長い道のり(1)

小泉英政

1971年9月20日、小泉よねさんの田んぼ、そして宅地と住居が成田空港の用地にかかり、強権的に代執行された。その二年後、ぼくたち夫婦が養子になった。末期の胆管ガンだったよねさんのなにがしかの力になればと思った末の入籍だった。一時的によねさんは回復したかに見えたが、その二ヶ月後に無念にも息を引き取った。

養子になったことによって、二つの裁判をかかえることとなった。一つは代執行そのものを問う「緊急裁判取り消し訴訟」、それはこちら側が原告で、被告は国と千葉県だった。もう一つはよねさんが残した畑の明け渡しを求める裁判で、こちらが側が被告で、原告は空港公団だった。

一つめの裁判は最高裁の段階で、長らく止め置かれていた。二つめの裁判は、裁判の途中で空港の開港に間に合わせるために、仮執行され、最高裁まで行ったが、こちら側が敗訴した。

二つめの裁判、よねさんの畑をめぐっての件は、空港公団の。その場所欲しさの卑劣な企みだった。よねさんが亡くなったのをいいことに、よねさんには全く権利がないとして、名義上の地主と口裏を合わせ、裁判所もそれに加担したあげくの許せない行為だった。

よねさんの畑をめぐっては裁判上はこちら側が敗けたが、ぼくは「これは冤罪行為に等しい」と声を上げ続けた。空港問題の公開シンポジウムを経て、国、空港公団側が空港建設の手法について強権的であったと、反省を述べたその流れのなかで、よねさんの畑をめぐる問題にも、もう一度光が当てられる事態となった。担当をした空港公団の職員は、よねさんの畑のいきさつに詳しい村の人々や関係者から聞き取りを行い、その結果、よねさんに権利があると認めるに至った。それらの人々の証言は裁判所にも提出されていたものだが、国策に従った司法は、全く無視していたものだった。よねさんの畑について、空港公団が非を認め、同時によねさんの代執行についても謝罪する用意があるとのことだったので、最高裁の段階で止まったままになっていた一つめの裁判についても、「和解」という形に収めることとなった。

二つの裁判で争ったことについて、国、空港公団が非を認めるという形で、こちら側の実質的承知という結果となった。その結果を踏まえて、よねさんの畑が、よねさんが眠る墓地のすぐ近くに返されるという現実的処置も、異例のこととして行われた。

小泉よね問題はそれで終わったわけではなかった。よねさんの代執行は特別な法律によって処理された。緊急的な案件なので、補償についてじっくり判断する時間がないので、仮補償で済まし、その後「遅滞なく」補償裁決をするよう求められているが、それが43年間、放置されたままになっているという問題なのだ。また仮補償において、よねさんの家を壊した補償額が約30万円と算出されたように、よねさんの生活権を全く無視した、見せしめ的な要素があからさまな点についても、大きな問題点として残っていた。

この仮補償の問題について、国と空港公団(現・空港会社)はすでに前の和解において謝罪しているが、代執行の当事者、千葉県が43年間放置していたことについて「やむを得なかった」との態度を取り続けていた。「違法確認の行政訴訟」と起こす他に方法はないと思っていた(ここまでは岩波新書『土と生きる』の「国に拠らず」という章に詳しく書いていますので、参考にしてください)のだが、長らく裁判を担ってくれた前田裕司弁護士から、違法確認の訴訟を起こせるのは起業者(空港会社)で、こちら側からは起こせないとのことだった。

法律によって、仮補償の状態では、その内容に異議があっても、訴えが出来ないことになっている。つまり、憲法によって保証されている裁判を受ける権利が仮補償のままでは奪われているのだ。だから、被収用者の権利を考えて、「遅滞なく」仮ではない補償裁決をしなければならないとされている。43年間放りされているということは、ただ単に、長い間、据え置かれているということではなく、長い間、訴えを起こす権利が奪われているということなのだ。

そういう行政の違法な行いを問う行政訴訟も、またこちら側から起こせないとは、これは権力者のやりたい放題となってしまう。前田弁護士によれば、他の訴訟の方法としては、長い間、放置されてきたことに対する精神的慰謝料を求める損害賠償請求の裁判があると言われたが、それは全く気が乗らなかった。第一、ぼく達はこのことによって損害賠償を求めるほどの精神的苦痛は受けていない。ではどうすればいいか。前田弁護士は次のように言った。「すでに和解によってこのことに対して非を認めている空港会社の人に、千葉県を説得してもらい、話し合いによって解決するという道があるのではないか」

ぼくは早速、前の和解に関わってくれた空港会社の人に、なんとか千葉県を説得して、収用委員会を開き、補償裁決を出すよう促すことは出来ないかとお願いした。しかし、千葉県の態度はかたくなだった。

千葉県の収用委員会の会長が、1988年に、反対運動を支援するグループの人に襲われるという事件があった。その後、収用委員全員が辞職し、収用委員会が空白の時期があった。16年後に収用委員会が復活したが、空港問題うぃ扱わないとの制約を設けていた。

新たに空港問題を扱わないのはいいとしても、この問題は過去のやり残しの問題であるし、きちんと後始末をつけるべきではないか、また、会長が襲われるという事件の前に、17年間の時間があったわけで、「遅滞なく」という条文からして、千葉県の責任は免れない。

その後、事態が動くようになったのは、こちら側から「協議申し入れ書」を内容証明で送ったからだった。それには、協議に参加してもらえなければ、法的措置に出ることもあると、強く申し入れてあった。

これで、国、千葉県、空港会社、ぼく達と代理人という四者がテーブルについたのだが、相変わらず千葉県は言い訳に終始し、「やむを得なかった」と弁明した。「反対運動が激しかったので、収用委員全員が開ける状態ではなかった」、「会長が襲われる事件があり、その後、収用委員全員が再開したが、成田問題は扱わないことになっている」、「この問題の審理ができるのは、空港問題の全ての用地問題が解決してから」、これではあと何年、いや何十年かかるかもしれない。

ぼく達はこの問題を次の世代に残す訳にはいかないと考えていた。最悪の場合、何十年後かに収用委員会がこの問題を審理し、裁決を出したとしても、事情を知らない次の世代では、対応が出来ないだろう。養子として、この問題を引き受けたたのは、ぼく達で、そのことを子供達に委ねる訳にはいかない。

「代執行はしておいて、その後始末が出来ないと言うのであれば、壊した家をもどしてくださいよ。元の場所にとは言わない。ぼくが住んでいる東峰に、よねさんの家をもどしてください。長い間、お世話になっている島村さんに土地をお返しして(よねさんは代執行後、島村さんの農地の一角に宅地の提供を受けて暮らし、その家をぼく達が引き継いでいる)もどしてもらった家に住むから」と、ぼくは少し、憤慨し、一回目の会合を、流した。

アリアドネー

高橋悠治

風が水の表面に刻むように 瞬間に起こる変化から 論理を展開しようとすると じっさいに音楽をつくりながら または演奏しながらさぐっていた道からはずれて 解釈から先取りした意味付けに頼って 直線で進みたくなる 実感より先走ると 20世紀前半までの音楽史の上で もう終わった道をくりかえし辿っていることになりかねない

糸玉を転がし その後を追って迷路から出る 道のわずかな傾きを感じて 止まらずに転がっていくのが 論理の糸ではなく わけもなく 跳ね上がり 気まぐれに逸れていくうごきであれば 論理のほうが糸をはりめぐらせてしばるもの 論理こそが迷路で そこから転がり出ていく糸玉は いままでになかった論理として後からまとめることもできるかもしれないが 限界を一時的に決めなおしても そこから新しい迷路が立ち上がるだろう

糸玉がほぐれると アリアドネーは捨てられる 

ことばをつかって さまざまなうごきが見える窓をひらくのなら 最後の一行だけでよかったのか それとも これも論理の前ではなく 後の一行にすぎないのか

仙台ネイティブのつぶやき(1)堀の水のゆくえ

西大立目祥子

 七郷堀に水が入った。今年もいよいよ始まるのだ。…といっても、ほとんどの人には何のことやらわからないでしょうね。七郷堀とは、仙台の中心部を流れる広瀬川から取水され、東へと流れながら広大な水田を潤す農業用水のこと。毎日のように、この堀にかかる小さな橋を渡るので、水の具合をのぞき見ては4、5キロ先の田んぼのようすを想像している。
 毎年4月下旬、ある日を境に水かさが一気に増える。それは、代掻きの始まりの知らせ。数日後には田んぼに水が入って、耕うん機が行ったりきたりし始めるのだ。田植えはゴールデンウィークから5月20日ごろまで。減反で休む田んぼが多いとはいっても、つぎつぎと田んぼに水が張られていくから、堀の水かさもぐんぐん増していく。梅雨に入るといったん減って、夏の盛りに向けて再び水の量は上昇。梅雨明けの7月下旬から8月初めの出穂と開花を迎える時期、水は堀の脇から延びてくる草の下をとうとうと流れて、見ていて気持ちがいい。でも、このころの天候が実りを決めるので、農家は空模様を気に病んでいるんですよね。そして、9月に入り、朝晩の涼しさに夏の終わりをしみじみ感じるころ、水はある日突然、がくんと減る。稲刈りに向けて、田んぼから水が落とされたのだ。

 大震災が起きた2011年、七郷堀の水は4月になっても5月になっても増えなかった。橋の少し先の中学校の体育館には、沿岸部からたくさんの人が避難してきていた。そうか、今年は田植えができないのだと気づかされ、400年近く営々と休むことなく行われてきた米づくりがぱたりと止まった、その事態の大きさが胸に迫ってきた。
 あまり報道されなかったけれど、仙台市沿岸部も大津波によってひどい被害を受けた。集落が丸ごと流され、人の命も失われた。そして田んぼもがれきに埋め尽くされ潮をかぶった。田んぼに水を運ぶ用水路も、海へと水を流す排水路もがたがたに破壊され、七郷堀に水を入れれば、沿岸部が水浸しになるのだ、と聞いた。
 そうそう、かんじんなことを書くのを忘れていた。仙台は市街地の下流に水田が広がっている。これは全国的に見渡しても、極めてまれなことらしい。というのも、街が川の中流につくられ発展してきたからだ。日本の他の大都市は、もっと下流に生まれてているらしい。たしかに、東京も大阪もそうですよね。どんどん海を埋め立てして大きくなってきたのだから。
 江戸時代をとおして、新田は東へと広げられ、中心部のやや下流で取水された七郷堀の水は、ちょうど毛細血管が細やかに広がって全身に酸素を運ぶように、枝分かれして下流の集落をめぐり一枚一枚の田んぼに水を行き渡らせてきた。明治時代の地形図を見ると、曲がりくねった道といっしょに自然の小川そのもののように高低差に身をまかせ東へ広がっていく堀のようすがイメージできて、楽しい。

 大震災のあと、古文書の読み直しが活発になって、ちょうど400年前の1611年にも今回の大津波と同じ規模の大津波が仙台平野に押し寄せたことが明らかになってきた。もちろんこれまでも、大津波が襲来したことはわかっていたのに、具体的にどんなものかを想像できずにいたのだ。歴史家でさえも。
 たとえば、その年の晩秋に、伊達政宗は初鱈を徳川家康に献上していて、とのとき領内に大津波が押し寄せ、沿岸の船が内陸の神社のご神木のてっぺんに引っかかって止まった話を聞かせたことが徳川家の古文書に記されているのだけれど、それも家康をよろこばせようと話を誇張したのだ、といった具合に。私の育った街には「蛸薬師さん」とよばれている薬師如来があって、大津波のときタコがしがみついて流れてきたお薬師さまがご神体、と伝えられてきた。そんなまさかの伝説も、いまは本当だと心から思える。想像を絶するものを見ないと人の想像力は枠内にとどまったままなんだろうか。

 2012年の春、水は元通りとまではいかないけれど増えていった。2013年には、さらに増した。「3年ぶりの田植えだ」という声が聞こえてきて、ゆっくり田んぼを眺めにいった。空を映して広がる水をたたえた田んぼの風景は、ほんとに美しい。はじまり、動き出す。田んぼを眺めて、このときほどそういう印象を受けたことはない。
 農家の人たちは、表情に安堵感を浮かべながら「寒い、寒い」といっていた。沿岸部に分厚く繁り、田んぼを風と潮から守っていた松並木が根こそぎ流されたからだ。冷たく湿った風にかぼそい苗が激しくゆれている。江戸時代からずっとたゆまず、なぜ松が植え続けられてきたのか。私にもようやく、わけがわかった。

 生まれ育った仙台から、海、山、森、川…そんな話をお届けしていきます。

ゴールディ・ホーンの黄色い傘

野口英司

海外に比べれば犯罪発生率の低い日本ではあるけれど、昔に比べれば犯罪に巻き込まれる確率が格段に上がっているような気がする。今までのような平和ボケで街を歩いていると財布くらいは簡単に盗られてしまう世知辛い世の中になってしまった。もし、悪漢に襲われた場合に撃退するにはどうしたらいいのだろうか。やはり武器を持たねばなるまい。と言っても、銃砲刀剣類は法律に引っ掛かるので、何か武器に取って代わるような一般的なモノで代用しなければならない。

何が良いんだろうか?

そうだ! コリン・ヒギンズ監督の映画『ファール・プレイ』(1978年)の中でゴールディ・ホーンは、雨傘を使って悪漢を叩きのめしていた。見た目からして鋭利さを強調させている雨傘は、雨の多い日本ではやはり武器となりうる手近なアイテムだろう。

『ファール・プレイ』の舞台はサンフランシスコで、とりたてて雨が多いと言うわけではないそうだ。でも、この映画では必ずゴールディ・ホーンが黄色い雨傘を携帯していた。最初にその雨傘で悪漢を撃退したことから、悪の一味に捉えられた刑事からおびき出しの電話を受けた時に、その刑事は「雨傘を忘れずに」とさらりと言う。その言葉が何を意味するかバレないうえに、雨傘が武器となってゴールディ・ホーンの身を助ける手だてになると思ったからだった。

『ファール・プレイ』は『知りすぎていた男』をベースにしたヒッチコックのパロディ映画で、『逃走迷路』『ダイヤルMを廻せ!』『北北西に進路を取れ』などから拝借したシーンやマクガフィンをちょっとひねって面白可笑しくストーリーの中に取り込んでいるテクニックが素晴らしく、何度も何度も名画座に足を運んだものだった。そして、あまりにもこの『ファール・プレイ』が好きすぎてサンフランシスコのロケ現場まで行ってしまった。

この日はゴールデン・ゲート・ブリッジまで見渡せるほどよく晴れていたけれど、翌日はしとしとそぼ降る雨で、その中をあちこちと出歩いたものだから高熱を出してしまった。ああ、今思えば傘を持ち歩けば良かったのだ。それも黄色い傘を。

新年度

仲宗根浩

新年度になりこちらの仕事はちょっとまわりや上が変わり少しづつ量が増えてきているような気がする。先月から徐々にであったが、四月に入り定時に終わることはまずなくなってきた。

そう、四月からラジコのプレミアムというものを導入、録音ソフトもパソコンにインストールし、今まで聴くことができなかった放送も生で聴いたり録音して聴いたり。そのお陰でテレビはほとんど見なくなる。視覚から情報が入らないというのはなんと楽なんだろう。目と耳から同時に何か否応もなく入り込むものって一日にたくさんあるのでテレビなどはかなり頭の中を刺激をくれて疲弊させているんだろうなあ、と思ったりしたりする。

で四月になりタブレット端末を新しいものにした。前に契約した端末が二年縛りが切れるのと、新しいキーボード付きタブレットが出たのでついつい。OSもバージョンが上がり、外部のメモリもSDXCで128GB対応。内蔵と合わせて160GB。これで今まで使っていたタブレットの外部メモリ32GBがパンクしそうだった音源にも余裕が出たのでこれでもか、CDから取り込んでもまだ余裕。思えばパソコンのスタートは4MBROMの100MBのハードディスクがスタートだった。内臓ROMやハードディスクの容量の拡大はどこまでいくのだろうか。で、今まで使っていたタブレットは子供と奥さんのものとなる。子供が将棋がやりたい、と言うので将棋ソフトを二つばかり入れる。もともと頭を使うことを苦手な父親は将棋の初歩から教えてくれるソフトを選び、相手をしなくてもいいソフトを選びこちらにあまり質問などこないようにすると、奥さんも将棋をし始める。

ここ、数ヶ月新聞を読む、といってもある筋から偏向新聞と言われるている地元の新聞も含めて購読はしていないので、読むときは職場での休憩時間に職場で取っている地元の二紙。二紙とも広告獲得が難しくなったためだろうか、夕刊はかなり前になくなった。毎日、辺野古のことを知らせてくれる。偏向という筋のひとの文章や動画などもいろいろネットでアップされているのでそれも読んだり見たりする。容認と反対に与する企業は今まで容認した人が出身の企業だったり、反対する企業は流通や観光の企業だったりするのかなぁ、とおもう。まあいろいろいりくんでいて面倒くさいのは確かだ。北谷のハンビー飛行場は返還され北谷には娯楽施設、人工ビーチ、ホテルができた。天久の米軍住宅、車両がたくさんあったところは新都心となり、泡瀬のゴルフ場はついこのあいだにこっちとしてはでかいショッピング・モールができた。経済は優先される。それで昔の地名はなくなった。

インドネシアの「世界ダンスの日」

冨岡三智

4月29日はユネスコ傘下のNGO、インターナショナルダンスカウンシル(IDC)が1982年に設定したワールド・ダンス・デイで、この日は世界各国でアマ・プロを問わずダンスの企画が展開される。インドネシアでは2007年スラカルタ(通称ソロ)にある芸大で始まったのが最初のようで、実は私はその第1回目に出演している。というわけで、今月は2007年のインドネシアでのワールド・ダンス・デイの様子を報告したい。

2007年の初回以来、このイベントは「24 jam Menari(24時間踊る)」と銘打たれ、4月29日の朝6時に始まり、翌30日朝6時までノンストップで続く。2007年当時の新聞記事によると、このイベントに約1500人が出演し、うち芸大教員、学生、OBが約1000人、学外から500人だったという。第9回目となる今年の出演者は138団体、約3000人にのぼったという。

このイベントは芸大の舞踊科と市の協力で始まり、現在では芸大キャンパスだけでなく、芸術高校、ショッピングモール、市内メイン・ストリーなど市内各地に会場があり、また昨年は郊外にあるソロ空港などでも開催されたようだが、第1回目はキャンパス内だけで行われていた。

第1回目の進行は、私の記録によると、次のようである。朝6時から学長棟の前の広場で開始の儀(当然ダンス)があり、7時からF棟、9時からフマルダニ劇場、10時からI棟、11時35分からエデン庭園、12時40分からJ棟、2時から学長棟前の広場、5時50分から船劇場(船の彫刻を置いた野外劇場)、8時35分からプンドポ(ジャワの伝統的なオープン・ホール)、11時から大劇場、明け方5時から6時まで大劇場前の広場、という風に、キャンパス内の授業棟や施設を転々とするように、そして、1つ1つの演し物の間に空き時間がないようにイベントが組まれた。つまり、誰かが上演している間に次の催しの準備も進んでいて、その演目が終わるや否や、間髪を入れずに次の演目が続くのだ。そして、それらの時間割のように組まれたイベント以外に、企画代表のエコ・スペンディ(舞踊科教員)が24時間ぶっ続けで踊り続ける。彼自身もキャンパス内を転々として踊り続け、あるイベントの横で踊っていることもあれば、誰も見ていないような所で踊っていることもある…。

私が出演したのは、朝10時5分から10分間、I棟(舞踊科の講義棟)の1階エントランス部分だったのだが、記者や他の出演者や観客で、黒山の人だかりだった。24時間の中でハイライトは夜の催しだから、正直、午前中からこんなに人が押しかけてくるとは思わなかった。ちなみに私の演し物は、当時バニュマス地方のワヤンの曲を勉強していた友人の弾くグンデル楽器に合せて、日本の着物を着て中部ジャワ風の踊りをするという、受け狙いの妙なもの。

午後2時から広場で行われていたのは、大道芸であるレオッグ(東ジャワの虎舞)やドララ、バロンサイ(華人芸能の獅子舞)など。芸大でやったせいか、いずれもかなりハイレベルの芸だった。夜にプンドポで上演されたのは伝統舞踊で、ソロはもちろん、バリやスラバヤ、アチェ(スマトラ島)の舞踊に、ジャカルタのデディ・ルタン・ダンス・カンパニーという有名な舞踊団の公演があった。その後、大劇場はクローズドのせいかコンテンポラリ舞踊中心。私はたぶん、夜中はちょっと寝たけれど、明け方の閉会の儀は見たような記憶がある。今年のイベントの目玉は、パプア、トゥガル(中部ジャワ北海岸)、バニュワンギ(東ジャワ)、ジャカルタからの出演だったようだ。

インドネシアでは正月や独立記念日の前に一晩寝ずに過ごしたり、影絵の一晩公演などが当たり前に行われたりするせいか、24時間ぶっ続けで何かやるという発想は全然奇妙ではない。それどころか、以前、ジャカルタのタマン・ミニではソロ出身のムギヨノというダンサーが35時間ぶっ続けで踊るという企画があったし(彼は交代しなかったけど、演奏者は何組かいて交代したそうだ)、私がスラカルタの芸大に留学したときに履修した振付の講義で、一晩授業(午後8時頃集合〜明け方5時頃解散)をやった教員もいる。ダンスのパワー自体が、インドネシアではまだまだ強いなあと感じる。

しもた屋之噺(160)

杉山洋一

明日からミラノは万博が始まり、それに合わせて誂えた新しい地下鉄が今週から開通したとかで、拙宅の近辺のバスや路面電車の路線が軒並み変更になりました。その為か明日から始まるミラノ万博の為か、どの道もとても渋滞していて、自転車がなければ到底学校に通うのが厄介なところでしたが、さて明日からどうなるのでしょうか。

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 4月某日 ミラノ自宅にて
病院のレントゲン室で一人、箱を撮影している。不慣れなので何度も撮り直すが、うまくゆかずに撮影時間を伸ばしてゆく。箱の中身は撮れているかと箱を開けかけると、生温かいものが洩れ出してきて、慌てて蓋をしめた。あれは放射能かしら。開けてはいけなかったのかしらと考えてから、全身に戦慄がはしる。こんな恐ろしいものを、何故素人が触らなければいけないかと憤りを覚えると、いつしかレントゲン室は関係者以外立ち入り禁止になっていた。
途方に暮れてこれから自分の身に起こることを知ろうと病院の本屋でページをめくるが頭に入らない。右手の小指が少し熱っぽく痺れていて気のせいだと自ら言い聞かせるが、小指はいよいよ熱くなる。右の小指は切断かと落胆しながら病院裏の坂道を下りているとき、痺れが手首辺りまで広がっていることに気付き唖然とする。ねっとりした冷汗が身体中から噴き出した。

目が覚めると、隣で息子が静かに寝息を立てていた。家人が留守なので、きっと夜明けごろもぐりこんで来たに違いない。

 4月某日 ミラノ自宅にて
繰返し中国の古琴の練習ヴィデオを眺める。「マソカガミ」で使う復元された七絃琴は古琴の原型なのだろう。音質も素朴で野趣に富む。音はすぐに衰弱してしまうから、古琴のように長いフレーズをグリッサンドのみで作るのはむつかしいが、近い奏法は試みられていたかもしれない。西洋楽器が12音を均等に、効率よく演奏すべく発展を遂げたのに比べ、中国の古琴は、開放絃で響かせる裏で、ろうそくの焔で揺れる影のように、同じ音を別絃でひびかせて、音楽を立体的に構成する。中華音楽に常に溌溂とした印象を覚えるのは、発音がいつも明瞭でそれを殊更に聴き手に伝える意思の強さを感じるからか。立体的という表現は、音の存在が、明確に区切られた空間に配置されていることの現われで、音と音との距離感なども、風情というより数量化されて表現される。

日本の須磨琴や八雲琴なども、奏法のみを観察すれば、思いがけなく古琴と共通点を見出すこともあるけれど、本質的に音楽が要求するものが違うので、結果的に全く違う音楽になる。音が置かれる空間の広さは不明瞭で、数量的な音の把握は不可能となり、一つの音ごとに世界が加味され、音と音との間に宇宙が広がる。中国の文化が日本に浸透し溶解してゆく過程を象徴は、この数量的な世界観の消滅かもしれない。

空間が明快に定義された中で発音するのは(発言と置換えてもよいかも知れない)他者に向けた意志の表出に他ならないが、空間容量の把握を必要とせずに発音すれば、自己の内的思索として昇華するのは当然ではないか。先に杜甫のテキストで書いたときも、言葉と音を際限ない空間に流し込む作業だった。神仏習合の遥か昔から、われわれは常に新しい文化を吸収しては、醗酵させて暮らしてきた。昨今の排他的な傾向は、本来の日本らしさに拮抗する気もして違和感を覚えるけれど、醗酵期間をすぎれば開放期が巡ってくると信じている。

 4月某日 ミラノ自宅にて
朝2時間ほど時間が空いたので、自転車を飛ばしてドゥオーモ脇の近代美術館へ出かける。中世ミラノ公国領主だった「ヴィスコンティからスフォルツァへ」という特別展。一地方都市だったミラノが隆盛の象徴としてドゥオーモの建設に取り掛かり、レオナルドを含め数多くの優れた芸術家、建築家を抱えるようになった時代までへの変遷を辿る。ロンバルディア派、特にベルゴニョーネが大好きなので、展示のクライマックスに彼の貴重な傑作が見られるだけで興奮する。久しぶりのベルゴニョーネで、青白い肌のマリアの妖艶な姿に舌を巻き、まるでこちらが魅入られてしまう錯覚。

 4月某日 市立音楽院にて
息子が歴史の宿題を手伝って欲しいと小学四年の教科書を持ってくる。彼らの今年最初の課題はメソポタミア文明。シュメール人から始まり、バビロニア人へと続く。その後にナイル文明のところでエジプト人からアッシリア人、そしてヘブライ人、つまりユダヤ人の生活を学んでから、ここ二週間ほどは地中海文明へを勉強しているようだ。クレタ人に始まり、フェニキア人に入ろうというところ。そしてミュケナイ人まであと一月ほど、今年の授業の間に学ぶらしい。
一年かけて西洋文明の基礎を覚えるわけで、各文化に関して意外に詳しく勉強していて驚く。
シュメールで既に社会階級制度を習いエンリル神やエンキ神なども知っている。バビロニアのハムラビ法典の内容も幾つか覚え、現代イタリア憲法と比較して、各々が意見を言う。マルデュクが世界を創生し、イシュタルが愛と豊穣を司るなどよく覚えている。
エジプトの神については、「死者の書」を通してラーやオジリデだけでなく、イジリデ、ホルス、アピ、アヌビの親族関係と逸話を学び、ミイラの作り方までおぼえて、子供たちに大人気だという。エジプト人の生徒たちはさぞ喜んだろうというと、特に自分の故郷という意識もないらしい。ユダヤ人は彼らにとって身近な存在だが、ここで初めて「単一神」であるとか「聖書」と、「エルサレム」といった現在の生活に密着した言葉が現れる。息子の専らのお気に入りはエジプトのヒエログリフとクレタの美しいクノッソス宮殿で、来年までにどうしてもクレタ島にいきたいと言い張っている。歴史の一番楽しいところを、最初に触れてしまうような感もあるが、内容が楽しいのでクラスメートも歴史がみな大好きだという。
効率が良いかは別として、勉強させられている感がないのは羨ましいし、そういう記憶というのは案外大きくなっても印象に残るかもしれない。
日本の小学校四年生が一年かけて、ツングース系民族を通して日本人の遺伝子的成立を学び、インダス文明からゴーダマ・シッタルタあたりまでやって仏教の基礎を、長江文明、遼河文明くらいから殷王朝あたりまで学んで稲作やら漢字の成立などを知ってから、縄文や弥生、卑弥呼やら天照大神など日本文化の黎明期に入ってみたらどうだろう。案外視点が広い面白い子供が育つかもしれないし、近隣諸国への視点も違ったものになるだろうし、少なくとも遣隋使、遣唐使くらいまではずっと劇的で動的に感じられるかも知れない。「愛国心」を育てるとしても、さまざまな方法があってよいし、転じてさまざまな「愛国心」があってよい。

4月某日 ミラノ自宅にて
「タワヤメ」で使った五絃琴について、改めて資料を読む。
曾侯乙墓は紀元前433年前後に作られ、特に編鐘の出土が有名だが、五絃琴は編鐘の調律に使われた「均鐘」だという。
紀元前186年に作られた馬王堆墓で、2000年経って発掘した際に、保存状態が驚異的でまるで生きているようだと有名になった利蒼の妻、辛追の柩に、龍が片手で指板の細い首辺りをもって、突出す格好で五絃琴を持つさまが描かれている。
実際はどんな風に演奏したのか想像もできない。現代で云えば音叉に当たる器具なのだろうが、大音量の編鐘をかそけく消入りそうな音律標準器で調整したのも不思議な気がする。

「タワヤメ」への答歌として「マソカガミ」を書く。5音を際限なく繰返す五絃琴に対し、七絃琴は左手を使って五絃から外れた音律を奏でる。互いの旋律は少しずつ近づいてゆき、ほんのひと時一つに折り重なって、遠くへ離れてゆく。行き別れた若い夫婦は、真澄鏡に映る姿だけでも夢の中でもと、互いに再会を願い続ける。

 4月某日 市立音楽院にて
普段からソルフェージュ替わりにシャランの和声課題の四段譜を学生に歌わせているけれど、今年の作曲科生はよく出来るのでシャランでは物足りない。
「ギャロンの生徒による64の和声課題集」から、先日は手始めにメシアンとデュティーユを取り上げて好評を博したので、今日は込み入ったマルセル・ビッチュを歌ってみる。
大学の作曲科生だが、デュティーユの名前は知らなかった。ビッチェはまだ生きているのかと尋ねられて答えられなかったので調べると、2011年に亡くなっていた。和声など学生時分殆ど真面目に勉強しなかったので、こうやって生徒に歌わせながら自分も学ぶ。高校以来恩師から借りっぱなしで今や形見となった、日に焼けたボロボロの教本を使って。

(4月30日ミラノにて)  

島だより(12)

平野公子

わたくしは何事にものめりこむ割にはせっかちなところもある。あれっ、逆かもしれない。

ジグゾーパズルの謎解きをやっているような画家たちへの資料調査をひとまず棚あげして、「もし小豆島に小さなミュージアムができたなら」という仮説をたててみた。そこでどんなことができるだろうか、イヤどんな美術館だったら作る面白さがあるのだろうか、というところから妄想仮説資料(資料については事実確認をしながら)をたのまれもしないのにせっせと書き出し、それをわたくしからの報告として、役所のメンバーにとりあえず保存していただくことにした。一年掛けたら何か見えてくるかもしれない。その後2年掛ければ小さな美術館をつくることも可能ではないだろうか。

地方には大きなりっぱな美術館がたくさんある。小豆島は小さい。資力もない。でもどこにもない、ここでしかない美術館を作れる気がしている。残されていた絵のおかげだ。

島に相応しい美術館は海が見えて天井の高い50坪ほどの2階建で充分。一階の半分はオープンキッチンとブックカフェ。島の人が島の食材でつくるごはんと飲み物。持ち出して海辺で食べるのも可なり。境のないあとの半分は企画展や講演会や読書会や音楽会や映画会に使う。二階の半分が100年前から島にスケッチにこられた画家たちの常設展。あとの半分は島民たちの絵画教室スペース。
 
仮説企画展のひとつ 小豆島と小磯良平のかかわりを第一に取り上げてみたい。

小磯良平(1903-1988)は神戸生まれ。東の安井曾太郎、西の小磯良平といわれる近代洋画界の巨星のおひとり。生涯の作品/資料の多くは神戸小磯良平記念美術館(生前のアトリエがそのまま併設)に所蔵されている。あいにく小豆島にのこされている絵は一枚もなかったが、調べた図録で知るかぎり7、8点の小豆島スケッチは記念美術館に所蔵されているはず。そもそも小豆島西村に小磯が建てた小振りなアトリエ(1961-1976)は現存している。小磯58歳から73歳にあたる時期だ。同郷で中学時代2年先輩であった古家新が1961年に水木にアトリエを建てているところから、おそらくその誘いがあったのではないかと推察できる。

小磯のアトリエを見に行った。そこは海を見渡せる小高いオリーブ畑のなかに建つ、こぶりな木造2階屋だった。よくぞ残っていてくれました。嬉しい。小磯良平のアトリエを建てたひとり大工の方はすでに亡くなっておられたが、近くに90代の方が当時の様子を覚えておられるとか。ヒアリングに行ってきます。

ボーイ・ミーツ・ガールの物語

若松恵子

3月の「水牛のように」に、今年の2月に急逝したシーナ&ロケッツのシーナのことを想って文章を書いた。今回はシーナの相棒、鮎川誠のことを書きたいと思う。

4月7日、「下北沢ガーデン」というライブハウスにシーナ&ロケッツに縁のある人たちが集まった。鮎川誠が4月7日を勝手に「シーナの日」と名付けて<『シーナの日』#1〜シーナに捧げるロックンロールの夜〜>と銘打った追悼ライブを開催したのだ。ギター鮎川誠、ベース奈良敏博、ドラム川嶋一秀のシーナ&ロケッツがゲストを迎えて、シーナが好きだったパンク・ロック・ブルースを一緒に演奏し、楽しもうという一夜だ。

ゲストは、「ユーメイドリーム」「スイートインスピレーション」などシーナ&ロケッツに多くの詩を提供しているサンハウスの盟友・柴山俊之を筆頭に、仲井戸麗市、永井隆、石橋凌、花田裕之、浅井健一、チバユウスケ、金子マリ、Charなど、日本のロックをつくってきた面々だ。この企画を立ててから3週間余りだったということなので、何を置いても駆け付けたという出演者それぞれの思いが静かに積み重なって、このライブの空気を作っていたように思う。ステージ上で、みんな多くを語らなかった。ここに来て、鮎川と飛び切りのロックをぶちかます、それで充分だった。

ゲストひとりひとりを鮎川誠が紹介していく。みんな鮎川を励ますために集まって来たのに、逆に鮎川にもてなされている感じだ。シーナ&ロケッツとの出会い、共演のエピソードなどについて、彼はひとりひとり、心をこめて丁寧に紹介していく。宝物を見つけて、得意になって仲間に報告する子どものような鮎川の話し方、思いが先に溢れてしまって、言葉が追いつかないといったたどたどしさが魅力になっている語り口だ。

この日のライブは、いつものように、ロックを演奏する喜びに溢れたステージだった。「追悼」ということの特別な演出は無かった。今日仲間とロックを演奏している事、この時間が現実であり、いちばん輝かせたい全てだ。やせ我慢でもなく、自然体でそれを実現している鮎川誠の姿に心を打たれた。

鮎川自身は「ピンナップ・ベイビー・ブルース」を歌った。駅に貼られたポスターの女の子に恋をして、彼女を自分のものにしたいと思い詰める孤独な少年のブルース。糸井重里が作詞してヒットしたナンバーだ。「ピンナップ・ベイビー、ひとめ惚れ、おまえを剥がしてさらっていきたい。」という歌詞に、会場に貼られていたたくさんのシーナのポートレートを重ねて思った。

そんな鮎川の姿が心に残っていた何日後かに、ふとつけたNHKで静かに語る僧侶の微笑みに目がとまった。ベトナムの禅僧、ティク・ナット・ハンだった。彼はライターのボタンを押して着火し、蝋燭に火をともし、「炎を出現させるボタンを押したのは、きっかけをつくったのは私だけれど、炎はある条件が揃う事でこのように出現し、こうやってほかの蝋燭に移していく事もできる。」と語り、今度は蝋燭を吹き消して「炎は見えなくなったけれど、炎はどこにも行っていない。炎として見えていた(出現させていた)条件が変わっただけだ。でも炎はどこかに行ってしまったわけではない。生も死もこれとおなじことだ。」と語った。大切な人の死をどう乗り越えるか、その問いに対するティク・ナット・ハンの答えだった。

4月7日のラスト、アンコールも終わって最後にひとりだけステージに残って、鮎川誠は客席の方に丁寧にあいさつし、「またライブで会いましょう」と語りかけていた。鮎川誠にとって、シーナがどんなにかけがえのない相棒であったかということは、ファンならみんな想像することができる。シーナを失った後も、鮎川誠はこれまで通り仕事をして、生きていく。それを受け取ることがいちばん大切なことなのだ。

大切な人を亡くしたあとにどう生きるかなんて、その時になってみないとわからない事だ。今は、鮎川誠の振る舞いと、ティク・ナット・ハンの言葉をふたつ、覚えておきたいと思う。

死人と椅子

璃葉

もう此処にはいない人に語りかけるとき
僕の声で 空気は少しだけ 震えている
椅子からそちらの葉と土まで
見えないけれど到着しているのはわかる ぼんやり広がる網目
ことばは光る灰色
おだやかな黒い夜を包んでいる気さえしています

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夜のバスに乗る。(7)渡辺先生を迎えにいく。

植松眞人

 犬井さんの計画通り、僕と小湊さんを乗せたバスは、一度車庫に入り、ほかのバスの入庫と入庫の隙を突いて再び公道へ出た。犬井さんはバスの照明を極力落とし、ヘッドライトだけの状態にして走る。
 ここまで走ってきた道を半分ほど引き返すと渡辺先生の家に着いた。意外なことに渡辺先生は住んでいるマンションのエントランスから外を見ながら、僕たちの到着を待っていた。
 渡辺先生はとてもちょっと困ったような顔をしていたが、それでも僕がバスから降りていくと笑顔で迎えてくれた。もちろん、その笑顔は僕たちのこれからの行動が自分の表情ひとつにかかっているのかも知れない、という緊張に覆われている。だけど、僕たちの行動はちゃんと計画されていて、渡辺先生の笑顔には左右されない。僕はそのことを先生に伝えて、余計な緊張をしないでほしいと願うのだけれど、うまく伝えられなくて、僕もへんに緊張した笑顔を浮かべてしまったのだと思う。渡辺先生と僕は互いにちょっと歪んだ笑顔のままで、なぜだか握手をした。
「小湊から、この時間にエントランスに出ていてくれと言われたんだが…」
「はい」
「これは斉藤が黒幕なのか」
 黒幕と言われて、僕は笑ってしまう。普段とても大人しい小湊さんがまさかバスで自分を迎えに来るなんて先生には想像も付かなかったのだろう。だけど、それを言うなら僕だって小湊さん以上に大人しいし、学校で目立ったことをしたことがない。そのことは先生だって充分にわかっているのだろうけれど、そこは男だということで、とりあえずは僕が首謀者なのか、と聞いたのだろう。
「いえ、僕ではありません」
「やっぱり、そうか」
 そうつぶやくと、先生は僕の背後に停車している路線バスを見る。僕が振り返ると、小湊さんがバスの窓をあけて、顔をのぞかせている。先生は首謀者で黒幕の小湊さんを落ち着かせようとしてなのか、満面の笑顔で小さく手を振る。
「先生、小湊さんはとても落ち着いているので、大丈夫です」
「そうか」
「はい。小湊さんはとても落ち着いていて、一応、小湊さんの希望のようなものがあって、それを穏便に叶えたいと願っているだけなんです」
 渡辺先生はしばらく考えてから、わかった、と言った。そして、僕の隣をすり抜けて、バスに向かって歩き出した。僕も先生の後につづいた。先生はバスに向かいながら僕に話しかけた。
「小湊は自分の希望が叶えられなかった時にはどうしようとか、そんなことを考えているのか」
「いえ、なんにも」
 先生は僕を振り返った。
「なんにも」
「はい、なんにも考えていません。もし、先生がこんなことしちゃだめだ、と言ったらそこでこの計画はお終いです」
 先生はまた歩き出し、前を見たままで、そうか、とつぶやいた。
 僕たちはバスにたどり着いた。前方のドアが開く。先生が先に乗り込む。運転席に座っている犬井さんが「こんばんは」と声をかける。先生は少し驚きながら「こんばんは」と返す。バスを運転する人間がいるのは当然なのだが、僕と小湊さん以外の自分の知らない人がいることに驚いたようだった。自分の生徒以外の人がいることで、小湊さんの計画がどんなものであるにしろ、とてもデリケートで危険なものになったという実感があったのだろう。先生は犬井さんに挨拶をしたあと、犬井さんの顔を見つめたまま、立ちすくんだ。

グロッソラリー ―ない ので ある―(8)

明智尚希

 1月1日:「あんなに温厚なやつでも自殺を図るなんて、ひっそり希死念慮でも抱いてたのかもな。幸い一命は取り留めて、今はAAとか通いながら生きてい
るわけだけど、血を吐いて三日三晩部屋で倒れていたそうだよ。その時のことがきっかけで断酒を決めたらしいけど、これがまた中毒中と同じくらい大変だと
言ってた。笑いながら――」。

ゲロォ…(T┰T )

 落胆や失望には副産物がある。必ずしも悲劇的なものとは限らない。肩を落とし地面に這いつくばるような目線でいると、社会の、人間界の真なるありさまを
目の当たりにするチャンスが与えられる。これを逃さない手はない。現実を構成している要素が、いかに皮相的でいんちき臭く、無意味な産物に満ちているかを
思い知ることができる。

( ̄ー+ ̄)ニカッ!

 1月1日:「よく知られた通り、アルコールを急に止めると手足が震える、いわゆる心身譫妄状態になる。離脱症状だ。呂律が回らなくなったり、物忘れがひ
どくなったりもする。逆に体に悪いような気がするんだけど、そうしなきゃならないみたいだな。それと並行してアルコール外来にも通って、抗酒剤を処方して
もらうそうだよ――」。

{{{{(+ω+)}}}} ブルブル

 今日、旧知の友人が亡くなった。まだ若かった。浅からぬ縁のあった人たちが、この数年で立て続けに去っていく。だんだんと生のテリトリーの外堀が埋めら
れていくような、しらみつぶしの順番がそろそろ自分に回ってくるような、そんな感覚を拭い切れない。人間が死ぬことで歴史は作られる。しかし歴史のほうは
人間に対して機械的だ。

。・゜・(/Д`)・゜・。うわぁぁぁぁん

 メランコリーメランコリー。自分大好き人間が陥ったつもりのメランコリーメランコリー。メランコリーをエネルギーとしてメランコリーで生きるメランコ
リーメランコリー。リストカットリストカット、死ねないことが十分にわかっている上でのリストカットリストカット。自分の存在を広く宣伝したいだけのリス
トカットリストカット。

Ψ( ̄∀ ̄)Ψケケケ

 SEO、SEM、SEC、SEX、なんだかわけのわからんものばかりじゃな。あ、最後の一つはよ〜くわかる。もう大好き。根っからのファン。こうわくわ
くするな。憧れと郷愁。わが心の故郷。心ばかりじゃないぞ。体の故郷でもあるな。しかし今でもお豆さんがなんのためについてるのかわからん。考え過ぎて頭
痛がする。な〜んて嘘じゃよ。

ダァ━━(*´Д`人´Д`*)━━スキィ!!

 今日という日が人類最後の日でなかった不思議に思いを致す。戦時中に希求する平和とは戦争のない日々だった。いざその平和を獲得すると、今度は虚無とい
う時限爆弾が仕掛けられ、有事の可能性やその気運が高まる。何の布告もなく核ミサイルが各所に落ちてきても我を通して生き残ってしまうくらい、人間はわが
ままなのかもしれない。

*―●))))))))\(∀^*)コウゲキ!!

 一切不可解というのは飽きっぽいということと関係があるようじゃ。瞬間接着剤でいつまでも密着しているのではなく、軽く塗った糊といった感じ。完全無欠
な理解など元より存在しない。限界効用逓減の法則により、それまでしがみついていたものから、滝のように流れ落ちる。メガネをちゃんとしてなけりゃダメ
じゃてそりゃ。

(;@3@)ヮヵンナィ

 1月1日:「抗酒剤って聞くと、アルコールへの欲求を押さえる薬だと思うかもしれないけど、そうではなくて抗酒剤を飲んだあとにアルコールを飲むと、吐
き気、頭痛、激しい動悸、めまいがして、言ってみれば苦しめることでアルコールをやめさせようっていう薬なんだよ。地獄のような苦しみらしいよ。名前は忘
れちゃったけど――」。

“(/へ\*)”)) ウゥ、ヒック

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

(ご自由にお書き下さい)

(´・ω・`)ショボーン

 平和のために戦争をする。出すために飲み食いする。笑ってもらうために大怪我をする。善人と思われるためにやせ我慢する。破壊するために壮大に作る。異
性の気を惹くために気苦労する。負けたくないがために最初から負ける。本性を悟られないためにおどける。薄ら馬鹿を隠すために難解な語句を並べ立てる。死
ぬために生きる。

( ゚Д゚)_σ異議あり!!

 口に入れシコシコした瞬間、フィリピン支局から一報が入った。血糖値は食事をすると緩やかに上がり、三四時間で空腹時と同じ値になる。正直な話、運任せ
のギャンブルで楽しんでいる時代ではない。男はズドン。ストロングミサイルをいつものお茶の代わりに一杯。両方から一気に二本来ており、今後のパートナー
を求めて勝てれば良し、と。

. ∵:.(:.´艸`:.).:∵ぶっ

 カルチャーショックってのは、ありゃ一時的なもんじゃな。母国と外国が違うのなんて当たり前。おんなじだったら気持ち悪いっての。で、その外国に一定期
間滞在していると、当初感動したものに飽き飽きし、戸惑いなんざ慣れに取って代わられる。外国は旅行程度でいいんじゃ。ショックが旬のまま帰ってくれば使
い物になるってもんじゃ。

(´<_` )流石だな

 1月1日:「抗酒剤を服用していたとはいえ、当初はそれでも酒を飲み続けて尋常じゃないくらい苦しんだそうだよ。紙パックの小さい日本酒を半分飲んだだ
けでも、数時間後に胃の中にあったものを全部戻したらしい。しかも駅の階段でな。全部戻すということは抗酒剤も出たわけだから、そこから改めて根性で酒を
飲んでいたんだって――」。

こんじょう(。+・`ω・´)シャキィーン☆

 結婚や同棲を否定するのは、長いこと心で一方的に養ってきた幻想が壊されるからである。お互い離れていて、頻繁には会わず、思いを膨張させているうちが
一番いい。アガペ―、エロス、フィリアの正三角関係はそんな時に誕生する。だがやがて幻想を自覚するとともにいずれかの辺が短くなる。最後に残った点、こ
れこそが真の愛なのだろう。

(´・∀・`)ヘー

 厂下广卞廿士十亠卉半与本二上旦上二本与半卉亠十士廿卞广下

(⊃Д⊂)ゴシゴシ

 ところてんから滑り降りてきたブラフマン、タリスマン、ルサンチマンは、アンガージュマンとマージナルマンとの来るべき対決に備えて、フリーライダーに
変身してからニューマン、フリードマンと一緒に国語辞典でペーパードライバーを素揚げにした。これにはクリンスマンが激怒、全員をところてんへ滑り上げた
とさ。

(,,゚Д゚)∩先生質問です

 その世紀が独自色が帯び始めるのは、世紀が変わって最初の十年前後という説がある。
十九世紀は文明と文化、二十世紀は戦争と経済と言えるだろうが、こうした分別をしたがるのは、人間の哀しい性でもある。アンシャン・レジームの崩壊が随所に見られ、新しさへの気運が高まっている。これもまた人間の哀しい性であることに違いはない。

(´゚c_,゚` ) ワーカリマセーン

 1月1日:「そうやって飲んでいても、量自体は少なくなっていったり三日間は飲まずに過ごせたりと改善していったみたい。で、三日が一週間になり一週間
が一カ月になり、とうとう飲まなくても大丈夫になったんだって。飲酒への欲求もその頃にはなくなっていたようだ。ただ酒乱だったから、たまに飲むと大トラ
になったらしい――」。

゚+。:.゚大丈夫…゚.:。+゚ ・´д`・〃)ノ))

 今となっちゃあ何とかしたかったもんさ。もしもわしが政権を奪取したら……もしもわしがカレーだったら、良くて仰向け悪けりゃ精進。これに尽きる。口で
言ってわからなきゃあ、ヌルハチ的になるかアモカチ的になるか選べばいい。自由は自縄自縛にして自由自爆。自由が自由になったことなんかあるか? え? 
あ? ほい。

(´ー`)┌フッ

 働くとは耐え忍ぶことである。働かないこともまた耐え忍ぶことである。前者には「我慢給」が支払われ、後者はコミュニケーション的行為が付与されてい
る。我慢大会の参加賞たる「我慢給」は、生活という別の我慢大会で我慢され、生活なき生活を送る人々は、我慢を昇華するだけの方法を知り抜いている。そう
いう現実があるだけである。

工エエェ(´Д`)ェエエ工

 ♪ババンバ バンバンバン、浮気ばれた? ババンバ バンバンバン、かあちゃん逃げたか? ババンバ バンバンバン、そりゃそうだろ。ババンバ
バンバンバン、明日からどうすんだい? ババンバ バンバンバン、浮気相手と過ごすの? ババンバ バンバンバン、宿題やれよ。ババンバ
バンバンバン、また来世! ファーーーーーーーー。

♪((└|o^▽^o|┐))((┌|o^▽^o|┘))

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

 Aという一般論を言えば「自分の中でAはない」と言い、それならばとBという一般論を持ち出せば、やはり同じ答えが返ってくる。自分にしか通用しない
ルールを作っているX。それでいて飄然としている。信念と見るか非常識と見るか。一般論と常識が外れたXは、案外な才能を持っているのかもしれない。そう
肯定するより救いはない。

|||||(* ̄ロ ̄)ガーン

 テクニカルな御曹司は、厄介なことに時にコンポジション爆薬となる。点綴された刹那、大股開きで線描画をものすものじゃ。計算間違いしたからといって、
澄んだ鳴き声は失われるわけはない。仮に失われたとしても、ホワイトハウスコックスの三つ折りから、何名かを登場させれば容易に解決を見る。失語症は現代
に妥当なメカニズム。

(´-`) ン?

 1月1日:「本人の話すところによると、知人と居酒屋で飲んでからコンビニでウイスキーの小瓶買って、飲みながら歩いていたらしいんだけど、そこから先
の記憶が全くないときた。知人と飲んだあと共通しているのは、必ず警察や救急隊のお世話になったとのことだった。パトカーや救急車には何度乗ったかしれな
いと言ってたな――」。

ヽ( ̄△ ̄( ̄(エ) ̄)ゝ

 若いんじゃない。幼稚なだけなんじゃよ。いい歳して親孝行の一つもできなかった。まともな収入がなかったからな。仕事も転々とした。もう数えきれんくら
いだ。会社人間にはなれんかった。やけ酒を飲んじゃ、それこそ若いやつらとひと騒動を起こし、警察のお世話になった。お迎えが近いと感じた時に限って、生
きる力が湧いてくる日々さ。

オジャマシマス /・_・ヾ\ ← のれん

 進歩主義者か否かに関係なく、人類は結果として進歩を目指し、そのうちのいくらかは実現してきた。危険の裏書きのない進歩はない。ある場合は成功し、あ
る場合は取り返しのつかないことになる。後者をいかにして少なくするかが課題なら、当たり前のものとして基本に立ち戻って検証する。人類の裏書きに退行の
跡がないとは言い難い。

(。>ω<。)ノ またねぇっ

私的青空文庫のお話(1)

大野晋

以前、似たような話を書いた気もするのだけれど、少し工作員から見た青空文庫を書いておくのも面白いだろうと思いまとめてみました。

そのサイトを見つけたのは偶然だっただろうか?もしくは、その頃、多かったインターネットのお役立ち情報だったのか、今となっては判然としない。3ケタには遠く及ばない冊数の書籍が登録されたそのサイトは、大型計算機のコンピュータソフトウェアを専門にした当時の私にインターネットという技術のもたらす可能性を帯びた存在のように見えた。情報の流通コストが大きく下がるというインターネットのもたらす変革は、言葉では理解したように思えても誰も体験したことのない状況はやはりやってみないとわからない。というか、新しい未来の形に少し携わりたくて、工作員の端っこに加わることになったのは20世紀の終わりのことだった。

当時のネットは今ほど当たり前のものにはなっていなくて、よくリアルとぶつかっては問題になった。青空文庫の最初の問題は、新潮社のCD-ROMから収録した夏目漱石の著作の引き上げだったのではないだろうか? 本来、著作権切れで自由に扱えるはずで、担当編集者とも話のついているはずだった夏目漱石の著作が出版社からの申し入れで一気になくなった。ただし、なくなったはずの夏目漱石の著作は底本を変えて、すぐに青空文庫に再収録されてしまった。多くの工作員がなくなったテキストの入力と校正を最優先に処理した結果、あっという間に復元したのだ。だから、この事件が青空文庫の仕組みが柔軟に動いた始まりだったようにも思う。

しかし、それでも、インターネット上のアーカイブサイトに対する風当たりは緩むことはなく、ときには出版サイドから、ときには同じインターネットのサイトから多くの風が当たることが多かった。その際、大きな後ろ盾になったのは、青空文庫の呼びかけ人諸氏が出版界とのパイプを持っていたからに違いないだろうし、ボイジャー社やDNP、筑摩書房といったネットとの付き合い方を模索されていた方たちとの付き合いの結果だろうと思っている。

今でこそ、そこにあるのが当たり前になっている青空文庫ではあるが、当時の状況では、もしかすると今の状態でも、数年先にそこにあるとは限らないというのがインターネットの世界の常識だ。だからこそ、富田氏は、アーカイブを残すことに拘っていたように思う。それは自分の仕事を絶版という決定でなくされた編集者の心だったのかもしれない。

とにかく、1000冊。今でこそもっと多くのデータが集まってはいるけれど、当時は無視できないくらいの大きな数字を残すことが青空文庫の目的とばかりに工作員ががんばっていた。(ようなきがする)

その残す中から、さまざまなジャンルへ広げていったのだけれど、その話は来月にしましょう。

ヤジッド教徒の悲劇

さとうまき

4月8日、「イスラム国」に誘拐されて連れ去られていた人たちが200人ほど解放されたというニュース。自らもヤジッド教徒で、昨年8月の「イスラム国」の侵略から逃れて避難生活をしながら支援活動を一緒にやっているハナーンさんから電話があり、40人くらい解放された人がいるというので一週間後に合わせてもらうことに。

アルビルから車で4時間近く走る。ハンケという村には、難民キャンプがあり避難民がたくさん暮している。キャンプには入りきらず、町中がテントだらけ。解放された人たちは、建設中のコンクリートの家にいた。

僕と鎌田先生が入っていくと、薄暗い部屋がいくつか分かれていて、9家族すんでいるという。逃れたばかりの人がいると聞いたという話を切り出すと、リーダーらしき男の人が、この人も、この人もそうだと集めてくれ、気が付くと、子どもと老婆数人を中心にいつの間にか部屋は40人くらいが集まってくれていた。みんな、くたびれたような目だった。タルアファルという村に連れて行かれ、そこの小学校で1000人ほどが暮していた。イスラム教に改宗させられ、毎日コーランを読まされていたという。イスラム国がリストをつくり、男は兵士に、女性は、シリアに連れて行かれ、兵士と結婚させられようとしていたという。そこで、意を決して逃げてきたのが26人ほど。そして残りは、「イスラム国」が自らバスを出して、解放した人たちだったということが分かった。

25歳の女性、ナジュラ(仮名)は、シリアのラッカまで連れて行かれ、一か月ほど牢屋に入れられていたそうだが、その後、「イスラム国」の家族の面倒をみさされた。隙を見てトルコに逃げてきて、昨日、ここまでたどり着いたという。従妹の3歳くらいの女の子を娘だと言い張って行動を共にしたが、「イスラム国」の兵士と結婚させられたようだった。
「妊娠しているかもしれない」とうので、検査を受けたいという。
「ともかく、病院に行くお金は僕たちが支援します。」
そういって引き上げたものの、もし、妊娠していたらどうなるのだろうか?

この国では堕胎は違法だ。同じようにイスラムの国で、好まざる妊娠をした場合、別の病名で入院して、こっそり出産し、赤ちゃんを引き取る孤児院があった。また、他の国で聞いた話だと、こっそりとやってくれる病院もあるらしい。そういう外国で堕胎させるか? 堕胎が出来ないなら、生まれてきた赤ちゃんを僕たちが引き取るか? ただし、いずれ出生の秘密をその子が成人して知ってしまったら? 自分には、「イスラム国」というテロリストの血が流れている。その子の将来を思うと、これまた厳しい。そんな、話を内内で悩んでいたのだ。

近くの病院では、噂になると困るので、4時間かけてアルビルの病院まで来てもらい、検査を受けてもらった。結果は妊娠していなかった。ああ、よかった。でも、似たような境遇にある女性たちは、未だに、「イスラム国」の捕虜になっている。解放とともに特別なケアが必要だ。

青空の大人たち(10)

大久保ゆう

青空文庫を秘密結社と考えれば文庫の実質的なリーダーであった富田倫生氏は比喩的には秘密結社の首領ということになるのだろうが事はそれほど簡単ではない。そもそも青空文庫には代表がおらず活動を「やりましょう」と呼びかけた人がおりそして作業をとりまとめてアップロードなどの世話する役があるだけといういつぞや別稿にもまとめたがやはり当初は文学同人に近いものであったのだろう。

とはいえ富田さんは青空文庫の中の人でありながらしばしばその動きはそこからはみ出ており、私の個人的な記憶を振り返ってみると青空文庫にこんにちわをしたごくごく初期の頃に自宅にいきなり富田さんから『リーダーズ英和辞典』が送られてきたことがあった。それは翻訳公開に関して訳文の内容を点検してもらっていた際に「ここの原文は仮定法だと思うのですがどうでしょうか」とアドバイスをいただいた高校1年生の私が(まったく記憶にないのだが)「仮定法はまだ習っていない」と豪語したらしくつまりろくな文法知識も辞書も持たずに徒手空拳で翻訳に取り組む少年を見かねてのことだったのだろう。

それから何度も使っているうちに手垢にまみれついにはぼろぼろになって今ではカバーも完全に外れてしまったのだがおそらく富田さんの自宅か仕事場でも使われていたものと見えて複数人の手でその役目をまっとうしたのだから辞書としては幸せだったろう。私は辞書にペンを入れないためこの本にあるアンダーラインは富田さんの手元でつけられたものだと思うのだが開いてみるとこんな言葉に赤線が引かれている。

 brainchildn.〈口〉案出されたもの、独自の考え、創見、発明、頭脳の産物

直訳すれば脳の子どもであり、してみると青空文庫はまさに富田さんのブレーンチャイルドであって、であればこそこうして親のように青空文庫のあれこれを世話したということでもあるだろう。しかしその送付物のなかには辞書だけでなく富田さんの著書『本の未来』も含まれており添えられた手紙には短くこう書かれてある。

1999年5月11日
青空文庫に関連する拙著を、同封しました。
自分の本を送るなどと言うのは、ちょっと下司な気もします。(なら、すんなって)
他の呼びかけ人には、内緒にしといてね。

『本の未来』は青空文庫前史とも言うべき本でここに「みにくいあひるの子」の引用があったことから次に訳すのはアンデルセンにしようと思ったりしたわけだが、むしろ今から振り返れば文字通り未来を託されてしまったのではと思い込むこともできて勝手ながら面はゆい。結局「あひるの子」は自分の訳ではなく菊池寛訳で公開されることになったが(入力担当は私)、私と富田さんとの交流は実際のやりとりというよりも、作品を介する形になることが多い。

その最大の一例は芥川龍之介「後世」だろう。現在未来に自分が評価されるとは必ずしも限らないと知りながらも芥川が百年のあと「その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか」と願ったエッセイである。ある時期から富田さんはこの文章を青空文庫の理念を示すものとして自分の講演で必ず読み上げるようになったがそういえばこの短文を見つけてきて電子化したのは大学生になりたての私であった。しかも初めて目にしたのは浪人中に解いていた現代文の問題集のなかであって一読して滂沱、その繊細な筆致と想いにまったく設問など手に着かなくなる始末。その印象がよほど強かったのだろう、無事京都大学に進学したのちその附属図書館にあった片田文庫という全集本の寄贈コレクションから「後世」の箇所を見つけ出してその内容に思いを馳せながら一文字ずつ丁寧にテキストファイルに起こしたのだった。

結局のところ本を本につなぐ行為とその意義とが芥川本人のみならずそこに関わった人間も含めて複層的に示されるという点でもパブリックドメインの青空が生んだひとつの価値なのだろう。

そうした活動を主唱した富田さんにはやはり闘士然としたところがあって各所においてそのエピソードは尽きないのだけれども個人的に知る範囲での話を持ち出すと著作権保護期間延長問題で青空文庫が反対の署名運動をし始めてしばらくのちにThinkCも軌道に乗り出していた頃のこと。自分はまじめに毎回レポートをまとめながらなおかつパブリックドメインの映画に自前の字幕をつけてフリー公開するという時代を先取りしすぎた行いに突っ走っていたときのことなのだが、きっとその突出感やちょうど富田さんの大好きな『素晴らしき哉、人生!』を手がけたということもあったのだろう、まだ少年のごとき私を横にしてある席で「彼はベルヌ条約を打倒する人だから」と紹介がてらもはや既定事項であるかのように突然言い出してそののちあらためて裏で「よろしく」と念押しされた。

ベルヌ条約というのはご存じの通り今の著作権法の国際的枠組みの根本を形作っている条約のことであってこれをひっくりかえしてほしいから「打倒をよろしく」というのは後進にゆだねるにしても正直のところ無茶にもほどがある。真意としては青空文庫で文化の共有と継承というあり方の実現をそれこそものすごい規模でまざまざと目の当たりにしたからこそで今の枠組みで作る人も受ける人も引き継ぐ人もみんな本当に幸せになれるのか疑問を抱き始めたからだと思われるのだがただこんなことを右も左もわからない少年に託すあたり、どうにも悪の秘密結社の総統か何かが世界征服を持ちかけたとしか思えないところがある。

結果として何年がかりかで自分はレポートをまとめあげてベルヌ条約の「保護と利用」を脱構築して「共有と保障」というまた別の枠組みを考えることになったのだが富田さんはこのオンデマンドで作られたレポート冊子をいたく気に入ったようで、「アシモフさんをたずねたとき、特装版のFoundation’sEdgeにサインしたものをいただいた。紙の本は時に、思い出をまとう。最初の本となるThinkC×Cを、大久保ゆうさんが送ってくれた。書棚の隣にならべて、はじめてメールをもらった頃の事を思う」とツイートしてくださり私もまた同じレポートを富田さんの刊行後すぐに断裁されてしまったという旺文社文庫版『パソコン創世記』の隣に並べてある。

その小ぶりの本が刊行されたのは自分がまだ3歳のときであるからもちろん新刊で買ったものではなく青空文庫の底本を探して古書店を回っていたときに手に入れたもので久々に手にとって開けてみると扉の裏に富田さんの自筆で大きく「『つながれ、人の輪』2003年4月26日青空文庫オフ会にて」と記されてあった。

126アカバナー(11)翡翠輝石(回文詩です)

藤井貞和

アジアの燃える ゴースト、鉈かざし、喉ぬらし、
危機の奇蹟の椅子引けよ また、
血が浦添によって、空の燃える ゴースト。
鉈に、だれがなのか、
光、慈悲、波紋、うろくず(=鱗、魚)か、
業苦か、塵の身。
翁長知事、自治がなお、
御法(=みのり)近く、うごかず。黒雲母は 聖(=ひじり)か、
悲歌の流れだに、タナトス 驕る。
獲物ら、蘇鉄よ 煮え、空穿ち、弾よけ、
翡翠の輝石の、聞き知らぬ、どの視座か、
タナトス驕る獲物、アジア

(『琉球共和社会憲法の潜勢力』〈川満・仲里編、未来社〉から慈悲ということばをもらい、高良勉『言振り』〈未来社〉を眼前に置いて、「こちら特報部」〈東京新聞2015/4/11〉を利用して、回文詩はこれでさいごにします。翡翠輝石はいわゆる翡翠。回文はもの凄いエネルギーを要し、半分はこちらがわが選ぶ語句ですが、半分は作品の向こうがわから来る語句なので、ことば遊び詩とはいえ、たぶん言っていることは正しいと思います。『びーぐる』27(澪標、2015・4)に、八重洋一郎さんが、「先ごろ所用で二週間ほど東京に滞在していたが、しばらくしてある事に気付いた。それは沖縄についての情報が極端に少ないということである。沖縄現地では毎日毎日、名護市辺野古への米軍新基地建設に反対する住民たちの動向が報じられ、……本土側にはこのような事態はほとんど知らされておらず、従って日本の全面積のわずか0.6%にすぎない沖縄に在日米軍基地の74%が集中している事実が引き起こす様々な出来事に全く無関心である」〈詩と沖縄の現在〉と書き出しています。朝日新聞ディジタルサイトをひらいてみると、なるほど新着ニュースが100ほど並んでいて、沖縄関係は一つも見つからなかった。メーカーの新製品の話や芸能ニュースやあれこれが満載で、朝日新聞はまったく腑抜けになったのか、隠忍自重しているのか、よく掴めないが、二つや三つはさりげなく沖縄住民大会の予告記事でも映画記事でも出して、大新聞の役割どころ、本土人に向けての回路を失わないでほしいな。八重さんのような思いに対して応えてほしいとふと思いました。むりかしら、ね。さすがに本土のいくつかの市議会が沖縄での過重な負担に対して見直すようにとの議決を試みているようで、少数とはいえ貴重です。ドローンに辺野古岬から採集してきた「泥〈どろ〉―ん」を積んで、もし運転できるならば飛ばしてみたいな。どろーん。)

簡潔な線 透明な響き

高橋悠治

今年2月浜離宮でホールでピアノを弾き、4月には室内オーケストラのための『苦艾』を京都で初演した。その二つを聞いた浅田彰がREALKYOTOに書いたレポートを読んで、思ったことをすこし書く。

浜離宮のキャッチワードに使った「簡潔な線、透明な響き」はクリスチャン・ウォルフの音楽についてだれかが言ったことをすこし変えたことばだった。ウォルフの曲を中心にしてバッハの『フランス組曲』もハイドンのソナタも、ウォルフの好きな音楽らしく、ジェズアルドと自分の曲も、たまたまその方向だった。

『苦艾』で距離をとって配置した楽器のあいだで短いフレーズを投げ合う「ホケット」や、ほとんど一つの線をずらしたりなぞるだけの薄いオーケストラの響きも、ウォルフや昔の近藤譲のやりかただったが、やってみるとまったくちがうことになる。演奏も作曲も、あるものをきっかけにはじめても、他人の感覚ではできない。

演奏は、楽譜を毎回読み、読みなおすなかで、解釈や表現は考えず、構成や論理はどうでもよく、楽譜に書けないリズムや音色のかすかな変化がおもしろくて、うごきが音をはこんでいくのにまかせて、外側の音が身体のうごきに移ってくるのを待ちながら、あれこれ試してみる。ヴィゴツキーが観察したこどもが、そっと自分に言いきかせることばが内側に染みこみ、かたちが消えて意識もされない心の根になっていくありさま、ロベール・ブレッソンのモデルたちが眼を伏せて何をしているかも知らずにしているうごきに近い、と思うこともある。

作曲は、『苦艾』の場合、連句の朗読につけた音楽でもあり、連句の「付けと転じ」を使って書いた音でもある。エピクロス的な偶然のわずかな偏り、クリナメンが音の道を逸らして、構成するのとは逆方向に、短いフレーズの形をたえず崩していく。

演奏は練習が本来の場で、作曲でも目標や意味や根拠はなく、音をあれこれ試しあそぶだけ、コンサートはその上に慣習の衣を羽織っているだけとも言える。音楽は職業だから、生活のためにやるべきことはすこしはある。それ以上のよけいなことをしないで、ひっそり暮していられればいいだろう。

「イスラム国」に翻弄される人々

さとうまき

イラクのファルージャ。米軍が劣化ウラン弾や白リン弾を使ったという。そのせいかガンの子どもたちがふえているという。今までもファルージャのがんの子どもたちを支援してきたが、2013年の暮れには、ファルージャが「イスラム国」に制圧されてしまったのだ。

昨年の暮れ。
ファルージャ出身のアイド(15)君は、バグダッドに避難していた。親族から連絡があった。インドで手術を受けさせたいという。診断書を井下医師に診てもらう。
「助かる可能性はなく、放射線治療や、麻薬を使った痛みの緩和くらいしかないでしょう」という。残念ながら、そのことを親戚に伝えた。「つらい手術をするよりは、痛みどめなどで延命するのがいいのでは」
「わかりました。でも我々の文化には、あきらめるということはなく、神の奇跡を信じるしかないのです」という。その後アイドは、親戚や、隣人、モスクの支援を受けてインドで手術を行った。

アイドは、35日間インドで手術と治療をうけ、無事にバグダッドに戻ってきた。しかし、バグダッドには薬がない。そこで、私たちが支援しているクルド自治 区のアルビルの病院まで来ることになった。薬は私たちが支援することになった。約一年分くらいの薬だが50万円くらいかかる。交通費や宿泊費は彼らが自分 たちで払うという。

2月28日、病院のロビーには、アイドと母が、私たちを待っていた。アイドには、2012年の夏に、ファルージャで会ったことがあるが、そのときとは違 い、アイドはすっかり痩せこけていた。親子は、ホテルに一泊し、お金が尽きてしまい、ファルージャから避難している知り合いの家に泊まったが、毛布もな かったという。あと、どれくらい生きられるかわからないのに、QOL(クォリティオブ・ライフ)もあったものじゃない。ホテル代を払ってほしいと泣きつい てきた。

バスラのイブラヒム、バグダッドのアブ・サイードが、「JIM-NETの事務所に泊めてあげたらどうだ。あのかあちゃんは、今までもよく知っているから、 信頼していい。父親もいなくて本当にかわいそうなんだ。地下の物置になっている部屋があるじゃないか。お母さんに料理を作てもらえばいいし、掃除してもら えばいい。」
「いい考えだとおもうよ。でも、クルド人の大家は、嫌がるだろう。ファルージャのスンナ派アラブ人は、ここクルドでは、まるでISの支持者だと思われてるし」

昨年6月に、ISの攻撃から避難してきたキリスト教徒を事務所に泊めたことがあったが、この時は、大家が血相を変えて、「アラブ人を泊めるならお前たちも 出て行ってもらう」と怒鳴られた。クルドの兵隊は、ISと闘っており、犠牲者もたくさん出ている。TVでは、毎日、クルドの兵士をたたえるニュースやコ マーシャルが流れている。もともとクルドとアラブの民族間の歴史的な対立があり、微妙な差別感情が出始めていた。

だめ元で、イブラヒムが、早速大家に電話をする。大家は、クルド人だが、かつてイラク軍の兵役につき、イラン・イラク戦争時にはバスラで従軍していたの で、イブラヒムとは仲がいい。イブラヒムの妻がクルド人ということもあるのだろうか。意外に大家は、「困っている人を助けるのは、私にとっても喜びだ」と 言ってくれた。
事務所の地下の倉庫が空いていたので、アイドと母を泊めることになった。早速、掃除をはじめ、事務所は見違えるようにきれいになった。買い物に行き、アイ ドの母親が、ブリヤーニという(チキンチャーハン)家庭料理を作ってくれる。いままで、あまり口を利かなかったアイドも嬉しそうで、母親の料理をみんなで 一緒に食べた。5日間の闘病生活と私達の共同生活が始まった。
 
アイドは、2011年、ガンになった。ユーイング肉腫である。少し前に父が病気で亡くなった。自転車で転んでから腰の痛みが取れず、ガンだといわれた。インドで手術をした後、バグダッドのセントラル病院で化学療法が始まった。しばらくはよくなったと思えたが、2013年ごろから、アイドの様態は悪くなり、歩けないほどだったという。
「市場で、爆発があり、体がバラバラになって死んでいる人を見たんだ。」
それ以来アイドは、すっかり元気がなくなったという。

2013年12月。「イスラム国」がファルージャにやってきた。
アイドの母親は、「最初彼らは、ファルージャを開放するといいました。」その当時、ファルージャでは、政権によるスンナ派の迫害が続いていた。
「多くの人がその言葉を信じました。しかし、たばこもだめ、すっているのが見つかると、たばこを取り上げられ唇に押し付けられた人もいた。女性は髪も隠さなければ許されない。小さな子どもがサダム・フセインをたたえる歌を歌ったというので、その子の叔父がつかまり100回のむち打ちになったということもありました。」
それでも、アイドが、ファルージャとバグダッドの病院を行き来するときは、ISのチェックポイントは、「ガンで治療が必要だ」というと通してもらえた。チェックポイントがたくさんできていて、通常は一時間くらいなのに9時間もかかった。

その頃、マリキ政権は、3月の国政選挙に備え、スンニ派の議員をテロに加担したとして逮捕し始めた。ファルージャでは、平和的なデモが続いていたが、1月になると、デモの中に、「イスラム国」の戦闘員がいるとして、総攻撃をかけたのだ。

アイドの家族もバグダッドに避難し、アパートを借りた。アッダミーアという貧困地区で、家賃100ドルのアパートを見つけた。3部屋に3家族12人が暮すことになった。ほかの家族も夫がマリキ政権化で、武器を売買したとの疑いをかけられ逮捕されて収監されていたり、生活はぎりぎりだ。

ある日、アイドが病院に行こうとしたところ、今度はイラク政府のチェックポイントで呼び止められた。アイドは、足が虫に刺されたのか、腫れてきたので、包帯を巻いていた。
「お前は、ISの戦闘員だろう。だから、怪我をしているんだな」と逮捕されそうになった。
アイドと母親は恐怖に震え、泣いて事情を話し、ようやく解放された。「イスラム国」に捕まることは恐怖だが、「イスラム国」の戦闘員としてイラク警察に捕まると生きて帰ってこられるかわからないのだ。

イラク軍の攻撃も落ち着き、久しぶりにファルージャに戻ると、アイドの家は、無残にも空爆で、破壊されてしまっていた。イスラム国の兵士が、地雷を埋めているのが見えたという。闘病中のアイドが楽しみにしていたプレーステーションも壊されてしまった。
USとIS、どっちが怖い? とアイド君に聞いてみた。「ISの方がこわい」
ある時、市場を歩いていると、ISの戦闘員に呼び止められた。アイドの靴にイギリスの国旗がついているというのだ。「それを外さないと殺すぞ」と脅された。「取ります」と言えば、許してもらえたが、怖かった。

3月2日
イラク軍はティクリートの解放をめざし、総攻撃をかけた。約3万人の軍隊がティクリートを包囲したために間もなく5日間の治療を終えてバグダッドに戻る予定だったアイド親子は、幹線道路を絶たれ帰れなくなってしまった。

「無理して帰ることはない」と言ったが、「4か月の赤ちゃんがいるから」というのだ。嫁いだ娘の赤ちゃんだという。まだ、赤ちゃんが生まれる前に、父親は、チェックポイントでつかまり行方不明になっていた。寄進省のカメラマンとして働いていた夫は、カメラを持っていたので、ISから尋問を受けた。モスク関係の写真を撮っていたので許してもらえると思ったが、身分証明書には、公務員と記されていたので、拉致されたのだ。すでに、殺されているかもしれないという。

アイドの母が帰らないと、ミルクや、おむつ代も払えないというのだ。一家の収入は、母親があちこちからかき集めるお金である。何とか、支援してくれる人が見つかり、アイド親子は、アルビルーーバグダッド間のチケットを手に入れることができ、バグダッドに帰って行った。

別れ際に、母親が乞うた。
「半年後に、アイドは、またインドで治療を受けなければならないのです。全額ではなく、少しでいいから支援してもらえないでしょうか」私はうなずいた。その後、親戚のおじさんから連絡があり、飛行機で無事にバグダッドに着いたという。「今までは、治療に行くと、元気がなく気が滅入って帰ってくるのに、今回は、精神的にも元気そうでした。面倒を見てくれてありがとう」

生きてほしい。半年後、アイド君が、元気に微笑んでくれることを願う。

125アカバナー(10)火の起源

藤井貞和

まだそのころ、火はなかったって。 世界の最初、
藁が火になろうとしたって。 ぼくは火になろう。
ついで、樹皮が、希望して火になろうとしたって。
軍歌が敷地を埋めていたって、もう いっぱいに。
学校のうしろは崖になっていて、抵抗できなくて、
藁がまっさきに落ちていったって。 「さよなら」、
ぼくたち。 樹皮はあとを追いかけるかのように、
「さよなら」、ずるずる落ちていったって。 崖下。
土偶と土偶とは手と手とをとりあって落ちたって。
ころころ転がる土製の丸い面は遮光の目を閉じて。
そのあとはもうだれが落ちたのか判らなくなって、
全校で死亡33名、負傷85名、逮捕者はかずを、
知らず。 夕方までに、女性徒は釈放されたって。
先生方は血をながしてのたうちまわっていたって。
土偶よ 語れ、崖下の藁の死体から、火が生まれ、
樹皮の死体からきみの火が生まれたということを。
丸い土製の遮光の目よ 眠れ。 原始の炉のなか
で。 坊やもお寝み、悪い夢を見るんじゃないよ。

(あれっ、四大元素ってなんだっけ。土、火、水、空気だったか。木がはいるのじゃなかったか。方位はまん中が土、だったかな。秋が金。今日は火曜日、というわけで、空気曜日を作りたい。噴煙は空気を押し広げるためにできるかたちです。)

『マルタの鷹』の夢のかたまり

野口英司

映画の中で小道具が効果的に使われていると、もうそれだけでその映画が好きになってしまう。そして、その小道具が欲しくなってしまう。でも、それは見果てぬ「夢のかたまり」だった。

ジョン・ヒューストン監督の『マルタの鷹』(1941年)に、中世のマルタ騎士団に由来を持つ黒いエナメルの鷹の像が出てくる。250万ドル以上もするそのお宝の像をめぐっていくつもの殺人事件が起き、ラストにはそれがまったくの偽物だと判明する。

そして、刑事役のワード・ボンドが問う。

“It’s heavy. What is it? 
「重いな。これは何だ?」

私立探偵サム・スペードのハンフリ・ボガートは答える。

“The stuff that dreams are made of.”
「夢のかたまりさ」
(訳は和田誠「お楽しみはこれからだ PART2」より)

この黒いエナメルの鷹の像は、まさに「夢のかたまり」を象徴するようなデザインだった。手に入れようとする人間を寄せ付けない孤高な唯一無二の存在感があった。

『マルタの鷹』はジョン・ヒューストンの初監督作品ではあるが、とても初めての映画には見えない完成度があった。新人でありながらこの完璧な創作の秘密は
どこにあるんだろうとジョン・ヒューストンの自伝「王になろうとした男」(宮本高晴訳・清流出版)を読んでみると、なるほど、映画監督としての「The Right Stuff(正しい資質)」とはいったい何なのかが良くわかってくる。5度の結婚、エロール・フリンとの殴り合い、ヘミングウェイやサルトルとの交流、狐
狩りや象狩り、美術品で彩られたジョージ王朝風邸宅。どれもまさに映画の要素となりえるエピソードばかりだ。

川本三郎がジョン・ヒューストンを評して、

ヒューストンは人生のエピキュリアンだった。美しいもの、エキサイティングなもの、ロマンチックなものを愛した。ボクシング、狩猟、絵画、ギャンブル、女性、動物、そして映画。
(「ダスティン・ホフマンはタンタンを読んでいた」キネマ旬報社より)

と言っているように、人が何に快楽を見出すのかを自分の人生で持って検証しているような生涯だった。その経験をハードボイルド映画と結びつけることによっ
て、初監督作品からすべてのシーン、すべてのショットをダイナミックに息づかせる演出が可能になったのかもしれない。小道具の黒いエナメルの鷹の像でさえ
もジョン・ヒューストンの人生が凝縮しているように見えてしまう。

そして、もちろん、その黒いエナメルの鷹の像が欲しくなった。でも、ハリウッドの土産物としてもあまり見たことがない。ネットを検索しても、イミテーショ
ンでさえなかなか引っ掛からない。と、長年思っていたところ、一昨年、実際に映画で使われた「マルタの鷹」がオークションに出品された。

http://articles.latimes.com/2013/nov/25/entertainment/la-et-mn-maltese-falcon-sells-for-4-million-at-auction-20131125

値段は、$4,085,000(約4億円)だ!
映画の小道具でありながら、設定上の「マルタの鷹」の像の値段よりも高くなってしまった。
とても欲しいけど、この価格ではとても手に入れることはできない。
本当に「夢のかたまり」だった。

しかたがない。今年のアカデミー賞で、長編アニメ賞にノミネートされなかった『LEGO(R)ムービー』のフィル・ロード監督がレゴでオスカー像を作ってしまったことが話題になったけど、それに習ってレゴで「マルタの鷹」の像を作ろう。

著作権のことなど

大野晋

ときどき、楽しみに見ているものがある。
それは青空文庫のアクセスランキングである。そんな話を以前も書いたような気がするが、今年の冬もアクセスランキングをのぞくと新見南吉の「手袋を買いに」が上位にランクしている。有名な童話のせいもあるが、親の世代が子供に読み聞かせるのに最適な童話だと思うので、そうしたことがアクセスが増える原因だろう。まあ、物語としては「ごん狐」の方がよくできているのだろうけれど。

相変わらず、夏目漱石がランク上位にあるなど、多少の変動があっても変わらないランキングだが、ときどき、何の因果か大きく変動することがある。それが見えるのが青空文庫のブログにある変動ランキングである。新聞に出たり、雑誌に出たり、テレビで取り上げられたりするとこのランキング上で変動が見えることになる。

それでも、大抵の収録作品のランキングは大きく変わらない。もう春だというのに、桜が満開だというのに、チェーホフの「桜の園」がトップ10に入ることはない。著作物の人気にそれほどの大きな変化は現れないというのが、長年、青空文庫のランキングを見てきた感想だ。きのうまで売れなかった本は急に明日売れるということは’まず’ない!

さて、ほとんどの著作物は現在の価値以上の価値を生み出すことはない。
そして、近代の著作権法が考えだされた200年前よりも我々は多くのコンテンツを持っているが、それら全てが有効に利用されているとは言えないという現状がある。TPPを機会に著作権の保護期間や非親告罪化について取り上げられる機会も増えたが、著作権自体について考える機会が増えたかと言えばそうでもない気がしている。

そもそも、著作権は著作物に対して付与された財産権である。そして、ほとんどの著作物にとって、その価値は生み出された時から徐々に減じていく傾向がある。無償で生まれたものは無償以上の価値を生み出すことは難しい。また、有償で生まれた著作物であったとしても、急激に価値が下がり、無償に近い状態になることがほとんどだ。
「書籍は割に合わない」と称した著述家がいたが、初版の冊数や書店の店頭に置かれる期間を考えるととても著述だけで生計を立てるなど、現代の日本では考えにくい状況になってきているのだろう。本当に、絶版や版切れになった著作物に価値があるのだろうか?

一方で、コンテンツの流通に関するコストはインターネットの普及で急速に下がった。インターネットができる以前であれば、青空文庫のような著作権保護期間の切れたコンテンツを無償で公開するなどという行為はまずできなかった。まあ、だから、出版が業として、コンテンツ(文化)の流通を支配できたのだけれども。

もうひとつ考えるべきなのは、著作物自体が残りやすいということだ。文章でも、音楽でも、一度、公開されたものは低コストで残り続ける。最近のデジタル技術ではコンテンツの類似性などもすぐに比較できてしまうために、類似著作物は作りにくくなってしまっている。

ただし、コンテンツひとつひとつの由来を考えると、全くのオリジナルということはまず、あり得ない。文書自体も、誰かの文体を下敷きにした上で新たな表現に変化させている。これが音楽になるととんでもないことになり、リズムも、メロディも完全なオリジナルというのは考えにくいし、そもそも、誰かのオリジナルを真似して勉強しない限り、絵や音楽などの腕が上がるとも思えない。要は、文化そのものが誰か先人の著作物の上に構築されているのだ。ところが、コンテンツの類似性を著作権の中で論じ始めると、類似物の排除ということが始まるらしい。しかし、模倣を排除した社会には、それ以上の発展は期待できない。

そういう意味で、これからの著作権は、現状の価値で利用を考える必要があり、また、文化との兼ね合いで排他的な権利を制限する必要があるということを考えていく必要があるように感じている。

1887年、ビクトル・ユゴーらの議論から近代的な国際的な著作権条約のベルヌ条約が生まれた。
ここ数年で大きな環境変化が起き、著作権をめぐる状況も変化した。
そろそろ、根本的な議論を始めてもいいような気がしている。

しもた屋之噺(159)

杉山洋一

息子が10歳の誕生日を迎え今朝は立ち込める曇空の下、学校に誕生日祝いのチョコレートケーキ5枚、コーラとアイス・ティーのペットボトルを持参して、嬉々として小学校へ出かけました。誕生日にお菓子やプレゼントを本人が持参してクラスの友達や先生に配る習慣があるのです。
ところで、誕生日祝に息子から頼まれていた20冊余りの江戸川乱歩「少年探偵団シリーズ」と6冊の「アルセーヌ・ルパンシリーズ」は、隠しておいたにも関わらず、酷い流感でここ十日ほど臥せている間に悉く読破されてしまい、今年の誕生日プレゼントはもう終わってしまいました。明智先生を読んでいれば、隠し場所くらい先刻お見通しだそうです。

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 3月某日 仙台ホテルにて
朝7時に朝食を取り新聞を読んでいると、隣に聡明さんがやってきて暫く話す。藤田嗣治の半生を追う小栗康平さんの映画の音楽の録音。聡明さんのお祖父さん、お祖母さんがヨーロッパで研鑽を積んでいらした頃の話が面白い。パリをお祖母さんが和服姿で歩いていると、背後からパリのご婦人方が物珍しさについて来て、信号待ちをしていると、ちょいちょいと袂を引張ったりしたとか。楽譜は読んできたが、聡明さんと話して、彼の裡にある藤田嗣治像が見えてくると、音の印象はぐっと鮮明になる。

 3月某日 仙台ホテルにて
海の幸山盛りの心づくしの晩飯を皆さんとご一緒してからホテル前で別れる。仙台はご飯が美味しいとは聞いていたけれど、違わず本当に美味。習慣でどうしても食後のコーヒーが呑みたくなり、道路を隔てたところにある目新しいピザ屋に足を向けるとエスプレッソがメニューに載っている。「すみません、量が半分で濃いのを一杯たててくれませんか」と頼むと、少量でどうにも申し訳ないという顔で妙齢が持ってきてくれる。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
小栗監督の映像と聡明さんの音楽は、実に好く絡みあう。小栗さんの映像も聡明さんの音楽も、枠に嵌め込まれていない。ルーズであることは、実は想像もしない複雑さや面白さを導き、静謐は時に妖艶であったり、無言の激しさや強さが自在に混じり合う。録音を選ぶ段になって、こちらが演奏の内実したテイクを薦めると、小栗監督は寧ろ音に少し粗さの残る録音がお気に入りだった。確かに彼の好きなテイクには瑞々しい音ごとの発見があった。監督と二人で画にどう音を嵌めようかと喧々諤々やっている隣で、聡明さんは満足げに微笑んでらしたのが印象に残った。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
杜甫二首の練習。演奏を通して各人が言葉を話し、互いに反応する。各々の創造力と理解が、音を豊かにしてゆく。音符が饒舌になれば、音楽が充実するとは限らない。譜面が饒舌なので音になって落胆することもあれば、音符が貧しくて演奏家が音楽を豊かにしてくれることもある。作曲家の責を放棄している気もするが、演奏家への信頼が先ず大前提としてある。とすれば、やはり責任放棄か。息子の誕生日祝に江戸川乱歩の少年向け小説を、店仕舞が間近の東急プラザで購う。

 3月某日 渋谷トップ駅前店にて
杜甫の練習が終わって道玄坂を駅に向かって下っていると、得体の知れないインターネットサイトの宣伝カーが姦しく通り過ぎる。シューベルトの「菩提樹」が頭のなかで反芻していたので、やれやれと独りごちていると、今度は求人サイトの宣伝カーが近づいてきたので油断ならない。
渋谷スクランブル交差点の折り重なる宣伝。情報のインプットは、一定量を越せばエントロピーになり認識不能に陥る。理解しようと耳を澄まされることのない、氾濫するだけの音響は、理解への興味より寧ろ、次第に惰性で見るだけになるインターネットに似ている。惰性で享受する情報は、インターネットのように未整理のまま頭を通り過ぎて、後には何も残らない。と考えて俄然気分が悪くなるのは、自分がその張本人だから。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
大石君が洗足でやっている、現代音楽を実践するゼミにお邪魔した。
ルネッサンス・フルートとサグバッドのために書いた二重奏の「かなしみにくれる女のように」を、オカリナ、リコーダー、ピアニカ、ギター、グロッケンシュピール、マリンバ、各種サックス、併せて10人ほどで演奏してみる。オカリナとギターが聴きとれるダイナミックスまで、皆に弱く弾いてもらう。音量の弱い楽器に耳を傾け、豊かな表情を見出すようになるのは、弱者をやさしく受け容れる態度に似ている。声を張り上げて主張するのではなく、互いに言葉を聴き取ろうと耳を澄ませば、普段は聴こえない微かな声も聴こえてくる。

並んだ音は同じ強さを繰り返さぬよう心を配る。一つ一つの音に慈しみをおぼえれば、それぞれの音に表情が見えてくる。音のそれぞれ微妙な濃淡がつくと、流れに自然に揺らぎが生まれるのは、物質にそれぞれ重さが重力と相俟って、地球上で空気が循環し、風が生まれ雲が流れ、葉がそよぐのに近い。似かよった性質の音符を均一化して操作するのは一見賢明なようだが、実は音楽を豊かにするにあたって遠回りをしているのかもしれない。それを人間の生活に置き換えてもいい。

若い学生の皆さんにとって、パレスチナもイスラエルも遠い世界の出来事に違いない。
元来同じものを共有していた仲間がそれぞれの道を進むうちに、隔たりや乖離は思いもかけぬものになる。現実をじっと見守り続け、そしてある所から改めて少しずつ寄り添おうとする態度を通し、何かを見出してくれるかもしれない。ひたむきに互いの音を見つめあう若者たちの姿に感銘を受ける。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
「杜甫」の練習は、思いの外沢山のことを気がつかせてくれる。あまりに単純な楽譜だから、作曲者が何かを仕掛けるわけではなく、鑿と金槌だけを手渡して憚りもなく丸太を演奏者の前に置き去りにするに等しい。初めは恐る恐るであったものが、少しずつ大胆に、演奏者は造形を彫り出してゆく。我ながらこのやり方は狡いと思いつつ、思う通りの音が聴こえてきて、演奏家自身の音楽が明瞭になるのを見ると、やはりこれで良かったとも思う。音符を沢山並べて演奏者を雁字搦めにするだけが、作曲責任の完遂を意味するかも怪しい。

複雑な事象を単純な仕掛けから導く。複雑な事象を複雑に書けば酸素不足のエントロピーとなり、内部の相互関連性は消失する。それは確かに複雑かもしれないが、クセナキスのように総括的巨視的な存在意義を与えなければ、単なる音群でしかない。音を現象で論じることに興味が持てないのは、そこに生身の演奏者や聴衆を介在させる意義を見出せないから。
路地裏のパチンコの音も混じり合う渋谷のスクランブル交差点の音の氾濫を想う。ただ無意味に重なり合い、誰にも耳も傾けられぬ、現象としてぶつかり合うばかりの音。
夜半家人が帰ってきたので、自転車を飛ばして上海料理屋へ走り、紹興酒熱燗と野菜炒め。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
朝、本当に久しぶりに西荻窪へ。何年ぶりに訪れたのか忘れたけれど、桃井4丁目裏の交差点は、昔と同じコンビニエンスストアが残っている。そこから道一本入ると、先生のお宅へ通っていた頃とは随分風景が変わっていた。「まるで昔と違うから分からなかったでしょう」。玄関先で由紀子さんは開口一番そう仰った。
桃井の辺りは311で随分被害を被って、近所の家々は軒並み建て直したのだという。幸い先生の仕事部屋は昔のままで、311で造り付けの棚から飛び出した楽譜の残りは、未だほんの少量そのままにになっていた。
先生がご自分で付けられた戒名の傍らに、分骨された小さな骨壺があって、その隣に伊豆の鯛めし弁当の空き箱を組み細工にして作った飛行機がそっと佇む。
1月10日先生の誕生日に併せた水仙の写真の前に、軽井沢の家で先生が毎年一つずつ造っていた楽焼の珈琲カップは、明るくも暗くも見える複雑な色調を放つ。

主の居ない作曲家の仕事部屋は、少し不思議な空間で妙に何か存在感がある。ピアノの横の壁には昔と同じオーケストラ楽器の巨大な音域表が貼ってあり、空虚という形容詞がおよそ反対に感じられる空間で、先生の偏食談義に大いに花が咲く。

「嫌いなものは牛肉、ラーメン、うどん。子供達は小学校に上がるまですき焼きを食べたことすらなくて。豚肉もあんまり。だからトンカツも駄目。ウナギも。オイシイのにね」。
「魚は大好き。貴方のお父さまがよく活きの良い車エビを届けて下さったわね。あれを生のまま食べるのを大層喜んでいたの」。
「貴方に謝らなければならないことがあるの。アンパサンの初演の時、私が花束を持っているのを見て、邪魔になって悪いと思ったのでしょう。わざわざ持って来てくれた花束を、さっと後ろに隠して下すったの。あの時受け取っておけば良かったと、あれからずっと思っていたのだけれど。何しろセッカチで、車は時間が読めないと言っていつも電車に乗っていたから、花束をあまり持ち歩けなくて」。
「セッカチと云えば、何時何分にご飯と言われていても、大抵5分か10分約束より前にはそそくさと食卓にやってきて、待っているのよ」。

先生が行きつけの蕎麦屋でお気に入りの鴨せいろを頂き、通われた喫茶店の決まった席で、好きだったスペイン風コーヒーを啜る。
「彼がイタリアに行った時、電車で呑みすぎて気が付いたら列車のトイレで寝込んでいたとかで、何でも目の前に沢山硬貨が散らばっていたと云うの。物乞いだと思われたのでしょうね。兎も角フランスから国境を越えた途端に青空がぱっと開けて、駅弁も信じられないくらいイタリアの方が美味しかったと繰り返していたわ」。

パリから国境を越えイタリアに入って青空が開けたと云うのなら、ジュネーブ経由でアルプスを抜けたのではなかろうか。ドモドッソラ駅を若かりし先生が酒を呷りながら上機嫌でイタリアに入ったと思うと妙に親近感が増すような気がするが、それとも一直線にリヨンからバルドネッキア経由でイタリアに入られたのかもしれない。ドモドッソラから入ったのなら当然ミラノあたりで宿を取ったに違いないが、イタリアでは好物の鴨肉やら猪肉にはありつけたのだろうか。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
上野の文化会館で「杜甫二首」を聴く。
MFJの三浦さんがNHKの吉田さんに「杜甫」の総譜について尋ねられ、この曲は総譜がないのが良いところ、と説明して下さったそうだ。正しい演奏を測る指針もないけれど、間違った演奏も存在しないのは、悪いことではない気がする。正しい演奏を目指すほど、演奏者の本来の姿から離れてゆく場合もある。総譜がない替わりに、録り直しも繋ぎ直しもないのでお許し頂く。
兎も角、本番は各々の演奏者の世界が有機的に重なり合い紡ぎ合う、素晴らしい演奏。
丁々発止と云うと二次元的だけれども、それが三次元で有機的に相関関係を築けば、ちょうどあんな塩梅か。各人が表現したい音を、表現したいように出してくれるのなら、それに条件づけするのは極力避けたいが、どこまで音符を豊かなまま単純化できるか。

「春望」のリハーサルが終盤に差し掛かった頃、板倉さんから「この曲は中華音楽を欧州風に演奏する感じなの? それとも中華風に演奏するの」と尋ねて下さって、音像が急に具体的に纏まった気がする。幾つか試した結果「中華で行こう」が合言葉になった。

「対雪」は突き放したマドリガリズム。聴き手が言葉と音楽に反応し、自由に風景を思い描く。音楽が詩をおもねるのではなく、それぞれ聴き手が、各人の景色のなかで魑魅魍魎を思い、無常の境地に耳をそば立てる。波多野さんの指圧の先生が中国出身で「泪蛋蛋」の民謡をよくご存知で、身体を締め上げながら朗々と歌って下さったそうだ。
ユージさんに「あのピアノパートはいいね」と言われて愕く。畏れ多いと狼狽えると「まあピアニストじゃないから」と笑われる。

 3月某日 ミラノ自宅
「饒舌な口上が時にとても虚しく響くように、音符を書けば書くほど、自分から遠くへゆくような気がすることもあります」と書いた。
東京現音計画のための曲あたりから、作曲の作法がドナトーニに似てきた。尤も、表面的には全く似通っていないのだけれども。
安江さんのために、前にマリンバに編曲した「朧月夜」を歌つきで演奏できるように書き直す。原曲が作曲されたのは、今からほぼ100年前の1914年。当時は未だ「朧月夜」と聴けば、どんな月明かりなのか想像がついたに違いない。「朧月」は春の季語だそうだが、あまり明確な朧月夜の映像が頭に浮かばない。
輪廓が茫とした仄かな月か、一枚ガラスを通して眺めているような、くぐもった春の月か。

 3月某日 ミラノ・古代競技場通り
大石くんからサックス独奏曲の題名はと尋ねられ、スカラの学校裏の戦車競技場通り突当たりの喫茶店で暫し考えこむ。古代ローマ時代ここに巨大なトラックがあって、戦車競技をしていたとは信じられない、鰻の寝床のような古いミラノの街並みが続く。
題名のセンスは余り良くはないし普段から頓着もしないので、作品が出来上がる前に決めても影響はない。黒人霊歌の「Lay my body down」とアメリカ国歌、それからエリック・ガーナーの死にまつわる数字の羅列を素材としているので、敢えて場末の安っぽさから「禁じられた煙 Smoke prohibited」と題をつけ、彼がヤミ煙草売りの嫌疑で逮捕された場所に因んで「湾岸通りバラード」と副題を添える。この処少し寒が戻ってきたので、暖を取るべく店を出る前にサンブーカ酒を垂らしたコーヒーをぐいと呷る。

 3月某日 ミラノ・トリノ通り
「最高の誕生日祝になったじゃない」。劇場に向かいながら息子に声を掛けると、「本当にそう」と弾んだ声を上げた。今日は彼が児童合唱で参加するカルメンの初日で、6時45分に集合、親は終演後の11時35分に迎えにゆくので、夕飯にトマトソースのパスタとハムとお八つを持たせるが、流石に今日は興奮して殆ど何も食べていなかった。帰り途、「今日は舞台から1列目のお客さんが良く見えた」と嬉しそう。「お年寄りばかりだった」とのこと。そりゃそうだろう、と言い掛けて、止した。

 3月某日 ミラノ自宅にて
沢井さんの七絃琴のためのスケッチ。中国の七絃の古琴のヴィデオと、丘公「碣石調幽蘭」の楽譜を繰り返し眺めている。先月今月、ニューヨーク東京と続けて吴蛮の琵琶を真近で見て、特に右手の動きで学ぶところがあった。何度眺めても、幽蘭が5世紀前後の作とは俄かに信じられない。西洋音楽史の視点のみを通して世界を観ると、根本的な部分で抜け落ちるものの大きさについて思う。世界最古の楽譜の一つが遣隋使か遣唐使によって日本にもたらされ、今も残存している。朝鮮、中国はもとより、ベトナムやインド、世界各地の文化が混淆していた、当時の賑々しい日本の姿に想いを馳せる。この所の沖縄の人々とのやり取り一つを見ていても思うが、世界と情報の共有が進んだ現在、我々は何か大切なものをどこかに置き忘れてきた気もする。昔はもっと各々の個性が花開いていた世界
だったに違いない。こうしてグロバリぜーションが進み、最後に残る存在理由はどんなものか。

3月25日 ミラノにて  

アジアのごはん(68)シッキムの漬物グンドラック

森下ヒバリ

インド北東部シッキム州の小さな町ペリン。ここにあるペマヤンツェ寺院で僧たちによるチベット仮面舞踊を満喫したあと、ふわふわとした気分でホテルに戻る。寺からは下り坂でホテルまで20分ぐらい。お昼を食べそこねたので、泊まっているホテル・ガルーダの食堂で何か軽く食べよう。夕食はおそめにすればいいか。

「何を食べようかな‥」寒いので、あったかい汁ものが食べたい。メニューを見ているとシッキム・スープ、というのが目に留まった。おお、シッキム料理。何種類かあるので、ホテルのオーナーのチベット人お父さんに訊くと、「これがおすすめ」と言われたのがグンドラック・スープだった。インドではスープはたいがい一人前の日本のお椀位の大きさの器で出てくるので、一緒に行った友人たちもそれぞれ好きなスープを頼む。タイや中国ではスープ類を頼むと2〜4人で食べるに十分な量が出てくるのがふつうだから、はじめは戸惑う。英国式の影響か。

「あれ、この味‥」出てきたシッキム・スープは茶色く地味なルックスである。スプーンで掬うとくすんだみどりの葉っぱのような、アオサのような得体のしれないものがモロモロッと入っている。う〜む、だいじょうぶかな。しかし、一口食べると思わず声が出た。まるで、みそ汁か納豆汁かのような気配の味がする。ちょっと酸味もある。コクがあり、おいしいじゃないか。しばらく夢中でスプーンを使う。

「シッキムの味噌汁〜」「なんだろうね、この味の元は」シッキム地方には納豆もあるし、こういう味はあっても不思議ではないが、もしやこのあたりの納豆キネマ入り? ちょっと違うような。シッキムやダージリン、ネパールつまりヒマラヤ地方にある納豆キネマは、見た目は日本の納豆とそっくりだが、あまり粘らない。日本の納豆菌とは違う菌かもしれない。そして、けっこう臭い。

このスープもほのかに臭いので、納豆入りかもと思ったのだ。シッキム滞在の後、少し南のダージリンに行き、ヘイスティ・テイスティという店に行った。ここはセルフサービスの店で、カウンターで料理を注文する。やっぱり寒いので、何かスープをと思いホット&サワースープというのを頼んでみた。出てきたのはまるでシッキム・スープ。一口食べるとやっぱりシッキム・スープじゃないの。これはネパール料理だという。こちらは酢とトウガラシを入れてあってかなり酸っぱくて辛い。これもウマイです。

ダージリンの本屋でシッキムの本を買い、インドの旅からタイのバンコクに戻って暑さにうだりながら読んでいると、わずかな食べ物解説ページに「GUNDRUK」という漬物がのっていた。あれ、たしかシッキム・スープで頼んだのはグンドラックという名前だった。解説によると、大根やかぶの葉っぱや根っこ、からし菜、カリフラワーの葉っぱなどを刻んで無塩で乳酸発酵させたものだという。え、漬物ですか。何々‥発酵させた後、日干しにして保存し、スープに入れたり、ひき肉と炒めたりする、と。

あの、シッキム・スープの何とも言えないコクと懐かしい味はグンドラックという漬物から作られていたのだ。そして、まるでアオサみたいなモロモロの正体もグンドラックなのだった。このグンドラックはシッキム地方だけの食べ物ではなく、広くネパールでも食べられていて、やはり納豆キネマと同じくヒマラヤ地方の発酵食品なのである。しかも、日本の木曾地方に伝わる漬物すんき、と製法がそっくりだという。木曾地方では塩が貴重品だったことから、無塩の漬物が生まれたというが、寒さを利用して、塩分がなくても腐敗しないように工夫したものか。

グンドラックの製法は、こうだ。緑の葉野菜を刻んでカメにぎゅうぎゅうに詰め、上からお湯(30度位)をかけて密閉し暖かい場所(多くは土中に埋める)に置き、7日間発酵させる。酸っぱくなったら、カメから取りだして日に干す。出来上がったものは酸っぱくて香味がある。ミネラル、ビタミン豊富。発酵菌種はペディオコッカスおよびラクトバチルス種。製法はドイツのザウワークラウトに似る。ザウワークラウトも無塩乳酸発酵の漬物なのだ。

現在のシッキムはインドの一部だが、住民はネパール系、チベット系、そして先住民族のレプチャなどモンゴロイド系で構成される。アーリア系の血の濃いヒンドゥー世界のインドからやって来ると別世界だ。かれらは、民族の文化の違いを保持しつつも、かなり影響を受け合っている。チベット寺院でごちそうになった料理も純粋なチベット料理ではなく、ネパール料理の影響を受けたカレー風な味付けのものが多かった。ネパール族はイギリスの植民地時代に紅茶園で働く労働者としてこの地方に流入してきた。今ではシッキムの住民の7〜8割を占める。

シッキムのチベット族は17世紀にチベット仏教のゲルク派が政権を取ったチベットから移住してきたニンマ派の人々で、シッキム王国をこの地に作った。この数世紀の間にチベットのチベット族とは少し違ってきたようである。もっともチベット地方も広くて、地方によってさまざまなチベット文化があるので、シッキムのチベット人たちが特別なわけでもないだろう。

もともとこの東ヒマラヤ地方に広く住んでいたレプチャ族は、チベット人が押し寄せてきてシッキム王国を作ってしまい、山間部に追いやられ、生活様式もだんだんチベット化してしまった。ネパール族も広く食べている漬物のグンドラックや納豆、こんにゃくなどはもともとレプチャ族の文化だ。レプチャ族については日本人のルーツのひとつという説もあるほど、文化に似ているところがあるようだ。顔つきもけっこう似ている。

ちなみにうちの同居人は日本人だが、チベット人顔である。色が黒くて、鼻がわりと高くて、たれ目で目が細い。こういう顔がチベット人には多いのだ。遠い昔にチベットから祖先がやって来たのかもしれない。チベット人の主食のツァンパだって、日本の麦こがし、はったい粉を練って食べるのと同じだし。

そして、レプチャやネパーリの納豆、こんにゃく、漬物などは日本の伝統食品そのものではないか。ルーツなのか、同じような気候風土が生む類似なのかは分からないが、遠く離れたこの地で日本と同じような保存食を作って食べているというのはとても面白くて、興味深い。市場や小さなお店をのぞくたびにワクワクしてしまう。

日本に帰って来たので、グンドラックと同じ製法という木曾地方のすんき漬けを入手しようとしてみたが、1月にテレビで取り上げられて注文が殺到したとかで、どこも売り切れ。次の冬までお預けとなった。すんきに多い植物性乳酸菌が身体にいいからということらしいが、植物性乳酸菌はどこにでもいるんだけどね。

ジャワ舞踊を彩る花

冨岡三智

インドネシアでは(というかアジア周辺諸国でも同じだが)各種儀礼の室礼飾りや供物で香りの良い生花が大量に使われ、その芳香が会場中を包み込む。しかもその出席者や踊り手も生花で身を飾る。こういう香り豊かな花の使い方は日本では難しく、インドネシアがうらやましくなる。というわけで、今回は踊り手を彩る花を紹介しよう。使われる花は、ジャスミン、カンティル、バラである。

まず、ジャスミンとカンティルについて。カンティルはモクレン科の植物で、和名でギンコウボク(銀厚朴・銀香木)と言うらしい。花びらの丈が5㎝位で、日本のモクレンよりもずっと小さくて細身。どちらの花も白色で、つぼみだけを摘んで使い、すでに開花したものは使わない。ジャスミンのつぼみを糸で通して花房やネットを編み、その端にカンティルのつぼみを留めて処理する。ジャワの花嫁は、結いあげた髪の髷(まげ)をこの花のネットで包み、さらにティボ・ドド(胸に達するという意味)という花房を1本、髷の根元に挿して、おさげ髪のように長く垂らす。踊り手が花嫁の姿をする「ブドヨ・クタワン」というスラカルタ王家の最も神聖な舞踊では、胸どころか太ももにまで達するくらいの長いティボ・ドドを飾る。宮廷舞踊には、レイエ(倒れるという意味)という上半身を大きく傾けるような振付が多く、そのたびにティボ・ドドが揺れて、流れる水のようになめらかな舞踊の動きの優雅さをいっそう引き立てる。

冠を被る舞踊(ゴレックやスリンピなど)の場合、ジャスミンの花を10粒ほどつないだものを耳元にイヤリングのように垂らすことがある。普通はビーズの房をつけるのだが、花に替えると踊り手の顔色が映えるだけでなく、その芳香に踊り手も陶然となる。花はビーズよりもゆらゆら華奢に揺れて、舞踊に表情を添える。

また、花輪をネックレス代わりにすることもある。豪華なアクセサリがない庶民にとっては、花で飾り立てることが何よりのお洒落だったに違いない。民間起源の舞踊ガンビョンでは、今でもあまり豪華なアクセサリをつけない一方、長いジャスミンの花輪を首から腰にたすき掛けするように掛けて踊る。昔の写真を見ると、花輪は胸元までのネックレス程度の長さのものが多かったようだ。かつてはその花輪に病気を治す力が宿っていると考えられ、観客は踊り子にその花を所望したという(1950年代始めに出た文化雑誌の記事にそう書かれている)。

男性舞踊家の場合、腰背に挿した剣の取っ手に花房を飾る。踊り手が背中を向けない限り見えないこの飾りが、戦いのシーンにって踊り手が剣を抜くと一転、注目の的になる。剣を振り回すたび花房が揺れ、刃が合わさるたびにジャスミンの花が1つ1つ飛び散って宙を舞い、そして床にこぼれる。ちょうど桜吹雪の中で立ち廻りをするような華やかさがある。

次にバラの花だが、赤、白、ピンク色のものをほぐして、花びらだけを使う。スラカルタ宮廷の女性舞踊のスリンピやブドヨでは、通常より長い腰布を引きずるように着付け、その裾の中に、バラの花びらを巻き込む。踊り手は、この裾を右に左に蹴りながら踊るので、踊っていく内に中に巻き込んだ花びらが次第に飛び散っていく。スリンピは4人、ブドヨは9人でさまざまなフォーメーションを描きながら踊るから、床に散ったバラもそれにつれてさまざまな軌跡を描く。それは、まるで踊り手が床に曼荼羅を描いているようでもあり、仏への散華にも見える。私がジャワ舞踊の中でもスラカルタ舞踊を一番好むのは、この裾からこぼれる花びらに魅せられたからなのだった。

これらの花はパッサール・クンバン(花市場)で買え、店主のおばさんが客の注文に応じてティボ・ドドや花輪などをせっせと作っている。作るのに時間がかかるので、普通は何日か前に予約しておく。また、バラの花は墓参りにも使う(墓石の上に撒く)ので、多くの人が帰省して墓参りをする断食明けの頃には値段が倍に高騰する。一度、断食明けの1か月後にスリンピ舞踊の公演をしたことがあるのだが、そのときに着付担当の人からそう言われてちょっとビビッてしまった。まあ、断食明け直後ではなかったのでそれほどでもなかったが、スリンピだと4人分として手つきの花籠1杯分を用意しないといけないから、ちょっとした出費になるのだ。

以上の他に、目立たないけれどパンダン(英語でパンダナス)の葉も使われる。この葉を繊切にしてヘアネットに詰めて丸めたものを髷の土台とし、簪などをここに挿していく。いわば天然の毛たぼなのだが、お菓子の香料にも使われるパンダンの葉は良い香りがする。現在ではすでに成形された髷を頭につけるだけなので、伝統的な髪型をするのも楽なのだが、私はこのパンダンの香りが好きなので、インドネシアで自分が公演をしたときには、パンダンの葉を土台にして地毛で髷を結ってもらっていた。1980年代の始め頃にはまだ付け髷がなく、いちいち地毛で結っていたようだが、今ではすっかり廃れ、宮廷か芸大での伝統髪型実習の授業くらいでしか目にすることはない。というわけで、パッサールにパンダンの葉っぱを買いに行くと、「あら、芸大の実技なの?」と言われてしまう。

ふと気づいたのだが、蘭の花や、バリ舞踊レゴンの冠の飾りにするプルメリアの花も使われない。せいぜい、ティボ・ドドの先にカンティル以外に小さな赤色の菊の花をつけることがあるくらい。もっとも、プルメリアは墓地に植える花だからかも知れない…。また、赤、白、ピンク以外の色、たとえば黄色や紫色系統の色の花も使わない。各種儀礼のお供えに使う花にも同じことが言える。実は、西ジャワのチレボン王宮のスカテン(イスラム儀礼)を見に行って大変驚いたのが、お供え用の花に黄色い色の花なども交じってカラフルだったこと。この配色は中部ジャワの王宮の供物にはあり得なくて、「イロモノ」という感じがしてしまう。

製本かい摘みましては (109)

四釜裕子

読者から電話が日に何本もかかってくる。久しぶりの紙面刷新で、長く続けてきた”付録”のスタイルを変えたことへの苦言がやっぱり目立つ。本文のほぼ倍の大きさの厚い紙に片面カラー印刷したものを2つ折りして毎号綴じ込んできたのだ。ノドにはミシン目。楽しみにしている人がいるいっぽうで切り取りもせず見もしない人も確かにいて、全体の制作費に占める割合が大きいので懸案だった。その方法をやめて別の見せかたにしたのだが、「いつものあれがない」とのご不満ごもっとも。でも逆の、あるいは思いもよらぬ感想を聞けるのがたまらない。たとえばこんな話。

紙も変えましたね。白くなって文字が読みやすくなりました。雑誌全体の厚みは増しましたが1グラムくらい軽くなったでしょう。持ちやすくなったのは”付録”をやめたからですね。私はもともと使わなかったのでいいと思いますが、反対意見が多いのではないですか。年をとると指が乾いて紙をめくりにくくなるものですが、前より表面がざらついているのかなんなのか、めくりやすくなりましたね。それでいて写真もよく出ていて、黒い部分を斜めから見てもテカらない。実は私、製紙会社を数年前にリタイアしまして、今も紙に関心があるので、さしつかえなければ新しい紙の銘柄とメーカーを教えていただけませんか。

尋常ではない指摘に高揚した。長話になるに違いなのでかけ直すことにした。電話を切って編集部の皆に話すと「オ〜〜」と歓声。ほめられることに飢え過ぎのひとびと。編集長がすぐ印刷会社の担当A氏に電話して、これこれこんなことを言われたと伝え礼を言った。わたしたちが誌面刷新を機会に印刷会社に望んだのは「これまでよりも読みやすくて軽くてめくりやすくて印刷がきれいに出て値段もそんなに変わらない紙」。A氏は呆れることなく、これよりはそれ、それよりはあれとわずかな違いを見比べて判断する機会を、束見本や刷り見本を何度も作って示してくれた。おかげで望む紙にはいきついた。でも身内満足に終わりはしないか――とおびえていたところにこの電話。うれしかった。たったおひとかたの声だとしても。

A氏が候補にあげた紙はどれもほんのわずかずつ違う。色合い、手触り、重さ、厚さ、雰囲気、そうだ名前も。なのにそのひとつずつがひとつずつの商品として在るというのはすごいことだ。これでなくちゃと選ばれる特徴を持ち、いつでも注文に応えうる態勢を整えているということだもの。より良い紙を印刷会社に探してもらってそれを見て文句を言うだけだったり、紙見本帳をめくって選ぶことだけを繰り返していると、やっぱり時々、そういうことのすごさが頭から遠ざかるもんだと改めて思った。電話の人がそのあと、佐々涼子さんの『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている――再生・日本製紙石巻工場』をひいて話を続けたからだ。東日本大震災のときはこの雑誌も本文紙を変えざるを得なかったことをその人に伝えた。当時そのことに対する苦情苦言はもちろんこなかった。質問も、なかったけれど。

善のネーション!応答せよ

若松恵子

同世代の文化人として、いとうせいこうの仕事には共感を持って注目している。先日、不慮の自転車事故で未だ意識不明状態のミュージシャン、朝本浩文さんを励ます「朝本エイド」が開かれたのだけれど、そこでも彼は、印象的なパフォーマンスを行った。朝本氏もメンバーだったミュートビートをバックに、詩を朗読したのだ。レゲエの”ダブポエトリー”と呼ばれるものだ。

昔のレゲエのシングル盤のB面は、ボーカルトラックを抜いてリズムトラックだけにした”バージョン”と呼ばれるカラオケがほとんどだった。この”バージョン”にエフェクト処理をして、ベースやドラムをやたらと強調したり、リバーブをかけ位相をずらし、リズムギターにエコーをかけてカットインカットアウトさせたりして加工したものが”ダブ”だ。この”ダブ”をバックに詩を朗読するのが”ダブポエトリー”だが、この分野で有名なLKJ(リントン・クエジ・ジョンソン)は、詩にあわせてダブを作った。詩の言葉の抑揚がベースラインとなり、アクセントがビート、リズムと化す。
「言葉が具体的な思考、メッセージを表すとしたら、ダブは、その裏に潜む感情、鼓動、情景を表すもの」(『訳詩でみるレゲエの世界』菅野和彦・酒井裕子編著より引用)だ。LKJの放つ抵抗の言葉にダブの「冷静沈着ながらはじけ飛ぶリズムとパワフルに底を揺さぶるベース」が呼応してひとつの強靭なメッセージを編み上げていく。音に裏付けされたメッセージは、人の心に強く響いていく。いとうせいこうの”ダブポエトリー”は、LKJを受け継ぐスタイルのようだ。

充分議論をつくしたわけでもないのに、もう決まったかのように、あいつらは押し進めようとしている。

…冷静沈着ながら、はじけ飛ぶリズムとパワフルに底を揺さぶるベース。

あいつらには絶対に理解できないクールなリズムで、私たちの決心を刻まなければならない。あいつらの文脈を軽々と飛び越えるクールな表現を手に入れなければならない。

ひとりひとりが自由で、そのうえで横につながれるメッセージを、注意深く、鋭く、いとうせいこうは発信する。ダブと共に届けることはできないけれど、朝本エイドで朗読された詩を、相棒が書き取ったバージョンで引用したいと思う。

「African DUB / いとうせいこう」 DUB POET全文

人間は未来を変えられる。
人間は未来を変えられる、動物である。

人間は未来を変えられる。
人間は未来を変えられる、動物である。

変えた未来の中にしか人間は、いられない。

これまで多くの破壊と殺戮を繰り返している。
これまで多くの破壊と殺戮を繰り返している。

自然や生命がある程度取り戻せる範囲内に
それはとどまっている。

にもかかわらず
にもかかわらず

まったくちがう!

ビースティ・ボーイズは言っている。
「人間は絶滅に向かっている。
金銭的利益のために兵器を作っているからだ。」

諸君!
自分でかけた暗示のトリックに、自分ではまっちまったらおしまいだ。
そいつは暗示のレールの上を一直線に走っていくだけさ。
だから、だから、暗示の外へ出ろ。
俺たちには未来がある。
暗示の外へ出ろ。
俺たちには未来がある。

諸君、私は問いたいのだ。
悪の衝動があるのなら、善の衝動もあるのではないかと。
悪がこの世を覆うならば、善もこの世に充ち満ちるべきではないか、諸君!

すべての悪を撃破して、我々は進む。
すべての悪を撃破して、我々は進む。
百万の軍隊も善を止めることなど出来ない。
花を植えよ、道を清めよ、貧しさに与えよ、正しさを求めよ。

同志よ、「善のネーション」よ!
「善のネーション」、応答せよ。
「善のネーション」、応答せよ。
それはもはや宇宙の「法」である、諸君!

自分でかけた暗示のトリックに、自分ではまっちまったらおしまいだ。
だから、暗示の外へ出ろ。
俺たちには未来がある。
それはもはや宇宙の「法」である、諸君!

東に病気の子があれば、行って看病してやり
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って「怖がらなくてもいい」と言い
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い
(宮沢賢治「雨二モマケズ」より)

暗示の外へ出ろ
PEACE & LOVE

PEACE!

グロッソラリー ―ない ので ある―(7)

明智尚希

 1月1日:「怒りっぽい人っているだろ。ああいうのはほんとに苦手だな。特に急に怒り出す人。いわゆる瞬間湯沸かし器っていう人。しかもいつ怒りだすか
わからないんだよな。こっちは普通の話をしているのに、いきなりどなりつけるようにして返事してくるんだよ。参っちゃうよな。会社にも一人いるんだけど、
まさに腫れ物だよ――」。

( ╬ ◣ д ◢ ) ムキー!!

 仕事で眠れず三日三晩耳鳴りがしていた、と自慢げに言う人がいた。わしは数十年この方、耳鳴りがやんだことがない。だから静寂というものを知らない。
ピーピー、シャーシャー、キーン、ザーと実に多彩じゃ。子供の頃は耳鳴りのせいで気が振れそうにもなったが、今では現代音楽がわしだけのために奏されてい
るのだと思っている。

(´з`)ナノダヨ

 窮地に立てば立つほど、救いの手が遠ざかる。孤独を知ってはじめて、街の音や人の声が意味を帯びる。異端児がまぎれ込んでくると、全員が初めて見せる熱
心さで排除にかかる。恋愛状態は賞味期限があるが、結婚生活の幸福は元より期限切れである。人の輪から離れて難しい顔で黙然としている人は、思慮深いか阿
呆のどちらかである。

(o0-0o)ゝであ〜る!!

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

 1月1日:「学校行ってる間はいいぞ。いろんな厄介事はあるんだろうけど、何か責任を取らなきゃならないわけじゃないし、それに自由度が高いからな。俺
も戻りたいよ。小学校でも中学校でもいい。会社のつまらなさったらないぞ。会社というよりは仕事だな。朝っぱらから大して興味ない内容にほぼ半日かかずら
わなきゃならないしな――」。

(・ _ ・) ツマラナイ

 黒土の大きなハゲ山がある。頂上から谷に向かって舗装路が伸びている。道を進むと崖っぷちで破壊されている。それらを遠く眺めるようにブティックがあ
り、常に青いジャケットを探している。探している間に駅に着く。超急行列車はAへ行くのに必ずDで下車して遠回りしないといけない。料金は決まって足りな
い。わしが毎晩見る夢。

(ー3ー).。oO

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ァァァァァァァァァァァァァΣ☜ー( ゜Σ ゜)ノ

 また会いたいと強く思う人々は、みんなあの世に行ってしまった。いつからじゃろうなあ、もうこの世で会いたい人など一人もいなくなったのは。じゃが生き
ているというだけで魅力が半減する不思議も感じる。わしの間主観性も二度と広がることはない。意識がどうのといっても青天井じゃない。形而上学も半可通の
世界。わしの準備は万端。

。:゚(。ノω\。)゚・。

 いや、そうです。ほんとにおっしゃる通りでございます。誰がなんと言おうと、その通りです。なんの間違いもございません。ええ、ほんとにそうです。こん
な世の中ですから、余計なくちばしを挟む方もおりましょうが、今おっしゃった内容こそがほんとに正しいんです。言うなれば真実というものです。大金の前で
は誰もがこうなりカネない。

(●´・△・`)はぁ〜

 1月1日:「結局、学生時代に何をやったかとか何に強い興味を持っていたかとか、そんなことがあとを引くからな。俺もいい歳だけど、やっぱり学生時代に
やったこととどこかで結びついてるんだよな。飲みに行くのも会社の連中じゃなくて、高校や大学の頃のやつらだしな。当時の飲み方はすごかったぞ。ろくにカ
ネ持ってなかったけど――」。

うぃー~~~~~(/ ̄□)/~(酒)

 誰にだっていつかその時が来るわけだから。仕損じた絶叫マシンからすれば、これくらいの大きさ、五十センチくらいか、おおよそそのくらいの異臭がする
上っ張りなんざ極悪とまではいかないまでも、まあ四十代になるまでにへいこらして実験してみてもいいんじゃないか。これぞお手盛りの一発芸っつうもんだ
よ。

(*≧▽≦)bb めっさ楽しみやん!!

 四月が近づくと、細くて紫色の強迫観念の複数の触手が、額に向かって伸びてきて脳に充満し、神経過敏になって落ち着かない。六月が近づくと、嫌悪してい
る真夏の到来を満身に感じて、動く気力がなくなる。十月が近づくと、夏の置き土産としてどこかに落とし穴があるのではと疑心暗鬼になる。十二月が近づく
と、脱力して役立たずになる。

(♋ฺ♋)なんだよ…

 なんと言おうが知らんものは知らん。一家総出で夜逃げジョッキングだったろうけど、むべなるかな、ジュラ紀あたりのかまぼこが言うことにゃ、瀕死で横っ
飛び、まじめな惰性もなきにしもあらずが通用するかしないかの七五三に左右されるそうじゃないか。やっぱり夢中ですね毛を抜いてるようじゃダメか。

ε=(♉ฺ。♉ฺ)ハァ…。

 勝ち組と負け組、第一次産業と弟三次産業、上部構造と下部構造、人はグループ分けを好む。いや、グループ分けを好むのではなく、分けられる側が不安とわ
が身への執着から、おのれの立ち位置を心底知りたがる。結果、どこに所属することになろうとも、ほっとしておとなしくなる。この国の人は世界でも例をみな
いくらい静からしい。

(。・ε・`。) ほ。

 
 1月1日:「酒の飲み方なんか知らないし、知っててもその通りにはしないようなやつらだったから、もう何でもあり。日本酒のチェイサーにビールとか、ジ
ンをウオッカで割ったりとか、酒であれば何でも良かったんだろうな。そんなはちゃめちゃな飲み方していながら、これうめえよなんて言ってるんだよ。その彼
は今アルコール中毒――」。

マイッタネ ┐(-。ー;)┌ ヤレヤレ

 そりゃ鳥もクォークと鳴くわけじゃ。断わっておくが、わしは民事不介入じゃからな。はしなくも感情家でもあり医学屋でもある。だからベンゾチアミン系な
ら、欲しがるだけ出してもまあ問題なかろう、なあみんな。ウサギ好きに吝嗇家はいねえっていう通り、垂れ流したってひょうきんなのほほん顔だ。嬉しくて悲
しいね。しし座だしな。

o(*⌒―⌒*)oにこっ

 運命、宿命、決定論、予定調和、こうした便利な言葉たちは、実は大いなる被害者だ。人間が何かをし損ねたり頓挫したりする度に、便利な言葉たちに責任や
負債を丸投げして、自らはすっきりして救われたような気でいる。その言葉たちに否を突きつける人間もいるが、背負い切れるものでもない廃物を抱えている以
上は無理なからんことだ。

+.(´・∀・)ノ゚+.ダー☆

 いや言われたね。子供みたいな女性裁判官に。「もう二度とこのようなことは致しません」「しかし裁判所は勾留申請をします」「くしゃみの際の尿モレはあ
りませんでした」「しかし裁判所は勾留申請をします」「たった今、山が動き海が拓けました」「しかし裁判所は――」「世界中の金銀財宝を用意しました」
「しかし裁判所は――」。

o(><;)○”バカバカバカ!!

ドクマチールにハルシオン。

はじめまして・・・ペコリ(o_ _)o))

 芥川龍之介は「(世間への)ぼんやりとした不安」から自殺したと言われておるが正しくない。この表現の前には「僕の将来に対する」というものが存在す
る。簡単に言えば、自分の将来が不安ということじゃ。不安神経症のわしも同感。将来どころか、一瞬一瞬に払いのけようのない大風呂敷が粘着しておる。周辺
のいちいちに悪意を感じる。

タスケテェ〜ノノノ_(≧。≦_)

 1月1日:「アル中って周りが想像以上に極端みたいだな。一日何も食べずにアルコールばっかり口にしてるんだって。そいつの場合はウオッカ。朝起きてウ
オッカ、家を出しなにウオッカ、会社に入る前にウオッカ、机の上にミネラルウォーターのボトルに入れたウオッカ、仕事中もウオッカ、昼休みにもウオッカ、
戻ったらウオッカ――」。

(((\(@v@)/))) 酔ってないぞぉー

 気がつけばひとりぼっちになっている時、過去に同じ状況におかれた複数の自分との交流が始まる。目標に対してまるで不出来で後悔に暮れた自分、あまり親
しくはなかったが死なれてからの喪失感に責められた自分、最も望ましからぬ姿になり取り返しのつかなくなった情けない自分、そしてこれからの展望も冒険も
なく一切を消去したい自分。

(。´-д-)疲れた。。

 ザッと流れる水洗便所のごと。ここでは和式じゃ。今後、案外にも未公開なわしが、オットセイみたくもんどりうって飛び出しちまうぞ。酢を飲んでも体は柔
らかくならない代わりに、頭のほうはどうかなっちまったりな。うひひ。笑え笑え。笑いのあとには十中八九怒りがくるから、せいぜい今のうちだ。♪後ろから
前から、う、ひひ〜ん。

(。◐∀◐。)〜〜♡頑張るのヨ!

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

 1月1日:「家に帰っても当然ウオッカ。最後のほうはもうウオッカの味なんてしなかったらしいぞ。むしろ水道水が甘く感じたって言ってたな。あれだけ度
数が高い酒なのに、いくら飲んでもほろ酔い程度にしかならなかったらしい。それである日、自分の知らない間に大量の薬をウオッカで流し込んでて、自殺をし
ようとしたんだって――」。

ε ミ ( ο _  _ )ο ドテッ…

 自分が健康かどうか自問してはならない。お伺いを立てたその時から不健康になる。人によっては健康のためには死をも辞さない。無茶な動きをし、断食まが
いのことをし、本から余分な知識を得る。自分がどれほど不健康かを毎日毎日わざわざ点検している。健康は幸福と同一平面上にある。その二つが言う。ノイメ
タンゲレ。我に近寄るな。

(ΦwΦ)〆注射打ちますよー

杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー
   杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー
  杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー
  ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏
   ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏
   ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏

(* ̄∇ ̄)ノシツモン!!

 夢に向かって走り続けるのはいいことじゃ。明るく楽しく生きられるし、生が美しく飾られる。特に青春時代なんかはいいね。思い描いてみても実にお似合い
じゃ。くじけそうになっても、改めて夢に向かえばカタルシスに浸れる。じゃがそうは問屋が……なんじゃっけ。まとにかく、無視された現実からの復讐に耐え
られるかがカギじゃな。

ガード (。・д・)ノ||゛;`;:゛;`;:゛

 浦ほんだりつ あにをせで
 じゅうこふなある がんしからん
 ぶたり心情 なぞかわもし
 行ったきわだに だそめそな
 いっとじんるめ 真砂れく

┌(㊧o㊧)┘♪└(㊥o㊥)┐♪┌(㊨o㊨)┘

 グールドが弾くS・バッハの『ゴルトベルク・ヴァリエーションズ』は、モーツァルトの『ジュピター』よりも絵にしやすい。降り始めの小雨、蒸気機関車の
ホイールとその周辺の動き、音を立てる巨大なハンマー、上から垂直に落ちてきて地面に食い込む白いマーブルの門柱、三匹のネズミのダンス、強風にあおられ
る小雪、迷い小道などなど。

♪wヘ√レvv〜(゚∀゚)─wwヘ√レv♪〜

 困難や苦痛が大きくなると、倒れそうなほどの眠気を催す。使用限度を超えればブレーカーが落ちるように、脳も未曾有の苦しみの毒性を処理できず、眠りと
いう形で意識を中断するのだろう。一時的に消されたところで目覚めてしまえばそれまで。人待ち顔の酒や薬物。深い懐を示す病。そんな中、一番魅力を感じる
のはやはり死である。

( ̄□ヾ)ネムー

 告白すると、やり遂げられなかったことや言ってみたかったことが山ほどある。馬齢を重ねることは因果律を知るということだ。急にセンチを娶ることになっ
てなんなんだ。と言ってみたかった。なんてことも言ってみたかった。とか言ってみたかった。言葉と母国語は永遠に続く。ベロ藍と同じぐらいに。いや、スフ
マートと同じくらいじゃな。

(。・・)ノ◇ 座布団どうぞ

夜のバスに乗る。(6)犬井さんは「バスの方がいい」と言った。

植松眞人

 犬井さんに言われたとおり、僕と小湊さんはバスが終点を過ぎるのを待っていた。バスに揺られながら、小湊さんは僕に、
「ねえ、できると思う?」
 と、とても楽しそうに聞く。
「どうだろう」
 僕が正直に答えると、小湊さんは不満そうな顔になる。
「斉藤くんがそんなふうだと、うまく行くものも、うまく行かないよ」
 そう言われて、僕は笑ってしまう。
「勝手だなあ」
「そんなの、承知の上よ」
 小湊さんの言葉に、それはそうだ、と僕は思う。だいたい、バスジャックしてまで修学旅行のやり直しをしたいなんて考える時点でとてもおかしい。だけど、それほどおかしなことを言っているような気がしないのは、小湊さんがなんとなくだけれど、失敗したら失敗したでかまわない、という気持ちでいるからじゃないのか、と僕には思えた。小湊さんはそんなことは一言も言っていないのだけれど、そんなふうに思っているのかもしれない、と僕には感じられた。
「ねえ、できると思う?」
 小湊さんがまた、聞いた。さっきよりも力のない声で、でも、はっきりと僕に問いかける。
「できると思うよ」
「ほんと?」
 今度は僕が驚くほど、明るい声で小湊さんが言う。まるで、普通の女子高生のような声だ。普段はとても落ち着いた、意味ありげな感じのする声を出すくせに、いま「ほんと?」って僕に聞く声はとても可愛い。これがわざとだったら、とてもじゃないけど付いていけない。そう僕は思ったのだけれど、今の僕には、それがわざと出した声なのか、知らず知らず出している声なのかはまったくわからない。僕はそこまで大人じゃない。そう思うと、自分で笑ってしまった。
「余裕が出てきたじゃない」
 小湊さんは僕の笑顔を勝手に解釈してそう言った。
 バスが終点のバス停で止まった。犬井さんが車内放送のマイクで「降りないよね、当然」と楽しそうな声で言った。
 終点のバス停を通り過ぎると、犬井さんは駅前の大きなロータリーをぐるりと回った。
「終点から後で、お客さんが乗ってるとまずいから、ちょっと隠れてくれる?」
 犬井さんに言われて僕たちは頭を低くして、外から見えないようにする。この不自然な態勢になった途端に、小湊さんが笑い出す。「笑っちゃ駄目だよ」と僕が言うと、「だって、おかしいんだもん」と小湊さんは遠慮なく笑い続けた。僕はそっと犬井さんを盗み見たのだが、犬井さんも笑っている。みんなが笑っているんだから、この計画はもしかしたらうまく行くんじゃないかと、僕は思い始めた。

 ロータリーを出て、バスは車庫のある町へと向かった。少し離れた車庫まで、バス停で言うと四つほどだと犬井さんは言った。
 市街地から大きな川を渡るバイパスに乗り、それを降りたところで、犬井さんはバスを大きく迂回させて、バイパスの高架下にバスを停めた。エンジン音が響くのを避けるためだろう、素早くエンジンを切ってから、犬井さんはゆっくりとサイドブレーキを引き、ギアをもう一度ローに入れた。
 車体に残っていたエンジンの振動がすっかり消えると、犬井さんは席を立って、僕たちがいるところにまでやってきた。そして、改めて僕たちをしばらく眺めてから、またため息をついた。でも、そのため息は心の底からのため息ではなく、わざと僕たちに「本気なのか?」と確かめるためのため息、というように僕には思えた。小湊さんは犬井さんのため息に答えるかのように、
「よろしくお願いします」
 と頭をさげた。
「参ったなあ。でも、実は始まっちゃってるんだよね」
「なにがですか」
 僕が聞いた。
「本当はあのまま真っ直ぐ車庫に行かなきゃいけないでしょ。でも、いま私たちはこうしてバスを停めて話し始めてる。これもう、バスジャックが始まってるのと同じなんです。私にとっては」
 犬井さんはそう言って笑った。
「だってね。高校を出て、バスの運転手になってもう三十五年ですよ。今年で五十二歳。ずっと真面目一方でやってきたから、これまでコースを外れたこともないし、勤務時間内にバスを停めたこともない。だけど、もう、なんとなく乗っちゃったんですよね。へんな計画に」
「楽しそうだから?」
 小湊さんが犬井さんをからかうように言う。
「面白いな。うちの娘がお嬢さんと同じくらいなんですよ。いま大学一年生。うちの娘と話してても、なんか切なくなるんですよ。私と似て、真面目一方で。真面目なのが悪いとは思わないんだけど。いいとも思えないんですよ。うん、決してよくはないな。なにか、こう、父親とか母親とかもっと心配させて、彼氏でも作って、遊んだりすればいいのにって思うんです。私がそんなこと全然できなかったから。でもね、せつないね。まったく同じように真面目で」
「もしかしたら、知らないところで遊んでるかもしれませんよ」
 小湊さんはそう言ってから「すみません」と謝った。
「いやいや、本当にそうかもしれない。そうかもしれないけど、だったら今度はそんなにうまいこと隠さなくてもいいじゃないか、なんて思ってね。まあ、どっちにしてもいいじゃない。バスジャック。危ないことは考えてないんでしょ」
「はい」
 小湊さんがいらないことを言う前に、僕が元気に返事をした。そんな僕を小湊さんはちょっと醒めた感じで見ていた。
「ちょっといいかな」
 僕は小湊さんに言う。
「犬井さんはいいって言うけど、僕はタクシーとか、もっと小回りの効く乗り物のほうがいいんじゃないかって思うんだけどどうだろう」
「だめだよ、バスでなきゃ」
「修学旅行がバスだったから?」
「そう、バスだったから」
「でも、僕たちすごく人数が少ないじゃない。だったら、バスじゃなくても。それに、その理屈だと修学旅行が電車だったら、電車ジャックをしなきゃいけなくなるし、飛行機だったらハイジャックになってしまう」
「そうね」
 小湊さんは楽しそうに笑う。
「いや、やっぱりバスの方がいいよ」
 犬井さんが割って入った。
「だって、先生にも付き合ってもらうんでしょ? だったら、バスの方がいいと思うな。タクシーだと、本気度が伝わらないから」
 犬井さんの言葉に、僕と小湊さんは吹き出してしまう。
「いまどきの修学旅行はとても贅沢になって、飛行機で海外なんていうのもざらにあります。そんななかでバスですよ。バスで東京から関西方面に行くなんて学校、あんまり聞きませんからね。バスを運転する者としてはとても嬉しいんです」
 犬井さんは少し高揚しているかのように頬を赤くして話す。
「それにバスじゃないと、私が参加できないじゃないですか」
 犬井さんがそう言うと小湊さんは弾けたように答える。
「じゃ、バスで決まり。犬井さんに運転してもらって、まず、先生を迎えにいく。そして、江ノ島方面へ向かう。それでいい?」
 小湊さんが僕に聞く。
 ここまで話がまとまっているのに、僕は反対する理由なんてひとつもなかった。それに、僕もこの時点でこの計画がとても楽しみになっていたのだ。
 犬井さんは、運転席に戻ると、手帳と分厚い紙の束を持ってきた。どうやらバスの運行に関するメモや規定や時間表が載っているものらしかった。それらをペラペラとめくりながら、いくつかの事柄を犬井さんはメモした。
「このバスは本当は車庫に入れなきゃならないバスなんです。だから、いったんバス会社の車庫に向かいます。そこで、私がタイムカードを押して、バスの引き継ぎ表とかを事務所に返す。本当なら、その時にバスのキーを返すんだけど、それはなんとかごまかします」
「そんなことできるんですか?」
「できるよ。マスターキーだけを抜いて、他の鍵の束を一応キーケースに返しておく。こうすれば、明日の朝、このバスを運転する人が来るまで時間が稼げる。明日の朝、このバスは六時七分にここを出る予定です。となると、約三十分前に運転手がやってくる。念のため一時間前の五時までにこのバスをここに返せば大丈夫。目立つような車庫の真ん中じゃなくて、車庫の裏手にある第二車庫に停めておくこともあるから、そっちに停めれば気付かれにくいし、返すときも返しやすいです」
 僕と小湊さんは犬井さんの計画を聞いている。車庫の状況がわからないので、正直、犬井さんの言うとおりにするしかないのだが、ここはもっともらしくいちいち頷いてみる。頷いているうちに、いよいよ計画を実行するんだという気持ちになってくる。

風が吹く理由(12)春のあくび

長谷部千彩

 三月半ば、ある日の午後。停留所にてバスを降り、ふと目をやると、横断歩道の向こう、一本の木が白い花に覆われていた。信号が青に変わるのを待って、私は近寄り、枝を見上げる。昨日までは無骨な枝を伸ばしていただけだったのに。今年も最初にこの木が花をつけた。この木は、この辺りで一番初めに咲く桜。東京の開花宣言よりもひと足早く咲く桜。

 この町に住み始めて、もうすぐ10年が経とうとしている。住居は賃貸物件だから、そうもいかないだろうが、もしも願いが叶うなら、子供の頃に育った町と雰囲気の似通うこの町に、私は一生住み続けたいと思っている。
 春には桜、秋にはイチョウ、初夏にはツツジをも迎え、こぼれ種から育つのか、道端には、タンポポ、ひなげし、タチアオイまでが彩りを添える。加えて、この辺りには園芸家が多いのか、駅から家への通のりは四季を通して実に賑やか。朝顔や金魚草、百合に椿にアジサイと、花を咲かせた花壇やプランターが途切れることなく続いている。
 私の部屋は坂の上に建つマンションの一角にあるのだが、ベランダからの眺めがさらにいい。越してきた当初、私も驚いたものだ。点在する屋上庭園、その多さに。路上からは窺い知れぬ、とっておきの風景。庭園から庭園へ鳥は忙しく飛び回り、私のベランダにもラズベリーをついばみにやって来る。風に吹き上げられた花びらや葉が部屋の中にまで流れてくるのも、決してめずらしいことではない。
 東京を、自然の少ない、殺伐とした街だと言いたがる人は多いけれど、場所によるとは言え、なかなかどうして緑は多いほうだと思う。野山や田畑はないにせよ、春には春の、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の、都会に暮らす人間には都会に暮らす人間の自然との戯れ方が存在するのだ。

 夕方五時になると、「夕焼け小焼け」のチャイムが響く。数日前まで、この歌が聞こえる時刻には、一日は夜へと向かい、気温がどんどん下がっていった。なのに、今日は開け放った窓から柔らかな夕日を見ている。西の空に高層ビルとクレーンのシルエット。また新しいビルが建つのだろうか。東京は今日も何かを壊し、何かを作る。今年も桜がこの町を覆う。白い花びらでアスファルトの舗道は埋め尽くされる。だけど、私は、春が嬉しいのに―桜の木のある家で育った私は春が嬉しいはずなのに、心のどこかで少しうんざりもしているのだ。何十回も見てきたわかりきった春に、みなで喜び合うのを茶番に感じることがある。高層ビルを壊して建ててもまたそこには高層ビル。メリーゴーラウンドみたいに季節は今年も同じところへ戻ってきた。木馬は回る。ぐるぐる回る。私がこの世から退場する日まで。
「いま以上の幸せもいま以上の不幸も、私の人生には起こらないような気がするの。根拠なんてないけどね」
 私は大きなあくびをひとつつく。猫みたいな大きなあくび。大きな大きな春のあくび。

青空の大人たち(9)

大久保ゆう

 青空文庫は悪の秘密結社である――というのはもちろん暗喩であってモノの例えというやつなのだが比喩であるからにはあながち間違っているというわけでも ない。日本のインターネット普及の黎明期、開設当初の青空文庫をそのまま素直に受け入れる人もあれば拒否感を抱く者があってもやはりおかしくはない。

 その保護期間が満了して著作物が公共財産になるというのは確かに法の理念としてはあっても世界じゅうを相互ネットワークでつないでデータをやりとりでき るインフラがなければ実感しづらいものであった。本の読者からすれば図書館で何頁でも本を複写できるであるとかその程度のことであって自らが本そのものを まるまるコピーしたり共有したりというのは現実の事象としてはイメージしにくいものであったのだ。

 先人たちが積み上げてきたたくさんの作品のうち、著作権の保護期間を過ぎたものは、自由に複製を作れます。私たち自身が本にして、断りなく配れます。
 一定の年限を過ぎた作品は、心の糧として分かち合えるのです。
 私たちはすでに、自分のコンピューターを持っています。電子本作りのソフトウエアも用意されました。自分の手を動かせば、目の前のマシンで電子本が作れます。できた本はどんどんコピーできる。ネットワークにのせれば、一瞬にどこにでも届きます。
 願いを現実に変える用意は、すでに整いました。

 その意味では「青空文庫の提案」なる文書は「できるんだ」「していいんだ」ということを気づかせるためにはかなりの効果があった次第だが「気づかれてし まった」方としてはたまったものではないということでもあろう。著作物を複数印刷して実物を頒布流通させることで経済活動の成り立っている世界からすれば インターネットの登場で著作物が無形で自由に回りうるのは脅威であって既存の経済の枠組みを壊すものでもあってその破壊活動を推奨推進する輩は合法だろう と何であろうと敵に他ならない。むろんそれまで大して知られていなかったインターネットという存在に対する未知への恐怖もあるだろうが経済とは自身の生活 もかかった話であるから穏やかなことではない。合法であるからには今販売中のものであれ配慮はせず問答無用で電子化するという強硬な態度を取られたならそ れもまた明確な敵意であるとも感じられるだろう。

 そもそもボランティアとは志がある時点で過激たらざるを得ず、なぜ自発的な無償の活動を行うかと言えば既存の経済や社会の巡りでは何かしらの不備があっ てそれを補わんと個々の人々が考えて動くからである。よく言えば改善であるが何かを変える行為には破壊がつきまとい、そこには齟齬や軋轢が常としてある。 海外の同様の運動では「知の解放」を唱えたというがそこで闘争的側面が強調されたのもむべなることであって共有の主義主張は冷戦期に恐怖された共産主義さ え思い起こさせるものだ。

 青空文庫もまたしばらくのあいだ(いや今もか)陰に陽に敵視されたことはインターネット平常の光景でもあって新しいものにつきものの情景でもあるのだが 少年にとっては不良への憧れにも似てかえって魅力的でもあるのだろう。思春期には心底というよりも格好から悪ぶってみたりすることがあるわけで前節では何 かしら感動したから入ったという物言いになっているが実のところインターネット=アンダーグラウンドという当時の印象からすればこれで自分もいっぱしの悪 党であると誇らしげに思ったものである。

 ボランティアを「工作員」と呼ぶのはなぜなのか、もはや誰に聞いてもわからず資料としても残っておらず調べても唐突にあるときから現れる呼称であるが少 なくともこうした状況への自虐的な反応ではあったはずで、名称を決める際にいわゆる「破壊工作」のような語感に気づかなかったわけはなく「工作員」といえ ば何らかの企みのため秘密裏に活動する人員を指すわけだが、ただし少年は東郷隆の『定吉七番』などに親しんでいたため「ああ、あれか!」とスパイアクショ ン風に面白おかしく捉えていたことは付記しておいてもよかろう。

 秘密結社といえばかつてはTVの特撮娯楽番組の敵役すなわち危険な連中として知られていたが、めぐりめぐって今やもっぱらコメディの文脈で取り上げられ るに至っては崇高すぎる目的のもとに個性的な面々が集まるが毎度とにかく失敗するというグループに見事成り果てている。そして現実の世界では善意から出た 活動が団体の継続的発展や過激化によって敵視されるという顛倒が引きも切らずもはや募金や環境保護という運動はイメージの凋落が激しい。意識の高いボラン ティア活動において善と悪の価値基準とはとかく引っ繰り返りやすいものであって、あらかじめ有している破壊性をどう捉えるかによってどちらへも転びうる。

 これは実際に関わるボランティアひとりひとりにも同じことが言え、ボランティア一般の話においても上げた志を下ろす者はその破壊性に気づいて活動をやめ る場合が少なくなく、ぬけたあと振り返ってみればやはり元の運動は「悪の秘密結社」然として見える。こうしたことは活動をしていくなかで醸成されていく感 覚でもあるが、理念は共通でも実現する手法の違いが浮き彫りとなるなど、ものの捉え方や考え方の差違から自省されるものであるらしく、志や意識が強ければ 強いほど運動内での内紛も苛烈であり、相手側を悪党視する圧力も高まるのだ。

 しかしながらそうした争いというのは内外問わず子どもじみたものであって殊更に青空文庫を怖がる人もそうだが内側の過激なやりとりにしても秘密結社的娯 楽要素に慣れた少年からすればコメディの一シーケンスか書割りにも見えて滑稽に映る。なるほど大人の事情というものは大人が子どもっぽく振る舞ったときに 発生するものなのだと悟るに至って「悪」への憧憬はどこへやら、早々にその場から降りて自らは秘密結社の片隅にあって勝手に遊びつつ無法に実験をしまくる 吉田君か博士のようになればよいということで一匹の不真面目な工作員が出来上がった次第。