルタには文化の中心が2つあって、それはクラトンとマンクヌガランです」みたいな説明をきちんと入れていたので、これで一応フォローしたということなのだろうか。今回のディナーでは、いつもマンクヌガランでチャーター公演で仕事をしている人たちと再会したのだが(彼らは市の観光局勤務)、クラトンでは何を上演したのかと、こっそり私に聞いてきた。マンクヌガランの芸術を担当している王弟から、そのことを聞き出すように頼まれていたらしい。ということは、やっぱりマンクヌガランには気になるのかも。

もう1つの市の提供による舞踊「バンバンガン・チャキル(見目麗しい武将と羅刹=チャキルの戦い)」は、あまり上手くなかったのだが、踊り手はまだ若そうだし、まあこんなものかなとも思う。ちなみにこの舞踊は商業ワヤン・オラン系統の舞踊で、インドネシア独立前後頃にはすでにソロを代表する舞踊として著名。宮廷舞踊とは雰囲気がダブらないから、市が提供する舞踊としては良い選択。ただ全体として、この市長公邸での一連の演出はパッとしなかった。いったい誰がこの全体構成を考えたんだろう?というか、全体構成を考えた人はいたんだろうか?

●7月5日
4時にロビーに集合し、バスでプランバナンへ。現地6時頃着として、閉会式、ディナー、ラーマーヤナ舞踊劇鑑賞があって、9時半にはホテル帰着という予定だから、30分くらいにまとめた学会用別注・ラーマ―ヤナ舞踊でもやるんだろうか…と思っていたのだが、これも予想が外れた。劇場には私たち招待客以外に普通の観光客もいて、フル・ストーリーのラーマーヤナ・バレエを、普通に3時間やってくれる。終わったら既に10時半。一般公演を見せてくれるなら、終演時間はあらかじめ分かるはずなのに、なんで事務局はその辺をちゃんと押えないんだろう?というわけで、またしてもぐったり。公演を見に来るのが目的でここに来た人なら、公演が3時間でもいい。私個人としては満足。けれど、学会のついでに何も事情が分からないまま連れてこられた一行にとっては、苦行以外の何物でもない。夕方に、閉会のティーパーティをホテルで軽くやって、公演鑑賞はオプションツアーにしたほうが良かったのではないかと思う。バスで1時間半の距離、公演は3時間ということを明示した上で。もっとも、この夜のディナーと舞踊鑑賞を主催した観光創造経済省としては、ぜったいにこの場所に一行を連れてきたかったんだろうけど。

ディナーに関しては、昨日とは違ってBGMは音量が控えめで、落ち着いて話ができる。プランバナン寺院も真ん前に見えるし、いい雰囲気だ。ビュッフェの食事もおいしい。さすが、市より国の方が予算は潤沢なよう。工芸品のお土産つきである。しかし、劇場のトイレがだめだった。女子トイレはたった3つしかないのに、3つとも壊れている。しかも前半と後半の間の休憩時間はたった10分。これに私はぶち切れたので、教育文化省の芸術局長(ここには来ていない)に苦情のSMSをする。今回だけに限らないが、インドネシアの人たちは、トイレやインフラ整備でサービス・レベルに差がつくという自覚がないので、壊れているトイレや水の出ない水道を平気で放置する。予算がないとか、トイレタリ用品の質が悪く壊れやすいというのもあるだろう。けれど、無駄に観光に連れまわしたりお土産をつけたりするお金があるなら、劇場のトイレの修理&増設に予算をつけてほしい。

ラーマーヤナ・バレエの方だが…思った通りロロジョングラン財団の団体が上演。ラーマーヤナ・バレエは、現在ではジョグジャカルタ近郊のいろんな舞踊団が順番で上演するが、ここが一番古い。ラーマ役はパ・テジョでロロ・ジョングランのラーマといえば彼。そして、彼の息子がラーマの弟役をやっていた。ちなみにこのラーマーヤナ・バレエもソロで作られた。ラーマーヤナ・バレエは1961年にインドネシア初の本格的な観光舞踊として始まったものだが、この国にしては、すでに伝統舞踊の域に達している。しかし、ラーマーヤナ・バレエ初演当時にはフル・ストーリー編はなくて、全体を6エピソードに分けて上演した。今ではフル・ストーリー上演の日と6改め4エピソード(よって、4日シリーズで完結)上演の日がある。

今回のフル・ストーリーの公演を初めて見て気づいたのだが、これはラーマの弓取り?姫取り?の場面から始まる(もうちょっと前の場面だったか?)。シータの父王が、強弓を弾くことができる者にシータを与えるというお触れを出して、ラーマがそれを弾いてシータを妃にもらうというシーンだ。このシーンは、ラーマーヤナ物語を舞台化する上では普通入れられるものだが、実はオリジナルのラーマーヤナ・バレエにはこのシーンはない。オリジナルの第1エピソードでは、放逐されたラーマ、シンタ、ラクスマナの3人が森に登場するというメルヘンチックな場面から始まる。

ラーマーヤナ・バレエは元は満月の日をはさんで上演されたので、プランバナン寺院の上空には満月(に近い月)がかかっている。そこに、「パダ〜ン・ブラ〜ン…」と女性の独唱。満月の月が煌々と照り映え…という歌詞で(曲はキナンティ・ジュルデムン)、その声に誘われるようにラーマたちが登場するという具合で、ジャワ語の歌詞が分かる者には感動的な登場の仕方なのだ。往年の出演者にインタビューしても、その登場シーンが、インドとは違う、ジャワ・オリジナルの、斬新なラーマーヤナなのだという声が多い。(カスナナン宮廷詩人が書いたラーマーヤナを基にしている)今回も「パダ〜ン・ブラ〜ン…」の歌で始まったので、私も期待を込めて舞台を見つめていたら、割れ門の奥から登場したのは司会だった…。いきなりがっくりくる。この演出はないだろう。オリジナルを知らない人には分からないかもしれないけれど、これではせっかく作られた舞台の世界が台なしだ。

さらにこの後に続いたのが弓取りのシーンも、長すぎた…。そのくせ、それ以降にあるいくつかの見せ場の戦いのシーンが、どれもあっけなく終わってしまって不満が残る。練習時間不足か?(戦いのシーンというのは、普通、戦う2人の舞踊家どうしで打ち合わせて決める)。時代劇みたいに、息つく間もないほどの緊張した戦いのシーンを、これでもかと見せてほしい。最後に、ラーマーヤナ・バレエ一般の課題なのだが、群舞のシーン(とくに女の子)には、あまりうまい踊り手がいない。プランバナン寺院を借景にした大きい舞台だから、未熟な踊り手では間がもたないのだ。

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7月6日は参加せず。というわけで、言いたいことも山のようにあったが、有意義な学会観光だった。インドネシア側の段取りやらに不満はあるとはいえ、日本でこういう観光とタイアップした学会開催は難しいかもしれない。今回参加した日本人参加者から、その人が参加するある学会が国際大会を日本でしたとき、観光とタイアップしようとしてうまくいかなかったという話を聞いた。その点、インドネシアでは、観光は重要な産業だと認識されているから、観光に関してはとにかく官民一体で頑張っているという感がひしひし伝わってくる。こういうところはやっぱりインドネシアに脱帽だ。

ただ、インドネシアの弱点は、上で述べたようなインフラ以外に、全体像を示すことができない点にある。会議参加者がソロに来て一番知りたいのは、ソロがどんな街かということと、連れて行ってくれる場所の説明なのである。ソロ市の地図とか、カスナナン宮廷、マンクヌガラン宮廷の観光用チラシ、ロジ・ガンドロンのいわれについてのメモ、ラーマーヤナ・バレエのあらすじ(劇場には備え付けでおいてあるけれど)などを学会キットに入れておけば、参加者の記憶にも残り、今後の観光促進にもなるのに。インドネシアでは、今回に限らず、そういう点の努力が足りない。それに、せっかく研究者が大量に来ているのだから、ダナルハディの近くにある本屋や、ホテルの向かいにあるモニュメン・ペルス(プレス関係の博物館)も案内すれば、ソロについて関心を持つ研究者も出てくるかもしれないのに…。観光が芸術とだけしか結びつかないというのも、だめだなあという気がする。

おみなえし

大野晋

夏も盛んになってふと窓の外に女郎花と吾亦紅が欲しくなった。

欲しくてたまらなくなったので、相模原の植木市場に出かけた。運よく、大きな女郎花の株と吾亦紅の鉢を手に入れ、帰宅した。植木屋の季節はいつも早い。夏の中盤過ぎになって咲き誇る女郎花と吾亦紅が盛んに咲いている。少しずれた季節を見ながら、暑い夏の窓辺から女郎花の黄色い花と吾亦紅の赤い水玉のような花を見ているとやがて来るであろう晩夏の訪れを感じるような気がしてくる。

それでも、ふと、季節を忘れて外に飛び出すとやはり暑い。今年は特にとんでもなく暑い。

季節外れの台風がもたらした塩害の被害で、一部が枯れたようになってしまった木々の様子見がてら、週末の夕方、水やりをするのが日課になった。

水をやりながら草木を見ていると、ぎんぎんに暑くなった庭の傍らの、隣堂の葉のわきに小さなつぼみがついていた。そうか、着実に秋が来る。

夕刻を馳せる

璃葉

紅茶を一杯 煙草を2本

窓の外は少しずつ暗くなる
鉱石ラヂオから流れる未来の声

煙とノイズ混じりの世界をかき分けて
見えない音に一体どこまで耳を傾けられるだろうか

雲の逃亡 風の警告 空気の飛散 熱室の迷路
海の泣き声、木の幹の嘆き、街の隠し事、魂が消える音

耳を澄ませて聴かなければ
その奥がどうなっているか

城に籠る弱い鳥
ヒトの怒り 
ひとつの風は疑問を投げかける

また一日が終わった

何も聞こえないまま

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まのじ庵

笹久保伸

「なんだか背中や腕が痒いね、乾燥しているせいかしら?」
外では原発反対派によるデモ行進が続き、行方不明の鳥達が行き先もなく定峰峠へ向かって飛んでゆく。
「こう寒くては仕事も進まないし、アイスでも食べたいね。」
そうだね、冬の寒い日だけど、季節に関係なくアイスを食べたくなるよね。
わかった、じゃあコンビニで買って来ようか?
いや待てよ、そう言えば誰かが定峰峠にあるアイス屋の話をしていたね。
ちょっと行ってみないか?たぶん30分くらいで行けると思うよ。

外では細かい塵のように軽い雪が降っていて、その雪は地面に落ちても、息を吹きかければふわりと、落ちて来た時と同じ様にまた軽く飛んでゆく、
そういう雪だった。

さっそく車を走らせ定峰峠へ向かった。
一体いくつの曲がり角を曲がったのか、はっきり覚えてはいないが、とにかくカーブの多い山道だったように記憶している。
風景と言えば、季節のせいもあるかもしれないが、とにかく灰色だった。
しかしあの山の樹々の様子と言えば強く印象的で、あの樹々の姿は我々の心のどこかを揺さぶるには十分すぎる。
悲しみを持った、もう人が入る隙間すらない廃墟のような樹々たちだった。

「ねえ、ちょっと止まってあそこで写真を撮ろうよ。あの樹々はまるで無罪にも関わらず間違った判決により処刑される囚人がその時を待つかのような、見えぬ不安に脅える様子を写真に映し出す、そういう風景に違いないよ。」

時間があればいいけど、雪降ってるし・・ガソリンも少ないからなあ・・・

山の風景を見たり、車を止めて散歩をしているうちに時間は過ぎて、アイス屋に着いた時は結局午後の5時を回っていた。

アイス屋の駐車場に車を止める。

様子が変だ!

店の入り口には小さな札があり「本日臨時休業」とだけ書いてあった。
おかしいな、平日なのに・・・もしかして冬だから閉めているのかな?
いや、きっとこんな山奥だし、人も誰も来ないから閉店したんじゃないかしら?
きっとそうだね、仕方ない。帰ろうか。

夕方の風と共に定峰の雪が強さを増し、風にあたっているうちに、一体いつどこで自分を忘れて来たのかがわからなくなってきた。
顔には冷たい風が切り込み、それはジョルジュ・デ・キリコくらいにしか描けないような風だった。

降り積もるまっ白な雪を見て、
「ああ、ここに吹き出たばかりの生々しい新鮮な処女の血がこぼれ落ちたらどんなに美しいのだろうか」とまで思うほどだった。

次の瞬間パッと現実に戻った。

「せっかくだから、このアイス屋さんの店の前に降り積もったこの新鮮でまっ白な放射能入りの雪を食べて行こうじゃないか、きっとアイス屋の前の雪だから、味はそれなりだと思うよ。」

表面にある雪を右手ですくい取り、できるだけゆっくり腕を動かし口へ運んだ。
「う、これは!!」
「ねえちょっと・・!、やめてよ、そんな雪食べるなんて・・・味はどうなの?味は確かなの?答えてよ・・・答えなさい!」(興奮している)

「おいしい・・おいしいんだよ」
「ほんと?」とやや不思議そうに、でも本当は最初からわかっていたかのように質問を続けた。「何の味がするの?」
「君は覚えているかい、この味を。この味は樹々の香りであり、樹々が樹々になる少し前の風景の味がする。この味は私を運ぶよ。まるで遠い船に自分の心臓だけが独りでに乗りこんだような気分だよ。わかるかい?」
「ええ、わかるわ。よかったじゃない、やっと見つかって。」

「ああ、来てよかった、そして今日が臨時休業で本当によかった。ありがとう私の運命と、この・・・」

「ねえねえ、ちょっと!今こっちの掲示板見たらさあ、閉店はしてないみたいよ、改装工事をするから2月22日までは臨時休業してるだけなんだってさ、よかったね、またアイスを食べに来ようよ。」

そうだったのか、じゃあまた来よう。
• 今日は2月17日。つまりあと5日で店が開くのだ。

翌日、どうも落ち着かない、なぜこんなに不安なんだろう。
仕事をしていても、どうも落ち着かない。
何しろあと5日であの雪を食べる事ができなくなるのだから。
店が開けばあの店の前に積もった雪はかたずけられてしまうに違いない。
大体店の前で雪を食べていたら怒られるに決まっている。

• 初めて雪に触れた時のあの右手、右指の冷たさと体の内部の暖かさの距離が忘れられない。

「おい!いくぞ!早くしろ!」
「はいはい、わかってますよ」(食事の準備を中断する)

臨時休業を狙って店へ(店の前に)行く事にした。
軽自動車に乗り込み定峰峠へ向かった。
今度は風景も見ずに、寄り道もしないで、まっすぐに、スピード違反限界の速度で走り続けた。

目的があってから進み始めると、その目的へ到達するまでの道のりはとても遠いんだね。(驚いている)

「あっ・・、よかった、まだあった・・」
雪は昨日来た時と同じ様に残っていた。
しかし今日は雪が降っていないためその鮮度にはいくらかの違いがあった。
「うわ!何だこれは、昨日と違う・・・」
「そんなはずはないでしょ まだ16時間くらいしか経ってないじゃない」
「なんだと!!」

• 時計の秒針を外し右手に持ち、それを天に向かって振りかざしながらどこかに忘れた私の心臓へと突き刺した。

体内から出たばかりの鮮やかな血は空気と混じりながら雪へ落ちてゆく。
それは永遠に似た苦しみと悲しみと生命の始まる瞬間の風景に似ていた。

「あらま、この雪ホントにオイシイじゃないの。樹々の香りがするわね。
樹々と言うよりはむしろ、「樹々が樹々になる前だった頃」の味がするわね」

• どこかの心臓を取り出して血を拭き取り、止血を終え、すみやかに(何事もなかったかのように)もとある場所に戻す。

「そうだろ、うまいだろ!」(犬の様に興奮しながら言う)

その時だった。
店の改装工事をしていた店主が扉を開けてこう言った。
「おい!そこにある雪をそんなにおいしそうに食べちゃだめだよ!」

「きっと店主はこの雪の事を自覚していたのだ、この味を自分独り占めにするつもりだったんだ!くそっ!」

店主は続けて言った。
「そんな雪はまずいでしょう。今は原発もあれだし・・放射能も飛んでいるんでね。そんなマズい雪を食べたら被爆しますよ。はっはっは。」
と最後はやや冗談風に。
「・・・きっとそうやってうまくウソを言って、自分一人でこの雪を食べているんだな。腕のいいパティシエならきっとこの味がわかるんだ、いや、もしかしてこいつはこの雪を求めてこの場所に店を出したのか?。」

「今日は臨時休業中ですが、今やっと片付けが一段落したところです。
せっかくお店までお越し頂いたので、よかったらお茶の一杯も飲んで行きませんか?」と店主は言った。
「そうですか、ありがとうございます、ではお言葉に甘えて。」

店の中へ入る。
改装中のためか物は散乱しまだ店らしくない様子だが、内向的でいい感じの雰囲気の店だった。ブタの形をしたストーブが荒い呼吸をしながら我々を睨んでいた。

穏やかに会話が始まる。

「へえ、日野田町からわざわざ来て下さったのですか?それはそれはありがとうございます、でも22日からは普通に営業をしますので、その時にはうちの自慢のアイスを食べて頂けると思いますよ。今は休業中なのでアイスは作ってなくて食べていただける在庫がまったくないんです。」

そうか、たった1週間の休業でもアイスは作らないんだ・・・。

「まのじ庵」のアイスは近くにいる牛のミルクで作られている。
そのミルクを朝仕入れて、その日に作るのだ。
作って凍らせておけば数日間は持つのだが、「まのじ庵」はコダワリを持ち、その鮮度を重視しているため、作って3日を過ぎたアイスはお客には出さないのだ。

そうか!それであの雪の鮮度も・・・

勇気を出して恐る恐る言ってみた。(と言うよりは、我慢ができなかったのだ)
「あのう・・お店は22日までは休業ですよね?。すいません、お店の前にあるあの雪を食べさせていただけないでしょうか?」

店主はポカーンとした顔でただこちらを見ていた。
「・・・できれば22日までは、あの雪を思う存分に楽しみたいんです。お店が営業を始めれば、あの雪はもう食べられません。考えてみて下さい、あの雪にはこの店のような時間がないのです。」

店主は店の改装作業をして汚れた職人の手で紅茶を入れてくれた。
おそらくダージリンだったと思う。

「まあ、紅茶でも飲みましょうよ。」

会話は続く。

「音楽がお好きですか?」
店内にはマイルス・デイビスの1950年代の録音が流れていた。
「もしかして、ジャズがお好きで?」
「・・・ジャズと言うか・・マイルスが好きなんです。何と言うかその・・・他のジャズはよくわかりませんが、マイルスだけは好きなんです。」

確かによく聴いてみると いい録音だ。

「そうですか、マイルスですか。」
「どうしてこの峠にお店を出そうと思われたのですか?」

「実は、店を出す前に、4年間場所を探し、日本全国旅しました。
そして最終的にいいな、と思ったのが秩父のこの定峰峠で、秩父だけでも2年間場所を探しました。」

秩父だけで2年間・・・

「その心意気、我々も見習わないといけないね、なかなかできる事じゃないですよ。」

・・・さすがのパティシエだ、この雪を探し、この味を見つけ、店を出すまでに6年もかけているのか。
彼のアイスもこの雪のようにおいしいに違いない、とその時確信したが、
あの雪の味を知ってるので、あれよりおいしいとは思えなかった。
しかし、この雪を独り占めしようとし、またそれを隠す店主の事がイマイチ納得がいかなかった。

紅茶を飲みながら話は続く。

「よかったらこのおにぎりや、クッキーもどうぞ。おいしいですよ。」

「あ、ありがとうございます。」

しかし先ほど食べた外の雪の味(風景)の残骸がまだ口の中に、幽かに響いていて、その響きを忘れたくはなかったので、絶対におにぎりを食べるような事は自分にはできなかった。
あの雪からは、樹々たちの・・・樹々が樹々たちになる前の風景が見えていた。
それを犯す事は罪にさえ思え、そもそも無罪なのに誤審をを受け死刑を執行される囚人ではない囚人の様子をまた私に連想させた。
それを洗い流すかのように店内にはマイルス・デイビスのバラードが流れてきた。

今何時ですか?
5時45分だよ。
スッと風が吹いて、店に飾ってあったアイス屋の認定書か許可証か何かの賞状の紙切れが床に落ちた。

「そろそろ帰ろうか?」
「うん。もう暗くなり始めたね。」

「ありがとうございました、臨時休業中なのに中へ入れていただいて、その上紅茶まで飲ませていただいてしまいました、お恥ずかしいです。
それと・・・(やや呼吸が速くなる。)

お話、とても楽しかったです。
また22日以降にアイスなどを食べに来たりしますね!。」

ガラガラっと入り口の扉を開けたとたんに2月のまだ冷たい山の風が店内にぎゅっるりっ、と吸い込まれ店内の空気は一気に変わる。

駐車場に止めておいた車へ戻り、エンジンをかけて走り出す。

「あー、やっぱりおいしかったね、「まのじ庵」。のアイス。」
「うん、さすがだね、あのパティシエは大したもんだよ。間違いなくここらで一番おいしいアイス屋さんだね。」

「まのじ庵」の窓からは、お寺の跡の風景と秒針に溶かされてゆく2月の雪の悲しい涙だけがこちらへむいて、必死に旗を振っていた。

掠れ書き21

高橋悠治

エリサベス・ル=グインの Boccherini’s Body という本がある。演奏する身体的感覚からボッケリーニの音楽を作る姿勢を観察している。チェロの名人で北イタリアの音楽一家に生まれウィーンからパリに行きスペイン宮廷に雇われた。
その頃の音楽は声と劇場が中心で、楽器の音楽も感情の型通りの表現と場面の交代でできていた。語りかけるような調子をもち軽やかで洗練され技術を見せつけないのがよい趣味とされたが、それを際だたせるためにそれに続く部分ではわざと異様な音色や弱音のなかでも表情の微妙なちがいを指示すること……ベートーヴェン的な普遍主義的構成が支配した1960年代までの2世紀のあいだ忘れられていたボッケリーニのギャラント・スタイルにも二項対立の図式が隠れているのか。

「ソナタよ、どうしろというのだ」(ルソーが執筆した百科全書の最後に引用されたベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネルのことばらしいが)そう言われてもソナタやシンフォニーはしのびよってきた。はじめは歌の前奏や間奏や音楽家を訓練するための教育音楽だったものが周辺から音楽活動の中心へ浸透して19世紀以後ソナタ形式は統一・対立・競争を組み込んだ啓蒙主義の音楽原理になっていた。

原理や理論はすでにある音楽から作られる。音楽が先にありそれらをまとめて共通するやりかたや習慣を一般に適用できるかのように単純化し抽象化して作曲法の規則がつくられる。と言っても解剖図から人間を組み立てることができないように教科書の実例を別としてはシステムや方法から音楽が生まれるわけでもないだろう。それでも音楽を作る時まったく白紙状態からはじめることはない。すでに音楽があるから別な音楽が作られる必要も条件も生まれる。そこで意識されないが前提となっている美意識や技術があって別な音楽を作るうちに具体的な場面たとえばこの音に続く音をさがしているうちに前提としたものからちがう道に踏み出していることもある。気づかないうちに規範が崩壊する。

二元的な対立関係が対等なものでなく優劣や上下が最初から前提になっているならば対話もかたちだけで反論は話をおもしろくするためのみせかけのためにおかれて障害物競走のように乗り越えるたびに中心は勢いを増すだろう。

中心に弱いものをおいた場合は対立項は理解できないもの親しめない異様な空気のただよう表現になってそれをくぐり抜けてもどってくる中心のペルソナは亡霊の出現のように傷つき薄れながら消えていく。聴くものにそっと語りかけて情緒に感染させる18世紀の室内楽のなかである人びとからボッケリーニの音楽が危険なものとみなされたというのもありえないことではない。メランコリーの能動的な面が技術の解体プロセスを見せることと反自然の緊張から降りながらゆるんでいくゆっくりしたうごきの解放感であるかもしれないと想像してみる。

ハイドンとボッケリーニは対照的な音楽と考えられていてその対立図式は明暗・喜劇悲劇・男性女性・知性感性と説明されていた。ボッケリーニはハイドンの陰画でハイドン夫人とも呼ばれた。この二人はおなじ楽譜出版社だったから相手のことは知っていたらしいが会ったことはなかった。ハイドンはボッケリーニにてがみを書こうとしたがスペインのいなかアレーナスはどこかもわからないのでやめたという話もある。

二項対立がみせかけのものならばハイドンからベートーヴェンに受けつがれブラームスからシェーンベルクそして1960年代のセリエルまで続きいまは理論化され技術となって学校で教えられている音楽の方法やシステムの権威のかげでいま周辺からしのびよる別な音楽があるのだろうか。それとも生まれる前から要素分析や認知主義に胎内感染しているのか。

対話がみせかけのものになってしまい障害を乗り越えながら続くモノローグから抜け出せないとしたら第3の声はどこから来るだろう。不毛な対話の往復の臨界点からか。

光の束

璃葉

海の底で目が覚めた
先程まで水槽のような部屋で眠っていたのに

桜色の鯨が行き先を訊いてきた

光の差す方へ行きたい
海の中は暗いから

鯨は唄いながら私に教えた
  
 陸も墓のように暗いが
 光の束が行進している
 黒い影に向かって
 何かを止めようとして

灰にも塵にもならない沈んだ船と共に埋もれる前に
地上を探して浮き上がる
水面から見た地上
空は黒く煙が噴いている
      
陸には小さい光の束
祈りながら歩いているそれは
輝く星のような人の行列

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6月の終わりのデモクラシー

さとうまき

6月29日、丁度、ヨルダンについたら、金曜日だったので、デモを見に行くことにした。「アラブの春」の影響を受けてヨルダンでも毎週金曜日は、キングフセインモスクの前でデモをやっている。今回のテーマは、公共料金の値上げに反対するというもの。

モスクの前だからイスラム政党が仕切っているのかと思いきや、旧ソ連の国旗のようなTシャツを着たグループもいて、結構みんな楽しそうにみえる。ヨルダンのデモは公道を遮断して、道一杯にデモ隊が繰り出すから迫力がある。ヨルダンでは、当局の言論統制がさほど強いわけではなくても、「こんなこと言ったら当局にひどい目に合わされる」という風に思い込んで、自重してしまうことが多かったそうだが、「アラブの春」以降はみんな自由に主張できるようになってきたとか。

時を同じくして、日本でも、大飯原発再稼動に反対するデモが官邸前で行なわれていた。こちらも毎週金曜日に集まるようになっている。先週は4万5千人あつまった。そして、なんと20万人?が集まってきたというからすごい。日本はたくさん集まっても歩道しか解放してくれないから迫力に欠けるけど、さすがにこれだけ人が集まったらすごいだろう。なんだか遠くにいてもエネルギーをもらった気がする。ツイッターやフェイスブックの力は侮れない。誰かが、「アジサイ革命」と呼んでいるそうだ。

そしてシリアはどうだろう。6月28日に、ヨルダンのシリア難民がシリア大使館前に集まってデモをした。国家の替え歌がうたわれる。新しい曲を作るのではなく、替え歌というのが引っかかるが。最後には、大統領の大きな写真を持ってきてみんなで踏みつけるパフォーマンス。

僕は、1994年から2年間、シリア政府の工業省で働いていた。協力隊員として派遣されたのだが、ハマの国営タイヤ工場で生産されるタイヤの品質改善を行なっていた。やる気のない公務員たちと働くのは、厭だったが、彼らを観察するのはとても楽しかった。だから、今のシリアが信じられない。バッシャール大統領は、父親から政権を引き継ぎ、民主化に向けた改革を自ら行なおうとしていた。クリーンなイメージがあったのに。
しかし、今は、デモを極上の暴力で押さえ込もうとしている。

昨年4月29日、13歳の少年、ハムザ君が、デモに参加し、父親とわかればなれになってしまい、シリア当局に拘束され、拷問を受けて遺体となって戻ってきたという事件があった。電気ショックやタバコを押し付けた後があり、性器も切断されていたという。

このニュースを聞いた時、私は吐き気がした。こんな国の政府で2年間も働いていたのだ。大統領の写真を踏みつけたい気持ちだ。僕は当時東北の復興支援で走り回りながらも、怒りに震えながら、この記事をリツイートしたのを思い出す。

しかし、最近出版された、元在シリア日本大使を務めた国枝昌樹氏の『シリア アサド政権の40年史』(平凡社)には、シリア政府は、ハムザ君は、4月29日のデモで銃撃され死亡したとし、身元がわからぬまま3週間たってしまったこと。検視報告書によると、弾痕以外の損傷はなく、死亡後に、遺体が朽ちて損傷し、性器も腐り落ちたと説明しているという。だからといって、アサド政権の弁をどこまで信じていいのかわからない。

しかし、国枝氏の本は、アサド寄りに書かれていて、僕はかなり共感した。なぜならば、アサドがデモを怖がり過激な暴力で鎮圧することには、意味がない。なぜならば、暴力がネットで流れてしまうことのほうがもっと怖くて、政権にダメージを与えるのはわかりきっている。ネット時代。実際にそうなってしまっている。そんなことを、アサド政権は自ら好んでやるのだろうか。外国からの介入で真実が歪められている気がしてならない。政権側も、反体制側も信用できないのだ。

事態が深刻なのは、暴力がエスカレートし、犠牲者が増えていること。何とか、犠牲者を救済しようと、張り切って、ヨルダンに来て見たものの、お金もさほど集まらない。「何をしてくれるんだ」というシリア人の期待に、そえない自分にいらだつ。それならば連帯だと、差し出される、「自由シリアの旗」。僕は、感情的には、昔のシリアを懐かしむあまり、「政治的には中立」をたもち、旗を振る彼らを冷ややかに見ざるをえないのだ。

アンマンにて

金曜日の紫陽花

くぼたのぞみ

六月がもうすぐ終わる
ほんのり青い曇天を
つば広帽のように深くかぶって
ここで いま
夏休みを待ちこがれる妹のように
花を咲かせる
青いあじさい
赤いあじさい
この世のものとは思えない
夕映えのなか

全車線に広がる
新しいものに水がみちて 重さをまして
殺処分された生き物たちが
還っていく 深く 地に染みて
ふわふわと
はがゆいもの吹く 微風のなかで
赤子を抱いた若い父は
今日も生きていく
そう 生きていくのよ
去年のいまごろ
まだこの世にいなかったきみだって
静かに 確かに 息をしている

埃っぽいアスファルトの道に
広がり 連なり
見えない地球の裏に
目を凝らして
賢しらなことばをほどき 
愚直なことばを結ぶ
営みそのものが試されていく
あすは すいみつ にゅうどうぐも

夕方、職場の駐車場に到着。車から降りると日差しが痛っ!

仲宗根浩

台風最接近のはずがそれて、大雨、洗濯ものが乾かないため今年初めてのクーラー稼働。
慰霊の日、糸満あたりではハーレーがあるユッカヌヒーに梅雨明け。
クーラー、暑くて昼間からスイッチを入れるともう切ることはできない。窓を開けるとぬめ〜っとした風が忍び込み扇風機では太刀打ちできない、長い夏のまだ途中。

家のまわりはコンクリートとアスファルト、木陰は皆無。リゾートとはかけ離れた錆びれた街中、活性化のためのイベントの案内はほぼすべて土日。平日休みの人間には縁が無い。
この十年くらい海に行っても木陰がある涼しいビーチなんてなくなってしまい、砂をよそから持ち込んだ人工ビーチ。陰が欲しければお金を払い、ビーチパラソルで少しばかりの陰を買うしかない。沖縄でサミット開催が決まったとき、会場になったところは昔ながらの砂浜と木陰があったけど、サミット前から工事が始まり、ホテルと会議施設ができ、自然の砂浜、木も無くなり、陰のない人工のビーチになった。なにか持ってくると、べつのなにかが壊される繰り返し。