オトメンと指を差されて (49)

大久保ゆう

今からちょうど150年前の7月4日、30歳の若き大学人は、その友人、そして同じ大学の(今でもその編纂した古典語辞書が重宝されている)高名な学者の娘三人と連れだって、川へピクニックに出かけました。途上、彼は真ん中の姫にその子を主人公とした不思議な話を物語り、少女にねだられそれはのちお手製の本としてプレゼントされます。その冊子こそ、有名な『不思議の国のアリス』の元となった”Alice’s Adventures Under Ground”です。

唐突ですが、私は今月で30歳になります。独身です。実は曖昧なことよりも論理の方が好きで、またどういうわけか、現在高等教育機関で講師業をしており、ひそかに人へお話を物語っていたりします。なぜか生意気な子に好かれます。それから波長の合う子となら、即興で言葉遊びなどをすることも。

基本的には「――だから?」という問題ですし、私もことさらに偶然の一致を必然のように語ろうとしているのではなく、実際ふたりのあいだには差違は様々あり、私はカメラを全然用いないどころか、少女よりも少年になつかれ、そもそもアリスのような特別な相手もいません。ただ私は彼の生まれた150年後に生まれ、そしてほんの少し似たような道を歩もうとしている、ように見えなくもない、と、それだけのことで。

翻訳というものがひとつの芝居でもあるならば、たとえ翻訳者がどのような人物であっても、巧みでさえあればどんな人物になれるのかもしれませんし、演者と役が似ているか似ていないかなんて、どうということもないのかもしれません。上手ければ障害となるものなど何もないのであると。

しかしここで私は、知人が”Le Petit Prince”について言っていたことも思い出すのです。「この作品が、心に傷のないやつに扱えたものか」――つまり、たとえば自意識ばかりが肥大した若者や、安定し幸福な立場にある老教授に、この作品が本当に訳せるのか、という、疑問というより心情に近いものでしたが、研究者としての私は否定したくても、個人としての私にはうなずけるものでもあり。

確かに、”The Great Gatsby”は、翻訳の技術を手に入れた円熟のハルキ・ムラカミよりも、「まだ訳せない」と思っていた頃の若い村上春樹に訳されていてほしかったし、あるいは生前広くは認められなかったH・P・ラヴクラフトやフランツ・カフカが、今をときめく人気翻訳者に訳されようものなら微妙な気持ちにならざるをえず、どこかごく少数の人にしか認められず毎日をもがきながら生きている、そんな(おそらく私ではない)誰かに訳されていてほしいと願ったりするおのれもいるわけで。そこまで行かずとも、とかく翻訳では年の功や経験が強調されがちですが、若書きの作品はやはり若訳しされてもいいのでは。

これはどこか良心に属するようなものでもあると思うのです。ふと自分と誰かが似ているなと感じたとき、または、何か偶然の状況が自分の背中を推してくれているような気がするとき、翻訳者の歴史を研究している自分は、やはりここで先に見えている何らかの道を、ちゃんと選んでおかなければならないのではなかろうか、と。

「アリス」はこれまで様々訳されていても、こういった形でキャリアの重なる人間に訳されたことは、もしかして今までなかったのではなかろうか、もしそうだったとすれば、自分がこの選択を取らないことは、先人にとって(あるいは翻訳の神様にとって)たいへん失礼なことではないのだろうか、と。少なくとも今自分は、30歳の大学人という文体をたまたま手にしているのだから、これを生かさなければ、と。

むろん、日本のアリス翻訳史を振り返ったとき、そういった意味では幼妻と一緒に訳したという高橋康也先生の存在はたいへん大きなものなのですが、しかし神様や倫理を持ち出さずとも、自分に正直なことを言ってしまえば、「これは何だかすごく面白いぞ」ということであって、心と身体の底から盛り上がり湧き上がる何かがあるわけでして。

そんなわけで、アリス150周年のこのときに、30歳の私は”Alice’s Adventures Under Ground”を訳し始めようと決めたのです。そして(当時に同じく)3年後の7月4日までに、”Alice in Wonderland”を訳し切ろうと。

私にとって、「翻訳」行為そのものは、本が出版されるとかされないとかとはまったく別次元のところにあって、商業の都合で何かが訳されたり訳されなかったり、訳したり訳さなかったり、そんなことよりも、今自分が挑戦できる翻訳に取り組みたい、そういうものであるのです。

だから、訳します。7月4日から。その途中経過(不定期連載)はたぶん、復活したaozorablogで。

製本かい摘みましては(80)

四釜裕子

ほんものですかと聞いた。東京・駒込にある東洋文庫ミュージアム。2階に上がって薄暗い中に浮かび上がるのは、写真や映像でしか知らないイギリスやストックフォルムやウィーンの図書館や司馬遼太郎記念館を思わせる天井まで続く書架。「モリソン書庫」とある。北京に暮らしていたオーストラリア人のジャーナリスト、ジョージ・アーネスト・モリソンが集めたおよそ2万4千冊を1917年に岩崎久彌が一括購入、その後、自身の蔵書などと合わせて1924年に財団法人東洋文庫をたちあげた。2011年秋に建物の改築に伴ってミュージアムを併設し、展示室(といっても実際の出納もおこなう)としての「モリソン書庫」を完成している。

文庫全体の蔵書は現在およそ100万冊。ミュージアムができたことでさまざまな企画展として蔵書が公開されるようになり、研究者でなくても閲覧できるようになった。取材で貴重書のいくつかを見せていただく。温度湿度を自動管理された部屋ながら緊張してヘンな汗をかく。実際のところ、それぞれの資料のどこがどう貴重なのかほとんどわからない。でも、浮世絵の紺や赤のグラデーションのなんて鮮やかなこと、明の時代の漢籍の紙がなんて白く朱や墨のなんて艶っぽいこと。文庫の方が熱い思いを淡々と延々と話されるのを聞きながら、『東洋文庫の名品』(平成19年 東洋文庫)にあった、収集と保管、研究に寄せるたくさんのひとの執着や情熱を思い出して、ひとの一生では過ごしえない時間と知りえない世界を渡り歩いてきた本たちへの、ねたみみたいなものを覚えてしまった。

このミュージアムはフラッシュを使わなければどこで撮影してもかまわない。「モリソン書庫」をバックに自分撮りするひとが多いようだ。もちろんわたしも。どの1冊もまともに読んで理解することはできないのに、すべての本が”わたしのもの”でもあるように感じるのはどういうわけか。本は読んで理解できたら最高だが、理解できなくても読めなくてもそれでもいい。しあわせなやつだな、本って。

しもた屋之噺(126)

杉山洋一

クラスノヤルスクのホテル6階の窓から外に目をやると、夕陽がエニセイ川を真っ赤に染めています。眼下の350年記念広場では、思い思いにドレスアップした若者たちが互いに記念撮影をしていて、高校生の卒業パーティーでしょうか。広場にはいつも2頭ほど馬が佇んでいて、子供をのせて歩く風景もみられます。大きな噴水の向こう側、川への階段を降りきったところでは、コーヒー牛乳の瓶を、斜めの板に載せただけのゲームが結構賑わっていて、日本のヨーヨー釣りのようなものでしょう。垂れた釣糸の先につけられた輪で瓶の首を引っ掛けて立てるだけの素朴な遊びで「釣れたら4000ルーブル」と破った段ボールの切れ端にマジックで書いてあります。30分ごとに時報の短いチャイムが鳴るのも独特の風情で,子供のころによく聞いた短波ラジオのインターバル・シグナルを思い出します。

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6月X日11:20 ミラノ・Lスタジオ
昨日録ったOさんのシェルシを聴き返す。野性的で直情的な音楽は、時に日本の子守唄のようなひびきで、耳にねっとり残る。
家人が一年間通ったイタリア語クラスの打上げに息子を連れて顔をだす。小学校隣にある社会センター、ここは共産党系の自習施設のようなもの。普段は学校帰りの中学生たちが一緒に宿題などをやっている。この語学教室は、息子の通う小学校で開かれた外国人の母親のための無料のイタリア語教室で、市が主催している。7割がアラブ人、エジプト人女性なのだが、普段彼女たちを街で見かけても、別段明るい印象も持っていなかったのが、ここでは別人のように活き活きとして、喜びがみなぎっていることに心を打たれた。修了証書と記念写真を一人ひとり受け取るとき、アラブの女性たちは舌をふるわせ歓声をあげる。みな、見違えるように嬉しそうだ。

そこのイタリア語を教師フランチェスカのパートナーと話しこみ、「暗やみでお食事を(Cena al buio)」の話しになる。イタリア視覚障害者協会がずいぶん前から開いているイヴェントで、窓をしめきり文字通り真っ暗ななかで、視覚障害者に手伝ってもらいながらフルコースの食事をするだけなのだが、それは素晴らしい体験だという。
自分が部屋のどこにいるのかも勿論わからなければ、何を食べようとしているのかもわからない。何を食べているのかすら、時としてわからない。水やワインをグラスに注ぐことなど、神業のように思えるそうだ。殆どすべて視覚障害者のひとに助けてもらって、彼らにとってごく自然な形で食事をとることで、助ける側と助けられる側が逆になった、新しい世界観がひろがる。
と、教室の外で遊びに興じていたアラブの子供たちが、口々に甲高い声で叫びだした。誰が一番うるさいかを競っているらしい。途中で一人の子供が耳をいためて大声をあげて泣き出した。
何でも息子は校長先生から呼ばれて、学校登録にきた日本人の通訳をしたと大得意だ。校長先生自ら、授業中の小学1年生を呼び出して通訳させようとする発想がイタリアらしい。

6月X日 22:40 自宅にて
「カジキマグロや」亭にでかけ、パリからやってきた作曲のS君とOさんに会う。S君には数年前からあってみたいと思いつつ、機会を逃してしまっていたが、会ってみると控えめでまじめな青年だった。彼の曲を聴くと、洗練された響きの部分よりむしろ、そこに浮上る一見不器用そうな部分こそ独特で魅力的だった。アムランのピアノが好きだという言葉が印象にのこる。Esaの譜割りがなかなか終わらない。
補講にでかけると、隣の教室から聴こえてきたピアノに思わず聞惚れてしまう。ベルガマスク組曲全曲と、感傷的で高貴なワルツ。ペダルは極力抑えてあり、悪趣味なルバートもなく、和声感が美しく、こんな素晴らしいピアニストが学校で教えていたのか誰だろうと隣の教室に入ろうとすると、生徒たちが静まってレコードを聴いているところだった。ベルガマスクの出だしを何度もくりかえしていた以外、止まらず間違えもせずさすがに妙だと思ってはいたのだが。しかし誰の演奏だったのか。ベルガマスク組曲があれほどすばらしいと思ったことはなかった。隠れていたバロックのひびきが浮上る。

6月X日 23:00 自宅にて
夏のフェスティヴァルで演奏するドナトーニのプログラムを書くことになり、途方にくれている。ドナトーニが書いたプログラムノートが殆どないことがわかり止むに止まれず。朝晩息子をサマーキャンプに送り迎えにローモロ駅に通いながらバスのなかでシューベルトの5番を読み返し、ドナトーニの本を捲っている。
家に帰るとクラスノヤルスクで大学2年生のときに書いた拙作を演奏するため慌てて譜読み。自作の譜読みはいつも一番最後、申し訳程度にしかやる気がおきない。楽譜を広げて思い出されるのは、大学2階奥の広い教室で、明るい日差しのなか、せっせと授業中に書いていたこと。当時は横へ音楽を紡ごうとしていたことを思い出す。

6月X日 23:30 三軒茶屋自宅にて
翌日日本経由でクラスノヤルスクへ出掛けるという段になって、プログラムにドヴォルザークのセレナーデを足してくれと言われる。とにかく楽譜を荷物に放り込んで家族と一緒に日本に発ち、機内で息子を寝かせた上で、毛布をテント状にして読書灯を遮りつつ譜読み。これほど混乱したスコアなのは原本のせいか、校訂者のせいか。日本海に差し掛かるころ、ようやく最後まで粗読みを終えて少しだけ眠った。
セレナーデの流れが納得できず和声分析を一からやり直してみる。音がわかっていても、コンテキストが繋がらなければ音楽は流れない。単純な和声と高を括っていても、実は全く分っていない。人体を素描するとき、ただ表面をなぞるのと、骨格や筋肉の厚さを理解し表面を描く違いとはこんな感じなのかもしれない。

6月X日 23:15 クラスノヤルスクホテル
モスクワ経由でクラスノヤルスクに着く。時差5時間のモスクワに10時間弱かけて飛び、5時間近く日本方面に戻ってクラスノヤルスクに着くと、日本との時差は1時間になっていて、狐につままれた気分だ。ここはヨーロッパではなく中央アジアだという至極当たり前の第一印象。英語はあまり通じないが、みなとても親切で温かい。熱く滾るような演奏は想像通りだが、思いがけず繊細な部分にもふれて感激する。招待してくれたオーケストラのディレクターは、クラスノヤルスクからは、モスクワ、パリ、ベルリン、ミラノ、東京、どこに行っても今や距離感は一緒だと力説しているが、そんなものなのだろうか。ドヴォルザークは、不可解なリタルダンドなどは無視して、フレーズを大きくつくることに腐心。展示部と再現部で楽譜に矛盾はなはだ多いためだ。

6月X日 00:20 クラスノヤルスクホテル
今日の練習会場はスリコフ記念美術館。スリコフの聖母と聖ガブリエルの絵には目を奪われる。ワシーリー・スリコフ(1848-1916)はクラスノヤルスク生まれの、ロシアの代表する画家だが、彼の受胎告知は官能的としか形容できない。聖天使ガブリエレは、屈強な男性像で、対する聖母は戸惑いを隠せないあどけない少女だ。イタリアで見る構図とは正反対でこちらも当惑せずにはいられない。マリアの位置づけがロシア正教でまったく違うのだろう。ガブリエレは白色の大きな光を放ち、内に秘めた情熱が放射するようだ。性向も世代も違うが、スクリャービン(1872-1915)の悩ましげな響きが立ち昇ってくる。ここでは魂が素材に宿されているのがわかる。裡へと内向する情熱に圧倒される。ヨーロッパの、少なくともイタリア絵画とは、根本的に一線を画している。ナボコフのロリータが頭を過ぎった。

6月X日 23:50 クラスノヤルスクホテル 
ガイドの女性と通訳の妙齢と連れ立って、街を歩く。ソ連時代のアパートは寂しい感じ。元共産圏を訪ねたのは初めてで驚くことは多い。街を走るバスは、一番古いものがロシア製、それから韓国製、新しいものはドイツ製の払い下げ。白と水色の教会の前で、ガイドの女性は、ここが中心の教会です、とだけいって通り過ぎようとしたが、正教会をどうしても訪れたくて中に入れてもらう。思いもかけないほど低い天井で、全体的に暗くて神秘的だ。鈍い金色に輝くイコンが所狭しと並んでいて、あちらこちらのロウソクの光が美しい。天井が高く広々として、さんさんと光が差しこむ、ローマ・カトリックのイメージとはかけ離れている。女性は揃ってみな頭にスカーフを巻いている。信者たちは熱心に祈っていて、ふと頭をあげてため息をもらしつつイコンを見つめる眼差しの情熱には、当惑すらおぼえた。
ガイドの女性は、ここに日本人抑留地だったことは一切触れない。レーニンがクラスノヤルスクに流刑されたため、レーニンに纏わる史跡は多い。

6月X日16:50 クラスノヤルスク・フィルハーモニーホール
フィルハーモニーホールの練習室で、ソプラノのEを待っている。練習室には巨大なバラライカが2本立てかけてあり、小型のバラライカケースには古くなった譜面台が入っている。汗が噴き出すほど暑い。窓のすぐそばに見えるエニセイ川のほとりに旧レーニン博物館があり、現在は美術館だ。そのエニセイ川を眺めながら、もうすぐ本格的再稼動になる大飯原発についてぼんやり思う。ここに来る前にクラスノヤルスクという街の名前は、地図には載らなかった秘密都市クラスノヤルスク26の軍用核施設と、橋本=エリツィンのクラスノヤルスク会談で耳にしたくらいだった。93年の核燃料再処理施設爆発事故、いわゆるトムスク事故があったのは、ここから600キロ近く離れた、クラスノヤルスク州に隣接するトムスク州トムスク7だった。
いつも離れず着いている通訳の妙齢に言わせれば、レーニンもスターリンもみな嫌いなのに、この街がレーニンにあやかろうとするのは奇妙だという。ゴルバチョフもエリツィンも彼女ら若い世代にとって全く無関係の存在のようだ。そんな時代は終わったが、ホテルから一人で出掛けてはいけないと繰り返し念を押される。彼女のボーイフレンドも演奏会に来ると聞いたので紹介してねと言うと、「それは駄目です。わたしは常に杉山さんと一緒にいます。これはわたしの仕事です」とすげなく断られる。

日本人抑留者記念墓地にでかけて手を合わせたいが、墓地は駅のあちら側にある。フェスティヴァルの最大限の好意は身にしみていて記念墓地訪問は少し切出しづらいが、あちらは案外気にもとめないかもしれない。どこかで時間を見つけて出掛けられれば良いのだが、今日は練習のあと演奏会に4つも出席しなければならないそうだし、明日の夜はホテル着は夜半過ぎ2時と聞き冗談かと思ったほど。
街並みを眺めていると、もしかすると当時日本人が作ったものも混じっているのかも知れないと思う。韓国や中国の人の裡にくすぶり続ける蟠りの片鱗を、少しだけ垣間見た気がした。

(6月29日シベリア・クラスノヤルスクにて)

犬狼詩集

管啓次郎

  67

歌手としてもっとも有力なのは樹齢二世紀のカクタスだった
月が南中するたびに青い歯を見せるのにセニョーラは気づく
レゴのブロックを32個組み合わせて霊のための祭壇を作った
スーツのだぶつきがギャングのようで神父が焦げた眉をひそめる
集団を群れから解放するために国境と雨雲が必要だった
蟻たちは神学を欲しがって蜜蜂に交換条件を提示する
欲望とミルクを比べると倒れるのはいつも日時計だった
落雷を飼い馴らそうとクローバーで餌付けを試みる
ふたたび経済理論を学ぶために羊飼いはひそかに出国した
丘がふらふらと夜市をさまようので景気が破滅する
岩陰に魚を拾いにゆくとどれも焦げたいるかばかりだった
ときどき海が見えるたび塩の節約が議題になる
本のページをマッチで燃やすと文字は蛍光色で発光した
茹で卵は地球ゴマの回転で自由を表現する
火山が「私はきみよりも永続的だ」とヒマワリにむかって自慢した
ひまわりはたちまち百万本に増えて火山の麓を包囲する

  68

貧血を優先して庭園がイギリス式迷路に作り替えられた
女王は揮発性の飛行機を使って月と金星の往復を試みる
燕の飛跡が占いに用いられる古代的な慣習があった
整列した樹木は遊びとして倒立と屈伸をくりかえす
ちくちくと皮膚を刺すのはアルパカの悪戯だった
未舗装の道が泥のように流れはじめるのをみんなで待っている
爆弾という言葉が低気圧に初めて応用された
競走馬が競馬の是非を美学的に議論し始める
「話を聞かれているときだけ声変わりするみたい」と小鳥がささやいた
村がアイスクリームのように溶けて地面がべたべたする
「雲の白が純白ならおれの心は何だ」と白熊が嘆いた
干潟の蟹の穴から永続的なシャボン玉が生まれている
白い崖よりも希望に近いのは柱状列石しかなかった
平野の空の一面がアスペラートゥスという名の雲に覆われる
Hail Maryよりも早くhailが急襲した
レタスとA菜のどちらも祖母は加熱してから食べる

  69

くりかえし訪れる夢は万葉仮名で書かれていた
反復が赤道のように肌に皺を刻む
Sundanceとは太陽そのものの歩行に過ぎなかった
もぐらの人道的配慮は地下通路を封鎖させる
ガラス玉を丁寧に磨くと闘牛士のための義眼となった
回遊という性格により魚群が象を前世に追いやる
噴水はその姿よりもむしろ音響装置として機能した
年代の観測に年輪と砂時計が併用される
出漁の直前に二枚の板で小舟が設計された
トウモロコシの皮を画布として100号の作品が描かれる
干したトビウオのように身を殺がれつつやはり生きていた
城から北から城から南へと遠隔的に存在する
指先から蛇が出てゆき背骨にカクタスのような棘が生えた
洞窟の壁画に直接かつての野牛を埋めこむ夜がある
Reality TVをはめこむことによって現実は流れ星に近づいた
すべての海のエッジで存在とムネモシュネーがアネモネのように躍る

  70

祖母の粗末な家は実際に鯨塚の真横にあった
砂まじりの米がランチボックスを光でみたす
瞼で炎が燃え猫の目が金星のように笑った
色彩とかたちにはどうしても等価交換が想像できない
「鳥」という鳥の不在がカモノハシの独立宣言だった
蝙蝠傘をひらいて地面の上昇に対抗する
風が蜘蛛を大量に飛ばすので合金が沸点に達した
トルティーヤをドレスのように着て彼女はくるぶしを回す
大広間の暗さに比べて玄関は氷山のように明るかった
傷ついた燕の傷を犬がやさしく舐めている
Porcupineは知っていてもcoatiは見たことがなかった
洞窟絵画に描かれるスラップスティックのように神妙に生きている
祖母は身長135センチで105歳まで生きた
フロリダを四十日かけて縦断する計画を立てている
ぼくの犬はみずから毛布にくるまる技を覚えた
人さし指と中指をそろえて架空の礫を飛ばせ

  71

ブラスバンドが踊りながら海溝へと落ちていった
煉瓦とパスタの粒状性はそれぞれに離合集散をくりかえす
白い石膏の砂漠が満月にみたされた海になった
夜の中でブーゲンヴィリアが絵はがきのように揺れている
知識の代価としてきつねが木の葉をさしだした
とれなくなった指環が祈祷と羨望の対象になる
スズメバチが準備した効果音がロケットを発射させた
サッカーのゴールは写生よりも遠い風景に届く
魚たちの行列が巡礼への参加を希望した
波間にときどき屑鉄が浮かんでいる
窓に鐘楼を描くとやかましく鳴り出した
美しさと鏡とは別の周期表に属している
庭で無くしたサンダルにはノスタルジアと書かれていた
鹿よりも猪よりも四肢の進化を期待する
目の高さで凧をあげるのは伝統的なフラの動作だった
だが伝統とマグマは海岸のテーブル上で噴火をくりかえす

  72

線路の音がハンナ・モンタナに世界市民主義を自覚させた
個々の生の破壊により生命の連続的広大さにめざめる
きみの心から人口流出がつづき過疎化が進行した
おれはおれとしてひとつのbutteを形成する
古い本を書き写すことをやっとボノボが覚えてくれた
民族博物館は多数の干し首を無垢の軍勢として所蔵する
太陽をめぐる一神教はそれ以外のエネルギーを断固として拒絶した
ぼくの犬が「うるさいよ」と耳をふさいで寝ている
雲の底から雲が湧き出したちまち夜のように暗くなった
ハープシコードが勝手に鳴ってアフリカの旋律を叩き出す
極東シベリアの町でも小学生の喫煙が習慣化した
マグネシウムの粉をまぶしてかれらを驚かしてやりたい
神はかたちがないから神であり物理的にはまるで無力だった
ひとひらの雪の中に海があるとしてすべての雪はいま潜在している
きぬいとがきれることなくどこまでもつづいていた
朗読が生物学的に禁じられてボノボが激しく怒っている

きまぐれ飛行船(1)

若松恵子

「きまぐれ飛行船」は、1974年3月から1986年9月まで、片岡義男さんが13年間パーソナリティーを務めたFM東京のラジオ番組だ。毎週月曜日の深夜1時から3時まで。番組スポンサーは角川書店1社のみで、片岡さんによれば「CMを取り払うことが可能で、そうすると1時間57分ほどを、番組そのもののために使うことが出来た」という事だった。

片岡さんが作家としてデビューした『野生時代』が創刊され、片岡さんを”売り出す”ために角川春樹氏が企画したのがこのラジオ番組だった。ラジオと並走するように、赤い背表紙の角川文庫が次々と書店に並んだ。ラジオの最終回で片岡さんが言っているように、13年間というのは、高校生でラジオを聴き始めた人が大学生になり、社会人になり、結婚して子どもが生まれるという長さを持った時間だ。

私は高校生だったある日、新聞の番組欄できまぐれ飛行船の「ビートルズ特集」を見て、初めて片岡さんのラジオ番組があることを知った。ほとんど最終回に近い頃にやっと追いつくことができて、数えるくらいしか聞くことができなかったのだけれど、忘れることができない番組となった。深夜1時に、静かに流れていた番組に、ファンは多い。この珠玉のラジオ番組についての覚書を残しておきたくて、今、小さな冊子を作っている。

13年間交代することなくディレクターを務めたのは、柘植有子さんと佐野和子さん。交代することなく、2人の女性が担当したというところが、なんだか片岡さんらしいとうれしくなってしまう。

柘植有子さんにお会いして、当時の事を少しずつ聞いている。柘植さんは片岡さんと同い年。柘植さん自身も「ユア・ヒットパレード」というラジオ番組が大好きだったという。ラジオドラマが作りたくて文化放送に入って、7年半務めた後、フリーになって「きまぐれ飛行船」のディレクターを担当することになった。

番組については、ディレクターが一番覚えているのではないかと思ったが、収録中は、時間内に入るのか、放送禁止になるような事を話していないか(田中小実昌さんがゲストの時などは新宿ゴールデン街の話になったりするので)その後の編集のことが気になって、ゲストの話をじっくり聞いている余裕などなかったそうだ。

「FMfan」のバックナンバーで、オンエアされた曲や、どんなゲストが来たのかを知ることができる。番組の宣伝として、掛ける予定の何曲かと特集のテーマを事前に提出していたのだという。オンエアのリストを見ながら、具体的な話を聞いていく。「ラジオ番組で落語のレコードを掛けるというのは珍しいことでした。志ん朝から、お礼の電話が入ったことがありました。」そんなエピソードが聞けた時には本当ににっこりしてしまう。

13年間いっしょにラジオ番組をつくり続けていながら、柘植さんは片岡さんのプライベートの事をほとんど知らない。片岡さんが、なぜあんなに洋盤(輸入レコード)を持っていたのか、片岡さんのおいたちに立ち入って聞くという事もなかったようだ。そんな事ひとつとっても、とても良いなと思ってしまうのだ。

庭が戻るはなし

大野晋

あ、すみません。満月バー行けませんでした。なにせ、ドクターストップで禁酒状態なのです。お酒好きなのになあ。いろいろなお酒をちょびちょびっと味わうのが好きなんですが、でも、当分はお預け状態です。

さて、6月になって1年半ぶりにウチの植木が帰って来ました。家の改築で、がばっと土地を削ってよう壁をやり直した関係で植木の置き場がなくなり、ほんの一部だけ植木屋さんに避難していました。昨年の正月に引越しし、人間はその夏に戻ったのですがさすがに猛暑に植物を戻すわけに行かず、その後、造園をお願いしてずっと待っていたのがようやく終了した次第です。ようやく、殺風景な庭の風景が一気に落ち着きました。

いやはや、お願いするも梨のつぶてで、一時ははどうなるかと思いましたが、梅雨に入って戻して頂きました。良く取れば、タイミングを見計らっていたんでしょうね。結局、預けていて無事に戻れたのがボケとモクレン、それにドウダンツツジ。特にボケとモクレンは母の実家から移したものなのでもう70〜80年くらい経っています。

新しく追加した木は大きいものだけで、エゴノキ、アオハダ、それにカツラと雑木林の住人ばかり。それにズミとアセビを加えて、暖温帯〜温帯にかけて生育している木ばかりにしました。要するに、ウチの近所にもともと生えているような木を選んだわけです。基本的には手間いらずで、すぐに根付いてくれることを期待しています。まあ、低い植物も似たようなものなのですが、草の話はまたそのうち、おいおいと。そうそう、むかしむかしに携わった落葉樹の冬芽図鑑を植木屋さんに差し上げたところ、とても喜んでいただきました。

ところで、植木屋さん、今度は費用の請求が来ないんですが。。。

ジャワ舞踊家列伝(3)ルスマン

冨岡三智

ルスマン(1926〜1990)はソロ(スラカルタ)にあるスリウェダリ劇場(ワヤン・オランという舞踊劇を上演する劇場)のスター舞踊家で、ガトコチョを当たり役とする。ちなみに、ルスマン全盛期のスリウェダリ劇場は、毎晩の公演が満員になるという黄金期だった。列伝(1)、(2)で取り上げてきた人達が舞踊も振付も手掛けるのに対して、ルスマンは舞踊だけ、それもガトコチョ一本である。昔の踊り手は、その人のキャラクターと一致した役柄1つを極め、今のようにいろんな舞踊を踊ることはしなかったという。しかし、そういうタイプの舞踊家は、学校での芸術教育全盛の現在では、もう出現しないような気がする。

ルスマンの奥さんもスリウェダリ劇場の踊り手で、ダルシという。彼女はスリカンディが当たり役だが、もちろん、ルスマンと組んで踊る「ガトコチョとプルギウォ」は人気演目だ。これはガトコチョがプルギウォに恋して追いかけまわす舞踊で、結婚式でもよく上演される場面。そのダルシさんとは、実はその昔(1996年末)、スリウェダリ劇場の前座でガンビョンを踊ったときに、楽屋で会ったことがある。その娘(といっても、もう定年前くらいの年齢)がインドネシア国立芸大(ISI)ソロ校で舞踊をおしえていて、ルスマンについて修士論文を書いている。

ルスマンはスカルノ大統領に気に入られ、大統領官邸でも何度も踊り、大統領の芸術使節団にしばしば選ばれている。ルスマンがスカルノの前で最初に踊ったのは、1948年7月、ジョグジャカルタでのことらしい。当時、インドネシアは独立戦争中で、首都がジョグジャカルタに移されていた時だった。1961年、日本に初めてインドネシアから大統領芸術使節団が来て、そのときにルスマンも来日している。この公演にはインドネシア各地から踊り手が集められていて、美女が多いにも関わらず、ルスマンが公演ポスターに採用されているから、やはり別格のスターだったのだろう。この公演に出演したソロの踊り手(私の舞踊の師匠の義妹に当たる)も、スターと一緒に出演したというのが嬉しかったらしい。芸術使節団に参加した他地域からの踊り手たちのインタビューを聞いても(これはリンドセイという研究者に見せてもらった)、ルスマンの舞踊はすごかったという話が多い。

ルスマンの魅力は、まずはその朗々として艶のある声にある。ルスマンの歌声はロカナンタ社のカセット(ACD-011)の「ガトコチョ・ガンドロン」に収録されている。このガトコチョの舞踊には途中で歌うシーンがあって、切々とプルギウォへの恋心を歌いあげるから、ここで下手だとだめなのである。ただし舞踊に関しては、もちろん上手くスターのオーラもあるのだが、宮廷貴族の美意識には合わないところがあったようである。ルスマンはサブタンと言われるポーズなどで、宮廷舞踊の通常では右足を上げたら左手を上げて左右の均衡を取るところを、右足、右手を同時に上げるようなポーズを取るため、「犬が片足を上げて放尿するポーズ」に見えると言って、貴族たちは嫌ったものらしい。

オチャノミズ(その2)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

「アメリカのギターはめちゃ高いなあ」と、わたしはこぼす。

ふとそのとき、ブッシュ大統領の顔が浮かんできた。あいつは嫌いだ。現世で同時代になるような因縁でもあったものか。もしもアイ ヘート ユー、ブッシュと書いたシャツがあれば買ってきて、3日3晩脱がずに着続けてやるのだが。

駅は人の往来で込み合っているが、昔と同じように泰然とそこにある。10年前わたしの友人のひとりがヨーレイ(浄霊)教(訳者:オーム真理教)にはまっている信徒の前に立ったものだ。ウィラサックだ。催眠にかけられたかのような表情をして立っていた。一方その若者はといえば、奇妙ないでたちで、日本の時代物映画で見たことあるような竹で編んだ平べったい帽子をかぶっている。何か日本語で呪文をつぶやきながら掌をウィラサク向けてこころを鎮めようとしているかのようだ。

東京のような肥大した社会では一風変わったことに次々と出会う。定住する家もなくてなんだかごちゃごちゃと物を抱えて歩き、公園のベンチに身を横たえる者たちがいる。こういった連中の過去には興味深いものがある。聞いたところではイデオロギーとか主義主張を持っていたタイプの者がいるという。かつては教師講師の類だったかもしれない。それがついには何にも拘泥されない生活を選ぶことになった。わたしもかつてそういうことを考えたものだ。

タイでも髪は伸びてぼさぼさ、いろいろなものを抱え込んで歩くアホとか化け物と呼ばれる路傍の旅人、苦しみも幸せもない人、について、わたしは考えたことがある。何か深いところで気づかせてくれるものがあるのではないか、と。彼らの空こそが涅槃なのではないかと。

けれどこの国のホームレスはタイのいろいろなものを抱え込んだアホというのとは違う。彼らは自分の世界が多々あるかのように黙して語らない。周囲に人がいないかのようにゆっくりと歩き、話さない、努力しない、交流もしない。いかんせん話しかけるのが難しいのだ。

誰もいない夜の電車で静かに牛乳が

笹久保伸

カッ、カッ、カッ。

近くから、12チャンネルに録音された1人の人間の足音が聞こえて来て、まだもう少し寝ていたいと思いながらも、目が覚めた。彼女を救わなくては・・・

カッ、カッ、カカッ・・・カカカッ、カッ・・・・カ・・・

あれ? どこだ?
そうか、私は電車に乗ったんだ。渋谷での仕事を終えて秩父行きの終電にギリギリ間に合ったのだ。

・車両に乗客は一人もおらず、いるのは青い服に黄色のヘルメット、頑丈そうな体つきをした12人の男達だけだった。
どうやら彼らは何かの作業員のようだ。
気がつくと、なぜか電車は動いている様子ではない。
周囲はやけに暗い。
終電の時刻なので周囲が暗いのはわかるが、どうやらこの電車はトンネルの内部で停車している、もしくは停車したばかりのようだ。

1両目には運転室があり、そこには車掌がいるのだが、突然運転室の扉が開き、車掌は12人の作業員を運転ルームに入れ始めた。
作業員達は運転室から外へ出るための扉を開けて外(トンネル内)に下り始めた。
「そうか、もう電車が通らないこの時間から作業員達は仕事を始めるんだな。しかしこの夜の暗いトンネルで、それもこんな真夜中から仕事なんて大変だ・・・。」

とは言えトンネルはいつでも暗いし、湿度がある。
いつも夜みたいだ。
・心の中ではポトシ銀山で死んでいった、あまりにたくさんの奴隷たちの事を想っていた。

ふと気がつくと目の前の通路に、白い液体がダラッとこぼれていた。
「うわっ!何だこれは、汚いじゃないか、きっと私が寝ているうちに誰かが牛乳をこぼしていったのだろう。困ったなあ・・。」

牛乳はエアコンによって暖められた車内の空気と混じったせいか、少し粘り気を出して、足で踏むとベタベタと言う感触がする。

12人の作業員達は一列になり、順番にその扉から電車の外のトンネルへと下りて行った。
作業が始まるのだ。(一体何の作業なのかは一般の乗客には知る由もなかった。)

アナウンスが入った。
「・・・乗客の皆様、電車は停車しておりますが、まもなく発射致しますのでご注意下さい。」

停車していたせいなのか、電車は一度少しだけ後ろに動いた後に前へ向かって動き出した。 やけにゆっくりと・・・。

「ああ、トンネルと言うのは暗くて嫌だなあ、早く外に出たい。」

仕事で疲れた体を動かしながら通路の牛乳に目をやると、牛乳が固まりのようになっていたので自分の目を疑った。
それはどこかの海の中にぼつんと浮かぶヨーグルトのようだった。

「ああ、きっと疲れているんだ。とにかく早くこのトンネルの外へ出たい!
それに、一体何なんだこの牛乳は。気持ちが悪い上に恐くなってきた。」

・牛乳は次第に(独りでに)形を作ってゆき、少し経つと上下左右にピクピクと動き始めた。

「何だこれは、こんなものは見た事がない・・・。」

カツカツ、カツ。カツカツ。足音が聞こえる。
トントン、トン。トントン。と何かを叩く音と聞こえるはずのない笑い声が確かに聞こえる。

電車は次第に速度を上げて、出口へと向かった。

私はその時の光景を今でもはっきりと、明確に記憶している。
しかしまだ誰にもそれを喋った事がない。恐怖と、喋っても信じてもらえないのではないか、と言う不安からだ。

電車はそのまま出口へと近づき、やっとの事でトンネルを出るその瞬間、
通路にぶちまけられていた牛乳が真っ黒な牛になったのだ!
牛になったと言うのが正しいのか、牛に戻ったと言うのが正しいのか、言い方はともかくとして・・・とにかく真っ黒な牛になっていた。

「ああ、あの白い牛乳が、とうとう黒い牛になった・・・。」

トンネルを出た瞬間に牛の姿はどこかへ消えて行った。
(牛はどこかへ生まれていった。)

一方、その電車はトンネルの外に出たが、私はまだ電車の中で出口を見つけながら移動している。
いや、もうすでに死んでいるのかもしれなくて、ただそれに気がついてないだけなのかもしれない。
とにかく、わからない。

どこまで遠くへ歩いても、その足音や血液が体内を循環し続けるごく短い時間内において、歩く行為は自らの記憶の種子へと回帰してゆく。
牛は牛の足音の中を、私は自分の靴の足音やカバンの夢の中で異性を探し彷徨って電車の通路にこぼれている牛乳ように・・・
誰もいない夜の電車で座って(こぼれて)いた。

『秩父前衛派の孤独の骨の夜』より

犬の名を呼ぶ(2)

植松眞人

ブリオッシュという名をつけられた仔犬を飼いはじめたのに、高原は一度もその名を呼んだことがなかった。チビだのシロだの明らかに見た目でわかるような名前をその時々で呼んでいるうちに、その仔犬は高原が「おい、お前」と声をかけた時にだけ、高原のほうを振り返るようになった。「おい」に反応しているのか、「お前」に反応しているのか。前半分だけ呼んでみたり後半分だけ呼んでみたのだが、仔犬は見事なほどに反応しない。そして、少し諦めかけた高原が「おい、お前はなあ…」とつぶやくと、その瞬間に仔犬は小さくのどを鳴らして高原を振り返ったのだった。

その日から、といってもほんの三日ほどしかたたないのだが、高原は仔犬の名を呼ぶことをやめて、まるで人に話しかけるかのように「おい、お前」と仔犬に呼びかけるようになったのだった。

相変わらず、この犬を我が家へ放り込んでいった娘と孫は週に一度は様子を見にやってきて、身勝手にかわいがり、一緒なって遊ぶと帰っていく。いま、この犬を「ブリオッシュ!」と正式な名前で呼ぶのは幼稚園に通う孫だけだ。すっかり妻に似てしまった娘などは最初の二文字だけを楽しそうに「ブリちゃん」と呼んで、あとは省略してしまう。妻にいたっては高原を呼ぶのと同じように犬に向かって「あなた」と言う始末だ。おかげで妻が高原を「ねえ、あなた」と呼ぶと仔犬も一緒に駆け寄ってくるようになった。そして、「あなたはどうしていつもそうなの」と妻が仔犬を叱っていると、なぜだか高原も同じように所在なげにしていたりするのである。

そんな高原の様子を面白がって、
「父さんと母さんは、ブリちゃんを真ん中に置いて、うまく会話してるのよね」
と娘は言う。

確かにそう言われてみれば、光景を見ずに言葉のやり取りだけを聞いていると「おい、お前」「ねえ、あなた」と少し枯れた夫婦の会話だけが思い起こされるだろう。

今日も高原は仔犬を連れて散歩に出る。ときどき前を歩く仔犬の背中が右へ左へ、上へ下へと揺れるのを眺めながら「生きているということは揺れるということなのか」などと考えてしまい、その仔犬の背中に「なあ、お前」と声に出して呼びかけてしまう。すると、いかにも若々しくて未発達な、そしてだからこそ立ちのぼるような血の熱さを伝えていた背中の躍動が、高原を圧倒するように大きく見え始めた。高原はその揺れの熱さに呼応するかのように気持ちをゆさぶられ歩くこともままならなくなり道ばたの電柱の陰にそっと寄り添う。飼い主が自分についてきていないことをリード越しに察すると、仔犬は立ち止まり高原を振り返る。その刹那の大儀そうな迷惑そうな表情を見ていると、高原はいつか近いうち何かに引きずられるように、この犬を「ブリオッシュ」という名前で呼ぶことになるのだろうなと思い知らされるのだった。

〈緑泥石〉詩学93―― 芯のフルコト

藤井貞和

蘂をめぐり  運命の花瓣よ
一萼のうえに並ぶ   一枚
たてまつる   水を受けよ
音無くて また一瓣を抜けば
悲鳴を吸い上げる  受けよ
地上の盥   すべてひらけ
かなだらいより    瓜子
這い出よ      包め芯
つよい鞭毛が  落花よりも
はやい足で あの人形を救え
その人形を拾え   客神よ

(なお一言――〈子供たちを見送った後の屋上に立つと、決壊した堤防から昇る朝日に照らされ、変わり果てた荒浜が見えた。「壊滅」とはこういうことなのだと知った〉と、多田智恵子先生の手記である。給食用の野菜を納めてくれた方、米作り、シジミ獲りを教えてくれた方、酷暑の日も、強風の日も、路上で子供たちの安全を見守ってくれた方。学校がお世話になった方々……(『世界』別冊〈二〇一二・一〉より)。「壊滅」という言葉を多田の手記から記憶しよう。念願の六年生の担任を「終え」て、離任式もなく荒浜小学校を去る一教諭の手記から、宗教人類学者山形孝夫は「実存的で真摯(しんし)」という、強い印象を受け取ったという。この「実存」そして「真摯」という語も拾っておこう。)

掠れ書き20

高橋悠治

意識が薄れると自意識はなく感覚だけがある。視野が暗く遠くなり耳は聞こえているが音は現実のものではないかもしれない。雪のなかで転んで気がつくと知らない店先に座っていた。次の瞬間にはだれかの家で寝かされている。白い天井が回り薄暗い空間に透明な壁が立ち上がり膨らんだり縮んだりする。

昼間窓から吹き込む風が紙を床にばらまく。拾おうとして足が滑り気がつくと椅子に座っている。だれかが話しかけているが声が聞こえにくい。近所の医者に手をひかれていく。家に帰って寝かされ次の朝は熱もなかった。

熱が下がらないときは医者に行ったが階段から降りられない。タクシーに乗せられ眼をあけると病室で2週間経っているようだ。点滴を6時間おきに換えられて天井を見ていると夜が来て朝になりまた夜になる。たらいの湯で足の裏をこすられているとき身体があるという感覚が起こり昼がありまた夜があった。
指が何本かしびれている。触るものの表面が膜に包まれている。

病気は周期的に来ると感じる根拠はあるのか。予想外の偶然を説明しようとしているだけか。身体に弱い部分があるのは強い部分がありバランスをとるからだろう。変化するアンバランスと言ったほうがいいかもしれない。健康が安定した状態という幻想がある。健康も病気も変化するバランスの静止画像だとすれば自分の力で維持しさらに身体を鍛えればバランスの変動を妨げてやがて全体の崩壊速度が加速することもありえないことではない。

バラバラな要素を組み合わせて全体を構成する分析と統合の方法はその全体を一つの原理で説明し操作できるという世界支配の信仰だったのか。全体は幻想でこの樹はあの樹と似ているがすこしちがう。樹ということばは樹ではなく似ているという感じを言い表しているだけだとはだれも言わないがそれを知らなければこの樹からあの樹に歩いては行かれないだろう。

あの樹がこの樹のクローンではなくちがいがあり間には距離がありそれが森という空間になるのではなくこの樹がある前に森はそこにあったと感じることもなく言うこともなく森が見えそのなかを歩くこともできるのはなぜかとだれも言わない。

同じものが二つとない世界のなかにいてふしぎとは思わず毎日がすぎていく。この樹を見てあの樹を見るから空間があり時間もあり朝が来て夜になりまた朝が来る。

日常の音楽は音楽をする日常ではなく日常の音をもちこんだ音楽でもないだろう。この朝があの朝とはちがいそれでも朝であるように連続と断絶の間の薄い膜のなかにすべての音が星座であり偶然の飛沫であるような音楽。

オトメンと指を差されて(48)

大久保ゆう

わたくしがいつも妄想をたくましくしているモノのひとつに、〈翻訳村〉というものがあります。

翻訳の歴史のなかでは、そのときそのときで翻訳者が集まっている〈場所〉がとっても重要なものとしてあったり致しまして、たとえば江戸末期の長崎とか中世スペインのトレドとか、あるいは紀元前のローマに唐代の長安、はたまたアッバース朝のバグダードから古代アルメニア王国のヴァガルシャパトに至るまで。

実際に存在するのはギルドだったり機関だったり学校だったり施設だったり色々なのですが、いずれも、おおぜいの翻訳者のいるところ、何かしらの文化が準備され、その仕込みがのちの熟成につながるという例です。

そういったものを範にした〈翻訳家コレギウム(コレージュ)〉というものもある国にはあって、ある国の本を訳したい人がその国の翻訳家向け施設を訪れて滞在して、備え付けられてある資料や辞書などを利用したり、他に留まっている同業者と交流したり、そういったことの便宜を図るもので――そもそもはそのようなものが日本にもあればいいな、というのが妄想を支える理由のひとつ。

とはいえただ単なる施設では規模も小さくて影響力もあれなので、もうひとつ。ただいま様々なところで村おこしとか特区とかが考えられておりますが、そういう手として、今後は〈翻訳〉に特化させていくこともありえるのではないだろうか、と。国内の翻訳者が住み、海外の翻訳者も気軽に訪れて仕事ができるようなところ、そういったところとして〈村〉ってありえないかな……と。

それもそれも、そこが〈温泉〉だったりなんかすればもっといいんじゃないかなって。集まるにしても、何かしら日本らしいところの方が惹きつけられるんじゃないかな、などと考えてみると、昔から文士と温泉はこの島の文芸と密接な関わりがありますし、特色があれば海外からも人を呼び込みやすいかなと。これからやれ国際化だグローバルだなどと言われておりますが、それならばやはり翻訳も振興されてしかるべきでして、そういった基点となるべく〈翻訳温泉村〉なんかがあれば面白いんではないかなとわたくしは思うわけですよ。

翻訳家の住まいと滞在先、充実した図書館と翻訳学校――そこでは一週間の翻訳体験などもでき、かつての翻訳家を顕彰する施設もあっていいかもしれません。学会やシンポジウム、一般向けのイベントもできる講堂も必要かも。観光地になるのかどうか、という疑問に対しては、すでにホームズ訳者の延原謙のゆかりから軽井沢に像が建てられており、赤毛のアン訳者の村岡花子の記念館もありますから、前例がないわけではありません。

もし本当に日本に〈翻訳文化〉なんていうものがあって、この国のあり方を指し示しているのだとしたら、そういうものを凝縮した場所だったりそれだけを研究する機関があったりしていいと思うんですけどね。

しかしながら実現には高度に政治的な振る舞いとそこはかとない計画が必要でしょう。具体的に考えると、まず少数の翻訳家グループが個人または集団である温泉街を定宿にし、そこで翻訳をしたり仲間内のイベントなどをしたりし、翻訳者特有のお願いなどを宿にお願いしたりして徐々に認知され、そしてそのうちのひとりがにわかに売れたり名声を得たりなどして温泉街のことをエピソードとして語り業界内に周知させ、温泉街に翻訳ありきの機運を盛り上がらせた上で、さらに人を呼び込み、そこから地方自治体などの予算で施設を作り、翻訳者はおのれの成果物をそこへ寄贈することで宿泊などお得な割引が……

と、ここで自分が自分に反論。

この妄想には問題点があります。まず第一にいかんせん昭和的であるところ。そもそも21世紀にもなって翻訳者の集うところというのが地理的に存在するところでいいのか、という疑問。普通に考えるなら、21世紀の歴史に刻まれるべきところとしての〈翻訳者の居場所〉はインターネットの方が面白いはず(早くネット上のPD和訳のリンク集欲しい)。

あと翻訳者(翻訳志望者および翻訳ファン)は果たして村の経済を支えるほどの人口があるのか。

プラスお前が温泉入りながら訳したいだけじゃねえか。

はい論破されましたおわり(妄想も終わり)。

製本かい摘みましては(79)

四釜裕子

銀座線の新型車両1000系に遭遇した。車体は昭和2(1927)年開業時の1000形を模したレモンイエロー色のシートをフルラッピングしてあり、内装は明るい。開業時に通ったのは浅草駅から上野駅まで。引越しして最寄り駅となった稲荷町はその間にあって、今も入口壁面に「地下鉄」の大きな文字が残る。この駅のつくりはほぼ当時のまま、浅草通りから降りる階段はせまく、地上の広々とのギャップが可笑しい。

銀座線で日本橋、東西線に乗り換えて九段下、千鳥ヶ淵を歩く。目的のギャラリーに向かったらフェアモントホテルの跡地だった。ホテルが出していた「桜が咲きはじめました」の新聞広告は閉館してから千代田区が引き継いだようだが今年も出ていたのだろうか。5月も末、桜は黒く緑。跡地はすごいマンションになっていて、1階が「ギャラリー册・千鳥ヶ淵」だった。通り一面のガラス張りの奥に3人の製本家と1人の箔押し師による展示「森羅万象ミクロコスモス―ルリユール、書物への偏愛 Les fragments de M の試み」がみえる。

それぞれの作家の作品はこれまでもみてきたが今回は別、「Les fragments de M」と名づけたユニットとしての活動表明だ。個々の作品の展示のほかに、ユニットとして注文に応える用意が示されている。注文制作は本の内容により依頼主の好みにより予算により制作者の技術とセンスによりどんな風にも仕上がる。しかしそれはあまりに当たり前で、初めて出会う依頼主と制作者がその曖昧を緊張に変えて契約を交わすのは稀なことだろう。「稀」にしびれをきらした4人が、その原因を自分たちに課して出た。

会場の一番奥にクラシックなスタイルでパッセ・カルトンされた本が並ぶ。革と紙が幾種類も用意されている。それぞれ選び、革の使い方によって総革装ジャンセニスト/半革両袖装/半革額縁装/半革角革装から選び注文できる。総革装16万、半革装10万円。なるほど。紙はほかにもある? 革の色はもうちょっと薄いほうがいいんだけど。本の内容をイメージしてモザイク入れてもらえる? これを前に互いに言葉を交わすうち、「曖昧」の花びらがめくれることもあるだろう。

暮れた千鳥ヶ淵を歩いて戻る。玄関にウツギの花びらが落ちている。芍薬は綿飴みたいになっている。ルリユールに趣味未満でなついている私としては言いにくいのだけれど、ルリユールを趣味で楽しむものの”憧れに囲まれる”のを拒否した展示だと思った。わたしたちはこんなに製本や箔押しに夢中になっていていいのだろうか。悪いとわれても夢中でいる場所をみつけなくては。わたしたちを求めるひとはいるのだろうか、待っているテクストはあるのだろうか。いるよね、あるよね。どこにいる? どこにある? 会場は静かだが、強いミストを浴びた。展示は6月9日まで。日曜月曜休廊。

〈緑泥石〉詩学92――伝説

藤井貞和

吉里吉里(きりきり)より
船越(ふなこし)へは
乗合自動車に乗る、と山口

霞露岳(かろがたけ)の一地塊が
陸繋島をなす。
船越の低地を
小船なら
結(ゆい)で協同して漁夫が
山田湾から通す

船越より山田へは
七、八十頭もの駄馬が
行き来し、
北海道からは
鰊(にしん)、塩鮭などの
ほまち貿易も
さかんであった

行者(ぎょうじゃ)が村を救ったという
伝説もあり

(「史を按ずるに、役の小角〈えんのをづの〉、或は行者ともいふ。大和の人、仏を好み、年三十二のとき、家を棄て、葛城山に入り、巖窟に居ること三十余年、呪術を善くし、鬼神を使役すと称せられた。文武天皇の時、伊豆の島に流されたが、後、赦されて入唐したといふ。此の行者が、一日、陸中の国は船越ノ浦に現はれ、里人を集めて数々の不思議を示し、後、戒めて言ふには、卿等の村は向ふの丘の上に建てよ、決して此の海浜に建てゝはならない。もし、この戒を守らなかつたら、災害立ちどころに至るであらうと。行者の奇蹟に魅せられた村人は、能くその教へを守り、爾来、千二百年間、敢へて之に叛く様なことをしなかつた」。山口弥一郎『津浪と村』〈昭和十八年九月〉より、今村明恒の一文「役小角と津浪除け」をここに孫引き。山口の本は復刻版がこんかい、三弥井書店から出ている。津浪震災の三陸を、地理学そして民俗学の山口は、その足で歩いて調べ上げた。明治二十九年の震災のあと、高地性集落を敢行した村と、そうでなかった村との、昭和八年における明暗を丹念に挙げている。いまの行政為政の各位には、これを熟読されよ、という山口の遺声が聞こえる。)

シリア騒乱と難民

さとうまき

シリアが気になる。

インターネットでは、拷問を受けて殺された子ども達の映像とか、暴行する兵士の動画が流れている。残忍極まりない。僕は、シリアに1994年から1996年まで住んでいた。

確かに独裁国家でいつも秘密警察に見張られているというのはあったが、人々は温かく優しかった。独裁者も父親のハーフェズから息子のバッシャールに変わった時に、元々政治には関心がない眼科医だったし、「温厚な性格」と言われ続けた。アラブの春がシリアにも波及した時、インターネットやフェイスブックで映像が流出することも分かっていながら、どうしてそこまで残忍に弾圧を強化するのだろうか。映像の信憑性はどうなのか? 一体シリアで何が起こっているのか信じられなかった。

4月、僕は、ヨルダンに行きシリア国境の町、ラムサをみた。シリア側の激戦地になっているダラーから5キロほどしか離れていない。闇で国境を越えてくるシリア人を受け入れているのが、バシャーブシャというビジネスマンが解放した5棟のアパートで、ヨルダンの当局が厳しく管理している。ほとんどのシリア人はパスポートも持たずに逃げてくる。ヨルダン人の身元保証があれば、ヨルダンでの滞在が許される。

私が訪問すると、建物の外で、休んでいた人達が、何かを訴えたいのかわさわさと集まってくる。建物の中には着の身着のままで逃げてきた人たちがいた。15畳ほどの部屋に20人が雑魚寝している部屋や、トレーラーハウスに寝ている人もいる。昨年、石巻に入ったときには、まるで戦場のようだと感じたが、今度は逆に、石巻の避難所の体育館を思い出す。一日400人から700人が国境を越えてくる。「昼間はシリア軍が見張っているので、動けません。夜、200人くらいが集まって、50人くらいの自由シリア軍がエスコートしてくれ、歩いて国境を越えました。」まるでパルチザンのようだ。映画「サウンドオブミュージック」のナチスドイツからの逃亡シーンが思い浮かぶ。そして、福島の人たちが、周りからの非難されることを恐れ夜こっそりと家を出て行くという話とも重なった。奥のほうでは、清楚な女性が携帯電話で泣きながら話をしている。汚れ一つない服は周りからは浮いてみえた。「あの人は、昨日来たんです」。(じきに汚れますよ)誰かが説明してくれた。

数日後。タクシーの運転手が話しかけてきた。「私の家の周りにも、シリア難民が何人かいて、何も持たない、食べるものにも困っている。かわいそうなので支援しているんです。見てほしい。そして少しでも慈悲を」と訴えられた。ルッツフィーさんは、60歳くらいで見るからにハッジといういでたちだ。ハッジは、シリア難民の身元保証人になったことから、町内会で、古着とかを集めては、シリア人たちが住んでいるアパートにもって行く。25人くらいが支援対象になっている。

15日前にやってきた家族は、「ビルの建築をやっていました。ホムスでデモに参加したら、警察に逮捕された。43日間、腕を縛られてつるされて殴られた。脱臼したところが癖になっている」。別の男性は、シリア兵に銃剣で腹を刺されたという傷跡を見せてくれた。携帯を取り出し、動画を見せてくれる。「この人は親戚で、拷問を受けて殺されたんだ。戻ってきた遺体をみんなで確認しているところだ。」そばにいた子ども達も一緒に覗き込む。
「6部屋に10家族が住んでいます。ここは、家具も何もないんです。ガスがあるのはこの部屋だけ。」「この人の夫は、怪我した人を手当てしていたら撃たれて死んだ」別の部屋では、妊娠中に国境を越えて逃げてきた若い女性が流産してしまい、マットレスに横になっていた。多くの女性は、むしろ話すことで気を紛らわせようとしていた。一方男たちの目は、恐怖と不安で沈んでいる。

毎日のようにワン切りの電話がかかる。イラン系クルド難民のアザットだ。イラクの難民キャンプで生まれ育ったが、イラク戦争で難民キャンプが破壊され、シリア国境に出来たアルワリードキャンプに収容されていた。4月15日に、UNHCRが撤退してしまい、水も電気も止められたという。シリア難民でイラクどころではなくなったのだろうか?キャンプ内にあったクリニックも閉鎖されたので、治療が必要な患者をバグダッドまで運んできたという。

なんていうことだ! UNHCRが撤退したって? 300人も残っているのに? アザッドは、イラク戦争時は、18歳だった。9年間の砂漠暮らしで、ろくに教育を受けるチャンスもなかったせいだろうか、落ち着きがなく、順序だってうまく話ができないこともたびたびだ。私たちもいらいらしてくる。しかし、アザッドがしゃべらないと誰もキャンプのことを知ることもないのだ。「僕たちのことを見捨てないで欲しい」アザットが悲しそうにつぶやいた。それは、石巻や福島の人たちが言っていたのと同じ言葉だった。

毎日のようにアザッドが電話してくる。お金がないからワン切りだ。かけなおすと「キャンプの8歳の子どもが腎臓がわるい。病院に連れて行くお金がない。車をだしてほしい」という。「わかった。心配するな」また、僕の仕事が一つ増えた。

シリア難民支援はこちらから↓
http://kuroyon.exblog.jp/18372287/

十五年前、四十年前。

仲宗根浩

五月になると復帰から四十年、新聞(うちはとってないけど)、テレビではいろんな特集記事、番組をやっている。実際はちょこっと見て、あ〜こんなものか、と思うと見るのをやめる。新聞は実家に行ったときにちらっと見てそのまんま、読むことはない。こっちに戻って十五年たった。

十五年前、五月に東京から沖縄に戻った。生活するのは二十四年ぶりで、アパートを借りるとき保証人である親の所得証明書が必要と言われた。東京では保証人にそこまで求めらることはなかったので理由を聞くと、借りる人とその保証人までもが家賃を踏み倒して消えることがあるからだと不動産屋のひとは言っていた。実際、生活してみるといろいろ戸惑うことが多かった。まわりのひとは「やっぱり沖縄はいいでしょう」と、同意を求めるような言い方だったので波風たたないような返事をしていた。

小学三年生の娘は自分が復帰を迎えたのと同じ学年。復帰前後に小学校三年生の頃に聴いた父親や母親の戦争の話はそのとき、二十七、八年前のことだった。復帰前後のことをいま子供に話すとなると四十年前のあやふやな記憶になる。

思い出すのは、復帰すると米兵相手に商売をしていたおとなたちはこれからの生活を心配していた。景気が悪くなり、その当時のような買い物もできなくなる、と言われた。でもこどもの関心は1セントを三円に換算することを覚え、お菓子やジュースはどれくらいの円を持っていれば買うことができるかだった。

しもた屋之噺(125)

杉山洋一

日が暮れると、芝を刈ったばかりの庭のあちこちから、虫の音が聴こえます。その声に耳を傾けつつ、ブランドリーノ・ブランドリーニ・ダッダの詩を読んでいます。読むといっても内容はむつかし過ぎて、到底理解できていないとも思いますが、口に出して読んでいるだけでも、韻が妙に心地よいのです。

5月某日13:05自宅に戻る国鉄車中にて。
夜明け前からドナトーニの「In Cauda II」を赤と青のペンで譜割りしていて、写経をしている気分だ。さまざまな思いが甦るようでいて、淡々とした心地。音符そのものに魂などないが、そこに次第にエネルギーが溜まり、一つの強い表現になる。
ドナトーニにとって、オーケストレーションは色の配合や絵の具の調合ではなく、機織り機に、無数の原色の糸を絡み取らせて色彩を浮上らせる作業だ。雰囲気という曖昧な表現からは何一つ伝わらない、厳しく密度の濃い作業であって、油絵のように塗り込められた表現ではなしに、ロッシーニの軽さと、ヴェルディの雄弁さが共存するよう求められる。

5月某日15:40自宅にて。
しばらく前にドナトーニが作曲した5曲にわたるオーケストラ連作の題名「In Cauda」に邦題をつけてほしいと頼まれたときのこと。
「In Cauda」の第1番は合唱とオーケストラのための大規模な作品で、ドナトーニが好んで曲を附けた詩人ブランドリーノ・ブランドリーニ・ダッダ Brandolino Brandolini d’Adda(1928-2004)のテキストが使われ、ドナトーニは世俗的なレクイエムとして作曲したと解説にある。後に同じ素材を用いて第2番から第5番を長い期間にわたって作曲しており、最後の5番は遺作「Esa」。
手元に第1番の楽譜がないので確かめられないが、ブランドリーノ・ブランドリーニは、しばしばラテン語など外国語を何気なく詩のなかに忍び込ませるから、実際にテキスト中に「In Cauda」という言葉が出てくるのかも知れない。そのもとになった「In cauda venenum(毒は尾の中に)」というラテン語の諺は、「蠍の尾には毒がある」を省略したもの。マリゼルラは、このニュアンスを「生命保険の勧誘を受け、契約書の最後まで書き込み終わったとき」に感じるもの、と表現した。一定の年齢以上の教養あるイタリア人に「In Cauda(尾には)」と声をかけると「Venenum!(毒さ)」と応えてくれるそうだから、「虎視…」「眈々!」と丁々発止やり合うようなものか。結局「通りゃんせ」の一節を使って「行きはよいよい帰りはこわい」とする。
ラテン語を初めとして様々な言語の単語が何気なく挟み込まれたブランドリーノ・ブランドリーニ・ダッダの作品は、言葉そのものの響きと意味を無制限に分解し反復しつつ変容しつづける有機体だが、プロセスも出来上がった作品も驚くほどドナトーニの音楽に近しく、無論とても音楽的である。本人はイタリア語しか話せないのに、スコットランド人貴族の妻を娶り、二人とも馴れないフランス語で会話をしながら、何時しか長男は言語の天才になり、アラビア語はもとより中国語やチベット語まで会得した挙句にサンスクリットの専門家になった、ドナトーニの家族構成を思い出した。

5月某日9:35自宅にて。
イタリアの小学校の学習風景。生徒たちはノートにそれはていねいに色塗りやら「額縁」なる記号で内容を縁取りさせることばかり腐心していて、傍からみていて、どうしてこんな無駄なことばかりさせるのか不思議に思っていたが、教育心理学的にちゃんと意味があるらしい。色塗りはリラックスさせて色彩感覚をのばす効果が、「額縁」は物事の整理整頓の習慣をつける効果があるそうだ。一理あるように思えるのは、人間人生のほとんどを何もしていないか無駄なことに費やすという、基本原則にもっとも適っているからか。

5月某日15:00 市立音楽院フォワイエにて。休憩中。
ヴァイオリン曲は昨日送った。「In Cauda III」の粗読みを終了し、その昔後半を加筆校訂した「Prom」の譜割りをはじめた。内臓が抉られるような、動悸と眩暈がつきあげてきて戸惑う。まっさらな楽譜に書き込みを始めるのは、殆ど暴力的な行為だと常々思ってきたが、今回は特に言葉にし難い、何か一線を越えてしまうような感情に慄いた。少し震えが収まってから、出来るだけ自分を音楽から離そうと戒める。感情的が昂ぶっただけの演奏など、一体何が伝えることができるだろう。
この作品からコンピュータ浄書譜になっている理由は、自筆が到底読めない状態だから。それまでの老人らしい不器用な手書きの楽譜とうって変わって臭いのしない楽譜で、不思議なほどだ。90年代のドナトーニの楽譜から、少し蒸れた臭いが立ち昇る。それはミラーニ通りのほの暗いアパートの寝室で、裸で寝ていた病人の鼻をつく体臭と、無意識に繋がっている。

5月某日20:00 ソルビアティ宅より帰宅中。バス車内。
ソルビアティのピアノ協奏曲「泉 Fons」の録音を聴いてほしいと言われて、彼の家にやってきた。
素直に佳曲だと思う。誰にとっても聴き辛くなく、媚を売るのでもなく、ドラマの展開は思いのほか速くて厭きることはない。森に一軒家があって、そこの扉を一つ一つ開いてゆくと、それぞれの事件が起きる、という類の、世界中の民話に共通するプロットの普遍性に興味があって、それを音楽に活かしたいのだそうだ。結果的に展開の按配はオペラのようでもある。前衛的でもないが古臭さもない書法で、バランスがよい。演奏者にも喜ばれるだろう。2回聴き終わってイタリアの現代音楽の四方山話に花が咲く。政府が音楽にお金を出さないなんて話は嘘で、彼に言わせれば少なくとも政府は補助金を出してはいる。但し、その95パーセントはオペラ劇場に廻ってしまうのだが。一番の問題は、政府が予算を削る際いきなり現行のプロジェクトからお金を削るからだという。劇場の場合、3年越しでプログラムを決め契約書まで取り交わした挙句、だしぬけに補助金が出なくなると何が起きるか。契約破棄してキャンセルするか、演奏者の支払いを延期するか、大富豪に泣きつくか。

5月某日16:00自宅にて。
「Prom」の譜割り終了。解釈とは結局単なるこじつけであり、自分のエゴであり、自らを納得させるためのささやかな手段に過ぎない。音符も儘ならない楽譜が届いたとき、それを自分がどう咀嚼し構成しようと試みたのか、トラウマとともに当時の様子が少しずつ甦る。当時まだ生存していた作曲者の、倒錯した頭の濃い霧に埋もれた音たちを、敢えて可能なかぎりオリジナルに近い形で残すと、楽譜には分断された音と時間が呆然と立ち尽くしていた。今ならどう書き直すだろうか。明らかにずれた音、ずれた音階を書き直せば、すっきりと爽やかな作品になるに違いない。12年以上経ったけれども、未だにそれは自分には出来ないとおもう。だから本来の意味で「Prom」こそが最後の作品、ドナトーニの遺作なのだと確信する。
この後に書かれた「Esa」は既に遺灰のように軽く、シガラミから解放されたバラバラの骨のよう。ドナトーニの過去が重力から解き放されて、こちらを微笑みかけているようにすら見える。順番を間違えずに骨壷に仕舞うように、骸骨寺の骨に覆われたクーポラのように、一本一本骨をていねいに積み上げてゆく。風が通るすぎるとき、少しだけ乾いた音がするかもしれない。

5月某日15:00 市立音楽院横の喫茶店にて。昼食中。
ローマからやってきたOさんを、ブソッティ宅へお連れする。2ヶ月ぶりに会う今年80歳を迎えるブソッティは、「こんな年齢の言い訳でもないと相手にすらして貰えない」と愚痴りながらも、「色々忙しくて」と嬉しそうだ。
Oさんの歌う「涙」を聞いたブソッティは、「隙間なく埋め尽くされた楽譜だけれど、もっと行間に余裕をとって、充分休みを入れてご覧」といい、「もっと静かに。もっと劇的でなく」と注文をつけた。Oさんがささやくように歌うと、嬉しそうな顔をした。そろそろ帰ろうかと言うとき、老作曲家はメゾネットタイプの上階にある仕事部屋へOさんを連れて行った。そこは、ありとあらゆるホモセクシュアル関連のグッズが、綺麗に整頓されて並んでいる屋根裏部屋で、あまり妙齢を招き入れるのに適した場所とは謂いがたい。それを横目に、ロッコが少し呆れた顔で「ああやって人を驚かせては、反応を楽しむのだから趣味が悪いよ。実際はごく普通の人のいい人なのに。あんな身振りばかりを見ていると、彼を誤解する人もいるのだろう。会ったことがなければ、シルヴァーノに対して全く違った想像をするに違いない」。「まあ周りを見ると、どんな変人かと思って会ってみて、やっぱり変人ということも、結構あるのだけれど」。
居間には絵が犇めき合っていて、画家である彼の叔父や実兄の作品や知り合いの画家の作品は勿論、自ら描いた絵や「サドによる受難曲」のパート譜の表紙絵などが額に収められ飾られている。特に忘れられないのは、彼が9歳のときに書いた精密な水彩画で、オペラ劇場の様子が丹念に色彩豊かに描き込まれている。左上の舞台上では、ブソッティの知り合いだったバレリーナが踊り、その前のオーケストラピットでは指揮者がタクトをとり、オーケストラ団員がそれに従っている。平土間中央の通路で、貴族や各地の王族、オペラで見たであろう異国趣味の衣装を纏った来賓たちが、優雅な行列を繰り広げるのを、貴賓席から王様が見物している。9歳の子供の観察眼とは信じられない精密さと、溢れんばかりの劇場への喜びに打たれた。未だに旺盛な創作意欲は、喜びから生まれていた。

5月某日16:00自宅にて。
先日は明け方珍しくイタリアで地震があったが、不覚にも寝たばかりで全く気がつかなかった。今日は日中エミリア州を中心に立て続けに強い地震が襲い、被害も甚大だという。ミラノにある息子の小学校にも消防士が駆けつけて、そのまま建物被害の点検のため午後から休校になった。父兄への連絡は家人の携帯電話に学級代表のお母さんからショートメールが一通のみ。エミリア州にあるレッジョの劇場やアンサンブルにも連絡を入れると、「ここには被害者が出ていないので大丈夫。でも地面は揺れていて、恐怖とともに暮らしている」。
先日は日本の前首相の名が証人としてニュースに上ったが、今朝のラジオでは、現首相が近日中の原発再稼動をほぼ決めたとのニュースが届いた。外国暮らしの自分には何も言えない。

春先に同じマンションに越してきた心臓内科医のKさんが、レッコ駅の目の前に聳える荒々しい山肌を仰ぎながら、静かに言葉を継いだ。
「実は心臓内科医は、一番臨終に立会う機会が多いのです。今でこそ何も感じなくなりましたが、初めて目の前で患者さんの心臓が弱まってゆき、止まるまでを見届けたときは、とても切なかった。魂ですか。それは何とも言えません。今でも科学的に証明できないものの方がずっと多いですし。オカルトには興味ありませんが、不思議な体験はしています。虫の知らせとかね」。

家人と息子の盗まれた滞在許可証を再発行すべく、形式上家族3人の滞在許可証を作り直していて、今朝ポルタ・ジェノヴァの警察署から呼出しがかかった。窓に鉄格子が張られた殺風景な警察署の、卓上の諮問押捺の機械から引き抜かれ、ほらよ、と無造作に渡された滞在許可証の有効期限に何気なく目をやると、「無期限」とだけ書かれていた。

(5月31日ミラノにて)

母の日オメデトウ

若松恵子

母の日の朝、起きてきた息子がニュース番組で気づいて「母の日オメデトウ」と言う。もちろん、1本のカーネーションも無い。「こんな時は普通”オメデトウ”じゃなくて”アリガトウ”じゃないの?」と返しながら、でも最近の「母の日には贈り物を」商戦には少しうんざりしていたので、”アリガトウ”が欲しいわけでもないナと思う。

住んでいる街の近くにある大型ショッピングモールで、金子マリが母の日スペシャルライブを無料でやると知って、自分へのプレゼントに見に行くことにした。チラシに「下北沢のジャニス」(ジャニス・ジョプリンのことですね)と紹介されているように、金子マリはロック・シンガーで、ギタリストChar率いる伝説のバンド「スモーキー・メディスン」の歌姫だった人だ。皆に知られたヒット曲があるわけでもない、ショッピングモールの企画としてはすいぶん冒険ではないか、などと少し心配しながら1人で出掛けたのだった。

ひろばにパイプ椅子が置かれた特設会場の席はほぼ満席で、始まる頃には立ち見の人も並んだ。アコースティック・ギター1本を伴奏に5曲ほど歌う、ほんとうに小さなライブだったけれど、とても良かった。2曲、自己紹介のような歌をうたったあと、「1989年から1990年の間、私はRCサクセションに参加していました。」と言って、忌野清志郎の「彼女の笑顔」を金子マリは歌った。5月は忌野清志郎がこの世を去った月だ。彼に思いを寄せて選んだ曲に違いなかった。

彼女の体には
値段なんかつけられっこないさ
何でもかんでも 金で買えると
思ってる 馬鹿な奴らに
見せてあげたい 彼女の笑顔
  「彼女の笑顔」(作詞・作曲 忌野清志郎 Memphis所収)

母の日のプレゼントを求めてきた人で賑わうショッピングモールの無料のコンサートでこの歌がうたわれる。今日のフリーコンサートが、ただの客寄せだけでない、主催者と出演者による心のこもった贈り物であることが伝わってきた。そして続けて「デイ・ドリーム・ビリーバー」。この曲も清志郎が日本語でカバーしたバージョンが歌われた。最近セブン・イレブンのCMで使われているので、聞いたことのある人も多いはずだ。会場には陽気な手拍子も起こった。でも、私は胸がいっぱいになってしまった。清志郎が亡くなったお母さんを思ってつくった日本語詞だ。

ずっと夢を見て 安心してた
僕はDay Dreamu Believer そんで
彼女はクイーン

と繰り返されるサビ。最後のパートでは「ずっと夢見させてくれてありがとう」になる。

金子マリ自身も、2人の息子のお母さんだ。ドラマーでもあり、最近はドラマ出演もするようになった金子ノブアキとベーシストのケンケン。照れながらも、2人をよろしくと言っていた。彼女の息子も、「母の日オメデトウ」と言い、「普通はアリガトウでしょう」と返したというエピソードを話していた。子ども達には、あまり多くのことを要求しなかった、本当にシンプルないくつかのことだけを大切にして子育てをしていたと話し、最後に、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」が歌われた。人間の先輩として、子ども達に伝えたいこと、それは「この世界は素晴らしい」という事だ。それさえ伝えることができれば充分だ。そんな母親としての金子マリの思いが胸に届いてくるような歌だった。

母になるという事は、偶然がもたらした幸運だ。だからある意味、母の日には「オメデトウ」という言葉がふさわしいのかもしれない。通りすがりの大勢のお客さんのうち、何人かでも、金子マリを”発見した”人が居てくれたなら良いのだけれど・・・・。もちろん私にとっては思いがけない素敵な贈り物だった。

1960年代のジャワ宮 廷舞踊の録音

冨岡三智

今月は「ジャワ舞踊家列伝」をお休みして、先月オランダで聞いた、ジャワ宮廷音楽の録音について書きとめておきたい。

オランダに行ったのは、ヘルシンキ演劇アカデミーTheatre Academy Helisinkiで開催された、アジアのアートとパフォーマンスについてのシンポジウムで発表したあとのついでである。欧州に行ったのは初めてなので、ここまで来たからにはオランダにも数日足をのばしてみようと思ったのだった。一番の目当てはライデン大学横にあるKITLV(王立オランダ東南アジア・カリビアン研究所)。

ここで、1963-64年に録音されたジャワのスラカルタ宮廷舞踊の録音を見つけ、コピー不可というので、2日間必死で全部聞く。スリンピ(4人で舞う女性宮廷舞踊)では「ラグドゥンプル」、「サンゴパティ」、「ガンビルサウィット」、「アングリル・ムンドゥン」、ブドヨと(9人で舞う女性宮廷舞踊)では「ドロダセ」がある。

このときの録音プロデューサーの1人がティルトアミジョヨとなっている。バティック芸術家の故イワン・ティルタのことだ。ティルトアミジョヨはコーネル大学に留学し、そこからインドネシアへと向かって、1963年にブドヨ・クタワンの調査をし、その報告を1967年にコーネル大学発行の雑誌『インドネシア vol.3』に書いている。ちなみに、このイワン・ティルタにくっついて入ったのがベネディクト・アンダーソンで、『想像の共同体』におけるジャワの権力観の考察で、ブドヨが取り上げられているのはそういうわけなのだ。以前、来日したアンダーソンにこの調査の経緯を聞いたら、「ブドヨ・クタワン」という舞踊があるという情報はイワン・ティルタが聞きつけてきたとかで、彼がスラカルタ宮廷でいろんな許可を取りつけてくれたので、自分は何も分からないままに彼にくっついた入っただけだと、話していた。

生前のイワン・ティルタからは、「ブドヨ・クタワン」以外に、「アングリル・ムンドゥン」の録音もしたという話を、私は聞いていた。事実、雑誌『インドネシア vol.3』に「アングリル・ムンドゥン」についてのレポートも掲載されている。(ちなみにその執筆者が、この録音のプロデューサーの1人。)しかし、その他にも録音したという話は聞いていなかったので、これは嬉しいサプライズである。もっとも、彼らが調査に入ったときの「ブドヨ・クタワン」の演奏がなかったのは残念だが…。

一部のCD盤には、宮廷での日曜の定期練習の時に録音したものだとメモ書きされているが、実はこの情報は図書館の目録には書かれていない。録音には音楽や歌などを指示する声も入り、リラックスした雰囲気が伝わってくるから、どの録音も練習のときに行われたと思う。当時の宮廷音楽リーダーはワルソディニングラットと目録にある。あのガムラン音楽伝書『ウェド・プラドンゴ』を書いた人である。

さて、その録音についてだが、わざわざオランダに来て、録音を聞いた甲斐あって、テンポが遅いことを発見!たとえば、「ドロダセ」の前半、グンディン・クマナ編成で演奏されるペロッグ音階の部分だが、現在の宮廷の録音CD(キング・レコード、KICC5193)では1ゴンガン(大ゴングの音で区切られる1周期)の速さがだいたい22〜23秒なのに対し、この1963年の録音では30秒なのだ。

この結果に私は半分は驚いたけれど、半分は予想通りだった。というのも、私は、宮廷舞踊の振付を本当に踊り込むには現行の宮廷のテンポでも速いと思っていたからなのだ。だから、私は2006年に「スリンピ・ゴンドクスモ」の完全版をスラカルタで上演したときに、敢えて、私が振付にふさわしいと思えるスピードで上演して(この公演については、水牛2007年4月号、5月号を参照。特にテンポについては、5月号に書いています。)、演奏者側からも、他の舞踊家からも、そして観客として来ていた音楽家や舞踊家たちからも一様にテンポが遅いと批判された。けれど、この時の「ゴンドクスモ」の録画をいま見直して、「ドロダセ」同様にグンディン・クマナ編成で上演される部分の速度を計ってみたら、1ゴンガン27〜28秒だった。なんのことはない、1963年の演奏より、まだちょっと速いではないか!もっとも、この時、太鼓奏者(私の太鼓の先生でもある)は私の好みのテンポよりもちょっぴり速めに叩いたので、上演後に「ごめんね」と言ってくれた…。というわけで、この6年前の公演での私の解釈は間違っていなかったことになる。

現在の芸大スラカルタ校においては、宮廷音楽の演奏に関しては、マルトパングラウィットの教えが指針となっている。たぶん、スラカルタ宮廷でもそうだろうと思う。彼は、1969/70年から始まるスラカルタ宮廷舞踊の解禁――PKJT(中部ジャワ芸術発展プロジェクト)という国のプロジェクトの中で解禁された――の頃には宮廷音楽家のリーダーになっていて、重要な役割を果たした人で、ワルソディニングラットよりも若い世代である。

今回のオランダ滞在で、かつてマルトパングラウィットに音楽を習ったことがあるという人にも会って話を聞いたのだが、マルトパングラウィットは、スリンピやブドヨは戦いの舞踊なのだから、テンポは本来速くなければならぬという解釈の持ち主だったらしい。彼は、戦いの切迫感や臨場感を音楽で表現したかったのだろうが、舞踊の振付から見ると、そこまで戦いらしさを表現する必要もなかろうと、私は思う。

スリンピやブドヨには、戦いのシーンがある。ほぼ全部の作品にピストランというピストルで撃ち合うシーンがあり、また、パナハンという弓で射合うシーンがあるものもある。とはいえ、それらは、振付上の、取り合えずの枠組みに過ぎない、と私は思っている。一定の時間の流れの中で、踊り手の身体が何かを表現するには、ストーリーというか、何らかの展開の枠組み(起承転結とか序破急とか)が必要だ。それが、「ラーマーヤナ」などといった既存のストーリーに大きく乗っかれば舞踊劇となるけれど、その枠組みがより昇華・抽象化されると、「戦い=2つの異なるものの葛藤・対立、再統合・融合」だとか、「人が生まれてから死ぬまで」とか、「人はどこから来てどこへ行くのか」に収れんされていくのだろう。今挙げたような抽象的なテーマは、ジャワ芸術特有の哲学であるかのようによく言われるけれど、実は、意外に他の地域の舞踊や芸術でも言われていることで、つまり、舞踊という芸術が表現しやすいテーマの普遍的・根源的枠組みなんだと、私は思っている。

要は、スリンピやブドヨは、これは戦いですよということを説明的に描写するものではなくて、戦いというメタファを借りて、「何か見るに値するもの」を表現する舞踊だと思うのだ。その何かとは、ジャワ舞踊の場合、敵と向き合ったときの緊張感というよりも、自己に向き合っているときの、静止した時間(それほどにゆっくりと流れる時間)の中にある緊張感ではないかなと、振付を見る限り、思う。遅いテンポだから緊張感に欠けると、マルトパングラウィットは思ったかもしれないが、そうとは限らない。能など、おそろしくテンポが遅いが、誰も、緊張感に欠ける芸術だとは思わないだろう。ゆったりしたテンポは、ある瞬間をクローズアップするような効果を生み出すこともあり、またこの世と違う次元の時の流れを作り出すという働きもある。スリンピやブドヨでは、魚のように身体がうねるような動きが多い。そんな動きを十分に発揮させるためには、それなりにゆったりとした音楽のテンポを生み出すことが必要だ。でないと、舞踊が、追い立てられて行う体操のようなものになってしまう。

マルトパングラウィットが生きていたら、そんなことを訴えたかったなあと思う。

私が2006年の公演をした時に、「この公演のイラマ(※テンポのこと)は多数派とは言いがたいけれど、こういう可能性もあって良いと思った。自分たちは、マルトパングラウィットの教えを指針にしているけれど、そこに(従来になかった)彼独自の解釈が入っていなかったと断言することはできないのだから。」と言ってくれた人がいて嬉しく思ったと、水牛(2007年5月)にも書いた。でもこういうことを言ってくれる人は例外的である。あのとき、公演の場に居合わせたすべての人に、この録音を聞かせたいなあ、と思う。こういう風にテンポを解釈することも有りなんだよ(というか、実際にしていたんだよ)と、録音を聞けば信じてもらえるだろうから…。

写真を撮りに行ってジーパンを買う話

大野晋

ゴールデンウィークは久しぶりにカメラを片手に撮影旅行としゃれ込んだ。と、旅行に出たまでは良かったが、あいにくの雨模様。しかも、行った先の信州はまだ雪解け直後で撮影どころではない。結局のところ、県内をあちらこちらに飛び回ることとなった。しかも、後で写真を整理してみると2010年からのデータが一切ない。どうやら、2年ぶりの撮影旅行ということらしい。

まあ、どこにいるのか見当のつく場所をあちこち歩くのだから楽しむ対象はたくさんある。北信がだめなら南信、南信が雨なら東信と信州をさ迷い歩くが、行く場所にはついぞ困らなかった。しかし、卒業からそろそろ30年になると思うといろいろと考えるものもある。まあ、人も場所も、もちろん私も変わっている。そんな今を記録するという作業も、もちろん、写真撮影はかねている。さて、再開した撮影旅行。次はどこに行こうか?まず、週末に箱根だな。

ちなみに、信州の安曇野で雨に降られるとジーパンを買うジンクスがある。今回もいつものお店で、ジーパンとなぜか味噌ポン酢を購入した。これはこれで、いい買い物だった。

アジアのごはん(47)塩麹と消えたタケノコ

森下ヒバリ

「塩麹に漬けていたタケノコが消えた!」と友人からメールが届いた。茹でたタケノコの根元の固いところを、薄く切って炒め用などのために塩麹をまぶしておけば、おいしくなって保存も効いて一石二鳥・・と彼女に教えたのはわたしである。

だれかが食べたんじゃないのかとか、自分で使って忘れたのじゃないかと、いろいろ疑ってみたが、がんとして漬けて3~4日で「溶けて消えた」とおっしゃる。うちの冷蔵庫にしまってある塩麹漬を取り出してみると、タケノコの姿は健在である。彼女はどうも薄く切りすぎたようでは、ある。もしや彼女の家には特殊な分解酵素を持つ特殊な菌でも繁殖しているのかしらん。

で、それから1週間ほどたって、塩麹タケノコを炒めものに使おうと、ジップロックの口を開けると、かすかなセメダイン臭がする。仕込んでからひと月近く一度もあけていなかったので、大丈夫かと味見しようとすると、いちおうタケノコの薄切りの形を保っていたそれは、つかもうとすると、あっけなくとろとろに崩れてしまった。

「と、溶けてる・・」先月、大量に掘りたてのタケノコをもらい、1日かかって茹でた。それから毎日、タケノコの煮物やタケノコご飯にして食べていたが、固いところの保存方法として薄切りにして塩麹をまぶしてジップロックして冷蔵庫にしまっておいたのである。

豆腐や茹で卵に塩麹をまぶしてひと月保存しておいても、溶けるというようなことにはならない。むしろ、脱水されて固く締まるとか、チーズみたいになるのだが、タケノコにはいったいどういう化学変化が起こったのであろうか。

どろどろのタケノコと塩麹とを掻き回すと、塩麹タケノコソース、とでも呼びたくなるようなどろどろのものができた。なめてみると、かなり臭いが、けっこうおいしい・・ような気もする。けして腐敗はしていない・・が、くさやの干物も苦手なヒバリは、秘密の調味料として使うのはやめて捨てた。ああ、タケノコさんごめんなさい。

1月の終わりに、まだ少し残っていた塩麹をビンに入れたまま冷蔵庫に放置してタイとインドの旅に出たのであるが、3月末に戻ってきて、料理をしようとビンのふたをぱかんと開けたところ、激臭が鼻を突いた。「な、なんでセメダイン!?」その刺激臭、まるでセメダインそのもの。セメダインというのは昔からある接着剤で、今ではあまり臭くないものもいろいろあるようだが、わたしが子供のころの製品はすべて有機溶剤の臭い、つまりはシンナー系の臭いがしたものである。

どういう化学変化かと恐る恐るなめてみると、味はいい。化学薬品に変わったわけではないらしい。その後、料理に使ってみたが普通の塩麹と同じであった。麹が発酵するときに出る香り成分に、シンナーを思わせるような香りの成分が少量あるのだろう。塩麹を長期保存する場合は、密封するより、時々かき混ぜて空気抜きするほうがいいようである。実山椒をみりんに漬けておいて、バラの香水のような香りのみりんを作ってしまったこともあるが、いやはや香りの成分というのは奥が深い・・。

とにかく、いまや塩麹はわが家の食卓に欠かせない調味料である。シンナー塩麹がなくなったので、そうだ、やっぱりいい麹を使うともっとおいしいかも、と無農薬有機米の麹を探して、それで塩麹を仕込んでみると大変おいしくできた。それから、いっきに塩麹の消費量が増えた。一番よく作るのは、やはり豆腐の塩麹漬けであろうか。水を切り、食べやすい大きさに切って塩麹をまぶして、タッパーなどに入れて冷蔵庫に入れる。漬けて一晩で食べてもいいし、何日おいておいてもいい。そのまま食べてもいいし、すりつぶしてクリーム状にして、白和えやサラダのトッピングなどに使ってもコクがあっておいしい。

塩麹料理のコツは、塩麹の塩加減を覚えてしまうことにある。醤油やみその使い方ならほとんどの人が、どれくらいかけたら塩加減がちょうどいいか体感しているはず。塩麹を何度も試して、これぐらい使えば、しょっぱさはこれぐらいと感覚で覚えてしまえば、あとはもう料理の幅がぐーんと広がる。

ちなみに今晩のメニューは「塩麹豆腐とアンチョビのカルボナーラ風フィットチーネ」でした。フィットチーネはちょっと平べったい、細めのきしめんのようなパスタ。にんにく、唐辛子、新玉ねぎの薄切りをアンチョビの浸かっていた油で炒めておき、パスタがもうすぐ茹であがるころになったら、塩麹豆腐、アンチョビを刻んだもの適量をさきに炒めていた玉ねぎの入った中華鍋に投入し、鍋の中で適当に豆腐をつぶしておく。
ロケットがあったのでちぎって入れ、バジルペーストもちょっと入れ、そうこうするうちに茹で上がったパスタを鍋からひきあげて、鍋に加え、オリーブオイル、黒胡椒を足して全体を和える。味を見て、塩かナムプラーを加える。

ソースを別に作っておいて、パスタの上に乗せるほうが見た目はきれいかもしれないが、ソースを作った鍋の中で麺と和えるほうが、味が万遍なく混ざって、断然おいしい。塩加減が足りない時に、塩麹を入れてもいいが、ここはナムプラーで調整するほうがすっきりまとまると思う。好みでレモン少々を絞るとさらにすっきり。

先日、解凍した麹が少し残ったので、どうしようかな〜と冷蔵庫を開けたらそこに前日のお粥の残りがあった。麹の残り+お粥の残り、これは甘酒を仕込めというお告げだろうか。お粥というのは弱った時に食べるもの、とヒバリはずっと思ってきたが、京都人の同居人にとってはごく日常的なごはんの形態であるらしい。京都人には朝にご飯を炊いて、おひつに入れ、夜はその残りをお粥にして温めて食べたという、保温機能付き炊飯ジャーのない平安時代(1日2食)からの風習がいまだにあるのか・・。朝粥を食べる和歌山県などは、夜にご飯を炊くのかな。

平安時代の風習ではないが、うちには炊飯ジャーがない。どうもあのプラスチックの塊のような存在がイヤでたまらず、所有したことがない。ご飯はいつも圧力鍋か土鍋で炊く。炊飯ジャーの保温機能があれば、甘酒はいとも簡単にできるらしい。麹から甘酒を作るには、50度くらいの温度を6時間ほど保ってやらねばならないという。60度以上になると麹菌は死んでしまうのだ。

そういえば、共同購入の宅配の発泡スチロールの箱があったし、湯たんぽもあるじゃないか・・。温度はカンでやってみることにした。指を入れて3回ぐるぐる掻き回せるぐらいはがまんできる熱さが50度~60度らしい。

ということでお粥を温め、麹と混ぜる。湯たんぽにお湯を入れて箱に入れ保温。1時間後、温度はどうかとふたを開けると。むあっとかなりの蒸しぶろ状態。麹のほうは、容器の中でぶくぶくと発酵中。ちょっとなめてみると、なんとすでに甘い。ミラクル!

一回湯たんぽのお湯を入れ替え、6時間ほどで食べ物のような飲み物のような、不思議な感じの甘酒ができた。甘さは飲むときに好みの甘さまで薄めればいい。冷やしておいて、朝起きて小さなコップに一杯、おやつに一杯、デザートに一杯、とちょこちょこ飲んでいるうちに甘酒はあっという間になくなった。

自然な甘さで、コメの粒をかみしめながら、ゆっくり食べるような飲むような甘酒。甘酒を1日何回も飲んでいた間、なにか体も心も元気だった。甘酒にはたくさんの酵素とミネラルが含まれているというが、その効果なのかも。夏バテにもいいというし。また作ろうっと。

塩麹といい甘酒といい、麹はほんとうにおいしくて、楽しい。麹ラブ!

犬の名を呼ぶ。

植松眞人

かわいですね、と声をかけられるのが鬱陶しい。子供から年寄りまで、男も女も、誰も彼もが「かわいい、かわいい」と声をかけてくる。

たしかにこのバカ犬はまだ生後半年で大きくなる犬の子犬特有のバランスの悪さがあり妙に人の心をくすぐるようにできている。しかし、大の大人が、しかも薄っらひげをはやしたようなオッサンまでもが「かわいい」をばかのひとつ覚えのように繰り返す気持ちがわからない。

いつから男の語彙の中に「かわいい」という言葉が追加されたのだろう。もともと「かわいい」なんて言葉は女子供の使う言葉だったじゃないか。小津安二郎の映画の中で、笠智衆が「かわいい」なんて言っているのを聞いたことがない。

そんなことを考えながら高原は、無理矢理に娘が置いていったゴールデンレトリバーの子犬のリードをぐいっと引いた。

子犬は目の前の花の匂いを嗅ごうとして引き戻されて、少し不満気に高原を振り返る。いっちょ前に文句があるのかと思うと、もう独立して家を出た娘と息子の幼い頃の顔を思い出して笑ってしまう。

今年で四十になる娘は「ボケ防止にペットはいいらしいよ」と理由を付けて突然この犬を我が家へ放り込んでいった。そう言いながら、どうせ知り合いのところで生まれたかした子犬を見ているうちにどうしても欲しくなり、そのくせ散歩や毎日の世話を放棄したくてここに連れてきたのに違いない。

隣の町に住んでいるのに年に数回しか顔を見せなかった娘だが、犬を連れてきてからは週に一度孫と一緒にやってくるようになった。孫を子犬と遊ばせて、携帯電話で写真をパシャパシャと賑やかに撮ると、「晩ご飯の支度があるから」と帰っていく。

そんないきさつだから、高原も最初の一週間は犬をどう扱って良いのかもわからずに、おっかなびっくりの時間を過ごしていた。朝、散歩に出かけても、犬の行きたい方にばかり進んでしまい、いつまで経っても家に帰れなかったりもした。

妻は娘と一緒で飽きっぽく、娘が来たときにだけ思い出したように「かわいい、かわいい」と犬をなでまわす。最初の二日は高原と並んで散歩にも出かけたが、あっちにふらふら、こっちにふらふらする先の見えない散歩に嫌気が差したのか付いてこなくなった。いまでは犬の世話は高原の仕事と決まってしまっている。

ゴールデンレトリバーの子犬の名前は娘と孫が付けた。なんでも、いま流行の若いアイドルグループの女が飼っている犬と同じ名前なのだそうだ。舌をかんでしまいそうな名前をふいに提案され「それでいいでしょ?」と同意を求められたが、まさか自分が犬の名を呼びながら散歩に行くことなど考えもしていなかったので「すきにしろ」と素っ気なく答えたのがいけなかった。こんなことになるのなら、ポチとかチビとか、人前でも呼べる名前にさせるのだったと後悔している。

犬の方では名前など気にしてはいまいと、散歩に出たときに「チビ、チビ」と呼んでみたのだが、立ち止まりも振り返りもしない。そのくせ、たまにしか来ない孫が「ブリオッシュ!」と叫ぶと一目散に走って尻尾をちぎれんばかりに振る。ブリオッシュは、断じて犬に付ける名前ではない。

犬狼詩集

管啓次郎

  61

二人のどちらがより立派に食事をするかが娘たちの賭けの対象だった
数年も腐らないマージャリーンがパンに分厚く塗られる
透明な坂道の甃石としてキウィとグアヴァが選ばれた
透明な鳥たちが芳香と判断する匂いが町をみたす
個体の識別には消えない署名が必要だった
鮫の歯を上手に利用してそれで墨を入れる
椅子と椅子のあいだでみずからの背中を橋とした
きわめて幾何学的なデザインだがそこにも血が流れている
四月の夕方が鈍く重く曇った
筆圧の重圧にカモメが低く飛ぶことがある
長い首をした鳥が狐の腹にくちばしをさしこんだ
痛みと音がむすびつかないようガラスを舐めてゆく
指の一本一本に蒔絵の唐草紋様をつけていった
粉骨という作業もあるとマニュアルには書かれている
視覚を触覚に翻訳するスーツで2hの訓練を受けた
所有の解消のためにもぐらたちが見えない署名を集めている

  62

Animaliaは地名ではないがあえて地名のように捉えていた
その土地を走り回ろうという欲望に抗うことができない
貝殻を拾ってみると意外にぽろぽろと崩れた
その丈夫さによって緯度を判断することができる
Simple life を選ぶかterra firmaを選ぶか、かれらは集団で迷っていた
森で彫り出した二枚の板を合わせて舟を作ろうと思う
シンボリズムとして強い色を選ぼうとするとき赤と黒に行きついた
身体をきちんと制御するために白砂糖をぜんぶ床に捨てる
文化のすべては借り物で特に言語はそうだと料理人が話していた
ヴァイオリニストから転向した胡弓奏者はフィンランドに移住する
一個の胡桃の最良の使用法は便箋代わりにすることらしかった
宛先を書くのが至難の業で試みてもたぶんどこにも届かない
一度通り二度と通らないすべての道路がなつかしかった
広大な小麦畑の中で車を停めると夏の嵐のようにさびしくなる
感覚が鋭くなるからと諸感覚の分離を試みたことがあった
だがだめだ、こぶしのような雹がきみの車の屋根をでこぼこにする

  63

かなりの時間をかけて分水嶺の東へと移動した
方角の迷いを解決するためにキツツキの巣を訪ねる
Juke box を見かけるたびJudentumを思っていた
どの川にも岸辺の石に腰をおろす人がいる
魚との交感を知らなければ川のすべては鏡だった
川底の小石がゆでられる卵のように踊っている
水源の池があると聞いて険しい斜面を登っていった
足が滑るたび迷信だと思いつつ火打石を鳴らす
秘密の祭壇が山頂の草地にあった
草はみずから火を放ち灰になって年ごとの更新を果たす
アンドラできみに会うといったのに着いたのはネヴァダ州の一角だった
その地名を消せ、さもないと、連想が野生化する
音楽が不意に聞こえるたび時間が撹拌された
鰹とシイラの論争にフェニキアの衰亡を思うことがある
犬が起き上がるたびに希望をことわざ化した
もう帰ろう、あの山頂へ、しずかに焼かれた草地へ

  64

舞踊家が詩を書くとすべてのスタンザに「踊る」という動詞が出てきた
私(画家)はピンクと緑の配合だけで跳躍を表す
彼女(舞踊家)は進行方向を迷わず句読点はすべて省略した
絵筆を洗えば洗うほど鮮明な叫びをあげる
始まりを記念して植樹したところすぐ林ができすぐ森に変わった
生息環境の維持によって個体数を魂の数と一致させる
遍歴を表すのに俳諧の言語はきわめて不十分だった
雲の写真を並べることで土地と土地の差異を表現する
鼓動に独特なシンコペーションを与えるつもりだった
稚鮎やフカの鰭を食べ罪だと思わないやつらは芸術を語るな
小学生に課せられた最初の課題は盛大な焚火を作ることだった
空が部分的に燃えているのを予定された損失と見なす
「降りる」という語で「宿る」を意味したけれども同時に死を含意させた
早朝の無人の地下街で「無原罪のお宿り」が高らかに告げられる
おれもそろそろ左耳だけにトルコ石を飾ろうかと思った
そのために欠けている銀の台を大西洋の海底に探す

  65

刻み目を入れた魚を干す風が山にむかって急上昇するようだった
塩の身に対する情愛が太陽の手をやわらかくさせる
スープ(湯)を薄味に保ち乾燥した実をいくつも入れた
波打際に舞う砂粒のような味わいが一日を明るくする
野生動物といってもまさかイリエワニまで想定していなかった
飼育中のヒグマが外に出て空から降る雪を鼻先と舌で受ける
魚を獲るという意図が環形動物に対する知識を豊富にした
文字にも文書にも文彩にもおさまりきらない言葉がある
行為の禁令という観点からするとき世界宗教は完璧だった
波打際の水中に舞う砂粒は存在の始点/終点のいずれに近いのか
生涯の洗練も摩滅も落雷のエネルギーで一気に解決したかった
溶岩が流れこむ海岸への道路を竹箒で掃き浄める日系の老人がいる
アスファルトが沼のようにやわらかくて歩けそうになかった
風の強さは南極大陸の標高三千メートル地帯に匹敵する
Ventoux という名は風を実体と捉え形容詞化したものだった
滑空のための翼を借りられたならそこから飛んでみます

  66

芝生の上の壊れた家具の散乱がテリトリーの崩壊を思わせた
新しい何かが生まれるためには瞬間の切断が必要だ
時間が水のように連続するとは誰にもいえることではなかった
Ce の綴りをツェと読むかチェと読むかをなぜ問題にしないのか
砂といっても生物由来と鉱物由来では手触りがまったくちがった
生物に時間を足せば石、鉱物は生物に常時とりこまれている
朗唱により空間を埋めて明朗さをきみにあげたかった
自動販売機にお礼をいわれても答えられないのが悲しい
翼龍の整然たる進化が列柱の整列を歪ませた
目的を欠いた行進だったため悲壮感と笑いがない
アーネムランドとトレス海峡のいずれも訪問する計画を立てた
南が少しずつ転回して「南と北」になる
ジュゴンを夢で見たときその目の位置が思い出せなかった
Norfolk とNorwichの違いがずっと気になって仕方ない
遠くのものをめざすときだけ詩は必要なmomentumを得た
疎ましいものを考え抜くときのみ美に必要な錆が得られる

オチャノミズ(その1)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

実際のところ何度も日本に来ているのに、わたしの日本語がうまくなるというようなことにはならない。近頃はたまにしか来ていないから公式の表現とか単語などますます記憶が薄れてしまっている。公式な表現というのは習い覚えたお定まりの表現ということだ。たとえば、日本人がわたしに学校で習ったような丁寧なあいさつをしてくれると、こんにちは、私の名前は。。。。、お元気でいらっしゃいますか、とかお達者でいらっしゃいますか、などということになる。こんなふうにはなしていると堅苦しいし、暗記してきたようで生気がない。

わたしにとっては何かはなすとしたら気持ちから湧き出てきて触れあえるようなのがいい。ところがそれが難しいのだ。それで沈黙がわたしにとってはどんなことばよりもすぐれた表現になる。

わたしにふさわしい表現といえば沈黙していることとうたうことに勝るものはないだろう。わたしがうたってきた多くの詩(うた)は哀しい歌だった。めざす道なかばで斃れていった多くの友、離別、山岳や森林のすがたなどだ。聴いていた日本人の中には涙をにじませている人もいて、音楽ということば、さまざまな歌の奏でるリズムが、絵画や演芸、園芸などと同じく人びとの楽しむアートのひとつであることに気づかされた。。

「まだ大丈夫ですか」ユーゾーさんはいつもこんな風に訊いてくる。
「ダイジョーブ」と、わたしは日本語で応える。

ユーゾーさんは笑顔満面で、瞳が嬉しそうに光っている。この男はそこそこ有名な歌手でギターも弾く。タイ語もかなりうまい。タイ語らしい言い回しにはまだ苦労しているが。タイ語が好きだとはいえ日本人なのだから、われわれタイ人と同じにはなせるわけはないが。

オチャノミズに来るのは何回目だろうか。ここは学校の多いところで若者の往来がはげしい。大学もあれば中学や高校もあるし、古書店街でもあるし、ギターなどの楽器店が並ぶ地区でもあるのだ。

皐月のまぼろし

璃葉

空はごうごう呼吸をしていた
風と雨がつよくなる

雫滴る軒下から路地を見る

歩いていた人々は
雨と一緒に溶けてなくなってしまったのだろうか?
建物が寒そうに立っている

誰もいない
硝子の窓にはただれるような雫

何度目かの突風が吹いた

一人、真っ赤な服に身を包んだ少女が
早足に路地をすり抜けていく

その赤はまるで舞台衣装のようだった
青白い世界に、入ってはいけないものが飛び込んで来たような

彼女を追うように、暖かい光が差してくる

雨は細い線に変わり、止んでいく 

雪解けの朝のように澄んだ空
溶けた人々もどこからか湧いてきて

古本街は再び賑やかになる

お日様を連れてきた少女はどこかへ消えていた

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掠れ書き19

高橋悠治

システムや方法論や構造主義を捨てて暗い時代と手にしたわずかな音で行く先の見えない音楽を書き続ける。全体の構図からではなく断片から断片へすこしずつ書き継いでいくと連続した流れがおもいがけないところで消えてまた他の場所に現れる。即興の速さや背後に蓄積された技術ではなくゆっくり一滴一滴と虚空に滴る中空の雫。

音楽ではなく絵でもなくことばで書かれた脳内風景の観察プロセスたとえばベケットとウィトゲンシュタインのパラグラフを辿り直して語り続ける声の変化を手のうごきに映す。うごく手は音の残像を後に曳きながら関係の網を織り次のうごきと音が揺りうごかし関係を組み換え対称性を破る。

本を読みメモを書きメモからノートに移しまたメモに書き加えノートからことばを削る。一つの声それを中断する第二の声それに応える最初の声と続く古代ギリシャ劇でstichomythia(隔行対話)と言われたかけあい技法。相手のことばを取り入れながら反論しそれぞれの言い分をくりかえしながら逸れていく。もどってはやりなおし言いまちがえる声とおなじことをおなじには言わないことばが重心を移しながら流れの速度を調節する。対話する二つの声を聞く第三の声があればプロットを複雑にしパターンの組合せが機械的な対照におちこむかわりに距離を変えながら浮遊して見過ごす眼と聞きとれないことばを追う耳が行き来する。空間が対話とその断片を包んであいまいにひろがる。

anaphora(首句反復)はおなじにはじまりちがう終りに行き着く枝の束。おなじ始まりを強調すればまとまりと構成の方へ、終りのちがいが際立てば止められない解体と分岐で言い直し言い損ないに近づく。

allusion(引喩)は昔あったなにかを思い出させるようなうごき。引用の重みはなく直接でもなくパロディーの悪意や意図はなくパスティッシュの軽みもなくはっきり見えない影がまとわりついている。

犬狼詩集

管啓次郎

  55

眠ったふりをして少しずつ椅子を傾けていった
ワイオミングとワイカトで羊たちが道路と議会を占拠する
平原のuncannyな光がまた新たに上演された
カタツムリの触角の尖端で緑色の虫がぐるぐる動いて鳥を誘う
夜のうちに少しずつ体も自転することが避けられなかった
動物一般を、アリストテレスよ、どうして動物と呼ぶのですか
あまりに寒い冬で頬の裏側にツンドラがひろがっていた
彼女はディンゴを飼い馴らしてアルパカの群れを守らせる
交差点にぽつんと置かれたとき一気に都市的次元が生じた
皮下脂肪とコインが溶けるくらい気温が上がる、花も咲く
見る見るうちに花が成長するヴィジョンを映画以前に想像していた
星が雨のように降る高原でうつぶせに寝ている
海岸の海亀を見たければ23時すぎにおいでといわれた
「亀海」という地名は実際世界中にあるのかもしれない
生きることを学ぶためにすべての動物をよく見ろと教えられた
その教義から言語をひきはなすのが今後の課題となる

  56

女には演奏が禁じられている伝統楽器の奏法を少女は習得した
女には乗船が禁じられている漁船を祖母がシージャックする
反対方向から流れてくる二つの川の合流点に立っていた
焦げ跡のように茶色いツイードの上着がそれでもうおかしくない
小舟の舳先に描かれた太陽は小舟の「目」と呼ばれていた
使い古された動物のぬいぐるみたちがさまよいの航海に出る
一冊の本に別れるために1ページをまるまる筆写した
夕方の光がなんだか朝陽のように感じられる
図書館に入るたび本がうさぎのように跳ねてきた
田舎の舗装道路で紙のようにうすくなったうさぎに声をかける
「渇き、立っている」人たちの群れが夏至の丘の上に集っていた
人間を政治的動物と規定すると途端に政治がわからなくなる
一点にピントを合わせることでジオラマ的世界が生じた
写真化することで目の前の現実から目をそらしている
都市に覆われた地域で谷間を正確に選んで歩いていった
目をつぶればつぶるほど風の流れや音がよくわかる気がする

  57

いつまでも歴史の外にある偽りの国家だった
あざやかな色をした髪切虫が日付変更線を越えてゆく
心を刈りこむ代わりに髪をごく短くした
オアシスを相対化するように考えがどんどん湧き出す
日本語をあまり知らない外国人たちが日本語で談笑していた
ぼくは鳩にすらダスヴィダーニャと別れを告げる
マサラが脳に直接的な色彩を与えた
サラダの本質は塩なのよとマクロビオティクスの先生が説得する
あらゆる記念日は現実の前に敗退するとぼくは反論した
丘の上の髑髏を酢で洗うのがさびしい
悲しみを改訂する必要はないと天気予報家が語った
チャイに沈むチャイにさらに二十個の角砂糖を沈める
固いヨーグルトを溶かすためにバターと蜂蜜をかけた
そこでふたたび労働の技巧が問われることがある
私のいうとおりにパンを焼きなさいと村長にいわれた
煙が出る草花を無為のごとく燃やすといい

  58

「浮き上がれミューズよ」と金魚売りが号令をかけた
らんちゅうがよちよちと懸命にジャンプを試みる
歴史と雑巾をいつも忘れる偽りの社会だった
住居はすべて冷たい土に正方形に掘ってゆく
角とアレクサンドロスをアラビア語が再解釈した
浮世絵の片隅に家郷なきゴッホが住んでいる
街角で拾ったチケットはあらゆる映画館に人々を入場させた
「これをパスポートにしたら」とカラスが羽をくれる
黒砂糖を眉に塗るのは魔除けのABCだった
ある角度から見ると青く見えるのが彼女の右の瞳だ
マッチ箱を積み重ねても住居にもスカイツリーにもならなかった
火であぶれば緑の葉がどんどん分厚くなる
その後あらゆるリンクを糸電話に張り替えた
社会的な運動に回遊が連結される
音楽に自信を失った都市をふと影が通り過ぎた
巨大でぼんやりした表情が歩道の上に浮かんでいる

  59

黒い犬に降る桜が雨の降り始めのように美しかった
波の紋様を簡略化してそれで海洋民族を表している
個人的な語彙集を作りつつまだ書かれてもいない長編小説を読んだ
青いペンのインクが多彩な発色をつづける
砂漠の白い教会のそばの丘で洞窟に聖母が出現した
彼女は本棚をすべて著者名のアルファベットで配列する
パイナップルと血と挽肉で特別なサンドウィッチを作った
ときどき食事自体に強い罪悪感を覚えるのだという
墓地が歓喜にみちた群衆の集合地点となった
耳が痛くなるほど静かで目が痛くなるほどいい天気だ
縄文という響きと一万年が不等価交換された
悲劇という形式を選んだ鹿が何度でもその場で死んでみせるらしい
ゴッホが浮世絵に学んだように彼女は筋肉をリサ・ライオンに学んだ
腐心という言葉ほどイヤなものはないなぜなら心が腐る
私のamigoが「代々木公園」から地下鉄に乗車した
雨の日にシェルターを求めて私たちは街路樹から離脱してゆく

  60

食物が唯一の希望だ願いだというところまで人々が追いつめられていた
南極よりも広大な乾燥に人工物がすべてひび割れていくそうだ
毎年谷川が洪水を続ける小さな双子の村があった
水流は対立的な色で髪の毛をきっぱり染め分ける
小麦があればパンを作りトリモチを使って鳥をだました
Decemberなくしてdemocracyなしと果物屋の店先に書かれている
水墨画教師の息子は世界を白と黒でしか見なかった
「仮の水」とは偽の水なら私の顔だって仮面だから
タマという言葉により不在を丸く表現するつもりだった
不可能な世界に小さな偶然をイトミミズのように食わせてみる
力の緻密な消滅がクロアチアの海岸に金鍍金をほどこした
物悲しい砂丘です、黄色い花です、揺れてます
だが命ではなく自由な呼吸がみずからを主張し装飾した
私には火山がなかったが腰掛けにはそれでも事足りる
ただそれが分解されどれだけの労力になるかをロバの頭数で計った
干し草はあくまでも甘く分解され活動と瞑想を支援する

マンゴー通りからきた詩人

くぼたのぞみ

いまにも泣きそうな
おもたい空の表参道で
マンゴー通りからきた詩人と会った

インディゴブルーの長衣をはおり
髪なびかせて立つサンドラ・シスネロス
耳には陽の光はなつ
ターコイズのイアリング
マヤの人
サンアントニオの人
ナワトルの人
テハスの人

光にぎやかな通りを
渋谷駅まで歩いていくと
ついに空が決壊して
たなびく鯉のぼりのすきまから
ぱらぱらと雨滴を垂らし 
ハチ公はどこ?
ときく犬好き詩人の髪にかかり
それを写真におさめようとする
Sさんのカメラレンズを濡らし
わたしたちの声を
金曜の夜の喧噪のなかに解かした

世界じゅうの大河と話ができる
マンゴー通りからきた詩人は
ぽっかりあいた喪失の空隙にも
いつのまにか
生まれるものがある

そこだけ透き通るような声で語り
うっすら放射能によごれた
東京の水を飲み
この土地の野菜を食べて
だいじょうぶ
といって大きな胸にわたしを抱き締め
ごみ箱あさる 
東京のカラス万歳!
という詩をおくってくれた

ミドロ紀――91 メール1・2

藤井貞和

メールをありがとう。どこから?
届いてる! ミドロ紀へ。
あなたが、思いを行動に結びつけての旅。 車に、
シンチレーションとガイガーとを乗っけて、遠い行脚を始めるって。
そのことの意味が、とってもあるよね。 宮澤賢治みたく、
心づよいよ。 たしかに、自然放射能はあって、
千年前の8月でした。 地球で測ったら、表面よりは、
地中の熱さに、ボクらは飛び退いた。 あの日の少年紀から、
今世紀へジャンプ。

きみが 午前虹まで、惨事まで、書類に暴投してる。
高校生は福島県内で総文を舞台に。
日南は「がんばろう日本」に負けたと。
そういうナショや エゴ。どうしよう バウンドでツーアウト。
横書きの、くぼんだ序説は 無題。
しざりしざり ここに書く鏡箱の蓋のうら。
たいまを吸って、虹を惨事に、余事 誤字。

(「職員諸兄 学校がもう沙漢のなかに来てますぞ/杉の林がペルシヤなつめに変つてしまひ/はたけも薮もなくなつて/そこらはいちめん氷凍された砂けむりです/白淵先生 北緯三十九度辺まで/アラビヤ魔神が出て来ますのに/大本山からなんにもお振れがなかつたですか/さつきわれわれが教室から帰つたときは/ここらは賑やかな空気の祭/青くかがやく天の椀から/ねむや鵞鳥の花も胸毛も降つてゐました/それからあなたが進度表などお綴ぢになり/わたくしが火をたきつけてゐたそのひまに/あの妖質のみづうみが/ぎらぎらひかつてよどんだのです/ええさうなんです/もしわたくしがあなたの方の管長ならば/こんなときこそ布教使がたを/みんな巨きな駱駝に乗せて/あのほのじろくあえかな霧のイリデスセンス/蛋白石のけむりのなかに/もうどこまでもだしてやります/……」〈宮澤賢治「氷質の冗談」〉。「イリデスセンス」は「虹色、暈色。鉱物の内部又は表面で虹色を現すこと」〈藤原嘉藤治「語註」、十字屋書店『宮澤賢治全集』一〉と。『闘う市長』〈徳間書店〉によれば、南相馬市長桜井勝延氏は宮澤賢治にあこがれて、岩手大学農学部へ進学したそうです。)